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読書感想文リスト
家のリフォームをすることになった。
妻が
「トイレをこうしたいんだけど」
「床の色とあわせて壁紙をこうしようとおもってて」
「洗濯機を置くスペースはこれが使いやすいかとおもって」
と言ってくるので、
「いいんじゃない」
「どっちでもいいからそれでいいよ」
「まかせるよ」
と答えていた。
あまりにもぼくが自分の意見を言わないからだろう、
「こうしたい、とかないの?」
と妻に言われた。
(とがめる口調ではない。ただ純粋に訊いた、という感じで)
ぼく 「んー。まったくないわけじゃない。強いて言うならこっちのほうがいいかな、みたいなのはある」
妻 「じゃあそれを言ってほしいな」
ぼく 「えっと……。意見を求められて否定されたら嫌な気持ちになるじゃない。『AとBのどっちがいいとおもう?』って聞かれて、ぼくがじっくり検討して『A』って答えて、なのに結局Bになったら、じゃあ聞くなよって不快な気持ちになる。それだったら最初から自分が関与していないところでBになってるほうがずっといい。だから『最終的な決定権をあなたに預けます。ぜったいに言われた通りにします』という段階で聞いてくるんならいいけど、ひとつの参考意見として聞きたいだけなら、答えたくない」
というようなことを告げた。
ぼくには、結婚式の準備で妻と喧嘩をした苦い記憶がある。
結婚にいたるまでに妻とは八年ほど付き合ったが、その間まったくといっていいほど喧嘩をしなかった。はじめての喧嘩が結婚式の準備だ。
ほんとに些細なことだった。
結婚式の会場に使うテーブルクロスをどんな色にするか決めなきゃいけなくなった。黄色か紫か。どっちがいいかと訊かれて、「超どうでもいい」とおもいながらも、「どうでもいいよ」と答えちゃいけないとおもい、一応考えて「こっちがいい」と紫を選んだ。
結婚式で決めなきゃいけないことは山ほどある。その後も、招待状をどうするか、引き出物をどうするか、「司会の人の胸につけるコサージュをどうするか」なんて超絶どうでもいい質問もあった。決断というのはけっこう脳のエネルギーを使うものだ。だんだん疲れてきた。
そんなとき、妻(になる人)が言った。
「さっきのテーブルクロスだけど、やっぱり黄色がいいな」
はっきり言って、ぼくからしたらテーブルクロスの色なんかどうでもいい。黄色だろうが紫だろうが、心底どうでもいい。さっきは49.9対50.1の差で紫に決めただけで、黄色がイヤな理由なんてまったくない。
ただ「一度決めたことを覆そうとしてきた」ことに猛烈に腹が立って「そうやって一回決めたことを再検討してたら永遠に終わらないだろ!」とわりと強めに言った。
すると妻が「だったらここは私が譲るから新婚旅行の行程はそっちが折れてよ」と言い出し、「いやいや新婚旅行はまったく関係ないし、そもそもテーブルクロスについてはぼくが我を通したわけじゃなくて決定事項を覆すのはおかしいよねって……」
今書いててもほんとくだらない喧嘩なので、このへんでやめておく。
ぼくが書きたいのは、どっちが正しいとか、どっちが悪いとかではない。夫婦間の喧嘩になった時点でふたりとも悪いのだ。
目的は自分の正当性を主張して相手の非を認めさせることではない。世の中にはディベートという“競技”のルールを他のことにも適用できるとおもってるおばかさんがいるが、ぼくはお利巧なので、ディベートの技術など人付き合いには屁のつっぱりにもならないことを知っている。
つまり何が言いたいかというと、夫婦仲を保つためには「ちょっとでもぶつかりそうな気配を感じたらなるべくそこに近寄らないようにする」技術が必要だということだ。
そして、自宅のリフォームというのは、そこら中に火薬のにおいが立ち上っている戦場だということだ。自宅のリフォームをするときに、夫婦それぞれが「こうしたい!」という意見を出して、ぶつからないわけがない。
十年以上も結婚生活を送っていると、そういうセンサーが鋭敏になるね。
風呂の蓋が割れた。
うちの風呂の蓋って、海苔巻きをつくるときの巻き簾みたいなタイプ。蛇腹になってて、使わないときはごろごろって転がして丸めて、使うときはごろごろって転がして伸ばして浴槽にかぶせるやつ。
そいつがまっぷたつに割れた。落とした拍子にちょうど真ん中あたりで割れた。
で、割れたとはいえぜんぜん使えるからそのまま使ってるんだけど……。
圧倒的に割れてるほうが使いやすい
んですよ。
まず軽くなった。あの蓋ってけっこう重いから大人でも両手でよっこいしょって持ち上げなくちゃいけない。小学四年生の娘なんかふらふらになって抱えていた。それが、重さが半分になったことで軽々持ち上げられるようになった。
それから半身浴をしやすくなった。ぼくは(娘も)お風呂に浸かりながら本を読むことがあるんだけど、今までは蓋を半分だけ丸めて、その上にタオルや本を置いていた。でも丸めてロールケーキみたいになった蓋が邪魔だし、丸めたら元々下側にあったところが外側に来るので濡れてしまう。それが、半分だけ蓋をすることで、乾いた蓋の上を広々と使えるようになった。
逆に、デメリットは今のところまったくない。割れたことでただ使いやすくなっただけだ。
あれ? じゃあはじめから半分のサイズ×2でよかったんじゃない?
半分サイズのお風呂の蓋。これは売れる! とおもって調べたら、すでにありました。というか今はそっちが主流になりつつあるみたい。
想像だけど、「半分サイズのお風呂の蓋」を開発した人も、たまたま蓋が半分に割れちゃって、こっちのほうが使いやすいじゃない! ってなって商品化したんじゃないかな。
ほら、よく、失敗から発見や発明から生まれるっていうじゃない。
トウモロコシのお粥をつくろうとして失敗してパリパリになってしまったことでコーンフレークが誕生したとか。
ニトログリセリンがこぼれて土と混ざって固まっているのを見たノーベルがダイナマイトを発明したとか。
つくづく、失敗は発明の母だね。
タイミングがよければぼくもノーベルになれたにちがいない。
良かれとおもって生み出された科学技術が、多くの人の命や健康を奪った例を集めて紹介する本。
目次は以下の通り。
「第1章 神の薬アヘン」
「第2章 マーガリンの大誤算」
「第3章 化学肥料から始まった悲劇」
「第4章 人権を蹂躙した優生学」
「第5章 心を壊すロボトミー手術」
「第6章 『沈黙の春』の功罪」
「第7章 ノーベル賞受賞者の蹉跌」
「第8章 過去に学ぶ教訓」
たとえばアヘン。誰でも知っているいおそろしい麻薬だが、人をダメにするために生みだされたわけではなく、当初は鎮静剤だったそうだ。「ぐずる子供をおとなしくさせるため」などにも使われていたという。
だが中毒性の高さや健康に及ぼす悪影響が明らかになり、中国のように社会全体にまで深刻な被害を及ぼすようになった(それがアヘン戦争につながったのは世界史で習った通り)。
アヘンから中毒性をなくし鎮静効果だけを取り出そうとして作られたのがモルヒネやヘロイン、オキシコドンなど。しかしどれも期待していたような結果にはつながらず、中毒性、副作用があることが後に判明する。
麻薬って「悪いやつが悪いことのために作っている」というイメージがあったけど、少なくとも最初は「人々の役に立つように」とおもって作られているんだね。結局は悪いやつに悪い目的で使われてしまうんだけど。
また、バターのヘルシーな代用品としてつくられたマーガリンが後に心臓病リスクを高めることがわかったり(最近は心臓病のリスクを高めるトランス脂肪酸の少ないマーガリンも作られているらしい)、空気中の窒素からアンモニアを大量生産できるハーバー・ボッシュ法によって農産物の収穫量が飛躍的にはねあがった一方、土壌から流出した窒素が河川や海を汚したりと、一見いいものとおもわれていたものが後に深刻な被害をもたらす例がいくつも紹介されている。
また、ノーベル化学賞とノーベル平和賞を受賞したライナス・ポーリング(異なる分野のノーベル賞をひとりで受賞したのは現在までこの人ただ一人)はビタミンの大量摂取が健康に良いと唱え、それがむしろ身体に悪いことを示す様々なデータが出た後でもビタミン大量摂取健康法(メガビタミン健康法というそうだ)を主張しつづけた。
一度「これは健康にいい(or 悪い)」と信じてしまうと、なかなか考えを転向させるのはむずかしいのだ。たとえノーベル賞を二度も受賞するほど賢い人でも。
いや、賢い人だからこそかもしれない。
ターリ・シャーロット『事実はなぜ人の意見を変えられないのか』によると、認知能力が優れている人ほど情報を合理化して都合の良いように解釈する能力も高くなるそうだ。賢い人は自分が賢いことを知っており、「自分はまちがっていない。なぜなら~」と過去の判断を正当化するのがうまいんだそうだ。
ノーベル賞を二度も受賞したら、なかなか「自分はまちがってて他の連中の言うことのほうが正しいのだ」とは認められないだろうね。
著者は「どんなものにも代償はある」と書いている。すべてのものには良い面もあり、悪い面もある。多くの生命にとって欠かせない水ですら悪い面はある。
「〇〇はいいことずくめ!」という言説を見たら、嘘つきか無知のどっちかだとおもったほうがいいかもしれない。
もっとも、この本はこの本で、「〇〇はいいと言われていたけど悪かった!」と逆の方向に振れすぎている(いい面を無視しすぎている)きらいがあるけど。
いちばん興味深かったのは「第6章 『沈黙の春』の功罪」の章。
1962年にレイチェル・カーソンによって著された『沈黙の春』は世界中でベストセラーになった。農薬の大量使用に警鐘を鳴らしたこの本は環境問題を語る上では避けて通れない一冊となっていて、たしかぼくの学生時代の教科書にも載っていた。
この本に書かれている内容は(現代科学から見ると誤っているところがあるにせよ)大きな問題があるわけではない。問題は、この本の影響が大きくなりすぎて、「農薬=悪」という単純な考えをする人が増えてしまったことにある。
その結果、数多くの殺虫剤や農薬の使用が制限された。中でもマラリア予防に効果的だったDDTの使用が世界中で制限された。
『沈黙の春』では、DDTの使用をすべてやめろと主張していたわけではない。過度の使用が生物濃縮や耐性を持つ蚊を誕生させるという警鐘を鳴らしただけだ。
だが単純な人たちにはそんなことはわからない。「DDTは悪い! 一切使うな!」という声は高まり、DDTは使用が禁止されてしまった。
(レイチェル・カーソンが意図したものではなかったが)結果だけ見れば『沈黙の春』が多くの命を奪うことになってしまった(マラリア患者が増えたのは『沈黙の春』で指摘された通りにDDT耐性を持つ蚊が増えたからだとする説もあるらしい)。
科学の話に限らず、物事を単純化しようとする人は多い。「〇〇は悪だ!」「△△にすればうまくいく!」「今の状況が悪いのは××のせいだ!」という言説があふれかえっている。
残念ながら世の中はそんなに単純ではない。物事にはいい面もあれば悪い面もある。人にも組織にも国にも悪い面もあれば悪い面もある。
でも「〇〇はいいところもあるし悪いところもある。人によってはいい人に映るし、そうとらえない人もいる。正しいこともしたし間違えることもあった」という言説はウケない。
これを書いている今、大谷翔平選手の通訳が違法ギャンブルに手を染めていて、その資金が大谷選手の口座から送金されていたことが大きなニュースになっている。
大谷選手が通訳の違法ギャンブルを知っていたのか知らなかったのか、口座から送金したのは誰なのか、大谷選手も罪に問われるのか、そのへんのことは現在(2024/3/22現在)明らかになっていない。とにかく不明瞭だ。
そんな中「真実はこんなことじゃないかと推測する」とSNSに長文を書いている人がいた。そこまでは別にいい。ぼくが怖いとおもったのは、それに対して「わかりやすい解説だ!」というコメントがたくさんついていたことだ。
いや、わかりやすいもなにも、それって単なる憶測なんだけど……。
当人にしか(ひょっとしたら当人にすら)わからないことに対しての“推測”を“わかりやすい解説”だとおもってしまう人がいるのだ。算数の問題じゃないんだから「これがいちばんわかりやすい解説!」があるわけないのに……。
その“わかりやすい解説”に飛びついてしまう人たちは、わからないものをわからないままにしておくことができないのだ。わからないままにするのって知的に負担のかかることだから。「たったひとつのシンプルな真相」があることにするほうがずっと楽だから。
「真相はわからないから保留」にするのはたいへんだ。脳にストレスがかかる。「応援している大谷選手が犯罪に手を染めていた」という望ましくない可能性も残しておかなくてはならない。それに耐えられない人は「これこそがわかりやすい真相だ!」に飛びついてしまう。正しいかどうかはどうでもいい。
環境問題も、原発問題も、基地問題も、人権も、平等も、政治も、教育も、すべての人にとって最良な答えがあるわけがない。どの道にもいい面もあれば悪い面もある。
それぞれを比較して「こっちのほうがより多くの人にとってちょっとだけマシな結果になるようにおもえる。でもその判断も誤っていることが将来的に明らかになる可能性があるから軌道修正する余地を残しておかなくてはならない」とするのが科学的な態度だ。
はっきりいって、すごくめんどくさい。「未来永劫変わらない普遍的な唯一解」があると信じるほうが楽だ。
でもそれは科学じゃなくて宗教だ。
科学と宗教ってぜんぜん違うようで、実はすごく近くにあるものかもね。間違えるのが科学、間違えないのが宗教。「こっちを選べばまちがいない!」なものは科学じゃないです。
何者なんだかよくわからないけど、とにかくネット上ではめったらやったら嫌われている人・竹中平蔵。そのわりに一部の政治家や財界人からはものすごく重用されている(らしい)人。
ぼくの中では二十数年前に小泉純一郎がやっていた行政改革の旗振り役、のイメージが強い。その後はパソナグループなどで要職をまかされて、ときどき経済系のメディアに出てきて何かしらの提言をしている。そしてそのたびに猛反発を受けている。なんなら「日本を悪くしたA級戦犯」ぐらいに語られることもめずらしくない。もはやヒットラーと並ぶぐらいに「この人の悪口を言っても擁護する人がいない」存在だ。
でも、竹中平蔵という人が何をしたのか、ぼくはほとんど知らない。どんな人間なのかもまるでわからない。メディアで語っているところは何度か見たことあるが、常に余裕をたたえた笑みを浮かべていて、本心のところで何を考えているのか、何に怒りを感じるのか、何を目指しているのか、そういったところがまるで見えない。
一言でいえば、得体が知れない人だ。
『竹中平蔵 市場と権力』は、そんな竹中平蔵氏の評伝だ。評伝といっても著者は竹中氏に批判的なスタンス。本人へのインタビューなどもない。過去の言動、著作、そして周囲の人の談話から竹中平蔵という人の姿を描きだす。
読んでいてまずおもうのは、竹中平蔵という人はすごく優秀な人なんだということ。
頭が良くて、勤勉で、時流を読むのがうまく、人に取り入るのもうまい。「部下にしたいタイプ」だ。だからこそ小泉政権や安倍政権で重用されたのだろうし、様々な企業でも重要なポストを与えられたのだろう。
部下にはしたい。が、同僚や上司だったら嫌なタイプだろうなともおもう。
打算的で、他人に厳しく、権力者にとりいるのはうまいが重要でないとみなした人間に対してはとことん冷酷。目的のためなら他人を貶めることも躊躇しない。そんな印象を受ける。
コネも権力もないところから己の才覚と努力で成りあがった人で、典型的な新自由主義者タイプだ。
「おれは恵まれない境遇から努力して今の地位を築いた。だからどんな境遇でもやればできる。できないのはやらなかったからだ。今あなたが貧しいのは努力をしなかったからだから、悪い境遇に陥るのもしかたない」というタイプ。謙虚でない成功者に多いタイプだ。
こういうクレバーな人はビジネスマンとしては優秀だが、弱者への共感が欠けている。「どんなにがんばっても成功できない人」もいるし、「成功した人は運に恵まれていた」ということを認めたがらない。この手の人には政治家にはなってほしくない。というか政治に関わらないでほしい。どうか政治とは距離を置いて、せいぜい金儲けに勤しんでほしい。でもこういう人ほど政治に近づきたくなるんだよね。そっちのほうが儲かるから。努力をするよりもルールをねじまげちゃうほうがずっと楽だから。
竹中平蔵という人は、よく言えば目端が利く人、悪く言えば小ずるい人である。
『竹中平蔵 市場と権力』ではこの手のエピソードが何度も紹介されている。
法律では裁かれないけど、決して公正とは言えない行為。そういうことをためらいなくできちゃう人なのだ。
ことわっておくが、こういう人は決してめずらしくない。世の中にはたくさんいる。
「無料でどうぞと書いてあったから使う分以上に持って帰った」
「デパートの試食コーナーをうろうろして買う気もないのにおなかをふくらます」
「国会議員に毎月100万円支給される文通費は領収書不要なので生活費に使う」
「官房機密費は使い道を明らかにしなくていいから票を買うのに使う」
みたいな小悪党のマインドだ。いわゆるフリーライダー。
こういうあさましい気持ちは、おそらく誰の心の中にも多かれ少なかれ存在する。もちろんぼくだって「払わなくて済むなら払いたくない」という気持ちは持っている。ふるさと納税なんて制度自体がそういう制度だ。
ただ、竹中平蔵という人はその気持ちが人より強く、さらにばれても「法的には(ぎりぎり)裁けないじゃないか」と開き直れる人なのだ。さらに発言をひっくりかえすことにもためらいがない。
くりかえし書くが、こういう人はめずらしくない。どこの町にもどこの職場にもいる。近くにいたら「あの人ちょっと厚かましいよね」ぐらいの存在だ。
問題は、その人がふつうの人よりずっと賢く、ずっと権力者にとりいるのがうまく、ずっと野心的で、大きな権力を手にしてしまったことだ。
「ちょっと厚かましいおじさん」に権力を渡してしまったら、国中の貧富の差が大きく拡大し、多くの人が首をくくるような社会になってしまった。そんな感じだ。つくづく政治というのはおそろしい。
竹中さんという人は、ほれぼれするほど世渡りがうまい。スネ夫もかなわないほど。
森喜朗が首相だったとき、森首相のブレーンでありながら、次期首相と名高い小泉純一郎に近づき、さらに政権交代した場合にそなえて民主党の鳩山由紀夫にも接近していた。すごい。誰が政権をとってもそこに食い込む計算になっていたわけだ。
節操がないけど、この節操のなさこそが最大の武器なんだろうな。
以前、橋下徹『政権奪取論 強い野党の作り方』という本を読んで、橋下徹という政治家の、思想のなさに驚いた。
彼はその本でこう書いていた。
思想や理念は二の次で、まずは組織を固めて政権をとることだと書いている。「こうしたい」「こんな世の中にはなってほしくない」というビジョンがあってそのために政治家を目指すものかとおもっていたが、彼は逆で、まず権力を手に入れてからそれをどう行使するかを考える。
その空虚さに良くも悪くも空恐ろしさを感じたものだが、竹中平蔵という人は橋下徹とはまたべつのタイプのおそろしさがある。
政治家としての思想は軽薄でも、橋下徹という人物には人間味がある。好き嫌いが激しいし、ユーモアもある。反論されてむきになりやすいのは弱点でもあるが、その欠点こそが彼の魅力でもある。言ってみれば子どもっぽい。だからこそテレビでも登用されるのだろう。ぼくも、政策的にはまったく賛同できないが、テレビタレントとしての橋下徹はけっこう好きだ。
その点、竹中平蔵氏は橋下徹の子どもっぽさを取り除いたような成熟した恐ろしさがある(童顔だから余計にギャップが大きくて怖い)。
もっと冷徹に、もっとしたたかに、どれだけ時間をかけてもじっくりチャンスを待つタイプ。
行動の目的も、「金持ちになりたい」とか「名を残したい」とかのわかりやすいものではない気がする。もちろん「国や地域をよくしたい」ではない。何かもっと大きな目的のために動いてる、いや動かされてるんじゃないか、という気さえしてくる。権力は好きだけど、それ自体が目的というわけでもなさそうだし(大臣にまでなったのに政治家の道をあっさり捨ててしまうところとか)。
ぜんぜん根拠はないけど、何かに対する恨みとか憎悪が根底にあるのかな……。とにかく、説明のしようのない恐ろしさが終始漂ってるんだよね。竹中平蔵氏の行動には。
竹中平蔵という人物のことがわかるようになるかとおもってこの本を読んでみたけど、結局よくわからなかった。むしろ底知れなさは深まったかもしれない。ま、ぼくの経済の知識が乏しくて専門的な話がまるでわからなかったってのもあるけど。
なんかへたなホラーよりこわかったな。じんわりと。