2018年10月31日水曜日

折り畳み傘を持たないタイプの人間は……


  折り畳み傘を持たないタイプの人間は……

好きな人に面と向かって告白できる。

結婚式で心から祝福の拍手を贈ることができる。

カラオケで盛りあがれる。

美容師との会話がはずむ。

貯金が好きじゃない。

貯金よりバーベキューのほうが好き。

つらいことを人に相談できる。

小型犬を見てかわいいと言う。

バンジージャンプをしてみたい。

自撮り写真を持っている。



ぼくは折り畳み傘をいつも持ち歩いている。


2018年10月30日火曜日

正午きっかりにお弁当の女



新幹線に乗っていた。

隣の席の女の人が袋からお弁当を取りだし、箸を割った。

なにげなく時計を見ると正午だった。
携帯電話を開く。
0:00
ジャスト12時。

この人、きっかり12時になるまで待っていたのだろうか。
12時になったらお弁当を食べる女。12時になるまで決してお弁当を食べない女。なんだか怖い。

お腹すいたな、でもまだ11時42分。あと18分。
そろそろかな。あと4分か。
あと10秒。9、8、7、6、5、4、3、2、1、さあ食べよう。

何事もきっちり時間通りにしないと気が済まない人なのだろうか。
しかしここは新幹線だぞ。ちょっとぐらい旅行気分に浸ってもええんじゃないか。
ぼくなんか出張なのに前の日から新幹線の中で食べるおやつを買ってたんだぞ。それぐらい新幹線は気持ちを弛緩させるというのに。

仕事がら規則正しい生活を余儀なくされてる人だろうか。
どんな職業だろう。軍人?

横目で隣の女性を観察する。
30代なかば、ややぽっちゃり。
とても自衛隊員にもフランス外人部隊の軍人にも見えない。

はっ。
もしや、元囚人では。
ぼくはまだ収監されたことはないが、刑務所の中ではすべての行動がきっちりスケジュールにそっておこなわれると聞く。飯の時間、風呂の時間、休憩の時間。すべて分刻みで定められていて、それ以外の行動(トイレとか)をするときは手を挙げて看守に許可をもらわなくてはならないのだとか。
そのときの習慣が抜けずに、シャバに出た今でも正午になるまで昼ごはんを食べられないのだろうか。

そういや『ショーシャンクの空に』でも、長い間刑務所に入っていたおじいさんが外の生活になじめずに苦労してた。あのおじいさん、結局自殺しちゃったんだよなあ。かわいそうに。この女の人は大丈夫だろうか。

しかしまさかこの人が。
ぼくはもう一度横目で隣の女の人の様子をうかがう。今度はさっきよりももっと慎重に。

人は見た目によらない。
どこにでもいるような女性。とても悪いことをするようには見えない。

何をやって刑務所に入ってたんだろう。列車強盗とかだったらいやだな。今も新幹線ジャックとか企ててたりして。「この新幹線の行き先を高知に変更しろ!」みたいな無茶なことを言いだしたらどうしよう。高知の人は急遽新幹線開通のニュースに沸きたつかもな。

いやいや、前科があるからって差別しちゃいかん。
彼女はもう罪を償って出所したからこうして新幹線に乗っているのだ。
前科があるからってまたやると決めつけるのはよくない。こういう偏見の目が元受刑者の更生の道を閉ざすのだ。

がんばってください、応援してますよ。
過去は過去。犯した罪は決して消えるものではないけれど、これからのあなたはあなた自身がつくってゆくのです。
激励の目を彼女に向ける。彼女はもうカツ御膳弁当を食べ終わっている。

刑務所にいた人は食べるのが早いというのは本当だったのだ。あと出所後は脂っこいものが食べたくなるというのも。

2018年10月29日月曜日

【読書感想文】ピタゴラスイッチみたいなトリック / 井上 真偽『探偵が早すぎる』


『探偵が早すぎる』

井上 真偽

内容(e-honより)
父の死により莫大な遺産を相続した女子高生の一華。その遺産を狙い、一族は彼女を事故に見せかけ殺害しようと試みる。一華が唯一信頼する使用人の橋田は、命を救うためにある人物を雇った。それは事件が起こる前にトリックを看破、犯人(未遂)を特定してしまう究極の探偵!完全犯罪かと思われた計画はなぜ露見した!?史上最速で事件を解決、探偵が「人を殺させない」ミステリ誕生!

莫大な遺産(5兆円!)を相続した女子高生・一華。その遺産を狙い、親戚一同が警察にはばれないように、しかし半ば公然と殺害計画を立てる。
命を狙われていることを知っている一華は犯行を防ぐために探偵を雇う……。

というリアリティもへったくれもないミステリ小説。一日に十件ぐらいの殺人未遂事件が起こるからね(ターゲットは同一人物)。
まあこれはこれでアリだと思う。
米澤穂信作品とか好きな人には合うかもしれないなあ。ぼくの好みじゃないけど。

会話文とか行動規範とかがぜんぶマンガっぽい。マンガのノベライズを読んでいるようなうすら寒さを感じてしまう。要するに、マンガの様式をそのまま小説に持ちこんでもギャグがうわすべりするよね。
うーん、いわゆるライトノベルって読んだことないけどこんな感じなのかなあ。ライトノベル好きなら違和感なく入りこめるのかも。



文章とか登場人物の名前とか(伯父さんの名前が「大陀羅 亜謄蛇」って!)はぜんぜん好きになれなかったけど、殺人事件を防いでしまう&同じトリックをやり返す探偵、という試みはおもしろかった。

「探偵」という古くさい装置をうまく機能させているのもいい。
ホームズや江戸川乱歩の時代ならいざしらず、現代において殺人事件が起こったら探偵の出番なんてない。殺人事件の捜査は刑事の仕事だ。
だから探偵マンガでは「たまたま殺人事件の現場に居合わせた名探偵」という無茶な設定が必要になり、名探偵が歩けば殺人にあたる、という穏やかでない状況に陥ることになる。

ところが「殺人を未然に防ぐ」という設定であれば、警察の出番はない。事件が起こる前に警察は動けないからだ。
おまけに「同じトリックでやり返す」なんて乱暴も、公務員である警察にはできない。探偵ならではだ。

廃れかけていた探偵小説にこの小説が新たな息吹を吹きこんだ、といったら大げさだろうか。大げさだね。



トリックは探偵ガリレオの劣化版、という感じ。
よく考えている、と思うけど、裏を返せば不自然きわまりないということでもある。

種明かしのためのトリックなんだよなあ。

「どうやって謎解きをするか」を先に考えて、その都合にあうような殺し方を考えました、なんだろうなあ。無茶すぎる。
ピタゴラスイッチみたいなトリックなので、とにかくばかばかしくて、そういう意味ではおもしろいと言えないこともない。
しかし金田一耕助の『本陣殺人事件』みたいなのを今の時代にやられてもなあ……。

「未然に防ぐ」という高すぎるハードルがあるから、「わざとかと思うぐらい不自然に犯人が痕跡を残している」か「探偵が他人の心を読めるのかってぐらい鋭い」か「根拠薄弱な思いこみで探偵が動きすぎ(そしてことごとく的中する)」の連発になってしまう。
もともとの設定に無理があるからしょうがないんだけど。

あんまりまじめに謎解きに向き合う類ではなく、「ばかばかしいなあ」と言いながら気楽に楽しめばいい小説なんだろうな。
とはいえバカミスと呼べるほどの突きぬけたところもないんだよなあ。



いろいろ目についた欠点も書いたけど、でもこういう新しい試みをしている小説は応援したい。
乾くるみのような個性派ミステリ作家としてがんばってほしい。

個人的にはしばらくは読まないと思うけど。


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2018年10月26日金曜日

【読書感想文】骨の髄まで翻訳家 / 鴻巣 友季子『全身翻訳家』


全身翻訳家

鴻巣 友季子

内容(e-honより)
食事をしても子どもと会話しても本を読んでも映画を観ても旅に出かけても、すべて翻訳につながってしまう。翻訳家・鴻巣友季子が、その修業時代から今に至るまでを赤裸々かつ不思議に語ったエッセイ集。五感のすべてが、翻訳というフィルターを通して見える世界は、こんなにも深く奇妙でこんなにも楽しい。エッセイ集「やみくも」を大幅改編+増補した決定版。

米原万里氏、岸本佐知子氏、田丸公美子氏など、翻訳家や通訳者には、いいエッセイを書く人が多い。
言葉に対する感覚が鋭敏だからなのだろう、何気ない発言や文章をきっかけに話がどんどんはずんでゆくのが楽しい。

『全身翻訳家』というタイトルが表すように、鴻巣友季子さんという人は骨の髄まで翻訳家だ。
この本には数々のエッセイが収録されているが、どれも翻訳、外国語、日本語、異文化、外国文学という切り口で料理されている。
何をするにも「これをどう訳すか」「これは日本人に伝わるだろうか」「書き手はどういった意図でこの文章を書いたのか」と考えているように見える。

たとえばこんなエッセイ。
 友だちの息子は四歳か五歳のころ、こんなことを言ったそうだ。ある日、家のなかを駆けまわっていて、むこうずねを家具の角かなにかに思いきりぶつけてしまった。痛い! 痛い! ものすごく痛い!
「だいじょうぶ? そんなに痛いの?」
 うずくまる息子に母親が尋ねると、彼はぶつけたむこうずねをしっかり押さえながら、痛みをこう表現した。
「痛いの! おふろに入りたくなっちゃうぐらい痛いの!」
 風呂に入りたくなるぐらいの痛み。この痛みは大好きなおふろに入ることでしか癒やし得ぬ、ということか。ぼくの受けたこの心身の痛手、もうこれはやさしいお湯に浸かってリセットするしかないんだ、ということかもしれない。「シャワーで流せる痛み」ではないということだ。いずれにせよ、湯槽にゆっくり浸かってなごむという風呂文化のある国でしか理解されにくい単位だろう。
 1オフロ(Ofro)。
 これまた翻訳するとなると、手こずりそうな単位だ。

「子どもならではのほほえましい表現」でも、やはり翻訳者の視点でどう訳すかを考えている。
そのまま外国語に訳しても、風呂文化のない人には伝わらない。訳すならたとえば「あたたかい毛布にくるまれたくなるぐらい痛い」といったところだろうか。それだって南国の人には伝わりにくいだろうなあ。



「うるかす」という言葉について。
 そして、父と母が結婚後、長く暮らしていた北海道のことば。貼りついたものを剥がすために水に浸しておくことを「うるかす」と言う。これも大学生になるまで方言とは知らなかった。「うるかす」にあたる語彙が標準語にはないようだが、困らないのだろうか。たとえば、間違って貼った切手を浸けてある水をうっかり家族が捨てそうになったりしても、「それは間違って貼っちゃった切手を剥がそうと思って水に浸けているところなんだから触らないでよ」などと長々しく注意を与えるのだろうか。言ってる間に捨てられてしまうのではないか。
西日本で育ったぼくは、「うるかす」を一度も聞いたことがない。

炊飯釜やお茶碗を洗う前には水に漬けておくが、はたしてこれはなんと表現するだろうか。
「ふやかす」がいちばん近いかな。ただし「ふやかす」には「剥がすため」という意味はなく、「柔らかくするために水に浸しておく」という意味なので、微妙に違いそうだ。
ただし「剥がすために水に浸しておくこと」を他人に説明する状況はあまり多くないので、「ふやかす」でも困ったことはない。

そういえば、香川出身の人が「ひちぎる」という言葉を使っていた。
「どういう意味?」と訊くと
「うーん、『ひちぎる』は『ひちぎる』やきん、他の言葉でよう説明せんな……。強いていうならおもいっきりつねって少し加えながら引っぱる、みたいな感じかな。『引きちぎる』に似てるけど、『ひちぎる』はじっさいにちぎるわけではないからな……。引きちぎる寸前まで持っていく、みたいな感じかな……」
となんとも長ったらしい説明をしてくれた。

そういえば少し前、『翻訳できない世界のことば』という本を書店で見かけた。
「パンに乗せるもの全般」を指す言葉や、「身体についたベルトなどの痕」を指す言葉など、他の言語にはないユニークな意味を持った単語を集めた本だ。

日本語だと「わびさび」や「積ん読」などが、翻訳不能な概念らしい。しかし「買ったものの読む時間や気力が起きずにいつか読もうと思ったまま放置されている本」は世界中にあるだろうから、言われれば「あーたしかに」と思う。

「パンに乗せるもの全般」なんてのも、日本語だと「なんかジャム的なもの」なんて言い回しをするしかない。そういう言葉があると便利だ。

グローバル化によって世界中の言語は少数に集約されていっているけど、言語が消えるということは「その言語にしかない概念」も失われてしまうということだ。
めったに使わないけど言い換え不能な言葉たちには、ぜひとも来世紀以降まで生き延びていってほしい。

そういや「あざとい」なんて言葉も、外国語に言いかえるのがすごく難しいんじゃないかなあ。



保育園の連絡ノートの話。
 子どものようすを自由に書く欄もある。さっさと事務的に書けばいいのに、「えーと、どう書こうか」と、いちおう文章の組み立てなど考えてしまうのは、文筆業者の哀しい性である。夕食の片付け物などしながら、そうだ、あのネタをこう書いて……と思いめぐらしたりする。雑誌などに書くエッセイの仕事とほとんど同程度の気合いの入れようだ。こういう力を入れなくてもいいことに限って、やみくもにがんばるから始末がわるい。四百字ぐらい書いてからぜんぶ気に入らなくなって、全文しこしこと修正液で消したこともあった。そうやって「原稿」を書きあげた後は当然ながら小さな達成感があり、思わずひとりで祝杯をあげてしまったりする午前三時。
 先日は、「お風呂で子どもが急に『ママ、お顔が汚れてるからふいてあげるね」と言って、タオルでごしごしやってくれました。ただ、それは汚れではなく肌のシミだったのです……」という自虐ネタを書いたのに、先生から反応のコメントがなく、密かに傷ついた。
これ、わかるなあ……。
ぼくもほぼ毎日保育園の連絡ノートを書いている(昨日は熱があったとかご飯を食べなかったとかの重要な連絡だけは妻が書く)。

これがけっこうたいへんだし、その分やりがいもある。書けば確実にレスポンスがある(先生がコメントを返してくれる)のだから書いていて楽しい。
娘がおもしろい発言をしたときは「よっしゃ、ノートに書くネタができた!」と思うし、ネタがない日は家を出る直前まで「何書こう……」と唸っている。

親ですらたいへんなのだから、十数人分のノートを読んで書かないといけない先生は、もっと骨の折れる作業だろう。
だからこっちが「今日のはおもしろいぞ」という会心のネタを書いても「今日はみんなで公園に行きました」なんてぜんぜん見当はずれのコメントが返ってきたりもする(特に若い先生ほどその傾向が強い。時間的余裕がないんだろう。たいへんだ)。
でもそういうときがあるからこそ「おもしろいですね!」なんてコメントが返ってきたときはすごくうれしい。

プロの文筆家であっても(翻訳者なら特に)読者からのダイレクトな反応というのは貴重なものなんだろうね。

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2018年10月25日木曜日

一度は宇宙人に連れ去られたものの「やっぱりいいや」と突き返された人あるある


・宇宙まで行った人に対しては劣等感があるが、連れ去られたことのない人のことは正直下に見ている。

・問診表の備考のところに「連れ去られた」と書くべきかどうか毎回悩む。

・自動改札に引っかかると「あのときの影響か……!?」と一瞬思う。

・今度連れ去られたときはもっと従順にふるまおうと思っている。

・「こんな人は献血できません」の項目にあてはまらないけど、やっぱり献血を躊躇してしまう

・UFOのイラストを見ると「まあ想像で描いたにしてはいい線いってるけどわかってないなー」と思ってしまう。

・「宇宙船から帰ってきたときの気分のカクテルを」と注文してバーテンダーを困らせてしまう

・宇宙船に連れていかれるとき、死んだおじいちゃんが夢の中に出てきて「おまえが来るのはまだ早い」と言われた。


2018年10月24日水曜日

【読書感想文】わかりやすいメッセージで伝えるのはやめてくれ / 本間 龍・南部 義典『広告が憲法を殺す日』


『広告が憲法を殺す日
国民投票とプロパガンダCM』

本間 龍  南部 義典

内容(e-honより)
憲法改正には、国会で三分の二以上の賛成と、「国民投票」で過半数の賛成が必要だが、二〇〇七年に制定された国民投票法には致命的な欠陥がある。海外の多くの国では原則禁止となっている「広告の規制」がほとんどなく、CMが流し放題となっているのだ。さらに日本の広告業界は、事実上の電通一社寡占状態にあり、その電通は七〇年にわたって自民党と強固に結びついている。これが意味することは何か―?元博報堂社員で広告業界のウラを知り尽くす本間龍と、政策秘書として国民投票法(民主党案)の起草に携わった南部義典が、巨大資本がもたらす「狂乱」をシミュレートし、制度の改善案を提言する。

近いうちに改憲の是非を問う国民投票がおこなわれるのではないかと言われている。
少なくとも首相は憲法を変えたそうだ(憲法改正、という手段が目的になっているように見えるが)。

個人的には改憲には消極的(というより改憲を目的とした改憲には反対)だけど、正当な憲法に記された手続に従って「国会議員の3分の2の同意」→「国民の過半数の賛成」という手順を踏んで改憲されるのであれば反対する理由はない。

ところが、その国民投票に関する法整備が欠陥だらけだと、本間龍氏(作家、元博報堂社員)、南部義典氏(法学者)は指摘する。
具体的には、広告を制限する仕組みがまるでないこと。このままだと、金を持っている陣営(今だと改憲賛成側)のCMがじゃんじゃん流されて、金にものを言わせた国民投票論争になるんじゃないか、ということだ。



ぼくは仕事で広告の運用をしているので、広告の効果をよく知っている(ネット広告だけだけどね)。

かつて、ぼくはこのブログで「広告の効果は大きいからデモ行進やるよりネット広告でも出したほうがよっぽど効果的だよ」と書いた。そしてその記事を広告配信した(数百円でも広告配信できるのがネット広告のいいところだ)。

すると「わざわざ広告をクリックしてサイトを見にくるやつなんかいない!」というコメントがつけられた。
ところが、そのコメントをつけた人は広告からやってきた人だったのだ!

広告は、多くの人が思っているよりずっと人々の行動に影響を与える。
にもかかわらず影響を受けた人が「自分は広告の影響を受けた」と思わない。
操られていることに気づかずに操られてしまうのが、広告のすごいところであり怖いところだ。

影響を与えないのであれば大企業が多大な金を広告に投じるはずがない。
広告を配信する側から言わせると、「自分は広告に影響されていない」と思っている人こそがいちばんのカモだ。

それに、テレビなどのメディアにCMを出稿するということは、いってみれば番組のスポンサーになるということだ。
ニュース番組や情報番組が、はたしてスポンサー様のご意向に反した報道をできるだろうか?
南部 「番組の提供枠」についてふと思い出したのですが、ドラマやバラエティ番組の出演者を選ぶキャスティングに、「スポンサーの御意向」が大きく影響するという話をよく耳にします。時にはそうした娯楽番組だけでなく、ニュース番組や討論番組などの報道番組でも、キャスターの降板や出演者の人選などについて、その真偽はともかく「スポンサーの御意向が影響している」といった声もありますよね。実際、ニュース番組の報道姿勢を理由に「スポンサーを降板する」と、公然と番組の内容に圧力をかける企業もあるようですし。
本間 僕が一番心配しているのも、実はその点です。賛成派と反対派、それぞれが流すCMは「立場」がハッキリしている。視聴者も「これは賛成派のCMだから」とか「これは反対派のCMだから」という前提で接するわけです。
 しかし、本来は「公平」な立場であるはずのニュース番組や朝のワイドショーなどでも、キャスター、出演者、コメンテーターなどの選び方、番組の構成やカメラワークなどの演出で、視聴者の印象を操作することは簡単にできます。例えば討論番組で、賛成派は若手論客を中心にキャスティングして、反対派は高齢の知識人を多めに呼ぶ、とかね。そうすると当然、賛成派は若々しく活発で、改革者的なイメージに映ります。
 放送法では、放送の「見せ方」や「演出」についての規定がありません。仮にそうした「番組内容」への間接的な影響、圧力があったとしても、それがあからさまなこと――例えば、各派の出演者の人数や、発言時間が明らかに不公平だというレベル――でない限り、基本的には「番組制作上」「演出上」の問題として扱われることになります。
 こうした、広告主に「忖度」して「便宜を図る」のは、放送局が日常的に行っていることです。



イギリスのEU離脱を問う国民投票の際は、離脱賛成派が嘘のデータを用いていたとして問題になった。
しかし、どれだけ嘘を並べたって投票日までにばれなければ問題にならない。
投票した後で嘘が明らかになったところで、投票の結果はひっくりかえらない。
国民投票は「騙したもん勝ち」なのだ。
本間 (中略)あとは、「フェイクニュース」まがいのCMもありうるでしょう。
南部 第1章で述べたように国民投票は人を選ぶ選挙ではないので、公職選挙法のように内容に踏み込んで禁止していません。もちろん明らかなデマや誹謗中傷する内容ならば民事、刑事の事件として司法上の解決を目指したり、JARO(日本広告審査機構)に訴え出ることはできると思いますが、結論が出るころには投票が済んで、その結果が確定している可能性がありますね。
少し前におこなわれた沖縄県知事選でも、候補者を貶めるデマが流出したことが明らかになった。
デマを広めるためだけの立派なサイトまで作られていたので、個人が勘違いで流してしまったようなデマではなく、明らかに組織的なデマの流布だ(そのサイトは選挙終了後すぐ閉鎖されたらしい)。

明確な罰則のある知事選挙でもそういった悪意のある戦術が用いられているのだから、規定のない国民投票であればもっとひどいデマが飛び交うことだろう。

国民投票制度のあるほとんどの国では広告規制があるにもかかわらず、日本ではまったく整備されていない。民放連も自主規制をしないそうだ。

テレビ局も、金になるならそれでいいという考えなんだろう。
経済は大事だが、憲法はもっと大事なんだけどなあ。
本間 やっぱり何度も投票を行っていろいろな経験も経ているから、テレビCMがヤバイということをよく分かっているのでしょう。CMは音と映像で非常に感覚的に人の興味を喚起できる。理屈ではなく、イメージや感覚で「人の心を操る技術」を使って作られるものですからね。
 EU離脱や憲法改正、あるいは脱原発だっていいのですが、そういう国の未来を左右するような、国民一人ひとりが真剣に向き合って考えるべき議論に、テレビCMを使ってイメージで影響を与えようという考え方が、根本的に間違っているのだと思いますよ。
 だから、なぜドイツは国民投票の制度がないのかという話になった時、その理由のひとつが「ナチスドイツ時代の失敗」にあるのだと聞いて、僕はとてもよく分かる気がしたのですね。というのも、ナチスは天才的に、当時のどの国よりも「広告」の力、それも「イメージ広告」の重要性と力を理解していたのだから。
 彼らは映像や音楽やファッションからプロダクトデザインに至るまで、今でいう「マルチメディア的」なアプローチで国民の気持ちを引き付けて独裁体制を確立した。そんなナチス体制下で行われた国民投票で、彼らの提案が有権者の約%%の支持を得て承認されたという事実は、そのまま「国民投票と広告」の問題がはらむ危険性を端的に示していると思いますね。
つくづく「憲法改正が是か非か」を問うより先に、「どういう国民投票制度をつくるべきか」という議論のほうが先だと思う。

頼むから、わかりやすいメッセージで伝えるのはやめてくれ。
憲法について話しあうのに、美しい音楽も容姿端麗なタレントもいらない。
ぼくらはばかなんだから、美しいプロパガンダCMを流されたらころっと騙されちゃうぞ!


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2018年10月23日火曜日

【読書感想文】クルマなしの快適な生活 / 藤井 聡『クルマを捨ててこそ地方は甦る』


『クルマを捨ててこそ地方は甦る』

藤井 聡

内容(e-honより)
日本人のほとんどが、田舎ではクルマなしには生きていけないと考えている。ゆえに、日本の地方都市は「クルマ」が前提になってできあがっている。しかし、今地方が「疲弊」している最大の原因は、まさにこの、地方社会が「クルマに依存しきっている」という点にある、という「真実」は、ほとんど知られていない。本書では、そうした「クルマ依存」がもたらす弊害を理論的に明らかにした上で、富山市のLRT(ライト・レイル・トランジット)導入を中心とした「交通まちづくり」の例や、川越の歩行者天国、京都市の「歩くまち京都」の取り組み事例などを参考に、「脱クルマ」を通して地方を活性化していく驚くべき手法を紹介する。

ぼくは車を持っていない。
以前は仕事で使うために持っていたが、転職したことと、大阪市内に引っ越したことを機に売っぱらってしまった。
なんせうちの近くで駐車場を借りると月三万円もかかるのだ。おまけに市内だと駐車スペースのない店のほうが圧倒的に多い。自動車なんて郊外に出かけるとき以外は無用の長物なのだ。
ちなみに自転車もない。地下鉄・JR・私鉄の駅が徒歩五分圏内にあるし、スーパーもショッピングモールも百貨店も徒歩圏内にあるのだから不便を感じない。
どうしても必要なときはタクシーを利用する。それだって車を保有することに比べたら屁みたいな金額だ。

車を持たない生活はとても快適だ。
車の購入費も駐車場代もガソリン代もオイル交換も定期点検も車検も保険も反則金もタイヤ交換もいらないのだ。
仕事のために車を持っていたときは、給料のかなりの部分が車の購入費と維持費に消えるし、点検やオイル交換で時間もとられてたいへんだった。これでは仕事のために車を持っているのか車を持つために仕事をしているのかわからない。

なにより、ストレスがないのがいい。
ぼくは運転が嫌いだ。というより怖い。運転するときは「事故死したらどうしよう」「人をひいてしまったらどうしよう」と終始びくびくしている。
ドライブが趣味、なんて人の気が知れない。自分や他人の命をかんたんに奪えるものを扱うのが楽しいなんてサイコパスなのか。ぼくにとっては「包丁持って歩くのが好きなんですよね、ひひひ」っていってるのと変わらない。
通勤電車のストレスなんて、運転のストレスに比べたらどうってことない。ほどよい距離を歩くのはむしろストレス解消になる。なにより電車では本を読めるのがいい。

とはいえ郊外の町で生まれ育ったので「車がないと生活できない」人の気持ちもわかる。
ぼくの実家は駅から徒歩四十五分。バス停からでも徒歩十分。駅だって田舎の何もない駅だ。坂だらけだから体力がないと自転車で移動もできない。
ぼくの両親はどこへ行くにも車、駅に行くのも車、週末はより郊外のジャスコ(今はイオン)でお買い物、という生活をしていた(歳をとったので駅から近い家に引っ越したが)。

趣味で車に乗っている人はおいといて、「生活必需品だから車に乗っているけど無くてもすむのなら手放したい」と思っている人も多いはず。
そうはいっても、少し郊外のほうに行くと車なしでは生活できないのが現実だよなあ。
……というのが多くの日本人の認識だと思う。ぼくもそう思っていた。



『クルマを捨ててこそ地方は甦る』では、富山市や京都市でモーダルシフト(輸送方法の転換)に成功した事例を通して、脱・クルマ社会への導入を提言している。

京都市では、四条通(京都市のメイン通り)の車線数を減らし、歩道を拡張したことで観光客数の増加につながった。
京都市の場合、車線を減らしたことの混乱は一時的なもので、付近の他の道が渋滞するようなこともなく(むしろ他の道も交通量が減ったそうだ)、観光客が歩きやすい街になった。

ぼくもこないだ久しぶりに四条通を歩いて、ぐっと歩きやすくなっていたことに驚いた。
以前の四条通は人通りは多いのに道は狭いしタクシーやバスや自転車でごちゃごちゃしていて、とてもショッピングを楽しみながら歩けるような道じゃなかったもんなあ。

自家用車がいかに空間をとるか、ということがよくわかる図。

国土交通省資料『LRT導入の背景と必要性』より
http://www.mlit.go.jp/crd/tosiko/pdf/04section1.pdf
 そしてこの「モーダルシフト」は、街の中心部の渋滞緩和に極めて効果的なのである。
 写真11をご覧いただきたい。これは、「同じ人数を運ぶ場合の、クルマ、バス、LRTの道路占有イメージ」の写真だ。
 この写真を見ればいかにクルマという乗り物が、広大な道路空間を占拠しているのかをおわかりいただけよう。写真左に写された夥しい数のクルマで運んでいる人間は、バスならばたった3台で運ぶことができるのだ。LRT(ライト・レイル・トランジット)という新しいタイプの路面電車の場合には、たった1車両で運ぶことができる。

これを見ると、交通量の多い街で自家用車を走らすことがいかにマイナスか、ということがわかると思う。都市環境にとっても地球環境にとっても。

「歩くのがたいへんだから車」という人は多いだろうが、そもそも車にあわせた街づくりをしているせいで歩くのがたいへんになっているのかもしれない。
街から車を追いだせば、建物と建物の間は近くなり、信号も減り、今よりずっと歩きやすい街になるはずだ。



京都市はほっといても世界中から観光客が訪れる日本有数の観光都市だから同じやりかたが他で通用するかはちょっと怪しいが、富山市の事例は他の都市にも参考になるはずだ。

富山市では、LRT(次世代型路面電車システム)への投資をおこない、街のコンパクト化、公共交通機関の利用者増に成功した。
 さて、こうしたLRT投資の結果、「クルマをやめて公共交通を使う」という行動変化、モーダルシフトを多くの人々において誘発し、公共交通利用者数は着実に増えていった。
 富山港線(ポートラム)についていうなら、この路線はかつてJRが運営しているローカル線だったのだが、これを富山市が譲り受け、一部線路(1.1km区間)を追加投資しつつ、LRTとして甦らせたのであった。結果、LRT化されてから、利用者は平日で約2倍、休日に至っては約4倍に膨れあがった。
 そして、事後調査によれば、「かつてはクルマを使って移動していたが、LRTができたのでクルマをやめてLRTで移動するようになった」という人々は、この新しく増えた利用者たちの2割以上を占めていた。
この背景には北陸新幹線の開業という強い追い風があったわけだが、それだけではこの成功は語れない。

富山市(人口約40万人)のような中核市でも成功しているのだから、各県の県庁所在都市とか、かつて栄えた城下町や港町のようなある程度のインフラ基盤がある都市であればうまくいきそうだ。
タイトルは「地方は甦る」となっているけど、さすがにどんな田舎にでもあてはまる話ではないけどね。



筆者はクルマをなくせ、といっているわけではない。
必要以上のクルマ依存から脱却しよう、という主張だ。人も、街も。

脱クルマ社会の到来は自動車メーカーにとっては困るだろうが、人口減、高齢者の増加、通信機器の発達など、社会は確実に「クルマなしで生活できる社会」を求めている。
ただ残念ながら「クルマに乗ろう!」のほうが「クルマを捨てて歩こう!」より金になるから、「クルマに乗ろう!」の声のほうが世間的には大きくなってしまうけど。

高齢者の中には運転技術に不安を覚えている人も多いだろうし、先述のように車を持つコストは大きい。公共交通機関なら渋滞や駐車場探しで無駄な時間をとられることもないし、アルコールも飲める。

クルマなしで生活できる社会のほうがずっといいに決まっている。
それは、現にクルマなしで生活しているぼくがよく実感している。

この先、自家用車は大型バイクのように「一部の趣味人のもの」になっていくかもしれないね。そうなってほしい。

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2018年10月22日月曜日

国民の皆様にお詫び申しあげます


まず、国民の皆様にお詫び申しあげます。
日本代表に選出していただいて、日の丸を背負ってオリンピックという舞台に立たせてしまったにもかかわらず、このような事態になってしまいなんとお詫びを申しあげてよいのやら……。

いえ、すべて私の責任です。自己管理もマラソン選手として重要な仕事です。それを怠ってしまったのですから弁解のしようもありません。


まず、シューズを忘れてしまったことについてですが……。
現地までは持っていっていたんですね。大事なものだからぜったいに忘れてはいけないと思い、前の晩、枕元に置いていたんです。そしたらそのまま忘れてしまいました。ふだんとちがうことをしないほうがいいですね。
気づいたのは出走十五分前でした。サンダルで現地に行って、さあ軽くウォーミングアップでもしようかと思ったところでシューズがないことに気がつきました。今から宿舎に取りにいってもまにあいません。
仕方なく、コーチのシューズを借りました。いえ、それは大丈夫です、ナイキのやつでしたから。
ただサイズがあわなかったんですね。コーチの足は私より1.0センチ大きいので。
九回もシューズが脱げたのはそのせいです。はい、すべて私の不注意によるものです。


それから公式のユニフォームを着ていなかったことについてですが……。
前の晩、ユニフォームを洗濯したんですね。大事な大会だからきれいなユニフォームで走らなきゃと思って。しかし洗濯機を回して、そのまま寝てしまったのです。
翌朝、洗濯機の中でびしょびしょになっているユニフォームを発見しました。今から干す時間はありません。
そこで練習用のウインドブレーカーを着て出走することにしました。幸い、ルール上はゼッケンさえつけていれば問題ないとのことだったので。
はい、とても暑かったです。通気性最悪なので。ウインドブレーカーですから。しかし早めに洗濯をしておかなかった自分の責任なので甘んじて受け入れるしかないと思ってそのまま走りました。


はあ。走りながら九回吐いてしまったことについてですか。
申し訳ございません、見苦しい姿を見せてしまって。
あれはですね、朝食を食べすぎたのが原因です。宿舎の朝食がビュッフェ形式だったのでついテンションが上がってしまって……。
洋食にするか和食で攻めるか迷ったんですが、どうせ同じ料金なら両方いってしまえと思ってクロワッサンとフレンチトーストとベーコンエッグとごはんと味噌汁と納豆と塩鮭とゆで卵を食べてしまったのです。今考えると、最後のゆで卵は余計でしたね。フレンチトーストとベーコンエッグで卵を摂取してますから。
いえ、トレーナーの責任ではありません。最終的に食べるという判断をしたのは私ですから、すべて私の責任です。


いえ、コーチに責任はありません。
九回道をまちがえてしまったことも、ハーフマラソンのペースで走って後半のペースがガタ落ちしたことも、事前の確認を怠ってしまった私に非があります。大会スタッフの方にもコーチにも落ち度はありません。


国民の皆様の期待に応えられるようなパフォーマンスを発揮できず、ほんとに申し訳ございません。
金メダルを獲得できたとはいえ、このような失態をお見せしてしまい、改めて深くお詫び申しあげます。

2018年10月21日日曜日

どうやったら子どもが本を読まないか


知人から
「犬犬さんとこの娘ちゃんは本が好きでいいですねえ。うちの子はぜんぜん本を読んでくれないんですよねー」
と言われた。

「まあ子どもが何を好きになるかなんてわかりませんよねー」
なんて答えたんだけど、先日その人のお宅におじゃまして、
「ああ、これは本を読まんわ」
と思った。

まず本がぜんぜんなかった。
すくなくともリビングルームにはまったく本がなかった。絵本も、大人の本も。

おもちゃがいっぱいあった。それもぬいぐるみとかおままごとセットとかの非言語的なおもちゃ。

テレビをずっとつけていた。
子どもが喜ぶ番組を常に流しているような状態だという。



ぼくは教育の研究者じゃないので「どうやったら子どもが本を好きになるか」はわからない。
でも、本好きとして「どうやったら子どもが本を読まないか」はわかる。

本よりもずっと手軽に楽しめるものを与えること、そして近くに本を置かないことだ。



娘(五歳)は本好きだ。
毎晩寝る前にぼくが一、二冊の本を読む。ひとりで本を読むこともある。小学生向けの本も読む(といっても全ページに挿絵のある本だけだが)。

本を読んだら賢くなるかどうかは知らないが、読まないよりは読むほうがいいとぼくは思っている。そっちのほうが人生を楽しめるから。

本を好きになるのはおもしろい本と出会えるかどうかで決まる。
おもしろい本と出会えるかどうかはどれだけたくさんの本を読んだかで決まる。
「数撃ちゃ当たる」だ。

一冊読むより五冊読むほうがおもしろい本と出会える可能性は高い。五冊読むより五百冊読むほうがずっと可能性は高い。それだけ。

だから手の届くところに本が山ほどあるという環境はすごく大事だ。



娘は同世代の子と比べるとだいぶ本好きだが、それでも誰かと遊ぶほうがずっと好きだ。
ぼくと遊んでいるときは「本読もう」とは言わない。誰かとレゴやトランプをするほうが好きだ。
ぼくが相手をできないときに、ひとりで本を読んでいる。

ぼくも本好きだが、他の何よりも好きというほどではない。気の合う友人と遊ぶほうがずっと楽しい。本は孤独や退屈を埋めてくれる手段ではあるが、最上の楽しみではない。

本より楽しいものを与えつづけていたら、そりゃあ本は読まないだろう。



本を読まない人は誤解しているようだ。
「読書好きの人は、本を読むことが何よりも楽しい」のだと。

いやいやそうでもないですよ。
読書ってそこまで楽しいものじゃないですよ、と読書好きとして言っておく

あれですよ、コーヒー。
コーヒーを好きな人は多いけど、彼らだって四六時中コーヒーばっかり飲みたいわけじゃない。
ご飯のときはお茶がいいし、和菓子には熱いお茶だし、運動をした後はスポーツドリンクか冷たい麦茶、仕事の後はビール、夜中に目が覚めたときは水。そして日曜日の朝にクロワッサンといっしょに味わうのは、コーヒー。
そんなもんですよ。オールウェイズ一位じゃないですよ。



ぼくがいちばんよく本を読むのは電車での移動時間だ。

「ある程度まとまった時間があるときに」「ひとりで」「特に道具も使わずに」「周囲に迷惑をかけずに」楽しめるものとしては、読書はすばらしい趣味だ。

でも「三十秒しかないとき」や「友人と一緒にいるときや」や「いろんなゲームがあるとき」には、読書はベストな選択肢ではない。

楽しいゲームや、気の置けない友人や、ぼくをちやほやしてくれる美女や、どれだけ使ってもなくならないお金をくれるんなら本なんて読みませんよ。あたりまえじゃないですか。
そういうのを誰もくれないからしょうがなく本読んでるんですよ。読書好きの人はみんなそうですよ!


2018年10月20日土曜日

お天道様は見ている


「お天道様は見ている」という表現はおもしろいな。

偉大なる存在はあなたを見ているからまっとうに生きなさいよ。という表現は世界中にあるだろう。

しかし、お天道様は四六時中出ているわけではない。
お天道様が出ているのは日中、それも好天気の日の夜明けから日没までだ。
つまりそれ以外の時間帯はお天道様は見ていない。

お天道様が見ているから悪さをしてはいけないということは、裏を返せばお天道様の出ていない時間帯なら悪さをしても大丈夫、ということになる。

そういや時代劇でも、人が悪事をはたらくのはたいてい夜だ。
夜に座敷で膝をつきあわせて「越後屋、おぬしもワルよのう」と賄賂のやりとりなんかをしている。
江戸時代、夜に灯りをつけている家はそう多くなかっただろうし、夜は今よりずっと静かだったはず。そんな中で灯りをつけて悪事の相談をしていたら誰かに聞かれる可能性が高かっただろうに。にぎやかな日中にやったほうがかえって気づかれにくかったんじゃなかろうか。
それでも悪代官たちが夜中に密談をしていたのは、やはりお天道様に見られたくなかったからかもしれない。



法律は、あえて厳密に定めずに解釈の余地を残すようにできていると聞く。
「人を殺したら死刑」だったら、快楽のために人を殺した者も、誰かを助けるためにやむなく手を上げたら死んでしまった人も同じく死刑にしなくてはならない。
だから「〇年以下の懲役」ぐらいのざっくりした法文にしておいて裁判官が個々の事情にあわせた刑罰を課せるようにしているのだとか。

人間、三百六十五日二十四時間正しく生きることは難しい。
ときには羽目をはずしたくなることもあるだろう。正義のために悪をはたらかなくてはならないこともあるだろう。

地獄について書かれた本を読むと、嘘をついたら地獄に落ちる、動物や虫を殺したら地獄行き、年寄りを敬わなかったら地獄、みだらなことをしたら地獄、スマホでゲームやりすぎたら地獄……とありとあらゆる地獄行き要件が定められ、これをきちんと適用させていたら誰も天国に行けなくなってしまう。

だからこそ「お天道様が見ている」なのかもしれない。
ちょっとぐらいの悪さをしてしまっても「今のはお天道様も見てなかったかもしれない」と言える。
一度道を誤ってしまっても立て直す余地を残している制度、それが「お天道様が見ている」なのではないだろうか。

だからぼくは風呂から上がって身体をよく拭かずに洗面所をびちょびちょにしてしまってもそれはお天道様に見られてなかったからセーフってことで。妻には見られてるけど。怒られてるけど。


2018年10月19日金曜日

おまえのかあちゃんでべそと言われた大臣の国会における答弁


まず第一に指摘しておきたいのは、わたしのことをおまえ呼ばわりするだけならいざしらず、わたしの母を「かあちゃん」などとなれなれしく呼ばないでいただきたいということです。

わたしはふだん母のことを「おかあさん」と呼んでおり、他人に向かって言うときは「母」、もしくは親しい友人にかぎってのことですが「うちのオカン」などと呼んだりもしますが、「かあちゃん」などと呼ぶことはありません。

幼少期においてはそのような呼称を用いた可能性は否定できませんが、少なく見積もってここ数十年はそのような呼び方を用いたことはなく、実子であるわたしですら用いない呼び名を母とほとんど面識もないあなたに軽々しく用いられたくないということはここではっきりと申しあげておきたいと思います。


またわたしの母がでべそだという点についても反論を申しあげます。

母のプライバシーにも関わる話ですのでこのような場で母のへそがどういったものであるかを言及するのはわたしとしても心苦しいのですが、包み隠さずお話することが母の名誉回復にもなると考えましたので特別に母の許可を取って説明させていただきます。

わたしの母、もう八十を過ぎておりますが、いたって元気で小学生の通学路に立って毎朝見守り活動をしております。
あなたの「おまえのかあちゃんでべそ」という発言を受け、今月九日、母にお願いしておへそを見せてもらいました。母のおへそなど見るのはもう何十年ぶりのことだと思います、いささか照れくささもありましたが事実確認をせずに国会で述べることはわたしの本意ではありませんので確認させてもらいました。
わたしが見たところ、母のおへそはいたって正常、というと語弊がありますが少なくとも世間一般にいうところのでべそではないように見受けました。

とはいえわたしはおへその専門家ではありませんので、母を大学病院へ連れていき、信頼できる先生に診断をしてもらいました。先生の見立てでもやはり、母はでべそ、医学的にはへそヘルニアというそうですが、このでべそにはあたらないとのことでした。念のため診断書も書いてもらいましたので、後ほど提出させていただきます。

これだけでも母がでべそでないということの証明には十分かと思いますが、念には念を入れ、過去にでべそだったことはないかということを母に問いただしました。
確認をしたところ、妊娠中、つまりわたしが母のお腹にいた際はたしかにへそが押されていわゆるでべそのような状態になっていたとのことでした。
ですから過去のある時点においてはわたしの母がでべそだったということはいえます。

ですがこれはわたしが生まれる前の話であり、当然ながらあなたも生まれる前の話ですので、あなたがわたしの母のでべそを確認したということは状況的にいってまったくありえない話であります。
したがって「あなたが過去にわたしの母のでべそを確認して、そのまま現在もでべそであると思いこんでしまった」という可能性も明確に否定できます。

したがって、あなたの「おまえのかあちゃんでべそ」という発言は事実無根であり、またそれが真実であると誤解しても仕方のない根拠もなく、わたし及び母の名誉棄損を目的としたまったくの捏造であると言わざるを得ません。速やかな訂正を求めます。


なお、誤解のないように付けくわえておくと、この弁論はわたしの母がでべそだという事実と異なる発言に対する反論であり、世の中のでべその方を不当におとしめる意図があってのものではないことをつけくわえておきます。

2018年10月18日木曜日

【読書感想文】発狂一歩手前/ハーラン・エリスン『世界の中心で愛を叫んだけもの』


『世界の中心で愛を叫んだけもの』

ハーラン・エリスン(著)
浅倉 久志 , 伊藤 典夫(訳)

内容(ハヤカワ・オンラインより)
人間の思考を超えた心的跳躍のかなた、究極の中心クロスホエン。この世界の中心より暴力の網は広がり、全世界をおおっていく……暴力の神話、現代のパンドラの箱を描いた表題作など、短篇十五篇を収録。米SF界きっての鬼才による、めくるめくウルトラ・ヴァイオレンスの世界
タイトルだけは有名な(というよりこれをもじったタイトルが有名なんだけど)表題作を含む、SF短篇十五篇。

まず表題作。
うむ、ぜんぜんわからない。とにかく難解。わからせようともしていない。理解を拒む文章。
めちゃくちゃじっくり読めば解釈できるかもしれないが、大学のテクストではないのでそこまでする義理はないのだ、こっちには。
作者が説明をしないのでよくわからないのだが、かといって説明をしてしまってはつまらないのでこれはこれでいいのだろう。ぼくには合わなかったけど。


これは読むのきついなあと思いながら読んだが、他の短篇はそこそこ楽しめた。

車で激走しながら殺しあうカーアクション『101号線の決闘』は、映像化したら楽しそう。
フリーウェイで追い抜かれたから、というだけの理由で命を賭けるというのがアホらしくていい。でも現実にもけっこういるよね、追い抜かされただけで命を賭けちゃう人。
ぼくもちょっと気持ちはわかる。なので車は極力運転しないようにしている。
後味の悪いラストも好き。

サンタクロースがスパイとして秘密組織と戦う『サンタ・クロース対スパイダー』も、アメコミ的な疾走感があって楽しかった。十時間分のドラマをぎゅっと一時間に凝縮したようなスピード感。どんどん敵が現れてあっという間に片づけてしまう。
なんか勢いだけで書きました、って感じのくだらなさがあっていい。

敵対する異星人を殺すために体内に爆弾をしかけられてしまった男の逃走と闘争を描いた『星ぼしへの脱出』は、心中描写はそう多くないのに絶望感、孤独感、怒りといった感情が猛烈に伝わってくる。
星新一の『処刑』を思いだした。筋は似てないんだけど。

宇宙人がやってきてショーをくりひろげるのに便乗して金儲けをする男の顛末を描いた『満員御礼』。これも星新一の世界感っぽいね。というか星新一がこっちに影響を受けたんだろうけど。

後半はどんどんおもしろくなってきた。
『殺戮すべき多くの世界』の宇宙各地で依頼人に頼まれて殺戮をくりかえす男、『少年と犬』の荒廃した世界で暴力に包まれながら懸命に生きる少年、どちらもすさまじい暴力性を抱えているのに、その陰にやりきれなさ、哀しさを感じる。


作品の毛色はいろいろ異なれど、どの短篇にも怒りや焦燥が満ちている。
初期の筒井康隆作品を思いだした。なんか常にいらだっているみたいなんだよね。
ただ筒井康隆作品にはバイオレンスの中にもブラックユーモアがあるんだけど、ハーラン・エリスン作品はただ純粋な怒りがうずまいている。発狂一歩手前、という感じ。そしてどの話も救いがない。

何をそんなに怒っているんだという気もするけど、中学生ぐらいのときってこんな心境だったなあ。いろんなことに怒りを感じてしかたがなかった。
大人になるにつれてさまざまなことをやりすごせるようになったんだけど、ハーラン・エリスン氏はその気持ちをずっと持ちつづけているようだ。

なーんか、この狂気寸前の怒りや暴力性を真正面から受け止めるには、ぼくが歳をとりすぎたのかもしれない。おっさんにはしんどかったぜ。


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2018年10月17日水曜日

【読書感想文】原爆開発は理系の合宿/R.P.ファインマン『ご冗談でしょう、ファインマンさん』


『ご冗談でしょう、ファインマンさん』

R.P.ファインマン (著)
大貫 昌子 (訳)

内容(e-honより)
20世紀アメリカの独創的物理学者が、奇想天外な話題に満ちた自らの体験をユーモアたっぷりに語る。持ち前の探求心と、大のいたずら好きは少年時代から変わらぬまま。大学時代や戦時下の研究所生活でも、周囲はいつもファインマンさんにしてやられる。愉快なエピソードのなかに、科学への真摯な情熱を伝える好読物。

原爆の開発にも携わりノーベル賞も受賞した物理学者のエッセイ。
語り口は軽妙洒脱で、まるで小学生がしゃべっているのを聞いているみたい。訳もいい。

この人の行動原理は一貫していて、おもしろそうだからやってみる、つまらないからやめる、嫌いだから避ける、ばかばかしいからからかってみる、と少年のように感情の赴くままに行動している。好奇心のかたまり、ものすごく頭のいい子どもなのだ。

物理学はもちろん、数学でも天文学でも生物学でも美術でも、一度興味を持ったらとことん調べないと気が済まない。
たぶん他の分野に進んだとしてもこの人は大きな功績を残しただろうなあ。

数学の記号を自分でつくりだしたり、アリがどうやって食べ物の場所を仲間に知らせているかをじっと観察したり、金庫をひたすら観察して金庫破りの方法を見つけだしたり、やることなすことどれも子どもじみている。
こんなふうに生きられたら楽しいだろうなあ。



マンハッタン計画(第二次世界大戦中に原爆を開発するために多くの科学者が集められた計画)のことが書かれている。こういうことを書くと誤解を招きそうだが、すごく楽しそうだ。
ロバート・オッペンハイマー、ハロルド・ユーリー、エンリコ・フェルミ、ジョン・フォン・ノイマンといった、ど素人のぼくでも名前を聞いたことのあるような物理学者・数学者・化学者たちが集まってひとつの目標に向かってそれぞれ力を尽くす。
理系の合宿、って感じだ。
 ロスアラモスで仕事につかされたこの若者たちが、まずさせられたことといえば、IBMの機械にチンプンカンプンの数字を打ちこむことだった。しかもその数字が何を表わしているのかを教える者は誰一人いなかったのだ。当然のことながら仕事は一向にはかどらない。そこで僕はまずこの若者たちにその仕事の意味を説明してやるべきだと主張した。その結果、オッペンハイマーがじきじきに保安係に談判に行き、やっとのことで許可がおりた。そこで僕が、このグループのとりくんでいる仕事の内容や目的について、ちょっとした講義をすることになった。さて話を聞き終わった若者たちは、すっかり興奮してしまった。「僕らの仕事の目的がわかったぞ。僕らは戦争に参加しているんだ!」というわけで、今までキーでたたいていたただの数字が、とたんに意味をもちはじめたのだ。圧力がかかればかかったで、それだけ余計なエネルギーが発揮されるという調子で仕事はどんどん進みはじめた。彼らはついに自分たちのやっている仕事の意味を把握したのだ。
 結果は見ちがえるばかりの変わりようだった! 彼らは自発的に能率をもっと向上させる方法まで発明しはじめた。仕事の段取りは改善する、夜まで働く、しかも夜業の監督も何も要らない、という調子である。今や完全に仕事の意味をのみこんだこの若者たちは、僕らが使えるようなプログラムまでいくつか発明してくれた。

日本人にとっては、この「楽しそうな理系の合宿」があの悲惨な原爆投下につながったと思うと複雑な心境ではあるけど。
でもファインマン氏もマンハッタン計画参加を決めた理由として「ドイツに先に開発されたらたいへんだ」ってのを挙げてて、当時の科学者たちにとっては悪の力を止めるために科学力を結集するぞ!ってなかんじの正義感に満ちていたんだろうなあと想像する。
日本人からしたら「原爆=悪」なんだけど、連合国からしたら原爆は正義の武器だったんだなあ。



ノーベル物理学賞を受賞した後の話。
物理学の知識のない人の前で講演をしても意味がないと思ったファインマン氏の策略。
 これを聞いたアーバインの学生たちは、僕がただふらりと現われて、物理クラブの学生相手に話をするのはそう簡単でないことを、ようやく納得してくれた。そこで僕は、「ものは相談だが、何かてんで面白くなさそうな演題をでっちあげ、およそ退屈そうな教授の名前をひねりだしてつけようじゃないか。そうすれば本当に物理に興味のある連中しか来ないに違いない。それ以外の連中には、どうせ用はないんだ。これでどうだろう?
 これなら何もややこしい宣伝をすることもないだろう」ともちかけた。
 こういうわけで、アーバインの大学の構内には、「ワシントン大学ヘンリー・ウォレン教授講演。『プロトンの構造について』五月一七日三時より。D一〇二教室」というポスターが二つ三つ貼り出されることになった。そして当日には僕が現われ、「残念ながらウォレン教授は都合で来られなくなり、電話で代りを頼まれました。この分野なら僕も少しは仕事をしているので、とりあえず代りを務めに、この通りやってきました」と言って集まった学生たち相手に話をした。そのときはぜんぜん問題なく、事はうまく運んだ。
 ところがこれをもれ聞いたクラブの顧問教授がカンカンに怒ってしまった。「ファインマン教授が来られるとわかっていたら、もっと大勢の人が話を聞きたがったに違いないのに」というわけだ。
この逸話に、ファインマン氏の性格がよく表れている。
無意味なしきたりや規則は平気で破る。名誉や肩書きよりも実利を重んじる。なにより、学問に対して真摯な姿勢を貫く。


専門的な話はほとんどないのに、学問、研究、思考することのおもしろさが(ファインマン氏がおもしろいと考えていることが)びんびんと伝わってくる。
理系の大学一年生に読んでほしい本だな。

2018年10月16日火曜日

ぼくの家にはファミコンがなかった


ぼくの家にはファミコンがなかった。
小学生のときだ。ファミコン(ファミリーコンピューター、スーパーファミコン、PCエンジンなどを含めた総称)を持っていないのは、クラスの男子二十人中ぼくを含めて二、三人だけだった。
話題についていけないことが多々あり、何度もつらい思いをした。

ぼくもファミコンが欲しかった。一度か二度、親に買ってほしいと頼んだことがある。だめだと言われた。眼が悪くなるから。うちにはお金がないから。
二度ぐらいしか頼まなかったのは「だめ」と言われることよりも「まだこの子はそんなことを言うのか」と残念そうな顔をされるのがつらかったからだ。

友だちの家でやらせてもらうファミコンはほんとに楽しかった。
家でもやりたくて、ノートにマリオのオリジナルコースを書いたり、サイコロでできるバトルRPGゲームを作ったりしていた。なんといじらしいことだろう。

六年生のとき、こづかいをためてこっそりゲームボーイを買った。
ゲームボーイは持ち運びできることが売りだが、ぼくは自宅以外でゲームボーイをやったことがない。ぼくがゲームボーイを買ったのは持ち運ぶためではなく、隠れてやるためだ。うちはリビングにしかテレビがなかったので、テレビゲームはやれなかったのだ。
友人にも隠していた。もう友だち同士でゲームの話をするような年齢ではなくなっていたし、何より「ゲームを持つのは悪いこと」という罪の意識があったからだ。
親の教育方針は、ぼくに「ゲーム=悪」という意識を持たせることに成功していた。

隠れてやるゲームボーイはほんとにおもしろかった。
はじめて買ったのはドンキーコング。それだけ新品で買い、あとは中古ゲーム屋でとにかく安いゲームを買った。誰も知らないようなゲーム。何度か痛い目に遭って「500円とか1,000円ぐらいの安いゲームはほんとにつまらない」ということを学んだ。
ダビスタのような競走馬育成ゲームをやりたいと思って買った『馬券王』というソフトは、なんとゲームではなくいくつかの情報を入力すると当たり馬券を予想するというただのツールだった。悔しくてソフトを叩きつけたくなった。なんとかしてこれで遊べないかといろいろやってみたがだめだった。

何度も何度もやったのは、ワリオ、ゼルダ、ポケモン、ゲームボーイウォーズ、ファミスタ、桃鉄、桃太郎伝説外伝など。
ポケモンには通算プレイ時間が表示される機能があって、「120時間」とかの数字を見るたびに「こんなにも無駄な時間を……」と憂鬱な気持ちになった。


小学生のときに買ってもらえなかった反動でゲームにどっぷりはまった……かというとそうでもない。
今でもゲームをときどきやる。ゲーマーというほどではないし、かといって完全に断絶しているわけではない。ほどほどの付き合いを保っている。

ゲームを買ってもらえなかったことは、自分にとってプラスになったんだろうか。マイナスだったんだろうか。
んー。プラス四割、マイナス六割ぐらいかな。
どっちがいいとも言いきれない。

自分の子がゲームを欲しがったらどうするか……。
仲間はずれになるのはかわいそうだけど、でもゲームばっかりやる子にはなってほしくない。

「買ってあげるけど父親であるぼくが独占する」というのがいちばんいい選択肢かもしれない。
買ってあげないときより恨まれるだろうけど。

2018年10月15日月曜日

大らかな時代


小学四年生のときの担任は「初日の出を見にいくぞ!」と言って小学生数十人を連れて大晦日の夜に登山を敢行した。

小学五年生のときの担任は理科が大好きで、オリジナルのテキストを持ってきて教科書を使わずに授業をしていた。

小学六年生のときの担任は夏休みに生徒を自宅に招待して(田舎の広い家に住んでいた)、数十人を自分の家に泊まらせてくれた。


どの先生も熱意あふれる人だったしそれらのイベントはぼくたち生徒にとってすごくおもしろかったけど、今考えると「めちゃくちゃやな」と思う。

当時は何も考えてなかったけど、今となっては
「小学生いっぱいつれて冬山登山なんかして遭難したらどうすんだよ」
「教科書使わずに授業やったらまずいでしょ」
「六年生の男女を自宅に泊まらせるなんて。変なことしてると思われてもしかたないぞ」
とつっこみどころだらけの話だ。

ようやったなあ。大らかな時代だったんだなあ。
戦前の話じゃない。ぼくが小学校に通っていたのは平成時代だったはずなのに。
平成って大らかな時代だったんだなあ。


2018年10月12日金曜日

目覚まし時計との戦い


娘(五歳)は寝起きが悪い。
子どもってみんなそうかもしれないけど「定められた時間に起きる」ことができない。

ぼくも趣味はと訊かれたら睡眠ですと答えるような人間なのでたっぷり寝かせてあげたいけど、そうはいっても早く起きて保育園に連れていかないと仕事に遅刻してしまうので泣く泣く子どもを起こす。社会人って非人道的!

目覚まし時計を買うことにした。
娘を時計売場に連れていって「どれがいい?」と訊くと「(娘)の時計!?」と目を輝かせた。
自分の時計を持てることがうれしくてしかたないのだ。ふっふっふっ。今のうちにせいぜい喜んでいるがいい。

その晩、娘は嬉々として時計に電池を入れ、アラームをセットして枕元に置いて寝た。
翌朝アラームが鳴った。ぼくが娘をゆりおこしながら「ほら、目覚まし時計鳴ってるよ」と告げると、急いでアラームを止め「自分の目覚まし時計で起きれた!」と喜んでいた。


だが娘が目覚まし時計に好感を持っていたのはそこまでだった。
そう、彼女は気づいてしまったのだ。目覚まし時計が安眠を強制的に終了させる不快音発生装置だという事実に。

こうして娘と目覚まし時計の戦いがはじまった。

娘、ぼくの目を盗んで寝る前にアラームをオフにする。

数日後、ぼくがそれに気づいてそっとアラームをオンにする。

娘、アラームのセット時間をずらす。

朝五時にアラームが鳴りだす。

娘、目覚まし時計を布団の下に隠す。

ぼく、それを探しだす。

娘、夜中に目覚まし時計の電池を抜く。

ぼく、電池を抜けないようにテープでふたをがちがちに固定する。


このように、娘は毎晩目覚まし時計と戦っている。
彼女はいつ気がつくだろう。
あれこれ工作しているひまがあったら早く寝たほうがいいということに。
それとも大人になっても気がつかないだろうか。

2018年10月11日木曜日

【読書感想文】一秒で考えた質問に対して数十年間考えてきた答えを / 桂 米朝『落語と私』

『落語と私』

桂 米朝

内容(e-honより)
落語の歴史、寄席の歴史、東京と上方のちがい、講談、漫談とのちがい、落語は文学か、女の落語家は何故いないか等々、当代一流の落語家にして文化人が、落語に関するすべてをやさしく、しかも奥行き深い蘊蓄をかたむけて語る。

人間国宝だった桂米朝氏による、落語についてのエッセイ。
中高生向けに書かれたもの、ということで平易な言葉で語られていて、すごくわかりやすい。
しかし平易だからといって浅薄なわけではない。言葉のひとつひとつに、その道を究めんとする者ならではの奥ゆきがある。

落語のことをよく知らない人に訊かれる「落語と漫談のちがいってなんなの?」とか「古典落語と新作のちがいって何?」みたいな質問に対して、米朝さんは真摯に回答している。
一秒で考えた質問に対して数十年間考えてきた答えをぶつける、みたいな本。



米朝さんは噺家としても超一流だったけど、それ以上に芸の探究者として偉大な人だ。これだけ真摯に落語に向き合った人は後にも先にもちょっといないんじゃないだろうか。

たとえば、噺の冒頭によくある「こんにちは」「おう、まあこっちへおはいり」というやりとりについての考察。
「こんにちは」と言っても「ごめんください」と言っても「コンチハ」とやっても「ごめんッ」とやっても威勢よくやるのと物静かに言うのでは、たいへんにちがいのあるもので、男女の別、老若のちがい、さらに職人か商売人か、そそっかしい男と落ちついた人、それに「こっちへおはいり」という受け手の人物とどちらが目上かということ。また、訪問の目的が、べつに用事もないが、むだばなしにやってくる時と、借金でもしようと思ってくる時とは、調子がちがって当然です。さらにまた、暑い時、寒い時という季節の点も考えにいれておかなければなりません。もう一つ大事なことは、家の構造なり大きさなりです。長屋といっても、戸をあけたら裏口まで見とおせる家もあれば、もうすこし気のきいた小ぎれいな長屋もあります。ガラリとあけたところに相手が坐っているのか、つぎの間(ま)からあらわれて「おう、まあこっちへおはいり」と言うのか、これはこんどは受ける側の問題になってきます。
「こんにちは」とはいってくる人物の場合と同様に、それを見て「おう、まあこっちへおはいり」と言う人の語調や視線も態度もさまざまにあるわけで、「おう」と相手を見た瞬間にいつもやってくる隣人である場合と、めったにこない珍客の時と、来るはずのない意外な人の場合と、それぞれ受け方にちがいがあるのは言うまでもありません。それに落語の内容によって、顔を見たらきびしく意見をしてやろうなどと思っている相手であった時なんか、顔の表情にもそれだけの演技がいるわけです。「こんにちは」「こっちへおはいり」だけでも、いくとおりにも演じ分けられてこそ、玄人のはなし家です。

「こんにちは」「おう、まあこっちへおはいり」だけのやりとりが、これだけの思慮に裏付けられているのだ。すげー。

もちろん米朝さんのような名人になるといちいちこんなことを考えて演じていたわけではないだろうけど、でもこういう理論に裏打ちされたしゃべりをしているのだから何も考えずに話している人とは説得力がちがう。そりゃ噺に深みが出るわなあ。

きっと米朝さんは演者としてだけでなく、師匠としてもすぐれた師匠だったんだろうなあ。うまく演じることはできても、これだけのことを言語化して伝えられる噺家はそう多くないだろう。
米朝一門から高名な噺家が多く出ているのもむべなるかな。



特に印象に残ったのがこの話。
 つまり、甲がしゃべっている時は、演者は甲という人物になって、甲をあらわしているのはちがいないのですが、その甲の目の使い方と、セリフの内容によって、じつは乙が描かれているのであることを忘れてはならないのです。
甲の姿勢、表情、言葉づかい、話す内容によって、聴き手は「乙は甲の弟分なんだな」とか「ぞんざいな扱いを受けている奥さんなんだな」とか思い描く。
これはひとり芝居の落語ならではの表現だよね。

『ゴドーを待ちながら』とか『桐島、部活やめるってよ』のような、「ある人物を一度も登場させずに周囲の人間のセリフのみによってその人物を描く」という作品があるが、落語は常にそれをやっているわけだ。すごいなあ。
すべての噺家がこれを考えてやっているわけではないだろうけど。


米朝ファン、落語ファンはもちろん、表現活動が好きな人にとってはおもしろい本なんじゃないかな。

じつはこの本、うっかりまちがえて二冊買っちゃったんだけど、でも二倍のお金を払っても損はないと思えるような内容でした。


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桂 米朝『上方落語 桂米朝コレクション〈七〉 芸道百般』



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2018年10月10日水曜日

【読書感想文】ぼくらは連鎖不均衡 / リチャード・ドーキンス『盲目の時計職人 自然淘汰は偶然か?』


『盲目の時計職人
自然淘汰は偶然か?』

リチャード・ドーキンス/著

内容(e-honより)
ベストセラー『利己的な遺伝子』で、生物学ばかりか世界の思想界を震撼させたリチャード・ドーキンス。その彼が、いまだに批判・攻撃を受けるダーウィン理論のいくつかの面をとりあげ、異論のひとつひとつを徹底的に論破していく。本書は鮮烈なまでに見事なダーウィン主義の本であり、自然淘汰による進化が、われわれにとって最大の謎に答えるに十分なほど強力な理論であることを明らかにするだろう。その謎とはこうである―「われわれ自身が存在しているのはなぜか?」。

二十歳ぐらいのときにドーキンス『利己的な遺伝子』を読んでひっくりかえるくらいの衝撃を受けた。
読む前と読んだ後では目に映る世界がちがって見えるぐらいに。
大げさでなく、ぼくの人生を変えてくれるような一冊だった。

『利己的な遺伝子』に大きな影響を受けたのはぼくだけではなかったらしい。刊行直後から、著者であるドーキンス氏のもとには多くの反響が寄せられた。好意的なものもあれば、批判的なものも。

この本は『利己的な遺伝子』に対する反論への反論、という形をとって書かれている。
というわけであまり目新しいことは書かれていない。『利己的な遺伝子』に書いていた進化論を、傍証を交えながらより丁寧に書いている。

今だったらインターネットなんかで意見をぶつけあうところなのかもしれないが、反論に反論するために本を出すなんて、ずいぶんのんびりした時代だったのだなあ。

この内容だったら、アンドリュー・パーカー 『眼の誕生』のほうがずっと充実しているので、そっちを読めば十分という気もする。



「生物が誕生して今のわれわれの姿のような形に進化するのはどれぐらいめずらしい確率か」ということから、「奇跡」の考え方についてこんなふうに書いている。
 われわれの脳は、眼が電磁波の波長を評価するように自然淘汰によってつくられてきたのとちょうど同じように、起こりそうな確率や危険率を評価するように自然淘汰によってつくられてきている。われわれは、人間生活にとって役に立つであろう可能性の範囲内で、危険率や見込みを頭の中で計算する力を身につけている。これは、たとえば、バッファローに矢を射かけたときに角で突き刺されるとか、雷雨を避けて孤立した樹木の下に逃げ込んだときに雷に打たれるとか、川を泳いで渡ろうとしたときに溺れてしまうといったレベルの危険率のことである。これらの容認できる危険というのは、数十年というわれわれの寿命に釣り合っている。もし、われわれが一〇〇万年も生きることが生物学的に可能であり、またそうしたいと望むなら、危険率をまったく別なふうに評価すべきである。たとえば、五〇万年間、毎日道路を横断していれば、そのうち車に轢かれるにきまっているだろうから、道路は横切らない習慣を身につけなくてはならない。
なるほど。
常々、昆虫がリスクの高い生き方をしているように見えることをふしぎに思っていた。
そんなとこ通ったら敵にすぐ見つかるやん、ということばかりするのだ、虫たちは。

しょせんは虫の浅はかさよと思っていたが、もしかすると彼らは我々とはまったくべつのリスク評価をしているのかもしれない。
人間の目から見ると「ずいぶんあぶねえことしてるな」と思うことでも、虫のような命の短い生き物にとっては「これで死ぬのは超運が悪いやつだけ」ってぐらいのことなのかもしれない。アリにとって道路を歩いていて人間に踏みつぶされるのは、無視できるぐらい低い確率の出来事なのだろう。

同じ人間でも、生きてきた人生の長さによって「奇跡」の度合いは変わってくるのだろう。

小学生のとき、自分が投げたボールとべつの人が投げたボールが空中でぶつかったら「すげー!」と言って大笑いした。
大人になった今、そんなことはひとつもおもしろくない。十分な回数の試行をしていればそりゃいつかは空中でぶつかるだろうさ、と思うだけだ。

J-POPの歌詞が「ふたり出逢えた奇跡」であふれているのも、出会ってきた人の少なさによるものなのだろう。
十分長い時間を生きて十分多い人と出会ってきたなら、フィーリングの合う人との出会いも奇跡ではなく必然になってしまうから。



「連鎖不均衡」についての話。
 もし私が長い尾をもった雄なら、私の父も長い尾をもっているばあいの方がそうでないばあいよりも多そうである。これは通常の遺伝にすぎない。しかしまた、私の母は私の父を配偶者として選んだのだから、彼女は長い尾をもった雄を好むばあいの方がそうでないばあいよりも多そうである。したがって、もし私が父方から長い尾のための遺伝子を受け継いでいるなら、母方から長い尾を好む遺伝子も受け継いでいそうである。同じ理由から、短い尾のための遺伝子を受け継いでいれば、おそらく雌に短い尾を好ませる遺伝子をも受け継いでいるのだろう。
 雌にも同様の論法を用いることができる。私が尾の長い雄を好む雌なら、おそらく私の母も尾の長い雄を好んでいただろう。したがって、私の父は母によって選ばれた以上、おそらく長い尾をもっていただろう。したがって、私が長い尾を好む遺伝子を受け継いでいれば、おそらく長い尾をもつための遺伝子も、それらの遺伝子が雌である私の体に発現しようがしまいが、受け継いでいるだろう。そして私が短い尾を好む遺伝子を受け継いでいれば、おそらく短い尾をもつための遺伝子も受け継いでいるだろう。一般的な結論はこうだ。雄にせよ雌にせよある個体は、それがどのような性質であっても雄にある性質をもたせる遺伝子と雌にそれとまったく同じ性質を好ませる遺伝子の両方をもつ可能性が高い。
長い尾を持つ個体は、長い尾を好む性質も持っている可能性が高い。これを連鎖不均衡というそうだ。

これを知って、いろんなことが腑に落ちた。

ぼくのいとこ(女)は、女性にはめずらしく身長が180センチを超えている。彼女は自分よりもっと背が高い男性と結婚した。
背が高い女性がもっと長身の男性を選んだり、背の低い男性がもっと背の低い女性を好きになったりすることがよくある。
あれは「コンプレックスを隠すため」かと思っていたのだが、もっと根本的なところ、遺伝子で決まっているのかもしれない。
長身の人は長身の人を好きになりやすい。なぜなら自分の親も長身のパートナーを見つけた(可能性が高い)から。「長身になる」遺伝子と「長身の異性を好む」遺伝子の両方を受け継いでいる(可能性が高い)から。

「高学歴な女性は自分以上のステータスの男性を選ぶ」という話を聞いたことがあるが、これも自分の親が持っていた「知能の高い異性を好きになる」という性質を受け継いだからかもしれない。

つまり子どもは親と似た好みを持つ(傾向が強い)。
ということは、娘であれば自分の父親に似た人、息子であれば母親に似た人を好きになることになる。
「身近にいた数少ない異性のひとりだったから」という後天的理由もあるだろうが、遺伝子レベルでも決まっているのだ。たとえば幼いころに両親と引き離された子でも、知らず知らずのうちに親に似た性質の異性を好きになるのかもしれない。

「自分のおかあさんみたいな女性が好き」というとマザコン扱いされてしまうけど、連鎖不均衡が生じる以上、ごくごく自然なことなのかもね。


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2018年10月9日火曜日

寂しさ VS 忙しさ


妻が出産のために五日ほど入院した。

かねてから心配していたのが、上の娘(五歳)のことだ。

娘はおかあさんべったりというわけではなく、土日はたいていぼくとふたりで遊びに出かけるし、家でも風呂・遊び・絵本はぼくと一緒にやる。
だが「寝るときに娘のおなかをさする」と「起きるときにだっこする」だけはおかあさんでなければならない。
それだけはぼくがやろうとしても「おかあさんがいい!」と言われる。

五歳ともなるといろんなことが理解できるし、親の期待に応えようともする。とはいえまだまだわがままいっぱいの子どもだ。
特に今まではひとりっ子だったので、「おかあさんと寝たい」とか「おとうさんとお風呂に入る!」なんて願いはほぼ叶えられてきた。

そんな娘が「おかあさんの入院」というイベントをどう乗り越えるのだろうか。
ぼくは心配しつつも楽しみに見ていた。



結論からいうと、あっけないぐらいに平気だった。

娘が寂しがらないようにぼくはとった対策は、「寂しがる時間を与えない」というものだった。
ひとりであれこれ考えると寂しくなる。だったらひとりで考えるひまを与えなければいい。

こないだの土曜日は、娘に絵本を読んで、『トイ・ストーリー』のDVDを観て、図書館に行って、娘の友だちと公園で遊んで、病院に行って赤ちゃんを見て、帰ってからプールに行って泳いで、レゴで遊んでからまた病院に行って面会してご飯を食べて、帰って銭湯に行って、絵本を読んでお話を聞かせてから寝た。
日曜日は保育園の友だちと公園にシートを広げてご飯を食べ、野球と相撲と鉄棒と自転車で遊んだ。ぼくは五歳児十人から自転車で追いまわされた。
月曜(祝日)はバーベキューをして、公園でアスレチックをして、銭湯に行った。

これだけハードなスケジュールをこなしていたら寂しがるひまもない。布団に入って灯りを消して小さな声でお話を読んであげたら三分もしないうちに寝てしまった(ついでにぼくも寝た)。
寂しがっている時間などない。

忙しさで埋めつくすことで、おかあさんのいない寂しさは覆いかくせた。
すげー疲れるけど。


2018年10月7日日曜日

ツイートまとめ 2018年07月


拡散

スポーツ

肉体改造

あいまい

克服


おばさん

ディズニー

四の五の

娘。

32年

アリクイ

イニシャル

近鉄

蛭子能収

ハム

憲法

飲み会

納豆

ブターゴン

テロ


2018年10月6日土曜日

ツイートまとめ 2018年06月


VBA

飲み会

泣き赤子

美白

カビキラー

男子

ワールドカップ






インフラ

女王

ゲームバー

オリンピック会場

解決


乳酸菌

ホイッスル

ババア

二股

2018年10月5日金曜日

ロボット工学三原則とは


ロボット工学三原則というものがある。
アイザック・アシモフ『われはロボット』に書かれたもので、SFの世界では有名な原則だ。
第一条
ロボットは人間に危害を加えてはならない。また、その危険を看過することによって、人間に危害を及ぼしてはならない。

第二条
ロボットは人間にあたえられた命令に服従しなければならない。ただし、あたえられた命令が、第一条に反する場合は、この限りでない。

第三条
ロボットは、前掲第一条および第二条に反するおそれのないかぎり、自己をまもらなければならない。
たった三条というのはあまりに少ない気もするが、まあこれは基本法であって、じっさいは「ロボット民法」「ロボット刑法」「ロボット商法」「ロボット訴訟法」「ロボット行政法」など実務的な法律で運用することになるんだろう。

さて。
第一条の「危害」について考えてみたいと思う。
ここで用いられる「危害」の範囲はどこまでだろうか。

ロボットが人間をぶんなぐったら、これは明らかに「危害を加える」だ。ここに異論はない。



ではロボットが人間の財布を盗んだら。これも危害だろうか。
窃盗は辞書的な意味の「危害」には入らないが、ここではやはり「危害」と考えて問題ないだろう。
ロボットによる窃盗を許せる人はほとんどいないだろうから。



ロボットが人間を口汚く罵ったら。これも危害だろうか。
DV(家庭内暴力)とは、じっさいに暴行をふるったときだけでなく罵詈雑言を浴びせたときにも適用されうるらしい。受けた側が激しい精神的苦痛を受けるような行為も暴力に含まれるのだとか。
それでいうと、やはり音声や文字による罵倒も危害と考えていいだろう。



子どもができなくて悩んでいる夫婦にロボットが「コドモハツクラナイノデショウカ?」と訊いたらどうだろう。言われた夫婦が激しい精神的苦痛を受けたと思ったら。
言ったロボットに悪意はない(だってロボットだからね)。
これは「危害」に含まれるだろうか。これを含まないなら、ロボットはどれだけ人のデリケートな部分を刺激してもかまわないのだろうか。



金属製のロボットが金属アレルギーの人に触れて、アレルギー症状を引き起こしてしまったら。これも危害だろうか。
もちろんロボットに悪意はない(だってロボットだからね)。だが肉体的な苦痛を生じさせている。
人間であれば、過失ならセーフかもしれない。だがロボットに故意/過失という概念を適用してもよいのであろうか。
完璧に制御されたロボットであれば「うっかり」という事態が発生しないので、彼の行動によって生じた結果はすべて「故意」になるのではないだろうか。



じっさい、ロボットが「人間に危害を加えない」ためには、ありとあらゆる可能性を予期できなくてはならない。
この人は金属アレルギーかもしれない、この人に子どもの話題を振ったら傷つけてしまうかもしれない。あらゆる行為が「危害」につながる可能性がある以上、ロボットは何もできなくなってしまう。

これは人間も同じことだ。どんな聖人君子であれ、人を傷つけてしまうことはある。未来を完璧に予想できない以上「危害」はぜったいについてまわる。

だから法律では「人に危害を加えてはならない」「人を殺してはいけない」とは規定していない。
法に書かれているのは「殺人を犯した者は〇〇の刑に処す」「盗みをはたらいた者は〇〇年以下の懲役または〇〇円以下の罰金に処す」といった処罰だけだ。
「危害」を完全に防ぐことはできないからだ。



したがって「ロボット工学三原則」は拘束力は持たない。
あくまで法の精神、努力目標である。「なるべく危害をくわえないようにしましょうね」という目標だ。

つまり中学校の生徒手帳に書いてある「質実剛健、創意工夫、切磋琢磨」みたいな標語と同じ。つまりは何の意味もない言葉ってこと。


2018年10月4日木曜日

よいしょっ! はい元気な女の子!


赤子が産まれた。

産科病棟に入院中の妻から深夜0時に電話がかかってきた。
「もうすぐ産まれそう」とのこと。

出かける支度をする。
夜中に産気づいたときは、娘(五歳)は家に置いていくつもりだった。そのためお義母さんに家に来てもらっている。

だが、出かける前に迷いが生じた。
娘はずっと赤ちゃんが産まれるのを楽しみにしていた。自分のいないときに産まれたら悲しむだろうな。
しかし熟睡しているしな。連れていくのも面倒だな。明日は平日だしな。

葛藤しながらも、一応娘に小さく声をかける。
「赤ちゃん産まれそうなんだって。行く?」
寝ながらも聞こえていたらしい、娘は目をつぶったまま首を横に振った。

よし、これで「誘った」という事実は作れた。
後から娘が文句を言ってきても「誘ったけど行かないって言ったやんか」と言い張ることができる。

お義母さんによろしくお願いしますと伝えて靴を履いていると、娘の声がした。
「行く!」
ぎくりとして寝室を見にいく。目をつぶったままだ。寝言だろうか。
しばらく様子を見ていると、また目をつぶったまま「行く!」との声。

小さくため息をついた。しゃあない。寝言でも言うぐらい行きたがっているのに置いていくのはしのびない。腹を決めた。
「よし、行くぞ。トイレ行っとけ」
ぼくは娘を起こし、パジャマにカーディガンを羽織らせてタクシーに乗った。



深夜の病院。娘はテンションが高かった。
わかる。夜中に外出、パジャマのままお出かけ、タクシーで深夜のドライブ、夜なのに与えられたオレンジジュース。すべてが非日常。なんだか愉しい。ぼくもちょっとウキウキしている。

LDR(出産をする部屋)に入る。
ぼくひとりで来ると思っていた妻が驚いた顔で出迎える。
娘はますます昂奮し、LDRの中や病棟の廊下を歩きまわる。べつの部屋から赤ん坊の泣き声が聞こえる。娘は意味なくぼくにしがみついたり、ぐびぐびオレンジジュースを飲んだり、わけのわからぬことを言ってけたけた笑ったり。
愉しそうだ。だが出産自体にはあまり興味がないようだ。LDR探索にもすぐに飽きて、「絵本読んで―」とせがんでくる。妻がいきんでいる横で、ぼくは娘にディズニープリンセスの絵本を読み聞かせる。



到着から一時間ほどで、ついに赤子が産まれた。
んぎゃあんぎゃあとか細くも力強い鳴き声を上げる。
胸をなでおろす。無事に産まれてよかった。元気そうでよかった。

娘に「ほら、産まれたよー」と声をかける。
が、娘は動かない。産まれた赤ちゃんのほうを見ようともしない。

顔を見る。怖がったりしている様子はない。表情はいつもと変わらない。
しかし赤ちゃんを見ようとしない。出産、胎盤摘出を終えたおかあさんに近寄ろうともしない。
さっきまでけたけた笑っていたのにぜんぜんしゃべらない。

どうやら相当ショックを受けたようだ。
まあ無理もない。
直接産まれるところを見ていないとはいえ、見ず知らずの医師や助産師がやってきておかあさんに何かするわ、おかあさんは今まで聞いたこともないような声で「いたーい!いたーい!」と叫んでいるわ、なのに横にいるおとうさんは止めようともせずにじっと座っているわ、産まれてきた赤ちゃんは紫色をしているわ(産道で締めつけられて)、血と緑色のうんこにまみれているわ、五歳児にとっては相当強烈な体験だったのだろう。
喜ぶんべきなのか、怖がるべきなのか、驚くべきなのか、どう対処していいかわからなかったんだと思う。

きっと娘は、赤ちゃんが産まれる瞬間について、ウミガメのおかあさんからポンポンと卵が出てくるぐらいのものをイメージしていたのだろう。
「んー、よいしょっ! はい元気な女の子!」ぐらいの感じで。で、出てきた子ははじめっからきれいなおべべを着ていて、おねえちゃんの顔を見てにこりとほほえむ。こんにちはあかちゃん、わたしが姉よ。
きっとそんなイメージを持っていた娘にとっては、ディズニー映画を観にいったつもりなのにR15のスプラッタホラーをやっていたぐらいの衝撃だったのだろう。



翌朝、娘に「昨日病院行ったのおぼえてる?」と訊いてみたら
「うん、おかあさんが痛いって言ってた」
とのこと。

んー、やっぱりそれがいちばんの印象かー。
まあこれもいい経験だろう。

とりあえずでっかいレバーの塊みたいな胎盤は見せなくてよかった。
たぶん一生忘れないぐらいのトラウマになっていただろうから。


2018年10月2日火曜日

【創作落語】金メダル


〇「ごめんよ」

△「どないしたんや。あわてて飛び込んできて」

〇「えらいもんとってもうた。金メダルや」

△「はぁ? 金メダルって、あの、オリンピックのかいな」

〇「そうそう、オリンピックの金メダル」

△「誰が」

〇「おれが」

△「おまえがオリンピックの金メダルを? 何をあほなこと言うとんねや」

〇「ほんまやねんて、ほら」

△「うわっ。これは、たしかに本物!……っぽいな。本物見たことないから知らんけど」

〇「でも重みがちゃうやろ」

△「うん、重い。少なくともおもちゃではなさそうやな」

〇「ほら、このケースに五輪のマークも書いてあるやろ」

△「おお、ほんまや。たしかに本物っぽいな。けど驚いたな、おまえとは長い付き合いやけど、まさかおまえが金メダルとれる実力の持ち主やとは思わんかった。何の競技でとったんや」

〇「それが……わからんねん」

△「はぁ? おまえがとったんやろが」

〇「そう、おれがとった」

△「ほな、わからんことがあるかい」

〇「それがほんまにわからんねん」

△「どういうことやねん」

〇「さっきのことや、新大阪の駅で急におなかが痛くなって、トイレをさがしてたんや」

△「何の話やねん」

〇「まあ聞けって。トイレをさがして走ってたら、横から出てきた男とぼーんとぶつかってふたりとも尻もちをついた。すまんと謝って、ぶつかったはずみに落とした鞄を拾った。ちょうどそのときトイレの案内を見つけたから、そっちに向かって走りだした。さっきぶつかった男が後ろから『ちょっと待て』と呼びとめる声が聞こえてくる。因縁でもつけようと思ってんのやろな。ふだんなら売られた喧嘩は買うところやが、トイレに行きたくて必死や。後ろも振りかえらずに全速力で走って、トイレに駆けこんだ。やれ一安心。ちょっとしか漏らさへんかった」

△「ちょっとは漏らしたんかいな。汚いやっちゃな」

〇「で、ふと見ると持っている鞄がおれのと違う。色も形もよく似てるけど、ちょっと違う。さっきぶつかったときに、とりちがえて相手の鞄を持ってきてしもうたんや」

△「だから呼びとめられたんやな」

〇「トイレを出て探したけど、さっきの男がおらん。あわててたからどんな顔やったかも覚えてへん。手掛かりでもないかいなあと鞄の中を開けてみたところ、入ってたのが金メダルや」

△「ええっ。それがこの金メダルかいな」

〇「そうや」

△「おまえさっき、おまえがとった金メダルやと言うとったがな」

〇「そう。おれがとった。正確には、おれがとった鞄の中に入ってた金メダルやな」

△「そういうことかい」

〇「まさか自分が金メダリストになるとは思わんかったわ」

△「いやいや、それは金メダリストとは言わへんやろ。金メダルぬすっとやで」

〇「とにかくメダルなくしたほうも困ってるやろから、返してやろうと思うねんけどな」

△「そらそうや。そう簡単にとれるもんやないんやから」

〇「しかしどこのどいつかわからんねん。金メダルに油性ペンで名前でも書いといてくれたらええのにな」

△「そんなもん書くかい。しかし金メダルとった人なんてそうたくさんおらへんやろ。限られてるで」

〇「金メダルとった人というたら……。マラソン選手のあの人とか」

△「いやいやそれはない」

〇「なんでや」

△「だっておまえに追いつかれへんかってんやろ。マラソン選手がおまえに追いつけないなんてことあるかい」

〇「いやでもおれもトイレ探してたから相当急いでたで」

△「そやかてマラソン選手やったら追いついてるわ。マラソンは違う」

〇「ほんなら柔道とかレスリングとかかな」

△「それもちゃうやろ」

〇「なんでやねん」

△「だっておまえにぶつかって尻もちついたんやろ。柔道選手やレスリング選手が、おまえみたいなひょろひょろの男にぶつかられて尻もちつくかい」

〇「ほんなら卓球は」

△「卓球選手は反射神経がすごいからおまえにぶつからへん」

〇「じゃあ体操」

△「体操選手やったら宙返りでかわしてる」

〇「ラグビー」

△「タックルでおまえをふっとばしてる」

〇「射撃」

△「おまえは背中から撃たれてる」

〇「そんなわけあるかい」

と、わあわあいうておりますと、突然家のドアが開いてひとりの男が入ってきた。

〇「わっ、なんやなんや」

選手「すみません、ぼくの鞄がここにあると聞いたんで」

△「えっ。ということはあんたが金メダリスト……?」

選「はい、そうです」

△「あんたかいな。ちょうどこっちから探しにいこうと思てたんや。しかしようここにあるってわかったな」

選「はい、金メダルをぶらさげて歩いている人を見たって人がたくさんいたもんで」

〇「ああ、さっきおれが見せびらかしながら歩いとったからな」

△「自分が獲ったわけでもないのに見せびらかすなや、そんなもん。しかしあんた、なんの選手なんですか」

選「水泳です」

△「あーそういえば見たことあるわ。服着とるからわからんかったわ。
  しかしさすがは水泳の選手やな。すごい勢いで飛びこんできたわ。いっつも飛びこんでるだけのことはある」

選「いえ、ぼくは背泳ぎの選手なんで飛びこみはしないんです」

〇「はあ、背泳ぎは飛びこみせんのですか。知らんかったな。
  ……なるほど、背泳ぎの選手か。それでおれとぶつかったんやな」

△「どういうことや」

〇「背泳ぎの選手って、いっつも上ばっかり見てるやろ。その習慣で上見て歩いとったからぶつかって尻もちついたんちゃうか」

△「そんなわけあるかい」

選「えー、ではそろそろメダルを返してもらってもよいでしょうか」

〇「えっ、返すんですか」

△「そらそやで。この人が獲ったメダルやないか」

〇「一晩だけでもうちに置いといたらあきませんやろか。この子も名残惜しいというてますし」

△「犬の仔みたいに言いな。ほら、返さんかい」

〇「わかりました。はいどうぞ」

選「どうもありがとうございます」

△「しかしあんた、金メダル見つかってよかったな。せっかく優勝したのに、メダルをなくしたらどうにもならんからな」

選「いえ、どうにもならないことはありません。銅より上の、金ですから」


2018年10月1日月曜日

作家としての畑正憲氏




中学生のときぼくが好きだった作家のひとりが畑正憲氏だ。

……というと、たいていこう言われる。
「畑正憲? 知らないなあ」

「ほら、ムツゴロウさんだよ。知ってるでしょ」

……というと、たいていこう言われる。
「えっ、ムツゴロウさんって作家なの?」


今から二十年ぐらい前には『ムツゴロウとゆかいな仲間たち』というテレビ番組があった。そのイメージが強すぎたので「動物たちと暮らしてテレビに出るのを生業としている変なおっちゃん」と思っている人が大半だった。
それはそれでまったくの間違いでもないのだが、畑正憲氏のおもしろさは著作にいちばん現われているとぼくは、テレビのイメージがひとり歩きしていることに不満だった。

たしかに畑正憲氏は奇人だ。
動物の身体をべろべろなめたり、動物のおしっこを飲んだり、飼っていた動物が死んだら食べたり、テレビで観る分には「イカれているおじさん」だった。
でもそれは一面しか表していない。
彼の著作を読むとわかる。「めちゃくちゃイカれているおじさん」だということが。

テレビで映されるのは彼のぶっ飛んだエピソードのうちほんの一握りにすぎない。その数倍の奇行や蛮行は、あまりに異常すぎてテレビで放送できなかったのだろう。


畑正憲氏のエッセイは、エロ、バイオレンス、ばかばかしさにあふれていた。
でもそれらはすべて科学的視点に基づいたものだ。
ばかな人がばかなことを言うのと、賢い人がばかなことをいうのはぜんぜん違う。畑正憲氏は圧倒的に後者だ。東大から理学系の大学院に行って研究をしていた人なので豊富な知識と優れた洞察力がバックボーンにある。それをもとにばかを書いているのだからおもしろくないわけがない。

彼のエッセイはどれもおもしろかった。金がなかった中学生時代、古本屋をめぐって数十冊集めていた。
似たようなタイトルの本を何十冊も多く出していたので、まちがって買わぬよう、ぼくの財布には「まだ買っていない作品リスト」を書いたメモがしのばせてあった。

特に好きだったのが『ムツゴロウの博物誌』シリーズだ。
これは初期の傑作で、エッセイとフィクションが絶妙にまじりあったふしぎな話が並んでいた。エッセイのような書き出しなのに急に訪ねてきた客人がナマコだったり、魚が突然を口を聞いたり、自然とフィクションへと移行するのだ。
息をするようにほらを吹く畑正憲氏の技法はすごく好きだった。

ああいうエッセイ(というか半分ほら話)を書く人は他にちょっと知らない。
まったくのでたらめというわけでもなく、豊富な知識に裏打ちされたばか話だからこそおもしろいんだろうな。

畑正憲氏の著作がほとんど絶版になっているのは寂しいことだ。
学生時代に読んでいた本の多くは手放したが、畑正憲作品はすべて実家の押し入れに眠っている。