2023年8月31日木曜日

ツイートまとめ 2023年3月~4月


川柳

オノマトペ

正装としての仮装

言葉遣い

彼はATM

地上の星

くりあげ

党派性

2世選手

ふたを開けてみれば

バカだから

炭水化物>脂肪

となりの桃白白

星ディス



マンガでも

カードには

ダイイング

人類 VS 草なぎ

球界

首長

ハンドブック

革命児

まちがってはいない

マジ感謝

レッテルとトレードマーク

2023年8月29日火曜日

天文学的な数字

 すごく大きな数字を「天文学的な数字」というのであれば、

 すごく小さな数字は「分子生物学的な数字」というべきだし、

 0と1だけであれば「情報工学的な数字」と呼べるし、

 〝50万円以下〟のような幅を持たせた数字は「法学的な数字」といってしかるべきだし、

 定義が一意に定まっていない数字は「形而上学的な数字」と呼んでもいいし、

「建築学的な数字」は0がなくて-1階の次が1階になっていて、

「歴史学的な数字」でもやはり0がなくてA.D.1年の前年がB.C.1年になっていて、

「栄養学的な数字」はcalとkcalが頻繁にごっちゃにされて、

「服飾学的な数字」ではメーカーごとに自分の好きな数字をLサイズと見なしてよくて、

「宗教学的な数字」は各宗教団体が発表している信者数の合計が人口を大きく超えているから100%が1じゃない、

ということが統計学的な数字からは言える。


2023年8月28日月曜日

【読書感想文】リチャード・マシスン『運命のボタン』 / 起承はすばらしい

運命のボタン

リチャード・マシスン(著)
尾之上 浩司(編・訳) 伊藤典夫(訳)

内容(e-honより)
訪ねてきた見知らぬ小男は、夫婦に奇妙な申し出をする。届けておいた装置のボタンを押せば、大金を無償でご提供します。そのかわり、世界のどこかで、あなたがたの知らない誰かが死ぬのです。押すも押さないも、それはご自由です…究極の選択を描く表題作をはじめ、短篇の名手ぶりを発揮する13篇を収録。


「そのボタンを押せば大金が手に入ります。ただし世界のどこかであなたの知らない誰かが死にます」という謎の装置をめぐる顛末を描いた『運命のボタン』。

 わりと有名なショートショートだろう。ぼくも、かつてどこかのサイトで紹介されていた小噺として読んだ。その鋭いオチに感心して原作を読んでみたのだが……。

 あれ。ぼくの知ってるオチとちがう。しかも原作のほうが冴えない。

「迷った挙句にボタンを押してしまい、大金を手に入れる」ところまでは同じだったのだが。


【以下ネタバレ】


 リチャード・マシスン版のラストは
「夫が死んでしまい、ボタンを押した妻のもとに生命保険金が転がりこむ。『知らない人が死ぬって言ってたじゃない!』と激昂する妻に、ボタンを運んできた謎の男は『あなたはほんとうにご主人のことをご存じだったと思いますか?』と言うのだった」
というもの。

 うーん、わかったようなわからないような話だ。そりゃあ夫婦だからって一から十まで知っているわけじゃないけど、「あなたの知らない人」ってそういうことじゃないでしょ。アンフェアだ。こういうのってルールの中で意外なオチを用意するからスマートなのであって、ルールをねじまげるのはずるい。

 ぼくが小噺集の中で読んだのは
「ボタンを押すと、一瞬いやな感触がする。きっと名前も顔も知らない誰かが死んだのだろう。しかし約束通り大金を手にすることができた。ボタンを持ち去ろうとする謎の男に『そのボタンはどうするの?』と訊くと、『あなたのこと名前も顔も知らない誰かのところに持っていきます』という返事が……」
だった。

 こっちのほうが断然スマートだ。一瞬考えるが、すぐに理解できるちょうどいい不気味さ。余韻も残る。どうやらテレビドラマ用に書き換えられたオチらしい。

 改変版を知っていたので、オリジナル(リチャード・マシスン版)を読んで「なんか野暮ったいオチだな……」と感じてしまったわけだ。




 表題作『運命のボタン』とその次の『針』がショートショートSFだったのでその方向の作品集かとおもったら、テイストはばらばらだった。本格SFあり、ホラーあり。

 今から半世紀ほど前に書かれた短篇なので、今読むとちょっとものたりない。えっ、もう終わりなの、もうひとひねりかふたひねりあるんじゃないの、という感覚になる。20世紀はこれぐらいで満足していたのか。小説も進歩してるんだなあ。

 ストーリー運びにはものたりなさも残るが、設定のおもしろさはあまり古びていない。


 ある日家にやってきた見知らぬ少女と遊ぶようになって以来娘に異変が起こる『戸口に立つ少女』

 息子が飼いたがっている小犬を母親が捨てるが、何度捨てても殺そうとしても帰ってくる『小犬』

 ロボットボクシングの試合当日にロボットが壊れてしまったので人間がロボットのふりをして出場するという落語『動物園』みたいな話『四角い墓場』

 テレパシー能力を身につけるために言葉を教えられずに育った少年を取り囲む人々の苦悩を描く『声なき叫び』

 飛行機の窓の外に、飛行機を破壊しようとしている怪物が見える。はたして怪物は実在するのかそれとも自分が狂っているのか……『二万フィートの悪夢』

 どれも設定がすばらしい。ぞくぞくさせられる。でも、だからこそ、「このすばらしい設定を活かすにはもうちょっと凝った展開がほしいよな……」とおもってしまう。50年前はこれだけで十分斬新だったんだろうけどさ。


 特にスリリングだったのは、治安の悪い地域のレストランで妻がトイレに行った間に夫の姿が消えてしまう『死の部屋のなかで』。

「夫はどこへ行ったのか?」という謎だけでなく、「このレストランにいる男たちは妻をどうしようとおもっているのか?」「もしかして保安官もこの連中の仲間なのか?」と、何重にもはらはらさせられる。妻以外の連中の真意がわからないのがおそろしい。

 が、これもやはり「えっ、これで終わり……?」と言いたくなるような結末。肩透かしをくらってしまった。


「起承転結」の「起」「承」はすばらしいのにな、という作品が多かった。


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2023年8月25日金曜日

【読書感想文】穂村 弘『野良猫を尊敬した日』 / わかってほしいけど見透かされたくない

野良猫を尊敬した日

穂村 弘

内容(e-honより)
胆が小さくて使い捨てのおもちゃで遊べなかった子供時代。誰かが才能を見いだしてくれると待っていたけれど自分で動かないと何も始まらないと悟った青春時代。そして、スターバックスがお洒落すぎて注文時に緊張してしまう今。いつも理想の自分までは少し遠いけれど、愛しい。ユーモアたっぷりのエッセイ集。

 エッセイに定評のある歌人によるエッセイ集。

 穂村さんのエッセイは大好きで書籍化されている作品はほとんど読んでるんだけど……。

 なんちゅうか、前ほどおもしろくないな……。

 いやあ、観察眼の細かさや視点のみみっちさは変わってないし、エッセイとしてまとめるスキルはきっと以前より上がってるんだろうけど。

 でも、なんかおもしろくない。ぼくが穂村さんのエッセイに慣れてしまったこともあるし、穂村さんがたくさんエッセイを書いてきてネタが尽きてきたということもあるんだろう。また、穂村さんのエッセイが人気になったことで「穂村さん的なエッセイを書く人」が増えてしまったことも新鮮なおもしろさを感じさせなくなった理由かもしれない。

 もしかしたら、穂村さんの年齢の問題もあるのかもしれない。エッセイ中で、穂村さんが自分のことを「五十四歳のおじさん」と書いていておもわずたじろいでしまった。

 そうかー五十四歳かー。五十四歳っていったら昔なら定年退職寸前。サザエさんの波平さんが五十四歳だからもう中年すら過ぎようかという年齢だ。


「ぼくはこんなに細かいことを気にしちゃう人間なんですよー。おまけに小心者でだらしなくて他人ができることをうまくできないんですよー」というエッセイも、著者が三十代ぐらいならまだかわいげもあるが、五十四歳が書いているとおもったらおかしさよりもいたたまれなさを感じてしまう。

 いやいや、さすがにもう「ぼくってこんなにダメなんですよー」で「しょうがねえやつだな」とおもってもらえる年齢を通り越してるんじゃないでしょうか。年齢だけで言うならば重役クラスなんだもん。

 穂村さんのエッセイや短歌評をずっと読んできている身としては、穂村さんが結婚したことやお母さんを亡くしたことなんかも知っているわけで、「ちょっとあなた、いいかげん『だらしないおじさん』ポジションじゃまずいんじゃないですか?」と真顔で注意したくなってしまう。

 これが八十歳ぐらいになったらまた「もう、穂村のおじいちゃんったら、またベッドで菓子パン食べて、しょうがないわねえ」になるのかもしれないけどさ。



 ということで、自虐ネタを読むのがちょっとつらくなってきた穂村弘エッセイではあるが、細かい心境の揺れをとらえる視点の鋭さは健在だ。

 あれはいつだったろう。何人かでお茶を飲んだことがあった。お店を選んで、席について、全員が注文を終えて、ほっと一息吐いた。私は辺りをぼんやり見回しながら、感じのいい店だな、と思っていた。そのとき、後輩の男子がこう云ったのだ。「ほむらさんの好きそうな店ですね」
 むっとした。いや、彼の言葉は当たっている。現に私は「感じのいい店だな」と思っていたのだから。でも、それを見抜かれるのは嫌。指摘されるのはもっと嫌。何故なら、その店の壁は白く、高い天井にはゆっくりとファンが廻っていた。さらに大きな植物の鉢があって、絵本を並べた本棚があって、美しい木のテーブルに種類の異なるアンティークの椅子が配されている。いわゆるお洒落カフェだったのである。
 つまり、こういうことだ。私はお洒落なカフェが好き。でも、お洒落なカフェが好きな人と思われるのは嫌。この気持ち、わかって貰えるだろうか。  勿論、後輩には悪気はなかっただろう。でも、似たような状況で同じことをこんな風に云う人もいる。
「ほむらさんの好きそうなお洒落な店ですね」
「やめて!」と叫びたくなる。恥ずかしいじゃん。でもでも、さらにけしからん云い方をする者もある。
「ほむらさんの好きそうなコジャレタ店ですね」
 むう。こいつは「敵」決定だ。「コジャレタ」とは私に対する宣戦布告に他ならない。
 人間は自分の痛いところを突かれると怒るという。「コジャレタ」好きとは、私にとってのツボなのだろう。

 わかるわかる。他人から「あなたの好きそうな〇〇だよね」と言われるのってイヤなものだよね。それが図星であるほど。

 自分のことをわかってほしいけど、見透かされたくはないんだよね。「どうせおまえはこういうの好きなんでしょ」って見抜かれたら、相手のほうが自分より一段上にいるような感じがしちゃうもんね。

 でも「あなたが好きそうだとおもって」とプレゼントをされるのはすごくうれしいんだよね。自分の好みと一致していればいるほど。

「これ、あなたが好きそうなものだよね」と「あなたが好きそうだとおもって買ってきた」は似ているようで与える印象がぜんぜんちがうんだよなー。ふしぎ。



 あれは数年前のこと。公園のベンチに座って、楽しそうに遊んでいる子供たちを見ている時、ふとこんな考えが浮かんだのである。
 これから本を何冊書いたら、子供を一人作って育てたのと同じことになるんだろう。
 おかしな考えだ。答えはもちろん「本を何冊書いても、子供を作って育てたことにはならない」である。当たり前だ。
 その時も、私は無意識にプレッシャーを感じていたのだろう。目の前で遊んでいる子供たちは、社長や若いカップルたちとは違った意味で脅威だった。その正体は、このまま子供を持たずに死んでもいいのだろうか、という自分自身の不安である。
 それが脱出口を求めて暴走した。ただ、今回は敵を直接攻撃することはできない。だから、子供を本に換算するという異様なアイデアを勝手に生み出したのだ。
 心の弱さとは、どこまでいっても克服できないものなのか。普段はその気配もなくても、いったん追いつめられたら、どんな奇怪な論理を組み立てるか、自分でも予測がつかなくて怖ろしい。

「追い詰められると奇怪な論理を組み立てる」のはわからなくもない。

 めちゃくちゃきつい仕事が続いていたときとか、仕事で強いストレスにさらされたときとか、とんでもないことを考えてしまうものだ。後で冷静になったら「なんでそんなことを考えてたんだろう」とおもうようなことを。

 少し前に某中古車販売会社が会社ぐるみでめちゃくちゃな不正に手を染めていたけど、あれを実行した人たちの気持ちもちょっとわかる。ふつうに考えたらいくら上司に命令されたって犯罪なんかしないんだけど、激務が続いたり、めちゃくちゃ怒られたりしてたらふつうじゃなくなるんだよね。そんなときに「わざと車に傷つけて保険金多めに請求しろ。大丈夫だ、誰も損しないから」なんて命じられたら、ほとんどの人は断れないんじゃないかとおもう。

 要するに、人間なんてかんたんに狂っちゃうんだよね。だから戦争もするし、官僚みたいな頭のいい人たちが命じられるままにかんたんに不正に手を染めてしまう。

「自分はすぐ狂う」って肝に銘じておかないとね。ぼくは狂ってないけどね。うひひひ。


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2023年8月24日木曜日

アニメーション


 はじめて『トイ・ストーリー』を観たときは「これ全部CGでつくってるなんてすげえ!」と感動したけど、CGアニメに慣れた今、『となりのトトロ』とか観ると「これ全部人の手で描いてるなんてすげえ!」とおもっちゃう。



2023年8月23日水曜日

【読書感想文】チャールズ・デュヒッグ『習慣の力』 / 無能な上司ほど指示を出す

習慣の力

チャールズ・デュヒッグ(著)  渡会 圭子(訳)

内容(e-honより)
夢破れた女性が生まれ変われたのも、スターバックスが社員のやる気を引き出せるのも、事故多発の病院が再生したのも、日々の何気ない行動を変えたのがきっかけだった。私たちの生活は習慣の集積でできている。だから、良い習慣を身につけ、悪い習慣を断ち切れば人生を変えることさえできる。「習慣の力」を科学的に解明し、続けるための極意を説いた200万部突破のミリオンセラーに新章を増補した決定版。


 私たちが日々おこなっている行動の多くが、その場の意思決定ではなく「習慣」にもとづいておこなわれているという。

 だから行動を変えたかったら、気持ちを入れ替えるのではなく(そもそもそんなこと不可能だ)、習慣を変えたほうがいい。

 痩せたかったら、「明日からダイエットするぞ!」なんて意味のない決心をするのではなく、お菓子売り場のない店で買い物をするとか、定期券を買いなおして強制的に一駅分歩くようにするとか、起きる時刻を変えてぜったいに朝食を食べるとか、習慣を変えなくてはならない。「なるべく運動するようにしよう」なんて決意しても無駄だ。それで運動を継続できる人ははじめから運動不足にならない(そもそも運動で痩せるのは相当むずかしいのだがそれはまた別の話)。

「自制心の強い学生は、あらゆる学業成績面で、衝動的な学生を上回った。学生の成績を予測するとき、IQよりも自制心を測ったほうが正確な予測ができる。また年間を通して学生の成績が上がるかどうかも、自制心で予測することができるが、IQではそれができない……自制心は成績について、知的才能よりも大きな影響を与える」
 そして意志力を強化し、学生の能力を伸ばすのに一番よい方法は、それを習慣にしてしまうことだ。
「とても自制心が強いのに、まったく苦労しているように見えない人がときどきいますが、彼らは無意識のうちにそのような行動をとるようになっているのです」ペンシルベニア大学の研究者の一人である、アンジェラ・ダックワースは言う。「彼らは何も考えなくても、意志力を発揮できるようになっています」


 たしかに、ぼく自身の「ずっとやっていること」はいずれも習慣化している。中学生のころから日記をつけ、柔軟体操をし、もっと幼いころから読書をしている。それは「風呂から出たら日記をつける」「寝る前にはどんなに眠くても柔軟体操をする」「電車での移動中は本を読む。就寝前は少しでもいいから本を読む」と、日常生活の中でルーチン化しているからだ。

 もはや生活習慣となっているから二十年以上も続いている。これが「なるべく柔軟体操をしよう!」だったらぜったいに三日坊主になっていた。「毎日日記をつける」は「書きたいことがあったら日記をつける」よりもずっとかんたんなのだ。

 そんなわけでぼくはゴミ出しが苦手だ。なぜなら、毎日のことではないから。「仕事に行くときは必ずゴミを出す」ならそんなにむずかしくないけど、「火曜日は燃えないゴミを、木曜日は資源ゴミを出す」だと習慣にならなくてむずかしいのだ。

 多くの大学生が授業をサボってしまうのも同じことだろう。高校時代のように「毎日決まった時刻に登校して、帰っていい時刻になるまで学校にいなくてはならない」ならちゃんと授業を受けられるのに、「日によってちがう時刻に大学に行って、ちがう時刻に帰る」だとついついサボってしまう。決意は続かない。

 小学校で毎日宿題を出していたのは、宿題をやることそのものに意味があるというよりも、「自宅でも勉強をする時間をつくる」という習慣を形成させるためなんだろうな。




 というわけで、間食をやめようとか、タバコをやめようとか、英語を勉強しようとか、行動を変えたかったら心構えを変えるのではなく、習慣を変えなくてはならない。

 ストイックな人というのは、格別意志が強いわけではなく、習慣の扱い方がうまいのだ。

 ぼくが年に百冊ほど本を読むというと、ほとんど本を読まない人には「すごいですね。私なんか読もうとしてもすぐやめちゃって」と言われる。ぼくに言わせると「読もうとする」からだめなのだ。読む人は読もうとせずに読んでいる。気づいたら本を手に取っている。


 だがもちろん、習慣を変えようとおもってもかんたんには変えられない。

 習慣化するには報酬が必要だ。

『習慣の力』では、ファブリーズがヒット商品になった経緯が紹介されている。

 悪臭を消すことのできるファブリーズは、発売当初、開発者の予想に反しあまり売れなかった。マーケティング担当者が調べたところ、ネコをたくさん飼っているような家に住んでいる人ですら、ファブリーズを使おうとしなかった。くさい家に住んでいる人はにおいに慣れてしまい、自分では気づかないのだ。「染みついているにおいを消す」ことは報酬をもたらさないため、習慣とならないのだ。

 そこで、当初無臭だったファブリーズにいい香りをつけ、においを消すのではなく、掃除の最後にファブリーズを撒くことで「よい香り」という報酬を付与することにした。これによりファブリーズを日常的に使う理由ができ、さらに「掃除の最後にファブリーズの香りがしないときれいになった気がしない」という習慣へと変わった。

 行動を変えるのは習慣、習慣を変えるのは実利よりもお気持ち、というわけだ。


 練り歯磨きにも「お気持ち」を満たすための物質が入っている。

 ホプキンスの回想録の中ではペプソデントの成分には一切触れられていないが、ペプソデントの特許申請には製法が載っており、たいへん興味深い事実を示唆している。同時代の他の練り歯磨きと違って、ペプソデントにはクエン酸とともに一定量のミント油などの薬品が含まれている。考案者はそれを「さわやかな味」にするために加えたのだが、同時に予期しない別の効果ももたらした。それは「刺激」である。舌や歯肉がひりひりするような冷たい感覚を生み出したのだ。
 ペプソデントが市場を独占するようになると、競合他社の研究員はその理由を見極めようと奮闘した。その結果判明したのは、消費者はペプソデントを使い忘れたとき、口の中がひんやりしないのが物足りなくて、使わなかったことに気づくという点だ。消費者はそのかすかな刺激を期待し、求めたのである。ひりひりしないと、歯がきれいになった気がしないのだ。
 クロード・ホプキンスは美しい歯を売ったわけではない。彼が売ったのは感覚だった。ひりひりするような、ひんやりした感覚を人々が求めるようになったからこそ、つまりその感覚を歯がきれいになったことととらえるようになったからこそ、歯磨きは習慣になったのだった。

 歯磨き剤をつけて歯を磨くと、たしかに口の中がひりひりする。子どもはたいていあの感覚が嫌いだが、あれは「歯を磨いた感」を味わうためには必要なものだったのだ。たしかに磨き忘れたときや、歯磨き剤を使わずに歯を磨いたあとは、何かものたりない感じがする。

 これまた「習慣」によるものだ。

 ちなみに、この本によるとシャンプーが泡立つのも同じ理由かららしい。あの泡は汚れを落とすのには何も貢献しておらず、使った人の「洗った感」を満たすためだけのものらしい。




 この本には、習慣をつくる方法、人々に報酬を感じさせる方法についての例がいくつか紹介されている。

 スターバックスが大きく成長したのも、従業員の習慣の力をうまく利用したからだという。

 中でも印象に残ったのがこの一節。

 企業や組織にとって、この発見は大きな意味を持っていた。社員に責任者意識、つまりものごとを自分で動かしている、意思決定の権限を持っているという感覚を持たせるだけで、仕事につぎ込めるエネルギーと集中力が大きく増加するのだ。
 たとえば2010年にオハイオ州にあるメーカーの工場で行われた研究では、組み立てラインで働く社員に、生産計画と労働環境に関する小さな決定を行う権限を与え、その社員を詳しく調査した。特別な制服をデザインし、シフトを決める権限を与える。他は何も変えない。製造プロセスも同じだし、給料も前と同じだ。しかし2カ月のうちに、その工場の生産力は20パーセントも向上した。休憩時間が短くなり、ミスも減った。ものごとを自分で動かしているという感覚を与えることで、社員はより大きな自制心を発揮できるようになったのだ。
 同じことがスターバックスにもあてはまる。現在、同社は従業員に、「決定権を持っていると感じさせること」を重視している。現場の社員に、エスプレッソマシンやレジをどのように配置するべきか尋ね、客へのあいさつのしかたや、商品をどこに並べるかを自分たちで決めさせる。ブレンダーをどこに置くか、店長と店員が何時間も議論するのは珍しくない。

 大きな裁量を渡された従業員ほど、時間的にも内容的にもよく働いた。つまり、軍隊や昭和をひきずった体育会系部活みたいに「おまえらは命じられたことだけやれ!」とやっていると部下の士気は下がり、生産性はオチ、ミスは増えるわけだ。

 これは経験的にも納得のできる話だ。

 無能な指揮官ほど細かいところに口出ししたがるんだよね。自分が無能であることをうっすら自覚しているから、「なめられないために」細かいところを指摘したがる。服装がどうとか、髪型がどうとか、電話ではまず何を言えとか、メールには何を書けとか、細部をコントロールしたがる。そうやって言うことを聞かせていれば、てっとりばやく「やってる感」を味わえるからね。

 有能な上司はどっしり構え、大きな指針は示すが、細かいやりかたは各人に任せる。そうすれば優秀な部下はどんどん自分にあったやりかたで伸びていける。上司がやることは責任をとることぐらい。

 このへんに日本経済の凋落の大きな原因がありそうな気がするな。


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2023年8月22日火曜日

自動改札に関する大罪

 混んでいる改札で、ICカードをタッチしたのに残高不足で引っかかってスムーズな通行を妨げる。これはしかたない。人間誰しもミスはある。

 だが世の中にはとんでもない極悪人がいて、改札に引っかかった直後に再チャレンジするやつがいる。また引っかかる。あたりまえだ。残高不足は解消していないのだから。

 ひと昔前ならいざしらず、今の改札は高性能なので「タッチの仕方が悪くて読み取れなかっただけ」ということがほとんどない。改札で引っかかった場合、ほぼまちがいなくやり直しても同じ結果になる。

 だから「残金チャージする」または「別の精算方法を選択する」しかないのだが、極悪人は同じカードで再チャレンジして、深刻な渋滞を引き起こすのである。これは万死に値する。

 警察官が真犯人でない人物を逮捕してしまう。これをゼロにすることはできない。組織の失敗ではあるが、警察官個人に責任を負わせるべきではない。失敗ではあるが罪ではない。

 だが、偽物の証拠を捏造したり、拷問で嘘の自白をさせることは大罪だ。


「混んでいる改札で引っかかったのに後ろに順番を譲らず再チャレンジするやつ」は、一ヶ月間鉄道利用禁止にしてほしい。



2023年8月9日水曜日

【読書感想文】『くじ引きしませんか? デモクラシーからサバイバルまで』 / 多数決よりはずっとずっとマシなくじ引き投票制

くじ引きしませんか?

デモクラシーからサバイバルまで

瀧川 裕英  岡﨑 晴輝  古田 徹也
坂井 豊貴  飯田 高

内容(信山社HPより)
人生に対して運が作用することをどう評価するか。現代のデモクラシーの淵源は、古代ギリシアの公職者くじである。また、生存のくじ、臓器くじ、じゃんけん等による決定方法、いわゆる「くじ」について、〈運の平等主義〉と〈結果の不平等〉を多角的な視点から考究する。意外に「ましな決定方法?」くじ引きへの誘い。「知の糧」への企て(法と哲学新書)第2弾。

 最近「くじ引き民主主義」という考え方がちょっとだけ注目を集めている。

 くじ引き民主主義とはその名の通り、くじ引きで代表者を決める制度だ。ランダムに選ばれた有権者が国会議員となる制度。いってみれば裁判員制度の代議士版。

 そんな無茶な、とおもうかもしれない。ぼくもはじめて聞いたときはそうおもった。でたらめに選んだ人間を国会議員にするなんて。決して今の国会議員が優秀とはおもわないけど、少なくともランダムに集めた人よりはマシだろう。僅差だけど。

 だが、くじで代表を選ぶのは古代ギリシャなどでも取り入れられており、メリットも多い制度として昨今改めて注目されているというのだ。国内外の自治体などで導入され、成果も上げているという。



 くじで代表を選ぶことのメリットとしては、

  • 様々な人が議員に選ばれ、多様性を政策に反映しやすい
  • 少数派の意見も政策に反映される可能性が高まる
  • 政党、派閥、支援団体、利権のしがらみを受けにくい
  • 一般市民の政治への関心が高まる
  • 贈賄が起きにくい(票を買っても当選できるとは限らないので)

などだ。おお、いいじゃないか。

 もちろんデメリットもある。

 だが他方で、くじ引き投票制には少なくとも三つの欠点がある(Elster 1989:89)。 
 第一に、くじという偶然の要素が介在するために、代表が経験から学ぶことが難しくする。くじは、人間の継続的意志を遮断する効果を持つ。そのため、いかに多数の有権者が支持したとしても、くじによって覆される可能性が常に存在する。その結果として、選挙のたびにゼロからスタートすることになりかねない。
 第二に、くじ引き投票では、有権者に対する説明責任が果たされにくくなる。公共の利益に尽くし、そのことを大多数の有権者によって評価された政治家でさえ、くじ引きによって落選する可能性があるからである。大多数の判断が、くじ引きによって覆されかねない。
 第三に、くじ引き投票では、極端な意見の持ち主が選出されてしまいかねない。もちろん、極端な意見を支持する投票者が少なければ少ないほど、そのような代表が選出される可能性は低くなる。しかし、それはゼロではない。くじ引き投票制が長期間運用されるならば、極端で破滅的な代表が選出される事態がどこかの時点で生じないとはいえない。

 ま、このデメリットのうち「有権者に対する説明責任が果たされにくくなる」に関してはだいぶあやしいけどね。現在、投票で選ばれた政治家が説明責任を果たしているとはおもえないので。

「政策を誤ったときの責任の所在が不明瞭になる」ってのも指摘されてるけど、それも今だって誰も責任をとらないので同じだ。汚職にまみれて大赤字になった東京オリンピック誘致の責任を誰かとりましたっけ?


 よく考えてみたら、投票をして多数派が政権をとる、ってずいぶん乱暴な話だよね。小選挙区制みたいなゴミカス制度だと、現状有権者の二割か三割ぐらいの票をとれば当選できる。有権者の二割か三割ぐらいにしか支持されていない政党が、七割ぐらいの議席を得ることもある。むちゃくちゃ雑な制度だ。

 その雑さを当の議員たちが理解して謙虚にふるまっているならまだしも、「これが民意だ」なんてうそぶいている輩までいる。無知のふりをした邪悪か、それとも単なるバカなのかわからないが。



 

 代表者をくじ引きを選ぶことにはメリットもデメリットもある。投票制と同じように。

 ということで、選挙制と抽選制の併用を掲げる研究者が多いようだ。たとえば、衆議院はこれまで通り投票で選ぶことにして、参議院のほうは抽選で幅広い人材を集める、とか。

 これはいいね。親が政治家でなくても、金持ちでなくても、知名度がなくても、党のいいなりにならなくても、国会議員になるチャンスがある。これこそ民主主義国家だよね。

 今の参議院なんか何のためにあるのかわからないし、大きく選出方法を変えたほうがいいんじゃないかな。

 やべー奴が議員になってしまう可能性はあるけど、それは投票制でも同じだし、数パーセントぐらいはやべー奴がいたっていいかもしれない。現実の世の中を反映していて。

 こうした抽選制市民院の存在は、すでに示唆したように、選挙制衆議院の審議を実質化・市民化するのに寄与するであろう。与野党は、テレビ、新聞、インターネット中継などを媒体として有権者に訴えかけている。しかし、国会審議が個々の法案の採決を左右しているとは言いがたい。十分に審議していない法案であっても、一定の手続きを踏んだ後、多数決によって可決されることも少なくない。いわんや、国会審議が次の総選挙での政権選択に結びついているとは言いがたい。だが、抽選制市民院が存在すれば、どうだろうか。衆議院議は、その審議を注視している市民院議員を説得しなければならない。説得できなければ、ある法案を市民院で通過させたり、逆に阻止したりすることはできないからである。衆議院の審議は市民に分かりやすくなるとともに、法案の可決・否決をかけた真剣勝負になるであろう。そうなれば、市民院議員以外の市民も、これまで以上に国会審議に関心を持つようになるであろう。

 抽選で議員を選ぶことは、一部の特権階級議員の暴走を止めることにつながるかもしれない。




 選挙ではあたりまえのように多数決が使われているけど、多数決ってぜんぜんいいことないんだよね。

「小学校で使うからバカでもわかりやすい」「数を数えればいいだけなので集計が楽」ぐらいしかメリットがない。

 民意を反映させる上でぜんぜんいいシステムじゃないのに、あまりにも使われすぎている。


 同性婚や夫婦別姓選択制や基地問題や原発建設地問題のように「少数者にとっては深刻なテーマだが、多数の者にとってはとるにたらないこと」が、多数決だとないがしろにされがちだ。

 多数決を前提とした選挙制度だと、マイノリティにとっての重要課題がずっと後回しにされてしまう。人間誰しも、ある分野ではマイノリティになるのに。


「多数派の傲慢」を打ち破るくじ引き投票制、ぜひ導入してみてほしい。

 ただ問題は、多数決で選ばれた今の政治家が変えたがらないだろうことなんだよな。地盤やコネクションや票田がぜんぶ無駄になっちゃうもんな。特に参議院議員にとっては既得権益を手放すことになる。

 とりあえず小学校での「なんかあったら多数決」を変えるとこからかな。


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【読書感想文】多数決のメリットは集計が楽なことだけ / 坂井 豊貴『多数決を疑う』

選挙制度とメルカトル図法/読売新聞 政治部 『基礎からわかる選挙制度改革』【読書感想】



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2023年8月8日火曜日

慣れない土地に行ったときに乗るバスのむずかしいところ


・ひとつの行き先に対してルートがいくつもあることがある。
 電車の場合は、多くて二つ(環状線)。


・大きめの駅だと、10個以上の路線が出ていたりする。さらに乗り場もばらばらだったりする。目的地に行く路線を見つけるのに一苦労。


・「〇〇方面××行き」でも土地勘がないとわかりにくいのに、「213系統」のような無機質な名前の路線にいたってはまったくのお手上げ。


・整理券を取らないといけない路線とそうでない路線がある。同じ路線でも、どの停留所から乗るかによって変わったりする。


・交通系ICカードが使えたり使えなかったり。使えるところでも、乗車時にタッチしないといけなかったりそうでなかったり。


・お釣りが出ないことが多い。事前に両替をしろと言うくせに、走行中は立つなと無理難題を言う。


・「お釣りは出ません」と書いているくせに、嫌がらせのように290円なんて料金設定。


・停留所名が似ている。「〇〇台1丁目」→「〇〇台2丁目」→「〇〇台3丁目」など。


・「あと停留所5つで目的地だな」とおもっていたら、乗降客がいない停留所を飛ばしたりするので油断がならない。


・「次おります」ボタンを押すときに、押したがっている子どもがいないか確認してから押さなくてはならない。


・行きと帰りで停留所の場所が違う。


・そうかとおもうと、停留所が片側にしかない場合もある(循環バスなど)。


・乗車時、すぐ座ることを要求される。電車の場合は乗る前に車内の様子が見えるので「あのへんが空いているな」とわかるが、バスの場合乗る前には混雑具合が見えないので乗車後一瞬でどこに座るかを判断しなくてはならない。


・降車時、「料金を支払う」「階段を降りる」「外に出て安全確認」「後ろの人のじゃまにならないように速やかに移動」という動作を連続でおこなう必要がある。


 これらすべてにまごつかない人は、バス八段。