2050年1月1日土曜日

犬犬工作所について

読書感想文を書いたり、エッセイを書いたりしています(読書感想文 五段)。



読書感想文は随時追加中……

 読書感想文リスト



2024年3月26日火曜日

夫婦喧嘩センサー

 家のリフォームをすることになった。

 妻が
「トイレをこうしたいんだけど」
「床の色とあわせて壁紙をこうしようとおもってて」
「洗濯機を置くスペースはこれが使いやすいかとおもって」
と言ってくるので、

「いいんじゃない」
「どっちでもいいからそれでいいよ」
「まかせるよ」
と答えていた。


 あまりにもぼくが自分の意見を言わないからだろう、
「こうしたい、とかないの?」
と妻に言われた。
(とがめる口調ではない。ただ純粋に訊いた、という感じで)


ぼく 「んー。まったくないわけじゃない。強いて言うならこっちのほうがいいかな、みたいなのはある」

妻  「じゃあそれを言ってほしいな」

ぼく 「えっと……。意見を求められて否定されたら嫌な気持ちになるじゃない。『AとBのどっちがいいとおもう?』って聞かれて、ぼくがじっくり検討して『A』って答えて、なのに結局Bになったら、じゃあ聞くなよって不快な気持ちになる。それだったら最初から自分が関与していないところでBになってるほうがずっといい。だから『最終的な決定権をあなたに預けます。ぜったいに言われた通りにします』という段階で聞いてくるんならいいけど、ひとつの参考意見として聞きたいだけなら、答えたくない」

というようなことを告げた。



 ぼくには、結婚式の準備で妻と喧嘩をした苦い記憶がある。

 結婚にいたるまでに妻とは八年ほど付き合ったが、その間まったくといっていいほど喧嘩をしなかった。はじめての喧嘩が結婚式の準備だ。

 ほんとに些細なことだった。

 結婚式の会場に使うテーブルクロスをどんな色にするか決めなきゃいけなくなった。黄色か紫か。どっちがいいかと訊かれて、「超どうでもいい」とおもいながらも、「どうでもいいよ」と答えちゃいけないとおもい、一応考えて「こっちがいい」と紫を選んだ。

 結婚式で決めなきゃいけないことは山ほどある。その後も、招待状をどうするか、引き出物をどうするか、「司会の人の胸につけるコサージュをどうするか」なんて超絶どうでもいい質問もあった。決断というのはけっこう脳のエネルギーを使うものだ。だんだん疲れてきた。

 そんなとき、妻(になる人)が言った。

「さっきのテーブルクロスだけど、やっぱり黄色がいいな」


 はっきり言って、ぼくからしたらテーブルクロスの色なんかどうでもいい。黄色だろうが紫だろうが、心底どうでもいい。さっきは49.9対50.1の差で紫に決めただけで、黄色がイヤな理由なんてまったくない。

 ただ「一度決めたことを覆そうとしてきた」ことに猛烈に腹が立って「そうやって一回決めたことを再検討してたら永遠に終わらないだろ!」とわりと強めに言った。

 すると妻が「だったらここは私が譲るから新婚旅行の行程はそっちが折れてよ」と言い出し、「いやいや新婚旅行はまったく関係ないし、そもそもテーブルクロスについてはぼくが我を通したわけじゃなくて決定事項を覆すのはおかしいよねって……」


 今書いててもほんとくだらない喧嘩なので、このへんでやめておく。

 ぼくが書きたいのは、どっちが正しいとか、どっちが悪いとかではない。夫婦間の喧嘩になった時点でふたりとも悪いのだ。

 目的は自分の正当性を主張して相手の非を認めさせることではない。世の中にはディベートという“競技”のルールを他のことにも適用できるとおもってるおばかさんがいるが、ぼくはお利巧なので、ディベートの技術など人付き合いには屁のつっぱりにもならないことを知っている。


 つまり何が言いたいかというと、夫婦仲を保つためには「ちょっとでもぶつかりそうな気配を感じたらなるべくそこに近寄らないようにする」技術が必要だということだ。

 そして、自宅のリフォームというのは、そこら中に火薬のにおいが立ち上っている戦場だということだ。自宅のリフォームをするときに、夫婦それぞれが「こうしたい!」という意見を出して、ぶつからないわけがない。

 十年以上も結婚生活を送っていると、そういうセンサーが鋭敏になるね。


【関連記事】

ディベートにおいて必要な能力


2024年3月25日月曜日

風呂の蓋が割れた

 風呂の蓋が割れた。

 うちの風呂の蓋って、海苔巻きをつくるときの巻き簾みたいなタイプ。蛇腹になってて、使わないときはごろごろって転がして丸めて、使うときはごろごろって転がして伸ばして浴槽にかぶせるやつ。


 そいつがまっぷたつに割れた。落とした拍子にちょうど真ん中あたりで割れた。


 で、割れたとはいえぜんぜん使えるからそのまま使ってるんだけど……。


 圧倒的に割れてるほうが使いやすい


んですよ。


 まず軽くなった。あの蓋ってけっこう重いから大人でも両手でよっこいしょって持ち上げなくちゃいけない。小学四年生の娘なんかふらふらになって抱えていた。それが、重さが半分になったことで軽々持ち上げられるようになった。

 それから半身浴をしやすくなった。ぼくは(娘も)お風呂に浸かりながら本を読むことがあるんだけど、今までは蓋を半分だけ丸めて、その上にタオルや本を置いていた。でも丸めてロールケーキみたいになった蓋が邪魔だし、丸めたら元々下側にあったところが外側に来るので濡れてしまう。それが、半分だけ蓋をすることで、乾いた蓋の上を広々と使えるようになった。

 逆に、デメリットは今のところまったくない。割れたことでただ使いやすくなっただけだ。

 あれ? じゃあはじめから半分のサイズ×2でよかったんじゃない?


 半分サイズのお風呂の蓋。これは売れる! とおもって調べたら、すでにありました。というか今はそっちが主流になりつつあるみたい。

 想像だけど、「半分サイズのお風呂の蓋」を開発した人も、たまたま蓋が半分に割れちゃって、こっちのほうが使いやすいじゃない! ってなって商品化したんじゃないかな。


 ほら、よく、失敗から発見や発明から生まれるっていうじゃない。

 トウモロコシのお粥をつくろうとして失敗してパリパリになってしまったことでコーンフレークが誕生したとか。

 ニトログリセリンがこぼれて土と混ざって固まっているのを見たノーベルがダイナマイトを発明したとか。

 つくづく、失敗は発明の母だね。

 タイミングがよければぼくもノーベルになれたにちがいない。


2024年3月22日金曜日

【読書感想文】ポール・A・オフィット『禍いの科学 正義が愚行に変わるとき』 / 科学と宗教は紙一重

禍いの科学

正義が愚行に変わるとき

ポール・A・オフィット(著)  関谷冬華(訳)

内容(e-honより)
科学の革新は常に進歩を意味するわけではない。パンドラが伝説の箱を開けたときに放たれた凶悪な禍いのように、時に致命的な害悪をもたらすこともあるのだ。科学者であり医師でもある著者ポール・オフィットは、人類に破滅的な禍いをもたらした7つの発明について語る。私たちの社会が将来このような過ちを避けるためには、どうすればよいか。これらの物語から教訓を導き出し、今日注目を集めている健康問題(ワクチン接種、電子タバコ、がん検診プログラム、遺伝子組み換え作物)についての主張を検証し、科学が人間の健康と進歩に本当に貢献するための視点を提示する。


 良かれとおもって生み出された科学技術が、多くの人の命や健康を奪った例を集めて紹介する本。

 目次は以下の通り。
「第1章 神の薬アヘン」
「第2章 マーガリンの大誤算」
「第3章 化学肥料から始まった悲劇」
「第4章 人権を蹂躙した優生学」
「第5章 心を壊すロボトミー手術」
「第6章 『沈黙の春』の功罪」
「第7章 ノーベル賞受賞者の蹉跌」
「第8章 過去に学ぶ教訓」




 たとえばアヘン。誰でも知っているいおそろしい麻薬だが、人をダメにするために生みだされたわけではなく、当初は鎮静剤だったそうだ。「ぐずる子供をおとなしくさせるため」などにも使われていたという。

 だが中毒性の高さや健康に及ぼす悪影響が明らかになり、中国のように社会全体にまで深刻な被害を及ぼすようになった(それがアヘン戦争につながったのは世界史で習った通り)。

 アヘンから中毒性をなくし鎮静効果だけを取り出そうとして作られたのがモルヒネやヘロイン、オキシコドンなど。しかしどれも期待していたような結果にはつながらず、中毒性、副作用があることが後に判明する。

 麻薬って「悪いやつが悪いことのために作っている」というイメージがあったけど、少なくとも最初は「人々の役に立つように」とおもって作られているんだね。結局は悪いやつに悪い目的で使われてしまうんだけど。




 また、バターのヘルシーな代用品としてつくられたマーガリンが後に心臓病リスクを高めることがわかったり(最近は心臓病のリスクを高めるトランス脂肪酸の少ないマーガリンも作られているらしい)、空気中の窒素からアンモニアを大量生産できるハーバー・ボッシュ法によって農産物の収穫量が飛躍的にはねあがった一方、土壌から流出した窒素が河川や海を汚したりと、一見いいものとおもわれていたものが後に深刻な被害をもたらす例がいくつも紹介されている。

 知らないうちにトランス脂肪酸を含む不飽和脂肪酸を推進していた消費者団体は、自分たちの活動を悔いた。2004年にCSPIの事務局長はこう述べている。「20年前、私を含めた科学者たちはトランス脂肪酸に害はないと考えていた。後から、そうではなかったことがわかってきた」。1年後、ハーバード大学医学部教授でハーバード大学公衆衛生学部の栄養学科長を務めるウォルター・ウィレットは、『ニューヨーク・タイムズ』紙にこう語った。「多くの人々が専門家の立場からバターの代わりにマーガリンを食べるように勧めてきたし、1980年代に内科医だった私も人々にそうするように告げていた。不幸にも早すぎる死に彼らを追いやってしまったことも少なからずあったはずだ」。

 また、ノーベル化学賞とノーベル平和賞を受賞したライナス・ポーリング(異なる分野のノーベル賞をひとりで受賞したのは現在までこの人ただ一人)はビタミンの大量摂取が健康に良いと唱え、それがむしろ身体に悪いことを示す様々なデータが出た後でもビタミン大量摂取健康法(メガビタミン健康法というそうだ)を主張しつづけた。

 一度「これは健康にいい(or 悪い)」と信じてしまうと、なかなか考えを転向させるのはむずかしいのだ。たとえノーベル賞を二度も受賞するほど賢い人でも。

 いや、賢い人だからこそかもしれない。

 ターリ・シャーロット『事実はなぜ人の意見を変えられないのか』によると、認知能力が優れている人ほど情報を合理化して都合の良いように解釈する能力も高くなるそうだ。賢い人は自分が賢いことを知っており、「自分はまちがっていない。なぜなら~」と過去の判断を正当化するのがうまいんだそうだ。

 ノーベル賞を二度も受賞したら、なかなか「自分はまちがってて他の連中の言うことのほうが正しいのだ」とは認められないだろうね。




 著者は「どんなものにも代償はある」と書いている。すべてのものには良い面もあり、悪い面もある。多くの生命にとって欠かせない水ですら悪い面はある。

「〇〇はいいことずくめ!」という言説を見たら、嘘つきか無知のどっちかだとおもったほうがいいかもしれない。

 もっとも、この本はこの本で、「〇〇はいいと言われていたけど悪かった!」と逆の方向に振れすぎている(いい面を無視しすぎている)きらいがあるけど。




 いちばん興味深かったのは「第6章 『沈黙の春』の功罪」の章。

 1962年にレイチェル・カーソンによって著された『沈黙の春』は世界中でベストセラーになった。農薬の大量使用に警鐘を鳴らしたこの本は環境問題を語る上では避けて通れない一冊となっていて、たしかぼくの学生時代の教科書にも載っていた。

 この本に書かれている内容は(現代科学から見ると誤っているところがあるにせよ)大きな問題があるわけではない。問題は、この本の影響が大きくなりすぎて、「農薬=悪」という単純な考えをする人が増えてしまったことにある。

 その結果、数多くの殺虫剤や農薬の使用が制限された。中でもマラリア予防に効果的だったDDTの使用が世界中で制限された。

 発疹チフスも命にかかわる怖い病気だが、これまでどんな病気よりも数多くの人々の命を奪い、これからも奪い続けようとしている感染症――マラリアとは比べものにならない。ハマダラカに刺され、マラリア原虫が肝臓や血液中に侵入することで感染するマラリアは、高熱、強い悪寒、出血、見当識障害を引き起こし、やがて死に至る。レイチェル・カーソンが『沈黙の春』を出版した1962年の時点で、マラリアを抑え込むための最大の武器はキニーネやクロロキンなどの治療薬でも、蚊よけ網(蚊帳の類い)や沼池の水抜きなどの環境対策でもなかった。マラリアと戦うための、最も効果が高く、最も安上がりな最高の武器は、何といってもDDTだった。散布計画が実施されると、南アフリカのマラリアの患者数は1945年の1177人から1951年には61人に激減し、1940年代半ばに100万人以上の患者がいた台湾は1969年には患者がわずか9人になり、1946年に7万5000人がマラリアに罹患していたイタリアのサルデーニャも1951年には患者が5人になった。
(中略)
 1955年、世界保健総会は、世界保健機関(WHO)にDDTを使用した世界マラリア根絶計画に着手するよう指示した。根絶計画が実行に移された1959年の時点で、すでに300万人以上がDDTにより命を救われていた。1960年までに、マラリアは11カ国で根絶された。マラリアの罹患率が下がるにつれ、平均余命が延び、作物の生産量が増え、土地の価格も上昇して、人々は相対的に豊かになっていった。おそらくWHOの計画によって最も大きな恩恵を享受したのは、1960年に散布が開始されたネパールだろう。当時のネパールでは、200万人以上がマラリアに罹患し、主な患者は子供たちだった。1968年には、患者数は2500人まで減った。マラリア対策が開始される前のネパールの平均寿命は28才だったが、1970年には42才になった。
 蚊が媒介する病気はマラリアばかりではない。DDTにより、黄熱やデング熱の発生も大幅に減少した。さらにDDTは、ネズミに寄生して発疹熱を媒介したり、プレーリードッグやジリスに寄生してペストを媒介したりするノミにも効果があった。これらすべての病気が多くの国で事実上根絶できたことを踏まえて、米国科学アカデミーが1970年に行った試算によれば、DDTは5億人の命を救ったと推定された。DDTは、歴史上のどんな化学薬品よりもたくさんの命を救ったといっても過言ではないだろう。

 『沈黙の春』では、DDTの使用をすべてやめろと主張していたわけではない。過度の使用が生物濃縮や耐性を持つ蚊を誕生させるという警鐘を鳴らしただけだ。

 だが単純な人たちにはそんなことはわからない。「DDTは悪い! 一切使うな!」という声は高まり、DDTは使用が禁止されてしまった。

 環境保護庁が米国でDDTを禁止した1972年以降、5000万人がマラリアで命を落とした。そのほとんどは、5才未満の子供たちだった。『沈黙の春』の影響は、枚挙にいとまがない。
 インドでは、1952年から1962年の間に行われたDDT散布により、年間のマラリア発生件数は1億件から6万件に減少した。しかし、DDTが使用できなくなった1970年代後半には600万件に増加した。
 スリランカでは、DDTを使用する前は280万人がマラリアに罹患していた。散布をやめた1964年には、マラリアにかかった患者はわずか17人だった。その後、DDTを使用できなくなった1968年から1970年の間に、スリランカではマラリアの大流行が発生し、150万人がマラリアに感染した。
 1997年にDDTの使用が禁止された南アフリカでは、マラリア患者は8500人から4万2000人に、マラリアによる死者は22人から320人に増加した。

(レイチェル・カーソンが意図したものではなかったが)結果だけ見れば『沈黙の春』が多くの命を奪うことになってしまった(マラリア患者が増えたのは『沈黙の春』で指摘された通りにDDT耐性を持つ蚊が増えたからだとする説もあるらしい)。




 科学の話に限らず、物事を単純化しようとする人は多い。「〇〇は悪だ!」「△△にすればうまくいく!」「今の状況が悪いのは××のせいだ!」という言説があふれかえっている。

 残念ながら世の中はそんなに単純ではない。物事にはいい面もあれば悪い面もある。人にも組織にも国にも悪い面もあれば悪い面もある。

 でも「〇〇はいいところもあるし悪いところもある。人によってはいい人に映るし、そうとらえない人もいる。正しいこともしたし間違えることもあった」という言説はウケない。


 これを書いている今、大谷翔平選手の通訳が違法ギャンブルに手を染めていて、その資金が大谷選手の口座から送金されていたことが大きなニュースになっている。

 大谷選手が通訳の違法ギャンブルを知っていたのか知らなかったのか、口座から送金したのは誰なのか、大谷選手も罪に問われるのか、そのへんのことは現在(2024/3/22現在)明らかになっていない。とにかく不明瞭だ。

 そんな中「真実はこんなことじゃないかと推測する」とSNSに長文を書いている人がいた。そこまでは別にいい。ぼくが怖いとおもったのは、それに対して「わかりやすい解説だ!」というコメントがたくさんついていたことだ。

 いや、わかりやすいもなにも、それって単なる憶測なんだけど……。

 当人にしか(ひょっとしたら当人にすら)わからないことに対しての“推測”を“わかりやすい解説”だとおもってしまう人がいるのだ。算数の問題じゃないんだから「これがいちばんわかりやすい解説!」があるわけないのに……。

 その“わかりやすい解説”に飛びついてしまう人たちは、わからないものをわからないままにしておくことができないのだ。わからないままにするのって知的に負担のかかることだから。「たったひとつのシンプルな真相」があることにするほうがずっと楽だから。

「真相はわからないから保留」にするのはたいへんだ。脳にストレスがかかる。「応援している大谷選手が犯罪に手を染めていた」という望ましくない可能性も残しておかなくてはならない。それに耐えられない人は「これこそがわかりやすい真相だ!」に飛びついてしまう。正しいかどうかはどうでもいい。


 環境問題も、原発問題も、基地問題も、人権も、平等も、政治も、教育も、すべての人にとって最良な答えがあるわけがない。どの道にもいい面もあれば悪い面もある。

 それぞれを比較して「こっちのほうがより多くの人にとってちょっとだけマシな結果になるようにおもえる。でもその判断も誤っていることが将来的に明らかになる可能性があるから軌道修正する余地を残しておかなくてはならない」とするのが科学的な態度だ。

 はっきりいって、すごくめんどくさい。「未来永劫変わらない普遍的な唯一解」があると信じるほうが楽だ。

 でもそれは科学じゃなくて宗教だ。

 科学と宗教ってぜんぜん違うようで、実はすごく近くにあるものかもね。間違えるのが科学、間違えないのが宗教。「こっちを選べばまちがいない!」なものは科学じゃないです。


【関連記事】

【読書感想文】いい本だからこそ届かない / ターリ・シャーロット『事実はなぜ人の意見を変えられないのか』

【読書感想文】まちがえない人は学べない / マシュー・サイド『失敗の科学』

【読書感想文】マシュー・サイド『多様性の科学 ~画一的で凋落する組織、複数の視点で問題を解決する組織~』 / 多様性だけあっても意味がない



 その他の読書感想文はこちら


2024年3月19日火曜日

【読書感想文】佐々木 実『竹中平蔵 市場と権力  ~「改革」に憑かれた経済学者の肖像~』 / ホラーよりおそろしい

竹中平蔵 市場と権力

「改革」に憑かれた経済学者の肖像

佐々木 実

内容(e-honより)
この国を超格差社会に変えてしまったのはこの男だった!経済学者、国会議員、企業経営者の顔を使い分け、「日本の構造改革」を20年にわたり推し進めてきた“剛腕”竹中平蔵。猛烈な野心と虚実相半ばする人生を、徹底した取材で描き切る、大宅壮一ノンフィクション賞・新潮ドキュメント賞ダブル受賞の評伝。


 何者なんだかよくわからないけど、とにかくネット上ではめったらやったら嫌われている人・竹中平蔵。そのわりに一部の政治家や財界人からはものすごく重用されている(らしい)人。

 ぼくの中では二十数年前に小泉純一郎がやっていた行政改革の旗振り役、のイメージが強い。その後はパソナグループなどで要職をまかされて、ときどき経済系のメディアに出てきて何かしらの提言をしている。そしてそのたびに猛反発を受けている。なんなら「日本を悪くしたA級戦犯」ぐらいに語られることもめずらしくない。もはやヒットラーと並ぶぐらいに「この人の悪口を言っても擁護する人がいない」存在だ。

 でも、竹中平蔵という人が何をしたのか、ぼくはほとんど知らない。どんな人間なのかもまるでわからない。メディアで語っているところは何度か見たことあるが、常に余裕をたたえた笑みを浮かべていて、本心のところで何を考えているのか、何に怒りを感じるのか、何を目指しているのか、そういったところがまるで見えない。

 一言でいえば、得体が知れない人だ。




『竹中平蔵 市場と権力』は、そんな竹中平蔵氏の評伝だ。評伝といっても著者は竹中氏に批判的なスタンス。本人へのインタビューなどもない。過去の言動、著作、そして周囲の人の談話から竹中平蔵という人の姿を描きだす。


 読んでいてまずおもうのは、竹中平蔵という人はすごく優秀な人なんだということ。

 頭が良くて、勤勉で、時流を読むのがうまく、人に取り入るのもうまい。「部下にしたいタイプ」だ。だからこそ小泉政権や安倍政権で重用されたのだろうし、様々な企業でも重要なポストを与えられたのだろう。

 官僚経験のある香西は早くから竹中の資質を見抜いていた。竹中がエコノミスト賞を受賞した際に寄せた祝辞のなかで的確な竹中論を開陳している。
 「研究者としての才能にもう一つ付け加わるのが、『仕掛け人』『オルガナイザー』『エディター』としての腕前ではないだろうか。人のよい私など、氏の巧みな誘いに乗せられて、感心しているあいだに仕事は氏の方でさっさと処理していてくれたという経験が、何度かある。この才能は、あるいは大蔵省で長富現日銀政策委員(筆者注長富祐一郎の当時の役職)などの薫陶をえて、さらに磨きがかかったものかもしれない。これは学者、研究者、評論家には希少資源であり、しかも経済分析が現実との接触を保ちつづけていく上で、貴重な資源である」

 部下にはしたい。が、同僚や上司だったら嫌なタイプだろうなともおもう。

 打算的で、他人に厳しく、権力者にとりいるのはうまいが重要でないとみなした人間に対してはとことん冷酷。目的のためなら他人を貶めることも躊躇しない。そんな印象を受ける。

 コネも権力もないところから己の才覚と努力で成りあがった人で、典型的な新自由主義者タイプだ。

「おれは恵まれない境遇から努力して今の地位を築いた。だからどんな境遇でもやればできる。できないのはやらなかったからだ。今あなたが貧しいのは努力をしなかったからだから、悪い境遇に陥るのもしかたない」というタイプ。謙虚でない成功者に多いタイプだ。

 こういうクレバーな人はビジネスマンとしては優秀だが、弱者への共感が欠けている。「どんなにがんばっても成功できない人」もいるし、「成功した人は運に恵まれていた」ということを認めたがらない。この手の人には政治家にはなってほしくない。というか政治に関わらないでほしい。どうか政治とは距離を置いて、せいぜい金儲けに勤しんでほしい。でもこういう人ほど政治に近づきたくなるんだよね。そっちのほうが儲かるから。努力をするよりもルールをねじまげちゃうほうがずっと楽だから。




 竹中平蔵という人は、よく言えば目端が利く人、悪く言えば小ずるい人である。

 シンクタンクにかかわる以前から、資産形成に対する努力には並々ならぬものがあった。九〇年代前半、アメリカと日本を股にかけて生活していた四年間、竹中は住民税を支払っていなかった。
 地方自治体は市民税や都道府県税といった地方税を、一月一日時点で住民登録している住民から徴収する。したがって、一月一日時点でどこにも住民登録されていなければ、住民税は支払わなくて済む。
 竹中はここに目をつけ、住民登録を抹消しては再登録する操作を繰り返した。一月日時点で住民登録が抹消されていれば、住民税を払わなくて済むからである。小泉内閣の閣僚になってから、住民税不払いが脱税にあたるのではないかと国会でも追及された。アメリカでも生活していたから脱税とはいえないけれども、しかし、住民税回避のために住民登録の抹消と再登録を繰り返す手法はきわめて異例だ。

『竹中平蔵 市場と権力』ではこの手のエピソードが何度も紹介されている。

 法律では裁かれないけど、決して公正とは言えない行為。そういうことをためらいなくできちゃう人なのだ。

 ことわっておくが、こういう人は決してめずらしくない。世の中にはたくさんいる。

「無料でどうぞと書いてあったから使う分以上に持って帰った」
「デパートの試食コーナーをうろうろして買う気もないのにおなかをふくらます」
「国会議員に毎月100万円支給される文通費は領収書不要なので生活費に使う」
「官房機密費は使い道を明らかにしなくていいから票を買うのに使う」
みたいな小悪党のマインドだ。いわゆるフリーライダー。

 こういうあさましい気持ちは、おそらく誰の心の中にも多かれ少なかれ存在する。もちろんぼくだって「払わなくて済むなら払いたくない」という気持ちは持っている。ふるさと納税なんて制度自体がそういう制度だ。

 ただ、竹中平蔵という人はその気持ちが人より強く、さらにばれても「法的には(ぎりぎり)裁けないじゃないか」と開き直れる人なのだ。さらに発言をひっくりかえすことにもためらいがない。

 くりかえし書くが、こういう人はめずらしくない。どこの町にもどこの職場にもいる。近くにいたら「あの人ちょっと厚かましいよね」ぐらいの存在だ。


 問題は、その人がふつうの人よりずっと賢く、ずっと権力者にとりいるのがうまく、ずっと野心的で、大きな権力を手にしてしまったことだ。

「ちょっと厚かましいおじさん」に権力を渡してしまったら、国中の貧富の差が大きく拡大し、多くの人が首をくくるような社会になってしまった。そんな感じだ。つくづく政治というのはおそろしい。




 竹中さんという人は、ほれぼれするほど世渡りがうまい。スネ夫もかなわないほど。

 森政権末期、竹中は森首相のブレーンの立場を確保しながら、次期首相候補の小泉に接近し、一方では、最大野党の党首である鳩山とコンタクトをとっていた。政局がどう転んでも、政権中枢とのパイプを維持できる態勢を整えていた。小泉政権発足とともに入閣した竹中は、小泉の「サプライズ人事」で突然登場してきた「学者大臣」という受けとめ方をされたけれども、実態は違っていたのである。

 森喜朗が首相だったとき、森首相のブレーンでありながら、次期首相と名高い小泉純一郎に近づき、さらに政権交代した場合にそなえて民主党の鳩山由紀夫にも接近していた。すごい。誰が政権をとってもそこに食い込む計算になっていたわけだ。

 節操がないけど、この節操のなさこそが最大の武器なんだろうな。




 以前、橋下徹『政権奪取論 強い野党の作り方』という本を読んで、橋下徹という政治家の、思想のなさに驚いた。

 彼はその本でこう書いていた。

 インテリ層たちは政党とは「政策だ」「理念だ」「思想だ」と言うけれども、そうではなくて、極論を言えば各メンバーの意見をまとめる力を持つ「器」でありさえすればよい。野党としては、政権与党に緊張をもたらすためのもう一つの「器」であることが大事なのであって、器の中身つまり政策・理念・思想などは、各政党が一生懸命、国民の多様なニーズをすくい上げて詰めていくものだと思う。つまり政党で死命を決するほど重要なのは組織だ。はじめから政策・理念などを完全に整理する必要はない。

 思想や理念は二の次で、まずは組織を固めて政権をとることだと書いている。「こうしたい」「こんな世の中にはなってほしくない」というビジョンがあってそのために政治家を目指すものかとおもっていたが、彼は逆で、まず権力を手に入れてからそれをどう行使するかを考える。

 その空虚さに良くも悪くも空恐ろしさを感じたものだが、竹中平蔵という人は橋下徹とはまたべつのタイプのおそろしさがある。

 政治家としての思想は軽薄でも、橋下徹という人物には人間味がある。好き嫌いが激しいし、ユーモアもある。反論されてむきになりやすいのは弱点でもあるが、その欠点こそが彼の魅力でもある。言ってみれば子どもっぽい。だからこそテレビでも登用されるのだろう。ぼくも、政策的にはまったく賛同できないが、テレビタレントとしての橋下徹はけっこう好きだ。


 その点、竹中平蔵氏は橋下徹の子どもっぽさを取り除いたような成熟した恐ろしさがある(童顔だから余計にギャップが大きくて怖い)。

 もっと冷徹に、もっとしたたかに、どれだけ時間をかけてもじっくりチャンスを待つタイプ。

 行動の目的も、「金持ちになりたい」とか「名を残したい」とかのわかりやすいものではない気がする。もちろん「国や地域をよくしたい」ではない。何かもっと大きな目的のために動いてる、いや動かされてるんじゃないか、という気さえしてくる。権力は好きだけど、それ自体が目的というわけでもなさそうだし(大臣にまでなったのに政治家の道をあっさり捨ててしまうところとか)。

 ぜんぜん根拠はないけど、何かに対する恨みとか憎悪が根底にあるのかな……。とにかく、説明のしようのない恐ろしさが終始漂ってるんだよね。竹中平蔵氏の行動には。




 竹中平蔵という人物のことがわかるようになるかとおもってこの本を読んでみたけど、結局よくわからなかった。むしろ底知れなさは深まったかもしれない。ま、ぼくの経済の知識が乏しくて専門的な話がまるでわからなかったってのもあるけど。

 なんかへたなホラーよりこわかったな。じんわりと。


【関連記事】

【読書感想文】からっぽであるがゆえの凄み / 橋下 徹『政権奪取論 強い野党の作り方』

【読書感想文】歴史の教科書を読んでいるよう / 辻井 喬『茜色の空 哲人政治家・大平正芳の生涯』



 その他の読書感想文はこちら