2018年5月31日木曜日
トリケラトプスと赤い羽根共同募金
娘には、くだらないことにおこづかいを使ってほしいと思う。
娘はまだ四歳なのでおこづかいはあげてないけど、お年玉をもらったりしているので数千円の貯金がある。
そういうお金は、なるべくくだらないことに遣ってほしい。
本を買ったり鉛筆を買ったりしないでほしい。そういうお金はぼくが出してあげる。
お菓子も、食べすぎない程度なら買ってあげる。
子どものお金は、大人が思いもよらないような、眉をひそめるようなものに遣うのがいい。
これは今年のお正月に娘が買ったトリケラトプスだ。1,500円した。
いい。すごくいい。大人だったらこんなものは買わない。
買うにしても、もっと小さいやつか、もっと精巧なやつか、もっと安いやつにする。
でかくて、ちゃちで、そこそこの値段がするトリケラトプスを大人は買わない。
娘が「このトリケラトプス買う!」といったとき、「えー、これ買うのー」と思ってしまった。でもまあいいかと思いなおした。
お金の価値もよくわかっていない四歳児が買わなくて誰がこのトリケラトプスを買うんだ。このトリケラトプスは今、うちの娘に買われるために作られたのだ、と。
思えばぼくも子どものときはわけのわからないものにお金を遣ってきた。
今でもいちばん意味わかんないのは、小学一年生のとき、赤い羽根共同募金に全財産(八百円ぐらい)を寄付したときだ。競艇場でおっさんが帰りの電車賃までレースにつっこんでしまうように、ぼくも全財産を募金箱につっこんだ。もちろん競艇場のおっさんと同じく何も得られなかった。赤い羽根はもらったけど、あれは寄付しなくてももらえる。
べつに善意でやったわけではない。何もわかっていなかっただけだ。先生に「おこづかいの中からいくらか入れてね」といわれたから、「ふーん。そういうものか」と思って全財産を入れただけだ。
ぼくが「これ全部入れる!」と高らかに宣言したとき、母親は当惑していた。「いいの?」「ほんとうにいいの?」と六回訊かれた。悪いことをするわけじゃないから止めるわけにもいかず、困っただろうな。
大人になった今、ぼくはものを買うときに「値段」と「機能」しか見ない。デザインとかブランドとかはほぼ気にしない。同じ機能で安いほうがあれば迷わず安いほうを買う。
だから買い物はべつに楽しくない。歯みがきと同じ「作業」だ。
自分ができないことだからこそ、値段も機能も気にしない娘の買い物を見て「ばかなもの買ってるなあ」と思うのは楽しい。
2018年5月30日水曜日
姉妹都市のような関係でいましょう
例によっていわし氏、花泥棒氏ととりとめもない話をしているうちに「姉妹都市ってなんで姉妹なんだろうね」という話になった。
「都市は女性名詞だから、とか? フランスあたりが発祥の概念なのかな?」という説が出たが、調べてみると元々は英語の「sister city」らしい。英語ということは女性名詞説ではなさそうだ。
本気で検索したらすぐにわかるのかもしれないけど、あっさり答えを出すのもつまらない。あれこれ考えてみるうちに、なんとなく以下のような仮説にたどりついた。
「都市は女性名詞だから、とか? フランスあたりが発祥の概念なのかな?」という説が出たが、調べてみると元々は英語の「sister city」らしい。英語ということは女性名詞説ではなさそうだ。
本気で検索したらすぐにわかるのかもしれないけど、あっさり答えを出すのもつまらない。あれこれ考えてみるうちに、なんとなく以下のような仮説にたどりついた。
姉妹は縁を切ることがないからではないだろうか。
夫婦や親子や友人関係は、絶縁に至ることがある。「離縁」「勘当」「絶好」という言葉があるのがその証拠だ。
でも、あえて兄弟姉妹の縁を切る人はまずいない。仲が悪いきょうだいはいくらでもいるが、それでもきょうだいはきょうだいだ。そもそも大きくなればきょうだいとは距離を置くのがふつうだから、わざわざ縁を切る必要があまりない。
だったら「兄弟都市」でも良さそうなものだけど、兄弟には上下関係がある。
「兄貴分」「弟分」「父兄」「貴兄」「子弟」「弟子」なんて言葉が表すように、兄は目上で弟は下の存在だ。
でも「姉妹」には上下関係がない。「姉」と「妹」に、「年上の女きょうだい」「年下の女きょうだい」以上の意味はない。ないっていったらおおげさかもしれないけど、ない。
友好関係を築こうという相手に上下関係は持ちこまないほうがいい。
とはいえ上下関係がないからといって「双子都市」にしてしまうと、「うちのほうが歴史ある都市なのになんであそこと双子扱いなんだよ」と反発する住民もいるだろう。
友好関係を築こうという相手に上下関係は持ちこまないほうがいい。
とはいえ上下関係がないからといって「双子都市」にしてしまうと、「うちのほうが歴史ある都市なのになんであそこと双子扱いなんだよ」と反発する住民もいるだろう。
そこで「めちゃくちゃ深い付き合いをするわけではないけどそこそこのつながりを保っていきましょうね」というメッセージをこめて「姉妹都市」になったんじゃないか、というのが酔っ払いたちの出した答えです。
ということで、告白されて「姉妹都市のような関係でいましょう」と言われたあなた、フラれたと思ってまちがいないです。
ということで、告白されて「姉妹都市のような関係でいましょう」と言われたあなた、フラれたと思ってまちがいないです。
2018年5月29日火曜日
仕事に夢を求めずに
新卒入社の社員と話す機会があったので、訊いてみた。
「入社して二ヶ月くらいたったけど、どう? 辞めたくなった?」
すると新卒くんが応えて曰く、
「いや、辞めたくはないです。可もなく不可もなく、ふつうって感じです」
ぼくは云った。
「すばらしいね。入って一ヶ月でその境地に達することができるなんてすごい。それがいちばんいいよ。仕事が嫌で嫌でたまらないのも困るけど、仕事が大好き! って思うのもよくない」
「そうですか。どうせなら好きなほうがよくないですか?」
「自分が楽しくやるだけならいいけどね。でも仕事が好きな人はたいてい周りを攻撃しはじめるからね。自分はこんなにがんばってるのにどうして他の連中はもっとがんばろうとしないんだ、って。そういう人がいると周りがやりづらくなるし、そもそもサラリーマンに向いてない」
「あー。そうかもしれませんね」
「だから可もなく不可もなくっていう今の状況はすごくいいよ。ぼくはそのことに気づくまでに十年かかって、最近ようやくプラスとマイナスが同じになるぐらいにコントロールできるようになった。君は二ヶ月でたどりつけるなんてすごいね」
「ありがとうございます」
「これからも仕事に夢を求めずに、お互いプラスマイナスゼロでやっていきましょう」
2018年5月28日月曜日
アメリカの病、日本の病
今年の2月、アメリカ・フロリダ州のハイスクールで銃乱射事件があった。多くの生徒が犠牲になった痛ましい事件だが、申し訳ないがニュースを目にしたぼくの感想は「またか」だった。それよりさっき床に落としてしまった食パンのほうが悲しい。
正直いって、アメリカじゃあよくあることだよね、ぐらいにしか思えない。アメリカ名物銃乱射事件。
アメリカでは年間一万五千人以上が銃によって殺されているそうだ。事故死、死に至らない怪我など含めればずっと多くの死傷者が出ていることになる。
アメリカでは精神疾患患者でも銃を購入できる。十八歳でもライフルを買える(拳銃は買えない)。
銃は「アメリカの病」と言われている。
「銃の所持を規制すればいいのに」と思う。大半の日本人はそうだろう。日本にはいろん考えの人がいるが、「日本もアメリカ並みの銃社会になればいいのに」と主張する人は男子中学生を除けばほとんどいない。男も女も年寄りも若者も右翼も左翼も、銃社会なんてろくなもんじゃないと知っているのだ。
そんな誰でも知っている「ろくなもんじゃない銃社会」を、アメリカは維持しつづけている。
なぜこんな愚策をとりつづけているのか、ふしぎで仕方がない。
小さな島の民族が銃を携帯していても「ふーん、まあ世の中にはいろんな村があるからね」としか思わないが、愚策をとっているのは軍事力、経済力、科学力どれをとっても世界ナンバーワンの大国USAだ。そこが解せない。
四流大学が「総合未来グローバル環境システム福祉学部」を新設したら「ふーんまあ好きにしたら?」と思うけど、東大に「東京大学総合未来グローバル環境システム福祉学部」ができたら、東大と一切関係ない人ですら「おいおいそんなばかなことしたらだめだろ」と言いたくなる。そんな気持ちだ。
じっさいのところ、アメリカ人って銃についてどう思ってるんだろう。
「なくせたらいいけど現実的にはなくせないからしょうがないよね。あったほうがいいこともあるし」として受け入れているのだろうか。日本における暴力団と同じように「必要悪」扱いなんだろうか。
いつ撃たれるかわからない社会でびくびくしながら暮らすのってすごいストレスなんじゃないかと思う。
でも日本だって殺そうと思えば車ではねとばしたり電車のホームからつきとばしたりすれば殺せるわけで、銃を規制しても他の手段での殺人に代わるだけで案外殺人そのものは減らないのかもしれない。
とはいえ暴発による事故は確実に減るだろうから、それだけでもやる価値はあると思うけど。
アメリカ人が銃を手放さない理由としてよく言われるのは、「アメリカが銃と民主主義で独立を成し遂げたから」という説明だ。
ぼくはこの説には納得できない。仮にはじめはそうだったとしても、数百年も同じやりかたを続ける理由にはならないだろう。日本だってとっくの昔に刀を捨てた。いくらなんでも「祖先のDNA説」は無理がある。
堤 未果氏の『(株)貧困大国アメリカ』 では、全米ライフル協会がロビー活動をがんばってるから規制が進まない、と書いてあった。
『週間ニューズウィーク日本版2018年3月13日号』の特集『アメリカが銃を捨てる日』にもこんな記述があった。
NRAとは全米ライフル協会のことだ。
アメリカの選挙は金がかかる、全米ライフル協会は巨額の支援をしている。特に共和党に対してはそうだし、賭けにはずれて大負けしないように民主党にもBETしている。だから民主党政権になったとしても銃規制は進まない。
金がほしいから規制しない。いたってシンプルだ。そして「祖先のDNA説」よりずっと説得力がある。
ぼくらの多くは「人命はすべてのことに優先する」「金より人の命のほうが大事」と思っているし、じっさいその原則に従って行動する。
でもぼくらが大事にするのは「自分の命」や「よく知る人の命」であって「どこかの誰かの命」ではない。
「どこかの誰かの命」の価値はすごく低い。日本でも過労死増加確実と言われている高度プロフェッショナル制度が通されるが、あれに賛成している議員だって「過労死を増やしてやろう」と考えているわけではないだろう。「どこかの誰かの命」に対する想像力をはたらかせていないだけなのだ。想像力の欠如か、あえて考えないようにしているのかはわからないけど。
「あなたの子どもに高度プロフェッショナル制度を適用してもいいですか?」だったほとんどの議員が反対にまわるだろう。
リチャード・マシスンという作家の短篇に『死を招くボタン・ゲーム』という作品がある。
という話だ。
有名な話なので、作者名は知らなくてもオチを知っている人は多いだろう。
この夫婦はボタンを押すわけだが、彼らが極端に利己的というわけではない。「ボタンを押すと隣の家の人が死にます」だったら押さなかっただろう。ただ「どこかの誰かの命」は「目の前の金」よりもずっと価値が低くなってしまうのだ。
えらそうなことを書いているけど、銃乱射事件のニュースを見て「またか」と思ったぼくも同じだ。「どこかの誰かの命」に対しては食パン一枚ほどの価値も感じていない。
銃が「アメリカの病」なら、過重労働は「日本の病」だ。でもそれは症状であって病因ではない。
病の原因は全人類に共通する「どこかの誰かの命を軽視してしまう」という性質だ。
2018年5月27日日曜日
いつもにこにこの人が苦手
いつも笑顔の女性が苦手だ。
クラスにひとりはいるタイプ。いつもにこにこしていて、誰に対しても優しい。けっこうかわいくて、勉強もそこそこできる優等生。
誰からも嫌われない。ぼくも嫌いじゃない。でも、苦手。
なんでだろう。なぜか遠ざかってしまう。
もちろんぼくにも優しくしてくれる。うれしいけど、でも頭の中でアラートが鳴っている。「そいつは誰にでも優しいぞ、気をつけろ!」
べつに気をつけなきゃいけないことなんてない。優しさをありがたく受け取っておけばいい。
でもなんかこわい。陽の光にさらされたダンゴムシが逃げるように、日陰者のぼくは彼女から遠ざかる。
いつもにこにこしているけどほんとは腹黒い……なんてことはない。
そういう女性は、しゃべってみるとほんとにいい人なのだ。たとえ腹の中では悪だくみをしていたってかまわない。悪意を表に出さなければいい人だ。自分以外の人間なんて、外から見える部分がすべてなのだから。
なんでいつもにこにこしている人がこわいんだろうと考えて、笑顔が失われる瞬間を見たくないからじゃないだろうかと気づく。
いつもは不愛想な人が、ぼくと話しているうちに笑顔になったらうれしい。すごくうれしい。
でもいつもにこにこしている人が笑顔で話していてもそんなにプラスにならない。逆に、ちょっとでもつまらなさそうな顔をされたらすごく心配になる。
たぶん失うことがこわいんだろうな。「いつもにこにこ」の人は百点満点からスタートしているから、そこからは失うしかないもんな。
どんな人でも親しくなったら笑顔以外の表情も目にするだろうから、それがこわくて近寄れないんじゃないだろうかと思う。
でも「いつもにこにこ」の人がほんとに二十四時間ずっと笑顔を絶やさない人だったら……。それはもっとこわい。
2018年5月25日金曜日
【読書感想】関 眞興『「お金」で読み解く世界史』
『「お金」で読み解く世界史』
関 眞興
「お金」で読み解く、という試みはおもしろいのだが、「世界史」というテーマは大きすぎたように思う。
誰もが世界史に対して十分な知識を持っているわけではないので、経済の話に至るまでには政治や宗教や地理や文化の話も避けて通れず、お金以外への説明に多くのページが使われている。で、結局「世界史の膨大な知識を猛スピードで説明する教科書」になってしまっている。
かなりのボリュームのあるマクニール『世界史』ですら「すごくあわただしいな」と感じだたので、切り口を絞ったとはいえ新書で文明の隆興~19世紀までの世界各国を説明するというのは無理がある。スペイン→オスマン帝国→ロシア→中国→オランダ→イギリス みたいにあっちこっちに話題が移るので、ぜんぜんついていけない。作者は元予備校講師らしいが、「とにかく重要ポイントだけ駆け足で説明」というのはいかにも予備校っぽい。
「お金で読み解くローマ帝国」ぐらいにテーマを絞っていれば読みごたえのある本になっていただろうに。
いろんな時代、いろんな国に共通して言えるのは、国家の力が衰えると貨幣も不安定になるし、貨幣が不安定になれば社会も不安定になるということ。
資本主義社会になったのは世界史の流れで見ればごく最近の話ではあるけれど、それ以前から政治や経済を支えているのはお金なんだね。
ユダヤ人は金貸しが多かったから嫌われていたというのは聞いたことがあったが、なるほどこういう理由だったのね。
そういえば世界一有名な金貸しであるシャイロック(シェイクスピア『ヴェニスの商人』)もユダヤ人だ。マイノリティとして生きていくために金貸しをしていたのに、それで嫌われるのはかわいそうな気がする。元はといえばわかってて借りたほうに原因があるわけだし。
十字軍というとぼくにとってはかっこいいイメージだったけど(『ジョジョの奇妙な冒険』第三部の「スターダスト・クルセイダース」のためだが)、実態はというと略奪を尽くしたり、女性をさらったり、とても気高い人たちとはいえなかったようだ。
なかには宗教的理想に燃えていた人だっていたんだろうが、大半は世俗的な動機でついていっていたらしい。
アメリカ新大陸への植民や日本人の満州移転を見てもそうだけど、うまくいっている人は「新天地で一旗あげてやろう!」なんて挑戦はしないわけで、なにかしら問題を抱えているから新しい土地に活路を求めるんだよね。
パイオニアっていうとかっこいいけど、開拓者なんて「たまたまうまくいったろくでもない人」ってケースが多いんやろねえ。
16世紀頃のオランダのニシン漁の話。
オランダはニシン漁によって富を蓄え、さらにこれが航海技術の向上や船舶数の増加につながり、世界の海へ乗りだすことができ、後の東インド会社設立につながったのだという。
このエピソードは以前読んだ『世界史を変えた50の動物』という本にも書いてあった。世界情勢が魚に左右されるなんておもしろいなあ、と思った記憶がある。
ちなみにその後オランダには各国からお金が集まり、あふれたお金がチューリップへの投機となって過熱し、チューリップバブル崩壊、経済の不安定化へとつながっている。
ニシンで集めたお金をチューリップで失った国、それがオランダ。
奴隷制がなくなったことについて。
会社員が自虐的に「サラリーマンなんて会社の奴隷だよ」なんていうことがあるが、じっさいはサラリーマンのほうが奴隷よりもっと安上がりで使える存在なのだ。
奴隷は主人の持ち物だから、逃げたり壊れたりしないように扱うだろうしね。資本家にとっては、必要なときだけ働いて、気に入らなくなったらクビにできて、他のやつと交換できる労働者のほうが都合がいいのかもしれないね。
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2018年5月24日木曜日
【読書感想】小佐田 定雄『上方落語のネタ帳』
『上方落語のネタ帳』
小佐田 定雄
上方落語の百八つの噺のあらすじとともに、噺家による演じ方の違い、時代による変遷、演者が留意している点などを解説。
内容紹介文に「教養として知っておきたい」なんて書かれているが、これを書いた人は落語をわかっていない。落語は娯楽だからいいのに。教養になったら落語は死ぬよ。
これは『ぜんざい公社』がたどった変遷。三遊亭円朝の新作落語だったが、百年以上も受け継がれているわけで、もう立派な古典落語だ。
内容も変わっているとはいえ「お役所の融通の利かなさ」というテーマが明治初期から今までずっとウケているのがすごい。役人が四角四面なのは人類普遍の性質なんだろうな。たぶん海外に持っていっても通じるだろう(ぜんざいは通じないだろうが)。
「改良」とか「文化」とか、その時代を象徴する流行り言葉がくっついてるのもおもしろい。そういや酒の電気ブランも「電気」が流行っていたからなんとなくつけられた、と聞いたことがある。
今だったら「スマートぜんざい」とか「クールぜんざい」みたいなもんだろうね。
落語の強みはなんといっても著作権が希薄なところだ。多くの噺家の手によってどんどん噺の細部が変わっていくので、数百年も前の噺が今でもおもしろさを保っている。
また、つぎたしつぎたしで笑いを足せるのも落語の良さだ。
落語に至っては、すべてがフリー素材だ。技法だけでなく、他の人が考えた噺を演じさせてもらってもいい(もちろん他人の新作落語を自分名義で発表してはいけないが)。さらに改変も許されている。自分がいいと思ったアイデアはどんどん加えていける。この懐の広さこそが落語の強みだ。
テレビドラマ『古畑任三郎』で「人気落語家が新作落語を盗むために兄弟子を殺す」という回があったが(『若旦那の犯罪』)、あの展開には違和感がある。弟弟子が「ぼくにちょうだいよ」というからだ。あれは「ぼくにも教えをつけてよ」と言うべきだろう。
漫才やコントの寿命は、落語に比べて圧倒的に短い。人気芸人であればあちこちでネタを披露するので一年もたたぬうちに「またこのネタか」となってしまう。
ほんとにおもしろいネタが飽きられて日の目を見なくなるのはもったいない。漫才やコントでも著作権は五年とかにして、それを過ぎたら他の漫才師が演じたり、アレンジしたりするのを許したらいいのに、と思う。
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2018年5月23日水曜日
「許せん」について考えた
アメフトのタックル問題を見ていて、「許せん」ということについて考えた。
というのが今の状況だ。
さて、ニュースやSNSの反応を見ていると、野次馬の大半は日大の選手については「許す」ことに決めたらしい。
自らの過ちを認めた上で何度も謝罪の言葉を口にし、監督やコーチからの指示があったと述べたことで、彼の評価はマイナスからむしろプラスに傾いているようにも見える。
「むしろ彼も被害者だ」「権力に立ち向かう立派な人物」「不正に立ち向かうために声を上げた勇敢な青年」みたいな扱いまで受けている。
ふしぎだ、と思う。
彼は謝罪はしたが、報道を見るかぎりではけがをさせられた選手が「許す」と言った様子もないし、もちろんけががなくなったわけでもない。
つまり「悪質なタックルをして相手チームの選手をけがさせた直後」と「謝罪会見を開いた後」で、彼がやったこと、与えた損害については何も変わっていない。刑事罰も受けていなければ、被害者に対する賠償もしていない。
また、事件に至った経緯を彼は説明したが、あくまで一方の見解でしかなく、監督やコーチが口をつぐんでいるため真相はほとんど何も明らかになっていないに等しい。
勘違いしてほしくないのだが、日大の選手を許すなと言いたいわけじゃない。
ただ「なぜ許すんだろう」、「以前は何が許せなかったんだろう」、「そもそも許さんとか許すとかいう資格が我々にあるのか」と疑問に思っただけだ。
何に対して「許せん」のか
いろんなことが世間を賑わせているが、その多くは「許せん」「許せる」の話に還元できる。
謝ってしまえば、意外と世間はたいがいのことは許す。
そもそも自分が被害を受けたわけではなく、ただ野次馬として悪いやつを叩いて溜飲を下げたいだけだから。
だから悪いことをしたやつでも「私が悪かったです」と頭を下げていくばくかのペナルティを受け入れれば許す。胸がすっとするから。
幼い子どもを見ていると、よく「思いどおりにならないこと」に対して怒っている。
うまく靴下が履けない、とか、こっちに行きたいのにみんながあっちに行った、とか。
大人になるとそのへんのことを「やりかたを変えれば何とかなること」「どうにもならないこと」に分けて考えることができるようになる。
「うまくピアノが弾けない」という「どうにもならないこと」に対して、「練習しよう」とか「お金を出してうまい人に弾いてもらおう」とか「あきらめよう」とかいくつかの対策を立てられるようになるので、大人は子どもほど怒らない(子どものように怒る大人もいるけど)。
テレビを観ている我々が「許せん」と思うのは「思いどおりになりそうなこと」だけだ。
多くの命を奪った地震に対して「地震許せん」とは思わない。地震はどうにもできないことだから。発生を防ぐこともできないしナマズが謝ってくれるわけでもない。
その代わり、十分な対策をしていなかった行政機関とか原発建設を進めていた政治家とかは「思いどおりになるかもしれない」から「許せん」と思う。
我が国の政治家の不祥事に対しては、辞職するとか頭を下げるとかしてくれるかもしれないから(素直に認める可能性はきわめて低いけど)「許せん」と思う。でも外国の政治家がどんな暴挙に出ても、日本で怒っている人の言葉に耳を貸してくれなさそうだから「許せん」とは思わない。
北朝鮮がミサイルをぶっぱなしているときに「やめてほしいなー」と言う人はいても、「金正恩許せん」とか「金正恩辞めろ!」とか言ってる人はほとんどいなかった。地震と同じように「どうにもならない困った現象」扱いだった。
我々の「許せん」という感情は、うまく靴下が履けなくて怒っている二歳児の気持ちに近い。
「許せん」は相対的なもの
アメフトタックル問題を見ていると、「許せん」は相対的なものなのだと気づく。
日大の選手が悪役から一転「命じられて不本意な悪事に手を染めてしまったかわいそうな被害者」、あるいは「不正を告発した勇気あるヒーロー」にまで扱いが変わったのは、日大の監督、コーチ、大学側の態度が不誠実だからだろう。
もし問題が発生した直後に監督が「すべて私が指示したことです。不適切な指示でした。被害者にお詫びし、経緯を明らかにした上で刑事罰、民事訴訟、世間からの非難をすべてを受け入れます」と頭を下げていたらどうだっただろう。
きっと、選手の評価はここまで上がっていなかったにちがいない。謝罪会見をしたとしても「監督から指示されたとはいえ悪質なプレイに手を染めた卑怯者」ぐらいの扱いは受けていただろう。
天秤のように、監督が評価を下げたことで選手の評価が上がったのだ。
大相撲の暴行問題でも、「暴行をした日馬富士が悪い」と言ってる人はほとんどいなくなった。「許せん」やつが相撲協会に移ったからだ。
「もっと許せん」やつが現れたとき、比較的誠実な対応をしているやつは「許せん」から外れる(許したわけではない)。
「許せん」は脳のメモリーを食うから、新しい「許せん」が出てくると以前の「許せん」は思考の外に追いやるのである。
「許せん」を回避するために
- 過ちは受け入れ、頭を下げる
- いくらかのペナルティは受け入れる
- もっと「許せん」やつをつくる
特に大事なのは「3. もっと「許せん」やつをつくる」だ。
これさえあれば、1. と2. はなくてもいいぐらいだ。現に、日大アメフト部の監督やコーチの対応がまずかったために、選手が謝罪会見をする前から彼に同情的な意見は多く見られた。
政治家が身を守るために「許せんやつ」を用意しておく、というのはどうだろう。
閣僚が不正や失言で非難を浴びたら「許せんやつ」がもっとひどいことをやらかすのだ。一年生議員が誰が見ても明らかな差別的発言をする、とか。
スケープゴートが現れれば、一度に何人も「許せん」ことのできない我々はより軽いほうを許してしまう。
政権は保身のために検討したほうがいいかもしれない。もうやっているかもしれないが。
2018年5月22日火曜日
バンザイ酒離れ
「若者の酒離れ」だそうだ。
ほんとかどうか知らない。
ほんとかどうか知らない。
まあ減ってるんだろう。若者の数自体が減ってるし。
ぼく自身、ほとんど飲まない。月に1回か2回ぐらいしか飲まない。と思ったけどぼくはもう若者じゃなかった。中年だった。まあそれはいいや。
ぼく自身、ほとんど飲まない。月に1回か2回ぐらいしか飲まない。と思ったけどぼくはもう若者じゃなかった。中年だった。まあそれはいいや。
「酒離れが進んでいるのは今の若者に金がないからだ」
という説がある。ほんとだろうか。
昔の若者のほうが経済的余裕があったとは到底思えない。バブルの頃とかはわからないけど、一時期の例外を除けば若者は金がないのがふつうだ。それでも呑んでいた。
金は関係ない。
「いい酒を呑ませないから若者が酒のおいしさを知らずに、酒から離れていっちゃうんだよ」
という説もある。ほんとだろうか。
昔の若者はいい酒を飲んでいたのだろうか。いやいや、ぜったいちがう。今のほうが味も良くなって選択肢も増えたから、うまい酒に出会える可能性は上がっているはずだ。昔なんて日本酒と焼酎と電気ブランしかなかったのだ(いつの時代だ)。
味のせいでもない。
という説がある。ほんとだろうか。
昔の若者のほうが経済的余裕があったとは到底思えない。バブルの頃とかはわからないけど、一時期の例外を除けば若者は金がないのがふつうだ。それでも呑んでいた。
金は関係ない。
「いい酒を呑ませないから若者が酒のおいしさを知らずに、酒から離れていっちゃうんだよ」
という説もある。ほんとだろうか。
昔の若者はいい酒を飲んでいたのだろうか。いやいや、ぜったいちがう。今のほうが味も良くなって選択肢も増えたから、うまい酒に出会える可能性は上がっているはずだ。昔なんて日本酒と焼酎と電気ブランしかなかったのだ(いつの時代だ)。
味のせいでもない。
結局、「飲まないという選択肢」ができたのがいちばん大きな原因だろう。
ぼくがお酒を呑めるようになった十数年前ですら「呑めない人も乾杯だけはビールで。一口だけでいいから」という風潮があった。
それより昔は「呑まなきゃいけない圧力」はもっと強かっただろう。呑めない人も、酒に弱い人も、呑めるけど好きじゃない人も、みんな呑まされていた。
あと、少し前まで車を運転する人も平気で呑んでいた。若い人は信じられないかもしれないけど、これほんと。2006年に起こった飲酒運転の車が三人の子どもを死なせた事故が転機となって流れが変わったけど、それまでは「飲酒運転で捕まるのは運が悪い」という風潮があったんだよ。
ぼくが子どものとき、親戚の集まりがあると、みんな車で来ているのに呑んでいた。顔を真っ赤にした人が「酔ったからちょっとだけ寝てから帰るわ」なんて云って、一時間ぐらい寝てから車を運転していた。うちの親戚が特殊だったわけではない(たぶん)。反社会的職業についていたわけでもなく、みんなふつうのサラリーマンだった。そういう人たちがみんな平気で飲酒運転をしていた。「けっこう呑んだから気をつけて運転してねー」ぐらいのもんだった。
21世紀のはじめぐらいまでは日本はそれぐらい野蛮な国だったのだ。十代の人は知らないだろうけど、2000年頃の日本なんてまだ腰蓑だけ巻いて半裸で暮らしてたからね。その頃の日本人は手づかみで生魚を食べていたからね。スシっていうんだけど。
つまり、かつてのアルコール消費量を支えていたのって、呑めない人、呑みたくない人、呑んじゃいけない人だったわけよ。
そういう人たちが呑まなくなった。呑まなくてもよくなった。そりゃ消費量は減る。すばらしいことに。
アルコール消費量は減っていても、飲み物に使うお金の総量は増えてるんじゃないかな。ぼくが子どものころは、水どころかお茶ですら「お金を出して買うものじゃない」という感覚がまだ一般的だった。
「若者の酒離れ」なんて、「二層式洗濯機離れ」「脱脂粉乳離れ」と同じだ。なくてもいいものが、もっといいものに取って代わられているだけ。
ぼく自身はお酒を呑むけど、基本的にお酒は悪いものだ。身体にもよくないし、うるさいし、暴れるし、くせえし、ゲロは吐くし、大学生は居酒屋を出た後「次どうするー」と歩道いっぱいに広がるし。
だから「毎日お酒呑んでます」なんて「毎日風呂に入らないです」と同じくらい恥ずべきことだという意識を持ってなきゃいけない。酒呑みはお天道様に隠れてこそこそ呑まなきゃいけない。体育館の裏とかで。
それを忘れて「若者の酒離れが進んでいる。ゆゆしき時代だ」だなんて、盗人猛々しいにもほどがあるよね。
ぼくがお酒を呑めるようになった十数年前ですら「呑めない人も乾杯だけはビールで。一口だけでいいから」という風潮があった。
それより昔は「呑まなきゃいけない圧力」はもっと強かっただろう。呑めない人も、酒に弱い人も、呑めるけど好きじゃない人も、みんな呑まされていた。
でも今は無理やり呑ませる人はいない。いるんだろうけどぼくの周りにはいない。そういう輩と付き合わないようにしてるから、ってのもあるけど。
今では一杯目からウーロン茶を飲んでも「なんでビールじゃないの?」と言われない。呑まない、という選択が許されるようになった。あと、少し前まで車を運転する人も平気で呑んでいた。若い人は信じられないかもしれないけど、これほんと。2006年に起こった飲酒運転の車が三人の子どもを死なせた事故が転機となって流れが変わったけど、それまでは「飲酒運転で捕まるのは運が悪い」という風潮があったんだよ。
ぼくが子どものとき、親戚の集まりがあると、みんな車で来ているのに呑んでいた。顔を真っ赤にした人が「酔ったからちょっとだけ寝てから帰るわ」なんて云って、一時間ぐらい寝てから車を運転していた。うちの親戚が特殊だったわけではない(たぶん)。反社会的職業についていたわけでもなく、みんなふつうのサラリーマンだった。そういう人たちがみんな平気で飲酒運転をしていた。「けっこう呑んだから気をつけて運転してねー」ぐらいのもんだった。
21世紀のはじめぐらいまでは日本はそれぐらい野蛮な国だったのだ。十代の人は知らないだろうけど、2000年頃の日本なんてまだ腰蓑だけ巻いて半裸で暮らしてたからね。その頃の日本人は手づかみで生魚を食べていたからね。スシっていうんだけど。
つまり、かつてのアルコール消費量を支えていたのって、呑めない人、呑みたくない人、呑んじゃいけない人だったわけよ。
そういう人たちが呑まなくなった。呑まなくてもよくなった。そりゃ消費量は減る。すばらしいことに。
アルコール消費量は減っていても、飲み物に使うお金の総量は増えてるんじゃないかな。ぼくが子どものころは、水どころかお茶ですら「お金を出して買うものじゃない」という感覚がまだ一般的だった。
あ、統計とか一切見ずに適当に書いてるからね。真に受けないでね。
「若者の酒離れ」なんて、「二層式洗濯機離れ」「脱脂粉乳離れ」と同じだ。なくてもいいものが、もっといいものに取って代わられているだけ。
ぼく自身はお酒を呑むけど、基本的にお酒は悪いものだ。身体にもよくないし、うるさいし、暴れるし、くせえし、ゲロは吐くし、大学生は居酒屋を出た後「次どうするー」と歩道いっぱいに広がるし。
だから「毎日お酒呑んでます」なんて「毎日風呂に入らないです」と同じくらい恥ずべきことだという意識を持ってなきゃいけない。酒呑みはお天道様に隠れてこそこそ呑まなきゃいけない。体育館の裏とかで。
それを忘れて「若者の酒離れが進んでいる。ゆゆしき時代だ」だなんて、盗人猛々しいにもほどがあるよね。
2018年5月21日月曜日
クーラー使ったら気温下がるやん
高校生のとき、現代社会の授業で「地球温暖化を止めるために私たちができることを考えてみましょう」という問いの書かれたプリントが配られた。
ぼくは「なるべく車に乗らずに自転車や徒歩で移動するようにする」と書いて、ふと隣の友人Kの回答をのぞきこんだ。
Kはこう書いていた。
「クーラーを使う回数を増やす」
Kは悪ふざけの好きな男だったのでふざけているのだと思い、ぼくは笑いながら「おまえそれ逆効果やないか」と云った。
するとKはきょとんとした顔で「え? なんで? クーラー使ったら気温下がるやん」と云った。
ボケたのではなく、いたってまじめにクーラーを使うことが地球温暖化防止になると考えていたのだ。
Kは少し抜けたところはあったが、決してバカではない。後に関西では名門とされる大学にも合格した。ただ、クーラーの原理を知らなかっただけ。
ぼくも原理はよく知らないからえらそうなことは言えないけど、エアコンが外に熱を逃がしていることぐらいは知っていた。
「室外機ってあるやん。エアコン使ったらあれめっちゃ熱くなるやろ。だから地球温暖化にとってはむしろ悪影響やで。あと電気作るのに石油燃やしたりしないとあかんやん」というと、
「ん? ああ、そうか。そういやそうやな」とKは納得してくれた。
彼はただ知らなかっただけだった。
最前線で研究をしている賢い人たちには想像もつかないだろうけど、様々な問題解決の糸口は、一般に思われているよりもずっと手前にあるのかもしれない。
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クーラーをがんがん使った世界 |
2018年5月19日土曜日
バブルでゆとり
昭和から平成に変わったとき、ぼくは幼稚園児だった。
だから、昭和生まれだけど昭和の記憶なんてない。あるのは半径五メートル以内の記憶だけだ。
昭和を象徴する戦争も高度経済成長もバブルも美空ひばりも平成になってから知った(万博記念公園の近くに住んでいたので太陽の塔だけは知っていた)。
そんな世代だから「昭和生まれ」でくくられると、うーんたしかにそうなんだけど……と腑に落ちない。戦前生まれと一緒かよ。
たぶん「明治生まれ」とか「大正生まれ」の人たちも同じように感じていたんだろう。大正なんか十五年しかないから、大正元年に生まれた人ですら大正が終わるときには十四歳だ。大正生まれはみんな大正の世の中を生きた実感がなかったんじゃないだろうか。
平成に関しては社会情勢を知る年齢になっていたし、平成後半は選挙権もあったので、「平成の世」に対して多少の責任感はある。
でも昭和については完全無責任だ。知ったこっちゃない。戦争も復興も成長も五輪も七輪も万博もわんぱくもあずかり知らぬ。
だけどもっと後の世代から見たらそうは見えないんだろう。
「あいつは昭和生まれだから」という理由で「いいよな、バブル時代の恩恵を受けてたやつは」なんて言われるんだろう。
恩恵受けてないのに。バブルが崩壊したときまだ十歳にもなってなかったのに。
うちの父親なんて1988年にローン組んで家買ってるのに。いちばん高いときに。バブルの恩恵は受けずにバブル崩壊の巻き添えだけ食らってたのに。
きっとあと十年ぐらいしたら、下の世代からはバブル世代扱いされ、上の世代からはゆとり世代扱いされるんだろう。どっちも違うけど、他の世代から見たら同じようなものだ。
ぼくにとって年寄りはみんな団塊の世代に見えるように。
2018年5月18日金曜日
【読書感想】伊坂 幸太郎『陽気なギャングは三つ数えろ』
『陽気なギャングは三つ数えろ』
伊坂 幸太郎
『陽気なギャングが地球を回す』は、伊坂幸太郎作品の中でぼくがいちばん好きな小説だ。
その続編である『陽気なギャングの日常と襲撃』は『地球を回す』ほどの疾走感はなかったものの、四人の魅力的なキャラクターが存分に発揮されていた。
で、三作目である『陽気なギャングは三つ数えろ』。
前作までに引き続き、嘘を必ず見破る公務員、シングルマザーの天才ドライバー、動物好きのスリ名人、そして何の役に立つのかわからない演説の達人(?)の銀行強盗四人組が活躍する。
なんといっても演説好きの響野という男が魅力的。
「いろんな特技を持った人たちが集まって大きなプロジェクトを成し遂げる話」は、『七人の侍』や『オーシャンズ11』など数あるが、『陽気なギャング』シリーズが一線を画すのは特に活躍しない響野という人物がいる点だ。
銀行強盗をするときにはおしゃべりで多少注意を惹きつける役をするが、他の三人の「嘘を見抜く」「スリ名人」「天才的なドライビングテクニック」という能力に比べれば圧倒的に見劣りがする。彼の役目だけは「他の人でも務まるのでは」と思えて仕方がない。
しかし小説として見たときにこの物語を支えているのはまちがいなく響野であり、彼が根拠のない自信と珍妙なへりくつをふりまわしているからこそ彼らは「陽気なギャング」となる。
銀行強盗中にくりひろげられるこのどうでもよいおしゃべりにこそ、『陽気なギャング』の愉しさが詰まっている。
小説には、リアリティが求められる小説と、嘘っぽさが求められる小説があるとぼくは思っている。
「さも本当にあったかのような話」であれば徹頭徹尾矛盾を感じさせない説得力が必要だし、「荒唐無稽なほら話」であればくだくだしい説明は省いて話のおもしろさを追求しなくてはならない。
これは小説のジャンルとはあまり関係がない。SFやファンタジーでもつじつまを合わせる必要はあるし、ミステリや私小説に大胆な虚構が混ざっていてもいい。
伊坂幸太郎の小説は、「荒唐無稽なほら話」のほうに属している。
カカシがしゃべったり死神が現れたり。そんなわかりやすい「嘘っぽさ」がある小説はもちろん、『フィッシュストーリー』や『アヒルと鴨のコインロッカー』あたりも「そんなにうまくいくわけあるかい」というばかばかしさを楽しむ小説だ。
落語と同じで「リアリティとかしゃらくさいこと言わずに楽しめばいいんだよ」というケレン味たっぷりなところが伊坂作品の魅力だとぼくは思っている(だから変にリアリティを求めて説明が冗長な『ゴールデンスランバー』は好きじゃない)。
『陽気なギャングは三つ数えろ』のストーリー展開も「んなあほな」要素が満載だ。荒唐無稽なばかばかしさがあふれ、その「ありえない設定」と「その割に妙に丁寧に作りこまれたストーリー」のギャップが楽しい。
しかし、散りばめられた洒脱な会話やドライブ感のあるストーリー、そして容赦なく襲いかかる「非現実的な展開」で、つっこませる隙を与えない。十個中一個が嘘くさかったら興醒めするけど、一から十まで嘘っぽかったらかえって説得力がある。そういうものだ。
シリーズ一作目、二作目も「おもしろかった」という記憶はあるけれどストーリーはまったく覚えていない。たぶんこの本も一ヶ月もすればどんな内容だったか思いだせないような気がする。
そういう軽さも含めて、『陽気なギャング』は読んでいて楽しい小説だ。
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2018年5月17日木曜日
【読書感想】高橋 和夫『中東から世界が崩れる』
『中東から世界が崩れる
イランの復活、サウジアラビアの変貌』
高橋 和夫
中東。
多くの日本人と同じようにぼくも中東のことをよく知らない。砂漠があって石油が出てイスラム教徒がいてイスラエルとパレスチナがもめていてしょっちゅう内戦やクーデターが起こっていて……というイメージ。
ニュースではアラブの春だとかIS(イスラム国)だとかシリア内戦だとか耳にするから、「革命が起きたのか」とか「難民が増えてるんだな」とかぐらいはわかるけど、そもそもシリアがどこにあるのかすらわかっていない。
……という程度の人間が『中東から世界が崩れる』を読んでみたのだが、これはすごくわかりやすい。良書だ。
ここ二十年ぐらいの中東社会の動きがよくわかる。教科書にも載っていない、新聞でもいちから説明してくれない、そういうところが明快にまとめられていて痒い所に手が届くような一冊。
前提としてあるのが「宗教対立の話にしない」というスタンス。
この姿勢がいい。じっさい、「宗教・宗派の対立」という概念から離れてみると中東で起こっていることはさほど難しくない。
「スンニー派とシーア派が……」とかいうからイスラムからほど遠い日本人には「ようわからんわ」となるんだけど、
「政府の要職についていた人たちがクーデターによって職を失ったから反政府勢力になった」
「異なる民族をむりやりひとつの国にまとめてしまったから対立が起こっている」
なんて説明されると、世界中どこにでもあるような話としてすんなり飲みこめる。
イスラエル・パレスチナ問題なんかは宗教の話を抜きには語れないかもしれないけど、その他ほとんどの問題は宗教はさほど関係ないんだよね。
中国だって東南アジアだってイスラム教徒は多いのにイスラム教とセットでは語られない。なのに中東だけはすべてがイスラム教と結びつけられた説明をされてしまう。だから余計にわかりづらくなるんだろうね。
アメリカ、ロシア、ヨーロッパ諸国、トルコなど周辺国が
- 民族や歴史を無視して勝手に国境を定めたり
- 民主主義的に選ばれたイスラム系のリーダーを倒してしまったり
- 石油ほしさからいろんなグループに武器を提供したり
欧米各国の思惑が交錯して中東問題をややこしくしているだけで、元々いた人たちだけならそこまで大きな争いにはなってなかっただろう。
アメリカがイラクを抑えるためにイランを育てたが、イランに革命が起こり反米政権が樹立
↓
こんどはイランを抑えるためにイラクのフセイン政権を支援
↓
フセイン政権が暴走してクウェートに侵攻したため湾岸戦争
↓
イランともイラクとも関係が悪化したのでサウジアラビアに力を入れるようになった
ほんと、アメリカが引っかきまわしてるだけじゃねーか。
中東にかぎらず、外国が支援しなければ争いなんてそんなに大規模化・長期化しないんじゃないかな。
力の差があれば早めに決着がつくし、差がない場合でも戦いが長引いていいことなんてないからどこかで手打ちになる。
ところがよその国が援助をしだすと、朝鮮戦争やベトナム戦争のように際限なく続いてしまう。
アメリカやヨーロッパは過激派組織撲滅だとかいってるけど、長い目で見たら中東和平のためにいちばんいいのは「何もせずに放っておく」なんじゃないかな。
でもそれができないのは、中東には「聖地メッカ」「石油」というみんなが欲しがるものがあるから。
石油は「何もしなくても金が入ってくる宝の山」であると同時に「争いの火種」でもあるわけで、持っている人には持っている人の苦労があるんだなあ。
「庭から石油が出たらいいな」なんて思うけど、じっさいに出たら平和に暮らせなくなっちゃうね。だからぼくは石油王にならなくていい。富だけほしい。
最近はアメリカが自国内でシェールガスを取りだせるようになったことで中東から手を引きはじめてる、ってのも皮肉な話だね。アメリカが手を出さなくなるのはいいけど石油のパワーが衰えるわけだから、産油国からしたら一長一短だ。
イランという国について。
イランのことなんてほとんど考えたことがなかった。ぼくがイランに関して持っている知識といえば「ダルビッシュ有は日本人とイラン人のハーフ」というものだけだった。
でもイランは日本の四倍以上の大きさの国土を持ち、人口はドイツとほぼ同じ。中東屈指の大国なのだ。
著者は「イランは中国と似ている」と書いている。
かつては文明の中心であったにも関わらず、下に見ていた欧米列強に蹂躙されてしまったところも同じ。東アジアにおける中国のような「中華思想」を持っている。
イランはシーア派が主流で、民族もペルシア人が多数で、公用語もペルシア語。他のアラブ諸国(スンニー派が主流、アラブ人、アラビア語)とはまったく違う。
これがわかると周辺の理解がぐっと楽になった。「イランもイラクも同じようなもんでしょ」という感じだったけど、オーストラリアとオーストリアぐらい違うんだね。
中国抜きに東アジアを語れないように、アメリカ抜きに北中米を語れないように、イラン抜きには中東は理解できない。逆にイラン目線で周辺国を見ると中東のパワーバランスはわかりやすい。
「イラン≒中華」説もそうだし、「中東には国もどきはたくさんあるが帰属意識を持った国民を有する国家は少ない」「イスラム主義の先鋭化は尊王攘夷運動に似ている」など、中東を理解する上で大きな手助けとなる大胆な解釈が盛りこまれているので、読み物としても楽しい。
宗教を離れてみると、中東問題ってこんなにもわかりやすいのか。
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2018年5月15日火曜日
【読書感想】ブレイディ みかこ『労働者階級の反乱 ~地べたから見た英国EU離脱~』
『労働者階級の反乱
地べたから見た英国EU離脱』
ブレイディ みかこ
ブレグジットとは、イギリスがEUから離脱すること。2016年6月におこなわれた国民投票で離脱派が残留派を上回ったのは世界中を驚かせ、同年のアメリカ大統領選で排他的な政策を掲げるトランプ氏が勝利したこととあわせて、世界中が右傾化・排他的になっていると語られた……。
が、イギリスのブレグジットはアメリカ大統領選とはまったく違う現象だったとこの本の著者は主張する。
著者のブレイディみかこ氏はロンドンに住んで保育士として勤務する。「移民」ではあるが、戦争から逃れてやってきたわけではないし、アイルランド人の夫もいるし、資格を持って専門職についているので、ヨーロッパ中で大きな問題になっている中東系の移民とは立場が異なる部分も多い(同じところも多いだろうが)。
まず前提として、著者はイギリスの政治や労働問題の専門家でもないし、研究者でもない。この本に書かれている「市井の人々の意見」も、個人的体験だったり、身近な友人へのインタビューだったりするので、データの偏りは信憑性に欠ける部分は免れないだろう。
それでも日本にいる研究者が新聞やテレビを見ているだけでは手に入らない「地べたの意見」には大きな価値がある。この人の解釈が正しいかどうかはわからないが、少なくともこう解釈をする人も現場にはいる、ということは間違いない。
ブレイディ氏の見解によると、多く語られていた「教育程度の低い労働者階級が移民を拒むためにブレグジットに賛同した」という解釈は誤りそうだ。
労働者階級の多くがブレグジットに賛成したのは事実だが、彼らのほうが中間層よりも移民と接する機会も多く、寛容であるという。ブレグジットに票を投じたのは、ブレグジットそのものに賛成というよりも金持ち優遇政策をとる政権にノーをつきつけるための手段であったというのだ。
たしかに、選挙の結果というのは必ずしも素直に主張が反映されるわけではないだろう。
2015年に大阪都構想の賛否を問う住民投票がおこなわれた。大阪市に住民票を持つぼくも投票に行き、反対に票を投じた。だがそれは都構想そのものに反対だからというより、都構想を主導している大阪維新の会のそれまでの政策に賛成できなかったからだ。
「都構想自体はどうでもいいが気に食わないあいつらに一泡ふかせたい」という理由で反対票を投じた人はぼくだけではなかっただろうし、「都構想はよくわかんないけど維新/橋下市長を支持する」という人も多かっただろう。選挙なんてそんなものだ。
だから「イギリス国民はEUからの離脱に票を入れたから排他的だ」とするのは、あまりに単略的すぎる解釈だ。
今イギリスで移民や外国人よりも不遇の扱いを受けているのは白人労働者階級だという指摘に驚かされた。
移民や外国人は差別されがちなので固まって暮らし、集団として行動を起こすことができる。ところが白人でイギリス人で男性となるとマジョリティ・強者として認識されてきた歴史があるがゆえに保護の対象からはずれやすく、また当人たちも団結して行動を起こさない。結果として、政治や福祉の面でも周縁に置かれてしまうという。
外国人や女性が貧困にあえいでいると「社会的な問題だから手を差しのべてやらねば」となるのに対し、「強者」とされているイギリス人の白人男性が貧困に陥っても「自分の努力が足りないからでしょ」という目で見られてしまうのだ。
日本でも同じことだよね。高齢者や母親や子どもが苦しんでいるのは「社会が助けてやらねばならない」となるのに、若い男性が貧困生活に陥っても「自己責任だ」あるいは「若いときは苦労したほうがいい」みたいな言われ方をされてしまう。
結果として貧困層はべつの貧困層への攻撃に走ることになる。
これもわかる気がする。日本でも生活保護受給者をやたらとバッシングするのは、いわゆるワーキングプア層が多いように見受けられる(じっさいはどうだか知らんけど)。貧困を脱した経験のある人や、ちょっとしたきっかけで自分も生活保護を受給することになる危険性の高い層ほど、他人の需給に対して厳しい。「おれはこんなに苦労して生活しているのにあいつばっかり楽してずるい」と。
金持ち喧嘩せずというけど、金で苦労したことのないような人が他人の生活保護受給に対してごちゃごちゃ言ってるのを、少なくともぼくは聞いたことがない。
だが「低所得者層間の争い」は為政者にとっては思うつぼなのだろう。政治への不満から目を背けることができるから。
サッチャー政権下では失業率が高くなった際に「各種手当の不貞受給を知らせるホットライン」を設けて低所得者層の分断を促したそうだ。
「おれの生活がこんなにひどいのはズルをしているやつがいるせいだ」と思ってくれれば、政権にとってはこんなにありがたいことはない。サッチャーも「あいつらチョロいぜ」と舌を出していたにちがいない。鉄の女の鉄の舌を。
イギリスの状況はまったく知らず、ぼくも「イギリス人はプライドが高くて偏狭だったかったからEUでまとまるのが嫌だったのかな」ぐらいにしか思っていなかった。
しかし『労働者階級の反乱』を読むにつれ、ブレグジットは単なる移民受け入れ拒否ではなく、労働者たちの怒りの噴出だったのだ、と思うようになった。
イギリス労働者の置かれている状況は、日本とも重なる部分が多いことに気づく。
度重なる規制緩和や労働組合の弱体化などで労働者をとりまく状況は悪くなるばかり。しかし当人たちは団結して経営者、権力者と対抗するばかりか、生活保護受給者叩きや外国人バッシングに明け暮れ、社会は断絶。
弱い者たちが夕暮れ、さらに弱い者を叩く。その音が響きわたれば「働き方改革」は加速してゆく……。
はたして反乱は起きるのだろうか。
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2018年5月14日月曜日
【読書感想】垣根 涼介『君たちに明日はない』
『君たちに明日はない』
垣根 涼介
リストラ(本来の意味である「再構築」ではなく、いわゆる「首切り」)を代行する会社に勤める男が主人公。
この本が刊行されたのが2005年。デフレまっただなかで、もう「リストラ」という言葉にも目新しさはなくなっていた時代だが、それでも今読むと隔世の感がある。
なにしろリストラ時に会社側が提示するのが「二倍の退職金、最大半年間の完全有給休暇、再就職先の斡旋」なんて好条件なのだ。それを提示された社員が「ふざけんな」と怒っていたりする。
ぼくからすると「めちゃくちゃいい条件じゃん。乗らなきゃ損でしょ」と思うのだが、それでも社員たちは辞めるかしがみつくか悩んでいる。
2005年というのはまだまだ終身雇用意識の強かった時代なんだなあ。
ぼくなんかすでに今の会社が四社目だし(正確には関連会社出向もあるので五社目)、今のところに不満はないけどもっといい会社があれば移ってもいいと思っている人間なので、会社を辞めることにあまり抵抗がない。
まあこれは時代のせいというより業界のせいかもしれないけど。ぼくはウェブ広告の仕事をしているが、同じ会社で五年働いていたら長いほう、って業界だからね。業界自体の歴史が浅いし会社もどんどんできてはなくなってゆくし。
また人材紹介会社に身を置いていたこともあるので、転職はよくあるイベントのひとつだと感じている部分もある。
少し前に、学生時代の友人から相談をされた。彼は新卒で某メーカーに就職し、十年以上勤めている。つまり一社しか知らない。
しかし転勤で希望していない支社に行くことになってしまった。実家のある関西に戻りたいのだが、戻れるかどうかもわからない……。で悩んでいるとのことだった。
「転職活動したらいいやん。じっさいに転職するかどうかは別にして」
とぼくは云った。
転職エージェントに登録したり求人を見たりすれば、自分の市場価値がわかる。今までのスキルを活かしながらもっといい条件で働ける会社も見つかるかもしれない。「いつでも転職できる」と思えば今いる会社に対してももっと強気で給与や勤務地の交渉ができる。それでも希望が聞き入れられないなら転職すればいいじゃないか……と。
だが彼はあいまいな顔で「それもそうかな」とつぶやいただけで、どうも煮えきらない様子だった。半年ほどたってから「転職活動してる?」と訊くと案の定「いや何もしてない」とのことだったのでぼくも何も云わなかった。本人がそれでいいなら他人がそれ以上口をはさむことでもあるまい。
ぼくにとって会社は「働きに応じて金をくれるビジネスパートナー」だが、「自分が帰属するコミュニティそのもの」だと思っている人もまだまだ多いのだとそのとき知った。
後者の人にとっては転職活動をすること自体が(実際に出ていかなくても)コミュニティに対する裏切りのように感じてしまうのだろう。不倫が家族に対する裏切りであるのと同じように。
どっちが正しいというつもりはないが、後者の人にとって「会社を辞める」というのは、ぼくにとっての離婚や帰化と同じくらい「極力避けなければならない災難」なのだろう。
特に大手企業にいる人は後者の考え方が今も多いようだ。
じっさいは、会社なんて辞めたってたいていなんとかなるんだけどね。
もちろんなんとかならないこともあるけど、それは会社に残ったって同じだ。転職で成功する確率より、リストラをしなくてはならない状況に陥った会社がV字回復をする可能性のほうがずっと低いだろう。
『君たちに明日はない』の話に戻るが、転職に対して抵抗のないぼくにとっては「そこまでじたばたしなくたっていいのに」としか思えないようなエピソードが多かった。
明日から来なくていいと言われたとか、五十歳過ぎてから退職を促されたとかならまだしも、三十歳前後の人が「半年以内に退職したら規定の倍の退職金をあげます。会社に来なくても給料払います」と云われたら「ラッキー!」ぐらいのもんだと思うんだけど。
そもそもリストラという言葉をあんまり聞かなくなったよね。不況を脱したっていうのもあるけど、そもそも正社員が減って派遣社員などの非正規雇用が増えたってのもあるよね。わざわざリストラ専門会社なんかに依頼しなくても、あっさり契約期間終了にしちゃえる世の中になっちゃったからね。
考えようによっちゃあ、リストラの嵐が吹き荒れていた時代よりももっと労働者にとって不幸な世の中になったのかもしれない。
あ、いかん。また話がそれた。小説の感想だ。
すぐれたエンタテインメントでした。リストラという重くなりそうなテーマを扱っていながら、前向きな未来が提示されているので湿っぽくならないしあくまで読後はさわやか。
登場人物も会話もステレオタイプではなく「ちょっと変わっているけど現実にいてもおかしくない」ぐらいの絶妙なリアリティを保っている。スーパーマンも超ラッキーもなく、地に足のついた登場人物たちができる範囲でちょっとだけ未来を切りひらいてゆく。エンタテインメント小説のお手本みたいだった。
読んだからといって特に何か得られるというわけではないが、そういうところも含めてエンタテインメントとしてよくできていた。
2018年5月13日日曜日
虫養い
「虫養い(むしやしない)」という言葉を知った。
ちょっとした間食、小腹が空いたので腹に入れるもの、そんな意味だそうだ。
腹の虫をおさめるためにちょっとした食べ物をあげる、ということが由来らしい。「養う」という表現がおもしろい。「腹の虫さんとなんとかうまく折り合いをつけて付きあっていこう」という感じがする。
京都の古い言葉だそうだ。ぼくは京都に住んでいたこともあるが一度も聞いたことがなかったが。
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腹の虫(イメージ) |
腹の虫は怒りを担当しているのかと思っていた。
「腹の虫が収まらない」といえば、怒りが持続する様子を表す慣用句だからだ。
でも、腹の虫は怒りだけでなく空腹も担当しているらしい。
言われてみれば、怒りと空腹はかなり近いところにある。
子どもを見ているとよくわかる。
特に二~三歳ぐらいの子どもは、食事前に大暴れする。
「こんなの食べたくない!」
「この席じゃない!」
「自分でスプーンとりたかった!」
何度、こんな難癖をつけてわめきちらされたことか。
こういう怒りは、ご飯を食べたらすぐに鎮まる。
一口ごはんを口に入れただけで、大暴れしていた子がとたんににこにこして「おいしい」と言う。
なのに、食べない。
腹がへって血糖値が下がるから怒る。怒って食べない。食べないから腹がへる。腹がへるから激怒する。
もう手が付けられない。地獄だ。
(あと眠いときも同じことが起こる。眠い→激怒→眠いけど寝られない→さらに怒る)
大人の場合はコントロールできているように思うけど、じっさいどの程度コントロールできているんだろう。
表面上は抑えているだけで、じつは大人も大差ないんじゃないだろうか。
衝動的な暴力事件の発生と胃袋の中の状態を検証したら、見事な相関関係が得られるんじゃないかとぼくは思う。
「魔が差した」という言い方があるけど、「腹の虫が暴れた」のほうがより正確な表現かもしれない。
2018年5月12日土曜日
コロッケは不当に安すぎる
コロッケが六十円で買える世の中、最高。
六十円やるからコロッケ作ってくれって頼まれたら、やります?
ジャガイモふかして、あちちちちって言いながら皮むいて、つぶして、
タマネギ切って、ひき肉こねて、味を調えて、
タマネギ切って、ひき肉こねて、味を調えて、
小麦粉と卵とパン粉をつけて、油で揚げて、
ジャガイモをつぶしたボウルとタマネギ切った包丁まな板と小麦粉卵パン粉を入れたバットと油でギトギトのフライパンを洗う。
これだけのことをやってもらう、と考えたら二千円ぐらい払ってもいい気がしてくる。
そんなコロッケがスーパーでたった六十円で買える。
もしかしてどっかの国から連れてこられた奴隷の子どもたちがコロッケを作らされてるんじゃないだろうか。
コロッケだけ昭和二十五年に作られてて時を超えて出荷されてるんじゃないだろうか。
大丈夫か世の中。大丈夫か時代。
2018年5月11日金曜日
ぼくのほうがエセ科学
「エセ科学」という言葉に違和感がある。
たとえば「エセ科学」の代表格として語られる
「水に『ありがとう』とかのきれいな言葉をかけると美しい結晶をつくる」
あれを「エセ科学」と断じてしまっていいのだろうか。
科学とは理論ではなく真実に対するアプローチの方法だ。
だから
- 「水に『ありがとう』という言葉をかけつづけると美しい結晶をつくる」という仮説を立てて
- 「美しい結晶」の定義付けをおこない
- 温度や気圧などいろんな条件を変えながら何千回と実験をして客観的な数値を出し
- そのデータに基づいて結論を出したのであれば
それは科学と言えるのではないだろうか。
(仮に出した結論が誤っていたとしても)
ぼくは「水に『ありがとう』という言葉をかけつづけると美しい結晶をつくる」とは思っていない。
でもそれを証明できる理論は持っていないし、実験をくりかえして「そんなことは起こりえない」と確かめたわけではない。
根拠といえば、どこかのえらい人が「そんなことはありえない」と言ってるから、というものだけだ。
「水に『ありがとう』という言葉をかけつづけると美しい結晶をつくる」なんて、常識的にありえないじゃないか、と思っている。
少しも科学的でない。
「地球が球形だなんて、そんなこと常識的にありえない」と信じていた時代の人と変わらない。
「みんながそう言ってるから」という理由でエセ科学をばかにしている人のほうが、よっぽど非科学的だ。
2018年5月10日木曜日
バカなほうのピザ
「イタリアンレストランでピザを食べない?」という誘いを受け、
「ピザは嫌いじゃないけど、でもバカなほうのピザのほうがぼくは好きなんだよね」と答えた。
「バカなほうのピザ?」
「そう。マルゲリータとかマリアーナとかペスカトーレとかコンサドーレみたいなシャレオツなピザはそんなに好きじゃないんだよ」
「なんかいっこ違うの混ざってたけど」
「ぼくが好きなのは、ソーセージとチキンとマヨネーズとコーンとツナとジャガイモが乗ってる、バカみたいなピザなんだよ。四分の一ずつ違う味が楽しめたりするとなおいい」
「……要するに、イタリアンピザじゃなくてアメリカンピザがいいってこと?」
「そうそう、それが言いたかった。恥ずかしいから声を大にして言いにくいけど、アメリカンなバカピザのほうが好きなんだよ。イタリアンみたいな水牛の乳から作ったモッツァレラを選んだ素材厳選ピザじゃなくて、とにかくうまそうなものは全のっけだ! みたいなバカ丸出しのピザ」
「言わんとすることはわかるけど」
「イタリアのピザって、パスタとかサラダとか肉料理とかいろいろあるうちの一品って感じでしょ。そういうんじゃなくて、主食はピザ生地でおかずはトッピングです、みたいな栄養のことなんか何も考えてない、ていうか何も考えてない、そんな知性を感じないピザが好きなんだよね」
「いやなんていうか……」
「イタリアのピザはワインと一緒につまむものでしょ。アメリカのはコーラで流しこむものでしょ。イタリアのはレストランで会話を楽しみながら食べるものでしょ。アメリカのはソファに寝そべってくだらないテレビ番組を観ながら脳みそセーフモード起動してIQ60にして食べるものでしょ。そういうアメリカンピザが好きなんだよ!」
「いやその言い方。ほんとに好きなの?」
2018年5月9日水曜日
【読書感想】小松 左京『日本沈没』
『日本沈没』
小松 左京
日本SFを代表する超大作。
筒井康隆氏によるパロディ作品『日本以外全部沈没』のほうは読んだことがあるけど、こっちは読んだことなかった。
刊行は1973年だけど、その後に起こったいろんな地震・噴火とも重なるような部分もあり、街が、そして国がめちゃくちゃに破壊されていく様は読んでいて息苦しくなるほどだった。
こういう描写がひたすら続くと、小説だとわかっていても気が重くなった。東日本大震災の直後に感じた「なにかしないと。でも何もできない」という無力感をひさしぶりに思いだした。
『シン・ゴジラ』をもっともっとスケールアップした感じ、といったらいいだろうか。
荒唐無稽なほら話なんだけど、そう思わせない圧倒的な知識が詰め込まれている。プレートテクトニクスや潜水艦構造や政治や軍事やあれやこれやがものすごく細かく、そして深く書かれている。さすが「知の巨人」と呼ばれていた小松左京氏と感心するばかり。司馬遼太郎のように「特に書かなくてもいいけどせっかく調べたから書いたれ!」という感じではなく、ストーリー展開に説得力を持たせるために必要なことだけが書かれている。
巻末の解説で小松実盛氏(小松左京氏の息子)が「小松左京は『日本沈没』を書くために当時高価だった電卓を買い、それを駆使して書いた」と説明している。
小説の中には計算式はおろか数値すらほとんど出てこないが、作者の頭の中には根拠となる数字があったのだろう。表に出てこない圧倒的な量の資料がこの重厚な物語を支えている。「日本が沈没することになったら」という発想自体はさほど斬新ではないかもしれないが、その設定でこれだけ厚みを持った小説を書ける人は他にいないだろうね。
ぼくは中学生のころ、小松左京氏の『雑学おもしろ百科』というシリーズの本を集めていた。
今でこそこの手の本はたくさんあるが、そしてその九割が他の雑学の種本からの寄せ集めだが、小松左京版『雑学おもしろ百科』はいろんな学術書から拾ってきた内容が多く、独自性が高くておもしろかった(ただし内容には誤りも多かった)。
中学生のときに小松左京氏の小説を何冊か読んでいずれもあまりおもしろいと思えなかったけど、ぼくがそれらを読むのに適した知識を持っていなかったからかもしれないな。ジェイムズ・P・ホーガン『星を継ぐもの』のおもしろさを理解するにはある程度の教養が必要であるように。
『日本沈没』はただ「日本が沈没する」だけの話ではない。政府はどういう決断を下すか、経営者団体はどう動くか、アメリカやソ連をはじめとする各国の勢力図はどう変わるか、そして生まれ育った国土を離れた"日本人"のアイデンティティはどうなるのか……。細部にわたり執拗すぎるほどの思考実験がおこなわれている。
リアリティはあるが、しかしこの小説で描かれている日本人はやはり「1970年代の日本人」だな、と感じる。2018年の日本に住むぼくから見たら「みんな利他的で社会を大事にしすぎじゃない?」と思えてしまう。たぶん今ならもっとみんな我先にと逃げだすと思う。
『日本沈没』は日本列島が沈むところで終わっており、「第一部・完」と記されている。国土を離れた日本人たちの苦しみを描く第二部の構想もあったらしいが、結局書かれぬまま小松左京氏は2011年に逝去してしまった。
ぜひ読みたかったな。
2018年5月8日火曜日
ごめんねいいよ
保育園の子ども同士が喧嘩をしている。ひとりの子がおもちゃを独占して、順番を代わってもらえなかった子が泣きだしたのだ。
先生が「〇〇ちゃんにごめんなさいは?」と言うと、
泣かせたほうの子は「ごめんね」と言う。
言われたほうは泣きながら「いいよ」と即答する。
この「ごめんね」「いいよ」、もはや挨拶のように形式化している。「ごめんね」から「いいよ」まで一秒かからない。「じゃんけん、ぽん!」ぐらいのリズムで「ごめんね、いいよ」というやりとりがおこなわれている。
たぶん保育園で先生が教えているんだろう。
「ごめんなさいって言いなさい」
「ごめんって言われたら『いいよ』って言ってあげようね」と。
でも「いいよ」は言わなくていいんじゃないだろうか。
謝られたら「いいよ」と返さなければならないというルールができると、謝られても許せない子が悪いような空気になる。
でも許せないことだってあるだろう。許すのに時間のかかることだってあるだろう。
「謝ったからといって必ず許されるわけではない。それでも迷惑をかけたら謝らなければならない」
と教えてあげてほしいとぼくは思う。
2018年5月7日月曜日
梅干しを食べるなんてこのくされ外道
ウナギが絶滅しそうという話を耳にするから、いまだにスーパーで安くウナギを売っているのを見ると「もう売るなよ」と思う。
買っている人には「買うなよ」と思う。
でもそれはぼくが高い倫理観を持っているからではなく、単に「ウナギがそこまで好きじゃないから」かもしれない。
たとえば稲が絶滅寸前だから米を食べるのを数十年間は控えましょう!という話になったときに、はたしてご飯を我慢できるかというと自信がない。
「ぼくひとりぐらい食べたって影響はないだろう」と考えてしまうような気がする。
結局、ほとんどの人は好き嫌いでしかものを語れないんじゃないかと思う。
タバコを嫌いな人が「タバコなんて他人に迷惑をかけるだけ。禁止にしろ」と言いながら、酒を飲んで道端で大声を出したりしている。
ぼくはクジラを食べるのが好きだから食べたいし、梅干しは嫌いだからちょっとでも梅保護の機運が高まれば「絶滅の危険性がある梅干しを食べるなんてこのくされ外道!」と声を大にして言いたい。
だから、いくら「ウナギが絶滅の危機に瀕しているから食べるのはやめよう」なんて理性に訴えても効果は薄いと思う。
「ウナギなんて不潔なおっさんの食べ物。ウナギを食べるなんてダサい」みたいな風説を流布させて、人々をウナギ嫌いにさせるしかないんじゃなかろうか。
2018年5月5日土曜日
国の終活、村の終活
日本の産業は今後縮小する一方だろうが、日本が世界に勝てる分野がひとつだけある。
それは「衰退」だ。
いまだに「高齢化社会」なんて言葉を使ってる人がいるが、そんな時代は20年以上前に終わった。日本は1995年に高齢者の割合が14%を超え、高齢化社会から高齢社会になった。さらに2005年には21%を突破して超高齢社会になった。現在は30%も超えて、世界ダントツの高齢大国だ。
有史以来どの社会も経験したことのない局面を迎えている。しかしこれは危機であると同時にチャンスでもある。
遅かれ早かれ他国も同じ状況に陥るわけで、そのときには衰退先進国である日本の経験が大いに参考になる。
戦争や疫病で全滅した国はあっても、老衰によって滅びた国はこれまでにない。国家がどうやって自然死するか、ここに全世界が注目する。たぶん。
近年「終活」という言葉が使われている。自分の死に方を設計し、残された者たちに迷惑をかけないよう望ましい死を選択する行為だ。
日本という国もそろそろ終活を考えねばならない時代にきている。
人間でもそうだが、無理な延命をしてもろくなことがない。
たとえば後先考えずに大量の移民を受け入れれば一時的に高齢者の割合は減るだろうが、移民もいずれは歳をとるわけで、根本的な解決にはならないどころかさらに大きな問題を引き起こす。副作用の強い薬を飲むようなものだ。
あわててじたばたするのは見苦しい。ひっそり静かに死んでいけば残された国々も「惜しい国を亡くした」と悼んでくれる。諸外国の記憶の中で永遠に「美しい国」でいられるのだ。死人は美化されるからね。
今後、死んでゆく村がどんどん出てくる。若者を呼ぼうなんて考えてはいけない。どうせ来ないから。それより「死ぬ村」をアピールしたほうがいい。
延命なんてせずに、逆に明確に期限を切るのだ。「この村はあと一年で死にます」と。そうすることで死を迎えた村は最期の輝きを放つことができる。
人間だって「あの人、余命三か月だって」と言われれば「じゃあ今のうちに会いにいっておこう」となる。愛する人々と別れの挨拶も交わし、心残りの少ない終末を迎えられる。
いつ死ぬかわからないままチューブにつながれて何年も経てば、会いに来てくれる人はいなくなるわ、金はかかるわ、家族の負担は増えて「こんなこと願ってはいけないけど早く死んでくれれば……」と思われるわ、ろくなことがない。助かる見込みがないならさっさと死んでしまうにかぎる。
高齢者ばかりの村は「村おこし」ならぬ「村看取り」を考えないといけない。
どうやって死ぬか。
ぼくは、「ダムの底に沈む」がいちばんの理想だと思う。終末の時がわかりやすいし、思い出は美しいまま建造物と一緒に水底に閉じこめられるし、他の町の役には立つし。
ただもう時代的に新たなダムは必要とされないので、残念ながら「ダムの底に沈む」プランは実現不可能だ。
彗星が落ちてきて村ごと消滅という『君の名は』方式も、心が入れ替わった三年後の世界のイケメンによって村人が救われるのであれば美しいプランだが、これも現実的ではない。
海外の大型建造物なんかはダイナマイトで爆破解体される。あれはすごくわかりやすくていい。
悲しいけれど、「ああ我々が愛した〇〇はもうなくなったんだ」とはっきりと目に見えるから、いつまでも引きずらずに気持ちを切り替えられる。村も爆死がいい。
人でも建物でも村でも、死ぬときはとにかく「はっきりと死んだとわかる形」にしたほうがいい。
人間の場合だと脈がなくなるとか呼吸が止まるとかいくつかのサインがあって、「死の要件」を満たすことで死が確定する。医師の「〇時〇分、ご臨終です」という宣告があるおかげで死を受け入れる準備ができる。
死の要件がないと、「きれいな顔してるだろ。ウソみたいだろ。死んでるんだぜ。それで……」なんて言いながらいつまでも死を認められなくて、ずっとベッドに寝かせてるうちにどんどん腐ってきて、もうドロドロになってるのに「もう死んでるとは思うけど一応もうちょっと置いとくか。何かに使えるかもしれないし……」なんて鼻をつまみながら片付けができない人みたいなことを言って、そんで白骨化して引っ越しとかのタイミングでようやく「さすがにもう片付けてもいいよね」と処分することになる。そんなカッちゃん見たくない。
彗星が落ちてきて村ごと消滅という『君の名は』方式も、心が入れ替わった三年後の世界のイケメンによって村人が救われるのであれば美しいプランだが、これも現実的ではない。
海外の大型建造物なんかはダイナマイトで爆破解体される。あれはすごくわかりやすくていい。
悲しいけれど、「ああ我々が愛した〇〇はもうなくなったんだ」とはっきりと目に見えるから、いつまでも引きずらずに気持ちを切り替えられる。村も爆死がいい。
人でも建物でも村でも、死ぬときはとにかく「はっきりと死んだとわかる形」にしたほうがいい。
人間の場合だと脈がなくなるとか呼吸が止まるとかいくつかのサインがあって、「死の要件」を満たすことで死が確定する。医師の「〇時〇分、ご臨終です」という宣告があるおかげで死を受け入れる準備ができる。
死の要件がないと、「きれいな顔してるだろ。ウソみたいだろ。死んでるんだぜ。それで……」なんて言いながらいつまでも死を認められなくて、ずっとベッドに寝かせてるうちにどんどん腐ってきて、もうドロドロになってるのに「もう死んでるとは思うけど一応もうちょっと置いとくか。何かに使えるかもしれないし……」なんて鼻をつまみながら片付けができない人みたいなことを言って、そんで白骨化して引っ越しとかのタイミングでようやく「さすがにもう片付けてもいいよね」と処分することになる。そんなカッちゃん見たくない。
今のままだと、同じことが全国の村々で起こる。死を受け入れられない村がカッちゃんのように腐敗してゆくことになる。
早めに「町の死」を定義づけなければ。
「三十歳以下の住民が十人を下回ったら死」とか「子どもがいなくなったら死」とか「税収が○○円を下回ったら死」とかの客観的な指標が必要だ(たぶんもう死んでる村もあるだろう)。
基準を満たしたら死亡。住んでいる人が何を言おうが問答無用でおしまい。一年たったら臨終宣告をして、ダイナマイトで役場を吹っ飛ばして行政サービスは一切打ち切り。その村は「墓」になる。墓村、墓町、墓市。これぞゴーストタウン。
現憲法には「居住移転の自由」と「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」が定められているから、村に住民がたったひとりになったとしても、最後の人が出ていかないかぎりは行政サービスを提供しつづけなければならない。
これは現実的でない。
そろそろ町が死ねるように憲法改正をしたほうがいいかもしれない。
村を死なすのは寂しい気もするけど、死を受け入れないことには次に進めない。
死にかけの村よりも死んだ村のほうが愛される。
世の中には廃墟マニアもいるから、「墓」になった町に住みたい人だっているだろう。
一切の行政サービスを拒否して孤高に生きたい、いや孤高に死にたいという人だっているだろう。
そういう変わり者が集まれば、一度死んだ村に再び人が集まって息を吹き返すかもしれない。一度ゴーストタウンになった村が甦る。これぞ超魔界村。
2018年5月4日金曜日
まけまけいっぱいの幸福
以前、横浜在住の人と食事をしたときに
「このお皿、さらえちゃっていいですか?」
と言ったら通じなかった。
「さらえる」は「お皿に少し残っているものを最後に平らげてしまう」という意味だ。
「……ということがあってん。『さらえる』って関西弁やったんやなー」
と関西出身の友人に言うと、
「えっ、おれもわからん」と言われた。
あれ? 関西弁じゃない?
他の関西の人たちに「『この料理をさらえる』って意味わかる?」訊いてみると、
「わからない」
「聞いたらなんとなく理解できるけど自分は使わない」
という答えが返ってきた。
こういうことがときどきある。
ぼくは兵庫育ち、大学時代は京都に住み、今は大阪に住んでいる生粋の関西人だが、父は北陸出身、母は幼少期に四国や中国地方を転々としていた人なので、いろんな地方の言葉が混ざっている。
我が家ではあたりまえのように使われている言葉が、よそではまったく通じないということがある。
外であまり通じない言葉に「まけまけいっぱい」がある。
コップに飲み物がふちのぎりぎりまで入っている状態を指す言葉だ。関西の人にはほとんど通じないが、四国の人には通じたので四国のどこかの言葉なんだろう。
![]() |
まけまけいっぱいのカフェラテ |
セーターなどがけばだっている状態を指す言葉だ。この言葉が通じたことはない。
いろんな人に「『もけもけ』って知ってる?」と訊いたが、いまだに「知っている」という人に出会ったことがない。だから方言ではなく母がつくった言葉なのかもしれない。
「さらえる」「まけまけいっぱい」「もけもけ」がどこの言葉かインターネットで調べたらわかっちゃうんだろうけど、あえて検索せずにわからないままにしておく。
他人に通じない言葉を自分の中に持っているって思うと、ちょっとめずだかしい気持ちになれるから。
2018年5月2日水曜日
【読書感想】米澤 穂信『ボトルネック』
『ボトルネック』
米澤 穂信
米澤穂信作品を読むのは『インシテミル』に続いて二作目なんだけど、『インシテミル』のときにも感じた不満を今回も抱いた。
「無茶な設定を受け入れるの、早すぎじゃね?」
「姉が生まれずぼくが生まれた世界」のぼくがどういうわけか「ぼくが生まれず姉が生まれた世界」というパラレルワールドに行ってしまう。
姉と出会って五分ぐらい話して「どうやら君はべつの世界から来たみたいね」と受け入れられて……。
っておーい! どっちも順応性高すぎー!
まったく知らない人が家にやってきて「ここはぼくの家」って言いだしたのになんですんなり受け入れちゃうんだよ! どう考えたって不審者だろ。好意的に解釈したってキチガイだろ。いずれにせよ通報しろよ女子中学生。五分しゃべっただけで「君はわたしの弟みたいね」って状況理解すんじゃねーよ。家にあげんなよ。振り込め詐欺でももうちょっとうまくやるぞ。
……と導入が不自然すぎてずっと物語に入りこめなかった。「これは信じたふりをして様子を見てるだけなんじゃないか」と疑いながら読んでいたのだが、登場人物の中学生たちは「パラレルワールド説」を本気で信じたらしい。証拠もないのに。中二病がすぎる。
『インシテミル』もそうだった。
わけのわからん屋敷に招待されて「はい、じゃあ君たちで殺し合いをしてください」と言われて、みんなすぐに状況を受け入れて殺し合いが始まっちゃう。登場人物の順応性の高いこと外来種のごとし。池の水全部抜くぞ。
不自然すぎる導入、あまりに都合の良い聡明すぎる登場人物のせいでげんなり。「自分が存在しなかったら世界はどう変わっていたか」という思考実験を試す舞台装置自体は悪くなかったんだけどな。
設定、キャラクター、セリフ。すべてがライトすぎるのが性に合わなかった。
ぼくはアニメを見ないので、たまにアニメを見ると「なんでこんな無茶な設定がまかりとおるの」と引っかかってついていけなくなるんだけど、同じ感覚だった。
いや、「無茶な設定」自体はいいんだよ。小説にリアリティが必須だとは思わない。わけのわからん異世界に放り込まれて、あっさり受け入れるSFなんていくらでもあるし。
でも、それだったらもっと奇想天外な設定にしないといけない。
「古代ローマ人が溺れて、気がついたら21世紀の日本でした」だったら、世の中が何から何まで違うわけだから「ただならぬことが起こったに違いない」もすんなり受け入れられるだろう。「理由はわからないけどどうやらべつの世界に行ってしまったらしい」と考えるしかないのだから。それならそれでありだ。
「ほんのわずかだけおかしな世界」を書くなら、北村薫『スキップ』『ターン』のように細かい証拠と繊細な描写の積み重ねが必要だ。
『ボトルネック』には大胆さも丁寧さも感じられなかった。要するに、嘘をつくのがへたなのだ。もっとうまく騙してくれ。
その他の読書感想文はこちら
2018年5月1日火曜日
アニメの文法と文化の衰退
妻から、あるアニメがおもしろいと勧められた。
内容を聞いてみると、ぼくの好きなタイムリープもののSFで、たしかにおもしろそうだ。
録画したものがあるとのことなので観てみる。一話を観たところで「無理だ……」とため息をついて続きをあきらめてしまった。
アニメの文法がわからないのだ。
ぼくはほとんどアニメを観ない。ディズニー(特にピクサー)作品は好きだが、国産アニメは観ない。ジブリアニメですら最近の作品は観ていない。まして深夜にテレビでやっているようなやつはひとつも観たことがない。『まどマギ』がおもしろいとか、『艦これ』が流行ってるとか、ほのかに噂は流れついてくるのだが(たぶんだいぶ後になって)、「大勢の人がおもしろいと言ってるから観たらおもしろいんだろうな」とは思うものの、「ぜんぶ観ようと思ったら何時間もかかる」と思うと食指が動かない。「だったらその間本を読んだほうがいいや」と思ってしまう。
そんな人間だから、アニメの文法がわからない。
たとえば、天然ボケっぽいキャラクターがこれまでの流れと関係のない発言をする。周囲の人物はぽかんとして、一瞬の間の後に「……あっ、いや、それでさっきの続きなんだけど」みたいな感じで話が引き戻される。
ぼくはここで「今の発言は何のためになされたんだろう?」と考える。バラエティ番組なんかだったらほとんど意味のない発言がなされることはよくある。けれどこれはアニメーションだ。百パーセント作りものである。ということはさっきの発言にも作り手の何らかの意図があるということだ。
笑いどころなのかもしれないが、発言の内容はたいしておもしろくない。たぶん作り手もそんなにおもしろいとは思ってないだろう。たぶんこれはアクセント。シリアスなシーンが続いたから軽めのボケをはさんでメリハリをつけたんだろう。
……こういうことをいちいち考えないと次に進めない。
慣れていない人間がアニメを観ると「文法」についていけなくて戸惑ってばかりだ。
「あ……」みたいな意味のないつぶやきが多いな、と思う。たぶんこれは沈黙なんだろうな。小説だったら「無言で肩を落とした」みたいな描写にあたるシーンなんだろう。ドラマだったら役者が表情で表現するところなんだろう。でもアニメでは「沈黙」の表現がむずかしいから(動きも台詞もないシーンはアニメーションだとただの「静止画」になってしまう)、短い台詞を発することで当惑や思索にふけっているところを表現するんだろう。
そんなことを考えながら三十分のアニメ(歌とかCMもあるから実質二十分ぐらい)を観ていたらどっと疲れた。
そのわりにストーリーはまったく進んでいない。三十分も本を読めばかなりの展開があるのにな。
きっと、我慢して何十本もアニメを観つづければ「文法」を自然と理解できるようになっていろんなことがすんなり解釈できるようになるんだろう。
でもそれをする体力がない。若かったらできたんだろうけど。そこまでするんだったら慣れ親しんだ読書を楽しむほうがいい。
ということで「もうアニメはいいや」と投げだしてしまった。歳をとったのだ。
ぼくは落語を好きだけど、それは小学生のときから聴いていたからであって、今はじめてふれたら理解不能なことばかりでたぶん聴いてられないだろう。
「地の文と会話文の境があいまいなこともある」とか「四人以上の登場人物が会話をするシーンでは特に誰の発言かは意識しなくてもいい」とか「肩を揺するのは歩くシーン」とか「上方落語では突然お囃子が鳴る」とかの「文法」を知らないと聴きづらい噺も多い。
「よくわからない言葉は聞き流してもだいたい大丈夫」「お金の価値もちゃんとわからなくても大丈夫」なんて判断も、数をこなさないと身につかない。
だがこういうことは、中にいる人にはわからない。アニメ制作をしている人は「アニメなんて観たらいいだけだから誰でも楽しめるよ」と思うだろう。おっさんがアニメの「文法」がわからないだなんて思いもよらないにちがいない。だからほったらかしにされてしまう。
歳をとってから新しい芸能・文化に触れるのはとても体力がいるものだ。
読書習慣がないまま大人になってしまった人が読書を趣味にすることは、まずないのだろう。
そう考えると、よく耳にする「若者の〇〇離れ」は単なる売上の減少だけの問題ではない。
二十代までにその道に目覚めなかった人は、たとえお金や時間を手にしたとしても中高年になってから近寄ってくることはほぼないだろう。若者が入ってこない文化は、数十年後の衰退が確定している。
あらゆる文化は何よりも若者をターゲットにしなければならない。たとえそれが利益を生まなかったとしても。
ジャニーズのコンサートには親子席というものがあるらしい。ジャニーズは小学生に優先的に席を回してライブの楽しみを教えることで、向こう数十年のファンを育成しているのだ。実にうまいやりかただ。
「お金もかかるし知識がないとわかりづらいので若い人や初心者が入りづらい」ためにどんどん衰退していっている古典芸能や着物文化は、ぜひともジャニーズのやりかたを見習ってほしい。もう遅いだろうけど。
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