2019年1月31日木曜日

【読書感想文】"無限"を感じさせる密室もの / 矢部 嵩〔少女庭国〕

〔少女庭国〕

矢部 嵩

内容(e-honより)
卒業式会場の講堂へと続く狭い通路を歩いていた中3の仁科羊歯子は、気づくと暗い部屋に寝ていた。隣に続くドアには、こんな貼り紙が。卒業生各位。下記の通り卒業試験を実施する。“ドアの開けられた部屋の数をnとし死んだ卒業生の人数をmとする時、n‐m=1とせよ。時間は無制限とする”羊歯子がドアを開けると、同じく寝ていた中3女子が目覚める。またたく間に人数は13人に。脱出条件“卒業条件”に対して彼女たちがとった行動は…。扉を開けるたび、中3女子が目覚める。扉を開けるたび、中3女子が無限に増えてゆく。果てることのない少女たちの“長く短い脱出の物語”。

(ネタバレ含みます)

女子中学生が意識を失い、気づいたときには閉ざされた部屋の中にいた。ドアには貼り紙。
“ドアの開けられた部屋の数をnとし死んだ卒業生の人数をmとする時、n‐m=1とせよ”

……と、コンビニに置いてある安っぽいマンガみたいな手垢にまみれた導入だなと思っていたが、さすがは奇才・矢部嵩。安易なデスゲームにはさせない。

米澤穂信『インシテミル』を読んだときにも感じたんだけど、そんなに都合よくサバイバルゲームはじまらねえだろっておもうんだよね。
ふつうの人にとって「人を殺す」って相当なハードルの高さだよ。極限まで追い詰められないと殺し合いなんてはじまらねえよ。「(文字通り)死んでも人は殺さない」って人も相当するいるとおもうよ。「殺られる前に殺るのよ!」なんて発想にいたるのはむしろ少数派なんじゃねえの?
なのにフィクションの世界だと、変なマスクかぶった人が「さあゲーム(殺し合い)の始まりです!」と言うだけで、あっさりその無理めな設定が通用してしまう。

こういうところに常々不満を抱いていたので、〔少女庭国〕の展開には感心した。
“ドアの開けられた部屋の数をnとし死んだ卒業生の人数をmとする時、n‐m=1とせよ”
の貼り紙に気づいた女生徒たちは、けれどいっこうに殺し合いをはじめない。
いつ始まるんだと思っていると、ついに殺しがはじまるが詳細な描写はなくたったの数行であっさり説明されるだけで、そのまま話は終わってしまう。
ん? なんだこりゃ? 幽遊白書の魔界統一トーナメントか?

……と思っていたらはじまる第二章。
そこにはまた別の部屋に閉じこめられた女子中学生がおり、壁にはやはり貼り紙が。

これが延々続く。
この世界では部屋は無限にあり、閉じこめられた女子中学生も無限に存在する。
となると、女子中学生がとる行動も無限にあるわけで、〔少女庭国〕はその ”無限” を書いてみせる。

二人で殺しあう世界もあれば、十人で殺しあう世界もある。殺しあわずにそれぞれ死んでゆく世界もあれば、どんどん人や土地が増えてゆく世界もある。
中にはこんな一大文明が発達する世界も。
 フィクションの他では語り部が芸能として親しまれた。現世の景色を忘れかけるほど長くこの地で過ごしてしまったものに対し目に浮かぶように在りし日の自分たちを思い出させる語り部の存在は貴重だった。聞けば思い出すしかし自分からは掘り起こせないような些細な日常や学校や町の記憶を引き出すことの出来る饒舌なべしゃりと豊富なあるあるネタの持ち主はとりわけ希少で、歌、絵などのトップレベルのものと並んで人気を集めた。いずれも初めは労働階級のガス抜きとしての意味合いが大きかったが、やがて暇を飽かすようになった支配者層が芸の上手を囲い込み独占したり、特に気に入った芸者のパトロンとなって庇護したり、抱える芸人の質や量で権威を示したり、それらの女子を集め社交を行うようになっていった。奴隷階級から一芸を示しランクアップを果たす例もあり、そうした一連の風潮から娯楽の作り手を志願するものが大量に生まれ、最終的には需要を供給が上回る様相を呈し、花形の裏で人気のない作り手から順に食われていく生存競争を生んだ。研究班も娯楽係も後室の卒業生が奴隷身分から抜け出すようなシステムを生み出す契機となったが、そのことは次第に社会基盤の弱体化を招いていった。

もちろん本のページは有限なので実際には有限なのだが、ありとあらゆる行動パターンが書かれることで、まるで無限の選択肢をすべて提示されたかのような気になる。

「クローズドな世界」を描いていたはずなのに、気づいたら時間も場所もシチュエーションもどんどん拡大して、いつのまにか無限を目の当たりにしているのだ。
なんともすごい小説だ。よくこんな奇天烈な話を書こうと思ったし、出版しようと思ったものだ。

とはいえ、「すごい」と「おもしろい」はまたちがうわけで、物語としておもしろかったかというとそれは微妙なところでして……。

2019年1月30日水曜日

【読書感想文】部活によって不幸になる教師たち / 内田 良『ブラック部活動』

ブラック部活動

子どもと先生の苦しみに向き合う

内田 良

内容(Amazonより)
「自主的、自発的な参加」に基づく、教育課程外の制度である部活動。しかし、生徒の全員加入が強制され、土日も行うケースは珍しくない。教師も全員顧問制が敷かれ、サービス残業で従事する学校は多い。エビデンスで見る部活動のリアルとは?強制と過熱化から脱却するためには?部活動問題の第一人者、渾身の一冊!週に3日2時間!土日は禁止!「ゆとり部活動」のすすめ。

ぼく自身、「熱心な部活動」とはあまり縁のない学生生活を送っていた。

中学校では陸上部。
陸上部というのは基本的に個人競技なので、運動部のわりに「やりたいやつはやればいい」という雰囲気が強い。リレーや駅伝を除けば、サボっても自分の成績が悪くなるだけだから。
顧問があまり熱心でなかったこともあって、ほどほどに手を抜きながらやっていた。

高校では「ちょっとおもしろそう」ぐらいの軽い気持ちでバドミントン部に入ったものの、コーチ(顧問とはべつにコーチなる存在がいた)が怒鳴りまくっている部だったのでこりゃたまらんと思って二週間で退部した。こっちはべつに全国大会に行きたいわけじゃなく羽根つきを楽しみたいだけだったのだ。
で、野外観察同好会という部(同好会という名だが一応部扱いだった)に入会。ここは居心地が良かった。なにしろ三年間で活動日が四日しかなかったのだ。最高。

かくして高校時代は友だちの家でだべったり、勝手に弓道部にまぎれこんで気楽に弓をひいたり、本屋に足しげく通ったり、陸上部にまぎれて走りたいときだけ走ったり、公園でサッカーや野球やテニスやバドミントンをしたり、学校近くの川でパンツ一丁になって泳いだり、最高の放課後生活を送っていた。
あんな充実した時間はもう味わえないだろう。部活をやらなくて心底よかったと思っている。



というわけで個人的には部活反対派だが、他人に「やめなよ」とは言わない。やりたい人は好きにしたらいいと思う。
中学生のときは「部活をやらないと内申点が……」みたいな脅し文句を聞いて真に受けていたが、今思うとくだらないと思う。内申点なんて「同じ点数だったら部活を真面目にやってたほうを合格させる」ぐらいの話だろう。受験のために部活をやるんだったらその時間に勉強するほうがずっと効率的だ。

しかし「部活はやりたい人だけやればいい」というのは生徒の話であって、教師にとって部活はそう言えるものではない。

仲の良い友人がいた。月に一、二度は遊ぶ間柄だった。酒の席が好きで、飲み会に誘えばよほどのことがないかぎりは来てくれた。
だが彼が公立高校の教師になってからはほとんど会っていない。年に一度も会わない関係になってしまった。
なにしろまったく時間がないのだから。
平日は遅くまで仕事、土日も部活。平均すると週に6.5日ぐらいは仕事をしないといけないと言っていた。これでは遊ぶ時間などとれるはずがない。

彼はろくにやったこともないバスケットボール部の顧問にさせられ、土日も部活に参加。
もらえるのは交通費と昼食代で消えてしまう程度の手当だけ。
「そりゃひどいな」とぼくは言ったが、彼は「若手は断れないからなー」とむなしそうにつぶやくだけだった。
彼は部活によって不幸になっているように見えた。

彼だけが特殊なのではない。ごくごく平均的な教師の姿だ。
 想像してほしい。もし職場の上司からあなたに突然、「明日から近所のA中学校で、バレー部の生徒を指導してほしい」とお願いがあったら、あなたはどう返すだろう?
 「私には、そんな余裕ありません」とあなたが答えれば、「いや、もうやることになってるから」と返される。「バレーなんて、ボールをさわったことくらいしかないです」と抵抗したところで、「それで十分!」と説得される。
 そして条件はこうだ──「平日は毎日夕方に所定の勤務時間を終えてから2~3時間ほど無報酬で、できれば早朝も所定の勤務が始まる前に30分ほど。土日のうち少なくとも一日は指導日で、できれば両日ともに指導してほしい。土日は、4時間以上指導してくれれば、交通費や昼食代込みだけど一律に3600円もらえるから」と。
こんなむちゃなことが日本中の学校でまかりとおっている。



部活と教師をめぐる問題については、大きくふたつある。

ひとつは「やりたくなくてもやらないといけない」という問題であり、
もうひとつは「やりたい人がどこまでもやってしまう」という問題だ。

いやいややらされるのもよくないが、どこまでもやってしまうのもよくない。必ずどこかにひずみが出る。

『ブラック部活動』には、教師のこんな言葉が紹介されている。
だって、あれだけ生徒がついてくることって、中学校の学級経営でそれをやろうとしても難しいんですよ。でも、部活動だと、ちょっとした王様のような気持ちです。生徒は「はいっ!」って言って、自分についてくるし。そして、指導すればそれなりに勝ちますから、そうするとさらに力を入れたくなる。それで勝ち出すと、今度は保護者が私のことを崇拝してくるんですよ。「先生、飲み物どうですか~?」「お弁当どうですか~?」って。飲み会もタダ。「先生、いつもありがとうございます」って。快楽なんですよ、ホントに。土日つぶしてもいいかな、みたいな。麻薬、いや合法ドラッグですよ。
これはたしかに気持ちがいいだろう。だから他のことを投げ捨ててでものめりこんでしまう。

なぜ歯止めがきかないのか。それは部活が「グレーな存在」だからだ。
授業に関しては教育方針が細かく定められている。週に何時間、年間に何時間、どういった教科書を使ってどこまでやるのか。日本全国の公立中学校でほぼ同じ教育が受けられるようになっている。

だが部活に関しては明確な規定がない。形式としては「放課後の時間を利用して教師と生徒が勝手にやっている」という扱いだ。
規定がないということは限度がないということだ。朝五時から夜の十時までやったとしても、生徒・顧問・保護者がそれぞれ納得しているのであればそれを規制する決まりはない。
どんなに熱心な教師が訴えても「数学の授業時間を週三十時間にしてください!」という要望は通らないが、野球部の練習を週三十時間やれば熱心な先生だと褒めたたえられる。

ぼくの中学生時代、前日の部活や朝練で疲れはてて、授業中に寝ている生徒が多かった。
学生の本分は学業なのだから、勉強に支障の出るような部活はするべきではない。
教師だって部活に割く時間があるのなら休息するなり授業をより良くすることに使うほうがいいはずだ。
こんなあたりまえのことが守られていないのが現状だ。

明らかに狂っているのだが、あまりにも長く続きすぎていて、深く関わっている人ほど狂っていることに気づけなくなっている。



最近、あちこちの学校で教師が不足しているという話を聞く。
そりゃそうだろう。ぼくにとって教師なんてぜったいにやりたくない職業のひとつだ。子どもに何かを教えることは好きだが、そのために自分の時間や命を削りたくない。
 勤務時間が週60時間というのは、おおよそ月80時間の残業に換算できる((60時間-40時間)×4週間)。そして週65時間の勤務つまり月100時間の残業を超えるのは、小学校で17.1%、中学校で40.7%にのぼる(図1の②よりも下方に位置する教員)。多くの教員がいわゆる「過労死ライン」の「月80時間」「月100時間」を超えていることになる。
 基本的に小中ともに厳しい勤務状況である。そのなかでもとりわけ、中学校教員の6割が「月80時間」の残業というのは、まったくの異常事態である。
半数以上が過労死ラインを超えている職場。
誰がどう見ても異常だ。制度に欠陥があるとしか考えられない。
しかし外から見たらどれだけ異常であっても、渦中にいる教師たちにとってはこれが日常なんだよね。

もちろん月80時間の残業のすべてが部活のせいではないが、半分以上は部活が原因だろう。
一刻も早く教師から部活指導の義務をひっぺがしてやらないと、教師が疲弊し、人員は不足し、学校教育は劣化してゆく。誰も得をしない。

こうして部活指導に警鐘を鳴らす本も出て、少しずつ世の中は変わりつつあるように見える。
ぼくは、部活を断る教師を応援したい。

学校は勉強をするところなんだから、教師も生徒も、部活ではなく勉強で評価される"あたりまえ"の学校になってほしいなあ。

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2019年1月29日火曜日

【読書感想文】そう、"まだ"なだけ / 『吾輩は童貞(まだ)である』

吾輩は童貞(まだ)である

童貞について作家の語ること

筒井康隆 平山夢明 中島らも 原田宗典 武者小路実篤 谷川俊太郎 森鴎外 小谷野敦 室生犀星 中谷孝雄 結城昌治 開高健 車谷長吉 穂村弘 しんくわ 寺井龍哉 みうらじゅん 横尾忠則 澁澤龍彦 三島由紀夫 川端康成 バカリズムのオールナイトニッポンGOLD

収録作品
・筒井康隆 「現代語裏辞典」
・平山夢明 「どんな女のオッパイでも、好きな時に好きなだけ自由に揉む方法」
・中島らも 「性の地動説」
・原田宗典 「夜を走るエッチ約一名」
・武者小路実篤 「お目出たき人(抄)」
・谷川俊太郎 「なんでもおまんこ」
・森鴎外 「青年(抄)」
・小谷野敦 「童貞放浪記」
・室生犀星 「童貞」
・中谷孝雄 「学生騒動」
・結城昌治 「童貞」
・開高健 「耳の物語(抄)」
・車谷長吉 「贋世捨人(抄)」
・穂村弘 「運命の分岐点」
・しんくわ 短歌
・寺井龍哉 短歌
・みうらじゅん 「東京アパートメントブルース」
・横尾忠則 「コブナ少年(抄)」
・澁澤龍彦 「体験嫌い」
・三島由紀夫 「童貞は一刻も早く捨てろ」
・川端康成 「月」
・バカリズムのオールナイトニッポンGOLD 「エロリズム論」

武者小路実篤、森鴎外、三島由紀夫、川端康成などの文豪から童貞界の大家であるみうらじゅんまで、さまざまな人たちが「童貞の思い」について書いた文章を集めたアンソロジー。
なかなか読みごたえがあった。どんな文豪においても「童貞卒業」というのは男の一生において避けては通れないメインイベントなのだ。
いいアンソロジーだ(しかし編者の名前がないのはなぜ?)。



まずこのタイトル『吾輩は童貞(まだ)である』についてだが、実にいいタイトルだ。童貞と書いて"まだ"と読ませるのはすごく優しい。
そう、「まだ」なだけなんだよね。だけど童貞にとっては童貞と非童貞の間にはマリワナ海溝より深い断絶がある。童貞にとっては、「一線」を超えた先にはめくるめく夢の世界が広がっているような気がするのだ。

このごろは聞かなくなったがぼくが子どものころは、知的障害児のことを「知恵遅れ」と言っていた。
今だと差別用語なのかもしれないが、「知恵遅れ」には「差はあるが決定的な断絶があるわけではない」というような寛容さを感じる。乳歯が抜けるのが遅い子や声変りが遅い子がいるように、違いはあれど彼我は地続きになってるというニュアンスを感じる。
「健常者」「障害者」と分けてしまうと、もうまったくべつの人間、という感じがしてしまう。当事者がどう思うかは知らないけど。

「童貞(まだ)」にも同じような寛容さを感じる。



中島らも『性の地動説』より。
そして、そこには今まで僕たちが見聞きしていた「肉体関係を結ぶ」だの「体を合わせる」だの「抱く」だの「寝る」だのの文学的抽象的表現はなくて、「陰茎を膣に挿入する」ということがはっきりと書かれていた。子供たちはみんな一様にショックを受けたようだった。一瞬の沈黙が通り過ぎたあとに、けんけんごうどうの大論議が始まった。まず最初に出た意見は、「これは嘘だ」というものだった。たとえば小説や映画の中では忍術や魔法やSFなどに超常的現象がたくさん出てくるが、現実にはそんなことは起こらない。それと同じで、この石原慎太郎の書いていることは、想像力が生みだした小説上のフィクションだという説である。なぜならば、そんなえげつないことを人間がするわけがない。おしっこをするところにそんなものがはいるわけがない。そんなことをしたら相手の女の人は血が出て死んでしまうにちがいない、というのである。この意見には多くの子がうなずいた。一人、中世の地動説に近いような説を持ち込んだ松野君はたいへんな苦況に立たされたのである。必死になって論厳しようとするのだが、いかんせん松野君が握っている証拠はこの石原慎太郎の本一冊だけである。自説を証明するには決定的にデータが欠けているのだった。
ぼくも小学四年生のときに同じような論争をしたことがある。
なぜか男女数人で話しているときに「セックスって知ってるか?」という話になったのだ。その場にいた誰もが、セックスに関する正確な知識を持ちあわせていなかった(知らないふりをしていただけかもしれないが)。

そこで我々が出した知識は
「男と女が重なるらしい」「すっぽんぽんでやることらしい」「エックスの字に交わるそうだ」
というものだった。
”エックスの字” に関しては完全なるデマだが、たぶん ”セックス” という音に引っ張られたガセネタなのだろう。

そして、「そんなことして何がおもしろいんだ?」と口々に言いつつ、ぼくの内心には「何がおもしろいのかはわからんがやってみたい」という思いが湧いてきていたのだった。
その気持ちはそれ以後もずっとぼくの中にある。父親となった今でも、何がおもしろいのかわからない。でもやってみたい。



三島由紀夫は『童貞は一刻も早く捨てろ』の中でこう書いている。
 そもそも男の人生にとって大きな悲劇は、女性というものを誤解することである。童貞を早く捨てれば捨てるほど、女性というものに関する誤解から、それだけ早く目ざめることができる。男にとってはこれが人生観の確立の第一歩であって、これをなおざりにして作られた人生観は、後年まで大きなユガミを残すのであります。
この意見にはぼくは反対だ。
たしかに童貞は女性というものを誤解している。だが童貞を卒業したからといって女性が理解できるようにはならない。

はじめてセックスをした男は「この程度のもんか」と思う。
しかし、そこから「この程度のものに人生の多くを費やすのはもったいない」と思う男はそう多くない。
「この程度のものならもったいをつけずにどんどんやればいい」と思う。または「今回はこの程度だったがどこかにもっとすばらしいセックスが待っているのではないか」と夢見る。
童貞の誤解から解けても、男は一生勘違いをしつづける生き物なのだ。

だから、いろんな作家が童貞について語るこの本を読んで「あーそうそう。こんな気持ちなんだよね」と思うけれども、「ほんと童貞のときってバカだったよなあ」と笑い飛ばすことができない。だって今も同じような気持ちを持ちつづけてるんだもん。

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2019年1月28日月曜日

【DVD鑑賞】『悪の教典』

『悪の教典』

(2012年)

内容(Amazon Prime Videoより)
「2010年ミステリーベスト10」、「このミステリーがすごい!2011」でともに第1位を獲得した貴志祐介原作『悪の教典』を、鬼才・三池崇史監督が映画化。高校教師・蓮実聖司は、自らの目的のためには、たとえ殺人でも厭わない。そして、いつしか周囲の人間を自由に操り、学校中を支配しつつあった。全てが順調に進んでいた矢先、小さな綻びから自らの失敗が露呈してしまう。それを隠滅するために考えた解決策は、クラスの生徒全員を惨殺することだった…。 『海猿』で人命救助の海上保安官を演じた伊藤英明が、他人への共感能力を全く持ち合わせていないサイコパスの人格を持つ高校教師・蓮実聖司を演じる。生徒役には『ヒミズ』で、ヴェネチア国際映画祭で日本人初となる新人俳優賞をW受賞した二階堂ふみと染谷将太。 

小説がおもしろかったので鑑賞。
やはり上下巻あるボリュームの小説を二時間の映画にするのは相当無理がある。数十人の登場人物がいる話だし。
ぼくは原作を読んでいたのでかろうじてついていけたが、そうでない人には何がなにやらわからないだろうな。
少なくともアメリカのエピソードなんかはカットでよかった。
また「屋上に避難するように」というアナウンスは入れながら、それが罠だという説明をしないのはあまりに不親切だ。表面だけ映像化しているからこういうことになる。


なにより残念なのが、後半の学校での大量殺戮シーン。
三文オペラの軽快な音楽に乗せて蓮見教師が生徒たちを次々に殺していくところはこの映画の最大の見どころだと思うし、じっさいよくできている。殺戮シーンにこういう表現が適当かどうかはわからないが、痛快で楽しかった。生徒たちが誰ひとり立ち向かおうとせずに逃げまどうだけなのはリアリティに欠けるが。

だがこのシーンだけを切り取れば名シーンといえなくもないが、残念ながらこの作品の中ではとんでもなく浮いてしまっている。
なぜなら、蓮見教師が「楽しんで」殺戮をくりかえしているように見えてしまうから。

原作小説を読んだ人ならわかると思うが、蓮見教師は快楽殺人者ではない。ただ単に他人に対する共感能力をまったくもたない人間(サイコパス)であり、彼にとって殺人は単なる手段であって快楽でもなければ苦役でもない。
我々が「客が来るから家を掃除しなきゃ。めんどくさいけど、でもどうせ掃除するなら好きな音楽でもかけながらやろう」と思うぐらいの感覚で、蓮見教師は殺人をする。

そこが彼のおそろしさであり魅力なのだから、ここは何がなんでも丁寧に描かなければならない。
楽しそうに見えてしまったら凡庸な快楽殺人者にしかならない。
他の些事には目をつむるが、この点のみが大いに残念。
主役・伊藤英明の演技は「共感能力からっぽのイケメン好青年」にぴったりですばらしかったけどね。

あっ、あとエンディングのEXILEはひどすぎて笑うしかなかった。いやEXILEが悪いわけじゃなくて、この映画に合わなさすぎて。
だって学校で数十人の生徒が惨殺されるという事件が起こった直後に流れる歌が
「もっとポジティヴになってLive your life♪」だよ? 笑わせようとしてるとしか思えない。

サイコパス・蓮見よりもこの映画の主題歌をEXILEにしようと思ったやつの考えのほうが怖いわ。

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2019年1月27日日曜日

トイレに間に合わなかったときの辞世の句


誰しも辞世の句を詠みたいと考えているけど、なかなかむずかしい。

人はいつ死ぬかわからないし、どんな死に方をするかわからない。
「暴漢に刺されて徐々に遠のいてゆく意識の中で一句」みたいなのが辞世の句を詠むシチュエーションとしては理想だけど、こんな死に方はむずかしい。

死ぬ間際だったらうまくしゃべれないだろうし、頭もはたらかない。
そもそも転落死や溺死や轢死だったら句を詠む時間すらないだろう(転落死ならぎりぎり時間はあるかもしれないけどたぶん誰も聞いてくれない)。

だからぼくらが辞世の句を詠むとしたら、それは「トイレに間に合わなかったとき」をおいて他にない。



便意を催したのにトイレに間に合わないというのは、社会的な死といってもいいぐらいの出来事だ。

おまけに死はいつどんな形で訪れるかわからないが、「トイレに間に合わない」は数十分前には予感として持っているし、間に合わなかったときに起こる悲劇もだいたい同じだ。

辞世の句を詠むのにふさわしいシチュエーションといっていいだろう。

だが、トイレをさがして焦っているときは、辞世の句を考えている余裕などない。
だから平常時から考えておかねばならない。



正直にいってしまうと、辞世の句の内容はなんでもいい。
どんな言葉であろうと絶望的な表情を浮かべながら悲しく口にすれば様になる。

むずかしく考える必要はない。
シンプルに「すまない……」とか「ありがとう……」というだけでも十分辞世の句だ。
マンガの台詞を使って「燃え尽きたぜ……真っ白にな……」とか「きれいな顔してんだろ」なんてのもなかなかいい。
さわやかに微笑んで「悪くない人生だったぜ……」というのも美しい。トイレに間に合わなかったということを一瞬忘れさせてくれる。

やはりシンプルなのがいちばんいい。
あまり凝った俳句調のものだと、「こいつ前々から考えてたな」と思われてかえって白々しくなる。おまけに「そんなの考える暇があるなら早めにトイレに行っておけよ」と思われて同情してもらえない。
「板垣死すとも自由は死せず」なんてちょっとかっこつけすぎだもんね。板垣は刺されたとき死んでないし。

ちなみにトイレに間に合わなかったときにもっともふさわしいとぼくが思うのは、ベートーヴェンの最期の言葉である「諸君。喝采を。喜劇は終った」だ。

2019年1月25日金曜日

【読書感想文】アヘン戦争時の中国みたいな日本 / 岡田 尊司『インターネット・ゲーム依存症』

インターネット・ゲーム依存症

岡田 尊司

内容(e-honより)
最新の画像解析により、衝撃的な事実が明らかになった―インターネット依存者の脳内で、覚醒剤依存者と同様の神経ネットワークの乱れが見られたのだ。二〇一三年、アメリカ精神医学会も診断基準に採用。国内推定患者数五百万人の脳を蝕む「現代の阿片」。日本の対策は遅れている。

少し結論ありきで論調が進んでいて、データとしては疑わしいものも多い。
「スマホ依存の人ほど脳の活動が鈍い」みたいな話が再三出てくるが、因果関係が逆なのかもしれないし。

とはいえスマホやゲームにどっぷりはまるのは良くない、ということについては異論がないだろう。
スマホにかぎらずなんでもやりすぎはよくないのだが、スマホゲームに関しては「場所や時間を問わず使える」「依存しやすいように作られている」という側面もあるため、とくにはまりやすいし、深刻化しやすい。

ぼくから見ると、電車のホームでスマホゲームをしながら歩いている人なんかはもう完全に暇つぶしの域を越えていて依存症としか思えない。
歩きスマホをするぐらい熱中するのを依存症の定義としたら、日本人の二割ぐらいは依存症じゃないだろうか。
阿片戦争直前の中国は男性の四分の一がアヘン中毒だったといわれているので、もうそれに近いぐらいのスマホ中毒者がいることになる。

だがアヘンとちがい、スマホやゲームへの依存は今の日本では大きな問題になっていない。
 行為の依存症として最初に認められたのは、ギャンブル依存症である。ギャンブル依存症の場合も、疾患として認められるまでには時日を要したが、社会がその弊害を認識していたことで、まだ抵抗は小さかった。ただし、病名はできても、本当の意味で病気」だという認識は薄かった。それを変えたのが、脳機能画像診断技術の進歩である。それによって、脳の機能に異常が起きていることが明らかとなり、今では治療すべき疾患という認識が確立されている。保険適用を受けることもできる。
 それに対して、インターネット依存やゲーム依存の場合には、気軽に楽しめる娯楽や便利なツールとしてのメリットの部分が大きく、教育や社会、文化に恩恵をもたらす希望的な側面がむしろ強調されてきた。「社会悪」とされるギャンブルや麻薬といったものとでは、そもそもその位置づけが大きく違っていたのである。それだけに、ギャンブルや麻薬依存と変わらない危険性をもつなどということは、なかなか受け入れられなかったのである。
スマホやオンラインゲームは麻薬や覚醒剤のように法に触れるものではないし、タバコのように周囲に迷惑をかけるものではない。
それが逆に、依存症という問題を認識しづらくさせてしまう。


ぼくが前いた会社に、オンラインゲームによく課金をしている人がいた。
どれぐらい課金しているのか訊いたことがある。その人が「多い月だと十五万ぐらいいっちゃいますね~」と笑いながら話すのを聞いて、ぼくを含めその場にいた人たちはドン引きしていた。

後で「あれはヤバいよね」「ゲーム廃人じゃん」「しかもあの人結婚してて子どももいるのに」とみんなでささやきあった。
大金持ちなら月に十五万課金したって屁でもないんだろうが、同じ会社にいるぐらいだから給料もだいたいわかる。どう考えたって課金しすぎだ。
しかも額の多寡はあれど、毎月課金しているという。

だが、誰も本人に「やめたほうがいいですよ」とは言わなかった。
いい大人が自分の意思でやっていることなのだから他人がとやかく言うべきではない。それは大人としては正しいふるまいかもしれないが、すごく不誠実な対応だったではないだろうか。本人に嫌われてでも、止めてあげるべきだったのかもしれない。
どう考えたって月に十五万の課金はやりすぎだ。娯楽やストレス発散といった段階を超えている。

しかし仮にぼくが「ぜったいやめたほうがいいですよ」と言ったって、おそらく彼は「そうですね」と受け流して課金を続けるか、「余計なお世話ですよ」と言ってぼくと距離をとるかのいずれかだっただろう。
 一時的な熱中とは異なるまず理解しておく必要があるのは、単なる過剰使用と依存症は、質的に異なるものだということだ。離脱症状や耐性といった現象は、心理的なレベルというよりも、生理的な現象であり、身体的なレベルの依存を示す証拠とされるものである。そのレベルに達すると、報酬系の機能が破綻することで、理性的なコントロールは不能に陥り、快楽や利得より苦痛や損失が大きくなっていても、その行為をやめられなくなる。
「一過性の熱中なら、悪い影響が出てくると、その行為にブレーキをかけるというフィードバックが働く。ところが、依存症が進んでくると、このフィードバックの仕組みが失われ、「もうダメだ」「現実は嫌なことばかりだ」「もうどうでもなれ」と、逆にアクセルを踏んで、現実逃避を加速させることも多い。これが、結果のフィードバックの消失である。使用するためなら家族を欺くことも辞さず、現実の課題は後回しにし、学業や職業、果ては自分の将来を棒に振ってさえ、痛痒を感じなくなる。ここまでくると、それはただ「はまっている」というレベルの状態ではなく、完全な病気の状態なのである。脳の報酬系の機能に異常が起きていて、もはや放っておいても元に戻らない状態に陥っているのだ。
もうこれは完全に病気だ。
もうやっても楽しくない、でもやらないと苦痛を感じる。そしてやれば確実に悪い方向に行くとわかっていながら突き進んでいくのだから、破滅願望に近い。

こういう状態に陥っている人は、相当いると思う。そしてこれからもどんどん増えていく。
個人の問題ではなく社会問題として、法律で「月額課金上限額を〇円までとする」とか定めないかぎりは、依存症患者は増えていく一方だろう。
だがはたして政治家にそれができるのかというと、まあ無理だろうな……。ゲームをさせることは(短期的な)カネになるもんな。
長期的に見たら国家の大きな損失になるのはまちがいないんだけどな。


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2019年1月24日木曜日

愛国者アピール


愛国者を名乗るやつは国を愛していないと思うんだよね。

「ぼく家族大好きなんですよ」とわざわざアピールするやつって浮気するじゃん。偏見だけど。でもだいたいあってると思う。

大学生がイキって「うわーまじバイト忙しいわーキツイわー」って言うときってたいしてキツイと思ってないじゃん。多少は思ってるかもしれないけど、それを「忙しいのにがんばってるオレすげー」が凌駕してるわけじゃん。

首元までどっぷりボートレースにハマってるおじさんは「おれギャンブル好きなんだよね」とは言わないじゃん。ほんとに好きな人にとっては好きとか意識しなくなるわけでしょ。
「ギャンブル好き」っていうのって、中学生でしょ。中学生が背伸びして「ヤバイ、おれ競馬好きすぎるわー」とか言っちゃうわけでしょ。

家族でも組織でも地域でもいいんだけど、自分がどっぷり浸かっているものに対して「好き」という感情を持つことがもうウソだと思うんだよね。

だから自称愛国者は国を好きではない。せいぜい「好きになりかかっているところ」ぐらい。それか「国を愛している自分が好き」か。

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2019年1月23日水曜日

他人に期待すること


娘のともだちのおかあさんと話してたんだけど、保育士の悪口をいっぱい聞かされた。

あの先生のああいう言い方はよくないとか、あの先生は笑っていても目が笑っていないから何を考えているかわからないとか、あの先生は頼りないとか。

ふうん、いろいろ思ってるんだなあ。
ぼくも毎朝保育園に娘を送っているのでいろんな先生を見ているけど、特に不満を感じたことはなかった。
「保育士って給料安いのにがんばってるなあ」ぐらい。

保育士の悪口を言うおかあさんの愚痴の内容にもうなずけるところはあるんだけど、しかしこの人は生きづらいだろうな。
だってさ。愚痴ってもしょうがないじゃない。何も変わらないじゃない。
保育士に不満があるなら直接言えよ。いや、ちがうな。言ったところでたぶん何も変わらない。関係が悪化するだけ。相手のモチベーションを下げるだけ。

だってぼくなら、仕事のことでド素人から「あなたのやりかた変えたほうがいいんじゃないですか」と言われても「うるせえよ」と思うだけだ。「おまえには見えてないだけでこっちにはこっちの事情があるんだよ。現状ではこれが最善なんだよ。だったらおまえやってみろよ」と思うだけだ。
素人の意見ひとつで反省して改めたりしない。そんな保育士いたら、そっちのほうがよっぽど信用ならない。



他人に変わってくれることを望むのは無駄だ。
可能性はかぎりなく低い。そんなものに賭けるぐらいなら、自分が変わるとか相手から離れるとか第三者にはたらきかけるとかしたほうがずっと早い。

ぼくは、保育士さんにかぎらずほとんど他人に期待しない。
娘に対しては「こうなってほしい」という思いはあるが、大人が変わることなんてまずないから「この人とはやっていけそうにない」と思ったら距離を置く。
さすがに妻とは距離を置くわけにはいかないから「〇〇してほしい」と伝えるが(そして却下されるが)、「だまって期待」はしないようにしている。無駄だから。

ぼくは他人に期待しない。
だからぼくに期待もしないでほしい。期待されても変わらんから。

だれもぼくに期待しないことを、期待する。

2019年1月22日火曜日

【漫才】歯ブラシの第二の人生


「歯ブラシが汚れてきたら、洗面所のせまいところとかガスコンロの周りとかを掃除する用に置いとくんだけどさ」

「うん。うちもそうしてる」

「だいたい一ヶ月に二本ぐらい歯ブラシを消費するのね。二人家族だから」

「うん」

「でも洗面所のすきまとかはそんなに掃除しないの。一ヶ月に一回ぐらい」

「うん」

「ということは、古い歯ブラシがどんどん溜まっていくわけよ」

「そうなるね」

「というわけで、今、うちには六十本ぐらい古い歯ブラシがある」

「そんなに!?」

「だって一ヶ月に二本買い替えるのに、掃除で使うのは月に一本だもん。一年で十二本増えるから、五年で六十本」

「捨てなよ」

「それが捨てられないんだよ」

「なんでよ」

「だってまだ掃除に使える能力があるんだよ。それを捨てるなんてなんかもったいないじゃん」

「でも歯を磨くためにはもう十分使ったんでしょ」

「せっかくだから第二の人生をまっとうさせてやりたいじゃない」

「そうはいっても二本ぐらい置いとけば十分でしょ。あとは捨てなよ」

「おまえそれ自分の親に対しても同じこといえるの?」

「は?」

「自分のお父さんが会社を定年退職して、これから老後の人生を楽しもうってときに、もう仕事人としては十分生きたんだから死ねっていえるの?」

「どういう怒られかたされてるのかわからない」

「今の日本は高齢化社会も高齢社会も通りこして、超高齢社会だよ。そんな時代にまだまだ働ける人材を活用しない手はないでしょ」

「歯ブラシの話してるんだよね?」

「だからおまえは自分の親が使いおわった歯ブラシになったとして、それでも捨てられるのかって聞いてんの」

「自分の親が使いおわった歯ブラシになるって状況がイメージできない」

「べつに親じゃなくてもいいよ。近所のおじさんでもいいし、なんなら自分が歯ブラシになることを想像してくれてもいい」

「いや誰だったらとかいう問題じゃない」

「とにかく、歯みがき用として使いおわった歯ブラシに活躍の場を与えてやりたいわけ」

「じゃあもっと掃除したら? 今は一ヶ月に一回のすきま掃除を、月に二回やるようにしたらいいじゃない。そしたら収支のバランスがあうじゃない」

「収支のバランスがあうだけじゃだめなんだよ。今使いおわった歯ブラシが六十本あるのに、これがいっこうに減らないじゃない」

「じゃあ毎週掃除しなよ。そしたら月に四本ずつ減っていくから、二年半で使用済み歯ブラシのストックがなくなるじゃない」

「洗面所のせまいすきまなんかそんなに汚れないのに、毎週やる必要ある?」

「しょうがないじゃない。ストックをなんとかしたいんでしょ」

「なんかさ、雇用を生みだすために無駄な公共事業を増やしてるみたい。そういうハコモノ行政の考え方が今の環境破壊を生んだんじゃないの?」

「どういう怒られかたされてるのかわからない」

「だから歯ブラシを消費するために掃除をするのは本末転倒だって話をしてんの」

「そうでもしないと歯ブラシなくならないんだからしょうがないじゃない」

「でもさ、洗面所を掃除するときは、まず掃除用のスポンジを使うんだよ。激落ちくんってやつ」

「あーあれよく汚れが落ちるね」

「激落ちくんでも届かないすきまを掃除するときにだけ、使用済み歯ブラシを使うわけ」

「うん」

「洗面所掃除を毎週するってことは、激落ちくんも毎週使うってことじゃない」

「うん」

「激落ちくんはわざわざお金出して買ってきてるんだよ。使用済み歯ブラシを消化するために、必要以上に激落ちくんを買わなきゃいけないんだよ。消費税を引き上げても消費者の負担が増えないように軽減税率を導入して、結果的に社会の負担コストが増えるみたいな話でしょ。そういう考え方が経済格差を招いてるんじゃないの」

「どういう怒られかたされてるのかわからない」

「使用済み歯ブラシに用途を与えるためだけにお金まで使いたくないってこと」

「だったら激落ちくんを使うのは従来通り一ヶ月に一回にして、すきまだけは毎週掃除するようにすればいいだろ。それだったら余計なお金使わなくていいじゃん」

「すきまはこまめに掃除するのに、広いところは汚れたままにしとくわけ? それってたばこ税を上げたりしてとりやすいところからは税金をとるくせに、法人税とか相続税とかもっと大きいところには手をつけないみたいなことだよね。そういう考え方が今の財政の不健全化を招いたんじゃないの」

「どういう怒られかたされてるのかわからない」

「大きな汚れは放置して小さな汚れだけ掃除するのは優先度がおかしいって言ってんの」

「じゃあ激落ちくんを使うのやめて、広いところも狭いところも歯ブラシで掃除したら? 歯ブラシ五本くらい束ねてごしごしやれよ!」

「それって労働力不足だから移民労働者を増やして、結果的に日本人の雇用が奪われるみたいな話だよね。そういう考えが若者の政治離れを……」

「どういう怒られかたされてるのかわからない!」

2019年1月21日月曜日

車は後戻りができない


車の運転がきらいな理由をいろいろ考えてたんだけど、やっぱり「まちがえたら引き返せない」ことがいちばんなんじゃないかと思う。

車って後戻りできないじゃない。
機能としてバックすることはできるけど、「あっここ右折だった。バックバック」ってやったらクラクションに怒られるか追突されるかのどっちかだ。

おまけに車道はトラップだらけだ。
ここは右折禁止ですとか、ここを曲がりたいんだったらもっと手前から右折専用レーンに入っとかないといけなかったんだぜ残念だったな坊や、みたいなトラップがそこかしこに仕掛けられている。
時速数十キロの速さで走りながら次々に迫りくる試練に対して正しい選択肢を選ばなくてはならないのだ。むちゃだ。

周囲の車も敵だ。
「いっけない、まちがえちゃった、右折右折!」とこっちがドジっ子丸出しで右折しようとしてるのに、ぜんぜん曲がらせてくれない。いじわる!

で、気づいたら高速に乗っていたりする。どこまで連れていかれるんだ?

ドライバーを苦しめるトラップの例



道をまちがえること自体はこわくない。
こっちはもう三十数年方向音痴をやってるんだ。歩いてたって自転車に乗ってたって、道をまちがえることなんて日常茶飯事だ。
今さらそんなことにびくつくようなタマじゃねえぜ。

だが徒歩や自転車の場合は、まちがえたと気づいたらすぐにやりなおしができる。
すぐさまリセットボタンを押して、セーブしたところからリスタートできる。

車を運転していて耐えられないのは、「まちがってると知りながら進まなきゃいけない」ことだ。
ちがう、ぼくの進みたいのはこの道じゃない、さっきのあそこを右折したかったんだ、わかってる、わかってるのにどんどん遠ざかる。

組織的な不正に手を染めている人はこんな気持ちだろうか。
この会社がやっていることは違法だ。わかっている。告発しなければ。だがここまで来たらもう引き返せない。いけないと知りつつ加担してしまっている。もっと早くに別の道を選んでいれば。

あるいはギャンブルにはまる人もこういう気持ちなのかもしれない。
さっきやめておけばよかった。使ってはいけない金に手をつけてしまった。ここで戻るわけにはいかない。だめだ、わかっている。これ以上やっても傷口は深くなるばかりだ。でももう戻れない。

車で道をまちがえるということは、不正に手を染めたりギャンブルで泥沼にはまるのと同じ、転落人生を歩むということだとこれでわかってもらえただろう。



なによりこわいのは、車の運転での判断ミスは、命にかかわる事態につながることだ。

運転時の判断を誤って、人を殺す。あるいは自分が死ぬ。
人の命にかかわるような自己を起こしたら、もう引き返しがきかない。
セーブポイントからやりなおしたいとどれだけ願っても、決してかなわない。

これこそが、車の運転における「まちがえたら引き返せない」の最たるものだ。

2019年1月18日金曜日

【読書感想文】今よりマシな絶望的未来 / 村上 龍『希望の国のエクソダス』

希望の国のエクソダス

村上 龍

内容(e-honより)
2002年秋、80万人の中学生が学校を捨てた。経済の大停滞が続くなか彼らはネットビジネスを開始、情報戦略を駆使して日本の政界、経済界に衝撃を与える一大勢力に成長していく。その後、全世界の注目する中で、彼らのエクソダス(脱出)が始まった――。壮大な規模で現代日本の絶望と希望を描く傑作長編。

村上龍という作家のキャラクターはあまり好きじゃないんだけど、この人の書く小説は超一流だと認めざるをえない。
うまい。序盤に出てくる「バランスの悪いシーソー」の比喩なんか絶妙の表現だ。
うまいだけじゃなく熱量もすごい。

中学生の反乱小説といえば、宗田理『ぼくらの七日間戦争』だ。
ぼくは中学生のときに『ぼくらの七日間戦争』を読んで、「なんかちがうな」とおもった。登場人物がみんなつくりものっぽいのだ。おっさんの頭の中にある理想の中学生、という感じがした。作者の「おれは大人だけど中学生の気持ちがわかるぜ」という感じが伝わってきて気持ち悪かった(恩田陸の『夜のピクニック』にも同じものを感じた)。

『ぼくらの七日間戦争』には、中学生のこわさ、残忍さ、不安がまるで書かれていなかった。意図的に書かなかったのかもしれないが、完全ファンタジーにしたいならキャラクターは中学生じゃなくて小学生のほうがいいと思う。


ぼくにとっていちばんこわい存在は、中学生だ。
以前、夜中に治安の悪い地域をひとりで歩いていたとき、道の向こう側から中学生の集団がやってきた。
二十人ぐらいの中学生が自転車に乗ってやってきて、ぼくとすれちがったのだ。
ただすれちがっただけなのに、めちゃくちゃこわかった。殺されるかもしれないとおもった。なぜなら相手が中学生だったから。
たとえば二十歳ぐらいの悪そうなやつとか本職のヤクザとかなら、存在としてはこわいけど「相手を刺激しなければ大丈夫だろう」とおもう。「よしんばつっかかってきたとしても、最悪、金を渡せばなんとかなるだろう」という気持ちもある。「話せばわかる」というか。こちらがめいっぱい譲歩すれば一応合意はできそうだ。

しかし中学生集団は何をするかわからない。何の理由もなく殴ってきそうだし、一度火が付いたらこちらが金を出したとしても許してくれなさそうな気もする。
力はあるのに損得だけで動かない(つまり何をするかまったく読めない)、それがぼくにとっての中学生のイメージだ。
じっさい、自分の中学生時代をふりかえってもそういうところがあった。
何か訴えたいことがあるわけでもなく、何かを手に入れたいわけではなく、なのに社会規範に反旗を翻したくなる。中学生とはそういう時期なのだ。

『希望の国のエクソダス』で描かれる中学生は、最初から最後まで大人にとって理解不能な存在だ。
彼らが何のために何をやろうとしているのか、とうとう最後までわからない。これはとても誠実な書き方だ。大人が中学生を理解するのは不可能だ。彼ら自身だってわかっていないのだから。
それは「体制への反抗」なんて言葉で片付けられない。反抗ならどちらに向かっているのかがわかりやすいが、中学生の行動は原子があっちこっちにランダムな運動をしているようなものだ。それは外から見ていると枠を広げようとしているようにも見えるが、原子自身にそういう意思は存在しない。



「この国には何でもある。ただ、『希望』だけがない」
『希望の国のエクソダス』で、国会に姿を現した中学生のポンちゃんがこう語るのは、作中時間で2002年のことだ。
彼らは学校に行くことをやめ、ネットワークをつくり、経済や技術的な力をつけてゆき、日本という国から距離をとろうとする。

さて今、現実の世の中は2019年。
状況は何も変わっていない。いや、悪くなっているのかもしれない。
不況は一応脱出したことになっているが、ほとんどの人の暮らしぶりは良くなっていない。少子化、高齢化、国家財政の悪化、年金制度の破綻、貧富の拡大。先を見ると悪い材料しかない。
「自分は今後いい生活を手に入れてみせる」と思える人はいても、「国民全体の暮らしがこれから良くなっていく」と信じている人はもう今の日本にはひとりもいないんじゃないだろうか。未来の生活が悪いというのは今が悪いよりも絶望的かもしれない。

ひと昔前は閉塞感という言葉が使われていたが、もう「閉塞」の段階すら通りすぎてしまった。悪い方向に転がっていくことが確定しているのだから。閉塞のほうがまだマシだったかもしれない。
 ポンちゃんは法律のことを話した。つい、二、三日前に由美子が話してくれたことに似ていた。人材の国外流出こそがこれからの最大の問題だと、その朝、由美子はヨーグルトにマーマレードを入れて食べながら言ったのだった。倒産や失業は深刻な問題だが、人材が残っていれば日本経済はいつか立て直すことができる。この数年で、日本の銀行や証券会社、精密機械や電気、化学産業などから、有能な人間が続々と逃げ出している。困ったことに、これからも日本に残っていて欲しい人材はど、海外でも仕事ができる。これからの日本に必要なのは、海外でも仕事ができるような何らかのスキルを持った人間たちだ。公共心がどうのこうのとたわごとを並べるだけのバカは本当は要らない。でも、彼らはどこにも行けないから、ずっとこの国にいるわけだ。どこの国でも何とか生きていけるような人間こそが必要なのだが、有能な人材の国外流出を止めるためには、気が遠くなるほどの時間をかけて法律をいじらなくてはならない。人材の国外流出が本格的に始まってしまったら、たぶんこの国の繁栄の歴史が本当に終わるだろう。
この文章を読んで、ぼくはどこか懐かしいような気がしていた。
そういえば二十年ぐらい前はこんな言説をよく耳にした。日本にいちゃだめだよ、これからは海外に出ていかないと。

でも今、そんなことを言う人はすっかり減った。たぶん理由は三つ。

ひとつは、誰にとってもあたりまえすぎてあえて言う必要がなくなったこと。日本が今後力を持つことなんてありえないと誰もが知っているから。

ふたつは、そういうことを言う人たちはもうとっくに日本から出ていってしまったこと。今の日本には世界に出ていけない人しかいない。

そしてみっつめは、海外に出たって似たりよったりな状況だと気づいていること。日本の未来はたしかに暗澹たるものだが、他の国だって遅かれ早かれ同じ状況に陥ることが目に見えている。



村上龍氏が『希望の国のエクソダス』で指摘した日本の病理は、哀しいかな、一部では的中し、一部ではもっとひどい状況になった。
『希望の国のエクソダス』の中学生たちはインターネットを駆使して日本経済のありかたに一石を投じる。当時はまだインターネットは危険なものであると同時に希望だったのだ。
しかし情報の高速化・簡便化・グローバル化は、力のある者により大きな力を与えるということがわかってきた。この流れは当分変えられないだろう。

ああもう考えるほど絶望的な気持ちになってくる。目を背けたくなってくる。

……と、そうやってみんなが未来から目を背けつづけてきた結果が今の日本の状況なんだろうな。

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表現活動とかけてぬか漬けととく/【読書感想エッセイ】村上 龍 『五分後の世界』



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2019年1月17日木曜日

『ホーム・アローン』と己の成長


五歳の娘といっしょに『ホーム・アローン』を観る。

「なんだかつまらない。ディズニーがよかった」と娘がいうのを、
「もうちょっと待ったらすごくおもしろくなるから」と説得しながら。

「ほら。この子が家にひとりで置いていかれちゃったんだよ」
「おかあさんはケヴィンを置いてきちゃったことにまだ気づいてないよ」
「この人たちは悪い人で、ケヴィンの家に泥棒に入ろうとしてるんだよ」
と解説をしながら。

そういえばぼくがはじめて『ホーム・アローン』を観たときも(小学生だった)、父がストーリーを説明してくれたっけ。

途中まで退屈そうにしていた娘も、後半になってケヴィンが泥棒をやっつけるところでは大爆笑。
げらげら笑いながら楽しんでいた。

「ほらね、おもしろかったでしょ」とぼくも満足した。



中学生のとき、友人三人と「カルキン・クラブ」というクラブを結社していた。

カルキンとは『ホーム・アローン』の主役だったマコーレー・カルキンのこと。
『ホーム・アローン』で一躍スターになったカルキン坊やの家庭が、大金を手にしたことで家族内に不和が生じて一家離散し、カルキンも後に薬物の不法所持で逮捕されたという絵に描いたような転落人生を送ったことを知ったぼくらは、それをおもしろがって「カルキン・クラブ」をつくったのだ。中学生とはなんて残酷なんだろう。

「カルキン・クラブ」の活動は、たまに誰かの家に集まってビデオを観ること。
はじめは『ホーム・アローン』『ホーム・アローン2』『リッチー・リッチ 』など、マコーレー・カルキン主演の作品を観ていたが、そのうちカルキンとは無関係の映画を観る会になった。

そんなわけで、ぼくは今までに『ホーム・アローン』を何度も観ている。



純粋におもしろがっていた小学生時代、
「主演子役の転落人生」という裏側を意地悪く冷笑していた中学生時代、
そして子どもの反応を楽しむようになった今。

いろんな楽しみ方ができる『ホーム・アローン』は名作だ。


2019年1月16日水曜日

人を動かした教頭


仕事でもアルバイトでも部活でも町内会でも同じだけど、人を動かすことはむずかしい。

「人を動かす」を「なめられないようにする」と同義だと信じている人がけっこういる。

ぼくが前いた会社の上司は、まさにそういう人だった。
ぼくはチームリーダーを任されていたが、チームはまるでまとまりを欠いていた。ミーティングなんてしないし、飲み会もしないし、メンバー同士が仕事以外で口をきくことはほとんどなかった。ぼくも含め、ほとんどの社員が適度にサボっていた。
しかし業績は良かった。
ぼくがやっているWebマーケティングの仕事は、成果が数字ではっきり出る。広告費と時間をどれだけ投じてどれだけの成果が上がったかが数値で確認できる。前の期よりも成果のいい状態が続いていた。

業績がいいんだからなにも文句はあるまいと思っていたのだが、上司にとってはぼくのやり方は気に入らなかったらしい。
「もっとミーティングをしろ」
「チーム内でコミュニケーションをとれ」
「飲みにいくのも仕事のうちだ」
そういって上意下達の組織に作り替えようとした。かくしてメンバーのモチベーションはがた落ちし、退職者が相次ぎ、ぼくも退職した。その後のことは知らない。

上司は、「メンバーがだらだら仕事をしているけど業績のいい組織」よりも「業績が悪くてもメンバーが明るく活発に動いている組織」にしたかったらしい。



ぼくが中学生のときの話。

掃除の時間にぼくらが遊んでいると、教頭先生がやってきた。
「まずい、怒られる」
とおもった。しかし教頭先生は怒らなかった。

「さっ、掃除しようぜ!」
そう言って、ぼくにほうきを手渡すと、自分は床の雑巾がけをはじめた


今考えてもすごい人だとおもう。
サボっている中学生にほうきを渡して自分が雑巾がけをできる教頭先生が日本に何人いるだろうか。

効果はてきめん。
ぼくらはまじめに掃除をした。その日以降もずっと。
「あの人にもう雑巾がけをさせるわけにはいかない」という思いがぼくらを動かしつづけた。

「まじめに掃除やれ!」と怒鳴られたら、そのときはまじめにやる(ふりをする)が、その先生がいないときにはまたサボるだろう。
だが自ら先陣を切って雑巾がけをした教頭先生は、ぼくらの考え方を変えた。



子育てでも同じだ。
いろんな親を見ていると、「親の威厳を示す」が最高目標になっている人がけっこういるように思える。
子どもになめられない。自分の言うことに従わせる。それがいちばんの目標。

でもそんなの無理に決まってる。
自分が子どものころを思いかえしたって、親の言うことに唯々諾々と従っていたのなんて二歳までじゃないかな(二歳までの記憶ないけど)。

だから、親のことをなめきっていようが、見くびっていようがかまわない。
「ちゃんとお片づけをしてほしい」と望むのなら、「お片づけをしたほうが得だ」とおもわせるように導く。
「勉強を自発的にやってほしい」と願うのなら「勉強って楽しい」とおもってもらえるような話し方を心がける。
それがいちばん合理的なやり方だ。

ぼく自身、子育ての真っ最中なので自分がうまくできているかはわからない。
でも、少なくとも娘に対しては「言うことを聞かせる」ではなく「自分で動いてもらう」ような言い方を心がけている。

「片付けなさい」じゃなくて「さあおもちゃがなくならないように片付けしようぜ!」と言うし、「本を読みなさい」ではなく「本読んでもいいよ」と言うようにしている。
あの教頭先生のやり方を見倣って。

……とはいえ、時間がなくて自分自身に余裕のないときは「早くお着換えしなさい!」って言っちゃうんだけど。


2019年1月15日火曜日

大人の女が口笛を吹く理由


あたしが口笛を吹いていると「よく吹けるね」と言われる。

褒められているわけではないことぐらいはわかる。半分ばかにされていて、もう半分は小ばかにされているのだ。つまり七十五パーセントばかにされていることになる。

ばかにされる理由はふたつ。


ひとつは、大人の女なのに口笛を吹くこと。

ふつう、大人の女は口笛を吹かないらしい。口笛は子どものもの。あるいは男のもの。誰が決めたわけでもないけどそういうことになっているらしい。
口笛を吹くシチュエーションといえば、「いい女とすれちがったときにピュウ~と吹く」とか「アメフトの試合でいいプレーをした選手をたたえる」とか「アルプススタンドで沖縄代表を応援する」とかで、たしかにどれも男くさい。アルプススタンドのやつは口笛じゃなくて指笛だったような気もするけど、まあおなじようなもんだ。


もうひとつは、あたしの口笛がへたなこと。

まだうまかったらいいんだろうけどね。
でもあたしの口笛って音程もとれないし、ふひゅう、ひゅうすうと空気の漏れるような音がする。へたなことは自分でもわかっている。でも嫌いじゃない。


どっちの理由についても、あたしの反論はおなじだ。
「うるせえよ」

仕事として給料をもらって口笛を吹いているんなら、あたしだって上司や顧客の言うことに従う。
「きみぃ、もうちょっといい口笛を吹けんもんかね」
って言われたら、なんとか要望に沿えるような吹き方を工夫する。

でもあたしの口笛はあたしのためのものだ。
自分のための、自分による、自分の口笛。
だから大人っぽくなかろうが、女っぽくなかろうが、へただろうが、吹きたいときに吹く。
それでもごちゃごちゃ言ってくるやつにはこう言ってやる。
ふひゅう。

2019年1月11日金曜日

金がなかった時代の本の買い方


中高生のとき、本をよく読んでいた。
といっても月にニ十冊ぐらいなのでヘビーリーダーからすると「その程度でよく読むだなんてちゃんちゃらおかしいわ。『月刊ひかりのくに』からやりなおしてこい!」と言われそうだが、まあ平均よりはよく読んでいたほうだろう。
しかし月にニ十冊読もうと思うとけっこう金がかかる。すべて文庫で買っても一万円ぐらい。
中高生のぼくにとって月に一万円も出す余裕は到底なかった。余裕どころじゃない。こづかいは月に数千円、学校はバイト禁止だったからどう逆立ちしたって出しようがない。

だから古本屋によく行っていた。
隣町に大型古書店があって、毎月のように自転車で通っていた。
文庫や書籍は一冊百円~二百円、マンガは定価の半額。
一度に十冊、ニ十冊ぐらい買いこんでいた。
エロ本もそこで買っていた。エロ本は高かったので一冊ぐらい。売っているほうも高校生が買いにきていることはわかっていただろうが、店員から何も言われたことはなかった。みんな優しい。

古本屋以上に重宝していたのはバザーだった。
三ヶ月に一回のペースで公民館でおこなわれていた。その公民館は丘の上にあり、自転車で三十分ほどひたすら坂をのぼりつづけないと行けない。体力のある中高生にとってもなかなか大変なことだったが、それでも欠かさず足を運んでいたのは、一冊十円という驚きの安さで本が売られていたからだ。

バザーなので営利目的ではなく、不用品を再利用しましょうという意味合いが強かったのだろう。どんな本でも十円だった。
筒井康隆、小松左京、東海林さだお、井上ひさし、畑正憲、赤川次郎、新井素子……。
ぼくの中高生時代の読書の大半はこのバザーに支えられていた。
なにしろ一冊十円なので、お金のことなぞ気にしなくていい。ちょっとでも気になった本は手当たり次第買う。五十冊買っても五百円。毎回バッグをぱんぱんにして帰っていた。


金のない時代に「いくらでも本が読める」という環境があったのは本当によかった。

ぼくの通っていた古本屋はとっくにつぶれた。電子書籍が増えた今では古本屋という商売自体が厳しいだろう。バザーはどこにでもあるものではない。
今の中高生は浴びるほど本を読めているんだろうか。

まあ、そういう人のために図書館があるんだけど。
でも「本を所有する」ってのも読むのと同じくらい大事な体験だとおもうんだよなあ。

2019年1月10日木曜日

本は都合のいい友人

本は都合のいい友人。

こんなに都合のいいやつはいないぜ。
若くてキレイってだけでちやほやされてる女みたいに「なんかおもしろい話してー」と言えば、すぐに話を読ませてくれる。
おもしろくないときもあるけど、ほっぽりだしたってなにもいわない。栞をはさんだまま一ヶ月放置してても文句を言わない。

電車に乗るときのお供、風呂での退屈しのぎ、眠くなるまでのおつきあい。
呼びだせばどこにでもついてきてくれる。


歳をとるほどに、人付き合いが面倒になってくる。
仕事をして、家族の用事をして、子どもと遊んで。
残りの時間をやりくりして人と会うのが面倒になってきた。

古くからの友人と会うのも年に数回になってしまった。
会いたいという気持ちはあるんだけど、そのために日程調整するのがおっくうだ。約束したら予定に束縛されることになるし。
お互い仕事や家族を持つと「今日ヒマ? 飲まない?」というわけにもいかない。まして、たいした用事があるわけでもないのだ。
もっと気軽に会いにいけたらいいんだけどな。

その点、本はほんとに都合のいいやつだ。
読みたいときに読ませてくれるし、数日前から予約をしておく必要もない。今は電子書籍で読みたいときにすぐ買えるし。
「読もうと思ってたけどべつの用事ができた!」とドタキャンしても不満な顔ひとつしない。こっちも一切負い目を感じない。

ぼくは人付き合いが好きなほうではないのでほとんど人と話さなくても平気だが、それは本という「誰かと手軽につながれるツール」があるからなんだと思う。

本は多くの孤独な人を救ってきたし、これからも救いつづける。
ただ、今は本よりもインターネットのほうが多くの孤独な人を救うのだろう。それはそれですばらしいことだとおもう。

2019年1月9日水曜日

【読書感想】高齢者はそこまで近視眼的なのか? / 八代 尚宏『シルバー民主主義』

シルバー民主主義

高齢者優遇をどう克服するか

八代 尚宏

内容(e-honより)
急激な少子高齢化により、有権者に占める高齢者の比率が増加の一途にある日本。高齢者の投票率は高く、投票者の半数が60歳以上になりつつある。この「シルバー民主主義」の結果、年金支給額は抑制できず財政赤字は膨らむばかりだ。一方、保育など次世代向けの支出は伸びず、年功賃金など働き方の改革も進まない。高齢者にもリスクが大きい「高齢者優遇」の仕組みを打開するにはどうすべきか。経済学の力で解決策を示す。

「シルバー民主主義」という言葉を耳にするようになって久しい。
人口における高齢者の比率が高まることで、一人一票の選挙において高齢者受けする政策ばかりが選ばれ、若者の意見が通らないという現象のことだ。
結果的に若者が投票に行くメリットが減り、投票率の高い高齢者の意見がより通りやすくなるというスパイラルも招く。

そんな「シルバー民主主義」が招く弊害を鋭く指摘した本。
ちなみに著者は執筆当時七十歳だったそうだ。シルバー世代の人がこれを書いたというのは非常に意義のあることだとおもう。

すでに今の日本はシルバー民主主義がまかりとおっており、これからどんどん加速してゆく。
ぼくは三十代半ばの自他ともに認める中年なので、「老い先短い連中が将来のことを決めようとするんじゃねえよ」という思いと「そうはいっても自分が高齢者になったときに自分たちに不利になる政策を選べるだろうか」という思いの両方を持っている。
一年生のときは球拾いをさせられて「なんて身勝手な先輩連中だ」とおもっていても、自分が三年生になったら「伝統だから」といって一年に雑務を押しつけてしまうように。



高齢者の意見が無駄だと言うつもりはないけれど、分野によっては若者の意見を重視したほうがいいこともある。

たとえば、夫婦別姓選択制の導入について意見を求めると、今は賛成派と反対派が拮抗している。
だが年代別でみると傾向ははっきり分かれていて、二十代や三十代は賛成派が多く、六十以上は反対派が多い。
同性婚に対する考え方も同じ傾向を示している。
反対派も多いので法改正が進まないのが現状だが、よく考えたらずいぶんおかしな話だ。
六十代以上よりも二十代三十代のほうが、今後結婚する可能性はずっと高い。当事者が「いいじゃないか」と言ってるのに、もはや結婚とは無縁に近い高齢者が「いいや許さん!」と反対しているわけだ。

シルバー民主主義では、当事者の意見よりも外野の意見のほうが重視される。
結婚にかぎらず子育てや教育や働き方など、高齢者にとって関係の薄い論点についても、高齢者の意見のほうが重要視されることになる。
野球部のキャプテンを決める投票を、野球部以外も含む全校生徒でやるようなものだ。どう考えたっておかしいのに、それがずっと続いているのがシルバー民主主義の現状だ。
 子どもの貧困は、その親である働き手世代の低所得化の結果であり、世代を超えた貧困の再生産をもたらすなど、社会的な影響はむしろ高齢者の貧困よりも深刻である。
 このため、「子どもの貧困対策法」が二○一三年に制定されたものの、そのための予算措置は限られたものとなっている。日本の社会保障費用のうち、高齢者向けがGDPの一三%を占めるのに対して、子どもなど家族のための給付は一%強に過ぎない(国立社会保障・人口問題研究所2015)。米国と並んで低い比率であり、二割から五割を占めている欧州主要国との格」差は大きい(図表2-5)。
 高齢者への社会保障移転が著しく高い要因は、年金や医療・介護などの社会保険が、大きな比重を占めていることがある。これらは独自の保険料財源をもつことで、一般財源にのみ依存している子どもや家族への給付を圧倒している。これに対抗するためには、「子育てのための社会保険」を創設すればよいというのが、ひとつの論理的な帰結となる(八代・金米・白石2005)。
子どものための予算を削って高齢者にお金を注ぐ国に明るい未来があると誰がおもえるだろうか?



今の税制では、専業主婦世帯が優遇されている。いわゆる「150万の壁」だ。
そのせいで能力も時間もあるのに働きに出られない女性も多い。まったく時代にあっていない。
 配偶者控除は、それを基準とした企業の配偶者手当(この制度をもつ企業平均で月一万六三○○円)と連動していることから、専業主婦が就業すると一時的に家計所得が減少する問題もある。もっとも、企業経営の国際化が進むなかで、労働者の企業への貢献と無関係な配偶者手当を廃止する動きもあるが、大部分の企業では過去の慣行がそのまま維持されている。このように、主として「女性が働くと損をする」制度が維持されることは、労働力の減少が経済成長の抑制要因となる高齢化社会では、大きな社会的コストを生むものとなる。
 最近の税制調査会では、配偶者控除を廃止することによる専業主婦世帯の負担増を避けるためとして、子ども控除の拡大や配偶者の就業にかかわらず適用される「夫婦控除」への置き換えなどの提案がなされている。本来、女性の就業抑制の防止のためであれば、税収の増減税なしの範囲内で、配偶者控除を(働く可能性の少ない)子どもへの控除へ振り替えれば、子育て支援に合わせて一石二鳥の政策となる。
きょうび、専業主婦世帯と共働き世帯だったら、どう考えたって生活がたいへんなのは後者だろう(あくまで平均的にはね)。
特に今後労働力不足は深刻化していくし、少子化も加速していくわけだから「共働きで子育てをする世帯」を国家のためにも望ましい形だ。
これを支援するほうがいいに決まっている(ぼくの家が共働き子育て世帯だからってのもあるけど)。

なのに、何十年も前にできた「女性が働くと損をする」制度がまかりとおっているのは、専業主婦の多い高齢者世帯への配慮だと著者は指摘している。これぞシルバー民主主義の弊害。



シルバー民主主義を止める方法は、それほどややこしいことじゃない。

この本の中でも、
地域ではなく世代ごとに代表を選ぶ「世代別選挙区」、
未成年者の票を親が代わりに投じる「ドメイン投票方式」、
若者ほど一票の価値を高める「余命比例投票」などが紹介されている。
こういった仕組みを導入すれば若者の意思は政治に反映されやすくなる。

現行の制度のままでも、今ある政党が「これからの未来をつくる人たちが活躍しやすい政策を実行していきます」と方針を示すだけでいい。

だが問題は「誰がそれをするのか」だ。
誰かがそれをしなくちゃいけない。
でも自分はしたくない。だって高齢者からの票を捨てることになるから。だから政治家は「やらなきゃいけない」と思いつつも後の世代に棚上げしてしまう。
そのうち誰かがなんとかしてくれるさ」と言いながら。



そのうち誰かがなんとかしてくれるさ」を積みかさねてきた結果が、現在の膨れあがった国家の借金と崩壊寸前の国民年金制度だ。
この本のかなりの紙数が医療福祉の財政や国民年金のことに割かれている。

誰が見たって日本の状況はヤバい。
借金も年金制度もこのままでいいなんて誰もおもっていない。誰もが「なんとかしなくちゃ」とおもいながら、誰も何もしようとしない。倒産する会社もこんな感じなんだろう。

財政悪化と年金制度の崩壊は、シルバー民主主義に原因を帰す部分が大きい。
票を持っている高齢者の既得権益を壊す部分に手を付けたくない。その一心で、ツケを後世に回しつづけてきた。
なんとかなるさと楽観的な未来を信じながら。
公的年金財政には、五年に一度の財政検証という監査の仕組みがある。二〇〇九年の財政検証時には、デフレの長期化にもかかわらず、賃金上昇率二・五%(二〇〇四年では二・一%)で、積立金の運用利回りが四・一%(同)という、現実からかけ離れた経済指標の水準が、二一○○年まで持続するという前提となっていた。民間の保険会社が、こうした高収益見込みの金融商品を売り出せば、金融庁から指導される。しかし、国営保険会社の乱脈経営に、金融庁のチェック機能は働かない。日本と類似した仕組みの米国の公的年金が、その財務状況について、独立の政府機関から厳格な会計検査を受けていることと対照的である。
本来なら公的な年金だからこそ厳しくチェックすべきだ。
民間の金融商品なら、めちゃくちゃなことをやってその会社がつぶれても「自己責任」で済むが、強制的に加入される公的年金では「イヤなら加入しなければいい」というわけにはいかないのだから、シビアに運用しなくてはならないのに。



シルバー民主主義は今後も加速していくばかりだろう。

声の大きな高齢者に迎合することは、若い人はもちろん、高齢者のためにもならない。
だから嫌われるのを覚悟で半ば強引に変えようとしなければ、永遠に変わらない。

今の政権は働き方改革だとか水道民営化とか国民の大半が望んでいないことを強行採決で推し進めてるけど、そういうんじゃなくて年金制度改革みたいに「いつか誰かがやらなきゃいけないけど誰もやりたがらないこと」を強引にやってほしい。

でも無理なんだろうなあ。
民主主義の限界を感じる。しかしこの話を広げると長くなるしシルバー民主主義とも離れていくからまた別の機会に書くことにする。



シルバー民主主義はよくないよねと言いながら、一方でぼくはおもう。
高齢者ってそんなにバカなんだろうか?

高齢者への負担増には全面的に反対するのだろうか?
みんながみんな「自分が生きている間さえよければ後は野となれ山となれ」と考えているんだろうか?

もちろんそういう高齢者も多いだろう。
でも現状を理解してもらった上で「この部分は高齢者か子育て世代かが負担しないといけないんです。子育て世代にすべてを押しつける道を歩みつづけますか?」と尋ねれば、それでも「自分の生活さえよければあとは知ったことか!」と言いはなつ高齢者はそう多くないんじゃないかとおもう。

「このままだと年金制度自体が破綻しますよ。それよりかは給付額を減らしてでもなんぼかもらいつづけられるほうがマシでしょう」
といえば、理解を示してくれる人は多いはず。

それでも「年金支給額を減らされたら死んでしまう」という高齢者は生活保護など他の制度でサポートすればいい。
生活保護を受給することを恥ずかしいことだとおもうのなら、若者に負担を押しつけて高い年金をもらうことだって恥ずかしいことなのだから。

結局、シルバー民主主義と言いながら真の原因は官僚や政治家が「過去の失敗を認めたくない」ことに尽きるんじゃないかな。
「今までやってきたことは誤りでした。ここからまっとうにやっていきます」と言えば済む話だとおもうんだけど。

謝罪したり誰かに責任を負わせたりしなくていいから、せめて失敗は認めてほしいと痛切に願う。それをしないことには何も変わらない。

2019年1月8日火曜日

【読書感想】マウンティングのない会話もつまらない / 瀧波 ユカリ・犬山 紙子『マウンティング女子の世界』


『マウンティング女子の世界』

瀧波 ユカリ  犬山 紙子

内容(e-honより)
「私の方が立場が上!」と態度や言葉で示すマウンティング女子。肉食女子vs草食女子、既婚女子vs独身女子、都会暮らし女子vs田舎暮らし女子…。思わずやってしまう、そしてちょっとスッキリしてしまう、でも後から思い返すと後悔ばかり。勝ち負けではないとわかっていても、自分の方が上だと思いたい。そんな「女の戦い」の実態に、赤裸々な本音で鋭く迫る!

この対談で語られる”マウンティング”とは、「相手より自分のほうが上だというアピールを善意を装って示す」といった行為。
たとえばこんな会話。
瀧波 そうそう、武装して臨んでしまう女子会と、肩肘張らないでいい全裸女子会がある。
犬山 全裸女子会は楽しいですよね!
瀧波 一方の武装女子会は一見みんな笑顔なんだけど、水面下では殴りあってるイメージ。たとえば、「紙子ってスゴイよね~、いつも堂々としてて、かっこよくて憧れちゃう〜。私もそうなりたいけど~、恥じらいが強すぎるから~。あ~、一度は女を捨ててみたい~」
大山 「えー? でも私はユカリみたいに奥ゆかしいかんじにあこがれてるよ~。ユカリの”一人じゃ何もできない”って雰囲気、イイよね~。男の人がなんでもしてくれそう~。何でも自分でやっちゃう私の無駄な行動力とかホントいらないし~」
瀧波 そんなかんじ(笑)。お互いひたすらほめちぎるスタンスをとりながら、暗に相手をdisって(批判して)自分を上げるという。
犬山 親しい同士が集まる女子会でも、冒頭のマンガのように誰かが結婚した、家を買った、みたいな環境の変化で急に武装女子会になっちゃったり......。
全裸女子!? 最高じゃん!(文章の一部しか読まない人)

それはさておき、ぼくは女子会なるものに参加したことがないんだけど(あたりまえだ)、女子会ではこんなことやってんのか。みんながみんなこうではないんだろうけど。女の世界はたいへんだー。

男同士の会話だと、こういうのはあんまりない。
男は単純だから素直に自慢する。
「結婚はいいよー」とか「おれ今責任ある仕事を任されてるんだよね」とか自分で言っちゃう。
だからあんまりマウンティング合戦というのは起こらない。
謙遜を装って相手をおとしめる、なんて手の込んだことはあんまりしない。相手をおとしめたいときは直截的にやる。
瀧波 あはは。男の人の場合はパッと見でわかるものでマウンティングする傾向があるね。愛人とか、デカい時計とか、筋肉つけるとか。
犬山 女のマウンティングはさりげないですものね。八〇年代は肩パッドや前髪を大きく、九〇年代はどんどん目を大きくしていったけど、今はデカさで勝負はあまりない。
瀧波 盛ってることに気づかれないよう盛ってるから、そのぶん巧妙。でも、男は未だにデカいロゴの付いた服を着てたりするでしょ。言っちゃ悪いけど「バカなんじゃないかと思ってしまう(笑)。
犬山 ラルフローレンのポロシャツのロゴもどんどん大きくなりますしね。
灘波 きっと、デザイナーも「デカくしておさらいいんだ、デカすりゃあ」って(笑)。本当に言葉のマウンティングじゃないんだね。
とにかくわかりやすいんだよね。
自慢するときは誰が見ても自慢だとわかるようにやる。
相手の言うことを否定ばかりする人はいるけど、それだってわかりやすいから周りが相手をしなくなってやりあいにならない。

そもそも男同士の上下関係って「年齢が上」とか「役職が上」とか「収入が多い」とか「力が強い」とかわかりやすいことで決まるから、あんまりマウンティングする必要がないのかもしれない。

女同士だと「向こうのほうがモテるけど仕事は自分のほうができる」とか「華やかな暮らしをしているのは向こうだけどこっちは子どもがいる」とか、成功のパターンが多様なので単純に比較がしにくいのかもしれない。
ぜんぜんちがう土俵でそれぞれ殴りあって四勝六敗、みたいな十種競技がマウンティング合戦なのかも。



はじめのほうは「マウンティング合戦こえー」なんておもいながら読んでたんだけど、中盤から同じような話のくりかえしになって飽きちゃった。
一冊の本にするほどのテーマじゃないんだよなー。

後半にとってつけたように「マウンティングしがちな私たちはどう生きていくのがいいのか」なんて説教も書かれてるけど、そのへんは特につまらなかった。
もともと「こういうことあるよねー」ぐらいの愚痴の言いあいなんだから、むりやり教訓めいたことをつけたさなくていいのになー。

マウンティングというテーマだからか、瀧波さんも犬山さんも相手を気づかいあっている感じで、対談しているのに発展がない。
「こうなんですよ」
「あーそうですよねー」
の応酬。うすっぺらい共感がひたすら続く。
ときには相手の発言を否定したりしないと深みのある対談にならないのに。

その場にいない誰かさんの悪口に終始する、ガールズトークの悪い部分が全面に出たような対談だった。
マウンティングはよくないっていうテーマの本だけど、マウンティングの一切ない会話もつまらないということがよくわかる本だった。

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2019年1月7日月曜日

【読書感想】なんとも地味な傑作 / 岩明 均『雪の峠・剣の舞』

『雪の峠・剣の舞』

岩明 均

内容(Amazonより)
時代の空気が鮮烈に伝わる岩明均歴史作品集出羽国に移封された佐竹家と渋江内膳を描いた「雪の峠」。剣豪・疋田文五郎と仇討ち少女ハルナとの物語「剣の舞」の2編を収録!

『雪の峠』が特におもしろかった。
佐竹家は関ケ原の合戦で西軍(石田三成側)についたせいで、徳川家康によって常陸国(現在の茨城県)から出羽国(現在の秋田県)への国替えを命じられてしまう。慣れない土地でどこに城を建てるかをめぐって家臣たちの意見が分かれ……。

というなんとも地味な題材。
戦国の世が終わり、太平の世の中が始まろうとしている時代。さらに「城をどこに建てるか」という当事者からすると一大事でも無関係な人からすると「どっちゃでもええわ」という争い。

しかし、どっちでもいい争いだからこそ人々の意地やプライドがぶつかりあい、駆け引きや水面下での工作が激しくくりひろげられる。これが群像劇としておもしろい。
さらに渋江内膳という人物を飄々とした姿に描くことや、軍神・上杉謙信の逸話を盛り込むことで、嫉妬が渦まく権力争いをイヤな感じに見せていない。

登場人物は感情をほとんど語らせないが、言動からにじみ出てくるところがいい。良質な時代小説という趣。傑作だ。
これはマンガより小説で読みたいな。
岩明均作品ってたいていそうなんだけどね。『ヒストリエ』も絵はいらないからストーリーだけ早く書いてほしいよ。

ただ終わり方だけは残念。
重臣が殺されて唐突に終わるのでモヤモヤっとした思いだけが残る。これが意図されたものだったらいいんだけど、ただ単に投げだしただけというような印象を受けた。
じゃあどうしたらいいのかというとむずかしいんだけど。その後の佐竹家を長々と書くのもちがうし、やっぱりこれはこれでよかったのかな……。



『剣の舞』は、さほど印象に残らなかった。

天才剣士に弟子入りした人物の復讐譚、というままありそうな題材だったこともあるし、戦のシーンがこの人の絵にあってなかったこともある。
岩明均さんの絵は躍動感とかスピード感とかがないから、激しい戦闘シーンにはあまり説得力がないんだよね。
戦いよりも参謀とか内政とかを描いてるほうがずっとおもしろい。



星新一の小説に『城のなかの人』や『殿さまの日』という作品がある。
太平の世の殿さまの退屈な一日を描いていたり、城の家臣たちが藩の財政に苦しむ様子が活写されていたり、書物方同心という書物の管理をする役職の人の生活が書かれていたり、冒険活劇や人情話とは異なる江戸時代の人々の暮らしが書かれている。

いずれもフィクションだけど、「江戸時代の人たちも今と同じようなことに心を動かされていたのだな」と気づかされる。
同僚が出世するのをおもしろく思わなかったり、この先ずっと同じような暮らしをするのかとため息をついたり、規則と上司の間でがんじがらめになったり。

ツールはいろいろ変わっても、人間ってずっと同じようなことをやってるのかもしれないな。

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星 新一 『殿さまの日』【読書感想】




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2019年1月5日土曜日

カーリングをちゃんと見たことのない人の書いたカーリング小説



 館内にブザーが鳴りひびいた。ホワイトベアーズの選手交代だ。
「やつら、このまま逃げきるつもりだな」
 出てきた選手を見て、ウシジマがつぶやいた。

 先ほどミラクル4点ショットを決めたイケタニ選手に代わってアイスの上に立ったのはディフェンスに定評のあるイケガミ選手だ。

「あくまで勝ちにこだわろうってのか。上等だ」
 シカモトが氷上にぺっと唾を吐き、その唾をモップで×の形に拭いた。ウエスタンリーグで使われている「ぶっころしてやる」のサインだ。
 相変わらずガラの悪いやつだ、ウナギタニは苦笑した。だけどそれがおまえの照れ隠しだってことをおれは知ってるけどな。

「さあ、泣いても笑ってもこれがラストピリオドだ。おれたちの四十二年間を全部ぶつけてやろうぜ!」
 キャプテンが声を張りあげた。
「ちっ、かったりいな」
 シカモトがだるそうにモップを肩にかけた。やる気がなさそうに見えるが、目の前で逆転のハリケーンショットを決められたシカモトの内面は穏やかでないはず。ウナギタニにはわかっている。
 なにしろ、どれだけ注意されても結ばなかったスケート靴の紐を今日はちゃんと結んでいるんだからな。さっきのクォーターでの逆転が相当こたえたらしい。
ま、やる気になっているのはおまえだけじゃないけどな。小声でつぶやいてウナギタニもウインドブレーカーのファスナーをあげた。
「ん? なんか言ったか?」
 シカモトが振りむくが、ウナギタニは黙って首を振った。四十二年間もやってきたんだ、言葉を交わさなくても伝わっている。

「さあいよいよ最終回。このまま越谷ホワイトベアーズが逃げきるのか、それともさいたまヒポポタマスが七点差をひっくりかえすのか!? 二十五分に及んだ死闘が今、決着しようとしています!」
 実況アナウンサーの声が響きわたる。
 まずはホワイトベアーズの攻撃。この回もストーン投手はイケムラだ。イケムラの投じたストーンは優雅な弧を描いて的の中央から十インチのところに停氷した。相変わらず見事なフレンチ・ショットだ。
「おいおい、あいつには疲れってものがないのかよ。マジでサイボーグじゃねえの」
 シカモトが呆れたように漏らす。
「あいつは昔からスタミナだけはすごかったからな」
 中学時代イケムラと同じ塾に通っていたというウシジマが云う。
「だがコントロールはからっきしだった。それが今じゃ平成のウェスティン・ガードナーって言われてるんだからな。相当努力したんだろうな」
「おいおい、敵に感心してる場合かよ。さあおれたちの番だ」
 キャプテンがたしなめる口調で言ったが、内心では安堵の息をついていた。チームの状態はすごくいい。こうしてたあいのない会話をしているのがその証拠だ。キャプテン自身、緊張しているわけではなく、かといって緩みすぎているほどでもない、ほどよい精神状態を保っていた。

 序盤はヒポポタマスのペースだった。
 キャプテンの投じるストーンは冴えわたっていたし、他の三~四人のモップさばきもうまく連携が取れていた。あれほど邪魔だったウナギタニの二刀流モップもすっかりなじんできたらしく、相手の投じたストーンを全身で防ぐファインセーブも見せた。
 よし、このままいけば勝てる。
 ウナギタニは早くも表彰台に置いてある、副賞の音楽ギフトカード100万円分を見上げて笑った。
 キャプテンが「なんか変じゃないか。なんかあまりにうまくいきすぎっていうか」とささやいてきたときも、「考えすぎっすよ。ホワイトベアーズなんてしょせんは高卒の集まりだから」と一顧だにしなかった。

 ホワイトベアーズの動きは精彩を欠いていた。先ほどまでの精度の高さはどこへやら、投じられるストーンはすべてプッシュ・アウトしていた。
「こりゃ楽勝ですね」
 ウシジマが笑った。
 さっきまで心配していたキャプテンも、杞憂だったかと落ちついて電子タバコをふかしている。

「ヘイヘイ! どこに目玉ついてんだよ! ビリヤードやってんじゃねえんだぜ!」
 シカモトが大きな声で野次った。
 だがホワイトベアーズの選手たちは腹を立てるどころか、不敵な笑みを浮かべていた。

 ホワイトベアーズのベンチから、イケガミが云った。
「へっ、余裕こいてていいのかい。よく見てみろよ、ストーンの配置を」
 ヒポポタマスの四人か五人ぐらいのメンバーは、ホワイトベアーズのストーンを眺めた。見たところ特に変わったところはない。どのストーンも的から遠く離れたところに散らばっている。
「これがなんだってんだよ」
「ばーか、おれたちのストーンじゃねえよ。おまえらのストーンだよ」
 イケガミが不敵に笑った。
 最初に気づいたのはウナギタニだった。
「こっ、これは……両鶴の陣……!」
「ほう、よく知ってたな。そう、うちの県内に代々伝わるお家芸、両鶴の陣さ」

 気づくと、ヒポポタマスの赤いストーンが八の字を描くようにして並んでいる。まるで二羽の鶴が羽根を広げて求愛のダンスをしているようにも見えた。
「まさかそんな……。ということはやつらの狙いは……」
「そう。二羽の鶴はこのショットによって白鳥になる。スワン・スプラッシュ!」
 イケガミの言葉と同時にストーンがはじけた。それによって広がった石の並びはどうがんばっても白鳥には見えなかったが、ヒポポタマスにとって絶望的な状況になっていることだけはわかった。うまく説明できないけど、なんかまずそうだ。ウナギタニは冷汗が出てくるのを止められなかった。

 ヒポポタマス有利だった形勢はあっという間に逆転した。
 くわしい点数計算はウナギタニにはよくわからないが、スコアボードには54-18という数字が表示されている。残り一ピリオドでひっくりかえすには絶望的な点差だ。
「終わった……。おれたちの初冬が終わった……」
「よくやったよ、おれたち。市内三位でも十分すぎるぐらいだ……」
 ウナギタニもシカモトもあきらめの言葉を口にした。
 負けん気の強いウシジマでさえ、「月末の大会ではぜったいにおれたちが勝つからな!」という言葉を吐きながら涙を流している。

 そのときだった。
「おいおい、『ストーンが止まるまえに時計を止めるな。あと気持ちも』って格言を知らないのか?」
 重苦しい雰囲気をふきとばすように、不敵に笑ったのはキャプテンだった。

「キャプテン?」
「どうしようもない絶体絶命の状況に陥ったときこそ燃えるのがおれたちヒポポタマスだろ? 二十六年前の県大会で八位入賞したときもそうだったじゃねえかよ!」

 そうだった。すっかりあのときの気持ちを忘れていた。いつまでも二十六年前の好成績をひきあいに出すキャプテンのことをずっとこばかにしてきたけれど、こういうひたむきさがあったからこそチームは四十二年もやってこれたのだ。

「さあ、おれたちの熱い想いで、スケートリンクを溶かしてやろうぜ。いくぜ、消える魔球っ!」
 キャプテンの声がリンクに響きわたる。



 やるべきことはやった。あとは天命を待つのみ。
 ヒポポタマスの面々は、氷の上にあおむけになってはあはあと荒い息を吐いていた。氷のひんやりした感触が後頭部に気持ちよかった。

 おれたちはよくやった。ウナギタニは満足だった。
 キャプテンの消える魔球、ウシジマの怪我をも恐れぬスライディング、シカモトのパス回し、そしてウナギタニの二刀流モップさばき。すべてが鮮やかに決まった。
あとは天命を待つのみ。

 ラストに投じたストーンを、ジャッジマンが持ちあげた。ストーンの裏がスクリーンに大きく映しだされる。
「×3」という文字がはっきりと見てとれた。

 やった。
 得点が3倍になるゴールデンストーンだ。
 ボーナスターンなのでさらに2倍。親場なので、合計12倍、一気に60点。グランドスラムだ。

 ヒポポタマスが二十六年ぶりに初戦突破を決めた瞬間だった。

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2019年1月4日金曜日

はつもうで


初詣に行った。 二十数年ぶりに。

ぼくは信仰心もないし人が多いところが嫌いなので、初詣にはまったく縁がない。
小学生のときは両親に連れられて行っていたが、中学生ぐらいからは一度も行っていない。
末期がんになって藁にでもすがりたくなるまではお参りなんてしないつもりだ。

そんなぼくが二十数年ぶりに初詣に行ったのは、末期がんになったからではなく、娘に「はつもうで」というイベントを教えてやらねばならないとおもったからだ。



子どもができてから、社会に対する責任のようなものを感じる。
「親として、世の中のひととおりのことは教えてやってから社会に送りだしてやらねば」
という使命感。
誰に言われるわけではないが、目に見えないプレッシャーを感じるのだ。

クリスマスなんてのも、とんと縁がなかった。
独身時代も含め、妻に対してクリスマスプレゼントをあげたことは一度もない。
バレンタインデーも無縁だった。まあこれはぼくがモテなかっただけだけど。

しかし子どもができてからはクリスマスにはツリーを飾ってケーキを買うし、七夕には短冊に願い事を書くし、ひなまつりにはひな壇を飾る。一生無縁だとおもっていたハロウィンパーティーにも昨年ついにデビューした。

自分ひとりだったらやらなかった季節の行事を、子どもに教えなければという理由でやっている。めんどくさいけれど。

そういえば昔ぼくの親も、クリスマスにはツリーを飾ってクリスマスソングを流してチキンを焼いていた。
思春期の頃は「しょうもないことやってんなあ。そんなことやっておもしろいのかね」とおもっていたけど、あれはぼくのためにやってくれていたんだろうなあ。



話がそれたが一月一日のお昼ごろ初詣に行った。娘を連れて。
歩いて三十分ほどのところにある中堅規模の神社だ。

到着して驚いた。参道どころか表の道にまで長い行列ができている。
世の中の人ってこんなに初詣に行くものなのか。長らくサボっていたから知らなかった。

げんなりした。
ぼくは行列が大嫌いだ。ラーメン屋に五分並ぶぐらいなら、十分歩いてべつのラーメン屋に行く。

これに並ばなくちゃいけないのか。
しかも、並んで何かもらえるならまだしも、何ももらえない。それどころか賽銭を払わなくちゃいけない。なんて不毛な行列なんだ(こう考える時点でもうお参りに向いてない)。

そっと隣の娘を見た。
三十分も歩かせたので疲れた顔をしている。
ぼくは娘にささやいた。
「あれに並ばなくちゃいけないんだって。お参りしなくていい?」
娘はうなずいた。お互いの利害が一致した。

神社の前でからあげを売っていたのでそれを買い、娘といっしょに揚げたてのからあげを食べながら帰った。
これがうちの初詣。

2019年1月3日木曜日

スーパースーパー店員


いつも行くスーパーにすごい店員がいた。


三十歳ぐらいの女の店員。
レジ打ちをしているんだけど、とにかく速い。
商品をスキャナにピッピッピッって通していくじゃないですか。あれに無駄がない。全商品のバーコードの位置を把握してるんじゃないかってぐらい速い。
それでいてそんなに焦っている感じがない。笑顔を絶やさぬまますごい勢いでピッピッピッピッピッピッと処理していく。他の店員の倍ぐらい速い。

たまにレジで「こいつ遅いなー」と思う店員いるじゃないですか。
でも逆に「この人速いなー」と思うことはまずないでしょ?
速いことには気づかないんだよね。なのに気づいたんだから、よっぽどですよ。

しかも視野が広い。
ピッピッピッピッピッピッとやりながら
「サービスカウンターでお客様お待ちなのでヘルプお願いしまーす!」
と他の店員に声をかけたりしている。その間、レジのスピードはまったく落ちない。
体育の時間にサッカーやるときに、サッカー部のうまいやつがボールをキープしながら周囲に指示を出したりしてるけど、そんな感じだ。すごいボランチ。

スキャンから声かけから釣銭やレシートの渡し方まで完璧で、支払を終わったぼくは感動してしまった。

たまにテレビで「レジ打ち全国大会」みたいなのやってるじゃない。速さと正確性と接客態度を競うやつ。
あの大会の上位入賞者だったのかもしれない。
ほんとに気持ちのよい仕事ぶりだった。



家に帰ってから、しまった、「お客様の声」に投書すればよかった、と気づいた。
「お客様の声」の九割は苦情や要望だろうから、感謝の言葉があったら喜ばれるにちがいない。しまったな。しかしあのスーパースーパー店員(すごいスーパーマーケットの店員の意味)の名前がわからないな。次見たら名札を見とこう。

……と思って半年。
そのスーパーには何度も足を運んでいるが、あのスーパースーパー店員の姿がない。
他の店に引き抜かれたのかな。それとももっと活躍できる舞台をめざして世界にはばたいていったのかな。