2021年2月26日金曜日

【読書感想文】なぜかぞわぞわする小説 / 今村 夏子『あひる』

あひる

今村 夏子

内容(e-honより)
あひるを飼い始めてから子供がうちによく遊びにくるようになった。あひるの名前はのりたまといって、前に飼っていた人が付けたので、名前の由来をわたしは知らない―。わたしの生活に入り込んできたあひると子供たち。だがあひるが病気になり病院へ運ばれると、子供は姿を見せなくなる。2週間後、帰ってきたあひるは以前よりも小さくなっていて…。日常に潜む不安と恐怖をユーモアで切り取った、河合隼雄物語賞受賞作。


『あひる』『おばあちゃんの家』『森の兄妹』の三篇を収録。

『あひる』は以前『文学ムック たべるのがおそい vol.1』に収録されているものを読んだことがあるが、二度目なのにやはり怖かった。いや、二度目のほうがじわじわくる。

(以下ネタバレ)

 あひるが家にやってきた。たちまち近所の小学生たちがあひるを見に集まってくるようになった。子どもが好きな両親もうれしそう。
 ある日具合の悪くなったあひるは病院に連れていかれるのだが、数日後に戻ってきたあひるは前とどこか違う。ひとまわり小さくなっているし、くちばしの模様も違う。おそらく両親が別のあひるを連れてきたのだが、そのことについて何も言わない。子どもたちは気づかない。わたしはあひるが入れ替わったことに気づいているが、両親の雰囲気から何も言えない。やがてまたあひるの具合が悪くなり……。


 なんだろう。そこはかとなく怖い。
 たぶん、あひるが死んでしまったので別のあひるを買ってきただけなのだが。それなのに、「言わない」だけでこんなにおそろしくなるなんて。

 お気に入りの椅子が壊れたからよく似たデザインの椅子を買ってきた、ならちっとも怖くない。わざわざ「別のを買ったよ」と言わないのもわかる。
 だが、あひるだ。それもかわいがっているペットだ。〝壊れた〟からといって新しいものを買ってきて、何事もなかったかのように置き換えていいのだろうか。
 悪いことをしているわけじゃない。あひるを殺したわけではない。いないと近所の子どもたちがさびしがるから別のあひるを連れてくるという発想も理解できる。でも、生き物はそうかんたんに置き換えてはいけない。明文化されていないけど、ぼくらの心にはそういうルールがある。


 母から聞いた話。
 母の実家では犬を飼っていた。ある日、犬が病気で死んでしまった。父親が仕事の取引先と「犬が死んじゃって子どもが悲しんでいるんだよね」的なことを言ったらしい。するとその数日後、取引先から新しい子犬が贈られてきたそうだ。
 これも同じように怖い。取引先からしたらいいことをしたつもりなんだろう。だがその人は人間の心が理解できていない。かわいがっていた犬が死んだ一週間後に新しい犬が送りつけられてきて「やったー! 新しい犬だー!」となるとおもっている人はちょっと怖い。
(ちなみに母の父、つまりぼくの祖母はそこそこいいポジションにいる国家公務員だったので今だったら完全アウトの話だ)

 生き物は「代わり」があってはいけないのだ。

 ここで「代わり」を用意されるのがあひる、というのが憎い。
 犬や猫が別の個体になっていたらさすがに誰でもわかるだろう。文鳥やハムスターだったらずっと気づかないままかもしれない。しかしあひるは絶妙に「気づかないかもしれないし気づくかもしれない」ラインだ。あひるはペットとしてはめずらしいから「よく似ているけど別のあひるかもしれない」とおもわないような気がする。ちょうどいいポジションの動物だ。


 この小説、すり替わったあひるだけでなく、
「誕生日会の準備をしていたのに誰も来ない」
「深夜にやってきた男の子があひるに似た性格をしている」
「誰もあひるのすり替えに気づいていないのに、ひとりの女の子だけは当然のように気づいている」
「まるであひるの代わりのようなタイミングで赤ちゃんがやってくる」
など、じんわりと怖いことが随所にちりばめられている。いや、これって怖いのだろうか。よくわからない。
「幽霊が出る」「殺人鬼が近くにいる」みたいなはっきりした恐怖とは違う。だって何の実害もないんだもん。実害もないし悪意もない。なのになぜかぞわぞわする。

 座敷わらしに出会ったような感覚。
 いや、自分が座敷わらしになったような感覚といえばいいだろうか。座敷わらしになったことないからわかんないけど。




『おばあちゃんの家』『森の兄妹』も奇妙なファンタジーでよかった。児童文学のような平易な文章なのが余計に不気味だ。

 今村夏子作品はどれを読んでも心が動かされる。だけど、それがどういう感情なのかうまく説明することができない。今村夏子作品を読んでいるときにしか刺激されない脳のツボがあるんだよな。


【関連記事】

ふわふわした作品集/『文学ムック たべるのがおそい vol.1』【読書感想】

怖い怖い児童文学 / 三田村 信行『おとうさんがいっぱい』



 その他の読書感想文はこちら


2021年2月25日木曜日

【読書感想文】中学校監獄実験 / アレックス・バーザ『狂気の科学者たち』

狂気の科学者たち

アレックス・バーザ (著)  プレシ 南日子 (訳)

内容(e-honより)
科学発展の裏には奇想天外としか言いようのない実験の数々があった。死亡前後の人間の体重を量って「魂」の重さを計測する。妊娠率を高めるためピエロに扮して胚移植前の女性を笑わせる。黄熱病が伝染病でないと証明するために患者の吐瀉物を飲む。赤ん坊をチンパンジーと一緒に保育する…。信念に基づいて真実を追究する科学者たちを描いた戦慄(と笑い)のノンフィクション!


「ユニークな実験」を集めた本。以前読んだトレヴァー・ノートン『世にも奇妙な人体実験の歴史』に比べると、似ているようでこちらはずいぶん散漫な印象。

 なぜなら、『世にも奇妙な人体実験の歴史』は、「結果的に誤ってはいたが科学の発展のために(あるいは自分の知的好奇心のために)人体実験をおこなった科学者たち」のエピソードばかりを集めていたのに対し、
『狂気の科学者たち』は
「(現代の常識からすると)狂ってるとしかおもえない実験」
「実験結果が捏造された実験」
「何の役に立つのかわからないが科学的には正しい実験」
「手法がユニークなだけでまっとうで有用な実験」
などが十把ひとからげに取り扱われているからだ。

 たとえば、よく知られる「吊り橋効果」の実験とか(吊り橋のようなスリルを感じる場所で声をかけられると異性に好意を抱きやすい)。
 ぜんぜん「狂気の科学者」じゃない。

 こういうまっとうな実験と、「死者をよみがえらせることに成功したと発表したがその後まったく結果を再現できなかった実験」を同列に扱っちゃだめだよ。
 独創的なアイデアを持った研究者、科学のためなら人の命も犠牲にするマッド・サイエンティスト、功名心で実験結果を捏造するインチキ科学者。それらをぜんぶひっくるめて「狂気の科学者たち」と呼ぶのはさすがに乱暴すぎる。


 まあこれは著者のせいじゃなくて邦題がひどいんだよね。原題は『Elephants on Acid』(この本の中に出てくるLSDを投与されたゾウのこと)で、ぜんぜん『狂気の科学者たち』というくくりじゃないからね。
 誰だこのひどい邦題をつけたやつは。




 題はともかく、中身はおもしろかった。

 オスの七面鳥が、メスのどんなところに性的欲望を駆り立てられているのかという実験。

 興味を引かれたシャインとヘイルは、オスの七面鳥の性的反応を引き出す最低の刺激要素は何か知りたくなった。メスの模型から体の部位をひとつひとつ取り除いていったら、オスはどの時点で興味を失うのだろうか? この実験の結果、かなりたくさん取り除けることがわかった。
 まず、尾、脚、翼のいずれも不要であることが証明された。最後に研究者たちは七面鳥に、頭のないメスの体と棒に刺さった頭だけの二者に対する反応を観察したところ、驚いたことにオスの七面鳥はすべて棒に刺さった頭を選んだ。頭さえあれば、オスの七面鳥はその気になるのだ。研究者たちはこう記している。

 なんと。頭だけで昂奮するのだ。

 しかし我々人間も七面鳥のことを笑えない。
 人間だって顔だけで異性のことを判断することはよくある。「顔は好みだけど身体は魅力的じゃない異性」と「顔はまったく好みじゃないけど身体は魅力的な異性」だったらたいていの人は前者を選ぶんじゃないだろうか。健康な子孫を残すということを考えれば後者のほうが良さそうだけど。




 子猿が母親の愛情をどのような形で欲するかを調べた実験。

 子猿は、「ミルクを出すが固く冷たい母猿の模型」よりも「ミルクを出さないがやわらかくあたたかい母猿の模型」を好み、ミルクを飲むとき以外は後者のそばにいたそうだ。

 その後、ハーロウの研究は陰うつなものになっていった。母と子の愛を強める要素を特定したハーロウは、このきずなが簡単に失われるほど弱いものでないか調べることにした。怠慢な親に育てられた子どもが経験する問題を解決するうえで役に立つよう、こうした子どもたちと同じような境遇のサルを求め、ハーロウはさまざまな形の乳幼児虐待を行う母親を作った。シェーキング・ママはときどき激しく体を揺らし、子ザルは部屋の反対側まで放りだされた。エアブラスト・ママは圧縮空気を激しく噴出して子ザルを吹き飛ばした。そしてブラススパイク・ママからは先の丸まった真鍮のとげが定期的に出てきた。
 しかし母親がどんなにむごいことをしようと、子ザルたちは気を取り直し、戻ってきてはまた同じ目にあった。子ザルはすべてを許していた。彼らの愛情は、揺らぐこともへこむこともなければ、吹き飛ばされることもなかった。これらの実験に使われた子ザルの数はわずかだったが、結果は明らかだった。

 これは読んでいてつらくなる。

 以前読んだ、黒川 祥子 『誕生日を知らない女の子』という本に、こんなエピソードがあった。

 ずっと実母から虐待を受けて育った子どもが、ファミリーホーム(里親のようなもの)に引き取られ、少しずつ周囲と溶け込めるようになった。だが実母が軽い気持ちで言った「うちにおいで」という言葉を聞いてから、その子は周囲を攻撃するようになり、自ら居場所をなくして実母のもとに帰っていった。
 母親のもとに戻れば不幸になることは火を見るより明らか。だが今の法制度では実親が引き取ることを希望したら誰も止めることはできない。
 実母のもとに戻った子どもは再び虐待され、学校にも行けず、やがてまた別の里親のもとに引き取られて病院に通うことになったという。

 どんなに暴力的で子どもに危害を加える母親であっても、子どもは母親を選んでしまうのだ。ヒトでもサルでも。

 だからこそ、害をなす親からは強制的に子どもを引き離すようにできる法律が必要だよなあ。愛が強いからこそ。




 あと第9章『ハイド氏の作り方』はすごくおもしろかった。
 この章だけで一冊の本にしてもいいぐらい読みごたえがあった。

 有名なミルグラム実験(白衣を着た人に命令されたら、ごくふつうの人でも他人に危害を加えるようになるという実験)や、スタンフォード監獄実験(被験者をランダムに看守役と囚人役に分けたら看守役が囚人役に対して威圧的・攻撃的な行動をとるようになったという実験)など、どうやったら人間が残虐な行動に手を染めるようになるかという実験が多数紹介されている。

 読んでいて感じるのは、環境さえ整えば人間はいともかんたんに悪人になれるということ。ナチス党員や紅衛兵や山岳ベース事件メンバーがことさらに凶悪だったわけではなく、環境によってはほとんど誰でも他人に暴力を振るうようになるのだということ。

 中学校の教師や部活の顧問に暴力を振るう人間が多いのも、教員採用試験が暴力志向性のある人間を積極的に採用しているわけではなく、立場が彼らを暴力に走らせるからだ。

 スタンフォード監獄実験のような実験は危険だとして今はやれないらしいが、今も全世界の学校で同じようなことをやってるよね。


【関連記事】

【読書感想文】偉大なるバカに感謝 / トレヴァー・ノートン『世にも奇妙な人体実験の歴史』



 その他の読書感想文はこちら


2021年2月24日水曜日

人類がお茶漬けに求めるもの


 こないだNHK Eテレの『すいエンサー』という番組を観た。

 はっきり言って、この番組をぼくは嫌いだ。
「かんたんに○○できるスゴ技があるんです! 答えは××です!」
といえば10秒で済むようなテーマを、30分近く使って説明する番組だ。

 たとえば『ブラタモリ』も同じようなつくりだが、こちらはちゃんと段階を踏んで丁寧に説明している。
 最初に「なぜAはFになったのか?」というテーマが提示されて、
「AはBでありCです。BだからDになります。またBはEももたらします。DとEにCが加わることで、AはFになったのです」
と、一見関係なさそうな事柄が最後に答えに収束する。あちこち迂回するけど、最後は目的地にたどり着く。一見寄り道にしかおもえないルートが意外な近道だった、といいう感じだ。

 ところが『すいエンサー』は、
「Aをするにはどうしたらいいか?」を説明するために
「関係ないけどBをしてみましょう。Cもしてみましょう。Dもしましょう。Eもしましょう。ではここで答えを発表します。AをするにはFをするといいのです!」
みたいな説明をする。途中がまったくの無駄なのだ。最初の1分と最後の1分だけ観ればすべてが理解できる。
 無理やり車に乗せられて長時間あちこち連れまわされたあげく、最終的にスタート地点のすぐ隣に連れていかれるようなものだ。『青い鳥』か!
 ちなみに『ためしてガッテン』も同じようなつくりだ。NHKの情報バラエティはこの手の時間稼ぎが多い。受信料が余ってるのかな。

 そんなに嫌いなら『すいエンサー』を観なきゃいいじゃんとおもうかもしれないが、我が家ではEテレをつけっぱなしにしていることが多く、『すいエンサー』は一度見はじめると最初に問いが提示されるので「あーもう無駄だー。さっさと答えを教えろよー。こっちは答えだけ聞ければいいんだよー」と言いながらついつい最後まで観てしまうのだ。




 話がそれたが、『すいエンサー』の2021/2/16放送で
「秘伝の味を大公開!一度は食べたい“特別な”お茶漬け」
という企画をやっていた。

 おいしいお茶漬けのレシピ、ちょっとした工夫でお茶漬けをおいしくする方法が紹介されていた。

 ごはんをおこげにしたり、お茶に出汁を加えたり、タレに漬けた刺身を乗せたり、ニンニクを入れたり、バターを溶かしたりしていた。

すいエンサーブログ
https://www.nhk.or.jp/suiensaa-blog/koremade/443705.html
より

 お茶漬けを愛するぼくは、それを観ていて叫んだ。


 あーもう!

 ぜんぜんわかってない!

 お茶漬けってそういうんじゃないんだよ!!


 お茶漬けを食べたいときって、「まだ食べたことのないようなうまいものを食べたい!」って気分じゃないんだよ!
「手間ひまかけてうまいものつくるぞ!」って気分じゃないんだよ!


 お茶漬けを食べたいときの気持ちは決まってる。
「今日はもうお茶漬けでいっか」 
 これだけ!


 うまいものなんか食べたくないの。ニンニクとかバターとかレモンとか論外。だいたいなんだよタレに漬けこんだ刺身って。そんなもんうまいに決まってるじゃねえか。どこがスゴ技だ。

 そういうのはさ、レストランとかパーティーとかの〝ハレの日〟の料理でやれよ。

 お茶漬けってのはそういう料理じゃないんだよ。


 お茶漬けに求めるのは

「とにかく手間がかからない」

「いつもの味」

 これだけ!!



【関連記事】

オイスターソース炒めには気を付けろ/土井 善晴 『一汁一菜でよいという提案』【読書感想エッセイ】

2021年2月22日月曜日

【読書感想文】進化は知恵の結果じゃない / 稲垣 栄洋『弱者の戦略』

弱者の戦略

稲垣 栄洋

内容(e-honより)
海洋全蒸発や全球凍結など、環境が激変しても、地球上の数多くの生命はしぶとく生き残り続けてきた。そして今でも、強者ではない動植物などはあらゆる方法で進化し続けている。群れる、メスを装う、他者に化ける、動かない、ゆっくり動く、くっつく、目立つ、時間をずらす、早死にするなど、ニッチを求めた弱者の驚くべき生存戦略の数々。


 決して強者ではない生物たちが生存のためにどのような戦略をとっているかを紹介した本。
 個々のエピソードはおもしろいのだが、ただひたすら「この動物はこうやって敵から身を守っています」「この植物はこうやって繁殖しています」というエピソードが続くので、びっくり生き物生態事典感が否めない。
 最近児童書コーナーに行くと「変な生きもの」みたいな本がたくさん並んでいるが、それをちょっとだけ大人向けにした本、という印象。  

 

 あと気になったのは、書き方が不正確なこと。
「この生物は生き残るために〇〇という戦略を立てた。知恵を使って生き残るための努力をしているのだ」なんてことが平気で書いてある。

 あたりまえだが、生物が進化したのは生き残るためではない。たまたま生き残ったものがいて、それが増えた結果進化と呼ばれるようになっただけだ。

 当然、著者も知っているはずだ。進化は無目的に起こる(自然選択説)と。
 だが、くりかえし「生物が先のことを考えて生き残る方法が高い方法を考えだした」といった表現が語られる。話をわかりやすくするためかもしれないが、これはいただけない。わかりやすくすることは大切だが、嘘をついてはいけない。




 著者の専門は雑草生態学だそうだ。なので雑草の話はおもしろい。

 よく「雑草のようにたくましく」という言い方をする。抜いても抜いても生えてくる雑草には、強い植物というイメージがある。ところが、植物の世界では雑草は強い植物であるとはされていない。むしろ、雑草は「弱い植物である」と言われている。
 これは、どういうことなのだろうか。
 植物は、光や水を奪い合い、生育場所を争って、激しく競争を繰り広げている。雑草はそのような植物間の競争に弱い。そのため、たくさんの植物が生い茂るような深い森の中には、雑草と呼ばれる植物群は生えることができないのである。
 そこで雑草は、他の植物が生えることのできないような場所を選んで生息している。それが、よく踏まれる道ばたや、草取りが頻繁に行われる畑の中だったのである。
 庭の草むしりに悩まされている方も多いだろう。残念ながら抜いても抜いても生えてくる雑草を完全に防ぐ方法はない。ただ雑草をなくす唯一の方法があるとすれば、それは「草取りをやめること」であると言われている。
 草取りをしなくなれば、競争に強い植物が次々と芽を出して、やがて雑草を駆逐してしまう。そのため、草取りをやめれば、雑草と呼ばれる植物はなくなってしまうのである。もっとも、雑草がなくなった代わりに、そこには大きな植物が生い茂って群雄割拠の深い藪になってしまうから、もっとやっかいである。

 なるほど。雑草ってぜんぜん強くないのか。

 たしかに森や山の中とかだと、丈の短い草はあまり多くない。大きな樹や草に負けて光や水を手に入れられないからなんだね。

 雑草は我々が目にすることが多いからどこにでも生えるような気がするけど、逆に人間の生活の場(植物が生えにくい場所)でしか生きられない。カラスやハトといっしょだね。




 外来種が日本ではびこるのも、似たようなことらしい。
 日本の在来種だった日本タンポポはいまや絶滅寸前で、我々が目にするのは西洋タンポポばかり。「外来種のほうが生命力が強いからだ」なんていうけど、本来なら日本では日本タンポポのほうが強いはず。なぜなら日本タンポポは日本の里山という環境に特化して進化した植物だから。

 それでは、どうして私たちのまわりで西洋タンポポが増えているのだろうか。
 西洋タンポポが生えるのは、道ばたや街中の公園など、新たに造成された場所である。このような場所は、土木工事によって日本タンポポが生えていたような自然は破壊されている。こうして大きな変化が起こり、空白となったニッチに西洋タンポポが侵入するのである。
 よく、西洋タンポポが日本タンポポを駆逐しているように言われるが、日本タンポポの生息場所を奪っているのは、人間なのである。
 西洋タンポポ以外にも、外国からやってくる外来雑草の多くは、人間がもともとあった自然を破壊してできた新たな場所にニッチを求める。そのため、埋立地や造成地、公園、新興住宅地、道路の法面、河川敷などを棲みかとしているのだ。
 外来雑草も、祖国の環境と異なる日本という新天地では、アウェイの不利な戦いを強いられた弱い存在である。そんな弱い外来雑草が増えているということは、私たちがそれだけ自然界に大きな変化を起こし、外来雑草にチャンスを与えているということなのである。

 手つかずの自然が残っている状態では、先住者のほうが強い。にもかかわらず外来種が駆逐されないのは、人間が新しい環境を生みだしているから。

 外来種は敵視されるけど、在来種にとって本当の敵は人間なんだね。よしっ、絶滅させよう(過激派)。




 ヒメマス、ヤマメ、アマゴ、イワナはみんなサケなんだそうだ。知らなかった。

 川で育ったオスは小さい。あまりに小さすぎて別の魚に見えるくらいである。たとえば、ベニザケの川にとどまったものはヒメマスと呼ばれる。まったく別の魚のように呼ばれているのである。また、川魚のヤマメはサクラマスの川にとどまったものである。アマゴは、サツキマスの川にとどまったものであるし、イワナはアメマスの川にとどまったものである。このように川にとどまったタイプは、海に下ったタイプと似ても似つかない姿になるのである。
 海から川に遡上した大きなメスに、小さなオスが近づいても、まるで別の種類の魚であるかのようなので、大きなオスはあまり気にしない。
 魚は体外受精なので、交尾をするのではなく、メスが産んだ卵にオスが精子を掛けるという受精方法である。そのため、ペアにならなくてもメスの卵に精子だけ掛けることができればいい。そこで、小さなオスは、大きなオスと大きなメスがペアになっているところにそっと近づき、大きなメスが卵を産んだ瞬間に素早く精子を掛けて受精させてしまうのである。

 出世魚は成長の段階によって呼び名がきまるが、こっちは選んだ進路によって呼び名が変わるのだ。

 自衛官や警察官が、入隊する前の経歴によってぜんぜん違う道を進むようなもんだね。防衛大学校や国家公務員試験を経て隊員がベニザケで、ノンキャリア組がヒメマスみたいなもの。

 しかしキャリア組が必ずノンキャリア組より成功した人生を送れるわけではないのとおなじように、サケも海に行った方が必ず成功するとはかぎらない。当然ながら海に行けば命を落とす危険性も高いし、川に残ったオスのほうが繁殖に成功するかもしれない。

 ここに書いてあるように「大きいオスの隙を見て精子をかける」の他に、「メスそっくりな見た目になったオスが警戒させることなく近づいてこっそり精子をかける」なんて戦略もあるそうだ。すごい。

 考えてみれば、みんなが海に行ってしまったら河口や海の汚染といった環境の変化があると全滅してしまうわけで、種の保存という観点でいえば海に行くやつと川に残るやつにわかれたほうがリスク分散になる。

 つくづくよく考えられたものだ、じゃなかった、たまたまうまく進化したものだ。


【関連記事】

【読書感想文】ぼくらは連鎖不均衡 / リチャード・ドーキンス『盲目の時計職人 自然淘汰は偶然か?』

【読書感想文】そこに目的も意味もない! / リチャード・ドーキンス『進化とは何か』



 その他の読書感想文はこちら


2021年2月19日金曜日

ボードゲームスペース初体験

 はじめてボードゲームカフェに行った。

 ボードゲームカフェっていうか、正確にはボードゲームスペース。飲み物とか出ないので。その代わり持ち込み自由。場所代さえ払えば好きなだけボードゲームができる。

 娘の友人家族と行ったので、ぼくを含め大人ふたり、7歳ふたり、5歳ひとり。

 スタッフに「5歳でも楽しめるようなゲーム教えてください」とお願いして、以下六つのゲームをやった。



1.『ザ・マインド』


 1~99の数字が書かれたカードがあり、プレイヤーごとに何枚かずつ配られる。
 他人のカードはわからない。プレイヤー同士で相談することなく、小さい順にカードを出すことができればクリア。

 たとえば5人いて、自分のカードが15であれば「1番か2番目だろうな」と予想する。でも他の人が出したそうなそぶりをしていたら、「あの人はきっと1桁だろう」と予想して出すのをやめる……といった感じ。

 ほんとは一切の相談をしてはいけないとのことだが、それだとむずかしいので「少なめ」「今出てるカードにけっこう近い」みたいなことは言ってもいいこととした。

 これは盛り上がった。全員で協力してクリアをめざすので、クリアできたときは一体感が得られる。しかし反面、失敗したときは責任のなすりつけあいみたいになるというデメリットもある。



2.『サメポリー』


 東京国際サメ映画祭で生まれたというボードゲーム。
 基本はモノポリーだが、プレイヤーが持つのはお金ではなく市民。そして盤面をサメがぐるぐる回っていて、サメに追いつかれたり、サメが自分の保有する都市に止まったりするたびに市民が食べられる。

 本来4人まででプレイするゲームらしいが、ぼくらは5人でやった。そのせいもあって、サメの進行がとにかく速い(プレイヤー数が多くなるほどサメは速くなる)。だからどんどん市民が食べられる。市民が増える速度を食べられる速度が大きく上回っている。

 というわけで、プレイしていてストレスフルだった。ふつうのモノポリーだと「いいこと」と「悪いこと」が半々ぐらいで起こるが、サメポリーは2:8ぐらいで悪いことのほうが多い。イヤな気持ちになるゲームだった。子どもからも不評。


3.『キャプテン・リノ』

 ジェンガのようなバランスゲーム。家をどんどん高くしていって、くずれたら負けというシンプルなルール。

 だがUNOのように「スキップ」「リバース」「カードを2枚出せる」「次のプレイヤーの難易度を上げる」といったカードがあるので、戦略も重要になる。

 わかりやすくて盛り上がるゲーム。


4.『おばけキャッチ』

 5つの駒(白いお化け、グレーのネズミ、青い本、緑のビン、赤い椅子)をスピーディーにとりあうゲーム。

 駒をとってもよい条件はふたつ。

① 出されたカードに「色とモノが同じもの」が書かれている場合、その駒をとる。

② 出されたカードに「色とモノが同じもの」が書かれていない場合、色もモノも異なる駒をとる。たとえば青いお化けと赤いネズミが書かれていれば、青でも赤でもお化けでもネズミでもないもの(=緑のビン)をとる。

 スピード勝負なので盛りあがるが、頭をフル回転させなくてはいけないのですごく疲れる。「2種類のルールのどちらが適用されるかを瞬時に判断する」+「②の場合はないものを探す」というのはかなり大変だ。


5.『クラッシュアイスゲーム』

 これまたジェンガのようなバランスゲーム。ルーレットによって指定された色の氷を壊していき、ペンギンが落ちたら負け。

 これはとにかくわかりやすい。小さい子でもすんなり飲みこめた。

 あと1ゲーム3分ぐらいで終わるのもいい。長時間かかるゲームは小さい子の集中力がもたないんだよね。


6.『デジャブ』


 神経衰弱+カルタのようなゲーム。
 めくったカードに描かれているものを取るのだが、ポイントは「2回目に出てきたら取る」というルール。

「これもう出たっけ?」と考えながら取らないといけない。出ていないものを取ると失格、という厳しいルールなのでどうしても慎重になる。

 さらにこのゲームを2回、3回とくりかえすと、「これ出たのって今回だっけ? 前回だっけ?」という迷いも生じる。案外初心者のほうが有利かもしれない。

 はじめてやったときにみんな強気でがんがん攻めてたら次々に失格になり、ほとんど取らなかった人が優勝という漁夫の利展開になった。


 ボードゲームスペースのおにいさんがお勧めしてくれたものだけあって、どれもわいわいと楽しめるゲームばかりだった(サメポリーだけは不評だったが)。


 しかし、他にお客さんはいなくて我々の貸切状態。
 子どもは無料とのことで、3時間弱遊んで、全部で2,400円(大人ひとりあたり1,200円)。
 安いのはいいんだけど、これでやっていけるのか不安になる。
 1時間で800円の売上。ここから家賃や光熱費を引いたらいくらも残らないだろう。スタッフは2人いたが、どう考えても彼らの給料は捻出できない。
 仮に満員になったとしても赤字になるぐらい。他人事ながら心配になる。趣味でやっているのか? それともボードゲームスペースというのは表の姿で、深夜になると違法カジノになるのか……?


2021年2月18日木曜日

英国の気持ち

 完全にのろけなんだけど、
うちの娘(七歳と二歳)の喧嘩の原因でいちばん多いのは

「(妹)ちゃんのおとうさん!」

「(姉)のおとうさん!」

という〝おとうさんの取りあい〟だ。

 ふたりの異性が自分をめぐって争う。全人類の夢だ。
 それが毎日のようにぼくの目の前でくりひろげられている。

 うれしい。 だからぼくは喧嘩を止めない。

「そうだよ。(妹)のおとうさんだよ」
「そうだね。(姉)のおとうさんだね」
と、双方にいい顔をする。
 仲裁もしないしどちらかの肩を持つこともない。

 ずっとこの喧嘩をしていてほしい。喧嘩が長く続くほど、おとうさんの存在感が増すのだから。

 ユダヤにもアラブにもフランスにもいい顔をして三枚舌外交をくりひろげた英国の気持ちがよくわかる。



2021年2月16日火曜日

【読書感想文】人間は協力する生き物である / 市橋 伯一『協力と裏切りの生命進化史』

協力と裏切りの生命進化史

市橋 伯一

内容(e-honより)
生命と非生命を分かつものは?進化生物学の最新研究による「私たちの起源」と「複雑化の過程」。

 生命と非生命を分けるものは何か、生命を生命たらしめてるのは何か。細菌、単細胞生物から植物・動物へと進化してゆく過程を追いかけながら考える。

 結論を先に書いてしまうけど、そのカギを握るのは「協力関係」だと著者は語る。

 たとえば細菌がより複雑な真核細胞に進化したきっかけは、細胞壁を失った細菌が別の細菌を体内に取り込んだこと。それによって細菌同士の協力関係が生まれた。取り込んだ細菌にしたら、体内の細菌がエネルギーを作ってくれるし、取り込まれた側の細菌からすると安全に生きていける環境を手に入れたことになる。この取り込まれた側の細菌が、ミトコンドリアや葉緑体となった。そうかー。ぼくの体内でも別の生きものであるミトコンドリアががんばってくれてるのかー。

 そして生物は複雑化するにつれ、より高度な協力関係を結ぶようになった。いや、その逆で、高度な協力をするようになったことで複雑化できたのかもしれない。

 今まで駆け足で見てきた生物進化を振り返ってみたいと思います。
 まとめると、生命進化には次に示す5段階の協力関係の進化がありました。

(中略)

1.DNA、RNA、タンパク質、脂質膜などの分子間の協力による細菌の進化
2.細胞内に取り込んだ細菌と取り込まれた細菌の協力による核細胞の進化
3.真核細胞どうしの協力による多細胞生物の進化
4.血縁のある多細胞生物間の協力による社会性の進化
5.血縁のない多細胞生物間の協力による社会性の進化

(中略)

 このように生命の進化には一定のパターンがあります。もともと独立に生きていたものが協力し合って大きな生物や共同体となることです。お互いが分業することによって専門化し、より高度な機能を生み出すことができます。この機能の向上によって、さらに次のレベルの協力が可能になります。生物はより協力するように導かれているように見えます。そして私たちヒトは協力のチャンピオンです。何しろ見ず知らずの個体とも平気で協力してしまうのです。チンパンジーなど他の生き物からすれば正気の沙汰ではないでしょう。この点においてヒトは、地球上でもっとも助け合いの精神にあふれた優しい生き物だと言っても過言ではありません。

 動物たちは個体間で協力をするようになった。サルやアリやハチは群れをつくり、お互いに助けあって生きている。
 だが群れをつくる動物でも、協力するのは基本的に血のつながった家族だけだ。血縁のないまったくの他人とも協力して、助け合うのはヒトだけだ。他の動物は「助ける」はしても「助け合う」はしない。「この前助けてもらったから今度はこっちの番だよ」はヒトだけの行動なのだ。
 助け合いは、共感能力や記憶力が高いヒトだからこそできるのだ。

「人間は残酷だ」「捕食や生殖以外の目的で殺し合うのは人間だけだ」と、人間の残酷性がことさらに強調される。ある点では真実だが、深い協力関係を築けるのも人間だけなのだ。


 労働以外にも、ほぼすべての人が社会に対して行っている協力があります。納税です。税金は無駄遣いが問題になることも多いですが、基本的には社会全体にとって価値のある事業(道路を作ったり医療費になったり)に使われます。租税というシステムがすごいのは、全く面識のない人どうしでの協力が可能になることです。私たちは自分が払った税金がいったい誰のために使われるのかを知らずに払っています。おそらく納めた税金のほとんどは、見ず知らずの誰かを助けるために使われることになるでしょう。このような、会ったこともない人どうしの助け合いを可能にするのが、租税というシステムです。
 ヒトがすごいのは、このようなシステムを渋々であったとしても、納得して維持していることです。オオカミやチンパンジーであったら、見ず知らずの個体が自分の獲物の何割かを横取りしたりしたら間違いなく争いになります。それと同じことをされているのに、私たちヒトは甘んじて受け入れています。これはヒト以外の生物からすれば、ありえないことです。税金は私たち人類の協力関係の結晶のようなものだといっていいでしょう。こうした納税を行わない者、つまり脱税をするものは人間社会における裏切り者です。

 近代社会にとって納税は「人間を社会につなぎとめるためのもっとも重要な行為」である。
 ……のわりには、みんなずいぶん脱税に甘い気がする。

 やれ誰それが不倫をしたとか騒ぐけど、不倫の被害者は数人。脱税の被害者は一億人。どっちが重要か比べるまでもない。「公共財を利用して生きる価値なし」と判定されてもおかしくないぐらいの重要だとおもうけどね。

 脱税や政治資金規正法違反って国家の存在を揺るがすという点ではほとんどテロでしょ。もっと厳しくしてもいいとおもうけどね。


【関連記事】

【読書感想文】福岡 伸一『生物と無生物のあいだ』

【読書感想文】そこに目的も意味もない! / リチャード・ドーキンス『進化とは何か』



 その他の読書感想文はこちら


2021年2月15日月曜日

平均身長・平均体重は中肉中背ではない


 どの作品だったかは忘れたが、主人公であることの描写として
「身長は日本人の平均、体重も平均、つまり典型的な中肉中背」
という一文を見かけた。

 一見なんのへんてつもない文章だが、実はこれは正しくない。
 身長と体重が平均と同じであれば、中肉中背にはならない。


 例として、3つの図形を考えている。

 1辺の長さが1の立方体、1辺の長さが2の立方体、1辺の長さが3の立方体だ。
 どれも同じ材質でできているものとする。




 これら3つはどれも立方体なのだから互いに相似形、つまり同じ形だ。人間でいうと「スタイルがまったく同じ」ということになる。

 この3つの図形の身長はそれぞれ、1、2、3だ。

 一方質量はというと、Aの質量を1とすると、Bは8、Cは27となる。

 平均をとってみよう。
 身長は (1+2+3)/3=2
 体重は (1+8+27)/3=12

 平均身長は2。平均体重は12。この両方を満たす図形は、さっきの3つの図形より明らかに太い。Bと同じ身長なのに体重は1.5倍もあるのだから。


 つまり、まったく同じ材質・同じ形であれば体重は身長の3乗に比例するわけだ。

 もっとも、人間の身体はそう単純ではない。身長が伸びたからといってそれに比例して頭蓋骨や歯まで大きくなるわけではないし、体重が増えるほどそれを支えるための骨や筋肉も増えるので密度は高くなる。だから同じスタイルをキープしたとしても、身長の3乗に比例するわけではない。
 身長100cm、体重15kgの子どもはごく平均的だが、身長200cmで体重120kg(15kg×2^3)はちょっと太っている。とはいえ200cmもあるのだからそこまでのデブでもない。まあだいたい3乗に比例すると考えてもよさそうだ。

 ということで、平均身長・平均体重の人は平均よりも太っている。




 ちなみに、肥満度を示すBMIの計算式では、体重(kg)を身長(m)の2乗で割っている。
 なんで2乗なんだ、3乗じゃないのか、とおもうかもしれないが(ぼくもおもった)、肥満かどうかを考えるときには体表面積が重要らしい。体重に対して体表面積が小さいと十分に放熱ができないのでよくない、ってことみたい。

 だから200cmの人の理想体重は120kgじゃないのね。


2021年2月12日金曜日

【読書感想文】法事の説法のような小説 / 東 直子『とりつくしま』

とりつくしま

東 直子

内容(e-honより)
死んだあなたに、「とりつくしま係」が問いかける。この世に未練はありませんか。あるなら、なにかモノになって戻ることができますよ、と。そうして母は息子のロージンバッグに、娘は母の補聴器に、夫は妻の日記になった…。すでに失われた人生が凝縮してフラッシュバックのように現れ、切なさと温かさと哀しみ、そして少しのおかしみが滲み出る、珠玉の短篇小説集。

 タイトルに惹かれて購入。
 タイトルに、岸本佐知子氏のエッセイ『ねにもつタイプ』『なんらかの事情』と似たものを感じたのでおもしろエッセイかとおもって買ったのだが、エッセイではなく小説だった。


 死んだ後に「とりつくしま」を選んで現世に戻ってくることができる。選べるのはものだけで、生物は選べない。ものに憑りつくと、周囲のものを見たり聴いたりすることはできるが、自分から他のものにはたらきかけることはできない……。
 というルールで描かれた短篇集。

 死者たちが、いろんなものに憑りついてこの世に戻ってくる。


 うーん。
 十一の短篇が収録されているのだが、ほぼ全部、死者にとって理想的な展開になる。

 自分が死んだ後の妻を見ていたらしばらくは悲しみに暮れていたけどやがて立ち直って亡夫の死を受け入れた上で新たな生活を歩みはじめる、とか。
 恋人が新しい恋人を作ったけど、やはり死んだ彼女のことを好きでいてくれる、とか。
 生意気だった娘がひっそりと父親の死を悲しんでいる、とか。

「自分が死んだ後こうなったらいいな」という願望をそのまま実現させた、まるでポルノのような小説だ。いや官能小説のほうがもうちょっと展開に裏切りがある。

 もう「理想の死後」ばっかりなんだよね。
 自分が死んだら、近しい人たちには悲しんでほしい、喪失感を味わってほしい、けれど前向きになって元気にやっていてほしい、いつまでもおぼえていてほしい。
 そんな「理想」が叶えられる話ばかり。
 残された人が「死んでせいせいしたわ」とつぶやくとか、あっという間に忘れられるとか、まるではじめからいなかったかのように死後もまったく変わらないとか、そういうのはない。

 法事における説法みたいなもんだね。物語としてはぜんぜんおもしろくないけど、身近な人を亡くしたばかりの人や、余命わずかの人はこの小説に救われるかもしれない。
 とにかく理想的だから。




 全体的に裏切りのない小説なので退屈だったけど、『ささやき』はわりと好きだった。

 結婚前も、結婚後も、離婚後も、わたしの夫を、ママは罵倒した。これでもか、これでもかと。それは、案外真実をついていた。わたしが夫を愛せなくなったのは、ママのあげつらう欠点に、共感してしまったからかもしれない。
たとえほんとうに欠点があったとしても、それは、気づかない人にとっては、欠点にならずに済む。だから、欠点なんて知ろうとしなければよいのだ。

 〝ママ〟の補聴器に憑りつくのだが、この〝ママ〟はとにかく面倒なんだよね。気づかいができなくて、おもったことをずけずけと口にして、気分屋で、攻撃的で、デリカシーがない。他人であればぜったいに近づきたくないタイプ。

 でも、主人公は娘なのでそんな〝ママ〟と付き合っているし、死んだ後も〝ママ〟のことを気にかけている。母子だから。

 瀧波ユカリ『ありがとうって言えたなら』というコミックエッセイを思いだした。滝波さんのお母さんもとにかく面倒な人で、余命一年を宣告されてからもまったく穏やかにならない。それどころかいっそう攻撃的になる。

 そういうもんなんだろうね。人間、死に直面したからって仏にはなれないんだよね。むしろ本性が剝きだしになるのかもしれない。イヤな人は、よりイヤになる。

『ささやき』には、娘を亡くした後も相変わらずめんどくさいお母さんが描かれている。自分が娘の立場だったら、あきれると同時に、ちょっとほっとするかもしれない。ああ、相変わらず面倒な人でいてくれてよかった、と。

 自分が死んだ後に、憑きものが落ちたように善人になったら悔しいもんね。自分があんなに苦しめられたのはなんだったんだ、って。


【関連記事】

【読書感想】瀧波 ユカリ『ありがとうって言えたなら』

【読書感想文】小説の存在意義 / いとう せいこう『想像ラジオ』



 その他の読書感想文はこちら


2021年2月9日火曜日

ツイートまとめ 2020年7月



ものまね

幽霊

経営者意識

投票

コピー

幽霊船

体調管理

セクハラ

男子

達成感

読書感想文

ラ行変格活用

かぶれる

乳頭

デブなのに

ドラえもん

自粛要請

優しさ

弁慶

エントロピー

言い方

スマホ対応

夜の魔力

毛沢東

東京都の関係者

イグノーベル賞

AI

狂歌

和食

個人懇談

新コロ

そばかす

2021年2月8日月曜日

【読書感想文】おもしろくてすごい本 / 前野 ウルド 浩太郎『バッタを倒しにアフリカへ』

バッタを倒しにアフリカへ

前野 ウルド 浩太郎

内容(e-honより)
バッタ被害を食い止めるため、バッタ博士は単身、モーリタニアへと旅立った。それが、修羅への道とも知らずに…。『孤独なバッタが群れるとき』の著者が贈る、科学冒険就職ノンフィクション!


 いやあ、おもしろかった。
 こんなの、おもしろいに決まってる。こういう「何かひとつの分野に特化した研究者が一般向けに自分の研究分野を紹介した本」はおもしろいと相場が決まっている。
 川上和人『鳥類学者 無謀にも恐竜を語る』も、塚本康浩『ダチョウ力』も、松原始『カラスの教科書』も、郡司 芽久『キリン解剖記』も、伊沢正名『くう・ねる・のぐそ』もめっぽうおもしろかった(伊沢さんは研究者じゃないけど)。

 おまけにこの本は評判も良かった。タイトルもおもしろそう。こんなのぜったいいおもしろいやん! ……とおもいながらなかなか手が出なかった。自分でもふしぎだけど「評判がすごくよくておもしろいに決まってる本」ってかえって読む気がしないんだよね。我ながら損な性分だとおもうけど。「自分だけが知っているおもしろい本」に出会いたいんだよね。

 しかしKindleのセールで安くなっていたので
「負けたよ……。読めばいいんだろ……。どうせおもしろいんだろ、わかってんだよ……」
と言いながら購入。

 うん、これはおもしろいわ。文句のつけようがない。




 単なるバッタ研究記じゃないんだよね。
 この本を通して、
「サバクトビバッタの大発生に遭遇したい(そしてバッタに食べられたい)」
「多大な害をもたらすサバクトビバッタの生態を研究してアフリカを救いたい」
という研究者・昆虫好きとしての夢と同時に
「ポスドクという不安定な立場から、安定した正規雇用の研究者になりたい」
という個人的かつささやか(けれど険しい)夢が語られる。

 はたして、サバクトビバッタに出会えるのか、そしてアフリカを救えるのか、それともその前に食っていけなくなって夢を断念することになるのか……。

 この「達成困難な目標」が序盤で掲げられるので、研究生活がすごくスリリング。はたして著者は正規雇用研究者になれるのか、はたしてバッタの大群に出会えるのか、はたしてバッタに食べられるのか……(食べられてたらこの本は出てない)。

 自伝小説としてもものすごくおもしろい。応援したくなる。本の中に「研究資金をクラウドファンディングで集めた」と書いてあるが、この本を読んだ人ならきっと支援したくなるだろう。ぼくもしたくなった(残念ながら今は集めてないそうだ)。

 ババ所長は、私の行く末をずっと気にかけてくださっていた。
「なぜ日本はコータローを支援しないんだ? こんなにヤル気があり、しかも論文もたくさんもっていて就職できないなんて。バッタの被害が出たとき、日本政府は数億円も援助してくれるのに、なぜ日本の若い研究者には支援しないのか? 何も数億円を支援しろと言っているわけじゃなくて、その十分の一だけでもコータローの研究費に回ったら、どれだけ進展するのか。コータローの価値をわかってないのか?」
 大げさに評価してくれているのはわかっていたが、自分の存在価値を見出してくれる人が一人でもいてくれることは、大きな救いになった。
「私がサバクトビバッタにこだわらなければ、もしかしたら今頃就職できていたかもしれません。日本には研究者が外国で長期にわたり研究できるようなポジションがほとんどなく、応募する機会すらありませんでした。もし自分が大学とかに就職すると、アフリカにはなかなか来られなくなってしまいます。今、バッタ研究に求められているのは、私のようなフィールドワーカーが現地に長期滞在し研究することで、その価値は決して低くないと信じています。我々の研究が成就したら、一体どれだけ多くの人々が救われることか。
 日本にいる同期の研究者たちは着実に論文を発表し、続々と就職を決めています。研究者ではない友人たちは結婚し、子供が生まれて人生をエンジョイしています。もちろんそういう人生も送ってはみたいですが、私はどうしてもバッタの研究を続けたい。おこがましいですが、こんなにも楽しんでバッタ研究をやれて、しかもこの若さで研究者としてのバックグラウンドを兼ね備えた者は二度と現れないかもしれない。私が人類にとってラストチャンスになるかもしれないのです。研究所に大きな予算を持ってこられず申し訳ないのですが、どうか今年も研究所に置かせてください」
 悲劇のヒーローを演じるつもりはないが、誰か一人くらいバッタ研究に人生を捧げる本気の研究者がいなければ、いつまで経ってもバッタ問題は解決できない気がしていた。幸い私は、バッタ研究を問答無用で楽しんでやれている。それに、自分自身が秘めている可能性の大きさを信じている。自分のふがいないところを全部ひっくるめても、自分が成し得ることの価値を考えたら、バッタ研究を続けることはもはや使命だ。

 ほんと、ぼくもババ所長とまったく同じ気持ちだよ。
 こんな優秀かつ熱意あふれる研究者がおもう存分研究に打ちこめない世の中なんてまちがってる!
 おい日本! ここに金を使わないでどうする!? 場当たり的な対策じゃなくて未来のために金を使えよ!


 以前読んだ、井堀利宏『あなたが払った税金の使われ方 政府はなぜ無駄遣いをするのか』という本に「所得税について確定申告する際に、使われ方をある程度選択できるようにする」という提言があった。ぼくも賛成だ。
 ふるさと納税なんて無益な制度をとっとと廃止して、代わりにこの「税金の使い道を指定する制度」を導入してほしい。そしたらしょうもない経済政策や軍事じゃなくて教育や研究に使われるお金が増えるだろうに。

 なぜトゲ植物の中にバッタが潜んでいるのだろう。親身になってバッタの気持ちを考える。バッタを捕まえようとするとトゲが邪魔になるので、武器をもたぬバッタが天敵から身を護るための戦略だと考えられる。
 過去1世紀にわたるバッタに関する論文を読み漁ってきたが、バッタがトゲ好きだなんて聞いたことがない。一時間足らずの観察でさっそく論文のネタが見つかるなんて、さすがは現場。
 野営地に戻り、論文発表をするために何をしたらいいのか研究のデザインをする。観察から「バッタはトゲ植物を隠れ家に選ぶ」と「同じトゲ植物でも大きい株を好む」という仮説が考えられた。これらの仮説を検証するためにどんなデータが必要か。①どの種類の植物にバッタがいたか、②バッタがいた植物といない植物の大きさ、の二つのデータが必要だ。
 予想される結果を元にグラフを書き上げ、一報の論文として発表できそうなストーリーを考える。それを実現するために、実際にどうやってデータを採るべきか、実験スケジュールを組み立てる。この仮説が合っていようがなかろうが、得られたデータは発表する価値がある。やったことが確実に成果になる地味目の研究計画だ。俄然頭が冴えてきた。しかも、ひんやりしてきたので、寒さに強い秋田県民の本領を発揮しながら研究できる。これはもうやるしかないでしょう。旅の疲れなどひっこんでな! まずは腹ごしらえだ。

 これだけの文章で「研究者の思考ってすごい」とおもわされる。
 研究者ってみんなこうなのかな。ぼくは学問の登山口あたりで逃げだした人間だからわからないけど。

 観察→仮説立案→仮説検証のために必要なデータを設計→結果の予測→より詳細な実験の設計

 こんなふうに筋道立てて設計図を引いていく作業って、相当慣れていないとできないとおもう。これが科学者の思考かー。

「おもしろい本」は多いし「すごいことをやっている本」も多いけど、「おもしろくてすごいことをやっている本」はそう多くない。これは類まれなるおもしろくてすごい本。

 ほんとにこの人がアフリカを救うかもしれない。


【関連記事】

【読書感想文】役に立たないからおもしろい / 郡司 芽久『キリン解剖記』

【読書感想文】カラスはジェネラリスト / 松原 始『カラスの教科書』



 その他の読書感想文はこちら


2021年2月5日金曜日

【読書感想文】動物を利用した「昔はよかった」 / 河合 雅雄『望猿鏡から見た世界』


望猿鏡から見た世界

河合 雅雄

内容(Amazonより)
物質文明化が異常な速度で進むだけの愚かな人間たちに警告を発し、自然との共生を勧めるサル学者のエッセイ。

 著名なサル学者によるエッセイ。

 はっきりいってつまらない。
 猿の生態にかこつけて、昔はよかった、最近の若者は外で遊ばないから大事なことを知らない、今の教育は詰め込みばかりでなっとらん、という戯言をくりかえしているだけ。もちろんその主張に根拠はない。数字も示さずに「最近凶悪な犯罪が増えているのは〇〇が原因だ」と言っている(凶悪犯罪は戦後一貫して減りつづけている)。

 まだ老人の戯言を垂れ流しているだけならまだしも、他の動物の生態の都合のいいところだけを取り出して、裏付けっぽく見せているのが気に入らない。

「他の動物は〇〇をしている。人間も見ならわなくてはいけない」
「他の動物は〇〇だ。人間は高等な生物なのだから同じことをしてはいけない」
と、正反対の論理を使って「昔はよかった」を主張しつづける。

 たとえば、こんな感じ。

 しかし、すべての動物社会が、うば捨て山的な思想で貫かれているのではない。高等になるにしたがって、年寄りになんらかの社会的役割をもたすことによって、生存の意義を与える方向に向かっている。アカシカでは、群れのリーダーシップをとるのは、年老いた雌である。危険が迫ると彼女は警戒音を発し、先頭を切って逃げ、群れを安全な方向に誘導する。
 マントヒヒは、一夫多妻型のハレムがいくつか寄り集まってバンドという大集団をつくり、複雑な社会組織をもっている。ハレムのリーダー雄は屈強な壮年の雄であるが、年がいくと若い雄と交代し、ハレムを出なければならない。彼はハレムに所属しないひとり者として、バンド内にとどまり、子どもとつれだったりしてのんきな日々を送る。
 しかし、バンドに危険が迫ると、この元の老リーダーが宋配をふるう。川が増水して渡れなくなったとき、元リーダーが集団を指導し、ずっと上手につれていって浅瀬を見つけ、全員を渡河させたという記録がある。彼は平常はなんの役にもたたない隠居だが、長年の間に蓄積された経験は誰よりも豊富で、すぐれた生活の知恵を身につけている。集団の若いリーダーたちは、力では勝っても、その点ではずっと劣っている。集団のメンバーはそのことを知っていて、危急に際しては、年老いた元のリーダーのいうことをよくきくのである。
 どうやら、動物が高等になるにしたがって、年寄りを無用の者として捨て去るよりも、彼らがもっている豊富な生活経験を活用するためのなんらかの役割を与える、という方向に向かって進化していくようだ。これは単に経済的な面からのみ年寄りを見るということではなくて、社会全体のしくみの中に年寄りを機能的に位置づける、ということに他ならない。

 出たよ、動物の生態を利用した都合のいい解釈。
 たしかに、群れにおいて年寄りの知恵が役立つことはある。
 だが、その前提として「群れにおいて年寄りの占める割合がすごく小さい」「時代を超えて伝達できる文字を持たない群れである」ことが条件としてある。

「マントヒヒを見ならって年寄りの経験を活かそう!」と主張するのなら、まずはマントヒヒと同じように年寄りの数を減らして、マントヒヒのように文字をなくすことを主張するべきだろう。

 都合のいいところだけ取りだして説教の材料にするんじゃねえよ。
 動物は道徳の教科書になるために生きてるんじゃねえぞ。




 元本の刊行は昭和61年(1986年)。
 この時代はまだこんな野蛮な意見が活字になっていたんだーという目で見るとおもしろい。

 日本の女性は、野や山を散策することがなんと少ないことだろう。木々や花の美しさを、光と風、鳥のさえずりの中で感じ、自然と心の自在で精妙な交流の中で、新しい美を発見し、造形として創作するために、春の一日をけもののように低山をほっついてほしいと、私はつねづね思っている。

 ひゃあ。
 じゃあおまえが金出して女性を雇って春の一日をほっついてくれるよう依頼しろよ。




 前半はサルの生態をまじめに論じていたのに、ネタがなくなってきたのか、後半はサルとほとんど関係のない老人の戯言エッセイになっている。
 前半はおもしろかっただけに残念。

 霊長類は、嗅覚の世界を退化させていった動物である。霊長類の先祖は地上で暮らしていた食虫類(モグラなど)であるが、七○○○万年ほど前に樹上で生活するものが現われ、サル類に進化した。地上での生活では、においは大変重要な働きをする。鹿など多くの動物は、臭い腺を持っていて、それを木の幹や株にこすりつけ、自分やグループの存在を示す。
 地上生活は二次元の世界での暮らしであるが、樹上生活は三次元の生活空間での暮らしである。そこでは、においは四方八方に拡散してしまい、サルたちの社会生活にはあまり役に立たない。最も重要なのは視覚である。枝から枝へ跳び移るについても、両眼で距離を見定めないと失敗して木から落ちてしまう。そこで、サルはあまり必要でない嗅脳を退化させ、その代りに視覚系を発達させた。

 なるほど。
 二次元だとにおいの強いほうに向かって進めばいつかは発信源にたどりつけるけど、三次元だとななめ上からにおいが漂ってきても「においの強いほうに一直線に進む」ってことができないもんね。
 それよりも視力のほうが重要だと。

 しかし人間の暮らしは基本的に平面だ。ビルやマンションに住んでも、移動は平面移動しかしない。おまけにバリアフリー化で都市からどんどん段差がなくなっている。

 こうなると、それほど視力に頼らなくても生活できる。街中に住んでいたら遠くを見る能力は必要ない。
 今後、人間の視力はどんどん退化していくかもね。すでにそうなりつつあるか。


【関連記事】

【読書感想文】ヒトは頂点じゃない / 立花 隆『サル学の現在』

【読書感想文】悪口を存分に味わえる本 / 島 泰三『はだかの起原』



 その他の読書感想文はこちら


2021年2月4日木曜日

シッダルタとタッタの友情


 手塚治虫の『ブッダ』を知っているだろうか。釈迦(ゴータマ・シッダルタ)の生涯を描いた不朽の名作だ。

 ぼくは小学三年生ぐらいではじめて『ブッダ』を読んだ。母親が買ってきたのだ。
 母はかつて漫画大好き少女だったので、ぼくにやたらと手塚治虫作品を読ませたがった。『鉄腕アトム』『ブラック・ジャック』『火の鳥』『プライム・ローズ』『奇子』『日本発狂』『紙の砦』『きりひと讃歌』『シュマリ』……。次々に買い与えられた。

 『奇子』『きりひと讃歌』『シュマリ』あたりは性描写もけっこうどぎついしテーマも難しいので小学生に読ませるようなものじゃないと今になっておもうのだが。
 しかしそのおかげでぼくは漫画のおもしろさと戦争の恐怖と大人の性の営みと人生の無常観と医療やアイヌの知識をすべて手塚治虫作品から学んだ。

 ぼくが熱心に読んだ作品のひとつが『ブッダ』だった。
 もちろん、仏教の思想を理解できたわけではない。だが手塚治虫『ブッダ』はそんなこと理解できなくてもただ単純にストーリーがおもしろいのだ。


『ブッダ』にはタッタというキャラクターが出てくる。手塚治虫が創作した完全架空のキャラクターだ。
『ブッダ』の主人公はもちろんブッダ(シッダルタ)だが、タッタは準主役級のキャラクター。裏の主人公といってもいい。
 なにしろ序盤ほとんどブッダは出てこない。全7部のうち第1部はブッダが生まれるまでの話なので、ブッダは胎児/乳児だ。序盤はチャプラというキャラクターとタッタが奮闘する話だ(序盤の主人公はチャプラだがチャプラは第1部のラストで死ぬ)。

 このタッタ、シッダルタとの関わりが深い。王子だったシッダルタを城から逃がすのもタッタだし、タッタがシッダルタの命を救ったこともある。シッダルタの親友といってもいい間柄だ。

 タッタはシッダルタに非常に近しい存在でありながら、他のキャラクターとは決定的に違う。それは、決してシッダルタの教えに染まらないことだ。
 シッダルタの教えに触れた人はみんな、最後はシッダルタの考えに教化される。敵国の王だったパセーナディやビドーダバやビンビサーラも、ビンビサーラを毒殺しようとしたアジャセ王子も、殺人鬼だったアナンダやアヒンサーも、執拗にシッダルタの命を狙ったダイバダッタも、みんな最後はシッダルタの教えに帰依している。もちろん、その他の登場人物もほとんどみんなシッダルタを師とあおいでいる。

 ところが皮肉なことに、シッダルタといちばん関わりが深いタッタだけは、最期までシッダルタの教えに感化されない。「シッダルタは立派なやつだ」と認めて一番弟子を自称しているものの、自分の考えは変えない。欲のままに生き、盟友・チャプラを殺したコーサラ国を憎み、復讐なんてやめろというシッダルタの忠告を無視して戦地に赴き、戦死する。最期までシッダルタの教えを理解することはなかった。


 ずっと近くにいながら最期までシッダルタの教えに染まらないタッタ。
 ぼくはそこに本物の友情を感じる。

 友だち関係には二種類ある。相手と似たファッションをして、相手の趣味をいっしょにやり、どこへ行くにもいっしょ。こういう付き合い。
 もうひとつは、それぞれ好きなことをして、それぞれ好きなところに行き、気が乗らなければ無理に相手に合わせることはない。気が向いたときだけ会い、会ったところでさしてテンションは上がらない。

 友人関係が長続きするのは後者のほうだ。
 前者はクラス替えや進学や就職のタイミングで疎遠になるが、お互い無理に相手に合わせることのない後者は何十年たっても同じ距離感を保ちつづける。

 シッダルタとタッタはずっと友人だ。年齢も離れているし、出自もちがうし(シッダルタは王子でタッタは乞食)、歩む道も思想もまったくちがう。だがどれほど立場が変わってもふたりの付き合いは続く。
 シッダルタは孤独だったのではないだろうか。なにしろ関わる人みんな自分の弟子になるのだ。周りは説法を求めてくる人ばかり。こんな孤独はないだろう。
 そんな中、タッタだけがずっと変わらない。シッダルタの教えに染まらない。「おまえもうコーサラへの復讐とかやめろや」と言っても「まあそれはええやんか」と耳を貸さない。きっとシッダルタはタッタと話しているときだけは、釈迦ではなくひとりの人間でいられたのではないだろうか。

 タッタが無謀な戦いに挑んで戦死したときにシッダルタは深く悲しみ、それ以降シッダルタはめっきり老けこむ。そりゃそうだろう。唯一対等に話せる友人を失ったのだから。
 タッタが死んだ日は、人間・シッダルタが死んだ日でもある。友人の死によって仏は仏となったのだ。


2021年2月3日水曜日

【読書感想文】人々を救う選択肢 / 石井 あらた『「山奥ニート」やってます。』

「山奥ニート」やってます。

石井 あらた

内容(e-honより)
#家賃0円、#リモートひきこもり、#限界集落。嫌なことはせず1万8000円(月額)で暮らす方法。「なるべく働かずに生きていく」を実現したニートがつづる5年目の記録。


 和歌山県の山奥で、廃校になった小学校の分校に住んでいるニートたちがいるそうだ。その中のひとりである著者が書いた、「山奥ニート」の生活。

 おもしろかった。
 ぼくもかつてニートだった(この呼び方は好きじゃないので「無職」を自称していたが)ので、著者の気持ちもよくわかるし、あこがれも感じる。

 朝食とも昼食ともつかない食事を終えると、ギターを弾いたり、鶏を散歩させたり、洗機を回したり、なんとなくで日中を過ごしてしまう。
 畑に行って水をやったり、家の改修工事をしたりする人もいる。別に強制ではないので、それだって単に暇つぶしにやっているだけだ。
 日が傾くと、誰かが晩ごはんを作り始める。
 当番は決まっていない。作りたい人が、全員分作る。
 全員が料理したくないという夜もある。そういうときは各自で食事をとるが、数ヶ月に一度あるかどうかだ。
 晩ごはんが完成すると、グルーブチャットで報せを送る。
 食事の時間も決まっていない。
 ゲームに夢中で、深夜になるまで部屋から出てこない人もいる。
 晩ごはんを食べにリビングに来た人は、そのまま酒を飲んだり、一緒に映画を見たり、ボードゲームで遊んだり、好きにする。
 話したくない気分の人は、自分の部屋に帰る。
 そんなだから、同じ屋根の下に住んでいながら、何日も顔を合わせないこともある。
(中略)
 見ようによってはこの上なく堕落した生活。
 でも競争相手もいなければ、管理する者もいないユートピア。

 無職時代、「山奥ニート」という道があることを知っていたら、ずいぶん救われただろう。いざとなれば山奥ニートとして生きていけばいい、とおもうことで。

 だが、じっさいに自分が山奥ニートとして生きていく道を選んだかというと、答えはたぶんノーだ。
 いろんなリスクを考えてしまうから。病気になったらどうしよう。歳をとってからも山奥ニートを続けていけるのだろうか。災害でここに住めなくなったときは。やっぱり子どもはほしいし、子どもができてもニートでいられるだろうか。
 そんなことを考えると、「いろいろ不満もあるけど定職に就いているほうが楽」とおもえるんだよね。

 まあ、これはぼく個人の話で。ぼくはサラリーマン家庭に育って、親戚も会社員と公務員だらけだったので、余計にリスクに臆病になってしまうんだとおもう。


 まあじっさい、無職とサラリーマンの両方を経験した今となっては、サラリーマンのほうが圧倒的に楽なんだよね。就職活動と慣れるまでの間はしんどいけど、慣れてしまえばぜんぜん楽。
 無収入になったらどうしようとか、ずっとこのままではいけないよなとか、周りの友人はちゃんと働いてるな、とか思い悩んでいるほうがずっとしんどい。

 著者は、山奥ニートの暮らしを「ユートピア」と書いている。著者からしたら実感なんだろう。
 でもぼくが同じ境遇になったら、「ユートピア」とは感じられないだろうな。吟遊詩人よりもそこそこの暮らしを保証されている奴隷の方がぼくにとっては楽なのだ。


 この本には、「山奥ニートをやっていたけど今はサラリーマンになった人」が出てくる。
 彼は「ダメだったらまた山奥ニートに戻ればいいや」という気持ちでサラリーマンになったら案外続けられたのだそうだ。彼の気持ちがよくわかる。
 山奥ニートにならなくてもいい。ただ、山奥ニートという選択肢を持っているだけでずいぶん楽になる。



 

 1ヶ月1万8000円。
 これさえあれば、この山奥で生きていける。
 僕らは月にこの1人1万8000円を徴収して、それを食費、光熱費、通信費、その他すべてに充てている。
 生きるだけだったら、これ以外のお金は要らない。
 実際、僕はこの徴収のときくらいしか財布を使わないから、毎回どこに置いたか忘れかけていて焦る。
 ただ現実には、この日本という国で暮らしていくには保険料や税金などかかるから、これよりはもう少し必要になる。
 でも、収入が少なければ、保険料も税金もそれほどかからない。
 僕の年収は約30万円。
 だから、所得税はかからないし、健康保険も月に1500円程度。かなり痛い出費だけど、なんとか年金も健康保険も納められてる。

 都会だと、生きていけるだけで金がかかる。最低限の家に住んで、最低限のものを食べても十万円近くかかる。月に十万円稼ぐのはけっこうたいへんだ。安定して稼げる仕事に就かなくてはならない。

 でも山奥ならもっと安く生きていける。山奥ニートたちの家賃はタダだし、ものをくれる人もいるし、料理もまとめてやっているので生きるのに必要なお金は月1万8000円。
 これぐらいなら定職についていけなくてもなんとかなる。月に二日働けば稼げる額だ。

 こういう暮らし、すごくあこがれたなあ。少なく稼いで少なく使う暮らし。
 ぼくもほんとはそうしたいんだけどな(理想を言うと少なく働いて多く稼ぎたい)。ただ親や妻からの期待や心配を考えると、「仕事するほうが楽」ってなっちゃうんだよね。常識に逆らえるほどの根性がぼくにはないからさ。



 

「山奥ニート」の暮らしに目くじらを立てる人も、世の中にはいるとおもう。
 おれたちの税金で楽しやがって、若いんだから額に汗して働け、今はよくても歳とってから苦労するぞ、って人が。

 でも、ぼくはこういう暮らし方があってもいいとおもう。

「その日」から少し経ってから、僕は福島へボランティアへ行った。
 津波が運んできた泥が詰まったドプの掃除をした。
 ボランティアの寝床を用意してくれたNPOの人に、仕事は何をしているの、と開かれた。
 僕がニートだと答えると、その人はやっぱりねと言った。しかし、馬鹿にした感じは一切なかった。
 やっばりとはどういうことか聞いたら、ボランティアに来る若い人の多くはニートやひきこもりだからだと教えてくれた。
 ニートやひきこもりの人は、大きな力を溜め込んでいる。でもそれを活かせる機会がない。でもこういう非常時では、それが何より助かる」
 そんな風に言っていた。
 確かに、毎日の仕事に追われるサラリーマンはボランティアなんてなかなか来られないだろう。
 働かないアリは、非常事態のための予備の労働力だという話がある。常にすべてのアリが全力で働いていたら、予期せぬ出来事が起きたときに、対応することができなくなる。不測の事態にいつでも対応可能な、暇なアリがいることによって、群れの生存率が上がるらしい。
 アリとヒトを一緒にしていいのかわからないけど、もしかしたらニートも群れのために必要な存在なのかもしれない。

 こんなふうに直接的に人の役に立つこともあるだろうし、そもそも山奥ニートには「いるだけで他の人を救う」という効果もあるとおもう。

 過重労働で自殺したくなったときに「山奥ニートやればいいや」とおもえれば、死なずに済むかもしれない。
「いざとなったら山奥ニート」という気持ちで起業して、大成功するかもしれない。

「この国のどこかで働けるけど働かずに楽しく生きている人がいる」とおもうだけで、生きていくのがずいぶん楽になる。

「七十歳までフルタイムで仕事をしつづけて生きていく」という狭く険しい吊り橋を渡らなくてはいけない。足を踏み外しそうでこわい。でも、ふと下を見たらネットがあって、そのネットの上で山奥ニートたちが楽しくゲームをしている。それだけで救われる。

 本当の〝一億総活躍社会〟ってこういうことだとおもうんだけどね。全員がフルタイムで働かなくちゃいけない世の中じゃなくて、正社員でも派遣社員でもパートでも専業主婦でもフリーターでもニートでもフーテンでも、自分にあった働き方をしながらそこそこ楽しく生きていける社会。


【関連記事】

【読書感想文】抜け出せない貧困生活 / ジェームズ・ブラッドワース『アマゾンの倉庫で絶望し、ウーバーの車で発狂した』

どブラック



 その他の読書感想文はこちら


2021年2月2日火曜日

反抗期は親の問題

 子育てをしていて、自分の変化に怖くなる瞬間がある。

 うちの子は七歳と二歳。
 生意気盛りではあるが、まだまだ立場は親のほうが上だ。圧倒的に。
 えらそうにするつもりはないし子どもの意見も尊重したいとはおもっているが、それでも意見が衝突すれば最後は親の意見が通ることになる。

 子どもが「おかしちょうだい」と言い、親が「ごはんの前だからダメ」と言う。不満そうにはするが、最後は必ず親の意見が通る。「みかんで我慢しなさい」ぐらいの妥協をすることはあるが、そのへんの采配は親次第だ。
 子ども側には要求を伝える権利はあるが決定権はない。教師と生徒、社長と平社員のような関係だ。

 そういう関係を続けていると、親はついつい独善的になってしまう。
 冷静に考えると「子どもの言い分もわかるな」とか「自分が前に言ったことと矛盾してたな」とおもうことでも、ついつい貫き通してしまう。
 ああ、言いすぎたな、こっちにも落ち度はあったな、と反省したりもするが先に子どものほうが「ごめんね」と謝ってくる。そうなると「うん、まあ、わかってくれたらいいんだよ」と変に鷹揚な感じを見せてしまう。60:40でこっちのほうが悪いのに「こっちにも10%ぐらいは非があった」みたいな態度をとってしまう。
 大喧嘩をしても最後は子どもが謝るし、その一分後にはケロッとして「おとうさんおんぶしてー」と甘えてくる。だからついついこっちも「おとうさんはえらい」という態度をとってしまう。

 これはよくない。
 このままだと、巷に跋扈している「えらそうなおっさん」になってしまう。

 じっさい、えらそうにするのは快感だ。子どもを叱って、子どもが謝罪をしたときは気持ちがいい。いいことをした、という気になる。
 もしかしたら麻薬を吸ったときと同じ物質が脳内に出ているかもしれない。麻薬吸ったことないからわからんけど。


 今は子どもの立場が弱いので、ぼくが不機嫌にふるまっても、理不尽な叱り方をしても、「ごめんね」と謝ってくる。
 どんなに社長が理不尽なことを言ってきても、(生命とか法律とかに触れないかぎり)最後は平社員が折れるしかないのと同じだ。

 でも、子どもが成長して自我が強くなれば、激しくぶつかることになる。
 いわゆる反抗期だ。
 反抗期なんて名前がついているので子ども側の問題のような気がするが、じつは親側の問題じゃないだろうか。「親がえらそうにしていたら、いつの間にか子どもが強くなって立ち向かってくるようになった」のが反抗期の実態じゃないのか。
 親が「子どもは自分の言うことを聞くもの」「意見が衝突しても最後は子どもが折れる」という意識のままでいるから衝突するのでは。

「会社の後輩に対してえらそうにしていたら、後輩が出世して自分よりも上の役職になってしまい、にもかかわらず昔と同じようにえらそうな口を叩いたら冷遇された」みたいな話だ。どう考えても悪いのは「状況が変わったのに昔と同じ力関係だとおもっている先輩社員」のほうだが、古くからの認識を改めることはなかなかむずかしい。


「自分の上司になったかつての後輩にえらそうな口を聞いてしまうおっちゃん」にならない方法はかんたんだ。
 はじめからえらそうにしなければいい。後輩であっても年下であっても部下であっても敬意を払った接し方をすればいい。

 だからぼくは娘を「さん」付けで呼ぶ。これは今に始まったことではなく、生まれたときから。
 娘はぼくとは別の人間だ。いつかは必ず親元を離れてゆく。人生の先輩としてアドバイスぐらいはするけど、最終的に道を選ぶのは娘でなくてはならない。子どもの人生はおれのもの、とおもってはいけない。
 だからぼくは戒めとして、娘を「さん」付けで呼ぶことを自らに課した。呼び捨てや「ちゃん」付けでは、目下の者として扱ってしまうから。

 娘への「さん」付けは今も続いている。だがそれでも、ついついえらそうにふるまってしまう。親だから子どもにあれこれ教える立場にあるのは当然だが、だからといって親のほうが子どもよりえらいわけではない。そのことをついつい忘れてしまう。

 だからときどきこうして立ち止まって自分に言い聞かせる。娘はおまえのものじゃないぞ。いつか追い抜かれる存在だぞ、と。



2021年2月1日月曜日

【読書感想文】こういうの書いとけばイヤなんでしょ / 真梨 幸子『初恋さがし』

初恋さがし

真梨 幸子

内容(e-honより)
所長も調査員も全員が女性、「ミツコ調査事務所」の目玉企画は「初恋の人、探します」。青春の甘酸っぱい記憶がつまった初めての恋のこと、調べてみたいとは思いませんか?もし、勇気がおありなら―。あなたは、「初恋」のことを、思い出すのが怖くなる!他人の不幸は甘い蜜、という思いを、心のどこかに隠しているあなたに贈る、イヤミス極地点。


「三大イヤミスの女王」なる言葉があるそうだ。女王が三人もいるのかよ、というツッコミはおいといて、湊かなえ、沼田まほかる、真梨幸子の三人だそうだ。
 三者とも作品を読んだことがある。沼田まほかる氏は『彼女がその名を知らない鳥たち』はたしかにおもしろかった。湊かなえ作品は『告白』はおもしろかったが、それ以降は好きになれない。真梨幸子氏の【殺人鬼フジコの衝動』は粗削りだったがふしぎな魅力があった。続編の『インタビュー・イン・セル』は理解できなかったが。

 個人的に、嫌なミステリは好きだが、「イヤミス」をうたい文句にした作品は好きではない。書きたいものを書いたら嫌な味わいになった、著者のおもうおもしろさを追及したら嫌な結末になった。そういう作品が好きなのだ。「イヤミスを書こうとして書いた」作品はつまらない。出版社が「イヤミス」として売る作品はほぼ例外なくつまらない。




『初恋さがし』も「イヤミス」をうたっているだけあって、出来はよろしくなかった。

 たしかに登場人物はほとんどがイヤな人間だ。でもすごくうすっぺらい。「自分より目立つ女がいるから嫉妬して引きずりおろす」とか「いい暮らしをしたいから金持ちを騙す」とか、とにかくわかりやすい。五十年前の少女漫画に出てくる悪役みたいな人物造形だ(五十年前の少女漫画に詳しいわけじゃないが)。

 ザ・悪人みたいな感じなんだよね。だから読んでいて怖くない。吉本新喜劇にカラフルなスーツを着たヤクザが出てくるのを見てもぜんぜん怖くないのと同じ。
「自分も一歩まちがえればこうなるかも」「いつもにこやかな隣人も一枚皮をむけばこんな人かも」みたいな薄気味悪さがない。「悪人」という記号にすぎない。

 こういうの書いとけばイヤなんでしょ、って感じがぷんぷんしたな。




 ストーリー展開は悪くなかったとおもう。
 中盤はけっこう引きこまれた。「えっ、この人が中盤で死んじゃうの?」という驚きもあった。

 しかしその期待も中盤まで。驚きの真相も意外な真犯人もなく、むしろ「えっ、こんなに期待をもたせておいてその意外性のないオチ?」と逆に驚くぐらい。

 やはり「イヤミス」をうたった本には手を出さないほうがいいな、うん。


【関連記事】

読み返したくないぐらいイヤな小説(褒め言葉)/沼田 まほかる『彼女がその名を知らない鳥たち』【読書感想】

【読書感想文】げに恐ろしきは親子の縁 / 芦沢 央『悪いものが、来ませんように』



 その他の読書感想文はこちら