2022年11月30日水曜日

【コント】麺のかたさ

「麺の硬さ、かため、ふつう、やわらかめと選べますけど」

「かためで」

「あと接客態度もかため、ふつう、やわらかめの中から選べますけど

「なにそれ。そんなのあんの。じゃあおもしろそうだから、かためで」

「本日は数ある飲食店の中から当店をご選択いただき誠にありがとうございます。お客様の一生の思い出になるべく、従業員一同……」

「かたいな! ラーメン屋とはおもえないかたさだ。やっぱりやわらかめにして」

「ちょっと山ちゃん、ずいぶんごぶさたじゃなーい。きれいな女の子がいる他のお店に浮気してたんじゃないのー?」

「うわ、いきつけのスナックの距離感! こういうの苦手だわ、やっぱりふつうで」

「うちの店は黙ってラーメンを食う店だ。おしゃべりは禁止、撮影も禁止、スマホは電源食ってくれ。おれのやりかたが気に入らないやつは今すぐ出てってくれ」

「それがふつうなのかよ。こんなのいやだ、やっぱりかために戻して!」

「……」

「すみませーん!」

「……」

「おーい! 聞こえてるでしょー!!」

「……」

「普通じゃなくて不通じゃないか!」



2022年11月29日火曜日

【読書感想文】特掃隊長『特殊清掃 死体と向き合った男の20年の記録』 / 自宅で死にたくなくなる本

特殊清掃

死体と向き合った男の20年の記録

特掃隊長

内容(e-honより)
人気ブログ『特殊清掃「戦う男たち」』から生まれた書籍が携書となって登場!「特殊清掃」とは、遺体痕処理から不用品撤去・遺品処理・ゴミ部屋清掃・消臭・消毒・害虫駆除まで行う作業のこと。通常の清掃業者では対応できない業務をメインに活動する著者が、孤立死や自殺が増え続けるこの時代にあって、その凄惨な現場の後始末をするなかで見た「死」と、その向こう側に見えてくる「生」のさまざまな形。


「特殊清掃」とは、主に孤独死した遺体が見つかった現場で清掃をする仕事のこと。その特殊清掃(特掃)に従事している著者のブログ記事をまとめたもの。

 ぼくが実際に見たことのある遺体は祖父母のものだけ。病院で息を引き取り、ちゃんと死化粧してもらっていたので、まるで人形のようなきれいな遺体だった。

 だが実際の死はそんなきれいなものばかりではない。孤独死して誰にも気づかれないと、遺体は腐る。聞くところによると、とんでもない悪臭が発生するという。おまけに遺体は腐敗し、虫が集まってくる。とんでもなく凄惨な現場になるだろうというのは想像がつく。

 ……とはおもっていたのだが、想像を超えてくる内容だった。

 腐呂の特掃には一定の手法がある。
 汗と涙と試行錯誤の末に導き出された、私なりのやり方があるのだ。だから、いまは、特掃をはじめたころの悪戦苦闘ぶりと比べればずいぶんとスマートにできるようになった。そうはいっても、その過酷さは特掃のなかでもハイレベル。
 手や腕はもちろん、身体はハンパじゃなく汚れるし、作業中に気持ちがくじけそうになることも何度となくある。そして、悪臭なんかは、身体のなかに染み込んでいるんじゃないかと思うくらいに付着する。心を苦悩まみれにし、身体を汚物まみれにしてこその汚腐呂特掃なのだ。

「ん? なんだ?」
 作業も終盤になり、浴槽内のドロドロもだいぶ少なくなってきたころ、底の方に銀色に光るものが見えてきた。
「は? 歯?」
 指で摘み上げてみると、それは白く細長い人間の歯だった。
 それには銀色の治療痕があり、故人が、間違いなく生きた人間であったことをリアルに伝えてきた。

「うあ! こんなにある」
 よく見ると、銀色の歯は浴槽の底に散在。手で探してみると、次から次へと出てきた。その数は、遺体の腐敗がかなり進んでいたことを物語っていた。

 おおお。

 浴槽の底に歯が溜まるということは、身体はどれだけ溶けているのか……。ほとんどゼリー状になっているということだろう。人体がゼリー状に溶けた風呂の水……。どれほどの悪臭を放つのか想像すらできない。

 家の中での死は風呂場での死が多いという。転倒事故や、血圧の変化によるショック死のせいで。ひとり暮らしで浴槽で死に、そのまま長期間気づかれないと、こんなことになってしまうのか……。風呂に入るのがおそろしくなるな。




 よく「自宅の布団の上で死にたい」という言葉を耳にする。

 しかし、特殊清掃の仕事について知れば、そうも言っていられなくなる。

「死ぬことは怖くないけれど、長患いして苦しむのはイヤだね」
「そうですね……」
 望み通り、長思いもせず住み慣れた我が家でポックリ逝くことは、本人にとってはいいかもしれない。しかし、場合によっては残された人が長患いしてしまう可能性がある。
「〝部屋でポックリ死にたい〟なんて、気持ちはわかるけどお勧めはできないよなぁ……」
 内心、私はそう思った。

 男性の頭には、死んだ人の身体がどうなっていくかなんて、まったくないみたいだった。そして、男性同様、一般の人も、自分が死んだ後に残る身体については、あまり深くは考えないのかもしれない。せいぜい、〝最期はなにを着せてもらおうかな?〟などと考えるくらい。あとは、〝遺骨はどうしようか〟などと思うくらいか。やはり、自分の身体が腐っていく状況を想定している人は少ないだろう。だから、自宅でポックリ逝くことを安易に(?)望むのかもしれない。その志向自体が悪いわけではないが、残念ながら、現実はそう簡単でなかったりするのだ。

 家族と同居していて、死んでもすぐに発見してもらえるのであれば、自宅で死ぬのあ幸せかもしれない。しかし、孤独死して、誰にも気づかれず、腐り、ウジが湧き、悪臭を放つことを考えれば、とても自宅での死がいいとは言えない。いくら死んだら意識はないとはいえ、やっぱり死んだ後に己の身体が腐るのは嫌だ。掃除をする人にも申し訳ないし。




 ぼくはわりと死に対してはドライなところがあって、死ぬこと自体はそんなに怖くない。特に子どもが生まれてからは「もう生物としての役目は果たしたのでいつ死んでもあきらめはつくかな」という心境になった。生命保険にも入ってるし。

 仮に余命一ヶ月を宣告されても、それなりに落ち着いて死ねるんじゃないか、とおもっている。まあ実際そうなったらめちゃくちゃうろたえるのかもしれないけど。

 その代わり、子どもの死が怖くなった。考えたくないけど、ついつい考えてしまう。特に娘が赤ちゃんの頃は毎日びくびくしていた。落っことしただけで死んでしまいそうな、あまりにかよわい生き物と暮らすのはなかなかおそろしい。自分の余命一ヶ月は「そんなものか」と受け入れられるかもしれないが、子どもの余命一ヶ月はとても平静ではいられないだろう。

 自分の子だけでなく、よその子、さらには見ず知らずの子ですら死はつらい。子どもが自己や事件で死ぬニュースを見ると、気持ちが落ち着かない。たぶんぼくだけではないのだろう、特に子どもの死に関するニュースは人々の反応も過剰になっている。


 何か特別なことがない限り、納棺式には遺族が立ち会うことがほとんど。なのに、この男児の家族は誰も来なかった。
 それでも私は「冷たい家族だ」なんて思わなかった。
 亡くなった子どもに対して愛情がないから来ないのではないことを、痛いほど感じたからだ。
 遺体のかたわらに置かれた山ほどのオモチャやお菓子が、両親の想いを代弁しているようでもあった。

 具体的な事情を知る由もない私は、黙々と仕事をするしかなかった。
 両親がこの場に来ることができない理由を考えると切なかった。

 両親は、我が子の死が受け入れ難く、とても遺体を見ることができなかったのかも……。
 温かみをもって動いていた息子が、死を境に冷たく硬直していったことを、頭が理解しても心が理解しなかったのかも……。
 我が子を手厚く葬ってやりたい気持ちと、その死を認めざるを得ない恐怖とを戦わせていたのかもしれなかった。
 他人の私には、胸を引き裂かれたに値する両親の喪失感を計り知ることはできなかったが、単なる同情を越えた胸の痛みを覚えた。

「他人の不幸を蜜の味とし、他人の幸せを妬ましく思う」
 私という汚物は、そんな心の影を持っている。
「他人の不幸を真に気の毒に思わず、他人の幸せを真に喜ばず」
 それが、私の本性なのだ。

 しかし、他人の喜びを自分の喜びとし、他人の悲しみを自分の悲しみとするような人間に憧れもある。ほんの少しでいい、死ぬまでにはそんな人間になってみたいと思う。

 もし自分だったら。冷たくなった我が子に向き合えるだろうか。遺体を目の前にして死を受けいれられるだろうか。

 自分の死は「受けいれられるだろうな」とおもうぼくでも、イエスと答える自信はない。




 清掃作業についてそこまで克明に描写しているわけではないが、とんでもなくハードな仕事だということは容易に想像がつく。給料がいくらかは知らないが「いくらもらってもやりたくない」という人が大多数だろう。

 そんな中、著者はさすがプロだけあって、できるだけ感情を抑えながら特殊清掃という仕事に取り組んでいる様子がこの本からうかがえる。

 そんな著者が、めずらしく取り乱した状況。

 何枚かあった写真を一枚一枚顔に近づけて、何度も何度も見直した。
なんと、写真に写っていた人物は、私が見知った人だった!

 いきなり、心臓がバクバクしはじめて、「まさか! 人違いだろ!?」「人違いであってくれ!」と思いながら夢中で名前を確認できるものを探した。
 氏名はすぐに判明し、力が抜けた。残念ながら、やはり故人はその人だった。
 心臓の鼓動は不規則になり、呼吸するのも苦しく感じるくらいに気が動転した!

 故人とは、二人で遊ぶほどの親しい間柄ではなかったが、あることを通じて知り合い、複数の人を交えて何度か飲食したり話をする機会があった。見積り時は、縁が切れてからすでに何年も経っていたが、関わりがあった当時のことが昨日のことにように甦ってきた。

 彼は当時、かなり羽振りがよさそうにしていて、高級外車に乗っていた。
 高級住宅街に住んでいることも自慢していた。
 自慢話が多い人で、自分の能力にも生き様にも自信満々。
 かなりの年齢差があったので軽く扱われるのは仕方がなかったけれど、正直言うとあま好きなタイプの人物ではなかった。
 しかし、「(経済的・社会的に)自分もいつかはこういう風になりたいもんだなぁ」と羨ましくも思っていた。

 その人が、首を吊って自殺した。  そして、目の前にはその人の腐乱痕が広がり、ウジは這い回りハエは飛び交っている。
 自分がいままで持っていた価値観の一つが崩れた瞬間でもあった。
 しかも、よりによってその後始末に自分が来ているなんて……。気分的にはとっとと逃げ出して、この現実を忘れたかった。
 身体に力が入らないまま、とりあえず見積り作業を済ませて、そそくさと現場を離れた。
 そのときの私は、「この仕事は、やりたくない……」と思っていた。

 数々の凄惨な遺体を見てきたプロでも、やはり生前の姿を知っている人の遺体はまた別のようだ。好きじゃない人であっても。

 聞くところによれば、外科医は決して自分の身内の手術は担当しないという。百戦錬磨の名医でも、身内に対しては冷静でいられないそうだ。


 遺体ってなんだろうね。

 心は脳にあって、身体は代えの利く物体。理屈としてはそうでも、やはり人間は知人の身体を「物体」とはおもえないらしい。たとえとっくに死んでいても。

 ニュースで、戦死した人、震災で行方不明になった人、拉致被害者などの「遺骨を見つけて遺族が喜ぶ」という報道を見る。もちろん生きているほうがいいから喜ぶというのは適切な表現ではないかもしれないけど、残された身内の心境としては「生きている > 死んでいて遺骨が見つかる > 死んでいて遺骨も見つからない」なのだろう。

 ここでも、遺体はただの物体ではない。


 星新一の短篇に『死体ばんざい』という作品がある。それぞれの事情で死体を欲する人たちが、一体の死体の争奪戦をくりひろげるというブラックユーモアに満ちた小説だ。あの小説を読んで楽しめるのは、それが「誰なのかわからない」死体だからだ(最後には明らかになるが)。キャラクターのある死体であれば、嫌悪感のほうが強くてとても楽しめないだろう。

 人間にとって「知っている人の死体」と「知らない人の死体」はまったく別物のようだ。


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2022年11月28日月曜日

【読書感想文】鈴木 仁志『司法占領』 / 弁護士業界の裏話

司法占領

鈴木 仁志

内容(e-honより)
二〇二〇年代の日本。経済制圧に続き司法の世界も容赦なく、アメリカン・スタンダード一色に塗りつぶされてしまった。利益追求型の米資本法律事務所には正義は不要。司法の“主権”さえも失った日本は、もう日本ではなくなっていた。実力現役弁護士が、迫り来る司法の危機を生々しく描いたリーガルサスペンス。

 弁護士である著者が、弁護士業界を舞台に書いた小説。小説の舞台は2020年だが、刊行された当時は「近未来小説」として書かれたわけだ。今では過去になってしまったけど。


 はっきり言ってしまうと、小説としてはうまくない。文章も、構成も、人物造形も、これといって目を惹くものはない。特に第一章『ロースクール』に関しては丸々なくても成立していて(おまけにこの章の主人公である教授はその後ほとんど登場しない)、蛇足といってもいい。

 書かれていることも、ロースクール生の退廃、外資ローファームの日本での暗躍、社内での悪質なパワハラやセクハラ、弁護士の就職難、仕事に困った弁護士が悪事に手を染める様など、あれこれ書きすぎて散漫な印象を受ける。終わってみれば平凡な完全懲悪ものだったし。


 とはいえ、小説としてのうまさははなから期待していないのでそんなことはどうでもいい。こっちが読みたいのは業界暴露話なのだから。

「弁護士業界の裏側をのぞき見したい」という下世話な期待には、ちゃんと応えてくれる小説だった。

(できることなら小説じゃなくてノンフィクションとして書いてくれたほうがおもしろく読めたんだけど、フィクションを織り交ぜないと書きにくいこともあったんだろうね)




 2000年頃、日本の弁護士の数は大きく増えた。ロースクール(法科大学院)ができたのがちょうどぼくが大学生の頃で、周りにもロースクールを目指す知人がいた。これからは弁護士になりやすくなるぜ、と意気揚々としていたが、彼がその後弁護士になれたのかは知らない。ただ、弁護士の数が増えるということは一人あたりの案件は減るわけで、そう楽な道ではなかっただろう。とりわけ若手弁護士にとっては。

「一九九〇年代まで年間五百人程度だった司法試験の合格者が、二〇一〇年には三千人になってる」
「随分とまた極端ですよね」
「そうだろう。一体誰がこんな急激な増員を推し進めたと思う?」
「……」
「裏を返せば、誰がこの大増員で一番得をしたか」
「誰が一番得をしたか……。教科書的には、市民のアクセス確保のための増員ということになってますよね」
「そう。しかしね、二〇〇〇年当時、一般市民の間で『弁護士を増やしてくれ』なんていう世論が湧き上がったことは一度もなかったんだよ。選挙の争点になったこともなければ、草の根運動が起こったこともない。たまにマスコミが煽ってもほとんど反応はなかった。一般市民はね、裁判や弁護士なんて一生関わらないと思ってる人がほとんどだったんで、本当のところ、そんなに大きな関心を寄せてはいなかったんだな」

(中略)

「企業側としては、弁護士を増やすことより、社員法務スタッフを増やして、身内に『予防法務』や『リーガル・リスク・マネジメント』を行わせることこそが重要と考えていた。弁護士が巷に溢れて事件屋まがいの行動を起こすことは、逆にリーガル・リスクの典型として警戒してたんだな。要するに、経済界全体としては、弁護士の大量生産なんか積極的に望んではいなかったというわけだ」
「……」
「市民でもなく、経済界でもない。裁判所も法務省も、若手獲得のための漸次増員は主張していたが、極端な大増員には慎重論。弁護士会も一九九〇年代中頃までは大反対。それじゃ、弁護士の大量生産を強力に推し進めたのは一体誰なんだ?」
「……」
「一九九〇年代、司法の規制緩和を執拗にわが国に要求していたのは、アメリカだ。そして、弁護士大増員論が一気に本格化したのは一九九九年。その直前の一九九八年十月に、アメリカ政府は、『対日規制撤廃要求』のひとつとして、日本政府に『弁護士増員要求』をはっきりと突きつけてきている。これが偶然に見えるか?」

 ほとんどの人は、弁護士が増えることなど望んでいなかった。大半の市民にとっては弁護士のお世話になることなんて一生に一度あるかないかだったし、それは今でも変わっていない。

 調べてみたところ民事裁判の数は増えているどころか、20年前の半分以下に減っているそうだ。裁判だけが弁護士の仕事ではないとはいえ、裁判が減っていれば仕事の量も減っているのではないだろうか。

 仕事は減っている、けれど弁護士の数は大きく増えている。どうなるか。価格競争が起き、食いっぱぐれる弁護士が増え、中には良くない仕事に手を染める弁護士も出てくる。


「はあ」
「あのね、東京には弁護士なんか掃いて捨てるほどいますからね。仕事にありつくためには、事件を追っかけるか作るかしかないんですよ」
「作る?」
「そう」
「作るって、どうやって……」
「不安を煽ったり、喧嘩をけしかけたり、まあいろいろとね」
「あの、弁護士業って、争いを解決する仕事じゃないんですか?」
「そういう古い発想は早く捨てたほうがいいですよ。じゃないと、いつまで経っても勝ち組には入れないよ」
「勝ち組……」
「争いの芽を掘り起こして、丸く収まりかかっている案件をなんとか紛争にまで高めていくと。そうでもしなきゃ、とてもじゃないけど、安定した収入は得られないですよ」
「……」
「こんなこと、アメリカじゃ何十年も前から常識なんだけどね。日本はまだまだ遅れてるから……」

 ここまで露骨ではないけど、(最近は減ったが)少し前は電車内の広告が弁護士だらけだったことを考えると、これに近い状況は現実に起こっているんだろうな、とおもう。

 過払い金請求とか残業代請求とか、実際に弱者救済になっている部分もあるんだろうけど、とはいえあそこまで派手に広告出したりCM打ったりしているのを見ると、それだけじゃないんだろうなともおもう。


 つくづく、「困ったときに助けてくれる仕事」って需要以上に増やしちゃいけないんだろうなとおもう。医師も不足してるって言ってるけど、医師国家試験合格者の数を急に増やしたら、医療のほうもこんな感じになっちゃうんだろうな。

 病気でもなくて特に医療の必要性を感じていない人のところに「あなたこのままじゃ危ないですよ。この医療を受けたほうがいいですよ」って医者が言いに来る世の中。おお、ぞっとするぜ。


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2022年11月25日金曜日

【読書感想文】岸本 佐知子『死ぬまでに行きたい海』 / ぼくにとっての世田谷代田

死ぬまでに行きたい海

岸本 佐知子

内容(e-honより)
焚火の思い出、猫の行方、不遇な駅、魅かれる山、夏の終わり―。“鬼”がつくほどの出不精を自認する著者が、それでも気になるあれこれに誘われて、気の向くままに出かけて綴った22篇。行く先々で出会う風景と脳裏をよぎる記憶があざやかに交錯する、新しくてどこか懐かしい見聞録。


 〝鬼〟がつくほどの出不精を自称する著者が、かねてより行きたかった場所に行ってみた体験をつづったエッセイ。

 といってもそこはさすが岸本さん、有名観光地や名刹古刹でもなければ、おもしろスポットでもない。「過去に働いていた会社があった街」だったり「かつて住んでいたけど嫌な思い出ばかりの土地」だったりで、岸本さん本人以外にとってはかなりどうでもいい場所だ。

 必然的に岸本さんが過ごした東京近郊が多く、この本に載っている目的地のうち、関西で生まれ育ったぼくが行ったことがあるのは丹波篠山だけだ。

 でも、行ったことのない土地の話ばかりなのに、このエッセイを読んでいてなんだか妙になつかしさを感じた。それは「岸本さんにとっての印象的な土地」のようなものがぼくにもあるからだ。忘れていた記憶を刺激してくれる文章。




 たとえばこの本で紹介されている「YRP野比駅」。京浜急行の駅だ。

 岸本さんは、この駅のことをまったくといっていいほど知らない。過去に行ったこともない。けれど気になる。なぜなら、変わった駅名だからだ。

 その独特の名前からあれこれ妄想をくりひろげる岸本さん。そしてついにその駅に降りたつ。「変な名前の駅の周辺には変な世界が広がっているのではないか」という妄想を確かめるため。


 ぼくにとってのYRP野比駅は、〝京コンピュータ前 神戸どうぶつ王国駅〟だ。

 この駅はずいぶん数奇な運命をたどっており、2006年に「ポートアイランド南駅」として誕生して以来、

 「ポートアイランド南」
→「ポートアイランド南 花鳥園前」
→「京コンピュータ前」
→「京コンピュータ前 神戸どうぶつ王国」
→「計算科学センター 神戸どうぶつ王国・「富岳」前」

と、めまぐるしく駅名を変更されている。たった15年で5回も新しい名前をつけられた駅はそうあるまい。

 ぼくが行ったのは、「京コンピュータ前 神戸どうぶつ王国駅」時代だった。仕事で近くに行く用事があり、ついでに寄ってみたのだ。なぜなら変な名前だったから。

 京コンピュータという未来っぽさと、神戸どうぶつ王国というレトロ感。そのアンバランスさがなんとも興味をそそった。マザーコンピュータが動物たちを操縦して人間たちに叛逆を企てる王国を建国、それが「京コンピュータ前 神戸どうぶつ王国駅」。そんな想像もふくらんだ。

 だが行ってみると「京コンピュータ前 神戸どうぶつ王国駅」には、駅前に閑散とした小さい動植物園がある以外は何にもない駅だった。大きなオフィスや研究施設が点在していて、通りには誰も歩いていない。住宅もなければ飲食店もない。コンビニすらない。そのあまりに無機質な感じが未来っぽくて最初はおもしろかったのだが、二分も歩くとすぐに飽きてしまった。だって何もないんだもの。

 こういうのは、じっさいに行ってみるんじゃなくて、心の中で「いつか行ってみたい」とおもうぐらいが楽しいのかもしれない。


 ぼくが気になる地名は、奈良県の「京終(きょうばて)」と滋賀県の「朽木村(くつきむら)」と和歌山県の「すさみ町」だ。どれも行ったことがないが、終末感が漂っていて味わい深い。

 京が終わると書いて京終。平城京のはずれにあったからだそうだ。しかし「終」が含まれる地名は全国でも相当めずらしいんじゃないだろうか。世界の終わりみたいな感じがする。

 朽木村のほうは平成の大合併により今は存在しない。昔、バス停で「朽木村行き」という案内を見つけ、就活で疲れていたこともあり、おもわず飛び乗ってしまいそうになった。金田一耕助の事件の舞台になりそうな名前だ、朽木村。あのときバスに飛び乗っていたら殺人事件に巻きこまれて帰らぬ人となっていたかもしれない。

 すさみ町もネーミングがいい。てっきり「人々の生活が荒(すさ)んでいるからすさみ町」かとおもったら、そうではなく(あたりまえか)由来は周参見という地名らしい。だったら漢字のままでいいのに、なぜわざわざひらがなにしてしまうのか。さらにすさみ町には「ソビエト」と呼ばれる小島がある。地元の人が「ソビエト」と呼んでいるそうだが、なぜそう呼ばれるようになったかは不明らしく、なんとも気になる存在だ。誰か、すさみ町のソビエトの由来を解き明かすSF小説を書いてくれ。




 特に共感したのは「世田谷代田」の章だ。
 世田谷代田は小田急線いち不遇な駅だ。
 新宿から見て下北沢の一つ先、急行にも準急にも素通りされる、各駅停車しか停まらない小さな駅。
 小田急線の駅は十年くらい前から徐々に地下化が進んで改装されたが、ほかの駅がつぎつぎきれいになるなか、なぜか世田谷代田は最後の最後まで放置され、いつまで経ってもホームは吹きっさらし、幅が異様に狭くて端のほうは人ひとり立つのもやっと、ベンチも壁板も古びた木製で、最果ての地の無人駅のような風情のままだった。
 三浦しをんの『木暮荘物語』に、世田谷代田駅のホームの柱から水色の男根そっくりのキノコが生えるという話が出てくる。長く小田急線を利用している人なら納得だろう。柱からキノコ、それもそんな色と形のキノコが生えてしまうような状況が、世田谷代田ほど似合う駅はない。
 何年か前にダイヤが大幅に改正され、従来の急行、準急に加えて、準急と各停の中間のような電車が導入されたが、このときも世田谷代田はコケにされた。経堂を出たその何とか準急は、豪徳寺、梅ヶ丘と停車したあと、世田谷代田だけ通過して下北沢に停まった。まるで世田谷代田をいじめるためだけに考えだされた電車のようだった。
 そう、世田谷代田駅はクラスのいじめられっ子だった。そして、そんな世田谷代田のことを気にかけながら一度も降りてみようとしなかった私も、いじめに加担したのと同じことだった。

 ぼくにとっての世田谷代田は、阪急中津駅だ。

 阪急ユーザーならわかるだろう。中津は昔から不遇をかこっている。

 じっさいのところは中津駅の乗降客数はそこそこいる。決して多いとは言えないが、中津よりも利用されない駅はたくさんある。

 じゃあなんで中津が不憫なのかというと、梅田と十三という大きな駅の間に挟まれていて、「通る電車の数はものすごく多いのに止まる電車は少ない」という状況にあるからだ。

 なにしろ、中津駅は特急や急行が止まらないのはもちろんのこと、なんと普通電車の一部も止まらないのだ。梅田と十三の間には宝塚線・神戸線・京都線という三つの路線が走っているが、京都線は中津駅を通るのに決して止まらない。すべて素通りだ。こんなひどいことがあるだろうか。

 なぜ普通電車すら中津駅に止まらないかというと、止まる場所がないからだ。中津駅はめちゃくちゃ狭い。だからこれ以上電車が止まれないのだ。


中津駅のホーム
Wikipedia「中津駅」より

 どう、このホームの狭さ。ホームでは「白線の内側にお下がりください」というアナウンスが流れるが、中津駅では白線の内側に一人やっと立てるぐらいのスペースしかない。車いすやベビーカーの人なんかは、白線の内側に下がったまますれちがうのは不可能だろう。

 だから、阪急沿線に住んでいるほとんどの人にとっては、中津駅は「素通りするためだけにある駅」なのだ。不憫であり、不憫であるがゆえにちょっぴり愛おしい。

 ぼくは一度だけ近くの病院に行くために中津駅を利用したことがあって「ついにあの中津駅に降りたっている……!」とふしぎな感動をおぼえたことを記憶している。




 ふつうは紀行文というと見知らぬ土地をテーマにするのだろうが『死ぬまでに行きたい海』で訪れる土地は、岸本さんの見知った土地が多い。

 ぼくも出不精なので、この気持ちはわかる。見ず知らずの土地に行くよりも、どっちかというとなつかしい場所に行きたい。

 そういや唐突におもいだしたんだけど、高校のときに好きだった女の子と話していて、ふたりとも生まれた場所が同じだということを知った。三つほど隣の市だ。ぼくは半ば強引に「生まれた場所を見にいこう!」と彼女を誘った。これがぼくの初デートだ。

 もっとも、そこで五歳まで育ったぼくのほうはかすかに覚えている場所もあったけど、二歳までしか住んでいなかった彼女のほうはまったく記憶がないらしく(あたりまえだ)、退屈そうにしていた。

 言うまでもないが、二度目のデートはなかった。




 岸本さんの過去エッセイの、いつのまにか異次元に連れていかれる文章とはちょっとちがって現実よりだが、それでもどこか浮世離れした語り口は健在。

あの時の私は、風呂の排水口の縁をくるくる回る虫みたいに、あやうく別の世界に吸いこまれかけたのではないか。

 名文だなあ、これ。


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2022年11月24日木曜日

混雑している電車内で奥へとお詰めできない人間にも人権を!

 どうかみなさん、混雑している電車内で奥へとお詰めできない人間を差別しないでください。

 混雑している電車内で奥へとお詰めできない人間は、混雑している電車内で奥へとお詰めしたくなくて混雑している電車内で奥へとお詰めしないわけではないのです。彼らにはその能力がないのです。ふつうの人なら難なくできる、混雑している電車内で奥へとお詰めするという行動が、彼らにとっては至難の業なのです。

 彼らには生まれもったハンデがあるだけなのです。ですから、混雑している電車内で奥へとお詰めできないことを理由に、彼らを糾弾しないであげてください。


 混雑している電車内で扉付近に立ったまま、頑として動こうとしない人。

 扉のまわりが混雑していて奥がすいているのに、一歩たりとも動こうとしない人。

 自分が一歩移動すれば他の人たちが奥に詰めることができて車内全体の混雑が緩和されるのに、その一歩を踏みださない人。

 そのくせ、大勢の人が降りる駅についてもやはり扉付近に立ち止まったまま乗降の妨げになっている人。

 たしかに多くの人に迷惑をかけています。けれどそれは彼らのせいではありません。社会全体の問題なのです。


 私たちは、ひとりひとり違います。まったく同じ人間なんてどこにもいません。

 スポーツが苦手な人、上手にしゃべれない人、うまく歌えない人、眼が見えない人、手足が不自由な人、混雑している電車内で奥へとお詰めできない人。

 ひとりひとり違いはあります。すべてにおいて完璧な人などいません。でも、だからこそこの世界はおもしろいのです。

 お互い差異を認めて、許し、助け合って生きていこうではありませんか。


 そして。

 混雑している電車内で奥へとお詰めできない人間だけでなく、人通りが多い場所で立ち止まらずにはいられない人間や、傘を振り回さずに歩くことのできない気の毒な人間や、狭い道で横に広がって歩かずにはいられない人間にもどうか我々と同じ人権を!



2022年11月22日火曜日

【読書感想文】ウォルター・ブロック(著) 橘 玲(超訳)『不道徳な経済学 転売屋は社会に役立つ』/ 詭弁のオンパレード

不道徳な経済学

転売屋は社会に役立つ

ウォルター・ブロック(著)  橘 玲(超訳)

内容(e-honより)
転売屋、ヤクの売人、売春婦、満員の映画館で「火事だ!」と叫ぶ奴…「不道徳」な人々を憎悪し、「正義」の名の下に袋叩きにする現代社会。おかしくないか?彼らこそ、そうした偏見や法の抑圧に負けず私たちに利益をもたらしてくれる「ヒーロー」なのだから!自由という究極の権利を超絶ロジックで擁護、不愉快だけれど知らないと損する「市場経済のルール」を突きつけた全米ベストセラーを、人気作家・橘玲が超訳。


 1976年にアメリカで刊行された『Defending the Undefendable』(そのまま訳すなら『擁護できないものを擁護する』かな)を、橘玲氏が超訳。超訳というのは、論旨だけは原著に忠実にしながらも、出てくる事例については現代日本人にわかりやすいように大幅改変しているからだ。

 拝金主義者を「ホリエモン」、バーモント州のメイプルシロップとフロリダ州のオレンジを「青森のリンゴと沖縄のサトウキビ」、誹謗中傷をおこなう者を「ツイッタラー」、アメリカ市場で金儲けをする日本人を「中国人」と置き換えるなど、大胆に改変を加えている。訳したというより、換骨奪胎して新たに書いたといったほうがいいかもしれない。というか橘玲さんの本ってだいたいそんな感じだもんね。海外の本のエッセンスだけを抜きだして日本に紹介する、という感じで。




 著者(橘玲さんじゃなくてウォルター・ブロックさん)は徹底したリバタリアンだ。

 リバタリアニズムとは自由至上主義と訳されることもあり、リベラリズム(自由主義)よりももっと極端に自由を信奉する人々だ。

 リベラリストは自由を愛するが、とはいえ国家権力による積極的な介入も認める。生活保護や国家による法規制も(程度の差はあれ)必要と見なす。が、リバタリアンは基本的に政府の介入を認めない。さすがに殺人や暴力までは認めない(なぜならそれらは個人の所有物である身体を侵害する行為だから)が、徴税や法規制を嫌う。

 ざっくり言うと「個人同士がお互いに同意したことであれば、何をしてもいい。だから暴力などの取り締まり以外は政府は何もするな」という極端な考えだ。


 どのくらい極端かは『不道徳な経済学』を読めばわかる。

 なにしろ、売春婦、ダフ屋、麻薬密売人、恐喝をおこなう者、偽札犯、闇金融、ポイ捨てをする者、賄賂をもらう警察官、最低賃金を守らない経営者、児童労働をさせる雇用主など、世間一般では犯罪者または悪人とされている人々を「別にいいじゃないか」と擁護しているのだ。

 めちゃくちゃ極端だ。




 まあ、わからなくもないものもある。たとえば売春婦の項。

「女性の権利を守る」と称する活動家たちのように、貧しくも虐げられた売春婦の苦境を嘆き、彼女たちの人生を屈辱的で搾取されたものと考える人々もいる。しかし売春婦は、セックスを売ることを屈辱的とは考えていないだろう。ビジネスの長所(短い労働時間、高い報酬)と短所(警官の嫌がらせ、ポン引きに支払う仲介料、気の滅入るような職場環境)を考慮した結果、売春婦は自らすすんでその仕事を選んでいるのである。でなければ、つづけるはずがない。
 もちろん売春婦の体験には、「ハッピーな売春」とはいかないさまざまなネガティヴな側面がある。シャブ中になったり、ポン引きに殴られたり、あるいは売春宿に監禁されることもあるかもしれない。
 だがこうした暗鬱な側面は、売春という職業の本質とはなんの関係もない。脱獄犯に誘拐され、治療を強制される医者や看護師だっているだろう。シャブ中の大工もいるし、強盗に襲われる経理課長だっているが、だからといってこれらの職業がうさんくさいとか、屈辱的だとか、あるいは搾取されているということにはならない。売春婦の人生は、彼女が望むほどによかったり悪かったりするだけだ。彼女は自ら望んで売春婦になり、嫌になればいつでも辞める自由がある。
 それではなぜ、売春婦への嫌がらせや法的禁止が行われるのか?
 その理由を顧客に求めるのは間違っている。彼は自らすすんで取引に参加している。もしあなたに贔屓の女の子がいたとしても、その気がなくなれば店に通うのをやめることができる。同様に、売春禁止は売春婦自身が望んだのでもない。彼女たちは好きでこの商売を選んだのだし、心変わりすればいつでも辞められる。

 似たようなことをぼくもかつて考えたことがある。

 高校の家庭科のテストで「売買春はなぜいけないのか書きなさい」という問題が出された。数学じゃないんだから「売春が悪であることを求めよ」なんて、結論が決まっている出題方法に疑問を感じた。「現代日本で違法とされている理由を書け」ならわかるが、時代や地域によっては合法とされているものを絶対悪として扱うその思考停止っぷりにいらだちをおぼえたぼくは、「悪い売春もあるが悪くない売春もある。お互いが100%リスクを理解した上で契約を交わしたのであれば、現代日本の法的には違法であっても道徳的に悪かどうかは結論するのがむずかしい」的なことを書いた。もちろん教師には×をつけられた。

 今だったらいい大人だから教師が求める模範解答を書いてあげるだろうけどさ。


 でも、今でも売春や麻薬については「法的に悪だし興味もないので手は出さないが、道徳的に悪かどうかは判断しない」という立場だ。友人が風俗店に行くという話を聞いても、いいことともおもわないが悪いことともおもわない(配偶者や恋人に嘘をつくのであればその嘘は良くないとおもう)。

 じっさい、身体を売ることでしか生きていけない人もいるわけで、そういう人に向かって「売春や風俗産業は絶対悪だからその仕事をやめて死ね!」と言える傲慢さはぼくにはない。健康リスクが高くて尊厳を失いやすい仕事なんて、風俗産業以外にもいくらでもあるし。たとえば今の日本にはもうあんまりいないけど、炭鉱夫なんてそうでしょ。それを、当の炭鉱夫たちが地位の向上を求めて立ち上がるのならいいけど、部外者が「炭鉱夫は危険だし尊厳も失うのでやるべきじゃない。今すぐやめろ! 高校生のみなさん、炭鉱夫がなぜいけないのか考えましょう」なんて言うのは失礼すぎるとおもう。


 麻薬だって、ぼくは怖いけど、はたして悪なのかというとむずかしい。依存性があって身体に悪いものが悪なら、酒もタバコも糖分たっぷりのお菓子もアウトだ。一部の麻薬は酒よりも人を凶暴にする力が弱いと聞くし。

「今の法律で禁止されている」と「道徳的に悪」はぜんぜんべつのものなのに、それを混同しちゃう人がいるんだよね。




 高利貸し、いわゆる闇金について。

 最後に、法律で定められた金利よりも高利の貸し出しを禁じる利息制限法の影響を考えてみよう。金持ちよりも貧乏人が高い金利を払っているのだから、この法律の影響はまっさきに貧困層に及ぶはずだ。
 結論から言うと、この法律は貧乏人に災難を、金持ちに利益をもたらす。法の趣旨は貧しい人々を高利貸しから保護することにあるのだろうが、その結果現実には、彼らはまったくお金を借りることができなくなってしまうのだ。
 もしあなたが金貸しで、次のうちどちらかを選べと言われたらどうするだろうか。

 ①とうてい採算が合わないと思われる金利で、貧しい人に金を貸す。
 ②そういう馬鹿馬鹿しいことはしない。

 こたえは考えるまでもないだろう。
 これまで貧乏人相手に商売をしていた金貸しは、利息制限法の制定によって、よりリスクの低い金持ち相手の商売に鞍替えするだろう。そうなると、ひとつの市場にすべての金貸しが殺到するのだから、需要と供給の法則で、金持ちはこれまでよりずっと有利な条件で融資を受けることができるようになる。

「ふつうの金融機関で金を借りられないから、金利が高くてもいいから借りたい人」と
「返済されないリスクが高い分、高金利で貸したい人」がいて、
 当人たちが合意の上で高金利で借金をするのははたして悪なのだろうか。

 返さなかった者に暴力をはたらいたり、債務者の家族に嫌がらせをしたり、返せなかった代償として肉1ポンドを要求したりしたら、それは悪いことだとおもう。でも、それは高利貸しが悪かどうかとはまた別の問題だ。


 風俗にしても闇金融にしても、不幸に通じる道の出口あたりにあるものだ(風俗嬢が全員不幸とは言わないけど)。入口のほうを改善せずに出口だけ取り締まっても、問題は解決しない。それって「トイレをなくせばウンコが減る! 食う量は変えない!」みたいなもんじゃん。なんちゅうひどい例えだ。

 ぼくはリバタリアンじゃなくてリベラリスト寄りなので、風俗や闇金融を禁止するんじゃなくて政府が「もっとリスクの少ない仕事を斡旋する」「貧困者に低金利での貸し付けをおこなう」をするべきだとおもうんだよね。

 だから著者の意見には途中まで賛成で、途中からは反対。




 とまあ、そこそこ同意できるものもあれば、まったくもって賛同できないものもある。もうあらゆる詭弁のオンパレードって感じだ。

 たとえば恐喝者を擁護する項。

 恐喝とはなんだろうか?
 恐喝は、取引の申し出である。より正確には、「なにかあるもの(通常は沈黙)と、ほかのなにか価値あるもの(通常は金)の取引の提示」と定義できる。もしこの申し出が受け入れられれば恐喝者は沈黙を守り、恐喝された者は合意した代金を支払う。もしこの申し出が拒否されれば、恐喝者は「言論の自由」を行使して秘密を公表する。
 この取引には、なんら不都合なところはない。彼らのあいだで起きたことは、沈黙の対価としていくばくかの金を請求する商談である。もしこの取引が成立しなくても、恐喝者は合法的に言論の自由を行使する以上のことをするわけではない。

「おまえが悪事をしているのを知っているぞ。ばらされたくなかったら金を払え」だったらまだわかるんだよ。それを全面的な加害者として扱っていいのか、とはおもう。

 ところが著者は「おまえが同性愛者であることをばらされたくなかったら金を払え」と脅迫する人をも擁護している。「同性愛者であることを他人が勝手に暴露したほうが、同性愛者の社会的な地位が認められることになって、結果的に暴露された人の利益になる」とか理屈をつけて。どうしようもない戯言だ。

 悪事じゃなくても人に知られたくないことはたくさんある。ぼくが妻に隠れてエロい動画を見ていることなんて、法に触れることではないけど、それでもおおっぴらにはされたくない。それを「エロい人の社会的な地位が認められるためにおまえがエロいことをばらしてやるぜ!」なんて言われて、納得できるわけがない。


 誹謗中傷をする人のことはこんなふうに擁護する。

 最後に、逆説的に言うならば、わたしたちの名声や評判は誹謗中傷を禁じる法律がないほうが安全なのである。
 現在の法律は虚偽に基づく名誉毀損を禁じているが、そのことによって、だまされやすい大衆はゴシップ雑誌に書いてあることをすべて信じてしまうし、ネット上の匿名掲示板にしても、規制が厳しくなればなるほど投稿の信用度は上がっていく。
「だって、ホントのことじゃなかったら書かないんでしょ」
 もしも誹謗中傷が合法化されれば、大衆はそう簡単に信じなくなるだろう。名声や評判を傷つける記事が洪水のように垂れ流されれば、どれが本当でどれがデタラメかわからなくなり、消費者団体や信用格付け会社のような民間組織が記事や投稿の信用度を調査するために設立されるかもしれない。

 誹謗中傷が禁止されなくなれば、誰も誹謗中傷を信じなくなるんだって。んなアホな。今のSNSがどうなっているか、考えてみればすぐにわかる。




 賄賂を受け取る警官を擁護する項。

 だが、「法に背くこと自体が悪だ」との主張には同意しかねるものがある。ナチ強制収容所の経験がわたしたちに教えてくれた事実は、それとはまったく逆だ。そこで得た教訓とは、「法そのものが邪悪であるならば、その法に従う者も邪悪である」ということだ。
「特定の法に従わないのは社会を混乱に導く悪しき先例をつくる」との主張も、同様に理解しがたい。「悪法に従わない」との先例は社会を混乱や大量殺人に導いたりはせず、逆に、道徳の確立につながるからだ。こうした先例がナチスの時代に広く認められていたならば、強制収容所の看守たちは法に従うことを拒否し、憐れなユダヤ人をガス室に送ったりはしなかっただろう。
 凡人には法を選り好みする権利はない? それもまた愚問だ。権力者であろうがホームレスであろうが、わたしたちはみな凡人以外の何者でもない。

 これまたひどい論理。ナチス政権という極端な例を挙げて「法に背くことは悪とはいえない」とうそぶく。

「先生がだめって言ってたよ」に対して「じゃあおまえ先生が死ねっていったら死ぬのか」と言う小学生と同レベル。

 よいこのみなさんは、極端なケースを挙げてそれを一般化しようとしてくる人の話を真に受けちゃだめですよ。




 この本を読んでおもうのは、リバタリアニズムってとことん強者の論理なんだなってこと。ずっと勝者でありつづける人、自分が弱者の立場に陥ることがないとおもえる人の論理だ。

 だから中学生とは相性がいいかもしれない。中学生ぐらいの根拠のない万能感を持てる年代であれば、「すべて市場の自由競争にまかせておけばうまくいく(有能なおれが市場競争で負けるはずがない)」とおもえるかもしれない。


 最低賃金を守らない経営者を擁護する項より。

 最低賃金法が最低賃金を無理やり引き上げると、価格と需要の法則がはたらいて、雇用主は熟練労働者を残し、未熟練労働者を切り捨てようとする。このようにして労働組合は、自らの雇用を守ることができる。言い換えるならば、熟練労働者と未熟練労働者は互いに代替可能であるため、彼らは競争関係にあるのである。
 市場から競争相手を叩き出すのに、最低賃金を強制することはじつにうまいやり方である。最低賃金が上がれば上がるほど、雇用主は未熟練労働者(若者)や非組合員(とくに外国人労働者)を雇う気がなくなるだろう。ということは、それがどれほど法外な金額であれ、未熟練労働者が絶対に雇われないような最低賃金を法律で決めればいいことになる(とはいえ現実には、現在の最低賃金を十倍に引き上げる法律が議会を通過すれば組合の構成員は激減するだろう。経営者は全組合員を解雇するか、それができない場合は破産するだろう)。
 労働組合は、このような有害な法律を、意図的に、そうと知っていて主張するのだろうか。だがそれは、こでわれわれが検討する事項ではない。重要なのは法律と、それが現実に及ぼす影響である。
 最低賃金法のもたらす〝災害〟はひどいものだ。この法律は、貧しい人々や就業経験のない若者たち、外国人労働者など、本来、法律が守るべきとされてきた当の人々を迫害しつづけているのである。

 ま、理論ではそうかもしれないね。

 ただ、現実問題として、資本家には資本があり、労働者には十分な資本がない。適正な賃金の仕事がなかったとしても、労働力は貯めておけないし、今日のパンを食べないと生きていけない。「自分にふさわしい仕事が見つかるまで働くのをやめる。一年働かず、次の年には二倍働く」ができればいいんだけど、それができない以上、経営者のほうが圧倒的に立場が強いんだよね。

 ラーメン屋が「うちのラーメンの値段が気に入らないならよそに行ってくれ。ラーメン屋はいくらでもあるから」って言うのと、経営者が「うちのやり方が気に入らないならおまえはクビだ。働き口はいくらでもあるから」ってのはわけが違うんだよね。


 まあ古い本だからしょうがないけど、市場にまかせておけばすべてうまくゆくってのはあまりにも古い考えだよね。完全自由経済は、完全計画経済よりはマシってだけだよね。

 こういう考えをする人もいる、って知れるのはおもしろいけど、ほとんど賛同はできない本だったな。橘玲さんもそのへんをわかってて露悪的に書いてるフシがあるけど。


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2022年11月21日月曜日

【読書感想文】『ズッコケ三人組のバック・トゥ・ザ・フューチャー』『緊急入院!ズッコケ病院大事件』『ズッコケ家出大旅行』

   中年にとってはなつかしいズッコケ三人組シリーズを今さら読んだ感想を書くシリーズ第十四弾。

 今回は40・41・42作目の感想。そろそろ終わりが見えてきた。

 すべて大人になってはじめて読む作品。


ズッコケ三人組のバック・トゥ・ザ・フューチャー』(1999年)

 自分史作りをはじめた三人。周囲の人の話から己の過去を探っていくうちに、あだ名の由来や自分の記憶の不確かさなどに気づく。そんな中、ハチベエの初恋の子の転校と、ハカセの母親が被害者となったひき逃げ事件に意外なつながりがあることがわかり……。


 まず、看板に偽りあり。過去にもいかないし、まして「未来に戻る」なんて内容は一切ない。『ズッコケ宇宙大旅行』みたいに多少盛る(日帰りだった)のはいいけど、これは大嘘タイトル。

 それはそうと、内容はわりとおもしろかった。後期作品にしてはよくできているほうだとおもう。まあ前半は既存ファン向けの内容だったけどね。ニックネーム誕生の秘密とか。

 後半は「ハカセの母親をひき逃げした男が、ハチベエの初恋の子・民ちゃんの父親だった」「民ちゃんの父親には強盗容疑もかかっていた」「民ちゃんの父親が強盗に入ったことを目撃したのはハチベエだった」と、意外な事実が明らかになってゆく。その後も、強盗は狂言強盗だったことが明らかになり「ではなぜハチベエは民ちゃんの父親が強盗だったと嘘の証言をしたのか?」というミステリーの連続で惹きつける。

 終盤には民ちゃんとの気まずい再会という展開も用意していて、派手さはないけどうまくまとまった作品だった。こういうのでいいんだよ、こういうので。神出鬼没で変幻自在の怪盗とか、閉ざされた空間での連続殺人事件とか、ズッコケにそういうの求めてないから。地に足の着いた小学生の冒険こそがシリーズの魅力なんだから。




緊急入院!ズッコケ病院大事件』(1999年)

 釣りに出かけた三人組、および同行した女の子たちが相次いで原因不明の熱病にかかる。40度を超える高熱、身体に現れる発疹、節々の痛み。チフスではないかと疑われるが、チフスの治療をしてもいっこうに熱が下がらず……。


 いきなり登場する謎の男、そしてこの男が凄腕の狙撃手(殺し屋)であることが明かされたかとおもったら、なんと彼が熱病にかかって病死してしまう。さっき「地に足の着いた小学生の冒険こそがシリーズの魅力」と書いたとたんにこれだよ……。

 さらにこの殺し屋の描写に使われるのが本文の四分の一。この間、三人組はほとんど登場しない。この男の描写にここまでページを割く必要があったのか……。

 最終的に「三人組が感染した病気の感染経路はこの殺し屋でしたー」と種明かしがされるのだが、そんなことは読者には十分わかっているので何の驚きもない。手品の種が丸見えなんですけど(『ズッコケ財宝調査隊』パターン)。

 そしてもうひとつの裏切り(?)が、「チフスかとおもったら実はデング熱でしたー」という展開なのだが、これまた何の驚きもない。だってチフスもデング熱もぜんぜん知らねえんだもん。大人のぼくですら「聞いたことある程度の病名」なんだから、読者である小学生からいたら心底「どっちでもええわ」だろう。


 とまあ、ツッコミ所の多い作品ではあるが、つまらなかったかというと決してそんなことはない。なんだろうな、著者が好きなことを書いているっていう感じが伝わってくるんだよな。

 長い釣りの説明とか(釣りの描写があるのは『探検隊』『株式会社』『海賊島』『海底大陸』に続いて五作目。ほんと釣り好きだよなあ)、詳しすぎる病気の説明とか、医師同士の会話のシーンとか、はっきりいって読者である子どものことを考えているとはおもえない。でも、そこがいいんだよ。ズッコケシリーズの魅力ってそこなんだよ。子どもにあわせるじゃなくて、「大人が本気でおもしろいとおもうものを書くから読みたいやつは読め!」みたいな感じ。初期の作品も、アメリカ大統領選挙の話とか、株式会社の制度とか、北京原人の骨だとかもうひとつの皇族とか、子ども受けなんて無視したかのように著者が好きなこと書いてたもんなあ。そういうのがおもしろいんだよな。藤子・F・不二雄の描いてた大長編ドラえもんと同じで。

 ズッコケシリーズ中期は怪談が流行ったら怪談を書いたり、推理漫画が流行ったら便乗したり、かなり「あわせにいって」いた。だがこの作品に関しては、久々に著者の筆が乗っているように感じた。子どもウケするかどうかはわからないが(うちの九歳の娘の感想は「ふつう」)、ぼくはなかなか好きな部類の作品だった。

 病気に感染した後の三人の内面や行動の違いもおもしろかった。自分の病状を観察し、原因について研究するハカセ、入院することを怖がっていたくせにのんびりした入院生活を楽しむモーちゃん、調子に乗って病院内を歩きまわって症状を悪化させるハチベエ。入院生活も三者三様でおもしろい。

 また、安藤圭子だけが発症していないこと、安藤圭子だけ虫よけスプレーをしていて蚊に刺されなかったことがハカセが病名を突き止めることに一役買うという展開もおもしろい。

 入院までの流れも緊張感がある。ただ、コロナ禍の今読むと「子どもが原因不明の感染症で隔離病棟に入院しているのに、家族は検査すらされずに日常生活を送れる」という対応だけは嘘っぽく感じてしまうな。



『ズッコケ家出大旅行』(2000年)

 勝手に塾に入会する手続きをされてしまったハカセは、親への抗議のために家出を計画する。姉さんにお菓子を勝手に食べられてしまったモーちゃん、店の手伝いをさせられることに不満を持つハチベエも同行し、三人は荷物を持って大阪へ向かう。が、道中で数々のハプニングに見舞われ……。


 おもしろかった。ズッコケシリーズをずっと読んでいるが、読んでいてわくわくしたのは久しぶりだ。ぼくが大人になってからはじめて読んだ27作目以降の作品の中でははじめてかもしれない。

 まず家出決行までが期待を盛り上げてくれる。おもいついてすぐ家出、ではなく、持ち物を用意したり、ゲームソフトを売って資金を貯めたり、計画的な家出なのがハカセらしい。「旅行は準備しているときがいちばん楽しい」なんて言うが、家出もまた同じ。計画段階がいちばん楽しい(ぼくはやったことないけど)。那須正幹先生はよくわかっている。

 家出決行後も、人命救助、電車を乗りまちがえる、神社で野宿、ふとした出会いから車で送ってもらうことになる、などイベントてんこもり。それだけではあきたらず、スリに所持金の大半をスられてしまうという展開まで用意していて読んでいてハラハラドキドキが止まらない。

 ただ、後半はちょっと失速。三人同時に財布をなくすのがいかにも予定調和っぽい。三人組にホームレス体験をさせたかったのだろうが、一万円あったのだから「会ったばかりのホームレスに一万円渡して仲間に入れてもらう」ではなく「ミドリ市までは帰れなくてもできるかぎり近くまで帰る」あるいは「家に連絡する」という選択肢を選ぶだろ、ふつうは。数日家を空けただけで十分目的は達成できてるんだし。

 気に入らないのは、中期以降の作品ではすぐに女の子を登場させること。女子読者を意識してのことなのか知らないけど、とにかく安易なんだよね。ストーリー的に必要があって出すのならいいけど、この作品なんかはかなり不自然に女の子をねじこんできた、という感じだ。さすがに子ども、それも女の子がホームレス生活をしてたら警察や行政が黙ってないとおもうぜ。

 ホームレス生活のあたりはイマイチだったが、他は十分おもしろくて、久々におもしろいズッコケ作品を読んだ気がする。「ハチベエの涙」という貴重なシーンも効果的だった。

 家出ってあこがれるもんなあ。ぼくは一度も家出をしたことがないししたいとおもったこともないけど、ほのかな憧れだけはずっと持っていた。大人になってから読んでもわくわくしたんだから、小学生のときに読んでたらものすごく楽しかっただろうなあ。


 ところで『夢のズッコケ修学旅行』の感想にも書いたけど、地名を半端にフィクションにするのをやめてほしいなあ。

 三人組が住む町が稲穂県ミドリ市(モデルは広島県広島市)となっているのはまあいいとして、岡山県倉敷市が岡島県倉橋市などになっているのは読みづらくてしかたがない。そうかとおもうと、大阪、阿倍野、天王寺といった地名はそのまま使われている。何がしたいんだ。これまでにも東京とか愛媛とかの地名はふつうに出てきてたから、ズッコケの世界では中国地方だけが仮名なんだよね。へんなの。


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2022年11月18日金曜日

おしりぺんぺん

 おしりぺんぺんってさ、改めて考えるといい体罰だとおもうんだよね。

 あ、いや、体罰推奨派じゃないんだけど、極力体罰をなくしたほうがいいとおもうんだけど。

 でもさ、じっさい子どもを育ててみると、我が子ながらものすごく憎らしくなることもあるんだよね。平然と嘘をついたり、詭弁でごまかそうとしたり、小さい子にいじわるをしたり、おもわず手が出そうになることも一度や二度ではない。

 もう手が付けられなくなるぐらい怒って暴れることや、怒って他人にやつあたりしているときなどは、言葉で説得することなど不可能だ。怒りくるっている犬を相手にするようなものだ。そんなときにいくら「いい子だからおぎょうぎよくしようねー」なんて言ってもへのつっぱりにもならない。

 そんなときぼくは「羽交い絞めにする」「押し入れに入れる」という手段をとる。

 一部の人に言わせれば、これも許されない体罰になるのだろう。でも、だったらどうしたらいいのか教えてくれ。はさみを持ったまま怒りくるっていて、一切こちらの話を聞かない子どもをどうやってなだめるのかを。


 もちろん殴る蹴るなどの体罰はよくないとおもうし、できることならぼくだって手を上げたくはない。でも、力づくで抑えないとどうにもならない状況はある。暴力絶対反対っていってる人だって、子どもが犬に噛まれてたら力づくで止めるだろ? それと同じで。

 で、おしりぺんぺんだ。

 体罰の中ではおしりぺんぺんっていちばんマシなものじゃないかとおもう。


 最大のメリットは、けがをさせないこと。子どもの身体は弱いから、体罰によって口を切ったり骨が折れたりへたすると内臓や脳に損傷を与えたりするかもしれない。ふだん人を殴らない人ほどかげんがわからない。

 その点、おしりぺんぺんでけがをさせることはまずない。少々加減をあやまったって、せいぜいおしりが真っ赤になるぐらい。おしりは身体の中でもトップクラスに衝撃に強い部位だ。


 それから実行に移すまでに時間がかかること。

 たとえば頭にげんこつを食らわすとか、頬に平手打ちをお見舞いするとかだと、かっとなってやってしまうかもしれない。感情にまかせて行動してもろくなことはない。けがをさせたり、体罰を与えた側が後悔したりする。

 その点、おしりぺんぺんはとっさには実行に移せない。このやろうとおもい、子どもを抱え、膝の上にうつぶせにして、場合によってはズボンやパンツをおろして、それからぺんぺんすることになる。どんなに熟練したおしりぺんぺナーでもその間数秒はかかる。

 この間に頭を冷やせる。

 聞くところによると、人間の怒りのピークは六秒しか持続しないという。子どもをつかまえて、膝の上に乗せ、暴れる子のズボンやパンツを脱がせて腕をふりあげているうちに怒りのピークは過ぎ去っている。

 これにより「感情に任せてつい暴力を加えてしまう」ことが避けられる。「今度やったらおしりぺんぺんだよ」と解放してやるか、あるいは「ここは教育のためにぺんぺんしといたほうがいい」と教育的指導を加えるか、冷静に判断することができる。

 感情のままにぶんなぐるのと、冷静に判断した上で手を上げるのでは、まったくちがう。後者の体罰は、推奨するまではいかなくても、黙認ぐらいはされてもいいと個人的にはおもう。


 かように、おしりぺんぺんはよくできた体罰システムである。少なくとも殴ったり蹴ったりするよりは百倍いい。さすが昔の人はいいシステムを考えたものだ。昔の子どもは今より栄養状態も悪かったし、救急医療の体制もなかった。子どもに手を上げて、けがをさせてしまうことも今よりずっと多かったにちがいない。そこで生まれたのがおしりぺんぺんシステムなのだろう。

 これを家庭内教育だけでなく、学校教育にも活かせないものか。

 もちろん教師が生徒のおしりをぺんぺんやるわけにはいかないが、教師が生徒を殴りたくなったときは、細長い風船を膨らませて、そいつでおもいっきりぶんなぐってもいいことにするとか。

 もちろん風船で殴られたってけがをすることはないし、風船をふくらませるのには時間も体力も使うから、そこまでして殴りたいということは教師としてもよほどのことなのだろう。感情にまかせた体罰ではなく、教育的見地に基づく指導が期待できる。

 風船でなぐられたって痛くもかゆくもないから、風船をうんこの形にして精神的ダメージを与えてやるぐらいはしてもいいとおもう。


2022年11月17日木曜日

【読書感想文】大岡 玲ほか『いじめの時間』 / いじめの楽しさ

 

いじめの時間

江国 香織  大岡 玲  角田 光代  野中 柊
湯本 香樹実  柳 美里  稲葉 真弓

内容(e-honより)
「いじめられる子」と「いじめる子」。ふたりの間に横たわるのは、暗くて深い心の闇。でもいつのまにか両者が入れ替わったり、互いの傷を舐めあっていることもある。さまざまな「いじめ」に翻弄され、心が傷つき、魂が壊れることもあるけれど、勇気を出して乗り越えていく者もいる。希望の光が射し込むこともある―すべて「いじめ」をテーマに描かれた7人の作家による入魂の短篇集。

 いじめをテーマにしたオムニバス短篇集。


江国 香織『緑の猫』

 親友がノイローゼ気味になってしまって、周囲から距離をとられてしまうという話。「これもいじめとするのか?」という感想。いやあ、クラスメイトの様子がおかしくなってあることないこと言いだしたら、距離をとるのはふつうでしょ。

 これをいじめとするのはさすがに被害者意識が強すぎないか?


大岡 玲『亀をいじめる』

 これはよかった。

 主人公は教師。主人公はかつていじめに遭っていて、現在は娘のクラスでいじめが起こっていて、自身の勤務する学校でもいじめが起こっている。いじめられるつらさを知る主人公はいじめを止める……かというと、ぜんぜんそんなことはない。勤務先でのいじめには見てみぬふり。娘のクラスで起こっているいじめについては、被害者の親に対してあることないこと吹きこんで焚きつける。なんとも卑怯で小ずるい男なのだ。さらにこの男は自宅で亀に熱湯をかけていじめている。

 こういう男が教師であり父親であるということにぞっとするが、考えてみれば我々の多くはこのタイプなのだ。積極的にいじめに加担するわけではないが、かといっていじめられている他者を守るために身体を張るほどの正義感もない。そして「攻撃していい人」と認定した人間に対しては容赦ない残虐性を発揮する。学生だけでない。多くの大人だって、不倫した有名人や失言をした政治家はどれだけいじめてもいいとおもっている。

 主人公を筆頭に登場人物たちがみな保身と自己弁護ばかりでなかなか胸くそ悪くなる短篇だが、それがいい。いじめについて語る人ってみんな「いじめられていた人」か「いじめを心の底から嫌悪していて加担しない人」の立場をとるじゃない。そんなわけないのに。みんながいじめを大嫌いならいじめなんて起こるわけない。我々はいじめを好きなんだよ。ぼくもあなたも。それを認めないといじめ問題は永遠になくならない。

「私は状況によってはいじめる側の人間です」と声高らかに言う人がいないので(ぼくだってわざわざそんなことは言わない)、小説でその立場の人間を書くことは意義があるとおもう。


角田 光代『空のクロール』

 同級生からいじめに遭うようになった主人公。いじめの主犯は、同じ水泳部で泳ぎのフォームが美しい少女。

 これはストレートにいじめられる少女の苦悩を描いた小説。いじめをテーマに短篇を書いてくださいと言われたらこんな作品ができあがるだろうなあと予想する通りの小説。つまり、とりたてて新しい切り口は感じなかった。


野中 柊『ドロップ』

 白昼夢のような小説。これは……いじめ? ただ白昼夢を見ただけじゃねえのか。


湯本 香樹実『リターンマッチ』

 いじめを描いたっていうより友情を描いた青春小説だった。なんかずっとさわやかなんだよね。いじめすら〝さわやか〟を描くための、シンプルな材料になってる。


柳 美里『潮合い』

 転校生が来ていじめが起こり、とある出来事をきっかけにいじめられる側といじめる側が反転しそうになる……ってとこで終わる。漫画『聲の形』の一巻で終わっちゃった感じ。


稲葉 真弓『かかしの旅』

 いじめに遭って家出をした少年からの手紙という形式の小説。

 そもそもの話をしてしまうと、手紙形式の小説って嫌いなんだよね。ずるいっていうか。安易に心情を吐露しすぎなんだよね。遺書じゃないんだから、そんなになんでもかんでも書かないでしょ。

 だいたい手紙形式の小説って「あなたは××のときに△△で〇〇してくれましたよね」みたいなこと書くんだよね。書かねえよ。手紙でもメールでもLINEでもいいけど、そんな説明くさい文章書いたことある?



 まあ古い短篇集だからしょうがないんだけど、『亀をいじめる』以外はいじめの書き方が単純だなあ。ワイドショーの書き方なんだよね。非道で許しようのないいじめっ子と、一点の非もないのに悪い奴に目をつけられたがためにいじめられているかわいそうな子。

 わかりやすいけど。そうおもってたほうが楽だけど。

 だけどさ、そうじゃないわけでしょ。いじめは楽しいから、みんな大好きなわけじゃない。たいていのいじめは、いじめられる側にも非があるわけでしょ(だからいじめてもいいってわけじゃないよ)。だからこそいじめて楽しい。

 そのあたりの、いじめる楽しさを書いてほしかったな。正当化しろってことじゃないよ。きれいごとに終始していたようにおもう。

 ちょっと前に奥田 英朗『沈黙の町で』という、いじめを描いたすばらしい小説を読んだので、どうしてもそれと比べてものたりなさを感じてしまった。


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2022年11月16日水曜日

【読書感想文】上田 啓太『人は2000連休を与えられるとどうなるのか?』/ ひたすら己を眺める時間

人は2000連休を与えられるとどうなるのか?

上田 啓太

内容(e-honより)
仕事のない解放感を味わう。将来への不安を感じはじめる。昔を思い出して鬱になる。図書館に通って本を読む。行動を分単位で記録する。文字を読むことをやめてみる。人間のデータベースを作る。封印していた感情を書き出す。「自分」が薄れる。鏡に向かって「おまえは誰だ?」と言い続ける。自分にも他人にも現実感が持てなくなる…。累計1000万PVの奇才が放つ衝撃のドキュメント。


 ぼくはかつて無職だった。原因不明の高熱が続いたので新卒で入った会社を数ヶ月で辞め、実家に帰った。はじめのうちは心配していた両親も、就職活動をするでもなく、アルバイトをするでもなく、インターネットで遊んだり友人と遊びに行ったりしている息子に対して冷たくなった。

 なにしろ、体調が悪いと言いつつ、近所を走ったり友人と飲みに出かけたりしているのだ。これでは心配してもらえない。

 ぼくのほうも両親の「はよ働け」プレッシャーを毎日受けているうちに居心地が悪くなり、一年後ついにアルバイトをはじめてしまった(その後正社員登用される)。


 ということで、乳幼児の時期を除けば、ぼくが経験した最大連休は360連休ぐらいだ。

 360連休でもなかなかきつかった。親からのプレッシャーもあるし、周囲からの「大丈夫?」という心配も胸が痛くなった(逆に親しい友人から「クズニート!」とかストレートに言われると安心した。心配されるほうがつらい)。なにより、このままじゃいけないということは自分がいちばんわかっている。

 決して勤勉というわけではないが、それでも終わりのない休みがずっと続くのはつらい。考える時間だけはたっぷりあるので、ついつい思考が悪いほうに向かってしまう。

 アルバイト、そして正社員として働くようになって感じたのは「無職でいるより働くほうがずっと楽」ということだ。

 雇用されていれば、「明日は何をしよう」「この先どうしたらいいのか」といったことに思い悩まなくてもいい。将来への不安がゼロになるわけではないが「まあなんとかなるだろ」とおもえる。仕事はつらいこともあるが、無職でいることに比べれば屁でもない。

 そんな経験があるので『人は2000連休を与えられるとどうなるのか?』というタイトルを見たときはぞっとした。2000連休ということは約6年。それだけ休んだ後にはたして〝こちら側〟に帰ってこられるのだろうか?



 著者の上田啓太氏は仕事をやめ、恋人の家に転がりこむ。一応最低限の生活費は入れていたらしいが、ほとんどヒモだ。

 まあヒモだろうとニートだろうと子ども部屋おじさんだろうと当人たちが納得しているのなら他人がとやかく言うことではないが、やっぱり大人が大人に依存しているのはお互い居心地のいいものではないだろう。

 連休が続いている。すでに四ヶ月ほど働いていない。さすがに不安を感じはじめた。まったく社会と関わっていない。通勤先がない。通学先もない。何の労働もしていない。毎日ひたすら家にいる。コンビニやスーパーには行くが、それだけだ。アルコールは現実逃避の意味合いを持ちはじめている。昼間から酒を飲んでいても、心の底から快活に笑えない。これまでの人生は何だったんだろう。今後の人生はどうなるんだろう。過去と未来のはさみうちにあっている。

 わかるなあ。ぼくも無職になった当初は楽しかったけど、やっぱり数か月たつと「何をしてもいい」という喜びは消え、将来への不安ばかりが強くなった。「酒に逃げたらもうおしまいだ」という意識があったために酒には手を出さなかったけど、もし酒好きだったら酒におぼれて再起不能になってしまっていたかもしれない。

 ぼくもそうだけど、内向的な人間ってヒマにならないほうがいいんだよね。思考が内に内に向かってゆく。内を見つめてもいいことなんて何もない。己の良さなんて他人に見出してもらうものであって、自分で発見するもんじゃない。


 大学に入ってしばらくしてからも同じような状況に陥った。大学生ってとにかく自由じゃない。あれもできるこれもできる、とおもうとかえって何もできなくなってしまう。

 時間だけはあるのであれこれ考える。答えのないことばかり考える。いま客観的に思いかえしたら「考えなくていいからバイトするなりどっか出かけるなりしろ!」と一喝したくなるけど、当時は「どうせあと数年したら仕事しなくちゃいけないんだから、今は今しかできないことをしよう」とおもっていた。数年後無職になるとも知らずに。


 油断すると部屋にこもるような人間は、たいてい言語能力が発達している。肉体の運動神経のかわりに、言語やイメージの反射神経を鍛えているようなものだからだろう。少しの刺激からさまざまに思考を展開させるくせがある。これ自体はただの特徴だし、うまく転がれば、想像力が豊かだと評されたり、よくもまあ変なことを考えるもんだと言われたりする。しかしマイナス方向に振れた場合、誰かの些細なひとことから原稿用紙百枚分の被害妄想を展開させてしまったりもする。
 人は汗だくで苦悩できるのか。反復横とびしながら悩んでいられるのか。シャトルランのあとで悩みを維持できるのか。運動不足や不摂生の産物を、観念的な悩みと取り違えているのではないか。

 忙しく仕事をしていたら「人生の意味とは」とか「より善く生きるには」とか考えないんだよね。そんなこと考えなくていいんだけど、ヒマな人間からすると、考えてない人間が愚かに見えてしまうんだよね。「彼らは何も考えていない」とおもってしまう。じっさいは「自分が考えていることを考えていない」だけなのにね。



  時間があるからだろう、上田さんはひたすら自分自身を見つめている。

 SNSを見ている自分を観察した文章。

 タイムラインに関しては、読むというよりはスキャンしている。つまり、視界に入ったものの大半を無視して、興味を引いた文だけを読み、リンクをクリックしている。リンク先を見終えればタブを閉じる。最後まで見ずに閉じることもある。そしてスキャンを再開する。眼球の動きは速く、瞬時に膨大な情報を処理している。指先の動きも異様に速く、トラックパッドをこすり、ショートカットキーを多用している。椅子に座って、身体を固定したまま、眼球と指先だけがものすごい速度で動き続けている。指先と目玉の化け物がここにいる。
 結果、二時間ほどネットを見るだけでも、大量の断片を消費して、何を見ていたのか、うまく思い出せずに首をかしげる。本を読む場合、基本的には冒頭から順に読んでいく。特定の内容を探してスキャンするようにページをめくることもあるが、それでも書物自体が一定の統一感を与えられたものだし、それぞれにまったく無関係なものが雑多に集まっているネット空間とはちがっている。ネットに慣れた状態で分厚い本を読もうとすると、やはり数分で集中が切れてしまう。集中のリズムが非常に細かくなっている。本というものは、ネットに比べるとゆったりとしたリズムで書かれているから、ネットのリズムのまま読もうとすると、うまくいかないのだろう。

 たしかになあ。考えたこともないけど、ネットサーフィンをしているときの自分ってこんな感じだ。改めて突きつけられると恥ずかしい。


 上田さんは「今後の自分」について考える時期を乗り越え「過去の自分」を掘りかえす日々を迎える。

 今までに見聞きした漫画、映画、CD、テレビ番組などのコンテンツをデータベース化し、それだけでは飽きたらず、これまでに出会った人たちすべてを思いだせるかぎりデータベース化する。そして子どもの頃のちょっとした思い出なども思いだせるかぎり書いてゆく。

 おお。ここまでいくともう発狂一歩手前、って感じがする。過去に囚われて現在が見えなくなってしまいそうだ。

 現在の問いをひとことであらわせばこうなる。
「この意識は、明らかに上田啓太とは別の何かだが、だとしたらこれは何だろう?」
 今さらの話だが、私のフルネームは上田啓太という。いや、そのように素朴に言ってしまうと正確ではない。この感覚を維持したまま無理やりに自己紹介をするならば、
「私は人々から長いこと上田啓太と呼ばれてきましたので、習慣的に自分のことを上田啓太という名前だと考えておりますが、それはひとつの約束事に過ぎません。しかし、約束事の世界に参加するためにも、今はこの名前を使っておきます。よろしくお願いします。上田啓太です」
 もしも飲み会でこんな自己紹介をはじめる人間がいれば、できるだけ遠くの席に移動することになるだろうが、これが正直な感覚である。「上田啓太」という言葉が壊れている。言葉が壊れるというのも奇妙な表現だが、言葉を支えていたリアリティがボロボロと崩れ落ちて、ほとんどナンセンスなものになっていると言えばいいだろうか。
 私は、上田啓太ではないと思う。

 ほらほら。もういけない。まちがいではないかもしれないけど、こんなことを考えている人は社会ではやっていけない。正しいかどうかはさておき、多数派でないことはまちがいない。


 終盤は哲学の本を読んでいるようでぼくにはほとんど理解できなかった。興味があったのは「2000連休がどんなふうに終わって一般の社会に戻るのか」だったのだけど、これといった出来事が起こるわけでもなく、なんとなく連休が終わる。

 まあ現実だから仕方ないけど、ストーリー的にはものたりなかったな。


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2022年11月14日月曜日

【感想】まほうのレシピ(Just Add Magic)

まほうのレシピ(Just Add Magic)

内容(Amazon Prime より)
ケリーと彼女の親友2人は不思議な料理本を見つけ、その中のレシピには魔法がかけられていることを知る。ケリーのおばあちゃんにかけられた呪いを解くために3人は次々と料理を作っていく。そして魔法の料理を作る者はその効果の代わりに特別なことが起きることを知る。過去に起きた事件と料理本に隠されたナゾが明かされるとき、さらなる大きな秘密が暴かれる!


 Amazon Prime にて鑑賞。

 おもしろかった。Amazon Prime では「キッズ」カテゴリに入っているが、大人でも楽しめる。というか、子どもにはこの複雑なストーリーを理解するのはなかなかむずかしいとおもうぜ。

 シーズン1からシーズン3までを家族で観た。ドラマをはじめて観る長女(9歳)もおもしろがって、1話観るたびに「もういっこ観よう!」と言っていた。毎回気になるところで終わるんだよなあ。


 主人公は仲良し三人組の女の子、ケリー・ハンナ・ダービー。中一ぐらい。

 あるときから、ケリーのおばあちゃんが会話をできなくなる。おばあちゃんを大好きなケリーは心配するが、どうすることもできない。

 そんなとき、三人の前に奇妙のレシピが載った本が現れる。本に載っていた「おだまりケーキ」をつくったところ、食べた者が口を聞けなくなり、その副作用でつくった者のおしゃべりが止まらなくなる。なんと本は魔法の本だったのだ。

 しっかり者だが融通の利かないケリー、良くも悪くも慎重派のハンナ、だらしないが他人にも寛容なダービーと性格の異なる三人が、ときに助け合い、ときに喧嘩をしながら様々な問題を解決する物語。


 ということで、以下感想。ネタバレがんがん含みます



■シーズン1

「はいはい、女の子たちが魔法の料理を使っていろんな問題を解決する1話完結のお話ね」とおもって観はじめたのだが、そんな単純なものではなかった。

 たしかに基本は1話完結で、
問題発生 → 魔法の料理を作る → 魔法の失敗、魔法が効きすぎる、魔法の副作用などで新たな問題発生 → 試行錯誤して解決
という流れが多い。だが、すべての問題が解決するわけではない。

 あれこれ魔法の料理を作っても、おばあちゃんの具合はいっこうに良くならない。魔法は悩みを解決してくれるが、ひとつ解決するたびに新たな悩みが生まれる。

 さらにはシルバーズさん、ママPという謎を秘めたキャラクターたちも魔法について何かを知っている様子。はたして彼女たちは何を知っているのか、そしておばあちゃんに何が起こったのか……。

 このシーズン1を観ると、もう止まらなくなる。

 特におもしろかったのが登場人物に対する評価が二転三転するところ。

「あ、ママPって意外といい人なんだ」「シルバーズさんは怖い人と見せかけて意外といい人、と見せかけて何か企んでいる?」「ママPもシルバーズさんも呪いをかけあっていたのなら、もしかしておばあちゃんも?」
と、あれこれ推理しながら楽しめた。

 終盤、ママPがサフランフォールズのみんなに毒づくシーンは最高。ママP役俳優の怪演が光る。よくこんな嫌いな町で客商売やってたな。逆に感心する。

 主人公だし、しっかり者だとおもっていたケリーが暴走してしまう展開もおもしろい。いちばんヤベーやつじゃねえか。逆に、だらしないケリーにいちばん好感が持てる。友だちにするならだんぜんケリーだな。まあいちばんいい奴なのはジェイクなんだけど。優しいし、勤勉だし、向上心も強いし、料理はうまいし、なんでジェイクがモテないのかがわからん!


■シーズン2-1

 シーズン1で一応おばあちゃん問題は解決したが、新たな問題が発生。それが過去から来た少年・チャック。

 どうやらチャックは悪いやつらしいが、彼がどこから来たのか、何を狙っているのかは不明。主人公たちのそばをうろついて、何やら機をうかがっている様子なのがいかにも不気味。

 このシーズンでは、チャック問題に加えて、ケリーの母親の市長選出馬、ダービーの父親の再婚、ハンナの転校といったサイドストーリーも充実。

 意外とかわいいシルバーズさん、相変わらず口は悪いけどジェイクの前では意外と素直なママPなど、主人公たちに加え、OC(おばあちゃんたち)のキャラも光ってくる。

 終わりが唐突な印象だったのが残念。あわてて風呂敷を畳んだような。チャックの心情があまり見えないまま過去に帰っちゃったもんね(また後で出てくるけど)。もう少し心境の変化が語られてもよかったのに。結局、旅人が誰だったのか最後までわからないままだったし(シーズン3まで観てもよくわかんない)。

 ぼくがいちばん好きだったシーンは、ここでもやっぱりママP。OCたちがチャックに呪いをかけてラベンダーハイツに閉じこめるんだけど、そのときのママPのうれしそうな顔! 自分に何十年もかけられてた呪いを他人にかけるのがうれしくてたまらないという顔をしている。

 ところで、テリー(ケリーの母親)もそうだけど、サフランフォールズの住人はラベンダーハイツを嫌いすぎじゃない? 何があったんだ?


■シーズン2-2

 2-1から出ていたRJやノエル・ジャスパーといった新キャラが活躍。「間の者たち」との新旧「本を守る者」の対決構図。

 昔の恋人に嫌がらせをしていたRJはともかく、魔法を使って店を繁盛させていたノエル・ジャスパーはそんなに悪いやつか? なんかすごい悪者みたいに描かれてたけど、主人公たちだって序盤はけっこう私利私欲のために魔法を使ってたじゃん!


 主要な登場人物たちが次々に魔法に関する記憶を失ってゆく。はたして記憶を奪っているのは誰なのか、そしてその人物の目的は……。

「姿の見えない敵」ということで、最もサスペンス色の強いシリーズかもしれない。次々に敵が現れては、消されてゆく。まるで『ジョジョの奇妙な冒険』のようなスリリングな展開だった。

 ぼくはずっとモリス先生が怪しいとおもっていたので「ほら!予想通り!」と喜んでいたのだが、まさかモリス先生じゃなかったとは……。

 個人的には、このシーズンの黒幕であるジルの思想には共感する。「この世から魔法を消す」ってのがジルの望みだったけど、いやほんと、魔法の記憶を失った方が幸せだよ。魔法は災いをもたらしてばっかりだもん。ケリーたちがやってることって全部魔法のしりぬぐいだし。魔法を使っているというより魔法に使われている。この後のシーズン3の展開を考えても、ジルの思い通りになっていたほうが幸せだったんじゃないの?

 それにしてもジルは学生時代と現在で性格変わりすぎじゃない? だらしなくて怠惰なキャラだったのに、選挙の参謀になれる?


■シーズン3

 ママPの店、シルバーズさんの庭、ケリーのトレーラーから魔法のスパイスが盗まれる。まったく犯人の目的が見えない中で三人は魔法を使って対抗しようとするが、三人の間に亀裂が生じ……。

 ここまでさんざん「意外な犯人」にだまされてきたのでもうだまされないぞと警戒しながら観ていたのだが、やっぱりだまされた。まさかあの人とは……。最も意外な黒幕かもしれない。

 最後の料理がジェイクリトー(ジェイクのオリジナルレシピ)だというのが胸が熱くなる。

 ストーリー自体は相変わらずおもしろいが、元々は自分たちの蒔いた種だということで、観ていて徒労感が強い。ほら、やっぱりジルの言う通り魔法の記憶をなくしといたほうがよかったじゃん、とおもっちゃうんだよね。無駄にトラブルを引き起こして、がんばってマイナスをゼロにしただけだもんな。

 最終話で未来の三人組が出てくるのもわくわくする。あまりに似ていたから、あれはCGなのかな?

 ママPとジェイクがつかずはなれずのラブコメみたいな関係になっていたことや、ママPとシルバーズさんが一緒にニューヨークに行くことに不安しかない(喧嘩しないわけがない)のとか、丸く収まりながらお余白を残した終わり方もおしゃれ。


■総括

 おもしろかった。子ども向けとはおもえない重厚なストーリー。ただ、後半はやや蛇足感もある。いや後半は後半でおもしろかったんだけど。でもシーズン2-1か2-2ぐらいで終わっててもよかったともおもう。

 美人やイケメンが出てくるわけでなく、登場人物たちがみんなふつうの見た目の人たちなのもいい。日本でもこういうドラマや映画をつくってほしいなあ。隙あらば美男美女をねじこんでくるからなあ。

 アメリカの文化が垣間見えるのもおもしろかった。向こうの学校の昼休みはこんな感じなんだ、授業は高度なことやってるなあ、陰湿ないじめはどこにもあるんだなあ、スマホを使いこなしているのはさすが現代っ子だなあ、と本筋とは関係のないところでもいろいろ得るものがあった。


 さて、次の〝本を守る者〟であるゾーイたちに本を引き渡して、続編である『まほうのレシピ ~ミステリー・シティ~』に続くわけだけど、そっちも観ているが今のところは1作目のほうが好き。まあたいてい続編は劣るものだけど。

『まほうのレシピ』の魅力は、主人公三人組よりも、OCやジェイク、パパやママといった魅力的なわき役たちにあったのだが、続編『ミステリー・シティ』のほうは主人公たちと適役以外の出番が少ない。

 漫画でも小説でも、脇役が魅力的なのがいいドラマだよね。


2022年11月8日火曜日

【読書感想文】アゴタ・クリストフ『悪童日記』 / パンツに手をつっこまれるような小説

悪童日記

アゴタ・クリストフ(著)  堀 茂樹(訳)

内容(e-honより)
戦争が激しさを増し、双子の「ぼくら」は、小さな町に住むおばあちゃんのもとへ疎開した。その日から、ぼくらの過酷な日々が始まった。人間の醜さや哀しさ、世の不条理―非情な現実を目にするたびに、ぼくらはそれを克明に日記にしるす。戦争が暗い影を落とすなか、ぼくらはしたたかに生き抜いていく。人間の真実をえぐる圧倒的筆力で読書界に感動の嵐を巻き起こした、ハンガリー生まれの女性亡命作家の衝撃の処女作。


 なんかうまく言葉にできないけど、ぞくぞくする小説だった。おもしろい、とはちょっとちがう。感動するわけでもないしハラハラドキドキする描写もほとんどない。新しい知識が得られるわけでもないし、意外なトリックが仕掛けられているわけでもない。でも、ぞくぞくする。ページをめくる手が止まらない。なんともふしぎな味わいの小説だった。



 いちばん奇妙だったのは、人の顔が見えないことだ。

 一人称で書かれた小説なのに自我がまるで感じられない。主語は常に「ぼくら」だったり「ぼくらのうちひとり」だったりで、「ぼく」としての語りはまったくない。双子それぞれの名前も一切出てこない。誰も彼らを名前で呼ばない。

 固有名詞がないのは「ぼくら」だけでない。登場人物たちは「おばあちゃん」「将校」「従卒」「女中」などと肩書で呼ばれ、名前があるのはせいぜい「兎っ子」ぐらい。それもあだ名だが。

 地名も「大きな町」「小さな町」などで、著者の経歴を知ればナチス占領下のハンガリーであることは容易に読みとれるものの、作中に具体的な国名などは一切出てこない。

 とにかく、具体性、自我がまるで見えない。

 にもかかわらず、登場人物たちの姿は活き活きと描かれている。

 強欲で口汚くて夫を毒殺した噂のあるおばあちゃん、目の見えない隣人と知的障害のある娘、少女に猥褻行為をする司祭、ぼくらを性的にかわいがる将校や女中……。

 戦争文学なのだが、反戦メッセージがあるわけではない。登場人物たちはことごとく非道。もちろん「ぼくら」も例外でなく、嘘や盗みを平然とはたらく。場合によっては命を奪うことも辞さない。生きるためだけでなく、ただ純粋に興味本位で悪をはたらくこともある。その一方で勉強熱心で勤勉で正直という極端な一面も持ちあわせている。


 登場人物たちに善人はいないが、根っからの悪人もいない。いや、現代日本人の感覚からすれば悪人だらけなのだが、『悪童日記』の中では悪人ではない。なぜなら、戦時下だから。

 戦時下で死と隣り合わせの状況では、欲望に対してずっと正直になるのだろう。『悪童日記』の登場人物たちは、タテマエや世間体よりも己の欲望を優先させている。それが、彼らが活き活きとしている理由だろう。

 平和を愛する日本人であるぼくはもちろん戦争なんてまっぴらごめんだが、でも欲望に忠実な彼らの生活は案外悪くないかもなとおもわされる。嘘や飾り気のない人生なのだから。



 もっともぞくぞくしたのが、ラストの父親が訪ねてくるシーン。スパイ容疑をかけられて拷問を受けた父親の亡命を助ける「ぼくら」。こいつらにもこんな人情味があったのか……とおもいきや、まさかのサスペンス展開。おお。ぞわっとした。

 ずっとユーモラスな雰囲気が漂っているのが余計にこわい。


『悪童日記』を読んでいると、ふだん「社会性」という仮面の下に隠している獣の部分を暴かれるような気がする。ぼくも一応はちゃんとした社会人のふりをしているけど、状況が変われば金や性欲や食い物のために、他人を踏みつけにする人間だということをつきつけられるような。

 まるでパンツの中にいきなり手をつっこまれたような感覚になったぜ。うひゃあ。


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2022年11月7日月曜日

【コント】原稿持ち込み

「お願いです。これ読んでいただけませんか」

「えっ、これなに……?」

「ぼくが書いた小説です。ぼくの命そのものです。ぜひ読んでいただきたい、そして出版していただきたい。そうおもってお持ちしました!」

「持ち込み……? いや困るよ、君」

「アポなしでやってきて失礼なことは重々承知しております。ですが、お願いです。一度でいいので読んでいただけないでしょうか!」

「アポとかの問題じゃなくて、そもそもうちはそういうのやってないから

「そこをなんとか!」

「なに、君。作家デビューしたいの?」

「はい! 自信はあります。読んでいただければわかります!」

「それだったらまずは賞に応募して……」

「ぼくの作品は既存の賞のカテゴリに収まるようなものではないんです。それは読んでいただければわかります! 読んで、つまらなければ燃やしていただいてもけっこうです! ぜひ一度!」

「いやだって君……」

「はい!」

「うちは本屋だからね」

「……えっ?」

「……えっ?」

「それがなにか……」

「いやいや。原稿を読んで、おもしろいかどうかを判断して、出版するかどうかを決めるのはうちの仕事じゃないから」

「えっ!? こんなに本があるのに?」

「関係ないから。うちは出版社や取次から送られてきた本を並べて売ってるだけだから。出版にはかかわってないから」

「ええっ」

「本屋にやってきて原稿を本にしてくださいって。君がやってるのは、漁師にさせてくださいって魚屋にお願いするようなものだからね」

「えっ、漁師になるためには魚屋に行くんじゃないんですか……?」

「ああ、もう、とことん非常識だね! 学校の社会の授業で習ったでしょ。商品の流れとか」

「ぼく、学校に行かずにずっと原稿書いてたんで知らないんです。十五年かけてこの原稿を書いてたんで」

「うわ……」

「ここがちがうなら、どこに持ち込めばいいんでしょうか」

「そりゃあ出版社だろうけど、でも君の場合はまず一般常識を身につけてから……」

「シュッパンシャってとこに行けばいいんですね! わかりました! ありがとうございます!」

「あーあ、行っちゃったよ。ほんと非常識な子だな……。あれっ、原稿忘れていってんじゃん。命そのものじゃないのかよ。まったく、あんな変な子がいったいどんな小説を書くのか、ちょっと読んでみるか……」


「えっ、嘘だろ!? めちゃくちゃ平凡!」


2022年11月4日金曜日

大盛り無料の罠

 大盛り無料の罠にひっかからなくなった。ぼくも大人になったものだ。


 若い頃は幾度となくひっかかってきた。

 大盛り無料! ってことは大盛りにしないと損するってことじゃん!

 で、明らかに身の丈にあわない量のごはんを前に苦労することになる。胃もたれするおなかをかかえて会計をしながら「もう大盛り無料はやめとこう」と決意する。

 だがその決意もつかぬま、のどもとすぎればなんとやらで数週間後に訪れた定食屋でおばちゃんから「大盛り無料ですけど」と言われたとたんに「今日はいけそうな気がする」と注文してしまうのだ。


 もっと若い頃は大盛りでも余裕でいけた。

 学生街の定食屋でからあげ定食(大盛り)を頼んだら、特大からあげ十個とふつうの茶碗三倍分ぐらいのごはんが出てきてさすがにそのときはごめんなさいと言って残したが、そんなクレイジーな店をのぞけば大盛りでも余裕でこなせた。有料でも大盛りにすることもあった。


 しかし若いつもりでも、肉体は時が経てば衰える。特に内臓の衰えは深刻だ。ちょっと食べすぎたり、ちょっと脂っこいものを食べると、てきめんに具合が悪くなる。

「無理って言ってるじゃないすか……。もう若くないんすよ」
という胃の声が聞こえる(若い人には信じられないかもしれないが、中年になると己の内臓と会話ができるようになるのだ)。

 手痛い失敗を何度もくりかえし、ぼくは学んだ。「大盛り無料」は罠だ。あれはサービスではない。店が、中年をいじめるために仕掛けているトラップなのだ。

 大盛り無料の罠にひっかからない人。それこそが分別ある大人なのだ。


2022年11月2日水曜日

いちぶんがく その17

ルール


■ 本の中から一文だけを抜き出す

■ 一文だけでも味わい深い文を選出。



マイがいつものようにすっかり話に置いて行かれた顔で言った。

(冲方 丁『十二人の死にたい子どもたち』より)




ゼロ除算は全人類の目の敵なのです。

(いっくん『数学クラスタが集まって本気で大喜利してみた』より)




薄気味悪い笑いを浮かべたクラスメイトを破ってしまいたいと思った。

(又吉 直樹・ヨシタケシンスケ『その本は』より)




また、試合開始早々にベンチに下げられても、ロッカールームを爆破してやるなどと脅迫することもなかった。

(R・ホワイティング(著) 玉木 正之(訳)『和をもって日本となす』より)




鞠子は、遠慮とはさせるもので、するものではないと思っている。

(吉田 修一『パーク・ライフ』より)




例えば、電話の通話、 野球のホームランの数、コンピュータのプログラム、スポーツジムのトレーニングプログラム、 柔道の試合や、技の数(技あり一本)などにも使われる。

(今井 むつみ『ことばと思考』より)




私の考えがひどくゆがんでいたとしても、それを押しつけることができるのだ。

(マシュー・O・ジャクソン『ヒューマン・ネットワーク 人づきあいの経済学』より)




一人になりたいときには、テニスの松岡修造のような暑苦しいキャラクターは嬉しくありません。

(青木 貞茂『キャラクター・パワー ゆるキャラから国家ブランディングまで』より)




出会いはいつも平凡で、シングルカットされるような劇的な瞬間なんて、ひとつもなかったのです。

(岡本 雄矢『全員がサラダバーに行ってる時に全部のカバン見てる役割』より)




あなたや私のなかには、たくさんのアウストラロピテクスがいるのである。。

(ダニエル・E・リーバーマン(著) 塩原 通緒(訳)『人体六〇〇万年史 科学が明かす進化・健康・疾病』より)




 その他のいちぶんがく


2022年11月1日火曜日

【読書感想文】ニコリ『すばらしい失敗 「数独の父」鍜治真起の仕事と遊び』 / マニアでないからこその良さ

すばらしい失敗

「数独の父」鍜治真起の仕事と遊び

ニコリ

内容(ニコリ直販ショップより)
株式会社ニコリの初代社長で「数独」の名付け親・故鍜治真起の評伝本。パズルの素人がいかにしてパズルの会社を立ち上げ、数独を世界に広めたか。生い立ちから晩年まで、鍜治真起に関わった多くの人のインタビューを元に人物像を掘り下げていく。80年代に産声を上げた『パズル通信ニコリ』がどのように続いてきたかの記録でもある。

『ニコリ』という雑誌を知っているだろうか。

 総合パズル雑誌。クロスワード、まちがいさがし、迷路、虫食い算といった定番のパズルから、オリジナルのパズルまで様々なパズルが掲載されている雑誌だ。

 ぼくとニコリの出会いは小学生の頃。父親が『数独』という本(ニコリ用語でいう〝ペンパ本〟)を買ってきて、たちまち夢中になった。あっという間に一冊をやりつくしてしまい(もっとも難しい問題はできなかったが)、一度解いた問題を消しゴムで消してもう一度解いたりしていた。

 父親は他のパズル本(『ぬりかべ』や『スリザーリンク』)も買ってきた。これもすぐにとりこになった。『スリザーリンク』は今でも好きなパズルのひとつだ。そして、それら様々なパズルを乗せた『ニコリ』という総合パズル雑誌があることを知った。もちろん買った。なんておもしろい雑誌なんだろうとおもった。

 当時、ニコリのパズル本は一般の書店には置いていなかった。ごく限られた書店か、おもちゃ屋などで売られていた。郊外に住んでいたぼくは電車で二時間かけて梅田のキディランドまで『ニコリ』を買いに行っていた。

 だが、季刊(年四回発行)だった『ニコリ』は隔月刊になった(後に月刊となるが、現在はまた季刊に戻っている。こんなに刊行形態が変わる雑誌もめずらしい)。学生だったぼくにとって頻繁に買いに行くのはむずかしく、ついには定期購読を申しこんだ。中高生の頃はずっと小遣いで二コリを定期購読していた。

 パズルを解くのはもちろん楽しかったし、『ニコリ』は懸賞もおもしろかった。いつだったか(平均大賞だったかな?)景品のシールをもらった喜びは今でもおぼえている。自分でパズルを作って投稿したこともある。採用はされなかったが。

 今はもう定期購読はしていないが、それでもときどき書店で見かけると、ためらいながらもついつい買ってしまう。買うのをためらう理由は、おもしろすぎるからだ。なにしろ一冊で数十時間遊べるのだ。こんなにコスパのいい雑誌は他にちょっとあるまい。長時間遊んでしまうので買うのをためらってしまうのだ。



 そんな『ニコリ』創業者のひとりで、「数独」の名付け親でもある鍜治真起氏が2021年に亡くなった。海外では「Godfather of Sudoku(数独の父)」の異名も持つ鍜治真起氏について、近しい人たちからのコメントを集めた評伝。


 意外だったのは『パズル通信 ニコリ』創刊メンバーの三人ともが、さほどパズル好きだったわけではなかったこと。

 こうして、「パズルへの熱い思いが高じて」といった理由ではなく、「世の中にないものを作りたい」という理由で、三人はパズル雑誌作りを始めた。パズルがテーマになったのは偶然のなりゆきで、パズルは雑誌を出すための手段だったのだ。だが、そこに三人の思いは重なった。
 ただもちろん、雑誌を作るためにいろいろなパズルを解いたり作ったりしていくなかで、こののち、三人はパズルの面白さにハマっていくのである。走り出してから、パズルのとりこになっていった。
 のちにニコリの四人目のメンバーとなる小林茂さんは、創業メンバーの三人について「三人のベクトルは、ちょっとずつ違うものだった」と見ていた。「三人とも『何かをつくり たい、創造したい』という思いが中心にあった。その上で、(樹村)めい子さんはパズルのほうに興味があって、(清水)眞理さんは漫画を含めたイラストで創造したいと。鍛冶さんはコピーや文章を書いて、何か媒体を持ちたいと。それがニコリに結実したんじゃないかと思います」

 何かを作りたい、という思いがそれぞれにあり、そのためのテーマがたまたまパズルだっただけ。

 ぼくはてっきりパズルを愛してやまないパズルマニアがつくった雑誌だとおもっていた。でも「他の何よりもパズルが大好き」という人たちでなかったのが逆に良かったのかもしれないね。思いの強い人が作っていたら、細部まで徹底的に作りこむ分、他者が参加する余地は少なかったんじゃないだろうか。

『ニコリ』の魅力はなんといっても、そのゆるさ、参加しやすさにあった。昔から今までずっと読者投稿にページを割いているし、掲載されているパズルの多くは読者の投稿によるものだ(ぼくも中学生のときに投稿したことがある。採用されなかったけど)。

 また『ニコリ』の名物企画といえば『ゴメン・ペコン』のコーナー。これは、前号の内容に不備があったことをお詫びするコーナーだ。読者から指摘されたパズルのミス(どうやっても解けない、別解あり)や、誤植、校閲ミスをお詫びするコーナーだ。これがレギュラーコーナーとして毎号載っている。このゆるさこそが『ニコリ』の魅力で、これによって読者は「自分もいっしょに雑誌をつくっている」という感覚を味わうことができる。ぼくも誤植を指摘したことがある。

 つまり『ニコリ』編集部は謙虚なのだ。それは創業メンバーが「パズルの知識なら誰にも負けない」といった思いを持っている人でなかったからこその謙虚さだったのだろう。



 時代も良かったのだろう。

 ニコリが創刊された1980年代は雑誌が元気だった時代だ。『ぴあ』(1972年~)や『本の雑誌』(1976年~)など、資本をもたない若者が、手作り雑誌によって世に出ることができた時代。

 だからこそ『ニコリ』もパズル雑誌としてスタートできたのだろう。きっと今の時代だったら、若者たちが何かを作りたいとおもったとしても、集まって雑誌を作るなんて面倒なことはせず、SNSやYouTubeでかんたんに発信・発散してしまうだろうから(それはそれで新しい文化としていいんだけど)。

 そこまでパズル好きというほどでもない三人がつくったパズル雑誌が出版不況の今でも続いていて、世界中で愛されているというのはなんともふしぎなものだ。



 ぼくは『ニコリ』という雑誌や会社は大好きだが、創業者の鍜治真起さんについては名前しか知らなかったので、この本に書かれている鍜治さん個人のエピソードについては興味を惹かれなかった(特に生い立ちのあたり。波乱万丈な人生送ってるわけでもないし)。

 いちばんおもしろかったのは、安福良直さんという人の入社の経緯。

 安福さんは中学時代、「虫くい算」というパズルに関する本を親に買ってもらい、夢中 になった。虫くい算とは、完成していた計算式(おもに筆算)が虫に食われて「口」の穴になり、その口に0から9までの整数のどれかを入れて、元の計算式を復元しようという計算パズルである。安福さんは独自に研究し、巨大な虫くい算の作りかたを発見、あとは計算を進めて完成させるだけだ、という地点にまでたどり着く。
 孤独で壮大な研究成果が完成した暁には、どこかで発表したい、と考えた安福さんは、本屋に行き、パズル雑誌を二、三冊購入した。そのひとつが、『パズル通信ニコリ』だった。一九八六年夏、京都大学理学部の一年生のときのことである。
 読み比べてみると、ニコリが最も投稿作品を受け付けているし、虫くい算も載っているし、数独など、ほかの数字パズルも載っていた。虫くい算ができたらニコリに送ろうと決め、ニコリに掲載されていた各種パズルを解いてみたところ、見事にハマった。すぐに自分でも数独やカックロなどを作り、ニコリへ投稿するようになる。
 投稿生活と並行して完成させた虫くい算も、満を持して、ニコリに送ったのだった。
 その虫くい算は割り算の筆算で、一二桁+小数点以下一桁の数を一二桁の数で割り、その計算を延々と小数点以下、二万四一〇桁まで進めたものだった。しかもすべての数字が口になっていて、明かされている数字はひとつもない。パズルなので、答えはもちろんひとつだけだ。
 ひとつの口を五ミリ角で紙に書いたこの筆算は、広げると横約一〇〇メートル、縦約一八〇メートルもの超巨大サイズとなった。安福さんはその紙をひたすら折りたたんで、段ボール箱に入れた。さらに、この虫くい算の答えがひとつであることの証明と、この作品ができるまでの過程などを書き綴った一冊の大学ノートも添え、ニコリに送りつけたのである。

 すげえなあ。二万桁以上の虫くい算……。

 ちなみにこの安福さん、これが縁で後にニコリに入社し、現在は鍜治さんの跡を継いで社長になっているというからなんともドラマチック。すごい縁だなあ。

 そういやこの本を読んでいるときにふとおもいだしたんだけど、ぼくが大学生のとき、就活に疲れてふと「『ニコリ』で働くのは楽しそう」とおもって、ニコリに電話をしたことがあった。「新卒採用やっていますでしょうか?」と尋ねて「現在はやっていません」と言われてあっさり諦めたんだけど、それじゃあダメだよなあ。そこで超大作パズルをつくって送りつけるぐらいのことをしないとニコリには入れなかったんだよなあ。


 鍜治さん個人の人となりについては食指が動かなかったが、ニコリという会社の浮き沈みについて書かれたあたりはおもしろかった。

 一読者から見れば『ニコリ』は順調にやっているように見えたけど、経営の失敗でつまづいたり、借金を抱えたり、けっこういろいろあったんだなあ。おもいだせば、季刊→隔月刊→月刊になったころは迷走していたなあ。

 またいつ危なくなるかわからないから、ファンとしてちゃんと買わなくちゃなあ。




 ところでこの本の書名になっている「すばらしい失敗」とは、海外で数独ブームがきたのにニコリが「SUDOKU」を海外で商標登録していないために儲けそこなったことを指す。

 鍜治さんはこの〝失敗〟をむしろ誇りにしていて、それによって数独が世界中に広まったことを喜んでいたらしい。まあ数独自体が鍜治さん考案のパズルではないので(名付け親であり、育ての親ではあるが、産みの親ではない)、商標登録をしなかったのはいいことだとぼくもおもう。こういうところが『ニコリ』が愛される所以なのだ。


 ついでに、この本に載っている好きな逸話。

 椎名誠が朝日新聞で創業間もないニコリを紹介したときに書いた「これが売れても大手は荒らすなよ」という言葉。

 せっかく若者が総合パズル雑誌という大手未開拓の海に船出したのだから、大手が資本にものをいわせて市場を荒らすんじゃねえぞというメッセージ。じつに粋だ。

 そうやって船出したニコリがパズル界のトップランカーになったとき、「SUDOKU」を商標登録せずに海外のパズル制作者たちに門戸を開いたというのはなんとも素敵な話じゃないか。ねえ。


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