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2025年2月20日木曜日

【読書感想文】『知りたくなる韓国』 / 政治参加せざるをえない国

知りたくなる韓国

新城 道彦 浅羽 祐樹 金 香男 春木 育美

目次
第1部 歴史
 第1章 朝鮮王朝時代
 第2章 大韓帝国~日本統治時代
 第3章 米軍政~大韓民国時代
第2部 政治
 第4章 韓国という「国のかたち」
 第5章 韓国外交における日韓関係
 第6章 南北関係とコリア・ナショナリズム
第3部 社会
 第7章 変化する韓国社会
 第8章 韓国家族の「いま」
 第9章 韓国の教育と就職事情
第4部 文化
 第10章 再考される伝統
 第11章 交差する文化
 第12章 模索しつつある韓国

 韓国のことを知りたかったので手に取った。池上 彰『そうだったのか!朝鮮半島』と同時に読み進めていたので理解しやすかった。



 韓国といえば民主国家というイメージを持っていたけど、実態として民主国家と呼べるようになったのは1987年以降のことで、それまでの大統領は「権力を失えば命や財産を奪われる」状態が続いていた。

 政党間の政権交代は1987年の民主化以降、30年間ですでに3回を数えます。現在の与党「共に民主党」と最大野党の自由韓国党に連なる2大政党の間で初めて政権交代が起きたのは、3回目の大統領選挙を通じた98年のことでした。2008年と17年にも入れ替わったため、与野党それぞれの立場をどちらの側も2回ずつ経験したことになります。
 選挙を通じた政権交代が可能になると、「革命」を起こす必要はなくなりますし、大統領の側も所定の任期を守り自ら退くようになりました。文在寅大統領は朴槿恵大統領の弾劾・罷免を「ろうそく革命」と称していますが、弾劾罷免はあくまでも憲法の所定の手続きに則って行われましたし、文在寅は選挙で選ばれたからこそ大統領という公職を任せられているのです。
 このように選挙が「街で唯一のゲーム」となり、そのルールブックたる憲法がすべてのプレーヤーに受け入れられることが重要です。何より、多数決による政治的競争(選挙)における敗者(少数派)が結果を甘受し、競争や体制の正統性に同意することが欠かせません。

 もっとも、1987年以降に大統領についた人に関しても、盧泰愚、李明博、朴槿恵は収賄などで有罪判決を受けており、なかなかきなくさい状況に変わりはないのだけれど……。




 暗殺やクーデター、大統領の暴走など(最近もあったね)いろいろ問題の多い韓国の政治ではあるけれど、それがポジティブな効果も生んでいるようだ。

 韓国人は政治や社会への関心が高く、とくに1980年代、学生の力で民主化を勝ち取った歴史には大きな意味があります。人権や言論の自由、より良い社会を作りたいという学生・市民の強い意志が直接的な行動を促しました。87年に韓国の民主化運動は頂点に達し、大学生と市民の力で軍事独裁政治に終止符を打ちました。その民主化の中枢にいたのが、「386世代」です。この言葉が生まれた90年代当時、「30歳代で、80年代に大学生活を送った60年代生まれ」の世代として、現在は50歳代で「586世代」とも呼ばれています。この民主化運動の時代を過ごした「386世代」は政治的団結ノムヒョン力が高く、盧武鉉大統領が当選するうえで大きく寄与したとされます。
 (中略)
 国全体が豊かになったなかで、格差社会が生んだ現象といえる就職難に直面している若者たちが、自ら「ろうそくデモ」を主導してきたことは大きな意味をもちます。市民団体の影響力が強い韓国では、ツイッター、フェイスブックなどのSNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)と連動した路上デモや、「認証ショット」のように「投票へ行きました」と投票場で写真を撮ってSNSに投稿するなど、若年層を中心とした積極的なネット選挙運動が、2017年の政権交代につながったといわれています。直接的な行動が、政治や社会を動かせると人々は思うし、SNSの普及は若者の政治参加を促しています。韓国の10代20代の若者には、自分たちの置かれた状況は自己責任だけではなく、社会構造上の問題であるという認識が広がり、大学授業料半額デモなどさまざまなかたちで声を上げています。

 韓国人は若者も含めて政治参加意識が高いという。そりゃあなあ。ちょっと気を抜くと大統領が戒厳令を出したりする国なんだから、市民がちゃんと見張ってないといつ己の命や財産が危険にさらされるかわからないもんね。

 中国、北朝鮮、ロシアみたいなあぶなっかしい国々との距離も日本よりずっと近いし、そもそも今も戦争中の国だし(朝鮮戦争は終戦したわけでなくあくまで“休戦”状態)、いやおうなく政治や国際情勢には敏感になるだろう。

 そう考えると、日本人は政治参加意識が低いとか、若者の投票率が低いとか、悪いことのように言われるけど、平和の裏返しでもあるんだろうなあ。「誰が選ばれたってどうせ一緒でしょ」ってのは幸せなだよな。


 そしてつくづくおもうのは、大統領制(アメリカや韓国のように強い権限を持つ大統領制)ってぜんぜんいいシステムじゃないってこと。意思決定が早いとかのメリットもあるんだろうけど、一人に強大な権力を持たせるのはやっぱり不安定すぎる。権力は暴走するのが常だし。尹錫悦大統領の非常戒厳宣言や、トランプ大統領のあれやこれやを見ていると、権力が分散していた方が国民にとってはいいとおもえる。

 あんな危なっかしい制度を抱えていて、よく国としてまとまっていられるなと感じる。




 韓国は日本以上に若者が暮らしにくい国のようだ。

 高齢化は進み、2023年の合計特殊出生率は0.72だそうだ(日本は1.26)。3組の男女がいて、平均2人ぐらいしか子どもが生まれないのだ。かつて産児制限政策をおこなっていたのでそもそも若者の数自体が少ないし。今後、日本よりすごいスピードで高齢化が進むかも。

 韓国では就職氷河期が始まった2010年頃から、恋愛・結婚・出産を放棄する若者を「3放世代」と呼んでいましたが、近年はさらに就職やマイホームだけでなく、人間関係や夢さえも望みが持てない「7放世代」を超えて、健康や外見など人生のすべてを放棄した「N放世代」という呼称まで登場しました。2015年頃からは人間としての希望を失い、将来に対する不安と韓国社会に対する不満から、地獄のような韓国という意味の新造語「ヘル(hell)朝鮮」という言葉も生まれました。また、「土のスプーン(生まれながらの貧富の差を意味)」など、若年層に存在する格差への認識からは新階級論的な言説も生み出されています。富裕層の子どもを意味する「金のスプーン」に対比される言葉で、自分が財産のない庶民層に生まれたことを自嘲する表現です。
 ハンギョレ経済社会研究院の、19~34歳の若年層1500人を対象にした「青年意識調査(2015年)」では、社会的な成功において「自分の努力よりも、親の経済的地位が重要だ」と答えた人は7割を超えました。同年に発表された東国大学の金洛年教授の論文「韓国における富と相続」によると、個人の財産に占める親からの相続(贈与を含む)の割合は、1980年代の27%から2000年代には42%へ増加しており、本人の努力や能力より親から受け継いだ資産や不動産によって、財産の規模が決定されることが明らかになりました。相続による富の格差がますます拡大している韓国では、本人が努力しても現状を打破できず、放棄・絶望・リセットという言葉が、今日を生きる若者のキーワードとなっています。

 このへんの閉塞感は日本に近い。というより韓国が日本の状況を先取りしたというか。

 韓国は日本より人口も少ないので内需が小さく、アジア通貨危機のときに多くの企業がつぶれて外資が入ってきたので、国内の企業がそう多くない。おまけに今でも財閥が幅を利かせていて政治と強く結びついているので、財閥以外の企業は不利な立場に置かれ、賃金も上がらない。

 久しく安定している韓国だけど、またクーデターが起こる日は遠くないかもしれない。


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2025年2月18日火曜日

【読書感想文】池上 彰『そうだったのか!朝鮮半島』 / 約束よりも感情が優先される国

そうだったのか!朝鮮半島

池上 彰

内容(e-honより)
今、日韓関係は「史上最悪」と言われる。両政府は激しく対立し、互いの国民感情の悪化も報じられるなど、多方面に影響が及んでいる。一方、北朝鮮は核開発を進め、日本を威嚇するかのようにミサイル発射実験を繰り返している。なぜ、日本と隣国の韓国や北朝鮮との間に問題が起きてしまうのか。朝鮮半島の歴史を辿り、そもそもの原因をジャーナリストの池上彰が解説。フェアな視点で学べる一冊!

 朝鮮半島の近代史を説明した本。2014年刊行なのでちょっと古いが、近代以降の韓国・北朝鮮の歴史がよくわかる。

 ただ歴史を学ぶだけでなく「なぜ北朝鮮はあんな国になったのか」「なぜ韓国は日本に対していつまでも賠償を求めてくるのか」といった思想背景もよくわかる。

 北朝鮮に関してはだいたい事前の印象通りだったが、この本を読んで見方が変わったのは韓国のほうだった。



 1945年の日本敗戦(ポツダム宣言受諾)により、それまで日本に併合されていた朝鮮半島は、日本から離脱。ただしすぐに独立国になったわけではなく、北部はソ連、南部はアメリカの占領下におかれ、3年後の1948年に朝鮮民主主義人民共和国、大韓民国がそれぞれ独立している。

 このあたりの経緯がなんとも韓国、北朝鮮の立場をややこしくしている。

 もし韓国が日本と戦争をしていたなら話はかんたんだ。「我々は日本と戦い、勝った。そして独立を手にした」と誇ることができる。

 だが朝鮮は国として日本と戦ってはいないから戦勝国ではない。太平洋戦争中は日本の一部だったのだから、見方によっては敗戦国側ともいえる。「戦って勝ち取った独立」ではなく「棚ぼた的に転がりこんできた解放」だったのだ。

 被占領下で独立のために戦っていた人たちもいたが、その人たちは建国には関わっていない。むしろ、体制(日本)側についていた人たちがアメリカの後ろ盾を得て建国したのが韓国という国だ。だから「我々は日本から独立を勝ち取ったのだ」とは素直に言いづらい。


 その点、北朝鮮はもうちょっとわかりやすい。

 北朝鮮建国の祖である金日成は、抗日ゲリラ戦を指導していたことになっている(実際はソ連に逃れていたのでそんなに戦っていないそうなのだが)。だから「戦って独立を勝ち取った」という神話がまかり通る。

 ここに韓国のコンプレックスがある。

 北朝鮮の指導者ばかりが日本と戦っていたわけではない。韓国の指導者も、日本と戦って祖国を建国した。こういう「建国神話」を作るため、「大韓民国臨時政府」の名前に頼ったというのです。
 (中略)
 北朝鮮は、抗日武装闘争で日本の支配と戦ってきた抗日ゲリラの指導者・金日成によって建国されたと主張しています。これ自体、実は「神話」でしかないことは、次の章で触れますが、北朝鮮が反日闘争を実践してきたという「正統性」を主張すると、韓国の指導者には具合が悪かったのです。新政府の中枢にいたのは、日本の植民地支配に協力した人物たちでしたし、李承晩は、アメリカでの生活が長く、日本の支配と直接戦っていたわけではなかったからです。

 このへんの「日本の植民地支配に協力した人たちが建国した」という後ろめたさのせいで、余計に反日運動が盛んになるのだという。戦って勝ち取った独立という“史実”がないからこそ、日本は我々の敵だという“神話”に頼る必要があるのだろう。

 この風潮は今でもずっと続いていて、韓国大統領は任期満了が近づいて人気・影響力が低迷しだすと、反日的な政策を打ち出して人気回復を図ることがくりかえされていると池上彰氏は指摘している。

 日本が韓国のことを考えている以上に韓国って日本のことを意識しているのかもしれないなあ。建国の経緯が経緯だけに。



  ずっと「北朝鮮は独裁国家、韓国は民主国家」というイメージがあったのだけれど、韓国が名実ともに民主国家になったのはおもっていたよりずっと最近なのだと知った。

 1980年代までは、大統領が自分の権力を強めるために憲法を改正したり、大統領の暗殺や軍事クーデターによって権力奪取がおこなわれたり、とても民主国家とはいえない状態が続いていた。

 全斗煥は、自分の後継者として、陸軍士官学校の同期で、常に自分と行動を共にしてきた盧泰愚を選びます。この盧泰愚が、大統領候補として、「国民大和合と偉大なる国家への前進のための特別宣言」を発表します。発表した日が六月二九日だったことから、この宣言は「六・二九民主化宣言」と呼ばれます。憲法を改正して、大統領は、議会による間接選挙ではなく、国民による直接選挙で選ばれるようにしたのです。
 また、言論の自由の保障や地方自治体での選挙を実施することも約束されました。

 この民主化宣言が1987年。ちょうど1988年のソウルオリンピックを境に、今のような民主国家になったのだそうだ。こういうのを見ると、今では「悪いやつらが金儲けする手段」になり下がってしまったオリンピック開催にも、ちゃんと意義があったんだなとおもえる。そういや日本も1964年東京五輪を機に街がきれいになったと言われてるしなあ。



 外国に対してはあまり悪い先入観を持たないように気を付けているのだが、それでも韓国といえば「昔のことをいつまでもいつまでもほじくりかえしてくる国」という印象が強い。


 1965年に締結された「日韓財産及び請求権に関する問題の解決並びに経済協力に関する日本国と大韓民国との間の協定」(日韓請求権協定)について。

 この条約により、日本は韓国に一〇年間にわたり計三億ドルを無償で供与すると共に、二億ドルを低金利で貸し出すことを決めました。それ以外に、日本の民間企業が計三億ドルの資金協力をすることになりました。
 問題は、この資金の意味です。「賠償」という言葉の代わりに、「経済協力」という言い方になりました。
 韓国は、これを自国向けに「賠償」と説明日本は「経済援助」あるいは「独立祝い金」と説明しました。
 両国の間の請求権に関しては、第二条に次のように記されています。
 「両締約国(著者注・日本と韓国のこと)は、両締約国及びその国民(法人を含む)の財産、権利及び利益並びに両締約国及びその国民の間の請求権に関する問題が、(中略)完全かつ最終的に解決されたこととなることを確認する」
 この条約により、韓国の国民が日本政府や日本の企業に対して損害賠償などの請求権を持てないことが確定しました。日本は韓国に賠償代わりに経済協力資金を渡しているのだから、後は韓国国内の問題である。韓国の国民が損害賠償を請求したかったら、韓国政府に言うべきことだ。これが、この条約以後の日本の主張です。
 ですから、日本政府に言わせれば、最近の韓国で、戦時中に日本の企業が韓国人労働者に対して未払いだった賃金を要求する裁判が起こされたり、いわゆる「慰安婦」に対する補償を求めたりする動きなどは、この条約に反している、ということになります。

 両国の間で「完全かつ最終的に解決されたこととなることを確認する」という条約が結ばれた。日本から韓国に莫大な資金協力もおこなわれた(それがなければ韓国は今のような経済発展を遂げられたかどうか)。

 にもかかわらず、その後もずっと賠償を主張しつづけている。

 それも、個人が好き勝手に言ってるだけではない。政府や、裁判所までが、過去に結んだ条約を無視して「賠償をしろ」と主張している。

 この感覚はとうてい理解できない。

 感情的には納得のできないものもあるだろうが、「これで最終的に解決したものとする」という条約を一度締結したなら、以降はそれに縛られるというのがたいていの日本人の感覚だろう。

 ところが韓国社会では、どうもこのへんの感覚がちがうようだ。


 日本に対してだけではない。国内の問題でも同じようなことをしている。

 盧泰愚前大統領は、在任中、武器購入や電力事業など、国家的な事業で手数料を取る一方、財界から裏献金を受けていました。両方の合計額は五〇〇〇億ウォン(当時のレートで約五二七億円)。
 あまりの巨額に言葉を失います。
 盧泰愚前大統領の罪状は、それに留まりません。軍政時代、光州事件で弾圧に手を染めた責任を追及されます。
 そうなると、責任があるのは盧泰愚前大統領だけではありません。さらに前任の全斗煥元大統領の責任も追及されることになります。盧泰愚前大統領は収賄容疑で、全斗煥元大統領は、大統領在任中のクーデターの首謀者の容疑で逮捕されました。
 しかし、当時の世論が要求した内乱罪は時効で適用できませんでした。
 時効で過去の罪を追及できないときには、どうするか。当時のことを追及できる法律を後から作り、過去を裁く。これが韓国流の法運用です。二人を逮捕した後で特別法を制定し、大統領在任中の時効を停止したのです。議会で「五・一八民主化運動等に関する特別法」と「憲政秩序破壊犯罪の時効等に関する特別法」が可決され、光州事件や軍事反乱などに対する権力犯罪の時効を停止しました。この特別法を根拠に、一九九七年四月、大法院(最高裁判所)は、全斗煥元大統領に無期懲役、追徴金二二〇五億ウォン(当時のレートで約二三二億円)、盧泰愚前大統領に懲役一七年、追徴金二六二八億ウォンの判決を言い渡しました。

 元大統領の過去の罪が明らかになる。なんとかして罰を受けさせてやりたい。だが法律ではもう時効なので裁けない。

 だったら過去にさかのぼって法律を変えて、昔の罪で裁けるようにしよう。

 これは一般に「法令不遡及の原則」に反するといって禁止されている行為である。どんなに今の感覚でひどいこととおもっても、それを裁く法律がなかった時代の罪は裁けない。日本国憲法第三十九条でも「何人も、実行の時に適法であつた行為又は既に無罪とされた行為については、刑事上の責任を問はれない。」と定められている。


 だが韓国ではその原則よりも「許せないから罰したい!」という感覚のほうが優先されるようだ(これが韓国の法体制が「国民情緒法」と揶揄されるゆえんである)。

 うーん、文化の違いといえばそれまでなんだけどさ。

 まあ日本でも、こういう感覚の人は多い。有名人の何十年も前の発言を引っ張り出してきて「あいつはかつてあんなことを言ってたぞ!」と糾弾する人間が。今の基準で昔の言動を裁くのは卑怯だとおもうんだけど(今の基準に照らしたら歴史上の偉人なんかみんな何かしらの人権侵害に加担してるわけだし)。

 とはいえ「許せないから罰したい!」タイプの人は、市井の人々やテレビ関係者には大勢いても、さすがに日本政府や裁判所はそこまで直情的じゃない。感情は感情として、でも法律や約束のほうが大事だよ、という姿勢を崩さない。

 個人的には理解しがたいけど、まあ文化に正解はないから、そういう隣人だとおもって付き合っていくしかないよね。


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2025年2月13日木曜日

【読書感想文】小川 哲『君のクイズ』 / 長い数学の証明のような小説

君のクイズ

小川 哲

内容(e-honより)
生放送のTV番組『Q-1グランプリ』決勝戦に出場したクイズプレーヤーの三島玲央は、対戦相手・本庄絆が、まだ一文字も問題が読まれぬうちに回答し正解し、優勝を果たすという不可解な事態をいぶかしむ。いったい彼はなぜ、正答できたのか? 真相を解明しようと彼について調べ、決勝戦を1問ずつ振り返る三島はやがて、自らの記憶も掘り起こしていくことになり――。読めば、クイズプレーヤーの思考と世界がまるごと体験できる。人生のある瞬間が鮮やかによみがえる。そして読後、あなたの「知る」は更新される! 「不可能犯罪」を解く一気読み必至の卓抜したミステリーにして、エモーショナルなのに知的興奮に満ちた超エンターテインメント!

 生放送のクイズ大会の決勝で、「一文字も問題が読まれないのに早押しボタンを押して正解」したプレイヤーが優勝した。

 多くの人が不正があったのではないかと考えたが、番組側も、優勝者も、「不正はなかった」以外は一切語らない。

 はたして不正はあったのか。もし不正がなかったのだとしたら、なぜ一文字も読まれていないクイズの問題に正解することができたのか――。この“難問”に決勝戦で敗れたクイズプレイヤーが挑む。



 おもしろかった。

 小説というより、長い数学の証明を読んだような気分だ。長い数学の証明を読んだことないけど。

 実際、ほとんど数学の証明のようだ。「一文字も問題文を聞くことなくクイズに正解できることを証明せよ」という問題がはじめに提示され、その問題に主人公が挑む。

 最初は『スラムドッグ・ミリオネア』みたいだな、とおもった。インドのクイズ番組出演したある無学な男が、難しい問題に次々に正解する。なぜ彼は難問に答えることができたのか? というストーリーの映画だ。


 だが『君のクイズ』は『スラムドッグ・ミリオネア』とはちがう。『スラムドッグ・ミリオネア』は決して少なくない偶然が起きていた。“奇跡の話”だ。

 だが『君のクイズ』は奇跡の話ではない。少しの偶然はあるが、きわめて論理的に「一文字も問題文を聞くことなくクイズに正解できることを証明せよ」という問題の正解にたどりつくまでの話だ。




『君のクイズ』は、クイズという競技の奥深さを紹介する本でもある。

 ぼくはクイズを知っているとおもっていた。テレビのクイズ番組はけっこう好きだし、なんならかなり得意なほうだ。高校のときにクラスでやったクイズ大会で優勝したし。

 だが、ぼくは本当のクイズを知らなかった。将棋でいうと「ルールと駒の動かし方を知っているだけ」の状態。入口に立っただけの素人だった。

 「誰も知らない問題に、たった一人で正解する──たしかに気持ちいい。最高の気分だ。でも、それだけじゃ勝てない。みんなが知ってる問題でも押し勝って取らなきゃいけない」「それはわかってるつもりなんですけど」
「リスクを負うことも必要だ。展開によっては、まだ五分五分でも他より先に押さなきゃいけない。『恥ずかしい』という感情はクイズに勝つためには余計だ。そんな感情は捨てた方がいい。笑われたって、後ろ指さされたっていいじゃないか。勝てば名前が残る」

「たくさん知識があればクイズに勝てるんでしょ」とぼくはおもっていた。

 でもそんなことはない。筆記テストをやって合計点を競うのであれば、知識量がものを言う。でもクイズ(特に早押しクイズ)は筆記テストとは違う。答える速さ、対戦相手に関する情報、駆け引き、度胸、そういったものが必要となる。

 自分がわかる問題は他のプレイヤーもわかる。だったら誰よりも早く回答ボタンを押さないと勝てない。答えがわかってからボタンを押してからじゃ遅い。「答えがわかりそう」という段階で押さないといけない。

「しゃ──」と聞こえる。そして本庄絆がボタンを押す。正解を口にして優勝が決まる。他の出演者たちが「まだ一文字しか読まれていないのに!」と驚く。
 数回目でわかったことがある。よく聞くと実際には問い読みのアナウンサーは「しゃくに──」と口にしていた。急に解答ランプが点いて慌てて口を閉じたようで、漏れるように小さな声で「くに」まで発音している。
 もちろん「しゃくに」と聞こえたからと言って、答えがわかるわけがない。だが、この問題が、番組の最終回に最終問題として出されたことを考慮に入れると、本庄絆の「一文字押し」が魔法でもヤラセでもなかった可能性が生じてくる。
 本庄絆は「『終わりよければすべてよし』」と答えた。『終わりよければすべてよし』はシェイクスピアの戯曲だ。『尺には尺を』『トロイラスとクレシダ』の三作をまとめて、シェイクスピアの「問題劇」と呼ぶことがある。「しゃくに」という言葉から「『尺には尺を』」を導きだした本庄絆は、答えが問題劇のうちのひとつ、『終わりよければすべてよし』ではないかと考えた。なぜなら、それが番組を締めくくる問題だったからだ。最終回の最終問題の答えが「終わりよければすべてよし」というのはなかなか洒落ている。だから一応、論理的な推理で答えにたどり着く可能性があったわけだ。クイズプレイヤーが、問題外の情報を考慮すること自体は珍しくない。クイズは学力テストではない。出題者と解答者と観客がいて、ストーリーがある。ストーリーに気づく能力もまた、クイズプレイヤーとしての資質の一部だ。

「しゃ」と聞こえた段階でボタンを押す。出題者が発した「しゃくに」という言葉を手掛かりに、またクイズ番組の最終回の最終問題であることを鍵に、「『尺には尺を』の中で用いられたことで知られる、結末が良ければストーリーのすべてが良いことを表す言葉とは?」的な問題が出されることを予想し、『終わりよければすべてよし』と答える。

 トップクイズプレイヤーはこういう戦いをしているのだそうだ。ひゃあ。

 

 競技かるたにも似ているよね。あれも、上の句をすべて聞いてから札を探していたら遅すぎる。はじめの何文字かを聞いて、これまでに読まれた札も考慮して、残っている札の中からたった一枚に確定する札を取らないといけない。「百人一首の内容を覚えている」なんてのは最低限のレベルで、やっとスタートラインに立っただけだ。

 競技クイズもそれと同じで、知識があることは最低限の条件。まだまだ競技クイズの登山口に立っただけなのだ。

 さらに言えば、テレビのクイズ番組によく出るクイズプレイヤーには、「知識が豊富」「競技としてのクイズに強い」に加え、「視聴者が楽しめる立ち居振る舞いや気の利いたコメント」も求められるわけで、とことんクイズの世界は奥が深い。




『君のクイズ』は競技クイズの説明とストーリーがうまくからんでいる。

 最後に明かされる、あまりすっきりしない真相も個人的には好き。小説にはほろ苦い味わいがあったほうがいい。文学的であることを意識せず、論理に徹したような文章もけっこう好み。

 クイズとかパズルが好きな人には刺さる本だとおもうよ。


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2025年2月6日木曜日

【読書感想文】本岡 類『住宅展示場の魔女』 / 技巧がきらりと光る短篇集

住宅展示場の魔女

本岡 類

内容(e-honより)
「ハマってしまう」ってどういうことなのだろうか。「ハマって」しまったらどうなってしまうのだろう。何かに依存しないと安心感や安定感が得られない人たちを巡って起こるさまざまな事件をユーモラスに描く。「通販」に「ペット」、「懸賞応募」に「渓流釣り」、そして「住宅展示場見学」…。草原の落とし穴みたいに、日常生活の中にも口を開けて罠が待っている。

 2004年刊行の短篇ミステリ集。

 なかなか良かった。こういう短篇ミステリって最近あまり見ないなあ。ぼくが出会ってないだけかなあ。

 井上 夢人氏(元・岡嶋二人)が「短篇は長篇に比べて割に合わない」と書いていた。短篇でも長篇でも、アイデアをひねり出す苦労は大して変わらない。ミステリはアイデアの出来でほとんど決まるので。だが原稿料は枚数あたりで決まるし、ページ数がないと単行本にもできない。だから短篇は損だ、と。ショートショートの神様・星新一氏も似たことを書いていたし、ただでさえ本が売れない今、短篇ミステリは厳しい状況に置かれているのかもしれない。

 短篇を載せる雑誌も減っているだろうし。


 さて『住宅展示場の魔女』について。

 最初の、通販好きの取り立て屋が登場する『通販天国』、懸賞マニアの主婦が殺される『当日消印有効』を読んで、なるほど、軽い味のブラックコメディミステリね、とおもっていた。『女子高教師の生活と意見』にいたってはドタバタSFのような味わいだし。

 ところが四篇目『束の間の、ベルボトム』を読んで、評価をちょっと改めた。

 これは、なかなかいい小説だぞ。ミステリとしては新鮮さはないが、「若い頃のファッションを楽しみたい」とおもう中年の心境をうまくからめたことで、ほろ苦い味わいの短篇になっている。小説巧者だな。

 コメディ作品の『メリーに首ったけ』を挟み、次はコギャルの厚底ブーツという旬(だった)アイテムをミステリにつなげた『気持はわかる』。これもよくできている。軽妙ながら、ミステリとして隙がない。ちょっとしたアイデアなのだが、趣向を凝らして上質な短篇に仕上げている。

 これはなかなかの腕だぞ。調べたところ、1984年デビューらしい。つまり『住宅展示場の魔女』を書いた時点でデビュー20年。道理で技術が高いはずだ。脂ののっていた頃の阿刀田高氏のようなうまさがある。


 渓流釣りと殺人事件を融合させた『山女の復讐』も短篇ながら本格の味わい。釣りのエッセンスも織り交ぜられ、お得感がある。

 住宅展示場めぐりを趣味とする女に芽生えた悪意を描いた『住宅展示場の魔女』はミステリというよりサスペンス。

 ミステリに加えて、コメディ、SF、サスペンス、ペーソスなどいろんな要素がふんだんに散りばめられている。

 決して派手さはないが良作ぞろい。ベテランの技巧がきらりと光る短篇集だった。


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2025年2月5日水曜日

【読書感想文】マツコ・デラックス 池田 清彦『マツ☆キヨ ~「ヘンな人」で生きる技術~』 / ダブスタ上等!

マツ☆キヨ

「ヘンな人」で生きる技術

マツコ・デラックス  池田 清彦

内容(e-honより)
茶の間で引っ張りだこの人気タレント・マツコと、学会の主流になぜかなれない無欲な生物学者キヨヒコ。互いをマイノリティ(少数派)と認め合うふたりが急接近!東日本大震災後に現れた差別や、誰をも思考停止にさせる過剰な情報化社会の居心地悪さなどを徹底的に話し合った。世の中の「常識」「ふつう」になじめないあなたに、「ヘンな」ふたりがヒントを授ける生き方指南。

 十年ほど前、マツコ・デラックスという人がすっかりテレビになじんできた頃にふと「なんとなく受け入れてるけどこの変な人は何者なんだろう」とおもって買った本。ずっと本棚に置いてて、やっと手に取った。積読はいつものことだけど、十年は長い。




 2011年頃の対談ということで、当然ながら東日本大震災の話が多い。

 それはそれで時代を映す話ではあるけど、正直、読んでいておもしろみはない。

 あれだけの人が一度に亡くなった映像を見たら、奇をてらったことを言おうという気にならないんだよね。マツコさんも池田さんもあたりまえの話をしている。人間いつ死ぬかわからないとか、人間がどうやっても自然の力にはかなわないとか。

 ぼくはあの頃、ブログでコントのようなものを書いていたんだけど、やっぱり地震後しばらくは何も書けなかった。別に不謹慎だとか気にする必要はなかったんだけど、それでも何を考えても震災と結びつけて考えてしまう。ふざけようとか、わざと変なことを言おうとか、そういう気にならないんだよね。


マツコ:アタシも地震の直後の何日かは下痢がすごかったのよ。なんだか体調がとても悪くなっちゃって。よく、被災地の人がPTSD(心的外傷後ストレス障害)になるという話を聞くわよね。それに比べたらアタシのなんてずっと軽い症状なんだろうけど......。たぶん、程度の差はあっても、地震後にその影響で心身を病んじゃった人は東京にだっていっぱいいたと思う。
池田 :被災地じゃなくてもね。日本中にね。
マツコ:それでね、アタシの場合、体調が悪いのが少し改善されたのは、石原慎太郎がきっかけだったのよ。石原慎太郎が、地震の直後に「天罰」発言(「津波を利用して我欲を洗い落とす必要がある。やっぱり天罰だと思う」と発言)をしたでしょう。それ以前にも、ゲイを侮辱(たとえば二〇一〇年十二月に「同性愛者はどこかやっぱり足りない感じがする」「テレビなんかでも同性愛者の連中が出てきて平気でやる。日本は野放図になり過ぎている」と発言)した石原慎太郎のことを、アタシは、大っ嫌いだからさ。「このクソ親父め。『天罰だ』とかまたバカなことを言いやがって」とか言いながらずっと怒っていたら、それでいつの間にか元気になったのよ。

 怒りで元気になるというのはわかる気がする。

 怒るのってストレスなんだけど、同時にエネルギー源でもあるんだよね。誰かに向かって怒ったり攻撃したりするのって楽しいしさ。みんな悪口言うの大好きじゃない。いつだって「自分が悪者にならずに悪口を言える相手」を探してる。

 芸能人の不倫のニュースとかくそどうでもいいとおもっていたけど、ああいうのに怒ることで元気が湧いている人もいるのかもしれない。

 何の価値もないニュースだとおもっていたけど、もしかしたら気づかないところで役に立っているのかもね。




池田 :養老さんが今年(二〇一一年)、『希望とは自分が変わること』(「養老孟司の大言論I」新潮社)というタイトルの本を出していたけれど、つまり、あえてそう言わなければならないくらい、いまの人は「自分」を変えようとしないんだよ。いまの人って、自分がいて、相手がいて、その間で情報のやり取りをすることだけがコミュニケーションだと思っているんだよな。
 コミュニケーションというのはそういうものではないんだ。やり取りをすることによって自分や相手が変わることが本来のコミュニケーションなんだよ。そうではなかったら、自分が変わることもないし、変わらなければ、人間的に成長することもない。他人とのやりとりのなかで自分の考え方を変えてみたり、「ああ、そういうふうな考えもあるのか」と認識を新たにしたりとか、お互いにいろいろと調整をしながらうまく回っていくのが人間社会でしょう。そういうのをすっ飛ばして、自分と意見の違うやつは全部「敵」という感じになってしまう人が、いま、ほんとうに多い。
マツコ:いますよね。ある人が、「あいつはもともとこういう論調の人間だったのに、急にひよってこっちについた」と言って、知らない人のことを怒っていたんですよ。ひよったも何も、あんたはその人とずっといっしょにいたわけでもなんでもないんだろう?と思って、そんなことで怒っているのが不思議だった。さまざまな人から話を聞いたり、いろいろなものを見聞きしていくなかで、脳みその中が変わっていくんでしょ、とアタシは思うから、なぜその人が怒っているのかよくわからなかったんだけど、たぶんそれは、「あいつ」と言っている人についてのステレオタイプな情報を、その怒っていた人はずっと信じていて、その情報に自分が裏切られたと思っているということよね。

 ぼくの嫌いな言葉に「ダブルスタンダード」がある。正確に言うと、他人を糾弾する目的で「ダブルスタンダード」という言葉を使う人が嫌いだ。

「そんなこと言ってるけどおまえ過去にはこう言ってるじゃないか! ダブスタだ!」とドヤる人を見ると、ガキだなあとおもう。

 子どもってそうじゃない。ひとつの基準があらゆる場で通用するとおもってる。

「しゃべったらいけません」「えー、じゃあ火事になってもしゃべったらいけないのー?」

「暴力はいけません」「えーじゃあ警察官が犯人を逮捕するときも暴力を用いちゃだめなのー?」

みたいな感じ。五年生ぐらいのへりくつ。


 そんなわけないじゃない。ある状況における見解が他のどんな状況にもあてはまるはずないじゃない。

「外国人差別はいけない」と「日本人を優遇しないといけない状況はある」って十分両立する話だとおもうんだけど、ガキにはそれがわからない。一貫性を保つのがいいことだと信じている。

 また、同じ状況に対しても考え方が変わることもある。同じ汚職事件のニュースを見ても、小学生と、就活中の大学生と、中堅会社員と、定年退職後では、見方は変わるだろう。あたりまえだ。立場が変われば考えも変わる。良くも悪くも。まったく変わらないのは何も考えていない人だけだ。

 それに「職場で話す内容」と「気の置けない友人と酒場で話す内容」と「SNSで話す内容」が違うのもあたりまえだ。SNSで熱心に政治について語っている人も、たいていは人前で政治の話を声高らかには話さない(中には話す人もいるけど)。


 だからダブスタなんてあたりまえ。ダブルスタンダードどころかトリプルもクアドラプルもスタンダードを持っているのがまともな人間だ。

「ダブスタだ!」と吠えている人を見たら、「ああ小学生がなんかわめいてるわ」とおもうようにしている。




 マツコ・デラックスさんという人をテレビで観ていておもうのは、自分のことをよくわかっている人だなということ。

 とても客観的に、自分のポジション、自分が求められていることを把握しているように見える。

 たとえば、物事をずばずばと言うように見えるけど、基本的に語っているのは好き嫌いであって善悪ではない。また決して自分を良く見せようとはしない。どれだけ売れても偉くなろうとはしない。

池田 :そうやってマスコミはマツコさんをスターにしちゃったわけだけど、それに対する自己認識はどうなの?
マツコ:たぶん、ヒジュラ(男性でも女性でもない「第三の性」を指すヒンディー語 インドではアウトカーストの存在として、聖者として扱われたり、逆に極端に蔑まれたりしている)とかさ、そういうのが稀にあるじゃない? 結局、何か正体がよくわからないもの、どこか気持ちが悪いもの、既存の価値観では収まりのつかないものを、神格化これは自分でそう思っているわけじゃないから誤解しないでほしいんだけど―――して、すべてをその「神格化」したものになすりつけてしまってさ。で、最後は神輿から突き落とすんだろうと思っているんだけど。いまのテレビというのは、さっき池田先生も言ったように、ちょっと変わったことをなかなか言えない感じになってきているでしょ。その状況のなかで積もり重なったいろんな思いをいまアタシはぶつけられている感じはするのよね。そうして、みんながすっきりしたら、きっと「もうあんたは要りません」と言われるんだろうし。そういうのが刹那的だということも自分で肌で感じてわかっていて、その上でそれを引き受けてやろうと思ったの。「どうぞ、どうぞ、石でも何でも投げてください」というかまえで。
池田 :やけくそだね(笑)。
マツコそうなのよ。
池田 :大勢に乗って動いているということに関して、心のどこかでは「何かヘンだな」と思っている人もいっぱいいるんだよね。だけど、そのときに表立って「それはヘンだ」とは言えない。そこで、なんだかふつうじゃなさそうなヘンな人を祭り上げるようなことをやって、一種の欲求不満のはけ口にしているというか、それで自分のもやもやしたものを洗い流してせいせいしたい感じがあるのかな。きっとマツコさんはその象徴的な存在としていろいろなところに引っ張り出されているんだろうね。

 そうなんだよね。世間の人ってだいたいマツコ・デラックスという人を「なんだかよくわからない人」として受け止めているんだよね。ぼくもそうだった。気づいたらテレビに出ていたけど、どんな経歴の人で、どういう考えでああいう恰好をしているのかとかこの本を読むまでほとんど知らなかった。

 多くの視聴者はマツコさんの発言を「なんだかよくわからない人が変なことを言ってる」と受け止めている。だから少々乱暴な意見でも「まあ変な人が言ってることだから」と受け流している。

 そういうポジションを当人もよくわかってるんだよね。だから、どんな飯がうまいとか、あのお菓子が好きとかどうでもいいことは語っても、あの政治はおかしいとか、この法律は変えるべきとか、そういう“正しい”ことは言わない。「変な人が変なことを言ってる」範囲を決して踏み越えようとはしない。

 好き勝手言ってるようで、誰よりも自分を殺して求められる姿を演じている。つくづく賢い人だよね。


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2025年2月1日土曜日

【読書感想文】柞刈 湯葉『SF作家の地球旅行記』 / SF作家の空想力と好奇心

SF作家の地球旅行記

柞刈 湯葉

内容(e-honより)
人気SF作家・柞刈湯葉、初旅行エッセイ。 首里城、筑波山、ウラジオストク、モンゴルの草原…何のために旅に出て、何を思い、何を目指すのか。SF作家の目を通して楽しむ新感覚旅行記。 2019~2021年note投稿作品を大幅に加筆・修正した海外編4作&国内編8作、さらに[架空旅行記]として書き下ろし短編小説2作(月面編/日本領南樺太編)を加えた。

 SF作家による旅行エッセイ。

 出版社が企画した旅行記ではなく(昔はよくあったけど、今もそういうのあるのかな。出版社にそこまでの経済的余裕がないかもしれない)、著者がプライベートで行った旅行をnoteに投稿したものなので、そんなに肩肘張った旅でないのがいい。

 琵琶湖とか千葉とか筑波山とか、旅先としてはあまりメジャーでないところが逆に新鮮。国外でもカナダとかウラジオストクとか。途上国や田舎のような雑多な感じもなく、ヨーロッパの有名都市ほどの歴史があるわけでもない。

 ぼくはあまり旅をしないが、旅に対する姿勢は著者と近いものがある。あまり人が行かない場所に行きたいとか、何でもなさそうなものにおもしろさを見出したいとか、そういう気持ちがある。はっきりと「ここに行ってこれを見るんだ!」という感じではなく、「なんかおもしろいものないかなー」という気持ちで移動を楽しみたいのだ。

 知っているものを確認しにいく旅ではなく、知らないものを探しにいく旅。もちろんハズレを引いてしまうこともあるが、ハズレたこともまた楽しい。でも世の中には絶対にハズレを引きたくない! という人が少なくないんだよね。ハズレこそが旅の醍醐味なのに。

 そんな風に旅に対する姿勢が近い(とぼくは感じている)ので、『SF作家の地球旅行記』はおもしろかった。ぼくが憧れる旅だ。




 そしてなんといっても魅力は軽妙洒脱な文章。レポートと知識と空想とほら話が軽やかに錯綜する。

  心情はあまり書かれず思考や発想が多いので、ドライな文章で旅の雰囲気とぴったり合う。奥田民生『イージ㋴ー★ライダー』を聴きたくなった。


 カナダ旅行記『チップがないならポテトを食べればいいじゃない』より。

 これは日本にはない文化なのだが、北米のスタバでは店員に名前を聞かれる。本人確認をしているわけではなく、ドリンクの取り違えを防ぐためらしい。
 ただ、僕の本名は外国人にはまず聞き取れないので、初めて渡米したときはこの問題に大いに悩まされた。「え?」「もう一回言って」と何度も聞き返され、レジに無用な行列を作ってしまうのだ。「別に本名を言う必要はないので、自分に適当な英語名をつけるといいですよ」
 というアドバイスをもらったことがあるが、これは英語慣れした人の意見である。ジョンだのポールだのといった英語名もきちんと発音しないと伝わらないのだ。
 これについてはいまでは「ホンダ」と名乗ることでほぼ解決している。ホンダのバイクなら世界中で走っているので、日本人の顔をした客が「ホンダ」と名乗ればおおむねどの国でも通用する。こうした小手先のテクニックを蓄積していけば、英語ができずとも海外暮らしはわりと何とかなってしまう。

 旅行記というか滞在記というか。旅というとついつい、あれも見なくちゃこれも見なくちゃあれも食べなくちゃという気になるが、この人の旅は日常の延長。


 また、SF作家(であり生物学の研究者)でもあるだけあって、科学に対する知識も豊富だ。

 千葉旅行編『電車に乗ってチバニアンを見に行った』より。

 地球はおおきな磁石である、というのは小学校で習うのでご存知かと思うが、実はこのN極とS極はときどき入れ替わる。一番最近の入れ替わりが77万年前に起き、千葉の地層がそれをいい感じに記録しているため、77万年前以後の地質年代がチバニアン(千葉時代)となった、とのことである。
 なんで77万年も前の磁場がわかるのかと言えば、北京原人の学者が記録していたからとかそういうわけではない。溶岩が冷えて固まる際に、内部の磁鉄鉱などが地磁気の向きに揃うからである。いったん固まってしまえば地磁気が変動しても動かないので、岩石の年代さえ特定できればその時代の地磁気がわかるという寸法である。テープレコーダーやハードディスクと同じ仕組みだ。
 なお地球の地磁気はここ200年一貫して減衰しており、このペースで減り続けると1000~2000年後には地球の地磁気はゼロになってしまうらしい。そうなると太陽から吹き付ける荷電粒子が遮断できなくなり、電波通信に相当な悪影響があると言われている。
 地磁気の変動は複雑かつ未解明で「このペースで減り続ける」必然性はあんまりないのだが、1000年後まで人類文明が存続していれば、なにかしら対策が取られるかもしれない。

 こういう知識がそこかしこに散りばめられているのもおもしろい。

 このエッセイを読むと、ほんとに教養って人生を豊かにしてくれるスパイスだなとおもう。

 NHKの『ブラタモリ』なんかもそうだけど、なんの変哲もない道や坂や山でも、知識のある人が見ればそこからいろんな情報を引きだせる。そしておもしろがれる。

 柞刈湯葉氏も教養が深いので、有名観光地でない場所からもいろんな発見や空想をして楽しんでいる。こういう人は何をしていても楽しいだろう。



 旅行エッセイもおもしろいが、なんといっても真骨頂は巻末の、月面を訪れた『静かの海では静かにしてくれ』と日本領土となっている南樺太を訪れた『南側と呼ぶには北すぎる』である。

 もちろんこれはフィクションである。まだ月面旅行は気軽にはできないし、南樺太(サハリン)はかつては日本領であったが今はロシアが実効支配している(日本は南樺太を放棄したがロシアのものとは正式に決定していない)。どちらも気軽に旅をできる場所ではない。

 しかし人間の想像力は距離も時間も国境も次元も軽く飛び越えてしまうので、月面にだって「もしも終戦がもう少し早くて日本領のままだった南樺太」にだって行けちゃうのだ。


 月旅行記より。

 あと意外と困ったのは服である。地球のたいていの服は重力を受ける前提でデザインされるので、無重力下で動き回ると勝手にめくれ上がってしまうのだ。これが思った以上に厄介で、面倒になったのでシャツをズボンにインした。宇宙時代とは思えない昭和スタイル。

 なるほど。重力がある生活があたりまえになっているから考えたことなかったけど、服って重力があること前提なのか。

 無重力だったらスカートは履けないし、帽子だって脱げちゃうし、ネクタイは邪魔で仕方ないし(重力あっても邪魔だけど)、眼鏡もとれちゃうよね。宇宙時代の眼鏡はゴーグルみたいな形状になるのかな。

 言われてみればその通りなんだけど、月旅行を想像してもなかなか「無重力下での着こなし」までは想像が及ばない。さすがはSF作家だ。


 宇宙では換気という概念が存在しないため、初期の宇宙ステーションは常に人間の臭いが充満している場所だったらしい。宇宙研究施設だった時代、精悍な職業宇宙飛行士たちはこの過酷な環境を人類代表としての使命感で耐え抜いたが、観光地になるといよいよ問題が表面化しはじめた。
 その結果、強力な空気清浄機が船内のあちこちで常時回転するようになり、臭い問題は解決したが、代わりにファン音が鳴り響く環境になってしまったそうだ。

 臭いって生きる上ではかなり重要な問題だけど、目に見えないものだから、想像しにくい。「宇宙船の中はどんなにおいか」なんて考えたことないもんなあ。

 言われてみれば、宇宙ステーション内は臭くなりそうだ。いくら宇宙時代になったって人間は汗をかくしおならやゲップもする。

 たぶん剣道部の部室みたいな臭いになるんだろうな。柔道とか剣道やってた人は宇宙ステーションに入って「なつかしい!」という感情になるのかもしれない。


 とまあタイトルに冠した「SF作家の」は伊達じゃない、SF作家の空想力や好奇心が存分に楽しめる旅行記(+小説)でした。


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2025年1月29日水曜日

【読書感想文】高橋 ユキ『つけびの村 噂が5人を殺したのか?』 / 煙喜ぶ田舎者が書いた本

つけびの村

噂が5人を殺したのか?

高橋 ユキ

内容(e-honより)
2013年の夏、わずか12人が暮らす山口県の集落で、一夜にして5人の村人が殺害された。犯人の家に貼られた川柳は“戦慄の犯行予告”として世間を騒がせたが…それらはすべて“うわさ話”に過ぎなかった。気鋭のノンフィクションライターが、ネットとマスコミによって拡散された“うわさ話”を一歩ずつ、ひとつずつ地道に足でつぶし、閉ざされた村をゆく。“山口連続殺人放火事件”の真相解明に挑んだ新世代“調査ノンフィクション”に、震えが止まらない!


 2013年に起きた、山口連続殺人放火事件という殺人事件がある。

 住民わずか14人という限界集落で、村人5人が殺害され、さらに被害者宅に連続して火を放たれたという事件だ。

 連続殺人であることも注目を集めたが、この事件がさらに大きく扱われるようになったのは、一句の川柳だ。

 被害者宅の隣家の男が姿を消し、男の家には外から見えるように「つけびして 煙り喜ぶ 田舎者」という川柳が貼ってあったのだ。

 男は逮捕されたが「周囲の人間から嫌がらせをされていた」「悪いうわさを立てられた」などと供述したことから、「つけびして 煙り喜ぶ 田舎者」とは、気に入らない住民の悪い噂を広めて村八分をする陰湿な村人たちを皮肉りつつ犯行予告をした川柳なのではないかという憶測が飛び交うようになった……という事件だ。


 ぼくもこの事件のことはおぼえている。というより、事件の詳細はほとんどおぼえていなくて、「つけびして 煙り喜ぶ 田舎者」の川柳だけが強く印象に残っている。詩の力ってすごい。

 多くの人が「村八分に遭っていた男が、復讐のために村人たちを殺した事件」だと認識していたことだろう。ぼくもそのひとりだ。はっきりと「田舎者の陰湿さが引き起こした事件だ。これだから田舎者は」なんてことをネット上に書く人もいた。



 だが。

『つけびの村』を読むかぎり、どうもそんな単純に「村八分に遭っていた男が、復讐のために村人たちを殺した事件」と言える話ではないようだ。


 以前にも村で放火騒ぎがあった、過去に容疑者が怪我を負わされる刃傷沙汰があった、被害者たちは容疑者宅の前で集まって噂話をしていた……。

 話を聞くといろんな話が出てくる。

 しかし、読めば読むほど話がこんがらがってくる。なにしろ、14人しか住民のいなかった村で、5人が殺され、1人が逮捕されているのだ。生き残ったのは8人だけ。元々高齢者ばかりの村だったので、事件後に亡くなった人もいる。全員が関係者。当然、事件について語りたがらない人も多い。語ったところで、関係者なので、客観的・中立ない件とは言いがたい。

 芥川龍之介の『藪の中』のようだ。登場人物たちの語る内容がみんな微妙に食い違い、真相はまったくわからない。おそらく当人たちにだってわからないのだろう。

 いちばん真相を知っていたはずの容疑者は妄想性障害を患っていて、語ることは支離滅裂(そのため裁判では責任能力が争われたが、最高裁で死刑が確定)。

 もはや何が何だかわからない。


 読んでいるうちに、ふと気づいた。

「真相」なんて関係あるのか?

 容疑者は「他の住人から噂話の対象にされたり、村八分にされたりしていた」と主張しているが、それがどうしたというのだ?

 それが本当かどうかはわからない。だが仮に本当だったとしても、それが何なのだ? 村八分にされていたら、五人を殺害して家に火をつけていい理由になるのか?

 村の人たちが噂話をしていたかとか、田舎の人間付き合いが陰湿かとか、そんなことはどうでもいい。どっちにしろ人を殺して火をつけたらだめなのだ。

 だから「事件の背景をさぐる」なんて行為は、まったく意味がないのだ。




 そうおもって読むと、著者の“取材”と“執筆”こそがひどく陰湿なものにおもえてくる。

 容疑者だけならまだしも、被害者の遺族や隣村に行き、事件前の村の様子を探る。証言は集まるが、裏付けなどはまるでない。どれだけ証言を集めたって噂話の域を出ない。

 そして裏付けの取れていない“証言”をブログに書き、SNSに書き、本にして出版する。

 これって、定かでないうわさを広めているだけだよな……。著者こそが「煙り喜ぶ 田舎者」だ

 取材をするのはともかく、真偽の定かでない噂をそのまま書いちゃいかんだろ。しかも実名付きで。

 読めば読むほど、「誰がえらそうに語ってるんだ」と著者に対して憤りを感じる。


 極めつきはこれ。容疑者の親戚をわざわざ探して訪ねた話(××は原文では容疑者の名前が入っているがぼくが伏字にした。容疑者は死刑確定後も冤罪を主張しているらしいので)。

「お話を聞きた……」
 入り口からすぐの壁沿いに置かれた冷蔵庫の前に立っている。白地に小花柄のジャージー生地のネグリジェを着た長女は、痩せた身体に白髪頭で、××より世代が相当上の老婆だった。
 ここまで言うと、それを遮るようにきっぱりと長女は言った。
「いえ、私話すことないです、いま寝とるんじゃから。いま寝とるから、何にもできんから。もう、何にも話すことないです。いま自分の身体が一生懸命じゃから。心臓が悪いんですよ、寝とるんじゃから。だからお話しすることは、できんのですよね。はい」
 何を聞いても「いま寝とるんじゃから」しか返ってこなかった。平穏な日常生活を脅かされることになった元凶である××には、怒りしか持っていないようだった。
 田舎で起こった大きな事件。近所のものも皆、彼女たちが××の姉であることを知っている。姉たちは何も悪いことをしていないのに、多くの記者から事件について繰り返し聞かれ、いつまでも平穏な生活を送ることができない。私も取材に出向いている身なのでこんなことは言えた立場ではないが、弟が起こした事件に死ぬまで苦しめられるという意味では、彼女たちも被害者なのである。

 なにが「彼女たちも被害者なのである」だよ。おまえが加害者なんだよ。「こんなことは言えた立場ではないが」って、何を末端みたいな顔してんだよ。おまえは事件と無関係の親戚に多大な迷惑をかけてる主犯じゃねえか。「元凶である××には、怒りしか持っていないようだった」じゃねえよ。おまえのあつかましさに怒ってるんだよ。

 よく他人事の顔をできるな。




 読めば読むほど、著者の目的が野次馬根性としかおもえない。

「容疑者の無実を証明するため」とかならまだわかるよ。でもそんなことはない。たしかに容疑者は無実を主張しているが、著者はその言い分をまったく信じていない。

 事件にいたった背景をさぐるためというそれっぽい理由を用意しているが、そんなものいくら調べたったわかるわけがない(実際、わかったことといえば容疑者が妄想性障害を持っていたことぐらい)。犯人が心の中で何を考えていたかなんて本人以外にわかるわけない。いや本人にすらわからないだろう。


 野次馬根性のために嫌がる人に取材してまわり、不確かな噂を聞きだし、それを不確かなまま広める。やってることはSNSでデマを拡散する人と一緒。

 ルポルタージュとしてまったく意義を感じない本だった。

 まあそんなゲスい本があってもいいけど、私はゲスじゃありませんよという顔をして書くやつはいちばん嫌いだ。


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2025年1月24日金曜日

【読書感想文】高田 かや『カルト村で生まれました。』 『さよなら、カルト村。 思春期から村を出るまで』 / 宗教は人権と対立する

『カルト村で生まれました。』

『さよなら、カルト村。 思春期から村を出るまで』

高田 かや

内容(e-honより)
「平成の話とは思えない!」「こんな村があるなんて!」と、WEB連載時から大反響!! 衝撃的な初投稿作品が単行本に! 「所有のない社会」を目指す「カルト村」で生まれ、19歳のときに自分の意志で村を出た著者が、両親と離され、労働、空腹、体罰が当たり前の暮らしを送っていた少女時代を回想して描いた「実録コミックエッセイ」。

 集団生活をしていた“カルト村”で生まれ育った著者が、当時の思い出をふりかえったコミックエッセイ。

 作中でははっきり書かれていないが、明らかにヤマギシ村のことだとわかる。

 ヤマギシというのは、詳しくはWikipediaでも見てもらえばいいが、私有財産を否定し、農業や養鶏を通して、幸福な世界の実現を目指すという団体のことだ。集団生活をして、そこでは貨幣を使わず、農業などの労働に取り組んでいるそうだ。

 そういえば最近聞かなくなった。ぼくが子どもの頃は、ときどき近所までヤマギシの車が農作物や卵を売りにきていた。ぼくの母が「ヤマギシは、まあちょっとアレだけど、売ってるものはいいからね」と言葉を濁しながら買っていたのを思いだす。きっとその頃にはもう悪い評判が流れていたのだろう。

 そう、ヤマギシ会自体は1950年代から活動していたものの、1990年代からはオウム真理教のニュースもあって「カルト的なもの」に対する風当たりが強くなったことや、子どもに対する体罰などの問題や脱税が明るみに出たことで批判の声が強まったのだ(この本にもそのあたりの変化が描かれている)。



 この本には、ヤマギシ村での子どもたちの生活が赤裸々に描かれている(著者は十代後半で村を出ているので大人の生活はあまり詳しくない)。

 著者自身は、あっけらかんと「まあいろいろ問題もあったけど私にとってはそんなに悪くない村だったよ」というスタンスで描いているのだが……。


 いやあ、これはダメだろ……。

 まあ大人たちはいい。自分自身、ヤマギシ会の理念に共感し、自らの意思で私財を投げうって入村した人たちは、好きにしたらいい。

 ただ、子どもたちの扱いはさすがにかわいそうだ。

  • 親とは別の村で暮らし、会えるのは年に一、二回
  • 朝食はなし
  • 指導係に叱られたら食事なし
  • 指導係による体罰や数時間にわたる説教
  • 学校に行かせてもらえないこともある
  • 子どもも毎日労働。原則、休みはなし
  • ほとんどの子は高校や大学に行かせてもらえない

 これはどう考えたって虐待だよね(今は変わったところもあるようだが)。


 著者はヤマギシ村で生まれてヤマギシ村で育った人なのでそこの生活しか知らず、「今となってはいい思い出」みたいになっているみたいだけど、それは本人の性分と、結果的に今は大きな不満のない生活をできているからであって。

 子どもは自分の意思で外の世界に出ていくことはできないし、仮に出たとしても、高校にも行かず村で貨幣のない生活をしていた子がうまくやっていくことはむずかしいだろう(著者はいろんな事情が重なって両親と一緒に村を出て、たまたまいい経営者に雇われたという幸運が重なった)。


 どんなカルトでも(外の世界に危害を加えないかぎりは)好きにやったらいいんだけど、子どもが巻き添えにされるのは気の毒だ。

 以前、米本 和広『カルトの子 心を盗まれた家族』という本を読んだ。オウム真理教、エホバの証人、統一教会、ヤマギシ会といった“カルト”と呼ばれる団体内で育った子どもについて取材した本だ。

 カルトがカルトと呼ばれるのは世間一般の常識と衝突するからで、大人同士であれば「あの人はああいう人だから関わらないでおこう」とできるけれど、子どもは学校を通していやおうなく“世間”と関わらないといけない。そこに軋轢が生じる。

 たとえばエホバの証人であれば、親からは「遊んだりテレビを見たりスポーツをしたりするのはサタンの行いだ。学校の選挙やクリスマス会は参加禁止。参加しないことをみんなの前で宣言しろ」と言われる。しかし学校ではまったく違う論理が生きている。遊び、スポーツをし、テレビの話をし、クリスマス会などの行事が開かれる。成長すればするほど「うちの家庭は他と違う。うちの家庭のほうが少数派だ」ということがわかってくる。

 対立するふたつの“常識”の板挟みになる子は気の毒だ。どちらにあわせても待っているのは苦難の道だ。




 新興宗教はいろいろあり、その中には急速に信者数を増やしたものもある(正確にはヤマギシ会は宗教ではないのだろうが、思想や行動を縛る教えを信じているという点ではほとんど宗教と同じだとぼくには見える)。

 だが、二十世紀以降に誕生した宗教で、三十年以上にわたって信者数を増やしつづけた宗教はないんじゃないだろうか。

 どの宗教もだんだん衰退してゆく。最初は熱心な信者たちが集まってくるが、二世世代が増えると、どうしても「外の世界」との衝突が起こる。必然、悪い話も外に出るようになり、イメージが悪くなる。ぼくの友人にも創価学会二世がいたが、彼はすごく嫌そうに活動していた。そんな姿を見て、自分もやりたいなとおもう人は少ないだろう。

 そもそもの話、宗教の教義って人権って衝突することが多い。「必ず○○しなさい」「○○してはいけません」ってのが教義で、「人にはやる自由もあるしやらない自由もある」ってのが人権なのだから、対立するのが当然だ。

 だから人権が保障された近代社会において、宗教が拡大するのは無理なのかもしれない。自分の意思で入信した一世信者と違い、二世三世は人権を奪ってまで信者でいつづけさせることはできないのだから。

 昔からある宗教は、人権意識の低い時代だったからこそ拡大できて、拡大しきって「外の世界」との摩擦が小さくなったからこそ現在でも残れている。これから新興宗教が長期にわたって拡大しつづけることは無理なんじゃないかな。


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2025年1月21日火曜日

【読書感想文】今尾 恵介『地図帳の深読み』 / 川と言語の密接なつながり

地図帳の深読み

今尾 恵介

内容(e-honより)
学生時代に誰もが手にした懐かしの学校地図帳には、こんな楽しみ方があった!100年以上に渡り地図帳を出版し続けてきた帝国書院と地図研究家の今尾恵介氏がタッグを組み、海面下の土地、中央分水界、飛び地、地名や国名、経緯度や主題図など「地図帳」ならではの情報を、スマホ地図ではできない「深読み」をする!家の奥に眠るあの地図帳、今もう一度繙いてみませんか。

 地図マニアである著者が、学校でおなじみの地図帳をもとに、あれこれと洞察をくわえた本。

 これを読んでいて思いだしたんだけど、社会の授業中、ずっと地図帳を見ていた子がいたなあ。クラスに一人はいたんじゃないかとおもう。何がそんなに楽しくて地図帳を見てるんだろうとおもってたけど、たぶんこういうことを考えてたんだな。

 ぼくは地図好きな子ではなかったけど、歳をとってから、地図って単なる場所を示すものではなくて、歴史だとか、経済だとか、人々の生活までが見えるものだとわかるようになり、ちょっとおもしろさを感じるようになってきた。

 まだひとりで地図を見てにやにやするほどではないけどね。でも地図に詳しい人の解説を読むのは楽しい。



 地図帳には、単なる地図だけでなく、いろんな図や表が載っていた。人口、土地面積、雨温図、名産品など。その中に言語分布地図もあった。どの地域がどの言語を使っているのかを示した図だ。

 さて、ある時にスイスの言語分布地図を見た。どこかの大きな図書館に置いてあったナショナルアトラスを閲覧した時のことかもしれない(今なら高校生用の地図帳でも載っている)。これが以前に自分でなぞった四つの河川の流域図にずいぶん似ていると感じたのである。つまりライン川流域にはドイツ語話者が多く、ローヌ川流域はフランス語、ポー川流域がイタリア語、そしてドナウ川流域がロマンシュ語という具合に流域と言語分布が重なっていた。
 スイスは日本に似て山が深いから実感できると思うが、商圏、婚姻圏といった文化圏は人の往来の多寡で決まってくる。たとえば関東と新潟県を区切る三国山脈は雪国の冬と晴れ続きの冬の境界であるが、文化圏や方言の境界でもある。考えてみればトンネルも通じていない大昔に好んでわざわざ険しい峠越えをする人は少なかっただろうし、移動にあたっても川沿いが楽なのは間違いない。そんなわけで言語、方言の違いが流域ごとに決まってくるのは普遍的な現象である。

 河川の流域図(どの川の水を利用しているかを地域ごとに区切った図)と言語分布地図が似ているのだ。

 現代日本ではどこにいってもほぼ同じ言葉を使っているのでわかりづらいけど、かつては、山ひとつ越えたら使っている言葉もぜんぜん違ったのだろう。人の往来がほとんどないので、言葉も文化も独立していたのだ。一方、同じ川沿いの集落であれば、行き来も楽だったはず。交流が盛んであれば言語も近いものになるだろう。

 川と言語に密接なつながりがあるなんて考えたこともなかったなあ。




 過去の地図帳との読み比べ。

 昭和48年(1973)の「中学校社会科地図」では、九州地方のページに有明海と島原湾の干拓を示す図が掲載されていた。凡例には干拓年代として「1767年以前」「1768~1867「1868~1967」「1967年以後」と時代ごとに4色に塗り分けられ、これに加えて「干拓工事中」「干拓予定地」が青色で大きく描かれている。その面積は明記されていないが、ざっと見たところ有明海の半分近くを陸にするような大規模な計画だったようだ。
 この計画図は出典に記されているように「有明海総合開発計画」によるものだ。干拓だけでなく、有明海の西に位置する島原半島の貝崎(現南島原市。島原市役所の約12㎞南)から熊本県側の宇土(三角)半島先端近くの狭い部分に「しめきり計画線,三角線」という赤い破線がまっすぐ描かれているように、これによって有明海を締め切って淡水化する計画であった。
 この大事業の当初の目的は食糧大増産で、八郎潟の干拓と同様に可能な限り農地を拡大して国民を飢餓から守るというものである。コメ余りで減反政策に転じた後の時代から見れば実感が湧きにくいが、国民を飢えに直面させるかもしれないという深刻な問題意識は国政を担う人たちにとって相当にリアルだったようだ。「飽食の時代」に育った世代にはなかなか想像できないけれど。ついでながら、現在では人口問題といえば言うまでもなく「少子化」だが、当時は爆発的に増えつつある人口をいかに抑えるかが急務とされた。
 (中略)
 この面積を足せば550㎢という途方もないもので、現在の琵琶湖の面積の82%にあたる。この締切堤防から奥側の有明海の面積を「地理院地図」でざっと測ってみると約1300㎢だから、4割以上を干拓するつもりだったようだ。この計画の一部にあたる諫早湾の干拓事業は当初計画では110㎢であったが、平成元年(1989)に着工された時には予算や農地の需要の関係もあって35㎢に縮小された。
 この事業に対しては地元をはじめ全国で賛否の意見が対立し、行政訴訟も行われている。農地は全国的に余り気味であったため、目的を公害や高潮などの水害防止にシフトさせたのも「現代風」だ。その後は海苔やタイラギ漁などの不振などもあり、また公共事業見直しの気運もあって干拓への逆風は続いている。締め切りが水質悪化に影響を及ぼしているかの議論は今も続いているが、それでも有明海の大規模な干拓事業は全体のわずか1割の干拓にとどまったことを思えば、当初の干拓計画がいかに壮大であったかがわかる。
 賛否はともかくとして、確実なのはいったん始動した大規模事業の見直しがきわめて難しいことだ。数十年の間に国の産業構造や国民の生活実態が激変しても身動きがとれない。どう頑張っても数十年間は大幅な人口減少が避けられない将来が約束された今、社会の「減築」―ダウンサイジングに向けた世界初の取り組みが、日本国民には求められている。

 今から50年前には、有明海の大部分を埋め立てて淡水化するという途方もない計画が立てられていた。人口がどんどん増えて、このままじゃ農地が足りないと心配されていた時代。海を埋め立てて農地を増やそうとしていたのだ。

 しかし地元漁師の反対や環境問題への懸念もあり、計画は難航。その間に日本の状況は大きく変わり、人口は減少へとシフトし、農地は足りないどころか余る状況になった。

 それでも計画は止まらない。農地拡大だった目的が、いつのまにか防災目的にすりかわっている。

 このへん、実に“らしい”話だ。大きな組織が動くと、いつのまにか手段が目的になってしまう。ひとつの「手段」だった干拓事業が「目的」になってしまい、とりまく状況が変わっても計画を止めることができず、後付けで理由をつけては無理やり続行する。

 オリンピックや万博と同じだ。経済振興とかの理由をつけて招致するのに、経済にプラスどころか大幅マイナスだとわかっても「開催」自体が目的になってしまっているので火の車となっても止められない。

 大規模プロジェクトって始めるよりもやめるほうがずっと難しいし知恵を要するよね。


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2025年1月15日水曜日

【読書感想文】プチ鹿島『芸人式 新聞の読み方』 / 偏向報道を楽しむ人が大人

芸人式 新聞の読み方

プチ鹿島

内容(e-honより)
新聞には芸風がある。だから下世話に楽しんだほうがいい!おじさんに擬人化することで親しみが湧く朝刊紙。見出しの書き方でわかる政権との距離。世論調査の質問に表れる各紙の立場。朝刊スポーツ紙と芸能事務所の癒着から見える真実etc.…。人気時事芸人が実践する毎日のニュースとの付き合い方。ジャーナリスト青木理氏との対談も収録。

 東京ポッド許可局で(一部界隈では)おなじみのプチ鹿島さん。新聞を13紙も購読している、新聞好きでもある。

 そんな新聞好き芸人が「新聞の楽しみ方」を解説した本。これを読むと、自分も新聞の読み比べをしたくなってくる。とはいえ実際にはやらないのだが……。



 ぼくの実家では朝日新聞と日本経済新聞をとっていた(一時朝日から読売にかえたがまた朝日に戻した)ので、朝日新聞を読んでいた。大学生になって一人暮らしをしたときも、就活もあるから新聞を読んでおいたほうがいいだろうなとおもって購読していた。あれだけの情報量のあるものを毎日百円ちょっとで届けてくれるのは破格だ。

 仮に何も印刷されていない真っ白な紙だったとしても、「月に数千円で毎朝あなたの自宅まで届けます」と聞いたら「それでほんとに利益出るの?」と心配になるサービスだよね。ま、いらんけど。

 ぼくは新聞を読むのは好きなほうだとおもう。活字は好きだし、なんだかんだいっても新聞の情報はかなり信頼がおけるし、政治や社会情勢にもそこそこ関心を持っている。

 だが。現在、うちでは新聞を購読していない。

 いろいろ事情があってしばらく購読しない期間があり、それはそれで大して困らない、むしろ余計なニュースに心乱されることがなくて平穏だし、なによりあの「重い古新聞を束ねて捨てに行く」という作業から解放されるのは大きい!

 というわけで、そのまま新聞の購読しないままもう十年以上。特に困らない。掃除のときとか、雨で靴が濡れたときに「新聞紙が欲しい」とおもうことはあるが、メディアとしての新聞はなくても平気だ。

 しかし新聞を嫌いになったわけではない。「ニュースなんてネットメディアで十分」とはおもわない。ネットメディアもたいてい一時ソースは新聞社発信だし。実家に帰ったときはちゃんと新聞に目を通す。もしも「24時間たつと気化して消滅してくれる新聞紙」が発明されて“古新聞捨てるのめんどくさい問題”が解消されたら、また購読するかもしれない。



 プチ鹿島さんによる新聞評が実におもしろい。

 この人は新聞全般は好きだが特定の新聞だけを贔屓にしているわけではないので、それぞれの新聞の立ち位置をうまくとらえている。

 朝日は高級背広のプライド高めおじさん、産経は小言ばかり言ってる和服のおじさん、東京新聞は問題意識が高い下町のおじさん、読売新聞はナベツネそのもの、など、「キャラ付け」をしながら読むとわかりやすいという主張はまさにその通り。

 まだ新聞が紙だけだった時代は、基本的に一世帯一紙だった(日経とか地方紙とかを併せて購読している家庭はあったが)ので、その立ち位置の差はわかりにくかった。

 だが新聞記事がネット配信されるようになって誰でも手軽に「読み比べ」ができるようになり、その差は明確になった。新聞社としても、他社との差別化を図らないといけない、読者の反応がダイレクトにわかる、などの理由でよりエッジの利いたスタンスをとるようになったとおもう。朝日や毎日はより左に、読売は産経はますます右に傾いていったようにぼくには見える。


 新聞は偏っている! だからダメだ!

 と言う人が多いが、それは子どもの意見だ。この世に完全に公正中立のものなんてありえない。

 新聞は偏っている? その通り。だったらその偏りを味わえばいい、というのがプチ鹿島さんのスタンスだ。うーん、大人!

 たとえば朝日や毎日が「政権がこんなことをしました!」大きく報じている。一方、親政権である読売や産経はそのことにほとんど触れていない。ということは「これは政権にとって都合の悪いニュースなのだな」とわかる。偏っているからこそ見えてくることもあるのだ。


 インターネットの活用が当然となった今、新聞のことを「旧メディアの偏向報道」「腐ったマスゴミ」と馬鹿にする人たちもいる。だが、切り捨てるのはもったいないと思うのだ。旧メディアには旧メディアの役割や論理がある。今まで培われてきた伝統の作法がある。
 たとえば一般紙であれば、載せるからには誰かに裏を取っている。そのうえで新聞の思惑が反映されていることもある。だったら、「正しいか正しくないか」ではなく、「誰が何を伝えようとしたのか」を読み解くために、あるもの(新聞)は利用したほうがおもしろいではないか。「また朝日と産経が全然違うこと言ってるぞ」と覗き見するくらいの下世話な気持ちで、マスコミを「信用する」のではなく「利用する」という気構えでいればいい。新聞にも観客論が必要だと思うのだ。

 たしかに新聞には様々な問題がある。組織として大きくなりすぎたがゆえにいろんなしがらみが生まれたり、市井の人々の価値観とのずれが大きくなったり、とても公正中立とはいえない報道スタンスがあったり。

 とはいえ、「だから新聞は読まない」という人より、「その歪みをわかった上で新聞を読む」人のほうがはるかに知的だ。情報強者というのはこういう人のことを言うのだ。常に遅れている時計と常に進んでいる時計の両方を見れば、現在の時刻がなんとなくはわかるものだ。


 この本に書かれている例だと、政策に反対するデモが行われたが、主催者発表の参加者数と警察発表の参加者数が大幅に異なる。

「これだけ多くの人が関心を寄せています」と言いたい朝日、毎日、東京新聞などは主催者発表の参加者数を大きく取り上げる。読売や産経は、多くの人が反対していることになると(政権が)困るので警察発表のほうを大きく取り上げて少なく見せようとする。

 同じデモを伝えているはずなのに、伝え方によってずいぶん違う景色が見えてくる。同じ富士山でも、山梨側から見るか静岡側から見るかで姿が違うように。

 それを「おまえの見方は偏っている!」と糾弾して切り捨てる人よりも、山梨の人と静岡の人の両方から話を聞く人のほうが、物事を立体的に見ることができるはずだ。

(ちなみに先のデモの件は、近くの鉄道の利用者数から判断するかぎりでは、主催者発表のほうが実情に近かったそうだ。主催者発表は水増ししてるし警察は少なく発表してるんだけどね)


 また、「来日したオバマ大統領が寿司を残した」というどうでもいいニュースから、複数メディアの記事を読み比べることにより「安倍首相と寿司業界の結びつきによる寿司利権」にまでたどりついた(とおもわれる)章はものすごく読みごたえがあった。

 取材をしなくても、新聞や雑誌を読み比べているだけで、プロの記者でもなかなかわからないような情報にたどりつくことができるのだ。アームチェア・ディテクティブ(安楽椅子探偵)のようでかっこいい。



 スポーツ新聞について。

 そんな「オヤジジャーナル」の中でも、とりわけ下世話なのが「夕刊紙・タブロイド」といわれるメディアだ。『東京スポーツ』『日刊ゲンダイ』『夕刊フジ』が代表選手でその最大の特徴は、「玉石混淆」であることに尽きる。
 朝刊紙(スポーツ紙含む)の場合、憶測や噂を報道することは許されないが、夕刊紙ではそれをどう扱うかが腕の見せどころになっている。
 ホントのことはズバリ書けないとか、まだ裏付けが取れないからぼかして書くしかないとか、いろいろな理由によって、わざと思わせぶりな書き方をするときがある。断定はできなくても、「匂わせる」ことで書けることは積極的に書いてしまうのだ。読者には、「行間を読む」という受け身の取り方が求められる。
 もちろん、ただの憶測であったり、バッシングだったりする記事もあるが、その中に、あとから振り返ってみるととんでもない「真実の宝」が落ちていたりするからおもしろい。ああ、ぼんやり「匂わせて」いたあの記事は、このことを言っていたのか、とわかることも多いのだ。たとえば有名人の覚せい剤疑惑の記事がそうだ。イニシャルでぼかしたり、わかる人にはわかる書き方をして「いいところまで」見せてくれる。

 正直、ぼくもスポーツ新聞のことはだいぶ低く見ていた。プチ鹿島さんは「スポーツ新聞をまともに読んでない人にかぎってスポーツ新聞を軽視している」と書いているが、まさにその通りだ。

 スポーツ新聞は、一般紙に比べると信憑性の低い情報の割合が高いのは事実だろう。だが、プチ鹿島さんのような新聞上級者になると、信憑性が低いことをわかった上で情報収集先として利用できるのだ。

 たとえば「X氏が覚醒剤をやっている」という情報があったとする。X氏に近い人物、それも複数が「あいつは覚醒剤をやってるよ」と語っている。十中八九、ほんとだろう。

 だが一般紙やテレビのニュースでは「X氏が覚醒剤をやっている」と報じることはできない。どれだけ怪しくても逮捕されるまでは一般人だからだ(ほんとを言うと起訴されて刑が確定するまでは推定無罪で一般人なのだがそれはまた別問題なのでこれ以上は触れない)。

 その「かなり確度が高いけど100%ではないので一般紙では書けない」ところを、スポーツ誌なら書くことができる。もちろん、訴えられないように「読む人が読めばわかる」レベルにぼかしたりはするけど。

 また「下世話すぎるから一般紙が書かないこと」を書けるのもスポーツ誌の強みだ。案外、その下世話なニュースがまじめな話につながることもあるのだ(上に書いた、大統領が寿司を残した話から業界の利権が見えてくるように)。

 とはいえ、このへんの「確実でないからまだ書けないこと」や「下世話な話」についてはSNSやYouTubeなどのほうが向いている気もするので、今後スポーツ紙は一般紙より厳しいかもしれないね。



 青木理さんとの対談より。

青木 同感。本当にマズい。一方で新聞も妙な方向に変わりつつあって、各社ともネット展開を盛んにやるようになったけど、やっぱりネットで一番アクセス数の多い記事は芸能関係なんだそうです。だからどんどん芸能記事も作るようになっていく。でも、新聞がそれでいいのか。僕がフリーになって痛感したのは、雑誌や書籍は売り上げ、テレビは視聴率という指標に良かれ悪しかれ右往左往させられているけど、新聞には基本的にそれがないんですよ。少なくとも現場の記者として取材しているとき、「記事を書けば売れる」とか、「この記事を一面トップにしたから売り上げが伸びた」なんて誰も考えていない。これは旧来型の新聞の美点でしょう。日本の新聞は問題だらけだけど、宅配に支えられて何百万部も売れているお化けメディアだったがゆえ一方でそういう美点も当たり前に存在したんです。

 データを可視化しやすいってのはネットメディアの利点だけど、欠点でもあるよね。インプレッション数、ページビュー数、直帰率なんかを調べていったら、芸能ニュース、ゴシップニュース、テレビ番組の文字起こしがいちばん成果が良いです、ってわかっちゃうのは決していいことではない。

 もしも新聞が「ページビュー数最優先!」に舵を切ってしまったら、そのときこそ本当に新聞が終わるときだろうね。


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ニュースはいらない



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2025年1月2日木曜日

【読書感想文】ビル・パーキンス『DIE WITH ZERO 人生が豊かになりすぎる究極のルール』 / 前よりちょっとだけ現在を大事にするようになった

DIE WITH ZERO

人生が豊かになりすぎる究極のルール

ビル・パーキンス(著)  児島 修(訳)

内容(e-honより)
全米注目のミリオネアが教える、究極のカネ・人生戦略。「今しかできないことに投資する」「タイムバケットにやりたいことを詰め込む」「若いときにはガレージから飛び降りる」……など、人生を豊かにするために、私たちが心に刻むべき9つのルールを紹介。若ければ若いほど、人生の景色をガラリと変えられる一冊。

『DIE WITH ZERO』のメッセージはいたってシンプル。

 死ぬときに財産をほぼゼロにしよう。お金は生きているうち、元気なうちに使おう。


 たしかにその通りだ。みんなわかっている。墓場にお金は持っていけない。

 でも、生前にお金を使い切るのはむずかしい。なぜなら、自分がいつ死ぬかわからないから。

 おもっていたより長く生きるかもしれない。自分が年老いたときにちゃんと年金がもらえるのかわからない。歳をとったら医療費が高くつくんじゃないの。急な出費とか、物価高とかあるし、老後にいくらか必要なのかわからない。

 ぼくもそのタイプ。あんまり物欲がないしセコいし妻も浪費するタイプではないので、貯金額は増えていく。といって欲しいものはあまりない。いちばんお金を使っているのが生命保険。それも掛け捨てではないので貯蓄みたいなものだ。


 昔から貯めこむタイプだった。おこづかいをもらっていたときから、ある程度の貯金がないと不安になる。子どものいる今ならともかく、「どうしようもなくなったら親に泣きつけばいい」状況だった若い頃なんか、あるだけ使ってしまってもよかったとおもう。でもできなかった。小さい頃から「後先気にせずどんどん使ってたらなくなって困るよ」と言われて育ったからだろう。



 必要以上に貯めこんでしまうタイプはけっこう多いようだ。

「いつか必要になったときのために」と貯めこんで、その「いつか」が来ることなく死んでしまう人が。

 ・資産額が多い人々(退職前に50万ドル以上)は、20年後または死亡するまでにその金額の11.8%しか使っておらず、88%以上を残して亡くなっている。つまり、66歳に引退したときに50万ドルだった資産は、66歳の時点でまだ44万ドル以上残っている
 ・資産額が少ない人々(退職前に20万ドル未満)は、老後に資産を使う割合が高い同額の支出でも、資産が多い人に比べて支出の割合が大きくなるためだろう)。だがこのグループでも、退職後の18年間で資産の4分の1しか減っていない
 ・全退職者の3分の1が、なんと退職後に資産を増やしている。資産を取り崩すのではなく、反対に富を増やし続けていた
 ・退職後も安定した収入源が保証されている年金受給者の場合、退職後の18年間で使った資産はわずか4%と、非年金受給者の35%に比べてはるかに少なかった
 
 つまり、現役時代に「老後のために貯蓄する」と言っていた人いざ退職したらその金を十分に使っていない。
 「ゼロで死ぬ」どころか、そもそも生きているうちにできるだけ金を使おうとすらしていないように見える。
 これは年金をもらっている人の場合、より明白になる。年金受給者は老後も安定した収入が保証されている。だから、年金をもらっていない人に比べて貯金を取り崩しやすいように思える。だが、調査結果の通り、年金受給者が老後に資産を減らす割合はとても低い。

 理想は、40代、50代ぐらいで財産額がピークを迎え、そこから少しずつ使って減らしていき、死ぬときにゼロに近くなっていることだ。

 でもほとんどの人がそうではない。歳をとってからも資産が増え続ける。といってそのお金を使ってやりたいことがそうあるわけではない。

「子や孫に遺産を残せるならそれでいいじゃないか」という人もあるだろうが、相続させるにしても早く財産を渡してあげるほうがいいと著者は書く。たしかにその通りだ。60歳になって親が死んで遺産をもらうよりも、30歳のときに生前贈与されるほうがいい。若いときのほうが使い道が多いのだから。

 それに生きているうちにちょっとずつ渡すほうが、税金も少なくて済むし、無用な相続トラブルも避けられる。



 

 そもそも、同じお金の価値が、年代によって異なると著者は語る。

 経験から価値を引き出しやすい年代に、貯蓄をおさえて金を多めに使う。この原則に基づいて、支出と貯蓄のバランスを人生全体の視点で調整していくべきである。
 私たちはずっと、老後のために勤勉なアリのように金を貯めるべきだと言われてきた。だが皮肉にも、健康と富があり、経験を最大限に楽しめる真の黄金期は、一般的な定年の年齢よりもっと前に来る。
 この真の黄金期に、私たちは喜びを先送りせず、積極的に金を使うべきだ。老後のために金を貯め込む人は多いが、「人生を最大限に充実させる」という観点からすれば、これは非効率的な投資だ。
 単にまわりがそうしているからという主体性のない理由で貯めている人も多いが、金は将来のために取っておいたほうが良い場合もあれば、今使ったほうが良い場合もある。その都度、最適な判断をしていくべきなのである。

 たしかにそうだ。80歳になって使う100万円よりも20歳で使う100万円のほうがずっと楽しいに決まっている。

 一般に、歳をとるほど同じ額のお金から得られる喜びは小さくなる。財産が増えることもあるし、感受性が鈍ることもある。

 ぼくは小学生のとき、お年玉を銀行に預けていた。そのお金は結局大人になるまで引き出すことはなかった。何万円かにはなったはずだ。

 すごくもったいないことだ。今なら一日か二日で稼げる額だ。数万円好きに使っていいよ、と言われたら、じゃあちょっといい食事をして、服でも買って、それで終わりだ。でも学生のときに自由に使える数万円があったらどれだけ楽しめただろう。

 どうせ使うなら若いときのほうがいい。同じ二泊三日の旅行でも、得られるものがぜんぜんちがう。




 お金はいつまでも貯めとける。それがお金のいいところでもあり悪いところでもある。

 有給休暇は二年使わなかったら消滅するじゃない? お金も同じような仕組みならいいのにね。手にしてから二年使わなかったお金は消滅する。だったらいやおうなしに使うもの。まあでも不動産とか株とか金(きん)とかに流れるだけか。

 お金は貯めとけるので、必要以上に稼いでしまう。食物だったら「これ以上収穫しても腐らせてしまうだけだからこのへんでやめとこう」となるけど、金を稼ぐのはやめどきがわからない。

 実際、ウェアが患者から聞いた後悔のなかで2番目に多かったのは(男性の患者では1位だった)は、「働きすぎなかったらよかった」だ。これは、まさに私が本書で主張していることの核心だとも言える。
 「私が看取った男性はみな、仕事優先の人生を生きてきたことを深く後悔していた」とウェアはつづっている(女性にも仕事をしすぎたことを後悔する人はいたが、患者の多くは高齢者であり、まだ女性が外で働くのが珍しい時代を生きてきた人たちだ)。
 さらに、働きすぎは後悔しても、一生懸命に子育てしたことを後悔する人はいなかった。多くの人は、働きすぎた結果、子どもやパートナーと一緒に時間を過ごせなかったことを後悔していたのだ。

 ぼくの友人に自分で事業をしている男がいて、そいつはけっこう稼いでいるらしいのだが、家族で食事をしているときでも、友人たちと遊んでいるときでも、仕事の電話がかかってきたらすぐに出て対応している。

 大金を稼ぐためにはそれぐらいしないといけないのかもしれないが、プライベートの時間を切り売りして稼ぐことにそんなに意味があるの? とぼくはおもってしまう。

 じっさい、そいつと遊ぶことは減ったし。仕事のほうを優先する人は遊びに誘いにくいんだよね。




 人間にはずっと未来のことを想像する力がある(だからこそ貨幣というものが価値を持つ)。

 しかしそのせいで、未来を心配するあまり、現在の価値が低く扱われてしまう。


 ぼくはこの本を読んで、考え方ががらっと変わった……とはならなかった。でも、ちょっとだけ変わった。もっと今を大事にしたほうがいいな、と。

 とりあえず、どっちを買うか迷ったときに値段を理由に選ぶのはやめよう、とおもった。今までは「ほんとはこっちのほうがいいけどちょっと高いんだよな……」と躊躇していた場面で、ほんとにいいものを選ぶようにしようとおもう。

 まずは清水の舞台から飛び降りた気持ちで1500円のランチや!


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2024年12月28日土曜日

2024年に読んだ本 マイ・ベスト10

 2024年に読んだ本の中からベスト10を選出。

 去年までは12冊ずつ選んでいたけど、今年は10冊にしました。

 なるべくいろんなジャンルから。

 順位はつけずに、読んだ順に紹介。


奥田 英朗

『オリンピックの身代金』



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 小説。

 昭和39年開催の東京オリンピック。その直前の東京を舞台にした、クライムサスペンス。

 息をつかせぬスリリングなストーリー展開も見事なのだが、感心したのは、小説内で描かれる「国民の命よりも体面を気にする国家の体質」が現実の2021年東京オリンピックでも発揮されたこと。見事な予言小説にもなっている。汚職にまみれた2021年東京オリンピックを知っている身としては、犯人がんばれ、オリンピックを中止にしろ! と犯人を応援してしまう。






マシュー・サイド

『多様性の科学
画一的で凋落する組織、複数の視点で問題を解決する組織』 



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 ノンフィクション。

 多様性は重要だよ、という話。べつに道徳のお話ではなく、多様な考えをする人が集まったほうがより優れた知見を導きだせるから、という現実的な話。

 とはいえ多様性を確保するのは容易なことではない。多種多様な人で議論をするより、学歴や職業や趣味嗜好が近い人と話すほうがずっと楽だ。

 また多様な人を集めても、“えらいリーダー”がいると他の人が自由にものを言えず、結局似たような意見ばかりが提出されることになる。

 また、多様な人が集まりすぎると、その中でグループが生まれてかえって多様性が失われることになるという。

 組織というものについて考えるのに実に有益な本。



武田 砂鉄

『わかりやすさの罪』



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 エッセイ。

「わかりやすさ」ばかりが求められる時代だからこそ、わかりにくいことの重要さをわかりにくく伝える本。

 物事がわかりにくいのは、伝え方が悪いからとは限らない。「自分の前提知識や理解が足りないから」「断片しか明らかになっていないから」「誰かが嘘をついていてどれが真実なのか誰にもわからないから」「シンプルな理由なんてないから」などいろんな理由がある。

「わかりやすいもの」は、虚偽や嘘であることが多い。〇〇が××なのは悪いやつがいるから、という陰謀論はすごくわかりやすい。2024年の兵庫県知事選でも多くの人が「わかりやすい説明」に飛びついてしまった。

 わからないものをわからないまま置いておく。脳にストレスをかけることだけど、意識しておく必要はある。



渡辺 佑基

『ペンギンが教えてくれた物理のはなし』



感想はこちら

 エッセイ。

 著者は、バイオロギング(生物に記録装置をとりつけてなるべく自然な行動を測定する方法)を使って野生生物の生態を研究している生物学者。

 生物について調べるためには物理学が必要なのだ。こういう複数の学問分野を横断する話は魅力的だ。

 マグロが100km/h近いスピードで泳ぐのはたぶん俗説だとか、鳥は早く飛ぶより遅く飛ぶ能力のほうが重要だとか、いろいろおもしろい知見があった。



小泉 武夫

『猟師の肉は腐らない』


感想はこちら

 エッセイ。

 著者が猟師の友人を訪問して山中に数日滞在した記録。あらゆる獣、小動物、魚、虫などを捕まえて食う描写がなんともうまそう。

 こんな生活いいなあ、とちょっとあこがれはするが、同時にぼくのような怠惰な人間にはぜったい無理だな、ともおもう。山の中で自給自足の生活を送ろうとおもったら毎日忙しく動きまわらないといけない。読書を通してお金のない生活を疑似体験をすることで、お金って便利だなと改めておもう。



『清原和博 告白』



感想はこちら

 インタビュー。

 ぼくの少年時代のヒーローだった清原和博。誰もが知るスーパースターだった清原選手は高校時代、プロ一年目と華々しい活躍を見せ、その将来を嘱望されていた。だが徐々に成績は低下し、かつて自信を裏切ったジャイアンツに入団するもおもうような結果は出ず、怪我にも苦しんだ。引退後は家族が離れてゆき、覚醒剤取締法で逮捕された。

「絵に描いたようなスーパースターの転落人生」だが、インタビューを読むと、清原和博という人は野球の才能に恵まれていたこと以外はごくふつうの人だったんだなとおもう。純粋でまっすぐな人だったがゆえに、周囲からの期待に応えられない自分にもどかしさを感じ、不安を取り除くために筋肉をつけ、酒を飲み、やがて覚醒剤に手を出してしまった。

 いろいろあったけど、やっぱりぼくにとってはスーパースターだ。



坪倉 優介

『記憶喪失になったぼくが見た世界』



感想はこちら

 エッセイ。

 バイク事故で一切の記憶を失った大学生とその母親の手記。一切というのはほんとに一切で、おなかがすいたらごはんを食べるとか、おなかがいっぱいになったら食べるのをやめるとか、そんなことまでわからなくなっていたのだという。もちろん言葉も。生まれたての赤ちゃんとまったくいっしょ。

 本人の記述もさることながら、お母さんの心中描写が胸を打つ。死なれるよりもショッキングかもしれない。

 記憶喪失後の生活に慣れてくると同時に、今度は記憶を取り戻してしまうことが怖くなる。そうかあ。そうだろうなあ。



浅倉秋成

『六人の嘘つきな大学生』


感想はこちら

 小説。

 就活の選考会を舞台にしたサスペンスミステリ。就活を舞台に選んだのはうまい。就活って異常なことがあたりまえにおこなわれる空間だからね。みんな嘘をつくし。

 さらに就活後にさらなる展開が待っている。すっきりと白黒がつく終わりにならないところも個人的に好き。世の中のたいていの出来事ってよくわからないままだからね。



逢坂冬馬

『同志少女よ、敵を撃て』



感想はこちら

 小説。

 いやあ、とんでもない小説だった。王道漫画のような手に汗握るストーリー。でも王道漫画とちがうのは、はっきりした正邪がないこと。みんなに正義があるしみんなが悪でもある。戦争という異常な空間で生きていくには狂っていないとだめなのだ。登場人物はみんな狂ってる。狂ってない人は死んでいく。

 デビュー作とおもえないほど精緻な取材にもとづいて書かれていて、戦記物としても冒険小説としても友情小説としても一級品。数年に一度の名作だった。



アントニー・ビーヴァー

『ベルリン陥落1945』


感想はこちら

 ノンフィクション。

 様々な証言をもとに、独ソ戦末期の様子を書く。ノンフィクションではあるが、数字などのデータは少なめ。証言を中心にまとめているので情景が浮かびあがってくる。

 教科書なんかだと、ナチスドイツはシンプルな悪だ。でも現実はそんなことない。ドイツ市民にも家族があり、生活があり、平和を望んでいる。ソ連軍もナチスに負けず劣らず残虐なことをしている。でも教科書に書かれるのはドイツが悪かったこと。勝者の歴史だけだ。

 読めば読むほど、戦争で負ける国ってどこも同じなんだなとおもう。都合の悪いニュースは報道せず、いいことだけを大きく伝え、美談で愛国心を煽り、一発逆転の無謀な作戦が採用され、愛国心を唱え威勢のいいことを言うやつから真っ先に逃げていく。日本と同じだ。

 戦争における生命の軽さがよく伝わってくる。



 来年もおもしろい本に出会えますように……。


2024年12月25日水曜日

【読書感想文】朝井 リョウ『武道館』 / グロテスクなアイドルの世界

武道館

朝井 リョウ

内容(e-honより)
「武道館ライブ」を合言葉に活動してきた女性アイドルグループ「NEXT YOU」。さまざまな手段で人気と知名度を上げるが、ある出来事がグループの存続を危うくする。恋愛禁止、炎上、特典商法、握手会、スルースキル…“アイドル”を取り巻く様々な言葉や現象から、現代を生きる人々の心の形を描き表した長編小説。

 かけだしのアイドルとして生きる少女を主人公にした小説。

 炎上やSNSでの批判を乗り越え、武道館ライブを目指すアイドルグループ。しかし主人公が幼なじみの男の子と恋仲になってしまい……。



 ぼくの話をすると、アイドルというものにはまるで興味がない。どっちかっていうと嫌いだ。

 特にぼくが音楽というものに興味を持ちだした90年代中盤は、アイドルなんてくそくらえという時代で、アイドルが好きとかいうより、そもそも女性アイドルがいなかった。

 ちょっと前はおニャン子とかがいて、90年代後半からはモーニング娘。が台頭してくるんだけど、ちょうどその間ってほんとに女性アイドルがいなかった。女性グループはあったけどSPEEDとかPUFFYとか「かっこいい女性」をめざしているような感じで、少女性を売りにしたようなアイドルグループは(少なくともメジャーには)存在していなかった。

 だから高校生になってはじめて、モーニング娘。という“いわゆるアイドル”を目にしたとき、とっさに嫌悪感をおぼえた。意識的に避けていたのをおぼえている。

 その理由が当時はわからなかったんだけど、今にしておもうと、その商品性が気持ち悪かったんじゃないかな。


 アイドルって「商品」感が強いじゃない。アーティストではなく、商品。その背後で糸を引いている大人の存在が強く感じられてしまう。

 もちろんロックシンガーだってシンガーソングライターだってその周囲にはたくさんの大人が商売として関わっているわけだけど、そこまで不自由な感じがしない。表現者としての意思を感じる。

 アイドルは、当人たちの意思よりもその後ろにいる“大人たち”の意思が強く感じられる。あと子役も。だから気持ち悪い。




『武道館』は小説なのでもちろんフィクションなのだが、ある程度は事実に即している部分もあるのだろう。

 読んで、あらためてアイドルはグロテスクな稼業だな、とおもう。

 他にある? 恋愛禁止なんて決められる職業?

 それってつまり、アイドルは365日24時間アイドルでいなきゃいけないってことだよね。

 テレビでは明るく振るまっている芸人が私生活では物静かだったり、怖い役ばかりしている俳優が実は優しい人だったりしてもいいわけじゃない。「イメージとちがう」ぐらいはおもわれるだろうけど、それで所属事務所から怒られるということはないだろう。

 でも、アイドルに関しては私生活にまで干渉することがまかりとおっている。

 まあ実際は「恋愛するな」ではなく「恋愛するならばれないようにやれ」なのかもしれないけど、今みたいに誰もが写真や動画を撮って広めることのできる時代だとそれも厳しいだろう。

 そのアイドルを嫌いな人たちが、彼女たちが不幸になることを願うならば、まだわかる。だがもっとひどいことに、アイドルのファンたちが、彼女たちが恋愛をし、ステップアップし、歳をとることを拒絶する。応援している人たちが足をひっぱる。なんともグロテスク。もちろんそんなファンだけではないんだろうけど。


『武道館』はアイドル業界の暗部を描きながらも、最終的には希望をもたせたエンディングを見せている。

 でも、特にアイドルに思い入れがない、どっちかっていうと懐疑的に見ている人間からすると、ずいぶんとってつけたハッピーエンドに見えてしまう。まあ、アイドルファンはそうおもいたいよね。なんだかんだあっても最終的にアイドルが幸せになっているとおもいたいよね。自分たちが若い女性の人生をつぶしたとはおもいたくないよね。そんな願望を都合よく叶えるラストにおもえてしまう。


 アイドル好きが読んだらまたちがった感想になるんだろうけど、まったく興味のない人間が読むと「やっぱりアイドル業界って狂ってんな」という感想しか出てこないや。


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2024年12月20日金曜日

【読書感想文】今和泉 隆行『考えると楽しい地図 ~そのお店は、なぜここに?~』 / おじさんは道が好き

考えると楽しい地図

そのお店は、なぜここに?

今和泉 隆行(著)  梅澤 真一(監修)

目次
第1章 これも地図?いろんな地図をみてみよう
(地図マスターへの第一歩!どんなときにどの地図をつかう?他)
第2章 おぼえるときは地図をみながら!地図のやくそくごとを知ろう
(上下左右ってどっち?方位をつかって方向をしめそう他)
第3章 そこってどこ?地図を読む練習をしよう
(これでは会えない!ざんねんなまち合わせ他)
第4章 まちの歴史もみえてくる?地図から土地の特色を読みとろう
(地形を一気にかえるスーパーパワー!火山のすごさを地図から読もう他)
第5章 正解は人それぞれ!地図を読んで自分なりの考えをまとめよう
(もしこのまちに引っこすならどこに住みたい?他)

 空想地図作家(存在しない街の地図を空想で描いてる人)である今和泉隆行さんが子ども向けに地図のおもしろさを伝える本。

 問題(ただひとつの正解があるとは限らない)と解説がセットになっているので読みやすい。

 地図に関する幅広い内容を扱っているのでちょっと地図に興味がある、ぐらいの子どもにはちょうどいい内容かもしれない。

 今和泉さんのファンでありこれまでに何冊か著作を読んでトークショーを聴きにいったぼくにとってはほとんどが既知の内容だったけど……。



 地図は魅力的だ。ぼくは地図好きとは到底言えないレベルだが、それでも地図は楽しい。

 誰しも、近所の地図を描いて遊んだり、オリエンテーリングで地図を見ながら宝探しをすることに喜びをおぼえた経験があるだろう。

 地図がおもしろいのは、ありとあらゆることが地図につながっているからだ。

『考えると楽しい地図』では、地図のおもしろさを伝える問題をバランスよくとりそろえている。

 地図を見て、ラーメン屋を開くならどこがいいか、図書館を作るならどこが向いてるか、ここから見える景色はどんなのか、川や火口の近くにはどんな施設があるか、自分が江戸時代の藩主だとしてらどこに築城するのがいいか……。

 経済、歴史、行政、地学、軍事、法律、あらゆることが地図と密接に関係している。

 城下町は敵に攻めこまれにくくするために曲がり角が多いとか、江戸時代は家の間口が広いほど税が高かったので古い町は今でも細長い敷地が多いとか、地図を見ると昔の生活が浮かびあがってくる。


 以前、あるラジオで「おじさんは道の話が好きだよね」という話をしていた。

 車で□□に行く、という話をしているとすぐにおじさんが寄ってきて、それだったらどの道を通るのがいい、ここで高速を降りて下道を通ったほうが早い、と言いだす、という話だった。

 たしかに。世のおじさんには道好きが多い。今まで生きてきた中で蓄えてきたあれやこれやがみんな道につながるから、歳をとると道を好きになるのかもしれない。


 今和泉さんのトークショーの中で「より正確な地図を書くためには地形の成り立ちを知る必要があるからプレートテクトニクスを勉強している」という話があった。

 そうやってどんどん興味の幅が広がっていくのはすごく幸せなことだ。知に対する興味が衰えない人は一生楽しめる。


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2024年12月17日火曜日

【読書感想文】村中 直人『〈叱る依存〉がとまらない』 / 叱らずに済む人は幸せである

〈叱る依存〉がとまらない

村中 直人

内容(e-honより)
「叱る」には依存性があり、エスカレートしていく―その理由は、脳の「報酬系回路」にあった! 児童虐待、DV、パワハラ、加熱するバッシング報道…。人は「叱りたい」欲求とどう向き合えばいいのか? つい叱っては反省し、でもまた叱ってしまうと悩む、あなたへの処方箋。


 人を指導する立場にある人がつい使ってしまう「叱る」。だが、指導される側を成長させるのにはほとんど役立たないことがわかっている。だがいまだに指導の現場では「叱る」は広く使われている。なぜなら「叱る」ことには(悪影響もあるとはいえ)効果があるとおもわれているから。




 著者は、「叱られることでがんばれる」「叱られることに慣れていないと社会に出てから苦労する」といった通念が誤っていると指摘する。

 では、なぜ「叱る」は多くの人に「効果がある」と誤解されてしまうのでしょうか?
 最大の要因は、ネガティブ感情への反応には即効性があることです。叱られた人(例えば子どもや部下)たちは、多くの場合、即座に「戦うか、逃げるか」状態になります。人間に限って言うなら、なんとか「逃げたい」と思う状態になることが多いでしょう。権力の不均衡がある中で、権力者に対して「戦う」ことを選択し続けるのは至難の業だからです。中には戦い続けるお子さんや部下もいますが、相当な「才能」の持ち主だと私は感じています。
 では「逃げる」とは具体的に何をすることでしょうか。一番手っ取り早いのは、言われた行動をしてみせることです。もしくは申し訳なさそうに「ごめんなさい。もうしません」と言うことです。それは「叱る側」の立場からすると、望んだ結果がすぐに得られたと感じる瞬間かと思います。「言っていることが伝わった。わかってくれた」とも感じるかもしれません。つまり相手が学んだと思うのです。また、その場に居合わせる第三者にも、わかりやすい「効果」を見せることができ、きちんと対応していると納得してもらいやすくなります。ここに「叱る」が効果的な方法だと誤解される原因があります。

 叱った相手が頭を下げて「ごめんなさい」と言った。こちらは「ああ、理解してもらえた」とおもう。だが相手は深く反省などしていない。「なんかこの人は怒っているからこれ以上刺激しないように頭を下げて嵐が通りすぎるのを待とう」とおもっているだけだ。

 これはよくわかる。ぼくはこれまでの人生で何千回と叱られてきたが、叱られている最中に深く反省していたことなんてほとんどない。反省したとしても「今度は叱られないようにしよう」とおもうだけで、行為自体を反省することはほとんどない。


 以前勤めていた会社でのこと。ぼくが最終退出者だったのだが、オフィスの電灯を消すのを忘れて帰ってしまった。

 翌朝、上司から怒られた。「昨日電灯つきっぱなしだったぞ」と。ぼくが悪いので「すみませんでした。気を付けます」と頭を下げた。だが上司の説教は止まらない。ミスがないように注意しなきゃだめじゃないかとか、電気代がもったいないとか、ねちねちと続けてきた。

 聞いている間、ぼくは反省などしていない。「今さらどうしようと消し忘れてしまった事実は取り消せないし、対策としては気を付けますとしか言いようがない。タイマーを導入してシステム的に消し忘れを防ぐことはできるかもしれないが、得られるものとコストを比較したら現実的じゃないしな」とおもうだけだ。

 ぼくが反省していない(いや最初は反省してたんだけど)ことが伝わったのか、上司の説教はさらにヒートアップしてきて、しまいには「火事になったらどうするんだ」なんてわけのわからないことまで言いだした。ぼくは「何言ってんだこいつ」とおもう。それが伝わり、上司はますます感情的になる……。

 いやー、実に不毛な時間だった。

 こういう不毛な時間を回避するには「深く反省しているふりをする」が最善の方法となる。いろんな組織に「怒りっぽい人」がいるが、その周りの人は「反省しているふり」ばかりがうまくなる。お説教を早くやりすごすために反省しているふりをする。叱っているほうは気分が「指導できた」と勘違いして気分が良くなり、味をしめてますます叱るようになる……。




「叱る」ことは意味がないどころか、指導という点では逆にマイナスの効果があると著者は指摘する。

 理不尽に耐え続けるということは、報酬系回路が活性化される「冒険モード」の機会を奪われ続けることも意味しています。危機からの回避や闘争は、「欲しい、やりたい」という心理状態とは両立しないからです。まして理不尽によって「諦め」を引き起こすことは、「欲しい、やりたい」という気持ち自体を奪うことです。そういった状態が続くと、人はそもそも「やりたいことが何かわからない」という状態になってしまう可能性が高くなります。

「冒険モード」とは学習意欲が高まった状態のこと。叱られることで学習意欲は低下し、やる気もなくなる。当然結果は悪くなるので叱る側はますます腹を立てて叱るようになり……という悪循環が生まれる。


 叱ることで得られるものは「相手を思考停止にさせる」ことだけ。

 だから「赤信号で飛び出そうとする子どもを叱る」のは効果がある。何も考えずに足を止めさせることができるので。

 ただしそこから「赤信号で飛び出そうとしたら車に轢かれるかもしれない。これからは交通安全に気を付けて行動しよう」という学びを得させることはできない。

 また、悪いやつが「いいからとにかくハンコを押せ!」というときも叱ることは効果的だ。思考停止にさせたほうがいいので。




 指導・教育をする上では効果がない(それどころか妨げになる)にもかかわらず叱る指導をしてしまうのは、叱られる側ではなく叱る側にあると著者は語る。

 しかしながら、その後の研究では、処罰行為は規範を維持するためだけのものではなく、相手にネガティブな体験を与えることそのものが目的となっているような悪意ある処罰(Spiteful Punishment)もまた、報酬系回路を活性化させると報告されています。つまり単に相手を苦しませるだけの行為でも、人は気持ちよくなったり、充足感を得たりすることがあるのです。また、怒りの感情が背景にあって、その行為がなんらかの復讐の機会となっている場合に、報酬系回路の活動がより高まるという報告もされています。みなさんも、意地悪な相手やずるをした人に、仕返しをすることで気持ちがすっと晴れた経験があるかと思います。  どうやら、他者に苦痛を与えるという行為そのものが、人にとっての「社会的な報酬」の一つになっているようです。私たちはこの事実をどのように受け止め、どう向き合っていくのかを真剣に考える必要があるのではないでしょうか。

 他人を叱ることが快楽をもたらすのだ。ネットの“炎上”もこういうケースが多い。やらかしてしまった人たちに無関係の人たちが群がり、非難の声を上げる。

 あれも「叱る」行為の一種だろう。自分とは関係のない出来事でも、叱ることが気持ちいいから叱ってしまうのだ。


 よく叱る人は、たいてい自分に問題があるとは考えない。「自分だってほんとは叱りたくない。叱られるようなことをするこいつが悪いんだ」という思考になる。

 だがそれは正しくない。あくまで原因は“叱る側”にあるのだ。酒自体が悪いのではなく酒を飲む側に問題があるのと同じく。

「何度言わせるんだ!」と叱りつづける人がいるが、問題は叱る側にあるのだから、自分が変わらないかぎり、叱る原因がなくなることはない。



 著者の書いてあることはよくわかる。

 ただなあ。現実的に、子どもを育てたり、多くの人を指導したりする上で、まったく叱らないというのは難しいんじゃないかな。

 進学校の高校教師が「叱らずに生徒指導をする」のはそんなに難しくないかもしれない。でも、いわゆる荒れてる学校、学習障害すれすれぐらいの子だらけの学校で「叱らない指導」はできないとおもう。

「叱らずに指導をする」ってのはある一定の知性や常識や意欲を持ちあわせている相手には有効でも、そうじゃない相手もいるわけで。野生のクマ相手に「話せばわかる!」と言ってもしかたないのと同じく、ある程度言葉が通じないと「叱らない指導」はできない。


 「叱る」は抑止力として予防的に用いることが基本です。つまり実際には叱らずに、予告だけするのです。実際に叱ってしまうと相手は「防御モード」になって、言い争ったり隠蔽しようとしたりする可能性が高くなります。ということは、実際に叱らなくてはならない状況を招いてしまった時点で、本来は「叱る人」の失敗だと考えるべきなのです。
 また、抑止のための「叱る」は、ただ特定の行動を避けるようになるという意味の効果しかなく、望ましい行動を身につけることにはつながりにくい点も忘れてはいけません。「何をしたら叱られるのか」を伝えると同時に、「どんな行動が求められているのか」「何を大事に考えるべきなのか」など、学んで欲しい具体的な事柄を伝えることが大切です。ただし、これらを「叱る」からの流れで伝えることはおすすめできません。ネガティブ感情で「防御モード」が活性化している時は、理解力が下がっていますし、攻撃的な気持ちになっているので素直に聞くことも難しいのです。

 これもなあ。ときどきほんとに「叱る」からこそ、抑止として使えるとおもうんだけど。原爆の怖さを知っているから核が抑止力になるわけで。


 著者は、人は叱られると「防御モード」になって思考停止・逃避・反撃に向かい、うまく褒められると「冒険モード」になって学習意欲が高まると書いてある。

 一般的な傾向はそうかもしれないが、例外も多い。

 たとえば叱らずに普通に話をしただけで「防御モード」になる人は大人でも子どもでもけっこういるんだよね。「なんでこれをしたの?」と(怒らずに)聞いても、攻撃されたと感じて言い訳や反撃をしはじめる人が。


 うちの長女がまさにそうで、こないだ風呂に入らずに寝ようとしていたので「お風呂入って」と言ったところ、「入ったし!」と怒りだした。一応確認したが、髪の毛も脱衣所もまったく濡れていない。そのことを指摘しても「乾かしたのっ!」とキレる。娘が洗面所に行ったのは5分ぐらいなのでその時間で髪と身体を洗って髪(肩を超える長さ)を乾かすことなんてぜったい不可能なのだが、それでも「入った!」と嘘をつく。

 さんざん話してもらちがあかないので、こっちも「おまえの嘘や言い訳なんかどうでもいいからさっさと風呂に行け!」と怒鳴って、半ば引きずるようにして風呂に行かせた。

 自分でも大人げない対応だったとはおもうが、この場合、他に方法ある?

 風呂に行かず、嘘をつき、嘘を指摘されたら逆ギレしてくる相手に対して「叱る」以外の対応ある?

 自分から風呂に行きたくなるまで何日でも何ヶ月でも待てばいいの?


 子育てしてたらこの類いの「子どもがすぐばれる嘘をつく」とか日常茶飯事だし、なんなら大人でもけっこういる。

 アドバイスされただけで「防御モード」になって牙を剥いて食ってかかってきたり、嘘に嘘を重ねて逃げようとする人間が。ぼく自身もそういう子どもだったのでよくわかる。

 無限の時間と忍耐力があれば辛抱強くつきあって心を開かせることができるのかもしれないが、現実的にそいつだけに向き合ってもいられない。

 ベストな方法ではないかもしれないけど、叱るしかないときってあるんだよね。

 叱らずに指導しましょうっていうのは「すべての国が武器を捨てればいいのに」っていうのと同じで、理想ではあるけど、現実的にはまずムリ。

 きっと著者の周りには、攻撃的な人や信じられないような嘘つきがいないのだろう。幸せなことだ。


 この本で書かれていることは理想論すぎるけど、「叱ることは快楽をもたらす」と知っておくことは大事だね。

 叱る前に「これは場をうまく収めるために必要な説教か、それとも自分が気持ち良くなるための説教か」と考えるようにしたい。できるかなあ。


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2024年12月9日月曜日

【読書感想文】櫛木理宇『死刑にいたる病』 / ミステリというよりホラー

死刑にいたる病

櫛木理宇

内容(e-honより)
鬱屈した日々を送る大学生、筧井雅也に届いた一通の手紙。それは稀代の連続殺人鬼・榛村大和からのものだった。「罪は認めるが、最後の一件だけは冤罪だ。それを証明してくれないか?」パン屋の元店主にして自分のよき理解者だった大和に頼まれ、事件を再調査する雅也。その人生に潜む負の連鎖を知るうち、雅也はなぜか大和に魅せられていく。一つ一つの選択が明らかにする残酷な真実とは。


 かつては優等生で自信に満ちあふれていたが、自信を失い卑屈になっていった大学生の主人公。彼のもとに、連続殺人犯として収監されている死刑囚・榛村大和から手紙が届く。

 刑務所に面会に行くと、榛村大和は語る。たしかに自分は罪のない少年少女八人を己の快楽のために殺した。それは認める。だが裁判で自分がやったとされた九件目の罪だけは冤罪だ。やってもいない罪で裁かれたくはない。真犯人は他にいる。君に見つけてほしい――。

 はたして榛村大和が語っている内容はどこまで本当なのか。九人目を殺した真犯人がいるとしたら誰なのか。そして榛村はなぜ、さほど接点のあったわけでもない自分を指名して手紙を送ってきたのか――。



 よくできたミステリだった。というより、ミステリだとおもって読んでいたらサスペンスというかホラーというか。

 冤罪をテーマにしたミステリでいうと高野 和明『13階段』が有名だ。とある死刑囚の冤罪を晴らすために調査をする話。

 冤罪ということになれば、「犯人とおもわれていた人物が犯人でない」と同時に「真犯人が別にいる」という真相があることになる。両面からドラマを作れるので、気の抜けない展開になる。

『死刑にいたる病』も中盤までは『13階段』と似ている。ああこういうパターンね、ということはきっと主人公は少しずつ真相に迫り、真相に迫ったところで真犯人に……という展開になるんだろうな、とおもいながら読んでいた。


 が、ぼくの予想はまんまと裏切られた。なるほどね。ミステリとしてのおもしろさよりもシリアルキラーの不気味さを掘るほうに持っていったわけか。

 これはこれでありだね。ミステリとしてはこうなるだろう、という予想を裏切るのが逆説的にミステリっぽい。

 きれいに謎が解けてすっきり終わる話じゃないからこそ、いい意味でもやもや感が残る。個人的には鮮やかな謎解きよりも「なんかしっくりこないものが残る」この展開のほうが好きだな。


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2024年12月6日金曜日

【読書感想文】中村 計『笑い神 M-1、その純情と狂気』 / まじめにふまじめ

笑い神

M-1、その純情と狂気

中村 計

内容(e-honより)
M-1とはネタの壮大な墓場でもあった。にもかかわらず漫才師たちは毎年、そこへ向かった――。 一夜にして富と人気を手にすることができるM-1グランプリ。いまや年末の風物詩であるお笑いのビッグイベントは、吉本興業内に作られた一人だけの新部署「漫才プロジェクト」の社員、そして稀代のプロデューサー島田紳助の「賞金をな、1千万にするんや」という途方もないアイディアによって誕生した。このM-1に、「ちゃっちゃっと優勝して、天下を獲ったるわい」と乗り込んだコンビがいた。のちに「ミスターM-1」「M-1の申し子」と呼ばれ、2002年から9年連続で決勝に進出した笑い飯である。大阪の地下芸人だった哲夫と西田は、純情と狂気が生み出す圧倒的熱量で「笑い」を追い求め、その狂熱は他の芸人にも影響を与えていく――。 芸人、スタッフ80人以上の証言から浮かび上がる、M-1と漫才の深淵。笑い飯、千鳥、フットボールアワー、ブラックマヨネーズ、チュートリアル、キングコング、NON STYLE、スリムクラブ……。漫才師たちの、「笑い」の発明と革新の20年を活写する圧巻のノンフィクション、誕生!

 笑い飯の足跡を中心に、M-1グランプリの歴史(笑い飯が主軸なので主に2001~2010年)をふりかえるノンフィクション。

 ひとつひとつのエピソードはテレビやWebメディアのインタビューなどで語られたものも多いのだが、これだけ多くの証言をもとに網羅的に書かれたものはめずらしい。

 ひとつには、「お笑いを語るのはダサい」という風潮のせいだろう。お笑いにかぎらず、サブカルには「言語化されないからこそおもしろい部分」というのが存在している。深く携わっている人の間ではうっすらと共有しているけどあえて語らない。語らずして共有することで共犯関係が築かれる。わざわざ語る人は「野暮」「無粋」「つまんねえやつ」とみなされる。

 だからこの本に載っているインタビューを集めるのに著者はすごく苦労しただろうな、と想像する。「ぼくたちこんな苦労をしてきたんですよ。あの大会のときはこんな算段で漫才を作りました」なんて語っても芸人からしたら損しかないもんな。

 特に漫才は「即興っぽさ」が大事な芸だ。台本があっても、さも今おもいついたかのように語る芸。余計に裏話は求められない。

 

 ただ、どうであれ、M-1はあくまで通過点のはずだった。ところが、今や目的そのものになりつつある。漫才のメジャー化と競技化に拍車がかかり、本質から遠ざかっていってしまっている面も否めない。ケンドーコバヤシも、そこに苛立っていた。
 「漫才愛を語るヤツが増えた。おれ、法律がなかったら、そんなやつ、その場で顎カチ割ったろうと思いますもん。カッコ悪いことすんな、と。あいつらにはあいつらなりの矜持があるんやろうけど、俺には俺の矜持がある。そこは絶対、交わらんやろな」
 ケンドーコバヤシは論をぶつ人間を嫌悪した。
 芸人たるもの、芸論を語るなかれ。ピエロであるならば、その仮面を生涯、かぶり続けるものだ。それが芸人の美学だった時代が確かにあった。
 しかしM-1は、その舞台裏を完全に可視化した。本番直前、舞台では決して見せないような形相でネタ合わせをする芸人たち。さらには、勝って号泣し、破れて打ちひしがれる姿までをも撮影し、番組に組み込んだ。そのことで人気を博したわけだが、昔気質の芸人からすると、それは「あるまじき行為」に映る。
 ケンドーコバヤシの矛先は、私にも向けられた。
「中村さんのやっている行為が、一番寒いと思いますよ」
 突然の口撃に対し、反射的に笑って誤魔化そうとしたのだが、マスクの下で顔が引きつった。「私は芸人じゃないので……」と釈明したが、許してくれなかった。
「笑いの解説とか解析とか。そんなん、教える必要あります?

 こういう考えが、四半世紀前の芸人の多数意見だっただろう。だが今では少数派かもしれない。

 変わった要因はいくつかあるだろうが、そのひとつが、M-1グランプリという大会だ。M-1グランプリはただの演芸番組ではなく、ドキュメンタリーでもあった。舞台裏を映し、予選を映し、負けて悔しがる漫才師を映し、大会に向けて努力する漫才師を映した。今ではめずらしくないが、大会が始まった2001年にはこれは画期的なことだった。『熱闘甲子園』をお笑い番組に持ちこんだのがM-1グランプリだった。

 ふざけたことをやらないといけないのに、真剣にやっているところを見せないといけない。相反する難題をつきつけるからこそM-1は難しい。多くの芸人がそのせいで道を踏みあやまった。

 だが、難しいことをやっているからこそおもしろいのもまた事実だ。



 九年連続決勝進出という空前絶後の大記録を打ち立てた笑い飯のネタ作りについて。

 笑い飯は、M-1の時期が近づくと、難波にあった「baseよしもと」の楽屋に籠った。
 baseよしもとは、かつてあった若手主体の劇場で、笑い飯は長くそこの看板コンビとして舞台に立っていた。村田が説明する。
 baseよしもとには二つの楽屋があって、笑い飯はいつもちっちゃい方の楽屋でネタをつくってました。扉を開けたままなので、中の様子が丸見え。椅子二席分あけて、横並びで座ってるんです。いつ見ても無言。出番が終わって、そんな様子を見つつ、先輩とかと飲みに行くじゃないですか。飲んだ後、よく劇場に戻ってくることがあったんです。八時間後とか九時間後ぐらいに。そうすると、二人は出た時のまんま。動いた気配すらない。そんなの、ザラでしたね。だから、不思議でしたよ。あの二人の漫才はなんであんなにおもしろくなるんやろう、って」

 ばかなことを言い合いながら作っているように見える笑い飯の漫才だが、実際は沈黙の中で作られているという。何時間もじっと座ってひたすら考える。会話もなく、おもしろいやりとりを。小説家みたいなネタの作り方をしているんだな。それであの漫才が生まれるのは、ほんとふしぎ。



 M-1グランプリの成功を受けて、いろんなお笑い賞レースが生まれた(M-1以前は関西ローカルの賞はあったけど全国区の賞なんてなかったね)。

 が、どれもM-1グランプリには及ばない。

 大きな理由として、在阪局であるABC放送が番組を手掛けていることがある。

 ABC放送の漫才への愛情の深さは、番組作りのいたるところから感じられる。漫才番組は通常、客が笑っている様子を頻繁に映す。それによって、ついてこられていない視聴者も「おもしろいんだ」という安心感を得られるからだ。

 だが、M-1ではそれを絶対にしない。現チーフプロデューサーの桒山哲治は、その理由をこう語る。
「漫才に失礼だろう、と。その数秒でも、漫才は進んでいるので。審査員を抜く(映す)ことも毎回、議論になる。いいことかどうなのか。なので、このタイミングでは間違いなく『笑いしろ』(演者が客の笑いが収まるのを待つ時間)ができるだろうというところで、カメラをスイッチするようにしています」
 また、笑いは足さない。第一回大会と第二回大会でプロデューサーを務めた栗田は断固たる口調で言った。
「なんで足さないといけないんですか。M-1だけでなく、ABCのお笑い番組は基本的に足さないです」

 そういや関西ではいろんなお笑い賞があるが(NHK上方漫才コンテスト、上方漫才大賞新人賞、ytv漫才新人賞、かつてやっていたMBS漫才アワード)、ぼくはABCお笑い新人グランプリがいちばん好きだ。

 単純に番組としておもしろいし(M-1グランプリよりおもしろいときもある)、何よりネタが聞きやすい。他の賞は漫才に不向きな大きなホールでやるから聞きにくいんだよね。

 客の笑い声を足さない、余計なものを映さない、ヤラセをしない、芸人じゃない人に審査させない。あたりまえだけど、それをちゃんとやっている番組は少なかった(今でもそんなに多くない)。あたりまえのことを継続的にやることでM-1グランプリは他の追随を許さない大会になった。

 あとは「スタジオに呼ばれたM-1大好き芸能人」と「くじを引くために呼ばれた旬のアスリート」さえなくしてくれれば完璧なんだけどな!


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2024年11月29日金曜日

【読書感想文】アントニー・ビーヴァー『ベルリン陥落1945』 / 人間の命のなんという軽さよ

ベルリン陥落1945

アントニー・ビーヴァー (著)  川上洸(訳)

内容(e-honより)
ヒトラーとスターリンによる殱滅の応酬を経て、最終章、戦場は第三帝国の首都ベルリンへ…。綿密な調査と臨場感あふれる筆致、サミュエル・ジョンソン賞作家による、「戦争」の本質を突く問題作。

 イギリスの歴史作家が書いた、1945年(つまり戦争末期)の独ソ戦争の情景。


 読んでいて感じるのは、おそらく意図的だろうが、数字が少ないこと。「○万人が命を落とした」といった事実の羅列はほとんどなく、体験談を中心に、ひとりひとりの生の物語を書いている。おかげで戦争の悲惨な光景が眼の前に立ち上がってくる。これがストーリーの力。教科書に書いてある「百万人が命を落としました」よりも、たったひとりの体験記のほうがはるかに強いメッセージを放つ。



 第二次世界大戦のドイツといえばヒトラー、ナチス、ゲシュタポ、ユダヤ人弾圧、強制収容所……と、とにかく「ドイツはひどいことをした」話ばかりを教わった。

 だがことはそう単純ではない。ドイツの人々も苦境にあえいだ。劣勢に追い込まれた1945年は特に。

 ブルーの照明灯に照らされたこれらの待避所そのものが、いったん入ったら二度と出られぬ地獄を連想させるたたずまいで、寒さにそなえて着ぶくれし、サンドイッチと魔法びんを入れた小さな厚紙製のスーツケースを手にした人びとが、そこに詰め込まれた。たてまえとしては、あらゆる基本的必要をみたす設備が内部に完備していた。ナースの常駐する救護室もあって、ここで出産することもできた。地表からではなく地の奥底から伝わってくるような爆弾炸裂の振動が、分娩を促進するようだった。空襲中の停電はしょっちゅうのことで、まず照明が薄暗くなり、チラチラ点滅して消えてしまう。そのため天井に発光塗料が塗ってあった。水道本管がやられると断水した。そこで「アボルテ」、すなわちトイレはたちまち惨憺たる状況となった。衛生にやかましい国民にとってはまったくの苦行だ。当局はしばしばトイレを閉鎖した。絶望した人びとがドアにカギをかけたまま自殺するケースが頻発したからだ。
 ベルリンの三〇〇万前後の人口を全部収容するスペースがないので、待避所はいつも超満員だった。通路も、座席つきのホールも、宿泊室も、人いきれと天井から滴下する結露で空気がよどんでいた。ゲズントブルンネン地下鉄駅の下のシェルター群は一五〇〇人を収容するように設計されたのに、じっさいにはその三倍を詰め込むこともしばしばだった。酸欠の度合いをはかるのにローソクが使われた。床の上に立てたローソクが消えると、幼児を肩の高さまで抱き上げた。椅子の上のローソクが消えると、その階からの退去がはじまった。あごの高さに設置された三本目のローソクが明滅しだすと、おもての空爆がどんなにはげしくても、全員が出ていかねばならなかった。
 しかしブレスラウ市外に出た女性たちは、とにかく自力で逃げなければならないことに気づいた。市外に出る自動車はほんの数両で、幸運にも乗せてもらえたのはごく少数にすぎなかった。道路上の雪は深く、ついに多数の女性が乳母車を捨て、幼児を抱いて歩くはめになった。凍りつくような寒風に魔法ビンの中身も冷めてしまった。おなかをすかした赤ん坊には母乳をあたえるしかないが、授乳のため身を寄せる場所もなかった。すべての家はドアを閉ざし、すでに放棄されたか、あるいは住人がだれにもドアを開こうとしないか、どちらかだった。やむにやまれず一部の母親は、納屋その他の風よけとなる建物のかげで乳首をふくませたが、それがよくなかった。子どもは飲まないし、母親の体温は危険なまで下がった。乳房に凍傷を負った人さえ出た。ある若い母親は、わが子の凍死を実家の母に知らせる手紙のなかで、ほかの母親たちの様子も書いている。ぐるぐる巻きにした赤ん坊の凍死体をかかえて泣きさけぶ人もいれば、道ばたの樹木に寄りかかり、雪のなかに坐りこんだ人もいる。そばでは年長の子どもたちが、母親が気を失ったのか、死んだのかもわからずに(この寒さのなかでは、どちらでもたいしたちがいはないが)、恐怖のあまりベソをかきながら立ちつくしている。

 こういう「戦時下での悲惨な暮らし」って、日本のものはよく知っているんだよ。いろんな小説や漫画や映像作品でも扱われているから。でも日本だけじゃないんだよな。どの国も同じなんだよな。


 読めば読むほど、戦争でやることはどの国も同じだな、とおもわされる。

 戦争末期のドイツにはびこっているのは根性論。決して退くな、最後の最後まであきらめず戦え。勝てる見込みのない無謀な作戦(まるで訓練されていない少年や老人で組織された国民突撃隊、武器を積んだ自転車で戦車につっこむという実質特攻隊……)、悪いことは知らせない大本営発表、冷静な意見は排除されて無謀なことを言うやつだけが重用される。

 そして、威勢のいいことを言うやつほど真っ先に逃げ出すところもどの国もおんなじ。ドイツでも、無謀な命令で部下を死なせた上官が、いざ危なくなるとすぐに降伏したり逃げだしたりする。

 想像力がないんだよね。想像力が欠如しているからこそ他人に強く言える。想像力が欠如しているから自分の身に危険が迫ったときのことを本当に想像できない。だから危険が現実のものになると泡を喰って逃げだす。少なくとも犬ぐらいの思慮があれば「逃げずに戦えばいい!」とは言いださないものだ。


 戦争末期のドイツ国民は大いに苦しんだが、それは敵国に苦しめられたというよりむしろ、過去のドイツが自分自身にかけた“呪い”のせいだ。

 逃げてはいけない、退却する兵士は殺す、上層部の指示に対する批判をするやつは粛清、ソ連の人間は劣っていて野蛮だ……。戦況が良いときはそれなりに効果を上げた言説が、劣勢に追いこまれたときには自分たちを苦しめる“呪い”となった。

 どんなに戦況が悪くても退却できない、上層部が無謀な作戦を指示しても従うしかない、勝てるわけなくても赤軍に降伏できない……。自国の教えがすべて呪いとなって自国民にはねかえってくる。多くのドイツ国民たちは、赤軍に殺されたというより、自国の司令部に殺されたんだよな。もちろん日本も同じ。

「愛国心」なんて言葉は、他人をコマとして都合良く利用するための口実でしかない。




 大戦前、大戦中のドイツはひどいことをした。でも、1945年のドイツで起こったことを読むかぎりでは、赤軍(ソ連軍)のほうがずっと悪だとおもう。
 この部隊がシュヴェーリン〔スクフェジーナ〕の町を攻略したとき、グロースマンは見たことのすべてを小さなノートにエンピツで走り書きした。「一面の火の海……燃える建物の窓から老女が飛び降り……略奪が進行中……なにもかも炎上しているので夜も明るい……[町の]警備本部で黒衣をまとい、あおざめたくちびるのドイツ女性が、弱々しいかすれ声でなにかしゃべっている。連れの少女は首と顔に傷あとがあり、ふくれあがった目をして、両手にもひどい傷を負っている。部隊本部通信隊の兵士にレイプされたという。その兵士もここにいる。赤い丸顔で、眠そうに見える。警備隊長が双方を尋問中」。
 グロースマンのメモは続く。「女性たちの目には恐怖の色……ドイツ女性はひどい目にあっている。教養あるドイツ人男性が、しきりに身ぶり手まねをまじえながら、片言のロシア語で説明する。この日、彼の妻は一〇人に暴行されたという……収容所から解放されたソ連の娘たちも、やはりひどい目にあっている。昨夜、その一部が従軍特派員に割り当てられた部屋に身を隠した。夜中も悲鳴で目をさます。特派員の一人が黙っていられなくなって大激論となり、秩序は回復された」。さらにグロースマンは、明らかに彼が聞いたと思われるある若い母親の話を記録している。彼女は農場の納屋でつづけさまに暴行を受けた。身内の人たちが納屋にやってきて、赤ん坊が泣き止まないので、せめて授乳の時間をあたえてくれと頼んだ。こういったことがすべて警備本部のすぐ隣で、しかも軍紀維持に責任を負うはずの将校たちの見ているまえで、おこなわれていた。

 掠奪、強姦、無抵抗な民間人や子どもへの虐殺……。「ドイツにひどい目に遭わされたからその復讐」という気持ちもあっただろうが、それだけではない。ドイツ軍に捕らえられた捕虜や、ドイツに支配されていたポーランド人に対しても残虐の限りを尽くしている。

 ドイツが悪くないとは言わないが、負けず劣らずソ連もひどい。

 正しい戦争なんてないってことよね。戦場においてルールやモラルなんてかんたんに破られる。ルールを守っていたら死ぬから。正しいも悪いもない。戦場において兵士は基本的に悪をはたらく。あるのはばれるかばれないかだけ。勝てばもみ消せる。戦争の歴史は勝ったものの歴史だ。



 スターリンやヒトラー、およびその取り巻きたちの話も多いのだが、読んでいておもうのは「なんと命の軽いことか」ということ。

 ここに軍を投下、数万人が死ぬがしかたない、みたいな作戦の立て方をしている。将棋で歩兵を捨てるぐらいの感覚なんだろう。まあそれぐらい割り切ってないと軍略なんてできないのかもしれないが、「ちょっとタイミングがちがえば自分がその数万分の一の歩兵だったかもしれない」という想像力があればそんな作戦立てられないよな。想像力がないから戦争をできるのだ。


 この本では、命を落とし、家族を失い、レイプされ、生活のすべてを奪われる市民たちの姿と交互に、各陣営トップたちの「政治」の様子も描かれている。

 もはや大勢は決した。ドイツが負けるのはまちがいない。ソ連は英米より先にベルリンを落としたほうが戦後の世界情勢で有利に立ち回れる。なんとしてもベルリンを先に落とさねば。「祖国を守るため」の戦いならまだしも、政治のために命を賭けて戦わされる兵士たちが気の毒でならない。

 そしてドイツはドイツで、負けることはわかっているが、ひどいことをしたソ連に占領されるより英米の占領下におかれるほうがまだ有利に事が運びそうということで、政治的な目的で降伏を遅らせる。その間にも市民たちがばたばたと死んでいるのに、政治のほうが優先される。

 なんともやるせない話だ。国民が死ねば死ぬほど命の重さは軽くなってゆく。

 戦時国際法で、捕虜や民間人への攻撃などを禁止しているけど、あまり意味がない。そんなのより「戦争が起こったときは元首、総司令官が最前線に立つこと」というルールをひとつ設けるだけでいいとおもうよ。それだけで、残虐行為や無謀な作戦はきれいになくなるだろう。それどころか戦争そのものも。




『同志少女よ、敵を撃て』でも引用されていたけど、いちばん印象に残った文章。

 ドイツ国内に赤軍が攻めてきて市民たちが逃げまどっている列車での風景。

 翌日、ディーター・ボルコフスキという名の一六歳のベルリン市民が、アンハルター駅発の混雑したSバーン列車内で目撃した情景を描いている。「みんな顔に恐怖の色を浮かべていた。怒りと絶望がうずまいていた。あんな不平不満の声はいままで聞いたことがない。とつぜん、だれかが騒ぎに負けない大声でさけんだ。『静かに!』見ると、小柄なうすぎたない兵士で、鉄十字章二個とドイツ金十字章をつけていた。袖には金属製の戦車四個のついたバッジがあって、肉薄攻撃で戦車四両をしとめたことを物語っていた。『みなさんに言いたいことがある』と彼はさけび、車内は静まった。『おれの話なんぞ聞きたくもないだろうが、泣き言だけはやめてくれ。この戦争に勝たねばならん。勇気をなくしてはならんのだ。もし相手が勝ったなら、そしておれたちが占領地でやったことのほんの一部でも敵がここでやったら、ドイツ人なんか数週間で一人も残らなくなるんだぞ』。車内は針の落ちる音も聞こえるくらいしんと静まりかえった。

 戦争が泥沼化して終わるに終われなくなる理由が「もし相手が勝ったなら、そしておれたちが占領地でやったことのほんの一部でも敵がここでやったら、ドイツ人なんか数週間で一人も残らなくなるんだぞ」という一文に表れている。


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