2023年9月29日金曜日

いちぶんがく その21

ルール


■ 本の中から一文だけを抜き出す

■ 一文だけでも味わい深い文を選出。



ハンカチを持っていないことに、泣く予定はなかったんだな、という事情がうかがえる。

(津村記久子『この世にたやすい仕事はない』より)




「おかげさまでいま最悪な気分です」

(沢村 伊智『ぼぎわんが、来る』より)



「そんなに同情するなら、どこかバナナの国の大使にでもすればよかったのだ」

ミハイル・ゴルバチョフ(著) 副島 英樹(訳)『我が人生 ミハイル・ゴルバチョフ自伝』より)




やめてくれ、話さないでくれ、何も言わないでくれ、そんな物語のようなことをこれ以上しないでくれ。

(朝井リョウ『スペードの3』より)




それにしても、あなたはしょうもない世界に生まれてきました。

鳥羽 和久『君は君の人生の主役になれ』より)




「片腕もがれたとしても、左手だけで弾ける曲もありますし」

(二宮 敦人『最後の秘境 東京藝大 〜天才たちのカオスな日常』より)




Nさんのお父さんの「電話」は永遠に音量調節できず、私の母の「蟹」の殻は永遠に硬く、私の「スパゲッティ」は永遠に長い。

(穂村 弘『野良猫を尊敬した日』より)




「この鉄砲玉坊主(キャノンボール)ときたら」

(リチャード・マシスン(著) 尾之上浩司(訳)『運命のボタン』より)




「だって、もし勝てなかったらギャンブルが合法になるわけないでしょう?」

(チャールズ・デュヒッグ(著) 渡会 圭子(訳)『習慣の力』より)




ミニオンズみたいな生き物だ。

(サンキュータツオ『これやこの』より)




 その他のいちぶんがく


2023年9月27日水曜日

【読書感想文】吉村 昭 『関東大震災』

関東大震災

吉村 昭 

内容(e-honより)
大正12年9月1日、午前11時58分、大激震が関東地方を襲った。建物の倒壊、直後に発生した大火災は東京・横浜を包囲し、夥しい死者を出した。さらに、未曽有の天災は人心の混乱を呼び、様々な流言が飛び交って深刻な社会事件を誘発していく―。二十万の命を奪った大災害を克明に描きだした菊池寛賞受賞作。

 今からちょうど百年前に関東地方を襲った大地震。

 その直前、地震発生当日、そしてその後の関東の様子を描いたノンフィクション。




 大正12年9月1日午前11時58分に発生した大地震により、東京大学地震学教室の地震計の針が一本残らず飛び散り、すべて壊れてしまったという。ああいうのってだいぶ余裕を持たせて作ってるはずなのに。

 当時の建物は木造や石造りで耐震強度も低かったので、地震による揺れで多くの命が失われた。

 が、関東大震災の被害の多くは揺れが収まった後に発生した。

 地震発生後、附近の人々は続々と被服廠跡に避難してきた。かれらは、家財を周囲に立てて、その中に家族がゴザなどをしいて寄り集っていた。
 地震が正午前であったので、遅い昼食をとる者もあって広大な空地に避難できた安堵の色がかれらの表情に濃く浮んでいた。
 そのうちに近くの町に火災が起りはじめ黒煙もあがったが、不安を感じる者はいなかった。難者の数は時を追うにしたがって激増し、やがて敷地内は人と家財で身動きできぬほどになった。町々が徐々に焼きはらわれて、被服廠跡にも火が迫った。そして、火の粉が一斉に空地にふりかかりはじめると、一瞬、家財や荷物が激しく燃え出した。
 たちまち空地は、大混乱におちいった。人々は、炎を避けようと走るが、ひしめき合う人の体にぶつかり合い、倒れた者の上に多くの人々がのしかかる。
 炎は、地を這うように走り、人々は衣服を焼かれ倒れた。その中を右に左に人々は走ったが、焼死体を踏むと体がむれているためか、腹部が破れ内臓がほとばしった。
 そのうちに、烈風が起り、それは大旋風に化した。初めのうちは、トタンや布団が舞い上っていたが、またたく間に家財や人も巻き上げられはじめた。
 大和久まつさん(当時十八歳)は、眼前に老婆を背負った男がそのまま空中に飛び上るのを見たし、荷を積んだ馬車が馬とともに回転しながら舞い上るのも見た。

 これは……この世の地獄だな……。

 この被服廠跡では、35,000人ほどが死んだという。しかもこの人たちは地震で助かった人たち。地震で助かり、被服廠跡という広大な避難所に逃げてきて、一息ついていたところを火災旋風に襲われたのだ。

 地震で倒壊した建物の下敷きになって死亡するのは、ある意味しかたがない。不運でしかない。しかし、地震後に発生した火災による死については、正しい知識があれば防ぐことができたかもしれない。

 たとえば、火災の原因のひとつが避難者が持ち出した家財道具だったという。

 よく「地震が起きても家財道具を取りに家に戻ってはいけない」という。それは倒壊のおそれのある建物に入るのが危険というだけでなく、家財道具はそれ自体が危険を招くからだ。

 先に書いた被服廠跡でも、避難者が運びこんだ家財道具に火が付き、それが火災旋風の原因になったという(他に、当時の人が髪につけていた鬢付け油もよく燃えたそうだ)。

 また、家財道具が川を越えての延焼の引き金になったという。

 もともと河川は、広い道路や高架鉄道線路などと同じように火の流れを阻止する防火線の役目をもっていたが、その上に架かった橋が焼けることによって対岸へ火はのびた。
 神田区の俎橋や月島の相生橋は、燃えた舟が橋の下に流れてきて焼けたが、それは特殊な例で、大半が避難者のもつ荷物に引火して焼け落ちたのである。
 地震につぐ火災で、人々は炎に追われて道路を逃げまどった。と同時に、それは家財の大移動でもあった。
 当時の避難地の写真を見ると、どのようにして運び出したのかと思われるほど大きな荷物を背負った人の姿が数多く見える。馬車、大八車にも荷が満載され、人々は荷物の間に埋もれていた。辛うじて持ち出した家財の焼失を恐れるのは当然の人情だが、それらが道路、空地、橋梁などをおおい、その多量の荷物が燃え上って多くの焼死者を生むことになったのである。
 道路、橋梁が家財で充満したために、人々は逃げ場を失い、消防隊もその活動をさまたげられた。関東大震災の東京市における悲劇は、避難者の持ち出した家財によるものであったと断言していい。

 家財道具が燃え、その火が橋に移り、さらには対岸まで移って焼いたという。財産を守ろうとした行為がその人物だけでなく街まで焼き尽くしてしまうのだ。おそろしい。


 そういえば、数年前の大雪のとき、ノーマルタイヤで出勤しようとした人が途中で身動きとれなくなり車を置いて出勤 → 放置された車が道をふさいで緊急車両が通れなくなったという事件があった。

 自分の都合で動いた人が周囲に甚大な迷惑をかけてしまう。それでも自分だけはいいだろうと動いてしまう。人間の本性は百年たってもたいして変わらない。




 この本の中でいちばん多くのページが割かれているのが、地震直後に広がったデマ、特に「朝鮮人が日本人を襲っている、家から物資を掠奪している、井戸に毒を投げた」の類のデマだ。

 火のない所に煙は立たぬというが、後から検証しても、まったくといっていいほど「地震に乗じて朝鮮人が犯罪行為をした」という証拠は見つからなかったそうだ。

 いや、一応デマの原因となったような事件はあった。が、それをおこなったのは日本人だった。

 山口は、物資の調達が結局掠奪以外にないことをさとり、団員の中から体力に恵まれた者を選び出して決死隊と称させた。これらの男たちは、ただ騒擾のみを好む者たちばかりであった。いくつかの決死隊が編成され、山口は、かれらに赤い布を左腕に巻きつけさせ赤い布を竿にしばりつけさせて、物資の掠奪を指令した。
 かれらは、日本刀、竹槍、鉄棒、銃器などを手に横浜市内の類焼をまぬがれた商店や外人宅などを襲い、凶器をかざして食糧、酒類、金銭等をおどしとって歩いた。その強奪行動は、九月一日午後四時頃から同月四日午後二時頃まで十七回にわたって繰り返された。
 この山口正憲を主謀者とする強盗団の横行は、自然に他の不良分子に影響をあたえた。かれらは単独で、または親しい者を誘って集団で一般民家に押し入り、掠奪をほしいままにした。つまり横浜市内外は、地震と大火に致命的な打撃を受けると同時に強盗団の横行する地にもなったのだ。一般市民は、恐怖におののいた。かれらは、赤い腕章をつけ赤旗をかざした男たちが集団を組んで人家を襲うのを眼にし、凶器で庶民を威嚇するのを見た。市民には、それらの集団がどのような人物によって編成されているのか理解することは出来なかった。
 そうした不穏な空気の中で、「朝鮮人放火す」という風説が本牧町を発生源に流れてきただれの口からともなく町々を横行する強盗団が朝鮮人ではないかという臆測が生れた。
 日本人と朝鮮人は、同じ東洋民族として顔も体つきも酷似しているというよりは全く同一と言っていい。一般市民は、その臆測にたちまち同調した。そして、強盗団の行為はすべて朝鮮人によるものとして解され、朝鮮人の強盗、強姦、殺人、投毒などの流言としてふくれ上ったのだ。また朝鮮人土木関係労働者が二、三百名来襲の風説も、凶器を手に集団で掠奪行為を繰り返した日本人たちを朝鮮人と錯覚したことによって起ったものであった。

 地震後、火事場泥棒を働いたり、食糧や金品を掠奪したり、詐欺をしたりする者が多くいたという(日本人だ)。その話と、当時多くの日本人がうっすらと持っていた「虐げている朝鮮人に復讐されるんじゃないか」という不安が結びつき、朝鮮人が残虐な行為をしているというデマとなりあっという間に広がった。

 地震発生直後は警察や政府までがそのデマを広めることに加担した。後に虚偽の情報だとわかってからは警察や政府がデマの打ち消しにつとめたが、いったん広まったデマはいっこうに消えず、数万人の朝鮮人が殺される、朝鮮人とまちがわれた日本人が殺される、朝鮮人を捕まえない警察が襲われる、など大混乱に陥った。

 一度デマが広まってしまうと、デマをばらまいた本人にも止められなくなってしまうのだ。

 この光景は、今でもよく見られる。いや、今のほうが多いかもしれない。一度誤った情報が流れてしまうと、当人がいくら訂正してもいつまでも修正されない。平凡な事実よりも、ショッキングなデマのほうが広めたくなるから。

 地震発生後の混乱の様子を読んでいておもうのは、百年前の人も、現代人も、たいして変わらないなってこと。今、大地震や大火災が発生したら多くの人がデマに飛びつくだろう。東日本大震災のときも新型コロナウイルス騒動のときもそうだった。不確かな情報に右往左往していた。ぼくも含めて。




 ちなみに、このデマによる大混乱はその後の新聞報道にも影響を与えたようで……。

 大地震発生後新聞報道は、たしかに重大な過失をおかした。その朝鮮人来襲に関する記事は、庶民を恐怖におとしいれ、多くの虐殺事件の発生もうながした。その結果、記事原稿の検閲も受けねばならなくなったのだ。
 しかし、それは同時に新聞の最大の存在意義である報道の自由を失うことにもつながった。記事原稿は、治安維持を乱す恐れのあるものを発表禁止にするという条項によって、内務省の手で徹底的な発禁と削除を受けた。
 政府機関は、一つの有力な武器をにぎったも同然であった。政府の好ましくないと思われる事実を、記事検閲によって隠蔽することも可能になったのだ。

 新聞がデマの拡散に加担したことで、政府機関による記事原稿の検閲を許すこととなった。「新聞はデマを拡めるから治安維持のために検閲してもいい」という大義名分を与えちゃったわけだ。

 その後、戦争が激化するにつれて新聞報道に対する検閲が厳しくなり、政府や軍にとって都合の悪いことが書けなくなったのはご存じの通り。

 もしかすると、関東大震災によるデマ拡大がなければ、新聞のチェック機能がもうちょっとはたらいて、その後の破滅的な戦争ももうちょっとマシな展開をたどっていたのかもしれないなあ。


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【読書感想】小松 左京『日本沈没』

阪神大震災の記憶



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2023年9月26日火曜日

小ネタ

憶測

 まったく知らないけど、なでしこジャパンは11人中9人は兄がいるとおもう。

 裏付けはまったくないけど、女の子がサッカーをはじめるきっかけは「兄が習っているサッカー教室に連れていかれて」が圧倒的に多いにちがいない。


教科書に載ってないこと

 「教科書に載ってないこと」は、「教科書に載ってること」を身につけてないやつほど知りたがる。


タレント候補

「タレント候補」とは、タレントが候補者になったものではなく、タレントになるかもしれない人のことである。同様に、あわぶくになるかもしれない人が「泡沫候補」である。


十二年に一度

Q. 十二年に一度、使用頻度が急増する四字熟語は?

A. 猪突猛進




2023年9月22日金曜日

胃カメラ上手

 はじめて胃カメラをやった。

 これまで健康診断ではバリウム検査をやっていたのだが、あのゲップを我慢しながらぐるぐる回される刑罰(としかおもえない)や、その後の下剤や、その後のバリウムかちかち石膏ウンコなどが嫌になったので、今年は胃カメラにしてみたのだ。


 胃カメラは痛いよ、苦しいよ、と聞かされていたのでびびりながら検査を受けてみた。

 結論からいうと、胃カメラ検査は、楽しかった。


 まず看護師さんがよかった。

 年齢は六十歳ぐらい、小太りをやや超えて中太りぐらい、声がでかくて元気のいいおばちゃん、つまり「ザ・ベテラン看護師さん」タイプだ。

 ふだんは若い女性に鼻の下をのばしてしまうぼくだけど、こと看護師さんと鍋釜に関しては古いほうがいい。きっとこのおばちゃん看護師は、あらゆる死線をくぐってきた百戦錬磨の老兵にちがいない。安心して胃を任せられる。


 そして、胃カメラ担当の医師が妙に陽気な人だった。なんだかわからないけど、胃カメラを入れることを楽しんでいるというタイプだった。

 この人がぼくの鼻に胃カメラを押しこみながら「はい奥に入っていくよ~、ちょっと力入ってるね~、おっと力抜けたね、いいよ、上手だよ~、はい、食道とおりま~す、それから胃、まもなく十二指腸が見えてきま~す、もうまもなくいちばん奥に達しますよ~」とハイテンションでガイドをしてくれるのだ。まるで観光バスのバスガイド。もしくは遊園地のアトラクションのナビゲーター。これから楽しいイベントが待ち受けているかのように胃カメラの旅を盛り上げてくれるのだ。

 じっさい、なんだか楽しくなってくる。眼の前にはモニターが置かれていて、胃カメラがぼくの体内を旅する様子が確認できる。ドラえもんのエピソードで、ママの大事な指輪を飲み込んでしまったしずかちゃんの体内に小さくなったドラえもんとのび太が入っていくというエピソードがあるが、それをおもいだす。USJとかのアトラクションで『ミクロの決死圏』として胃カメラ検査をやってもいいかもしれない。


 もちろん鼻にチューブをつっこまれるのは痛かったし人前でよだれをだらだら垂らすのは人間の尊厳を失わしめるものではあったが、苦痛を上回るワクワクドキドキをナビゲーター医師が与えてくれた。

 あの医者に個人的ノーベル医学生理学賞を贈呈したい。



2023年9月21日木曜日

G

「助けて! 部屋にアレが出たの!」

 「アレ?」

「ほら、Gよ、G! 口にするのもイヤな虫!」

 「ガ? ギンヤンマ? グンタイアリ? ゲンゴロウ?」

「そうじゃなくて、ほら、ゴで始まるやつ! でもゴミムシでもなくて、ゴマダラチョウでもなくて、ゴマダラカミキリでもなくて、ゴマシジミでもゴマダラベニコケガでもゴマフリドクガでもゴマフシロキバガでもゴンズイノフクレアブラムシでもない、チャバネとかワモンとかモリチャバネとかヒメチャバネとかの種類がある、網翅類の昆虫!」

 「そんなに詳しいのに名前を呼ぶのもイヤなんだ」


2023年9月15日金曜日

【読書感想文】小笠原 淳『見えない不祥事 北海道の警察官は、ひき逃げしてもクビにならない』 / 取材は〇だけど

見えない不祥事

北海道の警察官は、ひき逃げしてもクビにならない

小笠原 淳

内容(Amazonより)
全国で警察不祥事が相次ぐ中、骨太の報道記者がその隠蔽体質を暴露していく。北海道警察に公文書の開示請求を行い、それを発表してきた著者の書き下ろし。『週刊現代』(17年3月)や『文藝春秋』(17年4月)でも取り上げられ、注目の著者。サブタイトルの、「北海道の警察官は、ひき逃げしてもクビにならない」は、取材の過程で遭遇した事件によるもの。

 ルポルタージュはこれまで数多く読んできたけど、これはその中でもダントツでひどい文章の本だった。

 北海道警の隠蔽体質を追った本なのだが、合間合間にどうでもいい記述が並んでいて読みにくいことこの上ない。取材の間に著者が何を食ったとか、どの店に行ったとか、店の様子はどうだったとか、どれだけ酒を飲んだかとか、資料を集めた日の天気がどうだったとか、くそどうでもいい情報がちりばめられている。しかもまったくおもしろくないし。こっちは道警のことを知りたいだけで、記者にはまったく興味がないんだけど。

 あげく、自分の癖はペン回しだと語りだし、ペン回しのやり方について細かく描写しだしたときは「これはいったい何を読まさせられてるんだ……」と本を置きたくなった。

 ルポの合間に取材過程についての情報を入れる手法、ちょっとぐらいならリアリティや臨場感を高めてくれて効果的なんだけど。でもこの本はやりすぎ。なんなら著者の日記の間にルポがはさまってるぐらい。

 取材の内容はよかっただけに、文章がとにかく残念。ふだん記者として自分のことを書けない分、自分について書きたいという気持ちが爆発しちゃったのかなあ。



 不要な文章が多すぎたのでとばしとばし読んだのだけど、中身はわりと骨のあるルポルタージュだった。地道な取材、惜しまぬ努力、人の懐に入る技術。取材力は高いようだ。

2017年8月現在、北海道では道職員の「懲戒処分」を原則全件公表しているが、警察職員のみは唯一それを逃れ、多くのケースを封印することが許されている。さらに、懲戒処分に至らない「監督上の措置」といわれる内部処理があり、この対象となる不祥事は懲戒の6倍から7倍に上っているが、これらに至ってはそもそも公表を想定されていない。日常的に事件・事故の容疑者や被害者の個人情報を発信している役所が、自分たちの不祥事に限っては頑なに発表を拒み続けているのだ。

 ひき逃げ、横領、窃盗、詐欺、証拠隠滅、未成年者への猥褻行為……。北海道警では数々の不祥事が起こっているが、その多くが懲戒処分ではなく「監督上の措置」となっている。さらに事件は記者クラブに公表されず、情報公開請求をした人に対しても所属や氏名を隠してしぶしぶ公開する……。

 とにかく身内に甘いのが北海道警だ。もはや犯罪者集団だ。


 なぜ情報公開をしないのかと求められた北海道警は、人物が特定されることで当人のみならず家族までが悪意のある嫌がらせに遭う危険性があるからだ、と回答する。

 それ自体は決しておかしくない。犯罪事件の加害者にだって人権はある。

 が、問題は、なにかやらかしたのが警察官でなければ氏名や住所や職業を道警は平気で公開することだ。

 目の前の『メモ』を手に、私は委員全員を見まわしながら訴えた。
「この当事者が捕まってどういう処分になったのかは、知らないです。裁判になったのか、あるいは責任能力がないというので保護されたのか......。わからないですが、いずれ責任をとるわけですね。そういう人が、たとえばこれから先、「就職しよう』とか、『お母さんと一緒にまた別の場所に住もう』となった時に、自分の名前であるとか住所とかがこうやって拡散されたままだったら、当然そういう権利を失うというか、不自由な暮らしになるだろうと。実際この人の名前をインターネットに打ち込むと、今でも検索できてしまう。事件がわかってしまう」
 気のせいかもしれないが、委員の1人が小さく頷いたように見えた。
「ここで言いたいのは『逆じゃないか』と。警察というのは、一般の道民に較べて非常に大きな権限を持ってるわけですね。法律に基づいて人を捜査したりとか、家宅捜索とか差し押さえとか。たいへん大きな権限を持って仕事にあたってる以上は、仕事に対する責任も普通の人以上にあるんじゃないか。だから、そういう人たちの個人情報を出して一般の道民の情報を隠すのであればわかりますが、やっていることは逆なんです」

 他人には厳しく身内には甘い。典型的なダメ組織だ。


 ふつうの感覚は逆だろう。暴力を含め民間人以上に強い権限を持つ警察官の不祥事は、民間人よりも厳しく罰し、法や規則に背く行為があれば広く公開しなければならない。

 ところが道警はその逆をする。


 以前、稲葉 圭昭『恥さらし』という本を読んだ(→ 感想)。北海道警の現職警察官が暴力団と手を組み、麻薬の密輸を手助けしたり、罪を見逃したり、逆に範囲を持っていなかった市民に罪を押し付けたりしたというとんでもない事件だ。

 こんなひどい警察官がいたのか……と読んでいておそろしくなったのだが(その警察官が著者なので書かれていることはまず真実と見てまちがいないだろう)、もっとおそろしかったのはその事件が明るみに出た後の道警の対応だ。

 なんと、当時の上司や幹部たちはそろいもそろって知らぬ顔をして、罪をひとりに押し付けたのだ(ひとりは自殺している)。あたりまえだが、警察官たったひとりでそれだけのことができるはずがない。上司たちも知っていたはず、百歩譲っても「あいつはおかしい」と気づいていたはずだ。

 が、彼らはそろいもそろって「隠し通す」道を選んだ。他の警察官も、裁判所も、それを許した。

 そのとき、きちんと事件の全貌を暴いていたなら、その後の不祥事隠蔽体質はもうちょっとマシになっていたかもしれない。




 北海道警と聞いておもいだすのはヤジポイ事件(Wikipedia 第25回参議院議員通常選挙#首相演説での聴衆排除)だ。一部の政党に対するヤジだけを通例を超えて厳しく取り締まる、という北海道警の姿勢が招いた事件。

 ああいうことをしたのも、権力者にしっぽを振らないといけないようなことをしているからなんだろう。だって法に従ってまっとうに仕事をしていたら、わざわざ政府にこびへつらう必要がないもの。後ろ暗いところがあるから必要以上に権力者におもねるのだろう。


 警察官や裁判官みたいに「正義の番人」をやっている人たちはきっと正義感が強いのだろう、となんとなくおもってしまう。

 でもそれは逆で、正義という後ろ盾があるほうが人は不正に走りやすい。

 正義のデモをしたり、市民のための政治をしたり、動物や地球環境を守ろうとしたりする人が不正に手を染めるのはよくある話だ。それは正義というお題目があるから。

 ダン・アリエリー『ずる 噓とごまかしの行動経済学』によれば、人は自分のためよりも他人のためにやるほうが悪事をしやすくなるらしい。「チームのため」「会社のため」「政党のため」とおもうと、言い訳がしやすくなるから。

「外国に行って好きなだけそこの人たちを殺してきてもいいですよ」といってもたいていの人は実行しないだろうが、「祖国、愛する家族を守るためにともに戦おう!」という“正義”があれば会ったこともない人を殺すことができる。

 また、他人の悪事を目撃した後は不正に走りやすくなるという。

 それでいうと、警察官という職業はかなり不正に向かいやすい職業だ。警察官個々人に問題があるというより(そういう人もいるが)、どちらかといえば構造的な問題だ。であれば、過去の不祥事を積極的に公開するなど不正を防ぐための制度設計が必要になる。不正に向き合うことは改善のための第一歩で必要不可欠なものだから

 しかし……。

 残念ながら北海道警にそれをする気は今なおなさそうだ。


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【読書感想文】正しい人間でいたいけどずるもしたい / ダン・アリエリー『ずる 噓とごまかしの行動経済学』



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2023年9月12日火曜日

【読書感想文】サンキュータツオ『これやこの サンキュータツオ随筆集』 / 熱意がありすぎて引く

これやこの

サンキュータツオ随筆集

サンキュータツオ

内容(KADOKAWAオフィシャルサイトより)
「記憶を語り継ぐことだけが、師匠たちを死なせない唯一の方法だ――」
学者で漫才師(米粒写経)のサンキュータツオによる、初めての随筆集。著者本人の人生をたどり、幼少時から今までの「別れ」をテーマに綴った傑作選。キュレーションを務める「渋谷らくご」でお世話になった喜多八、左談次の闘病と最期、小学生の頃に亡くなった父との思い出、そして京都アニメーションの事件で生きる気力を失ったサンキュータツオ自身の絶望と再生……。自分の心の奥に深く踏み込み、向き合い、そのときどう感じたのか、今何を思うのかを率直に描き出す。これまで「学問×エンタメ」を書いてきた著者の新境地!

 マキタスポーツ、プチ鹿島、サンキュータツオ三氏のやっている『東京ポッド許可局』がおもしろくて、毎週聴いている。

 三人ともぼくより少し上の世代なのだが、そのおじさんたちが語るほどよく力の抜けた会話がたいへん耳心地いい。酒場での、おもしろいおっちゃんたちの会話を盗み聞きしている感覚。編集も入っているのだろうが、それを感じさせないほど自然なおしゃべり。

 で、その番組の中でのサンキュータツオ氏の役回りは、進行役、常識人、理屈屋、といったところだ。要は“ツッコミ役”。ともすれば悪ふざけが暴走しがちなマキタスポーツ、プチ鹿島両氏に対するストッパー役を担っているのだが、オタク気質なので自身の関心のあることに関しては熱く持論をふりまわすこともあり、逆にツッコまれることもある。

 ぼく自身も、理屈っぽい偏屈な人間だと自覚しているので、三人の中ではサンキュータツオさんにいちばん親近感を抱いていた。そんなタツオさんがエッセイ集を出しているということで、読んでみた。



 ううむ。

 これは、著者のオタク気質が悪い風に出ているな。

 特に表題作『これやこの』。柳家喜多八、立川左談次というふたりの落語家が癌と闘いながら高座に上がり続けた晩年をつづったものなのだが……。

 とにかく、筆者からのふたりの師匠に対する熱を感じる。それはいい面もあるのだが、どちらかといえば空回りしているようにぼくには感じられた。

 というのもぼくは落語はたまに聴くものの上方落語専門で、柳家喜多八、立川左談次というふたりの落語家に関しては噺を聞いたことどころか名前すら知らなかった。そんな人たちの晩年の姿を「いや、とにかくかっこよかったんですよ!」と熱く語られても、サンキュータツオさんがそのふたりを敬愛していることは伝わってくるが、肝心の“柳家喜多八、立川左談次という人たちがどれほどすごい人だったのか”はいまいち伝わってこない。むしろ、こちらが引いてしまうというか。

 ほら、あるでしょう。オタクの人が愛する作品について熱弁していて。それが熱が入りすぎていて、作品を見てみたいとおもうどころか、逆に「いやあなたの語りを聞いているだけで充分おなかいっぱいになってしまったのでもういいです……」みたいな気持ちになることが。まさにあれ。

 要は、気持ちが入りすぎてるんだよね。

 ノンフィクションとかルポルタージュって、対象に対する情熱が大事なんだろうけど、それと同時にちょっと醒めた視点も必要だ。のめりこみすぎないというか。一歩引いたところから、まだそれほど興味を持っていない読者の傍らに立ってくれるのがいいノンフィクションだ。

『これやこの』には、とにかく強い情熱だけがあって、喜多八、左談次を知らない人に読ませるだけの客観性が欠けているように感じた。

 たぶん、生前の喜多八、左談次をよく知っている人が読めば胸を打つんだろうけど。ファン向けエッセイ。



 表題作『これやこの』以外にも、亡くなった知人についてつづったエッセイが並んでいる。こちらは、対象に対する思い入れがそこまでないせいか、ほどよく肩の力が抜けていて読みやすかった。

 昔バイトをしていた店の主人、バイト先で知り合った人、親戚のおばさんなど、「泣いて悼むほどではないけどいなくなったらやっぱり寂しい」人たちとの別離が書かれている。


 ただこれも、一篇一篇はいいエッセイなんだけど、死を扱ったエッセイがこれだけ続くと、ひとりあたりの死の重みが小さくなるというか、「もういいよ」という気持ちになってしまう。

 ごくたまにあるからこそ一人の死が胸にせまってくるわけで、この人も死んだ、あの人も死んだ、この人もやっぱり死んだ、というエッセイを立て続けに読んでいると、次第に感覚が鈍っていくのを感じる。

 もっと雑多なテーマについて書かれたエッセイ集を読みたかったなあ。




 著者がバイト先で知り合った“石井さん”に関する話。
  だんだん見えてきた。どうやら石井さんは毎週月曜日に寄席の定点観測をしており、それはどういう演者が出るとか、どれくらいお客さんが入るかとか、そういうことをまったく気にせず、ただ出てくるものを聴く。演者の力を細部から推しはかる。それが古典であろうと新作であろうと、描写は人物造形や解釈に至るまで、つぶさに観察していた。好き嫌いを持ち込まずに、ただただ聴き続けるというスタイルだ。
 そしてそれは映画に関してもおなじだった。一定の量を浴び続ける。悪いものも良いものも、とりあえず先入観なくなんでも鑑賞した。すべてを許容するということはないが、こうでなければいけないという哲学をこしらえて頑なになるのではなく、いくつかの哲学の並存を認めていた。
 石井さんが落語を語るとき。それはまるでソムリエではないワイン好きがワインを片っ端から飲んで語るような、専門家だがそれを職としていない、堅苦しさからは解放されたような語り方だった。一言でいえば、自分ではいかなる介入もしないことを心に決めた「観察者」「見届け人」だった。落語の未来は暗かった。おそらくこのまま先細って滅びていくであろうことが想像できた。それでも期待せず、だが見捨てもしないという覚悟でずっと動向を追い続ける介添人のような存在だった。

 この“石井さん”の趣味に対する接し方は、ぼくが読書をする上で心掛けていることに近い。

 ぼくは、なるべく幅広いジャンルの本を読みたいと考えている。できることなら、出版社も著者名もレビューも一切気にすることなく、もっといえばジャンルも気にすることなく、「星の数ほどの本の中からまったくランダムに手に取った本を読む」みたいな読み方にあこがれる。

 なぜなら「まったく期待せずに偶然的な出会いをした本がめちゃくちゃおもしろかった」という体験こそが、読書をする上で至高の瞬間だからだ。自分の世界の枠組みをぐぐっと拡げてくれるような読書体験をしたいと常々考えている。


 とはいえ現実的に時間は有限で、ハズレの本を引きたくないという欲望もあるから、ついつい知っている著者の本を手に取ってしまうし、レビューサイトを見て評判の高い本を優先的に読んでしまう。

 そうすると、たしかにハズレを引く可能性は低くなるんだけど、「こんな世界もあったのか!」という驚きは小さくなってしまう。

 この石井さんのように「とりあえず先入観なくなんでも鑑賞した」とまではいかなくても、たまにはまったく未知のジャンルにも手を伸ばす懐の広さを持っていたいな。


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2023年9月11日月曜日

名前三題

 呼ばれ方

 名字が平凡+下の名前がちょっとめずらしくて呼びやすい響き、ということで学生時代はずっと下の名前で呼ばれていた。

 自分がそうだったのであまり気づかなかったのだが、「みんなから下の名前で呼ばれている人」や「みんなから同じあだなで呼ばれている人」って、人見知りする人からすると困る存在だったりする。

 あんまり親しくないクラスメイト(仮に鈴木イチローとしよう)を呼ぶとき、「鈴木」や「鈴木くん」はわりとすんなり呼べるが、はじめて「イチロー」と話しかけるのはちょっと勇気がいる。「自分ぐらいの関係性でイチロー呼ばわりしていいのだろうか。なれなれしいやつとおもわれないだろうか」と考えてしまう。かといってみんながイチローって呼んでるのに自分だけ鈴木くんっていうのも妙によそよそしい感じがするよな、とあれこれ考えてしまい、結局「なあ」「ねえ」みたいに熟年夫婦みたいな呼びかけをしてしまう。

「みんなから下の名前で呼ばれている人」「みんなから同じあだなで呼ばれている人」はビギナー向けではない。中級者以上にとっては親しみやすいのだが。



ファーストネーム

 海外企業のウェブサービスなんかを使うと、フォームで「First Name」「Family Name」を記入することを求められる。

 そのたびに「First Name って名字と名前どっちだっけ?」となる。「ええと、Family Name は家族の名前だから名字だな」あるいは「ええと、Firstだから先で、英米だと下の名前が先だから、下の名前か」と考えてやっと答えにたどりつく。

 First も Family も両方 F ではじまるからややこしいのだ。ぱっと見て違う単語にしてほしい。

 また「Family Name」ではなく「Last Name」のときもあり、どっちかに統一してほしい。

 でもきっと漢字圏以外の人間も同じようなことをおもっているだろうな。「開ける」「閉める」が正反対の意味なのになんで似てるんだよ! とか、「買」と「売」は逆の意味なのにどうしてどっちも「バイ」と読ませるんだよ! とか、「名字」と「苗字」と「姓」のどれかに統一しろよ! とか。日本人でもおもう。



名前のうちの名前のほう

 姓と名を区別して言いたいとき、姓のほうは「姓」「名字」と言えばいいが、名(姓じゃないほう)だけを指す適切な呼び方がない。「名前」も「名」も、姓を含む意味のことがあるからだ。しかたなく「下の名前」と、どうも歯切れの悪い呼び方をしている。さっきから何度も「下の名前」と書いているが、そのたびにもっといい言い回しはないものかとおもう。「オノ・ヨーコの夫の下の名前」と言われても、レノンなのかジョンなのかよくわからない。

 一語でずばっと言い表す言葉はないものか。「下の名前」と「下の“を”(あるいはむずかしいほうの“を”」はいいかげんなんとかしてほしい。

 上位の概念(姓+名)と下位の概念(姓を含まない名)がどちらも「名前」なのがよくない。

 ついでにいえば「ごはん」「飯」もそうだ。上位の概念(食事)と下位の概念(米を炊いたもの)がどちらも同じ呼び名である。さらに「ごはんにする」「飯にする」と動詞化したりもする。「白飯」という呼び名もあるが、それだと炊き込みご飯が含まれない。

 ちなみにこれは個人的な感覚だが、炊き込みご飯や赤飯や牛丼の下の部分は「ごはん」だが、チャーハンやパエリアは(下位の概念としての)「ごはん」という感じがしない。ごはんではあるがごはんではない。



2023年9月7日木曜日

【創作】死なない世界

 医療技術の発達により身体や脳が衰えることはなくなった。事故や他殺や自殺以外で死ぬことはなくなった。ほぼ不老不死だ。


 問題は人口が増えることだ。ほとんど死なないのだから。

 人が増える。困る。土地や食料や資源は有限なのだから。誰か死ねよ。じゃあおまえが死んだらどうだ。いや、おれはいやだよ。おれより先に死んだほうがいいやつがいるだろ。おれが死ぬとしても、それより後だろ。

 誰も「私が死にますよ」と言わない。「自分以外の誰かが」とおもうだけだ。ゴールデンウイークに渋滞に巻き込まれて「なんでこんなに人が多いんだ!」と怒る人と同じだ。


 しかたない、これ以上増えないようにしよう。厳しい産児制限。事故や自殺で死んだ分だけ産んでもいいことにする。

 人口構成比はものすごくいびつになる。ほとんどが高齢者。それも元気な高齢者。若者はごくごくわずかだ。

 富も権力も高齢者が独占している。あたりまえだ。なにしろ何百年も生きていて、頭も肉体も元気なのだ。稼ぐ方法、権力を手にする方法を熟知しているし、金は資産のある者のところにどんどん集まる。何百年もビジネスをしている資産家と新社会人がビジネスの場で勝負になるはずがない。

 したがって、嫌な仕事はすべて若い連中にまわってくる。法律も制度も若い人に不利にできている。若いやつらは数が少ないので太刀打ちできない。産児制限されているから増えようもない。

 形だけは民主主義が保たれている。だがあくまで形だけ。人口のほとんどが年寄りなのだから年寄りに支持されている政党が勝ち、年寄りに有利な法が作られる。政権交代は起こりようがない。世代交代も。



2023年9月6日水曜日

こばかにされる教師たち

 中学校でも嫌われている先生はいたが、高校になるとそれがちょっと変わった。

 嫌うんじゃなくてこばかにするようになった。


 言ってみれば、中学時代の嫌われている先生は陰で「ヤマシタのやつ、むかつくよなー」って言われる感じだったのが、高校でこばかにされる先生は「ヒデコちゃんがまたとんちんかんなこと言ってたよ。かわいそうに」みたいな扱いだった。

 中学では、嫌われながらも一応目上の存在だったのが、高校では明らかに格下になっていた。

 こばかにするようになって、「あの先生むかつく」という感覚はあまりなくなった。なぜなら格下だから。

 ナメクジがいるじゃん。ナメクジが好きな人はあんまりいないとおもうんだよね。でもナメクジにむかつくことってまずないでしょ。なぜなら圧倒的に格下だから。ゴキブリみたいに素早く動いたりもしないし、蚊みたいに刺してきたりもしないし。人間様が負ける要素がひとつもない。だから、嫌だなとはおもうけど、おびえたり憎んだりはしない。高校においてこばかにされる教師はそんな存在だった。ナメクジに例えるのはさすがに失礼だけど。


 また、中学校では「怖い先生」が嫌われることが多かったけど、高校に入ると嫌われるタイプが変わった。

 そこそこの進学校だったこともあってか「頭のいい先生」「教えかたがうまい先生」が生徒から敬意を持たれていて、そうでない先生がこばかにされてた。

 体育教師なんかはその典型だった。もちろん敬意を持たれている体育教師もいたが、それは「生徒に対して対等に近い立場で関わろうとする教師」で、軍隊の上官のような態度で接してくる教師は例外なくこばかにされていた。

 高校生ともなれば、肉体的な強さでは大人に負けていない。教師が過度な体罰をできないこともわかっているので、大声を出すタイプの教師はそんなに怖くない。むしろ「理性をコントロールできないあわれなやつ」としてこばかにされる。

 こばかにしていることが伝わるのだろう、体育教師のほうはなんとかして優位に立とうと理不尽に怒る。理不尽に怒ることで「理性的に会話ができないあわれな大人」としてますますこばかにされる。


「こいつは自分より数段頭が悪いくせにいばってるな」ということがわかってしまい、こばかにするようになるのだ。

 そう、ちょうどレベルの低いポケモントレーナーの言うことをポケモンが聞かないのとおんなじで。



2023年9月4日月曜日

【読書感想文】大竹 文雄『競争と公平感 市場経済の本当のメリット』 / 自由競争も弱者救済も嫌いな国民

競争と公平感

市場経済の本当のメリット

大竹 文雄

内容(e-honより)
日本は資本主義の国のなかで、なぜか例外的に市場競争に対する拒否反応が強い。私たちは市場競争のメリットをはたして十分に理解しているだろうか。また、競争にはどうしても結果がつきまとうが、そもそも私たちはどういう時に公平だと感じるのだろうか。本書は、男女の格差、不況、貧困、高齢化、派遣社員の待遇など、身近な事例から、市場経済の本質の理解を促し、より豊かで公平な社会をつくるためのヒントをさぐる。


 導入は「市場競争はいいのか悪いのか」「政府はどこまで市場に介入すべきか」「なぜ日本人は海外と比べて自由競争を嫌う傾向があるのか」なんて話でけっこうおもしろかったのだが、本題に入ると話があっちこっちにいってしまう。

 個々の話はけっこうおもしろいんだけど、『競争と公平感』というタイトルとはほとんど関係のない話も混ぜられていて、どうも散漫な印象。

 ワンテーマでくくる新書ではなく「経済学者のおもしろコラム集」みたいな感じで出せばよかったんじゃないかな。



 日本人は自由競争が嫌いなんだそうだ。

「貧富の差が生まれるとしても、市場による自由競争によって効率性を高めたほうがいいか?」という問いに対して、賛成する人の割合が日本は他国と比べて極端に低いという。

 極端なことをいえば、「金持ちになれる人からなっていこう」よりも「みんな同じくらいに貧しい」ほうがマシ、と考える人が日本には多いのだ。

 ぼくもわりとそっち側なので、気持ちはわからなくもない。「自分は100円得するけど金持ちが大きく得をする」政策と「自分は100円損するけど金持ちは大きく得をする」政策があったら、後者を選びたくなる。冷静に考えれば前者のほうがぜったい得なんだけど、でもどっかの誰かが得をしていることが許せない、というひがみ根性がある。

 これはわりと生来的な感覚なんじゃないかとおもう。子どもを見ていても「自分が損をしたこと」ではなく「他の誰かが得をしたこと」に怒っている。自分がお菓子を買ってもらえなくても怒らないけど、妹だけが買ってもらってたら激怒する、みたいに。

 だからぼくの正直な感覚としては「日本人はなぜそんなに不平等を嫌うのだろう?」というより「諸外国はなぜそんなに不平等を許せるのだろう?」なんだよな。

 とはいえ日本人もすべての不平等を憎むのではなく、努力などで富を手にした人のことはわりと素直に認めるようだ。

 日本人は「選択や努力」以外の生まれつきの才能や学歴、運などの要因で所得格差が発生することを嫌うため、そのような理由で格差が発生したと感じると、実際のデータで格差が発生している以上に「格差感」を感じると考えられる。また、日本の経営者の所得がアメリカのように高額にならないのは「努力」を重視する社会規範があるためかもしれない。一方、学歴格差や才能による格差を容認し、機会均等を信じている人が多いアメリカでは、実際に所得格差が拡大していても「格差感」を抱かない。こうしたことが、日米における格差問題の受け止め方の違いの理由ではないだろうか。つまり、所得格差の決定要因のあるべき姿に関する価値観と実際の格差の決定要因とに乖離が生じた時に、人々は格差感をもつのだろう。

 たとえば大谷翔平選手に関する報道を見ていると「彼はこんなに努力をしている」「彼は学生時代から一生懸命夢を追い続けて、高い志を持って、日々鍛錬を重ねてきた」という記事が多い。たぶん、そういう報道を見ることで、日本人は大谷選手が稼ぐことを“許して”いるんだとおもう。

 大谷選手が努力をしてきたことはまちがいないが、じゃあそれだけで彼があそこまでの選手になれたのかというと決してそんなことはない。持って生まれた身体、健康状態、家庭環境など“生まれ持った幸運”によるものも大きい。すべての野球少年が大谷選手と同じだけの努力をしたら同程度のプレイヤーになれるのかというと、それはまちがいだ。

 でも我々は彼の幸運には目をつぶり、「大谷選手は努力をしてきたから高額報酬を手にする資格がある」と“許す”ことにする。


 なんのかんのといって企業が採用時に学歴を重視するのも同じことかもしれない。「彼は東大を出ている。ということは彼は学生時代に人より努力をしたのだ。だから彼はその努力に見合うだけの報酬を手にする資格がある」と考える。



 日本人が努力を重視すること自体は悪いことではないかもしれない。しかし問題は、えてしてそれが「成功しなかった人は努力が足りなかったからだ」という誤った結論を導き出すことにある。

 日本人は他国の人に比べて「貧しい人の面倒を見るのは国の責任である」と考える人の割合が極端に少ないのだそうだ。「あいつが貧しくなったのは努力が足りなかったから、自業自得でしょ」となるわけだ。

 だから、生活保護をもらうことを避けたり、その反動かもらっている人に対する風当たりが強かったりする。

 日本人は親切なんていうが、あれは「身内と認定した人には親切」であって、見ず知らずの他人を救いたくないという気持ちは強い。なにしろ国が率先して「自助、共助、公助」なんていう国だ。


 国民の経済的豊かさを引っ張り上げるためには「市場による自由競争によって効率性を高める。結果として貧富の差は拡大するが、セーフティネットを強化するなど国による貧困対策で資産を再分配することで差を縮める」がいちばんいい方法なのだろう。

 が、「ほんとに自由な競争が嫌い」「見ず知らずの困っている人を国が救うのが嫌い」という国民性では、なかなかそれが実行できない。

 日本の経済的衰退の要因のひとつかもしれない。



 日本は人の育成に金をかけない国だと言われている。

 国家支出における教育費の割合が他国よりもずっと小さい。

 なぜなら、教育の恩恵を受けられない老人世代の声がでかいから。

 投票者の高齢化は、政治に大きな影響を与える。年金、医療、教育といった年齢別にその利害が異なる政府支出は多い。中位投票者が高齢化するにつれて、政府支出の中身は、年金・医療・福祉といった高齢者がより需要するフトしていく可能性が高い。
 高齢者向けの政府支出が政治的理由で増えていくことのデメリットは、そのために人的資本への投資が少なくなることで、経済成長に悪影響を与えることである。また、高齢者向けの歳出をまかなうために、税や社会保険料が高くなると、勤労世代の労働意欲を低下させる可能性もある。

 今後もどんどん高齢化してゆく。そうなると、ますます政治家は高齢者の言うことを聞いて、教育費を削ってゆくことになるのだろう。そして若い人が貧しくなり、少子化は加速し、さらに年寄りが増え、年寄りが嫌いな教育費はどんどん削られてゆく……。

 この流れが止まることはあるのだろうか。年寄りだけが死んでゆく伝染病が大流行しないかぎり、そんな世の中を見ることはできないかもしれない(そのときにはぼくも死んでいるのでどっちみち見られない)。


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