2022年10月31日月曜日

【読書感想文】『ズッコケ脅威の大震災』『ズッコケ怪盗Xの再挑戦』『ズッコケ海底大陸の秘密』

   中年にとってはなつかしいズッコケ三人組シリーズを今さら読んだ感想を書くシリーズ第十三弾。

 今回は37・38・39作目の感想。

 すべて大人になってはじめて読む作品。


『ズッコケ脅威の大震災』(1998年)

 三人組の住むミドリ市付近で、漁獲量が急減する、海の魚が川に上ってくる、鳥が集団移動する、変わった形の雲が観測されるなど次々に不気味な異変が起こる。そしてついにミドリ市を襲う大地震が発生。ハチベエの家は燃えて父親が骨折、ハカセの住むアパートは倒壊、モーちゃんは百貨店で地震に襲われる。三人とも無事だったが、避難所暮らしを余儀なくされる……。


 ドキュメンタリータッチで描かれた異色の作品。特に前半は地震の前触れや被害状況を説明するのにたっぷりページが割かれて、三人組の物語というより群像劇。

 震災というテーマをエンタテインメントにするわけにはいかないのはわかるが、それにしても書くのが早すぎたんじゃないだろうか。阪神大震災が1995年。その三年後に発表された作品なので、まだ震災の記憶が生々しすぎたのでは。もう少し時間をおけば、作者の中でも読者の中でも記憶が整理されて、楽しめる物語になったんじゃないかな。まだ消化不十分のままアウトプットしちゃった感じだな。

 地震の予兆にはじまり、地震の生々しい描写、震災直後の街の様子(ただし死者や重傷者は描かれない)、避難所での暮らし、避難生活におけるトラブル、被災者間での格差や軋轢などを丹念に書いている。よく取材して書いたのだろう。が、その結果、新聞記事みたいな内容になってしまった。「書かなきゃいけないこと」をぎゅうぎゅうに詰めこんだ結果、遊びがない。特に前半。

 この作品に意味がないとは言わないが『ズッコケ三人組』でなくてもよかったとおもう。ここまでリアリティを持たせるのなら、いっそ舞台を神戸にしてドキュメンタリーにすればよかったのに。


 良かった部分は、子どもたちが避難所での暮らしを楽しんでいるところ。そうそう、いっちゃ悪いけど、小学生にとっては震災って心躍るイベントなんだよね。もちろん近しい人が無事だからこそ、だけど。

 奇しくも、ぼくも三人組と同じ小学六年生のときに阪神大震災を体験した。といっても我が家はガスが数ヶ月止まったぐらいの被害だったが。

 阪神大震災の記憶

 親はたいへんそうにしていたが、ぼくにしてみれば震災後の日々はちょっとしたキャンプぐらいのイベントだった。ガスが止まったことで日々の料理が変わり、風呂に入れなくなり、エアコンが使えなくなったので家族みんなで狭い部屋に固まって過ごした。多少の不便は強いられたが、しょせんは小学生。財産とか地震保険とか家のメンテナンスとかこれからの暮らしとかの心配はまったくしなくていい。

 だから、地震後に子どもたちが活き活きと働くところを描いているところは真実味があっていい。三人組はハチベエの店の再建を手伝ったり、避難所のトイレを掃除したり、自主的に学校を片付けたり、たいへんながらもとても楽しそうだ。小学生にとって大きな天災は、「人から必要とされる喜び」を感じられるチャンスなのだ。

 避難所生活に慣れてくる後半以降は、冒険感があってなかなかわくわくさせる。震災そのものよりも、避難所生活や復興のほうに重点を置いた話を読みたかったな。




『ズッコケ怪盗Xの再挑戦』(1998年)

 三人組の活躍で逮捕寸前まで追い詰められた怪盗Xは逃走し、仲間たちを脱走させた。さらにXは催眠術を使って三人組に骨董品を盗み出させた。そして百貨店で開催される世界の宝石展で盗みをはたらくと予告。三人組は警察や百貨店の店長と協力してXの犯行を阻止するために奮闘する……。


 ズッコケシリーズは50作あるが、基本的にすべて独立した話だ。『ズッコケ脅威の大震災』でミドリ市は壊滅的な被害を受けたが、他の作品ではみんな平和に暮らしている。別次元で起こっている話といってもいい。そうでないと、彼らは六年生の夏休みの間に漂流して無人島で暮らし(『探検隊』)、モーちゃんの親戚の家に行き(『財宝調査隊』)、ハカセの祖父母の家に行き(『恐怖体験』)、山で遭難し(『山岳救助隊』)、隣の小学校の連中と戦争し(『忍者軍団』)、ハワイに旅行した(『ハワイに行く』ことになってしまう。

 と、そんなパラレルワールドだらけのズッコケシリーズではじめての続編がこの『ズッコケ怪盗Xの再挑戦』だ。『ズッコケ三人組対怪盗X』と同じ世界線の話である。この年(1998年)に映画『ズッコケ三人組 怪盗X物語』が公開されたので、それにあわせて続編を書いたようだ(しかし映画公開が7月でこの本の刊行が12月なので遅すぎる気もするが)。


 映画公開にあわせて発表された続編、ということでイヤな予感がしていたのだが、まんまと的中。ひどい出来栄えだった。

 冒頭のXの部下を脱走させるところはいいとして、壺を盗みだすところやデパートの宝石を盗みだすところは読むに堪えない。まず催眠術を使って三人組を思い通りに動かす、ってのが無茶苦茶だ。いやもうそれができるなら何でもありじゃない。催眠術が出てくる作品嫌いなんだよね。それもう「犯人は実は超能力を使えるんです!」ってのといっしょだから。推理ものでそれをやっちゃおしまいだ(宮部みゆき『魔術はささやく』も大嫌い)。あ、西澤保彦作品みたいに先に超能力を明かしておくのならオッケーだよ。

 っていうかXが催眠術が使えるならなぜこれまでは使わなかったのか。そもそも「催眠術を使って小学生を動かし、壺を盗ませる」ってのが意味不明。そんな都合のいい催眠術が使えるなら、壺の持ち主に催眠術をかけろよ。

 さらにひどいことに、壺にしても宝石にしても「催眠術を使わなくてもXには盗むチャンスがあった」んだよね。まったく無駄かつアンフェアな催眠術が出てくる時点でこの作品は失敗だ。

 ラストの「ハチベエがルアーを投げてXから札束を取り返すシーン」こそ見ごたえがあったものの、そこに至るまでの流れはたんなる偶然。結局、ハカセは推理力を発揮することもなく、モーちゃんは例によって何の活躍もなく、終了。

 推理物の常として、大怪盗を登場させてしまうとそっちが主役になってしまうんだよね。「主人公たちは怪盗をあと一歩までは追い詰めるが結局は逃がしてしまう」になってしまうので。

 そしてこの巻では怪盗X自身の魅力もまるで感じられない。『ズッコケ三人組対怪盗X』では、X一味は倒産した会社の元社員らしいという過去が垣間見えたのだが、今作はそういう背景も一切なし。ほとんど読み応えのない作品だった。



『ズッコケ海底大陸の秘密』(1999年)

 ハチベエのおじさんの家に泊まりに来た三人は、ひとりのダイバーが行方不明になったという話を聞き、ダイバーの娘の恵といっしょに捜索をすることに。捜索中に謎の生物に出会って気を失った四人が連れてこられたのは、なんと海底人の住む世界だった……。


『あやうしズッコケ探検隊』で登場したタカラ町のおじさんが再登場。『探検隊』といい今作といい預かった子どもたちが行方不明になってしまう展開で、おじさんとおばさんがなんとも気の毒だ(自分が親になったのでどうしてもおじさん側に感情移入してしまう)。

 読んだ感想は「なんか大長編ドラえもんみたいだな」。ひょんなことから別の文明に遭遇し、彼らと人類との意外な過去が明らかになる。そして環境破壊をする人類に警告を鳴らしつつ、一応平和的に解決……。完全に、説教くさくてつまらなかった頃の大長編ドラえもんだ。

 導入はわりと良かったんだけどね。無駄に細かい釣りの描写、行方不明になったダイバー、謎の大金持ちの別荘、と丁寧にお膳立てをした上で満を持して海底人登場!

 ここ数作はずっと狭いスケールの話が続いていたので、『ズッコケ宇宙大旅行』以来じつに14年ぶりの未知との遭遇系ストーリーだ! とわくわくした。けど……。

 中盤以降のズッコケシリーズのつまらなさって「三人組が巻きこまれるだけで活躍しない」ことに原因があるんだよな。そしてこの作品もその例に漏れない。

 海底人に出会ってからは、案内されて海底大陸を見学し、海底大陸での快適な暮らしを提供され、海底人たちの歴史を教えられ、わけもわからぬまま地上に戻される。その間ずっと受け身。ずっとなりゆきに身を任せている。ここ数作はほんとにこのパターンが多い。『ミステリーツアー』も『死神人形』も『ハワイに行く』も『怪盗Xの再挑戦』も、ただただめずらしい出来事に巻き込まれただけで後は流れに乗っているだけ。もううんざりだ!

『ズッコケ海底大陸の秘密』は、話の展開としては『ズッコケ山賊修業中』と似ている。しかし『山賊修業中』では山賊の連中と喧嘩をしたり、脱走したり、その間の心中描写があったりで退屈させない。それに比べて『海底大陸の秘密』はそれらが何にもない。ハカセの心中だけはわずかに描写されるが、他のメンバーは機械的に動いているだけ。

 やれ環境破壊だやれ原発だって説教もしゃらくさいし(そういう教訓めいたことがないのがズッコケシリーズの魅力だったのに)、導入は良かっただけに肩透かしを食らった気分だ。

「かつて地上で栄えた種族が、遺伝子操作によって海底で生活できる種族を作りあげた」ってほら話はわりと好きだったけどな。ただそれがストーリーとあんまり関連なかったな。


【関連記事】

【読書感想文】『それいけズッコケ三人組』『ぼくらはズッコケ探偵団』『ズッコケ㊙大作戦』



 その他の読書感想文はこちら



2022年10月28日金曜日

美人局

 美人局。

 びじんのつぼね、ではなく「つつもたせ」と読む。でも春日局は「かすがのつぼね」が正解。


 それはそうと、すごい名前だよね。美人局って。

 要は犯罪者じゃん。弱みを握らせて恐喝するっていう。それを「美人局」と呼ぶ。「美人」は褒め言葉だし、「局」は位の高い人につける敬称。犯罪者なのに褒めそやしすぎじゃないか?

 なんだか、美人局という名前をつけた人の「あわよくば騙されてみたい。でへへ」という気持ちが透けて見える。


 犯罪者を「褒め言葉」+「肩書」で呼ぶシリーズを他にも考えてみた。

  • 男前を活かして結婚詐欺師をするやつは「二枚目関白」
  • 頭脳をはたらかせて詐欺をはたらくやつは「切れ者上皇」
  • ひったくり犯は「俊足金メダリスト」
  • 知名度だけを生かして代議士になったロクデナシは「タレント議員」
 あ、最後のやつはそのままか(しかも必ずしも犯罪者とはかぎらない)。


2022年10月27日木曜日

スケボーのがらがら

 人は千差万別だからなかなか意見が一致することはないけれど「公共スケボーがみっともない」ってことだけは万人が共感するところだろう。多様性の時代とはいえ、これだけは未来永劫変わらない。

 公共スケボーってみっともないじゃない。公園とか駅の通路とかではしゃいでる連中がいるけど、まあ例外なくみっともない。スケボーのやつらに比べたら、コスプレイヤーの写真を撮ろうと地面に這いつくばって望遠カメラを構えている連中が高貴に見えるぐらい。

 またふしぎなのは、スケボーがうまければうまいほどみっともないってこと。

 スポーツでもダンスでも歌でも、ふつうはうまければかっこいいじゃない。なのに公共スケボーとゲーセンのダンスゲームだけは逆。うまいやつほどみっともない。

「わっ、公園であんな大技決めてる。なんてかっこわるいの」
「駅の通路であんなにうまくなってるってことはこの場所で相当練習したにちがいないわ。恥の概念を母親の胎内に忘れて生まれてきたのかしら」
ってなるじゃない。

 まだへたなやつのほうが見てられる。ぶざまにころんで傷をつくりながらスケボーをやってるやつのほうが、ひたむきさがあるだけまだマシ。うまいやつは「本人がおもっているオレかっこいいっしょ」と「周囲から見えるみっともなさ」のギャップが大きい分、見ていられない。


 なんでスケボーってあんなにかっちょわるいんだろう、同じようなことやってるスノーボードはそうでもないのにって考えたんだけど、ひょっとしてあの「がらがら」のせいじゃない?

 ほら、スケボーってがらがら鳴るじゃない。公園でやってる連中、ずっとがらがらがらがらがらがらがらがらいわせてるじゃない。がらがらがらーってすべってきて、がらがらっとジャンプして、がっらーんと着地して、またがらがらがらーとすべっていく。

 あの音こそがみっともなさの根源じゃないだろうか。

 考えてもみてよ。モデルがランウォークを歩くとき、ばたばたばたって音を立てて歩いてたら。ノーベル賞受賞者が発表する間ずっとずずずずずって鼻をすすってたら。戦闘ロボが怪人をやっつける間ずっとギーギーガチャガチャガチャーンって音がしてたら。

 かっちょわるい。

 そうなのだ。音を立てて行動をする人は例外なくかっちょわるいのだ。だから食事中に音を立てるのはマナー違反とされているのだ。

 優雅な動作って音を立てないじゃない。上手な人のバレエなんか、すーっと移動して、ふわっと舞うように跳んで、まるで羽が降りてきたかのように音もなく着地する。がらがらのスケボーとは大違いだ。


 そういえば、駅でスーツケースを引きずって歩いている連中もみんな下品だ。空港だとスーツケース用に平らな地面になってるけど、駅はそうじゃない。だからちょっとした段差や視覚障害者用ブロックに引っかかってがらがらがらがら鳴っていて聞き苦しい。

 スケボーにしてもスーツケースにしても、もうちょっと耳あたりのいい音にできないのかね。もしもスケボーの音色が美しかったなら、きっと今頃は皇族などがたしなむ上流階級スポーツになっていただろうに。



2022年10月26日水曜日

【読書感想文】サエキ けんぞう『スパムメール大賞』 / どう見ても犬じゃないですよね?

スパムメール大賞

サエキ けんぞう

内容(e-honより)
パソコンの受信メール箱を埋め尽くすスパムメール。だが、じっくり読むと奇想天外な面白さのメールが隠れているのだ。「訳アリ人妻のご奉仕」「禁煙中で口寂しいからフ×ラしたい」「あなたは30億円で落札されました」など抱腹絶倒のスパムメールの数々を紹介、激しい突っ込みコメントを入れながら、メール文化の根源に迫る。

 今から二十年近く前、スパムメールがよく届いた。

 LINEもSNSもなかった時代。遠くの人とメッセージを交わす方法はメールしかなかった。なので多くの人はプライベートで一日に何通ものメールをやりとりしていた。多い人だと、一日に何十通、もしかしたら百通以上送っていたかもしれない。

 そんな時代だったから、あの手この手で人を騙してやろうとする業者や個人も、メールを使っていた。それがスパムメールだ。メールフィルタ機能もしょぼかったので、スパムメールは頻繁に届いた。「スパムが多いのでメールアドレス変えました」なんて人も多かった。

 最初は「素敵な出会いが貴方を待っている★」みたいな単純な手口だったが、業者の手口も洗練(?)されてきて、次々に新しいスパムメールが開発されていった。

 そんなスパムメール全盛期の2004~2006年に、著者が積極的に怪しいサイトにメールを登録したり、届いたスパムメールに返信したりして、数々のスパムメールを集めたのが本書だ。



 試みはおもしろいし、掲載されているスパムメールもおもしろいものも多い(ただし企画の性質上、下ネタ多め)。

 ただ、それに対する著者のツッコミがつまらない。まあこれは単純に文体が古いってのもあるけど……。

 古びやすい文章とそうでない文章があって、著者の文章は典型的な前者。いかにも2000年代前半の文章って感じで、今読むとうすら寒い。まあこれは十数年たってから読んだぼくが悪いんだけど……。



 ぼくはマーケティングの仕事をしているのだが、スパムメールはなかなかマーケティングの勉強になる。スパムメール業者だってみんながバカじゃないから(バカも多いだろうけど)、あれこれ作戦を立てて、反響を見て、うまくいったものをさらに改良して送信しているのだろう。いってみれば数々のPDCAサイクルをくぐり抜けてきたものが、我々の手元に届くのだ。

 そこには「どうすれば人はひきつけられるのか?」というマーケティングの永遠のテーマに対する答えがある。

 なかでもすごいのは〝逆援助〟だ。

 そんなスパムメールは、いよいよ2005年、恋愛革命を起こすことになります。
 まず、男が女性を誘う時代に終止符を打ったのです。
 それまでの恋愛は、男が女をしとめるものでした。たとえソープランドのような場所であっても、男の側から女性を選ぶ。そんな恋のあり方は、狩で生きてきた石器時代から続いてきた営みだったかもしれません。
 しかし、スパムメールの中で、女性は堂々と男を「捕らえ」はじめました。最初は恥ずかしそうに、しかしじょじょに大胆に。
 ついには女性が男を「買う」ことも常識になってしまったのです。スパムメールが持つ最大のコンセプト「逆援助交際」は、堂々と2005年大々的なデビューをしました。

 出会い系スパムメールの最終目的は「男に金を使わせる」ことだ。そのためにはどうしたらいいか。

 ふつうに考えれば「うちのサイトに登録すれば素敵な女性と出会えますよ」とか「まずは1ヶ月無料でお試しください」とアピールするだろう。商品の魅力を伝える、試用期間を利用して加入させる。いずれも王道のマーケティング手法だ。王道であるがゆえに、誰でもおもいつく。

 そこへいくと「あなたにお金を払いたい女性がいます」というスパムメールはすごい。常人にはまずおもいつかない。

 エロいことをさせてくれる上にお金までくれるという。まさに逆転の発想だ。送られたほうからすると「両方叶うならこんなにすばらしいことはないし、どっちかだけでもラッキーだ。両方叶わなかったとしても、何も失うわけじゃないしな」とおもえる。還付金詐欺と並ぶ、なんともずるがしこい発明だ。

 まあクリックはさせても、そこからお金を払わせるまでにもっていくのがまたむずかしいんだろうけど……。


 他にも「パソコンメールの調子が悪くなって送信はできるが受信ができなくなったから、連絡手段を考えました。出会い系サイトの掲示板を使うことにしましょう」という手口や、まちがいメールをよそおって「本来なら有料の出会い系サイトを無料で使う裏技を発見した!」といってサイトに誘導する手法、「部署移動させられた腹いせに会社に損害を与えたいのでこのサイトでがっぽり得してください」という文面など、よく考えられているなあと感心するスパムメールも多い(だましたらダメよ)。

 そうかとおもうと、本気でだます気があるのかとおもうようなメールも。

Subject:ズバリ言うわよ!アンタ、地獄に落ちるわよ!

アンタ、夏の恋は最悪でしょう!ズバリ、このままじゃ、ろくな恋しないわね。出会えないサイトばっかり、登録してるのは、分かってるのよ!アンタのやってる事はね、サクラにお金払ってるのよ!アンタ、頭いいのにサクラも知らないの?中途半端なサイトに登録しても、返信が無いだけ!断言するわ、アンタはサクラに弄ばれる!まあ、紆余曲折はあるけど…このサイトだけ、見ておきなさい。セフレできるわよ!セフレができなきゃ、アンタが悪い!一長一短にはいかず、乱気流するわね。

 このメールを受け取った人が登録しようとおもうか?

 もうやけくそになっているとしかおもえない。スパムメール業者も組織化されて、モチベーションの低い従業員が適当に送るようになったのかもしれない。


 そんなばかばかしいメールの中でも、特に手が込んでいるのがこれ。 

 初めまして。見知らぬ人間からいきなりのメールの到来、すわ何事かといぶかしんでいるかと思われます。
 当方、米田寅美という婆で御座います。
 主人は既に他界しており、息子夫婦も四年前に事故にて失い、今は息子夫婦の残した孫娘と朗らかな日々を過ごしております。やつがれと同年代で嗜む者が多い盆栽にもゲートボールにも興味が無く、「趣味は専らインターネットでのエロ画像の収集であります。
 早速ですが今回メールさせて頂いた本題に入ります。
 折り入ってお願いがあるのですが、孫娘と交尾して頂けないでしょうか。孫娘は、身内であるやつがれの贔屓目抜きでも別嬪だと思っているのですが、如何せん奥手で内気な性格が禍して、二庶0回の誕生日を迎えた今でも処女なんです。処女膜、在中です。若かりし時分のやつがれは、孫娘と同じ年齢の頃には何署もの殿方と交尾を夜な夜な繰り返し、「淫獣」の通り名を轟かせ、快楽に満ち溢れた人生を謳歌していたものです。
 孫にも交尾の悦びを覚えさせたい、少なくともやつがれの血を引きし者として、根は淫乱であろう事は想像に難くないのですが、切っ掛けに恵まれてないのが不幸で。孫の許可も既に得た上で、こうして交尾していただける殿方を探しているんですが、お願いできないでしょうか?謝礼金も用意出来ますので。
 それでは、御返事お待ちしております。長文失礼致しました。

BGM:太陽とシスコムーン「ガタメキラ」
YONEDA the Tiger Beauty拝

  無駄におもしろい。設定もすごいし、それにあわせた(といっても大げさすぎるが)文体も作っている。「エロとネットが大好きな、行動力のありすぎる婆さん」の姿がありありと浮かんでくる。

 メールなのにBGMまで設定して、YONEDA the Tiger Beauty(寅美なのでTiger Beauty)という署名まで凝っている。

 もはやこれは文学と言っていい。



 最後に、ぼくがいちばん開封したくなったメール。

Subject:どう見ても犬じゃないですよね?

祖父の部屋にいるこの生き物って何だか分かりますか?
祖父はワンちゃんを拾ってきたんだよと言ってるのですが、どう見ても犬じゃないですよね? これ、日本にいて大丈夫な生き物でしょうか?
写真をアップしておきましたので、この生き物が何なのか教えていただけないでしょうか?
犬はこんなに簡単に後ろ足のみで立ち上がったりしませんよね?

 気になる~!


【関連記事】

【エッセイ】光源氏のように



 その他の読書感想文はこちら


2022年10月25日火曜日

【読書感想文】浜田 寿美男『自白の心理学』 / 自白を証拠とするなかれ

自白の心理学

浜田 寿美男

内容(e-honより)
身に覚えのない犯罪を自白する。そんなことはありうるのだろうか?しかもいったんなされた自白は、司法の場で限りない重みを持つ。心理学の立場から冤罪事件に関わってきた著者が、甲山事件、仁保事件など、自白が大きな争点になった事件の取調べ過程を細かに分析し、「自分に不利なうそ」をつくに至る心のメカニズムを検証する。

 冤罪は起こる。何度も何度も起こっている。考えたくないけど。

 死刑判決が出るような大きな事件でも何度か起こっているし、小さい刑も含めればその何十倍も起こっている。冤罪だったと判明しているだけでも何件もあるのだから、判明していない(当事者しか真相を知らない)冤罪事件はもっともっとあるのだろう。

 冤罪を生む要因はいくつもある。そのひとつが「嘘の自白」だ。


 犯人が「私はやってない」と嘘をつくのはわかる。でも、犯人でもない人が「私がやりました」と自白することは理解できない。我が子が真犯人なのでかばうために……とかならまだ理解できないこともないが(共感はできない)、それ以外で嘘の自白をするとは考えられない。

「人間は己にとって不利になる嘘をつかない」という思いこみがあるからだ。だから、自白をしたらそれは無条件で正しいと思いこんでしまう。一度嘘の自白をしてしまうと、その後の取り調べや裁判でひっくり返すことはむずかしい。

 だが、人間は往々にして嘘の自白をしてしまう。己にとって不利になる嘘をつく。

【自白の心理学』は、過去に起こった様々な「嘘の自白」の事例をもとに、なぜ嘘の自白をしてしまうかを探った本。




 嘘の自白をしてしまう理由として、ふつうまず考えるのが「拷問によって無理やり言わされた」だろう。

 たしかに戦後すぐぐらいまでは取り調べで拷問がふつうにおこなわれていたらしい。この本にも取調室での拷問の例が挙げられている。ただ、戦前の小林多喜二のように命にかかわるような拷問は戦後はほとんどなくなった(はずだ)。社会の眼が厳しくなったこともあって、殴る蹴るの拷問は今ではほとんどおこなわれていない、とおもいたい。まあ出入国在留管理庁の連中はどうかわからないが……。

 だが、拷問をされなくても、嘘の自白をしてしまうことは往々にしてあるらしい。

 もちろん拷問による自白も、被疑者の精神的な脆弱さ、あるいは一時的な変調による自白も、ケースとしてはありうる。しかし個々の冤罪事件を洗ってみると、こうした理由で説明できる例はむしろ少ない。現実には、拷問もなく、被疑者当人に知的な問題もなく、さらには一時的にせよ精神的な変調をきたした形跡もないのに自白して、のちにそれが虚偽だったと判明する事例のほうが、はるかに一般的なのである。
 うその否認は自然、うその自白は例外的という素朴な思いこみでみれば、よほど特別な事情がないかぎりは、自白を真実のものとして信用することになる。日々、事実認定の仕事に迫られている裁判官や検察官の意識も、大半はその域を出ない。うその自白を見破ることができず、冤罪をとめどなくくりかえす原因の一つがここにある。
 うその自白は自分の利益にならないどころか、逆に自分を悲惨な状況に追いこむ。そのことがわかっていて、それでも人はそのうそに陥ってしまう。容易には信じがたいことかもしれないが、それはおよそ例外とはいえない人間の現実なのである。このうその自白の謎を解き明かすことが、本書の課題である。

 考えてみれば、逮捕→取り調べだけでもふつうの人からしたら十分拷問に近い行為だ。

 国家権力によって拘束される、自由で行動することが許されない、取調官以外と連絡をとることができない、身に覚えのないことをおまえがやったんだと言われる、どれだけ弁明しても信じてもらえない、おまえのせいで多くの人に迷惑がかかるとなじられる。そしてこのストレスフルな拘留が何日も続く。

 どれひとつとっても、日常生活ではまず味わうことのない強いストレスとなる。それをたてつづけに食らうのである。真犯人ならある程度心の準備もできるだろうが、無実の人間からするといきなり別世界に放りこまれるようなものだ。まともな判断ができる人のほうが少数派だろう。


 特に軽犯罪だったら「何か月もがんばって、自分の言うことをまったく信用しようとしない取調官と向き合うよりも、嘘でもいいから自白をしてここから逃げだしたい」とおもってもまったくふしぎはない。

「逮捕された状態で何日も拘束されて取り調べを受ける。どれだけ無実を訴えても認めてもらえる保証はない」と
「無実の罪を認めて有罪となる。家に帰れるし、執行猶予もつくから刑務所に入ることもない」だったら、後者のほうが得と考えてもぜんぜんふしぎはない。

 だいたい証拠不十分で放免されたとしても、何も得るものはないわけだもんな。長く拘留されて、周囲の人には「逮捕されたやつ」とレッテルを貼られ、多くのものを失うことはあっても何も得られない。無実の人間からすると、逮捕されただけでどっちに転んでも大損だ。




 日本には推定無罪の原則というものがあり、逮捕されたとしても刑が確定するまでは無罪の人として扱われる。……というタテマエなのだが、じっさいはというとまったく守られていない。

 警察や報道機関は逮捕された時点で実名を公表するし(身内には甘いけど)、世間も「逮捕されたってことはあいつは悪いやつだ」と扱う。

 特にひどいのが取り調べにあたる警察。

 疑惑が確信へと走り出す。そして確信はその権力性とあいまって、証拠を引き寄せ、いわば自己成就する。この流れを遮る歯止めはなかったのだろうか。少なくとも警察や検察は捜査の専門機関であって、素人集団とはわけがちがう。世間の信頼はそこにあるはずである。しかし捜査の現実はしばしばこの期待を裏切る。
 被疑者は無実かもしれないという可能性を少しでも考えていれば、自白のうそをあばくことはできる。ところがわが国の刑事取調べにおいて推定無罪は名ばかりで、取調官は被疑者を犯人として断固たる態度で調べるというのが常態になっている。実際、警察官向けのあるテキストには、こう書かれている。
 頑強に否認する被疑者に対し、「もしかすると白ではないか」との疑念をもって取調べてはならない。(増井清彦『犯罪捜査一〇一問』立花書房、二〇〇〇年)

 ひっでえ……。

 推定無罪を守る気なし。これじゃあ、冤罪が生まれるのも当然だ。個々の警察官の問題ではなく、組織そのものの問題だ。


 日本は刑事事件の検挙率が高いそうだ。治安がいいということでもあるが、裏を返せば「証拠不十分でも検挙されてる」ことなのかもしれない。

 そして証拠不十分の場合に重大な決め手となるのが自白だ。「自白は証拠の王」なんて言葉もあるという。

 しかし、『自白の心理学』を読むと、自白のみを証拠として採用するのはすごく危険だとおもう。特に、本人が後から否定した自白に関しては証拠として採用すべきじゃないとおもうな。




 甲山事件という事件がある。1974年に障害者施設で2人の園児が死亡した事件だ。そこで勤務した保育士が逮捕されたのだが、不起訴となる。後に再逮捕され、殺人罪で起訴。

 証拠が不十分であること、事故である可能性が高いことにより一審で無罪判決。検察側は控訴するものの、高裁では控訴棄却。最終的に無罪が確定するまで、なんと25年かかった。

 無罪の人間が25年も争ったという事件だ。


 起訴の決め手となったのが、保育士の自白だ。保育士は警察官から犯人だと決めつけられ、長期に渡る過酷な取り調べの結果、自白をしている。

 だが。

 どうにか思い出そうと必死になって、ほとんど強迫的な意識にかられている姿が、供述調書の行間から浮かび上がってくる。そして逮捕から一週間がたった四月一四日の供述調書には、こんな奇妙な供述まで出てくる。
 この一五分間ぐらいの間の記憶はどうしても思い出せないのです。その時間ごろ、ちょうどS君が連れ出されたころになりますが、いろいろのことを考えると、私が無意識のあいだにS君を殺してしまったような気がいたします。
 子どもたちは清純で天真爛漫です。嘘をいうとは思いません。私がS君を連れ出したのを見ている子どもがあれば、それは本当のことだと思います。
「空白の一五分」を追及されて、記憶がすっかり混乱しているうえに、女児の目撃供述を突きつけられて、自分で自分のことが信じられなくなっていることがわかる。

「この一五分間ぐらいの間の記憶はどうしても思い出せないのです」「私が無意識のあいだにS君を殺してしまったような気がいたします」

 これを有効な自白証拠とみなすのは誰が見ても無理があるだろう。言わされている感がすごい。この言葉だけでも、どれほど無茶な取り調べがおこなわれたかが想像できる。

 否認してがんばっても無実だとわかってもらえる可能性はない、それどころかこのままだと取調べの場から逃れられないし、いつまで警察に留め置かれるかわからない、そうだとすれば否認しつづけるほうがよほど危険にも見える。ここで、否認することの利益が不利益に、自白することの不利益が利益に逆転する。
 あるいは被疑者は、自分を責めている当の取調官にむかって救いを求める気持ちにすらなる。このことも一般には知られていない事実である。どんなに弁解しても耳を貸してくれない取調官に苛立ちを覚えながら、それでもなお対決するのは容易でない。それどころか理不尽で、嫌悪感をすら覚えるその相手に、自分の処遇が握られているのである。その相手に迎合し、またときおり見せる温情に不本意にすがってしまうことがあったとして、それを責められるだろうか。敵とすべき相手に籠絡されるなんて、という人がいるかもしれない。しかしそんなふうにいえるのは第三者の後知恵でしかない。無実の被疑者にとって取調官は敵ではなく、良くも悪くも自分の処遇を左右する絶対的な支配者なのである。

 警察の世話になったことのない善良な市民であるほど、こんな取り調べに太刀打ちすることはできないだろう。

 万一冤罪で逮捕されたら、完全黙秘、優秀な弁護士に依頼するぐらいしかできることはなさそうだ。




 この本には袴田事件についても書かれている。袴田事件は、なんと50年以上も争われている事件だ(現在も未決着)。

 もちろんぼくには、死刑判決を受けた袴田さんが真犯人なのかどうかは知るすべもない。

 ただ、この本を読む限り、少なくとも拷問の末に袴田さんが口にした自白はまったく信用に足るものではないことだけはわかる。矛盾だらけなのだ。


 問題は、取り調べ官がむりやり自白させることもそうだけど、裁判所がその自白を証拠として採用しちゃうことだよな。

 裁判で語った内容より密室の取調室で言わされたことが優先されるなら、なんのための裁判なんだってことにならないか?




「10人の真犯人を逃すとも1人の無辜を罰するなかれ」という言葉がある。

 まったくもって同感だ。「1人の無辜」は自分かもしれないのだ。「10人の殺人犯が捕まらない世界」よりも「10人の殺人犯が捕まるけど自分が冤罪で逮捕されるかもしれない世界」のほうが悪いに決まっている。

 にもかかわらず、冤罪は生みだされつづけている。


 これはもう警察官の努力の問題じゃない。ミスは必ず起こる、という前提に立った制度設計をしていないことが原因だ。

 取り調べを録画・録音するだけでだいぶ冤罪は防げるはずなのに。


 最近知ったんだけど、過去に紅林麻雄という警察官がいた。この人はとんでもないやつで、「拷問王」と呼ばれるほど苛烈な取り調べで知られ、数々の冤罪事件を生んだそうだ。

 で、この男がどんな刑罰を受けたのかというと、何にも受けていない。左遷されただけ。違法な拷問をくりかえし、何人もの善良な市民の人生を狂わせた。それなのに逮捕すらされていない。

 はっきりいって、殺人犯よりこの男のほうが数倍凶悪だ。

 こういう輩を放置して、取り調べの録画・録音もいっこうに導入しようとしないのだから、警察は冤罪を防ぎたくないのだとおもわれてもしかたないよなあ。冤罪をゼロにしちゃったら検挙率が下がって成績が下がるもんなあ。


【関連記事】

【読書感想文】 清水潔 『殺人犯はそこにいる』

【読書感想文】 瀬木 比呂志・清水 潔『裁判所の正体』



 その他の読書感想文はこちら


2022年10月24日月曜日

一億ジャーナリスト

 マシュー・O・ジャクソン『ヒューマン・ネットワーク 人づきあいの経済学』にこんな一節があった。

だが、新聞社の収入のほうはデジタル版も含め減少しつづけている。広告収入は、紙媒体、デジタル媒体ともに急激に減少していて、デジタル版の購読料による収入も発行側の想定よりもかなり伸びが悪かった。全体では、三分の一以上の人々がオンラインでニュースを読んでいるにもかかわらず、デジタル配信ニュースの収入は業界全体の八パーセント未満にとどまっている。
 デジタル化やモバイル化が世界的に加速していくなか、自社取材のニュースを支える資金はどこから捻出すればいいのだろうか。(中略)テクノロジーによってもたらされる情報の種類、量、伝達の速さはすさまじいが、生みだすのがむずかしく再加工するのは簡単な「情報」というものから収入を得る道はどんどん狭くなっている。業界全体が、短く、人目を惹きやすく、簡単につくれるニュースへと傾き、民主主義の根幹をなす、手間とコストのかかる骨太の報道を敬遠する機運が強まっている。
 FCCの報告にもあるように、報道の衰退ははっきりと表れている。大手ケーブルテレビ局のHBOで人気テレビドラマ「ザ・ワイヤー」を制作したデイビッド・サイモンは、以前、ボルティモア・サン紙で十数年間、記者として働いていた。二〇〇九年の上院公聴会で彼がこう証言した理由はたやすく想像できる。「腐敗した政治家になるにはうってつけの時代になるだろう」


 改めていうまでもなく、報道機関は衰退している。

 報道とはまったくべつの世界にいるぼくですら心配になるぐらいだから、相当やばいんだろう。


 ある業界が衰退していくのは世の常といってしまえばそれまでだ。新しいテクノロジーが台頭すれば古いものは廃れる。昔は石炭産業は一大産業で多くの人が従事していたが、主要エネルギーが石油にとってかわられたことで衰退した。多くの炭鉱労働者が職を失った。当事者にとっては死活問題だったろうが、今になって「石炭産業を保護すべきだった」という人はいないだろう。

 そろばんは電卓にとって代わられ、ワープロはパソコンにとって代わられ、パソコンはスマホにとって代わられようとしている。そのスマホだっていつかは廃れる。盛者必衰。

 だから報道という産業が廃れるのもよくある話のひとつなのだが、他の産業とはちょっとちがうところもある。それは「報道それ自体の価値は下がっていない」ことだ。

 数十年前に比べて現代はずっと多くのニュースが見られるようになった時代だ。昔よりも多く、早く、細かいニュースが手に入るようになった。世の中にはニュースがあふれている。情報量でいえば数倍、いやひょっとしたら数十倍になっているかもしれない。

 にもかかわらず、新聞社、通信社、雑誌社などの報道機関の経営は厳しくなっているという。


 これは「本が読まれなくなっているから書店がつぶれている」のとはわけがちがう。需要は増えている。供給も増えている。にもかかわらず業界全体は(金の点でいえば)縮小している。ふしぎな現象だ。

 ふしぎといっても原因はわかっている。


 なぜ報道機関は儲からなくなったのか。

 ↓

 人々が報道に金を払わなくなったから。ではなぜ報道に金を払わなくなった。

 ↓

 これまでは金を出さないと買えなかったようなニュースが無料で手に入るようになったから。ではなぜ無料で手に入るのか。

 ↓

 無料でニュースを配ることで広告料が入るから。ではどこから広告料が入るのか。

 ↓

 GoogleやYahoo!から。ではなぜGoogleやYahoo!はニュースサイトに金を出すのか。

 ↓

 もっと多くの広告料を、各企業から得ているから。



 ということで、金を払う仕組みが変わったわけだ。

 ただ、仕組みが変わっただけで、ニュースに対して支払われる金額の総量は減っていない。それどころか昔よりずっと増えている。

 あなたが以前に新聞に対して払っていた額が月に3,000円だとする。あなたは今は新聞の購読をやめて無料のネットニュースで情報収集をしている。あなたがネットニュースを読む間に1ヶ月に目にする広告に対して支払われている額は、3,000円どころではない。(金額換算して)ずっとずっと多くの広告を払っている。


 だから無料ニュースを見るときは直接的にお金を払ってはいないが、間接的には対価を払っている。ネット広告を見た商品やサービスに対してお金を使うことで。

「ネットで広告を見ても実際には買わないよ」という人は何もわかっちゃいない。ネット広告を目にして行動を変えたことのない人はほぼいない。何の効果もないものに対して企業が莫大な金を払うとおもう?

 有料の新聞や雑誌と無料ネットニュースの違いは、NHKを見るか民放を見るかの違いといっしょだ。

 



 人々は昔よりもニュースを見るようになった。そして、ニュースに対して支払われる金額の総量もずっと大きくなった。

 それなのになぜ報道メディアは儲からなくなったのか。かんたんな話だ。市場の総量が増えているのに各プレイヤーの取り分が減っているとしたら、答えはひとつしかない。

 プレイヤーが増えたからだ。

 はじめに引用した文章にも書いてあった。
「生みだすのがむずかしく再加工するのは簡単な「情報」というものから収入を得る道はどんどん狭くなっている」と。


 そう、ニュースはコピーするのがかんたんなのだ。

 ニュースは誰のものでもない。独占インタビューとかならまだしも、事故が起こったとか、政府が発表したとか、国会でこんな議論が交わされたとかの情報は、誰のものでもない。一文一句丸写しにするのはまずいだろうが、「円、24年ぶり安値を更新」のニュースを見て「円が24年ぶりに最安値を更新した」というニュースを作るのはオッケーだ。

 報道業界のことはよく知らないけど、昔から他社の真似はおこなわれていたようだ。どこかの新聞社が特ダネをとり、その記事を見た他紙があわてて後追い記事を書く。だがそれは記者にとっては恥ずべきことだったようだ。なにしろ、他紙の真似をして記事を書いても新聞が配られるのは一日遅れ(夕刊で書いても半日遅れ)。情報の鮮度としてはかなり古くなっている。

 ところがネットニュースの世界では、他メディアのニュースを見て急いで記事を書けば数分の違いでしかない。各ニュースサイトを並べて読んでいる人はいないから、その差はほぼないに等しい。

「現場に足を運んで取材して書いた記事」と「他のニュースサイトを見てちょっと切り貼りして書いた記事」のどっちが労力がかかるかは言うまでもない。それでほとんど差がない(場合によっては後者のほうがページビューが多くなったりもする)のだから、まともに取材するのがばからしくなるだろう。

 いくらジャーナリズムだ記者魂だといったところで、ニュースが金にならなければどうしようもない。貴族でもなければ金にならないもののために時間と労力を割くことはできない。そして貴族は体制にとって都合の悪いニュースを暴きたくないだろう。




 この先ジャーナリズムは金にならないんだよ。残念だったね。

 ……で終われば話はかんたんなのだが、困ったことに報道が衰退して困るのはぼくたち一般市民なのだ。国がぼくらのお金を良くないことに使ったり、悪いやつが悪いことを続けたり、市民を苦しめる法律ができたりして、困るのはぼくたちだ。

 だから報道機関にはがんばってほしい。報道をしてほしい。

 でも、タダでニュースが読める時代に新聞に金を払いたくない。理想はぼく以外のみんなが新聞社や通信社にお金を払ってくれることなんだけど、みんなが同じように考えているからそうはいかない。


 どうしたらいいんだろうね。


 ひとつ考えたのは、ぼくらがみんな記者になるということ。

 たぶん職業記者はほとんどが食っていけなくなる。記者を専業でやっていくのはむずかしい。

 その代わり、会社員や、フリーターや、学生や、無職の人や、公務員や官僚や政治家らが本業の合間に記者をする。たまたま事件や事故を目にしたり、不正の事実を知ったり、興味のあることについて調べたりしたことを、通信社に報告する。通信社はそのニュースを買いとって記事にする。幸い、ほとんどの人がカメラ付きの通信機器を絶えず携帯している時代だ。ちょっとした小遣い稼ぎになるのなら、ニュースを送ってくれる人は全国津々浦々に山ほどいるだろう。

 限られた数の記者が取材をするよりも、よっぽど広くて深い範囲のニュースが集まるとおもう。現に今だって一部はそうなっている。Twitterでバズったツイートをした人のところには、ウェブやテレビのメディアの記者から「これを記事にしていいですか」と連絡が入る。ちがうのは、無料提供ではなく有料買い取りになるということだ。


 もちろん問題はある。金目当ての偽ニュースが売られたり、あるいは誰かをおとしめるためのフェイクニュースが出回ったりすることだ。

 でもそれは大した問題じゃないとぼくはおもう。だって現在でもすでに偽ニュースが大量に出回っているんだもの。そもそも完全に正しくて中立なニュースなんかどこにもないわけだし。政府広報だって嘘や誰かの意図を含んでいたりするわけだし。

 だから真実も嘘も混ざっているけど、それでもこれがニュースですって言って一般市民から買い取ったニュースを流したらいいんじゃないかな。今までやってたこととそんなに変わらないとおもうけど。


2022年10月21日金曜日

ATMウンコペーパー事件

 ATMをだますための紙切れ、というのを考えたわけですよ。

 ATMがどうやって紙幣を判別しているのか詳しくは知らないが、サイズ、磁気、紋章、すかしなどをチェックしているのだろう。それらはすべてクリアしている紙切れがあるとする。ただし見た目はまったくちがう。たとえば、でかでかとウンコの絵が描かれている。

 要するに「人間にはとうてい紙幣に見えないけど、ATMは一万円札と誤認してしまう紙切れ」だ。

 このウンコペーパーを製造して、ATMのチェックをかいくぐって入金することができたとして、直後に出金して本物の紙幣をせしめた場合、これは罪になるのだろうか?


 刑法第148条には「通貨偽造及び行使等」としてこう書かれている。

(1)行使の目的で、通用する貨幣、紙幣又は銀行券を偽造し、又は変造した者は、無期又は三年以上の懲役に処する。
(2)偽造又は変造の貨幣、紙幣又は銀行券を行使し、又は行使の目的で人に交付し、若しくは輸入した者も、前項と同様とする。

 はたして、でかでかとウンコが描かれた一万円札と同じサイズの紙切れは、「偽造した紙幣」となるのだろうか?


 ま、なるだろう。まちがいなく。ウンコペーパーをATMにつっこんで、まんまと機械を騙してお金を手にしたのに、官憲が「あーこれはウンコペーパーですね。だったらセーフですね。銀行さんには災難だったとおもって諦めてもらうしかないですね」と許すとはおもえない。

 というわけでまちがいなく捕まるだろうが、そうなると国家が「このウンコペーパーは一万円札を模したものである」と認めたことになる。通貨偽造の罪で問うためにはある程度似ていることが必要になるからね。ぜんぜん似ていないお金では罪に問えない(そうじゃないとお金のおもちゃを作っているメーカーがみんな処罰されてしまう)。

 それはもう「このウンコは福沢諭吉先生のお顔によく似ていらっしゃる」と国が認めたことになるんじゃないの!?

 そうなると慶応義塾大学の関係者もだまってはいない。「福沢諭吉先生がこんなウンコに似ているとは失礼千万。福沢先生はもっと凛々しいウンコ、いやお方にあられるぞ!」と怒鳴りこんでくるにちがいない。


 国としても弱ってしまう。なにしろ慶応義塾大学OBは政財界のあちこちで大きな顔をしている。それがみんなウンコの子弟だったということになれば日本社会は大混乱だ。いくら天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らずとはいえ、ウンコまで人と同等に扱うわけにはいかない。


 こうなると刑法第148条の通貨偽造罪の適用はあきらめざるをえない。だがウンコペーパーをATMにつっこんで金をだましとったやつを見逃すわけにはいかない。ウンコは入れるものじゃなくて出すものだ。

 なんかないか、なんかないか、と警察総出で見つけてきたのが昭和22年施行の「すき入紙製造取締法」である。この法律にはこうある。

黒くすき入れた紙又は政府紙幣、日本銀行券、公債証書、収入印紙その他政府の発行する証券にすき入れてある文字若しくは画紋と同一若しくは類似の形態の文字若しくは画紋を白くすき入れた紙は、政府、独立行政法人国立印刷局又は政府の許可を受けた者以外の者は、これを製造してはならない。


 要するに、紙幣とよく似たすかしを入れた紙を製造しただけで罪に問えるのだ。これなら、紙切れの表面が紙幣と似ているかどうかは問題にしなくていい。

 ああよかった。これで慶応一門を敵にまわすことなくウンコペーパー犯をしょっぴけるぞ。

 と胸をなでおろしたのもつかのま、「すき入紙製造取締法」の第3項にはこうあるではないか。

第一項の規定に違反した者は、これを六箇月以下の懲役又は五千円以下の罰金に処する。

 刑法第148条刑法の「無期又は三年以上の懲役」と比べて、ずいぶん量刑が軽い。うーんしかし、この際量刑のことについては目をつぶるしかあるまい。慶応派閥をウンコ派にするわけにはいかないんだし。なるべく大事にしたくないから五千円の罰金で許してやろう。


 というわけで、ウンコペーパーをATMにつっこんで一万円をだましとった男は、五千円の罰金を払って解放されたのでした。とっぴんぱらりのぷう。



2022年10月20日木曜日

いちぶんがく その16

ルール


■ 本の中から一文だけを抜き出す

■ 一文だけでも味わい深い文を選出。



今や早死にの危険は減ったけれど、長生きの危険が高まっているといえます。

(久坂部 羊『日本人の死に時 そんなに長生きしたいですか』より)




これは、真相を知らない者同士の抗争なのだ。

(奥田 英朗『真夜中のマーチ』より)




おそらく、「噂話」説と「川の近くにライオンがいる」説の両方とも妥当なのだろう。

(ユヴァル・ノア・ハラリ(著) 柴田 裕之(訳)『サピエンス全史 文明の構造と人類の幸福』より)




宇宙人が立候補を表明した。

(矢野 龍王『箱の中の天国と地獄』より)




「……あの、メールばかり送って付きまとうしか脳のない、自分本位な執念深い女のことですね」

(麻宮 ゆり子『敬語で旅する四人の男』より)




ジェームズはまず、被験者の「ジョン・ヘンリー度」を調べた。

(クロード・スティール (著) 藤原 朝子(訳)『ステレオタイプの科学』より)




高校時代初めてお付き合いした彼女に、「アンタがあと五センチ身長高かったらほんまに好きになったかも」と言われた。

(せきしろ・又吉 直樹『まさかジープで来るとは』より)




出産祝いに地球儀を持ってきた。

(東野 圭吾『嘘をもうひとつだけ』より)




やっぱ、なるなら社長か泥棒だわ。

(パオロ・マッツァリーノ『つっこみ力』より)




「そうだろ、おれたち、みんなどろぼうなんだよ。」

(那須正幹『ぼくらは海へ』より)




 その他のいちぶんがく


2022年10月19日水曜日

【読書感想文】『たのしい授業』編集委員会『仮説実験授業をはじめよう』 / 予習はドロボウの始まり

仮説実験授業をはじめよう

『たのしい授業』編集委員会(編)

内容(仮説社 ONLINE SHOPより)
 「仮説実験授業なんて知らない、やったことない。だけど、たのしいことならやってみたい!」という人のために,授業の基本的な進め方や役に立つ参考文献、授業の進め方が分かる授業記録など、役に立つ記事を一つにまとめました。巻末には、すぐに始められる授業書《水の表面》《地球》と、その解説も収録しました。


『仮説実験授業』を知っているだろうか。

 ぼくは小学五年生のときに体験した。当時の担任が理科を好きな人で(保田先生お元気でしょうか)、理科の時間を使って仮説実験授業をやってくれた。

 仮説実験授業では、教科書ではなく授業書なるものを使う。ぼくらが使ったのは『ものとその重さ』『月と太陽と地球』『もしも原子が見えたなら』といった授業書だった。原子なんて中学理科で習うものだから、五年生にしてはむずかしめの内容だった。

 仮説実験授業は、問題、予想、集計、理由の発表、討論、予想変更、実験、実験結果といった流れで進む。

 まず問題が出される。たとえば「はかりの上に水と食塩が乗っている。その後、食塩を水に入れて完全に溶かすと重さはどうなるでしょう? ア)増える イ)減る ウ)変わらない」といったように。

 この時点で生徒たちはまず答えを予想する。相談はしない。で、答えを集計して公開する。

 次になぜそうおもったのかを発表する。このとき、少数派から発表する。多数派が先に理由を言ってしまうと、少数派が自分の意見を言いづらくなるからだ。発表する人は挙手で名乗り出ることもあれば、教師が指名することもある。理由はなんでもいい。「こっちのほうがおもしろいから」でも「なんとなく」でもいい。

 次に討論。「○○君はこう言ったけど、✕✕だからちがうとおもいます」など、意見、反論、補足などをおこなう。

 仮説実験授業では予想変更も認められている。他人の意見を聞いて予想を変えてもいい。再度予想をして、集計する。

 そして実験。かんたんな実験であれば生徒がそれぞれ手元でおこなうこともあるし、教師がみんなの前でおこなうこともある。実験・観測ができないもの(原子がどうつながっているかなど)は答えを発表する。

 そして結果。予想が当たっていたか、感じたこと、疑問におもったことなどを書く。ただしこれは実験の結果であって、この時点では結論や普遍的な法則などは導きださない。なぜその結果になったのかの解説がないことも多い。

 終われば次の問題。これを何回、何十回とくりかえす。『ものとその重さ』であれば、条件を変えた問題が次々に出題される。

 当時はわからなかったが、今にしておもうとこの仕組みは実によくできている。

 仮説実験授業は、考えるための授業である。誰もが考えることを要求される。予想、討論、予想変更。どの時点でも考える。実験結果が明らかになっても、結論や法則が伝えられないのもいい。わからないものはわからないままにしておく。だから考える。

 全員参加なのもいい。予想は全員が手を挙げるし、理由の説明も求められる。うまく言葉にできない子は「なんとなく」でもいいが、とにかく参加することが要求される。

 仮説実験授業では、活躍する子が他の授業とはちがった。正解をたくさん知っている子ではなく、間違っていても自分の意見を言える子や、場を盛り上げられる子が活躍する。むしろ間違いは討論を盛り上げるために必要不可欠だ。満場一致ではおもしろくない。仮説実験授業でいちばん盛り上がるのは「少数派の予想が当たっていたとき」だ。

 ぼくが五年生のときのクラスには知的障害児がいた。五年生にもなると勉強がむずかしくなるので、算数のときなどは彼は特別学級に行っていた。けれど仮説実験授業には彼も参加していた。そして学年最後の文集で彼は「かせつじっけんがおもしろかった」と書いていた。選択肢の中から選ぶクイズのようなものなので、誰でも参加できるのだ。

 ぼくは仮説実験授業で、討論のおもしろさや科学のおもしろさを知った。自分のイメージを他人に伝えるためにはどうしたらいいか、どういう話をすれば場が盛り上がるか、そして多数派が必ずしも正解ではないことも知った。




 そんな仮説実験授業のやりかた、目的、事例、失敗例などを解説した本。

 ぼくは教師でも塾講師でもないので仮説実験授業をやることはこの先たぶんないだろうけど、おもしろかった。


 子どもは(大人も)たいていクイズが好きだが、仮説実験授業がクイズと異なるのは問題と正解発表の間に、集計、討論、予想変更があることだ。これがあるから頭を使う。

 また、仮説実験授業ではブレインストーミングのようにどんな意見も否定されることはない(さすがに個人攻撃とかはだめだが)。

 仮説実験授業では、「なんとなく」という理由も認めています。
「なんとなく」と言える心安さが、子どもにとっては考えるための自由な雰囲気につながります。だからといって、先生が「なんとなく」と言わせている訳ではありません。
 イメージが描けなくても予想が立つということもあります。それは、当てもの式かもしれません。でも、そういう段階で参加している子がいたって、それは受け入れていかないといけないわけです。やはり、どんな段階であろうとも、子どもが授業にのってくるような場を作るってことが大事なんです。「ちゃんと理由が言えないような予想ではだめだ」なんてことを言ってたら、子どもは授業にのってこないですから。

 教科書では常に原因が求められるけど、世の中には「なんとなく」「そういうもんだから」としか言いようのないことはたくさんある。むしろそっちのほうが多い。

 なぜ水は高いところから低いところに流れるのでしょう、と訊かれたって、ほとんどの子はそういうもんだから、としか答えようがないだろう。

 なまじっか知識があれば重力があるから、万有引力があるからと答えるかもしれないが、じゃあなぜ重力があるのか、すべてのものが引き合うのかと訊かれると、最終的には「そういうもんだから」にいきつく。

 だから「なんとなく」でもいい。逆に、なんでもかんでも原因や法則を求めてしまうほうが危険かもしれない。すべてに原因を求める人が陰謀論に飛びつくのだ!(これはこれで極端な意見)




 とある教師が仮説実験授業をするとき、他の教師からこんなことを言われたそうだ。

 予想を立てるとき、「班で討論をさせてはどうか」とか「班で意見をまとめてはどうか」などという考えも出されましたが、その形態は絶対おかしいと、僕自身は思います。
 仮説実験授業では実験して答えをたしかめます。予想が当たっていたかはずれていたかを決めるのは実験です。実験がすべてです。実験で誰の考えが正しいか決めるんです。だから、班で一つの考えに集約するような議論は絶対におかしいです。
「人数が少ない班なら意見が言いやすい」とも言われましたが、そのような方法は必要ないと思います。班で討論させるということは、「言わせたい、言わせたい」と、子どもたちに強烈に圧力をかけることになりますから、反発されてしまいます。適当に、自分の考えに自信が持てて言えるようになればいいんです。もちろん、仮説実験授業を一年間やっていても、発表できるようになるかは分かりませんよ。
 待てばいいんです。中学・高校と勉強が進む中で、手立てをとりながら、待てばいいんです。
「子どもが気持ちよく考えられる問題を用意して、何を考えても良い自由な雰囲気の場を作ることが大切です。先生が「何か言わせなきゃならない」という強い意志で子どもたちに接したら.「先生に何か言わなきゃならないけど、分からない。どうしよう……」ということで頭がいっぱいになって、肝心の問題を考えられなくなってしまうことだってあります。

 班で意見をまとめる! これはいかにも学校教育に毒された人の意見って感じだよなあ。学校にいると多数決バカになってしまうんだなあ。多数決が正しいとおもってしまう、多数決が民主主義だと勘違いしてしまう。

 多数決ってのは「他のあらゆる手段で解決できないけどどうしても決めなきゃいけないときの、最悪よりはちょっとマシな手段」でしかないのに、バカはそれを最善手だとおもってしまう。

 だいたい科学を理解していたら「班で意見をまとめる」なんて発想が出てくるわけないよね。クラス委員を決めるんじゃないんだから、班で「塩は水に溶けない」と決めたら溶けなくなるとおもってるのかね。

 科学は観測結果がすべて。それを導くために実験があり、実験をするために予想がある。「意見のすりあわせ」なんて何の意味もない。


 仮説実験授業の討論はディベートではない。自分の意見が他人によって変えられることはあっても、ねじふせられるようなことがあってはならない。意見をねじふせていいのは、他者の意見ではなく、実験によってだけだ。




 仮説実験授業の提唱者である板倉聖宣氏の話。

そこで、仮説実験授業では「予習はドロボウの始まりとも言って、生徒が予習しないように、授業書の内容を秘密にするのに大きな配慮をしてきました。私たちが、著作権裁判も辞さない姿勢で授業書の秘密を保持してきたのはそのためです。それは、これまでのところ成功してきました。
 授業書の内容を秘密にして、「クラスの誰も予習していない」という授業を実施した結果、予想はしていたことですが、大きな成果が得られました。これまでの教育界では「たいていのクラスには、優等生、劣等生、問題児が混じっている。そこで、優等生に合わせて授業をすると、劣等生がついてこれなくなくなり、劣等生に合わせると優等生が退屈する結果になる。クラスのすべての生徒を対象にして授業をすることは困難だ」と考えられてきたのです。ところが、予習を禁止した仮説実験授業では「誰が優等生で誰が劣等生かが分からなくなって、優等生から劣等生の序列がほとんどなくなる」という結果になりました。
 仮説実験授業では予習の効果が期待できません。そこで、「たまたま何かのことで知った知識」や「たまたま思いつきが当たった」という子どもが特に目立って活躍するようになります。多様な生活や遊びの中で得た知識や思いつきが、他の子どもたちを「アッ」と言わせるような成果をあげることになるのです。そこで、仮説実験授業では、特に活躍する子どもが毎時間変わります。
 そこで、人間関係が多様化して、子どもたち同士が認め合う機会が圧倒的に増える結果になります。また、ふだん「問題児」と呼ばれているような変わった子どもたちが英雄的な活躍をするようにもなります。真に「生きた学力」が問題になってくるわけです。討論では、説得の仕方のうまい子ども、発想の豊かな子どもが目立つことにもなります。そこで、いままでの学校にありがちだった序列社会がなくなって、「たのしい学級」が実現するようになるのです。

「予習はドロボウの始まり」。いい言葉だなあ。


 今の小学校はどうだか知らないけど、ぼくが小学生の頃は(田舎だったこともあって)進学塾に通っている子はクラスの一割ぐらいだった。で、そういう子らは授業では活躍する。みんなが頭を悩ませるむずかしい問題にもやすやすと答えられたりする。

 今にしておもうと「ただ先にやったから知っているだけ」でえらくもなんともないのだが、小学生は単純だから「あいつは頭がいい」という評価になる。

 だが、仮説実験授業で活躍するのは進学塾に通っている子ではない。独自の意見を言える子、他人の話を聞いた上で補足や反証をできる子、とんでもなくばかなことを言いだす子などだ。どっちかっていうと協調性のないタイプのほうが活躍できる(ぼくもそのひとりだった)。朝礼でじっとしていられなくて怒られるタイプこそが仮説実験授業向きの子だ。

 もちろんおとなしく先生の話を聞けるタイプの子もえらいが、そうでない子が褒められる時間があってもいい。ぼくの場合はそれが仮説実験授業だった。


 この本を読んでいると、仮説実験授業をやった五年生のときのことがいろいろ思いだされる。仮説実験授業、またやりたいなあ。近所の子ども集めてやったろかな。


【関連記事】

目をつぶったろう



 その他の読書感想文はこちら


2022年10月18日火曜日

【読書感想文】又吉直樹・ヨシタケシンスケ『その本は』 / ザ・安易コラボ

その本は

又吉直樹  ヨシタケシンスケ

内容(e-honより)
本の好きな王様がいました。王様はもう年寄りで、目がほとんど見えません。王様は二人の男を城に呼び、言いました。「わしは本が好きだ。今までたくさんの本を読んだ。たいていの本は読んだつもりだ。しかし、目が悪くなり、もう本を読むことができない。でもわしは、本が好きだ。だから、本の話を、聞きたいのだ。お前たち、世界中をまわって『めずらしい本』について知っている者を探し出し、その者から、その本についての話を聞いてきてくれ。そしてその本の話を、わしに教えてほしいのだ」旅に出た二人の男は、たくさんの本の話を持ち帰り、王様のために夜ごと語り出した―。お笑い芸人で芥川賞作家の又吉直樹と、大人気の絵本作家ヨシタケシンスケによる、笑えて泣けて胸を打たれる、本にまつわる物語。

 母親から「あんたこれ好きでしょ」とプレゼントされた本。

 ごめんなさい、ぜんぜん好きじゃないです。おかあさん、わかってないですね。何十年ぼくの親やってるんですか。

 たしかにヨシタケシンスケさんの絵本はおもしろいし、又吉さんの本も何冊か読んだけど、この手の「売れてる人と売れてる人を組ませたら売れるっしょ」という安易なコラボは大嫌いだし、なによりぼくはポプラ社の文芸本は買わないことにしているんだ! 商売のやり方が嫌いなので。

 まあ自分ではぜったい買わない本だけど、だからこそもらっておく。で、気が進まないながらも読んでみた。

 あー。

 やっぱり、ぼくの嫌いなタイプの本だー。

 忙しい人が力を抜いて書いた、って感じが伝わってくる。




「その本は」で始まる物語をふたりが交互につづってゆく。又吉直樹氏が小説、ヨシタケシンスケ氏がイラストと短文で表現しているのだが、特に又吉パートはひどかった。申し訳ないけど、ことごとくつまらない。

 まずこの手の企画に又吉さんの文章があっていない。文体も発想もショートショート向きじゃない。この手の企画をやらせるのはもっと軽妙な文章で切れ味鋭い短篇を書ける人だろう。全盛期の阿刀田高氏のような。

 驚くような展開もなければ、気の利いたオチもない文章がだらだらと続く。読んでいられない。ことわっておくと又吉氏のせいではない。この企画をやらせた編集者が悪い。マラソン選手を100メートルリレーに抜擢するようなものだ。

 少しも頭を使わずに金だけ使った企画、という感じ。いかにもポプラ社らしい。

 最近の又吉さんは「芥川賞受賞芸人」という肩書のせいで身の丈以上のものを背負わされていて、見ていて気の毒になる。テレビでも、作家でも芸人でもない立場で呼ばれたりしてるしな。そんなに器用なタイプじゃないだろうに。

 粗製乱造、という言葉がぴったりの作品だった。


 一方のヨシタケシンスケさんパートは、まずまず楽しめた。特に『自分の個人情報がすべて書かれた本』は好きだった。

 ショートショートとしても一定のクオリティを保っている上、絵自体に魅力があるのでそれぞれが作品として読みごたえがあった。




 ところで『その本は』はすべてが同じ書き出しで始まる短篇集だが、五十年以上も前にこの形式に挑戦した作家をご存じだろうか。

 そう、ショートショートの神様・星新一氏である。「ノックの音が」で始まる十五編の短篇を書き、しかも『その本は』と違っておもしろい。まあ神様と比べたらかわいそうだけど。

 ということで、『その本は』を買う前にぜひ『ノックの音が』を読んでみてくださいね!


【関連記事】

【読書感想文】おもしろさが物悲しい / 又吉 直樹『火花』

【読書感想文】せきしろ・又吉 直樹『まさかジープで来るとは』 / 故で知る



 その他の読書感想文はこちら


2022年10月17日月曜日

【読書感想文】岡本 雄矢『全員がサラダバーに行ってる時に全部のカバン見てる役割』 / 自虐を言う人の傲慢

全員がサラダバーに行ってる時に全部のカバン見てる役割

岡本 雄矢

内容(e-honより)
誰にでもあるこんなトホホ、あんなトホホ。でも、ここにあるのは、とびきりのトホホ。―世界の片隅で、僕の不幸をつぶやきました。“歌人芸人”による、フリースタイルな短歌とエッセイ。


 お笑い芸人による歌集。

 北海道でスキンヘッドカメラというコンビで活動しているらしいが、売れない芸人、と断定してもいいだろう。調べたところM-1グランプリ7年連続で予選2回戦敗退だそうで、どう控えめに言っても売れない芸人だ。少なくとも今のところは。

 そんな芸人による歌集。

 言っちゃあ悪いけど、「なるほど。さすが売れない芸人だな……」という感想。つまり、いろいろと足りなかった。



  作品作りのスタンスとしては、「ぼくって不幸な目にばかり遭うんですよ。一家離散とか難病とかではの本格的な不幸ではなくほんのちょっとした不幸なんですけど」というスタンス。二十数年前に原田宗典氏が書いていたエッセイみたいなテイストだね。おなじみというか、目新しさに欠けるというか。

 まあ不幸自慢自体はエッセイの定番ネタだから、独自の切り口があればいいんだけど、扱われているのが
「自分のスクーターにホストが座っていたけど遠慮して注意できなかった」
「スパゲッティと言ったら『今はパスタっていうんだよ』と言われていまいち納得いかない」
「飲み会で気づけばぽつんとひとりっきりになってしまっている」
「深夜におもしろいとおもって書いたネタが、翌朝読み返したらぜんぜんおもしろくない」
みたいな、手垢にまみれたテーマ。何度となく見聞きした話題だ。

 しかもこの手の自虐って、よほどうまくやらないと「自虐に見せかけた自慢」になっちゃうんだよね。


 昔は「私ばっかり不幸な目に遭うんですよー。トホホ」的エッセイを素直に楽しめたんだけど、いろんな人のこの手のエッセイを読むうちに最近は「私は不幸な目に遭いやすい」タイプの人って繊細どころか傲慢なんじゃないかっておもうようになった。

 だってそうでしょう。みんなそれぞれ苦悩や不幸を抱えていて、でもそれを表に出さないように生きているわけじゃない。毎日ハッピーだぜイエーイ!ってやってる人だってひとり涙を流す夜もあるわけでしょ。万事順調な人なんかいるわけなくて、金持ちには金持ちの、人気者には人気者の、美人イケメンには美人イケメンなりの苦悩がある。自分とあの人のどっちが不幸かなんて誰にも比べられない。

「私ばっかり不幸な目に遭うんですよー」の人って、そういうことを考える想像力が欠如してるわけじゃない。自分ばっかりがうじうじ悩んでいて、周囲の人間は悩みも傷つきやすい心も持っていないと思いこんでいる。それってなにより傲慢でがさつだよね。ぜんぜん繊細じゃない。



 

 これが売れない芸人かぁ……やっぱりなあ……となんだか同情してしまって読んでいて切なくなってしまった。たぶん作者が意図したのとはちがう切なさだ。

 着眼点に目を惹くものはないし、リズムも良くないし、こういうのを読むとやっぱりプロ歌人ってすごいんだなあ、と感じる。


 そんで、短歌の後にだらだらとエッセイが続くんだけど、これがまた蛇足。

 いやわかるから。凝った技法も趣向を凝らした隠喩もないストレートな短歌なんだから、それだけで十分意味が伝わるから。

 なのに、長々と解説が入る。しかも切れ味が悪い。まるでコントの後に「今のコントは何がおもしろかったかというと……」と演者自身による解説が入るようなもの。まったくもって見ていられない!




 あんまり悪く言ってばかりでもあれなので、好きだった短歌をいくつか。

 

窓の外にラジオ体操はじまってダビスタの馬は20連勝


クリップを買うクリップを1つ使うクリップが119個余る


ちょい待ってあなたが好きですあなたからもらった電話で恐縮ですが


 せっかく「売れない芸人」というパーソナリティがあるんだから、それをもっと活かした歌が見てみたかったな。




 短歌としてもエッセイとしても退屈だったけど、古典の授業でしか短歌を鑑賞したことがない、という人にはそれなりに楽しめるんじゃないかな。短歌ってこんな表現もできるんだ、って伝わるだけで。

 でもこれをちょっとでもおもしろいとおもったなら、もっとプロ歌人の短歌を知ってほしいな。短歌のおもしろさってこんなもんじゃないから。ぜんぜん。


【関連記事】

【読書感想文】「壊れた蛇口」の必要性 / 穂村 弘・山田 航『世界中が夕焼け』

【読書感想文】墓地の近くのすり身工場 / 鳥居『キリンの子 鳥居歌集』



 その他の読書感想文はこちら


2022年10月14日金曜日

【読書感想文】爪切男『クラスメイトの女子、全員好きでした』 / さすがにこれはエッセイじゃないだろう

クラスメイトの女子、全員好きでした

爪切男

内容(Amazonより)
小学校から高校までいつもクラスメイトの女子に恋をしていた。
主演・賀来賢人、ヒロイン山本舞香でドラマ化もされたデビュー作「死にたい夜にかぎって」の前日譚ともいえる、全20篇のセンチメンタル・スクールエッセイ。きっと誰もが“心の卒業アルバム”を開きたくなる、せつなくておもしろくてやさしくて泣ける作品。


 爪切男さん(こういう名前)が学生時代に好きだった女の子たちとの思い出を書いたエッセイ集。

 エッセイというか、かなり創作が混ざっている感じがあるけど……。




 好きだった女の子といっても、登場するのはクラスのアイドル的な美少女ばかりではなく、なにかしら問題を抱えた女の子ばかりだ。

 よく吐く女子、男子の金玉を攻撃する女子、水飲み場の蛇口に直接口をつけて飲む女子、ひげの濃い女子、家が貧しくて泥棒をする女子、まったくしゃべらない女子……。

 人気者ではなく、他の子から避けられたり嫌われたりしてる子に爪切男は愛を込めた目を向ける。歪んだ性癖だ。

 いや、違う。白状しよう。実は、私は嬉しかった。勉強もスポーツもできて、おまけに美しい林さんが、下品な水の飲み方をするのが本当に嬉しかった。ひねくれ者なだけかもしれないが、私は人のダメなところ、欠落した部分が可愛くてたまらないのだ。林さんの恥ずかしいクセをずっと見ていたかったが、このまま岩崎君に彼女が汚され続けるのは、もう我慢ならない。


 しかしこの気持ちはちょっとわかる。ぼくも小学生時代はいちばんかわいい子が好きだったけど、中学生からはクラスの人気者じゃなくてちょっと陰のある子を好きになった。あんまり男子としゃべらない女の子と言葉を交わした後に、ささいなしぐさが気になって、「この子の魅力に気付いているのは自分だけかもしれん」とおもうとどんどん気になってしまう。

 ただのあこがれから、「自分のものにしたい」欲が強くなってくるからかな。中学生ぐらいになってから異性の好みは多様化していくよね。

 爪切男さんは小学生で「目立たない子の、自分だけが気付いている魅力を発見する」歓びを覚えているのだから相当マセているなあ。




 書かれているエピソードはどれもおもしろいんだけど、エッセイとして発表されている以上、あまりにおもしろいと眉に唾をつけてしまう。

 そんなにたくさん、クラスの女子とのおもしろいエピソードがあるわけないだろ、という気になってしまう。

 窃盗癖のある〝ナッちゃん〟とのエピソード。

「ヒロ君、ごめん。私、泥棒してるんだ」
「……そうか。いいよ。何を盗ったんだよ。金か? 本か?」
「言うのが恥ずかしいんだけど……」
「怒らないから言って」
「うん、私……」
「……」
「友達のシルバニアファミリーを……遊びに行くたびにひとりずつ盗んでるの」
「え? シル?」
「友達は動物が住む大きな家まで持っててさ、羨ましくて……。みんな私に自慢ばっかりしてくるから、家族をひとり誘拐してやったの」
「えーと、誘拐」
「ちょっとしたら返そうって思ってたんだよ。本当に! でもいざ返そうと思ったら情がわいてさ。この子は私の子供だって」
「……」
 二〇一七年十一月。東京で暮らす私のもとに、地元から結婚式の招待状が届いた。差出人はナッちゃんだった。四十の大台に乗る前に、ようやく独り身を卒業するらしい。出欠を確認するハガキを取り出し、欠席に大きく丸を付けた私は、余白の部分にメッセージを書く。
 ナッちゃん。結婚おめでとうございます。あの盗んだシルバニアファミリーなんですけど、結局もとの人に返さなかったでしょ。俺は何でも知ってます。
 ナッちゃん。シルバニアファミリーに負けない幸せな家族を作ってくださいね。

 おもしろいんだけどさ。でもこれはもう小説でしょ。




 作り話感が強すぎる本題の「クラスメイトの女子との思い出」よりも、個人的には家族のエピソードのほうがおもしろかったな。

 実は私も、小学校低学年の頃は幽霊をこの目で見ることができた。近所の墓地や裏庭に生い茂る竹林の中で、人型にぼんやりと光る物体やボロボロになった兵隊さんの姿をよく目撃したものだ。
 初めて幽霊を見たとき、恐怖で腰を抜かしそうになりながらも、なんとか家までたどり着いた私は、事の顛末を親父に報告した。すると「よし、今から幽霊退治に行くぞ!」と親父は私の手を引いて現場へと向かった。幽霊のいる場所に戻るのは怖かったが、親父が私の話を信じてくれたことが嬉しかったのをよく覚えている。
 兵隊さんの幽霊は先程と同じ場所からこちらをじっと凝視していた。私はその姿をハッキリと捉えることができるのだが、親父には何も見えていないようだった。
「父ちゃんを、幽霊の場所まで案内しろ」と言われた私は、スイカ割りを誘導するのと同じやり方で「父ちゃん、もっと右! あ、行き過ぎた! 左、あと少し左!」と必死でナビゲーションする。
 やがて親父と幽霊の顔が真正面から向き合うフェイス・トゥ・フェイスの状態になった。
「父ちゃん! 目の前にいる!」と私が叫ぶと同時に「オラァァ!」と獣のような咆哮を上げ、親父は兵隊の幽霊に頭突きをぶちかました。「かました」というよりも「すり抜けた」というのが正しい表現だ。次の瞬間、幽霊の姿はそこからたちまち消え去ってしまった。「父ちゃんすごいや! 幽霊を倒した!」と、私は心の底から親父を尊敬した。

 ま、こっちも創作っぽさはすごいんだけど。でも、変に「あまずっぱい恋の思い出」にしている女の子との思い出よりも、こっちのほうがばかばかしくて笑えた。


【関連記事】

【読書感想】爪切男『死にたい夜にかぎって』



 その他の読書感想文はこちら


2022年10月12日水曜日

【読書感想文】竹宮 ゆゆこ『砕け散るところを見せてあげる』 / なんか悔しいけどおもしろかったぜ

砕け散るところを見せてあげる

竹宮 ゆゆこ

内容(e-honより)
大学受験を間近に控えた濱田清澄は、ある日、全校集会で一年生の女子生徒がいじめに遭っているのを目撃する。割って入る清澄。だが、彼を待っていたのは、助けたはずの後輩、蔵本玻璃からの「あああああああ!」という絶叫だった。その拒絶の意味は何か。“死んだ二人”とは、誰か。やがて玻璃の素顔とともに、清澄は事件の本質を知る…。小説の新たな煌めきを示す、記念碑的傑作。

 タイトルに惹かれて購入。なんだかアニメのノベライズみたいな文章だなとおもって読んでいたのだが、調べたらやっぱりライトノベル出身の作家だった。あー。今は新潮社もライトノベルのレーベルを持っているのかー。

 ライトノベルはほとんど読んだことがない。井上真偽の『探偵が早すぎる』を読んだときは「これがライトノベルなのだろうか?」とおもったけど。

 ということで新鮮な気持ちで読んだ。




 最初は「なるほど、これがライトノベルか」ぐらいのやや冷やかし気分で読んでいた。

 うん、さすがライトというだけあって小説入門にはいいね。会話主体の展開、口語表現、登場人物たちがおもっていることをほとんど口に出す(あるいは地の文で明記する)ところ。

 とにかくわかりやすい。〝行間を読む〟がほとんど要求されない。かなりローコンテクストな小説だ。

 難解なだけで何が言いたいのかさっぱりわからない独りよがりな小説よりずっと読みやすい。作者のサービス精神を感じる。

 個人的にはわかりやすすぎてちょっと退屈だったけど、これはこれでいいとおもう。


 はるか昔にこんな雰囲気の小説を読んだ気がする……と考えて、おもいだした。新井素子『グリーン・レクイエム』だ。1980年発表。ぼくが読んだのは2000年頃だった。高校の図書館で読み、装丁の美しさもあいまって手元に置いときたいとおもい、わざわざ書店で取り寄せて購入したほど好きだった本だ。

『グリーン・レクイエム』は異星人との恋を描いたSF小説だったが、あれも今の定義でいえばライトノベルになるのかもしれない(当時はそんな言葉はなかった)。


『砕け散るところを見せてあげる』も、ぼくが中高生だったならばすごく好きな小説になっていたかもしれない(ギャグは好きになれなかったが)。

 ……というのが読んでいる最中の感想だった。だが。



 おお。こ、これは。素直に認めたくないけど、なかなかおもしろいじゃないか。途中からはどんどんおもしろくなった。


【以下ネタバレ】


 ストーリー展開自体は、そこまで目新しいものはない。

 高校生の主人公がいじめに逢っている後輩の女の子を助ける、なんやかんやあってふたりの距離が縮まる、気持ち悪いとおもっていた女の子があか抜けて素敵に見えてくる、実は女の子は父親から虐待を受けていた、女の子を救い出すために主人公は行動を起こす……。

 よくある話、かどうかは知らないが、物語の世界ではいじめも虐待もよく見るテーマだ。現実ではどちらもなかなか快刀乱麻ようには解決しないけど、そこはフィクションなのでシンプルに解決する。かんたんではないけど、シンプルに。

 2000年代前半に浅野いにお氏がこういう漫画を描いていた。さわやかな絵柄なのに、いじめや虐待といったヘビーな出来事をまるでなんでもないかのように描く手法。当時は斬新だったが、後続作品がどんどん現れたことで今ではめずらしくもなんともない。

『砕け散るところを見せてあげる』はそれの小説版、といった感じ。やっぱり漫画っぽさはぬぐえない。



【以下もっとネタバレ】

 そんな感じで読んでいたら、あと数十ページを残して問題解決してしまった。あれ。まだけっこうページ残ってるけどどうするの?

 とおもっていたら、そこからは一気に時代を飛び越え、概念的な話が続く。なんだこれ。そして、叙述トリックが明らかになる。

 あー。なるほど、冒頭の「俺」は、中盤の「俺」の息子かー。死んだはずの父親が現れたところで変だとおもっていたんだよな。よく読めば、作中に出てくる小道具にもいろいろヒントがある。誰も携帯電話持ってないのは数十年前だからか。

 やー。よく考えてるな。ミステリとおもって読んでたら警戒してたけど、ライトな青春ストーリーだとおもって読んでたから油断してた。まんまと騙された。

 素直に認めるのはなんか悔しいけど、けっこうおもしろかったぜ。




 ところでこの本を、小学六年生(読書好き)の姪に「おっちゃんが読んだ本だけどよかったら」とプレゼントしたところ、一日で読んだらしく電話がかかってきて「おもしろかった!」というお声を頂戴した(やはりラストの展開はよくわからなかったらしいが)。

 うん、やっぱりティーン向けの本だったね。おっさんが読んでぶつぶつ言ってすみませんでした。

 

【関連記事】

【読書感想文】ピタゴラスイッチみたいなトリック / 井上 真偽『探偵が早すぎる』

【読書感想文】書店時代のイヤな思い出 / 大崎 梢『配達あかずきん』



 その他の読書感想文はこちら


2022年10月11日火曜日

キングオブコント2022の感想

 キングオブコント2022の感想。


 漫才に比べてコントは表現の幅が広くていろんなことができるし方向性も多様なので、点数をつけて並べることにあんまりなじまないとおもうんだよね。そもそもの話になってしまうけど。なので、点数や順位はあんまり意味がないというか、単なる審査員の好みでしかないとおもうのでそのへんにはふれない。


 いやあ、すごくおもしろかった。いい大会でした。2021年に審査員一新してからよくなったね。

 スタジオの客はアレだったけどね。去年も書いたけど。なんだねあの客は。客というか客に指示を出している人の問題なのかもしれないけど。出てきただけで笑う。フリの段階で笑う。くすぐり程度のボケで手を叩いて笑う。コントを観る客じゃなく、単なる盛り上げ役のエキストラ。そりゃあ番組なんだから多少おおげさに笑うほうがいいけど、ちょっと限度を超えていた。

 あと、去年もそうだったんだけど、出番順がよくできすぎじゃない? わかりやすく笑える初出場組からはじまって、徐々にリベンジ組や下馬評の高い本命が増えてくる。ほんとに抽選? 作為入ってない?




 以下、ネタの感想。


クロコップ

 あっちむいてホイデュエル。

 おもしろかったなあ。キングオブコントは15回すべて観てきたけど、トップバッターの中ではいちばん笑えた。

 ほんと、トップバッターとして最高の出来だったとおもう。ポップで、バカバカしくて、誰にでもわかる。遊戯王がわかればなおおもしろいんだろうけど、わからなくてもおもしろい。

 やってることはかなりベタなんだけど、あの衣装と曲のパワーで、わかっていても笑っちゃう。

 そしてすばらしかったのが縄ばしごだけでヘリコプターを表現したところ。あの小道具のチープさと、表現している絵のダイナミックさとのコントラストがまたいい。あの絵の構図って、誰も実際に見たことないのに誰もが知っているシーンだもんね。くだらなすぎて最高。

 まちがいなく今大会の殊勲賞。優勝者が歴代最高得点を記録したのはクロコップのおかげだ。


ネルソンズ

 映画『卒業』風に花嫁を奪いに来る元カレ。

 題材といい、展開といい、あまり新しいものがなかったな。三人の世界で完結せずに(見えない)出席者も巻きこんでいるあたりはよかったね。まあおもしろかったんだけどね。「二次会だぞ」の種明かしもすばらしかったし。

 ただ、このトリオのキーマンである和田まんじゅうがまるで傍観者のようなポジションになってしまったのは残念。もっと彼をおもしろく追い込むネタもあるだけに。個人的には、以前の決勝でやった野球部のネタのほうが好きだった。

 新婦が、成功者である元カレよりも新郎を選ぶ理由が「足が速いから」ってのがなあ。リアリティはないし、かといってボケとしては弱いし。

 展開的には、新郎が見捨てられないのが令和の笑いっぽいなと感じた。平成はまだ「ブ男はひどい目にあってもいい」とされていた(少なくともコントの世界では)時代だからね。

 あの新郎、新婦の友人百人が百人とも「ご主人、優しそうな人だね」と言うタイプだよね。


かが屋

 ドMの男と、それを落としたい先輩女性社員。

 なーんか、キングオブコントに照準を合わせたようなネタだなー。かが屋の持ち味はそこじゃないのに、とおもってしまう。

(彼らにしては)派手めな設定、性急かつ意外性のない展開、そして芝居ではなく説明台詞で状況や内面を口に出してしまう雑さ。あの電話はほんとに楽をしちゃってたなー。

 きちんと脚本と芝居で見せる実力を持ったコンビだけに、あの拙速な展開は残念だったな。せめて「ふたりがお互いの思惑に気づく」のをラストに持ってきていたらもうちょっと印象も違ったんじゃないかとおもうが。

 かが屋らしくても勝てないし、らしくないことをしても勝てない。このコンビにとっては、べつにキングオブコント優勝だけが生きる道じゃないとおもうぜ。


いぬ

 インストラクターと主婦の夢。

 ばかばかしい展開は嫌いじゃないけど、それは緻密な設定や細かいリアリティがあってこそ生きるもので、「夢」や「キス」といった安易な手段を使っちゃったらなあ。

 ところであの濃厚接触シーンは、2020年や2021年だったらテレビでさせてもらえなかったかもね。いや今年でもアウトかもしれんが。


ロングコートダディ

 料理頂上対決。

 コック帽が看板にあたって落ちる、というシンプルなくりかえしでありながら、細かい会話のやり取りや役柄にマッチしたふたりのキャラクターで飽きさせない。いやほんと、あのシェフを違和感なく演じられる人はそうはいないよ。あの風貌だからできるネタ。「ぜんぜん」の使い方もすばらしい。ばかみたいな感想だけど、センスがいいなあ。

 個人的にはすごく好きなコントだったけど、点数が伸びないのもわかる。腹抱えて笑うようなコントじゃないもんな。でも彼らの持ち味は十分に発揮できたとおもう。ロングコートダディも、かが屋と同じく「チャンピオンを目指さなくてもいいコンビ」だとおもう。まあこれは外野の勝手な意見で、当人たちは目指したいんだろうけど。

 ところでこのワンシチュエーションをひたすら突き詰めるコントは、ロッチが『試着室』のネタでかなり頂点に近いところを極めてしまったので、あれを大きく跳び越えるのはなかなかむずかしそうな気もする。

 ネタ以外のところでは兎さんの「金髪だから印象に残るんですよ」は今大会いちばんおもしろいコメントだった。松本人志審査委員長の実績や名声を一切破壊するようなひっでえ悪口だ。


や団

 死んだふりドッキリ。

 怖すぎた。個人的には嫌いじゃないけど。コントだとわかっていても「人が死体を遺棄しようとするシーン」は楽しく見ていられない。もはやサスペンスホラー。ツッコミ役が明るくポップであればまだよかったのかもしれないけど、彼の顔も怖いしな。顔の怖い人と、行動が怖い人と、何考えてるかわからなくて怖い人。三人とも怖かった。

 なんといっても秀逸なのは鼻歌まじりに加えタバコで死体処理をするシーン。貴志祐介『悪の教典』でサイコパスの主人公が三文オペラのモリタートを歌いながら生徒たちを次々に殺していくシーンをおもいだした。


コットン

 浮気証拠バスター。

 細部まで丁寧につくりあげられた構成、それを支える確かな演技力。見事なコントだ。が、見事すぎる点が一位になれなかった原因なのかなという気もする。設定が完璧すぎて遊びがないというか。隙がなさすぎて「ほんとにこんな仕事あるのでは」という気がしてきた。

 良くも悪くも頭いい人が考えたネタ、って感じがしたな。ぼくはラーメンズのコントが好きで、ラーメンズはもちろん、小林賢太郎単独作品やKKP(小林賢太郎プロデュースの劇団)の作品もよく観ていた。で、いろいろ観た結果、やっぱりいちばんおもしろいのはラーメンズだった。それは片桐仁がいるから。彼がいることで、コントに「バカ」が加わる。片桐仁の頭が悪いという意味ではなく、予測不能性というか、あぶなっかしさがプラスされるということだ。

 コットンのコントには、小林賢太郎単独作品のような「おもしろいしよくできているんだけど、でもなんか退屈」を感じた。よくできているからこそハラハラドキドキ感がない。

 ということで個人的にはなんかたりないなという印象だったんだけど、でも思い返してみるとやっぱり隅々までよくできていた。彼女からの電話とか、彼女が急に来るとか飽きさせない展開も用意していたし。なによりすごいのは、変な人が出てこないということだよね。ちゃんとした人がちゃんとした仕事をちゃんとこなしている。なのにおかしい。すごい脚本だ。


ビスケットブラザーズ

 野犬に襲われる

 で、そんなコットンに足りなかった「バカ」をふんだんにまぶしたのがビスケットブラザーズ。

 気持ち悪いのにかわいげのあるふたりが飛んだり跳ねたりしているだけで妙に愛おしい。不気味さや気持ち悪さを描いたコントはわりとよくあるが(今大会でいうとや団や最高の人間とか。過去にもかもめんたるやアキナもサスペンス感の高いコントをやっている)、ビスケットブラザーズが他と違うのは圧倒的な善性を持っているところだろう。気持ち悪いけど、悪意や攻撃性はまるで感じない。そしてそこがまた気持ち悪い。

 そう、純粋無垢な善ってなんか気持ち悪いんだよね。我々は生まれながらにして悪も持ってるから。圧倒的な善に対しては、無意識のうちに「そんなわけないだろ」と警戒してしまう。ビスケットブラザーズは一貫して善なるものの気持ち悪さを表現している。

 衣装で安易な笑いをとりにいっているかとおもいきや、展開やセリフなど入念に設定が作りこまれている。ぱっと見の印象ののせいで「見た目や動きで笑いをとろうとするコント」と判断してしまうのはもったいない。あのコントを「安易な笑い」と言う人こそ、上辺だけしか見ていない。ビスケットブラザーズの良さはそこじゃない。あの見た目がなくても十分おもしろい。

 好きだった台詞は「それどういう意味」。あのタイミングであの台詞。最後まで予定調和を許さない。最高。

 ベタな笑いからシュールな笑いまで幅広く詰めこまれていて、パワーだけでなくテクニックも備えている。全盛期の朝青龍を髣髴とさせた。


ニッポンの社長

 人類補完計画。

 一昨年の『ケンタウロス』、昨年の『バッティングセンター』ではたっぷり時間をかけた丁寧にネタふりをしてからナンセンスな笑いで吹き飛ばすという贅沢なコントを見せてくれたニッポンの社長だが、今大会はうってかわって短いフリとベタな笑いのくりかえし。

 あれ。どうしちゃったの。まるでショートコント。特に見どころを感じなかったな。


最高の人間

 テーマパーク。

 ピン芸人同士のユニットだが、それぞれの良さが出たネタ。とはいえ元々持ち味が似ているので、おいでやすこがのような「タイプの異なるこの二人が組んだらこんなにおもしろくなるのか!」というような驚きはなかったけど。

 間が詰まりすぎていたように感じた。特に前半。あそこはもっともっと時間をかけてたっぷり怖がらせてほしかったな。その部分の不気味さが大きいほど、中盤での「みんな逃げて」が生きただろうに。

 そしてせっかくの緊迫感のある展開だったのに、終盤の回想シーンのせいで緊張の糸が切れてしまった。あのサスペンス感を保ったまま最後までいってたら……、いやそれでも勝てなかったかな。怖すぎたもん。

「観客を新規スタッフに見立ててしゃべる」構図なのもよくなかったのかもね。当事者感が出すぎてしまって。あれがトリオで、や団のようにツッコミ役がいればだいぶ緩和されてたんだろうけど。




以下、最終決戦の感想。


や団

 気象予報士の雨宿り。

「気象予報士が予報をはずして雨宿り」ってせいぜい四コマ漫画の題材程度の発想だけど、そこからあれだけストーリーのあるコントに仕立てあげるのが見事。

 個人的には一本目の死んだふりドッキリよりもこっちのほうが好き。大男がびしょ濡れになってやけくそになっているだけでおかしいし、狂気は感じつつも「気象予報士への逆恨み」という行動原理がわかるからそこまで怖くない。だから笑える。気象予報士を恨むのはお門違いだけど。

 マスコットキャラクターの中の人だということが明らかになるタイミングもうまい。さすが15年決勝に進めなかっただけあって、いいネタをストックしてるなあ。


コットン

 お見合い。

 これまたぶっとんだ人が登場するわけでもなく、特別なことが起こるわけでもないのに、リアリティをギリギリ保ったままちゃんと笑えるコントに仕立てている。見事。

 上品な女性がタバコを吸いはじめてガラの悪い本性を表す……じゃないところがいいね。徹頭徹尾上品さを保っている。タバコを吸っている以外はまとも。いやべつにタバコを吸う人がまともじゃないわけじゃないけど。

 前半と後半でまるで別人になってしまうような(芝居として破綻している)コントも多いけど、コットンはキャラクターの一貫性を保っているのがうまい。笑わせるためなら何をやってもいいってもんじゃないからね。

 ただ、キャラクターが首尾一貫していただけに「お見合いでもじもじしていた二人が数分間でプロポーズして承諾する」という展開の性急さが目についてしまった。とってつけハートフル。〝エンゲージリング〟をやりたかったんだろうけど、あそこで「気持ちはありがたいですけどまだお互いのことを知らなさすぎるので……」ぐらいにしていたら、もっと上質な仕上がりになったのになあ。少なくともあの時点で、女性側が相手に惹かれる要素はほとんどないとおもうけどなあ。


ビスケットブラザーズ

 男ともだちを紹介。

「どんなに変でも女性ものの服を着て髪の長いカツラをかぶっていたら女性とみなす」というコントのお約束を逆手に取ったようなネタ。女装が似合わない体形だったことがまた良かった。『寄生獣』の絵がうまくなくて登場人物全員の表情がぎこちなかったせいで結果的に誰が寄生獣かわからないというおもわぬ副産物があったことを思いだす。

 女とおもっていた友だちが実は男、男と分かった後でも女に戻ったり男になったりする、二重人格かとおもいきや周到な計画だった、過去にこの作戦が成功したことがある……と次から次に驚きがしかけられていて退屈させない。

 メインの展開以外にも「プロ野球チップスの味」「君が完成させてみる?」といった細かいワードも光っていて、一分の隙もなく笑わせてやろうというパワーを感じた。

 個人的には一本目の野犬退治よりこっちの方が好き。クレイジーなんだけど、当人の中にはしっかりした論理があるのがいい。

 実はよく練られたネタなのに、まるでそれを感じさせないのがいい。




 ってことで、今回もいい大会でした。

 個人的にはクロコップとロングコートダディがもっと上位であってほしかったけど、それは好みの問題なので。

 大会主催者に文句をひとつだけ言うとすれば、準決勝の配信は決勝の後にもやってほしいということ。準決勝配信観ようかどうかかなり迷ったんだけど、観ちゃうと決勝を楽しめなくなるので諦めた。決勝の後だったら心おきなく楽しめるから、決勝後に配信してよ。


【関連記事】

キングオブコント2021の感想

キングオブコント2020の感想



2022年10月7日金曜日

三歳は特別

 三歳というのは、人間の一生において最も特別な時期だとおもう。もちろん他の年齢もそれぞれ特別ではあるが、三歳はやっぱり特別に特別だ。どういうことかというと、圧倒的に「おもしろい」のだ。


 まずしゃべれる。たぶん言語学習能力がいちばん高まるのがこの時期なのだろう。二歳児と三歳児では話せる言葉の量や質がまったくちがう。単語をつなぎあわせている程度だった二歳児が、たった一年でぺらぺらにしゃべれるようになる。もちろん語彙の数はまだまだ少ないが、文法的には完璧に近い日本語を操れるようになる。中一の一学期英語がたった一年で英検二級レベルにまで進化するぐらいの変化だ。

 それから身体能力もずいぶん発達する。三歳ぐらいからはこけることが格段に少なくなる。ジャンプしたり、急に止まったり、踊ったり、自転車(コマつき)をこいだり、大人と変わらない動作ができるようになる。

 その一方で、社会性はぜんぜん身についていない。つまり、恥ずかしいとか、ねたましいとか、気まずいとか、後ろめたいとか、ありがたいとか、申し訳ないとか、そういった〝第三者の視点を内的に持つことによって生まれる感情〟がぜんぜんない。客観性を持っていない。常に自分が中心だ。

 表現できる事柄はかなり大人に近づくのに対し、それを自省する感情がまるで育っていない。いってみれば「エンジンやアクセルは高性能なのにブレーキがほとんど利かない車」。とんでもない暴走車だ。

 暴走車。制御する側としてはたいへん厄介だ。だが同時におもしろくもある。そりゃそうだ。「何が起こるかわからないアトラクション」なのだから。


 じっさい、自分の子を見たり、他の親の話を聞いているとすごい話が出てくる。

  • 非常ボタンが気になったので押してから「これなに?」と尋ねた
  • タンスから飛び降りて骨折した
  • 蛍光塗料をなめてみたら口の中が光った。さらに激痛に襲われた
  • 一時間ぐらい怒りつづけている。怒っている理由は次々に変わるが、最初のきっかけは「ドアを自分で開けたかったから」
  • 砂を投げていることを注意されて「わかった」と言った三秒後に砂を投げる

 これらはほんの一例だが、三歳児はまったく自省が利かないことがよくわかる。

 当事者だったらたいへんだ。でも他人事ならばおもしろい。それが三歳児だ。

 認知症患者も同じようにブレーキが利かなくなるが、こっちはたいへんなだけで笑えない。三歳児のほうは「そのうち落ち着くはず」とおもえるからまだ笑える。もっとも子どもによっては落ち着くまでに二十年ぐらいかかったりもするのだが……。


 ところで、三歳児の「客観性のなさ」がよくわかるのが、かくれんぼをしたときだ。

 三歳ぐらいまでの子の隠れる場所は丸わかりだ。身体の一部が見えていたり、さっき隠れたところにもう一度隠れたり、すぐに顔を出してしまったりする。それで、本人はきちんと隠れている気になっている。

 ところが四歳ぐらいからちゃんと隠れられるようになる。鬼からは見えない位置、さっきとは違う場所に隠れられる。それは「他人から自分がどう見えるか」という視点を持つことができるからだろう。

 かくれんぼという遊びは発達の具合によって異なる楽しみ方ができる。古来から伝わっているだけあって、なかなかよくできている遊びだ。


2022年10月5日水曜日

【読書感想文】青木 貞茂『キャラクター・パワー ゆるキャラから国家ブランディングまで』/成功事例のみ

キャラクター・パワー

ゆるキャラから国家ブランディングまで

青木 貞茂

内容(e-honより)
なぜ日本人は「ゆるさ」に惹かれるのか?LINEの「スタンプ」が人気を集めるのはなぜか?―キャラクター文化は、いまやアニメや漫画にとどまらず、日本社会全体に浸透している。その秘密はどこにあるのか?自身も「キャラクター依存」を告白する著者が、空前のブームから日本文化の深層に分け入り、キャラクターが持つ本質的な力を浮き彫りにする。


 ゆるキャラ、マスコットキャラクター、LINEスタンプなど〝キャラクター〟がなぜ日本で特に好まれ、広く使われるのかについて考察した本。

 

 たしかに身のまわりにはキャラクターが蔓延している。子ども向け商品だけでなく、企業も自治体も政党もキャラクターを使っている。

 他の国にもキャラクターはあるが、日本とアメリカではキャラクターの性質が少し違うようだ。

 ディズニー・キャラクターは、まるで人間のようにコミュニケーションをとることから、人間同士の絆のように共感性が高く、感情的かつ精神的な絆を持ちやすいのです。また、アメリカ人的であるがゆえに、ディズニーランドやディズニーの長編アニメは、世界中で非常に人気があり、かつ一方で嫌われてもいるのです。
 人々は、ディズニー・キャラクターとは、人間を相手にしたようなコミュニケーションをとり、サンリオ・キャラクターには、人間に隣接した別の親密な存在として感情移入をすると考えられます。それは、犬や猫、ウサギやモルモットといったペットとの関係に非常に近いといえます。

 なるほどね。たしかに日本のキャラクターには無表情なものが多い。サンリオキャラはだいたい無表情だし、リラックマ、すみっコぐらし、くまモン、しまじろうなど表情に乏しいキャラが多い。

 また日本生まれではないが日本で人気のミッフィー(ナインチェ・プラウス)はまったくの無表情だし、ムーミンもピーターラビットも表情はあまり変わらない。

 アメリカ生まれのディズニーキャラクター、トムとジェリー、スヌーピーなどが喜怒哀楽をむきだしにするのとは対照的だ。

 まあ日本でなじみがないだけで、アメリカにもゆるキャラみたいな表情に乏しいキャラがいるのかもしれないけど。

 日米の有名人形劇を見比べてみると、その差は明らかだ。

ひょっこりひょうたん島
(NHKアーカイブス より)

SESAMI STREET
(SESAMI STREET JAPAN より)

 人形劇なのにみんな笑顔(しかし人形劇の人形にこんなに表情があったら、怒りや悲しみの表現がしづらくないのだろうか?)。



 企業やブランドや自治体にキャラクターがいるのがあたりまえになっているから何ともおもわないけど、よくよく考えると公式キャラクターというのは奇妙なものだ。

 キャラクターがいようがいまいが製品の品質にはなんの関係もない。子ども向けのお菓子ならキャラクター目当てに買う人もいるだろうが、たとえばぴちょんくんがいるからといってダイキン工業のエアコンを選ぶような人はまずいないだろう。

 それでもキャラクターは多くの団体が採用しているし、我々もそれを当然のように認知している。

『キャラクター・パワー』によれば、キャラクターには以下のような力があるという。

①存在認知力 他者に存在を認められるプレゼンスを作る
②理解伝達力 メッセージや意味を理解してもらうスピードを高め、わかりやすくする
③感情力 好意や親しみやすさなど感情的な絆を作り、つなげる
④イメージ力 魅力的なイメージを創造する
⑤拡散力 人に伝えたくなるクチコミをおこさせる
⑥個性力 他のグループとの違いやある価値観を持った人々との同一性がすぐに認識できる
⑦人格力 まるで人間と同じ精神や魂があるかのような実在性を感じさせる

 たしかにね。

 熊本の魅力を言葉や文章で長々と説明されるより、くまモンが名産品を持って立っているほうがずっと伝わりやすいし、記憶にも残りやすい。

 ネット上の解説記事なんかでも、解説役Aのアイコンと聞き手役Bのアイコンがあって、会話形式で解説する……なんてのもよく見る。あれも、キャラクターがあることでむずかしい話が頭に入ってきやすくなる効果がある。


 キャラクターには人間型や無生物型などもあるけど、なんといってもいちばん多いのは動物型だ。

 このように、キャラクター思考においてよく用いられるのが、動物シンボルです。動物シンボルを使用することで、本来は生命を持たない無機物の商品に対して、思い入れを持たせることができます。
 一方で、人間は人間をモノとして扱うこともできます。ナチスによるホロコースト、ルワンダやボスニアでの虐殺などは、人間を非人格化したがために可能となった行為でしょう。このとき虐殺する側の人間は、虐殺される側の人間を動物や虫のメタファーで呼ぶことが多いとされています。虐殺の対象を蛇やネズミなどのマイナス・キャラクターと考えてしまえば、正当性を手に入れることができるというわけです。

 動物には特有のイメージがある。

 犬だったらかわいさだけでなく忠実な相棒といったイメージがあるし、ネコやペリカンが運送会社のキャラクターに採用されているのは「大事に運ぶ」イメージによるものだろう。

 動物キャラクターを付与することで、対象に特定のイメージを持たせることができる。上で挙げられているように、マイナスのイメージを与えることにも使える。




……といった話が続いて、一章『キャラクターに依存する日本人』あたりは楽しく読んでいたのだが、だんだん辟易してしまった。

 なんだか、論理が強引なんだよね。「〇〇というキャラクターが成功したのは××だからだ」「このキャラクターにはこんな心理学的効果がある」みたいな話がたくさん出てくるんだけど、定量的な裏付けはまるでない。

 結局ぜんぶ著者の推量なんだよね。「キャラクターには強いパワーがあるから活用すべき」という結論が先に決まっていて、その結論にもっていくためにいろんな理屈を並べ立てているという感じ。まったくもって、理屈と膏薬はどこへでもつくなあという感想。


 基本的に紹介されているのは成功事例だけだしね。たしかにキャラクターを使ってうまくいった例は多いけど、キャラクターを使ったけどうまくいかなかった事例はその数百倍あるわけじゃない。たとえばくまモンやひこにゃんは成功したけど、金をかけて作ったのにほとんど効果を生んでいない地方自治体のマスコットゆるキャラはごまんとある。

 そのへんに目をつぶって「キャラクター・パワーすごい!」ってのはちょいとずるいぜ。


【関連記事】

動物キャラクター界群雄割拠



 その他の読書感想文はこちら


2022年10月4日火曜日

【読書感想文】ロバート・ホワイティング『和をもって日本となす』 / 野球はベースボールではない

和をもって日本となす

You Gotta Have Wa

ロバート・ホワイティング(著)  玉木 正之(訳)

内容(e-honより)
これば、“文化摩擦”に関する本である。すなわち、日本とアメリカのあいだに存在している亀裂を、ベースボールというスポーツを通して描いたものだ。われわれアメリカ人にとって、異なる文化を理解することがいかに難しいものか、とりわけ日本というまったく異質の文化がいかに理解し難いものであるか―ということを、知ってもらうために書いた本なのである。

 おもしろかった!

 1989年に『You Gotta Have Wa』のタイトルで刊行され、1990年に日本語訳された本。日本に精通した著者が、アメリカ人に対して、日本野球を通して日本文化を紹介するという形の本。

 日本野球界で活躍した外国人選手や通訳への取材を通して「日本野球界がいかに外国人選手にとってやりづらい場所か」を明らかにすると同時に、日本社会全体が抱える欠点も見事に暴いてみせている。

 また、選手の話にとどまらず、監督、コーチ、オーナー、経営陣、通訳、応援団、高校野球などの問題にも触れていて、単なる「ガイジンが見た日本野球」の枠を超え、日本野球界全体に対するすばらしい問題提起になっている。


 三十年以上に書かれた本なので登場するエピソードは古いが、本質は今もさほど変わっていない。この三十年間で日本がほとんど経済成長しなかった理由も垣間見れる。




 第1章『赤鬼伝説』では、1987年のボブ・ホーナー騒動について書かれている。

 ボブ・ホーナーという野球選手を知っているだろうか。1987年にヤクルトスワローズに在籍した野球選手だ(当時ぼくは幼児だったのでリアルタイムでは知らない)。

 彼はなんと日本プロ野球の最初の4試合で11打数7安打、6本塁打というとんでもない活躍を見せ、その容姿もあわせて「赤鬼」と呼ばれた選手だ(今だったら問題になりそうなニックネームだ)。

 日本に来る外国人選手といえば、メジャーリーグで活躍できなかった選手、もしくはもう選手としてのピークを過ぎた選手というのが常識だった時代。ホーナーは30歳という脂の乗った時期に来日。日本がバブルで潤沢な金を出せたから、という時代背景もあった。まあホーナーがメジャー球団と契約できなかったから、という事情もあったのだが。

 鳴り物入りでやってきて、前評判以上の成績を残したホーナーはたちまち日本中の注目の的となった。プロ野球が国民的スポーツだった時代だ。スワローズの観客動員数は大幅に増加し、ホーナーはCMにも出演。国民的なスターとなった。

 が、スターになったのはホーナーにとっていいことばかりではなかった。一挙手一投足が注目され、グラウンドの中だけでなく、プライベートもマスコミに追いかけまわされ、また試合に欠場することなどが批判の種になった。

 なによりも、ホーナーがチームの練習に参加しないことが非難された。

 これを聞いて、多くの日本人はあきれ返った。日本人にとって、試合前の練習というのは、試合そのものと同じくらい大きな意味のあるものだった。あるいは、試合以上に重要であると考えるひともいるくらいなのだ。毎日試合前に、いい練習を厳しく行なうことは、ファンやマスコミや相手チームに対してやる気を表わし、野球に取り組む姿勢の整っていることを示すという意味合いもあった。そのうえ、日々の練習は、向上心を持つものにとって必要不可欠なものである、とも考えられている。より多く練習するものが、より多くのいい結果を得る――と、ほとんどすべての日本人が信じているのである。
 彼らは完全主義者であり、日常の鍛練と不屈の意志があれば何事も可能になる、という信念を持っている。ケガや苦痛を克服することも、自分よりも強い敵と戦って勝つことも、バッティングのタイトルをとることも、その他あらゆることについて、成せば成る、と考えているのだ。さらに、努力"を重視する傾向がきわめて強く、どれだけがんばったかということを、人間に対する最終的な評価と考えているひとも少なくない。結果は二の次、というわけである。
 そんななかで、試合前に汗を流さず結果だけを求めたホーナーのやり方は、すべての日本人の人生観とスポーツ観に対する冒濱的行為であるともいうことができた。

 プロなんだから、結果を出せば他の時間はどう過ごしたっていい。そういう考えは日本野球界では通用しない。「サボってるけど成果を上げる選手」が叩かれ、「一生懸命練習するけどヘタな選手」のほうは何も言われない。

 結局、ホーナーはたった一年でアメリカに帰ってしまった。ヤクルトは高年俸での複数年契約を提示したが、ホーナーはそれを蹴り、ヤクルトに提示されたよりもずっと安い年俸でセントルイス・カージナルスと契約した。『和をもって日本となす』によると、ホーナーはすっかり日本という国に対して嫌気がさして、一日も早くアメリカに帰りたかったらしい。

 単なるホームシックではない。同じルールのスポーツでありながら、アメリカのベースボールと日本の野球はまったく別の文化を持っており、ホーナーは〝野球〟になじむことができなかったのだ。これはホーナーにかぎらず、多くの外国人選手に共通する現象だった。日本で好成績を残し、球団から残留を打診されたにもかかわらず本国に帰ってしまった外国人選手は山ほどいる(シーズン途中で勝手に帰国した選手も何人かいる)。


 よく「プロなんだから結果がすべて」と言うが、じっさいはそんなことはない。結果を出していても、練習をまじめにすることや、監督やコーチやOB(部外者なのに!)の言うことを聞くことが求められる。

 ホーナーをめぐる一連の騒動は、日本野球がどういうものかをよく表している。



 著者は、アメリカのベースボールと日本の野球はまったく別物だと主張する。

 アメリカで行なわれているゲームと同様、日本版の試合も、ボールとバットを使って行なわれ、同じルール・ブックが用いられている。しかし、似ているのはそこまでで、たとえば、日本の練習方法などは、アメリカ人の眼で見ればほとんど宗教的な行為のようにも思われる。
 アメリカのプレイヤーは本格的なスプリング・トレーニングを3月からはじめる。つまり約半年間のシーズンに向けて、せいぜい5~6週間の準備期間をとるだけだ。さらに、毎日のトレーニングも3~4時間といったところで、それが終わると近くのゴルフ場へ行くか、プールへ行くか、家へ帰ってごろ寝をするような日々を過ごす。この程度でも、ヒート・ローズのように、トレーニングをやりすぎると指摘する連中が少なくない。
 ところが日本のチームは、1月中旬の厳しい寒さのなかで、長距離走や、ダッシュや、ウェイト・トレーニングや、さらにスタジアムの階段を上り下りするような、自主、トレーニングを開始する。そして本格的なキャンプがはじまると、早朝訓練、夜間訓練を含めて1日7時間近くも練習が行なわれる。そのうえ宿舎では、チームプレイの戦術についてのミーティングが開かれ、そのあとさらに屋内練習を行なうといった具合なのだ。
 この日本式の練習に2~3年参加したウォーレン・クロマティは、「まるで教会の集会に集まるような熱心さで、新兵の訓練をやるような厳しさだよ」といった。
 そしてシーズンに入っても、このようなハード・トレーニングが続けられるのだ。真夏になると、アメリカでは多くのプレイヤーが試合のための体力を温存するために、試合前の練習を減らすことが多い。が、日本では逆に練習量を増やす傾向が見受けられる。特訓こそ夏バテ対策として効果を発揮する、と思われている面があるのだ。

 さすがに今はこの頃よりはマシになったとおもうが(だよね?)、それでもやっぱり野球界では根性論が幅を利かせている。そもそも高校野球の全国大会を真夏の日中にやる国なのだ。

 ぼくは野球が好きだ。野球というスポーツはやるのも見るのも楽しい。でも野球部は嫌いだ。でかい声を出したり、坊主頭を強制されたり、先輩やコーチにへいこらしたり、気が乗らないときも練習させられたり、監督の機嫌で走らされたり、野球部にまつわる何もかもが嫌いだ。だから高校入学当時、ソフトボール部に入ろうかとおもった。裏庭で練習をしているソフトボール部員は〝スポーツ〟をやっていて楽しそうだったから。だがソフトボール部には女子しかいなかった。顧問(おばちゃん先生)に「男子は入れないんですか?」と訊きにいくと、「男なら甲子園を目指せ!」と言われた。これが差別でなくてなんなのだ。

「野球道」という言葉もあるように、多くの野球関係者は野球を単なるスポーツとはおもっていない。この点、大相撲にも似ている。大相撲は強さだけでなく〝品格〟を求められるが、野球も技術以上に〝元気溌剌〟〝礼儀正しさ〟〝ひたむきさ〟が求められる。ま、その反動でグラウンドの外ではしょっちゅう暴行やらいじめやら陰険なことをやっているわけだが。




 同じルールブックを使いながらまったくべつのスポーツであるベースボールと野球。そのため、ベースボールをプレイするものだとおもって日本にやってきた外国人と日本野球の間には軋轢が生まれることとなる。

 意味のない(あるいは逆効果の)練習やミーティングを強制される。チームの成績が悪いとスケープゴートにされる。打率が高くてもホームラン数が多くないと評価されない。ホームランが多くても三振が多いと評価されない。プライベートの用事で休むと非難されれる(仮に契約時にプライベートの休暇をとることを盛り込んでいても)。

「外野手出身のコーチが、メジャーリーグで実績のある内野手に対して守備をコーチしようとしてきた。不要だと断ると怒鳴られた」

「体調不良だったので休ませてほしいと言うと、疲れているのは練習が足りないからと言われた」

「コーチや監督のほうが本人よりも体調やベストな練習方法を理解しているとおもっている」

といった例が、『和をもって日本となす』にはこれでもかと書かれている。

 読んでいて、日本人として恥ずかしくなった。そうなんです、ごめんなさい。日本ってこういう国なんです。効率や実益よりも努力や対面のほうが重要視されるんです。「和を乱さない」ことが何よりも求められるし、「和を乱さない」ってのは要するに「えらい人の機嫌を損ねない」だったりするんです。ばかでしょ? ぼくもそうおもいます。でもそういうばかが偉そうにしている国なんです。野球界だけじゃなくて。


 メジャーリーグを観ていると、どんな選手も受け入れる懐の広さを感じる。もちろん胸中はいろいろあるのだろうが、少なくとも表向きは誰にでも門戸が開かれている。いろんな人種の選手がプレイしている。日本で実績のある選手でも、メジャー1年目で活躍すれば新人王が与えられる。さすが優勝チームを決める大会を勝手に「ワールドシリーズ」と呼んでしまうだけのことはある。アメリカでいちばん=世界一なのだ。傲慢であると同時に、余裕もある。

 日本プロ野球は、日本人と外国人選手の間に明確に線を引いている。

 ついこないだ、スワローズの村上宗隆選手がシーズン56号ホームランを打って大騒ぎになった。「王選手の記録を58年ぶりに破った!」と大きなニュースになっていた。よく知らない人が見たら、まるでこれまでの日本記録保持者は王選手だとおもうだろう。

 でもほんとはそうじゃない。日本記録保持者はバレンティン選手の60本。村上選手はシーズン本塁打数の日本記録を作っていないし、それどころかリーグ記録も、球団記録すら作っていない(バレンティンもスワローズだったので)。

 でも新聞やテレビでは、まるでバレンティンの記録はなかったような扱いになっている。小さく(日本人としては)最多本塁打記録! と書いている。

 ちなみに、王貞治は中国民国籍なので正式には日本人ではない(帰化もしていない)のだが、なぜか王貞治や、通算最多安打記録保持者の張本勲(韓国籍)は日本人扱いになっている。べつにそこを外国人扱いしろとは言わないが、だったらアメリカ人だって日本人と同等に扱えよとおもう。


 1978年から1987年まで日本でプレーしたレオン・リー選手も、外国人として「別枠」扱いを受けていた。

 彼は外国人選手としては異例の10年間も日本で活躍し、通算4000打数以上の選手の中では今でも歴代一位の通算打率.320という記録を持っている。もし彼が日本人だったら大スターになっていただろう。

 だが、まるで「外国人参考記録」であるかのように、彼の記録は実績は低く見積もられた。

 日本人も、リーに対しては十分に好感を抱いていた。が、彼らは、リー(とその弟であるレオン)の堂々とした態度と謙虚な心には好意を寄せていたものの、スターとして扱うことはなく、リーにとっては、その点が不満でもあり、悩みの種でもあった。彼は、日本のプロ野球史上最高の生涯打率を持つ者に付与されて当然と思われる権利と栄誉を、喉から手の出るほど求めていた。日本人のスター選手に新聞記者が殺到するのと同様、自分のところへも意見を求めにきてほしいと思っていたし、引退したときには、監督やコーチの依頼がくることを期待した。少なくとも、川上哲治や山本浩二と同じように、野球評論家として新聞のコラム欄を持ちたいと思った。しかし、日本人は、彼に何も与えようとはしなかったのである。
「まったく信じられないよ」といったときのリーの声には、痛々しいほどの悲しさがにじんでいた。「誰も10年間で3割2分の成績なんて残せないよ。なのに、あっさりポイと捨てられておしまいだ。ひとりの男をこんなふうに扱うなんて、誰にもできないはずだよ」

 日本語も堪能だったのに、〝ガイジン〟であるリーにはずっとお呼びがかからなかった(引退して16年もたった2003年にバファローズのコーチ→監督になっているが)。




 日本プロ野球は、〝ガイジン〟を求めていないのだ。できることなら、日本人だけでやりたいとおもっている。そして、その差別意識を隠そうともしない。

 1986年には、朝日新聞が「ガイジン選手は必要か?」というアンケート調査の結果を公表した。それによると、プロ野球ファンの56パーセントがイエスと回答した。が、選手でイエスと回答したのはわずか10パーセントであり、球団のオーナーは12人中たった4人しかなく、監督にいたってはゼロという数字が出た。しかも、ノーという回答の最大の理由としてあげられていたのは、金がかかりすぎるということでもなければ、若手選手が活躍の場を失うということでもなく、さらにトラブルを引き起こすからということでもなく、ただ単に「日本人だけのチームが理想的」という、まるでデルフォイの神殿の神託のように曖昧模糊としたものだったのである。

 三十年以上たった今ではさすがにここまでではないとおもうが、それでもバレンティン選手の本塁打記録が一斉に無視されているのを見ると、今でもこういう意識は根強いようだ。

 なにしろ、中心選手でも〝助っ人〟呼ばわりするのだから。まるで派遣社員のごとく。


 このあたりも相撲界と似ている。

 2017年に稀勢の里関が横綱昇進を決めたとき「貴乃花以来の日本出身横綱!」と騒がれた。なんて失礼な話だろう。その間、横綱として相撲界を支えた武蔵丸や朝青龍や白鵬や日馬富士や鶴竜が、まるで正統な横綱でないかのような扱いをされたのだ。

 ちなみに武蔵丸は横綱昇進したときは既に日本に帰化していた。れっきとした日本人横綱だったのに、それでも傍流扱いをされた。なんてひどい差別なのだろう。




 結局、日本人(国籍が日本なだけでなく、日本生まれ日本育ちで日本語を話す人)にとっては外国人はよく言えば「お客様」、悪く言えば「よそ者」なんだよね。グローバル化だのなんだの言っても。だからこの期に及んでまだ「移民受け入れは段階的に」なんて悠長なことを言っている。ぼくからすると、外国人だらけになるより老人だらけの国になるほうが百倍困るんだけどなあ。

 日本人のほとんど(もちろんぼくも含めて)がうっすらと持っている差別意識に気づかせてくれるいいノンフィクションだった。なにより、書かれているエピソードのひとつひとつがめっぽうおもしろいしね。


 なにがおもしろいって、かなりあけすけな筆致で描かれていること。外国人だからだろう、遠慮がない。もっといえば口が悪い。

 1967年、広島県の高校を卒業した村田は、パシフィック・リーグのロッテ・オリオンズという、日本でいちばん人気のないチームにドラフトで指名され、入団した。
 オリオンズの本拠地は大気汚染がひどい川崎という工業都市で、そこにある川崎球場はいつも観客が少なく、終戦直後に建てられたままのスタジアムは長い年月の風雨にさらされ、かなり老朽化していた。おまけにグラウンドもひどく、外野の芝は剥がれ、地面はでこぼこに波打ち、ロッテ・ナインは、まるで草野球をやってるみたいだ、と不満をこぼしていた。

 はっはっは。こんな文章は日本野球界の人間には書けないよなあ。


【関連記事】

【読書感想文】インド人が見た日本 / M.K.シャルマ『喪失の国、日本』

【読書感想文】逆に野球が衰退しない理由を教えてくれ / 中島 大輔『野球消滅』



 その他の読書感想文はこちら