2020年8月31日月曜日

【読書感想文】登場人物全員警戒心ゼロ / 矢口敦子『償い』

償い

矢口 敦子

内容(e-honより)
36歳の医師・日高は子供の病死と妻の自殺で絶望し、ホームレスになった。流れ着いた郊外の街で、社会的弱者を狙った連続殺人事件が起き、日高はある刑事の依頼で「探偵」となる。やがて彼は、かつて自分が命を救った15歳の少年が犯人ではないかと疑い始めるが…。絶望を抱えて生きる二人の魂が救われることはあるのか?感動の長篇ミステリ。

何がイヤって、「初対面の人間にデリケートな話をべらべらしゃべるミステリ」ほどイヤなものはない。

ストーリーを進めなくちゃいけないのはわかるが、だからってどいつもこいつもべらべらべらべらしゃべりすぎだ。

刑事がホームレスに捜査中の事件を相談し、中学生がホームレスに哲学的議論をふっかけ、主婦が名刺も持たない自称フリーライター(実態はホームレス)にご近所のうわさ話をし、夫が逮捕された妻が「夫と留置所で一緒だった」と名乗るホームレスを家に入れてコーヒーをふるまう。

どうなってんの。
登場人物全員自制心も警戒心もゼロなの。みんな泥酔してんの。だからおしゃべりを止められないの。
百歩譲って中学生や主婦は「百人に一人ぐらいはそんな人もいるかも」と許しても、捜査情報を漏らす刑事は懲戒処分待ったなしでしょ。



小説だから偶然や奇跡が発生するのはしかたがない。
ミステリなんて基本的に「めったに起こらないことが起こった場面」を切り取ったものだから、ある程度のご都合主義はあってもいいとおもう。

とはいえ。
『償い』はひどい。

小さな街で立て続けに不審死が発生する……ってのはいいよ。
そういう設定だからね。
大きなほらはおもしろい小説に必要不可欠だ。

ただ、ちっちゃい嘘(あまりに都合のいい偶然)が多いんだよね。

犬も歩けば棒に当たる的な。
主人公がちょっと歩けばすぐに事件の関係者に出くわす。

たまたま会った人が被害者の親戚だった、たまたま入った店の向かい側に容疑者の妻が入っていくのが見えた、たまたま昔の自分を知っている人だった、たまたま会った中学生がかつて自分が命を救った子だった……。

一度や二度なら「まあフィクションに目くじらを立てるのもな」と看過できても、それが五度も六度も起こると「もういいかげんにしろよ……」とうんざりする。

もはや謎解きはどうでもいい。
「はい次はどんな“たまたま”を起こしてくれるんですか」としかおもえなくなってくる。


『ジョジョの奇妙な冒険』の偉大な発明のひとつは、スタンド(幽波紋)という視覚化された超能力だが、なによりすばらしいのは「スタンド使いはひかれあう」という設定をつけくわえたことだ(後付けっぽい感じもあるが)。

この設定があるだけで、“たまたま”が頻発しても「スタンド使いはひかれあうからね」で済ませることができる。

『償い』もこういう設定を最初につけておけばよかったのにね。
過去に心の傷を負った人たち同士がひかれあう世界の物語です、って。


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2020年8月28日金曜日

見ず知らずの子に本を買ってあげたくなった話


本屋に行ったら、四歳ぐらいの子どもが絵本を手にして「これ買って」と言っていて、一緒にいたおとうさんが「あかんあかん、どうせ読まへんやろ」と言っていた。

まったく見ず知らずの親子だったけど、
「おっちゃんが買ってあげるよ」
と言いたくなった。

本の一冊ぐらい買ってあげればいいじゃない。
せっかく子どもが読む気になってるのに。
本を読む習慣をつけておいて悪いことはあんまりないぜ。
お金がないならぼくが出してあげるからさあ。
だから本を読みたがっている子どもの希望をへしおらないであげてくれよ。

と言いたかったのをぐっとこらえた。

直後、そのおとうさんが
「そんな絵本みたいなんじゃなくて、もっと字の多い本読めよ」
と言うのを聞いたときは、
「おまえがその芽をつぶしてるんやろが!」
とぶん殴りたくなった。じっさいぶん殴って気を失ったところを本棚の下のストッカーの中に押し込んだ。めでたしめでたし。


2020年8月27日木曜日

なりふりかまわぬ大統領


『国家はなぜ衰退するのか』という本にこんなエピソードが載っていた。
 二〇〇〇年一月、ジンバブエのハラレ。一部国有のジンバブエ銀行(通称ジンバンク)が運営する国営宝くじの抽選会で、司会者のファロット・チャワワは当選くじを引く役を任されていた。一九九九年一二月の時点で同行の口座に五〇〇〇ジンバブエ・ドル以上を預金していた顧客全員に、この宝くじに当たる可能性があった。くじを引いたチャワワはあぜんとした。銀行の公式声明によれば、「司会のファロット・チャワワは、わが目を疑った。一〇万ジンバブエ・ドルの当たりくじが手渡されると、そこにはR・G・ムガベ大統領閣下と記されていた」からだ。
 ロバート・ムガベ大統領は一九八〇年以来、あらゆる手段を駆使し、たいがい鉄拳によってジンバブエを統治してきた。その大統領が、国民一人あたりの年収の五倍に相当する一〇万ジンバブエ・ドルの賞金を当てたのだ。ジンバブエ銀行によれば、抽選の対象となる何千人もの顧客のなかからムガベ氏の名が引き当てられたという。なんと運のいい男だろう! 言うまでもないが、大統領は本当にそんな金を必要としていたわけではない。何しろ自分と閣僚たちの給与を最高で二〇〇パーセント引き上げるという大盤振る舞いをしたばかりだったからだ。
 宝くじは、ジンバブエの収奪的制度を物語るほんの一例にすぎない。腐敗とも呼べるこうした例は、ジンバブエの制度に巣くう病理の一症状にすぎない。ムガベが望めば宝くじさえ当てられるという事実は、彼がジンバブエ国内の諸事にどれだけ支配力を振るっているかを物語り、この国の収奪的制度のひどさを世界に示した。
大統領が権力をふりかざして宝くじに不正当選してしまう国……。

ジンバブエ国民には申し訳ないけど笑っちゃうな。
当事者からしたら悲劇でしかないけど……。

ムガベ大統領が何をおもって宝くじの当選者を自分にしたのかわからないけど、ばかすぎる。
私腹を肥やしたいならいくらでももっといい方法があるだろうに。ここまで国民の反感を買わずに済む方法が(じっさいそういう方法もやってるんだろうけど)。

他人に便宜を図るために宝くじを当選させてやった、ならまだわかるんだけど。
本邦にも友だちのために国有地を安く売却させる便宜を図った政治家がいるし。

でも、ばかすぎてかえって許せるような気もする。
恥も外聞も気にせずそこまでやられたらもう「んもう、しょうがねえなあ、あいつは」と笑うしかない。

新人文学賞の応募作品を募集しておいて芸能人の書いたどうしようもない小説を「これが大賞です!」というような姑息な真似よりはよっぽど潔いとおもうぜ(いつまで言い続けるんだ)。

2020年8月26日水曜日

鈍感なわたくし


十年ぐらい前に自分が書いたブログを読んでいたら
「繊細だなー」
とおもった。

昔のぼくは、些細なことに感情を動かされている。
ちっちゃなことに腹を立て、もの悲しさを感じ、おもしろさを見つけている。
それはつまり、ぼくが昔よりずっと鈍感になったということだ。

思春期のころ、世の中のおっさんおばさんを見て「なんて無神経なんだ」と嫌悪を感じていたが、その無神経なおっさんに自分がなっている。

昔より、心を動かされることが減った。
「まいっか」で済まされることが増えた。
自分としては生きやすくなったのでいいことなんだけど、他人から見たらあつかましいおっさんがひとり増えたのでよくないことなんだろう。

感受性が鈍くなったのは年齢のせいもあるし、子どもと暮らしているせいでもある。

幼児なんてバナナの皮を自分でむきたかったという理由で大声で泣き叫び、お風呂に入りたくなかったのにといって風呂から出た後までずっとめそめそしている。
時間も場所も状況も気にせず怒りくるう。かとおもうと信じられないぐらいあっさりと機嫌を取りもどしてけたけた笑う。

こんなめまぐるしく感情を変える生き物にあわせていちいち心を動かしていたら、たちまち発狂してしまう。

だからだろう。感情のシャッターをすばやく閉じられるようになった。

ああこれはめんどくさいことになりそうだとおもったらすみやかにシャッターを下ろす。
沖縄の人が台風に慣れているように、ぼくも近くを通りすぎる感情の暴風雨に慣れてしまった。
すばやくシャッターを下ろして、なるべく外のことは考えずにぼんやり過ごす。
妻も同じようにシャッターを下ろしているので、子どもが泣き叫んでいる隣で妻と窓の外を眺めながら
「今年は冷夏なんて言ってたけど最初だけだったね」「ふたを開けたらぜんぜん猛暑だよね。毎年だまされてる気がする」
なんてのんきな会話を交わしている。

ああ、こうして世の中のおっさんおばさんは図太く無神経になってゆくんだな。
人が不機嫌そうにしていてもいちいち気に病んだりせずに
「なんか怒ってはるわー。おーこわ」
「眠いんやろかねー。腹立つんやったら寝たらええのに」
とやり過ごせるようになるんだな。

そうやって感覚が鈍磨していること自体に関しても「まあ感覚が鈍ればつらいことも感じにくくなるからええわ」ぐらいにしかおもえない。
十代のぼくが聞いたら、己が鈍感になることにめちゃくちゃ怒るだろうな。

すまんすまん十代のぼくよ、でもまあしゃあないやん、そない怒るんやったらはよ寝たほうがええよ。

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2020年8月25日火曜日

【読書感想文】宗教の家の子 / 今村 夏子『星の子』

星の子

今村 夏子

内容(e-honより)
林ちひろは、中学3年生。出生直後から病弱だったちひろを救いたい一心で、両親は「あやしい宗教」にのめり込んでいき、その信仰は少しずつ家族のかたちを歪めていく…。野間文芸新人賞を受賞し、本屋大賞にもノミネートされた著者の代表作。

物心ついたときから親が宗教にハマった家庭で育ったちひろ。

本人はその家庭しか知らないので当然のように受け入れているが、「入信する前」を知る姉や、そうでない家庭を知る叔父はなんとかちひろを「宗教から救いだす」ことを試みる。

だが両親は聞く耳を持たず、ちひろも家を出ることを考えもしない……。


ぼくの両親は無宗教だったが、学校のクラスメイトには「宗教の家の子」がいた。

そんな子らは“家庭の事情”でいろんな楽しみから距離を置いていた。

彼らは土日に遊べなかったり、クリスマス会に参加できなかったり、部活に入れなかったりした。

高学年ぐらいになるとだんだんわかってくる。どうやらシューキョーのせいらしい。親がシューキョーをやっていると、いやおうなく子どももそれにつきあわされるらしい。

ぼくらからすると、彼らは「かわいそう」だった。

ちょうどそのころオウム真理教による地下鉄サリン事件が起こった。

それまで以上にシューキョーは「やばいもの」になった。


彼らはどんな気持ちだったんだろう。

大人になって、彼らが入信していた(というかさせられていた)宗教の教義を知った。
終末がやってきたときに信じている者は救われる、信じていないものは滅びる。この世には人々を堕落させようとする悪魔がたくさんいる。悪魔はあの手この手で信者を誘惑する。遊びに誘ったり漫画やゲームをちらつかせたりする。その悪魔の誘いに乗ってはいけない……。

だいたいそんな教義らしかった(ぼくの解釈では)。

その教義を知って、とてもいやな気持ちになった。

ぼくは悪魔だとおもわれていたのか……。

ぼくは彼らをかわいそうとおもっていたが、彼らもまたぼくらのことを「悪魔の誘いに乗って堕落したかわいそうな人間」とおもっていたのか……。

彼らがその教義を信じていたのかどうかわからない。
ぼくらのことを悪魔とおもっていたのか、かわいそうとおもっていたのか、うらやましいとおもっていたのか。

彼らがどんな気持ちを持っていたのか。

知りたいような、知りたくないような……。




『星の子』を読んで、ひさしぶりに「宗教の家の子」のことを思いだした。

彼らは自らの置かれた境遇のことをどうおもっていたんだろう。

はかなんでいたんだろうか。それとも自分たちこそが救われていて他の家の子を悪魔と見下していたんだろうか。

どっちでもなければいいな、とおもう。
『星の子』のちひろのように、あるがままに受け入れていたらいいな。
自分の家が他と違うことは認めつつも、とりたてて幸せでも不幸でもないとおもっていたらいいな。

ああいう子って将来どうなるんだろう。

ぼくはひとり知っている。
「宗教の家の子」だったNくんは、今は居酒屋の店長をやっている。ぼくも一度飲みに行った。その店の親子丼はぼくが今までに食べた中でいちばんうまかった。

あんなにうまい親子丼を作れるんだから、彼はきっと今は“ふつう”の人生を歩んでいるんだろうとおもう。


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2020年8月24日月曜日

【読書感想文】めざすはミドルパワー / 竹田 いさみ『物語オーストラリアの歴史』

物語オーストラリアの歴史

多文化ミドルパワーの実験

竹田 いさみ

内容(e-honより)
APEC提案、カンボジア和平の国連提案、農業貿易の自由化など、オーストラリアは国際社会の構想を次々と実現してきた。中規模な国家ながらベンチャー精神にあふれた対外政策はどこから生まれてきたのか。さらにアジア系移民が暮らす多文化社会は、かつての白豪主義からの一八〇度の転換であり、社会革命といえる。英帝国、米国、アジア諸国との関係を軸に一五〇年の歴史空間を描き、新しい国家像の核心に迫る。

オーストラリア。

有名な国だ。小学生でも知っている。
だいたいの形も描ける。

でも、オーストラリアについて何を知っているだろう。
カンガルー、コアラ、グレート・バリア・リーフ、エアーズ・ロック、アボリジニ、山火事、捕鯨反対……。
自然遺産や生態系のことばかりで、文化的・歴史的なことをほとんど知らない。

そういや世界史の教科書にオーストラリアって出てきたっけ?
白豪主義とか聞いたことあるような……。


ほとんどの日本人が似たようなもんじゃないかな。

オーストラリアという国は知っている。
でも文化や歴史はほとんど知らない。オーストラリア出身の有名人もイアン・ソープぐらいしかわからない……。


知っているのにまるで知らない国、オーストラリア。

その謎(ぼくが知らないだけなんだけど)を解き明かすべく、『物語オーストラリアの歴史』を読んでみた。

2000年刊なので「今後の展望」などについては情報が古すぎるが、オーストラリアの歴史はよくわかった。

オーストラリア史は勉強するのが楽だね。(先住民の歴史を含めなければ)250年ぐらいしかないから。




オーストラリアは元々イギリス帝国の一植民地だった。
だが、アメリカに独立を許したことでイギリスは植民地政策の転換を余儀なくされる。
きつく締めあげて、独立されてはかなわない。ほどほどに自由を与えてイギリス帝国を支えるメンバーでいてくれたほうがいい。

オーストラリアは18世紀後半に独立してからも、イギリス帝国の一員だった。
君主制であり、オーストラリアの君主はイギリスの国王や女王が兼務していた。

そう昔の話ではない。
なんと1975年には、オーストラリアの首相がイギリス連邦総督によって解任されるという事件が起こっている。
連邦総督が首相を罷免することができると憲法に規定されているのだ。

それでいいのかオーストラリア人! と言いたくなる。
独立国なのに、よく黙っていられるな。

まあホワイトハウスの言いなりになっている日本も他の国から見たら同じようなものかもしれないが……。




とはいえ、今のオーストラリアはイギリスとは距離を置いている。

そのきっかけに日本が一役買っていたとは知らなかった。
といっても決して名誉なことではないのだが……。

 カーティン政権は、第二次世界大戦をアメリカと運命を共にする戦争と位置づけ、対米同盟を外交・防衛政策の根幹に据えていった。もはやオーストラリアの安全保障に、イギリスの姿はない。オーストラリアは、マッカーサーとの協議を基に戦時体制を築いていったのであり、冷戦時代を貫く対米同盟関係の原点を、ここに求めることができる。このときからオーストラリアは、まったく異なる景色を背景に自画像を描くようになる。かつて背景画の中心であったイギリスがアメリカに代わった瞬間から、オーストラリアの新しい歴史が動いた。

第二次世界大戦で日本がオーストラリアに空爆をしかけた。
オーストラリアは日本から本土を防衛するため、英帝国の傘下から離れ、アメリカに庇護を求めた……。

恥ずかしながらぼくは、日本がオーストラリアを空爆したことすら知らなったよ……。

太平洋戦争ってオーストラリアまで行ってたのか……。
たしかに改めて地図を見ると、東南アジアのすぐ先だもんな、オーストラリアって。

一般にアジアじゃなくてオセアニア地域としてくくられるからずいぶん離れているように感じるけど、ほとんどアジアなんだよなあ。日本とほぼ時差もないし。


オーストラリアにとって日本は、

・第一次世界大戦は仮想敵国であるドイツやソ連の太平洋進出を抑えてくれる味方

・日本が大陸や太平洋に進出したことにより、仮想敵国になる

・太平洋戦争では現実の敵に

・戦後は貿易相手国。1966年にはイギリスを抜いて、対日貿易がオーストラリアの輸出市場一位となる

・最近は対中国が一位だが、依然としてよき貿易パートナー

というふうに、接し方がめまぐるしく変わっている。
知れば知るほど、日本にとってオーストラリアは大きな存在なのだ。

なのにぜんぜん知らなかったなあ。
「コアラとカンガルーの国」としかおもっていなくて申し訳ない。




オーストラリアの歴史を語る上で欠かせないキーワードが「白豪主義」と「ミドルパワー戦略」だ。

白豪主義とは、有色人種の排除政策のこと。

移民国家として誕生したオーストラリアには、ヨーロッパだけでなく、様々な国からの移民が多く流入してきた(日本人も多かった)。
移民が増え、自分たちの地位が脅かされることに危機感を抱いた先住者たちが有色人種の入植を制限したのが白豪主義だ(ほんとの先住者はアボリジニなんだけど)。

 一九世紀末にオーストラリアの植民地社会は例外なく、白豪政策を将来における国家政策の根幹に据える決定を下した。連邦国家の誕生とともに、一九〇一年に開会した第一回連邦議会で、初めて制定した法律が移住制限法であったのは、きわめて自然の成り行きであった。外国人労働者の無差別な流入に対する制限を、全国的に統一して実施するという強い政治的意志が、連邦国家の建設に向けた重要な要因であったからである。
 やや誇張して表現するならば、白豪政策に裏打ちされた白人社会を建設するために、連邦国家が誕生したのである。それほど当時のオーストラリアにあって、アジア系外国人労働者問題は深刻に受け止められていた。移住制限法によって国家政策としての白豪政策が可能となり、国民が共有できるイデオロギーとして、白豪主義が生まれることになった。移住制限法は、将来におけるオーストラリアの国家像を前提に、連邦議会で白熱した討論を経て制定された法律であり、オーストラリア人の心の拠り所となった。

有色人種を締めだすためにオーストラリアがとった方法はなかなかえげつない。

移住希望者に対してヨーロッパ語の書き取りテストを課す。
これだけでも非ヨーロッパ人にとっては不利なのに、フランス語が得意なアジア人にはドイツ語で試験をおこない、ドイツ語が得意ならイタリア語やスペイン語の試験を課す、などして必ず不合格にしたというのだ。

あからさまにやると国際的に非難されるのでこういうやりかたをとったそうなのだが、汚いなあ。
女子学生だけ減点していた東京医科大学みたいなやりかただ。


だが第二次世界大戦後には移民の労働力が欠かせなくなったことで、白豪主義は撤回されていくことになる。
今では積極的にアジアからの移民を受け入れる国となり、「多文化主義」を政策として掲げるほどだ。

この転身は見事。

しかも無制限に移民を受け入れるのではなく、自国にとってメリットのある人だけを受け入れるしたたかさも。

 従来の移民政策は、白人の移民希望者をほぼ無条件に受け入れ、非白人を締め出すという人種差別政策の典型であった。第二次世界大戦直後に、労働党のアーサー・コールウェル移民相が打ち出した大量移民計画も、すべて白人移民を対象としたものであり、東欧・南欧諸国から、英語を母国語としない多数の移民が流入することになった。こうした移民政策を制度的に改革したのが、ウィットラム首相である。
 同首相は人種を基準とした移民審査を廃止し、個人のさまざまな能力をポイント(点数)で表示し、合計点の高い移民を受け入れる新方式の導入を決断した。この方式はカナダで考案されたもので、移民希望者の年齢、教育水準、技能、職歴などにボイントを設定し、ポイント合計が高い移民を優先的に受け入れるというものである。(中略)社会的ニーズとともにテスト項目と配点は若干変化するが、基本的にはこのような項目で審査され、ある一定水準以上の合計点を獲得した者が、移民として受け入れられることになる。新しい移民制度の導入によって、ウィットラム首相は白豪政策を終焉に導いた政治家として、歴史に名を残すことになった。

このへんのしたたかさは日本も見習わないといけないよなあ。

日本がやっているような「単純労働に従事する移民を受け入れる」ってのは短期的にはいいんだろうけど、長期的に見たら生産性を落として対立を深めるだけなんじゃないかとおもう。

もう遅いかもしれないけど。


オーストラリアの戦略でもうひとつ特筆すべきは「ミドルパワー戦略」。

  ミドルパワーの発想は、人口規模や軍事力で見る限り大きな国ではないが、経済的にはきわめて豊かで教育レベルも高く、紛れもない先進国であるとの事実から、国際社会においてどのような役割を演じることができるのか、という問題意識から出発している。つまり知力と経済力はあるにせよ、総合的な国力が十分ではないとの限界を前に、紡ぎ出された国家構想であった。大国や小国が手掛けられない、もしくは手掛けたくない国際問題、さらにこうした国々が対応できない外交問題に、積極的に参加するとの外交政策に結びついていく。

オーストラリアは広大な国土を有しているが、大部分が砂漠なので人間が住める場所は限られている。現在の豊かさを維持したまま人口を増やすことができない。

さらに国土が広いということは国境線が長いということで、防衛・軍備に金がかかる。

地理的な要因で、オーストラリアはどうがんばってもアメリカや中国のような超大国にはなれない。

だがすべての国が超大国をめざす必要はない。
大会社よりも中規模の会社のほうが勝っているところもたくさんあるように、ミドルパワーならではのふるまい方がある。

なるほどなあ。
日本が今後世界の勢力を動かすような大国になることはもうないが、オーストラリアの立ち位置なら今からでも十分めざせる。

日本が今からめざすべきはオーストラリアなんじゃないだろうか。
アメリカや中国ばっかり見てないでさ。


2020年8月23日日曜日

人体感染業協同組合


地元の人たちが山に入って自分たちが食べる分だけの山菜や木の実を採っている。
地主は知っているが特にとがめたりしない。もちろん法律に照らせばよくないことだが、多少は人の手が入ったほうが山も荒れないので事実上黙認している。

ところがある日、トラックで乗りつけて山にあるものを根こそぎ持っていく業者が現れる。毎日のようにやってきてごっそり資源を持っていく。このままだと山が丸裸にされてしまう。
仕方なく地主は「関係者以外立入禁止」の看板を立てる。細々と山菜を採るぐらいならかまわないのだが、業者に「あいつらだって採ってるじゃないか」と言われないため、地元の住民を含め一切の立ち入りを禁ずるようになる。
ロープを張りめぐらし、防犯カメラを設置し、見つけ次第警察に通報する。

これまで細々と山菜を採っていた人たちは寂しいおもいをする……。



ってことが細菌やウイルスの世界でも起こってるんじゃないだろうか。

いろんな細菌やウイルスが人間を媒介して生存、繁殖していた。
人間からしたら害がないこともないが、完全に除外するのもコストがかかるし、中にはいいことをしてくれる菌もある。
多少は人体に入ってくるのもしかたないとおもってそこそこうまく共存していた。

そこに新しいウイルスがやってくる。
こいつは人体を荒らしまくるし、殺してしまうことも少なくない。放っておくとどんどん増える。
仕方なく人間は手洗いうがいをし、マスクをかけてアルコール除菌をし、他人との接触を避けるようになる。凶悪なウイルスだけを防ぐことはできないのであらゆる菌やウイルスを除去することに努める。

困ったのはこれまでそこそこうまく人間と共存していた菌やウイルスたちだ。
おいおいおれたちはそこまで悪さをしてこなかったぜ、まあまあうまくやってたんだ、たまにはいいことだってしてやったし。

でも、だめなのだ。
一部の不届き者を排除するためには、全員を締めだすしかないのだ。


こうして人体から締めだされた菌やウイルスたちは怒っている。
あいつらのせいで。

そのとき、ひとりの菌が言いだす。
「これまで、みんながおもいおもいに人体を感染させてきた。どれだけ感染させるか、どんな症状を引き起こさせるかは各菌の判断に任せられていた。今後、そういうやりかたはダメなんじゃないか。業界団体をつくり、ガイドラインを作って、どこまでならやっていいかの基準を明確にしよう」

インフルエンザウイルスが反対する。
「おまえらみたいな弱小菌はそれでいいかもしれないけど、基準なんか決めたらおれたちは感染力を抑えないといけなくなるじゃないか」

「もちろん不公平を感じるかもしれない。だが好き勝手に感染していたら、いつか限りある資源をとりつくしてしまうことになる。そうなってしまっては元も子もない。ここはひとつ我慢してはくれないか。とはいえインフルエンザウイルスの言い分もあるだろうから、冬は解禁期間と定めて感染を拡大させてもいいことにしよう」

結局最後はインフルエンザウイルスも折れ、自主規制基準を定めてそれぞれが守ることで一致する。

人体感染業協同組合(人協)の誕生である。


数十年後、covid-19というウイルス界のトランプ大統領みたいなやつが現れて、人協からの脱退をちらつかせながら自主規制議定書への批准を拒否することになるのだが、それはまたべつのお話……。


2020年8月21日金曜日

【読書感想文】常にまちがったほうの選択肢を選ぶ主人公 / 筒井 哲也『ノイズ』

ノイズ【noise】

筒井 哲也

内容(e-honより)
のどかな田園風景が広がる猪狩町では、黒イチジクを地域の特産として、限界集落から一転、活況を呈し始めた。そんな中、イチジク農園を営む泉圭太のもとに鈴木睦雄と名乗る怪しい言動の男が現れる。彼は14年前に女子大生ストーカー殺人を犯した元受刑者だった。平穏な地域社会に投げ込まれた異物が生んだ小さな波紋(ノイズ)が、徐々に広がっていく――…!!

内容説明文がおもしろそうだったので読んでみた。

田舎の集落にやってきたある男。主人公たちが言動に不審なものを感じてネット検索すると、元殺人犯であることがわかる。
近寄りたくないが、刑期を終えて出てきた以上は一般市民。強制的に排除することはできない。
元殺人犯の男は主人公の妻と娘にあからさまに性的な目を向けるようになり……。

第一話はこんな内容。ものすごく期待が高まった。

なるほど。この元殺人犯が“ノイズ”ね。
口ではえらそうに人権の重要性を語っていても、みんな自分の生活のほうが大事だもんね。
こういう事態に直面するとエゴイズムがむきだしになるよね。
己の信条とエゴイズムの間で葛藤しながら元殺人犯から家族を守ることができるのか、というサスペンスね。

……とおもいながら二話目以降を読んだのだが。


期待外れだった。

登場人物がみんなバカなんだよね。二つ選択肢がある状況で、常に悪いほうを選択する。

正当防衛で人を殺してしまったことを隠すために死体遺棄をするとか。

死体遺棄を隠すために殺人をするとか。

そんな感じで、常に「まちがったほう」を選択しつづける。どんどん罪を大きくする。

転落人生を描きたいのかとおもったけど、そういうわけでもなさそう。主人公たちはあんまり後悔しないんだよね。

バカなの? バカなのね。あっそう。


めちゃくちゃ展開が早いので読んでいて退屈はしないんだけど、そのスピード感が裏目に出ている。

「直情的な行動」
「都合のよい偶然が重なる」
「主人公たちのために都合よく動いてくれる村人たち」

のオンパレードで、読んでいてどんどん白けてしまった。

はじめの期待が大きかった分、拍子抜けしてしまった。
ラストまで読んでも「はじめっから正当防衛で届け出しておけばよかったのに」としかおもわなかった。




筒井哲也氏の漫画ってどれも綿密に構成されているのがわかるんだけど、今作はその濃密なプロットがアダになったって感じがする。

「言動の怪しい元受刑者が近所に来たとき、どうするか」

というワンテーマでじっくり三巻使って書いてくれたらおもしろかったとおもうんだけどなあ。

ああいう人間てのは本当にいるんだな 人のものを奪う 嘘をつく 邪魔なら殺す そういうことに全くためらいがない 昆虫のような人間だ 俺達が猪を刈るのと同じだ 誰かが仕留めなくちゃいけなかった それだけの話だ 

冒頭のこのセリフとかすごくわくわくしたのになあ。

でもじっくり書くのは漫画向きじゃないのかなあ。


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2020年8月20日木曜日

【読書感想文】誘拐犯たちによる謎解き / 道尾 秀介『カササギたちの四季』

カササギたちの四季

道尾 秀介

内容(e-honより)
リサイクルショップ・カササギは今日も賑やかだ。理屈屋の店長・華沙々木と、いつも売れない品物ばかり引き取ってくる日暮、店に入り浸る中学生の菜美。そんな三人の前で、四季を彩る4つの事件が起こる。「僕が事件を解決しよう」華沙々木が『マーフィーの法則』を片手に探偵役に乗り出すと、いつも話がこんがらがるのだ…。心がほっと温まる連作ミステリー。

連作ユーモア・ミステリ。

リサイクルショップを舞台にちょっとした事件が起こり、店長・華沙々木が探偵気取りで推理を披露するも、的外れ。
副店長の「ぼく」が暗躍してひそかに謎を解く……。

という筋書きの短編が四篇。

読んでいるほうからすると、華沙々木の推理も「ぼく」の推理もこじつけ度はどっこいどっこいなのだが、なぜか「ぼく」の推理だけがずばずばと的中する。

いろんな意味でご都合がよいのだが、まあ謎解きのシビアさに重きを置くタイプのミステリではないのでこれでいいんだろう。


謎解きは可もなく不可もなく、って感じだけど上手だったのは短篇四篇の構成。

主要登場人物三人がいろんな事情を抱えていたっぽい記述があるので
「あれ? これはシリーズものの第二作目か?」
とおもったのだが、後半でそのへんの過去の事情が明らかになる。

また一篇目のキャラクターが四篇目で活きてきたりと、単なる短篇四つの詰め合わせではない。

小説巧者、って感じだね。




ところで二十歳過ぎた男たちが、保護者の了解を得ずに女子中学生をあちこちに連れまわしているのが気になる。

本人の同意があったってこれは誘拐事件でしょ……。


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2020年8月19日水曜日

【映画鑑賞】軍隊とは洗脳機関 / 『フルメタル・ジャケット』

 フルメタル・ジャケット
(1998)

内容(Amazon Prime Videoより)

ジョーカー、アニマル・マザー、レナード、エイトボール、カウボーイ他、新兵たちは地獄の新兵訓練所ブートキャンプに投げ込まれ、残忍な教官ハートマンによってウジ虫以下の扱いを受けていくのだった。

  ↑ もう、この内容説明文がほぼすべて。

「地獄の新兵訓練所ブートキャンプに投げ込まれ、残忍な教官ハートマンによってウジ虫以下の扱いを受けていくのだった」

清水 俊二『映画字幕の作り方教えます』という本に、『フルメタル・ジャケット』日本公開時の“事件”が書かれていた。

日本公開版の字幕は戸田奈津子さんが担当することになっていたのだが、スタンリー・キューブリック監督自らが日本語字幕をチェックして(日本語わからないのに)、セリフの本来の持ち味が失われているとして急遽担当者変更になったのだそうだ。

それほどまでにこだわりぬかれたセリフ、いったいどれほどのものだろうとおもって観てみたのだが……。

なるほど。こりゃすごい。

たしかにこの口汚い罵倒の数々、これをマイルドな言葉に訳しちゃったらこの映画は台無しだよなあ。

新兵の人間性を徹底的に破壊するハートマン軍曹役のロナルド・リー・アーメイ氏は、もともと演技顧問として招聘された人らしい。

ところが彼の罵倒の迫力がすごすぎたので急遽キューブリックから出演を依頼されたのだとか。

そりゃあなあ。こんなすごいキャラクター、ふつうは放っておかんわなあ。




この映画のハイライトは、前半の海兵隊訓練キャンプ部分といっていい。

訓練のひどいしごきに比べたら、後半で描かれるベトナムでの本物の戦争が生やさしく見えてしまう。

リアルなのは、新兵間でのいじめの描写。
ほほえみデブ(レナード)の出来があまりに悪いので(おまけにドーナッツを隠しもっていたりする)、ハートマン軍曹は、ほほえみデブがやらかしたときは本人には一切罰を与えず、他の訓練生全員に罰を与える。
ほほえみデブは訓練生全員の恨みを買い、夜中にリンチを受ける。

いじめの構造ってどこも同じなんだなあ。
自分に直接ストレスを与えている存在(この場合はハートマン軍曹)には矛先が向かわず、攻撃しやすいところ(ほほえみデブ)に向かう。

この陰湿さこそがきわめて人間的。


デーヴ=グロスマン『戦争における「人殺し」の心理学』にこんなことが書いてあった。

 こうして第二次大戦以後、現代戦に新たな時代が静かに幕を開けた。心理戦の時代──敵ではなく、自国の軍隊に対する心理戦である。プロパガンダを初めとして、いささか原始的な心理操作の道具は昔から戦争にはつきものだった。しかし、今世紀後半の心理学は、科学技術の進歩に劣らぬ絶大な影響を戦場にもたらした。
 SL・A・マーシャルは朝鮮戦争にも派遣され、第二次大戦のときと同種の調査を行った。その結果、(先の調査結果をふまえて導入された、新しい訓練法のおかげで)歩兵の五五パーセントが発砲していたことがわかった。しかも、周辺部防衛の危機に際してはほぼ全員が発砲していたのである。訓練技術はその後さらに磨きをかけられ、ベトナム戦争での発砲率は九〇から九五パーセントにも昇ったと言われている。この驚くべき殺傷率の上昇をもたらしたのは、脱感作、条件づけ、否認防衛機制の三方法の組み合わせだった。

人間は基本的に、他の人間を殺したがらない。
武器を持っていて、敵が眼の前にいて、殺さなければ自分が殺されるかもしれない。そんな状況にあっても、個人的に何の恨みもない人間を殺すことはなかなかできないのだそうだ。

だから軍隊で教えることは、戦闘技術よりも「どうやって殺人への抵抗を抑えるか」のほうが大事だ。

軍隊の歴史は洗脳の歴史でもある。

『フルメタル・ジャケット』を観ると、改めて軍隊とは洗脳機関なのだということがよくわかる。
いかに兵士の人間性を破壊するか。
訓練の目的はほとんどそれに尽きる。

ハートマン軍曹の訓練生の中でいちばんの成功者は、ほほえみデブだろう。
靴ひもも結べないような役立たずだった彼が、しごきと罵倒といじめの結果、誰よりも優秀な成績を挙げる優秀な狙撃兵になる。人間性は完全に失われ、銃と会話をするような「殺人マシーン」になる。

殺人マシーンになった結果、ハートマン軍曹を射殺し、自らに向けて銃の引き金を引くのはなんとも皮肉なものだ。

あれは軍隊教育の失敗ではなく、「成功しすぎた」結果なのだ。


【関連記事】

【読書感想文】字幕は翻訳にあらず / 清水 俊二『映画字幕の作り方教えます』

【読書感想文】人間も捨てたもんじゃない / デーヴ=グロスマン『戦争における「人殺し」の心理学』

2020年8月18日火曜日

【読書感想文】まちがえない人は学べない / マシュー・サイド『失敗の科学』

失敗の科学

失敗から学習する組織、学習できない組織

マシュー・サイド

内容(e-honより)
誰もがみな本能的に失敗を遠ざける。だからこそ、失敗から積極的に学ぶごくわずかな人と組織だけが「究極のパフォーマンス」を発揮できるのだ。オックスフォード大を首席で卒業した異才のジャーナリストが、医療業界、航空業界、グローバル企業、プロスポーツチームなど、あらゆる業界を横断し、失敗の構造を解き明かす!

おもしろくてためになる。
いい本だ。
どんなビジネスにも役立つ考え方。全人類におすすめしたい。


医療業界では毎年多数の医療事故が起こっている。命にかかわるものも多い。
多くがヒューマンエラーによるもので、毎年ほとんど数は変わらない。

一方、航空業界ではめったに事故が起こらない。
しかも年々飛行機事故は減っている。
飛行機に乗るのは怖いという人は多いが(ぼくもそのひとりだ)、飛行機はもっとも安全な乗り物のひとつだ。

なぜ医療業界では重大なミスが減らず、航空業界は減りつづけるのか。
それは、航空業界には失敗に学ぶ仕組みがあるからだ。

航空業界では墜落などの重大なミスが起こった場合、徹底的に原因が検証される。
コックピットにはブラックボックスと呼ばれる記録装置があり、機器のデータや操縦士たちの会話がすべて記録されている。この装置は衝撃からも熱からも水からも守られ、飛行機が墜落してもまず壊れることはない。
また墜落のような重大な事故だけでなく、軽微な事故、あるいは「あやうく事故が起こりそうになった」といったケースもすべて記録される。
こうした失敗につながるデータはその航空会社だけでなく、ライバル会社も含めた全世界の航空会社に共有される。

そしてこれがいちばん大事なことだが、航空業界では事故やミスが起きたからといって、当事者を責めない。
ミスの報告はどんどん推奨される。

ミスを減らす方法は、
・ミスは必ず起こるという前提で制度設計をする
・ミスをした者を責めない
・ミスを報告しやすい環境をつくる
・ミスから学ぶ
つまり徹底的にミスと向き合うこと。これがミスを減らす方法なのだ。



ぼくが前いた会社は逆をやっていた。

「ミスをした人間はみんなの前でこっぴどく怒鳴られる」という文化だった。
ミスでなくても業績が悪くなれば、やはり責められた。

当然ながらこれはミスを減らすことにつながらない。
逆に、ミスを隠そうとするモチベーションがはたらく。

   ミスを発見する
 → 罵倒されるのがイヤだから隠そうとする
 → より大きな問題になる
 → 手に負えないぐらいの大事になってからやっと報告される
 → 当然ながらめちゃくちゃ罵倒される
 → それを見ていた他の社員もミスを隠すようになる

という悪循環だった。

だからぼくは今の会社に転職して自分でチームをつくることになったとき、ミスを報告しやすくした。
ミスをした社員を責めない。ミスを隠そうとしたときだけ注意する。

その結果、多少ミスは減った。
大事になる前に食い止められることは増えた。
とはいえまだまだ減らない。

『失敗の科学』には、医療現場を改善した事例として「ミスを報告した人を褒める」という対策が載っている(もちろん明らかにその人物が悪さをした場合はべつだが)。

なるほど。
「ミスを叱らない」だけでは不十分なのだ。

たとえ叱られなくても、「ミスをしたやつだ」とおもわれるだけでもイヤなものだ。
だからミスを報告することに対して、褒めるというフィードバックを返してやらなくてはならない。



ミスが減らない最大の原因が、「チームのリーダーであるぼく自身がミスを隠してしまう」だ。

ぼくはチームの中でいちばん上の役職で、経験ももっとも長い。
他のメンバーを管理するポジションにいる。

こういうポジションにいると、ミスを認めて他のメンバーに報告することにより大きな抵抗を感じてしまう。
多くの場合、人は自分の信念と相反する事実を突き付けられると、自分の過ちを認めるよりも、事実の解釈を変えてしまう。次から次へと都合のいい言い訳をして、自分を正当化してしまうのだ。ときには事実を完全に無視してしまうことすらある。
 なぜ、こんなことが起こるのか? カギとなるのは「認知的不協和」だ。これはフェスティンガーが提唱した概念で、自分の信念と事実とが矛盾している状態、あるいはその矛盾によって生じる不快感やストレス状態を指す。人はたいてい、自分は頭が良くて筋の通った人間だと思っている。自分の判断は正しくて、簡単にだまされたりしないと信じている。だからこそ、その信念に反する事実が出てきたときに、自尊心が脅され、おかしなことになってしまう。問題が深刻な場合はとくにそうだ。矛盾が大きすぎて心の中で取拾がつかず、苦痛を感じる。
 そんな状態に陥ったときの解決策はふたつだ。1つ目は、自分の信念が間違っていたと認める方法。しかしこれが難しい。理由は簡単、怖いのだ。自分は思っていたほど有能ではなかったと認めることが。
 そこで出てくるのが2つ目の解決策、否定だ。事実をあるがままに受け入れず、自分に都合のいい解釈を付ける。あるいは事実を完全に無視したり、忘れたりしてしまう。そうすれば、信念を貫き通せる。ほら私は正しかった! だまされてなんかいない!

権威や誇りが失われてしまうのをおそれるあまり、
「これはミスじゃない」と自分に言い聞かせてしまう。

なるべくしてなったんだ。
誰がやっても同じことになっていた。
たしかにぼくの行動によって悪くなったけど、その行動をとらなくても同じかそれ以上に悪くなっていたはずだ。
無視できるぐらい小さな話だ。

そんな言い訳をして(無意識のうちに自己暗示をかけるので気をつけていないと自分でも言い訳をしていることに気づかない)、失敗から目を背ける。

この性質を自分が持っていることを深く理解しなければ。
意識的に「おまえはミスをする人間だ!」と自分に言い聞かせたほうがいいかもしれない。



「ミスを報告することで罰を受ける」はもちろんイヤだが、罰がなくてもミスを認めるのは嫌なものだ。
 わかりやすい例として、行動ファイナンスの分野でくわしく研究されている投資家の「気質効果」を考えてみよう。たとえば、あなたが値上がり株と値下がり株の両方を持っていたとして、どちらを売って、どちらを手元に置いておくだろう?
 普通に考えれば、値上がり株をキープして、値下がり株を売るはずだ。利益を最大限に出すにはそうすべきなのだから。安く買い、高く売って儲けるのが株の基本だ。
 しかし実のところ我々は、将来の値動きにかかわらず、値下がりしたほうの株を持ち続けてしまうことが多々ある。損失が「目に見える状態」になるのが嫌だからだ。下落した株を売却した瞬間、それまで「損失の可能性」にすぎなかったものが、リアルな「損失」として確定する。損失は、その株を買った自分の判断が間違っていたという動かしがたい証拠となる。その恐怖から、下落した株を長々と持ち続ける。「いつかきっと利益が出る」と自分に言い聞かせながら。これが「気質効果」だ。
 ところが、これが値上がり株となると話が逆になる。早く売りすぎてしまうのだ。人は無意識のうちに、早く利益を受け取りたいと願う。値上がり株を売った瞬間、自分の判断は正しかったという正真正銘の証拠が手に入るからだ。今後さらに値上がりしてもっと利益が出せるかもしれないのに、目の前の誘惑から逃れられない。これも一種のバイアスだ。
「上昇しつつある株は持っておく」
「下降しつつある株は売る」
こんな単純なことだけ守っておけば、よほどの暴落がないかぎりはまずまちがいなくプラスになるだろう。

だがそれができないのが人間なのだ。
「判断を誤った」ことを認めたくないために、下がっている株を持ちつづけ、上がっている株を売ってしまうのだ。

プロの投資家ですらそうなのだから、「まちがえたくない」という気持ちの強さがどれほどのものかがよくわかる。



世の中には「まちがえない人」がたくさんいる。
人気のある政治家やテレビのコメンテーターはたいていそうだ。
 クローズド・ループ現象のほとんどは、失敗を認めなかったり、言い逃れをしたりすることが原因で起こる。疑似科学の世界では、問題はもっと構造的だ。つまり、故意にしろ偶然にしろ、失敗することが不可能な仕組みになっている。だからこそ理論は完璧に見え、信奉者は虜になる。しかし、あらゆるものが当てはまるということは、何からも学べないことに等しい。
たとえば「公務員が多いことがすべての元凶だ。公務員を減らせ!」と声高に叫び、その結果社会が悪くなっても「公務員の努力不足が原因だ! 数を減らしたことは正しかった」とか「減らし方が足りなかったせいだ! もっと減らせ!」とか「公務員を減らしていたからこの程度で済んだのだ! 減らしていなかったらこんなもんじゃ済まなかったのだ!」とか言う 維新 人たちのことだ。

一度でも彼らが「我々が実行したあの政策は失敗だった」と言っているのを聞いたことがあるだろうか。
ない。彼らは失敗しないのだ。
それはつまり、何も学ばないということだ。

少し前に流行った『ドクターX』というドラマで、主人公の決めゼリフが「私、失敗しないので」だったそうだ(ドラマ観てないけど……)。
こういう人は成長しない。
ミスから学ばないから。ミスをしても「これはミスじゃない」と揉み消してしまうから。

「謝ったら死ぬ病」というネットスラングがある。
どれだけ判断ミスや失言をしても
「ご指摘にはあたらない」
「意図が誤って伝わってしまったのなら申し訳ない」
「誤解を招いたのであれば訂正する」
と言い逃れようとする人を指す言葉だ。
もちろん、こういう人も成長しない。

だが。
たいへん残念なことに、政治家やコメンテーターとして人気があるのは、この手の「失敗できない」人たちなのだ。

「私の判断は誤っていました。これから先も誤るとおもいます。それでも、そのときの最善を選択できるよう様々な人の声に耳を傾けていきます」
なんて謙虚な人は人気がない。

「失敗しない人」じゃなくて「失敗を認められる人」がトップに立ってほしいのだが。



こないだ娘といっしょに観ていたテレビアニメ『ドラえもん』に「メモリーローン」という道具が出てきた(アニメオリジナルの道具)。

自分の思い出を預けると、その価値に見合ったお金を貸してくれるという道具だ。
言ってみれば思い出を扱う質屋。

自分にとっての重要度で思い出の売却金額が決まる。価値のある思い出ほど高値で売れるのだ。
のび太の場合だと、野球の試合でホームランを打った思い出や、先生に褒められた思い出が高値で売れる。
ところが、出木杉の思い出を査定したところ、「テストで100点をとった思い出」は価値がほとんどなく、逆に「めずらしくテストで70点をとってしまった思い出」に高値がついていた。
出木杉くんにとっては、失敗した記憶こそ、そこから学ぶことが多く、価値のある思い出なのだ(もちろん出木杉くんはメモリーローンを利用しない)。

えっ、えらいっ……!
そう。出木杉くんのすごいところってこういうところなのだ。
ただ勉強ができるだけじゃなく、決しておごらず、つねに学ぶ姿勢を忘れないところなのだ。

フィリップ・E・テトロック&ダン・ガードナー『超予測力』にも、未来の変化を正しく予測できる確率が高いのは「自分の失敗に重きをおき、そこから学ぶタイプ」とあった。
出木杉くんは今賢いだけじゃない。
今後もぐんぐんのびるタイプだ。

逆に、漫画に出てくる安易な天才タイプ(「ば、ばかな……! このオレの計算がまちがっているはずはない!」みたいなこと言うタイプ)はぜんぜん大したことないんだよね。



人間、誰しも己の失敗を認めたくない。
 心理学者のチャールズ・ロードも似たような実験をした。被験者は、死刑賛成派と反対派の人々だ。しかも、どちらのグループも筋金入り。賛成派は、死刑の犯罪抑止効果を友人に説いてまわり、テレビで反対派が恩赦の必要性を訴えていようものなら、画面に向かって怒鳴り散らすような人たちだ。逆に反対派は、「国が認める殺人」によって残忍な社会になってしまうことを心底恐れている人たちだった。
 ロードは各グループに、ふたつの研究報告書を読ませた。ふたつとも綿密な分析に基づいた、深い説得力のある見事なレポートだ。ただし、ひとつは死刑制度を支持するデータを集めたもので、もうひとつは死刑反対の意見を裏付けるものばかりだった。
 どちらも、普通なら「それぞれに理があるのだろう」と思えるほどのしっかりとしたデータだ。最後まで読めば、いくら両派が筋金入りでも、ほんの少しぐらいは歩み寄れるのではないかと思わずにはいられない。しかし、実際にはまったく逆のことが起こった。両派の溝はさらに深まったのである。賛成派はそれまで以上に強硬な賛成派となり、反対派も一層信念を強めた。

両論を目にすれば中立に寄っていくかとおもいきや、意外にも、元々極端な意見の持ち主は議論をすればするほど元々の信条をより強固にしていくのだ。

Twitter上での議論を見ていても(得るものがないのでなるべく見ないようにしているのだが)、最終的に「おれがまちがってた」となっているのを見たことがない。
極端な人たち同士の議論によって溝が深まりこそすれ、埋まることはほとんどないのだろう。

というか、相手の意見に耳を貸す人はそもそも極端な意見にならないのだろう。
物事が善悪の二元論でかんたんに片付けられないと知っているから。

 講釈の誤りは、進化のブロセスを妨げる。
 もし我々が勝手な理屈で「世の中は単純だ」と思い込んでいれば、試行錯誤の必要は感じない。その結果、ボトムアップ式を怠りトップダウン式で物事を判断してしまう。自分の直感やすでに持っている知識だけを信じ、問題を直視せず、都合のいい後講釈で自己満足に陥り、その事実に気づかない。本当なら自分のアイデアや仮説をテストし、欠点を見つめ、学んでいかなければならないのに、その機会を失ってしまうのだ。

わかりやすい正解があると信じる人ほど、正解から遠ざかる。



失敗と向き合うのはむずかしい。

税金で布マスクを配ったことも正当化したくなる。オリンピック誘致も失敗だったと認めたくない。

この本では、「失敗から学ぶ」と「失敗の可能性を減らす」ための方法が紹介されている。
「事前検死」という手法だ。
 近年注目を浴びている「失敗ありき」のツールがもうひとつある。著名な心理学者ゲイリー・クラインが提唱した「事前検死(pre-mortem)」だ。これは「検死(post-mortem)」をもじった造語で、プロジェクトが終わったあとではなく、実施前に行う検証を指す。あらかじめプロジェクトが失敗した状態を想定し、「なぜうまくいかなかったのか?」をチームで事前検証していくのだ。失敗していないうちからすでに失敗を想定し学ぼうとする、まさに究極の「フェイルファスト」手法と言える。チームのメンバーは、プロジェクトに対して否定的だと受け止められることを恐れず、懸念事項をオープンに話し合うことができる。

これ、いいねえ。
失敗した後に検証しようとするとどうしても誰かを責めたてるような話になっちゃうもんね。
懸念点、問題点が可視化されていいことだらけの手法におもえる。

でも、根性論が好きなトップだと
「やる前から失敗したときのことを考えてどうする! ぜったいに成功させるという強い気持ちが成功につながるんだ!」
みたいな鶴の一声で一蹴されちゃうんだろうな……。

プロジェクト失敗まっしぐらだ……。

2020年8月16日日曜日

言わぬが花


妻は子どもを素直に褒めない。
というか求めているハードルが高い。

さすがに一歳児に対しては
「いっぱい食べたねーすごいねー」
「今日はあんまりごはんこぼさなかったねー。えらい!」
と、激甘基準で褒めているが、六歳の娘に対してはやたらと厳しい。

娘が「宿題終わった!」と報告したら「ピアノの練習もしてね」と言う。
「ほら、お片付けしたよ!」と報告したら「毎日これぐらいちゃんとできるといいんだけどね」と言う。

横で聞いていてぼくは「いやいや、そこはとりあえず褒めたらいいじゃない」とおもう。
で、娘が傷つかないように急いで「えっ! 宿題終わったんだって! すごいやん!!」と嘘くさいぐらいおおげさに褒める。



まあ妻には妻なりの「娘に対して求める基準」があるんだろう。
で、ぼくのそれと比べてものすごく高いのだ。

妻は“ちゃんと”している。
いわゆる優等生タイプ。長女タイプ。じっさい長女だ。
今もフルタイムで仕事をして、子どもの面倒を見て、家事育児もこなす。「疲れた」と言いながら趣味の洋裁もやっている。
「子どもにはちゃんとしたものを食べさせたいから」と言ってぼくに料理をさせない。自分がやる。たまにお惣菜を買ったときとかは「惣菜ばっかりでごめん」と謝る。惣菜を買うことを誰も責めたことないのだが、自分に責められるらしい。

一方のぼくは、自分で言うのもアレだが、まあ“ちゃんと”してない。
同じパジャマを何日も着るし、シーツも替えないし、食べ物はぽろぽろこぼすし、洗った食器に泡がついていても気にしないし(だから料理をさせてもらえないのだ)、眠いときは廊下で寝ることもあるし、机の上はぐっちゃぐちゃだ。
そうです、末っ子です。

あたりまえだけど大人になってから突然だらしなくなったわけではなく、子どものころは輪をかけてひどかった。
宿題はしないし洗濯物は脱ぎちらかすし人の話は聞かないし(これは今もだけど)歯みがきは年に数回しかしなかった。

自分がそんな子だったから、娘を見ると「“ちゃんと”してるなー」と驚く。
宿題毎日やってんじゃん、すごいなー。
二日に一回ぐらいは脱いだパジャマを片付けてんじゃん、すごいなー。
自分から歯みがきしようとしてんの? めちゃくちゃすごいじゃん。
へー先生に言われたことをちゃんと聞いてたんだ、うちの子は天才か!



子育てに正解はないが、いいことをできたときは素直に褒めたらいいじゃない、とおもう。

たとえお片付けを十回に一回しかできなくても、その一回のときに褒めてあげたら二回になり三回になっていくだろう、と。

なんたって褒めるだけならタダなんだから。
おだてといて上機嫌にやってもらったほうがいいじゃない。


……ということで「子どもがいいことをしたときでも素直に褒めない」は妻のよくないところだとおもう。

でも妻には言わない。
“ちゃんと”している人だからこそ、「きみのこういうところ良くないよ」と言われるのを嫌がるのだ。十倍になって返ってくる。

それに、ぼくが妻に対して「素直に褒めてあげたらいいのに」とおもっているのと同じように(あるいはその十倍ぐらい)、妻もぼくに対して「こうしたらいいのに」とおもうところがあるんだろう。
自分では気づかないだけで。

言わぬが花。
娘を褒めるのと同じぐらい、妻を責めないことも大事。


2020年8月12日水曜日

【読書感想文】ゴミ本・オブ・ザ・イヤー! / 水間 政憲『ひと目でわかる「戦前日本」の真実』

ひと目でわかる「戦前日本」の真実

1936-1945

水間 政憲

内容(e-honより)
「戦前暗黒史観」を覆すビジュアル解説本。なぜ日本の戦後教育ではこれらの真実を封印してきたのか?

早くも決定! 今年の ゴミ本・オブ・ザ・イヤー!
いや、ここ十年でもっともレベルの高いゴミ・オブ・ゴミ本だった。

ぼくは一年に百冊ぐらいの本を読むが、そのうち一冊ぐらいは「ああ、読むんじゃなかった……」と読みながら後悔する。

この本も序盤は「これはお金をドブに捨てたな……」とおもっていたのだが、あまりにクズ本すぎて途中から逆におもしろくなってきた。

「また出た! ゴミ主張!」

「すげえ! これが歴史修正主義者の考えか!」

と合いの手を入れながら読んだらそこそこ楽しめた。
(というかそうでもしないと読んでられない)

ってことでゴミとおもいながら読んだらそこそこ楽しめるんじゃないでしょうかね。
なんだかんだでゴミ屋敷って(遠目で見てる分には)おもしろいもんね。



「戦前の日本はまちがっていた」と言われるけど悪いことばかりでもなかったんだぜ、という趣旨の本かとおもって読みはじめた。

岩瀬 彰 『「月給100円サラリーマン」の時代』みたいな本かな、あれは名著だったからなあ、あんな感じで戦前の市井の人の生活を写真で伝える本だろうな。

とおもいながら読んだのだが……。


ぜんぜんちがった……!

「丹念に資料を集めて、そこから見えてくるものを浮かびあがらせる」本じゃなくて、

「著者のイデオロギーがまずあって、それに合致する資料だけを集めた」本だった。


前書きで「日本罪悪史観」という言葉が出てきた時点でイヤな予感がしたんだよな。
やべえやつしか使わない言葉だもんな……。

著者の言いたいことはこんな感じ。

日本は正しくて、中国や朝鮮やアメリカが悪くて、ほんとは戦争したくなかったのに引きずりこまれて、そんな中でも日本人は美しい心を持っていて、そんな日本が統治していたときは中国人も朝鮮人もいきいきとしていて、けど戦後は中国人も朝鮮人もこずるくなって、ついでに戦後の教育がまちがっていたせいで日本人も本来持っていた美しい心を失ってきている……。

はじめっから結論が決まってるんだよね。

フィリップ・E・テトロック&ダン・ガードナー『超予測力』によると、物事を正しく予測できないのはこういうタイプの人だそうだ(統計によって得られたものだ)。

 複雑な問題をお気に入りの因果関係の雛型に押し込もうとし、それにそぐわないものは関係のない雑音として切り捨てた。煮え切らない回答を毛嫌いし、その分析結果は旗幟鮮明(すぎるほど)で、「そのうえ」「しかも」といった言葉を連発して、自らの主張が正しく他の主張が誤っている理由を並べ立てた。その結果、彼らは極端に自信にあふれ、さまざまな事象について「起こり得ない」「確実」などと言い切る傾向が高かった。自らの結論を固く信じ、予測が明らかに誤っていることがわかっても、なかなか考えを変えようとしなかった。「まあ、もう少し待てよ」というのがそんなときの決まり文句だった。

この著者はまさにこのタイプ。

つまり、何からも学べないタイプ。

引用するのもアホらしいんだけど、たとえばこんなの。

 それまで平穏無事だった日本が、中国の「罠」に嵌められ、中国国内の内戦に引きずり込まれたのは、まさに一九三七年七月だったのです。
 同七月七日、盧溝橋で日本軍に銃弾が撃ち込まれ、中国側と武力衝突しましたが、現地では、直後の同十一日に和平協定が結ばれていました。
 それにもかかわらず、「廊坊事件」(同二十五日)、「広安門事件」(同二十六日)と挑発は継続していました。この状況は、現在、尖閣で挑発行為を繰り返している中国とまったく同じです。
 そのような状況下で、北京近郊の通州において、子供を含む在留邦人二二三名が惨殺されたのです。国民が激昂したのは当然でした。それでも日本政府は隠忍自重していたのです。
 日本との戦争を望んでいたのが中国側だったことは、同九日、蒋介石が各省の幹部を前に「(日本と)戦うつもりである」と、宣言していたことで明らかになっています。
 日本が中国の懲罰に本格的に立ち上がったのは、第一次上海事変(一九三二年)のときに取り決めた「上海停戦協定」に違反し、同八月十三日に中国側が一方的に上海で戦闘を開始したことに対して、戦時国際法に則って応戦したのが実態だったのです。
 これらの事実は、GHQ占領下以降、現在でも教科書などでは封印されています。
 わが国で、事実でないことを教科書に記載し、教室で教えている状況は、まさに「反日教育」を実施していることになります。

こんなの挙げていったらキリがないからこれぐらいにしとくけど。

はあ……。

こういうこと言えば言うほど、あんたの大好きな日本人がバカだとおもわれるんだけどな……。
わかんねえのかな……。

きわめつきがこれ。

 戦後、原子力の研究に関して、日本は理論物理学だけが進歩していたかのように認識されてきましたが、実際には実証研究の分野においても最先端に達していたのです。
 当然、原子爆弾を理論的に製造できる知識は持ちあわせていたのです。
 GHQ占領下に日本の原子力研究の調査を担当したアメリカの科学者が、日本の研究者に、研究レベルの高さに驚いて「なぜ日本は原子爆弾を製造しなかったのか」と、疑問を呈していました。
 日本人の遵法精神は、武士道精神に裏打ちされており、原子爆弾の使用は即、戦時国際法違反になることで、原子爆弾を製造する能力があっても実用化する方向の議論は行われませんでした。

す、すげえ……。

これがトンデモ本ってやつか……!
うわさには聞いてたけど見たのははじめてだぜ……!

日本は原子爆弾を作れたけどあえて作らなかった。勝つことよりも武士道精神を優先させたから。

ですって!!

これ、まじめに言ってんの?
笑わせようとしてるんじゃなくて?

他にも、
「共産党政権下ではこんな純真な顔はできない」とか
「写真の猫が、ノンビリ時間が流れていた時代を象徴している」とか
「桜が咲いている写真もあり、のんびりとした時間が流れているのが写真から伝わってきます」などの
頭の悪い 独創的なフレーズがいっぱい。

のんびりしてなくても桜は咲くし、猫なんかどんな時代でも同じ顔しとるわ!


PHP研究所ってこんな本出しちゃう出版社だったっけ……。
創設者の松下幸之助氏が草葉の陰で泣いてるぞ。




著者は、平和そうな写真、楽しそうな表情をしている写真ばかりを載せて

「ほら、戦前の日本はいい国だったんですよ」と言っている。

「つらく悲惨なことばかりではなかった」という主張はわかるけど(じっさいそうだったんだろうけど)、それが言いたいがために逆の方向に大きくふれすぎている。


今でもそうだけど、戦前・戦中の写真が日常をそのまま写したもののわけがない。

カメラもフィルムも今よりずっと高価だった時代。そんな時代に、貧しい生活風景なんか撮るわけがない。庶民の苦しい生活なんか撮らない。
いいものだけ、伝えたいものだけを撮る。

撮られた写真は嘘ではないかもしれないが、現実の1%を切り取って100倍に拡大したものだ。
現実をそのまま反映しているはずがない。


たとえばさ。Facebookに載ってる家族写真って、みんな楽しそうに写っている写真ばかりじゃない。

それを見て「まあいいとこしか写真に撮らないし、いい写真しかアップしないからねー。現実は楽しいことばっかりじゃないけど」とおもうだろうか。

それとも「2020年の日本人は例外なく家族仲良く暮らしているんだ! DVも虐待もないんだ! だってFacebookには幸せそうな写真しかないもん!」とおもうだろうか。

この本の著者は後者らしい。




あと随所に「現代日本の若者に対する苦言」が入るんだけどね。

「戦前の若者は骨があった。今は教育が誤っているから甘っちょろい考えの日本人ばかりだ。厳しい教育を受けさせねばならん」

みたいな感じで。

この手の人ってどうして「若者を叩きなおそう」しか言わないんだろう。
どうして自らを厳しい環境に置こうとしないんだろう。

若者は苦労しろ、おれたち老人は高みの見物だぜ。

これが「立派な日本人」の言うことかねえ。
ああ、ご立派だこと。


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2020年8月11日火曜日

ドラえもん日本旅行ゲーム

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どこでもドラえもん 日本旅行ゲーム ミニ


新型コロナウイルス感染者が増えている今、GoToキャンペーンとやらが始まった。
もちろんぼくは旅行には行かない。

感染するのも感染を広めるのも嫌だし、なにより出不精だからだ。
コロナ関係なく旅行にはあまり行かない。

そのかわりというわけでもないが、『どこでもドラえもん 日本旅行ゲーム ミニ』を買って七歳の娘と遊ぶ。

これぞ新しい生活様式の旅行だ。



サイコロのようなルーレットを回し、日本全国の都市の中からランダムに決められた目的地を目指す。
目的地は常に三つあるのでいちばん近いところを目指せばいい。
目的地に到達するとカードがもらえる。
カードの中には「ひみつ道具」が書いてあるものがあり、それを使うと、たとえば「4マス以内の好きなマスに移動する」といった効果がある。
最終的に所持しているカードの多いプレイヤーが勝ち。

『桃太郎電鉄』から、お金と物件と貧乏神をなくしたようなゲームだ。
(ちなみに「ミニ」じゃないほうはお金の要素もあるらしい)

ゲームバランスはなかなかいい。
目的地が三つあるので、どのプレイヤーもそこそこ目的地に到達できる。
「2か4か5が出たら目的地に到達できる」みたいな状況になるので、
「何回やっても目的地にぴったり止まれないー!ウキーッ!」みたいなことも起こりにくい。

また、カードの少ないプレイヤーが多いプレイヤーからカードを強奪できる「ふっとばし」というルールもあるので、前半で負けていても十分逆転は可能。

モノポリーや桃鉄のように序盤でほぼ勝負が決してしまうということもない。
何度かやったが、最終的には必ず僅差になる。



不満なのは、せっかくの「日本旅行ゲーム」なのに地名が身に付かないこと。

桃鉄の場合は目的地が「高知」とかになるので、遊んでいるうちに自然に都市の場所を覚えられる(おまけに物件を買う際に名産品も覚えられる)。

ところが『どこでもドラえもん 日本旅行ゲーム』は、目的地には大きく「中華まんドラ」と書かれていて、地名は目的地カードのすみっこに小さく「横浜」と書いてあるだけ。

だから子どもは「中華まんドラ」を探す(中華まんのコスプレしたご当地キティみたいなドラえもん)。
何度かやっているうちに「中華まんドラはここ!」と覚えるようになるが、「横浜」の場所はいっこうに覚えられない。

ご当地ドラえもんキャラ名と地名を逆にしてくれよ。
そしたら遊びながら地名を覚えられるのに。


しかもご当地ドラのチョイスが微妙なんだよね。

神戸は「セーラードラ」とか。なんじゃそりゃ。

かぼすドラ? 徳島だっけ? とおもったら大分だったとか(徳島はすだちだった、すまん)。

りんごドラ? ああ青森やね。あれっ、ないぞ。えっ、青森じゃなくて長野!? とか。(これはぼくは悪くない。りんごといえばふつう第一にくるのは青森だろ!)

あと神奈川や新潟や茨城のカードは二枚あるのに鳥取や島根や富山や福井や群馬は一枚もないとか。
バランスどうなってんだ。


2020年8月7日金曜日

【読書感想文】歳とってからのバカは痛々しい / 安野 モヨコ『後ハッピーマニア』

後ハッピーマニア 1

安野 モヨコ

内容(Amazonより)
かつて、ハッピーを追い求めあまたの男たちと20代を暴走した女がいた。彼女の名はカヨコ(旧:シゲカヨ)。恋に恋した時代もあったけど、フツーでまじめな男タカハシと結婚し、気づけばまさかの15年。だが…しかし!!カヨコにぞっこんだったはずのタカハシから、突然「好きな人と付き合いたい」と離婚を突きつけられる……!45歳、専業主婦。子供なし、スキルなし、金なし。別れたくないのは、愛してるから? 生活を失いたく

『ハッピーマニア』の続編。
前作の約15年後の話。

いやあ、『ハッピーマニア』はおもしろかったなあ。
当時、シゲタカヨコというキャラクターは革新的だった。

男のぼくにとって、シゲタカヨコの行動原理は衝撃的だった。
「あたしは あたしのことスキな男なんて キライなのよっ」というセリフのインパクトの強さよ)

まったく理解不能……とおもうと同時に、ああなるほどと腑に落ちた。

一部の女性の行動がまったく理解できなかったんだけど、そうかあの人はシゲタみたいな人なのか! とおもって見るようにしたらいろいろと合点がいった。

そうかそうか。
恋愛は「素敵な相手」を得るための手段かとおもっていたけど、目的ととらえている人もいるのか……。

あと、恋愛は「自分をより高いステージに連れてってくれるもの」という発想も、まず男にはない。
男の恋愛は短絡的なので「いい女とヤりてえぜ」としかおもっていなくて、それ以上でもそれ以下でもない。
男が恋愛によって得たがるのは「女」だけど、女が求めるものは「男」だけじゃないんだ……。

もちろんシゲタカヨコは漫画のキャラクターなので極端な価値観の持ち主だけど、ぼくにとってはまったく理解不能の女心をほんのちょっとだけ理解させてくれた(ような気がする)存在だ。

あと東村アキコの『東京タラレバ娘』もぼくが女性の恋愛観を把握するための参考図書なのだけど……『ハッピーマニア』と『タラレバ娘』が参考図書って相当歪んだ見方だな……。


それはそうと、好きだった漫画の続編が読めるのはうれしい。
よくぞ続きは書いてくれた。
(ところで『働きマン』の続きはどうなったの……)



前置きが長くなったが、さて『後ハッピーマニア』。

理想の男を求める終わりなき旅を続けていたカヨコも45歳。
まあいろいろありながらもタカハシとそこそこの結婚生活を続けていたのだが、突然タカハシから離婚を切り出される……というショッキングなオープニング。

まさかというかさもありなんというか。

しかしなあ。
ひどいぜタカハシ。

カヨコはもちろんいい妻ではないけど、そんなことは誰もが知るところで、タカハシだって当然承知の上で結婚したわけで、それなのに45歳になってから離婚してくれだなんてあまりにひどい話だ。

まじめな女に目移りするって、そんなことは20年前に済ませておけよ……。
そりゃないぜタカハシ。
おまえがそんな薄情な男とはおもわなかったぜ。

フクちゃんもヒデキもみんな(田嶋以外)それぞれ結婚というものに対して苦悩を抱えていて、それぞれ事情はわからんでもないのだが、タカハシだけは理解できん。
シゲタカヨコに見切りをつけるタイミングはなんぼでもあっただろうに。

前作ではいちばん常識人に見えたタカハシが、今作だといちばんのダメ人間に見える。



まあまだ物語がはじまったばかりなのでこれからどうなっていくかわからないけど……。

あれだね。
若いときのバカは笑い飛ばせても、歳とってからのバカは痛々しいだけだね。

登場人物のやっていることは『ハッピーマニア』も『後ハッピーマニア』も大きく変わるわけじゃないのに、20代がやっていたら「バカやってんなー」と軽く笑い飛ばせることでも、40代だと「いや……これは……ダメでしょ……」って深刻に受け取ってしまう。

たいがいのことはそうだね。
ケンカでも軽犯罪でも不貞でも破局でも失業でも、20代でやるのと40代でやるのでは受けるダメージがぜんぜんちがう。
40代だと、すべてが「もう取り返せない」になっちゃう。

ほれたはれたで生きていけない。
老後とか親の介護の問題とかも考えなくちゃならない。

ぼくは今、結婚したときのシゲタカヨコと、離婚を切り出されたときのシゲタカヨコのちょうど間ぐらいの年齢だ。

たぶん、ここからの大きな進路変更はむずかしい年齢。

うーん、家庭を大事にしなきゃなあ。
まさか『ハッピーマニア』の続編を読んでこんな感想を抱くとはおもわなかったぜ。


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2020年8月6日木曜日

【読書感想文】障害は個人ではなく社会の問題 / 伊藤 亜紗『目の見えない人は世界をどう見ているのか』

目の見えない人は世界をどう見ているのか

伊藤 亜紗

内容(e-honより)
私たちは日々、五感―視覚・聴覚・嗅覚・触覚・味覚―からたくさんの情報を得て生きている。なかでも視覚は特権的な位置を占め、人間が外界から得る情報の八~九割は視覚に由来すると言われている。では、私たちが最も頼っている視覚という感覚を取り除いてみると、身体は、そして世界の捉え方はどうなるのか―?美学と現代アートを専門とする著者が、視覚障害者の空間認識、感覚の使い方、体の使い方、コミュニケーションの仕方、生きるための戦略としてのユーモアなどを分析。目の見えない人の「見方」に迫りながら、「見る」ことそのものを問い直す。

目が見えない人はどうやって世界を認識しているのか。
学術的にではなく、福祉の視点からでもなく、「おもしろがる」という視点で解説した本。

なるほど、たしかにおもしろい。
著者の「おもしろがる」視点が伝わってくる。
いい本だった。



目が見えない人のほうが物事を正確にとらえている場合もある、という話。

見える人は、富士山を思い浮かべるとき「台形のような形」、月を思い浮かべるときは「円」を思い浮かべることが多い。ぼくもそうだ。

ところが見えない人の中には、富士山を「円錐台(円錐の上部が欠けた形)」、月を「球」でイメージする人がいるそうだ。

言うまでもなく、実態に近いのは後者のイメージだ。
見えないからこそ視点にとらわれず正確なイメージを描くことができるのだ。
 決定的なのは、やはり「視点がないこと」です。視点に縛られないからこそ自分の立っている位置を離れて土地を俯瞰することができたり、月を実際にそうであるとおりに球形の天体として思い浮かべたり、表/裏の区別なく太陽の塔の三つの顔をすべて等価に「見る」ことができたわけです。
 すべての面、すべての点を等価に感じるというのは、視点にとらわれてしまう見える人にとってはなかなか難しいことで、見えない人との比較を通じて、いかに視覚を通して理解された空間や立体物が平面化されたものであるかも分かってきました。もちろん、情報量という点では見えない人は限られているわけですが、だからこそ、踊らされない生き方を体現できることをメリットと考えることもできます。
ふうむ。
見えるがゆえに、見える部分にとらわれてしまって全体を正確に理解できない。
たしかにそうかもしれない。
矛盾しているようだけど、見えるからこそ見えないこともある。



目が見えないと、他の感覚が鋭敏になる。
と聞くと、ふつうは「耳が良くなるのだな」「手で触ってみるのだな」とおもうけれど、必ずしもそれだけではない。
 見える世界に生きていると、足は歩いたり走ったりするもの、つまりもっぱら運動器官ととらえがちです。しかしいったん視覚を遮断すると、それが目や耳と同じように感覚器官でもあることがわかる。足は、運動と感覚の両方の機能を持っているのです。地面の状況を触覚的に知覚しながら体重を支え、さらに全身を前や後ろに運ぶものである足。暗闇の経験は、「さぐる」「支える」「進む」といったマルチな役割を足が果たしていることに気づかせてくれます。
 そう、見えない体の使い方を解く最初の鍵は、「足」です。「触覚=手」のイメージを持っていると、見えない人が足を使っているというのは意外かもしれません。しかし言うまでもなく、触覚は全身に分布しています。
ふだんは意識しないけれど、足は触覚器官なのだ。

舗装された道を歩いているときは気づかないけれど、山道を歩くときは足から入ってくる情報が多いことに気づかされる。
ぼくが登山をするときは底の厚い登山靴を履いているけれど、それでも足の裏からいろんな情報が入ってくる。
石が多い、落ち葉が多い、濡れているからすべりやすい、土がやわらかくて崩れやすい、道が少し平坦になった。歩くだけで地面の情報が伝わる。

白杖をついた人がぐんぐん進んでいくのに驚かされるけれど、あれも足で「見て」いるんだろうな。



障害者について語るとき、ついつい同情的になってしまう。
「かわいそうな人に手を差しのべる」「少しでも失礼があってはいけない」という意識がはたらいてしまう。身近に障害者がいない人ほどそうなる。

でも、著者はもっと中立的に考えている。
日本人とブルガリア人が接して「へえー。そっちの国ではそんな風習があるんだ。おもしろいねー」と語りあうように、「目が見えない人の世界」をおもしろがっている。

それはこんな文章にも表れている。
 見えない体に変身したいなどと言うと、何を不謹慎な、と叱られるかもしれません。もちろん見えない人の苦労や苦しみを軽んじるつもりはありません。
 でも見える人と見えない人が、お互いにきちんと好奇の目を向け合うことは、自分の盲目さを発見することにもつながります。美学的な関心から視覚障害者について研究するとは、まさにそのような「好奇の目」を向けることです。後に述べるように、そうした視点は障害者福祉のあり方にも一石を投じるものであると信じています。
すごいよね、この文章。

「好奇の目を向けあう」「自分の盲目さ」「そうした視点」

ふだんは意識せずに使う比喩表現だが、 これを読んでおもわずぎょっとした。
「視覚障害者の話をするときにこの表現は不適切では」 と一瞬躊躇してしまった。

たぶん著者は意識的にこういう表現を使っているんだろう。
「えっ、それって不適切では」 とおもわせるために。
そして「あっ、べつに不適切じゃないのか」と気づかせるために。

「片手落ち」という表現は差別的だ! と言っている人がいるそうだ。
両腕がない人への差別だ、というのだ。
「片手落ち」は「片」+「手落ち」なのでその指摘は見当はずれなのだが、仮に本当に身体障害者に由来する言葉だったとしても、それを使うのが差別だとはぼくには思えない。

言葉狩りをすることで障害者が生きやすくなるとは思えないからだ(「言葉狩り」も口のきけない人への差別とされるかもしれない)。


「好奇の目を向けあう」「自分の盲目さ」「そうした視点」といった言葉を取り締まることで視覚障害者が生きやすくなるのなら、喜んで協力する。
でもそれは取り締まる人を満足させることにしかつながらないのかもしれない。

「なんだか障害者の話をすると『不謹慎だ』とか『配慮が足りない』とか言われてめんどくさいから話題にしないようにしよう」
と、むしろ「見えない人」を「見える人」から遠ざけるだけなんじゃないか。


……ってことが言いたくて著者はあえてこういった表現を使ったんじゃないかな。
 象徴的な話があります。それは、「障害者」という言葉の表記についてです。「障害者」という表記に含まれる「害」の字がよろしくないということで、最近は「障碍者」「障がい者」など別の表記が好まれるようになってきました。
 ところが、見えない人がテキストを読むときは、たいていは音声読み上げソフトを使います。すると、音声読み上げソフトの種類によっては、「障がい者」という表記が認識できないらしい。「さわるがいしゃ」という読みになってしまうそうです。つまり、誤った単語になってしまう。
 もちろん「さわるがいしゃ」と誤読されても、というか誤読されて初めて、見えない人は執筆者の配慮に気づくことができます。だからこの失敗は、配慮を必要とする障害者にとっては成功なのかもしれません。
 けれども、それが差別のない中立的な表現という意味での「ポリティカル・コレクトネス」に抵触しないがための単なる「武装」であるのだとしたら、むしろそれは逆効果でしょう。障害の定義を考慮に入れるなら、むしろ「障害者」という表記の方が正しい可能性もある。
いいエピソードだ。

「配慮」は相手のためではなく自己満足のための行為なのかもしれない。



『目の見えない人は世界をどう見ているのか』を読んでいると、
「目が見えないことって必ずしもマイナスとはいえないんじゃないか」とおもうようになった。

世界には、視力が弱い動物がいっぱいいる。
例えばコウモリは視力が弱い。
じゃあコウモリは他の動物よりも劣っているかというと、そんなことはない。
他の感覚器官を研ぎ澄ませて生きている。
光が消えて他の動物が滅びてもコウモリだけは生き残っているかもしれない。

コウモリに「目が見えなくて不自由してますか?」と訊いても、たぶん「いやぜんぜん不便じゃないっすよ」と答えるだろう。
ぼくらが超音波を感じ取れなくてもべつに不自由を感じないように。


でも現実問題として、人間は目が見えるほうが生活しやすい。
それは、見える人が多数派で、見えることを前提に社会が設計されているからだ。
 そして約三十年を経て二〇一一年に公布・施行された我が国の改正障害者基本法では、障害者はこう定義されています。「障害及び社会的障壁により継続的に日常生活又は社会生活に相当な制限を受ける状態にあるもの」。つまり、社会の側にある壁によって日常生活や社会生活上の不自由さを強いられることが、障害者の定義に盛り込まれるようになったのです。
 従来の考え方では、障害は個人に属していました。ところが、新しい考えでは、障害の原因は社会の側にあるとされた。見えないことが障害なのではなく、見えないから何かができなくなる、そのことが障害だと言うわけです。障害学の言葉でいえば、「個人モデル」から「社会モデル」の転換が起こったのです。
「足が不自由である」ことが障害なのではなく、「足が不自由だからひとりで旅行にいけない」ことや「足が不自由なために望んだ職を得られず、経済的に余裕がない」ことが障害なのです。

なるほど……。
いやたしかにそうだよな。

中度の近視や乱視の人って、今の日本だったら多少の不便はあってもほとんど視力の良い人と同じ生活をできる。
でも、もしもメガネやコンタクトレンズがなければ視覚障害者だ。

「階段を昇れない」という人がいたとする。数十年前であれば、ひとりでは出歩けない要介護者だった。
でも今の日本だったら、エレベーター、エスカレーター、スロープの整備がだいぶ進んでいるので、たいていのところにはひとりで行ける。

テクノロジーや都市の設計が、障害者を障害者でなくするのだ。

高齢化が進んで寿命が伸びれば身体障害を抱える人は今後どんどん増えるだろう。
一方でスマートスピーカーや読み上げソフトなど、テクノロジーによって障害をリカバリーできる範囲は増えつつある。

今後、どんどん健常者と障害者の垣根がゆるやかなものになっていくのかもしれないなあ。

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2020年8月5日水曜日

【読書感想文】死後にビデオテープを学習する貞子さん / 鈴木 光司『リング』

リング

鈴木 光司

内容(e-honより)
同日の同時刻に苦悶と驚愕の表情を残して死亡した四人の少年少女。雑誌記者の浅川は姪の死に不審を抱き調査を始めた。―そしていま、浅川は一本のビデオテープを手にしている。少年たちは、これを見た一週間後に死亡している。浅川は、震える手でビデオをデッキに送り込む。期待と恐怖に顔を歪めながら。画面に光が入る。静かにビデオが始まった…。恐怖とともに、未知なる世界へと導くホラー小説の金字塔。

言わずと知れたホラー小説の金字塔的作品。
たぶん日本で一番有名なホラー小説だろう。

ぼくは小説も映画も見たことがなかったが、「呪いのビデオ」とか「井戸の中から貞子」といった断片的な知識はあったので、小説を読んでいて貞子という名前が出てきたときには
「いよっ、待ってました!」
と掛け声をかけたくなった。
歌舞伎『リング』だったらじっさいに言っていた。

それぐらい有名なので、もうあんまり怖くない。

発表当時(まだ映画にもなる前)、ホラー好きの母がこの小説を読んで
「私もいろんなホラー作品を観てきたけど、こんなに不気味な小説は読んだことない!」
と絶賛していた。

そのときに読んでいたら怖がれたのかもしれないな。



映画版の「テレビ画面から貞子から這い出してくるシーン」が有名だけど(ぼくはパロディしか見たことないけど)、原作には貞子は登場しないんだね。

こっちのほうがいいね。
姿が見えない、なのにその存在が感じられる。だからこそ怖い。
見えちゃったら想像力をかきたてられないもの。

まあ映像作品で「姿が見えない怖さ」を描くのはむずかしいんだろうけど。
とはいえ貞子に具体的なビジュアルを与えたのは“逃げ”だよなあ。映画観てないけど。



なんで「呪いのビデオテープ」なのか知らなかったけど、読んではじめて「ああ、なるほど。拡散させるためにビデオテープにしたのか」と合点がいった。

ホラーの小道具としてはちょうどいいよね。
「呪いのYouTube動画」だったらあっというまに全世界に拡散しちゃうからじわじわ拡がる怖さがないもんね。

しかし気になったのが一点。
貞子は1966年に殺されている。ところがVHSの誕生は1976年。
つまり貞子は生前ビデオテープを知らなかったはずで、なぜ「呪いのビデオテープ」を生みだすことができたのだろう。
カセットテープですら日本で発売されたのが1966年なので、貞子は使い方を知らなかった可能性が高い。

死後にビデオテープの機能について学んだんだろうか……。
VHSとベータの戦いを見守って、VHSが勝ったからVHSに怨念を込めたのだろうか……。

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ママは猟奇的



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2020年8月4日火曜日

怖い怖い児童文学 / 三田村 信行『おとうさんがいっぱい』

おとうさんがいっぱい

三田村 信行(著)  佐々木 マキ (挿画)


 子どものときから本は好きだったのでいろんな本を読んだが、もっとも印象に残った本を一冊だけ選べと言われたら『おとうさんがいっぱい』を挙げたい。

 好きだったわけではない。
 むしろ嫌いだった。
 なぜならめちゃくちゃ怖いから。
 児童文学とはおもえないぐらい怖い。


 ぼくはいわゆる『怖い話』は好きじゃない。
 怖くないから。
 幽霊とか心霊現象とかをまったく信じていないので霊的な怪談はなんともおもわない。心が無風。
 事故物件だって住めと言われたら住めるぜ(あえて選ぶほどではないけど)。ラララ科学の子。

 ぼくが子どものときに怖かった話は三つ。

『世にも奇妙な物語』の『替え玉』というエピソード。
『まんがにっぽん昔話』の『影ワニ』というエピソード。
 そして『おとうさんがいっぱい』。
 ぜんぶよくわからない話だ。
 奇妙なことに巻きこまれるが、なぜそうなったのか説明できない。
「おまえがあのとき殺した女の怨念が幽霊となった」みたいなわかりやすい説明がない。
 そういうのが怖い。

『おとうさんがいっぱい』は怖かった。
 幽霊もお化けも殺人鬼もゾンビも血も出てこない。描写も最小限で淡々とした文章。なのに怖い。

 ごく平凡な日常の隣にぽっかりと口を開けた、ほんの少しだけこっちと違う世界の入口。
 そんな感じ。
 カフカみたいだ。カフカ読んだことないけど。



『おとうさんがいっぱい』には五編の短編が収録されている。

 もうひとりの自分と出会う『ゆめであいましょう』

 異次元に迷いこんでしまう『どこへもゆけない道』

 部屋から脱出できない上に自身が世界から切り離されてしまう『ぼくは5階で』

 父親が異空間に閉じこめられる『かべは知っていた』


 どれも怖いが、やはりいちばんおっかなかったのは表題作『おとうさんがいっぱい』だ。

 『おとうさんがいっぱい』はこんな話だ。

~ 以下ネタバレ ~

 おとうさんが家に帰ってきた。もうおとうさんが家にいるのに。
 顔も背格好も話し方もそっくり。記憶もたしか。どちらも完璧なおとうさんだ。
 お互いに自分こそが本物だと主張するがまったく見分けがつかない。
 さらに翌日もうひとりのおとうさんがやってくる。
 同じ現象があちこちの家庭で起きる。なぜかおとうさんばかりが複数に増えたのだ。社会は大混乱。

 政府は方針を定める。家族がひとりのお父さんを選ぶこと。
 おかあさんがショックで寝こんでしまったので、我が家では「ぼく」が決めることに。
 三人のおとうさんは「どういう父親でありたいか」「どういう家庭にしたいか」を必死でプレゼンする。
 それを聞いたぼくは、ひとりのおとうさんを選択する。
 選ばれなかった二人のおとうさんはどこへともなく連れ去られてしまう。激しく抵抗するが強制的に連行される。
 どこへ連れていかれるのかと尋ねても誰も教えてくれない。
 二人のおとうさんの行方を案じていたぼくだが、次第に忘れてゆく。
 これでいいんだ、あれは悪い夢だったのだ……と。

 そんなある日、ぼくが学校から帰ってくるとそこには「ぼく」がいた……。

 ひゃあこわい。
 星新一作品はぜんぶ読んだが、ここまで切れ味がよくて後味の悪い作品はショートショートの神様・星新一ですらそう多くは残していない。

 もう一度書くけど、児童文学なんだよ。おっかねえ。

 いつか娘にも読ませたいけど、夜眠れなくなりそうだしな。
 一年生にはショックが大きいだろうな。いつがいいんだろうな。

 ところで、この本があまりに怖かったので、ぼくはいまだに佐々木マキ氏の絵も怖い。
 佐々木マキ作の絵本(『ぶたのたね』とか)を読んでいても「これ最後にとんでもなくおそろしいことが起こるんじゃ……」とドキドキしてしまう。


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【読書感想文】村上春樹は「はじめての文学」に向いてない / 『はじめての文学 村上春樹』

2020年8月3日月曜日

【読書感想文】悪の努力家 / 高木 彬光『白昼の死角』

白昼の死角

高木 彬光

内容(e-honより)
明晰な頭脳にものをいわせ、巧みに法の網の目をくぐる。ありとあらゆる手口で完全犯罪を繰り返す“天才的知能犯”鶴岡七郎。最後まで警察の追及をかわしきった“神の如き”犯罪者の視点から、その悪行の数々を冷徹に描く。日本の推理文壇において、ひと際、異彩を放つ悪党小説。主人公のモデルとなった人物を語った秘話を収録。
舞台は戦後すぐ。
東大生の鶴岡七郎が悪の天才・隅田光一と出会い、金融会社「太陽クラブ」を結社して徐々に悪の道の魅力をおぼえはじめる。
隅田光一の失敗そして自殺により太陽クラブは解散するが、詐欺の経験と自信を手に入れた鶴岡七郎はさらなる綿密な詐欺計画を次々に実行する……。

前半は実際にあった光クラブ事件(Wikipedia)を下敷きにしている(というかほとんどそのまんま)が、隅田光一の死後に鶴岡七郎が潜在的に持っていた悪の才能を徐々に開花させてゆくのがこの小説の見どころ。
鶴岡七郎は天才・隅田光一よりもずっと人間的な深みがある(このキャラクターにも実在のモデルがいるらしい)。

「生まれもっての悪人+天才」というキャラクターは魅力的だ。
フィクションの世界にはたくさんいる。
『羊たちの沈黙』のレクター博士とか『模倣犯』のピースとか『悪の教典』の蓮実聖司とか。
どれも魅力的だが、どうも現実味がない。
「悪の大魔王」みたいなもので「こんな人が近くにいたらどうしよう」という気にはならない。だってもしいたらどうしようもないもの。ただただ逃げるしかない。
まして「自分がこうなったら」とはおもえない。自分が悪の大魔王になることを想像するのはむずかしい。

ところが『白昼の死角』の鶴岡七郎は根っからの悪ではない。
より大きな悪に触れて悪の道に引きずり込まれた、自分は周囲より頭がいいとおもっている、だが上には上がいるともおもっている、欲望を満たすためなら悪事をはたらくこともあるがその場合でも「だまされるほうが悪い」という自己正当化をおこなう。

隅田光一のほうは生まれついての悪だが、鶴岡七郎は後天的な悪。前者は悪の天才で、後者は悪の努力家。

「自分も環境によってはこうなるかも」と思わされるぐらいの悪人なのだ。
ぼくだって出会う人によっては鶴岡七郎のような生き方をしていたかもしれない。



「約束の期日までに金が用意できず、すぐに百万円を用意しなければ詐欺罪で捕まってしまう」
という状況での鶴岡七郎の言葉。
「あるとも。いますぐ、百万の金が作れたら、なんの文句もないわけだろう」
 いかにも自信ありげな七郎の態度は、善司をすっかりおどろかせてしまったらしい。そんなことがどうしてできる――、というような表情で、眼を見はり、七郎の顔をしばらく見つめていた。
「まあ、僕がいろいろ法律の問題を調べてみたところでは、このままでいったら、僕たち四人が、詐欺で起訴されることだけは、ぜったいに間違いがなさそうだ。まあ、これからの方針は、この現実を頭にたたきこんで、覚悟をきめることから出発するのだね」
「それで?」
「どうせ、そういう運命になっているものなら、毒をくらわば皿までで、ほんとうに詐欺をするんだよ。しくじったところでもともとだ。うまくいって、ここで百万の金ができたら、両方の罪がいっしょに逃げられる。たしかに一か八かの非常手段だが……」
「なんだって! 詐欺から助かるために詐欺をするのか?」
「そのとおり。いやならここであきらめて、刑務所へ行こうか」
詐欺で捕まらないために詐欺をする……。
なるほど、どうせ捕まるなら少しでも助かる目があるほうに賭けたほうがいい。
最後まであきらめない。まるで高校球児のようなひたむきな姿勢だ。すばらしい!

「このままだと捕まる」という局面で、「逃れるためにさらに罪を重ねる」という選択をできるかどうかが、大悪党と小悪党を分ける境目なんだろうな。
そしてたぶんどうせやるなら大胆に行動したほうが成功する。

……だけどふつうはそれができないんだよな。
どうしても守りに入ってしまう。

やはりぼくは大悪党にはなれなさそうだ。
「悪の道から足を洗うのです。それ以外、あなたが救われる道はありません」
「とおっしゃると?」
「犯罪の道で成功することは、世間が考えているよりも、ずっとむずかしいことですよ。そこには人なみはずれた知恵と、不撓不屈の勇気と、たえざる練磨が必要です。戦争以上に、常住座臥、緊張の連続が要求されます。あなたのような人間には、それはとうてい無理でしょう。ですから今後犯罪からは、ぷっつり縁を切りなさいと申しあげるのです」
鶴岡七郎は詐欺行為を重ねて財産を手に入れるが、彼のような知能、演技力、大胆さと緻密さ、そして人間的魅力があれば、まっとうに働いてもきっと成功していただろう。
もしかしたらそっちのほうが稼げていたかもしれない。
それだったらもちろん警察に追われることもないし。

でも彼は詐欺をやる。
それは金儲けや名声のためではない。
詐欺をしたいから詐欺をするのだ。

好きこそものの上手なれというけれど、詐欺師でもヤクザでもマフィアでも、成功するのはその道が好きな人、その道でしか生きられないような人なんだろうな。
「楽して金を儲けたい」みたいな動機ならまっとうに働いたほうがずっと楽なんだろうとおもうよ、ほんと。



ところでこの小説、中盤まではおもしろかったんだけど、後半は退屈だったなあ。

はじめのうちこそ死角を突くような大胆な手口で詐欺を実行するのだが、中盤からはぜんぜんスマートじゃない。

「酒に酔わせて都合のいい約束をさせる」とか。
なんじゃそりゃ。どこが「白昼の死角」なんだよ。おもいっきり力技じゃねえか。

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【読書感想文】軽妙な会話が読みたいなら / 伊坂 幸太郎『フィッシュストーリー』

フィッシュストーリー

伊坂 幸太郎

内容(e-honより)
最後のレコーディングに臨んだ、売れないロックバンド。「いい曲なんだよ。届けよ、誰かに」テープに記録された言葉は、未来に届いて世界を救う。時空をまたいでリンクした出来事が、胸のすくエンディングへと一閃に向かう瞠目の表題作ほか、伊坂ワールドの人気者・黒澤が大活躍の「サクリファイス」「ポテチ」など、変幻自在の筆致で繰り出される中篇四連打。爽快感溢れる作品集。
短篇集。
伊坂幸太郎らしい作品が並ぶ。

 動物園のエンジン


精神病、オオカミ、マンション建設というお題で三題噺をつくったらこんな話になるかな、というストーリー。
つまりとりとめのない話というか。
異質なものをむりやりくっつけてみたけどいまいちきれいにはつながらなかった感じ。
会話のおもしろさは楽しめる。


 サクリファイス


人里離れた山奥の村に古くから伝わる生贄の風習。
その風習を利用して村長が人を殺そうとしているのではないかと疑いを抱いた主人公・黒澤だが……。

と、サスペンス調の話運びに引きこまれたのだが、結末はどうも拍子抜けというか宙ぶらりんというか。
ミスリードの推理を真相が下回ってしまってるんだよな……。


 フィッシュストーリー

映画化されたものを以前観たことがある。
「なんだこれ。退屈な映画だな……。このバラバラのエピソードがどうつながるんだ……」
とおもいながら観ていたら、ラストで
「おお! そうつながるのか! 予想外の角度から来たな!」
と驚かされた。

既にストーリーは知っているので「バラバラのエピソード」部分で退屈せずに済んだのだが、ラストの切れ味は映画版のほうが上だったな。
もちろんぼくがネタを知っていたからというのもあるけど、映画の演出はスピーディーでわかりやすかったからな。
あれは映像の強みだよね。一気に全部種明かししても説明くさくならない。これを文章でやると野暮ったくなっちゃう。

ぼくが映画版を先に観たからかもしれないけど、映画版のほうがおもしろかったな。前半つまらなかったけど。
長編小説を映画化するとたいてい失敗するけど、短篇の映画化はうまくいくこともあるね。


 ポテチ

『サクリファイス』にも出てきた黒澤が再登場。伊坂幸太郎作品によく出てくるキャラだね。
この話では黒澤は主人公ではなくその後輩たちが主役。

ストーリーは特にどうってことのない話なんだけど、登場人物や軽妙な会話はこの短篇集の中でもっとも魅力的だった。
大笑いするようなものではないんだけど、ウィットに富んだ上品なユーモアが満ちあふれている。

伊坂幸太郎作品の魅力って会話にあるのかもしれない。
正直、ストーリー運びを軸に置いたものはあんまり好きじゃないんだよね。
ぼくは『ゴールデンスランバー』よりも『陽気なギャング』シリーズのほうが好きだ。



「おもしろい物語が読みたい!」という人にはものたりない短篇集だとおもうけど、時間つぶし的に楽しむにはおもしろいとおもうよ。