2022年4月28日木曜日

有頂天とはこのことだ


 どういういきさつか忘れたけど、小学三年生のとき、家に一輪車が届いた。たしか親戚にもらったんだとおもう。

 で、ぼくは乗ってみた。あたりまえだが乗れない。何度も何度も乗ってみた。親も兄弟も知人も一輪車には乗れないから、乗り方を教えてくれる人なんていない。今だったらYouTubeとかで検索すればすぐに乗り方レクチャー動画が出てくるんだろうが、当時はそんなものない。ぼくは何度もこけてこけてこけて、ようやく乗れるようになった。内くるぶしが傷だらけになったのをおぼえている。


 ぼくが一輪車にすいすい乗れるようになった頃、ほんとにたまたま、小学校がベルマークで一輪車を二十台ぐらい購入した。そして、体育の時間に一輪車に乗ってみることになった。

 もちろん誰も一輪車には乗れない。先生だって乗り方を知らない。乗れるのはぼくひとり。クラスどころか全校生徒の中でぼくひとりだけだった。

「有頂天」とはあのときのぼくのことを指す言葉だ。

 優越感の極み。クラスの誰もができずに悪戦苦闘していることを、自分ひとりだけがたやすくできる。スポーツ万能のあいつも、けんかの強いあいつも、体操教室に通ってるあいつも、みんな必死の形相で一輪車から落ちないようにみっともなく鉄棒にしがみついているのに、ぼくだけが悠々と一輪車を乗りこなしている。進むのも曲がるのもできちゃう。

 おれはヒーローだ!


……と当時はおもっていたんだけど、今おもうとどう考えてもただの「鼻持ちならない嫌なやつ」だよな。ヒーローでもなんでもなくて。

 そして、ぼくが優越感を感じられたのはほんと数週間だけで、あっという間にクラス全員が一輪車に乗れるようになり、さらにはぼくもできなかった「バック」「アイドリング」といった技をできるようになるやつも現れ、ぼくの優越感は一瞬にして崩壊したのだった。

「鼻っ柱をへし折られる」とはあのときのぼくのことを指す言葉だ。


2022年4月27日水曜日

【読書感想文】『参上!ズッコケ忍者軍団』『ズッコケ妖怪大図鑑』『ズッコケ三人組の推理教室』

  中年にとってはなつかしいズッコケ三人組シリーズを今さら読み返した感想を書くシリーズ第七弾。といっても今回からは「読み返し」ではなく「はじめて読む」作品も。

 今回は28・23・19作目の感想。

(1~3作目の感想はこちら、4・5・7作目の感想はこちら、8~10作目の感想はこちら、6・11・14作目の感想はこちら、12・15・16作目の感想はこちら、17・13・18の感想はこちら


『参上!ズッコケ忍者軍団』(1993年)

 カブトムシ捕りの穴場スポットに、隣の小学校の連中が基地を作り、エアガンやガスガンで戦争ごっこをしている。下級生が脅されたことに憤慨したハチベエたちは仲間を集めて喧嘩をしかけにいくが返り討ちに遭って恥をかかされてしまう。そこで復讐を果たすため、忍者軍団を結成して戦術を練る……というストーリー。

 うーん。これは、子どもの頃に読んでいたらもっと純粋に楽しめたんだろうなあ。ズッコケ三人組総選挙でも二位に輝いている人気作品だし。でもおっさんの目で読むと「そんなことしちゃだめだろ」「やめといたほうがいいって」と言いたくなることばかり。ぼくも老いたなあ。

 エアガンで撃たれたから仕返し、というのはわかる。「ロケット花火で攻撃」はまあいいだろう。エアガンで撃たれたならそれぐらいしてもいいとおもう。「トウガラシ爆弾で目つぶし」も、ぎりぎり許容範囲内だ。
 でも「パチンコで投石」「木刀で戦う」とかを読むと、「いやいやこれはしゃれにならんでしょ」とおもってしまう。一生残る傷を負わせたり、下手したら命にかかわるけがを負わせることになりかねない。そんなことになったらお互い悲惨だ。まして「敵の食糧に下剤を混入する」までいくと、子どもの喧嘩だからでは済まされない。警察沙汰だ。

 と、ついつい眉をひそめてしまう。子どものときに読んでいたらただひたすら痛快な物語だったんだろうけど、親の立場になると純粋に楽しめない。


 己の力を過信して敵をみくびったせいで、ろくに調査もシミュレーションもせずに楽観的なデータだけを見て敗退するってのは旧日本軍っぽくておもしろかったけど、そこを除けばストーリー全体が予定調和っぽい。 

 たとえば、くノ一の存在。中盤でクラスの美少女三人組が忍者の仲間になるのだが、このくだりはあまりに不自然。六年生の女子(それもクラスでイケてる側の子らで、私立中学を受験する子)が、男子たちが忍者ごっこで戦争をすると聞いて「わたしたちも仲間に入れて」なんて言うかね?
 この子たち、「塾の帰りに夜の書店に行ってちょっとエッチな女性週刊誌を立ち読みする」なんて描写もあるのに、そんな子が忍者ごっこをするとはおもえない。
 願望がすぎる。六年生の女子なんて、男子とは五歳ぐらい精神年齢に開きがあるけどなあ。

 初期の作品『ぼくらはズッコケ探偵団』『ズッコケ㊙大作戦』『とびだせズッコケ事件記者』あたりでは、女子は明確に男子の(特にハチベエの)敵として書かれていたのだが、時代の変化もあるんだろうけど、ずいぶん書き方が変わったなあ。女の子の読者に迎合したのかなあ。あのくだりはリアリティがなかった。


 また、敵の描写も薄っぺらい。喧嘩に負けて恥をかかされたので復讐を誓うという構図は『花のズッコケ児童会長』と同じだが、『児童会長』のほうは相手には相手の正義があったのに対し『忍者軍団』のほうは敵は単純な悪者として存在する。彼らには彼らの言い分だったり心境の変化があったとおもうのだが、ほとんど表現されていない(最後にちらっと匂わせる程度)。
 まあ、人間の心情に思いをめぐらせることなくただ倒すべき存在として認識するのが戦争なのだから、ある意味で正しい書き方なのかもしれないが。とはいえ隣町の小学校と戦争しました、勝ちました、やったね、という書き方は文学的じゃないなあ。

 この隣町の小学校、夏休みにみんなで秘密基地に集まってカレーを作ってたべたり、中学生に勉強を教えてもらったり、めちゃくちゃ楽しそうなんだよなあ。隣の学校の子をエアガンで脅して追い払ったのは良くないけど、よく考えたらそれ以外はそこまで悪いことをしていない。緒戦は、ハチベエたちが仕掛けてきたから防衛しただけだし。まあハカセとモーちゃんの服を脱がせたのはやりすぎだけど、基地をぶっこわされるのはかわいそうだ。

 ズッコケシリーズって「クラスのイケてない子らが知恵と勇気で活躍する」話が多いけど、『忍者軍団』に関しては逆で「両親共働きで夏休みに退屈している子らが男だけで集まって秘密基地を作ったり飯盒炊爨したりで楽しくやっていたら、女の子と仲良くしている隣の学校のグループがやってきてめちゃくちゃにされてしまった話」なんだよな。

 どうしても、三人組たちよりも隣町の小学校側に肩入れしてしまう。むしろこっちを主人公にしたSIDE-Bストーリーが読みたいぜ。



『ズッコケ妖怪大図鑑』(1991年)

 雪の上に残った奇妙な獣の足跡、奇妙な物音、女の幻……。ハカセとモーちゃんの住む市営アパート近辺で次々と怪奇現象が起こる。真相を究明するためアパートの旧館を訪れた三人組とモーちゃんの姉さんは、巨大な火の玉に遭遇する。
 アパートが建っていた土地の歴史を調べていたハカセは、はるか昔にこの地にいた「権九郎」なる存在にたどりつく……。

『心霊学入門』『恐怖体験』などに続く怪異譚。
 おばけだの幽霊だのはまったく怖くないので怪談が好きではないのだが、この『妖怪大図鑑』は薄気味悪くてけっこう好きだ。この物語は「妖怪が出ました、怖い目に遭いました、退治しました」でおしまいではなく、〝妖怪を呼び起こした人間たち〟が描かれるからだ。しかも彼らは根っからの悪人というわけではなく、妬みやプライドを持ったごくごくふつうの老人たち。あまり裕福でなく、おそらくコミュニティとのつながりも薄い老人たちが、別の住人を逆恨みして妖怪の力を借りる……という構造になっている。

 これは不気味だ。たしかに「近所にいる、裕福でなさそうな老人たち」ってなんとなく不気味なんだよね。じっとこちらを観察してきたり、始終不機嫌だったり、やたら他人のことに干渉したり、悪意を漂わせている人もいる。この「不機嫌な老人たち」を悪意の元凶に持ってきたのはじつにいい。

 そして、三人組たちの活躍により騒動の原因である妖怪は退治されるわけだが、妖怪を呼び起こして地域住民たちを攻撃させた老人たちは何の罰も受けることなく、この地域に残りつづける。

 攻撃された住人たちの一部は転居を余儀なくされ、原因をつくった老人たちは怨念を抱えたまますぐ近所に住みつづける。おお、おそろしい。この後味の悪さ、ぼくはけっこう好きだ。


 伝え聞いた話が多いのでスピード感がないとか、モーちゃんの存在感がなさすぎるとかの問題はあるが、怪談系の話の中では好きな部類に入る作品。『大当たりズッコケ占い百科』もそうだけど、死んだ人の話よりも生きている人間の悪意のほうがずっと怖いぜ。

 好きなシーンは、市立図書館でハカセと宅和先生が話すくだり。宅和先生、教え子と対等に歴史の話ができてすごくうれしかっただろうなあ。



『ズッコケ三人組の推理教室』(1989年)

 シャーロック・ホームズの魅力にとりつかれたハカセたち。何か事件はないかと探していたら、クラスの美少女・荒井陽子の飼い猫がいなくなったという話を聞きつける。猫はまもなく見つかったが、見つけ主から高額な謝礼を暗に要求されたという。さらにモーちゃんの母親の知人もやはりネコの失踪にからんで謝礼を支払ったことが判明。一連の事件の真相を探るため、三人組は荒井陽子といっしょに捜査を開始する……。


 ぼくはズッコケシリーズを一作目から二十二作目までは所有していたし何度も読み返していたのでけっこう細かいところまでおぼえているのだが、なぜかこの作品だけは記憶がおぼろ。ところどころ読んだ記憶はあるから、図書室とかで借りて読んだのかなあ。

 この作品の特筆すべきは、なんといっても荒井陽子の存在。序盤から終盤まで三人組と行動をともにしていて、もはや四人組といってもいいぐらいの活躍を見せている。
『うわさのズッコケ株式会社』でも中森晋助が仲間に加わっているが、基本的に三人組についてくるだけで、物語を牽引することはなかった。この作品における荒井陽子の活躍はかなり異色だ。

 ズッコケシリーズって少年の話だったのが、1989年の『ズッコケ三人組の推理教室』、1989年『大当たりズッコケ占い百科』、そして1990年『ズッコケTV本番中』このあたりから急速に女子の登場シーンが増えてくる(まあ『占い百科』における女子は陰湿で怖い存在として描かれてるけど)。

 男女雇用機会均等法が施行されたのが1985年。中学校で男女ともに技術・家庭科を学ぶようになったのが1990年(知らない人も多いとおもうけどそれまでは技術は男子だけ、家庭科は女子だけだった)。1980年代後半は男女平等が声高らかに叫ばれるようになった時代だったのだ。ズッコケも時代の流れをしっかりとらえていたのだろう。


 ストーリーは児童文学のド定番、探偵ものだ。ひょんなことから事件に巻きこまれた子どもたちが知恵を出しあって犯罪事件を解決する話。『ぼくらはズッコケ探偵団』『こちらズッコケ探偵事務所』とほぼ同じ構成だ。ただ、『探偵団』は殺人事件・ひき逃げ事件、『探偵事務所』が誘拐・窃盗事件だったのに比べれば、こちらはペットの誘拐事件と犯罪のスケールは小さくなっている。その分身近に感じられるので、ぼくとしてはこっちのほうが好きだ。殺人や児童誘拐だと「警察に任せろよ」とおもってしまうけど、ペットの誘拐ぐらいだったら警察も本気で取り組まないだろうから小学生が捜査することに説得力がある。

 事件発生から、新たな謎が浮かびあがり、小さな手掛かりから徐々に犯人に接近し、最後は緊張感のある捕物帳。
 ハカセの推理、ハチベエの行動力、陽子の冷静さと社交性、モーちゃんの落ち着きと機転により犯人逮捕につながり、バランスもいい。全体的にうまくまとまっていて、お手本のような子ども向け探偵小説だ。

 気になったのは、猫誘拐犯が無罪放免されたこと。同情の余地はあるとはいえ、猫を誘拐して百万円以上を騙しとったのにあっさり許してしまっていいものか。
 被害者たちが猫をさらわれ、かつ十万円をとられたのに目をつぶってやるのも理解できない。せめて金は返させろよ。これで許してやったら、こいつら場所を変えてまたやりかねないぞ。


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2022年4月26日火曜日

【読書感想文】更科 功『残酷な進化論 なぜ私たちは「不完全」なのか』/すべての動物は不完全

残酷な進化論

なぜ私たちは「不完全」なのか

更科 功

内容(e-honより)
心臓病・腰痛・難産になるようヒトは進化した!最新の研究が明らかにする、人体進化の不都合な真実―「人体」をテーマに進化の本質を描く知的エンターテインメント。

 生物がどのように進化したのか、についての考察。

 更科功氏の本を読むのは『絶滅の人類史』に続いて二冊目だが、前作に続いてこちらも論旨が明快でおもしろい。




 我々は、ついついヒトが全生物の頂点に立つ存在だと考えてしまう。

 ユダヤ教やキリスト教の創世記でも、神は五日目に魚と鳥をつくり、六日目に獣と家畜を、そして最後に神に似せたヒトをつくったことになっている。

 創世記を信じている人は少なくても、ヒトがもっとも優秀な動物だと考える人は少なくないだろう。もちろん頭の良さとか手先の器用さとかコミュニケーションの複雑さでいえばヒトが一位だろうが(たぶんね)、だからといってヒトが進化の究極系であるわけではない。

 たとえば肺。哺乳類の肺は、息を吸うときも吐くときも同じ管を使っている。だから吸うのと吐くのを同時におこなうことはできない。だが鳥類の呼吸器は後気嚢から息を吸って前気嚢から空気を押し出す仕組みになっている。

 それらを繰り返すことにより、いつも肺には、空気が一方向に流れるようになっている。新鮮な空気が肺の中を流れ続けるようになっているのだ。一方、私たち哺乳類は、気管という同じ管を使って、空気を出したり入れたりしている。空気が逆方向に流れるので、呼吸器としてはあまり効率がよくない。
 さて、鳥類はこのような優れた呼吸器を持っているため、他の動物が生きられないような、空気の薄いところでも生きていくことができる。渡り鳥の中にはヒマラヤ山脈を越えて移動するものがいるが、空気の薄い上空を飛べるのも、この優れた呼吸器のおかげである。鳥類は恐竜の子孫なので、恐竜もこの優れた呼吸器を持っていた可能性がある。少なくとも烏類の直接の祖先となった一部の恐竜は、この優れた呼吸器を持っていた可能性が高い。
 哺乳類と恐竜は、中生代の初期のだいたい同じころに出現した。それにもかかわらず、圧倒的に繁栄したのは恐竜だった。哺乳類は中生代を通じて、日陰者だったと言ってよいだろう。その理由の1つが、この呼吸器の性能の違いかもしれない。同じ活動をしても、哺乳類より恐竜のほうが、息が切れなかったかもしれないのである。
 私たちヒトは現在の地球上で大繁栄しているので、つい自分たち人類のほうが、他の生物よりもすべてにおいて優れていると思いがちである。かつては、恐竜なんて体が大きいだけで、アホな生物だと思われていたふしもある。でも、そういう態度は恐竜に失礼だろう。

 たしかにね。ふだんはあまり意識しないが、長距離走をしているときや水泳をしているときには「吸う」と「吐く」を強く意識する。新鮮な空気を吸いこみたい。しかし肺の中に溜まった空気を吐きだしたい。同時にできたらどれほど便利だろう。きっと一流マラソン選手になれるだろう。

 鳥はそれができるのか。いいなあ。高性能の肺があって。




 生物は進化するのでどんどん機能が向上していくようにもおもえるが、そうかんたんな話でもないらしい。

 ちょっと別の例で考えてみよう。私たちは、喉の筋肉を動かしたりするために、脳から迷走神経という神経が伸びている。この迷走神経のうちの1本は、心臓の近くにある血管の下側を通っている。私たちの場合はそれほど問題ないのだが、キリンではかなり変なことになってしまった。
 キリンでも、この迷走神経は、心臓の近くの血管の下側を通っている。この血管は、キリンの首が伸びるのとは関係なしに、心臓の近くに留まり続けた。一方、迷走神経は、相変わらず脳と喉を結んでいる。キリンの首が伸びていくと、脳と喉はどんどん心臓から離れていく。しかし、迷走神経は心臓の近くの血管の下側を通っている。
 そのため、迷走神経は、脳から出発して長い首を通って心臓の近くまで下りていき、血管の下側をぐるりと回って、それから長い首を上っていって、喉まで到達しなければならなくなった。キリンの脳と喉は3センチメートルぐらいしか離れていないのに、迷走神経はおよそ6メートルも遠回りすることになってしまったのだ。
 何でこんなことになってしまったのだろう。一度だけ迷走神経を切って、血管の下側から上側に移して、それからつなぎ直せばよいのに。でも、そういうことは進化にはできない。進化は、前からあった構造を修正することしかできない。切ってつなげるとか、分解してから組み立てるとか、そういうことは無理なのだ。

 迷走神経は脳と喉をつなぐ神経だ。脳から喉に最短距離でつなげば数センチで済むが、心臓の下を経由しているためキリンの場合は6メートルもの遠回りをしているのだ。

 めちゃくちゃ無駄だが、修正することはできない。突然変異で「迷走神経が切れてるやつ」が誕生して、その後また突然変異で「迷走神経を最短距離でつなぐやつ」が誕生すればいいのだが、「迷走神経が切れてるやつ」が誕生しても生き残れない(=子孫を残せない)のでそれ以上進化することはない。

 言ってみれば、家に住みつづけながらその家をリフォームするようなものだ。壁紙を変えるぐらいならできるが、「トイレの位置を別の場所に移す」みたいなおもいきった改築はできない。そんなことしたら、改修中はトイレが使えなくなって住めなくなるから。

「100代後の子孫が便利になるために今のあんたたちは不自由を強いられるけど我慢してね」というわけにはいかないのだ(仮に我慢したとしても100代後がもっと良くなる保障なんかどこにもない)。

 というわけで、我々の身体はぜんぜん最適な機能をしていない。つぎはぎだらけのパッチワークをだましだまし使っているのだ。

 本来の脊椎は、四肢動物に見られるように、水平になっているものである。それなのに、私たちの脊椎は直立しているので、いろいろと不都合が起きる。だから私たちは、進化の失敗作なのだ。そんな意見を聞くことがあるけれど、本当にそうなのだろうか。
 考えてみれば、四肢動物の脊椎だって不自然な使い方をしている。だって脊椎は、本来、泳ぐためのものなのだ。いや、魚の脊椎だって、不自然な使い方をしている。だって骨は、本来、リン酸カルシウムの貯蔵庫なのだ。いや、そんなことを言ったら、そもそも脊椎があること自体が不自然である。だって、脊椎なんて、昔はなかったのだから。

「人類は直立歩行をすることによって腰痛に悩まされるようになった」と聞いたことがある。腰は本来直立歩行を支えられるようにできていないから、無理が生じて腰痛になるのだという。

 だったら四足歩行ならいいのかというと、そんなことはないようだ。犬も腰痛になるらしいし、結局のところ身体にガタがくるのは「長く生きすぎた」からなんだろう。四十歳ぐらいでほとんどの人が死んでいた時代であれば、腰痛なんてほとんど問題にならなかっただろうから。

 生物の身体はよくできているが、「いろいろ触ってたらよくわかんないけどなぜかちゃんと動くようになったプログラム」みたいなもんで、合理的に設計されたものとはまったく違う。絶妙なバランスの上に成り立っている奇跡のプログラムなので、ほんのちょっとしたことで壊れてしまうのだ。




 人類の祖先が四足歩行から二足歩行に進化した過程について。

 当然ながら、はじめから今のように上手に二足歩行ができたわけではない。当初は赤ちゃんのようにヨタヨタ歩きだっただろう。

 だがこのヨタヨタ歩きにはなんのメリットもない。そのうち慣れて歩けるようになるのかもしれないが、自然界においては慣れるようになる前に他の動物に食べられてしまうはずだ。

 ではどうやって二足歩行が進化したのか。

 かつては、直立二足歩行は、草原で進化したと考えられていた。だがその場合は、四足歩行から直立二足歩行へ移る途中で、適応度が低い中腰歩行の段階を通らなければならない。しかし、適応度の高い四足歩行から、適応度の低い中腰のヨタヨタ歩きが、自然淘汰によって進化するとは思えない。
 ところが、木の上で二足歩行が進化したのなら、この問題は解決される。体が大きくなった人類の祖先が、枝先の果実を食べようとしている。四足歩行で1本の枝の上を歩いて、果実に近づいた場合は、枝が折れて地上に落ちてしまうかもしれない。しかし、中腰歩行で両手両足を使って複数の枝に摑まっていれば、果実に近づいても枝は折れずに、めでたく果実を食べられるかもしれないのだ。
 木から落ちなければ、果実も食べられるし怪我もしない。だから、木から落ちる回数が少ないほうが、適応度が高くなるはずだ。したがって、四足歩行より中腰歩行のほうが、適応度が高くなる可能性が高い。そうであれば、自然淘汰によって、四足歩行から中腰歩行への進化が起きる。
 四足歩行から直立二足歩行に進化するには、中腰歩行の段階を通らなければならない。しかし地上では、四足歩行より中腰歩行のほうが適応度が低いので、直立二足歩行は進化しない。一方、樹上では、(体重が重ければ)四足歩行より中腰歩行のほうが適応度が高いので、直立二足歩行が進化する可能性があるのだ。

 歴史の教科書には、人類の進化のイラストが載っていた。

こんなやつ

 こういう絵を見ると最初から二足で歩いていたようにおもってしまうが、左のやつなんかはほとんど直立二足歩行をしていなかったんだろう。ほとんど樹の上にいて。

 たしかに樹の上にいるのであれば、四足歩行よりも二足歩行の方が圧倒的にいい。チーターやトラも樹の上にいるけど、落ちそうで不安になるもん。二足で立って一本の手で離れた場所にある枝をつかめば安定するし、残った一本の手を自由に使える。

 進化のイラストの左端は、枝につかまってる絵にすべきかもしれないね。


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2022年4月25日月曜日

【読書感想文】青木 淳一『ダニにまつわる話』/ダニは害虫ではない?

ダニにまつわる話

青木 淳一

内容(e-honより)
「ダニのような奴だ」とか「あいつは街のダニだ」など、嫌われものの代名詞のようにいわれるダニ。でも、ほんとうのダニってどんな生きものなのだろう。ほとんどのダニは自然界の中で生きている。豊かな森林の中では人が一歩歩くと2000匹以上のダニを踏みつけているという。ダニは自然界になくてはならない存在なのだ。彼らはどんな習性をもち、その生命を維持しているのか。

 ダニの研究者による、ダニ入門エッセイ。入門したくないけど。


 いやあ、しかしおもしろかった。ダニのことをぜんぜん理解していなかったことをつくづく思い知らされた。まあ四六時中ダニのことばかり考えている人生なんて嫌だけど。

 なんせダニが昆虫でないってことすら知らなかった。クモと同じ節足動物なんだって。よくひとくくりにされるノミは昆虫だけど、ダニは昆虫じゃない。

 そしていちばん意外だったのがこの事実。

 ダニも同様です。現在のところ、わが国から記録されたダニ類は約一八〇〇種ですがこのうちでしばしば人を刺して吸血するのは二〇種あまり。すなわち日本産のダニ類全体から見れば、一パーセントあまりということになります。ダニというものは、みんな人の血を吸うものと思いこんでいた人たちからすれば、まことに意外な数字でしょう。ほんのわずかな悪者のために、その種族全体が悪者あつかいにされるもっとも良い(悪い?)例です。

 なんとほとんどのダニは人の血を吸わない。知らなかったー。むしろ「人の血を吸う」ことこそがダニの定義だとおもっていた。

 しかも血を吸うダニにとっても、積極的に人の血を吸いたいわけではないようだ。

 家族の何人もが脇腹などがかゆいかゆいといって騒ぎ出すのは、ネズミ捕りをしかけて数日たってからのことが多いのです。それは天井裏にネズミ捕りをしかけたのをケロリと忘れてしまったことが原因です。ネズミ捕りにかかって死んだネズミの体温が下がってくると、ネズミの体についていたイエダニがゾロゾロとはなれて歩きだし、それ天井裏から居間や寝室に降ってくるのです。おいたイエダニはしかたなく、がんして人間の血を吸うのです。
 つまり、イエダニは本来ネズミの寄生虫なのです。ふだんはネズミの巣の中にいて、ネズミが巣に帰ってくると、それを感知して動きだし、ネズミの体にはいあがって吸血します。そして満腹すれば、巣の中に落ちます。ネズミが巣に帰ってきたことは、ネズミが吐き出す炭酸ガスによってわかるのです。ダニには目も耳もありませんから、そんな方法をつかうのです。

 ダニが吸いたいのはネズミの血。ネズミの血が吸えない状況になってはじめて人間の血を吸うようになるのだ。主食がなくなったからやむなくおいしくない非常食に口をつけるようなものか。

 まあねえ。人間の身体なんて隠れるところ(毛)は少ないし、服は着替えられるし、水に浸かったりもするし、見つかったらつぶされるし、ダニからしたらぜんぜん快適な住まいじゃないよね。ぼくがダニでもやっぱりネズミを選ぶ。

 そういや犬を飼っていたことがあるけど、室外犬だったからときどきダニがついていたなあ。薬を飲ませたりノミとり首輪をつけさせていても、それでも目の中とかおなかとかにいるんだよね。たっぷり血を吸って腹がぱんぱんになったやつ。犬はかゆそうにするんだけど犬の足ではダニはとれないから、あれも快適な住まいだったんだろうな。

 とったダニをつぶすのは気持ち悪かったけどちょっと快感でもあった。ダニをつぶすと必ず犬が見にくるんだよね。人間も取れた耳垢とか出したウンコとかをつい見ちゃうけど、犬も同じ気持ちなのかね。くさいもの見たさというか。




【警告】「できれば知りたくなかった」情報もたくさんあるので、ここからはダニが嫌いな人は要注意。まあたいてい嫌いだとおもうが……。



 我々の身近にどれだけダニがいるかを実験によって確かめた話。

 煮干し、かつお節、チーズ、小麦粉、ビスケット
 どれもダニが好きそうなものばかりです。これらの食品を台所の棚の上、棚の下、床下の三か所に放置しました。さらに彼女たちの発案で、ダニが自由にはいれるように開封したものと、奥さんたちがよくやるように、開封した袋の口を二、三回ねじってワゴムでギリギリとしばったものの二つをならべておきました。七月二日から八月二七日までの約二か月放置した結果は図のようになりました。それぞれの食品に見られたダニ数の合計です。
 まず、食品別にみると、煮干しがいちばん好きで、次がかつお節とチーズで、小麦粉やビスケットはそれほど好まないようです。とくに私の注意を引き、彼女たちも驚いたのは、保存方法のちがいとダニ数です。たしかに袋を開封したままのほうがダニは多くなってはいるのですが、袋の口をねじってワゴムでしばったほうにも相当数のダニが繁殖していたことです。

 開封した食品を輪ゴムでしばったぐらいだと、ダニは余裕で中に入って繁殖するんだそうだ。うげえ。知りたくなかった。もちろん無害なダニだし、仮に人を刺すダニだとしてもダニは人の体内では生きられないので心配する必要はないらしいけど。

 山や森の中だとヒトの足の裏ぐらいの面積にダニが1,000匹以上いることもあるらしく、我々が認識していないだけでこの世はダニだらけなのだ。

 我々の顔にもダニが棲息しているらしいしね。こいつらは細菌から肌を守ってくれるいいやつ。この本には、ダニが人の役に立っている例もいくつか紹介されている。とにかく悪い印象が先行しがちだが、トータルで考えるとダニはむしろ益虫なのかもしれない。




 著者が、建設会社の社長らといっしょに「なるべく自然の姿に近い森を残した公園」を市に寄贈した話。

 ところが、ごく最近ふたたび訪ねたときには、驚きと悲しさで胸が痛む思いでした。せっかく自然に向かってひたむきに育ってきた雑木林の林床の草や樹木の芽生えがきれいに刈りとられ、落ち葉もほとんどないくらいに清掃されてしまっているではありませんか。土はむき出しになり、かたく締まっています。これはいったいどうしたことか。この公園の管理については、落ち葉も掃かない、草も刈らないという約束だったはずです。
 私はすぐにY市の公園緑地課に電話を入れました。先方の話では、今年から枝打ちをはじめ、年二回草取りをし、落ち葉も掃いているということです。私は怒りをおさえ、
「この木もれ日公園を設計したときの趣旨は理解していただけなかったのでしょうか」
と聞いてみました。すると、現場の担当者という人が代わって電話口に出てきました。この人は設計当時はいなかった人で、私のいうことをよくわかってくれるらしく、
「先生のいわれることは、もっともです。私もお考えには賛成で十分理解しているつもりです。でも、住民の方々から苦情がくるので、しかたないんです。地面に紙屑やビニール袋が落ちてるじゃないか、犬の糞がたくさんあるではないかといわれ、それらを掃除する時に草もむしって落ち葉も掃除してるんです。草が生えていたり、落ち葉があると虫がわくというのです。落ち葉は火事のもとになるし、樋を詰まらせるので迷惑だ。倒木があるとシロアリがわくというんです。なぜ、掃除をしないのかと、とてもしつこくいってくるのですよ。それと、見通しの悪い木立ちがあると、痴漢が出ると心配するんです」
という答え。あきれてしまった私は、
「そういうことをいってくるのは、ほんの一部の人ではないのですか?多くの住民は少しでも自然にちかい小公園の出現を喜んでいると思いますがねえ」
といい返してみたものの、
「やっぱり、だめか。やれ、自然保護だ、やれ、生態系のバランスだと騒いでいるくせに、日本人の意識はまだこんなものなのかなあ」
と、悲しい思いになります。私の主張は十分に理解してくれているというY市の公園緑地課のAさんが最後にいったことばが、私の胸にぐさりとつき刺さります。
「もはや、都市の中の公園は安らぎの場ではありえません。公園公害とか、公園は悪の温床だとさえいわれているんです」

 ぼくも子どもが生まれて公園を利用するようになってよくわかったけど、公園って憩いの場どころかむしろ厄介なものとおもってる人が多いんだよなあ。

 ほんと、世の中には公園で子どもや若者が遊ぶことを蛇蝎のごとく憎んでる人がいる。そのせいでうちの近所の公園なんてそこそこの広さがあるのに「ボール遊び禁止」と書いている。以前、小学一年生とドッチボールをしていたら警察官がやってきて注意された。わざわざ通報した人がいるらしい。一年生のドッチボールまでもが「危険」なんだそうだ。
 そのくせ喫煙やポイ捨ては「ご遠慮ください」と書いてあるんだから、バカなんじゃないかとおもう。

 かくしてバカ市民のバカ苦情のせいで花火禁止、スケボー禁止、ボール遊び禁止となっている。「他の人のご迷惑になる行為はおやめください」でいいのに。

 だってさ、花火にしたってロケット花火を公園の外に飛ばしたり、深夜にでっかい音の鳴る花火をするのはそりゃいかんけど、水を持ってきて公園のすみっこで手持ち花火をしてごみをぜんぶ持ち帰る行為の何がいけないの? 結局ぜんぶ程度の問題なのに、思考停止してるやつが責任取りたくないばかりに全面禁止にしちゃうんだよね。ああ、やだやだ。


 この本に書かれている例、役所の人の気持ちもわかるけど、それにしたってあまりにも腑抜けた態度だとおもう。

 公園に犬の糞があるのも、痴漢が出るのも、落ち葉が火事になるのも、それ全部公園のせいじゃないじゃん。糞の始末をしない飼い主や痴漢やタバコのポイ捨てをするやつのせいでしょ。なのに公園から林をなくせってのは「電車は痴漢が発生するから電車を動かすな!」ぐらいの暴論なのに、相手が行政だとなぜかその暴論が通っちゃうんだよね。


 ぼくが子どもの頃、近所の公園はその下が急斜面になっていて雑木林があった。さらにその雑木林を抜けると川に出られた。なのでいつも雑木林や川で遊んでいた。あれはいい環境だったなあ。ブランコやすべり台で遊ぶのなんか五歳ぐらいまでで、小学生に必要なのは「だだっ広い広場」や「手入れされていない雑木林」なんだよね。

 ほんと、遊具を作る金があるなら、なんにもない土地を作ってほしいよ。


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2022年4月22日金曜日

【読書感想文】M・スコット・ペック『平気でうそをつく人たち ~虚偽と邪悪の心理学~』/意志の強い人間には要注意

平気でうそをつく人たち

虚偽と邪悪の心理学

M・スコット・ペック(著)  森 英明(訳)

内容(e-honより)
世の中には平気で人を欺いて陥れる“邪悪な人間”がいる。そして、彼らには罪悪感というものがない―精神科医でカウンセラーを務める著者が診察室で出会った、虚偽に満ちた邪悪な心をもつ人たちとの会話を再現し、その巧妙な自己正当化のための嘘の手口と強烈なナルシシズムを浮き彫りにしていく。人間の悪を初めて科学的に究明した本書は、人の心の闇に迫り、人間心理の固定概念をくつがえした大ベストセラー作品である。

 アメリカでの刊行が1983年、日本語訳の発表が1996年。精神科医による「邪悪な人たち」についての考察。

 ちなみに原書では宗教(キリスト教福音派)色が濃い内容だったが、邦訳時にそのへんは一部カットされたらしい。とはいえ、当然のように「神に背く行動」なんて言い回しも出てくる。多くのアメリカ人にとってキリスト教は切っても切り離せないものらしい。

 過去数百年にわたってキリスト教布教を口実に信者がさんざん邪悪なことをしてきたくせに信仰を絶対的な善としてとらえることができる(そして神に背く=邪悪とみなす)神経がぼくからすると理解できないんだけどなあ。キリスト教が悪とはいわんけど、時と場合によっちゃあ悪にもなりうるとは想像すらしないんだろうか?




 我々はついつい「世の中には悪いやつがいる」と考えてしまう。それは事実だが、正確な言い回しではないかもしれない。どちらかといえば「世の中には悪くないやつがいる」のほうが正確かもしれない。

 たとえば悪の問題は、善の問題と切り離して考えることがまず不可能なものである。この世に善がなければ、われわれは悪の問題を考えることすらしないはずである。私はこれまで、「この世になぜ悪があるのか」といった質問を患者や知人から受けたことは何度かある。ところが、「この世になぜ善があるのか」という質問を発した人はこれまでいない。これは奇妙なことである。あたかもわれわれは、この世は本来的に善の世界であって、なんらかの原因によって悪に汚染されているのだ、という前提に立って考えているかのようである。しかし、われわれの持っている科学的知識をもとにして考えるならは実際には悪を説明するほうが善を説明するよりも容易である。物が腐敗するということは、自然科学の法則に従って説明可能なことである。しかし、生命がより複雑なかたちに発展するということは、それほど容易に理解できることではない。

 何も持たない人が短期間で大金を稼ごうとおもったら「他人から(非合法または非合法すれすれな手段で)奪う」がほぼ唯一の解になる。
 だからひったくりや詐欺やネットワークビジネスはいつまでたってもなくならない。

 りんごの樹を育てて果樹がなるまで待つよりも他人のりんごを盗むほうがかんたん、自分のスキルを上げてプリマ・ドンナになるよりも主役の靴に画鋲を入れるほうが楽、何か月もバイト代を貯めるよりも盗んだバイクで走りだすほうがすぐにストレス発散できる。

「悪」はいちばん手っ取り早い手段なのだ。だからこそ人は「悪」に手を染めるし、「悪」は法によって取り締まられる。ごくごく自然なことだ。動物だって、エサが十分にないときは遠くにエサを獲りにいくよりも近くにいる愚鈍で弱いやつから奪うほうを選ぶだろう(そもそもそれを「悪」とおもうのは人間ぐらいだろうが)。

 だから、人間が「悪」に走るのはふしぎなことではない。どちらかといえば、「悪」を選ぶことで不利益がまったくない(または少ない)場合にも「悪」に走らない人間がいることのほうがふしぎだ。




 人間は多かれ少なかれ悪である。聖人の代名詞であるかのように語られるマホトマ・ガンディーだって若い頃は相当ヤンチャしてたらしいし。

 とはいえ限度はある。度を超えて邪悪な人というのも世の中には存在する。自分が10のものを得るためなら他人が100失ってもかまわないと考えるような人が。

 そういう人は心理療法でなんとかできればいいのだが、現実的にはむずかしいようだ。

 無念としか言いようのないことではあるが、心理療法の患者として最も治療の容易な人、心理療法の恩恵を最も受けやすい人というのは、現実には最も健全な人――つまり、最も誠実、正直で、思考パターンがほとんどゆがめられていない人である。これとは逆に、患者の症状が重ければ重いほど――つまり、その行動が不誠実、不正直であればあるほど、また、その思考がゆがんでいればいるほど―治療が成功する可能性は小さくなる。そのゆがみや不誠実さの程度が極端な場合には、治療は不可能にすらなる。(中略)心理療法の親密な関係においてこうした患者に働きかけようとした場合、膨大なうそや、ゆがめられた動機、ねじくれたコミュニケーションの迷路にわれわれ施療者のほうがひきずりこまれ、文字どおり圧倒されてしまうのである。こうした患者を病の泥沼から救いだそうというわれわれの試みが失敗するというだけでなく、われわれ自身がその泥沼にひきずりこまれかねない、という危険をきわめて正確に感じるのが普通である。この種の患者を救うにはわれわれはあまりにも非力である。われわれが迷いこむゆがんだ回廊の行き先を知るには、われわれはあまりにも無知である。彼らの憎悪に対抗して愛を維持するには、われわれはあまりにも小さな存在である。

 心理療法の成功には患者の協力が必要不可欠だが、悪意を持っている人の場合は協力しないばかりか、治療者を騙したり危害を加えたりする。
 それどころか、そもそも精神科医のもとに来てくれないという問題があるだろう。上司からのパワハラで心を痛めつけられた人は精神科に来てくれるだろうが、より治療の必要性があるのはパワハラで部下を精神的に追い詰める上司のほうだ。しかしこういう人は自分から精神科には来てくれないだろう。かといって無理やり連れてくるわけにもいかない。

 結局、他人に精神的に危害を与えるような人物のことは分析することはできても、考えを改めさせることはできない。「逃げる」が、そういった人物に対峙するためのほぼ唯一の答えのようだ。残念ながら。




「意志の強さ」について。

 悪性のナルシシズムの特徴としてあげられるのが、屈服することのない意志である。精神的に健全な大人であれば、それが神であれ、真理であれ、愛であれ、あるいはほかのかたちの理想であれ、自分よりも高いものになんらかのかたちで屈服するものである。健全な大人であれば、自分が真実であってほしいと望んでいるものではなく、真実であるものを信じる。自分の愛する者が必要としているものが、自分自身の満足よりも重要だと考える。要するに、精神的に健全な人は、程度の差こそあれ、自分自身の良心の要求するものに従うものである。ところが、邪悪な人たちはそうはしない。自分の罪悪感と自分の意志とが衝突したときには、敗退するのは罪悪感であり、勝ちを占めるのが自分の意志である。
 邪悪な人たちの異常な意志の強さは驚くほどである。彼らは、頑として自分の道を歩む強力な意志を持った男であり女である。彼らが他人を支配しようとするそのやり方には、驚くべき力がある。

 なるほどなあ。意志が強い、って肯定的にとらえられることが多いけど、たしかにフィクションでも孫悟空とかルフィとかの強靭な意志の持ち主ってやべーやつ多いもんな。協調性ないし、人を傷つけることにまったく罪悪感おぼえてないし。

 ふつの人間は、迷ったり、後悔したり、諦めたりする。それは自己の信念と他者との間に軋轢が生じたときに、他者にあわせようとするからだ。
 ところが世の中には自己の信念を優先させる人間もいる。「意志が強い」とみなされる人間だ。自己の考えを優先させるということは、他者をねじまげることに躊躇がないということだ。他人を傷つけ、支配することになる。

「知能の高いサイコパスは経営者や組織のリーダーなど支配的立場に就きやすい」と訊いたが、つまりはそういうことなんだよな。

 もちろん「意志が強いなら邪悪である」ではないけど、「邪悪であるなら意志が強い」はわりと真だとおもう。


 この本には、やはり異常な(他人をふりまわすことに抵抗を感じない)女性が紹介されている。彼女は、新しい職場に不安を感じないという。

「私だったら、新しい仕事につく前の日は不安になるね。とくに、これまでに何度もクビになった経験があればね。こんどの仕事でうまくやれるかどうか、心配になるはずだ。というより、自分がよく知らない新しい状況に置かれようとしているときには、いつでも多少は不安になるもんだ」
「でも、私には仕事のやり方がわかってるんです」彼女はこう反論した。
 私はあぜんとして彼女の顔を見た。「まだ始まってもいない仕事のやり方がわかるはずないじゃないか」
「こんどの仕事は、精神遅滞の人たちの入る州立養護学校の助手の仕事です。そこにいる人たちは、みんな子供みたいな人たちだって、その学校の人は言ってました。私には子供の世話のしかたはわかってます。妹がいますし、日曜学校の先生もしたことがありますから」
 この問題をもっと深く探っていくうちに、シャーリーンは新しい状況に置かれてもけっして不安を感じることがない、ということがしだいにわかってきた。というのは、彼女には、つねに前もってやり方がわかっているからである。そして、そのやり方というのは、彼女が自分でつくった規則に従ったものだからである。それが自分流のやり方で、雇い主のやり方とは違っている、などということは彼女は意に介しない。また、それによって当然のことながら混乱が生じる、などということも意に介していない。あらかじめ自分が決めているやり方で仕事を進め、雇い主が望んでいるやり方はまったく無視する。同じ職場で働いている人たちがどうして自分に腹を立てるようになるのか、また、じきに、あからさまに怒りを表すことはないにしても、自分にたいしてうんざりしたような態度をとるようになるのか、彼女はまったく理解していない。「みんな意地悪な人たちだわ」彼女はこう説明する。彼女は、私もまた意地悪な人間だと何度も文句を言っている。シャーリーンは、親切、優しさというものに大きな重きをおいている。

 ぼくは「自信に満ちあふれた人」が苦手なのだが、その理由がこれでわかった。そうか。自信がみなぎっている人というのは、相手にあわせる気がない人なのだ。衝突してもおかまいなしに我を通す人。相手にあわせる気がないから、環境が変わっても不安に感じることもない。

 ほら、いるじゃない、クラス替え直後にめちゃくちゃ親しげに話しかけてくるやつ。最初は「気さくでいいやつ」とおもってたけど、日を追うごとにうっとうしさが鼻につくようになるやつ。ああいうのもこのタイプなんだろうね。




 自信たっぷりで、意志が強くて、初対面の人にも気さくに話しかけるタイプ。こういうのが、他人を平気で傷つけるやつであることが多い(もちろんそうじゃないのもいるけど)。

 卑屈で、意志薄弱で、おどおどして生きていくやつのほうが信用できるぜ! ……とはならんけどね、やっぱり。


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2022年4月21日木曜日

【読書感想文】東野 圭吾『マスカレード・ホテル』/ 鮮やかすぎる伏線回収

マスカレード・ホテル

東野 圭吾

内容(e-honより)
都内で起きた不可解な連続殺人事件。容疑者もターゲットも不明。残された暗号から判明したのは、次の犯行場所が一流ホテル・コルテシア東京ということのみ。若き刑事・新田浩介は、ホテルマンに化けて潜入捜査に就くことを命じられる。彼を教育するのは、女性フロントクラークの山岸尚美。次から次へと怪しげな客たちが訪れる中、二人は真相に辿り着けるのか!?いま幕が開く傑作新シリーズ。


 ここ十年か二十年ぐらいかなあ、急激に増えたじゃない。「お仕事がんばる女性小説」が。

 慣れない仕事に戸惑い苦労しながらも、優しい先輩やお客様からの感謝の言葉に助けられ、少しずつ成長する若い女性を描いた朝ドラのような小説。その職業に関する蘊蓄と、そよ風のようなユーモアらしきものがちりばめられた小説。たいがいクソつまらない小説。あっ、ごめんなさい、クソつまらない「お仕事がんばる女性小説」を濫造してる出版社のみなさん。


「お仕事がんばる女性小説は鬼門」という認識があったので『マスカレード・ホテル』を読みはじめてすぐに「おっと、ホテルで働く女性が主人公か……」と身構えたのだが、すぐに杞憂だとわかった。さすがは東野圭吾氏。お仕事がんばる女性を主人公にしながら、ちゃあんとおもしろい。


「連続殺人事件が発生。犯人の殺害予告から、次の事件は一流ホテル・コルテシア東京で発生する可能性が高いことがわかった。だが容疑者はもちろん日時も被害者も不明。そこで刑事がホテルマンの恰好をして潜入することになる」
という少々無理のある設定。だが強引なのは最初だけで、以降は細かい設定を貼りつつ丁寧に話を進めていく。

 ホテルマン蘊蓄なんかも入れてくるのだが、それが単なる蘊蓄披露にとどまらない。ちゃんとストーリーに活かされている。
 おまけに細かいエピソードのどれひとつとっても無駄がない。ちょっとしたエピソードなのだが、
「この一件のおかげで登場人物の性格がわかる」
「この一件のおかげで主人公の心境が変化する」
「この一件のおかげで殺人事件を推理するヒントが見つかる」
といったぐあいに、すべてがゴールに向かって有機的につながっている。

「ホテルマンのお仕事」はあくまでストーリーを進めるための背景であって、「連続殺人事件の犯人逮捕」という大筋がしっかりしているから読みやすい。「お仕事がんばる女性小説」の多くは逆で、仕事情報を書くためにストーリーがあるんだよね。だからつまらない。




 この小説はシリーズ化されたり映画化されたりしているそうだが、読んでいて映像化に向いているなあとつくづくおもう。

 なんといっても「刑事がホテルマンになる」という設定が秀逸。現実にはありえないが、その非現実さを補って余りあるほどのギャップのおもしろさがある。

「すべてにおいてです。私はこの世界に入った時、感謝の気持ちを忘れるなと教えられました。お客様への感謝の気持ちがあれば、的確な応対、会話、礼儀、笑みなどは、特に訓練されなくても身体から滲み出てくるからです」
「その通りだね」
「ところがあの方は……いえ、おそらく警察官という人種は、他人を疑いの目でしか見ないのだと思います。この人物は何か悪いことをするのではないか、何か企んでいるのではないかという具合に、常に目を光らせているのです。考えてみれば当然です。それが職業なのですから。でも、そんなふうにしか人を見ることができない人間に、お客様への感謝の気持ちを忘れるなといっても無理です」

 刑事と接客というのは正反対の仕事だ。

 犯罪者を相手にして、目の前の相手を喜ばせる必要なんかまったくなく、ときには暴力も行使する必要のある刑事。優秀な刑事ほど接客には向いていないだろう。

 そして、接客業の中でも最高のサービスが求められるホテル。特に一流のホテルではマニュアルよりも「お客様を不快にさせない」ことが優先され、ルールを超えたホスピタリティあふれる対応が要求される。

 このまったく異質なものを組み合わせて、東野圭吾氏がミステリを書くんだからおもしろくないはずがない。


 尚美は頷き、吐息をついた。ブライダル課では、この手のことは頻繁にあるらしい。
 本来、結婚式は幸せを象徴する儀式だが、式を挙げる本人たちが幸せなだけで、誰もが心の底から祝福しているとはかぎらない。一生の伴侶として特定の異性を選んだ以上、当然ほかの人間は選ばれなかったわけだ。その中に、なぜ自分ではないのか、という不満を持つ者がいてもおかしくはない。不満程度ならいいが、それが憎しみに変わったりすれば話は厄介だ。何とかして式を台無しにしてやろうと画策し始めたりする。だからブライダル課では、相手の身元が確認できないかぎりは、式や披露宴に関する問い合わせには一切答えないきまりになっている。


 一流ホテルというのは単に泊まるだけの施設ではない。食事をしたり、人と会ったり、ベッドを共にしたり、秘密の話をしたり、結婚式をしたりする場でもある。そこには多くのドラマがある。
 と同時に、人はホテルでは気取ってしまう。かっこいい自分、上品な自分、一流ホテルに場慣れしているを演じてしまう。
 こんなにもホンネとタテマエが乖離する場所もそうそうないだろう。それを暴くだけでも、読んでいて楽しい。つくづく、いい設定だとおもう。




 東野圭吾さんはミステリ作家として語られることが多い。が、近年は「超一流ミステリ作家」にとどまらず「超一流作家」といってもいい。とにかく小説がうまい(直木賞の選考委員を任されるのも当然だ)。

 なにより感心したのが、伏線の張り方だ。

 ネタバレになるので書かないけど、犯人の初登場シーンがものすごくさりげない。たぶん初めて読んだときにこの人を犯人とおもう人はいない。それでいて、ちゃんと読者の印象に残る。だから犯人があの人だとわかったときは、漫画みたいに「まさかあの人が!?」と言いたくなる。

 いやあ。うまいよなあ。


「伏線のすごい小説」はめずらしくないけど、たいていわざとらしいんだよね。ああこの中途半端なエピソード、ぜったいに後で何かにつながるんだろうなあ、っての。

 そういうのって野暮ったいし、宙ぶらりんのまま頭に入れとく必要があるから、読んでいて疲れる。
 といってさりげなさすぎると忘れて「こいつ誰だっけ?」になっちゃう。

 『マスカレード・ホテル』の「一度きれいに処理したものをもういっぺんひっぱりだしてくる」やりかたはものすごく鮮やか。近年読んだ「伏線回収」の中でいちばん感心した。


 ぼくの大っ嫌いな「犯人が訊かれてもいないのに、最後の殺人を完了させる直前にべらべら動機やトリックを語る」パターンだったのでそこはマイナスだが(東野圭吾作品にはこれが多い)、それを差し引いても余りあるほどよくできた伏線回収だった。


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2022年4月20日水曜日

【読書感想文】深谷 忠記『審判』

審判

深谷 忠記

内容(e-honより)
女児誘拐殺人の罪に問われ、懲役十五年の刑を受けた柏木喬は刑を終え出所後、“私は殺していない!”というホームページを立ち上げ、冤罪を主張。殺された古畑麗の母親、古畑聖子に向けて意味深長な呼びかけを掲載する。さらに自白に追い込んだ元刑事・村上の周辺に頻繁に姿を現す柏木。その意図はいったい…。予想外の展開、衝撃の真相!柏木は本当に無実なのか?

 元刑事であり、定年退職後は家庭菜園や地域の防犯活動にのんびり取り組んでいた。彼のもとに、かつて女児誘拐殺人の容疑で逮捕して有罪に追い込んだ柏木が刑期を終えて現れる。彼は村上につきまとい、自身を有罪に決定づけた証拠は村上による捏造だったと語る。はたしてほんとに冤罪だったのか。そして真相は……。

 冤罪をテーマにしたミステリは少なくない。手軽に「はたして真犯人は?」という謎を生みだせる上に情感に訴えるテーマでもあるので小説の題材にはぴったりだ。ただ、冤罪を題材にしたミステリを何冊も読んだが、いずれもノンフィクションである清水潔 『殺人犯はそこにいる』にはおもしろさでかなわなかった。事実は小説よりも奇なりとはよくいったものだ。




『審判』は、冤罪を扱ったミステリとしては成功している部類だとおもう。中盤までは「またこのパターンか」「同じような話を何度くりかえすんだよ」「なかなか話が進まないな」とじれったかったが、後半はどんどんおもしろくなってきた。

「冤罪だったのかどうか」が主題となるのは中盤までで、後半からはまた別の謎がストーリーを引っ張る。真相も、ほどよくこちらの予想を裏切ってくれる。

 この〝ほどよく裏切ってくれる〟が良いミステリには欠かせない。裏切りのないミステリはつまらないが、〝裏切るだけ〟のミステリもつまらない。そしてこういう作品はわりと多い。特に昨今増えた気がする。

 作者としては「誰もやったことのないトリックで読者を騙したい」と考えるものだろうが、そういうのはたいていつまらない。「たしかに誰もやったことないけど、それはつまらないからやらなかっただけだろ……」とか「100回やって1回しか成功しないようなリスキーなトリックに人生をかけるかね……。そしてたまたまうまくいくかね……」とか「もはや復讐よりも犯罪をすること自体が目的になってるじゃないか」とか、読者を騙すことしか考えてなくて肝心の〝小説のおもしろさ〟をないがしろにしている作品ばかりだ。

「あなたは必ず騙される」「もう一度読み返したくなる」「ラスト〇行であっと驚く」的なキャッチコピーがついているミステリは要注意だ(それが書店員の手書き風POPだと危険度倍増だ)。
「おもしろくするために読者を騙す」ではなく「読者を騙すためにおもしろさを犠牲にしている」作品が多い。どの作品とは言わないけどさ。


 はっきりいって、そんなに毎回毎回あっと驚く仕掛けはいらないんだよ。特に目新しいトリックはなくてもおもしろいミステリはいっぱいあるんだから。ミステリ小説はパズルじゃなくて小説なんだから。

 その点、『審判』はほどほどに裏切りがあって、ほどほどに意外な真実がある。登場人物の行動の動機も「異常ではあるけど、人間追い詰められたらこれぐらいの異常行動はとるかもしれない」と思わせるぐらいのギリギリのラインを突いている。

 特にいいのは、ほとんどの登場人物が保身のために行動していることだ。「他人を守るため」「死んだアイツの代わりに復讐してやるんだ」みたいな動機は好きじゃない。そりゃあ他人のために行動することはあるけど、他人のための行動はそんなに長続きしないよ。
 いちばん長続きするモチベーションは「自分のため」それも「保身」だ。何かを得るためにがんばるのはしんどいが、得たものを失わないためになら人間はどこまでもがんばれる。
 保身のために動く登場人物は信用できる。


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2022年4月19日火曜日

ツイートまとめ 2021年12月



話せばわかる

今年の漢字

おおお

旅行の日の朝

マイナー

汚染

フードコート

非寿司

難読地名



2022年4月18日月曜日

いちぶんがく その12

ルール


■ 本の中から一文だけを抜き出す

■ 一文だけでも味わい深い文を選出。




「悪事をなすときに慈悲のまねをするな」

(白石 一郎『海狼伝』より)





「それはお前さんの思ったとおり、わたしが頭のおかしな年寄りだからさ」

(キム・チョヨプ『わたしたちが光の速さで進めないなら』より)





同情しているつもりなのだろうけど、なんでしょう、この差別的な視線は。

(斎藤 美奈子『モダンガール論』より)





「楽しみだの、弱い奴らをいたぶるってのは、おもしろいもんだ」

(白石 一郎『孤島物語』より)




全員、観客に向けて話していたときとは違って、その声には皮を剥いた果物のような柔らかさがある。

(朝井 リョウ『どうしても生きてる』より)




例えば、東京の野球は「狡くて器用な江戸っ子野球」と呼ばれた。

(早坂 隆『幻の甲子園 ~昭和十七年の夏 戦時下の球児たち~』より)





さらに困ったことに、人間の脳には、自分が感情的に魅かれるものを「正しい」と合理化する機能が備わっています。

(橘 玲『不愉快なことには理由がある』より)




このとき仕入れた本は「あるエロじじいの蔵書」と名付けられ、売れ行きはかんばしくなかったものの、濃厚な雰囲気作りに貢献してくれた。

(北尾 トロ『ぼくはオンライン古本屋のおやじさん』より)





そのため、聖子の中の“鬼”は依然として活発に活動しているのだった。

(深谷忠記『審判』より)




日本人のようにきりきり突きつめて、錐のようになって心配ごとをほじくるような真似はせぬ。

(白石 一郎『海王伝』より)




 その他のいちぶんがく


2022年4月15日金曜日

【読書感想文】アーサー・C・クラーク『幼年期の終り』 / 天動説的SF小説

幼年期の終り

アーサー・C・クラーク(著)  福島 正実(訳)

内容(「BOOK」データベースより)
ある日突然に宇宙から巨大な船団がやってきた。すべての国の大都市の上空を覆うかのように、その光り輝く宇宙船の群はじっと浮かんでいた。六日目のこと、船団を率いる宇宙人のカレルレン総督は強力な電波を通じて、非のうちどころのない英語で、人類に対し、第一声を発した。その演説にみなぎる、深い叡知と驚くべき知性…。地球人は知った。「人類はもはや孤独ではない」ことを。イギリスが生んだ、SFの巨匠アーサー・C・クラークによる本書は、20世紀を代表するSFの傑作です。上帝(オーバーロード)という超生物種族は、どうして地球に来訪したのか?そしてなぜ、ついに人類の前に意外な姿を現したのか?思いもよらぬエンディングで、地球と人類の未来を描きだし、私たちを驚愕させる、スリリングなSF巨編。

 SF古典作品。発表は1952年。

 宇宙から船団がやってきて、人類を監督するようになる。といっても圧倒的に科学力の高い彼らは地球人に対して強制力をともなうような行動はほとんどとらず、どちらかといえば庇護・教育といったほうが近い接し方をする。
 その結果、地球上からは争いや貧困が消え、同時に科学研究や芸術も進歩を止めてしまう。
 だが人類はそうした生活を受け入れ、数十年にわたり平和で穏やかな生活を享受する。だがあるときその日々は終わりを告げようとする……。


<以下ネタバレあり>


 異星人とのコンタクト、はるかに文明の進んだ生物による人類の精神的支配、宇宙旅行、相対性理論によるウラシマ現象、人類の終焉、新人類の誕生と、SF的要素がこれでもかと詰めこまれている。

 地球全体の変貌について語ったり、かとおもうと個人の葛藤を描いたり、視点はマクロとミクロをいったりきたり。おかげで壮大でありながらスピード感もあり、スリリングな展開を見せる。

 なるほど。名作と呼ばれるだけのことはある。

 が。

 発表当時は衝撃的な作品だったんだろうけど、今読んでも十分おもしろいかというと、首をかしげざるをえない。




 大まかなストーリー展開はいいとして、細部が甘いんだよね。科学力の進んだ宇宙人が来たからってそうはならんだろ、とおもうようなことが随所に見られる。

 たとえば……。

 それ以前のあらゆる時代を標準にしても、現在はまさしくユートピアだった。無知、疾病、貧困、恐怖などは、事実上もう存在しなかった。戦争の思い出は、悪魔が暁とともに消え去るように、過去へと消え失せていった。やがてそれはあらゆる人間の経験の埒外に置かれるようになるだろう。
(中略)人類の精力が建設的な方面へ向けられるとともに、地球は急速に変貌していった。いまでは、地球はほとんど文字どおり一つの新世界であった。幾世代ものあいだ人類に貢献してきた多くの都市が、つぎつぎに再建されるか、さもなければ、価値を失うと同時に放棄され、博物館の標本となっていった。こうした方法で、すでにかなりの都市が廃棄された結果、商工業の機構全体が一変してしまった。生産は大規模に機械化され、無人工場が絶えまなく消費物資を市場に送り出したので、一般の生活必需品は事実上無料になった。人間はただ自分の望む贅沢のために働くか、それともまったく働かないかのいずれかだった。
 世界は単一国家になった。かつての諸国家の古い名称はそのまま使われていたが、それはただ郵政事務上の便宜からにすぎなかった。世界のどこを探しても、英語を話せない者、読み書きのできない者はいなかった。テレビを受像できない地域はなかったし、二十四時間以内に地球の反対側を訪れることのできない者もなかった……。
 犯罪は事実上姿を消した。犯罪そのものが不必要になったからでもあり、不可能になったからでもあった。誰もが満ち足りた生活をしているときに、なぜ盗むことがあろう。しかも、あらゆる潜在的犯罪者は、オーバーロードの監視を逃れる術のないことを知っていた。その統治の初期に、彼らは法と秩序に代わって犯罪に対しすこぶる効果的な干渉を二、三おこなった。そのため、いまでもその教訓が生きているのだった。

 うーん。科学が進めば貧困がなくなるだろうか。人類の歴史を見れば確実に科学は進んで生産性は向上しているけど、貧富の差はぜんぜん縮まっていない。どっちかっていったら広がっているんじゃないだろうか。もちろん絶対的貧困(食うに困るほどの貧困)は減っているわけだけど。

「誰もが満ち足りた生活をしているときに、なぜ盗むことがあろう」も単純すぎる発想だとおもう。監視が強化されれば犯罪は減少するだろうが、どれだけ人々が豊かになったって犯罪がなくなることはないとおもう。

 人間を単純に考えすぎている。古典経済学の考え方なんだよね。「コインの裏が出れば10万円もらえて表が出たら9万円とられるギャンブルがあれば、ぜったいにやる」という発想。人間はもっと不合理な存在なんだよ。

 そしてひどいのが「英語を話せない者、読み書きのできない者はいなかった」。
 はい出たよ、英語ネイティブの傲慢。争いのない世の中になっても「英語が世界を支配する」という考えは捨てられない。骨の髄まで覇権主義が染みついているのかね。

 じっさいの世の中は科学が進み時代が進むにつれてどんどん多様性が認められる社会になっているわけだけど、アーサー・C・クラークはどんどん画一的になるとおもっていたらしい。

『幼年期の終り』には「文明が進んだ時代の設定なのにまだフィルムカメラを使っている」といった描写もあって、このへんはほほえましい未来予測失敗といえるけど、「文明が進めば画一化する」については致命的にずれている。天動説から出発して宇宙を語っているようなものだ。これでは説得力のあるほら話にならない。


 それに気づいたものはほとんどなかった──が、じつは、この宗教の没落は、科学の衰退と時を同じくして起こっていたのだった。世界には無数の技術家がひしめいていたが、人類の知識の最前線を延長すべく創造的な仕事に打ちこもうというものはほとんどなかった。好奇心はまだまだ旺盛だったし、そのための余暇も充分にあったはずなのだが、人々の心は地味な基礎的学術研究からまったく離れていた。オーバーロードがもう幾世代も前に発見してしまっているにちがいない秘密を一生を賭けて求めるなど、どう考えても無益に思えたからだろう。
 この衰退現象は、動物学、植物学、観測天文学といった記述科学の分野のはなはだしい開花によって、ある程度おおい隠されていた。これほど多くのアマチュア科学者たちが、ただたんに自分の楽しみのために競って事実を集めた時代はなかったろう──だが、これらの事実を関連づけようとする理論家は、ほとんどいないといっていいほどだった。
 あらゆる種類の不知や相剋が姿を消したことは、同時に、創造的芸術の事実上の壊滅を意味していた。素人たると玄人たるとを問わず、俳優と名乗るものは世に充満していたが、いっぽう、真に傑出した新しい文学、音楽、絵画、彫刻作品は、ここ二、三十年というものまったく出現していなかった。世界はいまだに、二度と還ることのない過去の栄光の中に生きつづけていたのだ。

 基礎科学が衰退する、というのはわからなくもない。めちゃくちゃ文明の進んだ宇宙人がやってきたら、地道な研究なんかやる気になれないよね。今の時代に「ゼロから電卓を開発してください」って言われるようなもんで、それやって何になるんですかという気持ちにしかなれない。

 しかし、芸術が衰退するというのはどうだろう。労働から解放されて、戦争や貧困や疾病もなくなって、科学研究にも関心がなくなったとしたら、もう芸術ぐらいしかやることないんじゃないの? という気になる。逆にめちゃくちゃ芸術が発展しそうな気がするけどなあ。ルネッサンスが起こった要因のひとつは、東方貿易によってイタリアが豊かになったことだと言われているし。

 この小説に出てくる地球人はほとんどが浅薄なんだよね。個々人にもっと葛藤や当惑があったはずなのに、そのへんがほとんど書かれていない。




 細部は甘いが、大枠のストーリーはおもしろかった。
 人類を管理・監督しているオーバーロード(上帝)よりも上位の存在であるオーバーマインドの概念とか。

 ただ、同時多発的に人類が進化するってのはむちゃくちゃすぎない? それはもう進化じゃなくて遺伝子操作ぐらいしないと起こらないでしょ。

 宇宙人の介入でそれが起こったってのならわかるけど、自然に、たった一代で、世界各地で、同時に、人類がまったく別の種になるってのはありえなさすぎる。いやSFだからありえないことが起こったっていいんだけど、もうちょっとマシな説明はつけられなかったのか。

 中盤まではおもしろかったけど、このあたりで急に醒めちゃったな。SFだからってなんでもありじゃないぜ。




 名作といわれるだけあって着想はすごくいいんだけど、今読むと細部がずいぶん粗いなあという気になる。

 いちばんおもしろかったのは、登場人物たちがコックリさんをやるところ。外国にもコックリさんってあるんだ。


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2022年4月14日木曜日

【読書感想文】朝井 リョウ『少女は卒業しない』/高校の空気が五感を刺激する

少女は卒業しない

朝井 リョウ

内容(e-honより)
今日、わたしは「さよなら」をする。図書館の優しい先生と、退学してしまった幼馴染と、生徒会の先輩と、部内公認の彼氏と、自分だけが知っていた歌声と、たった一人の友達と、そして、胸に詰まったままの、この想いと―。別の高校との合併で、翌日には校舎が取り壊される地方の高校、最後の卒業式の一日を、七人の少女の視点から描く。青春のすべてを詰め込んだ、珠玉の連作短編集。

 廃校が決まった高校を舞台に、七人の少女たちのそれぞれの恋心を描く連作短編集。

 教師に恋をした女子生徒が主人公の『エンドロールが始まる』、中退した幼なじみとの関係性を描く『屋上は青』、在校生代表として先輩への思いを語る『在校生代表』、卒業式の日に彼氏に別れを告げる『寺田の足の甲はキャベツ』、軽音部の卒業ライブでのちょっとした事件を描く『四拍子をもう一度』、帰国子女と知的障害者の交流をつづる『ふたりの背景』、卒業式の日に事故死した同級生に思いを馳せる『夜明けの中心』の七編が収録されている。


 ぼくは高校が大好きだった。部活はほぼやっていなかったのに、朝練の連中よりも早く登校し、校門が閉まるぎりぎりまで学校にいた。休みの日にまで学校に行って友人と遊んだりもしていた。ぼくの人生のゴールデンタイムはまちがいなく高校三年間だ(娘と遊んでいる今も楽しいがそこでのぼくは主役ではなく脇役だ)。

 当時は毎日が楽しかった。と同時に「こんなに楽しいのは今だけだろうな」とも感じていた。すでにピークにいることを感じとっていたのだ。はたしてその後の人生において、あんなにも「毎日毎日朝から晩まで楽しい日々」を送ることはなかった。べつにそれが不幸なことだとはおもう。人によってゴールデンタイムはちがうだろうが、みんなそんなもんだろう。

 ぼくにとって高校時代は最高すぎた日々で、だから思いだすのがかえってつらい。思いだすたびに決してあの頃には戻れないことをつきつけられるから。


『少女は卒業しない』を読んで、高校時代を思い出して胸がちょっと苦しくなる気持ちをひさしぶりに味わった。ぜんぜんちがうんだけどね。ぼくは女子高校生じゃなかったし、好きな人はいたけど告白したりされたり付きあったりってのとは無縁な日々を送ってたから。

 でも、この短篇集を読んでいると当時の空気がよみがえってきた。雨上がりの渡り廊下の濡れた感じとか、夏の教室のむわっとした汗のにおいとか、遠くから聞こえてくる金管楽器の音とか、冬の朝の学校のきりっとした寒さとか、五感が刺激される気がした。一瞬、ほんの一瞬だけ意識が当時の高校に戻ったかのような。




 ストーリーは、はっきりいって物足りない。ぼくは朝井リョウさんの底意地の悪さが好きなんだけど、この短篇集からはぜんぜん感じられない。意地悪な視線もないし、ストーリー展開も素直。こんな感じで進むのかな、とおもったとおりに話が進む。

『何者』を貫いていた性格の悪い視点(褒め言葉ね)や、『どうしても生きてる』のどこに着地するのかわからないアンバランスな感じは、この短篇集にはない。

 なので「おもしろい物語」を読みたい人にとってはつまらない小説かもしれない。

 ただ、ぼくが小説に求めるものはおもしろさだけではない。「つらい」とか「やりきれない」とか「息苦しい」といった気持ちを抱かせてくれる小説もいい小説だ。

 ということで『少女は卒業しない』はおもしろくはなかったけど、悪い小説ではなかったな。


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2022年4月13日水曜日

【読書感想文】中島 岳志『自分ごとの政治学』/死者の声に耳を傾ける政治家求む

自分ごとの政治学

中島 岳志

内容(Amazonより)
もっとも分かりやすい、著者初「政治」の入門書!
学校で教わって以来、学ぶ機会がない「政治」。大人でさえ、意外とその成り立ちや仕組みをほとんんど知らない。しかし、分かり合えない他者と対話し、互いの意見を認め合いながら合意形成をしていく政治という行為は、実は私たちも日常でおこなっている。本書では、難解だと決めつけがちで縁遠く感じる「政治」の歴史・概念・仕組みが2時間で理解できる。政治の基本概念は、どのように私たちの生活に直結しているのか。自分なりに政治の「よしあし」を見極めるポイントはどこにあるのか。「右派と左派」「民主主義」から「税金と政策」まで。思わず子供にも教えたくなる、政治と自分の「つながり」を再発見するための教養講義。


 入門書ということでたいへん短く、The ベスト of 中島岳志、という内容だった。今まで何冊か氏の著書を読んだことのあるぼくにとっては、第3章のガンディーの話以外はほとんど読んだことがあった。

 だったらつまんないかというとそんなこともなく、政治思想の話というのは理解した気になっても日常の瑣末事に紛れてついつい忘れてしまう。だからこうやってときどき呼び起こすことが必要なのだ。




 イギリスの政治家だったエドマンド・バークの話。

 さらにバークは、大切なものは人間の理性を超えたものの中にあるのだ、といいます。それは何かといえば、無名の死者たちです。
 過去に生きた無数の人々によって積み重ねられ、長年の歴史の風雪にも耐えて残ってきた経験知や良識、伝統や慣習。そうしたものの中に、実は非常に重要な叡智が存在するのではないか。それを無視し、「抜本的な改革」などといって物事を一気に変えようとする発想は、理性に対する過信、自分たちの能力に対するうぬぼれではないかと考えたのです。
 ただし、これは「だから前進しなくていい」ということではありません。なぜなら、世の中は変化していくからです。その変化に合わせ、時代にキャッチアッブしながら徐々に改革していくことが重要だとバークは考えていました。
 たとえば、どんなに素晴らしい福祉制度を作ったとしても、五〇年も経てば必ず有用性を失ってしまう。なぜなら、今の日本がそうであるように、五〇年の間に人口構成は大きく変わってしまうからです。であれば、素晴らしかった制度の本質を引き継ぎながらも、状況に合わせて中身を変えていかなくてはならない。大切なものを守るためには、むしろ変わっていかなくてはならないというわけです。バークはこれを、「保守するための改革(Reform to conserve)」という言葉で表現しています。

 若い頃はぼくも、「今の制度は誤りだらけだ! どんどん変革していったほうがいい!」とおもっていたんだよね。

 じっさい、社会って矛盾だらけだもん。変えたくなる。

 でも、三十数年も生きていると「悪かったものを変えて、もっと悪くなった例」をいくつも目にすることになる。やれ規制緩和だ、民営化だ、政治改革だ、自由化だ、グローバル化だ、構造改革だ、維新だ、改革だ、と旗を振って変えたはいいけど、利権を握っていた旧勢力が追い払われてまた別のやつが利権を手中に収めただけだったりする。おまけにもっと巧妙になっていたりする。

 長く使われているものにはそれなりの良さがあるんあよね。もちろん悪いところもいっぱいあるけど、関係各所の綱引きの結果として成立した制度なので、「誰にとってもそこそこ良くて誰にとってもそこそこ悪いシステム」だったりする。それを一気に変えると、「誰かにとってはそこそこ良くて誰かにとってはものすごく悪いシステム」になることが多い。

 年金制度も年功序列制度も医局も政治制度も官僚も地方公務員も教育委員会もPTAも部活も生活保護制度も悪いところはいっぱいある。でも「じゃあ明日からなくします」と言われたらものすごく困る。だからちょっとずつ直していかなくちゃならない。

 この「ちょっとずつ直す」をめんどくさがる人が多いんだよね。めんどくせえから一回全部更地にして建てなおしましょう!って人が少なからずいる。こういうやつが、壊した後によりいいものを作った試しがない。ノアの方舟のときの神かよ。




 中島岳志氏の 『100分 de 名著 オルテガ 大衆の反逆』にもあったが、〝死者との対話〟という思考はすごく腑に落ちる。

 そして、その立憲という問題を考えるときに、私が重要だと思っているのが、民主と立憲における「主語」の違いです。
 立憲主義とは、生きている人間の過半数がイエスといっても駄目なことがあるという考え方だといいました。では、その「駄目」といっている主語は誰なのか。それは、過去を生きた人たち、つまり「死者たち」なのです。
 第1章の「保守思想の父」エドマンド・バークのところでも触れましたが、死者たちは、長い歴史の中でさまざまな経験をして、ときには大きな失敗をして、苦悩を味わってきました。三権分立が確立していなくて王権が暴走したこともあれば、独裁政治を許してしまったこともある。あるいは、侵略戦争をするとどうなるのか、基本的人権を抑圧すると何が起こるのか……そうしたさまざまなことを、今は亡き人々は実際の経験から知っているわけです。
 憲法というのは、死者たちが積み重ねた失敗の末に、経験知によって構成した「こういうことはやってはいけない」というルールです。過去の人々が未来に対して「いくら過半数がいいといっても、やってはいけないことがあるよ」と信託している。これが立憲の考え方なのです。
 対して民主主義は、生きている人たちの過半数によって物事を決めるわけですから、主語は当然「生きている人」になります。この主語の違いが、立憲と民主を考える上での重要なポイントになります。

 こういう話って、ぼくが若いときに読んでもぴんとこなかったんじゃないかとおもう。何言ってるんだ、今生きてる人が大事なんだよ、とっくに死んだ人のことなんて考えなくていいんだよ、なんて言って。

 でも今ならすっと心に入ってくる。自分が〝死者〟の側に近づいたからかもしれない。

 ぼくは子どもを作り、生物としての役目はほとんど終えたとおもっている。あとぼくに残された仕事は「子どもを育てる」と「残った人にとって有用な死者になる」だ。ぼくが死んだ後に、残された人が「そういやあいつがあんなこと言ってたな」とちょっとでも思い出してもらえるように生きることだ。

 そして、有用な死者になるためには自分自身が死者の声を聴かなくてはいけない。
 死者の声に耳を傾けていたら、ちょっとでも戦争に近づくような法案とか、数十年その土地に人が住めなくなるような発電所なんて作る気になれないだろう。


 政治家の仕事なんて、ほとんど「いい死者になる」がすべてといってもいい。数十年後に「かつていた〇〇という政治家のおかげで今の××がある」と言ってもらえるような仕事をしてほしい。

 なかなかニュースでは報じられないけど、ぼくはもっと政治家にビジョンを語ってほしいんだよね。足元の政策だけじゃなくてさ。

「〇〇のおかげで今の××がある」と言ってもらえるような政治家が今どれぐらいいるだろうね。「〇〇のせいで××になっちまった」と言われるような政治家はいっぱいいるけど。


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2022年4月12日火曜日

【読書感想文】藤岡 換太郎『海はどうしてできたのか ~壮大なスケールの地球進化史~』

海はどうしてできたのか

壮大なスケールの地球進化史

藤岡 換太郎

内容(e-honより)
宇宙で唯一知られる「液体の水」をもつ海は、さながら「地獄絵図」の原始地球でいくつもの「幸運」の末に産声をあげた。しかし、それはわたしたちにとっては、猛毒物質に満ちたおそるべき海だった。原始海洋が想像を絶する数々の大事件を経て「母なる海」へと変容するまでの過程から46億年の地球進化史を読み解き、将来、海が消えるシナリオにまで迫る。


 いやあ、おもしろかった。さすが講談社ブルーバックス。これは良書だ。

 地球誕生から、マグマオーシャンというどろどろのマグマの海、陸地ができて水の海が誕生、大陸の合体・分裂、生命の誕生まで数十億年の海の歴史を解説してくれる。海を主役にしているけど、地球全体の歴史がよくわかる。

 ぼくももう長いこと地球人やってるけど、ぜんぜん地球のことを知らなかった。

 誕生したばかりの月は、地球から約2万kmという近いところにあったようです。その頃の月を地球から見れば途方もなく大きく、まるでエウロパから見た木星のようであったかもしれません。その後は次第に遠ざかり、現在では月と地球の距離は約38万kmです。  地球に近かった頃の月は、非常に大きな潮汐作用を地球に及ぼしていたことでしょう。たとえば地球に水の海ができてからは、潮汐力による潮の満ち干は現在からは想像もつかないものだったと考えられます。おそらくは大津波のような波が、毎日2回、海岸へ押し寄せていたはずです。この潮汐には、海水をよくかき混ぜて、海水の成分を均質にする役割があったものと思われます。それはのちの生命の誕生にも、大きな影響を与えていたかもしれません。

 地球と月の距離は、今の二十分の一ぐらいだったのか……。想像するしかないけど、とんでもなく巨大だったんだろうな。毎日、日食だったんでしょう。




 地球上の生物で、最も多く他の生物を殺した生物は?

 ほとんどの人は人間だとおもうだろう。ところがそうではないらしい。

 最も多くの生物を殺したのは、光合成によって酸素を生みだしたシアノバクテリア(藍藻)だ。

それくらい酸素の大量発生は、当時の生物たちにとって深刻な「海の環境破壊」でした。いまでこそエネルギー効率の高い酸素を使うことができる好気性生物が繁栄して、酸素を使えない嫌気性生物は地球の隅に追いやられていますが、当時の生物たちは当然ながら酸素など使えるはずもなく、それどころか猛毒物質だったのです。
 しかし、シアノバクテリアはそんなことなどおかまいなしに、無尽蔵ともいえる太陽エネルギーを利用してどんどん光合成をして、海中を酸素だらけにしていきます。それは原発などの核エネルギーを使うようになった現在の人類もかなわない環境破壊ぶりだったともいえます。そのため、従来型の生物たちはばたばたと滅んでいったのです。

 漠然と、光合成とはいいものだというイメージを持っていた。植物が光合成をしてくれるから、すべての動物は生きられるのだと。だがそれは、ぼくらが酸素をエネルギー源として利用している生物だからだ。シアノバクテリアが誕生するまでは、地球上の生物はみんな酸素のない環境でしか生きられなかったのだ。

 ということは、もし人類が環境破壊しまくって今いる地球上の生物がほとんど絶滅したとする。その後、その劣悪な環境でしか生きられない生物が繁栄する。すると、その生物は「かつて存在していたヒトという生物は、酸素を減らしてくれて毒だらけの森を壊してくれた恩人だ」と人類に感謝してくれるだろう。




 長いスパンで見ると、海面は上昇と下降をくりかえしているらしい。

 それらによると、いまからおよそ600万~500万年前のメッシーナ紀に地中海が干上がってしまい、その海底に大量の岩塩や石膏などの塩分が堆積したというのです。この頃、地球は寒冷化していて、海面はどんどん下がっていきました。地中海ではその出口であるジブラルタル海峡が閉ざされてしまい、地中海が湖のようになってしまったのです。大西洋からの水が流入しなくなった地中海ではひたすら蒸発が起こって、ついに干上がってしまったのです。湖が干上がりつつある現在のアフリカのチャド湖のようなものでしょうか。このとき、海水中にあった塩分は沈殿して、石になってしまったそうです。
 やがて海面がもとの水準に回復したとき、ジブラルタル海峡やボスポラス海峡を経て、大量の海水が一気に地中海に入り込んだといいます。ライアンらはこのときの様子を「ノアの洪水」と表現しています。たしかにそれは、すさまじい流れだったことでしょう。

 地中海は干上がっていた。海峡から海が入ってくる瞬間は、船に穴が開いて一気に水が流れこんでくるようなものだったろうな。

 ノアの洪水とは言い得て妙で、ほんとに世界の終わりみたいな光景だっただろうな。当然旧約聖書よりも数百万年前だけど、ノアの方舟もまったくのありえない出来事でもなかったんだろう。




 この著者の何がすばらしいって、とにかく知に対して謙虚であり誠実であること。

 以下の文章を読んでほしい。

 海洋無酸素事件はのちの白亜紀の中頃にも起こっています。ペルム紀末と同様に、マントルから大量のマグマが上がってきたことが原因の根本にあると考えられています。しかし、それによって地球は寒冷になったのか、温暖になったのかもわかっていないのです。
 海洋無酸素事件のときに併発する意外な現象として、地磁気の逆転が長期間にわたって起こらなかったことが知られています。地球の磁場がつくる南極(磁南極)と北極(磁北極)は、数十万年から数百万年のサイクルで逆転しているのですが、ペルム紀と白亜紀に海洋無酸素事件が発生した時期だけは、この地磁気の逆転が起きていないのです。それがなぜなのかも、いまのところわかっていませんが、スーパープルームが上昇することで核が冷えて、核の中での対流が止まってしまうためではないかという考え方もあります。
 海洋無酸素事件と大量絶滅の因果関係はまだ立証されていません。しかし、ペルム紀末の絶滅のあとに繁栄した生物は低酸素状態に強いものであったといわれていますから、海洋無酸素に打撃を受けた生物たちの進化を促した可能性はあります。白亜紀の海洋無酸素のときには大量絶滅が起きていないのも、生物が低酸素状態に適応していたからかもしれません。地球の内部で起きた現象が、海や大気ばかりか、生物にも大きな影響を与えたと考えると面白い気がします。

 これだけの文章に、誠実さがあふれている。

「と考えられています」「わかっていないのです」「いまのところわかっていませんが」「という考え方もあります」「まだ立証されていません」「促した可能性はあります」「適応していたからかもしれません」「と考えると面白い気がします」

 正直、読んでいてまだるっこしい。わかりやすくない。「~になった」「~なのは……だからだ」と言い切ったほうが明快だ。
 でも、断言は科学的に正しい態度ではない。なにしろ何億年も昔の話なのだ。おそらくこうだろう、とは言えてもこの目で見たわけでない以上、断定を避けるのが科学的な態度だ(この目で見たとしても疑うのが科学的な態度かもしれない)。

 有力な仮説は紹介するが、断定は避ける。こういう人のほうがぼくは信用できるし、「他の説もありうるのだろうか?」とこちらの好奇心も刺激される。このわかりにくさこそが誠実さの証だ。


 ところがテレビや新聞に呼ばれる学者ってのは、わからないことでも断言してくれる人なんだよね。テレビはわかりやすさだけが求められて、正しさなんてどうでもいいから。ほら、五歳児だからってのを盾にしていいかげんな説をさも唯一解みたいに垂れ流してるNHKの番組、おまえのことだよ。ボーっと生きてるのはおまえのほうだよ!


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2022年4月11日月曜日

【読書感想文】三島 由紀夫『命売ります』

命売ります

三島 由紀夫

内容(e-honより)
目覚めたのは病院だった、まだ生きていた。必要とも思えない命、これを売ろうと新聞広告に出したところ…。危険な目にあううちに、ふいに恐怖の念におそわれた。死にたくない―。三島の考える命とは。

 三島由紀夫とニュートラルな立場で向き合うのはむずかしい。三島由紀夫について考えるとき、どうしても文学作品よりも先にあのマッチョな肉体とか自衛隊での割腹自殺とか美輪明宏とかが思い浮んでしまう。そしておもう。「ああ……ぜったいに好きになれない人だ……」

 そんな意識があったので、三島作品は一作か二作ぐらいしか読んだことがない。それも『金閣寺』とか『仮面の告白』とかじゃなくて、もっとマイナーなやつ。タイトルすら忘れた。

 この『命売ります』は三島由紀夫らしからぬユーモラスな作品ということで約二十年ぶりに三島作品を手にとった。


 ……ううむ。なんと形容していいのかわからない作品だな。

 自殺に失敗して一命をとりとめた男。どうせ一度は捨てた命なのだからと新聞に「命売ります」という広告を出したところ、ひとりの老人がやってくる。ある女に死んでもらいたいので、その女とベッドを共にして情夫に殺されてくれという依頼。途中までは計画通りにいったが、男は死なずに済む。その後も次々に命の買い手が現れるが……。

 と、軽いタッチとブラックユーモアまじりにストーリーが進む。ドライで都会的な文章で、星新一の中篇作品に似た雰囲気だった。この乾いた感じ、嫌いじゃない。主人公の内面をぐじぐじと書く文学よりも、どうでもいいや、なるようになるや、という感じの文章の方がぼくは好きだ。

 ストーリー展開もご都合主義なんだけど、それがかえってテンポがよくていい。

 ……とおもっていたら中盤からどんどん変な方向に進んでいく。外国マフィアや秘密組織が出てくるところまではまだいいとして、三人目の客はなんと吸血鬼。え? 吸血鬼……!?

 なにそれ。あたりまえのように吸血鬼出てきたけど。急にファンタジーになった。その後意味もなく女を抱く島耕作的展開になったかとおもうと、終盤は敵に追われる逃走劇に。主人公の性格も序盤と後半でぜんぜん変わってるし、つぎはぎ感がいなめない。元は連載作品だったそうなので、いきあたりばったりに書いていたのかもしれない。




 話もむちゃくちゃだけど、主人公も相当おかしい。

「そんなら命を売ったお金はどうするんです」
「あなたがそのお金で、何か始末に困る大きな動物、たとえば鰐とか、ゴリラ、とかいうものを買って下さい。そして、結婚なんかあきらめて、一生その鰐かゴリラと一緒に暮して下さい。あなたに似合うお婿さんは、それしかないような気がするんでね。ハンドバッグの材料に売ろうなんて色気を起しちゃいけませんよ。毎日餌をやって、運動させて、誠心誠意、飼育してくれなければね。
 そしてその鰐を見るたびに、僕のことを思い出してくれなければね」

 こんなことばかり言っている。この狂ってるところがよかったのに、終盤の追われる展開になってからは防衛本能のために必死に逃げるだけの男になっていて、つまらない。

 最後の伏線回収みたいなのも、そのせいでかえってこぢんまりとしてしまった印象。最期までめちゃくちゃな話であってほしかったな。


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2022年4月10日日曜日

寝坊する人

 ぼくは朝が強いので、しょっちゅう寝坊する人の気持ちがわからない。

「でもけっきょく甘えでしょ。寝坊してもいいやとおもってるから寝坊するんでしょ。『起きられなかった』じゃなくて『起きない道を選んだ』なんでしょ。要するに、相手を待たせてもいいとおもってるから寝坊なんかするんだよ」とおもっていた。


 ぼくが大学一年生のとき。親元を離れて下宿していた。

 高校時代の友人・Nくん(浪人生)がぼくのマンションの近くの大学の入試を受けると聞いたので、「だったら受験前日、うちに泊まったらいいやん。当日早起きするのたいへんやろ」と声をかけた。実家から大学までは二時間以上かかるが、ぼくのマンションからだったら三十分でいける。「受験当日の朝に一時間半の余裕がある」というのは大きなアドバンテージだ。

 そして受験前日、Nくんはぼくの家に泊まった。もちろん前日は受験に備えて早めに寝た。

 当日の朝。朝七時に、Nくんの携帯のアラームが鳴りだし、その音でぼくは目を覚ました。

 次の瞬間、ぼくは信じられない光景を目にした。


 Nくんは布団に寝ころんだまま手を伸ばして携帯のアラームを止め、そしてまた何事もなかったように眠りについたのである。
 これは……〝二度寝〟だ。

 しばらくNくんの様子を見ていた。だが、いっこうに起きる気配がない。十秒、二十秒。ぴくりとも動かない。

 三十秒たち、さすがにこれは見ていられないとぼくはNくんを揺りおこした。

「おい、起きろって。今日受験やろ」

「ん? ああ、ありがとう……」

「今、目覚まし止めてまた寝てたで」

「え? 目覚ましなってた?」


 なんと、Nくんは自分が二度寝をしたことにまったく気づいていないのだ。無意識のうちにアラームを止め、無意識のうちに二度寝したのだ。

 もしもぼくが起こしていなかったら、彼はきっと大学受験に遅刻していたことだろう。


 その日以来、ぼくは「二度寝は甘え」という考えを改めた。

 寝坊する人は、起きない道を選んだわけでもなく、相手をなめているから遅刻しているわけでもなく、ほんとに起きられないのだと。

 寝坊する人にとって「時間通りに起きる」というのは、「寝ているときにどんな夢を見るかをコントロールする」と同じくらいむずかしいことだと。


2022年4月8日金曜日

【読書感想文】花井 哲郎『カイミジンコに聞いたこと』


カイミジンコに聞いたこと

花井 哲郎

内容(e-honより)
古生物学の泰斗が「何にでも興味を持つ子供のような眼」で見つめた日常は、新鮮な“発見”に満ちていた!落語のこと。軽井沢の不思議な店のこと。逃げ出した見世物用のコブラのこと…。自然史科学者が平明な文章で綴る随筆集。


 地質学、古生物学の研究者によるエッセイ。

 なんてことのない身辺雑記を書いていたとおもったら、気づくと古生物や微生物や進化の話になっている。この流れがじつに洒脱でおもしろい。

 大学広報などに書いた文章を寄せ集めたものなのでテーマはまとまりはないが、それでも生物への愛が全篇を貫いている。

 年寄りに共通の「昔は〇〇だったが今の若い学生は~」というぼやきが多いのが玉にキズだが(根拠を示さない「昔は良かった」に読む価値はないとおもっている)、それ以外はいい文章。




 私達はよく学生と一緒に野外に化石の採集に出かける。そして露頭の前に立って化石を採集していると、必ずと言ってよい位学生達から、「この化石は何と言う種類ですか」と彼らの採集した化石を示される。そこでその化石の所属する「種」や「属」を学名で、例えば、「これはメレトリックスで、この化石群の主要なメンバーですね」とでも言えば、学生達は「はあ、そうですか」と言って、何となく分かった気持ちになってくれる。そして、「そのメレトリックスというのはどういう意味ですか」とか、「どういう特徴を持っている種類ですか」などとしつこく食い下がる学生はまずいない。
 ラテン語が分からないとなれば、その学生にとってメレトリックスと言う名前は、彼の採集した貝殻について、そのとき一瞬興味を持ったものという内容しかもっていない。学名を教えてから、標本を返すと、彼らは見ている前でその標本を捨てても悪いと思ってか、少しの間持ってはいるが、結局は、捨ててしまう。かくて学生の理解するメレトリックスは、いつの間にかウミゴボウと同じくらい内容のないものになっている。一方、先生の方はメレトリックスだと言ったとき、その名前から自分の知るすべての内容を皆学生に伝えたような錯覚を持ってしまう。

 ぼくはこの学生の気持ちがよくわかるなあ。

「命名」という作業って、人間にとってすごく大事なことなんだよね。良くも悪くも。

 名前がわからないってすごく不安になるんだよね。新型コロナウイルスだってちゃんと名前がついたからまだ冷静に対応できているけど、これが「正体不明の奇病」だったらその恐ろしさは今の比じゃないだろう。ほとんどの人は「コロナ」が何を指しているか知らないわけだから(ぼくも知らない)、「新型コロナウイルス」だろうと「正体不明の奇病」だろうと理解度は大差ないわけだけど、それでも名前がついているというだけで安心するものだ。


 以前にも書いたけど、知人のおかあさんが落ち着きのない息子に手を焼いていたけど、息子が発達障害だと診断されたことで安堵しているように見えた。

 名前がついたからといって息子が落ち着くようになったわけじゃない。それでも「なんだかわからないけど他の子とちがう息子」よりも「発達障害の息子」のほうがまだ理解できた気になれるようだ。


 みんな、わからないものが嫌いなんだよね。だから、まったく新しいことをはじめる人がいると非難される。ところがラベルを貼って「これは〇〇の仲間です」とカテゴライズすると「ああ、〇〇みたいなやつか」と安心して受け入れられる。〇〇のことを理解できているかどうかなんて関係がない。わかった気になる。

 だから、何かについてじっくり考えてもらいたいとおもったら、あえて名前を伝えないってのもひとつの手かもしれないね。不安定なままにしときたくないから、あれこれ考えるもんね。


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2022年4月5日火曜日

分別ある人間のごみの分別

 ごみの分別ってむずかしくないですか。

 正直に言おう。ぼくは、なんとなくで分別している。


 いや、一応は知っている。

 ぼくの住んでいる地域のごみは「生ごみ・一般ごみ」「プラスチック」「紙ごみ」「衣類」「ビン・缶・ペットボトル」に分かれている。その他、1メートルを超えるような大型家電はリサイクル料を払って回収に来てもらう。乾電池や蛍光灯は区役所などで回収。牛乳パックや卵のパックや食品トレイはスーパーで回収している。
 どうだ、すごいだろう。これだけ知ってたら立派なもんだ。

 それでも、「これはどうしたらいいんだろう?」とおもうものがある。


 靴を捨てようとおもった。
 これは……衣類? まあ分類的には衣類だろう。ただしごみとして見たらどうなのだろう。衣類でいいのか。おまけにファスナー付きの靴だった。衣類に金属が含まれていてもいいのか?

 食品が入っていたプラスチックの袋。油がぎとぎとについている。
 これは……プラスチックでいいのか? 洗ってから捨てたほうがいいのか? しかし油を排水溝に流すのはよくないと聞いたことがある。ティッシュなどで拭えばいいのか? しかしごみを捨てるためにごみを増やすってなんだか本末転倒な気がする。

 困ったときは妻に訊く。なにしろ彼女は大学院で環境工学を学んだという経歴の持ち主なのだ。いってみればごみのスペシャリスト。迷ったときは彼女に任せている。

 その結果、靴は一般ごみ、油でぎとぎとのプラスチックも一般ごみになった。汚れがひどいものはプラごみにしてはいけないらしい。


 最近いちばん迷ったのは、ウォーターフロスを捨てようとおもったときだ。知ってる? ウォーターフロス。
 水のタンクにノズルがついてて、それを口内に入れてボタンを押すとすごい勢いで水が出て、歯間にたまった食べカスを掃除してくれるやつ。
 こいつが壊れて動かなくなったので捨てようとおもったのだが、何ゴミかわからない。二十センチぐらいなので大型家電ではない。一部にはプラスチックが使われているが、金属も使われている。分解できればいいのだが、ネジすらなくて素人にはばらすことができない。
 プラスチックもあるし、金属もあるし、充電式なので中にはバッテリーもある。これは……何ごみだ?

 とうていぼくの手におえないので妻のご託宣を仰ぐ。
「一般ごみ」
 なるほど、そうか。……一般ごみ!?

 えっ、この電化製品で、金属もプラスチックもバッテリーもあるやつを、ティッシュとか鮭の皮とかといっしょに捨てていいの!?
 うちのマンションは一般ごみ用ダストシュートがあるんだけど、ダストシュートからこの電化製品を投げ捨ててしまっていいの?

 いっこうに腑に落ちなかったが、妻が言うならしかたない。首をかしげながらダストシュートに放りこんだ。




 ごみの分別に納得がいかないのは、ぜったいにどこかで妥協せざるをえないことだ。紙とビニールがくっついてる製品とか、プラスチックと金属がくっついてるやつとか。ひきはがそうとするけど完全にははがれないやつ。
 どっちに捨てても、ちょっとは不純物が混ざっちゃう。これが気持ち悪い。

 ということで市が発行しているごみ分別表を見たところ「なるべく分別してほしいけど多少混ざってしまうのはしかたない」ということらしい。たとえばプラスチックの中に紙が混ざってても、処理するときに分けられるから、とのことらしい。

 えええ……。
 だったらそもそも分別しなくていいんじゃないの、とおもってしまう。もうそっちで分けてよ。だいたい分別しなくていい地域もあるし。京都市に住んでたことあるけど、すげー雑だったよ。カン・ビン・ペットボトル以外はぜんぶ一緒だったよ。今はどうだか知らないけど。

 人々がごみの分別に使っている時間と労力って、全国規模にすればとんでもなく大きいはず。でも、九割の人がちゃんと分別しても、一割の人が適当に捨ててたら台無しになってしまう。プラごみの中に生ごみが混ざってしまう。

 当然、処理する側もそうなることは想定していて、プラごみから生ごみを選りわけるシステムをつくっている。

 だったら、九割の人がちゃんと分別してる労力ってなんなの?

 釈然としない。




 そもそも、ごみの分類を一般市民にさせること自体が無理があるとおもう。

 八歳の娘は、いまだにティッシュとかプラスチックの容器とかを持ってきて「これは何ごみ?」と訊いてくる。

 いいかげんにおぼえてよ、とはおもうが、かくいうぼくだって「プラスチック製品の定義を答えよ」と言われたら困ってしまう。たくさんのプラスチック製品を見てきて経験的に「プラスチックかそうでないか」と見分けられるようになっただけで、明確な線引きはたいへんむずかしい。

 子どもも外国人も目が見えない人もおばかさんもみんなごみを出すのに、「全員が正しく分類できる」という前提で制度をつくるほうがどうかしている。




「白黒つけなきゃいけないのに白黒つけられない」ってのが気持ち悪いんだよね。

 だからさ。せめて。

「一般ごみ」「プラスチックごみ」「資源ごみ」みたいなのにもうひとつ追加して、「分類不能ごみ」って項目をつくってほしいんだよね。わかんないやつはぜんぶそこに放りこむの。

 そんなことしたらみんな「分類不能ごみ」にしちゃうって?

 いいじゃない、それはそれで。そうなったら、そもそも一般市民に分類させるのは無理だったってことだよ。

 ほとんどの人が守れない制度なら、制度のほうが欠陥なんだよ。


2022年4月4日月曜日

【読書感想文】リチャード・セイラー&キャス・サンスティーン『実践行動経済学 ~健康、富、幸福への聡明な選択~』

実践行動経済学

健康、富、幸福への聡明な選択

リチャード・セイラー(著) キャス・サンスティーン(著) 遠藤 真美(訳)

内容(e-honより)
市場には何が足りないのだろう?ごく凡庸な我々は、様々な人生の決断において自らの不合理性とひ弱さに振り回され続ける。制度に“ナッジ”を組み込めば、社会はもう少し暮らしやすくなる。“使える”行動経済学の全米ベストセラー。世界的な金融危機を読み解いた「国際版あとがき」も収録。


 古典経済学では合理的な人間(エコノ)を想定して理論を組み立てる。エコノは、1円でも得をする方を選び、情や惰性には一切流されない。常に冷静かつ正確に損得勘定できる。

 だが、我々はエコノではない。目先の得や楽なほうに流される。「損をしたくない」よりも「めんどくさい」のほうが先に立つ。全員がエコノであれば銀行に預金する人も、宝くじを買う人も、ギャンブルをする人も存在しないはずだが、そんなことはない。我々は朝三暮四の猿とそんなに変わらないのだ。

 そこで、不合理な行動をとる存在(ヒューマン)を想定して経済を考えるのが行動経済学だ。


 我々は頻繁に間違う。朝に三個、夕方の四個のエサをもらうよりも、朝に四個、夕方に三個もらうほうがお得だとおもってしまう。

「まちがうやつが悪いのさ。情報弱者は損をしてもしょうがない」という自由主義的な考え方もある。

 でも、人々が選択を誤って不幸になるのは、当人だけでなく社会全体にとっても損失である。選択を誤って失業者が増えたり、生活保護受給者が増えたり、病人が増えたりするのはいいことじゃない。

 そこで、政府などの公共機関が個人の選択に介入してやる必要がある。

 ただしこの塩梅がむずかしい。職業選択、資産運用、購買行動、衣食住、すべてを強制すれば間違う人はいなくなるだろうが(もしくは全員間違うか)、それが幸福につながるとはおもえない。パターナリズム(父権主義。国家などが個人の幸福のために行動に介入すること)を嫌う人も多い。


 そこで著者が提唱するのが、「ナッジ(nudge)」だ。ナッジとは、法律や罰則のように強制的なものではないが、多くの人にとって良い選択をできるよう道筋をつけてやる行為だ。

 たとえばドナー(臓器提供者)登録について。臓器提供は増やしたいが、個人が己の身体を自由に扱う権利は侵害するわけにはいかない。信仰上の理由で臓器提供をしたくない人にまで臓器提供を強制するわけにはいかない。

 今の日本の制度だと、ドナー登録をするには健康保険証や運転免許証の裏にチェックを入れる必要がある。チェックを入れなければ登録されない。
 だが一部の国ではこれが逆で、何もしなければ死後に臓器を提供することに賛同したものとみなされる。提供したくない人がチェックを入れる必要がある。

 やっていることはほとんど変わらない。「提供する人はチェック」か「提供しない人はチェック」だけで、個々人に与えられた自由は同じだ。

 だが、「提供しない人はチェック」の国は圧倒的に登録率が高くなる(信仰されている宗教が同じ国で比べても)。

 この「提供しない人はチェック」の仕組みが「ナッジ」だ。




 人間は自分の意思で行動しているようで、実際は環境によって行動が大きく左右される。

 同じことはスープにも当てはまる。ワンシンクが行ったもう一つの画期的な実験では、被験者はトマトスープが入った大きな皿の前に座り、好きなだけ飲んでいいと告げられた(Wansink[2006])。被験者には知らされていなかったが、スープ皿は自動的に注ぎたされるようになっていた(皿の底はテーブルの下にある機械とつながっていたのだ)。被験者がどれだけスープを飲もうと皿は空にはならない。たくさんの人が実際には大量のスープを飲んでいることに気づかないまま、実験が終了させられるまで(まったく慈悲深いことだ)、ひたすらスープを飲み続けた。皿が大きかったり容器が大きかったりすると、食べる量は増える。これは選択アーキテクチャーの一形態であり、重要なナッジとして作用する(読者諸氏への助言――体重を減らしたいなら、皿を小さくし、好物はすべて小さなパッケージのものを買い、思わず手が伸びてしまうような魅惑的な食品を冷蔵庫に入れておかないことだ)。

 これはぼくも経験がある。特に飲み会のようにアルコールが入っているといけない。眼の前に食べ物があると、空腹でなくてもついつい食べすぎてしまう。

 またぼくは結婚式に招待されるとたいてい飲みすぎる。これも環境によるものだ。結婚式での会食というのは、グラスが空きそうになるとすかさずウェイターが寄ってきて「お飲み物お注ぎしましょうか」と訊いてくる。飲みたいわけではないが断るのも面倒だ(断る、という行為はけっこう脳のエネルギーを使うものだ)。そこでついついお代わりを頼んでしまう。グラスにシャンパンやワインが入っていると「残すのも悪いな」とおもいついつい飲んでしまう。飲むとまたウェイターが音もなく忍びよってきて「お飲み物お注ぎしましょうか」と訊いてくる……。これもナッジだ。


「割れ窓理論」というのを聞いたことがあるだろうか。割られた窓ガラスをそのままにしていると、他の窓ガラスまで割られることが増えるという理論だ。同様に、何もないところにポイ捨てをするのは気が引けるが、すでにごみが多いところにポイ捨てをするのは抵抗なくできるのも同じ。これも(負の)ナッジだ。




 日本人は周囲に流されやすい、とよく言われるが、それは日本人だけではないようだ。

 納税協力の文脈では、ミネソタ当局によって行われた現実世界での実験で、行動の大きな変化が生みだされている。実験では、納税者を四つのグループに分け、四種類の情報が与えられた。あるグループには、自分たちが納めた税金は、教育、防犯、防火など、様々な良い仕事に使われると告げられた。別のグループは、税金を納めない場合には罰せられる危険があると脅かされた。さらに別のグループは、納税申告書の書き方にとまどったり、よくわからなかったりする場合にはどこに問い合わせればよいかという情報を与えられた。最後のグループには、ミネソタ市民の九割以上が既に税法に基づく義務を完全に果たしているとだけ告げられた。
 こうした介入のうち、納税協力に著しい効果を上げたものが一つだけある。最後の介入だ。一部の納税者が税法を遵守しないのは、納税協力の水準はかなり低いと誤認されているのが原因である可能性のほうが高いようだ。これはメディアなどで税金逃れが報じられているためだろう。協力水準は実は高いのだという情報を与えられると、税金逃れをする可能性は低くなる。だとすると、ほかの人がどうしているかに一般市民の関心を集めることによって、望ましい行動も、望ましくない行動も、少なくともある程度は促せることになる(政党への注――投票者を増やしたいと考えているなら、投票しない有権者がたくさんいると嘆かないでいただきたい)。

「みんな法に従って正しく納税しています」と伝えるだけで、正しく納税する割合が高まるのだ。

 たしかにね。誰しも税金を払うのはイヤだけど、イヤなのは払うことそのものよりも「脱税してるやつがいるのに自分だけが払うのが許せない」だ。

 考えてもみよう。たとえば観たい映画があるとする。あなたは映画代二千円を払う価値があるとおもい、映画館に足を運ぶ。すると映画館で「先着三十名無料キャンペーン」をやっている。あなたは運悪く三十一番目の客だった。とたんに二千円払うことがイヤにならないだろうか。二千円払おうとおもって出かけて二千円払うのだから損をしたわけでもないのに、すごく損をした気持ちにならないだろうか。もしかすると「タダにならないんだったらもう映画観るのやめよう」となるかもしれない。


 少し前に、政府の不正がたくさん明るみに出た。情報の隠蔽やデータの改竄や国会での虚偽答弁が相次いだ。彼らの罪はただ誤った情報を流した(あるいは正しい情報を隠した)だけにとどまらない。多くの国民に「あいつらも不正をはたらいているのに自分たちは正しく行動するのはばからしい」という意識を植えつけた。その中には、実際に「じゃあ自分もちょろまかしちゃおう」と行動した人もいるだろう。それとは気づかぬうちに、政府の不正に悪影響を及ぼされているのだ。この影響は数十年にわたって及ぶ。彼らはただ不正をしただけでなく、日本国民全体のモラルを下げたのだ。




 この本では「ナッジ」を活用する例がいくつか紹介されているが、アメリカでの例なのでわかりづらいことも多い。住宅ローンや保険、年金制度などは日本とは異なる点もいい。

 おもしろかったのは、こんな例。

興味深い例に、かって非常に人気があった独特な金融サービス制度「クリスマス・セービングクラブ」がある。仕組みを説明しよう。顧客は一一月の感謝祭のころに地元の銀行に口座を開き、これから一年間にわたって毎週一定の金額(例えば一0ドル)を預金することを約束する。預金は引き出せず、一年後、ちょうどクリスマスのショッピング・シーズンが始まるころに満期を迎える。金利にたいていゼロに近い。
 クリスマス・クラブを経済学の観点から考えてみよう。この口座は流動性がなく(一年間引き出せない)、取引費用は高く(毎週預金しなければならない)、リターンはゼロに等しい。そんな制度は実在しえないことを証明するのは経済学のクラスの宿題にはうってつけの題材だ。だが、クリスマス・クラブは長年にわたって広く利用され、何十億ドルも投資された。私たちはエコノではなくヒューマンを相手にしているということに気づけば、クラブが繁栄した理由を説明するのは難しくない。クリスマス・プレゼントを買うお金が不足している家庭は、クリスマス・クラブに加入して来年のクリスマスの問題を解決しようと決意するだろう。毎週預金しなければならないという不便さと、預金しても利息がつかないという損失は、プレゼントを買う十分な資金を確保できる利得に対して支払う代償としては小さいのではないか。(中略)お金を引き出せないことはマイナス要因ではなく、プラス要因だった。流動性がない点こそがこの制度の肝だったのだ。クリスマス・クラブは多くの点で子どものプタの貯金箱の大人バージョンである。ブタの貯金箱はお金を入れやすく、出しにくいようにできている。お金を引き出しにくいことが貯金箱の最大のポイントである。

「クリスマス・セービングクラブ」はクレジットカードの普及により廃れたが、それまではこんな何のメリットもないように見える制度が人気を博していたのだから、人間の行動がいかに意思ではなく環境や制度によって動かされるかがわかる。


 これもおもしろかった。スティック・ドットコムという、誓いを立てるためのWebサイト。

 スティック・ドットコムで誓いを立てる方法には、「金銭型」と「非金銭型」の二つがある。金銭型の誓いを立てる場合には、個人はスティック・ドットコムにお金を預けて、一定の期日までに目標を達成することに同意する。このときに目標を達成したことをどう立証するかも決める。立証する方法には、病院や友人の家で体重を量る、診療所でニコチンの尿検査をする、自主申告制にする、などがある。目標を達成すると、預けたお金は戻ってくる。目標を達成できなかった場合には、お金は寄付される。また、「グループ方式の金銭型誓約」という選択肢もある。グループ全員のお金をプールして、目標を達成した人のあいだで分け合うのである(目標を達成できなかった場合には、誓いを立てる人の嫌いな相手、例えば自分の支持政党と対立する政党、ヤンキースとレッドソックスのような宿敵関係にあるチームのファンクラブに寄付するという、もっと厳しくて、意地が悪くて、おそらくより効果的な選択肢もある)。非金銭型の誓約には、ピア・プレッシャーに身をさらす方法(家族や友人に成功か失敗かを電子メールで知らせる)、グループのブログで目標達成を監視する方法などがある。

 目標達成を誓い、達成できなかったら嫌いなスポーツチームに寄付をする……。

 いいなあこれ。死にものぐるいで達成するだろうな。


 経済学者の書いた本なので行動経済学の本としてはやや難解ではあるが、中級者向けとしてはおもしろいとおもう。

 ナッジを知れば、ふだんの行動を律することもできるし、マーケティングなどで他人を動かすためにも利用できそう。


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【読書感想文】 ダン・アリエリー 『予想どおりに不合理』

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2022年4月1日金曜日

【読書感想文】『ズッコケ文化祭事件』『うわさのズッコケ株式会社』『驚異のズッコケ大時震』

  中年にとってはなつかしいズッコケ三人組シリーズを今さら読み返した感想を書くシリーズ第六弾。

 今回は17・13・18作目の感想。

(1~3作目の感想はこちら、4・5・7作目の感想はこちら、8~10作目の感想はこちら、6・11・14作目の感想はこちら、12・15・16作目の感想はこちら


『ズッコケ文化祭事件』(1988年)

 ズッコケシリーズの舞台は学校の外になることが多いのだが、この作品はめずらしくほぼ学校の中に収まっている。
 文化祭で劇をやることになった六年一組。ハチベエは、自分が主役になるべく、近所に住む童話作家・新谷氏に脚本執筆を依頼する。ところが新谷氏の書いた脚本は「幼稚」「古い」と六年一組の生徒からは評判が悪く、大幅に改作をおこなって上演。劇は成功に終わったが無断で手を入れられたことを知った新谷氏が怒りだし……。


 と、児童文学らしからぬ「大人の世界」が描かれる。特に宅和先生と新谷氏が酒を飲みながら口論を交わす場面は、子どもが一切登場しない。だが、こういう場面を明かしてくれるところこそズッコケシリーズの魅力なのだ。子どもは「ふだん子どもが目にしない大人の世界」を見たいのだ。ぼくは小学生のときにもこの作品を読んだが、強く印象に残っているのはやはり「おじさんとおじいさんの口喧嘩シーン」だ。

 この物語におけるハチベエ、ハカセ、モーちゃんは、〝文化祭を成功させようとがんばる子どもたち〟の中のひとりでしかない。とても物語の主役たりえない。主役は子どもたちの自主性を尊重するために陰ながら奮闘する宅和先生であり、執筆の苦悩を抱えた新谷氏である。

 このふたりが教育や児童文学について意見を戦わせるシーンは、著者である那須正幹先生の児童文学感が濃厚に反映されていておもしろい。ああ、きっと那須正幹先生もこういう批判を浴びたんだろうなあ、とか、こう言い返したかったんだろうなあ、とかいろいろ邪推してしまう。そしてそうした批判に対して、Twitterで口喧嘩をするのではなく(当時Twitterがなかったからあたりまえだけど)作品の中で見事に反論してみせるのがかっこいい。この『文化祭事件』こそが、古くさい批判に対する那須正幹先生の回答になっている。それは、〝新谷氏の最新作のタイトルが『ズッコケ文化祭事件』〟というメタなオチにも表れている。

「純粋無垢な子ども」という価値観は、現実を見ようとしない大人の勝手な思いこみにすぎない。「昔の日本人は思いやりがあった」の類といっしょだ。子どもは、大人以上に身勝手で、残酷で、小ずるくて、傲岸である。だからこそおもしろい。

 子どものときは特になんともおもわなかったが、今読むとおもしろいのは
「中学受験をする連中が、受験前は学校行事なんかどうでもいいという態度をとってたくせに、受験が終わったとたん最後の思い出づくりとばかりに出しゃばってくる」
シーン。

 ああ、いたなあ。こういうやつ。それまで誘いに乗らなかったくせに自分の推薦入試が決まったとたんやたら誘ってくるやつとか、学校行事なんてだりーみたいな態度とってたくせに中三の文化祭だけやたらと張りきって仕切ろうとしてくる不良とか。

 ああ、やだやだ。ふだん横暴にふるまって周囲に迷惑かけてるくせに映画のときだけ仲間の大切さを語るジャイアンかよ。



『うわさのズッコケ株式会社』(1986年)

 ポプラ社が2021年に企画した「ズッコケ三人組50巻総選挙」で見事一位を獲得した人気作。ぼく個人の中でも、三本の指に入る好きな作品だ(あとの二作は『探検隊』と『児童会長』かな)。

 イワシ釣りに出かけた三人。釣り客が多かったのに食べ物を売る店がないことをハチベエが父親に話すと「商売してみろよ。もうかるぞ」とそそのかされる。すっかりその気になったハチベエはハカセやモーちゃんを誘い、クラスメイトからも借金をしてジュースや弁当を仕入れ、釣り客たちに販売する。成功に気を良くした三人はさらなる出資金を集めるために株式会社を設立する……。

 何度も読み返した作品なのでだいたいおぼえていたが、それでもやっぱりおもしろい。
 上にも書いたが、これぞ「大人の世界を見せてくれる児童文学」だ。

 多くの大人は、子どもは純粋無垢な存在であってほしいと願っている。性や暴力や金儲けとは無縁な存在であってほしい、と。しかし残念ながら多くの子どもはそういったものが大好きだ。大人が隠そうとすればするほど覗き見たくなる。

『うわさのズッコケ株式会社』はその期待に見事に応えてくれる。この作品で株式会社の仕組みを知った人も多いだろう。ぼくもその一人だ。事業をやるために株式を売って出資を募る、事業が利益を出せば株主は配当金を受け取ることができる。この本で学んだ。そして、ぼくの株に対する知識はそのときからほとんど増えていない。

 今読むと、株券の価値が下がるリスクを説明していないのはずるいとか、勝手に商売してたら怖い人にからまれるんじゃないかとか、ジュースはまだしも暑いときに弁当を持ち歩いて売ったりラーメン作ったりするのは食中毒の危険があるとか、子どもが缶ビール売っちゃまずいだろとか(子どもでなくても資格なしに売ってはいけない)、いろいろツッコミどころはあるんだけど、そんなのは全部ふっとばしてくれるぐらいおもしろい。

 起承転結がしっかりしているし(釣り客がいなくなったときの絶望感よ)、終わり方も潔くて爽やか。無銭飲食をした人が高名な画家で……というのはややご都合主義なきらいもあるが、そのあたりをのぞけばすべて子どもたちだけの力で解決していて、児童文学としても完璧。

 そういえばこれ読んで会社を作りたくなって、宝くじ販売会社を作ったなあ。一枚十円で宝くじを売って……。たいへんだったのと、飽きたので一回だけしかやらなかったけど。



『驚異のズッコケ大時震』(1988年)

 子どもの頃に読んだときは「そこそこの出来」という印象だったが、今読むとひどいなこれは。

 ここまででいちばんの失敗作じゃないだろうか。クラスにひとりふたりいる歴史好きな子以外には、さっぱりわけがわからない。

 歴史に興味を持ったモーちゃんが『マンガ日本歴史』を買って読み、大いに感銘を受ける。翌日、学校帰りの三人組が歩いていると大きな揺れに遭遇する。気づくとそこは関ヶ原の合戦の舞台だった……という導入までは悪くないのだが、そこからがひどい。
 関ヶ原を抜けだした三人は、琵琶湖の近くまで歩く(これがもうむちゃくちゃ)。そこで出会った老人はなんと水戸黄門・助さん・格さんだった。さらに京都に行った三人は坂本龍馬に出会って新撰組に襲われたところを鞍馬天狗に助けられ、邪馬台国で卑弥呼のお告げを聞いた後はジュラ紀に行って恐竜に遭遇する……。

 もちろん、水戸黄門が諸国漫遊していたり、鞍馬天狗が実在していたりするわけはないので、最終的にはこれらは「三人の誤った認識のせいで時空がゆがんでしまったから」という理由が語られる。

 ……は?

 理由を聞いても意味がわからない。過去にタイムスリップしてしまうのはそういうお話だからいいとして、なぜハチベエが鞍馬天狗の実在を信じていたら鞍馬天狗が眼の前に現れるのか。まったくもって意味不明だ。

 ズッコケシリーズの魅力のひとつは「大胆なウソをもっともらしく並べたててくれる」ことにあるのだが、この作品にしてははなから整合性を放棄している。もっともらしいウソをつくことすらせず「とにかくこうだからこうなの!」という調子であっちこっちの時代に三人を連れていく。

 ストーリー展開にまったく必然性がないのだ。なぜ有名人にばかり会うのか、なぜ場所もあちこち移動するのか、どのタイミングでタイムスリップが起こるのか、時代が未来に行ったり過去に行ったりするのはなぜなのか、そういった疑問への説明がまったくなされない。

「歴史上のなんとなくおもしろそうな場面をなんとなく並べてみました」以上の理由がない。


 時間旅行ものは『ズッコケ時代漂流記』ですでに書いているから、差をつけるために何度もタイムスリップをさせたのかもしれないが、印象が散漫になっただけだ。それぞれの時代のうわっつらをなでているだけなので、歴史のおもしろさはまるで伝わってこない。その時代の風俗を語る余裕がない。

 八歳の娘にとってもちんぷんかんぷんだったらしい。まあ日本史をほとんど知らないから当然なんだけど、歴史をある程度知っている大人が読んでもまるでおもしろくない。

『ズッコケ財宝調査隊』がワーストだとおもっていたけど、あれは難しいし地味だけどストーリー展開はしっかりしていた。ワーストワン更新だな。


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