2022年8月31日水曜日

【読書感想文】東野 圭吾『嘘をもうひとつだけ』 / 小説名手の本領発揮

嘘をもうひとつだけ

東野 圭吾

内容(e-honより)
バレエ団の事務員が自宅マンションのバルコニーから転落、死亡した。事件は自殺で処理の方向に向かっている。だが、同じマンションに住む元プリマ・バレリーナのもとに一人の刑事がやってきた。彼女には殺人動機はなく、疑わしい点はなにもないはずだ。ところが…。人間の悲哀を描く新しい形のミステリー。


 東野圭吾作品ではおなじみ、加賀恭一郎シリーズ。このシリーズは『悪意』『どちらかが彼女を殺した』『私が彼を殺した』『新参者』『赤い指』と今まで五作読んだが、どれもミステリとしてのクオリティが高く、特に『悪意』はぼくが今まで読んだミステリの中でもトップ5に入るほど好きな作品だ。

 ということで「加賀シリーズにハズレなし」とおもっているのだが、この『嘘をもうひとつだけ』もその例に漏れず、質の高い作品が並んだ短篇集だった。


 しかし毎度おもうんだけど、加賀恭一郎はシリーズ通しての主人公とはおもえないほど地味なんだよねえ。もちろん抜群に頭が切れるんだけど、すべてにおいてソツがなさすぎるというか。欠点がなくて人間的魅力に欠ける。

 でも刑事に人間的魅力がないことが欠点になっていないのが東野圭吾氏のすごさだ。このシリーズにおける刑事は、あくまで脇役。主役は犯人たちなのだ。加賀刑事が控えめな存在だからこそ、犯人たちの苦悩や後悔や諦観がしみじみと伝わってくる。そして冴えたトリックも際立つ。

 トリックや謎解きに自信があるからこそ加賀刑事という地味なキャラクターを探偵役に持ってこられるのかもしれない。半端なミステリほど、探偵役が変わった職業についてたり特異なキャラクターだったりするもんね。どの作品とは言いませんが……。




『嘘をもうひとつだけ』に収録されている五篇は、いずれもいたってシンプルな構成だ。容疑者は一人か二人しか出てこないので、真犯人を推理するのは容易だ。容疑者一人(ないし二人)、被害者一人(ないし二人)、探偵役の刑事一人という必要最小限のメンバー構成だ。

 最小の要素で質の高いミステリ作品に仕立てているのだから、作者の力量がよくわかる。東野圭吾さんってもう押しも押されぬ大作家だから今さらこんなこと言うのも恥ずかしいけど、やっぱりすごい作家だよなあ。


 特に感心した短篇が『冷たい灼熱』。

 工作機械メーカーに勤める田沼洋次の妻が殺され、幼い息子が行方不明になった。加賀刑事は田沼洋次を心配するふりをしながらも、彼が犯人ではないかとにらみ捜査をおこなう。だが明らかになったのは意外な事実だった……。

 犯人は容易に想像がつく。加賀刑事が犯人を追い詰めてゆく過程もさほど意外なものではない。やっぱりね。この人が犯人だよね。決め手はまあそんなもんだよね。とおもっていたら……。

 最後にもうひとひねり。おお、そうきたか。一筋縄ではいかないなー。突飛ではあるけれど「もしかしたらこういうこともあるかもしれない」ともおもえるギリギリのリアリティ。鮮やか。そしてすべてをつまびらかにしないラストもオシャレ。


 東野作品は長篇もいいけど短篇もいいね。この短さでエッジの利いたミステリを書ける作家はそうはいまい。短篇にこそ作家の力量が現れるよね。


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2022年8月30日火曜日

【読書感想文】手書き地図推進委員会『地元を再発見する! 手書き地図のつくり方』 / 地図は表現手法 

地元を再発見する! 手書き地図のつくり方

手書き地図推進委員会

内容(e-honより)
まちおこしや地域学習の現場で、誰でも気軽に参加できると密かに人気を集める手書き地図ワークショップ。絵が描けなくても大丈夫!懐かしい思い出、等身大の日常、ウワサ話に空想妄想何でもアリな楽しみ方、きらりと光るまちのキャラクターを見つけるノウハウを豊富な事例で解説。自治体・まちづくり・地域教育関係者必読!

 小三の娘が地図を好きなので、地図のおもしろさに触れられるような本はないかなーと探してこの本を買ったのだが……。

 うーん、ぼくの求めている本ではなかったな。ぼくが欲していたのは、もっと技術的な内容だった。縮尺とか地図記号とか距離測定の方法とか。

 でもこの本にそういう情報はまるで書かれていなかった。よく調べずに買っちゃったぼくが悪いんだけど。




 この本で紹介されているのは、まちおこしや社員研修や地域の結束強化を目的として、手書き地図作りを通して親睦を深める方法だ。ぼくのいちばん嫌いなやつだ。

 嫌なんだよねえ。こういう、強制的に誰かとの共同作業をさせられるやつ。就活のときのグループワークとか会社の親睦会とか大っ嫌いだったなあ。学校の文化祭とかもちゃんと取り組んだことない。教室のすみっこで、気の合う友人と勝手に別の展示物を作ったりしてた。

 だから「地域住民の結束を深めるためにいっしょに手書き地図作りをしましょう」なんてイベントがあってもぼくはぜったいに参加しない。一日拘束されて三万円もらえるんならやってやってもいいかな、それぐらいのレベルだ。

 なのでこの本で書かれている「当初は遠慮がちだったメンバーが、グループワークを通して打ち解けた事例」なんかを読んでいるとしらじらしい気持ちになる。いや、いいんだけど。こういうの好きな人が勝手にやれば。個人的に嫌いなだけで、好きな人を否定するつもりはないけど。


 そんな人間なので、この本を書いた人たち(「ワークショップを通して地域住民の絆が深まれば素敵ですよね☆」と素直におもえる人たちとはできればお近づきになりたくないなあという気持ちで読んだのだった。くりかえしになるけど、いいんですよ。ぼくと関係ないところでやってる分には。




「手書き地図制作を通して交流を深める」にはまったく食指が伸びなかったけど、手書き地図作り自体はおもしろそうだとおもった。

 縮尺の正しさはあまり気にせず、見て欲しい部分だけを極端に大きくする。すべての情報を公平で網羅的に載せる必要がないのも、手書き地図のいいところ。なにしろ、編集長は作者その人なのだから、自由でいいのです。これまで取材してきた日本各地の手書き地図の作者も、皆一様に同じことを口にしているのが興味深い。曰く、「だって、自分が載せたいものだけにしたいんだもん!」
 1枚の地図にあらゆる情報を公平に載せるのではなく、偏愛的に載せたいことだけを堂々と書き込む。すると、その地図で伝えたいこと(テーマ)がハッキリしてくるわけです。ほかに伝えたいことがあるのなら、別の地図をまたつくればいいじゃん、という割り切りが大事なんですね。

 国土地理院やゼンリンの地図は正確であることが求められるけど、手書き地図はそうではない。正しさ、間違いがないことよりも、制作者の意図のほうが大事なのだ。

 つまり、手書き地図というのは「情報」ではなく「表現技法」なのだ。小説、詩、俳句、短歌、絵画、歌、ダンス、陶芸、ツイートなど人によって表現手段はさまざまだけど、地図もそのひとつなのだ。

 もちろん地図の「読み手」とは、地図を手に取ってくれる人のことですね。来街する観光客やそこに住んでいる大人や子ども、または通勤する会社で働く人など、つくった地図を見てもらいたいすべての人のことを考えてつくります。ではなぜ、手書き地図で読み手を意識しなくてはいけないのでしょう。一般的な地図の場合は「目的地に到達するための手段や今いる場所を知るためのもの」なので、読み手は「地図で目的地などを探している人」と位置づけることができます。しかし手書き地図の場合、読み手が期待するのは正確な位置情報ではありません。「書き手(=あなた)」の視点を借りて、地域の暮らしぶりや魅力を知りたいという「読み物」に近い期待が存在します。そんな読み手の期待に応えようとつくられた地図には、無機質な位置情報だけでなく、書き手の伝えたいまちの個性がはっきりと浮き上がってきます。


 今和泉隆行さんという人がいる。「地理人」という名前でも活動していて、この人は何十年も〝架空地図〟を作り続けている。

 非常に「ありそうな」町の地図を描いているのだが、ただありそうなだけではなく、きっとそこには今和泉さんの都市に対する願望だったり、かつて住んだ街への郷愁だったりが投影されていることだろう。

 これなんかまさに、地図を表現手法として使っている例だ。




 たぶん多くの人が、子どもの頃に地図を描いたことだろう。住んでいる町や、学校内の地図や、宝の地図など。

 でもいつしか地図を描かなくなった。最近はGoogleマップでかんたんに指定した場所の地図を切り取ることができるので余計に。

 でも地図作りはおもしろい。まるで冒険をしているようにわくわくする。

 今度、娘やその友だちといっしょに地図作りをやってみようかな。


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【読書感想文】平面の地図からここまでわかる / 今和泉 隆行 『「地図感覚」から都市を読み解く』

おまえは都道府県のサイズ感をつかめていない



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2022年8月29日月曜日

いちぶんがく その15

ルール


■ 本の中から一文だけを抜き出す

■ 一文だけでも味わい深い文を選出。



年間一〇億ドルも消費するのは難しい。

(エマニュエル・サエズ(著) ガブリエル・ズックマン(著) 山田 美明(訳)『つくられた格差~不公平税制が生んだ所得の不平等~』より)





『俺』は俺の声を聞いた。

(東野 圭吾『パラレルワールド・ラブストーリー』より)




景気が悪くなると、この国粋主義の思想が、幅をきかせるようになります。

(ピーター・フランクル『ピーター流生き方のすすめ』より)




「ちょっとした不注意があり、今はお庭で固まってらっしゃいます」

(乙一『平面いぬ。』より)




「楽をしたいんですよ、おれは」

(小野寺 史宜『ひと』より)




「これまで、若い女ってことでいっぱい楽しいことがあったけど、それももう終わりなのかなあって」

(奥田 英朗『ガール』より)




「おれは、指の数少ないさかい、なおさらや」

(廣末 登『ヤクザになる理由』より)




じゃあどうすればいいかと言われても、わからない。

(村上 龍『「わたしは甘えているのでしょうか?」(27歳・OL)』より)




また「タバコは健康に悪い」と言う人がいるが、どう考えてもやり投げの方が体に悪い。

(上原 善広『一投に賭ける ~溝口和洋、最後の無頼派アスリート~』より)




ギャンブルをやめるためのギャンブル。

吉田 修一『犯罪小説集』より)




 その他のいちぶんがく


2022年8月26日金曜日

【読書感想文】クロード・スティール『ステレオタイプの科学』 / 東北代表がなかなか優勝できなかった理由かもしれない

ステレオタイプの科学

「社会の刷り込み」は成果にどう影響し、わたしたちは何ができるのか

クロード・スティール (著)  藤原 朝子(訳)

内容(英治出版HPより)
女性は数学が苦手、男性はケア職に向いていない、白人は差別に鈍感、年寄は記憶力が悪い……
「できない」と言われると、人は本当にできなくなってしまう。
本人も無自覚のうちに社会の刷り込みを内面化し、パフォーマンスが下がってしまう現象「ステレオタイプ脅威」。
社会心理学者が、そのメカニズムと対処法を解明する。


 アメリカの大学で奇妙な現象が起きていた。入学後に黒人や女子学生の数学の成績が悪くなるのだ。「黒人や女子は数学が苦手」という単純な話ではない。入学前は同じくらいの学力だった白人男子学生と比べても、なぜか黒人や女子だけが入学後に成績が悪くなるのだ……。


 著者は、実験を重ねて「ステレオタイプ脅威」が原因であることを突き止める。

 ステレオタイプ脅威とは、

「黒人は知的能力が低い」「女は理数系科目が苦手」「白人は黒人よりも運動能力が低い」など、世間一般に広まるステレオタイプがある(この際そのステレオタイプの真偽は問わない)。ステレオタイプによって一般的に不利とされる属性の人が難しい課題に挑戦したとき、そのステレオタイプによって委縮してしまい実力が十分に発揮できなくなる……。

という仮説だ。いったん「苦手」とおもわれてしまうと、本当に苦手になってしまうのだ。ステレオタイプによってステレオタイプが真実になってしまう。いってみればステレオタイプの自己実現化だ。




 はたして〝ステレオタイプ脅威〟は真実なのか。筆者は、条件を変えて様々なテストを試みる。その結果、ステレオタイプを強く意識させられた学生のほうが、そのステレオタイプ通りの結果を生んでしまった。

 結果は素晴らしかった。明確な答えが得られた。テスト前に、「このテストの結果には性差がある」と言われた(したがってステレオタイプを追認する脅威にさらされた)女子学生の点数は、同等の基礎学力の男子学生よりも低かった。これに対して、「このテストの結果に性差はない」と説明を受けた(したがって女性であることとの関連性の一切を追認する脅威から解放された)女子学生の点数は、基礎学力が同レベルの男子学生の点数と同等だった。女性の成績不振は消えてなくなったのだ。

「女子は数学が苦手だ」と何度も言われていると、ほんとに苦手になってしまうのだ。


 これに近い現象を、ぼくは高校野球において見てきた。

 今年(2022年)高校野球選手権大会で宮城県代表の仙台育英高校が優勝した。春夏あわせて200回近い大会をおこなってきた全国大会で、なんと史上初めての東北勢の優勝である。それまでずっと東北代表は優勝できなかった。

 はたして東北の高校はそんなに弱かったのだろうか。そんなことはないとぼくはおもう。

 たしかに昔は弱かった。雪によって冬季に屋外練習ができないこと、そもそも野球文化が近畿や中国・四国ほど根付いていなかったこともある。1915年の第1回大会で秋田中が準優勝してから、次に東北勢が決勝に進出するのは1969年。なんと54年も間隔があいている。その後も苦戦が続く。

 しかし2001年春に仙台育英が決勝に進出してからは、2003年夏、2009年春、2011年夏、2012年春、2012年夏、2015年夏、2018年夏と21世紀に入ってからは8回も決勝進出している。ぜんぜん弱くない。にもかかわらずあと一歩のところで東北勢は涙を呑んできた。なんと決勝での成績は0勝12敗。13回目の決勝戦にしてようやく勝利を挙げたのだ。

 甲子園の決勝戦までいくと、両チームともほとんど力の差はない。当然ながら実力があるからこそ勝ち上がってきたのだし、厳しいスケジュールの試合を勝ち抜いてきているので両チームとも万全の状態ではない。「どっちが勝ってもおかしくない」という状況がほとんどだ。にもかかわらず0勝12敗。これはもう偶然では片づけられない。何か別の力がはたらいているとしかおもえない。

 この本を読んで、東北代表が甲子園決勝で勝てなかった理由のひとつが〝ステレオタイプ脅威〟だったんじゃないかとぼくはおもった(それだけが原因ではないにせよ)。

 ずっと「東北代表は弱い」「東北勢は決勝で勝てない」とおもわれてきた。そのステレオタイプこそが、当の東北代表を(選手たちも気づかぬうちに)委縮させ、負けさせてきたのではないだろうか(あくまで個人の見解です)。




 ステレオタイプ脅威は、パフォーマンスの低下を招くだけでなく、回避行動となって現れることがある。たとえば飛行機の座席に黒人が座っていて、その隣が空いている。

 だが多くの白人はそこに座らない。それは差別意識からというより、むしろ恐れからの行動だと著者は言う。

「黒人が白人に差別される」ニュースを多く見聞きしているうちに、「白人は差別に無自覚で人種差別的な行動をとってしまう」というステレオタイプを持ってしまう。そのステレオタイプ通り、自分も差別的な行動をとってしまうのではないかと警戒し、黒人と近づくことを回避してしまうというのだ。


 似た経験がある。

 たとえば電車で若い女性の隣の席が空いているとき。ぼくのようなおっさんは座るのを躊躇してしまう。痴漢とおもわれるのではないだろうか、下心から近づいたとおもわれるのではないだろうか、そういう意識がはたらいて、わざわざおじさんの隣の席を選んでしまう(ほんとは女性の隣に座りたいけど)。

 これもステレオタイプ脅威、なのかな? それとも単に「嫌われたくない」という意識で、ステレオタイプ脅威ではないのだろうか?




 ステレオタイプ脅威は、良い方にも作用する。

 たとえば、アメリカにおいて女性は数学が苦手とされている一方で、アジア人は数学が得意とされている。

 そこで、アジア系女子大学生たちを集めてテストを受けてもらった。事前のアンケートによって女性であることを意識させられた被験者は数学テストの成績が下がり、逆にアジア系であることを意識させられた被験者の成績は向上した。

 つまり、うまく使いこなせば高いパフォーマンスを発揮できるようになるのだ。

 ステレオタイプ脅威は一般的な現象だ。いつでも、誰にでも起きうる。自分のアイデンティティに関するネガティブなステレオタイプは、自分の周囲の空気に漂っている。そのような状況では、自分がそれに基づき評価されたり、扱われたりする可能性がある。特に自分が大いに努力した分野では、脅威は大きくなる。だから、そのステレオタイプを否定するか、自分には当てはまらないことを証明しようとする。あるいはそのような脅威に対峙しなければならない場面そのものを回避する。(中略)自分の経験を振り返って、プレッシャーの存在を認識するのは難しいが、本書で述べてきたように、アイデンティティを現実のものにしているのは、まさにこうしたプレッシャーなのだ。


 ステレオタイプ脅威の説明からその裏付け、対策方法まで書かれているんだけど、とにかく長ったらしい。10ページぐらいにぎゅっと濃縮しても内容はほとんど変わらない気がする。

「社会心理学者ってこんな実験手法をとるんだー」ってわかることはちょっとおもしろかったけど、この内容でここまでの分量はいらなかったな。論文じゃないんだから。


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2022年8月25日木曜日

バレエのお迎えにゆく不審者

 長女がバレエを習っている。なかなか熱心な先生で、レッスンが終わるのは19時を過ぎている。その時間に女子小学生をひとりで歩かせるのは心配なので、ぼくが迎えに行く。レッスンが終わる時刻は日によって多少変わるので、少し早めに行って待つことになる。

 問題は、どんな顔をして待てばいいのかわからないということだ。


 わりと大きなバレエ教室で、多くの子が出入りしている。小学生クラスのレッスンの後は中高生のレッスンが始まる。

 なので、教室の前で待っているとその前をたくさんの子が通る。バレエ教室なのでほとんど女の子だ。みんな礼儀正しくてぺこりと頭を下げてくれるのだが、こっちとしては
「あー、不審者じゃないかと疑われてるんだろうなー」
という気持ちでいっぱいだ。

 そりゃそうだろう。夜、若い娘さんたちがたくさん出入りする施設の前でたたずんでいるおじさん。お迎えとわかっていても、それでも不気味だろう。

 ちょっと離れたところで待てばいいのだが、そのあたりは住宅街で待つような場所がない。無関係の家の前で待っていたらもっと不審人物だ。

 他の親もお迎えに来ているが、車で来ていたり、おかあさんが迎えにきたりしている。教室の前で立っているおじさんはぼくひとりだ。いたたまれない。


 そこでぼくは、三歳の次女を連れていくことにした。

 子連れは無敵だ。どこにいても不審人物でなくなる。

「若い女子が出入りする施設の前で立っているおじさん」と
「若い女子が出入りする施設の前で立っている三歳の女の子とその父親らしきおじさん」
とでは、怪しさが雲泥の差だ(とぼくはおもっている)。堂々と立っていられる。

 通りがかる女の子たちの態度も明らかにちがう。ぼくひとりのときは必要最小限の礼儀(=無言で頭を下げるだけ)だったのに、子どもがいると「こんばんはー」とあいさつしてくれる。

 なんだろう、これは。美容整形をした人が「整形前と後で男の態度がぜんぜんちがう」と語っているのを聞いたことがあるが、それに近い。「存在を許されている感」がまるでちがう。


 そんなわけで、無用な警戒を解くために次女を連れてお迎えに行っていたのだが、何度か行っていると次女が飽きてきて(そりゃあただ待つだけだからね)、「ねえねのお迎え行こっか」と誘っても「いかん。アンパンマンみとく」と断られるようになってしまった。

 しかたなく「帰りにお菓子買ってあげるから」などと物で釣るようになり、そうすると必然的に長女にもお菓子を買ってやらないわけにはいかず、「怪しい人でいない」だけのためにもこれでけっこう金がかかるのである。やれやれ、不審者もたいへんだぜ。


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犯罪者予備軍として生きる


2022年8月24日水曜日

【読書感想文】麻宮 ゆり子『敬語で旅する四人の男』 / 知人以上友だち未満

敬語で旅する四人の男

麻宮 ゆり子

内容(e-honより)
真面目さゆえに他人に振り回されがちな真島。バツイチの冴えない研究者、繁田。彼女のキツイ束縛に悩む、愛想のよさが取り柄の仲杉。少し変わり者の超絶イケメン、斎木。友人でなく、仲良しでもないのに、なぜか一緒に旅に出る四人。その先で待つ、それぞれの再会、別れ、奇跡。他人の事情に踏み込みすぎない男たちの、つかず離れずな距離感が心地好い連作短編集!


 タイトルに惹かれて購入。

 頭脳明晰で容姿端麗だが自閉症スペクトラム障害で他人とうまく関われない斎木、斎木に惚れこむ学生時代の後輩・真島、斎木の友人でよき理解者・繁田、その友人・仲杉。友人というほどではなく、共通の属性があるわけでもない四人が、ひょんなことからいっしょに旅に出る。ほどほどの距離感でつきあいながらそこそこ楽しい旅行を味わい、ときおり苦い経験もする。

 読んでいるほうとしてもすごくおもしろいことが起こるわけじゃないし、ためになる情報もあまり多くない。でもなぜか心地いい。なんともふしぎな味わいの小説だった。




 ぼくも(斎木さんほどではないにせよ)人づきあいが得意なほうではないので、大人になってから友人と呼べる人ができたことがない。友人と呼べるのは学生時代からの友人ぐらいだ。


 昔は人見知りな自分がイヤだったが、中年になってそれもどうでもよくなった。今さら性格はなかなか変えられないし、友人が増えれば煩わしいことも増える。ぼくの趣味は読書とかパズルとか昼寝とかひとりでやることばかりなので、趣味を通して交友関係が広がることもない。学生時代からの友人がいるのだからそれでいい。

 もはや新たに友人をつくろうとはおもっていない。仕事で知り合った人や娘の同級生の保護者とそこそこ親しくなることはあるが、敬語はくずさない。「大人の付き合いをしましょうね」というぼくからのメッセージだ。そこを踏み越えてこようとする人とはこちらから距離をとる。暗黙のメッセージを読み取れない人とは友だち付き合いしたくない、メッセージを読み取ってくれる人とは距離を保ったまま。つまりどっちにしろざっくばらんに話しあえる友だちにはなれない


 そんな人生を送っているので、『敬語で旅する四人の男』で描かれる四人の関係はたいへん心地いい。

 礼節は忘れない、多少の冗談は言うが引っ張らない、本人が言いたがらないことは詮索しない、ときどきは連絡を取り合うがべたべたはしない、家庭の事情には踏み込まない。そんな「知人以上友だち未満」の関係がなんとも気楽そうでいい。大人の交友関係ってこういうのでいいんだよな。友だちじゃなくたって。

 家族や友人や同僚じゃないから、多少の嫌なところも目をつぶれる。どうせ旅の間だけだし。どうしても嫌になったら離れればいいし。

 いいねえ。この歳になって新たに友だちをつくろうとはおもわないけど、こういう距離感の旅ならぼくも同行してみたい。




 この短篇集は、四人それぞれを主人公とする四篇から成っている。そしてそれぞれにちょっとした悩みをもたらす関係が描かれる。父親と離婚して家を出た母親との関係、別れた妻とその両親との関係、嫌な上司やしつこい彼女との関係、恋愛相手との関係。当人にしてみればまあまあ重大ではあるが、世間一般の中年男性からすればよくある悩みだ。

 だから他の三人は、あまり首をつっこまない。多少は心配したり好奇心をのぞかせたりはするが、アドバイスをしたり、助けるための行動をとったりはしない。助けを求められればできる範囲で手伝うが、基本的には傍観しているだけ。また、悩みを抱えている当人も助けやアドバイスを求めたりしない。

 女性の作者とはおもえないほど、〝男同士の付き合い〟をよく心得ている。そうそうそう、男同士って親しくなればなるほど深刻な悩みを相談したり、親身になってアドバイスしたりしないものなんだよ。「おれは、おまえの悩みとはまったく無関係な立場でいてやる」ってのも優しさなんだよ。なんでもかんでも相談する人には理解できないだろうけどさ。




 理想と現実のバランスもいい。小説だから多少の救いはあるけれど、悩みが雲散霧消するような解決は示されない。

 真島は母親との関係を修復できないし、繁田は元妻の実家とはぎくしゃくしたままだ。仲杉の仕事は変わらないし彼女とは縁を切ったけどお互いに傷をつくった。そして斎木は恋人ができたもののこの世界での生きづらさはまったく変わっていない。みんな、ほんの半歩前進しただけだ。ほとんど前の場所から変わっていない。

 でもまあ、世の中そんなもんだ。若い頃ならいざしらず、三十ぐらいになるとだいたいわかってくる。ある日突然状況が大きく改善するなんてことはない。急に悪くなることはあっても急に良くなることはない。明日は今日の延長線上にあり、ほとんど同じ日なんだということが。それでもほんの0.1%だけ良くなることはあるけど。

 そのへんの書き方が絶妙。救いは残しつつ、でも現実離れしていないビターな味わい。完璧な人もいないし根っからの悪人もいない。とにかく地に足のついた作品だ。

 あと、女性作家が書く男性って「性的なことは考えたことすらありません」みたいなタイプか「エロいことばっかり考えています」みたいな極端な人物が多いけど、この本に出てくる男たちはほどほどに性的(エロいことも好き、ぐらい)で、そのへんのリアリティもしっかりしてたな。




 やたらとうまい小説だとおもったら、なんとこれがデビュー作だという。へえ。すごい。

 今後に期待ですな。


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2022年8月23日火曜日

国民給食

 食事が公的に提供されたらいいのに。

 国が実施する給食だ。国営食堂で食べてもいいし、国営お弁当屋や国営お総菜屋で買って帰ってもいい。タダだと助かるし、お金をとってもいい。当然そのためなら多少の増税はやむをえない。


 もちろん義務じゃなくて、自分で作ってもいいし、民間のレストランに行ってもいい。選択式給食制だ。

 これがあればものすごく助かる。

 まずごはんを作る時間が減らせる。全国民で考えるととんでもない時間が浮く。その時間を生産や消費にまわせるわけだから、経済にもいい影響があるだろう。

 食費も浮く。家でひとりぶん調理するより、まとめて数千人分作る方がずっと安上がりになる。自炊が贅沢な行為になるわけだ。

 家からキッチンがいらなくなる。ワンルームだったらほとんどいらない。その分他のスペースを広くできるから、生活水準も上がる。

 まとめてつくればフードロスも削減できる。国が食物の生産量や輸入量を見ながら献立を決めれば、国際貿易でも有利にはたらきそうだ。

 長期的に見れば医療費抑制にもなる。バランスの良い食事を提供すれば国民の健康水準も向上する。


 もちろん外食産業や小売業は困るだろうから実現はむずかしいだろうけど。ぼく個人は食にあまり関心がなくて「まずくなくて腹がふくれて栄養がとれればいい」という人間だから、食事が国営サービスになったら助かるなあ。

 屋台文化の台湾がうらやましい。


 まあ本邦でやると中抜きの温床になって特定の業者だけがうるおって国民は大して利用しないというアベノマスクみたいな給食制度になっちゃうんだろうなあ。

 どっかやってる国ないのかな。社会主義国なんかやってもよさそうなのにな。

 ……とおもって検索してみたら、旧ソ連には「調理工場」なるものがあったらしい。


ソ連の女性を「退屈な」料理から救った調理工場
https://jp.rbth.com/history/86348-soren-jyosei-wo-taikutsu-ryouri-kara-sukutta-chouri-koujyou


 どうもあんまり利用されなくなったそうだが、この記事を読んでも原因がいまいちよくわからない。結局、官営にするとあんまり効率化できないということなのかなあ。市営とかにすればそこそこ競争原理もはたらいていいかもなあ(いい給食を提供すれば住民増加につながるから)。


2022年8月22日月曜日

ツイートまとめ 2022年5月



身を切る改革

ばかにする

図書カード

密告

東西

はーい

海外作品あるある

大雷山

ロシア語

人力でカバー

カツアゲ

バーカバーカ

1年分

子役

十を聞いて一も知らない













2022年8月19日金曜日

ツイートまとめ 2022年4月



タクシー

陸続き

バレエ鑑賞

解体新書

借金ひとりじめ

はやくいけ

宝塚市の隣

循環関数

レトロニム

ギャグ

天才ヘルメットと技術手袋

カメラ眼

きもち

チャイバ

昭和も遠くなりにけり

年増

20代

差別落書き

ベクトル

学ぶ理由

ば行

グリーン

パスワードマネージャー

ボーダーライン

中高生が近寄りたがらないやつ

解説文

レンタルなんもしない人

字が汚い人あるある

活用

2022年8月18日木曜日

【読書感想文】『ズッコケ三人組と死神人形』『ズッコケ三人組ハワイに行く』『ズッコケ三人組のダイエット講座』

   中年にとってはなつかしいズッコケ三人組シリーズを今さら読んだ感想を書くシリーズ第十二弾。

 今回は34・35・36作目の感想。

 すべて大人になってはじめて読む作品。


『ズッコケ三人組と死神人形』(1996年)

 雪山のペンションに旅行に出かけた三人組。そこに、死神の人形が届けられる。最近世間を騒がしている、受け取った者が死亡するという人形らしい。はたして焼死者が出て、ペンションは陸の孤島と化す。さらに第二、第三の事件も発生し……。


 これはひどい。中期作品のダメなところを寄せ集めたような作品。『ズッコケ三人組のミステリーツアー』よりももっとひどい。

 まず設定が不自然。クローズド・サークルものをやりたかったんだろうけど、雪山深いペンションに小学生だけで旅行させること自体が無理がある。もうちょっと自然な導入にできなかったのかね。

 そして登場人物が多い。児童文学の分量で、十人近い容疑者のいるミステリを書くのは無理がある。案の定、真犯人を聞かされても「この人どんな人だっけ?」となってしまった。

 さらに『ズッコケ三人組のミステリーツアー』と同じく、一応三人組も推理はするけど真相にはたどりつけず、最後は警察が解決しちゃうパターン。単に事件に巻きこまれただけでこれといった活躍をしてないんだよね。ただの傍観者。

 ミステリとしても粗が目立つ。第一の事件の狂言自殺トリックはいいとして、第二の事件は「たまたま被害者が鍵をかけ忘れたのを利用して」殺されてるし、第三の事件では警戒していたはずの被害者があっさり毒を飲んで殺される。しかも犯人が〝女子大生グループとして旅行に来ていた殺し屋組織の女〟ってなんじゃそりゃ。ラストで唐突に殺し屋組織の存在が明かされ、なんの説明もないまま終焉。

 これはかなりのハズレ作品や……。 



『ズッコケ三人組ハワイに行く』(1997年)

 モーちゃんがお菓子の懸賞に見事当たってハワイ旅行に行くことになった三人。はじめての海外旅行を楽しむ三人だったが、ハチベエの曽祖父を知っているという日系人が現れて……。


 ははーん。これはあれだな。作者が経費扱いでハワイ旅行に行くために書いた作品だな。

 いろいろと設定に無理がある。まずガムの懸賞で100人近くをハワイ旅行に連れていくか? そんな金を出すためにはいったいいくつガムを売らなきゃいけないんだ。

 三人一組で旅行にご招待、なんてのも聞いたことがない。ふつうは一人かペアでしょ。

 そして「子どもばっかり三十人を集めて、大人二人(それも子どもの扱いにまったく慣れていない菓子メーカーの社員)が海外に連れていく……とぞっとするようなツアー。おそろしすぎるだろ。おまけに現地で子どもたちから目を離して「今から自由行動にするので〇時にここに戻ってきてくださいね。あっちの通りは危険なので行かないように」って、海外とガキをなめすぎでしょ。近所の公園に連れていってるんじゃないぞ。案の定迷子になってるし。

 さらにハチベエが出会った見ず知らずの外国人が「ちょっと明日この子たちをお借りしたい」と言いにきたら、引率の社員はあっさり引き渡してしまう。責任感ゼロか。
 話の展開上しかたないとはいえ、引率者の危機管理体制がズタボロなところが気になって話が頭に入ってこない。

 さらにハチベエが出会ったハワイの大富豪が「私の父親が日本にいたときに君のひいおじいさんに借りをつくった。当時の罪滅ぼしも兼ねて、ホテル経営事業を君に譲りたい」という話を持ちかけてくる。こんなの100%詐欺じゃねえか!

 とまあこんな感じで、リアリティもへったくれもあったもんじゃない。日系二世はともかく三世や四世までもがぺらぺら日本語しゃべってるし。どんだけ日本語好きやねん。ハワイの観光地や歴史の描写は丁寧なだけに(丁寧に書かないと経費扱いにできないからね)、お話のずさんさがより際立つ。

 きわめつきはラスト。大富豪がお世話になった八谷良吉さんはハチベエの曽祖父ではなくまったくの他人だったというオチ。
 いやいやいや。

  • ミドリ市花山町に住んでいた(ハチベエの家は代々花山町)
  • 八百屋を経営していた(ハチベエの家は八百屋)
  • 名前が八谷良吉(ハチベエは八谷良平)

 これだけ条件がそろってたのに、赤の他人でしたってそんなアホな……。



『ズッコケ三人組のダイエット講座』(1997年)

 モーちゃんの身体測定の結果を見たハチベエとハカセは、モーちゃんを減量させるべくダイエット計画を立てる。食事制限と運動により3kg落としたモーちゃんだが、パーティーに出席したことをきっかけにあえなく挫折。そんな折、ビューティーダイエットクラブという会の存在を知り、会費十万円を払うことを決意する……。


 身体測定という小学生にとっては身近なイベントをきっかけにしてダイエットに励むという自然な導入。おっ、いいねえ。もうズッコケシリーズを三十数冊も読んでいると第一章を読んだだけで当たりはずれがわかるようになってきた。導入が不自然な作品はまずまちがいなくはずれだ。『ズッコケ三人組と死神人形』『ズッコケ三人組ハワイに行く』も導入がひどくて、そのまま最後までつまらなかった。

 身体測定というやつは誰もが経験したことのあるおなじみの行事でありながら、小学生にとってはぎょう虫検査に匹敵するぐらいのイベントだ。あいつの身長に勝ったとか、あいつは身長の割に座高が高すぎるとか(そういや最近は座高を測らないらしいね)、大人から見るとどうでもいいことで一喜一憂する。

 そこからの流れも自然で、かつそれぞれのキャラクターがよく出ている。ハチベエは運動を勧め、ハカセはカロリー計算をし、クラスの女子たちはどこからか仕入れた流行りのダイエット方法を持ちこんでくる。そして彼らに振り回されるモーちゃん。

 と、ここまでは日常的なシーンが続くのだが、ビューティーダイエットクラブの存在が明らかになるあたりから雲行きがあやしくなってくる。会費は十万円、医師でもないのに医療行為をやっているから大っぴらにはできない、マンションの一室で開催される、短期間で二十キロも痩せられる、アメリカから輸入した謎の食品……と何から何まで怪しさ満点のクラブである。そこに貯金をはたいて入会したモーちゃんは、はたして食欲が減退してみるみるうちに痩せてゆく。ところが倦怠感や貧血の症状に襲われるようになり、さらにはビューティーダイエットクラブの主催者が警察に逮捕されてしまう。

 詐欺が明らかになって一応決着したかに見えたが、モーちゃんの悲劇はまだ終わらない。会から勧められたダイエット法をやめたにもかかわらず食欲は回復せず、身体が食べ物を受けつけなくなってしまう拒食症になってしまったのだ……。

 いやあ、おそろしい。ズッコケシリーズではホラーやオカルトを扱った作品がいろいろあるけれど、ぼくはこれがいちばん怖かった(『ハワイに行く』で子ども三十人に海外で自由行動をとらせる引率者もある意味こわかったけど)。

 実際、切実な問題だしね。ぼくの親戚の女の子も、中一のときに拒食症になって入院してしまった。ぜんぜん太っていなかったのに「痩せなきゃ」と思いこんでしまい、ご飯を食べられなくなってしまったのだ。十二歳ぐらいの女の子って身長は止まるから体重は増えやすいし、周囲との違いや人の目を気にする時期だし、でも知識は未熟なのでダイエットで危ない目に遭いやすい。

 テーマもいいし、テーマに対して真正面から取り組んでいるところもいい。タイトルや表紙からコミカルな展開を予想していたのだが、いい意味で想像を裏切られた。最後はちょっとうまくいきすぎなところもあるが、まあこれぐらいのご都合主義は許容範囲内だ。

 また「ただいるだけ」になりがちなモーちゃんが主人公になっていること、それも巻きこまれただけでなく自分から積極的に行動を起こしていること、それでいてハチベエとハカセもちゃんと活躍のシーンを与えられていることなども、バランスのいい作品にしてくれている。

 この時期の作品ははずれが多いけど、これは久々の当たりだったなあ。


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2022年8月17日水曜日

【読書感想文】せきしろ・又吉 直樹『まさかジープで来るとは』 / 故で知る

まさかジープで来るとは

せきしろ  又吉 直樹

内容(e-honより)
「後追い自殺かと思われたら困る」(せきしろ)、「耳を澄ませて後悔する」(又吉直樹)など、妄想文学の鬼才せきしろと、お笑い界の奇才「ピース」又吉が編む五百以上の句と散文。著者撮影の写真付き。五七五の形式を破り自由な韻律で詠む自由律俳句の世界を世に広めた話題作『カキフライが無いなら来なかった』の第二弾。文庫用書き下ろしも収載。

 共作の自由律俳句集。


 自由律俳句といえば、高校の現代国語でちらっと習った程度だ。

 種田山頭火の

まっすぐな道でさみしい

 尾崎放哉の

咳をしても一人

などが有名だ。

 要するに、五七五という定型や季語にとらわれない俳句だ。と、授業で教わったぼくはおもった。「は? これのどこが俳句なの?」

 季語はともかく五七五のリズムも捨ててしまったら、もはや俳句でもなんでもないじゃん。「細長くもないし文字も書けないけど、この物体のことは鉛筆と呼ぶことにしましょう」って言われても納得できないよ。「まっすぐな道でさみしい」が俳句になるのなら、ありとあらゆる文章が俳句になっちゃうんじゃないの?


 ……とおもっていたのだが、この本に収められている俵万智さんの解説を読んでちょっと理解できた。要するに、無駄なものを一切そぎ落とした表現が自由律俳句なのだ。

 定型俳句は世界でいちばん定型詩などと呼ばれるが、それでも十七音使える。「や」や「かな」など、リズムを合わせるためにあまり意味のない音を入れたりもする。

 自由律俳句はもっと厳しい。無駄な文字が一文字もない。助詞ですら厳選されている。おまけにリズムが良くない。五七五だとリズムがいいので、下手な俳句でも声に出せばそれなりに聞こえるが、自由律俳句だとごまかしが聞かない。ほら、お笑い芸人のネタでもリズムに乗せてテンポよく言えば内容はいまいちでもそれなりに楽しく聞こえるじゃない。でも、ぼそっと一言ネタをしゃべるスタイルだと相当中身が良くないとおもしろくない。




『まさかジープで来るとは』には、ユーモアとペーソスがにじみ出る自由律俳句がたっぷり収められている。

 特に感心したのがこれ。

故で知る (又吉)

 なんとたった四文字(かなにしても四文字)! それなのにちゃんと意味がわかるし、心情も伝わってくる。

 新聞などで「故〇〇氏」と書かれているのを見て「ああ、あの人亡くなってたんだ」と知る。しかも「故」と書かれるということは死んだのはけっこう昔で、自分が知らなかっただけで亡くなったときはちょっとした話題になったのだろう。亡くなったこと以上に、自分だけが知らなかったことに対する一抹の寂寥感。それがこの四文字の句から伝わってくる。




楽しそうに黙とうの真似をする子供 (せきしろ)

 これもいい。子どもからしたら、大人たちが一斉に黙って同じことをする黙祷ってなんか楽しいんだよね。非日常的なイベント感があって。法事は長くてしんどいけど、黙祷はせいぜい一分だから子どもでもなんとか耐えられる。

 悲しいはずの行為である黙祷が楽しいイベントになるおかしさが伝わってくる。




自分の分は無いだろう土産に怯える (又吉)
自分が注文した料理が余っている (又吉)

 こうした句を見ると、いかに又吉氏が他人に気を遣いながら生きているかがよくわかる。

 近くの席で誰かが親しい人だけにお土産を渡しはじめたら緊張する。どんな顔をしていいのかわからない。じっと見たら物欲しげに見えて相手に気を遣わせてしまうし、かといって目を背けるのもそれはそれで不自然だ。何かに集中していて気づかないふりをするしかない。

 自分とは無関係なのに、だからこそドキドキしてしまう。まさに「怯える」だ。




孫にグーしか出さない祖母が又勝ってグリコ (又吉)

 ああ、わかるなあ。ちっちゃい子と「グリコ・チヨコレイト・パイナップル」の遊びをしたことのある人ならわかるはず。

 じゃんけんは運だから、自分ばかりが勝ってしまうことがある。こどもに勝たせてあげたい。せめて圧勝だけは避けたい。だからグー。勝っても三歩しか進めないグー。大勝ちしないためのグー。なのにそんなときにかぎって、子どもはチョキを出す。勝ちたくないのに勝ってしまう。申し訳ない。

 勝ちたくないのに勝ってしまってつらいおばあちゃんの心情が手に取るようにわかる。




こつが解ったから早くやりたいと焦っている (又吉)
筆箱を整理しなければと前も思った (又吉)

 あるよね。たしかにある。こういう心境。よくこんな些細な心の揺れをとらえられるなあ。些細すぎてあるあるネタにもならないぐらい。

「こつが解ったから早くやりたいと焦っている」は、子どもに何かを説明しているとよく味わう感覚だ。説明していると、子どものほうは途中である程度理解して、最後まで話を聞かずにうずうずしている。もうほんとに「うずうず」という文字が見えるぐらい早くやりたそうにしている。

 そしてこういうときって確実に失敗するんだよね。最後まで注意事項を聞かないから。




他の場所で会うと小さい大家 (又吉)

 いいねえ。おかしさと悲哀がまじりあっていて。

 契約をするときとか家賃を払うときには大家さんは大きく感じる。なんたって不動産オーナーなんだし、この人の機嫌を損ねたら自分は住むところを失ってしまうわけだから。

 ところが、そうじゃないところ、たとえば駅やスーパーでたまたま会ったときはごくふつうのおっちゃんだったりおばあちゃんだったりする。あたりまえだけど。あれ、この人こんなに存在感のない人だったっけ。

 その感覚を「小さい大家」と表現するあたりが絶妙。これが「小さく感じる大家」ではおもしろくない。小さい、という言い切りが気持ちいい。

「小さい大家」の字面もいい。矛盾をはらんでいるようで。

「他の場所で」も言葉足らずなのにちゃんとわかる。いやあ、いい句だ。これまた「アパート以外の場所で」ではおもしろくない。よくわからないのにわかる、それこそがおかしさを生む。




 自由律俳句だけでなく、句の背景となったエッセイも収録されていてそっちのほうも楽しめた。

 又吉氏の散文は町田康に影響を受けている香りが強くて好きじゃなかったけど(せきしろ氏のほうが好き)、自由律俳句のほうは又吉氏のほうが圧倒的に好みだったな。


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【読書感想文】おもしろさが物悲しい / 又吉 直樹『火花』

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2022年8月16日火曜日

がんばっている姿に元気をもらわない

 朝のクリニックの待合室が好きだ。

 清潔感のある室内、かすかに流れるクラシック音楽、視界に入る観葉植物、さわやかな消毒液のにおい。とても居心地がいい。

 あんなに読書が進む場所もない。もちろん自分の容態がたいしたことない場合にかぎる話だが。


 クリニックの待合室の何がいいって、元気な人がいないことだ。

 クリニックだから具合が悪い人ばかりなんだろ、と言われるかもしれないが、そんなことはない。大病院ならいざしらず、クリニックに重病人は少ない。眼科や皮膚科ならなおさらだ。

 雰囲気が伝わるのか、子どもですら小声で話している。怒っていたり、声を立てて笑ったりしている人もほとんどいない(大病院にはけっこういる)。



 よく「がんばっている姿に元気をもらいました」「日本代表の活躍で、日本を元気に!」なんていうが、あんなの嘘だとぼくはおもっている。

 元気な人は他人を元気にしない。どっちかっていうと吸い取っている。

 そりゃあ周りがにぎやかにしていたら自然と自分の声も大きくなる。うるさい居酒屋とか。でもそれは周囲に元気をもらっているわけではない。元気を絞りだしているだけだ。

 元気な姿、がんばっている姿は周囲を疲れさせる。


 それでも
「いや、そんなことはない。私は他人ががんばっている姿を見ると自分も元気をもらいます」
という人がいたら、問いたい。

 あなた、選挙カー見て元気出ますか?


 選挙カーに乗っている人は例外なく元気ですよね。がんばってますよね。一生懸命声をはりあげて、目標に向かってひたむきに努力してますよね。

 どうですか。元気もらえますか。うんざりしませんか。近くに来られたらどっと疲れませんか。おまえらが走らせてるのは選挙カーだけじゃなくて虫唾だよとおもってませんか。おまえらは選挙カーに乗ってるだけじゃなくて図に乗ってるんだよとおもってませんか。ダルマに目を入れるより先に全住民に詫びを入れろとおもってませんか。国会に召集されるより天に召されろとおもってませんか。


2022年8月10日水曜日

【読書感想文】ユヴァル・ノア・ハラリ『サピエンス全史 文明の構造と人類の幸福』/悪い意味でおもしろすぎる

サピエンス全史

文明の構造と人類の幸福

ユヴァル・ノア・ハラリ(著)  柴田 裕之(訳)

内容(e-honより)
なぜホモ・サピエンスだけが繁栄したのか?国家、貨幣、企業…虚構が文明をもたらした!48カ国で刊行の世界的ベストセラー!


 勘違いされがちだが、我々ホモ・サピエンスは最も優れた種ではない。大型哺乳類の中では圧倒的に弱いほうだし、人類の中でも決して優れているわけではなかった。たとえばネアンデルタール人はホモ・サピエンスよりも体格が良く、脳も大きかった。けれど生き残って現在反映しているのはネアンデルタール人ではなくホモ・サピエンスのほうだ。

 そんなホモ・サピエンスがなぜ生き残ったのか、なぜ人口が増えたのか、なぜ科学を発達させたのか、そして今後ホモ・サピエンスはどうなっていくのか……。という人類200万年の歴史を一気にひも解く一冊。




 ううむ、おもしろい。が、おもしろすぎる。良くも悪くも。

 いや物語として読んだらめちゃくちゃおもしろいんだよね。わかりやすいし、新鮮な見解が次々に紹介されるし、論旨は明快だし。

 小説ならおもしろければそれでいいんだけど、ノンフィクションに関してはおもしろすぎる本は要注意だ。なぜなら、おもしろすぎるノンフィクションはえてして枝葉末節をばっさりと刈りとってしまい、それどころか細い細い幹の上に大きな枝や葉や花をむりやり咲かせているからだ。

 異論や都合の悪い反証をばっさばっさと切り捨てて「これしかない! これに決まっている!」と書いている。これは科学的立場からするときわめて不誠実だ。まして何千年も何万年も前のことを扱っているのに、こんなに見てきたように語れるはずがない。つまり筆者が見たいように見ているということで、やっていることは司馬遼太郎といっしょだ。


 つまり単純化しすぎなんだよね。

 たとえばさ、
「科学革命以前は、人類のほとんどは進歩を信じていなかった。黄金時代は過去にあり、世界は衰退・停滞していると考えていた」
ってなことが書いてるのね。キリスト教やイスラム教の考えだと「神が世界を完璧につくったが、人間が不完全であるせいで世界は必ずしも良くなっていない」となるから、というのがその根拠だ。

 なるほどとおもうし、十分説得力のある意見ではあるけれど、その一方であんた見てきたんですかいと言いたくなる。数百年前の人たちに1万人をあつめて意識調査をおこなったんですかい。でなかったらどうして「科学革命以前は、人類のほとんどは進歩を信じていなかった」なんて言いきれるんですかい。


 ということで、物語としてはすこぶるおもしろいし、人類史に関心を抱くきっかけとしてはいい本だけど、ここに書いてあることを鵜呑みにしちゃあいけないよ。これはあくまで著者が紡いだ物語だからね。

 話半分に受け取るにはめっぽうおもしろいけどね。




 なぜホモサピエンスは他の動物にはない大きな力を持つことができたのか。

 それは「虚構」のおかげだと著者は言う。

 群れで狩りをする動物はたくさんいるが、群れの構成数はせいぜい数十頭までだ。個体を認識できる限界がそれぐらいだからだ。ハチやアリのように、数千の個体と協力をする生物もいるが、彼らの集団は血縁関係にある。まったくの赤の他人が、それも数百、数千、数万という数の個体がひとつの目的のために協力できるのはヒトだけだ。それは言葉を使って「虚構」を生みだすことができるからだ。

 言葉を使って想像上の現実を生み出す能力のおかげで、大勢の見知らぬ人どうしが効果的に協力できるようになった。だが、その恩恵はそれにとどまらなかった。人間どうしの大規模な協力は神話に基づいているので、人々の協力の仕方は、その神話を変えること、つまり別の物語を語ることによって、変更可能なのだ。適切な条件下では、神話はあっという間に現実を変えることができる。たとえば、一七八九年にフランスの人々は、ほぼ一夜にして、王権神授説の神話を信じるのをやめ、国民主権の神話を信じ始めた。このように、認知革命以降、ホモ・サピエンスは必要性の変化に応じて迅速に振る舞いを改めることが可能になった。これにより、文化の進化に追い越し車線ができ、遺伝進化の交通渋滞を迂回する道が開けた。ホモ・サピエンスは、この追い越し車線をひた走り、協力するという能力に関して、他のあらゆる人類種や動物種を大きく引き離した。

 たとえば我々は日本という国のために税金を支払っている。だが「日本」も「国家」も「財政」も「税金」もじっさいには存在しない。それ自体目に見えない。

 けれど我々は「日本」があるとおもい、「税」が「日本人」の暮らしを良くすると信じて納税をする。

 このように、虚構をつくりだし、虚構のために力を合わせて努力をすることができる。ときには虚構のために命を投げだすこともある。これによって他の生物よりもはるかに強い結びつきを生みだし、ヒトは地球上で最も繁栄する動物のひとつになった。


 そして、ヒトが生みだした虚構の最たるものが「貨幣」だ。貨幣はただの紙切れや金属の塊で、それ自体にはほとんど価値はない。もっといえば現代社会で流通している貨幣のほとんどは電子データだ。紙切れですらない。

 にもかかわらず我々は貨幣を信じている。政府を打ち壊そうとするテロ組織ですら貨幣を信じていて、それを欲する。

 哲学者や思想家や預言者たちは何千年にもわたって、貨幣に汚名を着せ、お金のことを諸悪の根源と呼んできた。それは当たっているのかもしれないが、貨幣は人類の寛容性の極みでもある。貨幣は言語や国家の法律、文化の規準、宗教的信仰、社会習慣よりも心が広い。貨幣は人間が生み出した信頼制度のうち、ほぼどんな文化の間の溝をも埋め、宗教や性別、人種、年齢、性的指向に基づいて差別することのない唯一のものだ。貨幣のおかげで、見ず知らずで信頼し合っていない人どうしでも、効果的に協力できる。

 たしかにねえ。貨幣は格差を拡大したかもしれないが、貨幣自体はきわめて平等なものだ。

 たとえば小さな集落で誰かひとりが村八分にされるとする。周囲の人は彼に何も協力しない。彼が何かを依頼しても何も渡さないし、何もしてあげない。よほどのことがないかぎり、村八分にされた人は生きていけないだろう。

 だが貨幣は彼を差別しない。貨幣があれば、財やサービスを買うことができる。現代社会では、どれだけ友だちが少なくて、どれだけ周囲から嫌われていても、金があれば生きていける。

 今、我々は見ず知らずの人にお金を渡すことで、ごはんをつくってもらったり、髪を切ってもらったり、服を作ってもらったりできる。あたりまえのようにやっているけど、これはすごいことだ。貨幣がなければ、知り合いでもない人のために労働を提供してくれる人はほとんどいないだろう。たとえこちらが「今度あんたが困ってるときは助けるからさ」と言ったって、こちらの素性がわからなければ依頼を受けてくれないだろう。

 いやあ、お金ってすごい仕組みだよね。もちろん悪い面もあるけど、見知らぬ人同士をつないでくれる絆の役割を果たしてくれるんだもんね。




 ヒトの活動が他の動植物を絶滅に追いやっていることはみなさんご存じの通り。だが、それを科学文明のせいにするのは思慮が浅すぎる。

 狩猟採集民の拡がりに伴う絶滅の第一波に続いて、農耕民の拡がりに伴う絶滅の第二波が起こった。この絶滅の波は、今日の産業活動が引き起こしている絶滅の第三波を理解する上で、貴重な視点を与えてくれる。私たちの祖先は自然と調和して暮らしていたと主張する環境保護運動家を信じてはならない。産業革命のはるか以前に、ホモ・サピエンスはあらゆる生物のうちで、最も多くの動植物種を絶滅に追い込んだ記録を保持していた。私たちは、生物史上最も危険な種であるという、芳しからぬ評判を持っているのだ。

 ヒトが他の動物を絶滅させるようになったのは、ここ数百年の話じゃない。産業革命前から、いやもっと前、農業をするようになったときから、いやもっともっと前、狩猟採集をしていた時代からどんどん他の動物を絶滅させていた。

 こうなるともう、ヒトとは他の動物を狩りつくすことで生きている生物と言っていいかもしれない。文明の発展とか関係なく。生まれながらにしてそういう生き物なのだ。「他の生物を守ろう」というのは「人間やめますか?」と言っているのに等しいのかもしれない。




 歴史の教科書には「ヒトは農耕によって豊かな暮らしを手に入れた」と書いてあるけれど、それは真実ではなかったようだ。

 かつて学者たちは、農業革命は人類にとって大躍進だったと宣言していた。彼らは、人類の頭脳の力を原動力とする、次のような進歩の物語を語った。進化により、しだいに知能の高い人々が生み出された。そしてとうとう、人々はとても利口になり、自然の秘密を解読できたので、ヒツジを飼い慣らし、小麦を栽培することができた。そして、そうできるようになるとたちまち、彼らは身にこたえ、危険で、簡素なことの多い狩猟採集民の生活をいそいそと捨てて腰を落ち着け、農耕民の愉快で満ち足りた暮らしを楽しんだ。
 だが、この物語は夢想にすぎない。人々が時間とともに知能を高めたという証拠は皆無だ。(中略)農業革命は、安楽に暮らせる新しい時代の到来を告げるにはほど遠く、農耕民は狩猟採集民よりも一般に困難で、満足度の低い生活を余儀なくされた。狩猟採集民は、もっと刺激的で多様な時間を送り、飢えや病気の危険が小さかった。人類は農業革命によって、手に入る食糧の総量をたしかに増やすことはできたが、食糧の増加は、より良い食生活や、より長い余暇には結びつかなかった。むしろ、人口爆発と飽食のエリート層の誕生につながった。平均的な農耕民は、平均的な狩猟採集民よりも苦労して働いたのに、見返りに得られる食べ物は劣っていた。農業革命は、史上最大の詐欺だったのだ。
 では、それは誰の責任だったのか? 王のせいでもなければ、聖職者や商人のせいでもない。犯人は、小麦、稲、ジャガイモなどの、一握りの植物種だった。ホモ・サピエンスがそれらを栽培化したのではなく、逆にホモ・サピエンスがそれらに家畜化されたのだ。

 たしかに総量で見れば、人間が手に入れる食物の量は増えた。でも、農耕を始めたことで食物が増える以上のスピードで人口が増え、結果的にひとりあたりの量にすると狩猟採集生活よりも貧しくなった。もちろん種として見れば個体数が増えるのは成功だけどさ。

 人間が農耕を始めたことで得をしたのは、穀物や野菜だった。彼らは人間に栽培されることで、労せずして遺伝子を後世に残すことができるようになった。もちろん「逆にホモ・サピエンスがそれらに家畜化されたのだ」というのは乱暴な物語ではあるけれど、結果だけを見ればそう見えないこともない。




  歴史に対する姿勢について。

歴史学者はあれこれ推測することができるが、確実なことは何も言えない。彼らはキリスト教がどのようにローマ帝国を席巻したかは詳述できても、なぜこの特定の可能性が現実のものとなったかは説明できない。
(中略)
特定の歴史上の時期について知れば知るほど、物事が別の形ではなくある特定の形で起こった理由を説明するのが難しくなるのだ。特定の時期について皮相的な知識しかない人は、最終的に実現した可能性だけに焦点を絞ることが多い。彼らは立証も反証もできない物語を提示し、なぜその結果が必然的だったかを後知恵で説明しようとする。だが、その時期についてもっと知識のある人は、選ばれなかったさまざまな選択肢のことをはるかによく承知している。

 我々が歴史を語るとき、結果から振り返るのですべての答えを知っているような気になってしまう。「あのときあいつを選ばなければよかったのに」「あそこで負けを認めていれば今頃は」と。

 だけど、我々が知っているのは無数にあった可能性のうちのたった一本だけで、他の道については何にも知らない。だから我々は、過去に「選ばなかった道」がどこにつながっているかをまったく知らない。未来がわからないのと同じように。

 たとえば日本がアメリカに戦争を仕掛けたことや、その戦争を長引かせた人は失敗として語られることが多いけど(ぼくもそうおもうけど)、真珠湾攻撃をしなくても同じような結果になっていたかもしれないし、早々に降伏していればもっとひどい結果になっていた可能性だって捨てきれない。


 それでもついつい歴史について語るときは、過去のすべてとまで言わなくても当時の人よりも多くのことを知っているような気になってしまう。未来について知らないように、過去についても知らないという謙虚さを持たなくてはならない。

 ということで、上に引用した文章についてはたいへんすばらしいことを書いているとおもうんだけど、だったらどうしてこの本はすべてを見てきたかのような筆致なんだよー!


 すっごくおもしろいんだけど、知的に傲慢なところが散見されて、信頼性という点では低めな本だったな。橘玲さんの本みたい。

 物語・入門書として読む分にはいいけど、正しいことが書かれているものとしては読まない方がいいな。


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2022年8月8日月曜日

【読書感想文】矢野 龍王『箱の中の天国と地獄』 / 詰将棋に感情表現はいらない

箱の中の天国と地獄

矢野 龍王

内容(e-honより)
閉ざされた謎の施設で妹と育った真夏。ある朝、施設内に異変が起こり、職員たちは殺戮された。収容されていた他の男女とともに姉妹は死のゲームに強制参加させられる。建物は25階、各階には二つの箱。一方の箱を開ければ脱出への扉が開き、もう一方には死の罠が待つ。戦慄の閉鎖空間!傑作脱出ゲーム小説。


 あの矢野龍王さんの書いた小説ということで購入。

 あのと言われても知らない人もいるだろうが、ペンシルパズル(クロスワードとか数独とかのパズル)界ではかなりの有名人だ。ぼくは子どものときからペンシルパズル雑誌『ニコリ』を購読しているが、パズル作家として「矢野龍王」の名前はよく目にしていた。

 パズル界では有名な人が書いた小説だけあって、パズルのような作品だった。うん、パズルとしてはたいへんよくできている。小説として見たら……。まあかなり稚拙だ。文章とか感情表現とかはおせじにもうまいとはいえない。これだったらいっそ戯曲のほうがよかったんじゃないかな。「〇〇、階段を昇る。××、困惑の顔を浮かべる」みたいに説明と会話だけに徹したほうがかえってこちらの想像力をかきたてられたかもしれない。

 せっかくストーリーはよくできていたので、これで文章もうまかったら最高の小説だった。逆にいうと、シナリオは完璧だった。いや批判から入ってしまったけどほんとにおもしろかったよ。



 謎の男・般若に拉致されて集められた、とある施設内で暮らしていた六人。周囲には施設の職員たちの死体。逃げ場のない施設に閉じ込められ、制限時間内に脱出できないと施設ごと消滅させると告げられる。脱出を目指す六人だが、各フロアには二個ずつの箱があり少なくとも一個を開けないと別のフロアに移動することができない。だが箱にはさまざまな罠が仕掛けられており、間違った箱を開けると死に至ることも……。

 という、『SAW』や『CUBE』のようなデス・ゲーム。思考実験のような小説だ。

 正直、この手の作品はいくつも見ているので、今さら新しい発見はそうないだろうなとあまり期待せずに読みはじめたのだが、これがどうしておもしろい。

 ネタバレをせずにこの本の感想を書くことは不可能なので、以下ネタバレ感想




【ここからネタバレ】


・もっとウソくさくてもよかったとおもう。なんか一応布袋への復讐とか施設への復讐とかもっともらしい理屈をつけてるけど、しゃらいくさいというか。どうせ嘘っぽさはぬぐえないわけなんだから。「複数の人物を閉じ込めて、脱出できるか死ぬかのゲームをさせる」ことにリアリティなんかもたせられるわけない。だったら説明は最小限に抑えてほしい。へたな言い訳を長々と連ねられるより、「これはほら話だからそういうものとして楽しめ!」のスタンスでいい。

・その点、登場人物の名前が記号みたいなのはよかった。アポロだとかスカイラブだとかベビーフェイスとか宇宙人だとか布袋・大黒・弁天だとか。山田とか高橋とかにしても書きわけられないのをちゃんと理解している。リアリティのない記号みたいな名前にしたのは正解だとおもう。

・バカすぎる登場人物がいなかったのはよかったな。みんなわりと合理的に行動してるもんね。ベビーフェイスは当初はバカキャラだったけど途中からは急にふつうになってたし。

・すぐ死ぬ人たちにいちいち感傷的にならないのもいい。モブキャラはどんどん消費していく。これでいいんだよ、これで。しょせんパズルなんだから。詰将棋で捨て駒にする駒に感情移入しなくていい。人間の重みを与えない方がいい。そういう小説じゃないんだから。

・ある程度はご都合主義なのも、それでいい。ゲームの一部は運任せで、登場人物はバタバタと死んでいくけど、ヒーローとヒロインだけは死なない。前半どんどん死んでいって、ちょっとずつ追加されて、また死んで、でもヒーローとヒロインだけは死なない。予定調和的だけど、詰将棋だからこれでいい。気になるのはそこじゃないからね。

・スカイラブは主人公たちが知らない間に死んでいて「ははあ、これは序盤に死んだことになってるやつが敵の黒幕っていうあのパターンね」とおもっていたら、ぜんぜんちがった。まんまと騙された。勘ぐりすぎた。

・登場することなく死んでしまった人はあまりにかわいそうすぎる。『IN』を引いて、箱からも出してもらえなかった人。運任せのゲームとはいえ、それはさすがにひどい。チャレンジさえさせてもらえていない。

・自分たちを殺そうとした大黒の意識を失わせた後、その手からライフルを取り上げないのが意味不明。「なかなか取れない」から諦めるって何それ。あまりに非合理的。

・「箱に書いてある星の数から、中身の見分け方を見出す」→「ルール変更の箱を開けてしまう」ってなるのはいいんだけど、その後星の数を調べなくなるのはまったく意味がわからない。「余計な情報をもらっても、混乱するだけだ」って何それ。ルールが変わっただけで、ルールがなくなったかどうかはわからないのに。情報は少しでもあったほうがいいだろ。重要なアイテムである電卓を使わなくなるのもまったくもって理解できない。これも非合理的。

・施設内の狭い部屋に閉じこめられて暮らしていたのに、世間についての知識がありすぎる。一応家庭教師がいたという設定はあるけど、挨拶とか人付き合いとか身体を動かすこととかはほとんどできないんじゃないの?

・ラスト1ページで「般若がスーツケースに入ってた」ということが示唆される(だよね?)けど、さすがにスーツケースに何十時間も隠れるのは無理がある。楽器ケースに隠れてたゴーンじゃないんだから。しかも人間が入ってるスーツケースをかついで投げたりしてたけど。ゴリラの遺伝子が入ってるベビーフェイスならともかく、常人には無理でしょ。そして、人間が爆死するような爆弾であればスーツケースも無事では済まないし、さらにはもしも真夏たちが脱出に失敗していたら般若も死んでたわけで、「スーツケースに隠れる」というアイデアはさすがに無理がありすぎる。最後の「実はこんなに身近なところに隠れてましたー!」をやりたかったことはわかるけどさ。


 リアリティとか人間の心の動きとかは求めず、ただストーリーのおもしろさだけを楽しみたい人にとってはいい作品だとおもう。

 無駄がないんだよね。こういう作品って中盤は冗長になりがちだけど、そのへんもうまく処理されている。新キャラを投入したり、ダイジェストにしたり、ルール変更をしたり。随所に飽きさせない工夫がある。運と知恵のバランスもいい。

 ほんとにストーリーだけを取りだしたらこれ以上ないってぐらい完成されている作品だった。


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2022年8月5日金曜日

【漫才】やらない理由

「今度オペラのコンサートがあるんだけど、一緒に行かない?」

「オペラ? オペラってあのオペラ? 歌うやつ?」

「そう、そのオペラ。オペラって名前のチョコレート菓子もあるけど、そっちじゃなくて歌劇のほうのオペラ」

「オペラのチケットがあるの?」

「いや、まだない。おまえが行くんなら一緒に買ってあげるよ。S席でいい? 1枚19,000円」

「オペラってそんなにするの!? いや、いい。行かない行かない」

「じゃあA席にする? それともB席?」

「いや席の問題じゃなくて。オペラに行かない」

「えっ……。なんで?」

「オペラに興味がないから」

「なんで興味がないの?」

「そもそもちゃんと観たことがないから」

「なんで観たことがないの?」

「なんでって……。ええっと……。いや待て待て。オペラを観たことがないことに理由がいる?」

「いる」

「それはおかしいよ。何かをやることに理由を求めるのならまだわかるけど、やらないことに理由なんてないよ」

「そうかなあ」

「じゃあ聞くけどさ、おまえがポルトガルに行ったことないのはなんで? って聞かれても特に理由はないだろ。それと同じだよ」」

「おれポルトガル行ったことあるよ」

「あんのかい!」

「いいだろあったって」

「いやそれはいいけどさ。でも今は『行ったことないであろう場所』の例えとしてポルトガルを挙げたんだから、あったらダメなんだよ。じゃあウルグアイでもパラグアイでもいいけど、おまえが行ったことない場所に行かない理由を訊かれて……」

ウルグアイもパラグアイも行ったよ」

「あんのかーい! なんであるんだよ。世界中放浪してる旅人かよ」

世界中放浪してる旅人だったんだよ」

「もう! そういう話してるんじゃないんだよ! じゃあ、えっと……おまえはパラピレ共和国に行ったことないよな?」

ない。それどこにあんの?」

「今おれが考えた架空の国! おまえはパラピレ共和国に行ったことがないな? でも行ったことないことに理由なんてないだろ? そういう話だよ」

「行ったことないことに理由はあるよ

「は?」

おまえが考えた架空の国だからだよ。ほら、正当な理由あるじゃん」

「ああもう! じゃあなんでもいいや、おまえがやったことなさそうなこと。え~っと、おまえが学生時代にラクロス部じゃなかった理由は?」

「声楽の練習してたから」

「アイスホッケー部じゃなかった理由は?」

「声楽の練習してたから」

「じゃあおまえがクルージングをしない理由は?」

「そんな金があるならオペラ観にいきたいから」

「じゃあおまえが昨日おれの家に来なかった理由は?」

「オペラ観てたから」

「今おまえがマリファナ吸ってない理由は?」

「この後オペラ観るときに落ち着いた気持ちで楽しみたいから」

「全部即答できんのかよ! ていうかマリファナ吸わない理由はもっとあるだろ……。
 しかも全部オペラが理由なんだな。なんでそんなにオペラ好きなの?」

「えっ……。改めて言われたら、なんでオペラ好きなんだろう。なんでオペラ観にいくんだろ。冷静に考えると、オペラの何がいいのか、よくわかんないな……」

「やらないことすべてに理由はあるのに、やることに理由ないのかよ!」


2022年8月4日木曜日

年寄りは嫌い、若い子は条件付きで好き

 あのですね。みなさん、年寄りは嫌いじゃないですか。

 いや、いいんですよ。誰も聞いてませんから。嘘つかなくたって。お年寄りは大切にしないといけないとか、おじいちゃんおばあちゃんは国の宝ですとか、そんな嘘つかなくたって。

 いいんですよ。みんな嫌いなんですから。八十歳の人だって、百歳の人を見て「いつまで生きてんだ」とおもってるにちがいないんですから。

 そりゃあ自分の親戚とか、親切なご近所さんとか、高齢タレントとかは好きかもしれませんよ。でもそれはあくまで個別的例外でしてね。まあ一般には年寄りは嫌いなんですよ、みなさん。

 大丈夫ですよ、やましさを感じなくたって。昔から若い人は「年寄りはさっさとくたばりやがれ」っておもってたわけで、その若い人だった連中こそが今の年寄りなわけなんですから。

 もちろん今の若い人たちだってそのうち年寄りになって嫌われます。みんな若いうちは年寄りを嫌って、自分が年寄りになったら若い人から嫌われるんです。水が高いところから低い方に流れるのと同じぐらい、ごくごく自然のことなんです。


 考えてもみてくださいよ。

「お年寄りは大切に」とか「おじいちゃんおばあちゃんには優しくしましょう」とか言うわけですけどね、なぜそんな言葉があるかというと、ついつい嫌悪してしまうからなんですよ。

 だってそうでしょう。ほんとに大切なものには「大切にしましょう」なんて言わないでしょう。

「我が子は大切にしましょう」とか「美人・イケメンには優しくしましょう」とか「紙幣は大切な財産です」とか言いますか。言わないでしょう。あたりまえのことは言わないんです。


 ま、そういうわけで、みんな年寄りを嫌い(たぶん年寄り自身も親しくない年寄りは嫌い)ということで満場一致を見たわけでここから本題に入るわけですが、みなさんに訊きたいのは「人は若い人を好きなのか?」ってことなんですよね。

 何言ってるんだ、人間が年寄りを嫌うのは太古の昔からの自然の摂理なんだから、ということは若い人は(相対的に)好きに決まってるじゃないか、と言いたくなりますよね。わかります。

 たいていの人は若い人を好きです。若い人はいいです。アイドルも若い人ばっかりだし、「若い子においしいご飯を食べさせてあげたい」というのは自然な欲求です。「年寄りにご飯を食べさせてあげる」だと介護になっちゃいますもんね。これは欲求じゃなくて労働です。

 ただ、ここでひとつ気を付けないといけないのは「若い人を好き」ってのはあくまで「自分より低い地位に甘んじているかぎり」という条件付きってことです。


「若い子においしいご飯を食べさせてあげたい」という人は少なくないですが、「その若い子があなたよりもずっと多く稼いでいるとしたらどうですか?」あるいは「その若い子があなたの直属の上司だとしたらどうですか?」という質問をしてみましょう。

 それでも胸を張って「若い子がいっぱいご飯を食べているところを見るのが好きだからごちそうしてあげたい!」と言える人は、まあいないでしょう。

 結局、若くない人たちは、「若い子」は「自分より地位が低くて金のない子」だとおもっているし、またそうあることを望んでいるわけなんですよ。

「がんばる若い子を応援したい」なんて言う人が応援したいのは貧乏で権力のない若者だけであって、在学中に起業して年収数億円の若い子やプロ野球選手になって華々しく活躍している若い子ではないんですよね。


 そうです。ペットと同じです。

 犬や猫が好きな人だって、その犬や猫が自分より大きくて力も強くて、さらに自分がいなくても生きていける存在だったら、これまでと同じようには愛せないでしょう。

 若くない人が「若い子」に向ける目はペットに向けるものと同じです。だから学生社長として成功を収めている人は「若い子」には含まれないんです。ネコはかわいがるけどトラはペットにしたくないんです。


 ところで政治家って年寄りばっかりですよね。国会議員の平均年齢は五十歳を超え、政治家が四十代でも若手だ最年少だと騒がれます。我々はやれ「老害だ」とか「年寄り議員はさっさと引退しろ」とか言います。まるで年寄りの政治家を嫌っているように見えますけど、そんな年寄りを選んでいるのは我々です。我々がほんとに嫌いなのは若い政治家なんです

 我々は、自分より若い人に権力を与えたくないんです。ペットですから、自分たちの代表になんかしたくない(ペットを「家族」と言う人はいっぱいいますけど、でもペットを世帯主にするのはイヤでしょ?)。だから選挙で若い人は選ばないし、そもそも出馬もさせない。政治家がじいさんばあさんばっかりなのはそのせいです。みんな若い政治家が嫌いなんです。

 年寄りに従うのはイヤだけど、若いやつに従うのはもっとイヤ。若いやつを高い地位につけるぐらいならまだ年寄りのほうがマシ。みんなそうおもってるわけです。


 政治家が若返りを果たすには、我々が「自分より金を持っている若い人にでも平気で食事をおごってあげる」ぐらいの度量を持つ必要があるわけですよ。

 ちなみにぼくにはもちろん、そんな懐の深さはないです。


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2022年8月3日水曜日

【読書感想文】奥田 英朗『真夜中のマーチ』/エンタテインメントに振り切った小説

真夜中のマーチ

奥田 英朗

内容(e-honより)
自称青年実業家のヨコケンこと横山健司は、仕込んだパーティーで三田総一郎と出会う。財閥の御曹司かと思いきや、単なる商社のダメ社員だったミタゾウとヨコケンは、わけありの現金強奪をもくろむが、謎の美女クロチェに邪魔されてしまう。それぞれの思惑を抱えて手を組んだ3人は、美術詐欺のアガリ、10億円をターゲットに完全犯罪を目指す!が…!?直木賞作家が放つ、痛快クライム・ノベルの傑作。


 大金を手に入れるために主人公たちが東奔西走するコン・ゲーム小説。

 恐喝を企て、それが失敗すると窃盗を試み、それも失敗すると仲間を加えて再び窃盗を試み、また失敗すると今度はさらに仲間を増やしてもっと大金の強奪を企て、それもまた失敗すると今度は……と、めまぐるしく展開が変わる。目標は「大金を手に入れる」だが、失敗するごとに目標となる金額はどんどん膨れあがっていき、最終的には10億円をめぐって詐欺師・中国人マフィア・ヤクザを含め4チームが攻防をくりひろげる争奪戦となる。

 細かいリアリティは捨てて、疾走感を優先させたような小説。メッセージ性も哲学も倫理観もかなぐり捨ててとにかくエンタテインメントに振り切ったこの感じ、嫌いじゃないぜ。

 



【以下ネタバレ含みます】


 息もつかせぬ展開で、終盤はハラハラドキドキだったが、最終的にはこぢんまりしたハッピーエンドに着地してしまったのがちと残念。ここまでド派手な物語をくりひろげてきたのだから、最後は想像以上の大成功を収めるか、あるいはすべてを失うぐらいの大失敗か、それぐらいのラストを期待していた。

 あれだけドンパチやったり命を賭けて危ない橋を渡ったのに、最終的に手にするのがひとり三千万円とちょっと。ううむ。もともとはぐれ者のヨコケンはともかく、サラリーマンだったミタゾウや裕福な暮らしをしていたクロチェからしたら割に合わなくないか? 人生を変えられるほどの額じゃないぞ。

 個人的には、もっともっとアホな展開でもよかったとおもうな。

 小説で読むよりも映画にするほうが向いている小説かも(実際ドラマ化されたらしい)。


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2022年8月2日火曜日

イヤイヤ期にはおうむ返し


 悲しいお知らせではあるが、次女がイヤイヤ期に突入してしまった。 

 次女は長女に比べて気性がおだやかで、一般的にイヤイヤがひどいとされる二歳(長女も二歳がひどかった)を無事に乗り切ったので「この子はイヤイヤ期がないんだ」と安心していたのだが、そんなことはなかった。ただ遅れて来ただけだった。ちぇっ。


 一度機嫌をそこねると、あれもイヤ、これもイヤ、とまったく話が通じなくなる。おまけに三歳なので、長女のときより言葉も達者だ。あれやこれやと言葉を尽くして駄々をこねる。

 しかし長女ですでに経験しているので、こちらはわりと冷静にできる。

 ぼくがよくやる対処法は「次女の言葉をおうむ返しにする」だ。


 次女が「ごはんたべたくない!」と言えば、「ごはんたべたくないなー」と言う。

「おとうさん、まねせんといて!」と言われれば、「まねせんといてほしいなー」と言う。

「まねしないでっていってるでしょ!」と言われれば、「まねしないでっていってるなー」と言う。

 当然、次女はますます怒る。

 妻や長女からも注意される。「そういうことするから余計に怒るんやで」と。

 わかっている。ぼくもわかっている。火に油だということは。


 それでもぼくが怒っている次女の真似をする理由は、ふたつある。


 ひとつは、怒りの矛先をそらすため。人間、同時に複数の対象に怒ることはできない。まねをしてわざと怒らせることで、当初の「ごはんたべたくない!」を忘れさせることができるのだ(まあできるときもあるしできないときもあるのだが)。


 もうひとつは、ぼく自身の平静を保つため。かんしゃくを起こしている子どもに何を言っても無駄だ。まともな会話など成り立つはずがないのだ。なんとかとりなそうとすれば、こっちの腹まで立ってくる。

 そうなったらもう泥沼だ。三歳児が怒り、大人も怒り、三歳児が泣き、大人は怒りが鎮まらない。何も言いことはない。

 だったら、三歳児の怒りを鎮めるのは無理でもせめてこっちぐらいは平静を保たねばならない。そのための方策が「ひたすら相手の言うことをおうむ返しにする」である。

 イヤイヤ期の幼児に腹が立つのは、まともなコミュニケーションがとれないからだ。あれもイヤ、これもイヤ、すべてイヤ、イヤだからイヤ、イヤなことがイヤ。
 ところがはなからコミュニケーションをとる気がなければ、何を言われても腹が立たない。なんせこっちは「言われたことをおうむ返しにするロボット」なのだ。


 子どものイヤイヤ期にお困りの保護者の方、「すべておうむ返し」はなかなかおすすめですよ。あんまり事態は好転しないけど、少なくとも悪化はしないから。


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