2021年3月31日水曜日

【読書感想文】ノンタンシリーズ最大の異色作 / キヨノサチコ『ノンタン テッテケむしむし』

ノンタン テッテケむしむし

キヨノサチコ

内容(e-honより)
ノンタン、たからもののあかいギターをテッテケジャンジャンひきまくる。「うーん、なんともいいかんじ。」ところがとつぜん、あらわれたのは、なんでもたべちゃうテッテケむしむし!ノンタンたべようとおいかけてきて、ノンタン、ピンチ。

 ノンタンシリーズを知っているだろうか。子育てをしていたら一度は目にしたことがあるはず。

 今調べたら、『ノンタンぶらんこのせて』は267万部、『ノンタンおやすみなさい』は249万部を発行しているらしい。ノンタンシリーズは40冊ぐらいあるから、全部あわせたら数千万は売っているだろう。

 ちなみにぼくが子どものときにもノンタン絵本を読んでいた。第1作『ノンタン ぶらんこのせて』は1976年に刊行。40年以上たってもまだトップクラスを走っている超ロングセラー絵本だ。

 うちの二歳の娘もノンタンシリーズが大好きだ。毎晩読まされる。それも何度も。
『ノンタンおやすみなさい』はすっかりおぼえてしまって、まだ字も読めないのに「うさぎさん、あーそーぼー」と声に出して読んでいる。



 ノンタンシリーズが人気なのは、子どもだけでなく、親からの支持も得ているからだろう。

 ノンタンシリーズはすべて教訓を含んでいる。『ノンタンぶらんこのせて』は順番交代で使うことの大事さを、『ノンタンおやすみなさい』は夜は遊ばずに寝ることを、『ノンタン おしっこ しーしー』はトイレのトレーニングをすることを教えてくれる。
 だが決して説教くさくはない。子どもたちはノンタンと同じ気持ちになって、自然に生活に必要なことを学べる。

 絵本の最後に著者のコメントが書いてあるが、それを読むと著者のキヨノサチコさんが子育てで直面した問題を『ノンタン』で表現していることがよくわかる。
 だからこそ、多くの親が『ノンタン』シリーズに助けられている。



 そんなノンタンシリーズ最大の異色作が『ノンタン テッテケむしむし』だ。

 まず表紙をめくると、真っ赤なエレキギターの写真が目にとびこんでくる。

 他の作品だと、ここはノンタンやうさぎさんのイラストのみ。写真があるのは、ぼくが知るかぎりでは『テッテケむしむし』だけだ。

 内容も、他のノンタンシリーズとは毛色がちがう。


 ノンタンがくまさんやたぬきさんといっしょにギターを弾いている。ぶたさんはドラム、うさぎさんはボーカル。なんとロックバンドを組んでいるのだ。

バンド「のんちゃ~ず」


 みんなは他のメンバーにあわせて弾くが、ノンタンだけ自分の弾きたいように弾く。
 他のメンバーから文句を言われ、ノンタンはほらあなの中に入ってひとりで好きなように演奏をする。すると「テッテケむしむし」という不気味な虫がノンタンのまわりに集まってくる。ノンタンはぶたさんやうさぎさんに助けを求め、みんなで音をそろえて演奏することでテッテケむしむしをやっつけることができた……。 


 テーマは「他の人にあわせてギターを弾くことの重要性」だろう。あまり絵本では見ないテーマだ。しかもたいこやタンバリンではなくギター。小さい子が弾く楽器としてはまったくポピュラーでない。

「おしっこ しーしー」とか「おねしょでしょん」とか「あわ ぷくぷく ぷぷぷう」とか言ってたノンタンが、真っ赤なギターをかき鳴らしているのだ。
 はじめて見たときは驚いた。これはノンタンのパロディ作品なのか? とおもったぐらいだ。

 さらにテッテケむしむしの描写。みんなで音をあわせて演奏することでテッテケむしむしを撃退するのだが、テッテケむしむしはなんと「はれつ」してしまうのだ。
「パチン!パチン!」と音を立てて破裂する虫。なんともグロテスクな表現だ。
 テッテケむしむしは、ノンタンのでたらめな演奏に引き寄せられていただけで何も悪いことをしていないのに……。

はれつしてピンクや緑の汁をまきちらすテッテケむしむしたち

 正直、子ども向けとはおもえない。

 出版社のサイトによると「対象年齢:3・4歳から」とのことだが、「周りの音にあわせてギターを弾く」なんてほとんどの4歳児には不可能だろう。




 想像するに、『ノンタン テッテケむしむし』は高校生ぐらいの子どもに向けて描かれた絵本なんじゃないだろうか。

 シリーズ第一作の刊行が1976年。『ノンタン テッテケむしむし』の刊行は1997年。
 一作目が描かれたときに赤ちゃんだった子がもう立派な大人になっている年月が経っている(弟か妹がいたとしても高校生にはなっているだろう)。

 ロックミュージシャンになるといってバンドをはじめた息子。しかしどのバンドも長続きしない。音楽性がちがうといって衝突・解散をくりかえしてばかり。もう二十歳だというのに、デビューどころか半年以上ひとつのバンドが続いたこともない。
 心配したおかあさんは、息子のために得意の絵本を描く。

「いい? このノンタンがあなた。バンドのメンバーがくまさんやぶたさんやうさぎさん。あなたは自分の好きな音楽ばかりやりたがって、くまさんやぶたさんの言うことに耳を貸さない。そんなこと言ってると、テッテケむしむしがやってきて……」

 「うるせえババア。おれはもう二十歳なんだよ! ノンタンといっしょにすんじゃねえよ」

「どうしてそんなこと言うの。あなたちっちゃいときは『ノンタン あわ ぷくぷく ぷぷぷう』を読んで喜んでお風呂に入ってくれたじゃない」

 「ノンタンなんてロックじゃねえんだよ!」

「そんなことないわよ。ほら、表紙の裏にあなたのギターの写真も載せてもらったし……」

 「勝手なことすんじゃねえよ!」

 たぶん、著者と息子の間にそんなやりとりがあったんだろうな。想像だけど。


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2021年3月30日火曜日

【読書感想文】なんと見事な切り口 / 佐藤 大介『13億人のトイレ 下から見た経済大国インド』

13億人のトイレ

下から見た経済大国インド

佐藤 大介

内容(e-honより)
インドはトイレなき経済大国だった!?携帯電話の契約件数は11億以上。トイレのない生活を送っている人は、約6億人。マニュアル・スカベンジャーだった女性がカーストを否定しない理由とは?差別される清掃労働者を救うためにベンチャーがつくったあるモノとは?経済データという「上から」ではなく、トイレ事情という「下から」海外特派員が迫る。ありそうでなかった、トイレから国家を斬るルポルタージュ!

 おもしろかったなあ。トイレの話かとおもったらトイレの話じゃない。
 インドのトイレ事情について語りはじめるんだけど、そこから話がどんどん広がっていって、政治、経済、貧困、犯罪、宗教対立、民族問題、環境問題、そして今なお根深く残るカーストなどについて斬りこんでいく。

 この手法、すごくいい。あまり見たことのない手法だ。
 いきなり「インドの政治は……」「インドの水道事情は……」と語りだしても「そんなの知らねえよ」となる。
 でも「インドはいまやIT大国なのにトイレを使ってない人が6億人もいるんだって!」というとっつきやすい話題から入ると「えーじゃあみんな外で用を足してるの?」と一気に関心が湧く。

 そう、じっさい外で用を足しているのだ。大人も。女性も。

 単に「恥ずかしい」だけの問題ではない。外で用を足すせいで、野生生物に襲われたり、レイプ被害に遭ったりして、命の危険にさらされているのだ。
 さらに排泄物が外に放置されることで疫病が蔓延する原因にもなる。また排せつ物がそのまま川に流されることで深刻な環境問題も起きている。

「トイレがない」ことがいろんな問題を引き起こしているのだ。



 じゃあトイレを設置すればいいのかというと、そんなかんたんな問題ではない。
 インド政府は「スワッチ・バーラト(きれいなインド)」を掲げてトイレ設置に補助金を出すことを決めたが、それにより、補助金受給詐欺が蔓延するなど新たな問題が起こっている。

 だが、より深刻なのは、トイレを建設しない人に対する生活面での「差別」が行われていたことだろう。r.i.c.e.の調査では、ラジャスタン州の公立学校で、トイレを設置していない家庭の子どもは学籍名簿から外すと、教師が発言していた。貧困世帯に対して行われる食料の配給が、トイレのない世帯には行われなかったという報告は複数の州で散見されている。ウッタルプラデシュ州では、トイレをつくったのに使っていない人に対して、村の有力者が五〇〇ルピーから五〇〇〇ルピー(八〇〇円から八〇〇〇円)の「罰金」を徴収していたという。そのような「罰金」に何の根拠もないのは、言うまでもない。
 もちろん、こうした強要や圧力は、中央政府や州政府から何らかの「指令」があって行われたわけではない。だが、二〇一九年一〇月という「スワッチ・バーラト」のゴールが設定されている以上、州の職員たちにとっては、期限までに成果を示さなくてはならないプレッシャーがのしかかる。トイレ設置の実績は村や集落から地区、市、そして州へと上がっていくが、見えない圧力はその逆方向で働いていった。結果として、トイレのない「現場」である村や集落に「忖度」の力が集中し、人々に対する強要や圧力が横行してしまったのだ。「スワッチ・バーラト」が成功したとするモディの発言は、こうしたモディの顔色をうかがう人たちの「忖度」によって成り立っているとも言える。

 お上の気持ちを忖度するのは日本だけじゃない。インド人も政府の顔色をうかがうのだ。

 2020年、日本では「自粛警察」があちこちで幅を利かせていた。緊急事態宣言下で外を出歩いている人に私刑を施すやつらだ。警察どころか犯罪者集団だ。
 同様にインドでも「トイレ警察」が跋扈していたらしい。どの国もやることはたいして変わらない。

 設置費用さえ出してもらえればトイレを使えるというものではない。トイレには維持管理が必要になる。日本のように下水道が整備されていないから、トイレから出たものはタンクに溜めて定期的に回収する必要がある。当然金がかかる。森でしたり川に流したりするほうがずっと安上がりだ。

 特に農村ではトイレを新たに設置するメリットが薄かった。
 そもそも農民には「数か月後に補助金がもらえるかもしれない」からといってトイレを設置できるほど経済的に余裕がない。

 インドでは、借金を苦にした農民の自殺が後を絶たない。肥料や農機具を動かすための燃料の価格は年々上昇するものの、作物価格は上がらず、農家の大半は借金に頼っているのが現状だ。カネがなければ土地改良やかんがい施設の整備に手が回らず、気象条件に対応できないまま、不作の連鎖に陥ってしまう。インド内務省のデータでは、二〇一五年にインドで自殺した農業関係者は一万二六〇二人にのぼっており、自殺者全体の九・四%を占めている。自殺した原因も、借金の返済や破産といった経済的理由が三八・七%と最も多い。借金苦による農民の自殺は社会問題にもなっているのだ。
 このため、選挙前になると農民たちは借金の帳消しを求めて、大規模なデモを行うのが常となっている。二〇一八年二月には、西部マハラシュトラ州の農民が帳消しを求めたデモを行い、州都ムンバイには約六万人が集まって気勢を上げた。BJP系の州政府は農民らの要求を受け入れ、農民一人当たり最高一五万ルピー(二四万円までの帳消しを約束している。BJPは帳消しを公約に掲げ、二〇一七年三月に行われたウッタルブラデシュ州の州議会選で圧勝している。だが、こうした借金帳消し策は、財政状況を無視して導入されたケースも少なくない。マハラシュトラ州政府は、帳消しによって二〇一八年度予算で一五〇〇億ルピー(二四〇〇億円)の歳入不足に陥ったと発表している。
 財政状況を無視したまま、大票田の農村票目当てに政治家が「徳政令」を出すことで、一時的に農民の負担は軽くなっても、脆弱なインフラや不安定な収入といった農村の抱える問題は何ら解決しない。インドのメディアは「(帳消しは農民を苦境から救う最良の方法ではない」とする専門家の意見をたびたび伝えているが、同じことが繰り返されているのが現状だ。農村部の人たちがトイレの設置に必ずしも積極的ではないのは、致し方ないことなのかもしれない。

 徳政令って現代でも出されるんだ……。

 たしかに借金が棒引きになれば一時的には助かるだろうけど、そもそも毎年の収支がマイナスになっているんだったらどうせまたすぐに借金漬けになることは目に見えている。

 そんな状態で、金を生むわけでもないトイレの設置なんてやるわけないよな。



  下水道の整備がされていないインドでは、マニュアル・スカベンジャー(手作業で糞尿の処理をする人)がたくさんいる。

 シンは排水溝にまたがり、地下をめぐっているパイプの出口に竹の棒を突っ込み、流れを悪くしているゴミをかき出している。トイレなどから流れてきた排水は、やはり灰色に濁っており、近づくとひどい臭いがした。先ほどの衝撃ですこし鼻が慣れたのか、ハンカチを当てることはしなかったが、シンがかき出したゴミを素手で集め始めたのには驚いた。ゴミといっても、それは汚物そのもので、人間の排せつ物も混ざっている。私が驚いているのに気付いたのか、シンは「この方が早いから」と話し、黙々と作業を続けていた。手袋などをしないことの理由を尋ねた私に、素手で汚物をかき出している作業を見せることで、一つの答えを示そうとしたのだろう。
 乾季はパイプの詰まりも比較的少なく、一日当たりの作業は五、六件程度だが、マンホールの中に入るといった危険なことをしていることには変わらない。一日の稼ぎは二〇〇ルピー(三二〇円)ほどで、手袋やマスクなどを使おうとすれば、そのわずかな賃金を使って買わなくてはならない。雨季になれば仕事量も増え、稼ぎは五〇〇ルピー(八〇〇円)ほどになることがあるものの、それだけ危険も増すことになる。

 とんでもなく過酷な仕事だ。世の中にこれ以上きつい仕事はほとんどないだろう。

 汚いだけでなく、危険でもある。マンホールに落ちて命を落とす労働者も多く、ろくな道具も持たずに手で作業するため衛生面の危険も大きい。これで一日三二〇円しかもらえないのか……。

 あたりまえだが、マニュアル・スカベンジャーは好きこのんでこの仕事をしているわけではない。インドに今なお根付いているカースト制度のせいで、他の仕事につくことができないのだ。

 建前上はカーストによる差別は禁止されているが、じっさいには今も存在している。マニュアル・スカベンジャーは先祖代々その仕事をしている。他に選択肢がないのだ。

 日本にもきつい仕事に従事している人はたくさんいるが、一応選択肢はある。もちろん家庭の経済状況などによって限定はされるが、そうはいってもいくつか選べる。最低賃金が定められているし、労働者の安全も守られている(ことになっている)。

 インドのマニュアル・スカベンジャーは「3K(きつい・きたない・危険)」どころじゃない。「安全を確保できない」「どれだけ努力をしても抜けだすことができない」と、絶望的な条件が加わっている。


 M.K.シャルマ『喪失の国、日本』という本に、日本に来たインド人であるシャルマ氏が「日本ではよその家に上がるときに靴をそろえるのがマナーです」と言われて困惑する姿が描かれている。彼はインドでは高いカーストなので、靴を手でさわるなんて召使いのやることだとおもっていたのだ。
 シャルマ氏は柔軟な思考の持ち主だが、それでも染みついたカースト制度からはなかなか抜けだすことができず、靴をさわることにたいへんな抵抗をおぼえる。

 この本の中には、自身はバラモン(カーストの最高位)でありながらマニュアル・スカベンジャーの労働環境を良くするために行動する人も登場するが、彼自身も「低いカーストの人が安全にトイレ掃除をできるようにしよう」とは主張するが「カーストを廃止しよう」とは主張しない。
 きっとインド人にとってカーストとは生まれたときからあたりまえにあるもので、インドで生まれ育っていたらカーストをなくすことなんて想像すらできないんじゃないだろうか。たとえとしては悪いけど、ぼくらが「犬もヒトと同じように扱いましょう」と言われても「いやそれってヒトにとってはもちろん犬にとっても不幸なんじゃないの」とおもうのと同じで。

 前にも書いたけど(「差別かそうじゃないかを線引きするたったひとつの基準」
「差別」と感じるかどうかって、明確な基準があるわけじゃなくて、「今あるかどうか」だけなんだよね。

 今ある区別だから男子校や女子校や日本人学校や朝鮮人学校はOK、でも白人専門学校や女子だけ入試で減点するのを差別だと感じるのは「今までやってないから」。
 男子校がよくて白人専門学校がダメな理由を論理的に説明できる人なんていないでしょ。

 結局、あらゆる区別は差別にもなりうるし、慣れてしまえば差別とは感じない。
 たとえば今は大学入学者を学力試験で決めているけど、冷静に考えれば「今勉強ができる」からといって「学力で劣る者より優先的に学問をする権利がある」ことにはならない。
 いつか「学力試験で合格者を決めるなんてバカ差別だ!」という世の中になってもぜんぜんおかしくないよ。

 何が言いたいかというと、我々はインドのカーストを「なんて前近代的な差別的な制度だ!」と感じるけど、きっとどの文化にもカースト的なものはあるんだろうなってこと。



 くりかえしになるけど、ほんとにすばらしい切り口の本だった。もちろん内容もいいんだけど、これが『インドの今』みたいなタイトルだったら手に取ろうとおもわなかっただろう。

 ワンテーマを軸にして、いろんな問題に切りこんでいくこの手法、もしかしたら今後のノンフィクションの主流になっていくかもしれない。
 それぐらい革命的な発明だとおもうよ、この手法。

 

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2021年3月29日月曜日

ゲームブック


 ゲームブックをご存じだろうか。

 本を読んでいると選択肢が示され、「〇〇を選ぶなら28ページへ。××を選ぶなら44ページへ」みたいなのが書いてある。
 で、選択によってストーリーが変わり、様々な選択をしたり、クイズを解いたりしながらハッピーエンドを目指すという本だ。

 世代によっては、ゲーム『かまいたちの夜』みたいな本、といえばわかりやすいかもしれない(というより歴史的には『かまいたちの夜』がゲームブックをテレビゲーム化したもの、なんだけど)。

 ぼくは子どもの頃、ゲームブックが大好きだった。
 何冊か持っていたが、中でも好きだったのが『にゃんたんのゲームブック ドッキリ!かいじゅうじま』だ。


 主人公のにゃんたんがとある島に行き、かいじゅうたちと戦う。
 かいじゅうは五匹いる。一匹が複数回戦うこともある。五戦中三勝すればにゃんたんの勝ち。三敗すれば負け。
 負ければにゃんたんは生きたまま皮を引き裂かれて臓腑を食われ……とはならない。児童書なので。負けたらさいしょからやりなおし。いつかは勝つ。

 先に三勝したほうの勝ちという、プロ野球のクライマックスシリーズみたいなルールだ(歴史的にはクライマックスシリーズがにゃんたんの真似をしたと言っていい)。
 もしくは暗黒武術会で浦飯チームが裏御伽チームと対戦したときのルールに近いといえばわかりやすいだろう(わかりにくいわ)。


 娘が絵本を卒業しつつあり、児童書をおもしろがるようになってきた。
 そうだ、ゲームブックを買ってあげようとおもってAmazonで探したのだが、幼児向けのゲームブックがぜんぜん見つからない。
 どうしたんだ。今の子どもはゲームブックを読まないのか?
 アプリとかでゲームするからゲームブックが不人気なのか?

 検索したら最近出たゲームブックを二冊だけ見つけたが、どちらもポプラ社から刊行されている。
 しかしぼくはKAGEROU出来レースの一件以来ポプラ社を憎んでおり、ポプラ社の本だけは買わないことに決めている。
 ちくしょうポプラ社め、いい本出しやがって!(ちなみににゃんたんシリーズもポプラ社から出ている)
 ほんとに児童書はいいんだけどなあ。文芸がなあ。

 最近のゲームブックがないならにゃんたんを買うしかない。
 だがにゃんたんシリーズは絶版になっていた。あんなにおもしろかったのに! いや絶版にするのはいいけど、だったら似たような本を出してくれよ!

 こうなったら古本だ。Amazonマーケットプレイスだ。
『にゃんたんのゲームブック ドッキリ!かいじゅうじま』は1,800円もする。定価は900円なのに。
 だがぼくはポプラ社に900円を払うぐらいなら、古本屋に1,800円払うことを良しとする。
 購入!



 で、届いたゲームブックをさっそく娘といっしょに読んだのだけれど、「おもしろい!」と言って毎日読んでいる。
 何度も何度もやっている。

 そうなんだよ、ゲームブックおもしろいんだよ。
 児童書出してる出版社はもっとゲームブックつくってくれよ。

 そうだ。
 ないならぼくがつくればいいんだ!

 というわけで、娘のためにオリジナルゲームブックを制作中……。


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ポプラ社への愛憎



2021年3月26日金曜日

【読書感想文】なぜ動物に人権はないのか / 池上 俊一『動物裁判』

動物裁判

西欧中世・正義のコスモス

池上 俊一

内容(e-honより)
法廷に立つブタ、破門されるミミズ、モグラの安全通行権、ネズミに退去命令…。13世紀から18世紀にかけてヨーロッパに広くみられた動物裁判とは何だったのか?自然への感受性の変化、法の正義の誕生などに言及しつつ革命的転換点となった中世に迫る「新しい歴史学」の旅。

 中世ヨーロッパでは、動物を被告人とした裁判がおこなわれていた。

 ブタが人間の子どもを食べたとか(昔のブタは今よりもっとイノシシに近くて凶暴だった)、ウシの角に突かれた人が怪我をしたといった事件が起こると、犯人である動物が裁判所に出頭を命じられ、法で裁かれていた。動物の飼い主が、ではない。動物が。

 しかも被告人である動物には弁護人までつき、弁護人は「積極的に罪に加担したわけではない」「やむにやまれぬ事情があった」などと述べて動物を弁護する。その結果、無罪になることもままあったという。一方的に断罪するわけではないのだ(動物からしたら一方的に裁かれていたんだろうけど)。

 さて、この世俗裁判所は、動物裁判においてどんな役割をはたしたのであろうか。
 そこでは、人や家畜を殺傷し、あるいは畑や果樹園を荒らしたブタ・ウシ・ウマ・イヌ・ネコ・ヤギ・ロバなどの家畜が裁かれた。犯罪を犯した動物たちは、その行為が土地の有力者によって確認されると、だちに逮捕され、領主裁判所ないし国王裁判所付属の監獄にほうりこまれる。監禁は、地方の領主の代訟人=検察官が証拠調べ(予審)をするあいだじゅうつづく。そしてそれがすむと、検察官は被告の起訴を請求し、受理されれば、被告の弁護士が任命されて、被告は裁判官の前に出頭を命ぜられるのである。
 裁判がはじまる。証人の証言をきき、被告に帰された事実にかんするかれらの肯定的供述をえたあとに、検察官は論告求刑をなす。それにもとづいて、裁判官は無罪または有事の判決をいいわたす。有罪ならば、たいてい、絞首のあと地域ごとの慣習にのってカシの木なり絞首台なりに後足でさかさ吊りの刑に処し、その後、調書が作成された。

 この動物裁判、かぎられた時代のかぎられた裁判所における「珍裁判」なんだろうとおもいきや、そんなことはない。記録に残るだけでも数百件、記録に残っていない(罪が確定すると裁判記録を燃やすこともよくあったという)ものも多数あったことを考えると、決してめずらしくない出来事だったようだ。

 また被告人になるのはブタやウシといった家畜だけでなく、大発生して作物に損害を与えたとしてネズミや昆虫(もちろん誰の所有でもない)が訴えられたり、植物や、さらには無生物(たとえば鐘)までもが被告人になることがあったという。

 ここで「昔の人はアホだったんだねえ」と言ってしまえばそれまでだが、ふと立ち止まって考えると「なぜ今我々は動物裁判をしないのか」という疑問に至る。


 なぜ動物裁判をしないのだろう。
 なぜ動物は罪の主体にならないのだろう。罪とは何か。

 今の日本で、罪が問われるには「責任能力」が必要になる。未成年や重度の精神障害者が罪に問われないのはこのためだ。
 とはいえ、刑法罪としての罪に問わないだけで、一般人の感覚としてはやっぱり「罪」だ。

 仮に、十歳の子が両親兄弟を皆殺しにしたとする。十歳ならやろうとおもえばそれぐらいはできる。
 その子の親に罰を与えることはできない。被害者だし、すでにこの世にいないなのだから。その子自身は刑罰を受けないが、法に則って処遇が決められる。
 なぜその行為に至ったのか、被害者に落ち度はなかったのか、環境によっては殺人を避けられなかったのか。そういったことが十分に検討される。
「まあまあ子どものしたことですから。明日からまた学校に行こうね」というわけにはいかない。
 刑法の「罪」ではないかもしれないが、人々の感覚としては「罪」だ。

 だったら動物が人を傷つけた場合も、同様に裁かないと筋が通らないのではないだろうか。
 たとえば成犬だったらそこそこの知能はある。「むやみに人をかんではいけない」ぐらいのことは理解している。
 犬が飼い主をかみ殺したら、なぜその行為に至ったのか、被害者に落ち度はなかったのか、環境によっては殺人を避けられなかったのか、などを司法機関が検証する必要があるのではないだろうか。「人を殺したから処分します」で済ませてしまっていいのだろうか。


 つらつらと考えていると「動物裁判をやっていた中世ヨーロッパのほうがよっぽど人権(っていうのか?)意識が進歩していて、[人間だから/動物だから]で単純に線引きしている今のほうが劣ってるんじゃないか」という気になってくる。

 動物に殺されてしまうのを「不運な事故だった」とおもうか「許されない不当な行為だ」とおもうかは、結局「慣れ」でしかないんだろうな。

「子どもは何をしても罪に問わない」国の人からしたら「日本は子どものやったことでもいちいち裁判にするのか。ばかだねえ」とおもうだろうし、
「子どもも大人と同じように罪に問う」国の人からしたら「子どものしたことだろうと罪は罪だろう。日本は子どもに甘すぎる」とおもうだろう。



 この本では「なぜ動物裁判が一般的におこなわれたのは13~18世紀のヨーロッパだけなのか? それ以前、あるいはそれ以降、また別の地域で動物裁判がおこわれていないのはなぜか?」について考察しているが、それについては「ふーん。あなたの想像ではそうなのね。でも真実は誰にもわからないよね」としか言いようがない。

 著者によると、
 動物裁判がおこなわれた時代は、森を切り拓き狩りが盛んになり動物の家畜化が進んだ時代と重なるから、人間の世界の法を自然に適用しようとしたからだ、また自然を人間より下に置くキリスト教普及の影響もある、だそうだ。

 このへんについては素直に受け取ることができない。
 ぼくの考えでは「その頃たまたま誰かが動物裁判をしたから」ってだけで、大した理由はないとおもう。他の時代や地域で動物裁判がおこなわれていてもぜんぜんおかしくないとおもうな。

 動物裁判の判決のひとつにキリスト教からの「破門」があったそうだ。ネズミや昆虫が大発生すると動物にたいして破門が言いわたされるが、それはけっこう効果があったようだ。

 さらに、破門宣告はあらゆる手だてをつくしたあとにとられる最後の手段であり、その前に、祈橋・行列・十分の一程支払いなどが勧奨され、また悪魔祓いの儀式が、聖水散布・呪いの言葉などによって、しばしば破門宣告に先だっておこなわれたのである。
 記録にもとづけば、破門の効果は、ほとんどいつもてきめんだったようだ。害虫は、破門の結果全滅し、ネズミやイルカは、破門をおそれて、アタフタと退散する。そう信じられた。本当は、昆虫の寿命はもともとごく短いのだし、ネズミなどは、ひととおり穀物を荒らしたら、つぎの獲物を求めてさっさと大移動するのは、むしろ本能的行動だろう。

 なるほどね。特定の動物の大発生なんて長く続くわけないもんね。


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2021年3月25日木曜日

【ボードゲームレビュー】街コロ通

街コロ通

 最近、カードゲーム『街コロ通』で七歳の娘と遊んでいる。

 きっかけは娘と行ったボードゲームカフェ。そこで『街コロ』をプレイした。
 おもしろかったので買おうかとおもっていろいろ調べていると、姉妹品の『街コロ通』なる商品があることを発見した。
 ユーザーの評判を見ていると、こっちは運の要素が大きく、終盤での逆転可能性が高いらしい。子どもとやるなら運要素が大きいほうがおもしろい。大人ばっかり勝つのも、大人がわざと手を抜くのもつまんないもんね。ぼくは本気を出して勝ちたいんだ!


 ってことで『街コロ通』購入。
 期待にたがわぬおもしろさだった。
 『街コロ通』をかんたんに紹介しよう。


ルール

 サイコロを振り、施設を買う。
 施設にはそれぞれ効果があり

  • 自分がサイコロで特定の目を出すと銀行からお金をもらえる施設
  • 誰かがサイコロで特定の目を出すと銀行からお金をもらえる施設
  • 誰かがサイコロで特定の目を出すと目を出したプレイヤーからお金をもらえる施設
  • 自分がサイコロで特定の目を出すと特別な効果がある施設

がある。
 また施設によっては相乗効果をもたらすものもあり、同じ種類の施設を集めるともらえるお金が増えたりする。
 テレビゲーム『いただきストリート』にちょっと似ている(『いただきストリート』はぼくのもっとも好きなゲームだ)。

 お金を貯めて、高価な「ランドマーク」を3つ建てた(または特別なランドマークを1つ建てた)プレイヤーの勝利となる。


絶妙なカードバランス

 前作『街コロ』よりもはるかにゲームバランスがいい。
 というのは、「圧倒的にいいカード」「ぜんぜん役に立たないカード」が存在しないからだ。

「このカードはお金をたくさんもらえるけど、もらえる確率が低い」
「このカードは単体だとあまり価値がないが、他のカードとの相乗効果で後半大きな価値を生む」
「このカードは大金を稼ぐ可能性があるが前半はほぼ紙くず」

みたいな感じで、どのカードも一長一短ある。

「確実性の高い方法でコツコツ稼ぐ」
「ひたすら他人から金を巻きあげることを狙う」
「特定の種類のカードを集めて後半のコンボで一攫千金」
など、いろんな戦略が立てられるし、どれかの戦略がとりたてて強いということもない。すべてはカードとサイコロ運次第だ。


逆転の可能性高め

 モノポリー、桃鉄、いただきストリートなど「物件を集めて金を稼ぐ」系のゲームは、後半はほぼ逆転不可能になる。金を持つプレイヤーが物件を買い占め、物件をたくさん持っているから金が集まる。後半になるにつれて格差がどんどん拡大していく。現実といっしょで、貧乏人が金持ちを打ち負かすことはほぼ不可能だ。
 1位のプレイヤー以外は退屈な終盤を過ごすことになる。

 かといって桃鉄のキングボンビーシステムはあまりに理不尽だ。こつこつ貯めた財産が泡と化し、それまでの努力が一気に水の泡になってしまう。

『街コロ通』はそのへんがよく工夫されていて、後半になるにつれて貧しい者が有利になってくる。「10コイン以上持っているプレイヤーから半分をもらう」などのカードによって、貧しい者が金持ちから大金を巻きあげることができるのだ。累進課税。
 現金を持たないとランドマークが買えないが、現金を貯めていると他プレイヤーから巻きあげられやすくなる。おまけにランドマークは後半値上がりする。

 さらに「ビリにしか買えない良いランドマーク」もあり、逆転させる工夫が随所にある。
 かといって「前半の努力はなんだったんだ!」というほどではない。
 現金はとられやすいが施設がとられることはめったにない。中盤までにきっちりいい施設を建てた人が有利であることは変わらない。

 このバランスが絶妙。
 実際、何度かやったがたいてい終盤までもつれる展開になる。「あと1ターンあれば勝てたのに!」ぐらいの僅差。誰かひとりの圧勝、という展開はほとんど起こらない。


運と実力の絶妙なバランス

 運の要素が大きいが、とはいえ完全に運任せでもない。強いプレイヤーと初心者が対戦すれば、前者が九割は勝つだろう。

「現金を貯めこまずにどんどん使う」「コンボ施設をうまく利用する」「サイコロを1個振るほうがいいか2個振るほうがいいか自他のカードにあわせて判断する」「他プレイヤーが欲しがっている施設を先に買う」「他プレイヤーの収入や所持金を見てランドマークを建てるタイミングを決める」など、勝率を上げるための戦略はいくつも存在する。

 ただ、買うことのできる施設はゲームごとに変わるので、「いついかなるときも使える戦略」が存在しない。そのときの場のカードや他プレイヤーの持ちカードを見ながら「今ベストなカード」を選択しなければならない。

 だから毎回緊張感があるし、何度でも楽しめる。つくづくよくできたゲームだ。


対象年齢

 パッケージには10歳以上と書いているが、うちの7歳の娘でも十分楽しめんでいる。休みの日になると、起きてすぐ「街コロしよう!」と言いにくる。
 プレイヤーとしてだけではなく、銀行係もできる。
 20ぐらいまでの数の足し算・引き算ができればほぼ問題ない(一枚だけ「全員の所持金を均等に分ける」という割り算が必要になるカードがある)。

 ただ惜しむらくは、カードの説明文の漢字にふりがながないこと。そのせいで7歳は説明文が読めない(何度もやっているうちにおぼえたけど)。

 リニューアルする際はぜひふりがなをつけてください……!


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2021年3月24日水曜日

【読書感想文】人生に必要な何もしない期間 / 工藤 啓 西田 亮介『無業社会』

無業社会

働くことができない若者たちの未来

工藤 啓  西田 亮介

内容(e-honより)
15~39歳で、学校に通わず、仕事もしていない「若年無業者」2333人のデータから見える本当の姿とは。現場を知るNPO代表と気鋭の社会学者によるミクロとマクロ双方の現状認識と衝撃の未来予測、いま打つべき方策を解き明かす!


 データとインタビューを通して、仕事に就いていない若者(といっても30代まで含む)の状況についてまとめた本。2014年刊行なので少し内容が古いが。



 ぼく自身、かつては無業の若者だった。新卒で就職した会社をすぐに辞めた。
 一応表向きの理由は「体調不良」ということにしていた(実際、微熱が続いた)が、じっさいは「働きたくなかった」が最大の理由だった。

 学生時代、愚かにも「なにかしらの分野でぼくの才能が世に認められて若くしてクリエイティブな仕事につく」とおもっていたので(もちろん何の行動も起こさないまま)、就活自体がすごくイヤだった。
 けれど大学院進学をする気はなかったので就活をしないわけにもいかない。親の金で四年生大学を出て「フリーターでもやるわ」というわけにもいかず、嫌々就活をした。そんな態度が透けて見えたのだろう、コミュニケーションが得意でなかったこともあり、受けた会社はことごとく不採用だった(というよりえり好みをしてそもそもあまりエントリーしなかった)。
 自慢じゃないが、いや自慢だが、かなりの高学歴なのにことごとく落とされたのだから(実際書類では落とされたことはほぼなかった)よっぽど面接がひどかったのだろう。

「才能あふれる自分」という自己イメージと、「就活市場でまったく評価されない自分」のギャップに苦しみ、最初に内定をもらった会社にとびついた。今おもうとその会社に行きたかったわけではなく、就活を終わらせたかっただけだった。

 そんなわけで、入社した会社でうまくいくわけもなく。おまけにその会社はかなりのブラック企業で、日付が変わるまでの残業があたりまえ、給与も事前に聞いていた条件とちがい、社長はパワハラ体質。なにもかもがいやになって、体調が悪くなったのを「いい口実ができた」とばかりに退職した。


 それから一年ばかりは実家で何もせずに過ごした。ほんとに何もしなかった。
 月一ぐらいで通院はしていたが、それほど体調が悪いわけでもなかったので、同じく無職の友人とサッカーをしたり、プールで泳いだり、朝からマラソンをしたり、体調不良を理由に無職になったくせにやたら健康的な日々を送っていた。

 はじめは「体調不良!? 大丈夫? ゆっくり休んで治しなさい」と心配していた両親も、息子が頻繁に遊びに行っているのを見て、「もう働けるでしょ」とプレッシャーをかけてくる。
 仕方なく書店でバイトをはじめ、一年ぐらいして「正社員にならないか」と声をかけられた。「まあだめだったらまたフリーターか無職に戻ればいいや」と正社員になり、それから二回転職はしたが十数年間なんとか正社員として働いている。運よく無職を脱出したわけだ。
 ほんとうに運がよかった。あのときバイトをしていなかったら、あのとき正社員採用の声をかけてもらえなかったら、今も無職(またはフリーター)だったかもしれない。自分の意思というより、なりゆきで無職を脱出しただけだ。


 今にしておもうと「就職なんてもっと気軽に考えればいいのに」とか「だめだったらすぐ転職すればいい。さほどブラックじゃない会社なんていくらでもある」とか「会社との相性なんて入ってみないとわからないんだから、すぐ辞めたっていい」とか「『新卒で少なくとも三年は続けないと次がない』とかあれ完全にウソだから」とかわかるんだけど、当時は就職って一世一代の大勝負だったんだよなあ。まだ終身雇用制というフィクションがぎりぎり信じられていた時代だったし。

 無職だった期間はたしかに何も生まなかったけど、あれはたしかにぼくにとっては必要な期間だった。あのときのぼくは、どの会社に入社していたとしても、きっとすぐに辞めていただろう。
 そこそこ経済的に恵まれた実家を持ち、自分の能力を過信していたぼくが働けるようになるには、「無職のつらさ」を一定期間味わう必要があったのだ



 若い人が無職でいることは、損だ。
 当人や家族にとってはもちろん、国全体にとっても。
 ずっと仕事をせずに将来生活保護を受けるのと、働いて毎年税金を納めてくれるのでは、国家の財政にとって、ひとりにつき数億円の違いがある。
 ということは、無職でいる若者を職場復帰させるためなら一人につき一億円かけても(長期的には)損じゃないということだ。どんどん税金を使って救済したほうがいい。

「働け。やる気になればなんでもできる。選ばなければ仕事なんていくらでもある」と口を出して金を出さないのは馬鹿のやることだ。言う側がすっきりするだけだ。
 「無職期間の長い人を○年以上雇用した会社には五百万円の助成金をあげます」とかやったほうがいい。安いもんだ。(そうすると助成金欲しさのブラック企業が数年雇ってその後はひどい扱いをして切り捨てたりするだろうからそんな単純な話ではないだろうが)

 ところが、政府の就業支援は貧弱だ。まるで目先の収支しか考えていないかのように。
 就業支援は、「個人の責任」「家族の支援」に依存している部分が大きい。自助、共助が好きで公助が嫌いなこの国らしい。

 日本は、家族を最小単位として捉え、個人の状況は個人のものとしてみることが少ない。欧州の支援者に聞くと、若者が困窮している状況にあれば、親がどれほど経済的に恵まれていても、若者は必要な支援を受けることができるという。家庭の所得や親子間の関係性に左右されない支援の枠組みが整っている。
 彼の事例を見る限りにおいて、私たち個人がどのような状態になっても最低限の住環境が保証されるセーフティネットが張られていないことそのものが社会的なリスクではないだろうか。

 最近も生活保護受給にあたり、親戚の経済状況を確認するかどうかが話題になっていたが、大人の生活を考えるのに「実家にお金があるか」なんてまったく考える必要がないよね。みんながみんな実家に頼れるわけじゃないし。

 働けない若者を支援するのは、国のためにもなるんだからどんどん支援したらいい。


 この本の筆者の一人でもある、NPO法人育て上げネットの理事長、工藤啓は、「日本の公的機関には、青年や若者を専門に担当する部署がなかった」と指摘してきた。
 社会経済的状況の変化のなかで、半ば場当たり的に、支援対象を拡充してきたものの、日本の場合、長く日本型経営のような珍しい大量採用の習慣に支えられたこともあって、若年世代は失業率も低く、主要な弱者として認識しにくい存在であった。
 そのため、顕著な支援対象として認知されておらず、支援に特化した担当課も存在しなかったのだ。
 若年無業に関する言説が顕著に増加したのは、2000年代以後のことである。非正規雇用の増加や「ひきこもり」や「ニート」という言葉をメディアで目にする機会も増えていった。また経済状況の低迷の煽りを受けて、若年世代の失業率や非正規雇用率もじわりと上昇するようになった。2010年代に入って、若年世代の非正規雇用率は3割を超えるようになっている。

 さすがに昔ほどではないが、やっぱり今でも「働かないのは甘え。仕事なんて選ばなければいくらでもある」論が幅を利かせてるもんね。そりゃあ「命や精神を削る仕事でも、ギリギリ食っていけるぐらいの収入しかない仕事でもいいから働きたい」ってんなら仕事はあるけどさ。それって「その気になれば土でも石でも食える」ってのと同じぐらいの暴論だよね。
 いい暮らしをするために働くのに、働くためにいい暮らしを捨ててどうすんだよ。


 ぼくは無職として過ごした時間があったおかげで、今はそれなりに働いて子育てもして、人並みに暮らしている。無職だった時間はぼくにとって必要な時間だった。

 赤ちゃんの時期は何も生みださないし周囲の手も煩わせるけど、赤ちゃんの時期をすっとばしていきなり大人になれるわけじゃない。大きくなるために必要な期間だ。
 同じように、ある人たちにとっては「何もしない期間」も人生において必ず必要な期間だという認識が広まってくれればいいな。

 運よく何もしない期間を経ずに社会人になれた人にはなかなか理解されないんだけど。


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2021年3月22日月曜日

【読書感想文】女王の分身の術 / 松浦 健二『シロアリ ~女王様、その手がありましたか!~』

シロアリ

女王様、その手がありましたか!

松浦 健二

内容(e-honより)
ここにはもうひとつの世界がある―ベニヤ板の下のシロアリワールドに魅入られた少年は、長じてその謎に挑む。同性カップルで子づくり?水中で1週間!?次々と明らかになる仰天の生態。そして体力と知力を尽くして突き止めた、したたかな女王の「奥の手」とは…。“かわいすぎる”イラストとともに送る、ため息の出るような自然の驚異。


 アリはおもしろい。
 ぼくは子どものときアリを飼っていた。学研の『科学』の付録のアリの巣観察キットで。

こんなやつ

 アリはどれだけ見ても飽きない。
 知れば知るほど驚きに満ちている。『クレイジージャーニー』のアリマスター・島田拓氏の回も、『香川照之の昆虫すごいぜ!』のアリ回もおもしろかった。

 農業もするし、畜産もする。分業もすれば同種内で助け合い、さらには他の生物とも助け合う。こんなに社会性の高い動物は、ヒトを除けばアリ(次いでハチ)ぐらいのものだ。

 で、アリの本を探していたがちょうどいいのがなく、『シロアリ』という本が見つかったので買ってみた。
 そして知った。シロアリはアリとはまったく別の昆虫だということを……。

 アリはハチに近いが、シロアリはアリよりもゴキブリに近い生き物なんだそうだ。名前に「アリ」とはついているが、アリとはぜんぜん関係ないんだそうだ。知らなかった……。どっちも群れて暮らしているから、土に巣をつくるのががアリで木に巣をつくるのがシロアリかとおもっていたよ……。



 シロアリの生態はこの本を読むまでほとんど知らなかった。「家の木材を食ってしまう害虫」という認識しかなかった。たぶんみんなそうだろう。

 だがこの本を読むと、シロアリはアリに負けず劣らずすごい生き物だ。じつに高度な社会を築いている。

 たとえば。
 繁殖期になるとオスとメスのカップルができるわけだが、オス同士、メス同士のペアもできあがるらしい。

 べつに同性愛傾向があるわけではなく(中にはそういうのもいるのかもしれないが)、二匹で並んでいると敵に捕食されにくいためらしい。

なんと、メス同士のタンデムができると、あたかも異性のカップルができあがったかのように、直ちに朽ち木に潜り込み、共同で巣づくりを始めたのだ。さらに、単独のメスはオスを求めて歩き続けるが、どうしてもオスが見つからない場合は、一匹で巣づくりを開始した。そして、全く予期していなかったことだが、オスの存在しない二匹のメスのペア(以下では「二雌ペア」とよぶ)やメス一匹だけ(以下「単独雌」)の巣でも卵が産まれ、その卵から正常に幼虫が孵化して発育したのだ。

 さらに驚くことに、メス同士のペアでも卵を産み、ちゃんとその卵から幼虫が孵化するというのだ。事前にオスと出会って受精していたわけでもない。いったいなぜ?

 その答えはこの本を読んでいただくとして、メス同士でも産卵・繁殖ができる理由を読むと「なんとよくできたシステムか」と感心する。
 いろんなケースに備えて、生き残り、子孫を残すための戦略をたくさん持っている。



 アリやハチは女王がいてオスの王はいないが、シロアリは王と女王がいる。
 オスの王は長く生き、オス王が死ぬとコロニーは死滅する。アリやハチの巣の寿命=女王の寿命なのと対象的だ。

 一方、シロアリの女王は王よりも早く死に、女王が死ぬと別のシロアリが女王(二次女王)になる。二次女王は通常数十匹、多いコロニーだと数百匹の二次女王が存在するそうだ。

 一匹の王に対して数百匹の女王! すごいハーレムだ! ……とおもいきや、そういうわけでもないらしい。

 遺伝子解析の結果が示したことは、私の予想の範囲をはるかに超えたものであった。二次女王たちは創設王の遺伝子を全くもっていなかった、つまり創設王の娘ではなかった。何と彼女らは、創設女王が単為生殖で産んだ娘たち、すなわち創設女王の分身だったのだ! 先ほど、ヤマトシロアリは自然界で最大のハーレムを形成すると説明したが、王様を取り巻く大勢の美女たちは、遺伝的にはただ一匹の妻と同じだったのだ。ハーレムと聞くと、男にとっては何だかパラダイスのような響きがあるのだが、こちらはどうも悪夢のようだ。夫婦げんかをしても、妻の分身が六〇〇人もいたのでは、勝てる気がしない。正直、一人でも難しいが。

 初代の女王(創設女王)は、単為生殖(交尾をせずに産卵する)によって女王を殖やせる。二次女王は創設女王のクローン……ではなく、分身のような存在だ。創設女王と遺伝子が半分一緒なので。
 わかりやすく説明すると、『ドラゴンボール』の天津飯が四身の拳によって四人になったけど戦闘力も四分の一になったようなものだ。うん、余計わかりにくいな。

 ちなみに二次女王は、産卵のペースが落ちるとワーカー(働きシロアリ)に食べられて、子どもたちの栄養になるそうだ。
 だが自身のコピーを作成して、常に若い状態で卵をどんどん産むので、食べられても生き残っていると言えるかもしれない。ピッコロ大魔王が死ぬ間際に卵を産んだのと同じだ。なんでもドラゴンボールで例えるな。


 シロアリの遺伝子を残すための戦略はほんとに優れている。
「種を残す」という生き物最大の目的からすると、人間なんかよりシロアリのほうがよっぽど高等な生物だ。まちがいなく、人類が絶滅した後もシロアリは生き残るだろうな。


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2021年3月19日金曜日

【読書感想文】あなたの動きは私の動き / マルコ・イアコボーニ『ミラーニューロンの発見』

ミラーニューロンの発見

「物まね細胞」が明かす驚きの脳科学

マルコ・イアコボーニ(著)  塩原 通緒(訳)

内容(e-honより)
「生物学におけるDNAの発見に匹敵する」と称されるミラーニューロンは、サルで発見された、他者の行動を見たときにも自分が行動しているかのような反応を示す脳神経細胞。この細胞はヒトにおいて、他者が感じることへの共感能力や自己意識形成といった、じつに重要な側面を制御しているという。ミラーニューロン研究の第一人者自らが、驚くべき脳撮像実験などの詳細を紹介しつつ、その意義を解説する。


 ミラーニューロンを知っているだろうか。ものまね細胞とも呼ばれ、他人の行動を観察しているときに、まるで自分がその行動をとっているかのように活性化する脳細胞だ。

 ごはんを食べるとき、脳の中の食事に関する部位が活発に働く。これは当然だ。
 だが、テレビの出演者がごはんを食べるシーンを見ているときにも、脳の中では同じ部位が活発に働く。自分は食べていないのに。

 同様に、殴られた人を見たときは痛みを感じ、重いものを抱えている人を見たときは筋肉が緊張する。

 観察を通して、我々は他人の行動を追体験しているのだ(ちなみに見るだけでなく、聴くことによっても同様のことが起こる)。
 これはヒトだけでなく、高等なサルなど一部の動物でも起こる。
 この追体験を引き起こしているのがミラーニューロンであり、ミラーニューロンによって我々は学習をしたり他人の感情を想像したりできるのだ。

人が精密把持でカップをつかむのを見れば、私の精密把持ミラーニューロンは発火する。これまでのところ、私は把持行動をシミュレートしているだけだ。しかし、その背景が飲むことを想起させるなら、ほかのミラーニューロンの発火もそのあとに続く。それらが私の「論理的に関係する」ミラーニューロンで、この場合ではカップを口元に運ぶ行動をコードするミラーニューロンである。この一連のミラーニューロンを活性化させることにより、私の脳は他人の意図をシミュレートすることができるのである。ガレーゼの言葉を借りるなら、「他人がもう一人の自分になるようなもの」だ。あるいはメルロ=ポンティの言葉を借りるなら、「他人の意図が私の身体に住みつき、私の意図が他人の身体に住みつくようなもの」である。ミラーニューロンの助けによって、私たちは他人の意図を自分の脳内で再現できる。そして他人の心理状態を深いところまで理解できるのである。

 我々は、他人の気持ちをある程度理解できる。「今怒ってるな」とか「機嫌いいな」とか。それは、ミラーニューロンによって他人の行動を追体験しているからだ。

 



「誰かと会話をする」
「誰かに向かって話をする。相手はじっと聞いていて、自分だけが話す」
というふたつのシチュエーションを考えてみる。
 どっちがやりづらいかと訊かれると、多くの人は後者のほうだと答える。「対話」よりも「スピーチ」のほうがしんどいのだ。

 でもよく考えてみれば、一人語りのほうが負担は小さいようにおもえる。
 一人語りならどういう構成で話すか事前に計画が立てられるが、対話だとどういう方向に話が転がっていくか予測しづらい。また話のペースも、一人で語るときのほうがコントロールしやすいはずだ。

少なくともあと二つの大きな要因から、一人語りは容易だと言える。第一の要因は、発言の様式に関係している。たいてい一人語りをする場合は構造の整った完全な文章になるけれども、会話の発言はほぼ例外なく断片的で、足りない情報を聞き手が推測して補わなくてはならない。そして第二に、会話においては話し手と聞き手の役割交換が矢継ぎ早に行なわれる。これはきわめて負担の大きい認知作業である。

 ロボットなら、「一方的に話す」ほうが圧倒的にかんたんだ。対話は高度な技術を要する。

 にもかかわらず、人間は一方的なスピーチよりも対話のほうを得意とする。
 それもまたミラーニューロンによって、相手の「話す」動作を自分でも経験しているからだ。
 相手が行動を起こさなければ相手の感情が読めず、不安になるのだ。




 ミラーニューロンが行動を助けているというより、我々はミラーニューロンによって動かされている。

じつのところは擬態が先で、それが認識を補助するという考えである。その仕組みは、こんなふうではないかと推察できる。まず、ミラーニューロンが当人に考えさせる間もなく自動的に他人の表情のシミュレーション(本書でときどき使っている言葉で言うなら「脳内模倣」)を行なわせる。このシミュレーションの過程には、擬態される表情の意図的かつ明白な認識は必要とされない。これと同時に、ミラーニューロンは大脳辺縁系に位置する感情中枢に信号を送る。このミラーニューロンからの信号によって誘発された大脳辺縁系の神経活動が、観察された表情と関わりのある感情を私たちに感じさせる。微笑んだ表情なら喜びを、眉をひそめた表情なら悲しみを、といった具合である。これらの感情を自分の内側で覚えたあとで、初めて私たちはそれを明白に認識できる。歯のあいだに鉛筆をくわえることを求められた被験者は、この鉛筆をくわえるという行動に必要とされる運動活動によって、観察した顔を擬態するはずのミラーニューロンの運動活動を妨げられる。したがって、その後に起こるはずだった感情の明白な認識へとつながる神経活性化のカスケードも、途絶えさせられてしまうのである。

 笑っている人を見ると楽しくなる。つられて笑顔になってしまう。

 我々は「笑顔を見ると自分も楽しくなる。だから笑顔になる」と理解する。だがじっさいには順番が逆で、「笑顔を見ると自分も笑顔になる。だから楽しくなる」なのだ。模倣が先で感情は後からついてくるのだ。

 だから「鉛筆を歯でくわえる」ことによって表情の模倣が封じられてしまうと、相手の感情が読めなくなる。

 自閉症の治療もミラーニューロンがカギを握っているという。
 自閉症はミラーニューロンの機能が他の子よりも低い。「他者の真似をする」能力が低いのだ。そこで、セラピストが自閉症児の行動を模倣したり、逆に模倣させたりすると、自閉症の子は他者との関わり方を身につけるようになるのだそうだ。


 ぼくには七歳と二歳の娘がいるが、彼女たちを見ると「人間って真似によって成長するんだな」と気づかされる。

 二歳児の言語能力の発達はすさまじい。毎日新しい言葉をおぼえる。昨日は使わなかった言葉を使うようになっている。
 だが、言葉の意味を理解して使っていない。周囲の人が話す言葉を真似しているだけだ。真似して意味もわからず使っているうちに、
「この言葉はこの状況にふさわしい」
「ここでこれを言ってもおもうような反応が得られなかった」
という経験を通して、言葉の意味を理解してゆくのだ。たぶん。

 七歳の娘もそうだ。自転車に乗れるようになったのも、さかあがりができるようになったのも、一輪車に乗れるようになったのも、きっかけは真似だ。他の子がやっているのを見て、真似をして、乗れるようになった。
 自転車に乗っている人を一度も見たことがない子は、どれだけ「これにまたがって足でここをまわすように動かせば速く走れるよ」と言ってもきっと乗れるようにはならないだろう(というか乗ろうとすらしないだろう)。

 模倣がなければ成長はない。



 共感や学習に役立つミラーニューロンだが、いいことばかりでもない。負の面もある。

 たとえばアルコール依存症の人が、他人が飲酒しているのを見るとミラーニューロンによって自分も飲んだような気持ちになり、かんたんにまたアルコールに手を出してしまう。

 研究室の設定状況の中で子供を使って行なわれる、調整された実験の結果ほど明白で決定的なものはないだろう。そして実際に、メディア暴力への頻繁な接触は模倣暴力に強い影響を及ぼしていた。一般に、この種の実験は子供に短い映像を見せるかたちで行なわれる。暴力的な映像と、そうでない映像を見せるのである。その後、子供が別の子供といっしょに遊んでいるところや、倒しても自動的に起き上がる空気で膨らませた等身大の「ボボ人形」などを相手にしているところを観察する。すると、これらの実験でたいてい観察される一貫した点が見つかる。暴力的な短篇映像を見た子供は、暴力的でない映像を見た子供に比べ、その後に攻撃的な行動を人間に対しても物体に対しても見せることが多くなるのである。このメディア上の暴力による模倣暴力への影響は、未就学児にも思春期の子供にも、男児にも女児にも、生来の性質が攻撃的な子供にもそうでない子供にも、そして人種にも関わりなく、一貫して観察されている。この結果はかなり説得力のあるものだ。

 暴力映像に触れる機会が多い子ほど、暴力的な行動をとった(しかもその傾向は継続した)。

 これはあくまで実験室での結果であって、「だから暴力的な映像やゲームが暴力を助長する」とは断言できない。だが「相関がある可能性はすごく高い」とは言える。

 暴力的なゲームをしても暴力をふるわない子もいるし、ゲームに関係なく暴力を振るう子もいる。「元々暴力的な子が暴力映像を好む」という逆相関もあるだろう。
 しかし、全体的な傾向としてはやはり暴力映像が暴力行動につながりやすいといえそうだ。

 でも、規制にはつながりにくいんだよね。
「暴力的な映像やゲーム」は多くの人が求めているから一部の人にとって金になるが、暴力反対は(直接的には)金にならないから。社会全体として見れば暴力が減れば大きなコストカットになるんだけど。
 暴力映像によって金儲けをしてる人は、「どうやら暴力を促す傾向があるみたい」では納得してくれないから。

 でもある程度は規制したほうがいいんだろうな。
 表現の自由もあるから「暴力映像を全面禁止しろ!」とは言わない。ぼくはどちらかといえば規制反対派だ。刺激的な映像を観たいときもあるし。暴力表現を伴うニュースを報じないことがいいともおもわない。

 だけど「暴力映像は暴力を誘発しやすい」という認識は常に持っておく必要はあるよね。作り手も、受け手も。
 それを承知で作るのと、「それでも伝えなければならないことがある」という覚悟で作るのはぜんぜんちがうよ。


「暴力映像を観たからといって暴力的になるわけじゃない! 人間はそんなに単純じゃない!」
と言いたくなる気持ちはわかる。

 だが、残念なことに人間は単純なのだ。目にしたものを無意識に真似してしまうのだ。無意識だから止めるのがすごく難しい。

「気の持ちよう」「意志あるところに道は通ず」なんていうけど、人間の意思ってそんなに自由じゃないんだよね。環境や身体によって左右される部分が大きい。つまり、自分ではどうにもならない。


 このミラーニューロン、知れば知るほどおもしろい。

「意思はどこまで自由なのか」とか

「他者の行動を自分も(脳内で)体験しているのなら、自己と他者の間に境界線を引けるのだろうか」

とか、いろいろ考えてしまうね。


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2021年3月18日木曜日

【読書感想文】監視国家になるのは中国だけじゃない / 梶谷 懐 高口 康太『幸福な監視国家・中国』

幸福な監視国家・中国

梶谷 懐  高口 康太

内容(e-honより)
習近平体制下で、政府・大企業が全人民の個人情報・行動記録を手中に収め、AI・アルゴリズムによって統治する「究極の独裁国家」への道をひた走っているかに見える中国。新疆ウイグル問題から香港デモまで、果たしていま、何が起きているのか!?気鋭の経済学者とジャーナリストが多角的に掘り下げる!

 中国で国家による監視体制が強化されているという話を聞いたことがあるだろう。

 いたるところに監視カメラが置かれ、借金の返済歴や税金の滞納歴などによって各人の信用スコアが計算され、信用スコアが高い人は様々な恩恵を受けられる一方、国家(=中国共産党)から目をつけられた人は不利益を被る。

 ぼくも以前、テレビで「信用スコア」の特集を見たことがある。多くの市民は「いい制度です」と褒める(本心か、それとも政府批判をおそれているのかはわからないが)一方、制度によって不利益を被っている人は悪しざまに批判していた。

 テレビを観ていたぼくは「とんでもないディストピアじゃん。まるでオーウェルの『一九八四年』だ」とおもった。今考えると、その番組自体がそう思わせるような作りになっていた。
「ほら、中国ってヤバいでしょ。党の監視と相互監視で息詰まる監視社会なんですよ。日本は自由でよかったよね」という構成だった。


『幸福な監視国家・中国』は、実際に現地入りして中国の監視システム・信用スコアシステムについて紹介している。
「ほら中国は人権無視のひどい国でしょ」というスタンスではなく、メリット・デメリットを併記して、冷静に制度の功罪を観察している。

 栄成市の信用スコアは基準点が1000点。違反を起こせば減点、よいことをすれば加点されます。1000点はB級という位置づけですが、違反によって信用スコアが下がるとC級に転落します。そうすると、暖房補助金や交通費補助金など各種の申請ができなくなるという制限がかかります。逆に高得点だと、融資が受けやすくなる、金利が下がるなどの特典があります。道徳的信用スコアが高い住民にこれまで累計で1億5000万元(約24億円)が融資されたそうです。また個人だけではなく、企業を対象とした信用スコアもあり、AAA級という最高評価を得た企業16社に2億2000万元(約35億円)が融資されました。
 こう聞くと息苦しいようにも思いますが、その一方で「市民のための」サービスが極めて充実しています。ビーチはシャワーやロッカーの利用料が無料。市内各所の駐車場も無料です。バスはすべてGPSで位置を特定されているため、バス停には次のバスが到着する正確な時間がスクリーンに表示されています。きわめつけは市民サービスセンターです。前述のとおり、中国では証明書取得のために走り回らなければならないのが庶民の恨みのタネですが、栄成市では市民サービスセンターにすべての部局の出先機関が集中しているため、すべての手続きが一回出向くだけで終わります。電子政府化による各部局間の連携も緊密です。
 しかも「栄成市の公務員はともかく態度がいいんです。悪い態度を取ったらすぐに市民に通報されて、公務員の信用履歴が傷つくことになるんです」とガイドは言います。つまり、栄成市は公共サービスが充実し、行政手続きも楽になった。その一方で息苦しさを覚えるような監視社会でもあるわけです。電子政府化の徹底により市民の利便性を向上させることと、どこか息苦しい監視社会であることは一体のものとして存在しています。

 もっとも栄成市の信用スコアは設計されたものの(少なくともこの本の執筆時点では)ほとんど運用されておらず、ほとんどの市民が1000点のまま増えも減りもしていないそうだけど。

 読んでいると、信用スコアも意外と悪くないんだなという気になる。

 ふだんは意識しないけど、社会には「他人が信用できないから支払わなければならないコスト」がたくさんある。

 各種セキュリティシステム、万引き防止ゲート、ローンや借入金の審査、契約書の作成、日報の作成……。
「盗まれないように」「ずるされないように」「逃げられないように」「騙されないように」「サボらないように」といった目的で、いろんなコストを負担している。それらの費用は仕事は全員で負担することになるため、「一部の悪いやつのためにみんながちょっとずつ損をする」システムになっている。
 悪いやつがいなければ警察も警備員もいらないし、書かなくてはならない書類もずっと少なくて済むし、生産性の低い(被害を減らすだけの)仕事も削れる。

 でも現実に世の中には悪いやつがいる。なぜ悪いことをするのかというと、悪いことをすることに比べて受ける罰がずっと小さい(と当人はおもっている)からだ。

 もしも「盗みをはたらいたら片腕を切り落とされる」だったら窃盗はずっと少なくなるだろう(ただし万引きがばれたら店員を殺してでも逃げる、になりかねないけど)。

 そこまで極端じゃなくても「駐車違反をしたらその記録が一生残って就職も結婚も不利になる」であれば、駐車違反はぐっと少なくなるに違いない。

 そして駐車違反が激減すれば駐車監視員も必要なくなるし、有料駐車場は儲かるし、事故は減るし、車は走りやすくなるし、(元々駐車違反をしない)善良な市民にとっていいことづくめだ。


 性善説に立てばいろんなコストを抑えられる。これはまちがいない。
 功利主義の「最大多数の最大幸福」という立場に立てば、(国家あるいは国民同士の)監視を強めていく方向に進む。中国だけでなく、欧米も日本も近い将来そういう方向に進んでいくだろうと著者は指摘する。それは国家が推進するというより、国民自身が「監視される」ことを選ぶだろう、と。市民にとっては得られる利益のほうが多いから。

 ぼくもそうおもう。
 人間は監視したいんだよね。よく田舎は相互に監視しあっていて全部隣近所に筒抜けになるというけど、それは人間が監視が好きだから。都会人だって、できることなら監視したい。近所に怪しい人が引っ越してきたとかの情報は入手したい。ただキャパシティ的にできないからこれまでやってこなかっただけで。

 ところがテクノロジーの発達によって、広範囲かつ多くの人を監視できるようになった。
 ということは、これからはどの国も監視社会になる。中国こえーとか言ってる場合じゃない。




 中国の状況を読んでいると、「相互監視社会・信用スコア社会も意外と悪くないな」とおもえてくる。

「中国の消費者はプライバシーが保護されるという前提において、企業に個人データの利用を許し、それと引き換えに便利なサービスを得ることに積極的だ」
 検索サイト最大手百度の創業者である李彦宏が、2018年3月に開催された中国発展ハイレベルフォーラムで行った講演の一節です。個人データを提供することで、多くの便利なサービスが使える。考えてみれば、私たちもグーグルやフェイスブックに多くの情報を提供することで優れたサービスを享受していますが、中国ではさらに多くの情報を渡し、さらに多くの利便性を得るという形で、より積極的な取引が行われているのです。
 情報の提供はたんに便利なサービスを使えるようになるだけではありません。企業は料金だけではなく、データというもう1つの「報酬」を得ているため、低価格でサービスを提供することができます。もしデータ取得を厳しく制限してしまえば、それは同時にサービスが使いづらくなり、かつ料金も上がるということにつながります。プライバシーを守ることと、便利さや安さをどうバランスするかという判断を、私たちは求められているということです。

 ぼくもGoogleやAmazonといったサービスには、積極的といってもいいほど自分の情報を提供している。なぜなら、情報を提供したほうが使い勝手がよくなるからだ。リスクもあるが、メリットの方が大きいと判断している。


 だが、監視社会・相互監視社会も悪くないとおもえるのは、ぼくが日本人・男性・会社員という〝マジョリティ〟の立場に属しているからだ

 この本には中国共産党からウイグル族への弾圧についても書かれている。
 よく知られているとおり、中国共産党は新疆ウイグル自治区に対して激しい弾圧を加えている。ウイグル人である、イスラム教徒であるというだけの理由で拘束・拷問・洗脳などがおこなわれている(さらに中国は経済大国なので日本政府含め諸外国は強く非難しない)。

「ウイグル族は犯罪率が高い」などのレッテルを貼り、それを根拠として監視の対象とする、自由を奪うことが正当化されているのだそうだ。抵抗すれば逮捕され、「やはりあいつらは犯罪率が高い」という主張は強化される。

 映画『マイノリティ・リポート』で描かれた「将来犯罪をするやつは先に逮捕する」という未来がすでに現実化しつつあるのだ。

 新疆ウイグル自治区や香港での弾圧を見ていると、監視カメラが市民の安全確保のためだけに使われるわけではないのは明らかだ。

 ぼくが少数民族の人間や外国人であれば、すみずみまで監視カメラがゆきとどいた社会はきっとおそろしいものだろう。少なくとも気軽に「相互監視社会・信用スコア社会も意外と悪くないな」とは言えないだろう。




 これから監視社会になるのは、たぶん止められない。
 だから最大の問題点は誰が監視するのか、誰がルールを作るかだ。

 ルールを作る人間は、まちがいなく自分が有利になるルールを作る。政府も警察も司法も身内には甘い。
「警察がカメラで監視」にすると、警察にとって都合のよい運用をされることが目に見えている。

 だから監視社会にするのなら、おもいきって
「監視カメラの映像はリアルタイムで誰にでも見られるにする」
ぐらいにしなきゃだめだ。

 それはそれで悪いこともあるだろうけど、一部機関の恣意的な監視よりはずっとマシだ。




 ところでこの本、経済学者である梶谷氏とジャーナリストである高口氏による共著なのだが、ふたりの執筆スタンスや文体がまったく違う。
 現地の人の声を中心に「中国の現状」を紹介する高口氏に対して、梶谷氏の文章は倫理学や行動経済学の話が中心だ。

 個人的には高口氏のパートはおもしろかったが梶谷氏パートは難解で眠くなった(寝る前にこの本を読んでいたので入眠にはちょうどよかったが)。

 まったく別の本って感じだったな。


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2021年3月17日水曜日

【読書感想文】運動に巻きこまないでくれ / 大野 更紗 開沼 博『1984 フクシマに生まれて』

1984 フクシマに生まれて

大野 更紗 開沼 博

内容(e-honより)
難病体験を綴ったエッセイ『困ってるひと』が大好評を博した大野更紗。福島の原発を通して、中央と地方の関係に切り込んだ『「フクシマ」論』が高く評価された開沼博。同じ1984年に福島で生まれた注目の若手論客二人が、「3.11」「原発」「難病」「オウム」などを切り口に、六人の職者と語り合う!


 共に1984年生まれで福島県出身の社会学者二人による対談、およびゲストを招いての鼎談。


 おもしろい話題もあったけど、全体としてぼくは「とっつきづらさ」を感じた。
 このとっつきづらさはどこから来るのだろうと考えたんだけど、「社会学者の言葉」を使って語りあってるからなんだとおもう。特に開沼氏。
「周縁的な存在」とか「硬直化した既存の知の枠組み」とか。
 べつにわざわざ小難しい言葉を使おうとしているわけじゃなくて、社会学者同士のやりとりの中ではふつうに使ってる言語なんだろうけどさ。
 でもそれってギョーカイ用語とかギャル語と同じで、部外者に語りかけるための言葉じゃないんだよね。多くの人に手にとってもらう文庫に載せるのにふさわしい言葉じゃない。

 だからこの本全体に漂うのは「多くの人に語りかける」ではなく、「おれたちの話をおまえらにも聞かせてやる」というトーン。本人が意図してるかどうかは知らないけどさ。


 鼎談のパートは「社会学の外の人」としゃべってるからちゃんと共通語でしゃべってるんだけど、それ以外の文章はまったくなじみのない方言を聞かされているようで、読んでいる側としてはすごく居心地が悪かった。




 鼎談では、日本ALS協会理事である川口有美子氏を招いての『難病でも生きてていいんだ!』と、ドキュメンタリー映画監督である森達也氏の『この国の人たちは、もっと自分に絶望したほうがいい』がおもしろかった。

 川口有美子氏の話。

 ALSは自分で予後を選べる病気と言われています。生きるか死ぬか決めなければならない時、インフォームド・コンセント(患者が治療法などを医師からきちんと説明されたうえで同意すること)が必要になります。そこで、「呼吸器をつければ二十年生きられる。つけなかったら死ぬ。二十年自力では何もできないけれど生きるか、それが嫌だったら死ぬか、どちらを選びますか? ただ二十年生きるほうを選んだら、家族は二十四時間在宅介護をしなければならず、子どもは介護に縛られ結婚も就職もできません。その他にもこれだけ家族に迷惑をかけます」という話をされます。これでも医師の中立的な説明とされる。でも、こんなんじゃ、呼吸器をつけたいとはなかなか言えませんよ。どうやれば生きていけるかという説明ができる医師は少ない。残念なことに。

 ぼくは尊厳死賛成派だったけど、これを読んで考え方が変わった。
 たしかに「家族に迷惑をかけながら二十年生きますか?」と言われたら「それでも生きます」とは言いづらいだろう。でも、その選択が正しかったかどうかは、生きてみないとわからないんだよなあ。


 ある日突然目が見えなくなったら絶望するだろう。どうやって生きていけばいいんだろうと途方に暮れる。今までの生活をすべて手放す必要があるのだから。その段階で「尊厳死しますか?」とささやかれたら、うなずいてしまう人も多いだろう。

 でも、世の中には目の見えない人がいっぱいいるわけで、その人たちが日々絶望しながら生きているかというと、そんなことはない。目が見えなくたって仕事も娯楽も生きがいもたくさんある。

 絶望を感じるとしたら、それは「目が見えないことに対する絶望」ではなく「これまで手にしていたものを失う絶望」で、ない状態に慣れてしまえばなんとかやっていける。たぶん。
 四十年間ひとつの会社で正社員として働いていた人がある日派遣社員になったらすごく不安だろうけど、ずっと無職だった人が派遣社員になるのは好転だ。
 怖いのは「(ないという)状態」ではなく「(失う)という変化」なのだ。

 だから「だんだん身体が動かなくなって自力で呼吸することもできなくなります」って言われたらめちゃくちゃ怖い。すでにALSになっている人には失礼だけど、そんな状態になっても生きている意味ってなんなの? とぼくはおもってしまう。

 だけど、失ってしまえば意外と平気なのかもしれない。だいたい五体満足なら生きていることに明確な意味があるのかというと、そんなこともないしね。

 よくよく考えてみれば、ぼくらは生まれたときから「余命百年の不治の病」に冒されている。難病や余命わずかだから生きる価値がないのなら、そもそも全人類が生きる価値がないことになる。

 難病を抱えた生活をよくわからないからこわいんだろうね。身近に難病の人がいて、病気になってもそこそこ楽しくやっているということを見知っていたら、自分が病気になったときもだいぶ恐怖がやわらぐかもしれない。

 自分が尊厳死すべきかどうか、適切な判断を下せる人なんていないよね。きっと。
 自分は理性的な存在だとおもってるけど、理性なんてかんたんに揺らぐものだから。




 森達也氏の話。

 ただ、僕はドキュメンタリーの大切な役目の一つに、人とは少し違う視点を提供することがあると思っています。そういう意味では、3・11直後のみんなが被災者に寄りそうという流れの中で、あえて違うところから被災地の現状を見てみようという思いはあったかもしれません。ただし視点を提供しようというモチベーションよりも、自分が見たいとの思いのほうが強い。とことんエゴイスティックです。社会のためなど口が裂けても言えない。

 森達也氏の映画を観たことがないのだけれど、「オウム真理教信者がごくふつうの生活を送っているところ」「震災の被災地に行って被災した人に怒られるところ」など、ニュース映像ではまず見られないシーンを収めているんだそうだ。

 たしかに、オウム報道も震災報道も一色に染まったもんな。
「オウムは悪いことをする、我々とはまったくべつの常識を持ったやつら」
「今こそ日本がひとつに。助け合おう」
みたいなトーンに染まって、それ以外の意見はまったく許されない空気になった。

 そこで「いやオウムの信者だって大半はただ救いを求めただけの善良な市民ですよ」とか「チリやインドネシアで地震が起きたってみんなすぐ忘れるんだから、東北の地震だって忘れてもいいよね。俺には関係ないし」なんて口にしようものなら袋叩きにされる〝空気〟が支配していた。

 最近だと、新型コロナウイルスによる第一回の緊急事態宣言のときもそうだった。
「自粛しましょう。出歩くやつは私刑!」
みたいな空気に染まった。まったく科学的根拠のない意見が幅を利かせて、「ほんとにそれ効果あるの?」「スーパーとかまで閉める必要ある?」なんてことは大声で言えない雰囲気だった。ぼくもそれにまんまと乗っかっていたからえらそうなことはいえないんだけど。

 そういうときに、「オウム信者も我々と同じようにふつうに飯食って寝てるんだよ」「被災者だって辛抱強く耐え忍んでるだけじゃなくてイライラしたり愚痴を吐いたり利己的な行動をとったりするんだよ」と映像を通して伝える森達也氏のような人は貴重だ(くりかえし書くが映像は観たことない)。

 山本七平『「空気」の研究』には〝空気〟を打ち破るために「水を差す」ことの重要性が説かれていた。

 国中が一色に染まっているときってたいてい悪いことが進行中だからね。東日本大震災の復興ムードだってまんまと増税に利用されたし。




 冒頭に「とっつきづらさ」を感じたと書いたけど、最後まで読んでどっと疲れた。
 この疲れはあれだ、就活のときに味わったやつだ。
 キラキラしたビジョンに向かってまっすぐ走る行動的な人たちのお話ばっかり聞かされたときに感じる疲れだ。

 この本に出てくる人はみんな社会に対して問題意識を持っていて、活動的で、それ自体はたいへんけっこうなんだけど、
「さあみんないっしょに走ろうよ!」
という感じがたいへん煙ったい。

「どうやって私たちの運動に多くの人を巻きこむか」ってしゃべってるんだけど、世の中には巻きこまれたくない人がいるんだよ。「みんなを巻きこまなきゃ!」という考えこそが周囲を遠ざけている、なんてこういう人たちにとっては想像の埒外なんだろうね。きっと。


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2021年3月15日月曜日

兼業クリエイター

 機械/ロボット/コンピュータ/AIが進化すれば、単純な労働は機械に任せて、人間はクリエイティブな仕事に専念できる。

 という話を耳にしたことがある。何度も。


 技術の進歩によって人間がやらなくてはならない単純な労働は減った。
 大きな石を人間が運ぶ仕事とか、本に書いてあることを書き写す仕事とか、そういう単純な仕事は機械がやるようになった。
 前にも書いたが、数十年前には「ボウリング場で倒れたピンを並べる係」がいたんだそうだ。そういう、「説明を五分聞けばほとんど誰にでもできる仕事」はどんどんなくなっている。
 タバコ屋の店番だったらかんたんな計算さえできれば誰にでもできたが、コンビニ店員として一人で店をまわそうとおもったら一ヶ月以上のトレーニングが必要だ。


 多くのクリエイターを支えているのは、単純な仕事だ。

 売れない役者やミュージシャンがいろんなアルバイトをしているという話をよく聞く。急な仕事の入る可能性のある彼らにとって「時間の融通が利く仕事」は命綱だ。
 時間の融通の利く仕事というのは、たいていの場合誰にでもできる仕事だ。「これはあの人にしかできない」という仕事に就いている人は、急に休んだり辞めたりできないのだから。
 誰にでもできる仕事が減っているということは、時間に融通の利く仕事も減っているということだ。

 この先、「誰にでもできる仕事」がさらに減っていったら、役者や芸人やミュージシャンやアーティストになるためにフリーターとして生きていく若者も絶滅寸前になるんじゃなかろうか。そんなことできるのは一部の裕福な家庭の生まれだけ。

 若い人は気づきにくいが、じつはフリーターよりまっとうな会社の正社員や公務員のほうがよほど時間に融通が利く。一部の職種を除き。
 決まった日に休みがとれるのでスケジュール調整しやすいし、まともな会社なら有給もちゃんととれる。
 なにより、「金がある」ことはいろんな面で時間の節約になる。無理して徒歩や自転車で移動しなくてもいい、ちょっとした買い物をするのにあれこれ悩む必要がない、時間がないときは外食やテイクアウトで済ませられる。「節約のための時間」を大幅に削れる。

 かつては役者やミュージシャンを目指す若者はフリーターになるのが一般的な道だったが、今後はサラリーマンや公務員からクリエイターになるほうが多くなるんじゃないだろうか。

 結局、労働からは逃れられないというこった。


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誰にでもできる仕事


2021年3月12日金曜日

【読書感想文】川の水をすべて凍らせるには / ランドール・マンロー『ハウ・トゥー バカバカしくて役に立たない暮らしの科学』

ハウ・トゥー

バカバカしくて役に立たない暮らしの科学

ランドール・マンロー(著) 吉田 三知世(訳)

内容(e-honより)
発売後、即ニューヨークタイムズ・ベストセラーリスト1位!引っ越しの手間を減らすには?スマホの自撮りがうまくなるには?明日の天気を知りたい。友だちをつくるにはどうしたら…?約束の時間が守れなくて困っています。私たちの日々の困りごとには、正しい解決法と間違った解決法があります。しかしじつは画期的な、「第3の暮らしの知恵」というのがありました。バカバカしくて楽しげだけれど、役には立たない解決法が。本書では『ホワット・イフ?』の世界的ベストセラー作家、ランドール・マンローが、それを具体的な問題に即して、わかりやすいマンガを駆使して惜しげもなく披露してくれます。身近な科学やテクノロジーを楽しく理解できるという、思わぬ余禄ももれなくついてきますよ。


 以前紹介した『ホワット・イフ?:野球のボールを光速で投げたらどうなるか』の続編のような本。
 タイトルは『ハウ・トゥー』で、「○○するには」という問いに対する答えが並ぶのだが、どの答えも現実的でない。
「スマホを充電するためにエスカレーターを利用した発電機を作る方法」みたいなのがひたすら並ぶ。


 たとえば、『川を渡るには』の章。
 川を渡るためにはどうしたらいいか。ぼくらがおもいつくのは、濡れるのを覚悟で歩いて渡る、泳ぐ、ボートに乗る、といったところだろう。

 ところがこの本では

  • 川を飛び越えるために必要な速度はどれだけか
  • 水面を滑るにはどんな道具とどんな乗り物を用意すればいいか
  • 川を凍らせるにはどれだけの電力が必要か
  • 川の水をすべて沸騰させるにはどれだけのエネルギーがいるか
  • 凧を使って川を渡ることは可能か

といった、まったくもって役に立たない答えが披露されている。

 カンザス川を凍らせるには87ギガワット(重量物運搬ロケットの打ち上げ時の出力と同じぐらい)が必要、ということを知っても何の役にも立たない。

 だがユーモアと知性たっぷりにつづられた文章は、役に立たなくても読んでいて楽しい。

『プールパーティーを開くには』の章。

 あなたのプールの底が海水面より高いところにあれば、海につなげても水は入ってこない。水はひたすら低いほうへ、海に向かって流れるだけだ。しかし、海をあなたのところまで持ち上げられるとしたら、どうだろう?
 あなたは運がいい。それは望むと望まざるとにかかわらず、実際に起こっている。温室効果ガスによって地球に熱が蓄積しているおかげで、海水位はもう数十年にわたって上昇しつづけている。海水位の上昇は、氷が溶け、水が熱膨張している相乗効果で引き起こされる。プールを水で満たしたいなら、海水位の上昇を加速させてみるといい。もちろん、気候変動が環境と人間に及ぼす測り知れない損害は一層ひどくなるだろうが、その一方で、あなたは楽しいプールパーティを開けるのだ。

 ただ「常識的に達成可能か」「意味があるか」「効率がいいか」「コストに見合う手段か」という意識から離れれば、課題に対する答えは意外とたくさんあるということに気づかされる。

 プールを水で満たすために地球温暖化を加速させる。すごい発想だなあ。




 へえそうなんだとうならされた記述。

 棒高跳びの物理は面白いもので、意外かもしれないが、ポールはあまり重要ではない。棒高跳びの要は、ポールのしなやかさではなく、選手が走る速さだ。ポールは単に、その速さの向きを効率的に上へと変える手段でしかない。理論的には、選手は何か他の方法を利用して、方向を前から上へと変えることもできる。ポールを地面に押しつける代わりに、スケートボードに飛び乗り、なめらかな曲線でできた斜面をのぼっても、棒高跳びとほぼ同じ高さに到達することができる。

 へえ。棒高跳びに必要なのは跳躍力じゃなくて速度なんだ。
 あれは跳んでるんじゃなくて「走ったままの速さで上に行く」競技なんだね。棒高跳びで高く跳ぶために必要なのは「速く走ること」と「重心が高いこと」なんだね(競技としてはうまくバーを越えるテクニックも必要だが、高く跳ぶためにはこのふたつが必要)。


 氷が滑りやすい理由は、じつのところ、ちょっと謎なのだ。長いあいだ、スケートの刃が加える圧力が氷の表面を溶かし、薄い水の層ができて、それが滑りやすいのだと考えられてきた。19世紀末の科学者や技術者たちは、アイススケートの刃が氷の融点を0℃から-3.5℃へと下げることを示した。「氷は圧力下では溶けやすくなる」という説は何十年にもわたり、アイススケートがなぜ可能かの標準的な説明として受け入れられていた。スケートは-3.5℃より低い温度でも可能だということを、どういうわけか誰も指摘しなかったのである。圧力下融解説ではそんなことは不可能なはずだが、アイススケートをする人は、常にそれを実際にやっているのだ。
 なぜ氷は滑りやすいかを実際どう説明するかは、驚くべきことに、今なお物理学で進行中の研究課題である。

「氷の上は滑る」ということは小学生でも知っているのに、いまだに物理学では「なぜ氷の上は滑るのか」を完全には説明できないのだそうだ。

 宇宙の果てとか深海とかを除けば科学はこの世のほとんどを解き明かしているようにおもってしまうけど、身近なことでも案外わかってなかったりするんだね。




 おもしろかったんだけど、全部で28章もあるので後半は飽きてしまった。ばかばかしいのはおもしろいけど、ずっとばかばかしいとうんざりしてくるね。
 この半分ぐらいの分量でもよかったかも。

 あと訳文はもうちょっとなんとかならんかったのかね。

 そして、あなたがここに載っているすべてのことを行なう正しい方法をすでに知っていたとしても、知らない人の目を通して改めてそれを見てみることは、きっと役に立つ。

 序文の一部だけど、ほんとひどい。中学校の英文和訳だったらこれで正解だけど、全単語を訳してるので読みづらいったらありゃしない。

 まあ本文はここまでひどくなかったけど。


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2021年3月11日木曜日

質問できない子

 小学一年生の子どもたち数人とボードゲームスペースで遊んだ。

 いくつかのピースを組み合わせて所定の形を作るパズルゲームや、モノポリーのようなボードゲーム、UNOのようなカードゲーム。

 どの子もそれぞれ得意・不得意がある。図形パズルに強い子、数字や確率を使ったゲームに強い子。

 中にひとり、全部が苦手な子がいた。Aちゃんとする。

 Aちゃんはゲームが全般的に苦手だった。運頼みのゲーム以外は負けてばかり。いや、それ以前の問題だ。ルールが理解できていない。「まだそのカードは使えないよ」「ここにこれを置いたら損しかしないよ」ということばかりする。




 新しいゲームをやるときの流れは、だいたいこんな感じ。


 ボードゲームスペースの店員が軽くルールの説明をする
  ↓
 疑問に感じたことを大人や子どもが質問して、店員が答える
  ↓
「じゃあまずは練習でやってみようか」ということになり、ゲームスタート。ここで新たに疑問が生じたら都度質問をする。


 こうしてみんなルールをつかんでいくのだが、Aちゃんはまったく質問をしない。

 他の子はがんがん質問する。一年生は積極的だ。
 まあたいていは「それさっき説明したじゃん」「○○できるのは××のときだけ、って言われたんだから△△のときはダメに決まってるじゃん」と言いたくなるような、愚にもつかない質問なんだけど。

 しかしAちゃんは質問しない。「わからないところある?」と訊いても言わない。笑顔で「大丈夫!」と云う。

 だがゲームを進めると、とんちんかんなプレーを連発する。明らかにルールを理解していない。

「もう一回説明しよっか」と云うと、「さっき聞いたからいい!」とめんどくさそうにする。さもわかっているかのように。

 Aちゃんは全部のゲームが苦手で、唯一得意なのは「わかっているふりをすること」だった。




 ……ううむ。

 子どもにもいろいろいて、理解力はさまざまだ。
 やっぱり小学校受験の塾に通ってた子は呑み込みが早い。トレーニングを積んで「新しいルールを理解しなくてはいけない状況」をたくさん経験したのだろう。
 それ以外の子も、最初は理解できなくても、どんどん質問をして、やってるうちにゲームの全体像をつかむようになる。
 Aちゃんだけがずっと理解できないままだ。

 こんなこと言うのは申し訳ないが、この子は勉強できないだろうな。この先もずっと。

 持って生まれた頭が悪いわけではない。既にルールを知ってるゲームであれば他の子と同じようにできるので。

 ただAちゃんは「わからないことは恥」だと考えてるのだ。たぶん。

「質問ある?」と訊かれても無言で愛想笑い。「もう一回説明しよっか」と云われると「もういい!」と怒る。

 これは……ほんとにどうしようもないのでは……。
 わからない子は教えることができるけど、「わかっているふり」をする子に対してはどうすることもできない。本人がもういいと言っているのにむりやり教えるほど他人はひまじゃない。

 きっとAちゃんはこの先もずっと「わかっているふり」をしてやりすごしていくのだろう。とりかえしのつかない状況になるまで。

 ちなみにAちゃんには二歳違いのきょうだいがいて、そっちは他の子と同じように質問をしてくるので家庭環境(だけ)が原因ではないとおもう。

 まちがうことをおそれる性格。半端にプライドが高いというか。小学一年生なんて知らないことだらけ、わからないことだらけであたりまえなのに、「わからない」の一言がいえない。
 こういう性格の子が成功することはまあないだろう。ものすごく損な性格だ。
 よそのおっちゃんながらなんとかしてやりたいとおもうが、どうすることもできん。だって差しだされた手を拒む子なんだから。
「しなくていい苦労をするだろうなあ」とため息をつくばかりだ。


2021年3月10日水曜日

【読書感想文】戦前に戻すのが保守じゃない / 中島 岳志『「リベラル保守」宣言』

「リベラル保守」宣言

中島 岳志

内容(e-honより)
リベラルと保守は対抗関係とみなされてきた。だが私は真の保守思想家こそ自由を擁護すべきだと考えている―。メディアでも積極的に発言してきた研究者が、自らの軸である保守思想をもとに、様々な社会問題に切り込んでゆく。脱原発主張の根源、政治家橋下徹氏への疑義、貧困問題への取り組み方、東日本大震災の教訓。わが国が選択すべき道とは何か。共生の新たな礎がここにある。

 中島岳志氏の『保守と立憲』も、『100分 de 名著 オルテガ 大衆の反逆』に寄せられた中島氏の文章もすばらしかった。

 だからこの本を手に取ったのだが、書かれていることは上記二冊と似たような内容で、ただし書かれているテーマにはまとまりがなく、時代性の強い文章もあったりして今読むと伝わりにくい箇所もある(特に橋下徹氏への批評はあの時代の空気の中で読まないとわかりづらい)。

 ということで、『保守と立憲』や『100分 de 名著 オルテガ 大衆の反逆』を読んでいる人はこっちはべつに読まなくていいかな。




 以前から政治的立場を表す「保守」という言葉に違和感があった。
「保守」と言いながら、憲法だったり政治制度だったり経済体制だったりをドラスティックに改革しようとしている。それのどこが保守なんだ? 戦前のやりかたに戻すのが保守なのか? 今ある制度や暮らしは保守しようとしないのか?

 中島岳志氏の著作を読んで、その疑問が氷解した気がした。
 そうか、保守を自称している連中(の大半)は保守ではないのだ。むしろリベラルこそが保守の立場に近いし、保守の精神を持つべきなのだ。

「選挙で勝ったんだから、どんなにラディカルな改革をおこなうのも自由だ」なんて考えは、保守の精神からもっとも遠いものなのだ、と。

 自由は、節度という「足枷」に制約されています。だからこそ、節度の拘束力が強くなればなるほど、自由の度合いは拡大してゆくのです。
 バークは、革新主義者たちの主張する反歴史的・抽象的自由に、寛大さが欠落していることを見抜きました。革命家が志向する「規制から解放された自由」は、人間の粗暴で冷酷な性格とたやすく結びつき、他者に対する不寛容な暴力となって現れることを見通していたのです。革命家たちは、様々な制約の破壊によってこそ、自由を獲得することができると考えました。彼らは歴史的に構築された制度を抜本的に覆し、長年にわたって共有されてきた固定観念を解体していきます。制約なき自由は、必ず他者の自由と衝突します。価値やモラルの基準を失った自由は暴走し、自己の自由を阻害する他者への剥き出しの暴力となって現れます。制約を失った自由こそが、人々から真の自由を奪い、世の中の秩序を破壊するのです。

 フランス革命によって寛大で誰もが生きやすい世の中が実現したかというとまったくの逆で、その後にやってきたのはナポレオンによる独裁専制時代だった。

 革命、改革、刷新、維新、ぶっ壊す、取り戻す……。
 耳あたりのいい言葉を並べて「私に任せてくれれば一気に事態をよくすることができます」と言う連中が弱者の声に耳を傾けたことが歴史上一度でもあっただろうか。

「自由」はウケのいい言葉だが、誰かの自由は必ず別の誰かの自由と衝突する。
「夜中にバイクで爆音を鳴らしながら走る自由」は「静かな環境で安眠する自由」と衝突する。

 規制緩和や自由化を訴える人がいる。自由化によって利益を得る人もいるけど、同時に別の誰かが不利益を被る。そしてそれはたいてい弱者だ。強者はうまく立ちまわって、誰かの首を差しだすことで逃げるからね。
「改革」「維新」といった言葉の目指す意味は結局、「弱者が持っている財産をおれたちによこせ!」なんだよね。




 中島さんが目指す「リベラル保守」はドラスティックな改変を好まない。かといって百年一日の停滞も良しとしない。時代の変化によって制度も変わる必要があるからだ。

 なぜ劇的な改革がだめなのかというと、不完全な存在である人間は必ずまちがえるからだ。

 保守は、このような左翼思想の根本の部分を疑っています。つまり「人間の理性によって理想社会を作ることなど不可能である」と保守思想家は考えるのです。
 保守の立場に立つものは人間の完成可能性というものを根源的に疑います。
 人間は、どうしても人を妬んだり僻んだりしてしまう生き物です。時に軽率な行動をとり、エゴイズムを捨てることができず、横暴な要素を持っています。
 保守は、このような人間の不完全性や能力の限界から目をそらすことなく、これを直視します。そして、不完全な人間が構成する社会は、不完全なまま推移せざるを得ないという諦念を共有します。
 保守は特定の人間によって構想された政治イデオロギーよりも、歴史の風雪に耐えた制度や良識に依拠し、理性を超えた宗教的価値を重視します。前者は人間の「知的不完全性」の認識に依拠し、後者は人間の「道徳的不完全性」に依拠していると言えるでしょう。

 フィリップ・E・テトロック&ダン・ガードナー『超予測力』によると、多くの人の未来予測を検証した結果、「自分が間違っているかもしれない」という前提に立って絶えず再検証をくりかえす人ほど予測の的中率が高いのだそうだ。
 逆に「おれは正しい! まちがってるはずがない!」という思想の人間はまちがえる。現実をありのままに見ることができず、己の思想信条に合致した意見だけしか見えなくなる。

 つまり、政策立案者に適しているのは
「わたしは〇〇がいいとおもうが誤っているかもしれない。くりかえし検証・反省をして〇〇が本当に正しいのか考え、必要に応じて軌道修正していくことが必要だ」
という人だ。
 こういう人が「改革」「維新」なんて叫ぶはずがない。まちがえたらとりかえしがつかなくなるからだ。
「民意が○○だから」という理由で改革もしない。なぜなら民衆も当然まちがえるから。ヒトラーを選んだのも民意なのだ。

 民衆も政策立案者は必ずまちがえるという立場に立てば、完全に信用できるものは何もない。何もないが、昔から脈々と受け継がれているものは「そこそこうまくいく可能性が高い」と言える。特に教育や医療や政治などの制度は、一度壊されると取り返しがつかなくなることがあるので、慎重に扱う必要がある。とりあえずゆとり教育やってみたけどだめでした、というわけにはいかないのだ(そうなってしまったけど)。
 古いものにパッチワークをあてて使いこなしてゆく。これが理想的な保守のありかただ。

 

「保守」の名を騙っていろんなものをぶっこわしてきた連中のせいで、「保守」はすっかり悪い響きの言葉になってしまった。
 もはや「極右」とか「排他的」とほとんど同義だ。

「リベラル保守」もいいんだけど、伝わりやすさを考えるならまったく別の言葉を持ってきたほうがいいかもしれないな。


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【読書感想文】チンパンジーより賢くなる方法 / フィリップ・E・テトロック&ダン・ガードナー『超予測力』

【読書感想文】リベラル保守におれはなる! / 中島 岳志『保守と立憲』



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2021年3月9日火曜日

迷子と酔っ払いとミルクボーイ

 以前、会社の人たちとバーベキューをした。バーベキュースペースのある大きめの公園で。

 何人かは子どもを連れてきていたのだが、子どもたちは早々にバーベキューに飽きて「公園で遊びたい!」と言いだした。

 ぼくは付き合いで参加したもののこういう集まりはあまり好きではないので、これ幸いと「ぼくが子どもを見ときますよ」と言い、子ども七~八人を連れてその場を離れた。
 付き合いのバーベキューより子どもと遊ぶほうが楽しい。親たちはビールを飲み、肉を食っていた。

 しばらく公園で遊んでいると、テレビ収録のスタッフと、当時M-1グランプリ優勝直後だったミルクボーイが現れた。ロケをしていたのだ。
 ロケスタッフがぼくらのもとに寄ってきた。ミルクボーイがカメラの前で子どもたちにいくつかのインタビューをした。子どもたちは元気よく答える。

 その後、スタッフから「今の映像をテレビで放送するかもしれません。お子さんの顔が映ってもよろしいでしょうか。よければこちらの用紙にサインお願いします」と訊かれた。
 だがぼくはこの子たちの親ではない。勝手に判断するわけにいかないので、親に電話をして事情を説明した。電話の向こうが色めき立ったのがわかった。

「えっ!? テレビ? 行く行く!」

 野次馬根性丸出しだ。酔っぱらった親たちがあわてて駆けつけたが、残念ながらテレビクルーは別の場所へ行ってしまった後だった。

 どんな番組か、番組はいつ放送されるのか、などと質問されて、答えているうちにふと気がついた。子どもが一人いない。三歳の子の姿が見当たらない。
 さっきインタビューに答えているときにはいた。その後、出演の許諾がどうとかやっているうちに一人でどこかに行ってしまったらしい。

 真っ青になった。三歳というと、けっこう遠くまで行けるし、おまけに「困ったら誰かに訊く」「訊かれたことに答える」なんてことはできない。迷子になるといちばんややこしい時期だ。

 大人たち総出で迷子をさがした。もちろんぼくも責任を感じて必死にさがす。

 だが、さっきまでさんざんビールを飲んでいたHという男は泥酔していてまったく使い物にならない。座りこんで「テレビ出たかったな〜」などと言っている。

 ぼくはちょっとキレて「子どもが迷子なんですよ。さがしてください!」とHを叱りつけた。ちなみにHも人の親だ。三歳の子が広い公園で迷子になるのがどれだけ危険なことかわからないはずはないだろうに。

 あちこちさがしまわった。公園の警備員のおじいちゃんを見つけて、園内放送をしてもらえないか訊いたが、彼はあからさまにめんどくさそうな顔をしている。
「私ではそういうことを判断できないんですよね……」
「だったら誰かに訊いてもらえないでしょうか。お願いします、事故に遭ったりしたら大変なので」
と頼んでいると、泥酔していたHが駆けよってきた。「いました! いました!」と叫びながら。

 えっ! いた!? でかした!

「すみません、もう大丈夫です、お騒がせしました」
と警備員に言いかけたそのとき、Hが言った。

「いました! 今トイレに行ったらミルクボーイがいました!」


……そっちかい!

「いやー。ミルクボーイいたんでうれしくて握手してもらいました!」
と語るH。

 いやみんな迷子さがしてるんだけど……。しかもトイレで握手求められるってミルクボーイも気の毒に……。


という出来事でした(迷子は無事に見つかりました)。


2021年3月8日月曜日

いちぶんがくその4

ルール


■ 本の中から一文だけを抜き出す

■ 一文だけでも味わい深い文を選出。



「化物といえば、お食事はどうなすっておいでですの」


(山本 周五郎『人情裏長屋』より)




「もしかして日本って、でたらめに運営されてんじゃねえのか」


(奥田 英朗『無理』より)




「めげない援交おじさんを見習って!」と。


(仁藤 夢乃『女子高生の裏社会~「関係性の貧困」に生きる少女たち~』より)




昔は文学部の建物って二階建てだったんですけど、その中になぜか四階建ての図書館があったんです。


(『もっと! 京大変人講座』より)




千佐都は一瞬、キリスト像と餓鬼とを同時に思い浮かべた。


(東野 圭吾『ラプラスの魔女』より)




その研究の中で興味深かったことのひとつは、検索窓に最も多く打ち込まれるのは、食材名でも調理法でもなく、「簡単」という言葉であったことです。


(石川 伸一『「食べること」の進化史 』より)




空気がストップしてその場で死んじゃうのと、放射能を吸ってでも、少しでも長く生きてんのと、どっちがいい。


(堀江 邦夫『原発労働記』より)




「まあ、単身赴任でニートしてるようなものです」


(石井 あらた『「山奥ニート」やってます。』より)




古代の物が、どれだけミミズによって保存されたかわからない。


(河合 雅雄『望猿鏡から見た世界』より)




「本当はインドの、毒を吸い取る黒い石があればいいのだが」


(前野ウルド浩太郎『バッタを倒しにアフリカへ』より)




 その他のいちぶんがく


2021年3月5日金曜日

性欲の衰えバンザイ

 三十代後半になって、急速に性欲が衰えた。

 生物としては衰えなんだろうが、文明人として生きていく上では圧倒的にいいことだ。性欲の衰えはメリットだらけだ。

 なんといっても、若いうちは性欲に振りまわされすぎた。
 男性諸氏ならわかるとおもうが、夜ごと性を求めて悶々とし、明るいうちも悶々とし、ことあるごとにやらしいことを考え、エッチな本やエッチなビデオを鑑賞するために多くのお金と時間を使い、西に女性との出会いがあると聞けばバイトを休んで駆けつけ、東にかわいい女の子がいると聞けば授業をサボり、その結果何を生みだしたかというと多くの使用済みのティッシュだけだ。地球環境にもよくない。

 万にひとつ合体に成功したとしても、後に得られるのは虚しさだけ。生殖に関わらない性行為など何の生産性もない(かといって望まないタイミングで妊娠することがプラスになるともかぎらない)。

 合体に成功した場合でさえ得られるものがないのだから、失敗して己を慰めることになったときは虚無の一言に尽きる。

 性交に成功しても虚しく、失敗しても虚しい。
 とかく過剰なる性欲は百害あって一利なしなのだ。


 だが三十代も半ばをすぎ、がくんと性欲が落ちた。
 もちろんエロを求める気持ちがなくなったわけではないが、「絶好の機会があればコトに至るにやぶさかではないが自分から積極的に求めるほどではない」という心境だ。
 ましてや、ぼくは結婚して子どももいるのでアバンチュールを求めるのはリスクが大きすぎるし、なにより「めんどくせえ」という気持ちのほうが性欲を凌駕する。かといって妻を相手に事をいたすのもまた面倒だ。なぜかは詳しく書かないけど。

 性欲の衰えは年齢のせいもあるが、子どもが生まれたという要因も大きい。
「遺伝子を残さねば!」という生物としての使命はすでに果たしたし、子どもをだっこしておんぶして、いっしょに風呂に入って、隣で寝ていると、スキンシップ欲も満たされる(人間には性欲だけじゃなくてスキンシップ欲もあるとぼくはおもう)。


 性欲が減衰した結果、ぐっと生きやすくなった。
 わずかな性交の機会を求めて東奔西走することがなくなった。性欲処理に使っていた時間を他のことに使えるようになった。
 いやほんと、医学部入試で(大学側の不正がなければ)女子のほうが合格率が高いという話を聞いたが、その差は男子が貴重な時間を性欲処理に費やしてしまうからだとおもう。


『伊勢物語』には

 世の中にたえて桜のなかりせば春の心はのどけからまし

という歌が出てくる。

 世の中に桜がなければ春に心穏やかに暮らせるのに、という意味だ。
 この気持ち、よくわかる。

 ぼくは、

 世の中にたえて性欲のなかりせば男の心はのどけからまし

と詠みたい。

 人間も、桜が咲くシーズンだけ発情期を迎えるようになったらいいのに。そうなったらどれだけ世の中が平和になることか(その代わり花見の時期は修羅場だろうな)。


2021年3月4日木曜日

【読書感想文】すべてのストーリーテラー必読 / ブレイク・スナイダー『SAVE THE CAT の法則』

SAVE THE CAT の法則

本当に売れる脚本術

ブレイク・スナイダー(著)  菊池 淳子(訳)

内容(e-honより)
業界を知り尽くした筆者が、ジャンル、プロット、構成、販売戦略、キャスティングなど、基本要素を踏まえながら実践的に、メジャーで売れる脚本の法則を語りおろす。シンプルで、本当に大手映画会社が買ってくれる脚本を書くためのコツを教える超実践的脚本マニュアル。

 ハウトゥー本なんだけど、なんか妙に感動してしまった。
 そうなんだ、ぼくがむずかしく考えてたことはこんなにシンプルだったんだ、と目からうろこが落ちた。

 ぼくは脚本家じゃないし、脚本を書いたことなんて小学校のお楽しみ会の劇ぐらいしかないけど、これを読んで脚本を書きたくなった。ぼくにも書けるような気がしてきたぞ! よし、明日から書こう!(一行も書かない)


 これは脚本にかぎらず、小説でも漫画でも物語を創作する人は読んでおいた方がいい本だ。
「おもしろい物語のテンプレート」を教えてくれる。まずはこういうシーンからスタートする。冒頭のシーンの時間はこれだけ。次はこういうシーンに……というふうに。
 たしかに、おもしろい映画はたいていこのテンプレートに近い構成になっている。ハリウッドやディズニー作品はたいてい。

 もちろん、このテンプレートからはずれた傑作も多い。「こんなベタな展開のストーリーを俺は書きたくない! まだ誰もやったことのない独創的な構成にするんだ!」という人もいるだろう。

 でも、それでうまくいくのは、基本がきっちりできている上級者だけ。初心者は基本に従って書く方がだんぜん楽だ。
 野球初心者がトルネード投法や振り子打法を試しても成功するはずがない。ああいう変則的な技を使いこなせるのは、基本を完璧に身につけた上級者だけなのだ。

 物語を完成させたことがないけど書きたい人は、まずはこのテンプレートに従って書くべき。まちがいない。




 書かれていることは、すごく合理的だ。
「まず自分が書きたいテーマと向き合おう」「自信の内面を掘り下げよう」みたいな抽象的なアドバイスは一切ない。

 きわめてロジカルに、手取り足取り脚本の書きかたを教えてくれる。

 成功している脚本のパターンを分類し、どういった要素から構成されているかを説明。
 なぜその要素が必要なのか、何をしたらいいのか・いけないのか、失敗しがちなポイントはどこなのか、有名な映画タイトルを出しながら懇切丁寧に教えてくれる(ただぼくはあんまり映画を観ないので半分もわからなかったけど)。


 恥ずかしながらぼくも学生時代、小説を書いたことがある。最後まで到達しなかったものがほとんどだし、完成させたものもまったく満足のいくものではなかった。賞に応募したこともあるが箸にも棒にも掛からなかった。あたりまえだ。自分ですら満足していないのに他人を楽しませられるはずがない。

 おもえば、ぼくがやっていたのは「料理の完成品を見て、同じ料理を作ろうとする」ようなものだった。
 何千冊も小説を読んだのだから自分にも書けるとおもっていた。「何千回も料理を食べたことがあるのだから自分も料理人になれる」とおもうように。今からおもうととんでもない話だ。

 やるべきは、料理を食べることではなく、レシピを読むことだったのだ。
 プロが書いた工程を読み、最初に材料を全部そろえ、レシピ通りの工程・分量で作業する。勝手なアレンジをくわえなければ大きく失敗しない。




 映画ってたくさんの人がかかわってるしすごい額のお金が動くから複雑なものだとおもってしまいがちだけど、じつはシンプルなものなのだ。

 そして一行の文を書くことに集中してほしい。わずか一行だ。

「どんな映画なの?」の質問に、もしも一行ですばやく、簡潔に、独創的に答えられたら、相手は必ず関心を持つ。しかも脚本を書き始める前にその一行が書ければ、脚本のストーリー自体もよくなってくるのである。

 私はこれまで数多くの脚本家と話をしてきたが、プロでも素人でも、脚本を売りたいと言ってきたときには、ストーリーを聞く前にまずこの質問をする。「一行で言うとどんな映画?」。不思議なことに、脚本家というのは脚本を書き終えた後でこれを考えることが多い。お気に入りのシーンにほれ込んだり、『2001年宇宙の旅』(68)のモチーフを取り入れるのに夢中になったり、ディテールにこだわりすぎたりして、単純だが肝心なことを忘れてしまう。つまり、どんな映画なのかひと言で説明できないのである。一〇分以内でストーリーの核心部を説明できないのだ。
 いやあ、まずいよ、それは!

 そうなると、私はもう話を聞きたくなくなる。なぜなら、それは脚本家が本気で考え抜いていない証拠だからだ。優秀な脚本家だったら、映画に携わる関係者すべてを頭に入れて考えるのが当然だ。エージェント、プロデューサー、映画会社の重役、そして観客に至るまで、すべてを考慮に入れなきゃいけない。あらゆる所に自分で出向いて脚本を売るなんて、現実的には不可能な話だ。だったら自分がいない場所でも、赤の他人をワクワクさせて、脚本を読んでもらうにはどうしたらいいか?それが脚本家の最初にすべき仕事なのだ。脚本の内容を一行で簡潔に説明できないなら、ごめん、そういつまでも話は聞いていられない(私の関心はもう次の脚本へ移ってしまうだろう)。一行で読者の心をつかめないような脚本家のストーリーなんて、聞くまでもないからだ。

 たしかに名作映画のストーリーは、短い文章で表現できる。
「タイムマシンで過去に行き歴史を変えずに戻ってこようとする話」とか
「家にひとり取り残された少年が泥棒を撃退する」とか
「新しいおもちゃに主役の座を奪われたカウボーイ人形が、新しいおもちゃといっしょに持ち主のもとに戻る冒険をする」
とか。

 小説を原作にした映画があるけど、長篇小説を映画化するとたいてい失敗する。文字のほうが情報の密度は濃いので、映画にちょうどいいのは短篇か中篇ぐらいだ。
 たとえば『ショーシャンクの空に』の原作『刑務所のリタ・ヘイワース』は中篇。『鉄道員』は短篇。
 短篇や中篇小説にはあれもこれも詰めこんでもわかりづらくなるだけだ。映画脚本はワン・アイデアを肉付けしていくぐらいでいいのだろう。




 くりかえすけど、ストーリーをつむぎたいとおもっている人にとっては読んでおいて損はない本。
 ああ、あと二十年早くこの本に出会っていたらなあ。そしたらぼくは今頃売れっ子作家まちがいなしだったのに(この発想がもうダメだ)。


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【読書感想文】タイトル大事なんとちゃうんかい / 須藤 靖貴『小説の書きかた』



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2021年3月3日水曜日

【読書感想文】このジャンルにしてはめずらしく失敗していない / 根本 聡一郎『プロパガンダゲーム』

プロパガンダゲーム

根本 聡一郎

内容(e-honより)
「君たちには、この戦争を正しいと思わせてほしい。そのための手段は問わない」大手広告代理店・電央堂の就職試験を勝ちあがった大学生8名。彼らに課された最終選考の課題は、宣伝によって仮想国家の国民を戦争に導けるかどうかを争うゲームだった。勝敗の行方やいかに、そしてこの最終選考の真の目的とは?電子書籍で話題の問題作を全面改稿して文庫化!

 最大手広告代理店の新卒採用試験・最終選考。
 学生八人が「政府チーム」「レジスタンスチーム」に別れ、プロパガンダゲームをすることに。政府チームの目的は、世論を動かして隣国との戦争を開始させること。対するレジスタンスチームの狙いは、反対多数になるよう世論を誘導すること。
 はたして勝つのはどちらのチームか。そして妙に政治的なこのゲームの目的とは……。


 おもしろかった。
 この本を手に取ったとき、
「ああ、また設定はおもしろそうだけど期待外れにおわるタイプの物語だろうな」
とおもった。
 設定がとびきり奇抜でおもしろそうな本って、たいてい読んで肩透かしを食らう。
『バトル・ロワイヤル』『CUBE』『SAW』以降多発した、異常なシチュエーションサスペンスだろうな。こういうのたいてい、序盤がいちばんおもしろくて右肩下がりになるんだよな。異常なシチュエーションを納得させられるだけの説明をつけられなくて。どの作品とはいわないけど。『インシテミル』とかさ。『LIAR GAME』も個々のゲームはおもしろかったけど黒幕の説明とかめちゃくちゃしょぼかったもんな。どの作品とはいわないけど。
 こういうのを書こうとおもったら、乾くるみ 『セブン』みたいにリアリティを捨ててしまうしかないよね。半端にリアリティを出そうとしたら確実に失敗する。


……とあまり期待せずにだまされたとおもって『プロパガンダゲーム』はゲームそのものだけじゃなく、そのゲームが考案された真相のほうもちゃんと練られていて説得力があった。

 ゲームそのものも読みごたえがあったし、ゲームの真相を暴いてそれに立ち向かう段階でもう一度楽しめた。


 また、登場人物がゲームを進めるための駒になっていないのもいい。
 この手の物語って、ひとりかふたりの主要登場人物をのぞけばバカばっかりになりがちなんだけど、『プロパガンダゲーム』に参加する八人は考え方やバックボーンはちがえどみんなそれぞれ賢い。とびきりのバカとか、他人の話をまったく聞かない自称天才とか、サイコパスとか、ストーリーを作者の都合よく進めるためだけに作られた単純なキャラクターがいない。
 まあ「社会に対して強い関心・持論を持っている」という系統ばかりなので似通っているにはいるが、大手広告代理店の入社試験を受ける学生なんてだいたいそんなもんだから不自然ではない。

 まず「就活の選考の一環としてのゲーム」という設定がよくできている。
 なぜなら、実際にこういう変な選考をする会社はけっこうあるから。ユニークな選考方法をとりいれている会社、というのはニュースでよく耳にする。
 だから学生にこういうゲームをさせることは不自然でないし、学生側にも真剣にゲームに参加する理由がある。じつによくできた設定だ。
「極限状態に追い詰められた人間の姿を見るためにどっかの金持ちが酔狂ではじめたゲーム」という安い設定だと興醒めだからね。

 たかだか就活にしては金と手間をかけすぎじゃねえか、という疑問も湧くが、ちゃんとその疑問に対する答えも作中で提示されている。
 うーん、つくづくよくできているなあ。むずかしいことをやっているのに、ほとんどボロが出ない。

 ぼくが気になったのは
「チームメンバーの中にスパイがいることがはじめに告知されているのに、みんなスパイに対して無警戒すぎ」
ってことぐらい。

 この手の「オリジナルゲームで知恵を使って戦う物語」としては相当よくできている小説だ。


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【読書感想文】乾くるみ 『セブン』



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2021年3月2日火曜日

一輪車屋

甲「やってみたい商売があってさ」

乙「なに?」

甲「一輪車屋」

乙「一輪車屋? えっと……。自転車屋じゃなくて?」

甲「自転車屋じゃなくて」

乙「えー……。聞きたいことはいろいろあるけど……やっぱ最初はこれだろうな……。
  なんで?」

甲「なんでって言われても。なりたいからなりたいとしか言いようがないよ」

乙「うそ。そんなはずないでしょ。理由があるでしょ」

甲「じゃあさ。将来の夢はお笑い芸人ですっていう子がいるとするじゃん。その子になんでお笑い芸人になりたいのって訊いたら、一応それらしい答えは返ってくるとおもうんだよ。人を楽しませたいからとか、楽しそうだからとか。でもさ、お笑い芸人にならなくても人を楽しませられるし楽しく生きられるわけでしょ。だからほんとうのところは『お笑い芸人になりたいからお笑い芸人になりたい』だとおもうんだよね。理由なんて後付けでさ」

乙「うーん……まあそうかもしれない」

甲「でしょ。プロ野球選手になりたいとか保育園の先生になりたいとかいろいろあるけど、結局は『なりたいからなりたい』でしょ。突き詰めて考えれば」

乙「まあわかるような気もする……」

甲「だから、おれは一輪車屋になりたいからなりたいの」

乙「いや、それはわからない」

甲「なんでよ」

乙「だって……。ないもん、一輪車屋なんて」

甲「ないからチャンスなんじゃないか。まだ誰もやってないからこそ。
  おまえさ、自転車を買いたいとおもったらどこへ行く?」

乙「そりゃ自転車屋でしょ」

甲「じゃあ一輪車を買いたいとおもったら?」

乙「えっ……。自転車屋には……売って……ないよな……。スポーツ用品店かな……。いやちがうか……。ホームセンターかな……。ホームセンターで一輪車見たことあったっけ……」

甲「ほらね。みんな一輪車の存在は知ってるのに、それがどこで売られているかは知らないんだよ」

乙「まあたしかに」

甲「だから、一輪車屋があれば便利なわけじゃん。一輪車屋があれば、誰も『一輪車ってどこで買えばいいんだ?』と悩むことはなくなるわけよ。一輪車屋に一輪車が売ってないわけないんだから」

乙「いや、でもさ。おれ、今までの人生で『一輪車ってどこで買えばいいんだ?』っておもったことないよ」

甲「えっ、そうなの」

乙「そうだよ。たいていの人はそうじゃない? それで商売やっていけるの」

甲「まあね。そのへんのことは考えてるよ」

乙「そうなんだ」

甲「自転車屋だって、新品の自転車を売ってるだけじゃないでしょ。自転車の修理とか、グッズの販売とかもしてるわけじゃん。それと同じようにしたらいいとおもってるんだよね」

乙「グッズの販売はわかるよ。ヘルメットとかサポーターとかかな。こけやすいからね。でも一輪車って修理してもらうことある?」

甲「そりゃあるよ。どんなものだっていつかは壊れるんだから」

乙「そりゃそうだろうけどさ。でもさ、自転車は壊れたら修理してもらうじゃない。ないと不便だから。でも一輪車って壊れたらそれまでなんじゃないの? お金払って修理してもらってまで使いつづけようとするかね。だって壊れても不便じゃないもん」

甲「なんでよ。一輪車って生活必需品じゃないの」

乙「ちがうよ。むしろ一輪車って不便を楽しむためのものじゃん。便利とは対極にあるものだよ。どっちかっていったらスポーツ用品に近いでしょ」

甲「じゃあスポーツ用品として打ち出せばいいんだ。一輪車をメジャースポーツにして、ゆくゆくは五輪も目指して」

乙「一輪なのに五輪か……」

甲「とはいえさすがに一輪車屋だけでやっていくのは厳しそうだから、サイドビジネスもはじめたらいいね。おれ、寿司屋でバイトしてたことあるから、寿司屋でもやろうかな」

乙「やだなあ。一輪車の修理してたらぜったい手が真っ黒になるもん。そんな手で握った寿司食いたくないわ」

甲「やっぱり一本でやっていくのは厳しいからね。このふたつのビジネスが軌道に乗れば、車の両輪として安定するはず」

乙「一輪車には軌道もないし両輪がなくても安定するもののはずなんだけどね」



2021年3月1日月曜日

変人あこがれ

  変人にあこがれていた。

「変なやつ」というのがぼくにとって最大の褒め言葉だった。

 冬でも浴衣で出歩いたり、ホイッスルを首からぶらさげたり、ひとりだけ古い帽子をかぶって登校したり、調理実習のときにエプロンの代わりにカンドゥーラ(アラブ人が着てる白くてずどんとした服)を着たり、携帯扇風機を首からぶらさげたり(今でこそときどき見るが当時は誰もそんなことしてなかった)、学ランの胸ポケットににポケットチーフをしたり、ドラえもんお出かけバッグで高校に行ったり、教室で鍋をしたり、野球部でもないのにグローブを持って校内をうろうろしたり、授業中に無駄に元気よく手を挙げて「先生、質問があります!」と優等生みたいにハキハキとしゃべったり、とにかく人とちがうことをした。

カンドゥーラ

 特に、〝どう考えても異常な行為だけどやってることは悪いことじゃないから教師が注意するにできない〟行為が大好きだった。

「先生、質問があります!」とハキハキ言うのもそうだし、国語の音読で感情たっぷりに読むとか、避難訓練のときにひとりだけ本気の演技で「みんな落ち着け!」なんて言いながら避難するとか。
 教師が困って苦笑いを浮かべるのが楽しかったのだ。趣味が悪い。


 その甲斐あって、「変なやつ」「個性的なやつ」という評価を周囲からいただいた。

 でも、ぼくの奇行はぜんぶ計算ずくだった。「こうやったら変なやつとおもわれるだろうな」という考えに基づくものだった。内からあふれてくるものではなかった。
 ぼくは〝変人〟ではなく〝変人あこがれ〟だった。

 まあ「変人にあこがれて変なことをする」ということ自体が変といえば変なのだが、ぼくの場合はうわべだけの奇行だから、ふつうにふるまうこともできる。親戚と会うときとかひとりで買い物に出かけるときとかはごくごく常識的な身なりをしていた。

「損をしない範囲で変人をやっている人」だった。


 なぜ変人にあこがれていたのだろう。
 たぶん、ぼくがつくづくふつうだったからだ。

 平凡な家庭に育ち、平凡な街で暮らし、平凡な容姿と平凡な能力を持った人間。それがぼくだった。
 学生時代、いろんな作家のエッセイをよく読んだ。波乱万丈な人生がうらやましかった。両親が離婚して苦労していたり、放蕩生活を送っていたり、人とはまったく違う趣味嗜好を持っていたり。そういう人生がまぶしかった。

 だから変人になりたかった。変人としてふるまうことで、変人になれると信じていた。


 もうひとつの要因として、自慢になるが、成績優秀だったこともある。中学時代は120人中5番ぐらいだった。高校に入ってからはさらに成績が良くなり、300人以上いる中でトップだった。
 これは喜ばしいことであると同時に、恥ずかしいことだった。

 公立校に通っていた人ならわかるとおもうが、勉強ができるやつというのはちょっとダサい。嫉妬もあるのだろうが、がり勉野郎、いい子ちゃん、そんな感じでバカにされる。スポーツができるやつが無条件で称えられるのとは大きな違いだ。(この感覚については前川ヤスタカ氏の『勉強できる子 卑屈化社会』を読んでいただければよくわかるとおもう)

 そういう「勉強できるダサいやつ」という視線を回避する方法が、ぼくの場合は変人としてふるまうことだった。
 常に変ないでたちをしていると「変なやつ」という評価になる。「変なやつ」は「勉強できるやつ」より強い。よりわかりやすいからだ。それどころか、「勉強ができる」というステータスは「変なやつ」を強化する要因になる。
「変なことばっかりしてるのに勉強できるなんて、やっぱり変なやつ」になるのだ。

「あいつは頭おかしいんだな。だから勉強もできるんだ」となってやっかみの対象にならない。変なやつはうらやましくないのだ。


 ぼくの奇行は大学に入ったぐらいですっかり落ち着いた。
 大学はみんな入試をくぐり抜けて入っているので自分の成績が良いことに負い目を感じることなんてないし(そもそも他人の成績なんて誰も気にしない)、人とのつながりが薄くなった分「自分のキャラクター」が気にならなかったこともある。
 それに、中学高校は服装やら髪型が細かく決められているからそこからはみだすことで個性を主張できるが、大学ではどんな服でどんな髪型でもいいのでかえって個性を打ちだしにくいのだ。着物で大学構内を歩いている人もそうめずらしくもないし(いやめずらしいけど)。

 今でも変人に対するあこがれは残っているが、もう自分が変人になろうとはおもえない。つくづく自分が凡人だと思い知ったから。


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【読書感想文】 前川 ヤスタカ 『勉強できる子 卑屈化社会』