
読書感想文は随時追加中……
読書感想文リスト
このブログにはコメント投稿があるのだが、ほとんどコメントを頂戴することはない。
数ヶ月に一度あるかどうか。明らかなスパムとかもあるので、まともなコメント(記事に対する意見や感想など)は年に十件ぐらいだろうか。
アクセス解析ツールによると、このブログには月10,000ぐらいのアクセスがある。それだけアクセスがあってもほとんど誰もコメントをつけないのだ。
ことわっておくが、ぼくのスタンスとしてはコメントは大歓迎だ。
さすがに悪口雑言は勘弁してほしいが、たいていのコメントはもらえるとうれしい。
以前やっていたブログも含め、ぼくはもう二十年近く前からブログをやっている。
その二十年で感じたのは、ブログというのはコミュニケーションツールではなくなったということだ。
二十年前のブログは、書き手と読み手のコミュニケーションの場だった。書き手が話題を提供して、読み手がそれに対してコメントをする。場合によっては読んだ人が自分のブログにアンサー記事を書いたりもする。そこから別の人へと話題が広がり……ということがよくあった。
それが、SNSが普及したことで、他者とのコミュニケーションはSNSでやりましょう、ブログは書き手が一方的に見解を述べる場、という感じになった。ある日突然そうなったわけではなく、ちょっとずつそうなった。
ブログにコメントがつかないことを嘆いているぼく自身も、他者のブログにコメントをつけることはほとんどしなくなった。
「あーわかるわかる。ここに書かれている以外にもこんな事例もあるよね」なんてことをおもったりするけど、たいていコメント欄には書かない。
「コメントを書いたら、知らない人が急に会話に参加してきたみたいでいやな気持ちにさせてしまうんじゃないかな」なんて考えてしまう。
〝ブログがコミュニケーションツールだった時代〟を知っているぼくですらそうおもうのだから、物心ついたときからSNSがあったような世代の人にとっては「ブログにコメントをつけるなんてそんな非常識な!」という気持ちかもしれない。
だからといって「もう一度ブログをコミュニケーションの場にしよう!」なんて唱える気もないし、「このブログを読んだ人はコメントを残せよな!」なんて言う気もないのだが、でも基本的にコメントをもらえたらうれしいですよ、ということだけ書いておく。
ぼくも他の人のブログに臆せずコメントするようにしようかな。
コメント機能をオフにしてないってことは、知らない人がなんか書いてもいいってことだもんね。
何度か書いているが、就活がほんとに嫌だった。人生でいちばんつらかったのは就活をしていた時期だったかもしれない。
人と話すのが得意でないとか、慣れない場所に行かないといけなかったとか、基準のよくわからない試験を受け続けないといけないといけないとか、不採用になるたびに人格否定されたような気になるとか、そもそも働きたくなかったとか、いろいろあるけど、最近ふと「丸腰で戦地に行かなくてはならなかったのがつらかったのだ」とおもい、その言葉が当時の自分の心情をうまく言い表せていることに気づく。
もっと後になって何度か転職の面接を受けたが、そんなに嫌じゃなかった。人間的に成長したからというのもあるが、転職の面接ではわりと対等に話ができる。
「自分はこんな仕事をやってきました。これができます」と自己を開示し、企業のほうは「こんな仕事をやってもらいます。あなたに対してこれだけの給与を払います。労働条件はこうです」と条件を提示する。お互いが相手に価値を感じれば採用→入社となる。単なる交渉だ。不動産屋で部屋を借りるのとそんなに変わらない。
ところが就職面接に関しては「自分はこんな仕事をやってきました。これができます」と伝えるべきものがない。なぜなら仕事をしていないから。
一応「アルバイトやサークルなどの課外活動を通してこんな経験を得られました」みたいなことを語るが、そんなものが仕事に何の役に立たないことは言ってる当人だってよくわかっている。
結局のところ「自分はこんなことができます」がないので、企業側には“可能性”を売るしかないのだ。
これがきつい。
可能性を売るってさ、「金貸してくださいよ。万馬券当たったら倍にして返すんで」と変わらないわけじゃない。あるんだかないんだかわからないものを売るなんてほとんど詐欺だ。
まれにその“可能性”を買って「給与と教育与えてあげる。出世払いでいいよ」と言ってくれる企業もあるが、やっぱり対等な取引じゃないよね。
まだないものを売ってくるんだから就活がキツいのも当然だ。投資詐欺の営業やらされてるみたいなもんだもん。
Amazon Primeにて視聴。
うーん、前々作『のび太の宇宙小戦争 2021』(コロナ感染拡大のため公開は2022年)や前作『のび太と空の理想郷』が良かっただけに、今作はがっかりな出来だった。
細かいことはいろいろあれど、ドラえもんの映画である必要性がないんだよね。「子どもたちが音楽の力で災厄をふっとばすストーリー」なので、ドラえもんらしさがない。ドラえもん映画としてこれは致命的だ。
まずやっぱり気になるのはジャイアンの存在。ドラえもんで音楽といえば、グレート音痴・ジャイアンの存在は避けては語れないだろう。なのにこの作品ではそこを華麗にスルーしている。ジャイアンがふつうにうまい演奏をしている。おいおい。「ジャイアンは映画のときだけいいやつになる」はもうお約束化してるからいい(原作でもいいやつになるときもあるし)として、ジャイアンがリズムや音程をちゃんととれたらだめだろ。
もっとダメなのがのび太の造形。前半こそ「練習せずにリコーダーが上手になる道具出して~!」といつもののび太なのだが、中盤からは目標に向かってひたむきに努力を重ねる努力家の少年になっている。
脚本家はなーんにもわかってない。のび太は何をやってもダメで、努力もせず、でも欲だけは人並みにあって、そんなダメダメなところをも愛をもって描いたのが『ドラえもん』という作品なんじゃないか。誰もが持っている、ずるくてめんどくさがりで身勝手な部分を、完全にはつきはなさずに愛するのがドラえもんという存在なんだよ。
ほんのちょっと勇気をふりしぼったり、弱い者に対する優しさを見せたり、ごくまれに努力することはあるものの、のび太が継続的な努力をしたらそれはもうのび太じゃない(『のび太の新恐竜』でもこの失敗をやらかしていた)。
前作『のび太と空の理想郷』ではちゃんと『ドラえもん』の通底にあるスタンスを理解して、「ダメな部分を愛そう」というメッセージを発していただけに、今作の「ダメな部分をがんばって克服せよ」というメッセージには失望した。『ドラえもん』をわかってないやつに脚本を書かせちゃだめだよ。
ジャイアンものび太もへただけど、へたでもいいじゃない、へたでも音楽は楽しいよ、という方向こそがドラえもんの精神じゃないか?
そして異なる者への愛の欠落。
本作でノイズを殲滅するためにのび太たちはがんばっていたけど、むしろノイズを認め、ノイズと共存する道を探るのがのび太の生き方じゃないのか。ノイズはノイズで生きてるだけなのに、自分たちに都合が悪いからって殺しちゃっていいの? そういう人間の傲慢な姿勢にずっと警鐘を鳴らしてきたのが『ドラえもん』の漫画であり、映画であったはずなのに。
そもそもノイズを倒すのがのび太の「の」の音ってなんじゃそりゃ。それこそノイズじゃねえか。
『ドラえもん』なのに『ドラえもん』の世界じゃないという致命的な失敗以外にも、いろいろと粗さが目立つ作品だった。
“音楽”というテーマを意識しすぎて、すごく窮屈な作品になっている。「音楽の力で危機を乗り越える」ことが最優先になっている。
こっちはミュージカルを観たいんじゃないんだよ! すばらしい交響曲じゃなくてドラえもんの道具を楽しみに観てるんだよ!
ドラえもんの道具+ちょっぴりのひらめきや勇気で危機を脱するのがドラえもん映画の醍醐味なのに、本作の勝利の決め手は、みんなで一生懸命演奏した音楽+ちょっぴりのひみつ道具である。そういうのは別の作品でやってくれ。
ストーリーもなかなか粗雑だった。
いきなり届く「今夜音楽室に来てください」という雑な招待状(時刻の指定すらなし!)。別々に招待状が届いたのになぜかあたりまえのように集まって、なんの疑いもなく夜の学校に集まる五人。のび太たちを招待したのも「言い伝えと同じく五人で演奏していたから」というめちゃくちゃ雑な理由。五人組なら誰でもよかったわけ? 言い伝えも完全なご都合主義。『のび太の大魔境』では言い伝えの謎がきちんと後半に解き明かされていたのと対照的だ。
ドラえもんの映画といえばとにもかくにも「冒険!」なのだが、今作は冒険ではない。ただ巻き込まれただけだ。だから『月面探査機』や『宇宙小戦争2021』で描かれたような「怖い、でも行かなくちゃ」といった逡巡もない。
そしてへたくそきわまりない伏線。リコーダーを忘れたのび太のために、とりよせバッグでもどこでもドアでもなく、時空間チェンジャーという大がかりな道具でリコーダーを取りにいくドラえもん。あらかじめ日記に「みんなでおふろに入った」とめちゃくちゃ不自然なことを書くのび太。
「さあ、ここが伏線ですよ! 後から回収しますよ!」と言わんばかりの白々しい伏線。
「約4万年前の世界最古の楽器」のくだりは「おおっ、それがキーアイテムとなってストーリーにつながるのか!」とわくわくしたのに、「キーアイテムを真似て作られたのが世界最古の楽器」と、なんとも微妙なつながり。肩透かしを食らった。
ついでにいうと、細かいことだけど、作中で「4万年前のドイツで作られた」と明らかにおかしいセリフが出てくる。は? 4万年前にドイツがあったのか? よそから持ち込まれたのではなくそこで作られたものだとどうしてわかる? 科学に敬意のない人が書いたセリフなんだろうなあ。藤子・F・不二雄氏ならこんなバカなミスはしなかっただろうな。
ミッカの隣にいるチャペックもただの説明役。過去のドラえもん映画では「ゲストキャラクターの隣にいるちょっと抜けたところのあるパートナー」が登場したものだが、そんなユーモラスな部分がチャペックにはない。
また、ヴェントー、モーツェル、タキレンといったロボットたちも、実在の作曲家たちをモデルにしているからか、造詣に冒険心が感じられない。ただただストーリーを進めるためのキャラクターたちだった。
……とまあ、悪口雑言を書き連ねたけど、すごくつまんない映画だったかというとそうでもない。
音楽以外には特に褒めるところもないけど、途中で観るのをやめるほどつまらなかったわけでもない。
最大の失敗は、さっきも書いたように、ドラえもんの映画ではなかったということだけだ。『ドラえもん』のキャラクターが道具を使って活躍する映画を観たいとおもっていた期待を裏切ったこと。
まったく別のキャラクターを作ってやったのならまあまあの映画になったのではないだろうか。
いるんだよね。人気シリーズに乗っかって己のクリエイティビティ(笑止!)を見せつけてやろうとする出しゃばりが。『トイ・ストーリー4』とかさ。
自分らしさを発揮したいのなら自分の作った世界でやりなよ。ドラえもんの世界を利用して表現しないでくれよ。
それならこっちも何も言わないからさ。なぜなら観ないから。
『お料理行進曲』という曲をご存知だろうか。
勇壮な音楽に乗せてコロッケの作り方を歌いあげるふしぎな味わいの曲で、アニメ『キテレツ大百科』のオープニング曲だったので今の中年にはなじみのある歌だ。
テレビでは1番しか流れていなかったのであまり知られていないが、コロッケの作り方を説明した後は長尺の間奏が入り、2番ではナポリタンの作り方が歌われる。
その中に、
という歌詞があるのだが……。
ナポリタンをつくるときにスパゲッティを忘れることなんてある?