2022年に読んだ本は100冊ぐらい(子どもと読んだ児童書除く)。年々減っていってるなあ。
その中のベスト12を選出。
なるべくいろんなジャンルから。
順位はつけずに、読んだ順に紹介。
来年もおもしろい本に出会えますように……。
2022年に読んだ本は100冊ぐらい(子どもと読んだ児童書除く)。年々減っていってるなあ。
その中のベスト12を選出。
なるべくいろんなジャンルから。
順位はつけずに、読んだ順に紹介。
来年もおもしろい本に出会えますように……。
特定の食材専用の調理器具ってあるでしょ。
たとえば炊飯器。ごはんを炊くことに特化している。まあ最近のやつはパンを焼けたりするけど、基本的には米専用の調理器具だ。
あとトースター(食パンを縦に入れるタイプのやつ)、ゆでたまごを切るやつ、パイナップルスライサー、ピザカッター……。こういうのも基本的には単一の食材を調理することに特化している。
ところで、ある種のイソギンチャクはヤドカリの殻に付着する。イソギンチャクは自分では早く移動することができないが、ヤドカリの殻にくっつくことで生息範囲を広げることができ、補色や生殖に有利になる。一方、ヤドカリとしても、毒のあるイソギンチャクを殻にくっつけることで外敵から身を守ることができる。こうした、お互いにメリットのある依存関係を双利共生という。アリとアブラムシも双利共生関係にある(アリはテントウムシからアブラムシを守り、代わりにアブラムシはアリに甘露を与える)。
米と炊飯器も双利共生関係にある。
米がなければ誰も炊飯器なんて買わない。パンを焼くためだったらホームベーカリーのほうがいい。炊飯器は絶滅してしまうだろう。
逆に、米としても炊飯器があることで主食の地位を保っているといえる。釜や鍋で米を炊くこともできるが、今の時代、そこまでして家庭で米を炊く人は多くないだろう。ほとんどの人は「だったらパンや麺でいいや」となるにちがいない。
もち米と臼と杵は三者間の双利共生関係にある。臼と杵があるからもち米は栽培されて食べられるし、もち米と臼がいるからこそ杵は存在していられる。もち米と杵がいなければ、臼はただの「サルの上から落ちてくるためだけの存在」だ。
調理器具ではないが、少し前に流行ったタピオカと、太いストローも双利共生関係だ。あの太いストローがなければタピオカは流行らなかっただろうし、タピオカがなければあのストローも生まれなかった。
石焼きビビンバと石鍋も双利共生関係といえる。本場韓国ではどうか知らないが、少なくとも日本ではあの石鍋はビビンバにしか用いない。たこ焼き器やたい焼きの型なども、それがなければたこ焼きやたい焼きは生まれなかったし、逆にたこ焼きやたい焼きを誰も作らなくなればあれらの食材もすぐに絶滅する。
食パン専用トースターやゆでたまごを切るやつやパイナップルスライサーやピザカッターは、そこまで相互に依存しているわけではない。たしかにピザカッターがあるほうが便利だが、なくてもそこまで困らない。お好み焼き用のへらや包丁やナイフで代用できる。ピザカッターが絶滅したとしても、ピザの個体数にはさほどの影響はないだろう。
こういう関係を片利共生関係という。片方だけが恩恵を被る関係だ。
逆に食べもの側が器具に大きく依存しているケースもある。たとえばプリンとスプーンの関係を考えてみよう。
プリンがなくてもスプーンは生存できる。スプーンの活躍する場面は多い。一方、スプーンがなければプリンは食べられることがないだろう。コンビニでプリンを買ったのにスプーンをつけてもらえず、やむなく箸でプリンを食べたことのある人なら、二度とあんなみじめなおもいはしたくないだろう。
これもまた片利共生関係だ(スプーンがなくなればゼリーも個体数を減らすだろうが、一口ゼリーとして生きていく道があるので絶滅は免れる)。
このように、我々のまわりにある食物や調理器具・食器はお互いに絶妙なバランスをとりながら生存しているのである。
よく嫌いな食物について「○○なんて滅んでしまえばいい」という人もいるが、その食物も生態系の中で重要なポジションを占めており、消滅すれば他の食物に多大な影響を引き起こしかねないのだ。
生態系を大事に!
映画化もされた、「笑って泣ける」ハートフルな小説……なんだろうな。きっと。そういうつもりで書いたんだろうな。作者は。
なんていうか、ことごとく狙いが透けて見えるんだろうな。
ああ、この肉子ちゃんの口癖や言動は「ユーモア」のつもりで書いてるんだろうなあ、ここで笑ってほしいんだろうな、とか。
ああ、「人じゃない生き物の声が聞こえる」「死者らしき人の姿が見える」「問題を抱えた子」などを書くことで「単なる平和な漁港の日常」にさせないつもりなんだろうなあ、とか。
ああ、明るく悩みなんてなさそうな人のつらい過去を書くことで感動を誘ってるんだろうなあ、とか。
作者の意図がとにかくわかりやすい。この小説は国語のテストの文章題にしやすそうだ。
「作者はなぜここで肉子ちゃんに傍線部1と言わせたのでしょうか」
「この小説を一文で説明するとしたら次のうちどれでしょうか。正しいものを二つ選べ」
なんて問題をすごく作りやすそうな小説だ。作者の狙いがわかりやすいから。
まあそんなことを言ったらほとんどの小説が、作者の意図の下に書かれたものなんだろうけど。どんな作家だって「ここで笑わせたい」「ここで驚かせたい」という意図をもって書いてるんだろうけど。でも、それが透けて見えちゃあだめなんだよね。やっぱり。
漫才師のボケの人は「これで笑わせてやろう」とおもってわざと変なことを言って、ツッコミの人もどんなボケが来るかを知っているのにはじめて聞くような顔で驚いたり怒ったりたしなめたりする。そこがわざとらしいと、たとえどんなおもしろいネタでも笑えない。
『漁港の肉子ちゃん』は、ひとことで言ってしまうと「芝居の下手な小説」だった。
「さあここで笑うんやで!」という顔をしながらボケて、「そういうとおもってたわ!」という顔をしながらツッコむ漫才のような小説だった。
何が良くなかったのか、自分でもよくわからない。文章も悪くないし、構成も悪くない。ギャグはぜんぜんおもしろくないけど、もともと小説のギャグにそこまで高いレベルを求めてはいない。
これといって悪いところは見つからない。なのになんだか妙に「著者の意図」が透けて見える。
仮にさ。全智全能の神様がいるとして。
世の中の人間も動物もことがらもすべてそいつの思い通りに動いてるとして。
そうだったとしても、人生は変わらずおもしろいとおもうんだよ。どきどきしたり、喜んだり、悲しんだり、笑ったりする。
でも。それは全智全能の神様が見えない場合の話であって。
もしもそいつの姿が見えたら、すべてが興醒めだ。ぼくらが恋愛を成就させても、がんばってきたスポーツで負けても、仕事で成功しても、愛する人を失っても、そのたびに全智全能の神が現れて「ほらね。ワシの想定通り」って言ってきたら、人生なんてなんにもおもしろくない。きっと自殺率もはねあがるだろう。
小説における著者ってのはその世界の神様だから、ぜったいにその姿が見えちゃいけない。存在を感じさせてもいけない。
なのに『漁港の肉子ちゃん』からは著者の存在がびんびんと伝わってきた。まるで読んでいる横に著者が立っていて(どんな人か知らんけど)、「そこはこういう意図で書いたんだけどおもしろいでしょ?」と逐一説明されているかのような気がした。
脚本は悪くないけど演出がダメダメな芝居、って感じだったなあ。
田中(仮名)は山下(仮名)を殴った。殴られた藤本(仮名)はかっとなって、杉浦(仮名)を殴りかえした。こうなるとあとは果てしない殴り合いだ。上田(仮名)の拳が上条(仮名)の顔面に当たり、お返しに上田(仮名)のキックが上条(仮名)の腰にヒットする。松井(仮名)のバットが秀喜(仮名)の背中に直撃した。
さらに斉藤(仮名)は齋藤(仮名)の髪をつかむと、斎藤(仮名)めがけて頭突きをくりだす。これには齊藤(仮名)も齋籐(仮名)もダメージを受けてひっくり返る。先に立ち上がったのは齎藤(仮名)だった。
亀井(仮名)と亀居(仮名)はふたりの喧嘩を呆然と見ていた。
千葉(仮名)は地面にひっくりかえったまま昔のことを思い返していた。
千葉(仮名)は山梨(仮名)出身だった。山梨(仮名)の奈良(仮名)という小さな港町で育ったのだった。幼い頃はよく岐阜(仮名)まで自転車を走らせて日が暮れるまで海を見ていた。群馬(仮名)の海はきれいだった。地元の少年たちにはモンゴル(仮名)の海のほうが人気だったが、千葉(仮名)はウズベキスタン(仮名)から見える海のほうが好きだった。
甲(仮名)は乙(仮名)のことが好きだった。申(仮名)にとってZ(仮名)はただの親戚ではなかった。だが由(仮名)は己(仮名)に思いを伝えぬまま郷里を出たのだった。
<つづく>
イタいと言われようと、書くのが楽しいんだから書かせてくれ。
まず決勝メンバーについて。各コンビそれぞれで見るとなんの不満はないんだけど、敗者復活以外の9組を並べてみると、準決勝審査員の「俺たちのセンスを見せてやる」感が鼻につく。
いやわかるよ。新しい角度の笑いを生みだしているコンビを評価したいことは。M-1グランプリってそういう大会だしね。ただ単に笑いをとればいいわけじゃなくて、唯一無二のチャレンジングなことをしているコンビを評価する大会。麒麟とか笑い飯とか千鳥とかPOISON GIRL BANDとかスリムクラブとかトム・ブラウンとかに光を当ててきた功績は大きい。うまくいかないこともあったけど。
でもそれはあくまで、大きな笑いをとるコンビがいるから光り輝くのであって「単純な笑いの量だけでは評価できないおもしろさ」のコンビばかりをそろえるとくすんでしまう。
THIS IS パン(恐竜映画)、ヤーレンズ(ラーメン屋)、令和ロマン(ドラえもん)に投票。森山直太朗を熱唱したダンビラムーチョもおもしろかった。
THIS IS パンは去年の予選動画がすごくおもしろかったんだよなあ。どんなネタか忘れちゃったけど。今年もおもしろかった。いちばんおもしろい男女コンビだとおもう。声質もいいし。男女コンビで女がツッコミってめずらしいよね。
THIS IS パンとかヤーレンズみたいに「斬新なことをしてるわけじゃないけどただただ笑える」系のコンビが今回の決勝に行ったらかきまわしてくれたんじゃないかなあ。
ABCお笑いグランプリの優勝ネタ。観るのは二度目だが、改めてよくできたネタだとおもう。ネタの美しさではダントツ一位だよね。歴代トップクラスかもしれない。まったく無駄もない。さりげなく挟まれた「そのときもトップバッターやって」もかっこいい。
特に好きだったのは「盛り下がらんように大会側がテコ入れしてきてるやん」の部分。大声大会の主催者もテコ入れしてるんだから、M-1主催者もいいかげんにトップバッターが不利になりすぎないようにテコ入れしてよ。敗者復活組をトップにするとかさ。
落ち着いて聞かせる漫才をするコンビなのでコンテスト向きではないかもしれないけど、こうして決勝に進んでくれただけでもうれしい。採点方式ではなくゴングショー形式(つまらないとおもった人が手を上げ、それが一定数を超えたら脱落する)だったら、カベポスターが最強かもしれない。
共演者の信頼 → 高齢者の人材 というダジャレボケからシルバー人材センターコントにつなげる導入はすばらしい。
内容もおもしろかったが、カベポスターの見事な構成の作品を観た後なので、その「大喜利回答の寄せ集めっぽさ」が目立った。とはいえやっぱり一発一発のボケは力強かった。
悪いネタではないのだけど、どうしても、一昨年や昨年のオズワルドと比べると見劣りしてしまう。それほどまでに「改名」や「友だちがほしい」のネタが良かったから。四年連続の決勝進出、そして敗者復活からの勝ち上がりとなるわけだから、新しいものが見たかったなあ。個人的にはぜんぜん好きじゃなかったけど、去年の敗者復活組・ハライチはその点でよかったな。新しいことにチャレンジしていた、という一点で。
しかし敗者復活戦のシステムもテコ入れしてほしいなあ。完全に人気投票だもんな。知名度ランキングとほとんど変わらない。ミキなんて、同級生の名前を挙げていくだけで三位だぜ。そんな中、そこまで知名度もないのに二位に食い込んだ令和ロマンはすごい。実質一位だよね。
「決勝に進出したことのある組は敗者復活戦に出場できない」ってルールにしてほしいなあ。
中盤は完全にコント、ツッコミ不在、ずっと走りっぱなしという変則的なスタイルでありながら、ちゃんとウケてちゃんと評価されていた。三年ぐらい前のM-1だったら評価されていなかったんじゃないだろうか。いろんな型を破ってくれた先人たちに感謝しないといかんね。
去年もそうだったけど、客がとりわけロングコートダディには温かい気がする。ふたりのギラギラしていない風貌がそうさせるのかな。
ワンシチュエーションで次々にボケを出すスタイルだとどんどん奇想天外な方向に進みそうなものだけど、エスカレートするだけでなく唐突に「太っている人」のようなシンプルなものを持ってくる緩急のつけかたがほんとに見事。
三十代で免許証を返納する。それ自体はささやかなボケだが、そこから大きく広げられる話術が見事。昨年の準決勝の感想で「ボケとツッコミを入れ替えたりして迷走している」と書いたが、迷走期を経て、ボケツッコミの枠にとらわれない伸びやかな漫才になっている。晩年のハリガネロックもこういうことをやりたかったのかなあ。
ただ、ふたりの表現力の高さには感心したものの、個人的にはあまりおもしろいネタとはおもわなかった。特に後半の地方いじりが古すぎてねえ。
しかしまだまだ進化しそうなコンビ。
音符を運ぶ仕事をしたい、というシュールな導入。どうしてもバカリズムの名作『地理バカ先生(都道府県の持ち方)』を思い出してしまうが、音符を運ぶところだけでなく、その後の展開でもきちんと笑いをとっていた。平井さんはいかにも運べなさそうな体格だしね。
死亡事故に着地する展開は少年向けギャグマンガ的で「男性ブランコにしてはずいぶんベタな着地だな」とおもったけど(インポッシブルとかバッファロー吾郎のコントみたい)、よくよく考えるとあのわかりやすさがいいのかもしれない。設定がシュールで展開も複雑だとついていけないもんね。
男女兼用車両、有銭飲食、農薬野菜などのレトロニム(新しい概念が生まれたことで元々あった概念を指すために作られた言葉)を生みだす。つっこまれると、全身浴、裸眼などもそうだと反論する……。
この視点は好きだ。ぼく自身も、数年前に レトロニム というエッセイを書いている。
とはいえやっぱりレトロニムを羅列しても漫才としてはそこまでおもしろくない。3回戦の予選動画でこの動画を観たことがあったのだが、そのときですら「3回戦ならギリギリ通過できるかな」という印象だった。まさかそれを決勝に持ってくるとは(だいぶ改良されているとはいえ)。文字で読んだらおもしろいだろうけど、耳で聞いて処理できる内容じゃないんだよね。
久々に「M-1の会場で静まりかえっている雰囲気」を感じた。準決勝の審査員が悪い。
イギリスで餅をついて儲けたいという導入から、餅つきのリズムに乗せて広がってゆくネタ。個人的にはぜんぜん好きじゃない。
でも左脳的なダイヤモンドのネタの直後だったから余計に、理屈じゃなく直感に訴えるこのネタがハマったんだろうなあ。
ランジャタイと比べられていたけど、「徹頭徹尾意味のないことをやる」という点ではジャルジャルの『ピンポンパンゲーム』や『国名わけっこ』に近いものを感じた(ランジャタイはわかりにくいだけで一応意味がある)。ジャルジャルは無意味なりに、一応ルールを設けてわからせようとはしてくれていた。今思うとあれでだいぶ受け入れられやすくはなってた。場数の差だな。
ぜんぜんちがうもの → なぞかけ → まったく同じもの。いつものキュウ、って感じだった。
審査員からは「順番に恵まれなかった」とか「他のネタをやっていれば」とか言われてたけど、何番だろうと、どのネタだろうと、キュウが上位になることはなかったとおもうけどなあ。
いいフォーマットを見つけたねえ。これまでウエストランドはド直球で偏見や悪口を放りこんでいくネタしか見たことなかったけど、「クイズに対する答え」という形式にすることですごく笑いやすくなった。
毒舌は好きだけど、毒舌漫才ってやっぱりちょっと距離をとっちゃうんだよね。必然的に攻撃的になるから。「笑っていいのかな」と一瞬おもってしまう。でもクイズに対する回答形式にすることで、悪口を言う理由が(一応)あるし、どんなに罵詈雑言を並べても「クイズに答えようとしてまちがえた」という形をとっているからストレートに受け取られにくい。安心して笑える。いやあ、すばらしい発明だね。「警察につかまりかけている」という名誉棄損になるかならないかギリギリの悪口もいい。
特に今大会は練りに練った隙の無いネタをするコンビがほとんどだったので、ウエストランドの「ウケるまで同じ言葉を何度もしつこくくりかえす」パワースタイルはかえって新鮮だった。「多くは説明しませんからわかる人だけ笑ってください」みたいなおしゃれコンビばかりの中ではウエストランドの「何が何でも笑わせてやるぞ」の泥臭さは逆に光り輝く。
おっと。分析するお笑いファンはうざいんだった。
最終決戦進出は、1位さや香、2位ロングコートダディ、3位ウエストランド。
この時点でぼくは「ロングコートダディはパンチが弱そうだしウエストランドは芸風的に優勝させてもらえなさそうだからさや香かな」とおもっていた。
2019年にぺこぱが10組目で3位→最終決戦1組目になったときは、連続してネタをやったことで「またこのパターンか」と飽きてしまった。ところがウエストランドの場合は凝ったことをしていないので、連続してネタをやることがマイナスどころかかえってプラスになったんじゃないだろうか。客がアツアツの状態でネタをやれるアドバンテージ。
さらに一本目は路上ミュージシャンだのYouTuberだの、比較的安全圏から悪口を言っていたのに、二本目ではコント師、お笑いファン、R-1グランプリ、M-1アナザーストーリーなど身の周りまで次々にぶった切ってゆく。敵陣に乗りこんでいって、自分が傷つくこともかえりみずに刀を振りまわす。ぼくには井口さんの姿が一瞬『バガボンド』で吉岡一門七十名を相手にする宮本武蔵に重なって見えた。そういや武蔵も岡山県出身だった。
毒舌漫才師は数いれど、ここまで身近な関係者を斬りまくった人はそういまい。欲をいえば、ついでに審査員にまで斬りかかってほしかった。立川志らくさんあたりに。
ラストにほっこり系長尺コントを入れることにうんざりすることについては、ぼくも同感だ。あれは特定の芸人というよりオークライズムだろう。ぼくが知るかぎりでは、ラーメンズやバナナマンあたりがやりだした(どっちもオークラ氏がかかわっている。ぼくが知らないだけでシティーボーイズなんかもやってるのかもしれないけど)。で、その流れを組んで東京03もラストはしっとり系長尺コントをやり(これまたオークラさんだ)。それに影響されたのか、猫も杓子もラストにしっとり系長尺コントをやっている。たしかにラーメンズの『鯨』のオーラスコント『器用で不器用な男と不器用で器用な男』はすばらしかったしその時点では新しかったのだが、誰もがやるようになるとすっかり陳腐化してしまった。
ちなみに偶然にもこの後ネタを披露したロングコートダディもほっこり系長尺コントをやっている。やめてほしい。
【DVD感想】ロングコートダディ単独ライブ『じごくトニック』
2021年あるあるを散りばめた、今しかできないネタ。古いネタを焼きまわして使うのではなく、今年できた新鮮なネタを持ってくるところに勢いを感じる。
ダーツの旅の曲がたまらない。絶妙にチープだもんなあ。もっともっと長尺で観たいネタ。
新ネタを持ってきたロングコートダディとは逆に、去年の準決勝ネタを持ってきてしまったさや香。守りに入っちゃったなあ。
3回戦動画で観た『まずいウニ』のネタはすごくよかったんだけどなあ。「ヒザでするんかい」はめちゃくちゃ笑った。あっちを観たかったなあ。
ということで優勝はウエストランド。おめでとう。タイプ的に優勝するとおもってなかったからびっくりした。革新的なスタイルのコンビが多かったからこそ、「新しいスタイルじゃなくてもとにかく笑いをとれば勝てる」ってのを見せつけてくれたね。
ちなみにウエストランド井口さんは東野幸治のお気に入りの玩具として、関西テレビの『マルコポロリ!』でいつもおもちゃにされている。R-1グランプリ(関西テレビ)をこきおろしたウエストランドが『マルコポロリ!』でどんな扱いを受けるのか、今から楽しみだ。
岩手の田舎から東大に進み、大手銀行で仕事に明け暮れた主人公。出世コースに乗り役員をめざすも、めぐりあわせにより出世コースからはずれ子会社に出向となりそのまま定年退職する。時間を持て余した主人公は改めておもう。仕事がしたい――。
リアル、なのかな。この世代の男性にとってはリアルなのかもしれない。ぼくにはさっぱり主人公の気持ちがわからない。仕事をしなくて食っていけるなんて最高じゃないか。
定年退職して、がっぽり退職金ももらって、十分貯蓄もあって、年金ももらえて、家庭内もそれなりに円満。それで、やることがないだの、時間がたつのが遅いだの、やりがいを感じたいだの言っている。当人にとっては深刻な悩みなのかもしれないが、贅沢な悩みとしかおもえない。
いい時代に生まれてよかったですねえ。あんたらの安寧な生活はもっと若い世代の苦しさの上に成り立ってるんですけどねえ。それが不満なら、もらいすぎた給料を返上して、もらいすぎた年金も返上して、死ぬまで働けよとしかおもえない。
主人公は東大卒、メガバンク出身なので、常に「他の年寄りとはちがう」というプライドを抱えている。
集まってランチをしながら世間話に花を咲かせている老人たちを見下し、妻と出かけても「俺は平日に妻とお茶する男になってしまったのだ。情けない」なんておもっている。
こういう人はめずらしくない。特にじいさん。
昔、母が町内会の役員をやらされたとき「じいさんたちのプライドが高くってイヤになっちゃう」とこぼしていた。
なんでも、町内会の会合ですら「私は○○社にいたので……」だの「あの人は△△大学出身だから……」なんて話を持ち出すのだそうだ。町内会に学歴や職歴を持ちこむなよとおもうのだが、今は何もないじいさんだからこそ「昔取った杵柄」が唯一のよりどころなのだろう。傍から見ていると滑稽なのだが、当人たちは必死なのだ。
かつては高齢者にも役割があった。高齢者自体が少なかったし、情報の伝達や孫の世話など、高齢者が必要とされる局面も多かった。ジャレド=ダイアモンド『人間の性はなぜ奇妙に進化したのか』によれば、ほとんどの生物は閉経後に長く生きることがないが、ヒトだけが例外的に生殖能力を失ってからも長生きするのだそうだ。それは、おばあちゃんの知識や経験があったほうが孫の生存率が高まるから。
だが文字による情報伝達が進み、知識がめまぐるしくアップデートされて数十年前の知識の価値が減った結果、高齢者の生きる意味は昔よりも見いだしにくい時代になっていると言えるだろう。
うちの近所の交差点に、老人たちが立っている。「見守り隊」を名乗り、子どもたちの安全を見守っているのだそうだ。
まあいないよりかはマシなんだろうけど、傍から見ているとほとんど無駄な仕事だ。交通量も多くないし、ちゃんと信号もある。なにより、老人たちが角に立っているせいで逆に見通しが悪くなっているぐらいだ。
それでも、本人たちが使命感を持ってやっているのだからそれでいいのだろう。社会から必要とされなければされないほど、「必要とされたい」と願うものだから。
ぼくはジジババが嫌いだけど、あと何十年かすればジジイになる。それより先に、親だ。
ぼくの父親も『終わった人』の主人公みたいになりそうで危険だ。父は六十代後半。長年勤めた会社を定年退職した後も、再就職して働いている。お金には困っていないはずなのだが、本人が仕事を好きなのだ。
これといった趣味はない。ゴルフが好きだが、それも仕事の付き合いの延長。仕事一筋に生きてきた男だ。
はたして彼が「終わった人」になった後、どうやって生きていくのか。急激に認知症になってしまったりしないだろうか。長男のぼくとしても他人事ではない。
そこへいくと、母親のほうは老後を楽しんでいる。庭で畑をつくったり、太鼓を習ったり、楽しそうに生きている。特に社会の役に立つわけではないが、特に迷惑をかけるわけでもない。
長らく専業主婦をやっていたので「社会との距離のとりかた」を心得ているのかもしれない。仕事一筋でやってきた人には、退き際がむずかしいのだろう。
自分はどうだろう。と考えると不安になる。
これといった趣味もない。読書は好きだが、一日中本を読んでいられるほどではない。老眼になれば読書もきつかろう。休みの日は一日中子どもと遊んでいるが、子どもが遊んでくれるのもあと数年だろう。孫ができたとしても、しょっちゅう会えるかどうかもわからない。
友人はいるが、近所にはいない。小学生みたいに毎日会って遊ぶわけにはいかないだろう。
ううむ。ぼくもやっぱり「社会に必要とされたい」とおもって、わけのわからないことをしてしまうかもしれない。なけなしの貯金をはたいて起業したり、店を開いたり、そして潰したり。
今のうちに、歳をとってからもできる何かを見つけないといけないかもなあ。そんなに金がかからなくて(できれば金になって)、社会から必要とされていると感じられるようなこと。
なんだろうなーと考えていて、ふと「出馬」という言葉が頭に浮かんだ。やべー。いちばんやべーやつだ。
そっかー。だから年寄りは出馬しがちなのか。あいつらは老後の暇つぶしだったんだな。どうりで未来のことなんか露も考えない仕事するわけだ。
自分の未来を予習できるようでおもしろい小説だった。まあぼくにはこんな行動力はないけれど。
ちょっといろいろ起こりすぎではあるけどね。〝終わった人〟なのにさ。若い女性とのロマンスとか、たまたま出会ったベンチャー企業の社長から乞われて監査役になってそのまま社長就任するとか。このあたりの展開は島耕作よりも都合がいい。
とはいえ、定年退職したじいさんが「昔はよかった」とぼやいているだけではおもしろい小説にならないので、小説としてはしかたない。
めまぐるしい展開なのに最後はふさわしい結末にうまく着地。このへんはさすがベテラン脚本家。さわやかな読後感で、新聞連載小説にふさわしい話運び。今どき新聞小説を読む層ってじいさんばっかりだろうから、読者層にあったほどほどに希望のある終わり方だった。
随所に散りばめられた石川啄木の句や、主人公の故郷・盛岡の描写も効果的。そしてなにより、じじいの無駄に高いプライドがうまく書けている。
そういや内館牧子さんってエッセイは読んでいたけど小説は読んだことなかったな。小説もうまいね。
太平洋戦争時の沖縄戦を舞台にした小説。1950年刊行なので、まだまだ戦争の傷痕も生々しい時期に書かれたもの。
はっきり言うと、読みづらい。文体が古いのもあるけど、話があっちこっちに移動するし、状況や登場人物の説明も十分でない。なんとなく「たぶんこういうことが起こってるんだろうな」という感じで読んでいた。
事実があまりにも過酷だと、フィクションがあ事実に力負けしてしまうからね。あまりに現実離れした現実は、かえって小説にするのがむずかしいのかもしれない。
『ひめゆりの塔』では、日本とアメリカの戦いだけでなく、沖縄と本土、市民と軍の闘いも描かれる。
沖縄の人たちの前で「これが本土だったらたいへんなことだ」「沖縄でまだよかった」と吹聴する軍人。軍の無茶な要求に素直に従わなければスパイ扱いされる。
このときだけでない。そもそも沖縄が激戦地になったのは、本土を守るための盾にされたから。戦争が終わってからも沖縄はアメリカ領にされ、本土復帰してからも基地だらけ。ずっとずっと不遇を強いられている。
これだけひどい目に遭ったら、なんなら他の地域よりも優遇されてもいいぐらいだとおもうのだが、今でも冷遇されている。「軍の残虐な要求をいれない硬骨漢がいると、これとそれとが結びついて、反軍思想ということにでっちあげられてしまうんだ。」なんて、今でも通じる言葉だ。近所に外国基地があることに反対するだけで反日だなんだと言われるんだから。どっちかっていったら、外国基地の存在を疑問なく受け入れるほうが愛国心に欠けるんじゃねえのか?
こういうのは、近代戦が生んだ悲劇だ。
昔の、刀や槍を振りまわしていた時代の戦いであれば、トンボを追いかけている子どもを殺すことはあまりなかったんじゃないだろうか。よく知らないけど。
デーヴ=グロスマン『戦争における「人殺し」の心理学』によれば、戦闘に巻き込まれた兵士の大半は「武器を使わない」のだそうだ。殺さなければ自分が死ぬかもしれない、そんな状況に置かれても敵を撃たない兵士のほうが多いそうだ。発砲するのは銃を持っている兵士の20%ぐらい。さらにその大半は威嚇射撃をするので、敵めがけて撃つ兵士は2~3%しかいないという。戦争は意外に人を殺人者にしないのだ。
が、これはあくまで「相手の顔を見なければいけない状況」での話。敵との距離が離れれば離れるほど殺人は容易になるのだそうだ。
アメリカ兵がトンボを追いかけている幼児を狙撃できたのは、それが飛行機からの空襲だったからだろう。もしも銃を構えて向き合っている状況だったら、もっといえば銃がなくて剣やナイフしか持っていない状況だったなら、99%の人間にはトンボを追いかけている幼児を殺すことなんてできないはずだ。そうおもいたい。
多くの人が死んだのは、武器の発達により「相手の顔を見ずに殺せるようになった」からであり、そしてこれこそが二度の世界大戦で戦闘が長期化した理由じゃないだろうか。
ほとんどの市民や末端の兵士にとって、命を賭けて戦うことってそんなにメリットがないじゃない。へたすりゃ死ぬし、眼前の闘いに勝利したって得るものは大してない。急に戦場に送りこまれたとしたら、さっさと降伏するのが最適解だろう。ぼくならそうする。上官がそれを許さないなら、上官を後ろから撃って降伏する。
戦中の人たちがかんたんに降伏しなかったのは、教育とか時代の風潮とかもあるだろうけど、「既に多くの人が殺されていたから」じゃなかろうか。
自分の子どもや親兄弟や恋人や友人を殺されていたとしたら。それでもあっさり「降伏しまーす。ぼくだけは助けてくださーい」と言えるだろうか。
武器の進化により殺される人が増える
→ 残された人たちは戦う決意を強める
→ 戦いが激化
→ ますます死ぬ人が増え、ますます士気が上がる
というスパイラルに陥った。それが二度の世界大戦なんじゃないだろうか(その後の朝鮮戦争とかベトナム戦争とかもそうだけど)。
核兵器禁止とかじゃなくて、飛び道具禁止ぐらいにしないと大勢が死ぬ戦争はなくならないだろうね。やるならちゃんと覚悟を持って相手の臓物が切れる感覚をその手で味わいながら殺さないとね(だめです)。
もう完全に勝敗が決した後、壕にこもった市民や兵士に米軍が降伏を呼びかけるシーン。
はあ、くっだらない。くだらない死だ。犬死に。これを「祖国を守るための貴い犠牲」なんて言う輩の気が知れない。貴い犠牲どころか、何の価値もない無駄死にだ。まったく死ぬ必要のない状況での玉砕(笑)。
こんなのをあがめたてまつってはいけない。英霊じゃない。ばか死だ。ばかすぎる。「昔の日本人はこんなにばかだったんだよ」って笑いものにしなきゃいけない。「そして今でもこのばか行為を貴い犠牲だとおもってるばかがいるんだよ。いつの時代にもばかはいるねえ」と笑いものにしなきゃいけない。
読んでいておもうのは、つくづく戦争に巻き込まれた市民にとっては勝ちも負けもないんだなってこと。負ければもちろん悲惨だし、勝ったところで得るものより失うもののほうが大きい。
市民や戦地に行く兵士にとってみれば、戦争に巻き込まれた時点で負け、もっといえば参戦を決めた政治家を選んだ時点で負けなんだろうな。
昔から、作家(小説家)は多くの人にとってあこがれの職業だった。
多くの人が作家を目指したのは、作家になることで名声を得たいとか、多額の印税を手にしたいとかの理由もあるだろうが、なんといっても「自分の書いたものを多くの人に読んでもらえて、楽しんでもらえる」ことがいちばんの理由だろう。
そんな「作家になることの価値」が変わってきているんじゃないだろうか。
かつては、ふつうの人が小説を書いたとしても、多くの人に読んでもらえることはまずなかった。家族や友人に見せるとか、出版社に持ちこむとか、文学賞に応募するとか、せいぜいそのぐらい。数人に読んでもらえれば多いほうだった。
十人以上に読んでもらおうとおもったら、同人誌、雑誌、本に載せてもらうしかない。百人以上に読んでもらうためには商業誌か書籍(自費出版ではない)に載るしかない。そのためには、まずは編集者に認めてもらわなくてはならない。
ところが現代においてそうではない。インターネット、SNSを活用すれば、全く無名の人であっても多くの人に作品を届けることが可能になった。もちろん数万人に読んでもらうことはあいかわらず難しいが(それでもインターネット以前よりはずっとかんたんになった)、数十人、数百人といった数であれば特別な人でなくても届けることができる(場合もある)。
これは小説にかぎらず、様々な表現において同じである。エッセイ、漫画、詩歌、歌、演奏、ダンス、演劇、造形、お笑い、講演。ありとあらゆる表現分野で、アマチュアによる発信が容易になっている。
「己の表現を多くの人に見てもらいたい」という欲求が、プロにならなくても実現できる世の中になったのだ。
こういう世の中になると、兼業作家が増えるんじゃなかろうか。昔は、自作の小説を大勢に読んでもらうためには職業作家になるしかなかった。でも今はちがう。他の仕事をしながら、気が向いたときに書くだけでいい。
兼業作家、兼業漫画家、兼業ミュージシャン、兼業芸人、兼業ダンサー、兼業役者。お金のため(だけ)ではないパフォーマンスをする人が増える。
こうなると、プロはたいへんだろうな。金儲け目的でない人と同じ土俵で勝負しないといけなくなるんだから。
レストランの横で、無料または激安で料理を配られるようなものだ。
しかも、これまでは国内で勝負すればよかったのが、ジャンルによっては世界を相手に闘わなくてはならない。一握りのすごい人が市場の富を独占して、専業では食っていけない人ばっかりになってゆくのかもしれない。
ところで「詩人」という職業がある。職業だよね。一応。
一応というのは、詩で食っていける人はほとんどいないから。
近代以降の職業詩人って誰がいるだろう。三代目魚武濱田成夫氏とか銀色夏生氏とかドリアン助川氏とかも「詩人」を名乗っているけど、ミュージシャンとかラジオDJとかエッセイストとかみんないろんなことをやっているみたい。要するに「詩」だけでは食っていけないのだ。
戦後日本でいちばん有名な詩人は谷川俊太郎氏だとおもうが、それでも作詞家とか絵本作家とか脚本家とかいろんな職業をかけもちしている。それが、食うに困ってのことなのか、それとも好きでやってるのかは知らない。
とにかく、「詩作一本で食っていけている人」をぼくは知らない。もしかしたら国内にひとりもいないかもしれない。
詩をつくったことのない人はほぼいないだろう。小学校の授業でつくったはずだ。思春期のころはポエムを書く人も多い。ぼくも書いた。
詩は身近な表現である。けれど詩で食っていくことはできない。
他の芸術も、いずれは詩みたいな扱いになっていくのかもしれないね。
娘の友だちのおねえちゃん(小学二年生)と 話していると、彼女がたいへんな本好きだということがわかった。
彼女が好んで読むのは小説ではなく伝記や歴史の本らしい。中でもたくましい女性が好きらしく、平塚らいてう、与謝野晶子、ジャンヌ・ダルク、ヘレン・ケラーやサリバン先生、津田梅子など、なかなか渋い人選をしている。
しかも自分なりに年表をつくったり、読書日記をつけていたり、読むだけでなくちゃんと血肉となっている。
聞けば、小学校で話があう子がいないそうだ。休み時間も本を読んでいたいのに、おにごっこやドッチボールに誘われるのがいやだと言っていた。まあそうだろう。小学二年生で青鞜社の話をできる子はそうはいまい。
ぼくが感染している「子どもに本を買ってあげたい病」が発症してうずうずしてきた。
勝手に、頭の中で「買ってあげるとしたら何がいいだろうか」と検索が始まる。
歴史上の女性を主役にした本かー。壺井 栄『二十四の瞳』とかかな。でもあれはフィクションだしな。大石先生はジャンヌ・ダルクや平塚らいてうのような「戦う女性」とはちがうしなあ。
最近読んだ中だとハリエット・アン ジェイコブズ『ある奴隷少女に起こった出来事』とかチョ・ナムジュ『82年生まれ、キム・ジヨン』とかもよかったけどなあ。でも子ども向けじゃないからさすがに小学二年生にはむずかしいかなあ。
「幕末のジャンヌ・ダルク」と呼ばれた新島八重とかいいかもしれないな。たしか以前大河ドラマになっていたから児童向けの本も出てそうだし。
……なんてことを考えていたのだが、そもそも「娘の友だちのおねえちゃん」なのであまり会うこともないし、そんな関係の薄いおじさんからいきなり本をプレゼントされても困るだろう(特に親が)。
「あ、いや、べつに他意とかなくて、ただ単に本をあげるのが好きなので買ってきて、あ、買ったっていってもわざわざ買ったとかじゃなくてついでに、そう、Amazonのポイントが余ってたし、他に買いたい本があって一冊だけ届けてもらうのも悪いなっておもったからついでに……」
と、しどろもどろになって余計に怪しいおじさんを演出してしまいそうだ。
子どもたちを連れて、大阪・梅田に行った。
他の地域の人には伝わりにくいかもしれないが、梅田というのは大阪の中心部で、すなわち関西、ひいては西日本でいちばんの繁華街だ(ちゃんと調べたわけじゃないからまちがってたらスマン)。
ぼくは兵庫県の校外で育ったので「梅田に行く」というのはビッグイベントだった。自宅からバスと電車を乗り継いで約二時間。時間的にも経済的にもふらっと行ける距離ではなく(父親はその距離を毎日通勤していたが)、半年に一度ぐらいのことだった。
家族で梅田に行くのは年末年始だった。梅田にはキディランドという大きなおもちゃ屋と、紀伊國屋書店梅田本店というそれはそれは大きな書店がある(ちなみに梅田本店という名前だが登記上の本店は新宿本店らしい)。
小さい頃はキディランドにおもちゃを見にいった。クリスマスプレゼントや誕生日プレゼントを物色したり、あるいはお年玉で買うためだ。
また、パズル雑誌もキディランドで買っていた。ぼくが大好きな『ニコリ』というパズル雑誌はかつて一般の書店には置いてなくて、おもちゃ屋であるキディランドまで行かないと買えなかったのだ。
また、小学校高学年ぐらいからはおもちゃよりも本を欲しがるようになり、紀伊國屋書店に行くたびに十冊ぐらいの文庫本を買ってもらっていた。
「プレゼントを買ってもらうための場所」だったから、子どものぼくにとって梅田という場所はとてもわくわくする場所だった。ただでさえ年末年始の街は浮かれているのに、そこに浮かれているぼくが行くのだ。こんなに気持ちを昂らせてくれる場所はない。
大きくなってからは梅田に行く機会も増え、昔に比べて特別な場所ではなくなった。前の職場は梅田にあったし、今も通勤で毎日通っている。
とはいえ子どもにとってはやはり心躍る場所にちがいない。子どもたちを喜ばせてやろうと「明日おっきいおもちゃ屋さんに行こうか」と宣言して、子どもたちを梅田に連れていった。
キディランドと紀伊國屋書店は、今も現役だ。多くのお客さんが来ている。しかし、どちらもぼくの記憶にある店とは少し様相が異なっていた。
まずキディランド。たいへんにぎわっている。が、どうも昔とは客層がちがう。ずいぶん年齢が高いのだ。大人のひとり客も多いし、カップルで来ている人も多い。そして子どもの数が少ない。ファミリー客よりも、大人だけで来ている人のほうが多かった。
今でもおもちゃは売られているが、どちらかといえば隅に追いやられていてメインの商材ではなくなっている。その代わりに店の中央に集められているのはキャラクター商品だ。
サンリオ、くまのがっこう、おさるのジョージ、ミッフィー、ムーミンなどのグッズが多く売られている。その多くはおもちゃではない。クリアファイル、食器、コスメ用品、文具などでどちらかといえば大人が持つためのものだ。セーラームーンとか夏目友人帳とか、明らかに大人にターゲットを絞ったキャラクターも多かった。
店の中央で行列ができていたので何かとおもったら、とあるキャラクターのグッズが限定販売されていた。並んでいるのは全員大人だった。
久々に行ったキディランドは、おもちゃ屋さんというよりキャラクターグッズの店になっていた。
ことわっておくが、おもちゃ屋からキャラクターグッズの店に経営方針を変えたキディランドを責める気は一切ない。むしろいい判断だとおもう。
少子化だし、ネット通販もあるし、おもちゃ屋をやっていても儲からないことは目に見えている。申し訳ないけど、ぼくもおもちゃはたいていAmazonで買う。
十数年前にキディランドの前を通ったらもっと閑散としていたような記憶がある。キャラクターグッズの店になったことでうまく経営を立て直したのだろう。賢明な判断だ。
ただ、ぼくの知っていたキディランドではなくなったな、とおもった。
その後に行った紀伊國屋書店もまた、昔ほど唯一無二の場所ではなくなった。
というのは、我が家から歩いて行ける距離に大きな書店があり、児童書に関してはそっちのほうが品ぞろえが充実しているのだ。まあ梅田という場所柄、児童書よりもビジネス書を充実させるのは当然なのだが……。
キディランドにしても紀伊國屋書店にしても、かつては「そこに行けばたいてい揃っている。そこになければ他を探してもまず見つからない」場所だったのだが、今はそうでもなくなった。まあこの二店舗にかぎらず、Amazonに匹敵する品ぞろえの店舗なんて世界中どこにもないのだが……。
「ここに行けばなんでもあるようにおもえて胸躍る場所」って、今はもう現実世界にはなくなってきているのかもしれないな。
高校三年生の文化祭で、模擬店をやったんだよね。
それがさあ、ものすごくつまらなくてね。
まず、なんだか知らないけど「三年生は模擬店をやる」って決まってるの。まあ演劇とかは練習とかに時間がかかるから、受験を控えてる三年生は準備期間の短い模擬店をやらせとけって感じなんだろうね。
模擬店で売れるものも決まっていて、基本的に火は使えない。ホットプレートぐらいならセーフ。ナマ物を扱うのはだめ。生肉や魚介類は(たとえ火を通したとしても)売ってはいけない。
価格も決まっていて、すべて一品百円。
とまあものすごく制約が多くて、食材も予算も決まっているわけだから、やれることはほとんど決まっている。
ぼくらのクラスが選んだのは「たこ焼き風」だった。魚介類がダメなのでたこ焼きはできず、たこの代わりにこんにゃくとかチーズとかを入れるわけだ。
で、ホームルームの時間に、どんな「たこ焼き風」にするかという話し合いがもたれるわけだ。たこの代わりにキムチはどうだとか、ハムはいいかとか、カニカマはどうでしょうとか、わいわい議論が交わされるわけだ。
それを聞きながら、うわあ、くそつまらねえ、これのどこが〝文化〟祭なんだよ。文化もクソもねえじゃん、こんなのほぼ授業じゃん、タコの代わりにこんにゃくを入れるのが創意工夫ですか、とおもったわけですよ。
ちょっと待って、みんな「高校最後の文化祭だから盛り上げようぜ」みたいなテンションでしゃべってるけど、ほんとに〝たこ焼き風〟を売るのが楽しみなの? だったら飲食店でバイトしたほうがなんぼかマシじゃない? ハムとカニカマのどっちがいいか本気で悩んでるの? もううちのクラスだけでもボイコットするほうがよっぽど文化的じゃない?
って言いたくなった。もちろん言わなかったけど。
ぼくがうんざりしてたら、店の名前はどうするとか、ポスターは誰が書くとか、クラスみんなでおそろいのTシャツを作ろうとか、あれこれ話が進んでくわけね。そういうのも全部新しく出たアイデアじゃなくて、店の名前は「担任の名前をおもしろおかしく取り入れたもの」で、ポスターも「怒られない程度にふざけた感じ」で、おそろいのTシャツも「例年三年生がやっていること」なわけですよ。
おい文化ってなんなんだよ。革新的なことをやるだけが文化とはおもわないけど、これが文化の祭だったら、自治体のごみ拾いだって文化祭じゃねえかよとげんなりしてしまった。
そんなわけで、ぼくはクラスの手伝いを一切せず、もちろん店番もサボり、別のクラスの友人といっしょに「余った段ボールで等身大の人形を作って校舎の四階から吊るす」活動と、「みんなが後片付けをしているときに中庭でゲリラ演劇ライブをする」活動に全精力を注いでたのね。
そんで、一致団結して〝たこ焼き風〟を売っているクラスの連中をばかにしていたわけだから、我ながら嫌なやつだったとおもう。ぼくらがやってたことも楽しかったけど、クラスのみんなと一致団結することも今おもえばそれなりに悪くなかったのかもしれないとおもう。
でもなあ。あれを文化祭と呼ぶのはやっぱり欺瞞だとおもうんだよなあ。文化祭じゃなくて「飲食店体験学習」と呼ぶのであれば、なんら異論はないけどさ。
これじゃまるで「文化祭風」だよ。たこ焼き風がよくお似合いだ。
ぜったいに食中毒を出したくないとかトラブルを起こしたくないとかの学校側の事情もわかるけど、少なくともあれを「生徒の自主性を養う行事」という嘘だけはつかないでくれよな。出なきゃ熱々のたこ焼き風を口の中に詰めこむぞ。
ナウル共和国という国を知っているだろうか。太平洋に浮かぶ、小さな島国。オーストラリアの北東に位置する。
国土面積は21平方km、人口約1万人。郊外の市町村ぐらいの規模の独立国家だ。
Twitterで積極的に情報発信をしているナウル共和国政府観光局(@nauru_japan)も有名だ(なんとこのアカウント、フォロワーが40万人以上いる。ナウル国民は約1万人しかいないのに)。
『アホウドリの糞でできた国』というタイトルだが、これは誇張でもなんでもない。サンゴ礁に集まってきたアホウドリが糞をして、それが堆積して島になったのだそうだ。
で、サンゴ礁とアホウドリの糞は、長い年月をかけてリン鉱石になる。リン鉱石は良質な肥料となるので、高く売れる。このリン鉱石を求めて、いろんな国がやってきた。
1968年に独立してからはリン鉱石の輸出で儲けた。島を掘ればリン鉱石が出て、それが高く売れる。
こうしてナウル共和国は、世界一金持ちの国となった。
中東の産油国のように、一部の王族が富を独占することもなく、国民全員が金持ちになった。
国民は働かなくなり、かつておこなっていた農業や漁業などの文化も廃れた。そして裕福な国民は糖尿病だらけになった。
が、ナウルが裕福な暮らしを送ったのは2000年頃までだった。島にあるリン鉱石は有限であるため、近いうちに枯渇することが明らかになり、国家がおこなっていた投資などもことごとく失敗。
政治も混乱状態に陥り、大統領がめまぐるしく変わる事態に。そして2003年。
唯一の入国手段だったナウル航空も営業を休止しており、電話もインターネットもつながらない。なんと国家まるごと音信不通。
ちなみにこの大統領、アメリカに亡命しており、さらに亡命先で急死したそうだ。というわけで真相は闇の中。
その後も、借金を返せなくなったり、援助をもらう代わりに難民を受け入れたり、その難民たちに訴えられたりと、迷走をするナウル。
「21世紀にこんないいかげんな国が存在していいのか……」と呆れてしまう。
でも、だからこそナウルには親しみが湧く。いいかげんだからこそ、なぜか愛おしい。
「オランダ病」という言葉がある。オランダでガス田が見つかったために他の産業が衰えたことに由来する言葉で、「資源があることでかえって他の産業が衰えてしまう」状態を指す言葉だ。
これといった天然資源のない日本にいる者からすると、産油国のような資源豊富な国はうらやましい。でも、豊かな資源が国民を幸せにしてくれるかというと、意外とそうでもないようだ。
以前読んだトム・バージェス『喰い尽くされるアフリカ』という本によれば、天然資源の豊富な国が、その資源が原因で「他国の植民地になる」「政治の独裁が進む」「他の産業が衰える」「国内で争いが起こる」といった問題が発生することが多いようだ。なんと天然資源が豊富な国のほうが、そうでない国よりも成長の速度が遅いそうだ。
もしも日本に貴重な資源があったなら、明治か太平洋戦争後にどこかの植民地になっていただろう。
『アホウドリの糞でできた国』に書かれているナウルの歴史は、まるでおとぎ話だ。
おとぎ話だと、この後「ナウル国民は心を入れ替えてまじめに働くようになりましたとさ」となるのだろうが、そうならないところがナウルのナウルたるゆえん。
この本にはナウルを訪れた旅行者たちの話も載っているが「ポストに手紙を入れたら10ヶ月後に届けれらた」「ビザ申請のメールがまったく返ってこないのでビザ無しで行ってみたらなんとかなった」なんて話が次々に出てくる。
まじめで勤勉なナウル人は国外に出ていってしまうらしく、今でもナウルの人たちはのんびり暮らしているようだ。
でもそれこそが幸福かもしれないね。そんなに金持ちじゃなくても、あたたかい南国で食うに困らない程度の生活ができるのであれば。
ちなみに一度は枯渇したリン鉱石だが、その後技術の向上なのでまた採掘ができるようになったらしい。今度は過去の反省を生かして、リン鉱石で得た外貨を投資して国内に産業を育成……とはならないんだろうな、たぶん。
こういう国が世界のどこかにある、とおもえるだけでちょっと生きるのが楽になるよね。みんながみんな勤勉じゃなくてもいいよねえ。
車上生活を送っている人たちを取材したルポ。
日本には、車で生活している人たちが少なからずいる。が、その実態についてはほとんど何もわかっていない。
ホームレスの概数調査はおこなわれているが、車上生活をしている人は調査そのものがおこなわれていない。車の中で生活していても、ほとんどの場合は外からわからない。だから我々が気づかないだけで、じつは周囲にもけっこういるのかもしれない。
そういやこないだ読んだ『特殊清掃 死体と向き合った男の20年の記録』という本にも、車内で生活していてそのまま亡くなった人のケースが載っていた。
車上生活はたいへんだろうが、ホームレスに比べればはるかに楽だろう。雨風はしのげるし、冬の寒さも車外よりはマシ。荷物を持って移動するのもかんたん。
「ホームレスになるほどではないけど生活が苦しくて車を所有している」人であれば、車上生活に行きつくのはそう不自然なことではないのだろう。
こんな感じで、「車上生活が好き」「車に大切な思い出がつまっている」「家にいたくない」「家庭の事情で家にいづらい」といった理由で車上生活を選んでいる人もいるようだ。
また、年金をもらっていたり、仕事をしたりして、収入がある人もいるそうだ。さらに自宅があるのに車上生活を送っている人も。
まあ深刻な悩みを抱えていない人のほうがインタビューに答えてくれる率は高いだろうから、取材をすると〝そこまで困ってない人〟の割合が実態よりも高くなるのかもしれないけど。
たしかに、車上生活をしたくなる気持ちはわからなくもない。ぼくは運転が嫌いだけど、もしも家族がいなくて、一箇所にとどまらないといけない仕事もないのであれば、あちこち移動しながら生きていくという暮らしにあこがれる部分もある。フーテンの寅さんだって免許と車を持っていれば車上生活を送っていたかもしれない。
人によっては「移動もできるワンルーム」に住んでいるぐらいの感覚なのかもね。
とはいえ、もちろん食うに困って車上生活を余儀なくされている人もいる。さらに単身ではなく、夫婦や家族で車上生活を送る人も。
子どもと共に車上生活を送っていた家族の話。
これを読んで「なんて身勝手な親だろう」とおもった。
自分が車上生活を送るのは好きにしたらいい。頼れる人がいない、生活保護に頼りたくない、親戚との関係がよくない、仕事がない、いろんな事情があるだろう。
でも、こんな生活を送りながら「子どもと離ればなれにならない」ことを選ぶのは、親のエゴでしかないとおもう。そりゃあ子どもは親といっしょにいたがるだろう。親といっしょの生活しか知らないんだから。
けど、命の危険にさらしてまで子どもといっしょに車上生活を送る権利はない。子どもだけでも行政に任せるべきだろう。
なにが「想像以上につらい選択だったに違いない」だよ。ただの虐待親じゃねえかよ。こんなもんは親の愛じゃねえよ。
車上生活を送っている人のいろんな面を見ているうちに「必ずしも車上生活って不幸でおないのかもしれないな」とおもうようになった。
もちろん不幸な人はいるが、それは車上生活にかぎらない。自宅があっても不幸な人もいれば、車でそこそこ幸福な生活を送っている人もいる。
こういう道があってもいいとおもう。道の駅のように、車上生活を送っている人が過ごしやすい場所があればいい。
彼らに住居をあてがうことだけが福祉ではないとおもう。放っておいてやるのもまた優しさなんじゃないだろうか。放っておいてほしいから車上生活をしている人が多数派なんじゃないかろうか。
いろんな記者が交代で書いているのだが、謙虚な人もいれば傲慢な人もいる。傲慢というか、「善意の押し付けがすぎる」というか。
「おれたちジャーナリスト様が社会正義のために取材してやってんだぜ」臭がぷんぷんする。
さっきも書いたように「放っておいてやるのも必要」とぼくはおもうのだが、「こんな生活を送る人がいてはならない! 救済すべき! 『NHKスペシャル』で取りあげてやって社会問題にすべき!」みたいな気持ちが行間から漂ってくる記者もいる。
熱いね。
でもさ。ぼくが車上生活者だったら、ぜったいに社会問題なんかにしてほしくないとおもうんだよね。「『NHKスペシャル』で取りあげます」なんて言われたら「大きなお世話だやめろ」とおもうだろう。社会とかかわりたくなくて車上生活をしているんだから。社会のほうから近づいてこないでほしい。
だから、仮に取材するとしても「野次馬根性丸出しで申し訳ないですけど、なんとか取材させていただけないでしょうか」という姿勢で近づくべきだとおもう。それなのに、「我々が取り上げてやることで彼ら彼女らのためになるはず! だからなんとしても取材せねば!」みたいな気持ちが文章から伝わってくる。押しつけがましいったらありゃしない。
社会的弱者のレッテルを貼られたくないから取材拒否しているんだということも想像せず、しつこく追いかけまわしている。
記者の書いたものを読んでいるだけでも「強引な取材だな」と感じるのだから、こういう記者に追いかけまわされたほうからしたらたまったもんじゃないだろうな。
「どうやったら心を開いてもらえるだろうか」じゃないんだよ。心を開きたくないから車上生活をしてるんだよ。
NHKの記者をやってると、自分が正義の味方だとかんちがいしちゃうのかな。しょせん我々視聴者の野次馬根性を満たすためにやってることなのにさ。
いや、いいんだよ。野次馬根性で。おもしろいもん、変わった生活を送っている生活をのぞき見するのは。人間として、自然なことだとおもう。
でもそれはどこまでいっても野次馬根性なんだよ。結果的に社会がいいほうに変わることはあるかもしれないけど、それは偶然の結果であって目的ではない。
なのに、やれジャーナリズムだ、やれ社会的意義だ、やれ視聴者へのメッセージだのとほざいちゃあいけない。おまえらが扱っているのは生身の人間なんだよ。ただ車に住んでるだけで、犯罪者でもなんでもないんだよ。生きた人間を「視聴者へのメッセージ」の材料にするなよ。材料にしたいんだったら、フィクションを書けよ。
こうやって舞台裏を書いてるから本のほうはまだ良心的だけど、番組のつくりかたとしてはひどいものだ。「こんなところを放送したら、この人が不幸に見えなくなってしまう。だからカット」ですってよ。不幸に見えないことの何が悪いんだよ。「支援が必要」かどうかはおまえや視聴者が決めることじゃないんだよ。
いろんなことを考えさせられてたいへん意義深い本だったけど、同時にNHK記者の傲慢さも目に付いた。
そのジャーナリズムは、今ここで困ってる人じゃなくて、NHKさんが仲良うしてはる政府のほうに向けてくださいね。政府がまともに仕事してたら「支援が必要な人」は減るんだから。
はあ疲れた。
とにかく長い。いや、長いことはいいんだが、ひたすら同じことのくりかえし。これなら上巻だけでもよかったぐらい。
出てくるエピソード自体はけっこうおもしろいのだが、これでもかと事例を挙げてくるので「もうわかったから」と言いたくなる。
この本で書かれているのはこんなことだ。
これを、手を変え品を変え説明してくれる。いやあ、衝撃的事実みたいに語ってるけど、そこまで意外でもないんだけどな……。
あと、狩猟採集生活をしていた人類は虫歯にも腰痛にも高血圧にもならなかったみたいに書いてるけど、ほんとかね。そのへんが怪しいんだよな。証拠が見つかってないだけで、なかったことは証明されてないし。腰痛になるような年齢に達する前に死んでいたんじゃないか、という説を著者は否定しているが、そのへんの論理もどうもあやしい。
これはちょっと眉唾なんだよなあ。仮にこれが事実だったとしても、大事なのは〝生まれた子供が乳幼児期に死亡する率も高い〟のとこなんだよな。長生きした人は健康だったとしても、大半が乳幼児期に死んでしまうんじゃあなあ。
人類が二足歩行をはじめた理由について。
二足歩行は、四足歩行よりも遅い。短距離走をすれば、人間はほとんどの大型哺乳類に負ける。
だが二足歩行はトップスピードこそ遅いが、移動時のエネルギーを節約できるというメリットがある。長距離を走るのには適している。
しかもヒトは汗をかける。二足歩行によって直射日光にさらされる表面積が少なく、体温上昇が抑えられるという利点もある。
そのため、ヒトは全動物の中でもトップクラスに長距離走が得意なんだそうだ。
そういやイギリスには「Man v Horse Marathon」というマラソン大会があるらしい。これは、人間のランナーと、人を乗せた馬が同時に約35kmを走る大会だ。この大会、ほとんどの場合は馬が勝つが、人間が勝ったことも過去に三度あるのだそうだ。短距離走で人が馬に勝つことは不可能だから、いかに人間が長距離走に向いているかがわかる。まあ「Man v Horse Marathon」で馬のほうは人間を乗せて走るからハンデを背負っているわけだが……。
銃がない時代の狩猟ってどんなのだったか。ぼくのイメージは、原始人たちが石オノを持ってわーっとマンモスを追いかけているイメージだ(たぶん、昔やってた日清のカップヌードルのCMの影響)。
でも、じっさいはそんなのではなかったらしい。ヒトは遅いから、たいていの獲物に短距離走で追いつくことができない。
原始時代の狩りは、シマウマやヌーを何十キロも追いかけつづけ、相手がばてて倒れこんだところを狩る「持久狩猟」だったらしい。
追われる側からするとなんともいやらしい相手だ。
ヒトと他の動物との最大の違いといえば大きな脳だが、じつはもうひとつ、「短い腸」という特徴もあるのだそうだ。
腸が短いということは、消化能力が低いということ。だからヒトは、草食動物と同じものを食べて生きてゆくことはできない。
脳と腸の、重さあたりの必要エネルギーはほぼ同じぐらい。だから大きな脳と長い腸の両方を維持することはできない。ヒトは、長い腸を捨て、その代わりに大きな脳を手に入れたわけだ。
我々はほとんどの食材をそのまま食べることはできない。その代わり、大きな脳を使って食物を解体、加工、調理することができる。食べやすく、消化しやすくするために。
こうして我々の脳は大きくなり、それと反比例して、歯は小さくなり、腸も短くなった。今さら過去の食生活には戻れない。調理をしないと生きていけない身体になってしまったのだ。
ヒトが進化によって手に入れたものに「複雑なメッセージを伝えることのできる声」もある。だが、声にはいいことばかりではないようだ。
食べ物をのどに詰まらせるのはヒトだけなんだそうだ。声を出しやすくしたことで、食べ物がのどに詰まりやすくなった。餅をのどに詰まらせて死ぬのは、しゃべれるからなのだ。
進化ってなかなかうまくはいかないもんだねえ。たいてい、何かを手に入れるためには何かを失うことになる。
二足歩行をすれば長距離走が得意になったり両手が自由に使えるというメリットがあるが、短距離走は遅くなるし腰痛も引き起こす。
脳を大きくすればエネルギー不足に陥るため、腸や歯を小さくしなくてはならない。
しゃべれるようなのどの構造にすれば、食べ物がのどに詰まりやすくなる。常に代償がつきまとう。
我々が食べているものの多くは、農業によって収穫されたものである。これは現代人にとってはあたりまえだが、人類の歴史から見ればあたりまえではない。農業をしていなかった時代のほうが圧倒的に長い。
したがって、農産物に頼った食生活をしていると、様々な身体上の問題を引き起こす。
我々は「野菜は身体にいい」とおもいこんでいるが、そもそも農産物は我々の身体にとって最適ではないのだ。
農産物に頼っていると、栄養の多様性が失われる、飢饉に弱い、デンプンの摂りすぎによる虫歯、糖尿病などの問題が起こる。
埋伏智歯(親知らず)も、農産物を食べるようになってから起こった問題らしい。
狩猟採集民は、親知らずはふつうに生えていたそうだ(だから親知らずじゃない)。やわらかいものを食べるようになったことで咀嚼の回数が減り、あごが細くなったために生えられなくなったのだ。
親知らずがあることこそが、我々の身体が暮らしに適応できていない証拠だ。
身体の進化が環境の変化に追いつかない〝進化的ミスマッチ〟は、どんどん大きくなっている。
ここ数千年、わずかな例外をのぞいて人類は(平均的に見れば)自分の親世代より長生きしてきた。
だが、もしかするとそろそろそんな時代は終わるのかもしれない。特に先進国においては。我々は、平均寿命が延びる時期から短くなる時期への転換期に生きているのかもしれない。
「麺の硬さ、かため、ふつう、やわらかめと選べますけど」
「かためで」
「あと接客態度もかため、ふつう、やわらかめの中から選べますけど」
「なにそれ。そんなのあんの。じゃあおもしろそうだから、かためで」
「本日は数ある飲食店の中から当店をご選択いただき誠にありがとうございます。お客様の一生の思い出になるべく、従業員一同……」
「かたいな! ラーメン屋とはおもえないかたさだ。やっぱりやわらかめにして」
「ちょっと山ちゃん、ずいぶんごぶさたじゃなーい。きれいな女の子がいる他のお店に浮気してたんじゃないのー?」
「うわ、いきつけのスナックの距離感! こういうの苦手だわ、やっぱりふつうで」
「うちの店は黙ってラーメンを食う店だ。おしゃべりは禁止、撮影も禁止、スマホは電源食ってくれ。おれのやりかたが気に入らないやつは今すぐ出てってくれ」
「それがふつうなのかよ。こんなのいやだ、やっぱりかために戻して!」
「……」
「すみませーん!」
「……」
「おーい! 聞こえてるでしょー!!」
「……」
「普通じゃなくて不通じゃないか!」
「特殊清掃」とは、主に孤独死した遺体が見つかった現場で清掃をする仕事のこと。その特殊清掃(特掃)に従事している著者のブログ記事をまとめたもの。
ぼくが実際に見たことのある遺体は祖父母のものだけ。病院で息を引き取り、ちゃんと死化粧してもらっていたので、まるで人形のようなきれいな遺体だった。
だが実際の死はそんなきれいなものばかりではない。孤独死して誰にも気づかれないと、遺体は腐る。聞くところによると、とんでもない悪臭が発生するという。おまけに遺体は腐敗し、虫が集まってくる。とんでもなく凄惨な現場になるだろうというのは想像がつく。
……とはおもっていたのだが、想像を超えてくる内容だった。
おおお。
浴槽の底に歯が溜まるということは、身体はどれだけ溶けているのか……。ほとんどゼリー状になっているということだろう。人体がゼリー状に溶けた風呂の水……。どれほどの悪臭を放つのか想像すらできない。
家の中での死は風呂場での死が多いという。転倒事故や、血圧の変化によるショック死のせいで。ひとり暮らしで浴槽で死に、そのまま長期間気づかれないと、こんなことになってしまうのか……。風呂に入るのがおそろしくなるな。
よく「自宅の布団の上で死にたい」という言葉を耳にする。
しかし、特殊清掃の仕事について知れば、そうも言っていられなくなる。
家族と同居していて、死んでもすぐに発見してもらえるのであれば、自宅で死ぬのあ幸せかもしれない。しかし、孤独死して、誰にも気づかれず、腐り、ウジが湧き、悪臭を放つことを考えれば、とても自宅での死がいいとは言えない。いくら死んだら意識はないとはいえ、やっぱり死んだ後に己の身体が腐るのは嫌だ。掃除をする人にも申し訳ないし。
ぼくはわりと死に対してはドライなところがあって、死ぬこと自体はそんなに怖くない。特に子どもが生まれてからは「もう生物としての役目は果たしたのでいつ死んでもあきらめはつくかな」という心境になった。生命保険にも入ってるし。
仮に余命一ヶ月を宣告されても、それなりに落ち着いて死ねるんじゃないか、とおもっている。まあ実際そうなったらめちゃくちゃうろたえるのかもしれないけど。
その代わり、子どもの死が怖くなった。考えたくないけど、ついつい考えてしまう。特に娘が赤ちゃんの頃は毎日びくびくしていた。落っことしただけで死んでしまいそうな、あまりにかよわい生き物と暮らすのはなかなかおそろしい。自分の余命一ヶ月は「そんなものか」と受け入れられるかもしれないが、子どもの余命一ヶ月はとても平静ではいられないだろう。
自分の子だけでなく、よその子、さらには見ず知らずの子ですら死はつらい。子どもが自己や事件で死ぬニュースを見ると、気持ちが落ち着かない。たぶんぼくだけではないのだろう、特に子どもの死に関するニュースは人々の反応も過剰になっている。
もし自分だったら。冷たくなった我が子に向き合えるだろうか。遺体を目の前にして死を受けいれられるだろうか。
自分の死は「受けいれられるだろうな」とおもうぼくでも、イエスと答える自信はない。
清掃作業についてそこまで克明に描写しているわけではないが、とんでもなくハードな仕事だということは容易に想像がつく。給料がいくらかは知らないが「いくらもらってもやりたくない」という人が大多数だろう。
そんな中、著者はさすがプロだけあって、できるだけ感情を抑えながら特殊清掃という仕事に取り組んでいる様子がこの本からうかがえる。
そんな著者が、めずらしく取り乱した状況。
数々の凄惨な遺体を見てきたプロでも、やはり生前の姿を知っている人の遺体はまた別のようだ。好きじゃない人であっても。
聞くところによれば、外科医は決して自分の身内の手術は担当しないという。百戦錬磨の名医でも、身内に対しては冷静でいられないそうだ。
遺体ってなんだろうね。
心は脳にあって、身体は代えの利く物体。理屈としてはそうでも、やはり人間は知人の身体を「物体」とはおもえないらしい。たとえとっくに死んでいても。
ニュースで、戦死した人、震災で行方不明になった人、拉致被害者などの「遺骨を見つけて遺族が喜ぶ」という報道を見る。もちろん生きているほうがいいから喜ぶというのは適切な表現ではないかもしれないけど、残された身内の心境としては「生きている > 死んでいて遺骨が見つかる > 死んでいて遺骨も見つからない」なのだろう。
ここでも、遺体はただの物体ではない。
星新一の短篇に『死体ばんざい』という作品がある。それぞれの事情で死体を欲する人たちが、一体の死体の争奪戦をくりひろげるというブラックユーモアに満ちた小説だ。あの小説を読んで楽しめるのは、それが「誰なのかわからない」死体だからだ(最後には明らかになるが)。キャラクターのある死体であれば、嫌悪感のほうが強くてとても楽しめないだろう。
人間にとって「知っている人の死体」と「知らない人の死体」はまったく別物のようだ。
弁護士である著者が、弁護士業界を舞台に書いた小説。小説の舞台は2020年だが、刊行された当時は「近未来小説」として書かれたわけだ。今では過去になってしまったけど。
はっきり言ってしまうと、小説としてはうまくない。文章も、構成も、人物造形も、これといって目を惹くものはない。特に第一章『ロースクール』に関しては丸々なくても成立していて(おまけにこの章の主人公である教授はその後ほとんど登場しない)、蛇足といってもいい。
書かれていることも、ロースクール生の退廃、外資ローファームの日本での暗躍、社内での悪質なパワハラやセクハラ、弁護士の就職難、仕事に困った弁護士が悪事に手を染める様など、あれこれ書きすぎて散漫な印象を受ける。終わってみれば平凡な完全懲悪ものだったし。
とはいえ、小説としてのうまさははなから期待していないのでそんなことはどうでもいい。こっちが読みたいのは業界暴露話なのだから。
「弁護士業界の裏側をのぞき見したい」という下世話な期待には、ちゃんと応えてくれる小説だった。
(できることなら小説じゃなくてノンフィクションとして書いてくれたほうがおもしろく読めたんだけど、フィクションを織り交ぜないと書きにくいこともあったんだろうね)
2000年頃、日本の弁護士の数は大きく増えた。ロースクール(法科大学院)ができたのがちょうどぼくが大学生の頃で、周りにもロースクールを目指す知人がいた。これからは弁護士になりやすくなるぜ、と意気揚々としていたが、彼がその後弁護士になれたのかは知らない。ただ、弁護士の数が増えるということは一人あたりの案件は減るわけで、そう楽な道ではなかっただろう。とりわけ若手弁護士にとっては。
ほとんどの人は、弁護士が増えることなど望んでいなかった。大半の市民にとっては弁護士のお世話になることなんて一生に一度あるかないかだったし、それは今でも変わっていない。
調べてみたところ民事裁判の数は増えているどころか、20年前の半分以下に減っているそうだ。裁判だけが弁護士の仕事ではないとはいえ、裁判が減っていれば仕事の量も減っているのではないだろうか。
仕事は減っている、けれど弁護士の数は大きく増えている。どうなるか。価格競争が起き、食いっぱぐれる弁護士が増え、中には良くない仕事に手を染める弁護士も出てくる。
ここまで露骨ではないけど、(最近は減ったが)少し前は電車内の広告が弁護士だらけだったことを考えると、これに近い状況は現実に起こっているんだろうな、とおもう。
過払い金請求とか残業代請求とか、実際に弱者救済になっている部分もあるんだろうけど、とはいえあそこまで派手に広告出したりCM打ったりしているのを見ると、それだけじゃないんだろうなともおもう。
つくづく、「困ったときに助けてくれる仕事」って需要以上に増やしちゃいけないんだろうなとおもう。医師も不足してるって言ってるけど、医師国家試験合格者の数を急に増やしたら、医療のほうもこんな感じになっちゃうんだろうな。
病気でもなくて特に医療の必要性を感じていない人のところに「あなたこのままじゃ危ないですよ。この医療を受けたほうがいいですよ」って医者が言いに来る世の中。おお、ぞっとするぜ。
〝鬼〟がつくほどの出不精を自称する著者が、かねてより行きたかった場所に行ってみた体験をつづったエッセイ。
といってもそこはさすが岸本さん、有名観光地や名刹古刹でもなければ、おもしろスポットでもない。「過去に働いていた会社があった街」だったり「かつて住んでいたけど嫌な思い出ばかりの土地」だったりで、岸本さん本人以外にとってはかなりどうでもいい場所だ。
必然的に岸本さんが過ごした東京近郊が多く、この本に載っている目的地のうち、関西で生まれ育ったぼくが行ったことがあるのは丹波篠山だけだ。
でも、行ったことのない土地の話ばかりなのに、このエッセイを読んでいてなんだか妙になつかしさを感じた。それは「岸本さんにとっての印象的な土地」のようなものがぼくにもあるからだ。忘れていた記憶を刺激してくれる文章。
たとえばこの本で紹介されている「YRP野比駅」。京浜急行の駅だ。
岸本さんは、この駅のことをまったくといっていいほど知らない。過去に行ったこともない。けれど気になる。なぜなら、変わった駅名だからだ。
その独特の名前からあれこれ妄想をくりひろげる岸本さん。そしてついにその駅に降りたつ。「変な名前の駅の周辺には変な世界が広がっているのではないか」という妄想を確かめるため。
ぼくにとってのYRP野比駅は、〝京コンピュータ前 神戸どうぶつ王国駅〟だ。
この駅はずいぶん数奇な運命をたどっており、2006年に「ポートアイランド南駅」として誕生して以来、
「ポートアイランド南」
→「ポートアイランド南 花鳥園前」
→「京コンピュータ前」
→「京コンピュータ前 神戸どうぶつ王国」
→「計算科学センター 神戸どうぶつ王国・「富岳」前」
と、めまぐるしく駅名を変更されている。たった15年で5回も新しい名前をつけられた駅はそうあるまい。
ぼくが行ったのは、「京コンピュータ前 神戸どうぶつ王国駅」時代だった。仕事で近くに行く用事があり、ついでに寄ってみたのだ。なぜなら変な名前だったから。
京コンピュータという未来っぽさと、神戸どうぶつ王国というレトロ感。そのアンバランスさがなんとも興味をそそった。マザーコンピュータが動物たちを操縦して人間たちに叛逆を企てる王国を建国、それが「京コンピュータ前 神戸どうぶつ王国駅」。そんな想像もふくらんだ。
だが行ってみると「京コンピュータ前 神戸どうぶつ王国駅」には、駅前に閑散とした小さい動植物園がある以外は何にもない駅だった。大きなオフィスや研究施設が点在していて、通りには誰も歩いていない。住宅もなければ飲食店もない。コンビニすらない。そのあまりに無機質な感じが未来っぽくて最初はおもしろかったのだが、二分も歩くとすぐに飽きてしまった。だって何もないんだもの。
こういうのは、じっさいに行ってみるんじゃなくて、心の中で「いつか行ってみたい」とおもうぐらいが楽しいのかもしれない。
ぼくが気になる地名は、奈良県の「京終(きょうばて)」と滋賀県の「朽木村(くつきむら)」と和歌山県の「すさみ町」だ。どれも行ったことがないが、終末感が漂っていて味わい深い。
京が終わると書いて京終。平城京のはずれにあったからだそうだ。しかし「終」が含まれる地名は全国でも相当めずらしいんじゃないだろうか。世界の終わりみたいな感じがする。
朽木村のほうは平成の大合併により今は存在しない。昔、バス停で「朽木村行き」という案内を見つけ、就活で疲れていたこともあり、おもわず飛び乗ってしまいそうになった。金田一耕助の事件の舞台になりそうな名前だ、朽木村。あのときバスに飛び乗っていたら殺人事件に巻きこまれて帰らぬ人となっていたかもしれない。
すさみ町もネーミングがいい。てっきり「人々の生活が荒(すさ)んでいるからすさみ町」かとおもったら、そうではなく(あたりまえか)由来は周参見という地名らしい。だったら漢字のままでいいのに、なぜわざわざひらがなにしてしまうのか。さらにすさみ町には「ソビエト」と呼ばれる小島がある。地元の人が「ソビエト」と呼んでいるそうだが、なぜそう呼ばれるようになったかは不明らしく、なんとも気になる存在だ。誰か、すさみ町のソビエトの由来を解き明かすSF小説を書いてくれ。
ぼくにとっての世田谷代田は、阪急中津駅だ。
阪急ユーザーならわかるだろう。中津は昔から不遇をかこっている。
じっさいのところは中津駅の乗降客数はそこそこいる。決して多いとは言えないが、中津よりも利用されない駅はたくさんある。
じゃあなんで中津が不憫なのかというと、梅田と十三という大きな駅の間に挟まれていて、「通る電車の数はものすごく多いのに止まる電車は少ない」という状況にあるからだ。
なにしろ、中津駅は特急や急行が止まらないのはもちろんのこと、なんと普通電車の一部も止まらないのだ。梅田と十三の間には宝塚線・神戸線・京都線という三つの路線が走っているが、京都線は中津駅を通るのに決して止まらない。すべて素通りだ。こんなひどいことがあるだろうか。
なぜ普通電車すら中津駅に止まらないかというと、止まる場所がないからだ。中津駅はめちゃくちゃ狭い。だからこれ以上電車が止まれないのだ。
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中津駅のホーム Wikipedia「中津駅」より |
どう、このホームの狭さ。ホームでは「白線の内側にお下がりください」というアナウンスが流れるが、中津駅では白線の内側に一人やっと立てるぐらいのスペースしかない。車いすやベビーカーの人なんかは、白線の内側に下がったまますれちがうのは不可能だろう。
だから、阪急沿線に住んでいるほとんどの人にとっては、中津駅は「素通りするためだけにある駅」なのだ。不憫であり、不憫であるがゆえにちょっぴり愛おしい。
ぼくは一度だけ近くの病院に行くために中津駅を利用したことがあって「ついにあの中津駅に降りたっている……!」とふしぎな感動をおぼえたことを記憶している。
ぼくも出不精なので、この気持ちはわかる。見ず知らずの土地に行くよりも、どっちかというとなつかしい場所に行きたい。
そういや唐突におもいだしたんだけど、高校のときに好きだった女の子と話していて、ふたりとも生まれた場所が同じだということを知った。三つほど隣の市だ。ぼくは半ば強引に「生まれた場所を見にいこう!」と彼女を誘った。これがぼくの初デートだ。
もっとも、そこで五歳まで育ったぼくのほうはかすかに覚えている場所もあったけど、二歳までしか住んでいなかった彼女のほうはまったく記憶がないらしく(あたりまえだ)、退屈そうにしていた。
言うまでもないが、二度目のデートはなかった。
岸本さんの過去エッセイの、いつのまにか異次元に連れていかれる文章とはちょっとちがって現実よりだが、それでもどこか浮世離れした語り口は健在。
名文だなあ、これ。
どうかみなさん、混雑している電車内で奥へとお詰めできない人間を差別しないでください。
混雑している電車内で奥へとお詰めできない人間は、混雑している電車内で奥へとお詰めしたくなくて混雑している電車内で奥へとお詰めしないわけではないのです。彼らにはその能力がないのです。ふつうの人なら難なくできる、混雑している電車内で奥へとお詰めするという行動が、彼らにとっては至難の業なのです。
彼らには生まれもったハンデがあるだけなのです。ですから、混雑している電車内で奥へとお詰めできないことを理由に、彼らを糾弾しないであげてください。
混雑している電車内で扉付近に立ったまま、頑として動こうとしない人。
扉のまわりが混雑していて奥がすいているのに、一歩たりとも動こうとしない人。
自分が一歩移動すれば他の人たちが奥に詰めることができて車内全体の混雑が緩和されるのに、その一歩を踏みださない人。
そのくせ、大勢の人が降りる駅についてもやはり扉付近に立ち止まったまま乗降の妨げになっている人。
たしかに多くの人に迷惑をかけています。けれどそれは彼らのせいではありません。社会全体の問題なのです。
私たちは、ひとりひとり違います。まったく同じ人間なんてどこにもいません。
スポーツが苦手な人、上手にしゃべれない人、うまく歌えない人、眼が見えない人、手足が不自由な人、混雑している電車内で奥へとお詰めできない人。
ひとりひとり違いはあります。すべてにおいて完璧な人などいません。でも、だからこそこの世界はおもしろいのです。
お互い差異を認めて、許し、助け合って生きていこうではありませんか。
そして。
混雑している電車内で奥へとお詰めできない人間だけでなく、人通りが多い場所で立ち止まらずにはいられない人間や、傘を振り回さずに歩くことのできない気の毒な人間や、狭い道で横に広がって歩かずにはいられない人間にもどうか我々と同じ人権を!
1976年にアメリカで刊行された『Defending the Undefendable』(そのまま訳すなら『擁護できないものを擁護する』かな)を、橘玲氏が超訳。超訳というのは、論旨だけは原著に忠実にしながらも、出てくる事例については現代日本人にわかりやすいように大幅改変しているからだ。
拝金主義者を「ホリエモン」、バーモント州のメイプルシロップとフロリダ州のオレンジを「青森のリンゴと沖縄のサトウキビ」、誹謗中傷をおこなう者を「ツイッタラー」、アメリカ市場で金儲けをする日本人を「中国人」と置き換えるなど、大胆に改変を加えている。訳したというより、換骨奪胎して新たに書いたといったほうがいいかもしれない。というか橘玲さんの本ってだいたいそんな感じだもんね。海外の本のエッセンスだけを抜きだして日本に紹介する、という感じで。
著者(橘玲さんじゃなくてウォルター・ブロックさん)は徹底したリバタリアンだ。
リバタリアニズムとは自由至上主義と訳されることもあり、リベラリズム(自由主義)よりももっと極端に自由を信奉する人々だ。
リベラリストは自由を愛するが、とはいえ国家権力による積極的な介入も認める。生活保護や国家による法規制も(程度の差はあれ)必要と見なす。が、リバタリアンは基本的に政府の介入を認めない。さすがに殺人や暴力までは認めない(なぜならそれらは個人の所有物である身体を侵害する行為だから)が、徴税や法規制を嫌う。
ざっくり言うと「個人同士がお互いに同意したことであれば、何をしてもいい。だから暴力などの取り締まり以外は政府は何もするな」という極端な考えだ。
どのくらい極端かは『不道徳な経済学』を読めばわかる。
なにしろ、売春婦、ダフ屋、麻薬密売人、恐喝をおこなう者、偽札犯、闇金融、ポイ捨てをする者、賄賂をもらう警察官、最低賃金を守らない経営者、児童労働をさせる雇用主など、世間一般では犯罪者または悪人とされている人々を「別にいいじゃないか」と擁護しているのだ。
めちゃくちゃ極端だ。
まあ、わからなくもないものもある。たとえば売春婦の項。
似たようなことをぼくもかつて考えたことがある。
高校の家庭科のテストで「売買春はなぜいけないのか書きなさい」という問題が出された。数学じゃないんだから「売春が悪であることを求めよ」なんて、結論が決まっている出題方法に疑問を感じた。「現代日本で違法とされている理由を書け」ならわかるが、時代や地域によっては合法とされているものを絶対悪として扱うその思考停止っぷりにいらだちをおぼえたぼくは、「悪い売春もあるが悪くない売春もある。お互いが100%リスクを理解した上で契約を交わしたのであれば、現代日本の法的には違法であっても道徳的に悪かどうかは結論するのがむずかしい」的なことを書いた。もちろん教師には×をつけられた。
今だったらいい大人だから教師が求める模範解答を書いてあげるだろうけどさ。
でも、今でも売春や麻薬については「法的に悪だし興味もないので手は出さないが、道徳的に悪かどうかは判断しない」という立場だ。友人が風俗店に行くという話を聞いても、いいことともおもわないが悪いことともおもわない(配偶者や恋人に嘘をつくのであればその嘘は良くないとおもう)。
じっさい、身体を売ることでしか生きていけない人もいるわけで、そういう人に向かって「売春や風俗産業は絶対悪だからその仕事をやめて死ね!」と言える傲慢さはぼくにはない。健康リスクが高くて尊厳を失いやすい仕事なんて、風俗産業以外にもいくらでもあるし。たとえば今の日本にはもうあんまりいないけど、炭鉱夫なんてそうでしょ。それを、当の炭鉱夫たちが地位の向上を求めて立ち上がるのならいいけど、部外者が「炭鉱夫は危険だし尊厳も失うのでやるべきじゃない。今すぐやめろ! 高校生のみなさん、炭鉱夫がなぜいけないのか考えましょう」なんて言うのは失礼すぎるとおもう。
麻薬だって、ぼくは怖いけど、はたして悪なのかというとむずかしい。依存性があって身体に悪いものが悪なら、酒もタバコも糖分たっぷりのお菓子もアウトだ。一部の麻薬は酒よりも人を凶暴にする力が弱いと聞くし。
「今の法律で禁止されている」と「道徳的に悪」はぜんぜんべつのものなのに、それを混同しちゃう人がいるんだよね。
高利貸し、いわゆる闇金について。
「ふつうの金融機関で金を借りられないから、金利が高くてもいいから借りたい人」と
「返済されないリスクが高い分、高金利で貸したい人」がいて、
当人たちが合意の上で高金利で借金をするのははたして悪なのだろうか。
返さなかった者に暴力をはたらいたり、債務者の家族に嫌がらせをしたり、返せなかった代償として肉1ポンドを要求したりしたら、それは悪いことだとおもう。でも、それは高利貸しが悪かどうかとはまた別の問題だ。
風俗にしても闇金融にしても、不幸に通じる道の出口あたりにあるものだ(風俗嬢が全員不幸とは言わないけど)。入口のほうを改善せずに出口だけ取り締まっても、問題は解決しない。それって「トイレをなくせばウンコが減る! 食う量は変えない!」みたいなもんじゃん。なんちゅうひどい例えだ。
ぼくはリバタリアンじゃなくてリベラリスト寄りなので、風俗や闇金融を禁止するんじゃなくて政府が「もっとリスクの少ない仕事を斡旋する」「貧困者に低金利での貸し付けをおこなう」をするべきだとおもうんだよね。
だから著者の意見には途中まで賛成で、途中からは反対。
とまあ、そこそこ同意できるものもあれば、まったくもって賛同できないものもある。もうあらゆる詭弁のオンパレードって感じだ。
たとえば恐喝者を擁護する項。
「おまえが悪事をしているのを知っているぞ。ばらされたくなかったら金を払え」だったらまだわかるんだよ。それを全面的な加害者として扱っていいのか、とはおもう。
ところが著者は「おまえが同性愛者であることをばらされたくなかったら金を払え」と脅迫する人をも擁護している。「同性愛者であることを他人が勝手に暴露したほうが、同性愛者の社会的な地位が認められることになって、結果的に暴露された人の利益になる」とか理屈をつけて。どうしようもない戯言だ。
悪事じゃなくても人に知られたくないことはたくさんある。ぼくが妻に隠れてエロい動画を見ていることなんて、法に触れることではないけど、それでもおおっぴらにはされたくない。それを「エロい人の社会的な地位が認められるためにおまえがエロいことをばらしてやるぜ!」なんて言われて、納得できるわけがない。
誹謗中傷をする人のことはこんなふうに擁護する。
誹謗中傷が禁止されなくなれば、誰も誹謗中傷を信じなくなるんだって。んなアホな。今のSNSがどうなっているか、考えてみればすぐにわかる。
賄賂を受け取る警官を擁護する項。
これまたひどい論理。ナチス政権という極端な例を挙げて「法に背くことは悪とはいえない」とうそぶく。
「先生がだめって言ってたよ」に対して「じゃあおまえ先生が死ねっていったら死ぬのか」と言う小学生と同レベル。
よいこのみなさんは、極端なケースを挙げてそれを一般化しようとしてくる人の話を真に受けちゃだめですよ。
この本を読んでおもうのは、リバタリアニズムってとことん強者の論理なんだなってこと。ずっと勝者でありつづける人、自分が弱者の立場に陥ることがないとおもえる人の論理だ。
だから中学生とは相性がいいかもしれない。中学生ぐらいの根拠のない万能感を持てる年代であれば、「すべて市場の自由競争にまかせておけばうまくいく(有能なおれが市場競争で負けるはずがない)」とおもえるかもしれない。
最低賃金を守らない経営者を擁護する項より。
ま、理論ではそうかもしれないね。
ただ、現実問題として、資本家には資本があり、労働者には十分な資本がない。適正な賃金の仕事がなかったとしても、労働力は貯めておけないし、今日のパンを食べないと生きていけない。「自分にふさわしい仕事が見つかるまで働くのをやめる。一年働かず、次の年には二倍働く」ができればいいんだけど、それができない以上、経営者のほうが圧倒的に立場が強いんだよね。
ラーメン屋が「うちのラーメンの値段が気に入らないならよそに行ってくれ。ラーメン屋はいくらでもあるから」って言うのと、経営者が「うちのやり方が気に入らないならおまえはクビだ。働き口はいくらでもあるから」ってのはわけが違うんだよね。
まあ古い本だからしょうがないけど、市場にまかせておけばすべてうまくゆくってのはあまりにも古い考えだよね。完全自由経済は、完全計画経済よりはマシってだけだよね。
こういう考えをする人もいる、って知れるのはおもしろいけど、ほとんど賛同はできない本だったな。橘玲さんもそのへんをわかってて露悪的に書いてるフシがあるけど。