2021年11月30日火曜日

ダイエットと節約に失敗する方法

 節約もダイエットもそうだけど、「節約してる」「ダイエットしてる」とおもってる時点でもうほとんど失敗してる。

 だって痩せてる人ってダイエットしてないもん。食べたいのを我慢してるわけじゃなくて、そもそも食べたくない。

 節約もそう。貯金をしてる人は買いたいものを泣く泣く我慢してるわけじゃなくて「そんなに欲しいとおもわない」。


 ぼくは生まれてからこのかた、一本も煙草を吸ったことがない。だから煙草を吸いたいとおもうことがない。あたりまえだけど。

 禁煙中の人は、ずっと煙草を吸いたい、でも吸っちゃいかんというストレスにさらされる。

 でも煙草を吸ったことがない人は、煙草が吸えないことに関して一切のストレスを感じない。ノーストレスで禁煙に成功しているともいえる。

 当然、禁煙に成功する確率が高いのは「ついこないだまで煙草を吸っていた人」ではなく「一本も煙草を吸った人」のほうだ。吸ったことない人が吸わないことを禁煙っていうのか知らんけど。


 だからさ。

 身も蓋もないことを言うけど、ダイエットも節約も成功しないのは当然なんだよ。

「痩せなきゃ」「お金貯めなきゃ」っておもう時点でもうストレス環境に自分を追いこんでるんだから。成功する人はがんばらずに食べる量や使うお金を減らすんだから。


 ということで、「ダイエット」「節約」で検索してここに来たあなたには残念なお知らせなんですが、あなたはもう失敗してるんですね。ごめんなさいね。でもそうなんです。


 ところでさ。

 さっき「煙草を吸ったことがない人は煙草が吸えないことをストレスとは感じない」って書いたじゃない。

 あれ、ほとんどすべてのことにあてはまるよね。

 お酒を飲んだことがない人は酒が飲めないことをストレスに感じないし、ラーメンを食べたことがない人は夜中にラーメンが食べたくなったりしない。

 でも、例外もある。

 童貞の性欲。

 あれだけは、経験したことがないのに猛烈に追い求めてしまう。

 なんでなんだろうね。


2021年11月29日月曜日

【読書感想文】中町信『模倣の殺意』 ~そりゃないぜ、なトリック~

模倣の殺意

中町信

内容(e-honより)
七月七日の午後七時、新進作家、坂井正夫が青酸カリによる服毒死を遂げた。遺書はなかったが、世を儚んでの自殺として処理された。坂井に編集雑務を頼んでいた医学書系の出版社に勤める中田秋子は、彼の部屋で偶然行きあわせた遠賀野律子の存在が気になり、独自に調査を始める。一方、ルポライターの津久見伸助は、同人誌仲間だった坂井の死を記事にするよう雑誌社から依頼され、調べを進める内に、坂井がようやくの思いで発表にこぎつけた受賞後第一作が、さる有名作家の短編の盗作である疑惑が持ち上がり、坂井と確執のあった編集者、柳沢邦夫を追及していく。著者が絶対の自信を持って読者に仕掛ける超絶のトリック。記念すべきデビュー長編の改稿決定版。


 この作品、『そして死が訪れる』というタイトルで乱歩賞への応募され、その後『模倣の殺意』と改題されて雑誌に掲載、単行本刊行時には『新人賞殺人事件』というタイトルになり、文庫化の際は『新人文学賞殺人事件』とまたタイトルが変わり、そして復刊の際には『模倣の殺意』に戻った、という複雑な経緯をたどっているそうだ。
 つまり(いくらか手が加えられているとはいえ)ひとつの作品なのに、四つの題名を持っているわけだ。なんともややこしい。


 最初に刊行されたのが1973年ということで、今読むと「うーん……当時は斬新だったのかもしれないけど……」となんとも微妙な出来栄えである。

 トリックも強引だし、アリバイ工作も嘘くさすぎる。
「○時にちょうど時計台の前で撮ってもらった写真があります」とか
「○時には××にいました。ちょうどその時刻に知人に××に電話をかけるように依頼していたので証明できます」とか。

 いやいやいや。
 アリバイがどうとか以前に、それもう「私が犯人です」って言ってるようなもんじゃない。犯行時刻にたまたま時計台の前で撮った写真があるって……。


 それから、トリックは賛否両論あるとおもうけど、ぼくは「否」だとおもう。これはフェアじゃない。

 以下、そのトリックについて語る(ネタバレあります)。




(ここからネタバレ)


『模倣の殺意』のストーリーをかんたんに説明すると、坂井正夫という売れない作家が不審な死を遂げ、それを中田秋子という編集者と、津久見伸助というルポライターがそれぞれ追う。中田秋子のパートと津久見伸助のパートが交互に語られる。


『模倣の殺意』には、犯人が仕掛けたトリック(さっき挙げたアリバイ工作など)とは別に、〝著者から読者に仕掛けられたトリック〟がふたつある。
 いわゆる叙述トリックというやつだ。

 ひとつは、中田明子と津久見伸助が同時期に別行動をとっているように見えて、じつは中田秋子のパートが、津久見伸助のパートの一年前の出来事であるということだ。

 これは(今となっては)めずらしい叙述トリックではない。というか定番といっていい。ぼくもすぐにそうじゃないかとおもった。
 ミステリで別々の語り手による話が交互に進んでいく場合は、時間や空間が隔たれていることをまず疑ったほうがいい。


 もうひとつのトリックは、中田明子が追っている坂井正夫と、津久見伸助が追う坂井正夫が、同姓同名の別人ということだ。

 これはフェアじゃない。
 前にもやっぱり〝同名の別人〟が出てくるミステリを読んで、同じことをおもった。ずるい。

 いや、同姓同名を登場させるのが全部反則とはいわないが、同姓同名の人間がいることを早めに提示するとか、坂井正夫Bは坂井正夫Aになりすますために同じ名前を名乗ったとか、もう少しフェアな書き方があるだろう。

 だってさ。それってミステリのルール以前に、小説のルールに違反してるじゃない。

「田中は家に帰った。その夜、田中は彼女を殺した」
って書いておいて、「じつははじめの〝田中〟と次の〝田中〟は別人でしたー!」っていうようなもんじゃない。そりゃないよ。
 特にことわりがなければ、同じ名前が指す人物は同じものっていう暗黙のルールがあるじゃない。この、日本語の最低限のルールを破っておいて「トリックでしたー!」ってのはずるすぎる。それはトリックじゃなくてただの反則だ。

 下村敦史『同姓同名』っていう同姓同名を扱ったミステリ小説があるらしいけど(読んだことはない)、同姓同名をミステリに使うならそんなふうに最初にことわらなきゃいけないとおもうよ。


 しかもこの『模倣の殺意』、どっちも坂井正夫が出てくるんだけど、どっちも作家志望で、どっちも七月七日の七時に殺されるんだよ(一年ちがいだけど)。
 強引すぎでしょ。

「だまされたー!」じゃなくて「著者と読者の間にある最低限の信頼関係を踏みにじられたー!」という気持ちしか湧いてこなかった。そりゃないぜ。


【関連記事】

【読書感想文】ルール違反すれすれのトリック / 柳 広司『キング&クイーン』

【読書感想文】叙述トリックものとして有名になりすぎたせいで / 筒井 康隆『ロートレック荘事件』



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2021年11月26日金曜日

本屋で働いていたころの生活

 十数年前、本屋で働いていたころの生活。


 朝四時半に起きる。
 朝食。まだ胃が起きていなくて気持ち悪くなることもよくあった。

 五時二十分に家を出る。冬だと外は真っ暗。当然めちゃくちゃ寒い。
 車をびゅんびゅん飛ばして六時ぐらいに職場に着く。

 始業が六時半なので、それまでの間職場の椅子で寝る。椅子をふたつ並べて横になる。
 家でギリギリまで寝ていると遅刻するので(そして車を飛ばしすぎて事故ったことがあるので)、早めに着いて職場で寝ていたのだ。
 慢性的に寝不足だったので、仮眠なのにすごく深い眠りに達した。携帯のアラームをかけるのだが、アラームが鳴って「起きなきゃ」とおもうのに身体がまったく動かないことがあった。脳は起きているのに身体が起きられなくて金縛り状態になっていたのだ。

 タイムカードを押し、業務開始。金庫を開けてレジ金の準備をする。冬は寒すぎてうまく指が動かないこともあった。
 売場に行き、レジの電源をつけたり釣銭の用意をしたりしていると早朝番のバイトがやってくる。ほとんど大学生。フリーターのバイトも多かったが、フリーターは早起きができないのだ(偏見)。


 七時から本の荷出し。
 本屋で働いているというと、よく「本屋って朝遅いからのんびりできそうだよね」と言われた。とんでもない。
 店にもよるが、ぼくが働いていた店では六時前にはもうその日発売の雑誌が到着していた(書籍はもうちょっと遅くて七時ぐらい)。本を届けてくれる人が店の鍵を持っていて、勝手に鍵を開けて本を置いていってくれるのだ。
 もっとも、到着時間は店によってずいぶんちがうようだ。ある店の新規オープンを手伝いに行ったことがあるが、その店は九時ぐらいだった。それはそれでたいへんで、到着から開店まで時間がないのでめちゃくちゃあわただしい。オープンと同時に買いに来る人もいるし、そういう人は目当ての本がなければよそに行ってしまったりする。しかも開店してから本を並べることになるわけだが、客がいるとものすごく本を並べづらい。本屋の客は本に集中しているので、近くで店員が本を並べたそうにしていてもどいてくれないのだ。


 毎月一日や二十三日、二十五日あたりは雑誌の発売が多くて忙しかった。一日はわかるとして二十三日や二十五日の発売が多いのは、給料日をあてこんでのことだろう。ぼくは幸いにして「給料日まで買いたいものを我慢する」という生活をしたことがないのでこのへんの感覚はわからないが、世の中には給料日にふりまわされる人が多いことを本屋で働いて実感した。雑誌に限らずすべての賞品で月末は売上が伸びて二十日頃は低迷するのだ。

 入荷した本をすべて並べおわるのが、早くて開店の十時ぐらい。つまり最短でも三時間かかる。
 なんでそんなにかかるのかとおもうかもしれないが、数百冊の本を所定の位置に並べるのはかなり大変なのだ。郊外型の大型店舗だったし。
 特に時間がかかるのが雑誌とコミック。雑誌は付録がついているので、ひとつひとつに輪ゴムで止めなくてはならない。コミックはシュリンク袋(透明袋)をかけないといけない。あの袋ははじめからついているとおもうかもしれないが、あれはひとつひとつ書店でかけているのだよ。そして返品するときには破って捨てる。返品した商品は別の店に行き、そこでまたシュリンク袋をかけられる。うーん、無駄だ。
 あれはなんとかならんもんかねえ。客の質が良ければあんな袋かけなくてもいいのだが。そうはいっても立ち読みで済ませちゃう客はいっぱいいるわけで。ううむ。元も子もないことをいうと、コミックというもの自体が店舗で売るのに向いていないのかもしれない。
「短時間見てしまえばもう用済みになるもの」を売るのは難しい。効率だけを考えるなら、タバコ屋みたいに客が「『ONE PIECE』の15巻ください」と言って店員が奥から取ってくる……みたいにするのがいいのかもしれない。よくないな。


 それから、定期購読や注文品があるので、これは売場に出さずに取り置かなくてはいけない。新刊雑誌は発売日がわかるからいいとして、注文品はいつ入荷するかわからない。
「今注文されているのは何か」を頭に入れておいて、売場に出さないように気を付けなくてはならない。

 本の注文というのはほんとゴミ制度で、いつ入荷するかもわからないし、へたすれば注文後一週間ぐらいしてから「やっぱ無理でした」と言われることもある。
 それを客に伝えると、当然ながら怒られる。「無理なら無理って注文したときに言ってよ!」と。
 しごくもっともだ。ぼくでもそうおもう。
 でも書店の注文制度って、今はどうだか知らないけど、当時はほんとにひどかったのだ。そりゃAmazonに客とられるわ。


 あと本を並べるだけならいいのだが、売場の面積は有限なので、新たに何かを並べるならその分何かを減らさないといけない。「売れる量=新たに入ってくる量」であれば返品がゼロになるので理想だが、現実はそううまくはいかず新たに入ってくる量が圧倒的に多い。

 雑誌は鮮度が短いので、「発売から二十日経ったものを返品する」とかでなんとかなるのだが(しかし雑誌の発売日はばらばらではなく同じ日に集中しているのでそう単純な話でもないのだが)、問題はコミックや書籍、文庫だ。
 鮮度が長いので「どれを残してどれを返品するか」を判断しなくてはならない。これは店の売れ筋傾向や担当者の好みによって変わるのでなかなかむずかしい。本を読まないバイトに任せると「出版日の新しさだけで残すかどうか決める」とかになってしまうので任せられない。

 まだコミックや文庫は最終的には担当者が「おもしろそう」とおもうかどうかで決められるのだが、どうしようもないのが実用書だ。
「はじめての料理」みたいな本が各出版社から出ているのだが、どれも同じに見える。じっさい内容は大差ないにちがいない。
 これを、どっちを残してどっちを返品するかなんて決められない。最後は「出版社の担当がいい人か嫌なやつか」で決める。
 だいたい料理とか手芸とか家庭菜園なんて次々に新しい本出さなくていいんだよ。十年前とやることはほとんど変わらないんだから! ……と書店員はおもうのだが、出版社には出版社の事情があるのだろう。


 本の荷出しは力仕事だ。
 ファッション誌なんかめちゃくちゃ重い。それを何十冊と運ぶのだ。
 ぼくがいちばん嫌いだった雑誌は『ゼクシィ』だ。めちゃくちゃ重い上に、毎号かさばる付録がつく。その割に値段が三百円しかなかった(広告だらけなので安いのだ)ので、利益にならない。
 大嫌いだったので、自分が結婚するときも『ゼクシィ』は買わなかった。

 荷出しをしていると汗をかく。夏なんかクーラーをつけていても汗びっしょりだ。冬でもあたたかくなる。とにかくハードな仕事だ。


 本を並べおわると銀行に行く。
 ぼくが働いていたのはまあまあの大型店舗だったので、一日の売上が百万円ぐらい(本だけでなくDVDレンタルやCD販売もやっていた)。その売上を午前中のうちに入金しないといけないのだ。

 ATMではなく窓口で入金していた。なのでけっこう待たされた。
 ただ、待たされている間は本を読めるので好きな時間だった。

 日によっては銀行の後、配達に行く。喫茶店や美容室で定期購読をしている店に雑誌を届けにいくのだ。
 ぼくはこれが大嫌いだった。
 まあ配達については以前にも書いたけど割愛。

【読書感想文】書店時代のイヤな思い出 / 大崎 梢『配達あかずきん』


 十二時ぐらいに店に戻る。十二時~十四時ぐらいはバイトが交代で休憩をとるので、その間ぼくはレジに立たなくてはならない。

 平日の昼間は暇なので、レジ内で返品作業や発注作業をする。
 返品もまた力仕事だ。本がぎっしり詰まった段ボールを運ばなくてはならない。

 十四時頃、バイトの休憩が終わってやっと休憩をとれる。
 六時半から働いて十四時まで休憩なし。すごく疲れている。

 が、休憩は三十分しかない。今おもうと完全に労基法違反なのだが、当時はそういうものとおもっていた。
 十五分ぐらいであわただしく飯を食い、寝る。十分ぐらいなのに熟睡する。
 休憩の途中でもバイトから内線で呼びだされることがあり(クレーム対応とか)、心底いらついた。この時間に訪問してくる出版社の営業は嫌いになった。

 そうそう、出版社の営業がやってくるのだ。アポなしで。

 で、「こんな本出るんで入荷してください」と言ってくる。
 最初のほうは言われるがままに注文していたら(本は返品可能なので売れなくても懐が痛むわけではない)、営業が調子に乗って勝手に送ってきたりするようになったので、厳しく接するようになった。

 で、営業が来る頻度がどんどん減っていき、仕事が楽になった。営業が来なくてもいっこうに困らないのだ。本はどんどん出版されてどんどん取次から送られてくるので。

 出版社の営業ってのはほんとに質が悪くて、たとえば「売場の整理していいですか」とか言ってきて、「ありがとうございます」なんて言ってると、自分の出版社の本をどんどん前に持ってきて、他の出版社の本を奥に押しやったりする。ひどいやつになると、勝手に返品用の場所に他の出版社の本を押しこんだりする。ほとんど犯罪だ。
 もちろん人によるけど、ひどい営業が多かったので、どの営業に対しても冷たくあたるようになった。
 今でも覚えてるぞ。特にひどかったのはSと生活社のジジイだ。なれなれしくため口で話してくるからこっちもため口で返してやったら、あからさまにムッとしていた。へへん。


 十四時半に休憩が終わって、発注業務をしていたら十五時。退勤時刻だ。六時半+八時間+休憩三十分。

 あたりまえだが、定時に帰ることなどできない。なにしろ交代の社員がやってくるのが十七時なのだ。社員不在になってしまう。
 二交代制なのだが、早番(六時半~十五時)と遅番(十七時~二十五時半)というシフトはどう考えてもおかしい。二交代制といいつつ空白の時間があるのだから。

 しかも、早番は最低二時間は残業しないといけないのに、遅番が二時間早く出勤するということは絶対にない。ちくしょう、遅番め!
 ……と当時は遅番社員を憎らしくおもっていたのだが、悪いのは遅番ではなくこの制度をつくった会社である。恨むのなら会社を恨まなくてはならない。でも現場にいると、身近な人間に怒りの矛先を向けてしまうんだよね。


 夕方ぐらいになると店が忙しくなってくるのでレジに立ったり売場に出たり。
 書店だけならそこまで売場は忙しくならないんだけど、レンタルDVDやCDも扱ってたからね。学生や仕事終わりの人が来て忙しくなる。

 十八時過ぎにミーティングをして、本格的に遅番の社員と交代。ここでやっと「レジが忙しいので来てください」と呼ばれることがなくなる。
 溜まっていた発注作業やメールの返信をする。話好きの店長(遅番)につかまってどうでもいい話につきあわされることも。

 早ければ十八時半ぐらいに退勤。遅ければ二十時半ぐらい。

 出勤時は道がすいているので家から店まで四十分だが、帰宅時は混んでいるので一時間かかる。

 勤務時間+通勤時間で十四時間から十六時間ぐらい。ぼくは最低でも七時間ぐらいは寝ないと頭が働かない人間なので、余暇時間などゼロだった。寝る時間ほしさに夕食を食べないこともよくあった。
 もちろん本を読む時間なんかぜんぜんなかった。本屋なのに。


 年間休日は八十日ぐらい。給料は薄給(時給換算したら最低賃金の半分ぐらいだった)。

 よう続けていたわ、とおもう。

 転職を二回おこない、総労働時間は当時の半分近くになった。そして給料は当時の倍以上。ってことは労働生産性が四倍になっていることになる。

 あの頃必死にがんばってたけど、今おもうと「あの努力はほとんど無駄だったな」とおもう。もっと早く転職していればよかった。
 環境が悪ければ努力をしても先がない。環境を変えるほうがいい。


 社会全体の労働生産性を上げるには、ブラック企業を廃絶することですよ。

 労働基準監督署に予算をまわしてちゃんと仕事をさせること。それがすべてじゃないですかね。



2021年11月25日木曜日

【読書感想文】知念 実希人『祈りのカルテ』~かしこい小学生が読む小説~

祈りのカルテ

知念 実希人

内容(e-honより)
新米医師の諏訪野良太は、初期臨床研修で様々な科を回っている。ある夜、睡眠薬を多量服薬した女性が救急搬送されてきた。離婚後、入退院を繰り返す彼女の行動に、良太は違和感を覚える。彼女はなぜか毎月5日に退院していたのだ。胃癌の内視鏡手術を拒絶する老人、心臓移植を待つ女優など、個性的な5人の患者の謎を、良太は懸命に解きほぐしてゆく。若き医師の成長と、患者たちが胸に秘めた真実が心を震わす連作医療ミステリ!


 少し前、通勤電車内で隣に立っていた小学生が文庫本を開いていた。
 電車通学しているので私学のかしこい小学生なんだろうが、それにしてもめずらしい。学校の図書室には文庫本はまず置いてないので、文庫本を読んでいる子はほんとの本好きだけだ。

 しかもちらっと見たら、医師とか捜査とかの文字が見える。ライトノベルではなく正統派ミステリっぽい感じだ。

 小学生が読むミステリってなんなんだろ。気になったぼくは、横目でちらちら見て、彼の読んでいる本の題名を突き止めた。『祈りのカルテ』。

 小学生が駅で降りていくと、スマホで『祈りのカルテ』を検索した(さすがに本人の横で検索するのは気が引けた。もしも小学生がぼくのスマホ画面を見てしまったら相当気持ち悪いだろうから)。
 そして購入。どれ、〝かしこい小学生が読むミステリ〟とやらを読んでみようじゃないか。




 うん、おもしろかった。やるじゃないか、かしこい小学生くんよ。

 主人公は研修医。総合病院で、あちこちの診療科をまわって研修をおこなっているのだが、その先々でふしぎな行動をとる患者に遭遇する。

 精神科では、毎月5日に退院するようなスケジュールで服薬自殺未遂をおこなって入院してくる女性。

 外科では、早期癌の内視鏡手術に同意していたのに、ある面会客に会ったとたんに手術を拒否した老人。

 皮膚科では、火傷での入院・治療の後になぜか火傷痕が増えた母親。

 小児科では、喘息の子どもに処方された薬がごみ箱に捨てられている。

 循環器内科では、秘密裏に入院していた女優の情報が知らぬうちにマスコミに漏れている。


 それぞれ殺人ほどヘビーでもないが、「日常の謎」と呼ぶにはいささか深刻な謎。その謎を、主人公である研修医が解き明かす。
 好感が持てるのは、あくまで研修医の立場から推理をおこなっていること。研修医だから忙しいし、治療の方針を決める権限もない。もちろん警察じゃないから強権的な捜査もできない。本業はおろそかにせず、研修をこなしているうちに偶然にも助けられてたまたま解決してしまう、というストーリー。
 で、それぞれにハートフルな結末が用意されている。

 いい、ちゃんとしてる。


 シリーズもののミステリの難しさって、トリックとか謎とき部分よりも「主人公を誰にするか」にかかってるんじゃないかとおもう。

 一般人が殺人事件を捜査することはまず不可能。むりやりやってしまうとおもえばナントカ田一とか江戸川ナントカみたいに、「行く先々でたまたま殺人事件が起こる死神のような探偵」になってしまう(まあマンガならギリギリ許されるかもしれないけど)。

 探偵でも同様。私立探偵のところに事件が持ちこまれる見込みは相当低い。大金持ちの遺産相続でもからまないと、わざわざ大金払って探偵に依頼する動機がない。

 じゃあ刑事を主人公に……となると、それはそれで難しそう。警察はきちんとした組織なので、権限や縄張りが決まっている。刑事が勝手にあちこち捜査するのには限界がある。
 数々の署員が集めてきた証拠をもとに丁寧な捜査をくりかえして着実に犯人を絞り込んでゆく……というのは現実的だが、小説としてはおもしろみに欠ける(横山秀夫氏のようにそれをおもしろく書ける人もいるけど)。


『祈りのカルテ』は、研修医という(推理に関しては)素人を主人公に据えながら、研修医の立場を超えた出すぎた真似をせず、それでいてきちんと証拠を集めて推理をする。うん、よくできた小説だ。




 五つの謎を解きながら、五篇を通して「主人公はどの科を選択するのか」という小さな(当人にとっては大きい選択だけど)謎も語られる。

 ミステリでありながら、研修医の成長物語にもなっていて、いやほんとよくできた小説だ。

 そして、よくできた小学生だぜ、あいつ。


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睾丸が痛すぎて救急車に乗った話



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2021年11月24日水曜日

ポートボールにおけるドリブル再発明の瞬間

 ポートボールを知っているだろうか。

 Wikipedia『ポートボール』


 バスケットボールの子ども向け版というか。だいたいのルールはバスケットボールと同じだが、いちばんのちがいはゴールリングの代わりに人が立つこと。台の上にゴールマンが立って、その人にボールを渡せば得点が入る。

 みんな小学校でやったよね? とおもったが、今調べたら大阪発祥のスポーツなので全国区ではない可能性もある。兵庫県の小学校に通っていたぼくは何度かやったことあります。


 どんなへたくそでも適当にボールを蹴っていれば得点が入る可能性のあるサッカーとちがい、バスケットボールはある程度技術がないと点が入らない。小学校低学年だとそもそもゴールの高さまでボールが届かない、なんてこともある。

 その点ポートボールなら、ゴールは低い(台に乗ってもにせいぜい二メートルぐらい)し、シュートが正確でなくてもゴールマンが手を伸ばしてキャッチしてくれる。




 小学校低学年の子どもたちとよく公園で遊ぶ。

 子どもが未就学児のときはおにごっことかけいどろとか、とにかく走る遊びが主流だったのだが、ドッジボールなど多少複雑な遊びをやるようになってきた。

 ただ、ドッジボールって小学校低学年の遊びの定番でありながら、万人が遊ぶのにはあまり向いてないスポーツなんだよね。
 なぜなら強い子にばかりボールが集中するから。

 強い子は投げて、当てて、キャッチして、当てられて外野に行って、また当てて内野に復帰して……と八面六臂の活躍を見せる一方、弱い子は「逃げる」以外にはほとんどやることがない。

 いやほんと、「すごいスピードで飛んでくるボールから逃げまどい、ボールをぶつけられて痛い目に遭い、外野に行ってぼーっと過ごし、たまに転がってくるボールを拾って強い子にパスするだけ」のスポーツなんかおもしろいわけないよね。ほぼ罰じゃん。
 ドッジボールがスポーツ嫌いを生みだしていると言っても過言ではない。

(ちなみに、男子はそこそこ下手な子でも積極的に敵を狙いにいくのに対し、女子はそこそこうまい子でも空気を読んで自分では投げずに味方にパスすることが多い。既にはっきりと行動に男女差があっておもしろい)


 そんなわけで、ボール遊びが上手な子も下手な子もそこそこいっしょに楽しめるスポーツはないかなーと考えて、小学校のときにやっていたポートボールを思いだした。
 あれなら下手な子でもぼちぼち活躍できるかも。

 ということで、子どもたちにルールを説明してポートボールをやることにした。

  • ゴールマンは大人がやる(ゴールマンはただ立つだけであまりおもしろくないので。またゴールマンは背が高い人でないと点が入らないので)
  • ドリブルは教えなかった。うまい子のワンマンプレーにならないように、パスをつながないと点をとれないようにした。
  • 公式ルールだと2歩まで歩いていいらしいが、低学年には「2歩まで」を意識するのは難しい。また「3歩歩いた」「いや2歩だ」で喧嘩になることが目に見えているので、シンプルに「ボールを持っている人は1歩も歩いてはいけない」にした。投げるときに1歩踏みだすぐらいは黙認。
  • 危険な接触を減らすため「ボールを持っている人から奪うのは禁止」とした。ボールを取ったらあわてなくていい。小学校低学年には「一瞬で状況を把握してパスコースを決める」のは難しすぎる。スチールが禁止なので、ボールを手に入れるには、パスをカットするか、こぼれ球を拾うかしかない。
  • 怪我や喧嘩を招かないよう、2人同時にボールに触れたときはじゃんけんで所有権を決めることにした。




 ということで、小学2年生4人+大人2人でポートボールをやってみた。

 うん、いい。かなり白熱する。

 パスをつながないと点がとれないので、全員にまんべんなくボールを触る機会がある。ゴールマンを除けば1チーム2人しかいないので、必然的に下手な子にもボールがまわってくる。これが1チーム4人とかになると下手な子はパスしてもらえなくなるんだろうけど……。

 子どもは走りまわるけど大人はまったく走らなくてもいい、というのもいい。

 子どもは体力が無尽蔵にあるので、子どもといっしょにおにごっこなどをやっていると大人が先にばてるのだ。

 気を付けないといけないのは、なるべく接触を避けるようなルールにしているが、それでもやはりボールをめぐって子ども同士の接触が発生することだ。お互いに頭をぶつけるとか、別の子に引っかかれるとかは多少覚悟しなければならない。

 そうか、小学校でドッジボールが人気なのは、プレイヤー同士の接触が少ないからってのもあるんだろうな。ボールをぶつけられるのは痛いけど、怪我をするほどじゃないもんな。




 子どもたちははじめてのポートボールを楽しんでいた。ルールもそれほど難しくないので、みんなすぐに飲み込めた。

 特に教えたわけじゃないけど、「パスをカットするためにボールを持っている子と、パスを待っている子の間に入る」なんてプレーも自然にできるようになった。

 ところが「パスをカットされないように、ボールを持っていない子が右に左に動きまわる」はなかなかできない。みんな、ぼーっと突っ立ってパスを待っている。目の前に敵がいるからパスがもらえるはずないのに。

 そういやぼくも小学校のときにサッカーをやっていたけど、コーチから「パスもらいに行け!」とよく怒られたなあ。
 小学生にとって「パスをもらいやすい位置に移動する」というのはかなり難しいのだ。自分を客観的に見る、俯瞰的な視点が必要になるもんな。




 おもしろかったのは、自然発生的にドリブルが生まれたことだ。

 歩いてはいけないので、パスコースとシュートコースをふさがれるとどうすることもできない。立往生だ。

 あるとき、ひとりの子がボールを少し前に投げて自分で拾いに行った。ちょっと投げる、拾いに行く。ちょっと投げる、拾いに行く。そうやれば少しずつ前に進めることに気づいたのだ。
 他の子が「あれいいの?」と訊いてきたが、「ボールを持ったまま歩いてはいけない」というルールは破っていないので問題ない。
 OKと答えると、他の子も真似をしはじめた。


 ちょっと投げて、拾う。またちょっと投げる、拾う。

 ああそうか。これは原始的なドリブルだ。この子は、教えられていないのに自然にドリブルを発明したのだ。


 想像だけど、たぶんバスケットボールのドリブルもこうやって生まれたんだとおもう。

 バスケットボールが生まれたとき、「ボールを地面にバウンドさせながらだったら歩いていい」というルールはたぶんなかったはず。あったのは「ボールを持ったまま3歩以上歩いてはいけない」というルールだけ。
 たぶん最初期のバスケットボールにはパスはあってもドリブルはなかったはずだ。

 だがあるとき、誰かが「ボールを地面にバウンドさせながらならルールに抵触せずに進める」ことに気づいた。周囲は「あれアリなの?」とおもっただろうが、ルール的にはセーフだった。
 そこでみなが真似をはじめ、ドリブルが生まれたのだ。

 

 今、ぼくはポートボールにおけるドリブル再発明の瞬間を目撃したのだ!


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オリジナルの公園あそび


2021年11月22日月曜日

【暴言】前後不覚になっている人でも使える包丁

 高齢者の自動車運転免許について。

「高齢者が運転しやすい自動車の開発が待たれる」っていうニュース記事を読んだんだけどさ。

 そもそも発想の出発点がまちがってない?

 高齢者に運転しやすい自動車を開発する必要ある?


「高齢者が運転しやすい自動車」ってさ。

「自暴自棄になっている人でも使える包丁」

とか

「泥酔して前後不覚になっている人でもかんたんに使えるチェーンソー」

みたいなもんでさ。

 いやいや、正常な判断ができない人にそんな物騒なもん渡しちゃだめでしょ、って話なんだよ。

 使いやすいとか使いにくいとか関係なく。むしろ、使いにくいほうがいい。


 技術が未熟な人をサポートする自動車はどんどん開発してほしい。

 でも、判断力が衰えている人はサポートしちゃいけない。

 判断力が落ちても運転しやすい自動車って、要は「人を殺しやすい自動車」ってことでしょ。


 こういうこというと「車がないと生活できない高齢者は死ねっていうのか!」みたいなことを言う人がいるんだけど。

 ぼくは「うん。そうだよ。そういう人はぜひ現世から退場していただきたい(婉曲表現)」とおもっている。

 他人を危険にさらした生活の上にしか生きられないなら、さっさとお引き取り願いたい。

「川に垂れ流す汚水の処理なんかやってたらうちの工場はつぶれてしまう!」みたいな話だ。さっさとつぶれろ。


 ついでに言うと、
「徒歩+バスで三十分で駅に行ける場所住んでいて」「引っ越すだけの貯金は十分にある」我が両親も、「車がないと生活できない」と言っていたので、「車がないと生活できない」の99%は「不便な生活を強いられるぐらいなら他人を殺す方がマシ」のわがままだとおもっている。


2021年11月19日金曜日

【読書感想文】安部 公房『砂の女』

砂の女

安部 公房

内容(e-honより)
砂丘へ昆虫採集に出かけた男が、砂穴の底に埋もれていく一軒家に閉じ込められる。考えつく限りの方法で脱出を試みる男。家を守るために、男を穴の中にひきとめておこうとする女。そして、穴の上から男の逃亡を妨害し、二人の生活を眺める部落の人々。ドキュメンタルな手法、サスペンスあふれる展開のなかに、人間存在の象徴的な姿を追求した書き下ろし長編。20数ヶ国語に翻訳された名作。

 芥川賞作家・安部公房の代表的作品。

 昆虫採集に出かけた男が、砂丘の村を訪れた。村の家は、一軒一軒が砂丘内に彫られた穴の底に位置している。宿を探していた男は、夫と子どもを亡くした女の家に泊まることになるのだが、翌朝になると縄梯子が外されて砂の穴から出られなくなっていた……。


 設定としては「砂の底に閉じ込められた」といたってシンプルなものなのに、なんとも奥が深い。ぐいぐい引き込まれて、ずっと息苦しい。自分までもが穴の底に閉じ込められた気分になる。

 ふだんまるで意識することないけど、改めて考えると砂っておそろしい。

 子どもの頃、こわかった生き物がみっつある。ひとつはハエトリグサ。アニメ『みなしごハッチ』で、ハッチがハエトリグサにつかまって少しずつ溶かされてゆくシーンが忘れられない。
 それからタガメ。図鑑に「メダカやオタマジャクシにつかまり、生きたまま体液を吸います」と書いていてふるえあがった。
 そしてもうひとつがアリジゴク(あとまんが日本昔話で見た「影ワニ」もこわかったが、これは架空の生き物なので除外)。

 アリジゴク。
 全虫好き小学生のあこがれの昆虫だろう。成虫とは似ても似つかないが、ウスバカゲロウの幼虫である。
 名前は有名だが、意外と目にする機会は少ないのではないだろうか。虫好き少年だったぼくも一度しか見つけたことがない。

 アリジゴクは砂にすり鉢上の巣をつくる。そしてアリなどの獲物が落ちてくるのを待つ。ただひたすら待つ。アリはめったに落ちないらしく、一ヶ月以上待ち続けることがあるそうだ。非常に効率の悪い狩りだ。
 だがアリが巣に足を踏み入れたら最後。もがけばもがくほど砂はすべり、どんどん下に落ちてゆく。そして穴の底で待ち受けるアリジゴクに消化液を注入され、溶かされてしまう。ああおそろしい。
(今気づいたのだが、ぼくは「生きたまま獲物を溶かすやつ」が怖いようだ。カマキリみたいに一気に殺すやつはちっとも怖くない)


『砂の女』は、アリジゴクに落ちたアリの気分が味わえる小説だ。

 そう、この小説を読みとくキーワードのひとつはもちろん〝砂〟だが、〝虫〟も重要なワードだ。

 主人公の男は昆虫採集が趣味。砂の底に閉じ込められるきっかけも、新種のハンミョウを探しにきたことだ。
 また昆虫採集が好きなので、ことあるごとに様々な昆虫が比喩で用いられる。そして気づかされる。
 穴の底での暮らしは昆虫の暮らしと大差ない。もっと言えば、人間一般の暮らしが昆虫の暮らしとほぼ同じなのだと。

『砂の女』では固有名詞はほぼ出てこない。ラストに男の本名が明かされるが、それも大した意味はない。出てくるのは〝男〟〝女〟〝老人〟〝村人〟だけだ。昆虫一匹一匹に名前がないのと同じように。




 読んでいて、文章のすごさにうならされた。

「冗談を言うな! やつらの何処に、こんな無茶な取引きをする権利があるってんだ……さあ、言ってみろ! ……言えはしまい?……そんな権利なんてどこにもありゃしないんだ! 」
 女は目をふせ、口をつぐむ。なんてことだろう。戸口の上に、ちょっぴりのぞいている空は、もうとっくに青をとおりこし、貝殻の腹みたいにぎらついていた。仮に、義務ってやつが、人間のパスポートだとしても、なぜこんな連中からまで査証をうけなきゃならないんだ! ……人生は「そんな、ばらばらな紙片れなんかではないはずだ……ちゃんと閉じられた一冊の日記帳なのだ……最初のページなどというものは、一冊につき一ページだけで沢山である……前のページにつづかないページにまで、いちいち義理立てする必要などありはしない……例え相手が飢え死にしかかっていたところで、一々かかわり合っている暇はないのだ……畜生、水がほしい! しかし、いくら水がほしいからって、死人ぜんぶの葬式まわりをしなければならないとしたら、体がいくつあったって足りっこないじゃないか!

 はっきり言って、意味が分からない。でも、意味は分からないけど、こうつぶやいている男の気持ちは分かる。
 意味はわからないのに、心情はわかる。すごい文章だ。

 穴底に閉じ込められた男はどんどん追いつめられてゆく。
 外には出られない。穴の中の暮らしは不便きわまりない。口にも目にも砂が入り、何をしていても砂がまとわりつく。水はいつ断たれるかわからない。
 村人からの監視の目が光っている。いっしょに暮らす女は好意的ではあるが、その奥底で何を企んでいるのか判然としない。
 読んでいるだけでも気が滅入る。

 男はどんどん正気を失ってゆく。ほとんど発狂に近いぐらいに。けれども、狂人には狂人の理屈がある。その「狂人の理屈」が巧みに表現されている。すごいよ、これは。


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2021年11月18日木曜日

日常の謎系ミステリ

 勤務先のビル。

 数日前から、エレベーターの横で異臭を感じるようになった。何かが腐ったようなにおいだ。

 はじめは、誰かが何かをこぼしたのかな? ぐらいにおもっていた。

 だが翌日も、その翌日も、エレベーターの横に行くと臭い。

 フロアは毎日掃除のおばちゃんがモップがけをしている。何かをこぼしたとしても、翌日までにおいが残っているのはおかしい。


 ところでこのビル、ずいぶん古くて大正時代に建てられたものらしい。当初はホテルだったそうで、空襲にも耐えぬき、今はオフィスビルになっている。

 ホテルだった名残りだろう、エレベーター横に「金庫室」という部屋がある。

 一度、気になってこっそりのぞいてみたことがある。

 もちろん今は金庫はない。かつては金庫が並んでいたであろう棚がずらっと並んでいるだけだ。何にも使われていない。狭い部屋なので使い道がないのだろう。


 異臭は、金庫室のほうから漂ってくる。

 金庫室に扉はあるが施錠されてはいない。何もない部屋だから鍵をかける必要もないのだ。

 もしや。

 ミステリ小説などを読むと、人の死体というのは時間が経つと強烈なにおいを放つものらしい。

 嗅いだことはないが、ひょっとしてこの異臭は腐乱死体によるもの?

 大正時代に建てられたホテルの金庫室……。ミステリの舞台としてはうってつけだ。なんだかわからないけど事件のにおいがする……。


 どうしよう。こっそり金庫室に入って調べてみようか。

 もし、本当に死体があったらどうしよう。気にはなるけど、死体なんか見たくないな。

 通報したり、事情を説明したりするのめんどくさいな。なんで金庫室に入ったのか訊かれても困っちゃうしな。

 第一発見者がいちばん怪しいっていうしな。ぼくが殺されたんじゃないかと疑われたらどうしよう。身の潔白を証明できるだろうか。

 冤罪事件の本を読んだことあるけど、警察の取り調べってむちゃくちゃらしいからな。犯人でない人でも自白させるっていうし。


……と逡巡していたら、ふと金庫室の前に置かれた観葉植物の鉢が目に入った。

 鼻を近づけてみる。

 くさい。

 まちがいない、異臭の発生源はここだ。

 何かが腐ったようなにおいの原因は、観葉植物の肥料だ。



 真相なんてこんなもんね。


2021年11月17日水曜日

いちぶんがく その9

ルール


■ 本の中から一文だけを抜き出す

■ 一文だけでも味わい深い文を選出。




「なんで、途中で殺すの」

(「新潮45」編集部編『凶悪 〜ある死刑囚の告発〜 』より)




何年かぶりにあげた悲鳴をひじきに捧げる。

(川嶋 佳子(シソンヌじろう)『甘いお酒でうがい』より)




ワイングラスの向こう側で笑っているあいつは友だちではない。

(小田嶋 隆『友だちリクエストの返事が来ない午後』より)




気持ち悪いことである。

(小谷野 敦『本当に偉いのか』より)




「わたしたちは昔の人が思い描いた未来に閉じこめられたのよ」

(伊藤計劃『ハーモニー』より)




誓って言うが、女性のお尻をつねったのは、後にも先にもそのときだけである。

(H・F・セイント『透明人間の告白』より)




要するに「何かを撮る」という行為は、「何かを消してしまう」行為と同じことなのだ。

(森 達也『たったひとつの「真実」なんてない』より)




自分でいうのもなんだが、僕はアジアのためになるようなことはなにひとつしていない。

(下川 裕治『歩くアジア』より)




それとも全然知らない人の鼻をつまんでしまったとか?

(今村 夏子『むらさきのスカートの女』より)




「女の子に嫌われると、先生みたいに寂しい男になっちゃうぞ」

(井上 真偽『ベーシックインカム』より)




 その他のいちぶんがく


2021年11月16日火曜日

八歳と二歳との平日夜

  平日夜の過ごし方。

 オチも何もないけど、将来自分で読み返したくなるかもしれないので書いておく。



 

 家に帰ると、たまーに子どもが玄関まで迎えにきてくれる。でもほとんど迎えに来ない。

 長女は漫画を読んだりパズルをしたりしている。次女はテレビで『いないいないばあっ!』か『ミッフィーとおともだち』の録画を観ている。
 ちょっと寂しい。

 資源ごみや古紙回収の日は、マンションの集積所までごみを持っていく。
 玄関で「ごみ出しにいくけど行く人ー!」と言うと、二回に一回ぐらいは娘たちのどちらかまたは両方がついてくる。ごみを出しにいくだけなんだけど。ついてきてくれるとうれしい。

 ちょっとごみを出しに行くだけでも、長女はマスクをする。何も言われなくても「外出時はマスク」が「外出するときは靴を履く」と同じくらいあたりまえになっているのだ。ちょっとあわれな気もする。ナウシカが腐海に行くときはあたりまえのようにマスクをつけるようなもので、「マスクをつけずに外出できたことなんて今の子どもたちは知らないんだな……」という気になる。八歳なんで知らないわけじゃないのだが(しかし二歳のほうは「外出時にはマスクをつけるもの」とおもっている可能性が高い)。

 夕食はテレビを観ながら。妻が「ごはんのときはテレビを消してほしい」と言っていたのだが(そして子どもが赤ちゃんのときは守られていたのだが)いつのまにかなしくずし的に視聴があたりまえになっている。

 ぼくは「食事しながらテレビを観たい派」だ。なぜなら「観たい番組がある」「でもテレビ視聴に専念するのは苦痛」からだ。
 要するに「ながら見」をしたいのだが、テレビを観ながらできることはかぎられている。
 うちはキッチンに向かうとテレビに背を向けることになるので、料理や洗い物をしながらテレビを観ることができない。
 読書のような頭を使うことをしながらテレビを観ることはできない。
 結局、アイロンをかけているときか食事時ぐらいしかないのだ。だから食事時はテレビを観る。

 とはいえチャンネル権は長女が握ることが多い。
 録画しておいた『ドラえもん』や『ちびまる子ちゃん』や『名探偵コナン』を観ながら食べることが多い。あとAmazon Primeの『名探偵コナン』『ODD TAXI』『かげきしょうじょ!』などのアニメも観ていた。

 ぼくが好きな『座王』は土曜日の朝に観る。『水曜日のダウンタウン』は妻から食事時に観ることを禁じられている。すごく下品な内容のときがあるからだ。だから土曜か日曜の朝にアイロンをかけながら観る。

 ぼくが好きな『ダーウィンが来た』は夕食時に観る。『ブラタモリ』は長女が「つまんない」と言うので、『昆虫すごいぜ』はやはり長女が「虫嫌い!」と言うのでなかなか観る機会がない。

 あと長女はたまに特番でやる『逃走中』と『はじめてのおつかい』が大好きだ。
『はじめてのおつかい』なんて親にならないと良さがわからないんじゃないかとおもうのだが、長女は食い入るように観ている。あとバラエティー番組に関心を示さない二歳の次女も『はじめてのおつかい』だけはじっと観ている。自分と歳の変わらない子が奮闘しているのを見るとなにかしら感じ入るところがあるのだろう。

 食後は子どもたちの歯を磨く。今ではふたりともなかなかやらない。ぼくもめんどくさい。自分の歯を磨くのでも面倒なのにさらに二人分の歯を磨くなんて。さっさと片付けようとガシガシ磨くと「痛い!」と言われるので、一本一本丁寧に磨く。ああめんどくさい。歯科医にならなくてよかった。

 風呂を沸かし、娘二人といっしょに入る。次女の頭と身体を洗ってやる。頭にお湯をかけられると嫌がる。長女が小さいときはなるべく顔にお湯がかからないようにそうっとやっていたけど、次女のときはそんなことは気にせずバッシャーとかける。どんどん育児が適当になっていることをこういうときにも実感する。おかげで次女のほうがたくましく育っている。

 湯船に漬かり、長女の宿題を手伝う。「足し算や引き算をおうちの人に聞いてもらう」という宿題が毎日出るのだ。ぼくが問題を出し、長女が答える。はじめは「8+5は?」「9+6は?」とかやってたのだが、問題を考えるのもたいへんだし、自分が出した問題をおぼえておかなくてはならない(しかも次女の相手をしながら)。だから最近は「0から6ずつ足していって」とか「70から7ずつ引いていって」とかやってる。これなら問題を考えなくていいし、途中を聞いてなくて指定した数の倍数かどうかを確かめればわかるので楽ちんだ。おまけにまだ習っていない九九の練習にもなる。ナイスアイディアだ。

 風呂から出て、次女の身体を拭いてやる。次女の中でタスクの役割があって、身体を拭くのはおとうさんで、保湿クリームを塗ったりパジャマを着せたりするのはおかあさんだ。だから裸でおかあさんのもとへ走っていく。

 二歳児が裸でうろうろしているのはいいとして、八歳児も裸で歩きまわることがある。一応女の子なので裸を人前にさらしてはいけないんだよと教えなきゃいけないのだが(男の子でもだけど)これがなかなかむずかしい。「小さい女の子の裸を見たがる変な人がいるんだよ」とか教えたほうがいいんだろうか。せちがらいけど、いつかは知らなきゃいけないことだもんな。まだ教えてない。

 風呂から上がると、娘たちといっしょにようかい体操第一をする。うちの家では今になってようかい体操が流行っているのだ。八年ぐらい遅い。
 ようかい体操は、意外とちゃんとした体操になっている。ラジオ体操と同じくらいの身体のあちこちが動く。やるじゃないか。さすが振り付け・ラッキィ池田。

 早く布団に入れたときは、娘たちに本を読んでやる。五歳半離れていると、なかなか同じ本では楽しめない。

 長女は、『ドラえもん』を一通り読み、『21エモン』と『パーマン』も全巻読み、今は『モジャ公』を読んでいる。藤子・F・不二雄制覇も近い。

 次女のお気に入りは『ノンタン』『こぐまちゃん』『ワニワニ』などのシリーズだ。定番。おなじみのキャラクターが出てくる絵本が好きなようだ。

 絵本を読みおわると灯りを消す。ぼくの左が長女、右が次女。

 長女はぼくと手をつなぎたがる。手をつないでやると三分ぐらいで寝る。とんでもなく寝つきがいい(寝起きは悪い)。
 ぼくがトイレに行って、帰ってきたらもう寝ていることもある。手をつなぐ間もない。

 次女は保育園でお昼寝をしているのでなかなか寝ない。ときどき「お話して」と言ってくるので、今日の出来事(朝起きてバナナとヨーグルトを食べて……という日記のような内容)を話してやる。でもぜんぜん寝ない。
 しかし次女は自立心が強いのでほうっておいても平気だ。真っ暗な部屋で家族みんなが寝ていてもひとりで何かしゃべっている。ぼくは電子書籍を読む。気づくと次女も寝ている。ぼくも寝る。


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六歳と一歳との平日夜


2021年11月15日月曜日

【読書感想文】吉永 南央『オリーブ』

オリーブ

吉永 南央

内容(e-honより)
オリーブの木を買ってきた翌日、突然、消えた妻。跡を辿ろうとする夫は、2人の婚姻届すら提出されていなかった事実を知る。彼女は一体何者だったのか?そして、彼女の目的とは?表題作の「オリーブ」をはじめ、「紅雲町珈琲屋こよみ」シリーズの著者による、「大人の嘘」をモチーフにしたサスペンス作品集。


 あらゆる痕跡を残して失踪した妻、夫の入院中に夫の旧友と関係を持っているらしい妻、不倫相手の彫刻を自作のものとして発表する男、行方不明になった統合失調症の妹……。

 どの短篇も「親しい人の秘密」がテーマとなっている。

 最終的にぜんぶハートフルな結末に着地するのが、個人的には好きじゃなかったな。そういうのもあっていいけど、ぜんぶがそうだと「どうせ次も悲劇的な事実は出てこないんでしょ」という気になってしまう。


 好きだったのは、ラストの短篇『欠けた月の夜に』。

 優しい夫と賢明な息子、そして気の合う友人たちに恵まれ、幸せに暮らしていた主人公。
 ところがある日、夫が突然死してしまう。毎日帰りが遅く、休日出勤もしていたので、過労死ではないかと疑うが、会社側の対応は冷たいもの。会社相手に訴訟の準備をしていたところ、「夫は毎日サボっていて会社で居場所がなかった」との告発状が届く。調べると、夫の意外な一面が出てきて……。

 という話。

 結婚して十年たってわかるのは、配偶者のことなんてちっともわからないということ。
 特に子どもを育てていると関心は子どものことばかりで、配偶者のことなんて考えている余裕がなくなる。
「子どもがしんどそう」の前では、「妻の機嫌が悪そうだ」なんて一顧だにする余地ないよ、じっさい。もちろん向こうもそうだろう。

 家にいる間に妻が何をしているのかなんてまったく把握していないし、妻が「今は子どもが小さいから我慢してるけど、あと十年したらこののん気に鼻をほじっている男とは離婚しよう」と考えていたとしても、ぼくにはわからない。

 子どものとき、家族は一体だとおもっていた。父と母はお互いすべてをわかりあっているものだとおもっていた。

 でも、夫婦なんてしょせんは他人なんだよなあ。どこまでいっても。
 ただこれは必ずしも諦観ではなく「他人だからこそそれなりの距離感を保っていれば長期間つきあっていける」という認識をぼくはもっている。
 夫婦が親子やきょうだいのような距離感になったら、数日で離婚だよ。


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2021年11月12日金曜日

【読書感想文】ダニエル・カーネマン『ファスト&スロー あなたの意思はどのように決まるか?』

ファスト&スロー

あなたの意思はどのように決まるか?

ダニエル・カーネマン(著)  村井 章子(訳)

内容(e-honより)
整理整頓好きの青年が図書館司書である確率は高い?30ドルを確実にもらうか、80%の確率で45ドルの方がよいか?はたしてあたなは合理的に正しい判断を行なっているか、本書の設問はそれを意識するきっかけとなる。人が判断エラーに陥るパターンや理由を、行動経済学・認知心理学的実験で徹底解明。心理学者にしてノーベル経済学賞受賞の著者が、幸福の感じ方から投資家・起業家の心理までわかりやすく伝える。

 人間の思考・行動がいかに不合理であるかを〝ふたつのシステム〟をキーワードに解き明かした本。

 人が判断をするときは、「俊敏だけどまちがいやすいシステム1」と「合理的だけど怠惰で疲れやすいシステム2」のふたつのシステムを使っていると著者は説く。


 たとえば

ボールとバットを1つずつ買いました。合計で110ドル、バットはボールより100ドル高い値段でした。バットはいくら?

という問題を出されたとする。
 このとき、多くの人は「100ドル」とおもってしまう。
 だが、よく考えればこれは間違いだとわかる。答えは105ドルだ。かんたんな二元一次方程式の問題だが、多くの人がまちがえてしまう。

 これは、連立方程式が得意なシステム2よりも、直感で答えを探すシステム1のほうが素早く発動するからだ。

システム2が他のことにかかり切りのときは、私たちはほとんど何でも信じてしまう、ということだ。
 システム1はだまされやすく、信じたがるバイアスを備えている。疑ってかかり、信じないと判断するのはシステム2の仕事だが、しかしシステム2はときに忙しく、だいたいは怠けている。実際、疲れているときやうんざりしているときは、人間は根拠のない説得的なメッセージ(たとえばコマーシャル)に影響されやすくなる、というデータもある。

 システム1は往々にして間違える。システム2も間違いを犯すが、システム1は頻繁に間違える。

 だったらシステム2だけを使えばいいじゃないかとおもうかもしれないが、そうもいかない。システム2は賢いけれど、怠けものだ。

「正解だったら1万円あげます。不正解なら1万円の罰金です」といった条件でもないかぎりは、システム2は出動しようとしないのだ。




 さらにシステム2はすぐに疲れてしまう。ことあるごとに機能不全に陥る。

 いくつかの数字を覚えておくように、と命じられているときにデザートを見せられると、カロリーの高そうなケーキを選ぶ確率が上がったそうだ。

 システム2が忙しいと「カロリーの高いケーキは控えないと」といった判断ができなくなるのだ。

 認知的に忙しい状態では、利己的な選択をしやすく、挑発的な言葉遣いをしやすく、社会的な状況について表面的な判断をしやすいことも確かめられている。頭の中で数字を覚えて繰り返していることに忙殺されて、システム2が行動ににらみを利かせられなくなるためだ。もちろん、認知的負荷だけがセルフコントロール低下の原因ではない。睡眠不足や少々の飲酒も同様の効果をもたらす。朝型の人のセルフコントロールは、夜になるとゆるむ。夜型の人は逆になる。今やっていることがうまくいくだろうかと心配しすぎると、実際に出来が悪くなることがある。これは、余計な心配で短期記憶に負荷をかけるからだ。結論は、はっきりしている。セルフコントロールには注意と努力が必要だということである。だからこそ、思考や行動のコントロールがシステム2の仕事になっているのである。

 専門家であっても、システム2が怠けることからは逃れられない。

 仮釈放申請審査官が仮釈放申請を許可するかどうかを時間帯別に調べたところ、審査員の休憩後は仮釈放の申請が通りやすくなり、休憩時間前には却下されやすくなったそうだ。
 仮釈放は基本的に却下されるため、疲労や空腹によって「基本通り」という判断が下されやすくなったわけだ。仮釈放を許可するには相応の理由を考える必要があるため、システム2の働きが弱っているときは許可されにくいわけだ。

 他人の人生を大きく変える決断であっても、空腹や疲労という単純な要因によって左右されてしまう。人間の判断がいかに当てにならないかを教えてくれる。

 そういやぼくも大学時代に模試採点のアルバイトをしたことがあるが、途中から採点基準が変わってしまうことがあった。午前中は○にしていたけど、夕方は×にしてしまう、というように。あれもシステム2の働きが弱っていたためなんだろう。

 カルト宗教やマルチ商法などが合宿や長時間セミナーを開催するが、あれも疲れさせてシステム2を働かせないためなんだな。




 システム2は空腹や疲労にも弱いが、逆に幸福にも弱い。

 しあわせな気分のときは直感が冴え(つまりシステム1の働きが優先され)、論理エラーを犯しやすくなるそうだ。

しあわせな気分のときは、システム2のコントロールがゆるむ。ご機嫌だと直感が冴え、創造性が一段と発揮される一方で、警戒心が薄れ、論理エラーを犯しやすくなる。ここでもまた、単純接触効果と同じように、生物学的な感知能力との密接なつながりが見受けられる。上機嫌なのは、ものごとがおおむねうまくいっていて、周囲の状況も安全で、警戒心を解いても大丈夫だからである。逆に不機嫌なのは、ものごとがうまくいっておらず、何か不穏な兆候があり、警戒が必要だからである。つまり認知容易性は、しあせな気分の原因でもあれば結果でもあると言うことができる。

 被験者にひっかけ問題を出題したとき、小さいフォント・かすれた印刷の問題用紙を渡したほうが正答率が高かったそうだ。

 認知負担を感じる → システム2が機能 → 注意深くなった というわけ。
 ストレスを感じるのも悪いことばかりではない。


 社会って基本的に「人間は合理的な生き物で、判断は首尾一貫している」という前提で設計されているけど、ぜんぜんそんなことないんだよね。

 天気がいいとか朝食を食べすぎたとかの些細なことで、判断基準は揺らいでしまう。


 他にも、人間の判断がいかに不正確かを示す調査結果が次々に報告される。

 学校補助金の増額案に賛成か反対かの投票。投票所が学校の場合、そうでない場合より賛成率が高くなった。

 ベテラン裁判官に、万引きで逮捕された女性の調書を読んだ上で、サイコロを振ってもらう。サイコロには仕掛けがしてあり、3か9しか出ない。刑期(ヶ月)は出た目より長くすべきか短くすべきか答える。最後に、刑期を決める。
 すると、9が出たグループの裁判官が提示した刑期は平均8カ月、3が出たグループは平均5ヶ月だった。サイコロの目を意識しただけで、判決がそれに引っ張られてしまうのだ。
(ということは、裁判の供述で「半年」「1年」などのフレーズを多用すれば、刑期が短くなりやすいということだな。これはぼくが被告人になったときのためにおぼえておこう)




 システム1/システム2の話とはあまり関係がないが、おもしろかったのは
「極端なケースは大きい標本より小さい標本に多くみられる」
という話。

 たとえば、全国の公立小学校で一斉学力テストをしたとする。
 すると、成績上位10校に入ったのは、生徒数の少ない学校ばかりだった。
 なるほど、少人数学級は成績を向上させるのだな……と考えるのは早計だ。
 逆に成績下位10校を見てみると、こちらも生徒数の少ない学校ばかり。

 なぜなのか。

 たとえば、サイコロを2個振って出目の平均が1になることは、さほどめずらしくない。1/36の確率だ。
 だがサイコロを100個振って平均1になることはまずありえない。
 100個振れば平均は3.5に近い値になるはずだ。

 つまり、標本の母数が少ないほど極端な値になりやすいというわけ。
 特に学力テストなんかだと、上位は話題になるけど下位は話題になりにくいので、より「少人数クラスは成績を引き上げる」という単純な結論につながりやすい。

 これは知っておくと、いろんなことにだまされずに済みそうだ。




 人間がいかに誤った判断を下すかを知っておくと、致命的な失敗を犯すのを防いでくれる……かもしれない。

「確実に5万円もらえるか、50%の確率で10万円もらえる」 なら前者を選ぶ人が多く、
「確実に5万円払うか、50%の確率で1円も払わなくて済むか」なら後者のギャンブルを選ぶ人が多い。ほんとはどちらも同じ期待値なのに。
 人間は損をしたくない生き物なのだ。
「1万円の損と0円の損」は大きい違いだが、それに比べると「5万円の損と4万円の損」はさほど大きな違いではない。

 だから八方ふさがりになった人ほど一か八かの賭けに出る。100万円持っている人が全財産を競馬に賭けることはめったにないが、200万円の借金がある人が100万円手にすればギャンブルで一発逆転を狙ってしまう。

 株の売買も同じこと。株の勝率を上げることは「なるべく売買をしないこと」だそうだ。売買を頻繁におこなう人ほど、負けたくないあまり、短期的な損失を免れようとすると無謀な挑戦をおこなってしまう。手数料も取られるしね。


 そしてプロジェクトが失敗してもなかなか手を引けない。100億の損を取り返そうとして、200億の損失を招いてしまう。

 リスクを伴うプロジェクトの結果を予測するときに、意思決定者はあっけなく計画の錯誤を犯す。錯誤にとらわれると、利益、コスト、確率を合理的に勘案せず、非現実的な楽観主義に基づいて決定を下すことになる。利益や恩恵を過大評価してコストを過小評価し、成功のシナリオばかり思い描いて、ミスや計算ちがいの可能性は見落とす。その結果、客観的に見れば予算内あるいは納期内に収まりそうもないプロジェクト、予想収益を達成できそうもないプロジェクト、それどころか完成もおぼつかないプロジェクトに邁進することになってしまう。

 そうですよねえ。多額の税金をドブに捨ててくれた東京オリンピックの実行委員会さん。




 わくわくするほどおもしろいが、最終的にはこの手の本にありがちな「おもしろいけどくどい。もうわかったから」という感想になった。はじめのほうは刺激的だったが、ほぼ同じことのくりかえしなので後半はすっかり飽きてしまった。

 上下巻あるけど、この半分の分量でよかったな。


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2021年11月11日木曜日

感情の出力が強くない

 二歳の姪(妻の妹の子)が遊びに来た。

 ただでさえ小さい子を連れての遠出はたいへんなのにコロナの影響もあり、ぼくが会うのは二回目。前回会ったとき向こうは0歳だったので伯父のことなどおぼえていないだろう。だからほとんど初対面のようなものだ。

 話しかけるが、おしだまっている。まあそりゃそうだ。ここでにこやかに応える子のほうがめずらしい。
 はじめての場所ではじめて見るおっさん。緊張するのも当然だ。

 だがぼくは子どもの相手には慣れている。
 決して踏みこみすぎない距離感を保ったまま、おもちゃを見せたり、絵本を読んだり、絵を描いたり。
 だが姪はぜんぜんしゃべらない。表情も変わらない。泣いたり逃げたりするわけではないので嫌われてはいないとおもうのだが、距離を詰めることができない。

 あんまり好かれてないのかなーとおもっていたら、姪のおかあさん(義妹)いわく
「これでもけっこうテンション高いほう」
だという。

 あまり感情の出力が強くなくて、わかりやすく笑ったりしゃべったりしない子なのだそうだ。だが入力のほうは鋭敏で、積極的に他人と関わりはしないが他人がやっていることをしっかりおぼえていて、夜になってから真似をしたりするらしい。

 なるほど。今は出力を抑えて入力をしている時間なのね。

 ぼくも思春期の頃はあまり感情を表に出さずに「感情が読めない」「何考えてるかわからない」などと言われたので、その気持ちはわかるぞ。


 姪がうちにあったアンパンマンのおもちゃ(ガチャガチャで入手したもの)を気に入ったので、近くのショッピングモールのガチャガチャコーナーにいっしょにいく。

 姪にガチャガチャをやってもらうと、ドキンちゃんのぬいぐるみが出た。
 姪の表情は……ぼくには読めない。まったくの無表情に見える。
 だがおかあさんいわく、ドキンちゃんは好きなキャラらしい。たぶん喜んでいるだろう、とのこと。さすがはおかあさん。微妙な変化を感じとれるらしい。

 後から聞いたら、その晩はドキンちゃんのぬいぐるみを抱いて寝たらしい。
 大喜びじゃないか! ああよかった。


2021年11月10日水曜日

あれから○年

 テレビ番組『はじめてのおつかい』が好きだ。

 30歳くらいまでぜんぜん観たことなかったんだけど、自分が親になって観てみるとおもしろい。娘たちも大好きで、自分と歳の近い子が奮闘している姿にいろいろと感じ入るところがあるようだ。


 さて『はじめてのおつかい』でぼくがいちばん好きなのは「あれから○年」のコーナーだ。

 番組を観たことのある人なら知っているとおもうが、

「2~5歳くらいの子どもがはじめてのおつかいに行く」
→「あれから○年」というナレーションが流れる
→ 大きくなった子どもの姿が観られる

というものだ。

 つまり「はじめてのおつかい」部分は再放送であり、「あれから○年」が最近収録したものとなっている(場合によっては「あれから○年」さえも再放送であり「さらにあれから○年」が流されることもある)。

 これがおもしろい。


 ふつう、ひとつのテレビ番組の中での時の流れは、長くて数ヶ月、短ければ数十分だ。NHKの気合の入ったドキュメンタリーだと数年かけて撮影、なんてこともあるがたいていは数時間~数日ぐらい。

 ところが『はじめてのおつかい』の映像では、長いものだと十五年ぐらいの時間が流れている。いろんなものがすごいスピードで流れる。はじめて観たときはメイド・イン・ヘブンのスタンドが発動したのかとおもった。おもうかい。

 子どもの成長が一瞬で感じられるのがたまらない。
 さっきまで三歳でおかあさんと離れるのを嫌がっていた子が、十八歳になって進路について真剣に語っているのだ。
 あの小さかった子がこんなに立派になって……と、姪っ子の結婚式を見るような気分になる。姪っ子の結婚式に行ったことないけどさ。


 時の流れを感じるのは人間だけではない。
 街並みも変わっている。

 こないだ観た『はじめてのおつかい』では、子どもが買物に行く商店街に「デジカメプリント」というのぼりが立っていた。
 ああ、なつかしい。

「デジカメプリント」を大々的に掲げる写真屋は今ではもうなくなった。
 今やカメラといえばデジタルがあたりまえだからわざわざ「デジカメ」なんて呼び方をしないし、デジカメプリントのできない写真屋なんて今どき存在しない。

 デジカメが一般消費者に買われるようになったのは2000年頃。その10年後にはほぼフィルムカメラは姿を消している。

 だから写真屋がわざわざ「デジカメプリント」と大々的にうたっていた時代は、せいぜい2000~2010年の10年間ぐらい。

「デジカメプリント」ののぼりひとつの映像だけで、「ああ懐かしい。こんな時代もあったなあ」と感じられる。時の流れが感じられるのはおもしろい。


 昨日と今日で世の中は変わっていないけど、十年前と今なら確実に変わっている。
 日々の暮らしの中では変化に気づけないのだ。


 テレビは基本的に最新の情報だけを流して後はほうったらかしだけど、その後の時の流れを記録したらそれだけでおもしろくなるはずだ。

「最新家電を紹介!」なんて番組はただのコマーシャルでおもしろくないけれど、「あれから○年」と10年後、20年後にその映像を流したらすごくおもしろいにちがいない。10年前はこんな機能をありがたがっていたのかーとか、20年前は電子辞書が売れ筋商品だったんだなーとかいろんな発見があるはずだ。


 ニュースやワイドショーもぜひ「あれから○年」をやってほしい。

 日大アメフト部の危険タックルの学生はあの後どうなったのかとか、あのときマスコミがさんざん犯人扱いしたあの人は結局無罪だったけどどれだけ人生を狂わされたのかとか……。

 やらないだろうな、不都合なことだらけだから。



2021年11月9日火曜日

【読書感想文】日本推理作家協会『小説 こちら葛飾区亀有公園前派出所』

小説 こちら葛飾区亀有公園前派出所

大沢 在昌  石田 衣良  今野 敏  柴田 よしき
  京極 夏彦  逢坂 剛  東野 圭吾

内容(e-honより)
ご存知、国民的マンガ『こちら葛飾区亀有公園前派出所』。縁あって日本推理作家協会とのコラボ企画が実現しました。ベストセラー作家たちによるトリビュート短編小説が誕生。我らが両さんと、あの『新宿鮫』の鮫島や『池袋ウエストゲートパーク』のマコトとの豪華共演も楽しめる。ギャグあり、人情あり、ハードボイルド風の展開ありの宝石箱のようなアンソロジー。


『こちら葛飾区亀有公園前派出所』と日本推理作家協会とのコラボアンソロジー。
『こち亀』のキャラクターを使った短篇を、人気作家たちが書いている。


『こち亀』はぼくが生まれる前からジャンプ掲載していた作品。小学校高学年ぐらいでハマり、いっときは単行本を六十冊ぐらい持っていた。手放してしまったけど。

 百巻ぐらいまでの話はだいたい読んだので、「どれ、ほんとに『こち亀』の世界を小説にできたんだろうな。変な出来だったら許さんぞ」という気持ちで読んだ。


 で、結論からいうといまひとつ。

 大沢在昌『幼な馴染み』と石田衣良『池袋⇔亀有エクスプレス』は、自分の作品のおなじみのシリーズに無理やり『こち亀』のキャラクターをゲスト出演させたという感じ。『こち亀』の世界ではないなあ。

 楽な道に逃げたな、という印象。
 こういうアンソロジーって逃げるとおもしろくない。結果的にイマイチになってもいいから、真正面からぶつかってほしい。


 柴田よしき『一杯の賭け蕎麦』と逢坂 剛『決闘 二対三!の巻』はギャグに挑戦している。その心意気は買うが、ギャグが上滑りしている感は否めない。漫画のギャグをそのまま小説にしたっておもしろくないよ。

 漫画なら許されても、小説にすると「それはありえんだろ」という気になってしまう。読者の求めるリアリティの基準が漫画と小説ではちがうんだよね。

 特に『決闘 二対三!の巻』は、「麗子が他の署員に金を賭けた拳銃摘発勝負を持ちかける」というめちゃくちゃな展開で(もちろん両さんが噛んでいるとはいえ)、原作へのリスペクトも何もあったものではない。原作読まずに書いたのか? タイトルだけはいちばん原作に寄せているけど。




 個人的にいちばんおもしろかったのは、今野 敏『キング・タイガー』。

 定年退職した元刑事が時間を持て余し、ひさしぶりにプラモデルをやろうと思い立つ。模型屋に行くとそこに「両さんの作品」が飾ってある。その完成度の高さに感心し、自分もそれに近づこうと努力するが、やればやるほど両さんとの差が目に付くようになり……というストーリー。

 地味な話だが、元刑事の心中が丁寧に描かれている。

 こち亀というと、両さんの超人的な能力や強引な性格、中川や麗子の金持ちエピソードなどにまず目がいくが、あの作品が40年も続いたのはそういった〝わかりやすいキャラクター性〟によるものではない。作者のホビーに対する深い造詣など、ありとあらゆるものに対する強い好奇心が作品に投影されているからだ。

『キング・タイガー』には、『こち亀』と同じプラモへの愛とこだわりが存分に発揮されている。

 組み立て説明書を開く。さすがにこれだけの部品数のプラモデルともなると、組み立て説明書もただのペラではない。四つ折りにされた大きなもので、しかもカラー刷りになっている。
 昔の安いプラモデルとは大違いだ。
 説明書を読むと、使わない部品がずいぶんあるようだ。他のモデルと共通の部品をひとまとめにしてランナーでつないだものや、好みで選んで取り付ける部品などがあるからだ。
 これは、指揮事案と同じだ。計画性が何より大切だ。私はそう感じた。大事件が勃発したときに、捜査本部、あるいは指揮本部ができる。管理官などの幹部は、情報を集約して即座に上げ、上からの命令を的確に現場に指示しなければならない。
 その情報量は膨大でしかもすべてが緊急を要するのだ。小さな間違いが重大な失敗に結びつく恐れがある。だから、指揮をする立場の人間は常に事態の把握につとめ、さらには的確な判断を下せるように計画性を持つ必要があるのだ。

 今野敏氏は、自身もプラモデル愛好家らしい。だから『キング・タイガー』には両さんはほとんど登場しないにもかかわらず、もっとも『こち亀』らしい作品に仕上がっている。

『こち亀』ノベライズの正解を見せてくれた気がする。『こち亀』を小説にするなら、ギャグ路線じゃなくてマニアックな知識を活かした方向性だよな。活字との相性もいいし。




 京極 夏彦『ぬらりひょんの褌』と東野 圭吾『目指せ乱歩賞!』も悪くはなかった。


 まあ『ぬらりひょんの褌』に関してはぜんぜんこち亀っぽくなくて京極夏彦テイストが強すぎるんだけどね。
 でも大原部長と寺井という地味目なキャラクターを軸に据えているのがいい。両さんや中川や麗子はキャラが強すぎて小説向きじゃないんだよね。


『目指せ乱歩賞!』のほうは、「乱歩賞の賞金額が大きいことを聞いた両さんが反則スレスレの方法で乱歩賞をめざす」という原作にもありそうな話。というかこんな話なかったっけ? 漫画の新人賞を目指す話ならあったような気がする。

『こち亀』と日本推理作家協会とのコラボという点を考えれば、これがいちばん趣旨に近いかもしれない。さすが小説巧者、うまくまとめたな。


 おもしろいかどうかでいうと微妙なところだけど、「与えられた制約の中でどう料理するか」というお題のおかげで作家の力量がはっきり見えるのがおもしろかった。

 たまにはこういうアンソロジーも悪くないね。


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2021年11月8日月曜日

ツイートまとめ 2021年8月


差別や侮辱の意図

マイミク

赤十字

ハナテン

成長中の家

全集

不必要

ユニバ

ありがた迷惑

ひだまり

珍事

×わいさつ → ○わいせつ

2021年11月5日金曜日

【読書感想文】鷺沢 萠『私はそれを我慢できない』

私はそれを我慢できない

鷺沢 萠

内容(e-honより)
名前くらい覚えてくれぃ!私はワシザワでもモエでもないぞとプンスカぶりぶり。はたまた、トイレが長いと友人に立腹するが、私が短かすぎるだけなのか!?深夜ドライブに行けばガス欠で、営業中のスタンドが見つからない…。あれってひどすぎ!?それってあんまり!?というトホホな事態、ムムムな状況に直面し続けるサギサワに、思わず同感、やがて納得、おまけに爆笑のエッセイ集。

 

 1995年刊行のエッセイ集ということで、古くさい。
 いやまあ三十年近くたてば古びるのはしかたないが、それにしても古くさい。

 冒頭のエッセイの書きだしにもう「古っ」と叫んでしまった。

 基本的に、どちらかといえば「せっかち」な部類の人間なので、などというソフトな言い方をすると、友人たちの「どの口が言うたんじゃ、こら」というツッコミが四方八方から入りそうなので正直に言うと、私は物凄くせっかちな人間なので、のんびりゆったり構えている人を見るとイライラする、ということはある。いや、はっきり言えば私が世界中でいちばん嫌いなのはノロノロしていることである。
 前言撤回。ノロノロしていること以上に嫌いなことを思い出した。それは「待つこと」。だから人を待たせてもゼンゼン平気、何とも思っちゃいないわーん、という感じの人を見ると、イライラを通り越して、傘の柄が折れるまで背中をぶっ叩いてせかしてやりたい、という衝動に駆られる。まあ、つまり「イラチ」なんですな。

 このダサさよ。読んでいるこっちが恥ずかしくなる。

 文体が絶望的に古くさい。
 椎名誠と町田康の文章をたして10で割ったような文体。

 椎名誠氏とか東海林さだお氏の文章が〝昭和軽薄体〟と呼ばれた。たしかにそうした文章は今読むと古い。しかしなつかしさは感じても、ダサいとは感じない。それは、自身の思想を最も効果的に表現するために試行錯誤の末に生みだしたものだからだろう。だから彼らの思想を表現する手段は、あの文体しかない。

 本物は古びない。
 町田康氏の文章は、何十年たっても「町田康の文章」だ。

 しかし鷺沢氏の文体は、そうではない。手っ取り早く「おもしろおかしいエッセイ風に仕上げるためのスパイス」として、〝友人たちの「どの口が言うたんじゃ、こら」というツッコミが四方八方から入りそう〟なんて言い回しを使っている。
 己の内面からにじみ出てくる文体ではなく「そのときの流行りの文体をうわっつらだけ真似た文体」。

 中身と皮があっていないから、すぐ腐ってしまうのだ。




 気恥ずかしくなるほどダサい文章だけど、読んでいるとそのダサさも愛おしくなってくる。ああ、こんなのがおもしろおかしいとおもわれていたんだなあ、と当時のカルチャーが見えてくる気がする。


 文体だけでなく、書いている内容も「時代なあ」と感じる。

 あの頃のエッセイってこんなんだったよなあ。
「私の友だちが言ったケッサクな一言」や「身の周りの腹立つ出来事」といった、微小な出来事を、大した工夫もせずにそのまま提示する。
「こんなことがあってむかついたんですけどー!」みたいな、ひねりもオチもないお話。美容院で場を埋めるためだけに交わされる会話ぐらいの情報。

 自慢と自虐をほどよくブレンドしてひねりのない悪口を加えただけで「人気女流作家の歯に衣着せぬ爆笑エッセイ」になった時代の産物。


 端的に言ってしまえばつまらないんだけど、そのつまらなさがなつかしい。
 今ってさ、情報量が増えた結果、おもしろい話が氾濫してるじゃない。Twitterなんか見ていると、毎日どこかの誰かが発信したおもしろい話が流れてくる。
「100万日に1度しか遭遇しないおもしろい出来事」があったとして、ユーザーが1000万人いれば毎日10個はそういう話が投稿されることになる。おもしろい話はたくさん拡散されるから、ぼくらは毎日毎日「めちゃくちゃめずらしい出来事」「とんでもなくおもしろい発想」を目にすることになる。

 それはもちろんいいことなんだけど、ちょっと疲れることでもある。
 だからたまに〝ぜんぜんおもしろくないエッセイ〟を読むと、ほっとする。ああよかった。自分だけが退屈な日常を送っているわけじゃないんだ。他の人もたいしておもしろくないことをおもしろがって生きているんだ、と安堵する。

 あんまりおもしろくない文章なのがありがたい。ほんと、皮肉じゃなくて。

 こういう文章って後世に残らないから、逆に価値がある。


 あと、ネット上ではちょっと危険な発言をするとすぐに炎上してしまうこともあって、優等生的な意見ばかりが目に付くようになった。
 二十年前は「こんなことは身の周りの人には言えないからウェブ掲示板にでも書こう」だったのに、今は逆に「こんなことを書くと炎上しそうだからオフラインだけで言おう」になった。

 だから、こうした平凡なエッセイで「それはちょっとまずいんじゃないの」ということを読むと無性にうれしくなる。

 時代のちがいもあるんだけど、『私はそれを我慢できない』には、
「阪神大震災発生直後に、被災地に住んでいる人を心配して電話をかけまくる」
とか
「ドライブしてたらガソリンが足りなくなったので消防署にガソリン分けてくださいとお願いしにいく」
とか
「夜中の12時に窓を開けて電話でおしゃべりしてたら近所のおっさんに怒鳴られた。心が狭い」
とか、今読むと「いやこれはダメでしょ」と言いたくなるエピソードがいっぱい出てくる。

 しかも著者はぜんぜん悪いこととおもってない書きぶりなんだよね。変わっていないようで、時代とともに人々の価値観は変わってるんだなあ。




「三日坊主」について。

 三日坊主ということばとは、関わったことがほんとうにない。なぜなら私は、年のはじめにあたって「今年の抱負」を語ったり、別に年のはじめじゃなくても「○月○日までに必ず○枚書きあげるぞ」と心に誓ったり、別にそういう真面目なことじゃなくても「○月までに○キロ痩せるぞ」と決心したり、ということをまるでしない人間だからである。ほんとにまるでしない。全然しない。一切しない。ハハハハハ。
 あ、またもや三日坊主で終わっちゃった、どうしよう、あたしってホントにだらしない、オレってホントに駄目な奴……、などと思うのは、そのことに少しでも罪悪感をおぼえるからこそである。

 これ、ぼくも同じだ。

 中学一年生の一学期。進研ゼミからのアドバイスに「定期テスト対策。まずは一週間の計画を立てよう!」なんて書いてあったからぼくもやってみたんだけど、すぐにああこりゃムリだと気が付いた。

 まったく守れないのだ。一日たりとも計画通りにできたことがない。

 それ以降、計画なんてものを立てたことがない。定期テストも、高校受験も、大学入試も、大学のレポートも、卒論も、社会人になってからも、計画なぞ立てていない。
 さすがに仕事では「計画を提出せよ」と言われたこともあるが、それっぽいものを提出しただけでまったく守っていない。あんなもの上司だって見ちゃいないのだ。

 それでもなんとかなっている。「目の前のタスクをとにかくこなす」だけで、受験も卒論も仕事もなんとかなった。

 計画なんて守れる人だけ立てればいいのであって、守れない人は立てないほうがいい。時間の無駄だし、ストレスの要因になるだけだから。


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2021年11月4日木曜日

「ボールをよく見て」式の教育

 子どもたちとボールを使って遊んでいると、〝運動神経〟の差が歴然としていることに驚く。


 八歳の娘にテニスラケットを買い、何度か練習した。土日は六時半に起きて公園で一時間ぐらい練習をした。通算で四時間ぐらいは練習しただろう。娘も少しずつではあるがうまくなってきた。

 休みの日に、娘と、その友だちYちゃんとテニスをした。Yちゃんはテニス初体験。ラケットを握るのもはじめてだ。はじめはラケットにボールを当てることもできなかったYちゃんだが、やっているうちにどんどんコツをつかんで上達していく。

 二十分もすると、Yちゃんはもう娘よりもうまくなっていた。

 四時間二十分練習をした娘よりも、二十分やっただけのYちゃんのほうがうまい。さらにその差はその後どんどん開いていく。

 努力を才能があっさりと追い抜いてゆく。うーん、残酷だ。




 ぼくも、決して運動神経のいい子どもではなかった。
 かけっこは中の下ぐらい。サッカークラブに入っていたが、13人しかいないチームなのにときどきレギュラー落ちするレベル。
 マラソンだけは得意だったがあれは上手とか下手とかいうものではなくほとんど肺活量によって決まる。

 運動神経が良くはないが、スポーツは苦手ではない。特に今は。
 テニスでも野球でもサッカーでも、同世代のおじさん100人をランダムに集めたら上から38番目ぐらいにはなれる自信がある。得意ですと胸を張れるほどではないが苦手でもない。
 なぜなら、経験があるから。
 高校時代、毎日放課後友人たちと野球やサッカーに明け暮れていたから。
 多くの経験に支えられ、一通りのスポーツは人並み以上にはできるようになった。

 とはいえそれは「運動神経の良くない人たちには(経験の差で)勝てるようになった」というレベルで、運動神経の良い人にはどんなに努力してもかなわない。




 持って生まれた〝運動神経〟の差は、確実にある。

 ボールの軌道を読む力とか、見た動きを自分の身体で再現する能力とか。人によって生まれもったものがぜんぜん違う。
 こちらが努力して向こうが努力すればその差を埋めることはできるかもしれないが、両者とも努力をすれば差は拡大する一方だ。


 ところで、スポーツをしていて
「ボールをよく見て」
というアドバイスをされたことはないだろうか。
 ぼくは千回ぐらいある。

 このアドバイスは〝できる人〟のアドバイスだ。

〝できる人〟は、これだけでできちゃうのだ。ボールをよく見れば、軌道と速度がわかり、瞬時にボールが落ちてくる位置がわかるのだ。そしてその位置に手なり足なりラケットを差しだして、正確にミートさせることができるのだ。

 できない人はそうではない。ボールをよく見たところで、その後の軌道がわからない。わからないからどこに移動すればいいかわからない。仮にわかったところで、自分の身体を適切な位置に運ぶことができない。

 もちろん経験によってある程度できるようにはなるが、10回やればできるようになる人もいれば、10,000回やらないと身につかない人もいる。


 長嶋茂雄氏が「スーッと来た球をガーンと打て」などとわけのわからんアドバイスをしたことは有名だ(真偽は知らん)。
 あそこまで極端なのはめずらしいとしても、運動神経の良くない人間からすると「ボールをよく見て打て」もそれとどっこいどっこいのアドバイスだ。

 物理学者からしたら「初速度と角度さえわかれば、滞空時間も到達高度も到達距離もかんたんにわかるじゃないか(空気抵抗はないものとする)」とおもうかもしれないが、素人にはわからない。それといっしょ。




「ボールをよく見て」的なアドバイスはあらゆる分野にあふれている。

 美術教師には「対象をよく見て、見たままを描きましょう」と言われた。

 音楽教師には「お手本をよく聞いて、お手本通りに歌いましょう」と言われた。

 彼らにはそれができるのだ。見たまま描けば上手な絵になり、聞いたままに歌えば上手に歌える。

 体育教師も美術教師も音楽教師も、それぞれの教科が生まれつき得意だった人だ。みんな労せずして〝できる人〟だ。見たまま聞いたままに再現することのできる人だ。

 だからほとんどの教師には、「よく見てもできない人」の指導方法がわからない。




 以前、中国人に日本語を少しだけ教えたことがある。
 彼らの多くは「ぎゃ、ぎゅ、ぎょ」の音を出すのが苦手である。中国語にない音だからだ。
「『ぎゃ、ぎゅ、ぎょ』と言って」と言うと、「や、ゆ、よ」と言う。そして「あってるでしょ? どこがちがうの?」と首をかしげる。

 日本人からすると「ぎゃ」と「や」なんてまったく別の音である。混同することなんて考えられない。

 同様に、日本人はLとRの聞き分けが苦手だが、英語圏の人間からすると「LとRが聞き分けられない」なんて信じられないことだろう。

 英語圏の人が「LとRのちがいを説明してください」と言われても困るだろう。
「ちがいも何もまったく別物じゃないか。聞いたとおりに表せばいいだけだよ」という気になるだろう。

「ボールをよく見て」も同じだ。




 ぼくは運動神経は良くないし、音痴だし、絵もうまくない。
 でも幸いにして学校の勉強は得意だった。

 もちろん努力もしたが、持って生まれた〝センス〟もあったのだろう。生まれつき運動神経がいい人のように、ちょっとの努力で教わることの大半を理解できた。

 中学生ぐらいで気が付いた。自分は勉強が得意だな、と。
 同じ時間勉強しても、身につく量が他人よりもずっと多いようだ、と。


「勉強のセンスがない人」は存在する。
 彼らは人より努力しても、人並み以下にしか勉強ができない。
 運動神経の良くない人がどれだけ努力してもオリンピック選手になれないのと同じように。

 それはしかたがない。そういうものなのだから。
 身長の高い低いが本人の努力とあまり関係ないのと同じで、そういうふうにできているのだからしかたがない。

 残酷なのは、学校という場がまるで「生まれもった差はなく、できる/できないは努力によってのみ決まる」であるかのような〝ウソ〟を前提に設計されていることだ。

 だから「しっかり話を聴きなさい」「よく考えなさい」「ボールをよく見なさい」「お手本の通りにやりなさい」式の、「できる人にしか通用しない」指導方法がいつまでたってもなくならない。


 能力差に応じてグループ分けをすることと、能力差があってもみんなを同じスタートラインに立たせて同じルールで同じゴールに向かって走らせること。

 どっちが残酷なんだろうね。


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2021年11月2日火曜日

【読書感想文】川上 弘美『センセイの鞄』

センセイの鞄

川上 弘美

内容(e-honより)
駅前の居酒屋で高校の恩師と十数年ぶりに再会したツキコさんは、以来、憎まれ口をたたき合いながらセンセイと肴をつつき、酒をたしなみ、キノコ狩や花見、あるいは島へと出かけた。歳の差を超え、せつない心をたがいにかかえつつ流れてゆく、センセイと私の、ゆったりとした日々。谷崎潤一郎賞を受賞した名作。

 三十代独身女性と、ひさしぶりに再開した高校時代の教師である〝センセイ〟の交友をつづった小説。

 とても雰囲気のいい小説だった。
 特に何が起こるわけでもなく、ただ〝私〟と〝センセイ〟が一定の距離を保ちながら居酒屋で会ったり散歩したりするだけ。大きな事件は起こらない。旬のものを食べるとか、おろし金を買うとか、ほんとに些細な日々がつづられている。

 でも、その距離感が心地いい。おしゃれなラジオ番組を聴いているようで、特に何が得られるわけでもないけどじゃまにもならない。ほんの少しだけ気持ちが明るくなる。五十が五十二になるぐらいの、少しだけ。


 センセイは、笑っていた。笑うか、このやろ、とわたしは心の中でののしった。センセイは、大いに笑っていた。物静かなセンセイらしくない、呵々とした笑い。
「もうその話はやめましょう」わたしは言いながら、センセイをにらんだ。しかしセンセイは笑いやめない。センセイの笑いの奥に、妙なものが漂っていた。小さな蟻をつぶしてよろこぶ少年の目の奥にあるようなもの。
「やめませんよ。やめませんとも」
 なんということだろう。センセイは、わたしの巨人嫌いを知って、厭味を楽しんでいるのである。たしかに、センセイは楽しんでいた。
「巨人っていう球団はね、くそったれです」わたしは言い、センセイがついでくれた酒を、あまさず空いた皿にこぼした。
「くそったれとは。妙齢の女性の言葉にしては、ナンですねえ」センセイは落ちつきはらった声で答えた。背筋をいつもにも増してぴんと伸ばし、杯を干す。
「妙齢の女性ではありません、わたしは」
「それは失敬」
 不穏な空気が、センセイとわたしの間にたちこめていた。

 これは、〝私〟とセンセイが贔屓のプロ野球チームの話をきっかけに喧嘩をするシーンだが、喧嘩のシーンなのに品があるし、そこはかとなく楽しそう。

 贔屓の球団の話で喧嘩をするなんて、仲が良くないとできないもんね。相手に対する信頼がないと、相手の贔屓球団を「くそったれです」なんて言えない。

 この喧嘩だけで、ふたりの関係が良好であることがよくわかる。
 ま、作中ではこの喧嘩がきっかけでしばらく口を聞かなくなるんだけど。


 贔屓の球団をめぐって喧嘩をすることからもわかるように、〝私〟と〝センセイ〟は「大人の付き合いをしている子ども」だ。

 つまらないことで意地を張るし、相手の気を惹くためにちょっかいをかけたりもする。〝ガキ〟なのだ。そう、ぼくやあなたと同じく。


 自分が子どものときは、大人は大人だとおもっていた。いついかなるときも大人のふるまいをするのだと。
 特に、うちの両親は、息子が言うのもなんだけどものすごく〝まっとうな大人〟だった。
 悪ふざけもしないし、泥酔もしないし、下ネタも口にしないし、他人の悪口もあまり言わないし、わけのわからないことでやつあたりもしない。
 今にしておもうと、べつに両親が聖人君子だったわけではなく、「なるべく子どもの前では〝立派な大人〟としてふるまおうとしていた」のだと理解できるのだけど、子ども時代は「大人はいつでも自制心を保っているのだ」と信じこんでいた。
 中学生ぐらいになると両親のダメな部分も見えてくるようになって、だから反抗期になったわけだけど。

 しかし自分がいい大人になってみてわかるのは、大人になったからってぜんぜん良識的な人間になるわけではない。狭量だし、怠惰だし、身勝手だ。悪ふざけだってしたい。大人が悪ふざけをあまりしないのは「失うものが大きい」のと「ふざける元気もない」からだ。ほんとは大人だって子どもっぽいふるまいをしたい。少なくともぼくは。


『センセイの鞄』に出てくる〝私〟と〝センセイ〟は、どちらも「子どもっぽいふるまいをしたい大人」だ。

 たぶんほとんどの大人がそうなのだろう。だから大人であるほどこの小説は染みる。




 しかしこの人、小説がうまいよね。

 映画を見たあとわたしたちは公園を歩き、映画の感想を言いあった。小島孝は映画の中のトリックにしきりに感心していたし、いっぽうのわたしは主人公の女性のかぶっていたさまざまな帽子にしきりに感心していた。クレープの屋台があったので、小島孝が「食べる?」と聞いた。食べない、とわたしが答えると、小島孝はにやっと笑い、「よかった、俺甘いもん苦手なんだ」と言った。わたしたちはホットドッグと焼きそばを食べ、コーラを飲んだ。
 小島孝がじつは甘いもの好きだということを知ったのは、高校を卒業してからである。

 これは〝私〟が高校生のときに同級生とデートをしたときの回想なのだが、これだけのエピソードでこのふたりがうまくいかないことがわかる。

 高校生のデートってこんな感じだよね。ぼくも高校生のときに女の子とふたりっきりで出かけたことがある。たった一回だけだったけど。そのときもこんな感じだった。最初から最後までかみあわなかった。
 気になる女の子と出かけられたのでうれしかったけど、ぜんぜん楽しくはなかった。たぶん向こうも楽しくなかっただろう。

 中高生ぐらいの男女って精神年齢がちがいすぎるんだよね……。



(ここから物語の展開に関するネタバレあり)


 中盤まではすごく好きな小説だったんだけど、終盤は期待はずれだった。

 〝私〟と〝センセイ〟が男女の関係になってしまうところや、〝センセイ〟が死んじゃう展開とか。

 いや、べつにそのこと自体はいいんだけど、とにかく性急だった。
 なーんか「物語をうまくまとめるために先生が死なされた」って感じなんだよなー。感動させるために殺されました、って印象。

 中盤まではものすごく丁寧に世界を構築してたのに、終盤はとにかく雑。


 そしていちばん嫌だったのが、終盤に夢のシーンが出てきたこと。

 前にも書いたけど、ぼくは「夢で心情表現をするフィクション」が大嫌いなんだよね。夢に登場人物の胸中を投影するのは、逃げだとおもっている。だって夢を使えば、それまでつづってきた世界とは無関係にどんな表現だってできるんだもん。

『センセイの鞄』は、せっかく登場人物の行動や会話や風景の描写によって精緻な世界をつくりあげていたのに、終盤になって突然の「夢」である。あーあ、安易。がっかりだ。

 正確なデッサンと技巧を凝らした筆さばきで精巧な絵を描いていたのに、最後にWindows標準ソフト・ペイントの「塗りつぶし」を使って着色しちゃったみたいなもんだ。そりゃないぜ。

 夢で心情表現をする小説はね、くそったれです。


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2021年11月1日月曜日

ツイートまとめ 2021年7月



学校が教えない

二世

レガシー

じゃんじゃん

みゃ

711

兄弟

女王

敵の恩人

感染を気にしないタイプ

東京オリンピックテーマ曲『地上の星くず』

インサイドアウト

ピラフマシン・ダチョウ形態

プレミアムフライデー