2050年1月1日土曜日

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2025年6月23日月曜日

【読書感想文】中野 信子『脳の闇』 / 「好かれやすい」は防衛手段

脳の闇

中野 信子

内容(e-honより)
ブレない人、正しい人と言われたい、他人に認められたい…集団の中で、人は常に承認欲求と無縁ではいられない。ともすれば無意識の情動に流され、あいまいで不安な状態を嫌う脳の仕組みは、深淵にして実にやっかいなのだ―自身の人生と脳科学の知見を通して、現代社会の病理と私たち人間の脳に備わる深い闇を鮮やかに解き明かす。五年にわたる思索のエッセンスを一冊に凝縮した、衝撃の人間論!

 脳科学者が人間の思考についてあれこれとつづった本。

 様々な知見が紹介されてはいるが、研究報告というよりエッセイに近い。

 この人、他の著書を調べると『科学がつきとめた「運のいい人」』『東大卒の女性脳科学者が、金持ち脳のなり方、全部教えます。』とか『エレガントな毒の吐き方 脳科学と京都人に学ぶ「言いにくいことを賢く伝える」技術』とか、どう考えてもまともな学者のものとはおもえないタイトルが並んでいたので、「これはたぶんヤベー学者だな……。だいたいメディアによく出る脳科学者ってろくなやついねえんだよな……」と眉にたっぷり唾をつけてから読んだのだが、エッセイとして読む分にはなかなかおもしろかった。


 ぼくが好感を持ったのは、文章がわかりにくいところだ。

 ぜんぜん論旨が明解でない。あれこれ読んだあげく、「で、結局何が言いたかったのかよくわからない」となることもある。

 でも誠実な文章というのはそういうものだ。断定をしない、判断を避けて結論を保留にする、主張をする場合でも反対側の可能性も残しておく。結果、わかりづらくなる。真実に対して誠実であろうとすればわかりづらくなるのは必然だ。

 声のでかい人が言う「〇〇は正しい! ××はダメだ!」とは真逆の態度だ。


 とても『科学がつきとめた「運のいい人」』『東大卒の女性脳科学者が、金持ち脳のなり方、全部教えます。』を書いたのと同じ人とはおもえない。ほんと、なんであんな本出したんだ。読んでないけど。



 好かれやすい人、について。

 どんな世界のどんな人であっても、人間は自分に興味を持ち、自分の言葉を聞いてくれる人に好意を持つものだ。要するに、この性質を使えばよい、ということになる。
 タイプではなくても心惹かれてしまう人というのが誰しもいた(いる)だろうと思う。
 その人は、おそらく「ああ、この人は私のことを好きに違いない」というサインをどこかで出してきたはずだ。あるいは、それを自分から勘違いしてしまったか。
 そのサインは、あなたにだけは自分の話を打ち明ける、あなたの話だけは面白く聞くことができる、あなたとだけは自分の秘密を共有できるといった関係性を使った方法であったり、あなただけが優れた才能の持ち主、あなただけがこの世界の中にあって美しい、あなただけが本当にすばらしい、となにがしかの特別性を付与する語り掛けをするという方法によって提示されているだろう。
 提示する側は、自分の好意を示すことによって、相手の歓心を得ることができる。けれども、歓心以上のものは特に必要ない場合も多い。このときに、齟齬が起きる。
 相手から、適度な好意だけを得られるのなら、それはバランスがとれているといえる。けれども、本気にさせてしまったときには厄介だ。相手が本気になってしまったときに、それをうまくあしらうことをしないと、面倒なことになりかねない。

(中略)

 私が面白いと感じたのは、この方法をセキュリティとして用いている人間が少なからずいる点である。既存の倫理基準が変わりつつある遷移期、不確実性の時代と言われる現代にあって、法も社会も自分を守ってくれる保証がない。なんなら、自分は虐げられてきた側の人間である、という自覚のある人物にとっては、こういうセキュリティを行動様式として身に着けでもしなければ、本当に死んでしまうかもしれないのだ。
 社会に守られ、そのシステムを信頼して生きてきた人間とは、根本のアーキテクチャが違う。それを互いに、狂っている、あるいは、思慮が足りない、といって貶すのはたやすい。けれども、本当にこの先の世界で必要とされるのはどちらなのだろう。何千年も生きることができたなら、その顛末を見届けてみたいものだと思う。

 好かれすぎる人、というのはいる。こちらが好きではない(どちらかといえば嫌いな)人から行為を向けられやすいタイプ、極端なことを言えばストーカーにつきまとわれやすいタイプだ。

 個人的な印象でいえば女性に多いようにおもう。

 ただ単にすっごい美人、という場合もあるだろうが、「誰にでも愛想がいい」「男性との距離が近い」など、「思わせぶりな態度をとりがちな人」であることも多い。

 だからだろう、ストーカー被害に遭った女性が「気を持たせるような態度をとったあなたも悪いんじゃないの?」と責められる、なんて話も聞く。


 でも、「その気もない相手に対して気を持たせるような態度をとる女性」も、決して相手をなぶって遊んでいるわけではなく、自分を守る手段として「思わせぶりな態度」をとっているのかもしれない。

 周囲(特に異性)から敵意、攻撃性を向けられやすい環境にいた場合、「私はあなたを好きですよ。だから攻撃しないでくださいね。守ってくださいね」というメッセージを発していないと身の安全を保てなかったのかもしれない。

 赤ちゃんがにこにこするのは「私を守ってください」というメッセージを(結果的に)発しているからだ、という話もある。

「気のない人に対して思わせぶりな態度をとる人」が女性に多い(ような気がする)のも、女性のほうが弱い立場に置かれやすく、誰かの庇護を求めることで身を守る必要があるとおもえばうなずける。

 そうだとすると、身を守ろうとする行動がストーカーを招き寄せてしまうこともあるわけで、なんとも皮肉なことだ。



 信用されやすい人、について。

 人間が何かを信じる際、現状では、明確な根拠は必要とされていないように見える。
 ほとんどの人はそこまで解像度よく対象を吟味してはいないし、論理的に判断を下してもいない。一つの判断にそんなに時間をかけていられないのである。
 人は、「大きな体の人」が「大きな声」で「自信たっぷりに話す」ことで、いとも簡単にその人の話を信用してしまうことがわかっている。実際に、心理学の実験で、グループのメンバーにリーダーを選ばせるという実験をしてみると、論理的に話す人ではなく、声が大きくて身体が大きく、確信を持って話す人が選ばれるという結果が出ている。逆に、とりわけ顔が見えるグループの中では、根拠を持って論理的に話す人は、むろ煙たがられる傾向がある。人間は、かくもあいまいで騙されやすい存在なのだ。

 さっきの「わかりづらい文章」の話にも通じるものがある。

 論理的に、科学的に、謙虚にものを語ろうとすれば、どうしても不明瞭な物言いになってしまう。「Aである可能性が高いがBを主張する人もいるしCも完全に否定されたわけではない」のように。

 だがメディアでは「絶対A! それ以外を信じるやつはバカ!」みたいな語り方をする人間のほうが重宝される。どっちが賢いかは考えたらすぐわかるとおもうのだが、それでも人は自信たっぷりの人間の言うことを信じてしまうのだ。




  正しい人、について。

 
 ニューヨーク市立大学バルーク校の研究グループが面白い実験を行っている。
 実験の場としては、マクドナルドの模擬店舗が使われた。研究グループは2種類のメニューリストを用意した。一方にはサラダなど、健康を連想させるメニューが載っている。もう一方には載っていない。客として現れた被験者には、その2種類のメニューリストのうちのいずれかが渡される。
 その結果、サラダが掲載されたメニューリストを受け取った客は、掲載されていないメニューリストを受け取った客よりも、明らかに、最も太りそうなメニュー――ビッグマックを選ぶ人が増加し、その割合は約10%だったものが約50%にもなったという。
 つまり、一緒にサラダを買ったり食べたりするわけでもないのに、ヘルシーさを演出する食べ物の名称がリストに載っていただけで、無意識に最もカロリーの高いメニューを購入してしまった、という人が相当数いたことになる。
 これがどういうことか、わかるだろうか。
 「健康」という、「倫理的に正しい」何かを想像すると、それがなぜか免罪符のような効果を発揮して、人間はより「倫理的に正しくない」行動を取ってしまいやすくなるということ。そして、倫理的に正しい何かというのは、健康だけとは限らないということ。「正義」や「平和」などの概念も同様に、倫理的に正しいと脳が判断する可能性が高く、同じ効果を持ってしまう可能性がある。
 要するに、正義! 平和! 人道! などと連呼する人ほど、怖ろしいともいえる。善意の発露として、残虐な行為を行いかねない。そういう「倫理的に正しい」人は、たくさんの免罪符が貼られた脳を持っているわけで、非人道的な行為を犯すことに微塵もためらいがないのではないかと、私などは真っ先に警戒してしまう。もし戦争が起きたら、善意の身内から殺されてしまう人も少なからず出ることだろう。

 いやほんと、正しい人ほどおそろしいものはないよ。

 ぼくは、駅前で通路をふさぎながら「盲導犬に募金を!」と呼びかけている団体を見たことがある。他方、たとえば路上ミュージシャンなどは通行の邪魔にならないようにしている。通路いっぱいに広がりながら演奏しているミュージシャンなんて見たことない。

 商品の宣伝などをしている車などはそんなに大きな音を出していない(昔はうるさいやつもいたがたぶん規制されたのだろう)。だが選挙カーや政党の街宣車なんかはとんでもなくうるさい音を出している。

「自分は正しいことをやっている」とおもうと、「正しい目的のためなんだからみんなも少しぐらいの不便は我慢しろ」という傲慢な発想になってしまうのだろう。おそろしい。




 うつ傾向について。

  この結果を受け、抑うつ気分は、複雑なタスクを遂行する場合や困難な状況下では、より良い決定を下すのに役立つのではないか、という主張をする研究者もいる。実際に、要求度の高いタスクでより適切な戦略を考えられるのは、こうした被験者だというのだ。例えば、オーストラリアの研究チームの報告では、死とがんについての短編映画を見せられて憂鬱な気分に陥った被験者のほうが、噂話の正確さを判断したり、過去の出来事を思い出したりする課題の成績が良かったという。さらに重要なのは、見ず知らずの人をステレオタイプ的に分類する傾向が大幅に低かったということである。
 つまり、外集団バイアスに対して自覚的であり、それを自省しながら抑えることに成功していた、ということになる。
 うつなどの気分障害は、人生における諸問題を効果的に分析し、対処可能にするという目的のために生まれた、脳に備え付けられた仕組みの一つなのかもしれない。たしかに気分は良くないものだ。けれど、抑うつ状態が存在せず、ストレスもトラウマもなく、自身の問題について深く長く反芻的に思考するという習慣がなければ、人間は、ひとたび自分が困難な状況に置かれたとき、その苦境を脱することが難しくなってしまうのではないだろうか。私たちの現在の繁栄は、ネガティブな抑うつ的反芻によってもたらされたものかもしれないのだ。

 なぜ人間はうつになるのか。うつになると行動力が落ちたり、ひどい場合には自殺をしたりするので、生存・繁殖にとっては不利になる。だったら「うつになりやすい遺伝子」は淘汰されて、常にハッピーな人間ばかりになりそうな気がする。

 だが、抑うつ傾向にもメリットはあるのだ。情報を正確に判断したり、問題の解消方法を考えたりするのには抑うつ状態は有利なのだという。有利な面もあるからこそ、人はうつになる。

 うつ病という言葉もあるが、うつは病気というよりは症状に近いのかもしれない。風邪(病気)と発熱(症状)の関係のようなものだ。身体が熱を出して細菌をやっつけて風邪を治そうとするのと同じように、うつ状態になることによって問題に対処しようとするわけだ。

 うつというと防衛的なイメージがついているが、実は戦闘状態なのかも。


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2025年6月18日水曜日

【読書感想文】段 勲『鍵師の仕事 鍵穴の向こうに見えた12人の人間模様』 / 脱税を逃さない正義のヒーロー

鍵師の仕事

鍵穴の向こうに見えた12人の人間模様

段 勲

内容(e-honより)
マルサの査察で開けた台所の金庫の中身は?ボッタクリバーの金庫の中身は? 広域暴力団の組長から依頼のあった大型耐火金庫の中身は?…鍵師・吉川守夫が見た鍵穴の向こうには、およそ想像もできない世界が広がっていた。人間の欲望がうずまく、鍵穴の向こう側…全12話のエピソードには、現代人の“業”の深さが浮かび上がる。

 凄腕の鍵師から聞いた話をまとめたルポルタージュ。

 本人から聞いた話、さらにそれを小説仕立てにしているので脚色が入っているのかもしれないが、縁遠い世界の話なのでおもしろい。



 この本に登場する吉川さん(仮名)という人はベテランの鍵師で、そのへんの家の鍵なら一分とかからずに開けてしまうらしい。

 こういう人の手にかかれば、鍵をかけていたってかけてないのとほとんど変わらない。おっそろしい話だ。この人はまっとうに働いているからいいけど、中にはこの技能を悪いことに使う輩もいるだろう。狙われたらひとたまりもない。


 吉川さんは日本有数の腕の持ち主なので、「自宅の鍵をなくしたので開けてください」といった依頼だけでなく、様々な依頼が舞い込むのだとか。

 国税局が某社の脱税容疑で強制査察に入り、隠し金庫を発見した。だが肝心の金庫が開かない。閉じた金庫ごと押収し、
「ちょっと開けてくれないか」
 という国税局からの解錠依頼が、知人を通して吉川に飛び込んできたのだ。吉川は当局に急行し、すぐに開けてやった。以来、国税局鍵開けのご用達とばかり、よく仕事の依頼が来るようになった。やがて、東京・豊島区内に鍵屋を開業。昭和五〇年代に入って、さらに、
「どんなカギでも開けられ、しかも信用のできる無口な男」
 との評判が立ち、国税庁に限らず、裁判所、検察庁等、お堅い役所からも解錠の依頼が殺到するようになる。こうした官庁ご用達の鍵師は、都内では推定でざっと二〇人。裁判所からの依頼だけでも吉川は、多いときには月に二〇件を数えたことがあった。裁判所の主な依頼は、執行官に同行し、マンションや金庫を解錠し、財産の差し押さえ等を手伝うもの。なお、国税局からの依頼は、もっぱら強制査察の摘発だった。

 国税査察部、いわゆるマルサの御用達の鍵師なのだそうだ。

 なるほど、よからぬ金を貯めこんでいる人は銀行には預けられないのでたいてい自宅に隠すだろう。そして多額の現金や貴金属を隠すとしたら、金庫の中。金庫が見つかった脱税犯は、「鍵をなくした」「暗証番号を忘れた」と最後の抵抗を試みる。そこで鍵師の出番となるわけだ。


 ぼくは脱税する人間を心から憎んでいる。よくワイドショーやネットニュースでは有名人の不倫や薬物使用が話題になるが、ぼくからしたらどうでもいい。だってどっちもぼくには関係のないことだもの。

 でも脱税はちがう。被害者は国であり、国民だ。つまりぼくも被害者のひとりだ。脱税がなければぼくの税負担はもうちょっと軽かったかもしれないのだ。

 だから脱税を決して逃さないマルサ御用達の鍵師は、正義のヒーローだ。がんばれ!




 鍵をかける場所には大事なものを入れるので、当然鍵師は人間の泥臭い欲望のすぐ近くにいることになる。

 ヤクザの親分の金庫を開けたらとんでもないものが入ってたとか、開かない金庫をめぐって家族間の醜いがくりひろげられるとか、野次馬根性を刺激される話が並ぶ。

 中でも強烈だったのがこの話。

「はい、分かりました。加藤さんですね。お昼ごろまでには行きますから。あ、それと、鍵を開けるのは金庫ですか? それとも車なの?」
「違います……………」
「じゃ、マンションの鍵かなんか?」
「それも違います。実は、ちょっと言いにくいのですが、貞操帯なんです、知ってますか、女がする貞操帯という革のバンド」

 たしかにあれも「大事なものを守るために、鍵をかけて守るもの」だよなあ……。


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2025年6月13日金曜日

【読書感想文】春木 豊『動きが心をつくる 身体心理学への招待』 / 脳はキャプテン

動きが心をつくる

身体心理学への招待

春木 豊

内容(e-honより)
赤ちゃんは周囲の人を自分にひきつけるための反応を生得的に備えて生まれてくる。ひよこの緊急時に発するピーという高い発声に対して、親鳥は敏感に反応する。人間でも赤ちゃんの独特の泣き声は、親を動かす。また大人からみて微笑と見える赤ちゃんの顔面筋肉の反応は、周りの大人にかわいいと思わせるためのものであると考えられている。脳科学ではわからない心と身体の動きとの深~い関係。心身統一のための実践的ボディワークも紹介。

 多くの人は「脳が指令を発して身体を動かしている」とおもっているが、実はそんな単純なものではなく、その逆に「身体の動きが脳を動かしているんですよ」ということを説明している本。

 正直、そのへんのことについては脳科学者の池谷裕二氏の本にも書いてあったので、あまり新鮮味はなかった。「脳が『手を動かそう』と考えはじめる前に既に手は動く準備をしている」とか。

 特に後半の、著者が考案した体操のくだりは蛇足だったな。


 こうした検証実験で気をつけなければならないのは、表情を作ってもらうために、顔面反応をしてもらうときに、この操作が感情の研究であるということを被験者に知られないようにすることである。
 このための工夫として、T・ストラックらが行った方法は、被験者に前歯でペンを噛んでもらうことであった。こうすると口角が横に広がるが、この顔面反応は笑顔のときのものとほぼ同じものとなる。比較のために被験者にペンを唇で押さえてくわえてもらった。このようにして漫画を見てもらったところ、前歯でペンを噛んだ被験者のほうが、唇でくわえた被験者よりもより面白さを感じるという結果が出た。つまり笑顔のときになる口角が横上に広がるという顔面反応が快感情を起こしたということである。
 福原政彦が行った研究も興味深い。この実験では道具を使わず、発音の研究であるということにして、被験者に「イー」(口が横に広がる)という発声と「ムー」(唇がとんがる)という発声をしてもらった。このようにして作られた顔面反応が気分に及ぼす効果を調べたのであるが、快不快の気分に関しては、「イー」のほうが「ムー」よりも快であるとの回答が多かった。緊張弛緩の気分については「イー」のほうが弛緩すると答えている。興奮―沈静については、「イー」のほうが、沈静の気分になるとの答えが多かった。

 はっきりと「笑顔を浮かべる」という意識がなくても、ペンを唇で噛むことで「笑顔と同じような表情になる」だけでも、楽しい気分になるのだ。

 ぼくはこのことを知ってから、自分で「イライラしてるな」とおもうときは、意識的に笑顔をつくるようにしている。イライラしてるからといって顔をしかめていると、余計に嫌な気分になる。だから無理やりにでも笑顔をつくる。


「笑う門には福来たる」ということわざがある。昔の人はえらいものだ。笑うことでハッピーな心持ちになることを知っていたのかもしれない。



 現代人は脳を重要視しすぎだ。

 人体において脳は絶対的な司令塔で、肉体は脳の奴隷だとおもっている。

 でも脳だって肉体の一部だ。独立した存在ではない。サッカーでいうと、脳は監督ではなくキャプテンぐらいのポジションだ。自分もフィールド上で活動しながら、手とか足とかの他のプレイヤーに指示を出している。指示がなくても他のプレイヤー(手足)は勝手に動く。歩くときにいちいち「右足を出そう。次は左膝を曲げて、左足に重心を移しながら左足を前に出して……」などと考えないでも歩けるように。

 また、心臓や胃のように脳からの指示を受け付けずにオートで動くプレイヤーもいる。

 脳はプレイングマネージャーなので、脳が他の部位に指示を出すこともあるし、逆に他の部位の挙動が脳に影響を与えることもある。

 ということで、あんまり脳ばっかりちやほやするのはやめましょう。


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2025年6月9日月曜日

【読書感想文】高野 和明『6時間後に君は死ぬ』 / 特別な人になれなかった私たちへ

6時間後に君は死ぬ

高野 和明

内容(e-honより)
6時間後の死を予言された美緒。他人の未来が見えるという青年・圭史の言葉は真実なのか。美緒は半信半疑のまま、殺人者を探し出そうとするが―刻一刻と迫る運命の瞬間。血も凍るサスペンスから心温まるファンタジーまで、稀代のストーリーテラーが卓抜したアイディアで描き出す、珠玉の連作ミステリー。

 連作ミステリ。

 表題作『6時間後に君は死ぬ』は正直イマイチだった。ミステリ初心者にはちょうどいいのかもしれないけど、ある程度の数を読んできた人には物足りない出来だった。

 未来予知ができるという青年から「6時間後に君は死ぬ」と告げられた女性。彼の予知はどうやら百発百中らしい。彼女のそばにいるのは“いかにも怪しい男”と“彼女を守ってくれそうな男”……。

 はたして、「こうなるだろうな」と予想した通りの展開。ミステリとしてはライトすぎるな……。



 表題作で期待を裏切られたが、その後の作品まで読むと納得のいく出来だった。

『6時間後に君は死ぬ』の他に、おもうような仕事ができずに悩む脚本家が幼い頃の自分に出会う『時の魔法使い』、「この日は恋をしてはいけない」と告げられた女性が恋に落ちた相手の素性を探る『恋をしてはいけない日』、ダンサーを目指す女性が人生の節目節目でデジャヴを感じる『ドールハウスのダンサー』、そして『6時間後に~』で命を救われた女性が再びピンチに陥る『3時間後に僕は死ぬ』。

 いずれも未来予知をテーマにした作品だが、それぞれ切り口が違っていておもしろい。


“百発百中の未来予知”って題材としてはおもしろいけど、物語の中心に据えるには難しいんじゃないだろうか。

 なぜなら、読者は先に結末を知ってしまうわけだから。ある意味先にネタばらしをしている状態だ。結末がわかっている状態でハラハラドキドキさせるには、予言の的中にいたる過程によほど工夫を施さないといけない。その難しいことを、きちんとやっている。

 特に『恋をしてはいけない日』は、予言を的中させつつも見事な“読者への騙し”を入れており、鮮やかな短篇だった。




 好きだったのは『ドールハウスのダンサー』のセリフ。
「ええ。叔母は、何も起こらないのが最高の幸せだと言ってました。長い間生きてきて、ようやくそれが分かったと」
 何も起こらないのが最高の幸せ。
 眉を寄せた美帆に、館長は続けた。「普通の人として生きた実感でしょう。普通、というのは、多くの人がいいと思って選んだからこそ、普通になったんじゃないでしょうか。斯く言う私も、普通の人間ですが」
 年長者の言葉が、美帆にはよく分からなかった。ただ、いつかその意味が分かった時、自分の負った傷も癒やされるような気がした。

 ぼくも若い頃は「世界に名を轟かせる何者か」になりたかった。

 そんな淡い夢はかなわなかった。小説を書いたりしたこともあったけどものにならなかった。

 そして今は会社員としてそんなにめずらしくもない仕事をしており、結婚して二人の娘と暮らしている。お金持ちではないけれど生活に困っているわけでもない。人がおもしろがるような人生ではないけれど、大きな不満もない。そこそこ普通の人生と言ってもいいとおもう。よほど大きな犯罪でもしでかさないかぎり、きっとこの先も普通の人として生きてゆくのだろう。


 “特別な人”になりたくてもなれなかった言い訳になるけど、普通も悪くないとおもう。

 たとえばテレビに出ていっぱいお金を稼いでいる人を見てうらやましい気持ちがないわけじゃないけれど、今の生活を捨ててそんな人生を送りたいかと言われると、それは嫌だ。

 どこへ行っても好奇の目で見られたり、SNSで見ず知らずのやつらから中傷されたり、休みなく働いたりするような生活には耐えられないだろう。

 普通の人として生きることは、得られるものは大きくないが、失うものも少ないということなのだ。


「普通、というのは、多くの人がいいと思って選んだからこそ、普通になったんじゃないでしょうか。」という言葉は、そんな凡人に優しく寄り添ってくれる。

 そう、これがいいとおもって選び取ったからぼくは凡人になれたのだ……ということにしとこう。


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