2023年3月31日金曜日

大阪人の大阪観光だらだら日記

 大阪人だが、小学生三人を連れて大阪観光をしてきた。


 うちは共働きなので、夏休みだ春休みだといっても娘は学童に行かせていた。せっかくの休みなのに毎日学童。しかもコロナ禍のため「弁当はひとりで黙って食べる」「おしゃべり禁止」「室内で遊ぶときはひとりで」など、厳しく対策がとられていた。子どもにとって楽しいはずがない。

 そんなわけで娘にとって夏休みや春休みというのは楽しいものではなく、日々「早く授業はじまらないかなー」とぼやいていた。

 せっかくの休みなのに毎日学童ではかわいそう、たまにはおもいっきり遊ばせてやろう、とおもい、毎年夏休みや春休みには有給休暇をとって「朝から晩までめいっぱい遊ぶ日」をつくることにしている。

 といっても「娘の友だちといっしょにプールに連れていく」とか「ファミレスに連れていって好きなものをおもいっきり食べさせる」とか「いっしょに好きなだけボードゲームをする」とかで、そこまで特別なことをするわけではないのだが。


 さて、今年の春休み。

 京都に住む姪が小学校を卒業したので卒業祝いも兼ねて、長女(9)、姪(12)、甥(8)を連れて大阪観光をすることにした(次女(4)は申し訳ないが保育園に預けた)。

 姉夫婦ともに仕事が忙しく、うちのところ以上に遊びに連れていく時間がないという。そこで「子どもたちだけで大阪までおいで。駅まで迎えに行くから」と言い、大阪を連れまわすことにした。

 聞けば、姪は吉本新喜劇が大好きで毎週録画して観ているという。甥は吉本新喜劇にはあまり興味がないが身体を動かすことが大好きだ。

 そこで、なんばで吉本新喜劇鑑賞 → 天王寺で串カツ → てんしばでボルダリング → 新世界で街歩き というプランを立てた。夢の大阪満喫コースだ。


 というわけで三月某日。長女を連れて日本橋に行き、姪と甥を待つ。

 ちゃんと時間通りに現れる姪と甥。彼らのおむつを取り替えていた叔父としては、おお、あの子らが電車を乗り継いで京都から大阪まで来られるようになったか……と感無量。

 時間まで少し時間があったので周辺をぶらぶら歩いてたこ焼きを食う。こういう大阪らしいこともしとかないとね。

 で、笑いの殿堂なんばグランド花月へ。ここの向かいにあったワッハホールや、かつて存在した心斎橋筋二丁目劇場には行ったことがあったけど、なんばグランド花月はぼくも初めて足を踏み入れる。立派な劇場だなあ。

 まずは漫才。出番は、囲碁将棋、ぼる塾、ゆにばーす、2丁拳銃、まるむし商店、大木こだま・ひびき、プラスマイナス。

 さすが、みんなおもしろい(まるむし商店は滑舌が衰えていて聞き取れない箇所が多かったが)。テレビで観るのとはちがい、観客にアンケートをとったり、拍手を要求したりして盛り上げてくれる。舞台上と客席との一体感。これぞライブの楽しさ。

 中でも出色だったのは2丁拳銃。この日いちばん笑いをとっていたし、小学生たちも笑いころげていた。老若男女を笑わせるすばらしい漫才だった。絵描き歌や童謡などわかりやすい題材だったから、というのもあるんだろうけど。

 童謡ネタ部分については二十年以上前からやっているネタだけど、今観ても同じように笑える。やはり2丁拳銃は漫才師なのだ。彼らが東京へ行かずにずっと大阪で漫才を続けていたら今頃大阪を代表する大漫才師になっていたのかもしれないな……と実現しなかった未来について想像してしまう。


 漫才の後は新喜劇。こちらもおもしろかった。子どもたちも大笑い。漫才よりもコントのほうが子どもにはわかりやすいよね。

 ぼくが感心したのは内場勝則さんの動き。ずっとキビキビ動いていて、遠くから見ても動きがわかりやすい。自分がメインのときだけでなく、他の出演者が話したりボケたりしているときもずっとキレのある動きをしていた。さすがはベテラン。舞台人だなあ。

 こういうのはテレビではわからないので、内場さんの動きの良さを発見できただけでも観にきた甲斐があった。


 劇場を出て、天王寺へ。串カツを食う。某・テーブルに油があって串カツを自分で揚げられるチェーン店だ。本格的な串カツ屋より、子どもにはこっちのほうがいいのだ。チョコレートフォンデュやソフトクリームも食べ放題だからね!

 食後はてんしば(天王寺公園)のPANZAへ。ここでボルダリングに挑戦。三人とも、本格的なボルダリングはほぼ初挑戦。ぼくは十年ぐらい前にやったことがあるが、そのときは生身で登るものでせいぜい三メートルぐらい。今回は命綱をつけて登るので、七~八メートルはあるだろうか。いちばん上まで行くと二階建て住宅の屋根ぐらいの高さになる。

 子どもたちははじめてのボルダリングなのでおそるおそる登ってゆく。こわい、こわいと言いながら中ほどでリタイア。

 どれ、おっさんがお手本を見せてやろうと壁にしがみつくと、ふくらはぎに嫌な感覚。やばい、脚がつりそう。若くないんだからちゃんとストレッチするべきだった。

 それでもなんとかしがみつくが、壁がぬるぬるすべる。前の人の汗が残っているのだ。こえー。以前にボルダリングをやったとき、近くにいた女性がおりるのに失敗して膝を強打し救急車で運ばれていたことをおもいだす。とにかく怪我だけは避けたい。

 ということでぼくも八分目でリタイア。体力や握力の衰え以上に、「八分目までいったけど万一怪我をしたらいやだからリタイア」という選択をするようになった自分に年齢を感じる。

 子どもたちは徐々に慣れてきて、すいすい登るように。たまたま最初に登ったのがむずかしいコースだったようで、他のコースはわりとクリアしていく。特に八歳の甥はサルのように身軽で、ぱっと壁にとりつくとひょいひょいひょい、っと登ってゆく。いけるかいけないかギリギリ、みたいなところでも退却という選択をせずに果敢に上を目指すところが若さだ。見ているとはらはらするが。

 ぼくは数回登っただけで、あとはカメラマンに専念。おっさんなので自分がやるよりも子どもの撮影をするほうが楽しいのだ。


 ボルダリングの後は、芝生で休憩をして、新世界へ。そろそろ子どもたちを帰らせないといけないので、ぶらぶら歩いて射的だけさせる。

 新世界は観光客向けの店が多く、飲食店以外にも、ゲームセンター、射的、弓道体験、輪投げなどいろんな遊技場がある。姪は「なんかお祭りみたいやなー」と物めずらしそうにきょろきょろしている。「ここは一年中こんな感じやで」と教えると「一年中お祭りやってるなんてすごい!!」と目を輝かせていた。

 そうかそうか、と連れてきたおっちゃんとしても満足そうに歩いていたのだが、ふと姪が顔をしかめて「そういや大阪ってタバコ吸う人めちゃめちゃ多いな」と漏らした。

 いや、このあたりが特にそういうところなのであって、決して大阪全体がそういう街ではないんだよ……と言い訳がましく説明する叔父さんなのであった。


〝そういうところ〟を歩く子どもたち


2023年3月30日木曜日

【読書感想文】堀本 裕樹『桜木杏、俳句はじめてみました』 / 小説部分が蛇足な小説

桜木杏、俳句はじめてみました

堀本 裕樹

内容(e-honより)
母親に連れられて初めて句会に参加した、大学生・桜木杏。俳句といっても、五・七・五で季語を入れればいい、くらいしか知らなかった杏だが、挑戦してみると難しいけど面白い。句会のメンバーも個性豊かな人ばかりで、とりわけ気になるのは爽やかなイケメン・昴さん。四季折々の句会で俳句の奥深さを知るとともに、杏は次第に恋心を募らせて…。


 俳句啓蒙小説。

 以前読んだ某歌人の「短歌啓蒙小説」がひどい出来だったので嫌な予感もあったのだが、予感が的中してしまった。


 キャラクターがとにかくダサい。

 特に主人公。いかにも〝おっさんが描いた女の子〟って感じだ。

 イケメンが大好きで、でも誰にでも優しくて、元気で明るくて前向きで、ちょっとしたことにドキドキして、親に対する感謝の気持ちを忘れなくて、おっちょこちょいで、感受性豊かで、好きな人に対してひたむきで……と、とにかく人間としてつまんない。朝ドラのヒロインみたいでまるで人間味がない。

 そのほかの登場人物も、つまらない冗談ばかり飛ばすおっさんとか、クセの強い銀行員とか、必ず語尾を伸ばす話し方でずけずけとものを言うギャルとか、かっこいい俳人先生におネツのおばちゃんとか、ザ・ステレオタイプ。

 俳句は言葉の選択が大事だ、なんて登場人物に言わせてるくせに、あつかましいおっさんには「〜でんな」「〜でっせ」なんてオーサカ弁(本物の大阪弁ではなくフィクションの世界にしか存在しない嘘の方言)を使わせるのはどうなのよ。言葉を大事にしなさいよ。

 俳句のおもしろさを伝えようとしてるんだけど、俳句やってるのってこんな感性の人なのか、とおもってしまう。逆に俳句を貶めてるんじゃないの?


 登場人物だけでなく、ストーリーも退屈。

 すべてのストーリー、すべての台詞が「俳句の楽しさを伝えるためだけ」に用意されたものなんだもの。説明台詞ばっかり。句会だけじゃなく、他の場面でも何かあれば「これは俳句の世界では~」「この季語は~」といちいち説明する。

 そういや昔、友人がパチスロにドハマリしてて、何の話をしても「そういやパチスロでも~」「それってパチスロでいうところの~」とパチスロの話ばっかりしてた。それまではちゃんと他人の話に耳を傾けるやつだったので、人の話を聞かないというよりパチスロのことしか考えられなくなってたんだろうな。それといっしょ。

 こんなやつが現実にいたら嫌われるだろうなあー。


 これは小説じゃなくて教科書だね。教科書にもおもしろいものとそうでないものがあるけど、これは後者。




 俳句の話はたしかに勉強になることも多かったので、それだけに小説部分のつまらなさが目立ってしまった。小説部分が完全に邪魔。

 ふつうに俳句の教科書を書いてくれたほうがよかったな。


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2023年3月28日火曜日

本人が言うんだからまちがいない

「本人が言うんだからまちがいない」について。


 たとえば小説家Aの作品について、読者や評論家が議論を交わしている。これは○○を暗喩している、いやこれは××のモチーフだ、と。

 そこへ、当の作者A本人がやってきて言う。
「いやこれは△△だ。本人が言うんだからまちがいない!」


 すると、他の人たちは黙らざるをえない。誰よりもよく知ってる作者本人が言ってるんだからまちがいないよね、と。

 だが、はたしてそうだろうか。

「本人が言うんだからまちがいない」はまちがいないのだろうか。


 ぼくはそうはおもわない。むしろ、本人ほど信用ならないものはない。

 作者本人は、自分にとって都合のよい証言をするに決まってる。

「それはなーんも考えずに書いたんだよね。そしたら評論家たちが勝手に深い意味を見いだしてくれたの」

「ここの箇所は、電車の中でたまたま耳にした話をそのまま書いたの。要はパクリ」

なんてことは言わないだろう。


 言ってみれば作者なんてのはいちばんの利害関係者だ。その証言はまったくあてにならない。

 死体が見つかった。その部屋には死体と、Xという人物だけがいた。もちろんXは最有力容疑者だ。

 そのXが「おれは殺したが正当防衛だった。証拠もなければ目撃者もいないが、殺した本人が言うんだからまちがいない」と言った場合、それをそのまま信じますか?


2023年3月27日月曜日

ツイートまとめ 2022年10月~12月



体脂肪を減らす

代名詞とは

印象操作

名前とは

ムーアシロホシテントウ

飲み会

各地

ジングル・ベル

超能力者あるある

塩分摂取量

愚かなこと

2023年3月24日金曜日

門戸厄神厄払いツアー

 ふと「そういや厄年っていつだっけ?」とおもって調べてみたら、ちょうど今年が前厄だった。

 厄年なんて「この壺を買わないと不幸が訪れますよ」という霊感商法だといっしょだとおもっているが、迷信だとわかっていても「あなたには今年いやなことが起こります」と脅されていい気はしない。

 さりとて厄払いに行くのも、まんまと霊感商法に騙されるようで気に食わない。

 ……そうだ! いい案をおもいついた。

 「悪いことが起こらないように」という気持ちで行くから不愉快なのだ。いっそのことイベントとして厄払いを楽しめばいい。成人式と同じように、一生に一度のイベントとして厄年を楽しむのだ!


 ということで、さっそく高校時代の友人たちに『厄年が行く! 厄払いツアー』をやろうぜと声をかけた。

 ぼくは早生まれなので同級生たちの多くは本厄。訊くと、誰もまだ厄払いをしていないそうだ。信仰心のない連中どもめ。ひとのことは言えないが。

 というわけで、四十歳のおじさん三人が参加に名乗りを上げた。ぼくを入れて四十が四人。ううむ、縁起が悪い。これでこそ厄払いにふさわしい。

 行き先は兵庫県西宮市の門戸厄神。ここには東光寺という寺があり、なんとあらゆる災厄を打ち払う厄神明王がいるらしい。あらゆる災厄を。すごい。日本屈指の厄除けのメッカだ(寺を別の宗教の聖地で例えるというたいへん不謹慎な比喩)。


 かくして某月某日、高校の同級生四人(+その子どもたち)が門戸厄神に集まった。門戸厄神のホームページには節分までに厄払いを済ませましょうと書いてあったが、それは見なかったことにした。

 阪急門戸厄神駅から住宅街を歩いていくと、やがて上り坂に変わる。そしてこのあたりから参拝客目当ての屋台の姿が目に付く。チョコバナナ、からあげ、ベビーカステラなどの屋台。参拝客も多く、すっかりお祭り気分だ。

 坂をのぼって東光寺へ。「そえごま 五百円」という案内が。そえごまってなんだろうとおもいながら、みんなが買っているので窓口で五百円を払う。すると五十センチくらいの木の札を渡された。ここに名前と数え年、願い事を書くように言われる。厄払いに来たのに厄を払うどころか願い事まで叶えてくれるのか? なんと至れり尽くせり。

そえごま

 そえごまを奉納。すると、あとは先方が燃やすか何かして、いい感じにしてくれるのだそうだ。引き換えにお札を渡される。こいつを玄関に貼っておくといい感じになるのだそうだ。なんだかよくわからないがとにかくいい感じだ。

 あとは煙を頭に浴びたり、御守りを買ったり。せっかくなので賽銭もはずむ(なんと百円!)。ろうそくが一本二十円で売っていたので、これに火をつけて燭台に立てる。やってみてから気づいたが、これをやったら何が起こるのか一切説明がない。よくわからないものに二十円もの金を払ってしまった。これが富裕層だ。

 坂を下りると「厄払い饅頭」なるものを売っていたので買って食う。まったく期待していなかったのだが焼きたての厄払い饅頭はたいへんうまかった。たぶん厄払い饅頭を食うのは人生においてこれが最後だろう。一生に一度の味。

 これにて厄払いは終了。もう一生安泰だ。悠々自適の左団扇生活が約束された。


 隣駅の西宮ガーデンズに移動し、昼食を食い、ついでにパフェも食う。友人Nにいたってはパフェを食った後でビールも飲んでいた。厄払いをしたので暴飲暴食しても大丈夫なのだ。ありがとう厄神さん、いい薬です。


2023年3月23日木曜日

【読書感想文】岡 奈津子『〈賄賂〉のある暮らし ~市場経済化後のカザフスタン~』 / 賄賂なしには生きてゆけない国

〈賄賂〉のある暮らし

市場経済化後のカザフスタン

岡 奈津子

内容(e-honより)
市場経済化とは何だったのか?豊かさを追い求めた、この三十年…広がる格差のなかで、したたかに生きる人びと。


 このステキなタイトルに惹かれて手に取ってみた。

 カザフスタンに関しては、正直なんにも知らなかった。ええっと、スタンがつくからウズベキスタンとかトルクメニスタンとかアフガニスタンとかタジキスタンとかあのへんの国だよね。ロシアとトルコの間らへんだっけ。

 場所もわからなければ、国旗も首都も通貨も言語も歴史も有名人も名産品も人気のスポーツも有名な料理も観光名所もなーんにも知らない。この本を読まなかったら、一生カザフスタンについて考えることのない人生だったかもしれない。

 この本を読み、カザフスタン社会がほんの少しだけわかった。ほんの少しだが、「カザフスタンに生まれなくてよかった!」と強くおもった。汚職を憎む善良な市民(贈収賄に関わっていない多くの日本人がそうだろう)にとって、カザフスタンは地獄のような世界だ。

 



 賄賂=悪いもの、という認識があるが、賄賂やコネは部分的に見れば理解できる面もある。

 公式な手続きにのっとってやろうとすると、単に時間がかかるだけではなく、あちこちたらいまわしにされたり横柄な態度を取られたりして、嫌な思いをすることが多い。このことを指してよく使われるのが「神経をすり減らす」(tratit' nervy)という表現だ。
 石油関連企業に勤める三十代の男性は、交通警察に賄賂を払う理由をこう説明する。警察が調書を作成するあいだ、三〇分は待たされる。それにサインして、銀行に行って罰金一〇〇ドルを払う。こんどはその領収書を持って警察に行き、窓口に提出する。そこで二、三時間は行列に並ばされる。こうやって奔走して神経をさんざんすり減らすか、その場で警察官に一〇ドル渡して終わりにするか。無駄な時間と余計なイライラを考えたら、後者を選ぶのは当然だ。

 長時間待たされるのは嫌だから、急いでいてお金に余裕がある人は金を積んで順番を早めてもらう。それなりに合理的だ。ぼくも以前キンタマが猛烈に痛くなって病院に行ったのに長時間待たされたときは「自費診療でもいいから優先的に診てくれ!」と願ったものだ。だから気持ちはよく理解できる。

 時間の価値は人によってちがうから、価格で対応順に差をつけるのは悪いアイデアではない。某テーマパークでも、「割高な代わりにアトラクションの待ち時間を少なくできるチケット」を売っていた。あれだって賄賂みたいなものだ。

 問題は、少数の最適解をつみかさねた結果が多数にとっての最適解にならないことだ。賄賂を積まないと待たされる、だから賄賂で早く対応してもらう、すると他の人はさらに待たされる、他の人も賄賂を積む、結果的にみんなが賄賂を贈るのでみんな前と同じように長時間待たされることになる……ということになる。

 こうなると「賄賂を贈っても得をしない。ただし賄賂を贈らないと著しく損をする」ことになって、(賄賂をもらう側以外は)みんな等しく損をする。

 各人が勝手に賄賂を受け取るのではなく公式のメニューとして「割高だけど早くしてもらえる権」を販売する、販売数を制限する、などすればそこそこうまくいくかもしれないけどね。




 カザフスタンは社会のあらゆる面で賄賂がはびこっており、賄賂なしには社会がまわらないぐらいになっているそうだ。

 そういえば、なんかの本で「中国かロシアから陸路でヨーロッパに行こうとしたけど途中のカザフスタンでビザを取るのに苦労して、係員に袖の下を渡したらなんとかなった」的な記述を読んだことがあったなー。

 交通警察、移民警察、国境警備隊、税関、税務署、裁判所、検察、学校、大学、保育園、軍、病院、役所……。カザフスタンではありとあらゆる組織が汚職まみれになっている。


 カザフスタンは旧ソ連国家だが、ソ連時代はここまでひどくはなかったという。ソ連時代はモノが足りなく、そもそもお金があっても買えるものがなかった。また共産党による睨みが効いており、収賄がばれると厳しい刑が待っていた。だから賄賂よりも「コネを利かせて物資を優先的に手に入れる」ことのほうが重要だった。

 ソ連時代は(コネを含めて)「持ちつ持たれつ」だったが、独立によって資本主義経済が流れこんできたことで何をするにも賄賂が必要になったのだそうだ。

 コネが幅を利かせる社会もイヤだけど、賄賂を渡さないと渡れない世の中はもっとイヤ、というのがソ連時代を知るカザフスタン人の認識らしい。そりゃそうだろうなあ。




 ここまで賄賂が横行していると、もはや賄賂ありきのシステムが構築されている。

 現在のカザフスタンで、非公式に取り引きされているもののひとつに公職がある。役人や警察官、裁判官などのポストや教職までもが、しばしばカネで売買されているのだ。保育園の入園枠や運転免許証などと異なり、職はいちど購入すればそれで終わりではない。その地位を保証してくれるのは、あくまで「売り手」であるパトロンであり、組織ではないため、どの人物に誰を通じてアクセスするのかが重要になる。
 公職売買については、カザフスタンの隣国であるキルギス共和国を対象とした興味深い研究がある。スウェーデンの政治学者ヨハン・エングヴァルは「投資市場としての国家」で、腐敗が法の逸脱ではなく事実上ゲームのルールと化している社会においては、公職をカネで買う行為は「国家への投資」とみなすことができる、と論じている。つまり、公的機関のポストは非公式収入をもたらす有望な投資対象なのだ。この見方に立つと、なぜ給与の何倍もの金額を払い、ときには借金までして職を買うのか、その理由が理解できる。公的機関の職員は必ずしも薄給による生活苦から賄賂を取るのではなく、しばしば「初期投資」を回収するためにカネを集めているのである。

 公職につくには賄賂が必要となる。賄賂は高額なので、給与の何倍もする。したがって、公職についた後には「初期投資(賄賂)を取り返すため」に市民に対して賄賂を要求することになる。

 また、上司からも賄賂を要求される。従わなければ組織内で不利益を被るので上司に上納金を収める。上司は上司で、そのポジションにつくために賄賂を払っているし、そのまた上から賄賂を要求されている。

 とても個人があらがえるようなものではない。好むと好まないとにかかわらず贈賄・収賄システムに参与せずにはいられないのだ。

 ウトキン氏は、腐敗は個々の裁判官の問題ではなく、「システムが収賄を強制する」のだと強調する。司法界全体が「金儲けのためのビジネス団体」と化しているときに、一人でそれに抗うのは非常に困難だ。収賄という暗黙のルールに従っている人たちは、それを破る仲間のせいで自分たちが悪者にされるのを嫌い、排除しようとする。
 裁判所の長官にとっても、自分の命令に背くような裁判官は都合が悪い。ウトキン氏によれば、カザフスタンでは有利な判決を得るために、仲介者を通して長官にカネを渡すことが多く、弁護士もこうした「仲介業」にしばしば携わっている。裁判官は人事権を握る長官の指示には逆らえない。

 政治家も警察署も司法機関も賄賂に染まっているのなら、いったい誰が賄賂を裁けるというのか。

「賄賂経済に参加する」「国を捨てる」のどっちかしかなさそう。そして外国に渡るにも賄賂が必要なんだろうな……。




「賄賂を贈った人に便宜を図る社会」は、当然ながら「賄賂を贈らない人が不利益を被る社会」でもある。

 罪をでっちあげて賄賂を要求する警察官、賄賂をくれた被告を勝たせる(つまり賄賂を贈らない原告を負けさせる)裁判官、治療前に賄賂を要求する公立病院の医師なども珍しくないという。

 仮に「自分は絶対に賄賂を贈らないし受け取らない!」と崇高な志を持っていたとしても、していない罪で逮捕されそうになったり、賄賂を贈らないと病気の治療をしてもらえないとなれば、賄賂を包まないわけにはいかない。決して比喩ではなく、賄賂を贈らないと生きていけない国なのだ。

 いまの若者はソ連時代に教育を受けた世代から、「あらゆるものが売り買いされるのを見て育った」と評されている。年齢に関係なく、カネで物事をすばやく解決するのはもはや常識だ。ただ、社会主義時代を経験している人びとは、贈収賄に対して自分たちが持つ後ろめたさや罪悪感が、若い世代には欠けているのではないか、と感じている。独立後の混乱期しか知らない若者たちには道徳的な基盤がない。そう語る人たちもいた。
 賄賂をあたりまえのこととして受け入れ、世のなかはカネしだいだと考えている。上の世代がこう慨嘆する若者たちだが、彼らはまぎれもなく、大人たちがつくった社会の落とし子なのである。

 そして賄賂の横行が引き起こす問題は、単なる金の問題だけではない。

 賄賂は、社会のあらゆる面が劣化させる。

 良い大学に行けるかどうかが賄賂で決まるなら、学生がまじめに勉強する意欲は失われるだろう。

 就職も賄賂で決まり、事業がうまくいくかどうかも決まる。まじめに働いて良い製品やサービスを提供することが成功につながらない。こんな社会でいい商品やサービスが生まれるはずがない。

 かくして、能力のある者はいなくなり、人々のモラルは低下し、生産性は下がる。賄賂は社会のあらゆる部分を蝕んでゆく。取り締まろうにも、取り締まる機関が賄賂まみれなのだからどうすることもできない。


 もちろん日本にとっても対岸の火事ではない。

 汚職にまみれた東京五輪が大失敗に終わり、経済成長や被災地復興にちっとも貢献しなかったように。

 東京五輪汚職なんて人心に与える影響を考えれば国家転覆罪で吊るし首にしてもいいぐらいの大罪なのに、結局のところほとんど誰も大した責任をとっていない。贈賄側も収賄側もしっぽが切られただけでピンピンしてる。

 日本がカザフスタンのようになってしまわないように、今のうちに再起不能になるぐらいの極刑を科したほうがいいよ。あいつやあいつやあの会社のえらいさんをさ。


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2023年3月20日月曜日

【読書感想文】東野 圭吾『真夏の方程式』 / 博士と少年のいちゃいちゃ

真夏の方程式

東野 圭吾

内容(e-honより)
夏休みを伯母一家が経営する旅館で過ごすことになった少年・恭平。仕事で訪れた湯川も、その宿に滞在することを決めた。翌朝、もう一人の宿泊客が変死体で見つかった。その男は定年退職した元警視庁の刑事だという。彼はなぜ、この美しい海を誇る町にやって来たのか…。これは事故か、殺人か。湯川が気づいてしまった真相とは―。


 人気ミステリシリーズだが、これはあれだな。ミステリというより、湯川博士と少年のいちゃいちゃっぷりを楽しむ小説だな。


 正直、ミステリ部分は退屈だ。

 序盤で人が死体で発見されるが、ほとんど出番のなかった人が死体で見つかるので被害者に関心が湧かない。被害者の身元も、定年退職した刑事だということ以外はとりたてて変わったこともない。

 そのうちどうやら殺人のようだという話になるが、容疑者も、殺人の動機もまったく判然としない。殺害方法も検死によってあっさりわかるので謎もない。

 被害者も地味、殺され方も地味、容疑者は不明、動機も不明、トリックが使われた形跡もない。これではあまりに興味が湧かない。

 さすがに終盤は点と点がつながって意外な真実が浮かび上がってくるが、これまでのガリレオシリーズ『容疑者Xの検診』や『聖女の救済』ほどの驚きはない。殺害方法もかなり偶然に頼ったもので、いい出来のトリックとはいえない。

 決して悪くはないけど、これまであっと驚く展開を見せてくれたガリレオシリーズにしては凡作といったところだ。




 だが、ミステリ部分のものたりなさを、湯川博士と少年の関係が補ってくれる。『探偵ガリレオ』シリーズのファン以外が楽しめるかどうかはわからないが。

 湯川博士といえば頭脳明晰、冷静沈着、ドライでクールでおなじみで、他人に対して執着するタイプとはおもえない。また子ども嫌いでもある。

 なのに、宿で出会った少年にだけはふしぎと気にかける。宿題を教えたり、海底が見たいという少年の願いをかなえるために奮闘したり、学問の奥深さを解いたり。少年のほうも「博士」と呼んでなついてはいるが、どちらかといえば湯川のほうが積極的に少年にかかわろうとしている。


 ぼくは子どもと関わるのが好きなので、今作の湯川博士の行動はよくわかる。

 自分の子どもだけでなく、よその子どもであっても、できるかぎり支援したい、才能を伸ばしてやりたいという気持ちが湧いてくるのだ。


 子どもに本を買ってあげたい病

 以前、こんな記事を書いたが、特に好奇心旺盛な子、特定の学問分野に強い関心を抱いている子に対しては「支援したい!」という欲求がふつふつと湧いてくる。見返りなんていらない。ただ、あしながおじさんになって才能が伸びてゆくところを見ていたいのだ。

 また、ぼくも湯川博士ほどではないにせよ、非社交的で世間話というやつが苦手なので、大人といるより子どもと話すほうがずっと気楽だ。ぼくも湯川博士と同じ立場になったら、やはり「気心の知れない大人たちと同じ宿に泊まって長期間交流しないといけないぐらいなら、金を払ってでも別の宿に泊まって小学生に宿題を教える」ほうを選ぶだろう。




 中盤で、湯川博士は事件の真実について何かを気づき、しかし「ある人物」のために真相を暴くことをためらう。「ある人物」が少年のことだろうということは明白だが、少年が事件とどうかかわっているのかがわからない。なにしろ少年は人が死んだことことすらしばらく知らなかったぐらいだし、ひきがねになった事件は少年が生まれる前の出来事だ。また少年の両親はほとんど登場しない。

 「犯人は誰か」「被害者はなぜここにやってきたのか」「被害者はなぜ殺されたのか」という点よりも、「少年と事件がどうかかわっているのか」をキーに読み解くほうがずっとおもしろい。

 正直、被害者や加害者に関する謎はなくてもいいぐらいだ。これもまたミステリ。


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2023年3月17日金曜日

いちぶんがく その19

ルール


■ 本の中から一文だけを抜き出す

■ 一文だけでも味わい深い文を選出。



だけど……と、六十男はグズグズと決心がつかなかった。

(内館牧子『終わった人』より)




つまり、糞野郎だった。

(西 加奈子『漁港の肉子ちゃん』より)




サンタクロースは、一種の破壊神として、クリスマスに忍び込んできた。

(堀井 憲一郎『愛と狂瀾のメリークリスマス』より)




樹海に早く着きたいから、その理由だけでポルシェに乗っている人はほかにいないだろう。

(村田らむ『人怖 人の狂気に潜む本当の恐怖』より)




赤手拭名人と呼ばれる腕利きの職人がいて、店の亭主は赤手拭親方などと呼ばれて、誰もが赤手拭を欲しがった、などという過去があったのだろうか。

(本渡 章『大阪市古地図パラダイス』より)




もし、人間の部分しかなかったら、生き延びられなかった。

スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ(著) 三浦 みどり(訳) 『戦争は女の顔をしていない』より)




老後破産してればいいのに。

パオロ・マッツァリーノ『サラリーマン生態100年史 ニッポンの社長、社員、職場』より)




ここには、異性と親しくなりたいという、邪念をはらんだ気持ちで男女が集まっている。

(石神 賢介『57歳で婚活したらすごかった』より)




母親がにわとりの素早さで振りむく。

(荻原 浩『海の見える理髪店』より)




これは読書の永久運動だ。

(岡崎 武志『読書の腕前』より)




 その他のいちぶんがく


2023年3月16日木曜日

白米食堂

 ぼくはごはん、つまり白米が大好きだ。ベタなギャグだけど、三度の飯よりごはんが好きだ。

 そんなぼくが、出現を待ち望んでいる店がある。

「白米食堂」だ。


 とにかくごはんにこだわった食堂。おいしいお米を、職人が釜で炊いて出してくれる。なんなら高性能の炊飯器でもいい。最近の炊飯器はすごいから。いろんな品種のお米を選べる店。

 つくるのはごはんだけ。おかずは一切つくらない。

 といってもおかずがないわけではない。おかずはすべて市販の「ごはんのおとも」である。

 海苔、納豆、漬物、ふりかけ、生卵、鮭フレーク、海苔の佃煮、食べるラー油、サバ缶、ちりめんじゃこ、いかなごのくぎ煮、明太子、そぼろ肉、かつおぶし、醤油、味噌……。

 そのへんのスーパーに置いているものばかりだ。とりたててめずらしいものはひとつもない。珍味はあるけど。

 でも、だからこそ、ごはんのおいしさが引き立つ。


 ほら、酒場とかバーであるじゃない。厳選したいろんな種類のお酒を置いてるけど、食べ物は缶詰とかナッツぐらいしか出さない店。

 あれの食堂版。おいしい白飯を食わせることだけに特化した店。


 そういう店がほしい。

 自分ではやりたくない。近所にほしい。誰かがやってほしい。

 誰かやってくんねえかな。わざわざ電車に乗って食べにいくほどではないから、うちの近所で。

 高級食パンブームの後は高級ごはん。どうでしょう。



さよなら週刊朝日

『週刊朝日』が五月で休刊するそうだ。

 一抹の寂しさを感じる。ほんの一抹だけ。


 ぼくは一度も週刊朝日を買ったことがない。母が好きで、毎週買っていたのだ。

 週刊朝日は総合週刊誌としてはかなり硬派な部類で、エロい記事もないし、芸能ニュースだとかゴシップ的な記事も載っていない。政治や社会問題についての記事が多く、かなりハイソ向けの週刊誌だ。週刊誌を読まない人からすると「週刊誌ってぜんぶ下品なんでしょ?」という認識だろうが(まあだいたいあってる)。

 昔は今よりもっと週刊誌が身近だった。病院や銀行の待合室には必ず週刊誌が置いてあった。多いのは『週刊新潮』や『週刊文春』などで、それらはエロい記事やゴシップニュースも載っていた。


 汚い話だが、うちの実家では週刊朝日はトイレで読むものだった。母は週刊朝日を買ってくるとまずトイレに置いていたのだ。手持ち無沙汰なトイレ時間を有意義に過ごす工夫だ。

 だから家族みんなトイレで週刊朝日を読んでいた。編集者たちには申し訳ないが、ぼくにとって週刊朝日はトイレの雑誌だった。

 

 そんなわけで小学生の頃から週刊朝日を読んでいた。

 最初はマンガやイラスト。山科けいすけ『サラリーマン専科』『パパはなんだかわからない』や山藤章二『似顔絵塾』『ブラック・アングル』など。

 そのうち、漫画やイラストのある文章も読むようになる。『デキゴトロジー』、西原理恵子・神足裕司『恨ミシュラン』、ナンシー関『小耳にはさもう』、東海林さだお『あれも食いたいこれも食いたい』。はじめのうちは絵目的で読みはじめたのに、文章もおもしろいことに気づく。大人向けの文章を読むようになったきっかけは週刊朝日からだった。

 そしてぼくが中学生の頃は『ダウンタウンのごっつええ感じ』が学校で大流行している時代。そんなときに松本人志『オフオフ・ダウンタウン』の連載がはじまり、ぼくは「クラスのみんなはテレビでしか知らない松本人志の裏側をぼくだけが知っている」とひそかに優越感を感じていた(この連載は後に『遺書』『松本』として大ベストセラーになる)。ほんと九十年代後半は黄金時代だったなあ。


 連載が良かったから人気があったというより、人気があったから才能が集まる場所になったという感じだろう。今、才気あふれる書き手が週刊誌を選ぶとはおもえないもの(週刊誌側もそれに見合った待遇を用意できないだろうし)。

 週刊朝日の休刊は寂しいけど、「あのときああしていたらこの先何年も続けられていた」みたいな転機はなく、誰がどうやってもこのへんで終わることは時代の必然だったのだろう。


 ところで雑誌が終わることを「休刊」っていうのいいかげんやめねえかな。休刊した雑誌が再開することなんて1%もないんだからさ。つまらない見栄張ってないでちゃんと「廃刊」って言おうぜ。



2023年3月15日水曜日

働きものの保育士

 姉は保育士をやっている。 

 大学で管理栄養士の資格をとって栄養士として保育園で働いていたのだが、保育にも関わりたくなって働きながら保育士の資格もとった。

 栄養士として給食を作り、夕方には手が空くので保育をするのだそうだ。

 弟のぼくが言うのもなんだが、姉はとても働きものだ。栄養士をしつつ、保育士もしつつ、家では家事や子育てもしている。


 昔から行動的な人だった。ぼくなんか一日中家でごろごろしてるのに、姉は常に身体を動かしていないと気が済まない。大学時代は、せっかく実家に帰省したのに朝六時ぐらいに起きて掃除をしたり料理を作ったりしていた。横にいて落ち着かないぐらいの働き者だ。

 ま、それはいい。姉がなまけものだと困ることもあるだろうが、姉が働きもので悪いことはない。


 姉は働きものなので、遅くまで仕事をするし、休みの日にもやれ勉強会だやれ保育サークルのイベントだとかでよく出かけているらしい。もちろん家事もやっている。

 まじめに一生懸命働くのはいいことだ。それはいいのだが、「こういう人が上にいると下の人はたいへんだろうな」とおもう。

 若い保育士さんが働きはじめたら、先輩の保育士が朝早くから遅くまで仕事をして、家にも仕事を持ち帰って、休みの日にも手弁当で保育関連のイベントをやっているとする。

 若い保育士さんが「定時になったらさっさと帰りたいし、自宅では仕事をしたくないし、オンとオフの区別はつけたい」という考えの人であれば(そっちがふつうなんだけど)、姉みたいな先輩保育士がいたらやりづらいだろう。「あんたも同じことをしなさいよ」とはっきり言われなかったとしても、繊細な人であれば無言のプレッシャーは感じるだろう。

 そして、働きもののペースについていけない人は辞めてゆき、ついていける人だけが残る。そうするとますます働きものにあわせた働き方になってしまう。


 保育士は離職率が高いという。女性が多いということもあるが、高くない給与、楽でない仕事、大きな責任もその理由だろう。

 姉のような働きものが給与分以上にどんどん働くのは雇用者からしたらありがたいだろうけど、保育士全体の待遇改善という点でいえばいいことじゃないのかもしれない。

 ま、個人が業界全体のことまで心配することはないから好きにしたらいいんだけど。



2023年3月14日火曜日

【読書感想文】東海林 さだお『がん入院オロオロ日記』 / ドッジボールはいちばん野蛮

 がん入院オロオロ日記

東海林 さだお

内容(e-honより)
ある日、肝細胞がんと告知されたショージ君。40日に及ぶ人生初の入院生活を送ることに。ヨレヨレパジャマで点滴のガラガラを連れ歩き、何を食べるか悩む間もなく病院食を出される。それは不本意の連続だった…。認知症時代の“明るい老人哲学”にミリメシ、ガングロ。そしてついにオリンピック撲滅派宣言!?


 小学五年生の誕生日、リクエストしていた誕生日プレゼントとは別に、母から二冊の文庫本をプレゼントされた。一冊は北杜夫『船乗りクプクプの冒険』、もう一冊は東海林さだお『ショージ君の男の分別学』だった。

 どちらもめっぽうおもしろかった。それまでのぼくが読んでいたのは児童文学、祖父の本棚にあった星新一、母の本棚にあった椎名誠『岳物語』や群ようこ『鞄に本だけつめこんで』などで、「おとなが読んでいる本はまじめでむずかしいもの」とおもっていた。

 ところが北杜夫氏のユーモア小説とショージさんの軽妙なエッセイは、その認識をひっくりかえしてくれた。ぜんぜんむずかしくない。ちっともまじめじゃない。そしてめっぽうおもしろい。

 ショージさんのエッセイの何がすごいって「これぐらいなら自分でも書けそう」とおもってしまうところなんだよね。小学生のぼくはやってみたよ。東海林さだお風エッセイ書いてみたよ。もちろんぜんぜん足下にも及ばなかったよ。かんたんそうに書いてるけどすごいんだよなあ。


 すっかりショージさんのとりこになったぼくは、彼のエッセイ集を買いあさった。うちで購読していた週刊朝日の『あれも食いたい これも食いたい』も欠かさず読むようになった。

 今では積極的に買い集めることはなくなったが、実家に帰れば『あれも食いたい これも食いたい』を読むし(週刊朝日も休刊なんだってね。さびしいなあ)、ときおりエッセイ集も買って読む。




 そんな三十年来の東海林さだおファンなので『がん入院オロオロ日記』という書名を見て「ショージさんもついに危ないのか!? 今のうちに読んでおかなきゃ!」とあわてて読んだのだが、この本が出されたのは2017年のことで、それから六年たった今でももちろんショージさんは元気に活躍されている。ああ、よかった。


『がん入院オロオロ日記』というタイトルなので心配したのだが、このエッセイを読むかぎりあんまりあわてふためいてしてない。タイトル通り、ちょっとオロオロしているだけだ。トイレが見つからなくてオロオロ、とか、どの改札から出たらいいかわからなくてオロオロ、とかその程度のオロオロだ。

 これでこそショージさんのエッセイだ。

 ショージさんの文章に、激しい感情は似合わない。恥ずかしいとか、うらやましいとか、もったいないとか、なんとなく得した気分とか、「小市民的な感情」はよく書かれるんだけど、心の底から憤るとか、大爆笑するとか、世を憂うとか、そういう強い感情はまず描かれない。これこそが長年愛されている秘訣なのだろう。

 そんなわけで、がんを宣告されて、命がけの手術をすることになっても、オロオロしているだけだ。もちろん内心では慟哭とか悲嘆とかあったのかもしれないけど、そんなものはおくびにも出さない。

 病院の中や入院患者のことを、いつものごとくユーモラスな目で観察している。

 今回の入院のときも、パンツにカタカナで自分の名前を書きながら、ほんの少し、晴れがましいような気分になったっけ。
 そもそもあのあたりから、気分が幼児還りをし始めていたのではないか。病気をするということは、ある程度自分を人に託すことである。
 入院ということになれば、自分を人に託す部分が更に大きくなる。
 また、託さないと成り立たない生活であるともいえる。
 一度、大人を捨てる。
 大人を捨てて幼児に戻る。
 今回入院をして初めてわかったことだが、一度大人のタガをはずして幼児に戻ると、とたんに急にラクになる。
 本当にもう、あたり一帯、急にラクになるんですねえ。
 何しろこっちは幼児であるから、何を曝け出してもいい。
 どんな恥をかいてもいい。
 苦しくて唸りたければいくら唸ってもいいし、おならをしたければあたりかまわずしてもいい。
 異界というんですか、よく考えてみると、まさに異界なんですね、病院というところは。

 病院は大人を捨てるとこ。なるほどね。

 たしかに入院中の生活って、保育園での生活に似ているかもしれない。自分がいつ何をするかを決める権限はまったくない。決まった時間にご飯を出され、決まった時間に片づけられ、決まった時間にお着替えをし、決まった時間に移動させられ、決まった時間にお風呂に入る。人によってはトイレの時間まで決まっていたりする。

 今日は何をしようかな、と考える必要もないし、「今日のスケジュールは……」と確認する必要すらない。時間が来たら看護師さんが教えてくれる。

 何を着るかも考えない。用意された服を着る。

 何を食べるかも考えない。用意された食事をとる。

 およそ判断力というものが必要とされない。ぼーっとしていても「何をしたらいいか自分で考えて動かなきゃだめだぞ! 指示を待ってちゃだめだぞ!」と怒られたりしない。むしろ指示通りに動くことが求められる。

 ぼくはまだ入ったことがないけど、たぶん刑務所の生活もそんな感じなんだろう。

 保育園と病院と刑務所はけっこう似ているのかもしれない。




 がんで入院した話ばかりかとおもったら、入院エッセイは少しだけで、ほとんどはいつもの東海林さんのエッセイだった。

 のほほんとしているようで、ときおり切れ味鋭くえぐったりするのもショージさんのエッセイの魅力。

 初詣の話より。

 この、お札やお守りや絵馬に、はっきりした有効期限があることを知っている人は少ないのでないか。
 「そりゃ有効期限はあるだろうよ。そんなことわかってるよ」
 という人も、「はっきりした有効期限」ということまでは知らないのではないか。有効期限は「はっきり一年」である。
 一月三日に買って帰ったお札やお守りは、きちっと翌年の一月三日に効き目がなくなるのだ。
 電池なんかだと、使わないで取っておけば、一年たってもまだ使える。
 だが、お札やお守りはそういうわけにはいかない。
 お札を柱に張ったり、お守りを財布に入れておけば、それだけで〝使っている〟ことになるのだ。
 電池は使っているうちに少しずつ寿命が減っていくが、お札やお守りも効き目が少しずつ減っていって、一年後、ピタッと〝電池切れ〟になる。
 ただの紙切れになる。
 「なーんか怪しいなー。そのピタッというところが怪しーなー」
 と思うでしょ。
 怪しいんです。
 業者につけこまれて、してやられているんです。

 ほんと、そうよね。

 お守りやお札には有効期限がある。で、一年後に奉納しに来い、ついでにまた新しいやつを買え、と言ってくる。

 よく考えたらおかしな話だ。なぜ一生ものじゃないんだ。なぜ一年更新なんだ。「長年使ってるうちにだんだんと効き目が減ってくる」ならわかる。電化製品みたいに「最近この御守り調子悪いな。もうずいぶん使ったもんな。そろそろ新しいの買おうかな」ってなるのなら。

 でも、ぴったし一年で期限が切れるってことはどう考えても人為的なものだ。「有効期限はきっかり365日です。一日でも過ぎたら無効です」なんて神様、みみっちすぎてまったく信用できない。

 最近サブスクなる言葉が流行ってるけど、神社の商売はサブスクの元祖かもしれない。

 



 冒頭のがんの話もそうだけど、勃起不全とか認知症とか、テーマがずいぶん後期高齢者寄りになっている。ショージさんも老いたなあ、とちょっと寂しくなった。

『ミリメシはおいしい』『流行語大研究』なんて、雑誌かなんかを見て書いたようなおもしろみのないエッセイだったし。

 さすがにもう若い頃のように好奇心を刺激してくれるエッセイは書けないか……とおもっていたら、ガングロカフェなるものを訪問する『ガングロを揚げる』があった!

 これこれ、こういうのを求めていた。

 ショージさんといえば食べ物がエッセイが有名だけど、こういう訪問記もおもしろいんだよね。すごくめずらしい場所に行くんじゃなく、ちょっと変わった趣向のレストランとか、野球場とか、芸者遊びとか、パックの旅行とか、日常の延長のようなルポ。


「メイド喫茶やガングロカフェは芸者遊びといっしょ」という考察もおもしろい。

 たしかになあ。大の大人が高い金を払って幼児遊びのようなくだらないことをする、という点では同じだよなあ。




 巻末の、岸本佐知子さんとの対談『オリンピック撲滅派宣言「スポーツって醜いよね?」』もおもしろかった。

 岸本佐知子さんといえば東海林さんと並ぶほどのエッセイの名手。このふたりが対談しておもしろくならないはずがない。

 リュージュやボブスレーは地球の重力の話であってお前の力ではない、水泳の高飛び込みがあれこれ動きをつけるのは電車の車掌がアナウンスに変なアレンジが入れるのと一緒、冗談で競技を作ってもまじめな人たちが本気の競技にしてしまう、など鋭い視点が光る。

 中でも、岸本さんの「ドッジボールは暴力行為を正当化している」という言い分はおもしろかったなあ。

 たしかにそうだよね。ボールを直接敵にぶつける競技って他にないよね。結果的にぶつかることはあっても、人めがけておもいっきりボールを放つ競技はぼくの知るかぎり他にない。バスケットボールとかアイスホッケーなんて格闘技に例えられることもあるぐらい激しいスポーツだけど、それでも敵にボールやパックをわざとぶつけたりはしない。

 ドッジボールだけが、相手めがけておもいっきりボールを投げることが認められている。いや、認められているどころか推奨されている。

 そんな野蛮なスポーツが、よりによって全国の小学校で低学年の子たちにやらせているわけだから、ずいぶんな話だ。

 いや、野蛮だからこそ子どもたちが好きなのかな。原始的な攻撃性をむき出しにできるから。こえー。


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2023年3月13日月曜日

【読書感想文】ゲアリー・スミス『データは騙る 改竄・捏造・不正を見抜く統計学』 / ランダムなものにもパターンを見つけてしまう私たち

データは騙る

改竄・捏造・不正を見抜く統計学

ゲアリー・スミス(著) 川添節子(訳)

内容(e-honより)
「ビッグ・データ」の活用が叫ばれる一方、政府から科学界に至るまで、データの改竄や捏造は絶えない。世の中にあふれる一見もっともらしい数字や調査に、私たちはどう向き合えばいいのか?そんな声に応え、統計経済学のエキスパートがさまざまな数値から巧妙に導き出されるトリックを明かし、ダマされないための極意を伝授。ビジネス、研究、日常生活の各場面で役立つ楽しい統計学入門。


 データは正しい。とはよく言うが、現実的にはデータが嘘をつくことは多々ある。データが嘘をつくというより、嘘をつくためにもデータを使えるといったほうがいいかもしれない。

 データは食材だ。生のまま食べることはほとんどない。たいていは加工、調理されてから我々の前に運ばれてくる。その過程でうっかり、あるいは故意に、誤った情報が入ることがよくある。

 そんな「データが人を騙す例」を、実例を挙げて紹介した本。

「偶然の結果にもパターンは見いだせる」「生存者バイアス」「平均への回帰」「大数の法則」「あやしいグラフ」「交絡因子」「テキサスの狙撃兵」「理論なきデータ」「データなき理論」など、陥りやすいワナについて紹介している。




 たとえば生存者バイアス。

 まぎらわしい例もある。ニューヨーク・シティの動物病院に運びこまれた、高所から落ちたネコ一一五匹のうち、九階以上から落ちたネコの五パーセントが助からなかったのに対して、それより低い階から落ちたネコでは一〇パーセントが助からなかったという。獣医師らは、高いところから落ちたほうが滞空時間が長く、体を広げることができるため、パラシュート効果が見込めるからではないかと予想した。ほかに考えられる理由はあるだろうか。
 ここにも生存者バイアスがある。落下して死んでしまったネコは病院には運ばれないからだ。さらに、たとえ息があったとしても、高い階から落ちてひどいけがをしていれば、飼い主はあきらめて病院に連れていかないかもしれない。一方、低い階から落ちていれば、飼い主も希望を持って病院に連れていくだろうし、治療費の支払いも躊躇しないだろう。

「八十歳以上の喫煙者の健康状態を調べたら、非喫煙者と大きな差はなかった。喫煙は健康に害を及ぼさない」みたいなものだ。じつは多くの喫煙者が八十歳になる前に死んでいるかもしれないのに、生き残った人だけを調べているから正しい結論が得られない。

 よく見るのが「成功者が語る成功の秘訣」である。サンプルが少ないのはもちろん、そこには成功者バイアスが多く含まれている。

「成功している経営者の多くは不眠不休でがんばっていた。寝る間も惜しんで仕事にはげめば成功する」。その裏に、不眠不休でがんばって死んでしまった者や、不眠不休でがんばったのに倒産してしまった経営者は調査の対象に含まれない。

 スポーツでも一流選手はインタビューをされたり成功の秘訣を聞かれたりするが、同じように努力をして同じ練習をしたのに一流選手になれなかった者はインタビューされない。

「成功者が語る成功の秘訣」はほぼすべてが嘘っぱちだ。




「平均への回帰」も陥りやすい失敗だ。

 偶然や運に左右されることは、短期的にはすごく調子のいいときや絶不調のときもあるが、長期間続けていけば平均へと収束してゆく。

 であれば「短期的にすごく調子のいい選手」は、その後は平均へと近づく(つまり絶頂期よりも調子を落とす)可能性が高い。

 プロ野球の「2年目のジンクス(新人で活躍した選手は翌年調子を落としやすい)」、芸能界の「流行語大賞をとった芸人は一発屋になりやすい」などもただの「平均への回帰」で、ふしぎでもなんでもない。


 ノーベル賞を受賞したダニエル・カーネマンは、かつてイスラエルの飛行訓練の教官に、訓練生は怒るよりもほめたほうが早く上達するとアドバイスした。ところが、教官は強く反発した。

訓練生がアクロバット飛行を見事にやってのけたときにはよくほめた。ところが、それでもう一度やらせると、たいていうまくいかない。一方、下手くそな飛行をしたときには、わたしは怒鳴りつける。すると、次回はたいていうまくいく。だから、ほめるとうまくいく、怒ればうまくいかないなどと言わないでほしい。実際にはまったく逆なのだから。

 カーネマンには、この教官が平均への回帰にだまされているとわかった。いい飛行を行なった訓練生は、その飛行が示すような平均をはるかに上回る能力を持っているとは限らない。多くの場合、次の飛行の技術は前回を下回る。教官がほめようが、怒鳴ろうが、口をつぐもうが関係ない。カーネマンに反発した教官は、自分がほめたから訓練生の飛行がうまくいかなくなったと思っていた。実際には、訓練生の本当の出来はそれほどよくなかったのだ。同じように、下手くそな飛行をした訓練生は、概してその見た目ほど下手くそではないし、教官がどなり散らさなければ、次の飛行はもっとうまくやるだろう。
 カーネマンはのちにこう書いている。

 あれはうれしい瞬間で、あのとき私は世の中の重要な真実を一つ理解した。私たちには人がうまくやったときにはほめ、失敗したときには罰する傾向があり、さらに平均への回帰があるため、統計的に人をほめて報われず、罰して報われるという状況を人間は避けることができない。

 平均への回帰により「褒めると調子を落とし、叱ると調子が上がる」ことが起こりやすい。その結果、「人は褒めるより叱って伸ばすほうがいい」と誤った認識を持ってしまう指導者が多い。不幸なことだ。




 人には、パターンを見いだす習性がある。「右の道を通ったら悪いことが起こることが三回続いた。あっちには行かないようにしよう」「三百六十日ぐらいの周期で暑い寒いをくりかえしている。今は暑いから、そのうちまた寒い日が来るにちがいない」とか。これはきわめて有用な能力だ。パターンを見つけられるからこそ生きのびてこられたといってもいい。

 問題は、意味のないパターンにも意味を見いだしてしまうことだ。


 著者が株価チャートを投資家に見せたところ、投資家はこの株で儲ける方法を見つけた。だが、そのチャートは無作為に作られたグラフだった。

 チャートは本物の株価ではなかった。いたずら好きの教授(実は私である)が、学生にコインを投げさせてつくったものだった。どのケースでも「株価」は五〇ドルからスタートし、毎日の変動はコインを二五回投げて、それぞれ表が出れば五〇セントアップ、裏が出れば五〇セントダウンとした。たとえば一四回表、一一回裏が出たとしたら、その日は一ドル五〇セントの上昇となる。こうしてたくさんのチャートをつくり、そのうちの一〇枚を、パターンを見つけてくれれば、という期待とともにエドに送った。エドは期待を裏切らなかった。
 種明かしをすると、エドは心底がっかりしていた。売り買いすれば本当に利益を出せると思っていたからだ。しかし、彼がこの件から引き出した教訓は、期待していたものとはまるでちがった。エドが到達した結論は、「テクニカル分析でコイン投げを予想できる」というものだった。
 この一件が明らかにしているのは、データをあされば偶然以外の何物でもない統計パターンが必ず見つかるということを理解している人は少なく、プロの投資家も例外ではないということだ。理論なきデータは魅力的だが、過ちを犯しやすくなる。

 コイン投げの結果は完全にランダムだ。次に何が出るか、50%より高い確率で予想することはできない。

 にもかかわらず、人はランダムな結果からも「これまでのパターン」「これから起こるであろう傾向」を見いだしてしまう。

 サイコロを振って、奇数、奇数、偶数、奇数、奇数、偶数、ときたから次は奇数だ、とかね。

 私たち人間は生まれながらにして、自分を取りかこむ世の中を理解するようにできている。理解するというのは、パターンを見いだし、そのパターンを説明する理論を作り出すということだ。そして、そのパターンが、運不運といったランダムな事象によっていかに簡単に生まれるか、私たちはわかっていない。
 人間はパターンの誘惑に負けてしまうものだと肝に銘じたほうがいい。引き込まれる前に疑うべきだ。相関関係や傾向などのパターンは、それ自体は何の説明にもならない。パターンは理にかなった説明がなければ、ただのパターンでしかなく、理にかなった理論は新しいデータで検証しなければならない。




「人が陥りやすい罠」が数多く紹介されているので、知っておくと判断ミスを防ぐのに役立つかもしれない。

「○○必勝法」「勝ちパターン」みたいな言葉に引っかからないために。


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2023年3月10日金曜日

【読書感想文】辛酸 なめ子『女子校育ち』 / 2011年は下品な時代だった

女子校育ち

辛酸 なめ子

内容(e-honより)
女子一〇〇%の濃密ワールドで洗礼を受けた彼女たちは、卒業後も独特のオーラを発し続ける。インタビュー、座談会、同窓会や文化祭潜入などもまじえ、知られざる生態をつまびらかにする。

 自身も女子高出身者である著者が、自身の体験、卒業生、在校生、教員などの証言をもとに「女子校」について書いた本。


 ぼくは男だし、ずっと共学に通っていたし、近隣に女子校もなかったので、女子校なるものにはまったく縁がない。

 漫画『女の園の星』程度の知識しかない(もちろんあれがリアルとはおもってない)。

 男子校に関しては行ったことないけど、だいたい想像つくんだけどね。男しかいなかったらたぶんこうなるんだろうな、ってのが。でも女子に関してはイメージすら湧かない。


 そんなわけでこれまで女子校について思いをめぐらせたことすらなかったのだが、娘がひょっとしたら中学受験をするかも、さらに近所にはほどよいレベルの女子校がある、ということになって突如身近な話として立ち上がってきた。

 娘に「女子ばっかりの学校と男子もいる学校とどっちがいい?」と訊くと「どっちでもいい」とのこと。まあ、共学の環境しか知らないから女子校って言われてもイメージできないよねえ。

 ということで『女子校育ち』を手に取ってみた。

(以上、決しておっさんが女子校生ってどんなんじゃいゲヘヘという下心で読んだんじゃないですよという長い言い訳)




 生活指導について。

 掃除御三家の最後の一つは、田園調布学園です。なんとこの学園では、創立者が銅像の姿で永遠に掃除をし続けているのです。銅像の先生は、モップを持ち足元にはバケツが置かれ、おそれ多くも校舎脇の広場で掃除されています。その像を「ほら、先生も掃除なさっているでしょ」と指し示せば、生徒もおとなしく掃除せざるを得ないとか。生徒たちは「あいつのせいだ……」と、時には恨みがましく銅像をにらみながら、便器に手をつっこんで拭いたり、学校前の歩道までホウキではき清めたりと、環境美化に努めます。中学に入学してすぐに家庭科の授業でかっぽう着を作り、掃除中はそれを着用するという用意周到ぶり。全ての道は掃除に至るのです。「掃除はきちんとできる自信があります」と言う卒業生のTさんがまぶしいです……。
 先ほど高い学費を払って掃除させられるのは理不尽だと申しましたが、親にとってみれば、娘が家の掃除をしてくれるようになるので、投資としてちゃんと見合っているような気もします。もし自分が将来親になることがあったら、掃除精神をたたき込んでくれる学校を選びたいと切に思いました。

 ここまで掃除に力を入れるのは女子校特有の話ではなく、単に厳しい学校かどうかによるんだろうけど。

 とはいえ男子校だと「あらゆる面に厳しい学校」はあっても「掃除や家事にのみ特に厳しい学校」ってのはないだろうから、女子校らしい話なのかもしれない。

 ここで紹介されている学校は卒業してからもついつい掃除をせずにはいられないほど掃除の習慣が身につくらしく、ものがあふれすぎて引き出しがひとつも閉まらない娘の机を見ているぼくとしては「こういう学校に行って掃除のできる子になってくれたらいいな……」との思いを隠せない。まあぼく自身がぜんぜん片付けのできない人間なのでまずおまえが改めろって話なんだけど。




 制服について。

 制服が生徒の気風に及ぼす作用は大きく、桜蔭や東京純心女子のようにダサいと言われている制服に身を包んでいると皆あきらめモードで謙虚で貞淑な性格になるようです。田園調布学園OG、Tさんも、「渋谷は女学館や東洋英和の場所で、ダサい制服の自分たちはムリ。冬の制服はカラスみたいで、中学の夏服は毒キノコ。ビジュアルでがんばっても制服で殺されます」と話していました。制服がダサいという劣等感が高じて「自分はここにいる人間ではない」と思うようになり、受験で発奮、進学実績も良いとか。親にとっては、ダサい制服で青春をあきらめて真面目に勉学に励んでくれた方が安心かもしれません。

 このへんは女子ならではだよなあ。

 高校のとき、同じクラスの女子が「ほんとは○○高校に行きたかった」と言っていた。そこはぼくらの学校より偏差値の低いとこだったし遠かったので「なんで○○に行きたかったん?」と尋ねると「制服がかわいいから」との答えが返ってきて仰天した。そんなことが学校を選ぶ基準になるなんて……と、おしゃれとは無縁だったぼくからすると信じられないことだった。冗談で言っているのかとおもったぐらいだ。

 でも、制服で学校を選ぶ子って女子の中ではめずらしくないらしい。そういえば、人材紹介会社の営業から聞いたけど、女性は転職時に「オフィスのきれいさ・新しさ」を重視する人が多いらしい。個人的には、よほど汚いとかくさいとかじゃなければなんでもいいけど、女性はそうでもないみたいだ。つくづくちがう人種だなと感じる。




 女子校に進学するメリットについて。

ところで、女子校においては「容姿において差別されない」というのも大きいです。男子は驚くほど女性のルックスに厳しく、不美人には冷たいものです。共学ではブスのレッテルを貼られ、萎縮してしまいそうな人も、女子校ではのびのび過ごせます。後輩から人気のある先輩が必ずしも美人とは限りません。しかし、頌栄女子学院出身のSさんが「女子大に入って、早稲田や東大のサークルに入ったら完全に容姿でしか見られず、女子校とのギャップに悩みました」と語っているように、快適な温室から出たら厳しい現実が待っています。「努力すれば幸せが手に入ると思っていたのに、世の中は容姿重視なんですね……」ここでも、中高で女を磨いてきた共学出身の人に差を付けられてしまいます。

 「容姿において差別されない」ことの利点については、ほんとその通りだとおもう。

 申し訳ないけど、ぼくも学生時代、女子のことはほとんど容姿でしか見てなかったもん。

 「見た目がかわいくないけど話していておもしろい子」はいたし、そういう子とも仲良くしていたけど、「かわいい子」とはまったく別枠の存在だった。見た目が良くない子は、どんなに優しくて、どんなに気が合っても、異性としては「つまんないけどかわいい子」を上回ることはなかった。

 特に中学生なんか「美女と野獣」カップルはいても、その逆はまずいないよね。

 もうちょっと大人になったら容姿以外の部分も見えるようになってくるんだけどね。「あんまりかわいくないけど付き合ったら楽しいだろうな」とおもえるようになる。でも男子中高生時代は「女はかわいさがすべて」だったな。周囲もやっぱりそんな感じだったから、かわいくない子と付き合ってたらダサイ、みたいな風潮もあった。ほんとひっどい話だけどさ。


 否応なく美醜競争に巻き込まれるのはかわいそうだ。ブスはもちろん、美人もまた。

 そんなわけで「容姿において差別されない」という一点だけでも、娘を女子校に行かせるメリットは十分にあるとおもう。




 それにしても。

 とにかく著者の視点が下品。女子校に通う中高生を取り上げて、やれ処女率がどうだ、やれ男ウケがどうだ、やれフェロモンが出ているだ、やれモテなさそうだ、やれ遊んでそうだ、と下世話きわまりない。

「男が書いたらセクハラだけど女性だからセーフ」とかおもって書いてたんだろうな。じっさい、この本が刊行された2011年はまだそういう認識が一般的だったし。

 でも令和の感覚で読むとずいぶん気持ち悪い。自分が中高生の頃、大人から(男女問わず)そういう目を向けられたら気持ち悪く感じただろうに。

 よくちくまプリマー新書がこんなひっどい本を出してたなとおもう。三流週刊誌みたいな切り口だもん。

 もっとも十年以上前の本を取り上げて「感覚が古い」と糾弾するつもりはなくて(それはあまりにずるい)、ただただ「2011年当時はこういう感覚が許されてたんだなあ」と隔世の念に駆られる。人々の価値観って変わってないようで変わってるんだなあ。


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2023年3月9日木曜日

【読書感想文】速水 融『歴史人口学の世界』 / 昔も今も都市は蟻地獄

 歴史人口学の世界

速水 融

内容(e-honより)
近代的な「国勢調査」以前の社会において、その基層をなす人びと、家族といった身近な存在から人口を推計し、社会全体の動態を分析する「歴史人口学」。現代世界が抱える最大課題である人口問題(少子化・高齢化から人口爆発まで)にも重要な示唆を与える。その先駆的第一人者が平易に語り下ろした入門的概説書の決定版。


 あまりなじみのない「歴史人口学」なる学問の日本における第一人者による、歴史人口学入門書。

 人口、世帯、出産、死亡、転入転出などの時代ごとの変遷を追う学問だそうだ。

 今の日本は、人口に関する問題に直面している。人口減、少子化、高齢化、働き手の不足、都市への人口集中、社会福祉費の増大。そんな問題解決への糸口に、ひょっとしたら歴史人口学がなってくれるかもしれない。




 江戸時代の中期以降はほとんど人口が増えなかった、という話を聞いたことがある。江戸時代は人口の面では停滞期にあった、というのが一般的な認識だが、細かく見るとそんなことはないそうだ。

 たしかに十八世紀の日本の人口は大きな増減はない。だがそれはあくまで日本全体の話であって、地域ごとに見るとダイナミックな変化が見えてくる。

 なんとなく「江戸時代、町人はいい暮らしをしていて、農村は貧しさにあえいでいたのだろう」とおもっていたが、実態はむしろ逆で、都市部のほうが死亡率が高かったのだそうだ。農村は乳幼児と老人は死ぬが、若い人はそんなに死んでいない。都市のほうがばたばた死ぬ。ジャレド・ダイアモンド『銃・病原菌・鉄』にも書いてあったが、人口密度が高まると伝染病の流行率がぐっとはねあがるのだ。江戸時代の都市は住環境も悪かっただろうし。


 それでも、地方の若者(次男坊、三男坊)は都市(江戸、京都、大坂)に出てくる。だって田畑がないもの。都市は若者が増える。だが都市の死亡率は高く、結婚・出産の数も地方より少ない。都市は死亡が多くて誕生が少ないので自然人口減になるが、地方からの流入によって人口が保たれる。地方は出産数が多いが若者が都市に流出するのでこちらも大きな人口の増減はない。

 現代日本と同じことが江戸時代から起こっていたのだ。今も昔も、都市は出産・育児をするのに適した場所ではなかったわけだ。

 細かいミクロの史料の検討のところで、実際の数字を出して説明しますが、歴史人口学では、すでに都市墓場説とか、都市蟻地獄説と呼ばれる考え方が唱えられています。都市墓場説というのは、ヨーロッパの都市の人口史研究をしている人たちが言い出したことであり、蟻地獄説というのはじつは私の造語です。期せずして同じことを発見したのです。つまり都市というのはたくさん農村から人を引きつける。そして高い死亡率で多くの人を殺してしまうのです。
 そうすると、江戸時代の都市では、人間いつ死んでもおかしくなかったことになります。農村のように、齢をとったから死ぬ、というわけではなくて、いつでも死ぬのです。江戸時代の文化はよく都市の文化、町人の文化だといわれます。その都市に住んでいる人たちは、いつ死ぬかもわからないという状況で生活していたのです。その人たちが持っている人生観とか死生観は、農村住民の場合と違っていたのではないだろうかという疑問が湧いてきます。これは、今後解明していかなければならない問題ですが、こういうように死亡のパターンに非常にちがいがあるということは、今までよくわからなかったことなのです。これもやはり宗門改帳を使った研究の成果の一つといえるでしょう。

 なんとなく、江戸時代の農村で生まれたら、家と田畑を継いで、死ぬまでずっとその村の中で生きていくのかとおもっていた。

 でもそんなのは長男だけ(そして江戸時代はきょうだいが多いので長男が今よりずっと少なかった)。若者の三分の一ぐらいが村の外に出ていた、というケースもあったようだ。奉公、出稼ぎ、身売りなどで男女問わずけっこう他の村や都市へ移動していたようだ。

 また、都会に働きに出た経験のある女ほど結婚・出産の年齢が遅く、生涯に産む子どもの数が少なかったそうだ。このへんも今とおんなじ。

「地方には若者が就く仕事がないから都会に出る」「都会に出てきた若者は結婚が遅く、子どもも作らない傾向にある」ってのはここ数十年の話ではなく、数百年間にわたってずっとくりかえされてきたことなのだ。

 今も昔も、都市の生活は多くの人々の犠牲の上に成り立っている。




 現代の日本においては、世代や個人による人生観の差はあれど、地域による差はさほどないんじゃないかとおもっている。北海道から沖縄まで同じ教科書で学び、同じものを読み、同じテレビ番組や同じウェブサイトを見ているから、大きな差は生まれにくそうだ。

 でも江戸時代は、地域によって考え方がぜんぜんちがったのではないかと著者は書く。


 この小さい島国に、社会の基本となる家族の規範について、なぜこのような違いがあるのでしょうか。筆者は、これは日本に住むようになった人びとが持ってきた慣習と関係があるのではないか、と思っています。日本列島には、北から下りてきた人たち、朝鮮半島や中国大陸から渡ってきた人たち、南から島伝いに来た人たち、と大別して三つの移住の波があったように言われています。日本人は、よく一民族一言語、といって、その同一性が強調されるのですが、決して一色ではないのです。比較的早い時代に、政治的には統一され、構成民族間の闘争こそありませんでしたが、構成民族のもとをただせば、多種多様で、むしろよく統一が保たれたものだ、とさえ思われます。
 その中で、北からやって来た人びとは、基本的には狩猟民で、縄文文化の担い手だったと思われます。狩猟民は、生計を採取によりますから、非常に密度依存的です。ある規模以上に人口を増やさないようにする力が働くのです。このことが慣習となって、持っている生活規範の中にビルトインされていたのではないでしょうか。そして、弥生文化の担い手である第二の渡来民が、農耕をもたらし、次第に第一の集団を本州の東北部に追いつめます。そこに定住するようになった元狩猟民たちは、農耕を始めますが、過酷な自然環境も手伝い、ビルトインされた価値観を変えませんでした。それが、東北日本の早婚と出生制限の存在という、矛盾した規範を両立させる理由となった、というのが筆者の解釈です。
 これに対して、中央日本には、農耕民が渡来し、弥生文化そして古代律令制国家を造り上げました。相対的に高い生産性に裏打ちされて、この古代国家は、比較的短期間のうちに日本の国家統一を果たします。この農耕社会では、耕地を広げたり、工夫をして土地の生産性を上げることができれば、扶養可能な人口は増やせますから、東北日本のように、人口制限を価値観のなかにビルトインさせる必要はなかったのです。もちろん、だからといって、中央日本で、無制限的に人口が増えたわけではありませんが、この地に住む人びとにとって、人口規模は、東北日本に住む人びとのように、ある範囲に抑えなければならない性質のものではなかった、というのが筆者の見解です。

 東北では早く結婚・出産をおこない、けれどひとり当たりの出産数は少ない傾向にあった。逆に西日本では晩婚の傾向があり、東北ほど産児制限をしている様子はなかった。そして南から来た人は家族規範から自由で、人口制限もさらに少なかった。そんな傾向が江戸時代の資料から読みとれるそうだ。

 まだ「日本人」という意識もなかった時代。今の日本人がおもうよりずっと、当時の日本人は地方によって異なる生活をしていたんだろうね。


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2023年3月8日水曜日

大和郡山探訪

 奈良の大和郡山市へ行った。

 金魚すくいとひな人形が有名な町だ。といっても、どちらもつい一週間前に知った。それまで、大和郡山に行ったこともなければ、大和郡山について考えたことすらなかった。


 知人と話していて「子どもがひな人形を出してほしいっていうんですけど、めんどくさいんですよねえ。出すのも面倒だし、出してる間は場所をとるし、片付けるのも面倒だし」とぼやくと、「大和郡山に行けばいろんなおひなさまが見れますよ」と教えてくれた。

 街のあちこちにひな人形が飾られているらしい。それはいい。「おひなさまを観にいくから」という口実で、今年は我が家に飾るのは勘弁してもらおう。


 子どもを連れて、JR郡山駅からぶらぶら歩く。なるほど、駅や商店にひな人形が飾ってある。個人商店だけでなくチェーン店や銀行にもおひなさまを飾っている。大きくて高級そうなものもあれば、とりあえず飾ってますよというような簡易的なものもある。その「しぶしぶ付き合わされている感」もまた、街を挙げてやっているという感じがしていい。驚いたことに、お店でもなんでもない個人宅でも玄関を開放してひな壇を見学できるようにしているところまである。なんの得もないだろうに、えらい。めんどくさいめんどくさいと言ってばかりいる我が身を恥じねばならない。

 そうか、これはクリスマスのようなものだ。クリスマスであればいろんなお店が飾りつけをおこない、個人住宅でも派手に飾りやイルミネーションをつけているところがめずらしくない。大和郡山ではクリスマスの代わりにひなまつりなのだ。


 もうひとつ、大和郡山で有名なのが金魚すくいだ。なんでも郡山市で金魚すくいの全国大会が開かれているらしい。

 入ったカフェに『すくってごらん』という漫画が置いてあり、手に取ると大和郡山を舞台にした金魚すくいマンガだった。マンガの世界も、とにかく新しい題材を探さなくちゃいけないのでたいへんだ。

 ひな人形と同じように、街のいたるところに水槽があり、金魚が泳いでいる。またマンホールや橋の欄干などにも金魚が描かれている。

 とある店の前にも水槽があったのだが、一匹死んでぷっかりと浮いていた。そして他の金魚たちが死体をつついていた。生き物なのでそういうこともある。


 ひな人形と金魚。人を呼ぶ力があるんだかないんだかよくわからないものふたつが名物。まあじっさいぼくたちは足を運んだのだから、集客力はあるんだろう。

 ほどよくのどかな街並みをぶらぶらと歩くのは楽しかったのだが、少々不満だったのは道が狭くて人が歩いている横を車がびゅんびゅん通ってゆくところ。そして都市部以外の地域がたいていそうであるように、歩行者がいても車はおかまいなしなところ。横断歩道でもぜんぜん止まろうとしない。

 地元の人の生活もあるので観光客のための街づくりをしろとまでは言わないが、せっかく人を呼ぶための取り組みをしているのに「街が歩きにくい」というのはなかなか致命的かもしれない。

 帰りに路線図を見ていて気付いたのだが、郡山という駅、一駅北に行けば奈良駅で、二駅南に行けば法隆寺駅である。奈良公園、東大寺、法隆寺というたいへんパワーのある観光地にはさまれているのだから、ここに人を呼ぶのはむずかしいかもしれない。ひな人形と金魚、ニッチなところを攻める戦略は正しそうだ。

近鉄郡山駅にあった半額イルカ。
イルカが半額なのではなくこいつは看板らしい。



2023年3月7日火曜日

【読書感想文】藪本 晶子『絶滅危惧動作図鑑』 / 無味無臭

絶滅危惧動作図鑑

藪本 晶子

内容(e-honより)
すでに絶滅の危機に瀕しているものから、もうすぐなくなりそうなものまで。100種類の動作をイラストで解説。


「絶滅しそうな動作」を集めた図鑑。

「死語」や「生産終了したもの」に関する言説はよく見るけど、「動作」にスポットをあてるのはめずらしい。たしかにテレビはまだあるけど「テレビのチャンネルをひねる」や「テレビをたたく」といった動作は絶滅したもんね。


 この本に載っている動作でぼくがなつかしかったのは、うさぎ跳び、体温計を振る、携帯の電波を探す、カメラのフィルムを巻く、など。

 うさぎ跳びはぎりぎりやった世代だとおもう。小学生の時のサッカークラブでやったことがある(やらされた、という感じではなく遊びの延長の罰ゲームみたいな感じだったけど)。中学生のときにはすでに「うさぎ跳びは身体に悪い」と言われていた。

 体温計を振る、もなつかしいな。子どものときは水銀体温計を振っていた。一度振った体温計が机に当たって中の水銀が飛び散っちゃったことがあったんだけど、今おもうとおっそろしいもの使ってたなあ。水銀って毒だからね。

 カメラのフィルムを巻く、もあったね。使い捨てカメラもそうだったし、ぼくが北京で買った「長城」という謎のブランドのカメラも手巻き式だった。あれはなかなか味があっていい動作だったけどね。




 とまあ「ああ、あったなあ」とか「なつかしいなあ」とかおもうんだけど、それ以上のものは何もない。

 とにかく文章が無味無臭。せっかく着眼点がおもしろいのに、教科書みたいな文章なので読んでいてまるで引っかかりがない。まあ「図鑑」だからといえばそれまでなんだけど、それにしてもなあ。

 巻末に著者とみうらじゅん氏の対談が載っていて、みうらじゅんさんの言葉はやっぱりいちいち味があるから、余計に本編の無味っぷりが目立つ。「結局、真っ先に絶滅していくこういっていうのは、人が工夫してやろうとしたことなんじゃないかなと思いますね」なんてしみじみいい言葉だ。


 これはあれだな。カフェとかに置いといて、コーヒーの待ち時間にお客さんがパラパラめくるぐらいがちょうどいい本だね。数分だけ時間をつぶすのにぴったり。無味無臭だからコーヒーの邪魔にもならない。

 そういえばスマホの普及とともに「時間つぶしで雑誌をパラパラめくる」動作も絶滅寸前かもな。


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2023年3月6日月曜日

R-1グランプリ2023の感想

 

 M-1やキングオブコントに関してはほぼ毎回感想を書いてるんだけど、R-1はあんまり書く気がしなくて2017年以来ずっと書いてなかった。でも今年はひさしぶりに書く気になった。

 リニューアルしてからちょっとずつだけどいい大会になってきてる気がする。芸歴制限には賛成しないけど。



1. Yes!アキト (プロポーズ)

 ギャグの羅列なのにおもしろい、というのがYes!アキトさんに対する評価だったのだけど、今回はストーリー仕立て。緊張して「結婚してください」が言えない男が、ついギャグを言ってしまうという設定。

 なるほどね、「け」ではじまるギャグを次々に言っていくのね、これはわかりやすいし自ら制約を課している分乗り越えたときはおもしろくなるはず! と期待しながら観ていたのだが……。

 あれ。あれあれ。「け」ではじまるギャグ、という設定を早々に捨ててしまって、あとは好き勝手なギャグ連発になってしまった。当初の設定はなんだったんだ。「け」ではじまるギャグか、プロポーズにちなんだギャグにしてくれよ。

 こうなるとプロポーズできない男という設定が単なる時間の無駄でしかなく、これだったら潔くギャグだけを多く見せてくれたほうがよかったな。


2. 寺田寛明 (言葉のレビューサイト)

 ネタの内容がいちばんおもしろかったのはここ。よくできている。

 が、芸として見たときにどうなんだという疑問も生じる。フリップの内容自体が完成されていて、演者ははっきりいって誰でもいい。ちゃんと文章を読める人でさえあれば寺田寛明さんである必要がない。アナウンサーでもいい(そして寺田さんは何度か噛んでいたので実際そのほうがよかった)。このネタ、テキストで読んでも同じくらいおもしろいとおもうんだよね。

 ネタは高評価。でも芸の達者さ、という点で見るとな……。


3. ラパルフェ 都留 (恐竜と戦う阿部寛)

 阿部寛一本でいくにしては阿部寛ネタが弱かったなあ。大きいとかホームページが軽いとか、独創性がないもんね。ホームページネタなんて、知らない人にはさっぱりわからないだろうし、知ってる人からすると「それネタにされるの何十回目だよ」って感じでまったく目新しさがない。

 博多華丸やじゅんいちダビッドソンが「モノマネだけどネタとしてもしっかりおもしろい」ネタを見せた大会で披露するには、あまりに浅かったな。


4. サツマカワRPG (数珠つなぎショートコント)

 ひとりショートコントの羅列、でありながらそれぞれのネタが有機的につながっているという凝った構成(その中でひとつだけつながっていない冒頭の和田アキ子はなんだったんだ)。

 決してわかりやすくないし、無駄も多かった気がするけど、新しいことをやってやろうという意欲は買いたい。というより、今大会は他の人にチャレンジ精神をあまり感じなかったんだよなあ。


5. カベポスター 永見 (世界でひとりは言ってるかもしれないこと)

 寺田寛明さんの感想のとこで「テキストで読んでもおもしろい」と書いたけど、こっちはそれどころか「テキストで読んだほうがおもしろい」。じっさいぼくは永見さんのTwitterアカウントをフォローして「世界でひとりは言ってるかもしれないこと」を読んでいるが、そっちのほうが味わい深い。

 こういう一言ネタって、咀嚼する時間が必要なんだよね。すごくいい肉をわんこそばのスピードで提供されても味わえない。


6.  こたけ正義感 (変な法律)

 これまたフリップネタ。が、このネタの場合は「演者がこの人である必然性」がある。弁護士が言うからこそ説得力があるし、怒ったり嘆いたり表現も多彩。

 ただ、これ以外のネタを見たいとはおもわなかったな(ABCお笑いグランプリの2本目はぐっとレベルが下がってたし)。



7. 田津原理音 (カード開封)

 おもしろかった。カードの開封動画、というのがほどほどに新しくて、ほどほどになじみがなくて。

 何がいいって「触れないカード」があることだよね。せっかくつくったカードだから全部を見せたいだろうに、ちらっと見せるだけで特に触れないカードがたくさんある。あれで一気に引き込まれる。わからないからこそ見入ってしまう。

 映像を使うのではなく、スライドを使用するのもよかった。映像だとどうしても対象との間に空間/時間的距離が生まれてしまうけど、スライドだと距離がなくて対象に触れられるからね。このネタにぴったり。

 そして凝った仕掛けではあるけど中身はあるあるネタなのでわかりやすい。すべてがちょうどいいバランス。


8. コットン きょん (警視庁カツ丼課)

 順番が良かったんだろうね。ギャグ、フリップ、モノマネコント、ショートコント、一言、フリップ、スライド、ときて、最後にしてやっと本格的なストーリーコント。こういうのを見たかった! という空気になってたもんね。

 とはいえ、個人的にはイマイチだった。一杯目のカツ丼がピークで、あとは右肩下がり。特にラストはひどかった。「容疑者の罪状にちなんだカツ丼を提供することで自白に持ちこむ」という設定でやってきたのに、最後は「外国人だから」という理由でつくったハンバーガー。罪状関係ないし。なんじゃそりゃ。それで済むならカツ丼課なんていらないじゃない。

 本格的な芝居をするならこのへんの論理が強固でないといけないよ。設定の根幹をぶち壊してしまう雑な展開だった。



 8人中、7番目と8番目にネタを披露した人が最終決戦進出。たまたまかもしれないけど、なんだかなあ。順番次第じゃん、という印象になってしまう。



最終決戦1.  田津原理音 (カード開封)

 ネタを見ながら、そういやこの素材は陣内智則さんのネタっぽいなあ、とふとおもった。ツッコミどころだらけの変な対象で笑いをとるという構成。ただしアプローチはまったくちがう。陣内さんがずばずばと切れ味鋭いツッコミを入れていくのに対し、田津原さんはあくまで愛でる。ずっとその立場を崩さない。変なものを切り捨てて笑いに変えるネタと、変なものを愛でて受け入れていくことで笑いを生むネタ。なんとなく時代の変化を映している感じがするよね。知らんけど。


最終決戦2.  コットン きょん (リモート会議ツール)

 これまた楽しめなかった。ZoomとGoogle Meetを使って別れそうになってるカップルの中を取り持つ、という設定。この設定であればこういう筋書きになるだろうな……と予想した通りの展開。意外性がまるでなかった。リモート会議が一気に普及した2020年頃ならともかく、2023年の今やるには題材としての新しさもないし。



 ネタの力よりも表現者として魅力的だったふたりが勝ち残って、その中でネタの強さが勝っていた田津原理音さんが優勝、という大会でした。

 はじめにも書いたけど、R-1は数年前に比べたらいい大会になってきてるとおもう。審査員が現役の芸人たち、ってのもいいんだろうな。

 あとはあれだな。「そのときの話題の人や他の賞レースのファイナリストだからといって安易に決勝に上げる」ところさえ直してくれたらな(去年はそういう感じじゃなかったのにまた戻ってしまった)。

 せっかく芸歴10年以内という縛りを課したんだから、人気の人を使うんじゃなくて、人気者を生みだしてやるぞという気概を見せてほしいな。結果的にはお見送り芸人しんいち、田津原理音という新しい才能の発掘ができているからいいけど。


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2023年3月3日金曜日

本を読まない理由

 そこそこ本を読むほうだ。

「読書が趣味なんですね。月にどれぐらい読むんですか」

「十冊ぐらいですね」

「へーすごい。私はぜんぜん読んでませんね。もっと読みたいんですけど、どうやったらそんなに本を読めるんですか?」

みたいな会話をよくするんだけど、最近気づいた。


 「どうやったら本を読めるんですか」という質問をする人は、「本を読む方法」じゃなくて「本を読まない理由」を探している。


 読まない人は「時間がなくて本が読めない」なんてことを言う。

 嘘だ。

 そりゃあ超大物政治家とか売れっ子タレントとかだったら「仕事と食事と風呂と睡眠と車移動が生活のすべて」みたいなスケジュールを送ってるかもしれないが、ほとんどの人はそんなことはない。

「時間がなくて映画館に行けない」「忙しくて旅行に行けない」ならわかる。映画や旅行はある程度まとまった時間を必要とするから。

 でも本なんていつでもどこでも読める。ぼくは三十秒あれば本を読む。電車の待ち時間、電車の中、飲食店で注文してから、食事をしながら、食後にお茶を飲みながら、仕事で客先訪問して担当者が出てくるまでの時間、着替えをしながら、風呂、寝る前。それぞれ数十秒~ニ十分ぐらいだけど、合計すればそこそこの時間になる。一ヶ月で十冊ぐらいは読める。

 読まない人は、その時間にスマホでゲームをしたり、動画を観たりしている。時間がないわけじゃない。本を読める時間を他のことに使っているだけだ。


 本を読む気のある人は 「どうやったら本を読めるんですか」なんて質問をしない。そんなひまがあったら読んでる。

 読書に限った話ではない。「英語勉強したいなー」とか「体鍛えないとなー」とか「マラソンでもしよっかなー」なんて言う人は、ほんとにやろうとおもってない。なんとかして〝できない理由〟を探しているだけだ。

 

「どうやったら本を読めるんですか」と質問する人が望んでいる答えは、
「休みの日に三時間ぐらい時間をつくるんですよ。カフェにでも行ってゆっくり読むと集中できます」だ。

 こう言われたら安心して「あーいいですねー。でも最近忙しくって、なかなかそんな時間とれないですねー」と言える。

 まちがっても「読みたいなら読めばいいじゃないですか。一日五分でも読めば、一ヶ月で一冊ぐらいは読めるでしょ」なんて正しいことを言ってはいけない。読みたくないんだから。



2023年3月2日木曜日

審判のいないサッカー

 国会中継を見ていると、ときどき「これは審判のいないサッカーだな」と感じる。

 いや、一応議長はいて発言に対して制止することはある。が、サッカーにおけるレフェリーのような強制力はない。「ベンチからのヤジ」程度の力しか持っていない。また国会における議長はたいていどこかの党に属しているので、中立ではない。一方のチームのメンバーがレフェリーを務めるようなものだろう。


 レフェリーがいなくてもサッカーはできる。小学生が公園でやるサッカーにふつう審判はいないが、それでもまあ成立する。ただそれはあくまで平常時であって、激しく意見が対立したり、著しく協調性に欠けるプレイヤーがいたりするとゲームは破綻してしまう。


 学問の世界には「協調の原理」という言葉がある。

 量の公理(不要なことを言うな)、質の公理(嘘をつくな)、関係の公理(関係のない話をするな)、様態の公理(わかりやすく話せ)の四原則から成る。どれもあたりまえのことである。こんな言葉を知らなくても、ほとんどの人は守って会話をしている。

 ところが国会にいるじいさんばあさんたちはこれを守らない。守れないのか意図的に守らないのか、質問には答えず、話をそらし、嘘でごまかし、不明瞭な言葉で煙に巻こうとする。

〝著しく協調性に欠けるプレイヤー〟だらけだ。こうなると、プレイヤーのモラルに頼っていても解決しない。サッカーで激しいラフプレーが濫発しているときに「みんな仲良くサッカーしようね!」と言っても意味がないのと同じだ。

 解決するには、審判を導入するしかない。国会に、国会議員でないレフェリーを配置する必要がある。

 審判は、各プレイヤー(国会議員)が「協調の原理」を果たしているかをジャッジする。軽微な反則の場合は発言の時間を縮め、悪質な違反、故意の違反に関してはイエローカード、レッドカードを出して退場させる。度重なる退場があれば、ペナルティとして次回の選挙に出馬できなくすればいい。


 ほら、質問に答えないあの人とか、発言の内容がからっぽのあの人とか、平気で嘘をつくあの人とか、党内のえらい人におべんちゃらを言うだけのあの人とか、どんどん退場させたらいいじゃない。ねえ。