2023年7月31日月曜日

【読書感想文】東野 圭吾『レイクサイド』 / すっきりしない良作ミステリ

レイクサイド

東野 圭吾

内容(e-honより)
妻は言った。「あたしが殺したのよ」―湖畔の別荘には、夫の愛人の死体が横たわっていた。四組の親子が参加する中学受験の勉強合宿で起きた事件。親たちは子供を守るため自らの手で犯行を隠蔽しようとする。が、事件の周囲には不自然な影が。真相はどこに?そして事件は思わぬ方向に動き出す。傑作ミステリー。


 舞台は湖畔の別荘。中学受験の合宿で、四人の子ども、その両親、塾講師が泊まっている。そこに主人公の愛人が訪ねてくる。

 その夜、出かけていた主人公が別荘に帰ってくると、愛人の死体があった。妻が言う。「あたしが殺したのよ」と。受験前に騒がれることを嫌った保護者たちは、死体を隠して事件を隠蔽しようとする……。



 ミステリを読んでいると「そううまくはいかんやろ」とおもう作品によく出くわす。

 そんな万事計画通りに話が運ばんやろ、そうかんたんに人を殺さんやろ、そううまく目撃者が現れんやろ、そんなにたやすく本心を吐露せんやろ、そうかんたんに犯人がべらべらと犯行について語らんやろ。

『レイクサイド』がよくできているのは、中盤まではその「そううまくはいかんやろ」レベルのミステリなんだよね。

 そこにいあわせた人が死体遺棄に手を貸すのは不自然じゃないかな。いくら仲が良いといっても、他人のためにそうかんたんに犯罪に手を染めるか……? 死体隠蔽工作も順調に進む。目撃者が現れるが、それもうまく仲間に引き込むことができる。

 できすぎじゃない?

 ……という違和感は、ちゃんと後半で解消される。なるほどなるほど、ちゃんと読者の「そううまくはいかんやろ」を想定して、それすらも謎解きに利用している。さすが東野圭吾氏だなあ。押しも押されぬ大人気ミステリ作家に対して今さらこんなこと言うのもなんだけど、上手だなあ。


 また、単なる謎解きに終始させず、夫婦、親子などの関係が生み出す愛憎入り混じった感情もストーリーに盛り込んでいる。

 登場人物が多い(現場にいるのは14人)のにそれほどややこしさも感じさせないし、つくづくうまい小説だった。




 ちなみに、後味は悪い。登場人物は主人公を筆頭にみんな身勝手だし、保身ばかり考えていて行動もまったく道徳的でない。また、犯人の動機については最後まで明らかにされないし、犯行の結末も不明。つまり、まったくもってすっきりしない。

 でも個人的にはこういうのがけっこう好きなのよね。読んだ後にもやもやが残る小説は嫌いじゃない。

 悪い犯人が捕まりましたメデタシメデタシ、っていうわかりやすい物語が好きな人にはおすすめしません。


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2023年7月28日金曜日

牧場のここがヤバい

 某牧場について調べていると、「〇〇牧場のここがヤバい!3つのヤバいこと」という記事が見つかった。

 読んでみると、「1.広すぎてヤバい!」「2.動物との距離が近すぎてヤバい!」と書かれており、あーなるほど、悪口を言っているように見せて耳目を集めて実は褒めたたえるタイプの記事ね、とおもいながら読んでいたら「3.元経営者が大麻栽培で逮捕されていてヤバい!」とあった。

 急転直下でほんまにヤバいネタくるんかい!



2023年7月27日木曜日

道の訊き方訊かれ方

 歩いていたら、若い女性から「○○駅はあっちであってますか」と尋ねられた。

 若い女性から声をかけられるなんて何かの勧誘以外に経験がないのでとっさに勧誘かとおもって無視しようしてしまい、その後「あっ、道訊かれてる、ちゃんと答えないと、わっ、なんていおう」とすっかりあわててしまい、結局「あ、はい、あっちであってます!」と相手の言葉をオウム返しにしただけだった。


 ぼくはふだん道を訊かれない。訊かれることもあるが、変なタイミングのときだけだ。

 中国に行ったときはなぜか中国人からよく道を訊かれた。なんで外国人に訊くねん! Tシャツにサンダルとかで歩いてたから現地の人っぽかったのかなあ。

 旅先で訊かれることも多い。逆に、見知った道ではほとんど訊かれない。知ってる道では歩くのが速いからかもしれない。旅先だときょろきょろしながらゆっくり歩くので、隙が多くて声をかけやすいんだろう。

 数年前、はじめて行く土地だったのでスマホのアプリで地図を見ながら歩いていたら若い男性から「すみません、〇〇って店知ってますか?」と尋ねられた。なんで地図見ながら歩いてるやつが土地勘あるとおもうんだよ!


 そんなわけで、家の近所では道を訊かれることがめったにない。だから道を訊かれて動転してしまった。

 たぶんぼくが妻子と歩いてたからだろう。「妻子と歩いているからそこそこまともな人」と判断されたにちがいない。ありがたいかぎりだ。逆にいうと、一人で歩いているときは不審者だということだ。

 あわてて「あ、はい、あっちであってます!」と答えた後、ああしまったなあ、もっと上手に説明できたなあ、と後悔した。

「この道をまっすぐ行くと、信号を二つほど超えたあたりでファミリーマートが見えますので、そこを右手に入ったらすぐ駅ですよ」と言ってあげればよかったなあ。落ち着いたらうまく説明できるんだけどなあ。でもとっさに訊かれたからなあ。


 自分の答え方が悪かったと反省すると同時に、道を訊いてきたあの女性の訊き方も悪かったんじゃないか? とおもう。

 開口一番「○○駅はあっちであってますか」だぜ。

 こっちは見知らぬ人に話しかけられただけでびっくりしてるのに、いきなり本題に入らないでほしい。

 ちゃんと「あのすみません」「ちょっと道を訊きたいんですけど」とクッションを置いてほしい。そしたらこっちも「今から道を訊かれるんだな」と心の準備ができるから。

 理想を言えば、話しかける前に、「きょろきょろする」「困った顔でこちらを見て目をあわせる」というステップもほしい。

 きょろきょろして、困った顔でこちらを見て目を合わせて、「あのすみません」と声をかけて、「ちょっと道を訊きたいんですけど」とこれから話すことのテーマを提示して、しかるべきのちに「○○駅はあっちであってますか」と訊いてほしい。

 それが道尋ね道というものだ。


2023年7月26日水曜日

【読書感想文】鴻上 尚史『不死身の特攻兵 軍神はなぜ上官に反抗したか』 / 死ななかった優秀な特攻兵

不死身の特攻兵

軍神はなぜ上官に反抗したか

鴻上 尚史

内容(e-honより)
1944年11月の第一回の特攻作戦から、9回の出撃。陸軍参謀に「必ず死んでこい!」と言われながら、命令に背き、生還を果たした特攻兵がいた。

「世紀の犬死に」「ばかが考えた自軍の戦力を減らすだけの愚策」でおなじみの日本軍の特攻隊(あれをちょっとでも美化することのないようにきつめの言葉で表現しています)。

 そんな「死ぬまで還ってくるな」の特攻隊員として9回出撃命令を受けながら、くりかえし生還し、終戦を迎え、2016年まで生きた兵士がいた。それが佐々木友次さん。すごい。

 佐々木友次さんは何を考え出陣したのか、そしてどうやって生き残ったのかに迫ったルポルタージュ。



 まず知っておかないといけないのは、特攻(爆弾を積んだ飛行機での体当たり)は人命を軽視しているだけでなく、もっとシンプルな理由で効率の悪い作戦だったということだ。

 体当たりだと甲板しか攻撃できなくて戦艦の心臓部にはダメージを与えられない、爆弾を落とすよりも飛行機で突っ込むほうがスピードが落ちるので衝突時のエネルギーが小さくなる、チャンスが一回しかないので敵艦への接近が難しくても無理してつっこまなくてはならない、などの理由だ。

 そのため特攻をやめるよう進言していた人たちもいた。命が惜しいからではない(それもあっただろうが)。戦術的に無駄だからだ。

 鉾田飛行師団の研究部の岩本大尉と福島大尉は、効果的な爆弾、つまり海軍のような徹甲爆弾を作るようにと再三、陸軍の航空本部と三航研(第三陸軍航空技術研究所)に求め続けた。けれど、三航研は効果的な爆弾を作る代わりに体当たり攻撃を主張し始めた。福島大尉は激しい怒りと共に、三度、航空本部と三航研に対して、「体当たり攻撃がいかに無意味で効果がないか」という理論的な反論の公文書を提出した。
 だが、三航研は、理論的に都合が悪くなると、「崇高な精神力は、科学を超越して奇跡をあらわす」と技術研究所なのに精神論で体当たりを主張した。福島大尉は三航研はずるいと憤った。効果のある爆弾が作れないから、体当たりをやるよりしかたがないと言っている。それはつまり、技術研究所の職務放棄だと。

 特攻はコストだけ大きくてほとんどリターンのない作戦だったのだ。まさにばかが考えた作戦。

 しかし、最初のばかが考えた作戦を正当化するため、初回の特攻の戦果は捏造されて実際よりもずっと大きく報告された。そのせいで「特攻は有効だ」という誤った評価が定着してしまった。

 また、ばかはえてして手段と目的をまちがえる。「勝つためには死ぬこともおそれない」だったのが「死ぬためなら勝たなくてもいい」になってしまう。特攻はその典型だ。

 これは現代でも同じだけどね。「売上を上げるために元気を出せ」が「元気を出していれば売上を上げてなくてもいいし、あいつは売上を上げていても元気がないからダメだ」になってしまうし、「試合で勝つために声を出せ」が「プレーに悪影響が出てもいいから声を出せ」になってしまう。

 陸軍参謀本部は、なにがなんでも一回目の体当たり攻撃を成功させる必要があった。
 そのために、技術優秀なパイロットを『万朶隊』に選んだ。
 けれど、有能なパイロット達は優秀だからこそ、パイロットとしてのプライドがあった。爆弾を落としてアメリカ艦船を沈めるという目的のために、まさに血の出るような訓練を積んだ。「急降下爆撃」や「跳飛爆撃」の訓練中、事故で殉職する仲間を何人も見てきた。鉾田飛行師団では、毎月訓練中に最低でも二人の殉職者を出していた。
 技術を磨くことが、自分を支え、国のために尽くすことだと信じてきた。だが、「体当たり攻撃」は、そのすべての努力と技術の否定だった。
 なおかつ、与えられた飛行機は、爆弾が機体に縛りつけられていた。参謀本部は、もし、操縦者が卑怯未練な気持ちになっても、爆弾を落とせず、体当たりするしかないように改装したのだ。

 参謀本部にとって、特攻は何としても成功させる必要があった。勝利のためではない。自分たちが提案した戦術が有効だったと示すため。つまりは保身のために。

 だから経験豊富で優秀なパイロットを特攻兵に選んだ。優秀だから、特攻なんかしなくても爆撃に成功できるようなパイロットを。



「特攻なんかしなけりゃよかったのに」と今いうのはかんたんだ。誰だってそう言うだろう。

 だが、次々に兵士が死んでゆき、誰もが命を投げうって戦い、死を恐れるのはなによりもみっともないことだとずっと教育され、上官の命令は絶対だという軍隊の中にあって、「特攻は愚策だ」と言うのはとんでもなくむずかしいことだったろう。仮に言ったとしても何も変えられなかっただろう(変えられたのは昭和天皇ぐらいだろう)。


 だが、そんな時代にあってもちゃんと自分でものを考え、ばかな命令よりも道理を優先させた兵士もいた。

「もうひとつ、改装をした部分がある。それは爆弾を投下できないようになっていたのを、投下できるようにしたことだ」
 佐々木達は、思わず息を飲んだ。そして、お互いに顔を見合わせた。信じられない言葉だった。
「投下すると言っても、投下装置をつけることはできないので、手動の鋼索(ワイヤーロープ)を取り付けた。それを座席で引っ張れば、電磁器を動かして爆弾を落とすことができる。それならば、1本にしたツノは、なんのために残したかといえば、実際には、なんの役にも立たない。これも切り落としてしまえばよいのだが、それはしない方がよい。というのは、今度の改装は、岩本が独断でやったことだ。分廠としても、四航軍(第四航空軍)の許可がなければ、このような改装はできない。しかし、分廠長に話をして、よく頼み込んだら、分かってくれた。
 分廠長も、体当たり機を作るのは、ばかげた話だと言うのだ。これは当然のことで、操縦者も飛行機も足りないという時に、特攻だといって、一度だけの攻撃でおしまいというのは、余計に損耗を大きくすることだ。要は、爆弾を命中させることで、体当たりで死ぬことが目的ではない」
 岩本隊長は次第に興奮し、語調が熱くなった。
「念のため、言っておく。このような改装を、しかも四航軍の許可を得ないでしたのは、この岩本が命が惜しくてしたのではない。自分の生命と技術を、最も有意義に使い生かし、できるだけ多くの敵艦を沈めたいからだ。
 体当たり機は、操縦者を無駄に殺すだけではない。体当たりで、撃沈できる公算は少ないのだ。こんな飛行機や戦術を考えたやつは、航空本部か参謀本部か知らんが、航空の実際を知らないか、よくよく思慮の足らんやつだ」

 なんて勇敢で、なんて理性的で、なんとかっこいい人だろう。

 軍の上層部にいるのがこんな人ばかりだったなら、日本もあそこまで手痛くやられることはなかったんだろうな。

 残念ながら、軍の許可を得ずに特攻機から爆弾を切り離せるよう命じた岩本益臣大尉は、この後すぐに戦死してしまう。戦闘で、ではない。「司令官が宴席に岩本を呼びつけたのでそこに向かう途中で敵機に撃たれて死亡」である。司令官が戦地での宴席に招いたせいで優秀な隊長を失ったのだ。なんとも日本軍らしい話だ。



 この岩本隊長の機転や、整備兵や他隊員のサポート、本人の飛行技術、そして幸運にめぐまれて佐々木友次さんは何度も出撃しながらそのたびに生還した。

 敵艦の爆撃に成功するなど戦果をあげたが、佐々木友次さんの軍での立場はどんどん悪くなる。生還したからだ。

 戦果を挙げなくても命を落とした兵士が英霊としてたたえられ、戦果をあげても生きて還ってきた兵士はなじられる。

 どこかで聞いたことのある話だ。そう、だらだら仕事をして残業する社員のほうが、早く仕事をこなして定時に帰る社員よりも評価される現代日本の会社だ。

  第四航空軍から特別に来ていた佐藤勝雄作戦参謀が話を続けた。「佐々木伍長に期待するのは、敵艦撃沈の大戦果を、爆撃でなく、体当たり攻撃によってあげることである。佐々木伍長は、ただ敵艦を撃沈すればよいと考えているが、それは考え違いである。爆撃で敵艦を沈めることは困難だから、体当たりをするのだ。体当たりならば、確実に撃沈できる。この点、佐々木伍長にも、多少誤解があったようだ。今度の攻撃には、必ず体当たりで確実に戦果を上げてもらいたい」
 天皇に上聞した以上、佐々木は生きていては困る。後からでも、佐々木が特攻で死ねば、結果として嘘をついたことにならない。そのまま、佐々木は二階級特進することになる。上層部の意図ははっきりしていた。
 佐々木は答えた。
「私は必中攻撃でも死ななくてもいいと思います。その代わり、死ぬまで何度でも行って、爆弾を命中させます」
 伍長が大佐や中佐に向かって反論するのは、軍隊ではあり得なかった。軍法会議の処分が当然のことだった。

 完全に手段と目的が入れ替わっている。戦果をあげることではなく死ぬことが目的になっている。

 特攻で死んだと天皇に報告した以上、生きていられては困る。上官の面子のために優秀な兵士を殺そうとする。終戦間際にはなんとこっそりと佐々木さんを銃殺する計画まで立てられていたという。

「戦果をあげて無事で帰還する兵士」ってふつうならもっとも優秀な兵士なのに、それを殺そうとする軍。負けて当然だよな。



 佐々木さんはもちろんだが、この本を読むといろんな兵士がいたんだなということを知ることができる。あたりまえなんだけど。

 命令をこっそり無視する兵士、特攻命令に逆らった兵士、嘘をついて引き返した兵士、そして「自分も後に続く」と部下たちを出撃させながら自分だけ台湾に逃げた司令官……。

 小説なんかで「国や大切な人を守るためにと胸を張ってすがすがしい顔で出撃してゆく特攻兵」のイメージがあるが、当然ながらあれはフィクションだ。みんな生にしがみついていたのだ。死んでいった人たちももっと生きたかったと強い無念を抱きながら死んでいったのだ。

 じゃあなぜ「胸を張って出撃していった特攻兵」というイメージがでっちあげられたかというと、生き残った者たちの罪悪感をやわらげるためだろう。他人を犠牲にして生きていることに耐えられなかった者たちが「あいつらは誇り高く死んでいった」とおもいこむことにしたんだろう。今でもそういう小説がウケるからね。

  第四航空軍から特別に来ていた佐藤勝雄作戦参謀が話を続けた。「佐々木伍長に期待するのは、敵艦撃沈の大戦果を、爆撃でなく、体当たり攻撃によってあげることである。佐々木伍長は、ただ敵艦を撃沈すればよいと考えているが、それは考え違いである。爆撃で敵艦を沈めることは困難だから、体当たりをするのだ。体当たりならば、確実に撃沈できる。この点、佐々木伍長にも、多少誤解があったようだ。今度の攻撃には、必ず体当たりで確実に戦果を上げてもらいたい」
 天皇に上聞した以上、佐々木は生きていては困る。後からでも、佐々木が特攻で死ねば、結果として嘘をついたことにならない。そのまま、佐々木は二階級特進することになる。上層部の意図ははっきりしていた。
 佐々木は答えた。
「私は必中攻撃でも死ななくてもいいと思います。その代わり、死ぬまで何度でも行って、爆弾を命中させます」
 伍長が大佐や中佐に向かって反論するのは、軍隊ではあり得なかった。軍法会議の処分が当然のことだった。


 ぼくは、特攻兵が犬死にしたがるバカばっかりじゃなかったと知ってちょっと安心した。ちゃんと、生き残るため方法を考え、生き残るために自分ができるかぎりのことをしていたのだ。日本軍は組織としては大バカだったし参謀や司令官には大バカが多かったけど、命を捨てない賢人たちもちゃんといたのだ。

 佐々木友次さんや岩本益臣大尉のような人が多ければ、組織も社会もずっといいものになるんだろう。

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2023年7月24日月曜日

将来なりたい職業は公務員

「小学生が将来なりたい職業」あるいは「親が子どもになってほしい職業」ってあるじゃない。

 定番だと野球選手とか、最近だとYouTuberとか。

 あれを見るたびに気になるのが、職業の分類がめちゃくちゃなこと。


「野球選手」「医師」「警察官」「保育士」みたいなのに混ざって「公務員」「会社員」「社長」みたいなのがある。

 いやそれ職業なのか? [職業]というより、[雇用形態]じゃないか?


 さらに気になるのが、ランキングのうちかなりの職業が重複していること。かなりの職業が「公務員」や「会社員」に含まれている。

「警察官」や「消防士」はもちろん公務員だし、「教師」「保育士」「看護師」も「公務員」が多い。

 項目に「公務員」があるのに「看護師」を選んでいる人は、私立病院の看護師を希望しているってことだよね。それだったら「公務員」に対するものとして「団体職員」のほうがふさわしくない?

 それとも自営? 自営の看護師? なにそれ、ブラックジャックみたいにモグリで採血するフリーの凄腕看護師?


「パイロット」「パティシエ」「薬剤師」なんかも会社員や団体職員が多い。

 いやおれは組織に属さない孤高の薬剤師として生きていくんだ、って人も中にはいるかもしれませんね。食っていけるといいですね。ぼくだったらそんな人に薬を処方してもらいたくないですけど。


 ってわけで、「公務員」「会社員」にあわせてランキングを作り直したら、

1位:会社員(正社員)

2位:自営業

3位:公務員(正規)

4位:会社役員

5位:団体職員

6位:契約社員

7位:パート・アルバイト

8位:派遣社員

9位:公務員(非正規・嘱託)

10位:無職(扶養)


 みたいなランキングになるんじゃないかな。いやあ、夢があるねえ。



2023年7月20日木曜日

【読書感想文】マーク・W・モフェット『人はなぜ憎しみあうのか 「群れ」の生物学』 / なぜ自由を嫌う人がいるのか

人はなぜ憎しみあうのか

「群れ」の生物学

マーク・W・モフェット(著) 小野木明恵(訳)

内容(e-honより)
人間社会は動物の群れや昆虫社会とどこが似ていて、どこが異なるのか?先史時代における狩猟採集民の生活から現代のフェイスブックでのコミュニケーションまで、人と人が交わることで生まれるコミュニティの成立背景について、フィールド生物学者がチンパンジーの群れやアリの巣の生態と比較しながら探索する。


 生物学者による、ヒトがどのように群れを築くのか、という話。邦題は『人はなぜ憎しみあうのか』だが、憎しみについての話はあまり出てこない(原題には憎しみのことは触れていない)。誰だこのタイトルつけたやつは。


 群れをつくる生物は数多くいるが、そのほとんどが血縁またはつがいの延長だ。ミツバチなんかは巨大な群れを形成するが、あれはすべて一匹の女王バチから生まれているので実は核家族だ。サルなんかは比較的大きめの群れをつくるが、それでも数十頭~数百頭。メンバー同士はみんな顔見知り。田舎の集落、といった規模だ。

 だが人間はもっと大きな集団をつくることができる。

 生命の歴史において、人がコーヒーショップにふらりと入っていく場面よりも驚くべきものはほとんどない。常連客たちが全然知らない人ばかりというときもある――それなのに何も起こらない。うまくふるまい、まったく面識のない人たちに出会ってもうろたえない。このことは、他の四本の指と向かい合わせになった親指や、直立姿勢、賢さとは別の、私たち人類という種がもつ独特な点を示している。社会をもつ他の脊椎動物たちは、こうした行動を取れない。チンパンジーなら、知らない個体に出くわせば、相手と戦うか、恐れおののいて逃げ出すだろう。チンパンジーであふれたカフェに入るなど考えられない。誰かとにらみ合いになっても、戦いの危険を冒さずに生き延びる可能性があるのは、若い雌だけだ――ただしセックスを受け入れたほうがもっとよい。ボノボでさえ、知らない個体のそばを無関心に通り過ぎたりしないだろう。しかし人間には、見知らぬ人たちに対処して、彼らのあいだをすいすいと通り抜ける才能がある。私たちは、コンサートや劇場、公園、市場などで他人に囲まれていても楽しく過ごす。幼稚園やサマーキャンプ、あるいは職場で、互いの存在に順応し、気に入った何名かと親しくなる。

 家族ではない、血のつながりもない、それどころか顔をあわせたことがない。そんな個体がすぐ近くにいても許容できるのは、群れをつくる脊椎動物の中ではヒトだけだと著者はいう。

 ほとんどの生物にとって、ほかの個体は「身内」か「敵」のどちらかだ。だがヒトは、そのどちらでもない個体を許容することができるのだ。

 改めて考えたら、満員電車なんて異常な光景だよなあ。周囲は知らない人だらけ。その人たちが、話すわけでもなく、かといってけんかをするでもなく、おしあいへしあいしながらも、まるで周囲の人間など存在しないかのようにふるまっている。あれは群れというより魚群、って感じだよなあ。

 そういや「社会をもつ他の脊椎動物たちは、こうした行動を取れない」って書いてるけど、魚に関してはこうした行動をとれるんじゃないだろうか? イワシの群れなんかお互いに顔を認識してるとはおもえないけどなあ。


 とにかく、知らないやつがすぐそばにいてもつかずはなれずでうまくやっていけるのは、ヒトやアルゼンチンアリなど、ごくごく例外的な存在だけなんだそうだ。

 アルゼンチンアリは、仲間を見分けるのににおいを使っている。ヒトがにおいの代わりに様々な指標を使って仲間を認識している。言語、信仰、物語、髪型、服装、アクセサリー、タトゥー……。

 人がすぐに制服やおそろいのハッピやTシャツをつくりたがるのも、アリと同じだ。



 人間は集団をつくる。だが人間は、集団には属したいが集団に埋没したくないという奇妙な習性をもっている。 

 人間の定住地で集団志向が生じ、内部での競争が減り、社会的な刺激が、扱いやすく達成感の得られるようなまとまりへと分割されたのだろう。心理学にある最適弁別性という概念が、これを説明するのに役に立つ。人は、包含と独自性という感覚のバランスが取れているときに自尊心が最も高くなる。つまり、自分の属する集団の一部であると感じられるくらいには似ていたいが、それと同時に、特別でいられるくらいはちがっていたいのだ。大きな集団のメンバーであることは大切だが、それだけでは、特別でありたいという思いはかなえられない。このことが、もっと排他的な集団とのつながりをもつことで大勢の集まりから離れる動機になりうる。遊動的な狩猟採集民の社会は小さかったので、このような問題は起こらなかった。半族やスキンなど少数の集団は別として、誰でも、自分に変わった部分や、社会のなかでの個人的なつながりがあるだけで、数百名からなる社会のなかにいても自分は独自の存在だと感じられた。たとえば、職業やクラブに帰属することでちがいを表す必要がなかった。実際のところ、ちがいを表すことは歓迎されなかったかもしれない。しかし定社会が拡大するにつれ、自分を他と区別したいという気持ちがますます強くなっていった。ここで初めて、他の人たちについて知りたい内容が「あなたの仕事は何ですか?」になったのだ。

「自分の属する集団の一部であると感じられるくらいには似ていたいが、それと同時に、特別でいられるくらいはちがっていたい」

 これはわかるなあ。「個性」は欲しいけど、でも「異常者」とはおもわれたくない。

 小さい集団では個性はいらない。個々の違いが十分目立つからだ。家族の中でことさらに奇抜な恰好をする人はいない。でも集団が数十人、数百人の規模になると、私は集団の中に埋もれてしまいそうになる。

 バンド社会で人口の上限値が低かったのは、人間の個性を表現することを抑制するような心理が働いていたからかもしれない。バランスを維持することが必須だったのだ。メンバーたちは、共同体意識を共有するくらいには互いに似ていて、それでいながら自分自身が独特であると思えるくらいにちがっていると感じる必要があった。第10章で、社会のなかのすべての人が数個のバンドのなかで暮らしているときには、自分を他者から区別したいという動機がほとんどなかったと説明した。だから、狩猟採集民のあいだで派閥が作られることがとても少なかったのだ。しかし、いったん人口が膨れ上がると、狩猟採集民も、もっと小さな集団として結びつくことで与えられるようなちがいをもちたいと望んだ。多様なアイデンティティを欲する心理が増大すると、派閥の出現が促進され、その結果、バンド間の対立が生じ、関係が断たれることになった。定社会では状況が異なり、最終的には人口が天文学的な値に達した。バンドに暮らす人々とはちがい、定住生活をする人々の大半は、社会的に容認され、ときには定住社会が機能するために必要とされるようなやりかたで、集団として結びつく機会を見つけた――仕事や職業別の団体、社交クラブ、社会的な階級や拡大された親戚関係のなかでのニッチにおいて。

 集団の数が数十から数百に増えると、集団が分裂したり、派閥が生まれたりして、小さな集団に属するようになる。

 ヒトは言語や信仰などのツールを開発することで大きな集団をつくれるようになったが、それでも動物は動物、やっぱり大きな集団は居心地が悪いのだ。



 ヒトが、社会とのつながりを求める力は、たぶんふだんぼくらが感じているよりもずっと強い。

人間の心は、自身が作り出した私たちと彼らとが対立する世界のなかで発達してきた。そしてその世界から出現した社会はつねに、その他のいかなる社会的な結びつき以上に、人々に意義や妥当性を授ける基準点となっている。このようなアイデンティティがなければ、人は、疎外され、根なし草となり漂流しているような感覚に陥る。これは心理学的に危険な状態だ。その適例が、母国とのつながりを失い、受け入れ国から冷たく拒絶された民族の人々が感じる寄る辺なさである。疎外されることは、宗教における狂信や原理主義よりも強い動機となる。多くのテロリストが、最初から宗教の信者であったのではなく、文化の主流から排除されてから信仰にすがるようになったことの背景にはこれがある。社会的なよりどころをもたない人にとって、信仰が隙間を埋めてくれ。カルト集団やギャングも同じである。社会ののけ者にブライドや帰属感と、さらには共通の目標や目的を授けることによって、社会を持続させるような属性のいくつかを勝手に奪い取っているのだ。

 海外に住む日本人が、日本についてあれこれ語っているのをときどき目にする。国外にいるのだから日本のことばっかり気にしなくても……とついつい考えてしまうけど、国外にいるからこそ日本のことが気になるのだろう。

 定年退職した人たちが、サークルや自治会などの形でどうでもいいことを口実に集まるのも、やはり「社会的なよりどころ」を求めてのことなんだろうな。

 べつにそれ自体はいいんだけど、問題は「社会的なよりどころを求めている人」はつけいる隙が大きいということ。非合法な組織や、カルト集団であっても、帰属感を与えてくれるのであればかんたんに飛びついてしまいかねない。


 人々は自身の自由を大切にするが、実際のところ、自由にたいして社会から課せられた制限は、自由そのものと同じくらい幸福にとって不可欠なものである。もしも人々が、自身にたいして開かれた選択肢に圧倒されたり、周囲にいる人々の行動に動揺したりするなら、自由であると感じることはない。それなら、私たちが自由ととらえているものには、つねにかなりの制約がかかっていることになる。しかし、制限を不当に厳しいものと感じるのはよそ者だけだ。こういう理由から、アメリカのように個人主義を推進する社会と、日本や中国のように集団主義的なアイデンティティを育む社会――共同体とそこから与えられる支援との一体感のほうにより大きな重点が置かれる――はどちらも等しく、社会から差し出される自由や幸福を享受することができる。社会が寛容であっても、もしも市民が、他者の安全地帯から外れた場所で行動する自由をもつなら(あるいはそうした自由をもって当然だと感じるなら)、それ女性がくるぶしを見せることであれ、LGBTQ団体が結婚の権利を主張することであれ、結束が弱まることになる。
 こうしたことが、今日の多くの社会を悩ませている弱点である。しかし、多様な民族がいることから、結束と自由の両方を追求することがいっそう複雑になっている。

「他人の自由に反対する人」っているじゃない。同性婚や夫婦別姓自由化に反対する人。

 ぼくは、ああいう人の存在がふしぎだったんだよね。「おまえが同性婚しろ!」って言われて抵抗するならわかるけど(ぼくも抵抗する)、「同性婚したい人はすればいい、しない人はしなくていい」に反対する理由なんてあるの? 選択肢が増えるだけだから誰も困らないのに?

……とおもってた。

 でも、このくだりを読んでほんのちょっとだけ理解できた。ぼくは自由(選択肢が増えること)はいいものだとおもっていたけど、世の中には自由が嫌いな人もいるのだと。

 自由と社会の結束の強さは両立しない。規律でがんじがらめの軍隊がばらばらになることはないが、「参加してもしなくてもいいよ。他人に強制せずにみんな好きに楽しもう」というサークルは容易に自然消滅する。

 だから所属する社会が変わることを容認したい人は、自由をおそれる。社会の結束が弱まれば、自分が「社会的なよりどころをもたない人」になってしまうかもしれないから。

 ふつうは家族や友人や地域コミュニティや職場や趣味のサークルなどいろんな組織に居場所を感じているものだが、どこにも居場所がなくて「我が国」にしか帰属意識を感じられない人にとっては、社会が自由になってつながりを弱めることはおそろしいことなんだろう。

 共感はしないけど、ほんのちょっとだけ理解はできた、気がする。


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2023年7月19日水曜日

【読書感想文】『大人のための社会科 未来を語るために』 / 電気代が高騰すれば経済成長

大人のための社会科

未来を語るために

井手 英策 宇野 重規 坂井 豊貴 松沢 裕作

内容(e-honより)
気鋭の社会科学者が、多数決、勤労、信頼、ニーズ、歴史認識、希望など12のキーワードから日本社会を解きほぐす。社会をよくしたい、すべての人のための「教科書」。


 社会科学者たちによる、日本社会を解きほぐすための本。「教科書」とついているが教科書のように初学者向けの内容ではなく、ふつうに社会科学の本だった。



 GDPについて。

 GDPの最大の特徴の一つは、あらゆるサービスの付加価値を、中立的に足し合わせることです。どのようなサービスも差別しないので、そのなかにはもちろん医薬も含まれます。だから花粉がよく飛散する年に、誰かが花粉症を発症して抗アレルギー薬を消費するようになったら、それはGDPを上げる効果をもちます。
 こうした「ネガティブな消費」にかんする付加価値をもGDPは含んでいます。係争が起きたときの訴訟費用、ボールが窓ガラスに当たり割れたときの修復費用、あるいは成績不良で留年したとき余分にかかる学費。いずれもネガティブな消費といってよいでしょう。このようにマイナスをゼロにするのも、あるいはゼロをプラスにするのも、「変化分」が等しければ、付加価値としては等しくなります。
 花粉症を発症した人が薬を飲むことで発症以前と同じ生活ができるようになるのは、付加価値の発生であり、GDPの向上につながります。しかし患者にとってはそんな付加価値など要しない発症以前の状態のほうが、好ましかったはずです。

 なるほどなあ。「経済成長」という言葉は主にGDPの伸びをもとに語られるけど、必ずしもGDPが増えれば市民の生活がよくなるというわけではないのだなあ。最近は電気代やガソリン代が値上がりしていて、結果的にGDPも伸びているわけだけど、あたりまえだけど電気代が上がったって暮らしはよくならない。物価上昇分以上に賃金が上がらなければむしろ悪くなる。

 そう考えると、経済成長ってなんなんだという気になってくる。経済成長は選挙の争点にもなったりするけど、国民みんな壮大な詐欺にあってるんじゃないか。

「経済成長」という呼び方がもうウソをはらんでいるよね。「経済膨張」ぐらいがいいんじゃないの。



 日本は高福祉の国というイメージもあるが、国民の意識はむしろ逆で、日本は「自己責任」という感覚が強い国なんだそうだ。

 もう少し具体的にみてみましょう。私たちは、子育てや教育、病気や老後への備え、そして住宅といったさまざまなニーズを、政府などの公共部門=おおやけに頼らず満たしてきました。たとえば、専業主婦が子育てやお年寄りの介護を担ってきたこと、あるいは企業が任意で行う福利厚生である法定外福利費が大きかったことを考えてみてください。さらにいえば、私たちは、これらのニーズを満たすために、政府に税を払うことではなく、自分たち自身で貯蓄することを選んできたのです。
 日本の財政の特徴は、ヨーロッパであれば「パブリック」なものと考えられたニーズを、自分自身の勤労・貯蓄と分離したプライベートである家族・コミュニティ・企業などの助け合い、つまり自助と共助に委ねた点にありました。こう考えますと、依然として自己責任に支えられた日本の財政をどうするのか、人々に共通の「パブリック」なニーズを今後どうするのかという問題に加えて、たんなる欧米の制度のものまねではなく、「生活の場」「生産の場」、そしてパブリックな「保障の場」の関係をどう立て直していくのかが問われることになります。

 教育はともかく、住宅や医療や介護については「個人の問題」という意識が強い。「あなたが住む家なんだから、購入費や家賃を負担するのはあなたでしょ」とおもうし、「あなたの介護が必要になったらそれをするのはあなたの家族」と考える。

 あまりに深く根付いている意識なので疑うこともないけど、改めて考えたら個人に還元すべき問題なのだろうか。住居は誰にとっても必要なものなのだから学校や道路や警察と同じようにすべて税金で負担したっていいんじゃないだろうか。医療や介護だって、誰だって必要となるものなんだから全額税金でまかなったっていい。

 ううむ。考えれば考えるほど、なんで個人で負担してるんだろ? という気になってきた。

 そりゃあ、超高級マンションに住みたい人は自己負担で買えばいいけど「最低限度の生活が送れればそれでいい」って人には格安で住居を提供したっていいよね。学生とかさ。今でも県営住宅とかはあるけど圧倒的に数が足りない。

 病院や介護施設だって、警察や消防と同じで「お世話にならずに済むならそれに越したことはないけどどれだけ気を付けてても必要になることはある施設」なんだから個人負担はもっと少なくていい。老人だけ負担率を低くする、みたいなわけのわからない制度じゃなく、一律数パーセントの負担にしたらいい(タダにしちゃうと必要ないのに行く人が出かねないのでちょっとはお金をとったほうがいい)。



 ジョン・フォン・ノイマン(コンピュータの生みの親)が生み出したコンピュータが優れていたのは、かんたんな仕組みでミスを起こりにくくしたからだという。

 コンピュータといえどもミスは起こる。だが「ひとつの計算を複数の回路でおこない、多数派の結果を採用する」とすれば、ミスが起こる確率は激減する。

 たとえば100回に1回ミスを起こす回路がある。ミスを起こす確率は1%だ。
 だが「3つの回路でそれぞれ計算をおこない、多数派の結果を採用する」とすれば、3つのうち2つ以上が同時にミスをする確率は

(1/100)^2 × 99/100 × ₂C₃ + (1/100)^3 ≒ 0.03%

となる(だよね?)。回路の数をもっと増やせば、ミスが起こる確率は限りなく0に近づく。

 多数決は、基本的にこれと同じ考え方だ。

 ここで人間を電気回路に、集団をコンピュータに見立ててみましょう。するといまと同様の理屈により、個々の人間が「イエス・ノーどちらにすべきか」について正しく判断ができずとも、彼らのうち多数派の判断は正しい確率が高まる、ということになります。さて、これは多数決を安易に礼賛する話ではありません。むしろそれは多数決の「正しい使い方」とでもいうべきものを教え、安易な利用を牽制するものです。三人の有権者が多数決で意思決定する状況を例に考えてみましょう。

〈ボスがいてはだめ〉 三人のなかに一人「ボス」がいて、他の二人はこのボスと同じ投票をするとしましょう。このときボス以外の二人はボスのコピーなので、実質的な有権者はボス一人しかいません。電気回路を一本しか使わないコンピュータと同じで、よくエラーを起こします。これは過半数グループのなかのボスが存在しても同じです。二人の有権者のうち一方がボスだとすると、ボス一人の意見が多数決を経て集団の意思決定となるからです。

〈流されてはだめ〉 人々がその場の何となくの空気や、扇動に流されてはいけません。これは電気回路たちが、外部ショックで同じ方向にエラーを起こすようなことだからです。このときも複数の電気回路を用いるメリットが出ません。

〈情報が間違っているとだめ〉 有権者がひどく間違った情報をもっていてはなりません。これはごく当たり前のことで、「A」と伝えるべき電気回路に、最初から「notA」が入力されていてはなりません。

 こう考えていくと、多数決に求められる有権者の像とは次のようなものです。ボスはおらず、空気や扇動に流されず、デマ情報に惑わされない。自律して熟慮する個人といってよいでしょう。こうして考えていくと、多数決を正しく使うのが決して容易ではないとわかります。

 ボスはおらず、空気や扇動に流されず、デマ情報に惑わされずに完全に独立した意思に基づいて投票行動をおこなう市民……。ま、いないよね。どこにも。

 ということで多数決は理論上は有用な手段なのかもしれないけど、現実的には「影響力のでかい人間のおもいつきで決める」のと大差ない。まったくもって民主的じゃない手段なんだよね。

 だったら他の方法がいいのかというとそれぞれ一長一短があるから決定的な方法はないんだけど、問題は「多数決で選ぶ」=「民主的に選ぶ」と誤解されていることだよね。多数決、小選挙区制という歪んだルールのゲームを制しただけなのにおこがましくも「自分たちは民意で選ばれた」と勘違いしてるバカ政治家もいるしね。

「多数決は便宜的に用いている手段であってまったく民意を反映していない」という認識が広がれば、もうちょっとマシな政治ができるようになるのかもしれないね。


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2023年7月14日金曜日

【読書感想文】二宮 敦人『最後の秘境 東京藝大 天才たちのカオスな日常』 / ハンター試験をくぐりぬけ

最後の秘境 東京藝大

天才たちのカオスな日常

二宮 敦人

内容(e-honより)
やはり彼らは、只者ではなかった。入試倍率は東大のなんと約3倍。しかし卒業後は行方不明者多発との噂も流れる東京藝術大学。楽器のせいで体が歪んで一人前という器楽科のある音楽学部、四十時間ぶっ続けで絵を描いて幸せという日本画科のある美術学部。各学部学科生たちへのインタビューから見えてくるのはカオスか、桃源郷か?天才たちの日常に迫る、前人未到、抱腹絶倒の藝大探訪記。


 日本最難関の大学は東大ではない。東大入試の倍率は3~4倍。一方、東京藝大の倍率は学科にもよるが高ければ数十倍。入ることの難しさでいえば、圧倒的に東京藝大のほうが上である。しかも芸術的才能を開花させるには、勉学よりも遺伝・家庭環境・どれだけ早くから始めたかがものをいう。大人になって一念発起して数年間必死に勉強をして東大に入れることはあっても、大人になって必死にピアノを練習しても東京藝大には入れないだろう。

 宝塚音楽学校と並んで、日本で最も入るのが難しい学校と言っていいだろう。

 そんな、とにかくすごい大学。が、その中身はベールに包まれている。いやべつに包んでいるわけではないだろうが、ほとんどの人には縁のない世界だ。

 もちろんぼくにもまったく縁がない。そもそも芸術と縁がない。ド音痴だし、美術館にもほとんど行ったことがない。藝大生がどんな生活を送っているのか、まったく想像もつかない。美大や音大といっても『のだめカンタービレ』『はちみつとクローバー』程度の知識しかない。漠然と「変わった人が多いんだろうな」とおもうだけだ。




 そんな、変人が集う芸術系大学の中の最高峰・東京藝大の卒業生・在学生・教授へのインタビューを通して藝大生の生態を明らかにしたルポルタージュ。ものすごくおもしろい。


 藝大は大きく音校と美校に分かれているのだが、その二者は似ているようでまったく別物だそうだ。

 一方、音校卒業生の柳澤さんが教えてくれた、学生時代の話。
「私、月に仕送り五十万もらってたなあ」
「え、五十万?」
「音校は何かとお金がかかるのよ。学科にもよるけど。例えば演奏会のたびにドレスがいるでしょ。ちゃんとしたドレスなら数十万はするし、レンタルでも数万。それからパーティー、これもきちんとした格好でいかないとダメ」
 音楽業界関係者のパーティーは頻繁にあるそう。そこで顔を売れば、仕事に繋がるかもしれないのだ。

 うひゃあ。こんな人がごろごろしているのだそう。

 音楽センスに恵まれていて、本人も音楽が好きで、必死で努力して、でもそれだけでは入れない世界なのだ。家に経済的余裕があって、かつ毎月五十万円出してくれないと入れない。かつ、三歳ぐらいからずっと一流のレッスンを受けさせてくれる家でないと。

 しかしこれはこれでたいへんよなあ。生まれたときから音楽家になることが義務付けられているようなもんだもんなあ。皇室に生まれるのとあんまり変わらない。




 多くの天才が集う場所だけあって、藝大は入試も独特。

「人を描きなさい。(時間:二日間)」
 平成二十四年度の絵画科油画専攻、第二次実技試験問題である。二日間ぶっ続けではなく、昼食休憩の時間もあるため、試験時間は実質十二時間ほどだが、それでも長い。

 十二時間かけて人を描く……。とんでもない難問だ。ぼくなんか一時間ももたないや。

 勉強のほうでも、一流校は意外と問題がシンプルなんだよね。東大入試の数学の問題なんか、問題文は二~三行だったりするもんね。




 入試にはみんな画材を持ち込むので、スーツケースで会場入りしたりするらしい。それにもかかわらず……。

「入試当日は、エレベーターが使えないんです。そして困ったことに、油画の試験は絵画棟の五階とか六階で行われるんですよ」
 試験会場まで階段で上らなくてはならないのだ。さらに美校の教室は大きなサイズの絵を描いたり展示したりできるように、一階分の天井高が通常のビルの二階分ほどある。試験会場が六階であれば、実質十二階分、重い画材を担いで上ることになってしまう。
「試験当日、集合場所に集まるじゃないですか。すると試験官の方が現れて、「では、ついて来てください」と言うんです。それからいきなり、軽快に階段を上り始める。いきなりみんなで耐久レースですよ。ひいひい言いながら階段を上る、上る。女の子とか途中でへたり込んでしまったり……運動不足の人は顔真っ赤にしてますね。途中で離脱してしまう人もいると思います。『ハンター試験」って呼ばれてますね」

 重い画材を抱えて階段を上がる……。まさにハンター試験だ。あの体力自慢デブが自信をこっぱみじんに砕かれたやつね。




 入試、授業、学祭、卒業後の進路。どれもふつうの大学とはまったくちがっていておもしろい。藝大に入りたいとはおもわないけど(当然ぼくなんか入れてくれないだろうけど)、学祭ぐらいは行ってみたくなったな。


 本を読む愉しさのひとつが、自分とはまったくちがう異なる人生を追体験できることなんだけど、この本はまさにその愉しさを存分に味わえる本だった。こんな生き方もあるのか、と自分の視野がちょっとだけ広がった気がする。


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2023年7月5日水曜日

【読書感想文】鳥羽 和久『君は君の人生の主役になれ』 / 十代は手に取らない十代向けの本

君は君の人生の主役になれ

鳥羽 和久

内容(e-honより)
学校や親が重くてしんどい人へ。先生・友達・家族、そして、勉強・恋愛・お金…。いま悩める十代に必要なのは、君自身が紡ぐ哲学だ。

 学習塾も運営している著者から十代へのメッセージ。


 いきなりだけど、この手の説教本は嫌いだ。えらそうに人生訓を説くような本を読む人の気が知れない。でもビジネス書のコーナーなんかにはその手の本がたくさんあるから、好きな人もいるのだろう。

 説教本が嫌いなのになんで読んだかというと、当事者じゃないからだ。ぼくが十代だったらぜったいにこの本は手に取らなかった。なんで金払っておっさんの説教を聞かなきゃいけないんだ、と。

 でも今のぼくはすっかりおっさん。「おっさんが十代に向けた説教」はまるっきりの他人事だ。だから平気。自分以外に向けられた説教は素直に聞ける。

 ということで読んでみた。




「なぜ友達を大切にしないといけないのでしょう」というテーマを教師から与えられて討論をはじめた子どもたちに著者がかけた言葉。

 みんなは「友達は大切だ」という前提で話をしていて、中には面白い意見も出たけど、でも、本当にここにいる全員が「友達は大切だ」って思って話してるのかな? 今日、みんなは「どうして友達は大切か」をテーマに話しているけど、例えば、僕はそもそも友達が大切だとは思っていない、そういう子が一人くらいいても何の不思議もないと思うし、それが別に間違った考えだなんて思わないんだよね。
 私がそう言い終えると、ガラガラッと何かが崩れる音が聞こえた気がするくらい、教室内の雰囲気が一変しました。そして一分近く沈黙が続いた後、ある男の子が意を決したように立ち上がって、「僕は友達はあまり大切だとは思いません。自分の時間の方が大切です。友達がいなくても僕は楽しいです」と声を震わせながら発言しました。私は、わー、すごい子が現れた! と思いました。
 でも、驚いたことに、そのあと彼に続いて同じようなことを言う子が次々と現れたんです。わたしも、僕も、友達は別に大切じゃない……。そして、わずかその五分後には、教室全体が「友達は必ずしも大切ではない」という空気で満たされてしまいました。私は大いに戸惑いました。こんなはずじゃなかった……と思わず頭を抱えてしまいました。

 はっはっは。

 そうだよなあ。「友達は大切だ」も「友達を大切とおもう必要はない」も自分の頭で考えた意見じゃないんだよなあ。子どもたちはその場の空気を読んでいるだけで。前半は教師の、そして後半は著者を喜ばせる発言をしているだけ。

 まあでもそうなるよね。子どもにとっての正解は「自分で考えたこと」じゃなくて「そこにいる大人が喜ぶこと」だもんね。特に学校という空間ではそうなるだろうね。

 でもそれをもって「最近の子どもたちは~」なんて言うのは愚の骨頂で、古今東西子どもというのはそういうものだ。むしろ、自分の中に確固たる信念を持っている子どものほうが気持ち悪い。周囲の大人の顔色をうかがって、求められる正解を学ぶのが成長というものだ(学んだ結果に正解を出そうとする子もいれば、正解を学んだうえであえて不正解を出そうとする子もいるが)。




 学校になじめない子について。

 学校でうまくいかない子がいるとき、彼らの資質や適性に問題があると判断するのは早計です。うまくいかない理由は、学校のシステムの問題、クラスの環境の問題に起因することがほとんどで、後付けでその子の「弱さ」が発見されることが多々あるのです。変わるべきは本人ではなく学校側なのに、学校が頑なに非を認めることなく生徒側にその原因を押しつけるせいで、いつの間にか親までうちの子の方に問題があると考えるようになることも多々あるのです。
 でも、学校でうまくいかないというのは、いかに「弱さ」に見えようとも一種の意思表示なんです。彼らは辛いと感じたり不調を訴えたりすることでレジリエンスを発揮しようとしているのであり、つまり、学校のいびつさや人間関係の冷たさに対して全身で抵抗しているのです。だから、私は彼らの抵抗を全面的に支えたいと思うのです。彼らが十全に戦うことができるように、その砦をいっしょに築きたいと思うのです。

 ん-。

 ま、そうかもしれないけどさ。学校でうまくいかないのは、生徒のほうじゃなくて学校に問題があるのかもしれないけどさ。

 でも、それを言ったとしても学校でうまくいかない子の苦しみが和らぐかというとそんなことはないんじゃないかなあ。

 ぼくは仕事をするということがすごく苦手で、新卒入社した会社をすぐにやめて無職になってつらい思いをしたけど、そんなときに「君が悪いんじゃなくて社会が悪いんだよ」って言葉をかけられたとしても、ぼくの抱えている苦しみはどうにもならなかったとおもう。「社会が悪いから働かなくていいんだよ」って言って五億円くれるんなら苦しみが緩和されたかもしれないけど。


 ただ「問題は学校の側にある」と考えるのは、現に学校になじめない子にとっては救いにならないかもしれないけど、親がそう考えるのは間接的に子どもの救いになるかもしれないな。




 親としては、いろいろと反省する点もあった。

 小受の勉強で難しいさんすうの問題が解けてうれしくなった年長組のSくんは「さんすう、好きー!」とお母さんに言いました。お母さんもうれしくなって、「解けたのすごいねーお母さんもうれしーこれからもがんばろうねー!」と言います。そしてSくんは「がんばる!!」と満面の笑みで応えます。
 そのわずか一か月後にお母さんがSくんに吐いた言葉は、「あなた、さんすうが好きだからがんばるって言ってたよね?」でした。こうしてSくんの「好き」は死んでしまいました。子どもの「好き」を質に取ることほど残酷なことはないのに、それを平気でやってしまう親はたくさんいるのです。

 これはぼくもやってしまうな……。

 子どもの「好き」を質に取る、か。たしかになー。

 親としては、子どもの「好き」を伸ばしたい一心なんだよね。だから「あなたがやりたいって言ったんじゃない」とやってしまう。

 自分のことを考えてみればわかるんだけど、好きだからといって四六時中やりたいわけではない。ぼくは本を読むのが好きだけど、毎日必ず三時間読みなさいと言われたらイヤになってしまう。

 好きだからって一生懸命に取り組まなくてもいいし、サボったっていい。自分のことだとそうおもえるんだけど、子どものことになるとついつい「あなたがやりたいって言ったんだからやりなさい!」になっちゃうんだよなあ……。気をつけねば。


 このように、世の中のほとんどの親は子どもをコントロールしたいという欲望から逃れることはできません。だからこそ、いくら小手先の技術でそれを回避しようとしても、きまって欲望が回帰してしまいます。
 そして、そのコントロールの仕方はほんとうにえげつないんです。親は「あなたが○○しなければ、私はあなたのことを愛さない」というふるまいによって、あなたの存在のすべてを賭けた愛情を質に取ることで、あなたをコントロールしながら育ててきたのですから。
 そんな中で、あなたは親との関係を通して、自分がやりたくないことをやらされたり、逆にやりたいことをダメだと言われる経験を得ることで自我を目覚めさせ、良くも悪くもあなたの価値観の根幹を形成してきたのです。つまり、あなたの主体性の形成には、親が幾重にも畳み掛ける否定の働きが不可欠だったのです。
 この意味において、親から与えられた否定性は呪いであり、同時に宝でもあります。それによって、ときに存在を危うくされながらも、あなたはあなたになったのですから。

 ぼく自身、親から「勉強しなさい!」なんて直接的な説教をされずに育ったので娘に対しても言わないようにしている。でも、「勉強しなさい!」とは言わないけど、娘が勉強したら喜んで、勉強をしてほしいのに娘がしないときは冷たく接したりしている。それって結局「勉強しなさい!」って言うのと同じだよなあ。コントロールの方法が違うだけで、コントロールしようとしていることには変わりがない。

“親から与えられた否定性は呪いであり、同時に宝でもあります”という言葉は真実だとおもう。そうだよね。親の愛って呪いだよね。愛されているということは「あなたはこう生きなさい」っていう呪いをずっとかけられつづけるということでもある。

 ぼく自身、すっかりおっさんになった今でも「こういうことしたら父母は眉をひそめるだろうな」という考えが頭をよぎることがある。呪いは深い。


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