2018年8月31日金曜日

娘のサインに気づいて


娘(五歳)は頑健だ。

保育園に入れるとき、いろんな人から「子どもはすぐ熱出すからねー」「しょっちゅう保育園から呼び出しかかってたいへんだよ」という話を聞いていた。
職場に小さな子を持つ女性が何人かいたけど、しょっちゅう休んだり早退したりしていたので「たいへんそうだ」と覚悟していた。

だがうちの子は強かった。
保育園に行くようになって最初の一年、彼女が体調不良で休んだのは一日だけだった。
ぜんぜん熱を出さない。出しても土日。一晩で治す。強い。ちなみにその間、ぼくは三日会社を休んだ。

その後も年に一、二回ぐらいしか休まない。休んでも一日で治る。幼児ってこんなに強いのか。子どもは弱いと思っていたぼくには驚きだった。
「子どもはすぐ熱を出す」とひとくくりにできないのだと知った。



昨日の朝、娘に五時に起こされた。「のどかわいた」というのでお茶を入れてやった。暑くて寝苦しいよねーなんていって、もう一度寝た。

七時。娘を起こす。なかなか起きない。変な時間に起きちゃったからねー。
娘の身体が熱い。子どもって眠いと体温上がるよねー。眠いんだろうねー。

娘が「吐きそう」と言ってごはんを残す。暑いと食欲落ちるよねー。ぼくも寝不足のときは胃の調子が悪いよ。

娘が不機嫌だ。よく眠れなかったからねー。今日は保育園でしっかりお昼寝しようねー。

そんな感じで保育園に娘を送っていった。先生に「明け方起きちゃったので眠いみたいです」と伝えた。

仕事にいって間もなくして保育園から電話がかかってきた。「おとうさん、娘さんがすごい熱です」

あー。そうかー。
熱か。そういやそうだわ。夜中に起きるのも、眠そうにしてるのも、身体が熱いのも、食欲が落ちるのも、吐きそうなのも、機嫌が悪いのも、ぜんぶ体調不良のサインだわ。
娘はめちゃくちゃわかりやすいサイン送ってきてたのに全部華麗にスルーしてた。高校野球の強豪校だったら二度とレギュラー起用されないぐらいサイン見逃してた。

ちゃんとした親ならすぐ気づいたんだろうけどね。
すまねえすまねえ、おまえがふだん頑強なばっかりにこっちも油断してたわ。

そんなわけで保育園に娘を迎えに行って、ゼリー食べさせてちょっと寝かせたらもう元気になって跳びはねてんの。ほんと頑強。これじゃおとうちゃん、またサイン見逃しちまうぜ。

2018年8月30日木曜日

わからないことへの接し方


わからないことを受け入れられない人がいる。
「なんでわからないんだ!」「考えてないからだろ!」
という思考。

わからないのには理由がある。
十分な時間をとればわかるけどそれだけの時間をかけるとコストが見合わないとか、元となるデータが少ないとか、そもそも不確実要素が多すぎて誰がどうがんばってもわからないこととか。

そこで「がんばればわかるようになる」とか「それでもどこかにわかる人がいる」と考える人と、「わからないことを前提にリスクを最小化する最善の手を打とう」と考える人がいる。



いわゆる体育会系がばかにされるのは、前者の人の割合が高いからだろう。
やればできるさ、できなかったのはやらなかったからだ、の人。
「勝たなきゃいけない」と思っている人。

といってもスポーツ界にもちゃんと頭のいい人はいて、そういう人は「勝たなきゃいけない」とは思っていない。
どうやっても負けることはある。どんな強いチームでも弱いチームに負けることはある。そのリスクを最小化するためには何ができるか。
「勝つ方法を考える」と「勝つ確率を上げる方法を考える」は、似ているようでぜんぜん違う。前者は何も考えていないに等しい。

学校の勉強で「なんで全教科満点じゃないんだ」と叱る人はまずいないのに、スポーツやビジネスだと「なぜ負けたんだ」「なぜ失敗したんだ」という人が多いよね。同じなんだけどね。


2018年8月29日水曜日

神戸牛ときったない雑巾


こじゃれたカフェに入って「神戸牛オムカレー」ってのを頼んだら、思ってたより神戸牛がずっと大きくて、思ってたよりずっとおいしい肉だった。

どうせだったらカレーソースじゃなくてステーキソースか醤油かけて食べてえなあとか、どうせだったらオムカレーのトッピングじゃなくて丼に乗っけてネギと一緒にかきこんだらめちゃくちゃうまいだろうなあと考えてたら、なんだかすごく損をしている気になってオムカレーに乗せて食べてるのが嫌になってきた。


カフェのオムカレーの神戸牛は、ちっちゃい切れ端がところどころに入ってる程度でいいんだよ! うまくてでかいやつじゃなくていいんだよ!


うまいがゆえにがっかりする。

イチローに来てもらったのに、ゴムボールとプラスチックのバットで野球やらせるみたいな感じ。
せっかく来てもらったんだから一流の道具で一流のプレーを見せてほしい。


話は変わるけど、ぶどうジュースを派手にこぼしちゃったとするじゃない。
いけない、早く拭かなきゃと思って手に取ったのが、まっさらの布巾。
なんかイヤじゃない? 真っ白い布巾でいきなりぶどうジュース拭くのって。
こっちとしては段階的に汚していきたいわけ。まずは水拭いて、こぼれたお茶拭いて、こぼれた味噌汁拭いて、最後にぶどうジュース拭いてポイッ。
真っ白な状態からいきなりMAXに汚したくないわけ。

モノにも適材適所があるんだよね。
きれいな布巾が輝くのは、おしゃれな食卓。
ゲロを拭くときに力を発揮するのはきったない雑巾。真っ白な布巾でゲロを拭きたくない。

うまい神戸牛はきれいな雑巾。輝くのはステーキや焼肉という舞台。
ゲロ掃除にはきたない雑巾が似合うように、オムカレーで活躍するのは安い小間切れ肉。
この感覚、わかる?
オムカレーと神戸牛の話してたのになんで雑巾とゲロの話してるのか自分でもわかんないけどさ。

2018年8月28日火曜日

かつ児童保護の観点からも


妻からこんな話をされた。

「聞いた話なんだけどね。職場の人の知り合いが赤ちゃんをだっこしてたんだけど、うっかり手が滑って赤ちゃんを落としちゃったんだって。具合が悪そうだったので病院に行ったら揺さぶられっこ症候群みたいなことになってたんだって。そしたら虐待を疑われて児童相談所に赤ちゃんを連れていかれちゃって、赤ちゃんと引き離されたんだって。ひどくない?」


ぼくは「何もひどくないと思うけど」と答えた。

「伝聞の伝聞の伝聞なのでかなり信憑性に欠ける話だけど、仮に赤ちゃんと引き離されたって話が真実だったとして、『うっかり手が滑って落としちゃった』ってのがどうしてほんとだとわかるの? 虐待してた親が嘘をついてるのかもしれないじゃない」

 「……」

「仮にほんとに過失で落としてしまったんだとして、赤ちゃんは虐待されたときと同じような状態に陥ったんでしょ? だったら行政が介入して保護するのはいいことだと思うけど」

 「……でも親はかわいそうじゃない」

「かわいそうだけどさ。でもなにも一生子どもに会えないわけじゃなくて一時的な保護でしょ。重篤な状態にあるんだったら、公的な機関で預かってもらえるほうが安心だけどな」
 
 「……でもほんとは虐待してないのに虐待を疑われるのってイヤだと思うけど」

「べつに疑われたわけじゃないんじゃない? 行政は虐待という”行為”じゃなくて、揺さぶられっ子症候群という”結果”に基づいて介入したんでしょ。それってすごくいいやりかただと思うけどな。さっきも言ったように真相は本人にしかわからないんだからさ。行政が親の言動を見て『あんたは日頃から子どもをかわいがってるから虐待じゃない』『あんたは虐待しそうだから虐待とみなす』って判断してたら、そっちのほうがよっぽど怖いよ。『あんた虐待してるでしょ』なんて言ったら、それが事実であっても誤りであっても親子関係に悪影響しか与えないだろうし。だから『虐待があったかどうかはわからないけどとにかく子どもが重度の怪我をした場合は公的機関が子どもを保護します』ってやりかたはすごく公平で、かつ児童保護の観点からもすごくいいと思うけど」

 「んー。そういう正論を聞きたかったんじゃなくてかわいそうだね、って話をしたかったんだけどな」


あれ、ぼくの返答まずかった?

2018年8月27日月曜日

サッカーがへただったサッカー少年


小学生のころ、サッカーチームに所属していた。
二年生のとき自分からサッカーをやりたいと言い、小学校のサッカーチームに入会した。

ぼくらのチームは弱かった。
市内の大会で初戦で負けることのほうが多かった。強いチームと当たると、7点ぐらい取られることもあった。小学校低学年のときは15分ハーフだったから、前後半あわせて30分で7点。5分に1点以上とられていたことになる。キーパーとディフェンスは大忙しで、フォワード陣はキックオフのときだけボールを触ってあとは立ち尽くす、みたいな状態だった。

ぼくらのチームが弱かった最大の原因は、人数が少なかったことだ。
ぼくらの小学校は1学年2クラスしかなかった。全員で80人。男子だけで40人弱。そのうちサッカーチームに所属していたのは3分の1ぐらい。だからメンバーは12人前後だった。多少メンバーが増えたり減ったりはあったが、だいたいそれぐらい。
1人休んだらギリギリ。2人休んだら下の学年から選手を借りてくる。下の学年もそんなに余裕がなかったから、相手チームから借りてくるようなこともあった。敵チームでプレイしないといけない子はやりづらかっただろうな。

ぼくはサッカーがへただった。リフティングが4回しかできなかった。
でも12人しかいないのだ。へたでも試合には出られる。12人のうちでワースト3位に入るぐらいのへたさだったので、ベンチをあたためることもあった。12人しかいないチームで控えになるのはさみしかった。自分以外全員プレーしてるんだもの。

メンバーにヨシダくんという子がいた。彼は上手でディフェンスの要だったが、彼にもひとつ弱点があった。車酔いがひどいのだった。10分でも車に乗ると必ず酔った。
試合のときはたいていコーチの車で移動する。大きい大会なんかだと1時間ぐらいかかることもある。そうするとヨシダくんは車酔いでダウンして、到着してからもしばらくぐったりしていた。
そうすると1試合目はヨシダくんの代わりにへたなぼくらがディフェンスを務めることになる。そんなこともあって、大きな大会ではまず初戦敗退だった。

自分からやりたいといって始めたサッカーだったが、熱心ではなかった。
家では野球中継ばかり見ていた。練習のない日は公園で友人と野球をしていた。野球が好きだった。でも野球チームに入ろうとは思わなかった。子どもってそんなものだ。自分から環境を変えようとしない。

あるとき、ゴールキーパーをやってみるかと言われた。
これが性にあった。ボールを蹴るのはへただったが、キャッチやパンチングは苦手ではなかった。
なによりぼくは向こうみずだった。相手フォワードが走りこんできても、まったく躊躇せずに身体で止めにいくことができた。スパイクで顔面を蹴られたこともある。鼻血が出て鼻にティッシュを詰めながらゴールを守った。12人しかいないのに控えのキーパーがいるはずないのだから。
ただ、キーパーの仕事はゴールを守ることだけではない。味方のディフェンスラインを決定したり、ゴールキックを蹴ったり、前線に指示を送ったり。ぼくはそういうことがまったくできなかった。なにしろオフサイドのルールもなんとなくでしか理解していなかったのだから。
相手シュートをキャッチ → ぼくのミスキックで相手にボールを取られる → シュート → ゴール みたいな点の取られ方が多かった。かくして、ゴールキーパーもクビになった。
ぼくにつきっきりでキーパーのテクニックを教えてくれたコーチは「キャッチングはいいんだけどな……」と残念そうだった。ぼくも残念だった。


ぼくがサッカーチームにいたのは1990年から1994年まで。
人気サッカー漫画『キャプテン翼』の連載が終わったのが1988年、ドーハの悲劇、Jリーグ開幕でサッカーブームが起こったのが1993年。ちょうど谷間の時期だった。
テレビでサッカーを観たことなど一度もなかった。なにしろ放映していなかったのだから。巨人戦が全試合中継され、野球中継延長のためにドラマやバラエティ番組が延長していた時代だ。

世の中がJリーグブームに沸きたち、サッカーチームにも見学者が増えた。相変わらずメンバーは増えなかったが。
そんな中、ぼくのサッカーへの熱は急速に冷めていった。あまのじゃくな性分だから、世間が流行っていると興味をなくしてしまうのだ。
Jリーグが開幕した翌年、ぼくはサッカークラブを辞めた。サッカーのうまい転校生がやってきてチームのメンバーが増えたこともあって「もういいや」という気になった。


ふしぎなもので、サッカーチームを辞めてからサッカーを好きになった。
高校生のときは毎日のように学校帰りに友人たちと公園でサッカーをしていた。制服のままで。
小学生のときはゴロのボールしか蹴れなかったのに、センタリングもいつしかあげられるようになった。フリースローはちゃんと遠くまで飛ばせるようになったし、ボールを持ったら周囲を見渡す余裕も生まれた。
サッカーチームで毎週練習をしていたときはできなかったのに、身体が大きくなったら自然とできるようになっている。ふしぎなものだ。リフティングは今も4回しかできないけど。

うまくなるまで練習をするんじゃなく、楽しめるようサッカーのゲームをする。サッカークラブがそんな方針でやっていたなら、ぼくもサッカーを続けていたかもしれない。

社会人になってからも、何度かフットサルに参加した。元サッカー部にはかなわないけど、それでもそこそこの活躍はできる。
おっさんになってからのサッカーは、技術以上に「どれだけ走れるか」がものをいう。

いろんなプレーができるようになってみると、サッカーは楽しい。
うまい子たちはこんな感覚を味わっていたのか。自分の放ったシュートがゴールの端ぎりぎりに決まったときの感触ったら、魔法でも使ったような気分だ。そりゃ世界中に愛されるスポーツになるわ。

好きこそものの上手なれ。それと同じくらい、上手こそものの好きなれなんだなと思う。

【関連記事】

もうダンス教室やめたい


2018年8月26日日曜日

都合の良い夢を見せるんじゃない!


小説を読んでいて、夢のシーンが出てくるとげんなりする。
おもしろい小説でも夢が出てきたとたんに評価はがた落ちだ。

たとえばこんな描写だ。

 何かに追われていた。薄暗い森の中を走っていた。
 出口は見つからず、走っても走っても暗闇の中だった。木々の茂みに身を隠し、ほっと一息ついたときに背中に息がかかるのを感じた。なぜか後ろをふりかえることができなかった。このまま捕まる、という予感だけが強くあった。

 けたたましい携帯のアラーム音で目が覚めた。
 汗でじっとりと濡れたシャツが背中に張りついて不愉快だった。

はい、へたくそ。
はい、安直。
はい、ダメ小説。

心中描写のために都合の良い夢を見せるんじゃない!
夢に主張をさせるんじゃない!
夢は夢だ。ツールとして使わないでほしい。


「悩みがあるときにその状況を暗示するような夢を登場人物に見せる」という使われ方が多い。
だが、はたして悩んでいるときに悪夢を見るだろうか。

ぼくが悪夢を見るときの状況は、たいてい決まっている。
「激しい運動をしてすごく疲れている」「暑くて寝苦しい」「体調が悪い」など、つまり身体的な疲労があるときだ。

身体が疲れている ⇒ レム睡眠で身体を休める ⇒ 頭は活性しているので夢を見る ⇒ 肉体的な不快感と脳の活性により悪夢を見る

という仕組みだと思う。
逆に、悩みや心配事があるときはノンレム睡眠が多いのであまり夢を見ない。見ても覚えていない。

そういう点でも「悩みごとがある登場人物が暗示的な夢を見る」は嘘くさい。

しかも、すごく単純だ。
嘘をついているときに追われている夢とか、ピンチのときに深い穴に落っこちてゆく夢とか、人を探しているときに探し物が見つからない夢とか、まったくひねりが利いていない。
小説内で夢の描写をするのであれば、これぐらいリアリティを出してほしい。

 祥子はもう見つからないかもしれないと思いながら布団に入った。日中の疲れからか、私はすぐ眠りに落ちた。

 横にいるのは中学校のとき陸上部で一緒だった門倉だ。ラグビーをしているらしい。大事な大会に出場している。私は焦っていた。他の人はみんなユニフォームを着ているのに私だけパジャマのままだ。しかもラグビーのルールがわからない。観客席に死んだはずのおじいちゃんとおばあちゃんがいる。見えないけどなぜかそれがわかる。ボールがまわってきてうまくプレーできなかったら恥ずかしい。私は誰にも見つからないようにそっとラグビーコートから抜けだすことにした。ロッカールームに行くと弁当の時間になった。電車が出発するから急いで弁当を食べないといけない。弁当を食べる前に手を洗わないと、と思った。ついでにトイレにも行きたいな、と思ったところで目が覚めた。尿意を感じた。

 トイレから出たとき、警察署から連絡があった。祥子のものらしき遺体が見つかったとので確認しにきてほしいということだった。

実際、夢ってこんな感じでしょ?


2018年8月24日金曜日

寄附したのに満足感がない


最近、二回寄附をした。

ひとつは、UNHCR(国連難民高等弁務官事務所)への寄附。世界各国の難民援助に使われるのだという。
駅前で寄附を呼びかけていたので、ちょうどシリア難民の本を読んでいたこともあり、月々2,000円ずつ寄附をする手続きをした。

もうひとつは、娘の通っている保育園。
園舎が老朽化しているが保育料だけでは改修・補強費用を捻出するのが厳しいので5,000円の寄附をお願いします、というお便りが来た。5,000円を支払った。

どちらも自分で意志でしたことだ。お願いはされたが断っても良かった。
でも、少しでも貢献できるなら、という思いで寄附をした。自己満足のためだ。

しかしどうも満足感が得られない。自己満足のためにやったのに。
後悔しているわけではないが、「やった! いいことした! ぼくえらい!」という感触が得られない。

「おかげで難民の家族で二ヶ月分食べていく食糧が手に入りました」
 とか
「保育園の階段のこのくずれかけていた部分は〇〇さんの寄附金で修復しました」
 みたいな成果がわかりやすく目に見えればいいんだけど。

が、まあそれはむりな話だ。
難民がぼくと会うことはないだろうし、難民だっていちいち寄附した人に感謝なんかしてないだろう。ぼくも道路を歩くたびに納税者に感謝なんかしない。


思うに、何ももらえないのが「満足感のなさ」につながっている気がする。
いや寄附ってそういうもんでしょと言われたらそれまでなんだけど、やっぱり何かほしい。

「寄附してない人と寄附した人が同じ」ってのが嫌なんだろうな。なんか損した気分になる。

市場経済にどっぷり浸かって暮らしているぼくとしては、お金を払った以上は何かもらいたい。品物なりサービスなり。
「何ももらえないけど2,000円寄附する」よりも「UNHCR限定ボールペンを3,000円で買う」のほうが心理的抵抗が少ない。100円で売ってるような安いボールペンでもいいから。
ほら、赤い羽根共同募金みたいなの。あんなんでいいのよ。赤い羽根。あんなのべつにいらないでしょ? あんなのつけてるの小学生と代議士だけでしょ。でもあれをもらえることで、寄附への抵抗がぐっと下がる。

海外の映画を観ていると、子どもたちが「恵まれない子どもたちのためにクッキーを買ってください」なんて言いながら家をまわるシーンが出てくる。
あれ、すごくいい。「寄附してくれ」じゃなくて「クッキー買って」というのがいい。あれならお願いする側も卑屈にならなくてすむし、お願いされる側も応えやすい。
ハロウィンのトリックオアトリートとかどうでもいいから、ああいう習慣を日本でも取り入れたらいいと思う。


「いやいや見返りがないからこそ寄附という行為は価値があるのだ」と高邁な精神をお持ちの方はいうかもしれないけど、ぼくみたいな俗物はやっぱり見返りがほしいんだよ。
ああ、小さい人間さ。


2018年8月23日木曜日

【読書感想文】殺し屋.comという名発明/曽根 圭介『暗殺競売』


暗殺競売

曽根 圭介

内容(e-honより)
副業で殺しを請け負う刑事、佐分利吾郎。認知症の殺し屋のアカウントを乗っ取ったホームヘルパーの女。成功率100%、伝説の凄腕殺し屋ジャッカル。闇の“組織”へと肉迫する探偵、君島。暗殺専門サイト“殺し屋.com”をめぐり、窮地に追い込まれてゆく彼らを待ち受けるのは、希望か、破滅か。日本ホラー小説大賞、江戸川乱歩賞、日本推理作家協会賞、史上初の3冠を達成した異才が放つ、奇想天外の殺し屋エンタテインメント!

まずどうでもいいことを書くと、表紙が嫌いだ。文字の縦横比率をつぶすのがイヤなんだよね。見ていてすごく気持ち悪い。

それはそうと、本文はおもしろかった。曽根圭介氏らしい「よく作りこまれているけどでもちょっとゆるいサスペンス」という感じ。
曽根圭介作品って粗だらけなんだよね。伏線は回収するけど手つかずのまま残すものもあるし、会話はハードボイルド風で現実離れしてるし、キャラクターはステレオタイプだし。

でもぼくは好きなんだよね。小説としてはうまくないけど、それが逆にストーリー運びの邪魔をしてなくていい。漫画的だから漫画化すればすごくおもしろくなりそう。
乾いた残酷さやブラックユーモアも好み。警察署のマスコットキャラクターが「パクルくん」とか殺し屋向け暗殺道具のオンラインショップが「昇天市場」とか。

"殺し屋.com" というサイトが小道具として登場する。
殺し屋.comにはターゲット・殺し方・期日などを指定した暗殺依頼が掲載されており、会員である殺し屋たちが案件入札をする。逆オークション形式で、いちばん安い値をつけた殺し屋が落札。暗殺に成功すれば入札した報酬がもらえ、失敗すれば運営組織から追われることになる。
これ、なかなかいい仕組みだよね。金を払ってでも殺しを依頼したい人と金のためなら殺人をしてもいい人をマッチングするサービス。運営者は手数料で稼げるし、同時に運営している"昇天市場"で銃やスタンガンを売ることでも利益が出る。いやあ、いい仕組みだ。非合法ということを除けば。
ただ、暗殺に失敗した場合に組織から残虐な殺され方をするってのがいまいち腑に落ちない。そんなことしても組織にはコストがかかるだけでメリットないのに。「失敗したときは報酬を受け取れない」だけでいいんじゃないかな。貴重なお客様をわざわざ減らさなくていいのに。

"殺し屋.com"の運営者の正体は最後まで明らかにならない。裏切者への始末の理由もいまいちよくわからない。いろんな謎が残されたまま物語は終わってしまう。
"殺し屋.com"はいいアイデアだから、もしかしたらこの設定を活かした続編もあるのか……?


【関連記事】

【読書感想文】曽根 圭介『鼻』

【読書感想文】曽根 圭介『藁にもすがる獣たち』

陰惨なのに軽妙/曽根 圭介『熱帯夜』【読書感想】

冤罪は必ず起こる/曽根 圭介『図地反転』【読者感想】



 その他の読書感想文はこちら



2018年8月22日水曜日

替えどきがわからない


「爪伸びてるね」と人から言われる。
「髪伸びてきたね」と人から言われる。

言われてようやく気づく。自分ではなかなか気がつかない。

切り替えるタイミングが人より遅いようだ。
ぼくの歯ブラシはだいたいボロボロだ。古いのを捨てて新しいのに替えるタイミングがわからず、ヤスデの脚のように左右に広がりきった歯ブラシを使いつづけてしまう。

パンツを買い替えるタイミングもわからない。靴下のように穴が開いてくれたらそれを機に捨てられるのだけれど、靴下とちがってパンツはめったに破れない。粗相をしてしまうことでもないかぎり、「今こそ買い替えどき!」とならない。

靴も履きつづけてしまう。もう皺が寄って変色して、見た目はずいぶんボロくなっているが、足を守るという機能的には問題ないので捨てられない。

以前は「ものもちがいい」という美徳によるものだと思っていたが、「爪を切るのが遅い」「髪を切るのが遅い」と同じく、切り替えるタイミングがわからないだけなのではないかと気づいた。三十歳を過ぎてから気づくのだから、これに気づくのも遅い。

身のまわりのことに、極力脳のリソースを使わないようにしているせいかもしれない。「そろそろ歯ブラシ買い替えたほうがいいかな?」と考えるのは疲れる。昨日と同じ歯ブラシを使っていれば頭を使わなくて済む。

明日も今日と同じ日でありますように。今日と同じ髪の長さ、爪の長さでいられますように。


2018年8月21日火曜日

親が子に伝えること


子どもに伝えたいことはたくさんある。

でもそれってだいたいかつて自分の親に言われたことだ。

親から口うるさく言われて、でも聞き流して、大人になってから「ちゃんと聞いときゃよかった」と思う。

背筋を伸ばして座りなさいとか、ちゃんと歯みがきしなさいとか、使い終わったら元あったところに片付けなさいとか、他人の失敗は許してやりなさいとか。

言われるたびに「あー、はいはい」と聞き流していた。


娘に「まっすぐ座ってね」「他人ができてないことは言わなくていいから自分のことをやりなさい」と言うたびに、かつて同じことを言われていたことを思いだし、ぼくが伝えていることもどうせ聞き流されるんだろうなと思う。

無駄だろなーと思いながら、でも一応言う。
せめて、娘が自分の子を持ったときにぼくの言葉をちょっとでも思いだしてくれればいいなと思いながら。


2018年8月20日月曜日

わかんないやつほど原因を知りたがる


以前の会社で、Web事業部という部署にいた。
ホームページの運営や広告の運用を担当する部署なのだが、営業職や事務職の人からすると「なにやらパソコンに強い人たち」というぐらいの認識しかなく、かなり専門外の質問をぶつけられた。
Excelの使い方を訊かれたり「Windowsの更新の案内が出てるけどこれって更新してもいいんですかね」と訊かれたり。
OfficeやWindowsの使い方はWebじゃねえよと思うんだけど、違いを説明するのもめんどくさいので、わかる範囲で教えてやった。

だがそういうバカはすぐに調子に乗るので、こっちがわざわざ業務の手を止めて善意で教えてやっているということを忘れて「早く教えてくださいよ」みたいな言い方もされた。
ぼくは優しくないので、せいいっぱい優しい声を作って
「ブラウザ、わかりますか? あなたがインターネットと読んでいるやつです。それでYahoo!でもGoogleでも開いてもらって、検索窓に『エクセル、スペース、平均』と入力してください。そしたらわかります」
なんて教えてやっていた。要するに「ググレカス」を丁寧に言っていただけなんだが。


ひどいやつだと「なんかFAXが送れなくなったんですけど、見てもらえます?」とか言ってきた。さすがにそのときはいつも心の中に押しとどめている「知らねえよ」という言葉が外に漏れた。
なんならWeb事業部がいちばんFAX使わない部署だからね。基本的に紙でやりとりしないんだから。
そのうち水道修理とか頼まれるんじゃないだろうか、と思っていた。「Web事業部なんだから水道のことぐらいわかるでしょ」なんて。


ときどき、社内で使っている顧客管理システムがダウンすることがあった。
そのシステムは外部業者に保守委託していたものだが、営業の連中はそんなことわからないから「顧客管理システムが開けない! Web事業部なにやってんだ!」みたいな怒りの電話をかけてきた。

知らねえよ、と思うのだけれど一応委託会社に「サーバーが落ちているようなので確認と復旧をお願いします」と電話を入れる。
その間にも、全国各地の営業部から電話がかかってくる。
その電話の内容にずいぶん差があった。

まれに営業部にも優秀な人はいて、そういう人は
「顧客管理システムにつながらないようですが、そちらでもですか。では委託会社側の問題ですね。いつぐらいに復旧しそうかわかりますか? そうですか、では他の作業を進めますので復旧したら連絡お願いします」
と、必要最小限のことを伝えてその状況下でできることをおこなっていた。

一方、わからないやつほど原因を知りたがる。
「なんかファイルが開かないんですけど、これってなんでですか? 動かなくなった原因はなんですか? どうやったら直るんですか?」
原因も修復方法もこっちは知ったこっちゃないし、それを今専門家が調べてるんだろうし、仮にわかったとしてそれをおまえに伝えて一ミリでも解決に近づくとは思えない。
わかんないやつほど、原因や対応方法を知りたがった。


行政機関や大学でトラブルや不祥事があると、抗議や質問の電話がひっきりなしにかかってくると聞く。体験したことはないが、迷惑この上ないだろう。
賭けてもいいが、電話をかけてくるやつの中に専門知識を持っている人はひとりもいないだろう。
専門家ほど知っているからだ、専門分野に素人が口を出して良くなることなどひとつもないと。
仮にあったとしても、それは今ではない。
問題がひと段落したときに改善策や防止策を話し合う上では「素人目線の意見」もひとつの参考になるかもしれないが、問題の解決に当たっている最中に素人意見はじゃまになるだけだ。

それに、抗議の電話を聞かなくてはならないのはまず問題の当事者ではなくただの窓口の人だ。何も知らない場合がほとんどだろう。
偉い人がやらかした問題に対して、ど素人が部外者に抗議をする。なんて不毛なんだ。

テレビのニュースでも「なぜこのような不祥事が起きたのか」なんて検証をやっているが、テレビのニュースはそんなことやらなくていい。
起こったことだけを淡々と伝えてくれればいい。原因を追究して再発防止策を講じるのはニュースキャスターの仕事でも視聴者の仕事でもない。

なんとなくわかった気になってすっきりしたいという気持ちもわかるけど、部外者の「原因追及」は問題解決を遠ざけているだけにしか見えない。


2018年8月19日日曜日

意地悪をしない男の子


四歳の娘は保育園でいろんな男の子と仲良くしている。
元気な子、おとなしい子、やかましい子、恥ずかしがりやな子、いろんなタイプがいるけれど、共通しているのは「優しい子」という性質だ。

優しいというより「意地悪をしない子」。

あたりまえなんだけど、意地悪をしてくる子は嫌い。


そのあたりまえのことに気づくのに、ぼくは二十年以上かかった。
子どもの頃、学生の頃。ずっと女の子に意地悪をしていた。好きな子にも、そうでない子にも。

もちろんモテなかった。バレンタインデーに母と姉以外からチョコレートをもらったことがない。

モテるためには「かっこいい」とか「おもしろい」とか「スポーツができる」とかいろんな要素があるけど、「意地悪をしない」はモテる条件というより、最低限クリアしないといけないハードルなのだと今にして気づく。


2018年8月18日土曜日

【映画感想】『インクレディブル・ファミリー』


『インクレディブル・ファミリー』

内容(Disney Movieより)
 悪と戦い、人々を守ってきたヒーローたち。だが、その驚異的なパワーに非難の声が高まり、彼らはその活動を禁じられていた……。
 そんなある日、かつてヒーロー界のスターだったボブとその家族のもとに、復活をかけたミッションが舞い込む。だがミッションを任されたのは――なんと妻のヘレンだった!留守を預かることになった伝説の元ヒーロー、ボブは、慣れない家事・育児に悪戦苦闘。しかも、赤ちゃんジャック・ジャックの驚きのスーパーパワーが覚醒し……。
 一方、ミッション遂行中のヘレンは“ある事件”と遭遇する。そこには、全世界を恐怖に陥れる陰謀が!ヘレンの身にも危険が迫る!果たして、ボブたちヒーロー家族と世界の運命は!?

(『インクレディブル・ファミリー』および『Mr.インクレディブル』のネタバレを含みます)

『インクレディブル・ファミリー』を劇場にて鑑賞。映画館に行くのは数年ぶり。娘が生まれてから遠ざかっていたのだけれど、娘も長めの映画を楽しめるようになってきたので一緒に鑑賞。五歳児も楽しんでいた。

ぼくはピクサーの作品はほとんど観たのだが、その中でも『Mr.インクレディブル』は『トイ・ストーリー』シリーズに次いで好きだ。
なにがいいって、わざとらしく感動を狙いにいってないのがいい。お涙ちょうだいだけが感動じゃないということをピクサーはよくわかっている。

そんな『Mr.インクレディブル』の続編、『インクレディブル・ファミリー』。
たいてい続編って一作目の数年後から物語からはじまるものだが、『インクレディブル・ファミリー』は『Mr.インクレディブル』の一秒後からはじまる。ほんとに続編。連続して見てもほとんど違和感がないだろう。

ただテイストは一作目とはけっこう異なる。エンタテインメントに大きく舵を切ったな、という印象。
『Mr.インクレディブル』は「スーパーヒーローの悲哀」というユニークなテーマを丁寧に描いているしストーリーもよくできているんだけど、ピクサーシリーズの中ではいまひとつ人気がない。かわいいキャラクターも出てこないし、主人公は腹の出た中年男だし(途中で腹をひっこめるけど)、子ども受けする要素が少ない。
子どもにはカーズとかニモのほうがウケがいいんだろうね。

そのへんが課題としてあったのか、『インクレディブル・ファミリー』はアクションシーン多め、暗いシーン少なめ、ギャグ多め、子どもが活躍、赤ちゃんも活躍、派手なキャラクター多め、かっちょいいバイクや車が登場……と、これでもかってぐらい子どもに照準を合わせにいっている。音楽は一作目に続いてかっこいい。
主人公であるボブの心情も描かれているが、『ファミリー』で描かれるそれは「育児が思うようにいかないお父さんの苦悩」と、子どもにも理解しやすい。
『Mr.』で描写されていたような「時代の変化についていけずにかつての栄光を忘れられない中年男の悲哀」のような重苦しく大人の観客の心にのしかかってくるようなものではない。


個人的な好みでいえば『Mr.』のほうが好きなテーマだが、観ていて爽快感があったのは『ファミリー』だった。
『Mr.』では、助けてあげた相手から訴訟を起こされたり、パワーを押さえないといけなかったり、まったく意義の見いだせない仕事で成果を出せなかったり、持って生まれた能力のせいで家族がぎくしゃくしたり、かつて自分を慕ってきた男に苦しめられたりと、なんとも気が滅入る展開が多かった。
その分後半の活劇ではカタルシスが得られるのだが、後半のスッキリ感に比べて前半の鬱屈した展開が長すぎたように思う。

主人公ボブは悪役シンドロームと戦うのだがそれ以上に「世間」と戦っていた。シンドロームには最終的に勝利するのだが、当然ながら世間には勝つことはできない。そのあたりが最後までいまいちスッキリしない理由だったように思う。

『ファミリー』の戦いは誰にも認められない戦いではなく、世の中を味方につける戦いだ。
悪は罪のない人々に危害を及ぼそうとするものであり、主人公一家の戦いは人々や家族を守るための戦いだ。こんなに善なるものがあるだろうか。観客は心から喝采を送ることができる。

続編が作られる作品の場合、一作目は設定を活かしたシンプルなストーリーで二作目はこみいったストーリーという作品が多い。『バック・トゥー・ザ・フューチャー』のように。
ところがインクレディブルシリーズは逆。社会との軋轢や内面の葛藤を描いた一作目から単純明快なアクションドラマに還ることで、一作目の分のモヤモヤまで吹き飛ばすような痛快作品になった。冒頭に「続けて観ても違和感がない」と書いたが、ほんとに『Mr.』と『ファミリー』ふたつでひとつの作品と考えてもいいかもしれない。『Mr.』だけだといまいちスッキリしないんだよね。



『ファミリー』は前作よりもアクションシーン多めの作品だが、ひとりだけアクションシーンが大幅に減っている人物がいる。主人公のMr.インクレディブルだ。

冒頭こそ奮闘するものの結局犯人を取り逃し、その後はほとんどスーパーヒーローとしての活躍の機会は与えられない。
状況打破の機会を与えられてその期待に応えるのは一家のママであるイラスティガールで、敵に囲まれた子どもたちを助けに向かうのは親友フロゾン。Mr.インクレディブルはママを助けに向かうものの何もできぬままあっさり捕まり、子どもたちに助けてもらう始末。最後に敵をぶちのめすのはやはりイラスティガールだ。
パパの役目は「ママが戦う間に家事や育児をする」「ママが戦っている間に市民の安全を守る」というサポート役。

このあたりにも時代性が感じられておもしろい。
Mr.インクレディブルは強いが、他のスーパーヒーローたちとは違いこれといった特殊能力は持っていない。ただ力が強くて打たれ強いという時代遅れのパワー型。
昨今の主人公にはふさわしくない。今どきの少年漫画で「ただ強いだけ」の主人公がどれだけいるだろう。彼らが主人公でいられた時代は『ドラゴンボール』の最終回とともに終わってしまったのだ。

ただ強いだけのヒーローであるがゆえにMr.インクレディブルが作中で世の中から受け入れられず、使いづらいキャラクターとして制作者からも隅に追いやられてしまった。それは「家族の主役でなくなった父親」という姿にぴったり重なる。
男たちは「女は家事、男は外で仕事」といって仕事がたいへんなふりをしてきたけれど、女性が社会進出するにしたがって「効率化すれば仕事はそうたいへんでもない」ということがバレてきた。少なくとも男のほうがうまくできるわけではないということにみんな気づいてしまった。
狩猟生活を送っているうちはでかい顔をできていたのに、社会が機械化されるにしたがって「ただ強いだけの男」は役立たずになった。『ドラゴンボール』の孫悟空が、地球の危機は救うが家庭においては金は稼げないし家事も育児もまるでだめというポンコツっぷりをさらしていたことも象徴的だ。
「勇猛果敢で強いやつ」は平和な世の中には必要ないのだ。

スーパーヒーローとしての華々しい活躍の場が失われただけでなく家庭内での居場所も懸命に模索するMr.インクレディブルの姿は、居場所を失いつつある男性全体を象徴しているようにも見える。
ついでに悪役・スクリーンスレイバーの正体もやはりまた、これまでの男性の社会的ロールを奪うものだ。



時代の変化をなかなか受け入れられないMr.インクレディブルとは対照的に、スーパーヒーロー時代からの旧友であるフロゾンは前作以上の活躍を見せる。彼は「もうヒーローは必要とされていない」という状況をあっさり受け入れているし、その状況の中で自らができることとやってはいけないことを冷静に判断している。
時代の変化と己の立ち位置を把握できる人間はいつだって強い。遺伝生物学の世界では「強い生物とは、力が強い生物でも身体が大きい生物でもなく、変化に適応できたもの」とされているが、スーパーヒーローの条件もまた同じかもしれない。

そんなクールかつクレバーなフロゾンが我が身の危険をかえりみずに友人の子どもたちを助けに行く姿にしびれる。
フロゾン、かっこいいぜ。氷をつくりだす能力、水分がなくなるとエネルギー切れを起こすという制約(前作で見せていた)、冷静さと熱さをあわせもった性格。彼こそが今の時代の主人公向きなんじゃないだろうか。フロゾンを主役に据えたスピンオフ作品も観てみたいなあ。
しかしシニカルな立ち位置といい、恐妻家なところといい、見た目といい、アナゴさんにちょっと似ているよね。



全体的にスカッとする話だったのだが、引っかかったところがひとつだけ。
『Mr.』のラストで街を襲い『ファミリー』の冒頭で銀行強盗に成功して逃げる悪役・アンダーマイナー(モグラみたいなやつ)。
最後にあいつが捕まるんだろうなーと思いながら観ていたら、とうとう最後まで捕まらずじまいだった。ううむ、モヤモヤする。これは伏線の回収忘れなのか、はたまた三作目へとつながる伏線なのか……。


【関連記事】

【芸能鑑賞】 『インサイド ヘッド』



2018年8月17日金曜日

【読書感想文】いちゃつくカップルだらけの世界/『大人もおどろく「夏休み子ども科学電話相談」』


『大人もおどろく
「夏休み子ども科学電話相談」』

NHKラジオセンター「夏休み子ども科学電話相談」制作班

内容(e-honより)
常識にしばられない子どもの多様な質問、そして名だたる先生方の回答が飛び交う番組「夏休み子ども科学電話相談」。ときに身近な現象にひそむ事実にうなり、ときに意外なおもしろさに笑ってしまう、「お話」の数々を再現。楽しみながら科学的な思考法にも触れられる1冊。

NHKラジオで毎年やっている『夏休み子ども科学電話相談』。この番組は聴いたことがないけれど、Twitterなんかでよく話題になっている。
質問も回答もどっちもおもしろいなあと思っていたので、この本を読んでみた。

小学生の素朴な疑問を読むと、そういえばぼくもわかっていたつもりになっていたけど知らなかったことなあと気づかされる。

かき氷を食べたら頭が痛くなることとか、飛行機雲ができることとか、現象としては知っているけど「なぜ?」と訊かれると答えられない。

飛行機雲ができるには温度と湿度の条件がそろっていないといけないとか、言われてみれば納得なんだけど考えたこともなかった。
小学生よりある程度科学的知識を身につけた大人のほうが説明をすっと受け入れられて楽しめるかもしれない。

へえそうなんだと感心したのはこんな話。

  • かき氷を食べて頭が痛くなることを医学用語で「アイスクリーム頭痛」という
  • 地球で最初の生物は宇宙から来たという説も有力(隕石にくっついていたアミノ酸からできた)
  • 植物に優しい言葉をかけても元気にはならないが、植物にふれると強くなる




いちばんおもしろかったのは「好きなのに嫌いと言ってしまうのはどうして?」という質問。

ふうむ。たしかにそうだよねえ。動物はもっと好意を前面に出すのに、人間はなかなか素直になれないよね。
「私はあなたを好きです」をストレートに伝えたほうが恋愛関係も友人関係もうまくいく可能性が上がるだろうに、なかなかそれができない。言われてみればふしぎだ。
ぼくも好きな子に冷たくして何度も後悔した。素直に好きと言える人をうらやましいと思っていた。

この質問に対する答えは「好きという感情を隠しておいたほうが集団はうまくいくことが実験でわかっている」だった。
なるほど、それもわかる。「好き!」を前面に出す人って社会的にアレな人が多いもんね。街中でいちゃつくカップルって不愉快だし。
「〇〇さんが好き!」を全身全霊で表現するってことは、その他の人に「あなたは好きじゃない」って言うのと同じだから社会から疎外されちゃうのかもね。

でもコミュニティがぶっ壊れた破滅的状況においては、コミュニティの維持よりも自身の生殖のほうがずっと大事になるから、「好き!」を前面に出す人が繁栄するかもしれないね。
人目をはばからずにいちゃつくカップルばかりの世の中。いやだなあ……。


【関連記事】

ヒジはどうしてあるの?



 その他の読書感想文はこちら



2018年8月16日木曜日

【読書感想文】日本の農産物は安全だと思っていた/高野 誠鮮・木村 秋則『日本農業再生論 』


『日本農業再生論
「自然栽培」革命で日本は世界一になる!』

高野 誠鮮  木村 秋則

内容(e-honより)
東京オリンピックに自然栽培の食材を!農産物輸出大国の切り札、ここにあり!「奇跡のリンゴ」を作った男・木村秋則と、「ローマ法王に米を食べさせた男」・高野誠鮮の二人が、往復書簡のやりとりで日本の農業の未来を語り尽くした刺激的対論集!

木村秋則さんについて書かれた『奇跡のリンゴ』も高野誠鮮さんが書いた『ローマ法王に米を食べさせた男』もめちゃくちゃおもしろかった。どちらもぼくが2017年に読んだ本の中でトップ10に入るぐらい刺激的だった。
そんなふたりの対論(往復書簡のような感じで交互に自論を展開していく)なんだからおもしろくないわけがない。正直言って『奇跡のリンゴ』や『ローマ法王に~』の焼き直しの記述も多かったのでその二作を読んでいたぼくにとっては退屈だったけど、それ以外はおもしろかった。

日本の農業の置かれている状況とこれから進んでゆく道を、世界ではじめてリンゴの自然栽培に成功させた人と、限界集落を救ったスーパー公務員が指し示している。
ふたりともすごく前向きな人なので「なるほど、そのとおりにしたら日本の農業の将来は明るいな!」という気になる。
ぼくは素人なのでじっさいに農業をやっている人からすると「そんなかんたんにいくもんか」と言いたくなるんだろうけど、でも不可能といわれていることを可能にしたふたりが言うんだからふしぎな説得力がある。



日本の農産物は安全だと思っていた。
外国の農業は農薬たっぷりの大規模農業、日本は厳しい規制下で安全な野菜や果物を作っているのだと。
ところがどうもそうではないらしい。日本の農産物だからって安全ではない、むしろ諸外国に比べてはるかに安全性に劣るものが売られている状況もあるのだと。
 日本は、農薬の使用量がとりわけ高い。平成22(2010)年までのデータによると上から中国、日本、韓国、オランダ、イタリア、フランスの順で、単位面積あたりの農薬使用量は、アメリカの約7倍もあります。
 残留農薬のある野菜を食べ続けると体内に蓄積されていって、めまいや吐き気、皮膚のかぶれや発熱を引き起こすなど、人体に悪影響を及ぼすとされています。
 日本の食材は世界から見ると信頼度は非常に低く、下の下、問題外。
 もう日本人だけなの。日本の食材が安全だと思っているのは。
 ヨーロッパの知り合いから聞いた話ですが、日本に渡航する際、このようなパンフレットを渡されたそうです。「日本へ旅行する皆さんへ。日本は農薬の使用量が極めて多いので、旅行した際にはできるだけ野菜を食べないようにしてください。あなたの健康を害するおそれがあります」
日本が製造分野では没落したってことは最近ようやく受け入れられるようになってきたけど(まだ受け入れていない人もいるけど)、農業分野では世界最高峰だと思っている人も多いんじゃないだろうか。ぼくもそうだった。

そうか、日本の農産物っていいものではないのか。当然質の高いものはあるんだろうが、悪いものをはじく仕組みが整備されていないようだ。
それは個々の農家の責任というより、日本政府やJAのせいなんだろうけど。

知らなきゃよかった、とすら思う。国産野菜をありがたがって幸せに暮らせたのに。いやそれって幸せなんだろうか。



アメリカの種苗会社であるモンサント社の名前が出てくる。
堤未果『(株)貧困大国アメリカ』でも書かれていた。世界中の農業を牛耳ってるとも言われている会社だ。
ここが遺伝子改良によって作った、作物の形や大きさが均一になるF1種という種や、種子を作らない一代限りの種。それが世界中で使われている。世界中で均一のものが食べられているということは何かがあったときに一斉に問題が起こるということだし、一代限りで種をつけないということは農家は毎年モンサント社から種子を買わないといけないということだ。もしも買えなくなったら翌年からは作物を作れないわけだから言われるがままにせざるをえなくなる。

工業製品ならともかく、農産物は「急にすべて作れなくなりました」ってわけにはいかないものだから、たとえ高かったり不便だったりしてもリスク分散しておかないといけないと思うんだけどね。国の施策として。



今の農業は、ほとんど農薬と化学肥料の上に成り立っている。だけどそれはチャンスなんだと木村さんも高野さんも書いている。
日本が世界に先駆けて自然農法を確立して「日本の農産物は安全」というイメージを世界中に知らしめることができればTPPにも勝てるし経済にも大きな貢献ができると。

そのために高野さんは政治家にも働きかけをしている。ただ、そこに出てくる名前は地方創生担当大臣だった石破茂氏や首相夫人だった安倍昭恵氏。うーん、数年前なら良かったんだろうけど、今や石破さんは党内でも冷や飯を食わされて、安倍昭恵氏にいたっては交流があることがマイナスイメージにしかならない人になっちゃったしな……。つくづく高野さんも近づく政治家の引きが悪いな。

だけど、そうじゃなくても日本が国を挙げて自然農法に力を入れていくかっていったらむずかしいとぼくは思うなあ。
なぜなら「日本は工業化で成功した」という成功体験があるから。個人も国家も、半端な成功体験があるとそれを捨てて新しいことにチャレンジできなくなっちゃうんだよね。トップ企業がいつまでもトップでいられない理由がそこにある。
日本は時代遅れになったガソリン自動車産業を守ろうとして国家ごと没落してゆくような気がしてならない。アメリカもちょっとそうなってるし。
何も失うものがない状態だったら「よっしゃこれからは自然農法だ!」ってこともできるんだろうけどね。

でもこんな水を差すようなことばかり書いていたら、「可能性の無視は最大の悪策」とくりかえし書いている高野さんに怒られそうなのでやめとこう。なんとかなる、いや、なんとかできるでしょう。そう信じたい。



木村さんがこんな話を書いている。
 仲間を増やすと言えば、以前、少年院で農業指導をしたことがありました。12歳以上16歳未満の子どもたちがいる初等少年院です。
 少年院では子どもたちに革加工品などを作らせているけれど、今はあまり売れないそうです。少年院を出ると自動車の修理工場で働くことを希望する子どもたちが多いけれど、彼らを受け入れるところがあまりないし、工場に行ったら行ったで周囲の冷たい目で、1ヵ月もてばいいほうだって。
 けれど農業は基本的に個人経営です。ならば農業をやってみるのはどうかと院長さんが思いついて、私に声がかかったんですよ。
これ、すごくいいと思う。
ぼくは今のところ少年院にも刑務所にも入ったことないけど、刑務所での作業ってすごく時代遅れだと聞く。何十年も前のやり方で椅子や机を作っていたりとか。そんなもの外の世界に出て働くのに何の役にも立たない。せいぜい日曜大工ができるようになるぐらいだ。
かといって刑務所内でパソコンを教えるというのもむずかしいだろう。まず数学から教えないといけなかったりするし。
元受刑者がちゃんとした仕事につけなければ再犯に走る可能性が高まるわけで、それは受刑者当人にとっても社会にとっても良くない。

その点、農業、それも自然農法は刑務所内で習得するスキルとして適している。
自然農法だったら基本的に何十年たっても根幹は変わらないので知識や技術が古くなりにくい。土地さえあれば他人に雇ってもらわなくてもできる。土地は休耕地がたくさんある。
少年院や刑務所から出た人がこれから世界の農業を牽引する(かもしれない)自然農法をやるというのは、「成功体験がある人ほど新しいことにチャレンジしにくい」の真反対なのですごく相性がいいんじゃないだろうか。

あとは他の農家から村八分にされないかだけど、それがいちばんむずかしそうだな……。


【関連記事】

驚異の行動力をもった公務員/高野 誠鮮『ローマ法王に米を食べさせた男』【読書感想】

ニュートンやダーウィンと並べてもいい人/『奇跡のリンゴ 「絶対不可能」を覆した農家 木村秋則の記録』【読書感想】



 その他の読書感想文はこちら



2018年8月15日水曜日

今どきの誕生日の内訳


娘の保育園のクラスには17人の園児がいる。
誕生日の内訳は以下の通りだ。

 4 ~  6月 …… 8人
 7 ~  9月 …… 4人
10 ~ 12月 …… 3人
 1 ~  3月 …… 2人

すごくバランスが悪い。
明らかに学年の前半に集中している。

みんな、いつ産んだらいいか考えながら産んでいるからだ。

生後2ヶ月たたないと保育園は預かってくれないので、2月以降に生まれた子は0歳児クラスに預けることができない。
また、1歳児クラスから預けるにしても、そのためには親が仕事復帰している必要がある。
4月生まれと3月生まれでは、職場復帰するときの負担がぜんぜん違う。生後1年の子と生後1年11ヶ月の子の能力は、5歳と20歳ぐらいの開きがある。
産んだ母親の身体だって、産後1年11ヶ月のほうがずっと快復しているだろう。

そういうわけで、みんな「いつ産むか」「そのためにはいつ頃仕込まないといけないか」を考えて子作りをしているのだろう。その結果、5~8月に誕生日が集中することになる(ちなみに4月生まれも少ない。少し計算とずれると3月生まれになってしまうからだ)。

交尾、妊娠、出産というきわめて動物的なおこないですら行政の事情にあわせてコントロールしなきゃいけないなんて、なんだかなあ。
しゃあないんだけど、1月生まれのぼくとしては寂しいかぎり。


2018年8月13日月曜日

日本讃歌


すばらしい国、日本。


ぼくらはお金持ち。
これまでそうだったから今後もお金持ちでいなくちゃね。
お金がないと生きていけないからね。お金のためなら死んでもいいよね。
ぼくらはお金持ち。お金を稼げない人は死ぬ気でがんばってないんだね。


ぼくらは正しい。
起訴されたら有罪率99%以上。だって正しいんだからね。
ぼくらは正しいから間違いを犯さない。間違いを犯さないから正しい。
ぼくらは正しい。間違いを指摘することが間違いだよ。


ぼくらは楽しい。
オリンピック、万博、カジノ。楽しいことばかり。
すべては気の持ちよう。総活躍できる労働、プレミアムな労働、高度でプロフェッショナルな労働。
ぼくらは楽しい。楽しめない人は日本が嫌いなの?


ぼくらは安心。
クリーンなエネルギー、民間が安く提供してくれる水、守ってくれる兵器。
怖いことは考えないようにすればいつでも安心。
ぼくらは安心。安心のためならリスクはやむをえないよね。


ぼくらは仲良し。
いつでも一緒。みんなと違うことをするやつは許さない。
同じ文化を好きになって、同じ敵を憎んで仲良く暮らそう。
ぼくらは仲良し。仲良しになろうとしない人はあっちに行ってね。


ぼくらは寛容。
嘘をついても隠蔽しても訴えないよ。
結果人が死んでも責任とれなんて言わないよ。ハラスメントだって許しちゃう。
ぼくらは寛容。寛容じゃないやつは許さない。


ぼくらは自由。
労働と家事と子育てを両立してもいいし、法律を無視して働いてもいいし、その結果死んだっていいよ。
がんばれと言うことしかできないけど、心の中で応援してるよ。
自由だから何してもいいんだよ。自由を奪われない範囲でね。



2018年8月11日土曜日

差別かそうじゃないかを線引きするたったひとつの基準


東京医科大の入試で女子の合格者を抑える得点操作が行われていたことが話題になっている。
8月7日に会見した東京医大内部調査委員会によると、2018年度の一般入試・二次試験の小論文(100点満点)において、女子と3浪以上の男子受験生の合格者が少なくなるよう、点数が操作されていた。
具体的には、受験者全員の点数に0.8をかけて減点した上で、現役〜2浪男子には20点を加点、3浪男子に10点を加点。女子受験者と4浪男子には、加点していなかった。
(BuzzFeed News『女性医師の割合は、先進国で最も低い。東京医大問題の背景にある6つのこと』)

これは良くない。ほとんどの人がそう思うだろう。ダメなところがいっぱいありすぎるから。
でも「どこまでがダメか」と思うかは人それぞれではないだろうか。



1.事前に公表していてもダメか?


東京医科大学は、受験者には知らせずにこっそり点数に手を加えていた。これはよくない。
では、あらかじめ募集要項で
「女子は点数を引きます。2浪以内の男子は加点しますが3浪以上なら加点しません」
と明記していたらどうだろうか?

「それなら大学側の自由」と思う人の割合は、非公表の場合に比べて若干増えるだろう。

「それでも女性の点数を引くことは許されない!」という人に次の質問。



2.事前に公表 & 減点ではなく拒否だったらダメか?


あらかじめ募集要項で
「女子は受け入れません」
と明記していたらどうだろうか?

これはつまり、今ある女子大や男子校がやっていることだ。
「事前に公表していたとしても女子を減点・排除してはいけない!」という人は、「お茶の水女子大学は性差別をしている」と思うだろうか。

日本でもっとも多くの東大や医学部の合格者数を出している高校は開成高校、合格率でいうと灘高校がトップだそうだ。どちらも男子校だ。
これらの高校は「日本でいちばんレベルの高い高校で学びたい」と願う女子を排除していることになるが、それも許されないだろうか?

「男子校や女子校、女子大学はいいんじゃない? 生徒にとってもメリットがあるんだし」と思うだろうか。そんな人には次の質問。




3.白人校、黒人校は許されるか?


アメリカで、黒人は受け入れない白人校、黒人だけの黒人校をつくることは許されるだろうか?
強制的な分離ではない。誰でも通っていい学校を残した上での措置である。
白人なら「人種共学校と白人校を選べる」、黒人なら「人種共学校と黒人校を選べる」という状況。今の日本で「共学校 or 男子校」「共学校 or 女子校」を選べるのと同じだ。
「特定の人種だけが通える学校は生徒にとってもメリットがある」という理屈をひねりだすことは可能だ。差別されないとか自信が生まれるとか。それでも許されないだろうか。

人種も性別も「自分では選択できない属性である」という点では同じである。男子校や女子校が許されるなら、白人校や黒人校も容認されなくてはならない(経営的に成り立つかどうかはおいといて)。
でも「白人だけの学校を作る」ことには眉をひそめる人が多いのではないだろうか。そんな人に次の質問。



4.日本人学校、朝鮮学校は許されるか?


外国にある日本人学校、日本にある朝鮮学校は許されるだろうか?
特定の人種だけの学校という点では、白人校黒人校と同じだ。白人校が許されないのであれば日本人学校や朝鮮学校も差別となる。
「白人が白人ことばを学ぶ学校を作ります」と「日本人が日本語を学ぶ学校を作ります」は別物だろうか?

話が元の位置から遠くに来てしまった。男女問題の話に戻そう。



5.スポーツで男女を分けることは差別ではないか?


オリンピック競技はポロ以外はすべて男女に分かれている。男女で分かれていないプロスポーツをぼくは知らない。テニスなどには男女ペアという種目もあるが、あれに男子同士、女子同士のペアが出ることはできないので男女で線を引いていることに変わりはない。

「男女は体格も筋力も違うんだからあたりまえじゃないか」というかもしれない。
でもそれって平均の話、傾向の話だ。属性ごとの平均や傾向によって分ける、それこそが差別じゃないの?

男より大きい女も、女より力のない男もたくさんいる。
個々の能力を無視して平均的な傾向から「男は女より体力や筋力があるから女子マラソンに男子が出てはいけない」とするのは、「男子のほうがが体力があって理系的思考が得意だから医科大学から女子を排除してもよい」「〇〇地域出身者は犯罪者になる可能性が高いから我が社では採用しない」というのと同じではないだろうか。



じゃあ差別の基準ってどこにあるの?


ちゃんとした調査をしたわけではないが、現代日本人の多数派の感覚としては
「医科大学の入試で女子だけ減点するのはダメ」
「男子校や女子大はOK」
「白人校や黒人校はダメ」
「日本人学校や朝鮮学校はOK」
「スポーツで男女別に分けるのはOK」
「就職時に出身地で差別するのはダメ」
ではないだろうか。
「どっちですか?」と訊かれて直感で答えたら、ぼくの答えもそうなる。

こうして見てみると、OKなものとダメなものに論理的な線引きはない。
あるのはただひとつ、

「今あるものはOK、これまでなかった or 既に廃止になったものはダメ」

という基準だけだよね?


2018年8月10日金曜日

【読書感想文】三半規管がくらくらするような小説/小林 泰三 『玩具修理者』


『玩具修理者』

小林 泰三 

内容(e-honより)
玩具修理者は何でも直してくれる。独楽でも、凧でも、ラジコンカーでも…死んだ猫だって。壊れたものを一旦すべてバラバラにして、一瞬の掛け声とともに。ある日、私は弟を過って死なせてしまう。親に知られぬうちにどうにかしなければ。私は弟を玩具修理者の所へ持って行く…。現実なのか妄想なのか、生きているのか死んでいるのか―その狭間に奇妙な世界を紡ぎ上げ、全選考委員の圧倒的支持を得た第2回日本ホラー小説大賞短編賞受賞作品。

『玩具修理者』『酔歩する男』の短篇中篇を収録。





『玩具修理者』


何でも直してくれる”玩具修理者”のもとに、死なせてしまった弟を連れてゆく表題作。
「死んだ人を生き返らせるというのはホラーではわりとよくある題材で、たいていはろくなことにならない。身体が腐ってしまったり心が失われてしまったり。『玩具修理者』もそういう展開かな、と思いながら読んでいたらちょっと意外なオチ。
なるほどー。突拍子がないわけではないが想定の枠内から漏れていた。鮮やかなオチだった。
お手本のような短篇ホラーだった。



『酔歩する男』


手児奈伝説(Wikipedia)を下敷きにしたSFホラー。シュレディンガーの猫、波動関数の収束、なんておよそホラーっぽくない単語も出てきて、ホラーというよりSFのほうが強い。いつ怖くなるんだろうと思って読んでたら、とうとう最後まで怖くならなかった。気持ち悪い話ではあるけれど。

時間は連続体じゃない、タイムトリップは能力ではなく「時間を連続体と思いこむ能力」の欠如だ、なんて着想はおもしろかったなあ。
小説に大事な能力って「いかに上手にほらを吹けるか」だと思ってるんだけど、これはじつに見事なほら話だった。




ファンタジーホラーとハードSFという対極のような2篇を収録しているのがおもしろい。
Amazonで感想を見てみたら「『玩具修理者』はおもしろかったけど『酔歩する男は』……」と「『酔歩』は良かった『玩具』はイマイチ」という意見に分かれていた。そりゃそうだろう、ぜんぜんテイストがちがうもの。

ぼくはどっちもそれぞれ楽しめたが、どっちかっていうと『酔歩する男』のほうが後まで引きずる感じでよかった。はたして昨日の自分は自分なのか、明日もそうなのかと考えてしまう、三半規管がくらくらするような小説だった。


【関連記事】

【読書感想】恒川 光太郎 『夜市』



 その他の読書感想文はこちら


2018年8月9日木曜日

【DVD感想】バカリズムライブ『ぎ』


バカリズムライブ『ぎ』

内容紹介(Amazonより)
脚本やCM、ナレーションなど様々な分野でマルチな才能を発揮するピン芸人・バカリズムが、5月に赤坂・草月ホールで行った単独ライブを映像化。作、主演、演出だけでなく作詞までも自身で手掛け、独自の感性で作り上げた最新ネタを披露する。


・オープニング


『ぎ』というライブタイトルについての語り。
『ぎ』ではなく他の文字でもよかった、ただし『ぬ』はだめだ、あえてマニアックな文字を選ぶセンスのアピールがダサいから、しかし『の』は優しい、と独特の主張をおこなうバカリズム。トークから「バカリズムライブを擬人化する」というメタな構成のひとり芝居につながってゆき……。

『ぬ』や『ぺ』や『あ』はタイトルにふさわしくないという主張、論理的に説明できないけど感覚的にはよくわかる。たしかに『ぬ』だったら狙いが見え透いていてダサいよね。
はじめて「ゆず」というアーティスト名を知ったときに「うわあ、あえてかっこよさを目指してませんよっていうアピールが透けて見えてかえってダサいなあ」と感じたのを思いだした。


・(オープニングアニメーション)


「ぎ」の文字が流れてゆく映像と「ぎ」だけの歌詞の歌が流れるアニメーション。


・『過ぎてゆく時間の中で』


余命を教えてくれ、もう覚悟はできているからと医者に懇願する患者。
意外な余命を告げられ、残された時間の中で何ができるかと慌てだし……。
「大型連休の話じゃないですよね?」
「茹で時間の話じゃないですよね?」

演技力の高さが光るコント。コントというより喜劇といったほうがいいかもしれない。芝居として見入ってしまった。


・(幕間アニメーション)『ギガ』


電器屋に「溶けるスマホ」を探しにきた客と店員のやりとり。


・『難儀と律儀』


レストランにてひたすら長いメニューを注文する客。

これはちょっとイマイチだったなあ。幕間映像でもよかったような。


・(幕間アニメーション)『銀』


地球外生命体にしか見えない友人の告白「じつは他の……」


・『ふしぎ』


某テレビ番組のカメラリハーサル中に、「草野」役のスタッフが「黒柳」役や「まことくん」役のスタッフを叱りはじめる。

コントの仕掛けとしてはシンプルだが「足のくさいホランさん」「金に汚いLiLiCoさん」といったフレーズや、某番組のテーマ曲の使い方が絶妙。


・(幕間アニメーション)『卒業』


なにかになることが夢だと語る青年。
「どこかの誰かが何者かになにかされてどうにかなっちゃうの」


・『の?』


今回のライブでを唯一「ぎ」がつかないコント。
のんが、ぬンターネット、にソコン、ぬレステ4のある「のんが喫茶」が舞台。

うーん、次の展開がほしかったな。これは期待はずれ。


・(幕間アニメーション)『律儀』


区役所への行き方を尋ねる、区役所というあだ名をつけられる方法を尋ねられる……。


・『六本木の女王』


どMの男がデリバリー女王様を呼んだら、なぜか中年の男がやってきて……。

これは好きなコント。いい発想だなあ。「村上春樹」という小道具も絶妙。品のある中年男性にふさわしいチョイスだよね。


・(幕間アニメーション)『疑惑の螺旋』


日曜の朝にテレビ局がしゃあなしでやっているような番組『月刊テレビ批判』。とあるサスペンス番組に寄せられた苦情を紹介する。


・『志望遊戯』


高校の三者面談。靴屋になりたいという生徒に進学を勧めるために「じゃあちょっと靴屋やってみよっか」と提案し……。

漫才コントの定番導入である「じゃあちょっとやってみよっか。おれが〇〇やるからおまえは……」のパロディ。安い芝居をする芸人への皮肉が込められていてにやりとさせられる。たしかにプロなら「ウイーン」はそろそろ終わりにしないといけないよね。
今回いちばん笑いの多かったコント。
お母さんがボケだしたときの担任のうれしさを隠しきれない顔がたまらない。


・(幕間アニメーション)『疑い男疑う』


カフェで彼女と話す疑り深い男。


・『疑、義、儀』


恋人が親に決められた婚約者と結婚することになった男。披露宴に乗りこんで花嫁を略奪しようかと思うがよく考えてみると……。

彼氏、花嫁、花婿それぞれの思惑が錯綜する様子を描いた、パワーポイントあり、歌あり、芝居ありのスケールの大きな(?)コント。
少しカッチリしすぎているコントだが、随所にばかばかしさをとりいれて頭でっかちな印象になりすぎないようにうまく調整されている。
すごくおもしろいわけではないけど、ラストにふさわしい完成度の高いコントだった。


・(エンディング)


「ぎ」と「の」だけの歌詞の歌。



前作『類』に比べると、笑い・奇抜性ともに少しスケールダウンしたかなという印象。
ただ、芝居のうまさは相変わらずなので演劇として見てもレベルが高いし、爆発的な笑いの起こるコントこそなかったもののすごく見劣りするコントもなかった。平均は下がってない。

今回は幕間映像がどれも良かった。アニメもバカリズム自身で作っているというからすごい。コントライブの幕間映像というと、箸休め的なものや「ファンには楽しめるもの」なんかが多いのだが、『ぎ』は幕間映像でもがっつり笑いをとりにきていた。
特に『疑惑の螺旋』は、大喜利として見たらそこそこレベルぐらいなのに「日曜朝の退屈な番組」っぽく見せることでなんだか妙なおもしろさが漂っていて好きだった。もしかしたらあのフォーマットに乗せたらなんでもおもしろくなるのかも。見せ方がうまいねえ。

数多くのコントを作っていたらどうしてもパターン化されてきそうなものなのに、バカリズムコントは趣向がそれぞれちがう。過去の作品とも似ても似つかぬコントを毎回放りこんでくる。
「常に新しいことにチャレンジする」という姿勢だけは不変だ。


【関連記事】

【芸能鑑賞】 バカリズムライブ『類』


2018年8月8日水曜日

楽しいカビキラー


掃除洗濯炊事アイロン衣替え布団干し、家事にもたくさんあるけれど、ぼくがだんぜん好きなのはカビキラーだ。
お見合いで「ご趣味は?」って訊かれたら「そりゃあカビキラーですけど?」って答えるつもり。もう結婚しちゃったけど。

カビキラー、ほんと楽しい。
風呂場のカビに向かって「おまえたち、やっておしまい!」と言いながらシュっとやる。それでおしまい。
数分して見たらもうカビがなくなってる。最高。

  • きれいになる
  • 達成感が感じられる

こんないい仕事ほかにない。欠点は金銭的報酬がもらえないことだけだ。カビキラーやるだけのかんたんなお仕事ないですかね。インディードにありますかね。



友人にカビキラー最高って言ったら、
「わかります。王様の気分ですよね」
と言われた。

王様?
「そう。家臣に命じるだけで、勝手に戦ってくれるわけでしょ。勝ってカビがいなくなれば自分の手柄だし、負けても自分自身にはほとんどダメージないですし」

なるほど。王様ってこんな気分だったのか。

そういやこないだのサッカーワールドカップで、いろんな国の大統領や国王が観戦に来てたけど、あの人たちもこんな気分だったんだろうな。

あとポケモンマスターもこんな気持ちだろうね。安全圏からバトルを観戦できるわけだから。
いけ、カビキラー!
カビキラーのジェットふんしゃ! こうかはばつぐんだ!


2018年8月7日火曜日

すきあらばバタフライ


区民プールあるある言いまーす!
「ちょっとレーンが空いてくるとバタフライやりがち」


区民プールにはいつ行ってもそこそこ人がいる。ひとつのレーンでだいたい3人ぐらいが泳いでいる。
たまに、2人ぐらいになる瞬間がある。するとすかさずバタフライをやるやつがいる。

プールに行かない人や「いやわたくしは自宅の庭のプールで泳いでいますがそんな人は見たことありませんわ」って人にはぴんと来ないだろうけど公共のプールではよく見る光景だ。


なんなんでしょう、アレ。
そんなにバタフライやりたいの?
一応「前を向いたまま早く泳げる」というのがバタフライのメリットらしいが、なんとも微妙なメリットだ。
疲れるし、かっこ悪いし、水しぶきだけはすごいし、バタフライなんか何が楽しいんだと思うんだけど、でもすきあらばバタフライをしかけてくるやつがいる。しかもけっこう多い。

あれは完全に貧乏性だろう。

バタフライは幅をとる。バタフライは2車線使う。
10トントラックでさえ車幅は1車線の中にぎりぎりおさまる。2車線使う車両は戦車ぐらいだ。つまりバタフライは戦車だ。

対向レーンに人がいるときにはバタフライができない。
だから向こうから人が来ないと「あっ、今ならバタフライできる! やらなきゃ損!」という気持ちでたいしてやりたくもないバタフライをやっちゃうのだろう。

こういう人は正月バーゲンで必要もない福袋を買っちゃう人だと思う。「今なら半額!? 買わなきゃ損!」とほしくもない福袋を買うタイプだ。
業務スーパーで安いからといってロールパン50個ぐらいまとめ買いしちゃうタイプだ。


まあレーンにひとりしかいないときならバタフライでも水球でも好きにしたらいいけど、困るのがプールの対岸に人(ぼく)がいるのに、バタフライをしかけてくるやつらだ。

向こうからバタフライでばっしゃんばっしゃんとこちらに向かってくる。もちろん対向車線も使って。
「おれはバタフライやるけど文句あるか?」という威圧感がある。ヤンキーがわざと車線をはみだして走るのといっしょだ。

ぼくは負けじとクロールをしかける。脅しには負けないぞという強い意志をこめて。ぼくはテロには屈しないぞ。ミサイルには経済制裁だ、ぐらいの気持ちで水をかく。

するとバタフライヤンキーはすれ違う寸前までバタフライをして、こちらが脅しに屈しないのを悟ると、ぎりぎりでクロールに切り替える。

そうまでしてバタフライがしたいのか。彼らをバタフライに駆り立てるものは何なのか。ぼくの知らない快感がバタフライにはあるのか。


ということで一首。

 すきあらばバタフライをする君よ 誇示か威圧か快楽なのか


2018年8月6日月曜日

【短歌集】揺れるお葬式



高架下葬儀会場 急行が通過するたび死人が笑う


各駅停車(かくてい)が上を超えてく葬儀場 坊主の読経はビブラートなり


満員の通勤快速通るたび 喪服がはだけてゆく未亡人


「あの故人(ひと)はシャンパンタワーが好きでした」寡婦の独白、不吉な予感


特急の振動、心臓マッサージ 死んだ老人息吹き返す


「振動で三途の川が氾濫し川の向こうへ渡れなかった」


あの人が生前愛したかつお節 焼きたて遺骨の上で踊る



2018年8月3日金曜日

大阪市吉村市長は学力低下の産物


「学テ」結果、校長や教員のボーナス、学校予算に反映へ…最下位状態化に危機感 大阪市の吉村市長方針

http://news.livedoor.com/article/detail/15103783/


じっさい大阪市の教育水準低下は深刻だ。
なにしろ、重要なことを決めるにあたって少しも歴史やデータを調べようともしない吉村洋文のようなバカを生みだし、さらにはそのバカを大阪市長に選んでしまったのだから。
これは教育の失敗の結果といわざるをえない。

大阪市で何が起ころうとしているのか。
 大阪市の吉村洋文市長は2日、今年度の全国学力・学習状況調査(全国学力テスト)の総合成績が昨年度に続き、政令都市の中で最下位になったことを受け、「抜本的な改革が必要だ」として、学力テストに具体的な数値目標を設定、達成状況に応じて校長、教員のボーナス(勤勉手当)や学校に配分する予算額に反映させる制度の導入を目指す考えを明らかにした。 

どうやら吉村市長は「子どもたちの学力に応じて教員のボーナスを決めれば子どもの学力が伸びる」と考えているらしい。
ここには何重もの過ちがある。

まず、こんなことをしても教員はやる気にならない。むしろ逆効果だ。
ダン・アリエリー『予想どおりに不合理』にこんな一節がある。
人々がお金のためより信条のために熱心に働くことを示す例はたくさんある。たとえば、数年前、全米退職者協会は複数の弁護士に声をかけ、一時間あたり三〇ドル程度の低価格で、困窮している退職者の相談に乗ってくれないかと依頼した。弁護士たちは断った。しかし、その後、全米退職者協会のプログラム責任者はすばらしいアイデアを思いついた。困窮している退職者の相談に無報酬で乗ってくれないかと依頼したのだ。すると、圧倒的多数の弁護士が引きうけると答えた。
今、子どもたちに勉強好きになってもらおうとがんばっている教員たちはたくさんいるだろう。彼らはボーナスの査定のためにやっているのだろうか。そういう教員もいるだろうが、むしろ少数派ではないだろうか。
彼らの行為に対して報酬をちらつかせることは逆効果だ。もちろんがんばっていることは評価したらいいが「結果を出したらボーナスはずんでやるよ」ということで彼らがよりいっそうがんばるようになるかというと、まったく逆だ。

ほとんどの親は子どもの運動会で一生懸命走る。がんばっても何ももらえないのに。
ではレース前に「一等になったら百円あげます」と言ったらどうなるだろう。
百円のために一生懸命走っているようで恥ずかしい、みっともない、情けない。たいていの親はそう考えて手を抜くだろう。
吉村市長は金のためだけに市長職をやっているせいで理解できないのかもしれないが、ほとんどの教師は金のためだけに教えているわけではないのだ。

能力のある教師のやる気を奪い、金をちらつかせなければ動かない教師に報酬を与え、意欲ある未来の教師を遠ざける。吉村市長は大阪市の教育をぶっつぶそうとしているらしい。



全国学力テストは1960年代にもおこなわれていた。全国中学校一斉学力調査という名前で。
なぜなくなったのか。学校間、都道府県間の競争意識が高くなりすぎた結果、不正が横行するようになったからだ。
学力テスト対策のための授業をするようになる、問題や答えを生徒に教える、勉強の苦手な子どもをテスト当日欠席させる。
このような経緯と現場の教員の反対で昭和の学力テストは廃止された。

2007年になって全国学力・学習状況調査という名前で復活したが、その名の通り学力を調査するためだけのものとしてである。
学力テストの結果をもとに報奨を与えたり罰を与えたりすることがマイナスにしかならないことがわかったので、あくまで現状把握のためだけに使うことになったのだ。
ちょっと調べればこういう経緯はすぐわかるわけだが、市長は歴史から学ぶ気が少しもないらしい。

また、子どもの学力に影響を与える最大の要因は遺伝であることが数々の調査から明らかになっている。
他にも家庭環境や友人関係なんかも影響を与え、教師が与える影響というのはごくごくわずかだ。
 さらには、学力には遺伝の影響も大きいことがわかっています。私が行動遺伝学の専門家である九州大学の山形准教授らとともに行った研究では、中学3年生時点の子どもの学力の35%は遺伝によって説明できることが、明らかになっています。
 これ以外にも、生まれ月、生まれ順、生まれたときの体重など、どう考えても子ども自身にはどうしようもないようなことが、子どもの学力や最終学歴に因果効果を持っていることを示すエビデンスもあります。身もふたもありませんが、これが経済学の研究の中で明らかになっている真実です。「どういう学校に行っているか」と同じくらい、「どういう親のもとに生まれ、育てられたか」ということが学力に与える影響は大きいのです。先ほどの北條准教授が日本のデータを用いて教育生産関数を推計したところ、家庭の資源が学力に大きな影響を与える一方で、学校の資源はほとんど統計的に有意な影響を与えなかったことも明らかになっています。
(中室牧子『「学力」の経済学』)

教師の鼻先にニンジンをぶらさげ、それによって仮に教師のやる気に火がついたとして(まずない話だけど)、短期間に全体の学力が向上することはありえない。

ボーナスで釣ってもマイナスにしかならないことを示す歴史もデータもいくらでもあるのに、そこから市長が何も学ぼうとしないのだから大阪市の教育はもうだめかもしれない。



ぼくは音痴だ。まるっきり音程がとれない。歌は超へただ。
でもそれは小中学校の音楽の先生のせいじゃない。原因を求めるにはもっと昔にさかのぼらなければならない。ぼくの親のせいかもしれないし、胎児のときに胎教で聴いた歌のせいかもしれないし、もしかしたら遺伝子のせいかもしれない。

音楽教師に「合唱コンクールのうまさによってボーナスを決めます」といったらどうなるだろうか。
もし音楽教師がボーナスを欲しがるならば、合唱コンクールの日にぼくを休ませるか、「口パクしなさい」と命じるだろう。それがもっとも手っ取り早く合唱のレベルを上げる方法だ。ボーナスの多寡に釣られる賢しい教師であればそうする。合理的な判断だ。
ちょっとマシな教師であれば、合唱コンクールの課題曲だけをまともに歌えるようにうんざりするぐらいぼくに居残り練習をさせるだろう。ぼくが歌うことを大嫌いになるまで。

学力もそれと同じだ。努力でなんとかなる部分はあるが、大部分は遺伝子と生まれ育った環境で決まってしまう。
全国学力・学習状況調査は小学六年生と中学三年生を対象におこなわれる。小六や中三で勉強が苦手なのは、まずまちがいなく小六や中三のときの教師のせいではない。できなかったことの積み重ねなのだ。

たしかに教師がめちゃくちゃ努力して生徒本人もやる気になれば、一年である程度リカバリーすることは可能だろう。だが数十人のクラス全員にそれをするにはリソースが圧倒的に足りない。



吉村市長は短絡的に「学力が低いのは教師がさぼっているせいだ」と考えているらしい。大阪市は生活保護受給率が全国の政令指定都市中ワーストワンだが根っこにある。こういう原因には目をつぶって「監督者の頬を札束でビンタすればすべて良くなる」と考えているらしい。
上の記事にはこうある。
成績の低迷は長年常態化しており、吉村市長は「強い危機感を持っている」と強調。児童生徒の学力向上に向けて、市教委や学校の意識改革の必要性を指摘し「結果に対して責任を負う制度へ転換しなければならない」とした。
もしほんとに結果に対して責任を負う制度へ転換したいのであれば、責任をとるのは現場の教師ではなく制度設計をしている機関の長、すなわち大阪市長だ

「学力テストで全国ワーストワンになったら大阪市トップであるぼくちんの報酬全額返納します! その分を教育に使うお金に充ててください!」というのがスジじゃないのか。

それだったらまだ「ああ、バカなりになんとかしようと考えたのね。はっきり言って無駄だけど心意気だけは評価するわ」という”愛すべきバカ”キャラ扱いだったのに、「大阪市の子どもの成績が悪いのは教員のやる気がないからだ!」と他人に責任を押しつけるようではただの”迷惑なバカ”でしかない。

世の中が悪いのはすべて公務員がさぼっているからだ、という維新の会マインドがこの方針にはとてもよく表れている。誰かのせいにすることほど楽なことはない。なんたって自分は頭を使わなくていいんだから。



ちなみにぼくは大阪市民である。今までのんきに「うちの子は公立校でいっか。お受験とか面倒だし金もかかるしな」と考えていたけれど、バカが頭を使わずに考えたバカな政策が本気で通るようなら、本気で公立校を避けることを考えなくてはならない。

かくして教育熱心な親は大阪市の公立校を避け、大阪市の学力テストの結果はますます下がるんだろうな。


【関連記事】

【読書感想文】 ダン・アリエリー 『予想どおりに不合理』

【読書感想文】中室牧子 『「学力」の経済学』

【読書感想文】橘 玲『言ってはいけない 残酷すぎる真実』


2018年8月2日木曜日

【読書感想文】きもくて不愉快でおもしろい小説 / 矢部 嵩『魔女の子供はやってこない』


『魔女の子供はやってこない』

矢部 嵩

内容(e-honより)
小学生の夏子はある日「六〇六号室まで届けてください。お礼します。魔女」と書かれたへんてこなステッキを拾う。半信半疑で友達5人と部屋を訪ねるが、調子外れな魔女の暴走と勘違いで、あっさり2人が銃殺&毒殺されてしまい、夏子達はパニック状態に。反省したらしい魔女は、お詫びに「魔法で生き返してあげる」と提案するが―。日常が歪み、世界が反転する。夏子と魔女が繰り広げる、吐くほどキュートな暗黒系童話。

ライトノベルっぽい表紙でふだんならぜったいに買わない本なんだけど、角川ホラー文庫というレーベルとクレイジーなあらすじに惹かれて読んでみた。

安易にこういう言葉を使いたくないんだけど、この人は奇才だ。どうやったらこんな小説が書けるんだ。よくぞこの人に文学賞を与えてデビューさせたな。まったくもってどうかしている。
文章めちゃくちゃだし内容はグロテスクだしストーリーは不愉快だし、なのにおもしろい。もう一度書く。まったくもってどうかしている。

主人公の女の子と魔女の友情を描いた短篇集。というとほんわかした話っぽいけど、人はばたばた死ぬし口汚い罵倒が並ぶし虫はぐちゃぐちゃつぶれる。表紙で買った人は後悔してるだろう。でもそのうち一割ぐらいは当たりを引いたと思ってくれるだろう。
この小説はどういうジャンルにあてはまるだろうかと考えてみたけどくくれない。ホラーとファンタジーとミステリと児童文学と青春文学をぐちゃぐちゃっと混ぜて、それぞれの気持ち悪いところだけを取りだしたような小説だ。いろんな種類の不快感が味わえる。嫌な気持ちになりたい人にとってはとってもお得だ。

序盤はグロテスクが強め、二篇目で急に児童ファンタジーみたいな展開になってやや退屈さを感じたのだが、四篇目の『魔法少女粉と煙』あたりからひきこまれた。
読んでいるだけでめちゃくちゃ痒くなる執拗な痒みの描写、安心させといてラストで急ハンドルを切る気味の悪いオチ。見事なホラーだった。

特に秀逸だったのは『魔法少女帰れない家』。
主人公が仲良くなったすてきな奥さん(奥という苗字の奥さん)。剣道が強い高校生の娘とかっこいい大学生の息子とペットと暮らす、絵を描くのが好きな奥さん。彼女が友だちの結婚式に行きたいというので魔法で一週間奥さんの代わりをすることになるが……という内容。

ほのぼのした導入から家庭の地獄のような裏側が露わになり、そして苦労を乗りこえた先にある後味最悪なラスト。
うへえ。嫌な小説だあ。この嫌さがたまらない。さりげない伏線の張り方も見事。
感情を激しく揺さぶってくれるいい短篇だった。万人におすすめしないけどね。



すっごくクセのある文章なんだけど、読んでいるうちにああこれは女子小学生の文章なんだと気づく。
 十回建てのげろマンションは壁に当たる夕陽が眩しく、書き忘れたみたいに輪郭線が飛んでいました。見上げると壁は傾いて見えて、角度のきつい遠近法でした。
こういう変な文章が続くのではじめは読みづらいが慣れてくるとこれすらも楽しくなってくる。
女子小学生の気持ちってこんなんかもしれない。女子小学生の語りを聴いているような気分になる。ぼくは女子小学生だったことはないので(そしてたぶんこれから先も女子小学生になることはないだろう)想像でしかないけど。

作品中の時間が経過して主人公が成長するにつれて文章がだんだんこぎれいになってくるのがちょっとさびしい。我が子の成長を感じてうれしいと同時に一抹の疎外感も感じるときの気持ちに似ている。
 小さい頃願ったものになることは難しいと思う。思い描くようには何事もいかないし、した想像より出来なかったそれがいつでも自分を待ち構えていた。願いと私ともそう仲良しということはなく、叶わなかった願いもあれば、願わず叶った自分もあった。
 意志の話をそれでもしてきたのは、それが畢竟人間相手の通貨になるからで、夢見る夢子と夢の話をしていて愉快というだけだった。壁と話す日使い出のある言葉とも思わなかったし、正しい方向を示したこともなかった。願いも別に口にすることはないわけで、お喋りの間にした後悔は幾つもあった筈だった。
こういうヘンテコな文章が、慣れてくるにつれていい文章のように思えてくるからふしぎだ。日本語の体をなしていないのになんとなく意味がつかめて味わい深く思えてくる。

「変わった小説が読みたい」という人にはおすすめしたい一冊。そうじゃない人には勧めません。


【関連記事】

【読書感想】恒川 光太郎 『夜市』



 その他の読書感想文はこちら



2018年8月1日水曜日

とっても無責任でとってもピュア


インターネットを見ていると、他人の悩みに対して一秒も頭を使わずにアドバイスをしている人を見かける。

夫婦問題で悩んでる人に「離婚したほうがいいですよ」とか。

仕事の愚痴言ってる人に「そんな会社今すぐ辞めるべきです!」とか。

もう、ほんとバカ。それを回避したいから悩んでんだろ。


それ、「死ねばすべての悩みから解放されますよ」って言ってんのと同じだからな。
かつての仲間を爆殺しといて「解放してやったぜ…… くくくくく 恐怖からな」って言ってるゲンスルーと同じだからな。

仮に離婚や退職を勧めるにしても、「お金が許すのであればまず一ヶ月だけでも別居してみては」とか「一度転職エージェントにでも行って今以上の条件で転職できそうな仕事がないか探してみては」とか、段階的な勧めかたがあるだろうに。
「離婚したほうがいいですよ」って言われて「じゃあ離婚してみます!」ってなるわけないだろ。

……それともあれか、こういうコメントしちゃうような人は、自分が同じ立場になったときに知らん人から「離婚したほうがいいですよ」って言われて「じゃあ離婚します!」ってなるのか。
まさか、とは思うが、ひょっとしたらそんなノリで離婚しちゃうのかもしれない。
「じゃあ死ねば?」って書いたら死んじゃうのかもしれない。ピュア~!