2021年7月30日金曜日

いじめる側にまわるいじめられっ子

 

 中学三年生の春、転校生がやってきた。
 転校生の名前はイソダくん(仮名)。
 イソダくんは太っていて、もちろん運動は苦手で、勉強はあまりできなくて、特におもしろいことを言うわけでもなく、早い話がぱっとしない子だった。
 転校生は関心を持たれるものだが、みんなは早々にイソダくんに対する興味を失った。とはいえイソダくんは何人かの友だちもできて、教室の隅でカードゲームなんかをしていた。

 イソダくんは優しい子ではなかった。スネ夫タイプというか。先頭を切って誰かをいじめることはないが、誰かが攻撃されていたら周囲に便乗して攻撃に参加するタイプ。安全な位置から安全な相手に対してだけ攻撃を加えるタイプ。
 べつにめずらしくもない。世の中の大多数がこういうタイプだ。


 さて。
 イソダくんが転校して一年が経った。ぼくらは卒業式を迎えた。
 卒業式の後、三年生の保護者と担任の教師で謝恩会なるものが開かれた。先生ありがとうございましたと言っておしゃべりをする場だ。

 謝恩会に出席したぼくの母は、帰ってきてから言った。
「転校生のイソダくんって子がいたんだって?」
「うん」
「あの子、前の学校でいじめられてたんだって。だから転校してきたんだけど、『こっちの学校の子はみんな優しくてぜんぜんいじめられなかったから良かったです』ってイソダくんのお母さんが涙ぐみながら言ってた。すごく感謝してた」

 それを聞いて、ぼくは納得感と意外な気持ちの両方を味わった。

 イソダくんがいじめられていたというのはわかる気がする。太っているし、頭も良くないし、性格も良くないし、実際うちの学校でも「イソダ嫌いやわ」というやつはいた。ぼくも好きじゃなかった。どっちかっていったら嫌いなぐらい。
 うちの学校ではイソダくんはいじめられていなかったが、それはべつにぼくらが高潔だったからではなく、担任の先生がこわもての体育教師だったとか、二年生の後半ぐらいからヤンキーが学校にあまり来なくなったのでクラスの雰囲気が良くなったとか、イソダくんよりむかつくやつがいたからとか、そういうちょっとしたことによる結果にすぎない。うちの学校の生徒が優しかったわけではない。めぐりあわせが悪ければイソダくんはいじめられていただろう。

 意外だったのは「いじめられてたやつがあんなふうにふるまうんだ」ということ。
 前の学校で何をされたのかは知らないが、家族で引っ越して転校するぐらいだから相当ひどい目に遭っていたのだろう。
 ぼくの想像するいじめられっ子は〝気が弱くて何をされても言いかえせないおとなしい子〟だったが、イソダくんは決してそういうタイプではなかった。みんなといっしょになって、弱い子にからかいの言葉をぶつけるような生徒だった。


 でも今ならわかる。
 イソダくんはいじめられないためにいじめる側にまわっていたのだと。いじめられていたからこそ、いじめる必要があったのだと。
 長期化するいじめ、深刻化するいじめって、「クラスで弱いほうのやつがやっぱり弱いほうのやつをいじめる」みたいなパターンが多い。

 動物が闘うのって、「餌や異性を狙っているとき」か「自分の立場が脅かされるとき」じゃない。後者は、命を狙われたり、群れから追いだされそうになった場合。

 人間の場合もあまり変わらない。中学生のいじめなんて「金品を狙う」か「こいつより上に立ちたい」かのどっちかしかないとおもう。極端に言えば。
 で、自分より圧倒的に強いやつや、あるいは逆に圧倒的に弱いやつに対しては「こいつより上に立ちたい」とおもうことはない。
 闘う必要があるのは、上から2番目~下から2番目のやつらだけだ。


 いじめられるつらさを知っているから優しくなれる、なんてことはない。
 逆だ。
 いじめられるつらさを知っているからこそ、いじめる側にまわるのだ。


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奥田 英朗『沈黙の町で』

2021年7月29日木曜日

【読書感想文】サレンダー橋本『全員くたばれ!大学生』

全員くたばれ!大学生

サレンダー橋本

内容(e-honより)
包茎大学哲学科に入学した亀田哲太は、5月になっても友達ができず、休み時間は机の木目を見ながらパリピの声を盗み聞きする日々…。おしゃれカルチャーグループに近づこうとしたり、麻雀ができると嘘をつき、スタバでバイトしているフリをしたり、胸が苦しくなるほどイキってしまう。そんな彼に友達はできるのか―!?大学生活で最も大切な一年生を描いた意欲作。

 理想のキャンパスライフと現実とのギャップに苦しむ自意識過剰な大学生が主人公。

 クラスメイトをランク付けしたり、彼女がいるふりをしたり、ギターも弾けないのにからっぽのギターケースを持ち歩いたり。
 楽しそうにしている大学生を小ばかにしているが、ほんとは混ざりたい。混ざりたいけど高すぎる自意識が邪魔をして言えない。

 ギャグ漫画なのだが、読んでいて胸が痛くなる。自分にも思い当たるフシがありすぎるから。




 ぼくの大学時代の思い出も、どちらかというと暗い。

 三回生ぐらいになってようやくサークルに居場所ができたり、念願の彼女ができたり、アルバイトにも慣れたりしたが、特にはじめの二年はいろいろきつかった。
 彼女はいなかったし、もちろん童貞だったし、腹を割って話せる友人はいなかったし、サークルも嫌なところが目についたし、実家を出て姉とふたりで暮らしていたのだが喧嘩は絶えなかったし、自動車教習所は苦手だったし、バイトもあわずに数ヶ月でやめてしまったし、貴重な学生生活なんだから何かしなきゃという重圧と何もしたくないという思いに挟まれて鬱々としていた。長期休みのたびにずっと実家に帰って高校の友人とばかり遊んでいた。

 一方周囲に目をやると、大学生というのは必要以上に楽しそうに見える。やれバイトだ、やれコンパだ、やれバンド結成だ、やれ徹夜飲みだ、やれ旅行だ、やれ学園祭だ、やれ彼氏彼女だ。とかく大騒ぎしている。
 ぼくの通っていた大学にはチャラついた学生は少なかったが、それでも田舎から出てきてファッションのファの字も知らないぼくから見るとみんなこじゃれて見えた。

 入学して一週間ぐらいすると、あっという間にイケてる人たちはグループは結成している。連絡先を交換して、もうゴールデンウィークの予定を立てたりしている。
 ぼくも少ないとはいえ友だちができたが、何度か話しているうちに「こいつはちょっとちがうな」とおもうようになった。ぜんぜん悪い人ではないのだが、価値観とか笑いのポイントとかがまったくちがうのだ。たぶん向こうも同じように感じたのだろう、すぐに疎遠になった。

 遠目で見ていて「あいつおもしろいな」という人もいるのだが、彼らは人気者なので既に友だちに囲まれている。そしてそういう人にかぎって「妙にいきがってていけすかないやつ」「つまんないくせに声だけでかいやつ」に囲まれてるのだ。あの輪には入りたくない。

 小学生のときは、楽しそうなグループがあれば素直に「おれも入れて」「あそぼ」と言うことができた。でも大学生だとそれができない。断られたら恥ずかしい、断られなくても嫌な顔をされるかもしれない、嫌な顔をされなくても後で悪口を言われるかもしれない。




 この漫画の中で主人公は「モテようとしてるのにモテないやつ」になるぐらいだったら「モテようとしてなくてモテないやつ」になるほうがマシ、という理論を展開するのだが、その感覚はよくわかる。ぼくもまったく同じことを考えていた。
 いちばんかっこいいのは「モテようとせずにモテるやつ」だ。これが理想だが、自分がそのポジションに就けないことぐらいはさすがに二十年生きていればわかる。

 だから競争から降りたフリをして「おれモテようとかおもってないから」とあえて同じ服ばかり着たりしてしまう。
 テスト前に「おれぜんぜん勉強してねーわ」と言うやつといっしょで、その姿勢こそがいちばんダサいし、何もしないよりちょっとでもおしゃれになる努力をするほうがまだマシなのだが、肥大した自意識が邪魔をして「モテるための努力」をすることができない。
 そして茶髪にしたやつを見て「似合ってねえのに恥ずかしいやつ」と小ばかにする。
『全員くたばれ!大学生』の哲太はまさにぼくの姿だ。


「友だちを作りたいけど輪に入れない」も「彼女がほしいけどモテるための努力をするのが恥ずかしい」も根っこは同じで、「自分は変わりたくない。周囲に変わってほしい。ありのままの(=何もしない)自分を受け入れてほしい」ってことなんだよね。

 もし今大学生の自分に会ったら「そんな虫のいい話あるわけねーだろ。おまえが歩み寄るんだよ!」ってほっぺたをつねってやる(やっぱり自分はかわいいからぶん殴ることはできない)んだけどな。
「大丈夫だよ、おまえのことを気にしてるのなんておまえだけなんだから。だからどんどん恥をかけ!」って言ってやりたい。


 この漫画、大学卒業して十数年たった今だから「あー昔のぼくと同じで自意識過剰なイタいやつだなー」とおもえるけど、二十代の頃だったら胸が痛すぎて読んでいられなかったかもしれない。


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2021年7月28日水曜日

【読書感想文】宮台 真司『社会という荒野を生きる。』

社会という荒野を生きる。

宮台 真司

内容(e-honより)
ニュースの読み方が変わる!現代社会の「問題の本質」と「生きる処方箋」。

 社会学者である宮台真司さんがラジオでニュースの裏側を解説し、その文字起こしをニュースサイトに転載。で、その文章を書籍化したもの。
 とりあげられているニュースは2015年のもの。安保法制反対デモと強行採決があった頃だね。

 この人の文章ははじめて読んだけど、かなり刺激的だ。良くも悪くも。
「クソ保守」という言葉で「日本国憲法は押しつけ憲法だ」と主張する連中を批判し、その一方で「民主主義はアメリカによってもたらされた」とする連中を「クソ左翼」とたたっ斬る。

 書いてあることはまっとうな内容も多いのだが、なんせ言葉が過激。学者にはけっこういるよね。作らなくてもいい敵を作るタイプ。
 こうやって文章を読んでいるだけなら楽しいんだけどね。お近づきになりたい人ではないな。




 日本の民主制のデタラメぶりを象徴するのが「党議拘束」。そんな英語があったかなと調べてみたら、複数の辞典にcompulsory adherence to a party decisionとありました。無理やり党の決定に従わせることという文章です。単語としては存在していないのです。
 ひどいでしょ? 何がひどいって分かりますか? 候補者個人が選挙公約をしても、党議拘束に従うしかなければ、意味がなくなるでしょ。また、党が予めこうすると決めているなら、国会審議も意味がなくなる。初めからシナリオ通り振る舞うしかないのだから。
 党議拘束があると、どんなに審議時間をかけても――安保法制の審議に100時間以上使ったとホザく輩がいますが――議員の内部で生じた気づきや価値変容に従って立場を変えられません。何のための審議ですか? 審議しても結果が変わらないなら審議って何よ。

 これなあ。ぼくもずっとおもってた。
 国会議員は党の決定に従いすぎだ。従うというか顔色を窺うというか。

 地方議員には骨のある人もいるのだが、国会議員はほんと腰抜けばかりだ。与野党問わず。
「党はこう言っているが、私はまったくそうはおもわない」ということが言えない。
 自民党員が自民党を批判したっていいじゃない。むしろそっちのほうがまともだ。党員だからって党の方針と一から十まで一致しているほうが異常だ。
 やっぱり小選挙区制と小泉純一郎の〝刺客候補〟のせいかね。党に物申せるまともな国会議員がいなくなったのは。

 アメリカ政界のニュースを見ると、共和党議員がトランプ政権を公然と批判したり、わりと〝造反〟を目にする(ぼくから言わせるとあの程度で造反というのがおかしいんだけど)。
 でも日本の国会議員は〝議員〟であるより〝党員〟であることのほうを優先させているように見える。やっぱり小選挙区制ってゴミ制度だよなあ。さっさとなくなってほしいわ。




 レファレンダム(政治に関する重要事項の可否を、議会の決定にゆだねるのではなく、直接国民の投票によって決める制度。住民投票など)について。

第一に、景気対策・雇用対策・社会保障政策など他の人気がある政策パッケージと一緒にしてしまえば、本当は再稼働や安保法制に反対でも、背に腹は替えられない国民は再稼働や安保法制を進める党を支持する。議会制民主主義でありがちです。
 かくて国民の意思が反映されなくなった個別イシューが、日本国民の命運を左右する重大問題であることがありえます。原発再稼働や安保法制の問題はそうした問題の典型です。だからこそ個別イシューで国民投票を行なうのです。ワンイシュー選挙よりもずっと安い。

 レファレンダムは議会制の否定なんて批判もあるみたいだが、宮台氏はこの本の中でそういった批判を明確に否定している。

 たしかにね。ある政党/候補者を全面的に支持できるという有権者はそう多くないだろう。
「消費税増税には反対だけど経済政策は今のままでいいから自民党支持」とか「安保法制には反対だけど野党には入れたくない」とかの人が大半だとおもう。
 ぼくも選挙のたびに今回はどこに入れようかと悩む。「消費税についてはA党の考えに近いけど外交の姿勢はB党なんだよなあ」ってなぐあいに(ここだけはぜったいに入れない、という党もあるが)。
 パッケージングしていることが問題なんだよな。個々の政策ごとに有権者に問うてくれたらいいのに。

 選挙はもっと頻繁にやったらいいとおもう。
 選挙や住民投票があるたびに「選挙で○億円が使われることになる。もったいない!」なんて言う人がいるけど、いいじゃん、使っちゃえば。
 だって選挙をおこなうために使われた金って外国にあげたとかじゃないんだよ。日本の会社や人に払ってるんだよ。国が貯めこんでる金が企業や国民に還元されてるわけじゃん。つまり経済を回してるわけだ。

 すばらしいことだ。選挙は公共政策。どんどんやればいい。




 政府が2015年6月に開催した「すべての女性が輝く社会づくり」会議の話題。

 日本の男の家事参加は、せいぜいお風呂掃除とかゴミ出し。そんなことは、家事参加とは言えないよ。会社に行く途中にゴミを出せばいいだけだろ。そういうことじゃなく、洗濯をし、料理を作り、子育てに平等に関わる。これが非常に重要です。もちろん僕はやってます。
 でも、そのためには日本の労働法制や労働慣行が変わらなければダメ。男性の育児休暇の取得率が今の20倍以上になり、それがなおかつ不利益にならない制度が必要です。何らかの不利益を被った場合に、その会社にペナルティが課せられる制度がなきゃ、ダメなんですよね。
 その意味で、女性の問題というのは男性の問題でもあるんです、当然だけど。女性の妊娠・育児に関わる負担軽減の旗を振るなら、男性の仕事に関わる負担軽減の旗も、同時に振らなきゃいけないの。昔の性別分業から見て、女が男に近づくだけでなく、男も女に近づくこと。
 内閣官房は「男が女に近づけ」ってことが全く分かってない。どれだけ低レベルの役人だらけなんだ。それで結局「仕事をしてもいいよ、だけど家事もね」という風に女性が二重負担になっちゃうから、女性が働けないんじゃないか。あるいは子育てできなくなっちゃう。どっちかを選ぶしかなくなるんだよ。

 そうだよなあ。女性が働きやすい社会って男性も働きやすい社会なんだよな。
 早く帰れて、休みの日はきっちり休めて、急な休みもとれて、望まない転勤や出張もない。もちろん十分な給与が出る。女性だけでなく男性も。そうなってはじめて家事育児を分担できて、女性も働きやすくなる。

 でも少子化対策の話になると、子どもと女性の話ばかりになる。「女性が働きやすくなるにはどうしたらいいか」っていう発想からしてもうずれてるんだよな。


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小選挙区制がダメな99の理由(99もない)/【読書感想エッセイ】バク チョルヒー 『代議士のつくられ方 小選挙区の選挙戦略』



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2021年7月27日火曜日

【読書感想文】吉田 修一『キャンセルされた街の案内』

キャンセルされた街の案内

吉田 修一

内容(e-honより)
新人社員くんの何気ない仕草が不思議に気になる、先輩女子今井さんの心の揺れ動き(「日々の春」)。同棲女性に軽んじられながら、連れ子の守りを楕性で続ける工員青年に降った小さな出来事(「乳歯」)。故郷・長崎から転がり込んだ無職の兄が弟の心に蘇らせる、うち捨てられた離島の光景(表題作)など―、流れては消える人生の一瞬を鮮やかに切りとった、10の忘れられない物語。


 なんでもない一瞬を切り取った短篇集。

 うーん、ほんとになんでもない……。ちょっとした一瞬にもほどがあるというか……。あまりにも何も起こらない。たしかに文章はうまいけど、それにしても内容がなさすぎる。

 吉田修一作品はこれまでに何作か読んでるけど、文章力がうまいだけでなく、ストーリーもちゃんとおもしろかった。
 ミステリ要素も含む『怒り』『悪人』はもちろん、作品中では大した事件の起こらない『パレード』『元職員』も背景には大きな事件が隠れていた。

 ただこの短篇集、特に前半に収められている作品は凪すぎた。あまりにイベントが起こらなさすぎる。一度も敵に遭遇しないままクリアしてしまうロールプレイングゲームみたいなもので、いくらグラフィックや音楽がきれいでも楽しめない。




 その中で『奴ら』は、明確に事件が起こる。

 主人公である専門学校生の男は、ある日電車内で痴漢に遭遇する。目撃したのではない。自身が痴漢に遭うのだ。男が、男から、尻や股間をまさぐられる。
 痴漢に遭った男は動転して、犯人を捕まえることはおろか、抵抗することも声を上げることすらできない。そして後になってから怒りがこみあげてくる。痴漢に対して、そしてそれ以上に何もできなかった自分に対して。


 ぼくは痴漢に遭ったことはないが、理不尽な暴力の被害に遭ったことはある。夜中に自転車に乗っていたら、すれ違った男にいきなり肩を殴られたのだ。

 何が起こったのかまったくわからなかった。痛っ、とおもってそのまましばらく自転車で走りつづけて、少ししてから殴られたのだと気づいた。だがなぜ殴られたのかまったくわからない。呆然としていたが、少ししてからやっと恐怖や怒りがこみあげてきた。とっさには何が起こったかわからなくて恐怖も怒りも感じることができなかったのだ。あのやろう、とおもったときには殴った相手はどこかへ行った後だった(追いかける勇気はぼくにはなかった。返り討ちに遭う可能性もあるのだから)。

 突然殴られてからしばらくの間はショックを引きずっていた。
 今おもうと、単に殴られたことがショックだったというより「こいつは理由なく殴っていいやつ」とおもわれたことがショックだったんじゃないかとおもう。
「肩ぶつかっておいてあいさつもなしかよ」みたいな明確な理由があって殴られたほうが、まだ納得できたんじゃないかとおもう。


 ぼくは経験がないから想像するしかないけど、痴漢に遭う怖さもそれに似ているんじゃないだろうか。
 尻をさわられることよりも「こいつなら触っても反発しないだろう」「こいつならいざとなってもねじ伏せることができるだろう」とおもわれることが恐怖なんじゃないだろうか。
 自分のことを屈服させることができるとおもっていて、そして実際屈服させようとしてくるやつがすぐ背後にいる。これはすごく怖い。

 力関係とかだけの話ではない。もし自分が世界一腕っぷしの強い男だったとしても、「おまえなんかいつでも殺せるんだからな」と言われたら怖い。悪意を向けられること自体が怖い。

 ぼくは男だから「痴漢に遭ったら声を上げて警察に突きだせばいいじゃない」とのんきに考えてたけど、やっぱり実際痴漢に遭ったらめちゃくちゃ恐怖だろうな。ぼくもとっさには声を出せないかもしれない。
 女性からしたら何を今さらって話なんだろうけど。




『大阪ほのか』の中の一節。

 今の世の中、結婚しない男など珍しくもない。ただ、結婚しない「男」だから許されるのであって、これが「男」でなくなったとたん、目も当てられぬ存在になる。もちろん男として生まれてきたからには、死ぬまで男であるに違いないのだが、男が男のままでいるのはなかなか難しく、この年になると、ちょっとでも気を弛めたとさたん、「男」という称号をすぐに奪われてしまいそうになる。

 たしかになあ。
 ぼくは結婚していて、独身で遊び歩いている男がうらやましくなることもあったけど(最近はあまりない)、それは「男」だから楽しそうに見えるんだよな。
「独身男」はうらやましくても、「独身おじさん」や「独身じいさん」をうらやましいとおもう人はほとんどいないもんなあ。

 独身男は独身女よりは社会的に許容されやすいけど、あくまで独身「男」でいる間だけの話だよね。高齢になったらむしろ独身おばさんや独身ばあさんより居場所がないかもしれない。

 でも子どもが二十代の生活を想像できないように、二十代には四十代五十代の生活が想像できない。
 ぼくは三十代後半になったことで四十代五十代の生活が見えてきたけど、二十代の頃にはわからなかった。とりあえず、こんなに性欲が減退するなんておもってもみなかったなあ。
 二十代の男なんて脳内の半分は性欲なんだから、「性欲減退」って人格ががらっと変わるぐらいの変化なんだよな。想像できなかったなあ。


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2021年7月26日月曜日

【読書感想文】高野 秀行『移民の宴 日本に移り住んだ外国人の不思議な食生活』

移民の宴

日本に移り住んだ外国人の不思議な食生活

高野 秀行

内容(e-honより)
日本に住む二百万を超える外国人たちは、日頃いったい何を食べているのか?「誰も行かない所に行き、誰も書かない事を書く」がモットーの著者は、伝手をたどり食卓に潜入していく。ベリーダンサーのイラン人、南三陸町のフィリピン女性、盲目のスーダン人一家…。国内の「秘境」で著者が見たものとは?

 「日本に住む外国人たちの食事会」にまぎれこませてもらい、日本在住外国人たちがどこで食材を買っているか、どんな料理をしているか、さらにはどんな生活を送っているかをつづったルポ。まあルポというほど堅苦しくないが。

 たしかに、ぼくが子どもの頃は(田舎育ちだったこともあって)外国人を目にする機会は少なかったが、今は日本にいる外国人の姿もめずらしくない。
 コロナ禍で旅行者の数は激減しているのにそれでも街を歩く外国人(っぽい見た目の人)は少なくないのだから、住んでいる人も多いのだろう。

 だが、ぼくは彼らがふだん何を食べているのかほとんど知らない。
 たしかに中国人のやっているお店には中国人っぽいお客さんが多いし、ネパール料理屋ではネパール人らしき人をよく目にする。とはいえ彼らだって年中外食をしているわけではなく、自炊したり買ってきたものを食べたりしているのだろう。どんなものを食べているか、ほとんど知らない。

 でも、よくよく考えてみればべつに外国人にかぎらず、周囲の人が家でどんなものを食べているかほとんど知らない。なんとなく同じ日本人だから同じものを食っているだろうとおもっているが、もしかしたらぼくの友人や同僚は毎日カレーだけを食べたりバッタを食べているのかもしれない。




 正直言って「外国人の料理レポート」部分は、高野秀行さんの本にしてはあまりおもしろくなかった。まあこれはぼくが食にあまり関心がないせいだけど……。

 結局、外国人であろうとそれほど変わったものを食っているわけではないんだよな。日本に暮らしていて日本のスーパーに行っていれば買うものだって似たようなものになる。一部の食材は祖国から取り寄せることもあるだろうが、日本で買い物をせずに暮らしていくことはできない。
 調理法に多少の違いはあるが、それは日本人同士でもおなじこと。

 たとえば同じく高野秀行さんが書いた『辺境メシ ~ヤバそうだから食べてみた~』に出てくる強烈な料理の数々に比べると、「日本で暮らす外国人の料理」はインパクトが小さい。




 とはいえ「日本在住外国人の暮らしぶり」や「価値観のちがい」についてはおもしろかった。

 レストラン業のベテラン二人に「どうしてフランスでなくわざわざ日本に店をオープンしたのか」と訊くと、異口同音に「フランスで店を開くのは日本の十倍難しい」という答えが返ってきた。
 フランスでは店舗をレンタルするという習慣がなく、丸ごと買わねばならない。しかも「商業権」というものがある。前の店の一年分の売上を支払わねばならない。例えば一月の売上が二百万の店なら二千四百万円。仕事も顧客もすべて買うという発想らしい。しかも、アルコールを売る、料理をするという全てにライセンスが必要で、とにかくお金がかかるのだそうだ。
 日本でのレストラン経営のコツは? と訊くと、「きめ細かくサービスすること」。フランスのビストロなら客が来ても「あ、その辺に座って!」と声をかける程度だが、日本ではテーブルを整え、席まで案内する。「日本人はちょっとしたことを大切にするからね」。ナビルさんは日本に初めて来たとき、日本式の接客を一から学ぶため、あえて一番下の見習いから始めたのだという。

 フランスのレストランのほうが接客とかマナーとかうるさそうだけど、意外にも日本の脚のほうがうるさいんだね。

 ヨーロッパって職人組合とかが発達した歴史があるから、レストラン業界にも保護権益があるのかもしれない。
 消費者からするといろんなお店が林立して味やサービスや価格で競ってくれるほうが安くておいしいものが食べられていいんだけど、労働者の立場で考えると商業権があるほうがいいよね。無理な値下げ競争とかする必要がないから。

 そういやぼくもイタリアに行ったことがあるけど、レストランの店員がだらだらしているし、日本ほどメニューも多くないし、その割にけっこういい値段をとるんだなとおもった。サイゼリヤのほうがずっと安くて同じくらいおいしくていろいろ食べられる。あれは商業権のおかげで楽に商売ができていたからなんだろうな。




 ロシア正教会ではユリウス暦を使っているので、グレゴリオ暦(いわゆる西暦)とは日付がずれる。ロシア正教会のクリスマスは一月だ。

 そのせいで過去にはこんな〝大事件〟が起きたそうだ。

 なんと、昭和天皇はロシアン・クリスマス当日に亡くなったのだ。在日ロシア人たちは動揺した。世間は祝い事をみな「自粛」している。パーティなどもってのほかだ。しかし、彼らにとってのクリスマス・パーティとは遊びではない。主イエス・キリストの生誕を祝うという宗教行事なのだ。
「だから窓もカーテンをぴったり閉めて、音が外に漏れないようにして、ひっそりと『メリー・クリスマス!』ってやったのよ」
 付け加えれば、在日ロシア正教会は日本にひじょうに気を遣っている。この教会では、ミサの度に、「天皇陛下と日本政府の幸せと長命」を祈るのだそうだ。

 クリスマスパーティーなのにまるで黒ミサだ。

 日露間は国交は続いているが、アメリカ寄りである日本にとってロシアとの関係は決して良好とはいいがたい。
「警察に監視されていた」なんて話もあるし、日本で暮らすロシア人はいろいろ嫌な目にも遭ってきただろう。
 だからこそ、こうして「我々は日本人の敵じゃないですよ」というアピールを懸命におこなっているのだ。なんとも健気な話だ。
 天皇陛下と日本政府の幸せと長命を祈るなんて話を聞くと「さぞかしつらいおもいをしたんだろうなあ……」と同情してしまう。




 この本に出てくる海外の料理は、日本人がふだん食べているものより手が込んでいるものが多い。 まあ食事会の料理だからふだんよりは手が込んでいるのだろうが、それでも四時間煮込むとか、前の日から仕込んでおくとかとにかく手間ひまをかけている。

 だが日本人が楽をしているということではない。

 取材を重わて行くうちにだんだんわかってきた。日本人の食事はあまりに幅が広いのだ。和食、中華、洋食と大きく三種類は作れないといけない。油一つとっても、サラグ油、ごま油、オリーブ油は常備している。酒も日本酒、焼酎、ワイン、ビールと飲みわけ、肴もそれに合わせる。その他、テレビ・雑誌・ネットのレシピでは、タイ料理や北アフリカのタジン鍋、インド・カレーなどをせっせと紹介する。
 昨日は麻婆豆腐だったから、今日はマリネとアンチョビ・パスタにしよう。で、明日はさんまの塩焼きで日本酒にするか」なんていうのは、日本人の主婦(主夫)としてごく普通だ。こんなでたらめなメニューで動いている主婦は世界広しといえども、日本だけではないか。
 多くの外国人は「私たちの料理は作るのは大変だけど、一回作ると同じものを何日も食べる」と言う。日本人は目先をころころ変えないと気が済まないのだ。

 海外の料理は手間ひまをかける。その代わり大量につくって、同じものを何日もかけて食べる。
 日本の料理はシンプルなものが多いが、毎日べつのものを食べる。そもそもの考え方がちがうのだ(たぶん湿度が高いから作りおきができないという事情もあるのだろうが)。

 しかし日本の料理はいつからこんなにバラエティに富んだものになったんだろう。昔の日本人は毎日同じものを食べていたはず。火を使うのだって今みたいにかんたんではなかったんだから。

 たぶん戦後だろうね。女性が専業主婦になり(専業主婦が一般的になったのは戦後)、調理家電が発達して時間ができたことで、さまざまな料理をつくる余裕ができた。
 小林カツ代さんの評伝を読んだことがあるが、料理研究家の大家である彼女は結婚当初まったく料理ができず、テレビ番組に「料理コーナーを作ってほしい」と投書をしたことで料理研究家の道を歩むことになったそうだ。ちょうどその頃が、日本人が食にこだわりだした時代だったんだろうね。

 しかしもう時代は変わった。専業主婦の数は再び減り、商業権のない日本では労働時間は減らない。家庭料理にかけられる時間は減りつつある。
 この先日本も「大量に作って何日もかけて食べる」になっていくのかもしれない。今は保存技術も発達したわけだし。


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2021年7月21日水曜日

ファスト映画と映画予告編

 少し前の話になるが、ファスト映画を公開していた人が逮捕された、というニュースを目にした。

 ぼくはその記事でファスト映画なるものを知った。
 ファスト映画とは、映画を10分程度に短縮してあらすじをつけたものだそうだ。
 昔ニコニコ動画で『時間がない人のための~』って動画が流行っていたが、あれだ。

 存在すら知らなかったぐらいなのでぼくはファスト映画を観たことはないが、まあ現代の需要にかなっている動画だなとおもう。

(断っておくが逮捕された人をかばう気はない。逮捕された人はYouTubeで収益を得るために権利者に許可なく映画を切り貼りしていたらしいから完全アウトだ)


 手っ取り早く結末を知りたい、はずれを引きたくない、みんながおもしろいという映画だけを知りたい。
 そういう欲求はどんどん強くなっている。
 小説でも映画でも「感動の物語」「号泣必至」「あっと驚くどんでん返し」「最後の一ページで衝撃を受ける」みたいなちゃちいコピーがあふれている。

「うるせえ。感動するかどうかは見てから自分で決めるわ」とおもうぼくのような人間は少数派なのかもしれない。
 まあぼくも本を買う前にAmazonで星の数をチェックしたりするので、他人の評価を気にしてないわけじゃないんだが……。


 それはそうと、違法に作られたファスト映画がYouTubeにはびこっていると聞くと、これは悪いやつがいっぱいいるというより、映画製作会社の怠慢なんじゃないかとおもってしまう。

 手間暇かけてファスト映画が作られるのは、それが再生されるからだろう。
 需要はある。時間をかけずに映画をダイジェストで観たいという人がいっぱいいる。

 だったら違法アップローダーではなく、権利者がそれに応えてやればいい。


 音楽でもマンガでもお笑いでも、どんどん無料配信でお試しをさせている時代だ。そっちのほうが売れるから。
 あたりまえだ。内容がわからないものは買いづらい。無料版で興味を持ってこそ有料版を買うのだ。ぼくはラーメンズのDVDを全巻持っているが、最初に観たのはニコニコ動画だかYouTubeだかに上がっていた違法アップロード動画だった(今はラーメンズのDVDの内容は全部公式がYouTubeに載せてるけどね)。

 だから映画も、DVDを販売している会社が無料ダイジェストを作ればいい。それによってDVDが売れたり、同じ監督や俳優の作品が売れたりするだろう。


 え? 映画には既に予告編があるって?

 ……あのさあ。
 そうだ。おもいだした。前から言おうとおもってたんだった。
 映画の予告編。あれ何?

 聞くところによると配給会社が勝手に作ったりしてるらしいね。
 あれたいていひどいね。無茶苦茶だよね。内容とぜんぜん関係なかったりする。
 前半のぜんぜん重要でない台詞が、まるで映画全体を決定づける重要な台詞であるかのように使われたりする。
 へたすると本編の夢のシーンとかが、予告編ではまるでクライマックスシーンであるかのように使われていたりする。大嘘じゃん。

 まあ、ちょっとだけ制作側の事情もわかる(ちょっとだけね)。
 映画の予告編は、劇場で他の映画の公開前とかテレビCMとかで使われる。つまり、予告編を観る人は、観ようとおもって観てるわけではない。強制的に予告編を見せつけられているわけだ。
 だから、ネタバレをするわけにはいかない。
「まっさらの状態で観たかったのにー!」と言う人もいるから、ネタバレには気を付けなくてはいけない。本当のクライマックスシーンを使うわけにはいかない。本当のクライマックスシーンを使ったら「ああ、ラスボスはこいつなんだ」とか「最後は崖から落ちるんだ」とかバレちゃうからね。
 そこで苦肉の策として、前半~中盤の「ちょっと盛りあがるけどさほど重要ではないシーン」を、さもクライマックスシーンであるかのような予告編にするんだろう。
 作り手の苦労はわかる。だからある程度はしかたない。かつては


 そう、「予告編はいろんな人が見るからしかたないよね。ネタバレしてほしくない人も目にしちゃうわけだから」で済まされてたのは昔の話。
 今はそうではなくなった。
 YouTubeの動画は(インストリーム広告と呼ばれる5秒経つとスキップ可能な広告も含めて)、途中で停止・スキップができる。
 ユーザーの意思にかかわらず半ば強制的に見せられる&停止不可能な映画館の予告やテレビCMと違い、YouTubeの動画は避けられるし停止できる。

「観たくなければ観なければいい」が通用するのだ。
 だから予告編の中にちょっとぐらいのネタバレは入れてもいい。もちろん謎解きがおもしろさの中核を占める作品ではだめだが、アクション映画やサスペンス映画であればだいたいのストーリーを説明してもさほどおもしろさは損なわないだろう。むしろ「こういうストーリーだったら観に行こう」という人が増えるんじゃないだろうか。

 あらかじめどんな話か知った上で観たい人はたくさんいるのだ。


 違法なファスト映画がはびこるのは、権利者の怠慢があるんじゃないだろうか。
 権利者が公式にファスト映画を作ってYouTubeにアップすればいい。収益にもなるし、DVDの売上にもつながるだろう。
 それをしないから「ニーズはあるのに供給がない」ことになり、違法なアップローダーが現れるのだとおもう。

(これは素人の意見。じっさいは監督や役者の契約で「ファスト映画をつくってYouTubeにアップロードする」ことまで規定していないことがほとんどだろうから、そうかんたんにはいかないんだろうけど……)


2021年7月20日火曜日

かちかちオリンピック

 むかしむかし、あるところにミュージシャンがいました。
 ミュージシャンは少年時代に他の生徒に対して加害行為をおこなっており、それを雑誌のインタビューで誇らしげに語っていました。

 それを知ったうさぎは怒りました。
 うさぎはミュージシャンとも被害者とも何の関係もありませんが、ぜったいにミュージシャンを許すわけにはいきません。

 そこでうさぎはミュージシャンをオリンピック会場に誘いこむと、ミュージシャンの背負った柴に火打ち石で火を付けました。「ここはかちかちオリンピックだからかちかち音がするんだ」

 ミュージシャンは大炎上。背中に大やけどを負いました。
 うさぎはさらにミュージシャンの背中にとうがらしをすりこみ、泥船に乗せて沈めました。
 沈んでゆくミュージシャンを見てうさぎはゲタゲタと大笑い。わるものをやっつけたのです。

 めでたしめでたし。うさぎは次のわるものをさがしにいきました。


2021年7月19日月曜日

【読書感想文】地図ではなく方位磁針のような本 / 瀧本 哲史『2020年6月30日にまたここで会おう』

2020年6月30日にまたここで会おう

瀧本哲史伝説の東大講義

瀧本 哲史

内容(e-honより)
「君たちは、自分の力で、世の中を変えていけ!僕は日本の未来に期待している。支援は惜しまない」2019年8月に、病のため夭逝した瀧本哲史さん。ずっと若者世代である「君たち」に向けてメッセージを送り続けてきた彼の思想を凝縮した“伝説の東大講義”を、ここに一冊の本として完全収録する。スタジオ収録盤にはないライブ盤のように、生前の瀧本さんの生の声と熱量の大きさ、そしてその普遍的なメッセージを、リアルに感じてもらえると思う。さあ、チャイムは鳴った。さっそく講義を始めよう。瀧本さんが未来に向けて飛ばす「檄」を受け取った君たちは、これから何を学び、どう生きるべきか。この講義は、君たちへの一つの問いかけでもある。


 経営コンサルタントや投資家の経歴を経て、京大などの准教授を務めた瀧本哲史氏が、東大でおこなった講義を本にしたもの。

 一回の講義を本にしたものなので、正直情報量は多くない。何かを知りたいならこの本よりも、瀧本氏が執筆した本を読んだほうがずっといいとおもう。
 ただこの本からは〝熱意〟みたいなものは感じることができる。もちろん活字にしているので生講義に比べれば何十分の一でしかないんだろうけど、それでもたしかに息遣いが感じられる。
 音は悪くてもライブ盤CDのほうが迫力を感じられるように。




 パラダイムシフトはどんなふうに起こるかという話。

 地動説が出てきたあとも、ずっと世の中は天動説でした。
 古い世代の学者たちは、どれだけ確かな新事実を突きつけられても、自説を曲げるようなことはけっしてなかったんですね。
 でも、新しく学者になった若い人たちは違います。古い常識に染まってないから、天動説と地動説とを冷静に比較して、どうやら地動説のほうが正しそうだってことで、最初は圧倒的な少数派ですが、地動説の人として生きていったんです。
 で、それが50年とか続くと、天動説の人は平均年齢が上がっていって、やがて全員死んじゃいますよね。地動説を信じていたのは若くて少数派でしたが、旧世代がみんな死んじゃったことで、人口動態的に、地動説の人が圧倒的な多数派に切り替わるときが訪れちゃったわけですよ。結果的に。
 こうして、世の中は地動説に転換しました。
 残念なことに、これがパラダイムシフトの正体です。
 身も蓋もないんです。
 新しくて正しい理論は、いかにそれが正しくても、古くて間違った理論を一瞬で駆逐するようなことはなくてですね、50年とか100年とか、すごい長い時間をかけて、結果論としてしかパラダイムはシフトしないんですよ。


 ぼくの知り合いのおばあちゃんの話。
 もう九十歳を過ぎていて完全に認知症だ。最近のことをまったくおぼえていなくて、三分おきに何度も同じ話をくりかえす。
 選挙の時期になると、息子がおばあちゃんを投票所に連れていく。もちろんおばあちゃんはどんな候補者が出ているのか、誰がどんな政策を掲げているのかはまったく知らない。三分前のことをおぼえていないのだからあたりまえだ。でもおばあちゃんは投票用紙に「自民党」と書いて投票箱に入れる。数十年間ずっとそうしていたから。
 このおばあちゃんに、いまさら考え方を変えさせることは無理だろう。仮に自民党が消滅したとしても、おばあちゃんは投票所に足を運べるかぎりはずっと「自民党」に票を入れつづけるのだろう。

 これは極端な例だが、そこまでいかなくても人が考えを改めるのはむずかしい。賢い人でも。いや、賢い人ほど。
 ターリ・シャーロット『事実はなぜ人の意見を変えられないのか』によると、多くの情報を得た人は、「元々の自分の考えに近い証拠」を信じ、「元々の自分の考えにあわない証拠」を切り捨て、ますます自説に執着するそうだ。
 さらに認知能力の高い人ほど自己正当化がうまく、議論によって考えを改める傾向が低いのだそうだ。


「人の常識はそうかんたんに変わらない」は悲しい現実だ。
 けれど「時代が変わって構成員が変われば世の中の常識は変わる」は希望でもある。

「若いやつは苦労すべき。少ない給料で長い時間を働くことで成長できる。おれもそうやって成長した」「女は家庭を守ってなんぼ。子どもには母親がずっとついていることが必要。わたしもそうやって家庭を守ってきた」とおもってるおっさん・おばさんに考えを改めさせるのはすごくむずかしい。ほぼ不可能といっていい。
 しかし旧い価値観の持ち主が社会から退場してゆくことで、ちょっとずつ世の中は変わっている。少しずつだけど、学校でも会社でも根性論は消えつつある。路上で他人が近くにいても平気でタバコをばかすか吸うおっさんももうすぐ死滅してくれるはず。明るい未来だ。


 しかし「時代が変わって新しい価値観が主流になるとき」には自分も年寄りになって「あいつら古い考えを押し付けんなよ。早く現世から退場しろよ」とおもわれる側になってるわけで。ううむ。やはり未来は明るくないのかも。




 歯に衣着せぬものいいも、講義をそのまま本にした「ライブ盤」ならではの魅力かもしれない。

「人生において読んでおくべき本はないですか?」と学生から訊かれて「そんな本、ない」「そういうバイブルみたいな本、大っ嫌いなんですよ」とかバッサリ切り捨てているのも読んでいておもしろい。

 霞が関の仕事は、国民の代表である選良の人たちからの合意を得るというゲームではなく、向こうは動物園の猿で、こっちは猿の飼育係であると考えるといいんですね。
 猿の飼育係の仕事は、自分は人間だと誤解してる猿に餌をあげて、「明日は休みで家族連れがたくさん来るからよろしくお願いしますね」みたいな感じで機嫌を取ることじゃないですか。
 言うこと聞かない猿に飼育係の人がキレて、「おまえは猿のくせにいいかげんにしろ!」とか言ってバシッとやったら、猿いじけちゃいますよね(笑)。

 政治家って高学歴な人が多いからついつい賢い人にちがいないとおもってしまいがちだけど、ぜんぜんそんなことないよね。ほんとに賢い人は政治家になんかならない。選挙のたびに四方八方にぺこぺこ頭下げて、当選しても党の言うがままになって、何かあれば批判が殺到する政治家になるなんて、賢い人間のすることではない。
 自分に利をもたらすよう政治家をうまく操縦することこそ、ほんとに賢い人がやることだよね。瀧本哲史さんみたいに。




 この講義は基本的に「自分で考えろ」ってことしか言ってない。
 さっきの「読んでおくべき本などない」もそうだけど、具体的に「こうしなさい。これをすればうまくいきますよ」みたいな助言は一切出てこない。これはすごく誠実な態度だ。
「○○すればうまくいく」って言うのは詐欺師だけと相場が決まってるもんね。

 地図ではなく、方位磁針のような本。おおざっぱな方向性だけは教えてくれる。ただしどのルートを通ればいいのか、目的地まではどれぐらいの距離なのか、そもそも目的地が何なのかは一切教えてくれない。

 読むと何かをしたくなる本。特に若い人におすすめしたい本。もちろん「すべての人が読んでおくべき本」ではないけどね。


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【読書感想文】いい本だからこそ届かない / ターリ・シャーロット『事実はなぜ人の意見を変えられないのか』



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2021年7月16日金曜日

【読書感想文】平凡な悲劇 / ジャック・ドワイヨン『ポネット』

ポネット

ジャック・ドワイヨン(著)
青林 霞(訳) 寺尾 次郎(訳)

内容(e-honより)
交通事故で母を失った四歳の少女ポネット。突然のことに、ポネットは母の死が理解できない。叔母の家に預けられ、従姉弟たちと一緒に生活するが、ポネットはその遊びの輪にも加わらず、独り草原で母を待ち続ける。そしてベッドの中でお祈りを繰り返す。「神さま、どうかもう一度、ママに会わせて下さい…」四歳の少女が自分の言葉と感覚で死というものをひたむきに理解しようとする姿。静謐で真摯な思索に満ちた、珠玉の物語。

 1996年公開のフランス映画の原作だそうだ。
 交通事故で母親を亡くした四歳の少女ポネットの心の動きを描いた物語。

 ぼくも親として、「自分が死んだらこの子たちはどうなるだろう」「妻が死んだら……」「ぼくと妻がそろって死んだら……」と考える。
 ただ結論としては「どうしようもない」としか言いようがない。生命保険には入ってるし、祖父母は健康だし、ぼくの姉や妻の妹もいるから、まあ最低限の暮らしは送れるだろう。悲しむのは悲しむだろうけど、その心配をしてもどうしようもない。悲しまないようにすることなんてできないし、悲しまなかったらそれはそれでぼくがつらいし(死んでるからつらさも感じないけど)。


 ぼくは幸いにしてまだ親の死を経験していないけど、親の死、とりわけ母親の死というのは身を切られるほどつらいものあることは容易に想像がつく。
 ぼくの父は、父親(ぼくの祖父)が亡くなったときの葬儀では泣いていなかったが、母親(ぼくの祖母)の葬儀では号泣していた。
 この感覚、なんとなくわかる。ぼくの父はべつに父親に対して情がなかったわけではないとおもう。父にも母にも情は感じていたはずだ。だが情の質が根本的にちがうのだとおもう。
 理屈の上では父親も母親も同じく血がつながっている。でも母親は父親よりもずっと特別な存在だ。なにしろかつては自分と文字通り一体化していたのだから。

 だから、祖母が亡くなってもまったく泣かなかったぼくも「母親を亡くした父親の気持ち」を想像して涙が出た。


 穂村弘さんが『世界中が夕焼け』という本の中で、こんなことを書いていた。

でも、そうはいっても、実際、経済的に自立したり、母親とは別の異性の愛情を勝ち得たあとも、母親のその無償の愛情というのは閉まらない蛇口のような感じで、やっぱりどこかにあるんだよね。この世のどこかに自分に無償の愛を垂れ流している壊れた蛇口みたいなものがあるということ。それは嫌悪の対象でもあるんだけど、唯一無二の無反省な愛情でね。それが母親が死ぬとなくなるんですよ。この世のどこかに泉のように湧いていた無償の愛情が、ついに止まったという。

 もういいおじさんになった穂村氏でさえ、母親をなくしたときは他では決して埋められない喪失感を味わったという。それぐらい母親の「愛」はとほうもない。傍から見ているとたまにぞっとするぐらいに。

 おじさんですら号泣する出来事なんだから、四歳である ポネットが母親を亡くす、しかも何の予兆もなく交通事故である日突然に、というのはとうてい受け入れられる出来事ではないだろう。
 我が子(二歳)を見ていてもおもう。幼い子にとって母親は「最愛の人」どころの存在ではない。ほとんど我が身の一部なのだから。




 かわいそうではあるが、『ポネット』は退屈な物語だった。
「こんなに幼くして母親を亡くすなんてかわいそうに」と子を持つ父親として同情はしたけど「とはいえ一定の確率で起こりうることだし、つらいけど時間をかけて乗りこえていくしかないよなあ」とおもう。そしてポネットもしばらくは母の死を受け入れられないがちょっとずつ新しい生活に慣れてゆく。 

 あらすじとしては「母親を亡くした四歳のポネットちゃんはなかなか現実を受け入れられませんでしたが、いとことの会話や寄宿舎での新しい生活を通して徐々に現実を受け入れてゆくのでした」というだけの話で、毎日世界のどこかで起こっている出来事だ。個人としては悲劇だがマクロでみれば「よくある話」だ。申し訳ないけど。

 映画で観ればまたちがった感想があったのかもしれないけど、小説としては平凡すぎてまったくおもしろみに欠けるものだった。あとポネットを放置して現実逃避する父親がひどすぎる。


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【読書感想文】「壊れた蛇口」の必要性 / 穂村 弘・山田 航『世界中が夕焼け』



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2021年7月15日木曜日

【読書感想文】SF入門に最適な短篇集 / 柞刈 湯葉『人間たちの話』

人間たちの話

柞刈 湯葉

内容(e-honより)
どんな時代でも、惑星でも、世界線でも、最もSF的な動物は人間であるのかもしれない…。火星の新生命を調査する人間の科学者が出会った、もうひとつの新しい命との交流を描く表題作。太陽系外縁部で人間の店主が営業する“消化管があるやつは全員客”の繁盛記「宇宙ラーメン重油味」。人間が人間をハッピーに管理する進化型ディストピアの悲喜劇「たのしい超監視社会」、ほか全6篇収録。稀才・柞刈湯葉の初SF短篇集。


 SF短篇集。




『冬の時代』

 ザ・SFという感じの作品。氷河期が訪れて日本中が凍りついた世界。そこを旅するふたりの少年。
 ディティールの緻密さとかは感心するけど、正直この手のSFは食傷。「○○が起こった後の世界」って定番中の定番だからな。よほど新しい仕掛けがないときつい。

 椎名誠SFの『水域』や『アド・バード』に似てるなーとおもってたら、作者本人の解説によると『水域』を意識して書いたものらしい。なるほどね。




『たのしい超監視社会』

 おもしろかった。
 オーウェル『一九八四年』のオマージュ。
『一九八四年』で書かれるのはオセアニア、ユーラシア、イースタシアという三つの国に分割された世界で、作品の舞台はオセアニア。『たのしい超監視社会』は(おそらく)同じ世界のイースタシアを舞台にした小説。

 イースタシアもオセアニアと同じように独裁者が統治する監視社会なのだが、ここに暮らす若者には悲壮感はない。なぜなら彼らは物心ついたときから監視社会で暮らしていて、他の世界を知らないから。さらに日々の暮らしは少しずつ良くなっているので、社会に対する不満はさほど持っていない。

 今の中国の若者がこんな感じに見えるよね。そもそも民主主義を知らないから民主主義がないことを不自由とすらおもわない。政治的な自由はないが経済成長しているから特に不満はない。そんなふうに見える。もちろん内心はわからないけど……。

 区役所の正面壁には歴代総統の肖像画が並んでいる。オールバックで白髪交じりの初代、その息子で癖っ毛の二代目、その息子で在任中の三代目。総統が逝去すると最も優れた党員を後継に選ぶ党則になっているが、今のところ公正な選考の末に、前総統の息子が選出されている。
 儒教文化の根強いイースタシアでは祖先を敬うことが通例で、肖像画においても父を上回ることは許されない。このため二代目の肖像画は初代の半分、三代目はそのまた半分となっている。等比級数の総和は有限であるため、たとえ千代続いても肖像画を飾るスペースは足りる。この方式が国家体制の永続性を体現していると言える。

 ディストピア小説でありながら、タイトルの通り主人公たちは楽しそう。
 まあ今の我々だって、別の時代・社会の人間からしたら「この時代の日本人はぜんぜん自由じゃないのにそのわりには何も考えずに楽しくやっていたんだなあ」と見えるかもしれないね。




『人間の話』

 これはいちばん好きだった。

 地球上の生物は元をたどればみんな同じ系譜の上にいる。もともとは共通の祖先から枝分かれしたのだから。
 だからこそ孤独を感じる。他の星にまったく別の経路で発生した種を追い求める。

 ……という一風変わった主人公が、親に捨てられた子ども(甥)を引き取り育てることになる。
「地球外生命体」と「親に捨てられた子」がどうつながるのかとおもったら……。なるほど、こうリンクするのかー。感心した。
 ひとりの人間の境遇を「地球上の生物すべて」に重ねあわせる。なんて壮大な発想なんだ。

 小説を読む楽しさのひとつって「自分とはまったく価値観のちがう人の思考に触れる」ところだとおもう。もちろん小説だから実在の人物の思考ではないわけだけど、よくできた小説は「すげえ変わってるけどこんなふうに考える人もこの世のどっかにひとりぐらいはいるんだろうな」とおもわせてくれる。
 この小説はまさにそんな物語だった。




『宇宙ラーメン重油味』

 タイトル通り、SFコント風の作品。
 〝消化管があるやつは全員客〟を合言葉に、宇宙のありとあらゆる生物(地球人の感覚でいえばとても生物とはおもえないようなのも含む)にラーメンを提供する店の奮闘を描く。
 はたして重油にシリコンや重金属をつけたものをラーメンなのかという疑問はさておき。

 ばかばかしい描写はおもしろいのだが、説明に終始しているのが残念。これに起伏の富んだストーリーがあればなあ。




『記念日』

 ある日突然ワンルームの室内に巨大な岩が出現する……というストーリー。
 マグリットの『記念日』という絵に触発されて書かれたものらしい。

 これも出オチ感がある。室内に岩が出現したところがピークで、これといった展開はない。「習作」って感じの短篇だった。




『No reaction』

 生まれたときから透明人間である主人公の日々をつづった小説。

 反作用は受けるが作用は与えることができない、という設定は新しい。しかし野暮なことをいうけど、生まれたときから透明人間だったら交通事故とかですぐ死んじゃうだろうな。

 透明人間に性欲というのは無用だ。少なくとも透明人間の男が不透明な女の子と交わって子孫を残すことはできない。無用なはずだが、きっちり存在する。まったく厄介なことだ。
 不要な機能がある理由というのはだいたい、他の目的で作られたものを急ごしらえに転用したせいだ。もともと生物種というのは女がメインで、男というのは女と女の遺伝子の交換を媒介するための運び屋にすぎない。だから男の体は女をベースにちょっと下半身をいじっただけの手抜き製品で、使いもしない乳首が残ってるのはそのためだ。
 このことから類推するに、おそらく透明人間というのは不透明と独立に生まれたものではなく、不透明がなんらかの原因で透明化して生じたものだと思われる。そうでなければこんなにも形が似ているはずがないし、透明人間に不要な性欲が備わっているはずもなく、布団もかけずに眠っているマキノにベタベタ触れている理由もない。

 こういう細かい設定を丁寧に書いているので無茶な設定でありながら妙な説得力がある。ほらをまき散らして煙に巻くのがうまいのは作家としてすぐれた資質だ。

 しかし「食事をどうしているか」が一切書かれていないのが気になる。作用を与えることができないのなら咀嚼も消化もできないわけだが……。
 触れていないということは、作者もうまい言い逃れをおもいつかなかったのかな。「食事をしなくても生きられる」だったら透明人間じゃなく幽霊になってしまうしなあ。
 移動方法や性欲や学習については細かく説明しているのだから、食事についてもうまい説明を与えてほしかったな。惜しい。




 豊富な科学知識に裏づけられた本格的なSFでありながら、どの作品も重たすぎず、肩の力を抜いて読める。
 とっつきやすくて、けれども奥が深い。SF入門に最適な短篇集じゃないでしょうか。


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【読書感想文】ザ・SF / 伴名 練『なめらかな世界と、その敵』



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2021年7月13日火曜日

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由来

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2021年7月12日月曜日

【読書感想文】サイコパスは医師に向いているのか / 遠藤 周作『真昼の悪魔』

真昼の悪魔

遠藤 周作

内容(e-honより)
患者の謎の失踪、寝たきり老人への劇薬入り点滴…大学生・難波が入院した関東女子医大附属病院では、奇怪な事件が続発した。背後には、無邪気な微笑の裏で陰湿な悪を求める女医の黒い影があった。めだたぬ埃のように忍び込んだ“悪魔”に憑かれ、どんな罪を犯しても痛みを覚えぬ虚ろな心を持ち、背徳的な恋愛に身を委ねる美貌の女―現代人の内面の深い闇を描く医療ミステリー。

「サイコパス」という言葉が人口に膾炙するようになったのはせいぜいここ十年ぐらいの話だが、「良心を持たない人」を題材にした小説は古くからある。
 有名なところではトマス・ハリス『羊たちの沈黙』。貴志 祐介『悪の教典』や手塚 治虫『MW』もそうだ。宮部 みゆき『模倣犯』の真犯人もそんな人物だった。
 人は、悪を悪ともおもわない人物を題材にしたピカレスク小説に惹きつけられるらしい。




『真昼の悪魔』もそんな小説のひとつだ。
 主人公である女医は、他人に対する共感を決定的に欠いている。「何が悪いことなのか」は知識としては持っているが、心では善悪の区別を持っていない。だから「悪いこと」「かわいそう」「気の毒」といったことは彼女の行動を抑制する材料にはならない。

 高い知能と生まれもった美貌でカモフラージュしながら、知恵遅れの少年に少女を殺させようとしたり、入院患者で人体実験をおこなったりする女医。
 彼女の目的はもちろん金や復讐ではなく、といって快楽でもない。人を傷つけても快楽を感じないことを知っていて、それでも傷つける。たいした理由もなく。
 彼女がおこなうのは悪のための悪。殺人に快楽をおぼえるシリアルキラーのほうがまだ理解可能かもしれない(どっちもイヤだけど)。

 主人公はかなりいかれた人物だが、読んでいてあまりうすら寒さは感じない。というのも、彼女の攻撃の矛先は中盤以降、難波という入院患者に向かうから。
 女医は、難波が彼女の正体を暴こうとしていることに気づき、それを阻止するためあの手この手で難波を精神病患者扱いする。この対決が『真昼の悪魔』のハイライトなのだが、正直いってこのあたりの女医の行動はおそろしくない。なぜなら〝保身〟という明確な目的があるから。
 少女を殺そうとしていたときは目的もなくほとんど興味本位で(その興味すら薄い)行動していたのに、難波に対する攻撃は「自分の立場を守るため」という明確な目的がある。目的があるから理解できる。「自分も同じ立場に置かれたら似た行動をとるかもしれない」とおもわされる。理解できるものはこわくない。

 サスペンス感を出すのであれば、徹頭徹尾理解不能な人間として描いてほしかった。




 ところでこの小説には、
「女医が入院中の老婆に無断で人体実験を施し、その結果実験が成功して多くの人命を救える治療法を発見する」
というエピソードが出てくる。

 これは医学の抱える矛盾を端的に表している。
 有名なトロッコ問題(暴走したトロッコを放置すれば三人が死ぬ。切り替えスイッチを入れれば別の一人が死ぬ。切り替えるのは正しい行いか? という問題)にも似ている。
 百人を救うために一人の命を危険にさらすことは悪なのか。これは決して万人が納得のいく答えを出せない問題だ。

 自身もクリスチャンである遠藤周作氏は、作中に出てくる神父に「神さまも百人のために一人を見捨てになさらないのです」と言わせている。
 宗教家としてはそう答えるしかないだろうな、という回答だ。なぜなら明確な基準で善悪を決められるようになったら宗教がいらなくなるから。

 とはいえ現実には「数で命の価値を量る」方向に世の中は動いている。一人の犠牲で一万人を救う方法があるのなら、現代医学はそれを放ってはおかないだろう。
 善悪の判断はいったん棚上げして、結果的に多くの人命を救うために多少の犠牲はやむをえないという方針で医学は進歩してきた。

 医学に犠牲がつきものである以上、『真昼の悪魔』に出てくるタイプの共感性を欠いた人物というのは医師としては有能なんじゃないかとおもう。医師がありとあらゆる患者に心からの同情をおぼえていたら仕事にならないだろうし。
 ちょっとぐらいは「人の気持ちがわからない」人物のほうが医師には向いているのかもしれない。政治家も。




 ところでこの小説、ミステリ要素もある。四人の女医が出てくるけどそのうちの誰が「良心を持たない女性」なのかが終盤まではわからない。
 ただ、ミステリとしてはぜんぜんおもしろくない。四人の女医がみんな没個性なので「四人のうち誰でもいいわ」って感じなんだよね。謎解きがどうとかいう以前に、そもそも謎に興味が持てない。

「四人の女医」という設定がまったく生きていない。テーマはおもしろかったのだからむりにミステリ風味にせずに女医は一人でよかったんじゃないかなあ。


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2021年7月9日金曜日

頭の大きなロボット

 星新一氏の『頭の大きなロボット』というショートショート作品がある。
 文庫『未来いそっぷ』に収録されている。

 あらすじはこうだ(以下ネタバレ)。


2021年7月8日木曜日

【読書感想文】赤ちゃんだったときの喜び / 古泉 智浩『うちの子になりなよ ある漫画家の里親入門』

うちの子になりなよ

ある漫画家の里親入門

古泉 智浩

内容(e-honより)
子どもがほしい…。6年間で600万円、不妊治療のどん底で見つけた希望の光。里親研修を受け、待望の赤ちゃんを預かった著者(40代・男)が瑞々しくも正直に綴る、新しいタイプの子育てエッセイ。

 里親になった漫画家によるエッセイ。

 里親といっても引き取ったのは0歳児なので、当然ながら引き取られた当人は何もわかっていない(たぶん)。
 だから書いてあることもふつうの子育てエッセイとあまり変わらない。
 同じ親として、「なつかしいなあ」とおもうだけだ。

 仕方がないので、赤ちゃんを抱っこひもで抱いて外を歩いた。(中略)歩いている途中、線路を渡ったあたりで足首を蚊に刺された。リズムを崩すと赤ちゃんを寝かせられないのでそのまま歩いた。赤ちゃんの手がだらんとした。線路の横を歩いていると、遮断機が降りて警報がカンカンなり出した。その造断機に近づくと警報の音が大きくなってしまうので、その場で赤ちゃんのお尻を手で歩くリズムで叩いた。電車が迫り来てゴーッと通り過ぎる音と窓から漏れる光で赤ちゃんが目を覚ました。頭を激しく左右に振って電車の行方を追った。せっかく眠ったのに残念に思っていたのだが、またすぐだらんと寝た。赤ちゃんが寝やすいようにゆっくりしたペースで歩いているのにも疲れて昔通の速さで歩いた。そのまま帰宅して妻のベッドに寝かせた。珍しい仰向けでの寝姿はすっかり大きくなっているように見えた。
 このようにミルクで寝ない場合は体を起こした状態で抱っこして寝かせなければならず、やはり寝そべった状態ではまったく寝ない。赤ちゃんの眠りについて考えていると不思議な気持ちになる。

 ぼくの子は小学生と二歳なので、もう赤ちゃんではなくなった。ついこの前のことのはずなのにこうして育児エッセイを読むと子どもが赤ちゃんだった時代のことをすっかり忘れていることに気づく。

 ぼくもやったなあ。赤ちゃんを寝かせるための夜の散歩。布団に置くと泣くので、抱っこする。止まっているとやはり泣くので、うろうろ歩く。家の中を歩きまわるのもつまらないので、外に出て家のまわりを歩く。
 夜中に赤ちゃんが寝るまで歩きつづけるのは当時はしんどかったけど、今おもうといい思い出になるのだからふしぎだ。こんなに苦労しているのに、当の子どもはまったくおぼえていないのだから嫌になるぜ。

 読んでいるとその頃のことをいろいろとおもいだした。
 抱っこしても動いていないと赤ちゃんに怒られるので、立ってだっこをしながら左右にゆらゆら揺れていた。本を読みながら。
 それが日常化していたので、本屋で立ち読みをするときとか、駅のホームで本を読みながら電車を待っているときとかに、気づくと左右にゆらゆら揺れていた。知らず知らずのうちに、存在しない赤ちゃんをあやしていたのだ。

 なつかしいなあ。
 ぼくも育児日記を書いてたらよかったなあ。でも当時はたいへんだったからそれどころじゃなかったんだよなあ。




 前半部分はただの子育てエッセイだったが、後半の「著者が里親になった経緯」はおもしろかった。

 正直に言ってこの人、まったく褒められた経歴じゃないんだよね。
 交際していた人が妊娠したけど婚約を破棄して結婚しなかった。元婚約者とは婚約不履行裁判になり、著者は相手に対して中絶を望んだ。だが元婚約者はひとりで出産し、著者は実子とは数回しか会っていない。
 他人がとやかく言うことではないけれど、まあそれにしても「自分勝手な男だな」とおもう。ここには書かれていないいろんな事情があったのだろうけれど。
 まあ自分にとって不利なことをあけすけに書いているところはえらいとおもうが……。

 一度は子どもを捨てた男が、別の人と結婚して子どもに恵まれなかったから里子を引き取る……。
 なんちゅうか「身勝手で無責任な話だな」とおもってしまう。かつて子どもを捨てたからって一生子どもを持ってはいけないということはないけど。人間なんてみんな身勝手なんだけど……。

 でもまあ、里親になることを考えてる人からすると「こんな身勝手な人でも里親になれるんだから自分もなっていいんだ」と自信がつくよね。知らんけど。




 子育てって、合理的に考えたらまったく「割に合わない」仕事だ。
 肉体的にも精神的にも経済的にもコストはかかるし、当然ながら報酬なんてないし、行政からの支援なんてあってないようなものだし、子どもからはちっとも感謝されないし、おまけに労力をかけたからって望む通りに育つ保証はまったくない。

 どう考えたって「やらないほうが得」だ。損得でいえば。
 それでもたくさんの人が子育てをしている。ぼくも。
 まあこれは本能に動かされてのものだし、人間が遺伝子の乗り物である証左なんだけど、やっぱり子どもを育てているとえも言われぬ全能感を感じられるんだよね。他ではぜったいに味わえない感覚。

「これまでずっと何年も真っ暗な夜道を裸足で歩いているような感覚だったのが、赤ちゃんが来てくれてから光を浴びているような感じがする。まわりが真っ暗でも自分にだけスポットライトが当たっているような感じで、そんな感覚ははじめだけだと思っていたのだが、1か月 以上経過してもなお弱まらず続いている。光の源は赤ちゃんで、今も僕をまばゆく照らしてくれている。3回しか会ったことのない娘は遠くに見える星のような存在だったのだが、うちにいる赤ちゃんは常にビカビカに、全身くまなく照らしてくれる。本当にアホみたいなんだけど、『つつみ込むように』というミーシャの歌が高らかにずっと鳴り響いているような気分です。
いい年の大人の男が自分のやりたいことだけを精いっぱいしているというのもみっともないことだ、自分以外の他者に尽くしてこそ人生ではないかとすら思うようになりました。また、厄年を過ぎるとぐっと体力や気力が激減し、自分本位の生き方すらしんどくなっています。それまでは自分さえよければいいと思っていた、その自分が満足いかなくなっています。自分の満足では自分が満足しきれない。自分のキャパシティがビールジョッキだったとすると、湯呑くらいになっているような、そのこぼれた分を他者に注ぎたいというような気持ちです。それを子どもに期待していました。自分の代わりに自分の分も頑張ってほしいし、幸福になって欲しい、いろいろなことに感動して欲しい。そんな気持ちです。人生の前半は自分のためにやり尽しました。しょぼくなった後半を他者に期待するというのも都合がいい話ですが、後半は自分以外の誰かのために生きたいと思っています。どっちにしても自分本位の利己的な「誰かのため」なので、決してほめられた話ではありません。

 子どもの頃は、存在しているだけでかわいいかわいいと言ってもらえる。ところが成長するにつれて「成果を出す」ことが求められるようになる。お利口にしていることや、がんばって勉強することや、仕事をすることや、社会貢献をすること。求められることはどんどん難しくなる。
 特におっさんなんて、何もしなければ社会の敵みたいな扱いだ。
「自分は社会から求められている、かけがえのない存在だ」と自信を持って言える中年は少ないだろう。

 ところが子どもを持つと、誰でも「誰かに必要とされる存在」になれる。小さい子どもはほとんど無条件に親を必要としてくれる。親が親であるという理由で。
 血がつながっていなくても、仕事をしていなくても、育児放棄していたとしても、ただそこにいるという理由で子どもは親を求める。

 親にしたら、こんな快楽はない。どんなだめな自分も存在を肯定してくれる人がいるんだもの。こんなことは赤ちゃんだったとき以来だ。

 人は、赤ちゃんを育てているとき、赤ちゃんだったときの喜びをもう一度味わうものなのかもしれない。


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2021年7月7日水曜日

【読書感想文】「安全安心」がいちばん危険 / 東野 圭吾『天空の蜂』

天空の蜂

東野 圭吾

内容(e-honより)
奪取された超大型特殊ヘリコプターには爆薬が満載されていた。無人操縦でホバリングしているのは、稼働中の原子力発電所の真上。日本国民すべてを人質にしたテロリストの脅迫に対し、政府が下した非情の決断とは。そしてヘリの燃料が尽きるとき…。驚愕のクライシス、圧倒的な緊迫感で魅了する傑作サスペンス。


 大型ヘリコプターが遠隔操作で乗っ取られ、原発の真上でホバリング。国内すべての原発を使用不能にしないと原発の上に落下させて爆発させると犯人から政府に声明が届いた。
 はたして犯人は誰なのか、そして目的は何か……。


 文庫で600ページ以上の重厚なサスペンス。
 乗り物をジャックするというのはわりとよくある手法だが、「犯人の目的が謎」「人質にとられているのが原発」という要素のおかげでぐっと奥行きが増している。

 これが「バスジャックをした。人質を解放してほしければ十億円よこせ」みたいな話ならわかりやすい。
 警察は人質保護を最優先させながら、犯人逮捕に全力を尽くす。他に被害を出さないよう、周囲の住民には避難を命じる。

 ところが人質が原発だと話はそう単純ではない。

「いいかね、中塚君。地元から問い合わせがあるだろうが、避難の必要があるなんてことは、軽率にいわんでくれよ。今ここであわてて避難させたりしたら、原発の安全性を自ら否定することになるんだからな」
 航空機が落ちても放射能漏れなどが起こる事故には発展しない――『新陽』のみならず、日本全国の原発についてこのようにPRされている。それだけに今回の事態であわてふためくのは、そうした宣伝と矛盾することになるわけだった。

 政府や電力会社は「原発は絶対安全だ」と嘘をついている。
 福島第一原発の事故があった今ではそれが嘘だったとみんな知っているが、『天空の蜂』が刊行された当時(1995年)はまだその嘘が生きていた。まあみんな薄々気づいていたのかもしれないが、少なくとも建前としては「原発は絶対安全だ」ということになっていた。大地震があろうがテロがあろうが職員が発狂しようが事故は起こらない、という設定になっていた。嘘だったわけだけど。

『天空の蜂』の事件はその嘘を巧みについている。
「原発は絶対安全だ」ということになっている以上、テロがあろうが地震があろうが近隣の住民を避難させるわけにはいかない。「原発は絶対安全だ」を錦の御旗にして誘致を進めてきた手前、「原発事故が起こるかもしれない」と口が裂けても言うわけにはいかないのだ。


 えてして、大事故になるのは「危ないかもしれない」ものではなく「ぜったいに大丈夫」なものだ。

「それでいいのか、とは?」
「緊急時避難計画というのは、原発で事故が起きて、放射能漏れのおそれがある時のものです。でも、まだ事故なんか起きてません」 「起きてからより、その前に避難させるほうがいいだろう」
「しかしそれじゃ、事故になると予想したことになります」
「それじゃいかんのか。ヘリコプターが落ちるかもしれんのだろう。事故になると予想するのが当然じゃないのか」
「いや、でも、たとえ航空機事故が起きても、放射能漏れに繋がるような事故にはならないというのが、地元への説明だったんですけど」
「なに?」金山は、不意に水をかけられたような顔になった。目の焦点が一瞬曖昧になった。
「もしここで避難させるとなると、原発に航空機が墜落した場合、放射能漏れを伴う事故に発展することを、県が認めるということになります」
「あっ……」と声を漏らしたのは山根副知事だ。諸田防災課長も、口を開けた。

 多くの国民の反対意見を押し切ってまもなくはじまろうとしている東京オリンピックもそうだ。
「新型コロナウイルスの流行がまったく収まっていない今、オリンピックを開催するのは危険だ。多くの犠牲者も出るだろう。だがそれでも開催する」
というスタンスであれば、まだ被害を最小限に抑えるための手も打てるだろう。観客を入れないとか、外国人の入国を厳しく制限するとか、厳しすぎるぐらいに検査を徹底するとか。ほんとに危険になったら中止にすればいい。

 だが「安全安心のオリンピック」という嘘を建前にしてしまった以上、被害はどんどん大きくなるだろう。だって安全安心なんだもん。検査を徹底するとか完全無観客にするとかしたら「安全安心」という言葉と矛盾してしまうもん。
 オリンピック期間中に感染者数がどれだけ増えても中止にはできない。だってオリンピックは「安全安心」なのだから。感染者増はオリンピックとは無関係ということにしないといけないのだから。


 絶対に安全なものはいちばん危険だ。危険性を認められなくなるから。トラブルが起こったときの解決策が〝隠蔽〟だけになってしまうから。

 原発の嘘、「絶対安全」の嘘を見事に書いた小説だった。
 正直いってサスペンスとしてはさほどおもしろくない(予想通りの展開になるので)が、東野圭吾作品にはめずらしい社会派作品としては成功しているとおもう。




 小説なのでもちろん嘘ばっかりなのだが、「ありえそう」とおもわせるリアリティがあった。作者の腕だね。

 ただ、2021年の今読むと「これはないな」とおもうところが一箇所。
 それは政府の決断が速いこと。
 前代未聞の出来事に、次々と決断をおこなってゆく。その決断には正しいものもあれば保身的なものもあるんだけど、とにかく決断のスピードが速い。


 だけどコロナ騒動での政府の右往左往を見ていたぼくには「そんなわけねえだろ」としかおもえない。
 こんなに素早く意思決定をおこなえるはずがない。責任重大な決断を引き受ける人間が政府中枢にいるわけがない。

 たぶん現実にこんな事件が起きたら、政府は何ひとつ決断できないまま時間切れで最悪の結末に……ってことになるんじゃないかな。オリンピックみたいに。


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【読書感想文】原発の善悪を議論しても意味がない / 『原発 決めるのは誰か』



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2021年7月6日火曜日

いちぶんがく その7

ルール


■ 本の中から一文だけを抜き出す

■ 一文だけでも味わい深い文を選出。



ただねえ、阿呆は「阿呆っていいね」と言ったとたん腐るというかね。

(杉本 恭子『京大的文化事典』より(森見登美彦の台詞))




そのことをビートルズが教えてくれた。

(東野 圭吾『ナミヤ雑貨店の奇蹟』より)




そして時には贈るだけではなく、大切なものを燃やしたり、粉々に破壊したり、海のなかに放り投げたりもします。

(伊藤 亜紗 他『「利他」とは何か』より)




今日のピンクグレープフルーツの大半が、放射線によって突然変異を起こしたこれらの植物の子孫なのです。

(ライアン・ノース(著) 吉田 三知世(訳)『ゼロからつくる科学文明 タイムトラベラーのためのサバイバルガイド』より)




そしてその「戦争の始まり」とは、つまりは政治の失敗だ。

(清水 潔『「南京事件」を調査せよ』より)




あんたは自分が変わってると言われたいがために娘に変な名前をつける人間なんだな。

(津村 記久子『まともな家の子供はいない』より)




ねえ、こんな経験してる婆さん、滅多にいないよね?

(桐野 夏生『夜の谷を行く』より)




ダンナの実家に初めて行って料理を手伝わされる嫁みたいな気分だ。

(高野 秀行『移民の宴』より)




中学生は、鳥の群れのようなものだ。

(奥田 英朗『沈黙の町で』より)




「うへ、嫌味言うんだ、そんなやつ、ぶっ飛ばしてやれ!」

(角田 光代『対岸の彼女』より)



2021年7月5日月曜日

【読書感想文】完璧な妻はキツい / 奥田 英朗『我が家の問題』

我が家の問題

奥田 英朗

内容(e-honより)
夫は仕事ができないらしい。それを察知してしまっためぐみは、おいしい弁当を持たせて夫を励まそうと決意し―「ハズバンド」。新婚なのに、家に帰りたくなくなった。甲斐甲斐しく世話をしてくれる妻に感動していたはずが―「甘い生活?」。それぞれの家族に起こる、ささやかだけれど悩ましい「我が家の問題」。人間ドラマの名手が贈る、くすりと笑えて、ホロリと泣ける平成の家族小説。

「夫が仕事ができないことに気づいてしまう」「両親が離婚するかもしれない」「お盆に実家に帰るのが大変」など、他人から見たらどうでもいいが当人にとっては一大事である〝我が家の問題〟をユーモラスに描いた短篇集。


 離婚とかリストラとかいまさらめずらしい話でもないけれど、それが自分の家族に降りかかることを考えたら頭がいっぱいになるぐらいの深刻な話だよね。

 ぼくも中学生のときに両親の仲が険悪になり、毎晩遅くまで口論をしていた。そのときはぼくもつらかった。原因はわからない。というかひとつじゃなかったとおもう。なぜならありとあらゆることで両親は対立していたから。


 さらにある日、両親から「大事な話がある」とぼくと姉が居間に呼びだされたときは、「ああこれは離婚のお知らせだ。うちの家族はもうおしまいだ。どっちについていくかを決めなくちゃいけないんだ」と絶望的な気持ちになった。
 だが結局両親の話というのは「今まで毎晩喧嘩をしておまえたちにも心配をかけてすまなかった。話し合いは決着がついたから今後はもう仲良くやっていく」という〝仲直り宣言〟で、ぼくはその言葉をまったく信じていなかったのだがほんとにその日から両親は仲良くなり、我が家は一家離散の危機を免れた。それ以降、ぼくが知るかぎり大きな喧嘩は一度もしていない。

 ふつう、「仲良くします」と宣言したからって仲良くなれないものだが、うちの両親はそれをやってのけた。我が親ながら大したものだとおもう。きっとお互いいろんなことを我慢することにしたのだろう。

 それを機に、ぼくは「家族って継続していくことがあたりまえじゃないんだ」と知った。
 子どもの頃は「父親は仕事をして、母親は家事をして、姉とぼくは衣食住を保証されるもの」と疑いもしていなかったけれど、家族なんてたやすく壊れることもあるし、壊さないためには不断の努力が必要なのだと気づいた。




 結婚して子どもが生まれて、ぼくも「家庭を壊さないように不断の努力をする」立場になった。
 特に子どもが生まれてからは、〝自分の時間〟なんてものはほとんどなくなった。家のスケジュールはすべて子ども中心に動く。休みの日も子どもと遊んだり子どもを病院に連れていったり買物に行ったり寝かしつけたり掃除をしたりで、ひとりでどこかに出かけることなどほとんどない。まあぼくは子どもと遊ぶのが好きだし読書以外の趣味もないのでそこまで苦ではないのだが。
 しかし文句は言えない。妻はもっと自分の時間を犠牲にして仕事や家事や育児をしているのだから。

 子育てってほんとに「割に合わない」仕事だよなあ。莫大な時間と金がかかるわりに、望む通りの結果は得られない。〝生物としての本能〟だからやっているだけで、損得で考えれば完全に損だ。

 だから、子どもを産むかどうか迷っている人に「産んだほうがいいよ!」とは言えない。良くないこともいっぱいあるから。

 ただ、個人的な気持ちを言えば「自分の時間を捨てて脇役として生きるのもそれなりに楽しいぜ」とはおもう。




『我が家の問題』収録作品では『甘い生活?』がいちばんおもしろかった(というより他の作品はほとんど心を動かされなかった)。

 十二時過ぎに自宅マンションに帰り、風呂から出ると、パジャマにカーディガンを羽織った昌美がキッチンで何かを作っていた。
「先に寝てていいって言ったのに」
「大丈夫。たいした手間じゃないから」
 うしろからのぞくとうどんを茹でていた。別の鍋ではつゆを温めていて、かつお出汁のいいかおりが鼻をついた。小口切りした浅葱と刻んだ揚げが横に用意してある。こういう一手間を見ると、うれしさと同時にそこまでしなくてもいいのにと思うのは、一人暮らしが長かったせいか。
「ビールは飲む?」
「じゃあ、飲もうかな。ああ、いい。自分で出す」
 淳一は冷蔵庫から缶ビールを取り出し、栓を開けた。「はい」横で昌美がすでにグラスを用意している。
「いいよ。直接飲むから」
「だめ。グラスで飲んだほうがおいしいから」
 確かにその通りなので従った。独身時代は、もちろんグラスなど使わなかった。

 この妻をどう感じるかは、人によってぜんぜんちがうだろうな。

 「よくできた妻じゃん」とおもう人もいるだろうが、「これはキツい」と感じる人のほうが多いんじゃなかろうか。特に男は。ぼくだったらこんなの耐えられない。

 一生懸命働き続けている人が家の中にいたら、こっちもだらだらできないじゃん。
 十二時過ぎに帰ったら、さっさと寝てくれている人のほうがいい。そしたら何も気兼ねせずにせいいっぱいだらだらできる。

 いっしょに暮らすのなら、四六時中きっちりしている人より適度に手を抜いてストレスフリーで生きてくれる人のほうがいいなあ。もちろん限度はあるけど。


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【読書感想文】奥田 英朗『家日和』



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2021年7月2日金曜日

【読書感想文】バカ経団連を一蹴するための知識 / 小熊 英二『日本社会のしくみ』

日本社会のしくみ

雇用・教育・福祉の歴史社会学

小熊 英二

内容(e-honより)
日本を支配する社会の慣習。データと歴史が浮き彫りにする社会の姿!!「この国のかたち」はいかにして生まれたか。“日本の働き方”成立の歴史的経緯とその是非を問う。

 〝日本的な働き方〟というと、どんな働き方を思い浮かべるだろうか。

 終身雇用、年功序列賃金、遅くまで残業、飲み会・接待、会社都合で転勤、六十ぐらいで定年退職して老後は悠々自適な生活……。みたいなイメージを持つのではないだろうか。
 ぼくが子どもの頃思い浮かべていた「ふつうのサラリーマン」もそんな感じだった。というのも、ぼくの父親(大企業勤務)がまさにそんな働き方をしていたからだ。

 だが自分が社会に出てみると、そんな甘いもんじゃないとわかった(いや父親の働き方だって甘かったわけではないんだろうが)。

 まず終身雇用なんてどこの世界の話? という感じだ。
 まあこれはぼくがウェブ系の仕事をしているからでもある。業界自体が新しいこともあり、転職なんてあたりまえの世界だ。一社に五年勤めていたら「長いね」と言われるような世界だから「新卒で入社してから十年以上この会社です」なんて人には会ったこともない。

 当然ながら年功序列賃金もない。もちろん長く勤めていれば給与が上がることもあるが、それはスキルや経験が評価されてのことであり、転職を機に年収アップすることも多い。

 残業や飲み会は会社によるとしか言いようがないが、転勤とか定年退職もほとんど聞かない。全国各地に支社や子会社がある会社がほとんどない上、転職が容易なのだから半強制的な転勤を命じられることもない。

 というわけで個人的には日本的な働き方とは無縁な仕事をしているが、それでもまだまだ世間一般のイメージでは「(特に男は)ひとつの会社で骨をうずめる覚悟で働くもの」という意識が強い。ぼくも就活をするときはそういうもんだとおもっていたし(だから妥協できなくて失敗した)、両親なんかは息子の転職に眉をひそめた。




 しかし〝日本的な働き方〟は、ちっともふつうの働き方ではないことが『日本社会のしくみ』を読むとよくわかる。

 欧米の働き方はまったく違うし、日本でも〝日本的な働き方〟が一般的な働き方だったのは高度経済成長期~バブル崩壊ぐらいまでのごくわずかな期間だけだったことがわかる。
 またその頃だって、終身雇用や年功序列があたりまえだったのは大企業に勤める男性サラリーマンにかぎった話だった。

 一九九三年は、まだバブル経済の余韻が続いていた時期である。その時代でも、三分の一程度の人しか、年金だけでは生活できなかったのだ。
 この三分の一という数字は、経産省若手プロジェクトが試算した「正社員になり定年まで勤めあげる」という人の比率と、ほぼ一致している。前述したように、二〇一九年の厚生労働省の発表では、「正社員になり定年まで勤めあげる」という人生をたどれば、夫婦二人で月額二二万一五〇四円の年金が受給できる。この金額ならば、貯金から毎月数万円ずつ補なうか、出費をかなり切りつめれば、年金だけでも生活できるだろう。ちなみに二〇一七年の総務省「家計調査」では、「高齢者夫婦無職世帯」の一ヵ月の支出は二六万三七一八円とされている。
 だがこうした人々は、少数派である。定年後のすごし方に悩むとか、生きがいとして働くといったことは、こうした人々に限った話である。
 これは今に始まったことではなく、昔からそうなのだ。『読売新聞』二〇一九年六月一四日付の報道によれば、厚労省の年金局長は一三日の参議院厚生労働委員会で、「私どもは、老後の生活は年金だけで暮らせる水準だと言ったことはない」と述べた。もともと「大企業型」以外の人は、高齢になっても働くことが前提の制度なのだともいえよう。

〝老後は悠々自適な生活〟ができたのは、ごくわずかな時期のごくひとにぎりの人たちだけ。
 隠居なんてほんの限られた金持ちだけに許されたことなのだ。
 十年ぐらい前に「歳をとっても引退できない時代になった」なんてことが声高に叫ばれていたが、歴史的にはそっちのほうがふつうなのだ。




 年齢(≒社歴)を重ねるにつれて出世していき、給与も増えていく。そんな島耕作的なサラリーマン人生は決してポピュラーなものではなく、むしろ例外だった。
 たしかに高度経済成長期は順調に出世コースを歩むサラリーマンも多かった。だがそれはいくつかの歴史的背景に支えられてのものだった。

 当時の四〇~五〇代の男性たちは、戦争と兵役を経験し、軍隊の制度になじんでいた。職能資格制度がこの時期に急速に普及したのは、総力戦の経験によって、各企業の中堅幹部層がこうしたシステムに親しんでいたことが一因だったかもしれない。
 だが彼らは、重要な点を見落としていた。彼らが軍隊にいた時期は、戦争で軍の組織が急膨張し、そのうえ将校や士官が大量に戦死していた。そのためポストの空きが多く、有能と認められた者は昇進が早かった。(中略)
 そして彼らがこの報告書を出した一九六九年も、日本のGNPが年率一〇%前後で急成長していた時期だった。その時期には、現場労働者レベルにまで「社員の平等」を拡張しても、賃金コストの増大に対応できた。
 だが一九七三年の石油ショックを境に、そうした時期は終わりを告げた。それでも、いったん拡張した「社員の平等」は、もはや撤回できなかった。そのあとの時代には、正社員の範囲だけに「社員の平等」を制限するという、「新たな二重構造」が顕在化していくことになる。

 一般企業が年功序列賃金を実現できていたのは、
「戦死により上の世代が少なかった」
「人口増や高度経済成長により経済規模自体が大きくなっていた」
という背景があればこそだったのだ。
(コストにとらわれなくていい公務員はそのかぎりではないから名前だけの役職者を置くことができる)

 人口は減り、若手よりも中高年のほうが多い現代日本で同じことを実現できるはずがない。元来が無茶な制度なのだから、無理にやろうとおもえばそのしわ寄せは非正規労働者に向かうことになる。

 年功序列や終身雇用制度は、非正規社員が割を食うことで成り立っているのだ。




 海外(欧米だけだが)との比較もおもしろい。

 日本ならば、「大企業か中小企業か」「どの会社か」といった区分が重要になる。だから「A社に就職したい」という言い方が出てくる。A社の正社員になってしまえば平等だ、という「社員の平等」を前提にしているからだ。
 しかし欧米その他の企業では、「社員の平等」というものは存在しない。ここでは、「A社に就職したい」という言葉は意味をなさない。「A社」の現場労働者や下級職員になるのは、むずかしくないからだ。
 その代わり、欧米その他の企業では「職務の平等」とでもいうべき傾向がある。たとえば財務に強い上級職員であれば、A社であろうがB社であろうが、NGOであろうが国際機関であろうが、高給取りの財務担当者になるだろう。逆にいうと、現場労働者はA社であろうがB社であろうが、勤続年数が多かろうが少なかろうが、現場労働者のままなのが原則だ。
 図式的にいうと、日本企業では一つの社内で「タテの移動」はできるが、他の企業に移る「ヨコの移動」はむずかしい。しかし欧米その他の企業では、「ヨコの移動」の方がむしろ簡単で、「タテの移動」のほうがむずかしい。
 こうみてくると、「欧米企業は成果主義が徹底していて収入に大きな差がつく」というのは、経営者や上級職員の話であるのがわかる。また「欧米企業では専門職務に徹するが日本企業はゼネラリスト志向だ」というのは、下級職員にはあてはまるが、幹部候補生レベルの上級職員は必ずしもそうではない。「日本は年功制だが欧米は厳しく査定される」というのは、下級職員や現場労働者には当てはまらないことが多い。

 なるほど。
 たしかに日本の会社ではふつう「同じ会社の正社員であれば平等」である。
 会社であれば定期的に部署移動がある。そうでない会社でも、職種によって極端な賃金格差が生じることはない。同じ年齢・同じ性別・同じ学歴であれば同じような給与体系になる。 

 その一方で、会社が異なれば給与が異なってもしかたないと受け止められる。
 だから転職に二の足を踏む人も多い。会社を移ることで給与が大幅に下がる可能性があるからだ。

 だがアメリカなどでは職務の平等が重要視される。同じ会社の同じ年齢の社員であっても、経営部門か現場労働者かでまったく待遇が異なる。

 どちらが良いというものでもない。それぞれにメリットとデメリットがある。
 だが「社員の平等」があたりまえとおもわれている日本で同じ会社の社員に極端な差をつけるのはむずかしいだろうし、「社員の平等」を実現するためには「親会社と子会社の平等」や「正規社員と非正規社員の平等」などは切り捨てざるをえず、さんざん言われている〝同一労働同一賃金〟も実現するのはかなり困難だ。

 この本の中で著者も書いているが、日本には日本の、アメリカにはアメリカの、ドイツにはドイツの働き方がある。それは経営者の事情、労働者の事情、教育体制、税制、社会保障制度などが混然一体のなった結果として成立しているものだから、「アメリカの企業ではこんな働き方が主流だ。だから日本でも取り入れよう!」という取り組みは無意味だし、強引にやっても失敗する。ゾウの鼻とライオンの牙とウサギの俊敏性だけを取り入れることはできないのだ。


 この本自体には「こういう働き方をするべきだ!」といった主張はない。
 ただ歴史的な背景や各国との比較をもとに「日本の働き方はこうなっている」という説明をしているだけだ。

 でも、目先の利益しか考えていない経営者が「こういう働き方をするべきだ!」と言いだしたときに「バカ言ってんじゃねえよ」と一蹴するための知識を与えてくれる。


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【読書感想文】同一労働同一条件 / 秋山 開『18時に帰る』



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