2023年4月28日金曜日

演技中に手を叩くな

 一年ぐらい前、娘のバレエの発表会があった。

 失敗もなく無事に終えて控室から出てきた娘を出迎えると、娘が泣いている。

 理由を問うと「拍手がなかったから」とのこと。

 ん? お客さんはみんな拍手してたけど?


 話を聞き出すと、どうやらこういうことらしい。

 素人バレエの発表会なので、観にきているのはほぼ全員出演者の身内である。たいていはバレエに関してはずぶの素人。

 素人の客が拍手をするのは、大きく以下のみっつ。

「演者が登場したとき」「演者が踊りおわったとき」「演者がくるくる回ったとき」だ。

 前のふたつは何の問題もない。コンサートでも落語でも漫才でも講演会でも、たいてい登場したときと演技を終えたときは拍手をするものだ。

 問題は「演者がくるくる回ったとき」。

 なぜか、けっこうな数の観客が演者が回ったときだけ拍手をするのだ。


 娘の踊りにはくるくる回る振り付けがなかった。だから、踊っている最中には拍手がなかった。

 でも他の子はくるくる回るシーンがあったので、踊りの最中に拍手が生じていた。

 だから娘は「他の子は踊っているときに拍手があったのに自分のときはなかった。自分の演技が下手だったからだ」とおもって泣いたらしい。


 なんじゃそりゃ……。

 そこでぼくは娘に言った。

「くるくる回ってるときに拍手をしてる客はバカなんだよ。バレエのバの字も知らないの。だからどれがすごい技かとか、どのダンスが美しいかなんてちっともわからないの。でもくるくる回ってるのを見たら反射的に手を叩いちゃうの。犬が食べ物をみたらよだれを垂らすのといっしょ。何にも考えてない。あれはよだれといっしょだからもらっても何にもいいことない」

と。

 それで一応娘は納得してくれた様子だった。不承不承という感じではあったが。


 しかしなんなんだろうね、くるくる回ったら手を叩くやつ。フィギュアスケートの会場にもたくさんいる。ジャンプしたときとくるくる回ったときだけ手を叩くやつ。組み込まれてるのか? ジャンプとくるくるを見たら手を叩く遺伝子が。

 そもそもぼくはスポーツ以外の「演技中の拍手」反対派だ。落語や漫才や芝居や音楽やバレエの演技中に手を叩かれたら、演者の表現が聞こえづらくなる。他の観客のじゃまでしかない。「演技中の拍手」と映画泥棒は入場禁止にしてほしい。

 反射的に手を叩くのは蚊の羽音が聞こえたときだけにしてほしい。


2023年4月27日木曜日

小学四年生の問題を解いてみる

 長女が中学受験をするかもしれない。

 ぼく自身は小学校から高校まで公立、大学は国立と「私学」とはまったく縁のない人生を送ってきた。受験をしたことすらない。まあ田舎だったのでそもそもあまり選択肢がなかっただけなんだけど。

 なので娘も同じように公立に進ませるつもりだったのだが、聞くところによると今住んでいるところの校区の中学校はあまりお行儀のよいところではないようだ。

 ううむ。たしかに中学校って、なかなか過酷な環境よなあ。小学校までとがらっとルールが変わるもんな。急に上下関係が厳しくなり、教師も荒々しい人間が増え、(男子の世界では)「おもしろさ」「人の良さ」とかより「強さ(というより強く見えるかどうか)」が重視され、ガキのくせにやたらと大人ぶって背伸びをしあって、一気にすさんだ世界になる。

 ぼくが通っていたのは田舎のおとなしめの中学校だったけど、それでも小学校時代に比べればずいぶん粗野な雰囲気だった。小学校のときは不登校の子なんていなかったけど、中学校では常にクラスに一、二人は不登校(または保健室登校)の子がいた。当時は「なんで学校来ないんだろう」とおもってたけど、今にしておもえば「学校に行きたくなくなる気持ちよくわかるわ。むしろ毎日休まず通ってる子らがすごいな」と言いたくなる。


 ぼくは元気に登校していたし、いじめられたり殴られたりすることもなかったけど、それでも中学校にはあまりいい思い出がない。小学校時代に戻りたいとか高校生活をもう一度やってみたいとかおもうことはあるが、中学生に戻りたいとはまったくおもわない。

 ただでさえいろいろとややこしい中学時代なのに、通う学校が荒れているとつらいだろう。へたすると一生癒えないような傷を負う可能性もある。

 幸い、家から歩いて通えるところに私立の女子中学校がある。校風とかはよく知らないけど、そこに通学している子らはみんなお行儀もいいし楽しそうだ。外から見るかぎりでは悪い学校ではなさそう。


 娘に「中学受験してみる?」と訊いてみると「うん」との返事。きっとよくわかっていないのだろう。

 でも、保育園で仲の良かった子が小学校受験をして国立小学校に通っていることもあって、受験なるものにあまり抵抗を持っていないみたいだ。おかあさん(ぼくの妻)も私立中高一貫校に行っていたし。

 でも、塾に通うのはイヤだという。

 うん、わかるよその気持ち。ぼくもイヤだった。小学校のとき、仲の良かった友人が塾に通いはじめ、いっしょに行かないかと誘われたがぼくは頑として断った。

 勉強は嫌いじゃないけど、勉強を教わるのが嫌いだったんだよね。じっと授業を聴くという行為がとにかく苦手だった。

 高校生のとき、授業を聴くのをやめてひとりで教科書を読んでひとりで問題集を解く勉強法に変えたらぐんぐん成績が良くなった。ぼくには〝授業〟があわなかったのだとおもう。

 授業を聞かないほうが成績がよくなる

 たぶん長女も似たタイプだ。進研ゼミをやっているのだが毎日熱心に課題に取り組んでいる。でもオンライン授業とかは一切聞こうとしない。ぼくと同じで「耳から入ってくる情報を処理するのが苦手」なタイプなんだろうな。


 そんなわけで、はたして受験するかどうかはわからないけど、とりあえず「進研ゼミ中学受験講座」をやってみることにした。月一万円もしなくて、塾に比べるとずっと安いのもあって。


 ぼくが子どもの教育に対して心がけていることはいくつかある。

  • 自発的に勉強をする子になってほしい
  • そのためには、勉強はおもしろいんだということを知ってもらう
  • そのためには「勉強を強制しない」「親も勉強をする」

 勉強をしない親から「勉強しなさい!」と言われることほど腹立たしいことはない。ちゃんと勉強している姿を見せないと説得力がない。

 そこで、中学受験講座の教材が届いたら、まずぼくが読んですべての問題を解いてみた。

 娘の目の前で「あー、まちがえたー!」「うわ、これけっこうむずかしいな……」などとやっていたおかげで、娘も対抗意識を持って「おとうさんがまちがえた問題、正解してた!」「おとうさんに勝った!」などと取り組んでくれている。


 しかし。

 約三十年ぶりに小学生(四年生相当)の問題を解いてみたのだが、これはけっこうむずかしいな。

 さすがに国語や算数はほとんどわかる。とはいえ、三年生までの範囲とは明らかにちがう。

 算数でいうと「これまでの単元がきちんとできていることが前提」の問題が増える。

 たとえば、77×99を計算するにあたって、77×(100-1)としてから、77×100-77×1を解くやりかた。

 これを理解するためには、かけ算というものの性質をきちんと把握している必要がある。これまで出された問題を機械的に計算していた子には解けない。本質をわかっていないと「なぜ77×99は、77×100から77を引いたものなのか」を説明できない。大人でもできない人はいっぱいいる。

 たぶんこのへんではっきりと「算数が得意な子と苦手な子」の差がつくんだろう。

 また、低学年の範囲、たとえば九九が苦手であれば、ひたすら九九を練習すればできるようになる。

 ところが、三桁÷一桁のわり算ができない場合、どんなにわり算の練習をしてもできるようにはならない。かけ算がわからなければわり算は理解できないし、たし算やひき算ができなければ筆算はできない。

 言ってみれば、基礎から応用にさしかかるあたりが四年生。基礎ができていない子がここから成長することは非常にむずかしい。

 そういえばドラえもんののび太は四年生だ。彼はテストで0点ばかりとっている。つまり彼ができないのは四年生の勉強ではなく、もっと前、一年生とか二年生の勉強を理解できていないのだ。そして本人はそのことに気づいていない。

 だから一年生とかの問題集に戻ってやりなおさなくちゃならないのに、先生もママもドラえもんも目の前の結果だけを見て「宿題しなさい」「テストどうだったの」「一生懸命がんばれ!」なんてとんちんかんなことしか言わない。

 あれでは、たとえのび太がどんなにがんばったってできるようにはならない。のび太が気の毒だ。

 のび太が心配


 大人になって解いてみると、社会科はけっこうかんたんだ。もしかしたら小学生当時よりできるかもしれない。世の中のこととか、地名とか方位とか、長年生きていたら自然と覚えられる。都道府県名だって、小学生にしたらほとんど実感の湧かない地名だろうけど、大人になると「行ったことのある場所」だったり「知り合いの住んでいる場所」だったりする。ずっとイメージしやすい。地図記号はぜんぜん覚えてなかったけど。


 むずかしいのは理科だ。えっ、小四理科ってこんなにたくさんのことをおぼえなくちゃいけないの、と驚いた。

 トウモロコシとダイズの種子の違いとか。有胚乳種子とか幼芽とか幼根とかなんじゃそりゃ、という言葉ばかりだ。ぼくもかつて習ったのだろうか。まったく記憶にない。

 そういや中学でも理科2(生物・地学分野)は苦手だったなあ。高校でも化学しかやってないし。自分が、生物分野に関してはまるで知らないことに気づかされる。のび太のことをばかにできない。


 子どもに中学受験させようとおもっている親のみなさん。ぜひいっしょに問題を解いてみましょう。自分がいかにわかっていないか、子どもがどれだけむずかしいことをやっているかが理解できるようになるし。

 おもしろいよ。


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2023年4月26日水曜日

【読書感想文】サム・キーン『スプーンと元素周期表』 / 肉に鉛をトッピングするな

スプーンと元素周期表

サム・キーン(著) 松井 信彦(訳)

内容(e-honより)
紅茶に溶ける金属製スプーンがあるって本当?空調ダクトを清潔に保つ素材は?ネオン管が光るのはなぜ?戦闘機に最適な金属は?そもそも周期表の順番はなにで決まる?万物を構成するたった100種類余りの元素がもたらす不思議な自然現象。その謎解きに奔走する古今東西の科学者たちや諸刃の剣となりうる科学技術の光と影など、元素周期表に凝縮された歴史を繙く比類なきポピュラー・サイエンス。


 寝る前にKindleでちょっとずつ読んでたんだけど……。

 いやー、よく眠れた!

 この本を読んでいるとてきめんに眠たくなってくる。入眠前読書にぴったり。


 とにかくむずかしい。元素周期表にまつわるよもやま話がくりひろげられるのだが、たぶん素人向けに書いてくれているとおもうのだが、それでもよくわからん。

 化学は苦手じゃないんだよ。むしろ高校時代は得意だった。大昔とった杵柄だけど、センター試験の化学は満点だった。

 そんな「高校化学はざっと頭に入っているつもり」という自信をこの本はこっぱみじんに砕いてくれた。ほとんどわからねえ……。


 元素周期表の周辺のエピソードをこれでもかってほど書いているのだが、とにかくむずかしい。「ポピュラー・サイエンス」なんて書いてあるけど、とても素人向けとはおもえない。『Newton』『日経サイエンス』レベルでは太刀打ちできない。

 とはいえ断片的なエピソードの寄せ集めだから、部分部分では楽しめるところもあるんだけど。




 我々が目にする元素周期表をつくったのは、メンドレーエフというロシアの化学者だ。

 今ではあたりまえの周期表だが、つくられた当時は画期的なものだったようだ。

 第一に、メンデレーエフはほかのどの化学者より、元素には変わる性質もあれば保持され性質もあることを理解していた。ほかの化学者は、酸化(第二)水銀(オレンジ色の固体)のような化合物が、気体である酸素と液体の金属である水銀を何らかの方法で「格納している」と考えていたが、メンデレーエフはそうではないと気づいていた。むしろ、酸化水銀に含まれている二つの元素は、分離するとたまたま気体と金属になるのだ、と。変わらないのは各元素の原子量で、メンデレーエフはこの原子量こそ、各々の元素に特徴的な性質と考えた。これは現代の見方にきわめて近い。
 第二に、片手間で元素を縦横に並べようしていたほかの化学者とは違い、メンデレーエフ生涯を通して化学実験室で仕事をして、元素の感触や臭いや反応にかんするひじょうに深い知識を得ていた。(中略)そして、何より重要なのが次の事実だ。メンデレーエフとマイヤーは二人とも、表でまだ元素が見つかっていない位置を空欄として残したのだが、慎重に過ぎたマイヤーとは違って、メンデレーエフは大胆にも新しい元素が見つかるはずだと予言したのである。もっと真剣に探すのだ、化学者と地質学者の諸君、見つかるはずなのだから、と挑発するかのように。同じ列に並ぶ既知の元素の性質から類推して、メンデレーエフはまだ見ぬ元素の密度や原子量まで予言しており、そのうちのいくつかが正しいと判明すると世間からも大きな注目を集めた。さらに、科学者が一八九〇年代にガスを発見した際に、メンデレーエフの表は重大な試練に耐えた。新しい列を一つ足してガスを簡単に取り込むことができたのだ(メンデレーエフは当初、貴ガスの存在を否定したが、その頃になると周期表は彼だけのものではなくなっていた)。

 見つかっている元素を並べるのはメンドレーエフの他にも様々な人が挑戦していたようだが、メンドレーエフは「まだ見つかっていない元素を予言していた」というのだからすごい。なかなかできる発想じゃないよね。


 ところでこの本には「メンドレーエフは原子の存在を認めていなかった」という衝撃的な文章があるのだが、これホント? 原子の存在を認めていない人が元素周期表をつくったってどういうこと???

 さらっとしか書いていなくてさっぱり理解できない。ほんまかいな。

 


 

 元素はどこでつくられるのか。

 恒星(太陽のような星)がつくっているのだという。

 が、それは元素番号26(鉄)まで。それ以降の元素は、恒星でもつくられないという。

 ならば、最も重い部類の元素である二七~九二番め、コバルトからウランまではどこでつくられたのか? B2FH論文によれば、なんとミニビッグバンから出来合いの状態で出てくる。マグネシウムやケイ素などの元素を惜しみなく燃やしたあと、きわめて重い星(太陽の一二倍の質量)は、地球の一日ほどで燃え尽きて鉄の核になる。だが、果てる前に黙示録的な断末魔の叫びを上げる。大きさを維持するためのエネルギー(高温のガスなど)が突然なくなって、燃え尽きた恒星はみずからの途方もない重力によって内向きに爆発し、わずか数秒で数千キロメートルも縮む。核ではさらに陽子と電子がぶつかって中性子ができ、やが中性子のほかはほとんど残らなくなる。すると、この収縮の反動として今度は外向きに爆発する。この爆発が半端ではない。爆発した超新星は数百万キロにまで膨らみ、一カ月のあいだ華々しく、一〇億個の恒星より明るく輝く。そして、爆発中には、途轍もない運動量を持った何兆何億という粒子が毎秒信じられないほど何度も何度も衝突し、通常のエネルギー障壁を飛び越えて鉄と核融合する。これにより多数の鉄の原子核が中性子で覆われ、その一部が崩壊して陽子になることで新しい元素がつくられるのだ。天然に存在する元素とその同体の組み合わせはどれも、この粒子の嵐から吹き出てきたものなのである。

 んー、わからん! わからんけどすごい!

 さっぱり理解できないけど、このスケールにとにかく圧倒される。

 この現象、当然誰も見たことがなければ観測したこともないはずだけど、でも判明している。科学ってすごいなあ。わからんけど。



 

 化学は政治や経済にも大きな影響を及ぼしている。化学兵器がつくられたり、資源をめぐって戦争が勃発したり。

 1990年代、携帯電話を小型化するために密度が高くて熱に強くて腐食しなくて電荷をよく蓄える金属を求めた。それがタンタルとニオブで、多く取れたのがコンゴ民主共和国(当時はザイール)だった。

 当時、コンゴでは紛争が起こっていた。そこにタンタルとニオブが資金をもたらしたことで、軍に金がまわり、紛争が長引いた。また儲けを求めて農民が鉱物探しに乗り出したことで、食糧難に陥った。

 コンゴでの紛争は一九九八~二〇〇一年に熾烈を極め、ここに至って携帯電話メーカーは自分たちが無政府状態の社会に資金を提供していたことに気がついた。評価していいことだが、各メーカーは高くつくにもかかわらずタンタルやニオブをオーストラリアから買い始め、コンゴの紛争は少し鎮まった。それでもなお、二〇〇三年に停戦協定が公式に結ばれたにもかかわらず、同国の東半分、すなわちルワンダ近くでは、事態は今なおあまり沈静化していない。そして最近、また別の元素であるスズが戦闘に資金を供給し始めた。二〇〇六年、ヨーロッパ連合は一般消費者向けの製品に鉛はんだを使用することを禁じ、ほとんどのメーカーが鉛をスズに置き換えた――このスズもたまたまコンゴに大量に埋蔵されているのである。ジョゼフ・コンラッドはかつてコンゴで行われていたことを「人類の良心の歴史をすっかり汚した、最も下劣な金目当ての略奪」と呼んだが、この見方を変える理由は今のところほとんどない。
 こうしたわけで、一九九〇年代なかばから数えて五〇〇万を超える人が殺されており、第二次大戦以降で最大規模の人命損失となっている。かの地での争いは、周期表が数々の高揚の瞬間を演出するばかりではなく、人間の最も醜く残虐な本能にも訴えうることを証明している。

 間接的ではあるけれど、携帯電話が小型化したことで命を落とした人がたくさんいたんだなあ。

 化学が原因ではなく、化学が人々の中にある憎しみや凶暴性を増幅させているだけなんだけど。



 

 アルミニウム。一円玉やジュースの缶などにも使われているごくごく身近な金属だけど、かつてアルミニウムには金よりも価値があった時代もあるのだそうだ。

 二〇年後、フランス人が抽出法を工業用に拡張する方法を突き止め、アルミニウムが商業製品として手に入るようになった。とはいえ、ものすごく値が張り、まだ金より高かった。その理由は、地殻で最もありふれた金属 ―重量にして八パーセントもあり、金より何億倍も豊富である― なのに、まとまった単体としては見つからないからで、必ず何かと、たいてい酸素と堅く結合している。単体の試料を調達するのは奇跡に等しいとされた。フランスはかつて、王冠の宝石の隣にフォートノックス[訳注 金塊が貯蔵されていると言われているアメリカ陸軍基地]ばりにアルミニウムの延べ棒を展示していたし、皇帝ナポレオン三世は晩餐会で貴重なアルミニウム製食器を特別な客だけに出していた(それほどでもない客は金製のナイフやフォークを使った)。アメリカはというと、自国産業の技量をひけらかすため、一八八四年に政府の技師がワシントン記念塔の先端に六ポンド(約二・七キロ)あるアルミニウム製のピラミッド形キャップをかぶせた。ある歴史家によると、このピラミッドを一オンス削り取れば、この塔を建てた労働者全員の賃金一日分を賄えたという。

 アルミニウムを分離する方法を発見したチャールズ・ホールという化学者は莫大な財産を築いたという。

 夢があるねえ。ひとつの金属を取り出すほうほうができたことで大金持ちに。今、我々の身の周りにどれだけアルミニウムが使われているかを考えたら当然だけど。

 こういう化学者がちゃんと報われるのはいいことだ。そうじゃないケースが多いからなあ。



 

 元素のはたらきに関する説明は難解だが、化学者たちのエピソードはおもしろい。

 なかでも感服したのがド・ヘヴェシーというハンガリーの化学者の逸話。

祖国から遠く離れていても、ド・ヘヴェシーの身体は風味豊かなハンガリー料理に慣れており、下宿の賄いのイギリス料理が合わなかった。そこへきて、出される料理にパターンがあることに気づいた彼は、高校のカフェテリアが月曜のハンバーガーを木曜のビーフチリにリサイクルするがごとく、女主人が「新鮮な」と言って毎日出す肉が新鮮とはほど遠いのではないかと疑った。問い詰めたが女主人に否定され、彼は証拠を探すことにした。
 (中略)
彼はある晩、夕食で肉を多めに取ると、女主人が背を向けている隙に「やばい」鉛を肉に振りかけた。女主人はいつものように彼の食べ残しを回収し、ド・ヘヴェシーは翌日、研究所の同僚だったハンス・ガイガーの新しい放射線検出器を下宿に持ち込んだ。ド・ヘヴェシーがその晩出された肉料理に検出器を向けると、案の定、ガイガーカウンターはカリカリカリカリと勢いよく音を立てた。ド・ヘヴェシーはこの証拠を突き付けて女主人を問い詰めた。だが、科学の徒として、放射性現象の不思議の説明に必要以上に念を入れたに違いない。科学捜査の最新ツールを駆使して証拠を鮮やかに押さえられた女主人は、感心してまったく怒らなかったという。ただ、それを機にメニューを変えたかどうかは記録に残っていない。

「一度下げた肉を使いまわしているのではないか」という疑念を確かめるために、鉛とガイガーカウンターで検証……。化学者らしいクレイジーなエピソードだ。

 ちなみに鉛は人体に有毒ですからね。ぜったいに真似をしないように。


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2023年4月25日火曜日

【読書感想文】麻宮ゆり子『世話を焼かない四人の女』 / 自由に生きられる生きづらさ

 世話を焼かない四人の女

麻宮ゆり子

内容(e-honより)
住宅メーカーの総務部長を務め、土曜夜は会社に内緒の別の顔を持つ水元闘子。宅配便のドライバーをしている元ソフトボール選手の榎本千晴。鋭敏過ぎる感覚を持ち、ドイツパン作りに情熱を燃やす石井日和。女と逃げた夫の小さな清掃会社を育て上げた会沢ひと美。仕事の悩みや将来への不安に揺れる四人の女たちが踏み出す一歩。読めばすっと心が軽くなる連作短編集!


 著者のデビュー作『敬語で旅する四人の男』が、デビュー作とはおもえないほどいい小説だったので、似たタイトルの『世話を焼かない四人の女』も読んでみた。

 ふむ、こちらも悪くない。めちゃくちゃおもしろかった! というほどでもないけど、ゆっくり身体に染みわたってゆく味噌汁のような小説。


『敬語で旅する四人の男』の登場人物のひとりであった斎木くんが登場するのもうれしい。四篇ともに登場して、『世話を焼かない四人の女』というタイトルでありながら真の主人公は斎木くんかもしれない。

 自閉症スペクトラム障害で他人の気持ちをまるで理解できない斎木くんが、今回も物語を動かす上でいいアクセントになっている。男性以上に「他人に気を遣うこと」が求められる女性だからこそ、まるで気を遣わない斎木くんに良くも悪くも刺激をもらうのだろう。

 まあこれは小説だからであって、実際に斎木くんがいたら嫌われ避けられるだけだろうけど(斎木くんが超美形という設定はずるいとおもう)。




 離婚歴があり、会社では身だしなみをとりつくろうことをやめた女の『ありのままの女』、愛想がないと言われるセールスドライバーの『愛想笑いをしない女』、感覚が鋭敏すぎるがゆえの悩みを抱える『異能の女』、主婦をやっていたのに夫の失踪を機に社長をやることになった『普通の女』の四篇を収録。

 主人公となる女たちは、それぞれ「女だから部下から反発される」「女だからなめられる」「女だから男以上に愛嬌を求められる」という生きづらさを抱えている(『異能の女』の主人公の生きづらさはあんまり性別と関係ないけど。敏感すぎる人はむしろ男のほうが生きづらいとおもう)。

 きっと多かれ少なかれ、現代日本で働く女性たちが抱える悩みなのだろう。


 近代以降の女性の社会進出の歴史を探った斎藤 美奈子『モダンガール論』を読んだときにおもった。女性が生きづらいのって、選択肢が多すぎるからなんじゃないかって。

 どういうことかというと、この百年で女性の社会進出は飛躍的に進んだ。もちろんまだまだ差別は残っているけど、それでも百年前に比べれば天と地の差だ。

「女に教育なんて必要ない!」の時代から「良妻賢母」の時代となり(今では想像しにくいが良妻賢母は女性に教育・就職の機会を増やすための思想だった)、戦争で男手が不足したことにより女性の社会進出を経て、戦後は少しずつ働く女性が増えていった。今では、結婚・出産後も働く女性も、資格職について高給を稼ぐ女性も、社長となる女性もめずらしくない。様々な生き方が選べるようになった。つまり選択肢が増えた。

 その結果、女性は生きやすくなったのだろうか。「女は高校か短大を出たら数年腰かけOLをして寿退社して専業主婦」の時代よりも生きるのが楽になったのだろうか。

 決してそんなことはないだろう。「生きやすさ」を比べる指標はないけれど、平均をとればひょっとしたら生きづらくなっているかもしれない。

 だとすると、それは「他の選択肢がある」ことに由来するんじゃないだろうか。あるいは「他の選択肢があるとおもわれていること」か。

「専業主婦/兼業主婦」の道もあるとおもわれるから、仕事でもなめられる、給与も上がらない、昇進しにくい。また「他の生き方もあったのでは」とおもうからこそ隣の花が赤く見え、悩み苦しむ。

 なんだかんだいっても男の道は狭い。主夫になる人はごくわずか。「仕事をせずに生きていく」「短時間労働で生きていく」という選択肢はないに等しい。それはそれでしんどい面もあるけれど、仕事に慣れてさえしまえば意外と楽だ。ぼくは無職だった頃よりサラリーマンになってからのほうがずっと楽に生きている。


「いろんな生き方をしていいんですよ」「自分らしく生きましょう」という言葉は美しいけど、決して人を楽にしてくれるわけじゃないよね。ほとんどの人にとっては「あんたにとっての幸せはこれ! こう生きなさい!」と誰かに決めてもらったほうがずっと楽に生きられるんだろうね。

 だからといって今さら時計の針を巻き戻すことはできないんだけど。


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2023年4月24日月曜日

【読書感想文】ロバート・ホワイティング『ニッポン野球は永久に不滅です』 / プロ野球界でいちばん大変なのは通訳

ニッポン野球は永久に不滅です

ロバート・ホワイティング(著) 松井 みどり(訳)

内容(e-honより)
近くて遠い“野球”と“ベースボール”―かつてニッポン野球を賑わしたすごいガイジンがいた。変なガイジンもいた。彼らの活躍を語りながら、滞日20年のジャーナリストの眼を通して見る“日米野球摩擦”の現場。そして、愛と皮肉をこめておくる刺激的なニッポン人論。

 1985年刊行。

 アメリカ人ライターが書いた、日本プロ野球論(なぜかメキシコ野球についてもページが割かれているが)。


 この著者がアメリカ人に向けて日本野球を説明した『和をもって日本となす』がめっぽうおもしろかった(昨年のナンバーワン読書だった)ので期待して読んだが、『ニッポン野球は永久に不滅です』のほうはコラムの寄せ集めで、かつ時代性が強いものだったので、今読むとわかりづらい。

 今から四十年前に活躍した外国人選手の名前があたりまえのように出てくる。さすがに40年近くたった今読むには無理があったか。




 選手について書かれたところよりも、通訳の仕事についての記述のほうがおもしろかった。

 とにかくたいへんそう。

「ガイジンの1年目、特に最初の2ヵ月間がきつくてね」と中島国章。ジョー・ペピトーンの頃からヤクルトの通訳を勤めている。「ガイジンが日本の生活にスムースに入っていけてるかどうか見守るのが僕の仕事なんだ。球場の中はもちろん、プライベートなことまでね。マンション捜しに始まって、家具の買い物を手伝ったり、奥さんにいろんな店を教えてやったり、子供達にいい学校を見つけて、通学が可能かどうか確かめたり……。まあ一日24時間待機ですな。真夜中に子供が病気にでもなれば、飛び起きて病院まで連れていかなくちゃならない」
 中島は言う。
「練習が長すぎるとか、コーチが口出ししすぎるとか、監督にけなされたとか、そういうアメリカ人の不平不満を聞いてやらなくちゃならないんだ。彼らと話しができて、情況を説明してやれる人間は、たいてい僕しかいないわけよ。とにかく何から何まで事情が違い過ぎるんだな。時には彼の心理学者、アドバイザー、時には友達……。アメリカ人の世界に入って行って、興味をもって話を聞いてやる。そうすれば孤立感を深めなくて済むからね。彼の考え方とか、困っていることを僕が理解できれば、監督だって手の打ちようがあるというものだろう? 精神的な悩みがあったら、とてもプレーどころじゃないからね。彼をハッピーにしてやること、うまくいくように手助けすること、それが僕の役目なんだと思っている」
「彼をチームに解け込ませるようにしなくちゃいけない。日本の選手が食事に誘ってくれたらしめたもんさ。ガイジンと付き合ってもいいな、という気になり始めた証拠だからね。もし僕が疲れていて断るとするだろ。そのとたんに行きたくないんだと誤解されて、もう二度と誘ってくれないんだ。その日本人選手とアメリカ人選手が知り合いになれるチャンスはそれっきりなくなっちゃう。 通訳ははにかみ屋じゃ勤まらない。チームのハーモニーを保つためにも、人なつっこくて気さくでなくちゃだめさ。(後略)」

 通訳という立場でありながら、通訳の何倍もの他の仕事がある。外国人選手の通訳となり、秘書となり、コーチとなり、友人とならなくてはならない。

 グラウンドの上だけでなく、ミーティング、休憩中、移動中、宿舎、オフの日にいたるまでずっと外国人選手の身の周りの世話を焼かなくてはならない。人によってはトスバッティングのボールを上げてやったりまでするという。

 球団関係者で、いちばんきつい仕事をしているのは選手でも監督でもなく、ひょっとすると通訳かもしれない。

 これで給料はふつうのサラリーマンぐらいというのだから、ふつうの神経ではやっていられない。能力、拘束時間、責任、ストレスなどを考えたら年俸数千万ぐらい出してもいい仕事だとおもうなあ。




 すべての通訳が口をそろえて「そのまま通訳してはいけない」と語っているのがおもしろい。

 監督が放った失礼な言葉、コーチが口にする的外れなアドバイス、外国人選手が叫んだ罵詈雑言。それらを逐一翻訳していたら、たちまち喧嘩になって選手たちは帰国してしまうだろう。だから「まったくべつの言葉に変換する」技術が求められるそうだ。

 延長12回の末、中日ドラゴンズをシャットアウトしたクライド・ライト。直後のテレビ・インタビューで「どんなお気持ですか?」という質問に、間延びした口調で答えた内容は、まったくもって日本的じゃなかった。
「そうだなぁ、実を言うとよぉ、勝ったか負けたかなんて俺にはどーでもいいんだわさ。早いとこ試合を終わらせて、さっさと家に帰って寝たかったなぁ」
 これを受けた田沼通訳の如才ない翻訳――
「僕は一生懸命やりました!勝てて本当によかったと思っています」。これで波風がたたなくてすんだ。

 と、こんなふうに。

 ここまで極端じゃなくても、〝日本的〟な発言を求められる場面は随所にある。

 たとえばヒーロー・インタビューで記者から「打席に立ったとき、スタンドはすごい声援でしたね。いかがでしたか?」と訊かれた場合、〝日本的〟な答えは「ファンのみなさんが打たせてくれたヒットです!」であって、他の答えはすべて不正解だ。まちがっても「集中していたので声援は耳に入りませんでした」とか「適度なトレーニングと休息のおかげで良いコンディションを保っていたからだよ」なんて答えてはならない。

 もちろん「ファンのみなさんが打たせてくれたヒットです!」が嘘であることは、選手も記者もファンもみんな知っている。それでもそう言わなくちゃいけない。それが〝日本的〟なふるまいであるから。

 ここで外国人選手の発言をそのまま訳せばファンや他の選手はおもしろくないし、「あんたのその発言はまちがってるよ」と言ったところで外国人選手は納得しないだろう(じっさい間違ってないのだから)。

 そこで、通訳がまず「英語→日本語」の翻訳をおこない、その後に「訳した日本語→〝日本的〟な日本語」に翻訳をするわけだ。めちゃくちゃすごいことやってるなあ。




 コーチ口出しすぎ問題。

 通訳が否が応でも直面しなくてはいけない「異文化の交差点」は、ウェイティング・サークルの問題だ。日本のほとんどの監督が、そこで打順を待つバッターに何らかのアドバイスをしなくてはいけないものだと思っている。(「低めのシュートに気をつけろ」とか「高めのカーブをよくねらえ」とか、その他もろもろのありがたい入れ知恵をする……)
 ところが、たいていのアメリカ人は干渉されるのが大嫌いときてる。アメリカで監督に放任されるのに慣れているからだ。
 ロッテのレロン・リーのコメントはそれをよく物語っている。
「バッターとして言わせてもらうけど、打順を待つ間に他の誰とも口なんかききたくないね。せっかく精神を集中してたのに、ひっかき回されちゃうからさ。俺が頭の中で『スライダー』を浮かべてるっていうのに、飛んで来た通訳に、『シュート』だなんて言われてみな。気になって打てやしないさ」
 サンドイッチマンの根本的なジレンマがここにある。監督の言葉を伝えるのは義務だし、アメリカ人には「こっちの身にもなれよ」とぴしゃりと言われてしまう。

 これは野球界、外国人に限った話ではないよね。

 たとえばプログラムのプの字も知らないのに、プログラマーに対して「こうすればもっと効率化できる」なんて言う上司、きっとあなたの会社にもいるでしょう?


「部下のやりかたに口を出すのが仕事」とおもってる上司が多いからね。今もなお。

 この本には「メジャーリーグで名内野手としてならした外国人選手に対して、ゴロのさばきかたをアドバイスしようとする外野手出身のコーチ」が紹介されているが、これに近い例はいくらでもある。

 プロ野球の世界なんて、何十年も前に引退したおじいちゃんがいまだにテレビでえらそうに「ああしろ、こうしろ」って言ってるからね。あいつらなんか仮に肉体が若返ってもぜったいに今のプロ野球では通用しないのに。

 だいたいプロ野球のコーチなんてほとんどが選手出身で、コーチとしての専門教育を受けてきたわけではない。そして野球のレベルは年々高くなっているのだから、ほとんどの場合は選手のほうがコーチよりもよくわかっている。そうでなくても自分の身体のことはコーチよりも選手のほうがわかるだろうし。

 それでも何か言いたくなる、言わずにはおれないコーチが多い。

 あれは、わからないからこそ言いたくなるんだろうね。自分がわからないから、疎外感を解消するため、あるいは権威を見せつけるために(じっさいは逆にばかにされるだけなんだけど)あれこれと口出しをする。


 そういやぼくが前いた会社でも、営業職出身の上司が、営業社員よりもプログラマや事務職の人間に対して、やれ効率化がどうだとか、仕事のやりかたがどうだとか、愚にもつかないことを言っていた。

 具体的なアドバイスはなにひとつできないから、やれ気合が感じられないだの、士気を上げろだのといったとんちんかんな根性論しか語れない。

 わからないからとんちんかんなことを言う → ばかにされる → ばかにされていることだけは感じ取って挽回しようとする → ますます権威をふりかざして口を出す → ますますばかにされる という流れだ。

 上司がやるべき仕事は「部下のやりかたに口を出す」ではなく「部下のやりかたに口を出さない」のほうが大事なんだろうね。そっちのほうがずっとむずかしい。

 ぼくも気を付けよう。




 プロ野球の話というより、日米比較文化論として読んだ方がおもしろいかもしれない。

 日本プロ野球界の話なのに、日本全体にあてはまることが多いからね。


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2023年4月17日月曜日

おためごかしの嘘

  人並みに嘘を憎んでいて人並み以上にほらを吹くぼくだが、嫌いな嘘がある。

 それは「おためごかしの嘘」だ。

 あんたのためにやっていることなんですよ、という嘘だ。


 具体例を書こう。

 テーマパークやスタジアムにおける「飲食物の持ち込みは、食中毒などのおそれがあることから禁止とさせていただいております」、おまえのことだ。


 嘘つけー!!!!



 いやいや。どう考えてもほんとの理由は「こっちは相場より高い値段で飲食物を提供して儲けたろうとおもってんのに持ち込みされたらかなんわ」だろ。


 ことわっておくが、持ち込み禁止自体に不服があるわけではない。公共施設とかならともかく、民間団体が営利目的で運営している施設であれば、儲けるためのシステムをつくるのは当然だ。

 相場より高いのも、その割に量が少なくて出来あいの料理でおいしくないことも、ある程度はしかたないとおもっている。テーマパークやスタジアムに安くてうまい飯なんてはなから期待していない。

 気に食わないのは、「お客様のためをおもって禁止にさせていただいているのです」という態度だ。

「金儲けのためって言えばあんたらはケチやから文句言うんでっしゃろ。せやからあんたがたの健康を守るためっていう理由にしてるんですわ」という、客をなめきった姿勢が気に入らない。

 おまえらの魂胆なんか見え見えなんじゃい!


 増税もさ、福利厚生充実のためとか「あなたたちのためにやってあげてるんです」みたいな言い訳するんじゃなくて、「今年度苦しいんですわ。もう火の車で」みたいに本音を吐露してくれよ! ……だとしてもイヤだけど!



2023年4月13日木曜日

スポーツのずるさ

 スポーツはずるい。

 なにがずるいって、ずるさを認めないところがずるい。


 たとえば、野球の盗塁。

 世界で最初に盗塁がおこなわれたとき、ぜったいに物議をかもしたとおもうんだよね。

「おいおい、何勝手に2塁に走ってるんだよ。戻れよ」

「なんで?」

「なんでって……ずるいだろ、そんなの」

「ルールに書いてあるの? ピッチャーが投げてる間に2塁まで走ったらいけませんって」

「それは書いてないかもしれないけど……。でもわかるだろ、ふつうに考えて」

「おれはふつうに考えて、走っていいとおもったんだけど。文句があるならそれがダメって書かれたルールブック持ってこいよ」

「う……。わかったよ、じゃあいいよ2塁進塁で。その代わりこっちも同じことやってやるからな!」

「ああいいぜ、言っとくけど、2塁に到達する前にボール持った野手にタッチされたらアウトだからな!」

みたいなやりとりがあったはずだ。ぜったい。

 でなきゃ steal(盗む)なんて名前がつけられるはずがない。


 送りバントも、敬遠四球も、変化球も、牽制球も、最初はずる扱いされたにちがいない。かくし球やトリックプレーに関しては言うまでもない。

 これずるくないか? とおもわれつつ、でもルールで明確に禁止されてるわけじゃないからしょうがないか、みたいな感じでしぶしぶ認められたプレーだ。

 野球だけではない。

 サッカーのヘディングだって、バレーボールの時間差攻撃だって、柔道の寝技だって、ボクシングのクリンチだって、最初はずるだったとおもう。でも今ではテクニックとして認められている。


 断っておくが、これはぜんぜん悪いことではない。

 ルールから逸脱しないぎりぎりの範囲で、いかに相手の裏をかくか、相手を騙すか、相手の嫌がることをするか、自分だけが利することをするか。これこそがゲームの醍醐味だ。

 たとえばテーブルゲームの世界で「ルールの範囲内で相手をだます」はまったく悪いことじゃない。むしろ見事なプレーだとして褒められる。

 将棋で「歩をさしだしたのは、桂馬を手に入れるためだったのか。だましたな! ずるいぞ!」とか「王将が逃げざるをえないのをいいことに、王手飛車取りをかけるとは、なんて汚いやり方だ!」なんて責められることはない(ちっちゃい子どもは言うが)。うまく相手をだます人が一流のプレイヤーだ。

 

 テーブルゲームでもスポーツでも、対人ゲームのおもしろさは「相手をいかにうまくだますか」にある。だからだますことはぜんぜん悪くない。ずるくない。

 じゃあスポーツの何がずるいかというと、だましたりしませんみたいな顔をするところだ。

 正々堂々、正面からぶつかります。

 フェアプレーを学ぶことは青少年の健全な発達につながります。

 こういうことを言うところが、ずるい。

 掃除の時間にふざけるやつは、悪いけどずるくはない。先生が見にきたときだけ、ぼくずっとまじめに掃除やってましたよみたいな顔をするやつはずるい。

 スポーツ界がやっているのはまさにそれだ。相手によって「悪い顔」と「いい顔」を使い分けている。これがずるい。

 そんなに正々堂々やりたいなら「右四つからの寄り切りを狙います!」と宣言してから立ちあいなさいよ。「内角低め、カーブ」と宣言してからその通りに投げなさいよ。


 正々堂々やっていると言っていいのは、陸上競技ぐらいのものだろう。四百メートル走も走り高跳びも砲丸投げも十種競技も、相手をあざむくことはない。己の記録を伸ばすことだけが勝利に近づく。そこに「いかに相手をだますか」という視点はまるでない。

 だからほら、陸上競技って見ていてつまらないでしょ?



2023年4月12日水曜日

【読書感想文】有馬 晋作『暴走するポピュリズム 日本と世界の政治危機』 / で、結局ポピュリズムの何が悪いの?

暴走するポピュリズム

日本と世界の政治危機

有馬 晋作

内容(e-honより)
世界的に長い歴史と波を持つ運動であるポピュリズムは、いかにして日本に現れたのか。世界のポピュリズムの流れとの比較から、一九九〇年代の「改革派首長」(橋本大二郎、北川正恭、田中康夫ら)や小泉改革などに現代日本のポピュリズムの淵源を求め、「橋下劇場」「小池劇場」と呼ばれる「劇場型政治家」が地方政治に現れた政治力学を分析。今後日本でも国政レベルでポピュリズム政党が台頭する可能性があるのか、そうなった場合の危険性や対処法をリベラル・デモクラシー擁護の観点から幅広く論じる。


 ポピュリズム。そのまま訳せば大衆主義などになるのだろうが、日本では批判的なニュアンスを込めて大衆迎合主義や衆愚政治のように使われることが多い。

 この言葉を知ったときからぼくがずっとおもっているのは、「ポピュリズムって悪いことなの?」ということ。

 政治って大衆のためにやるものでしょ? 大衆に迎合するのが悪いことなの? そりゃあ大衆が誤ることは多々あるし、大衆に従った結果マイノリティが著しい不利益を被ることもある。でもそんなのはポピュリズムに限った話ではない。一部のエリートによる寡頭政治にも同じ問題はついてまわる。

 同じように誤るのなら、一部の権力者が誤るよりも大衆が誤った道に進むほうがまだマシなんじゃないかとおもうんだけど。




 ということで「ポピュリズムの何が悪いのかわからない」というぼくの疑問に答えてくれるんじゃないかとおもって『暴走するポピュリズム』を手に取ってみたのだが、結論から言うと答えは見当たらなかった。

 著者がポピュリズムを嫌いなことだけはよくわかったけど。


 たとえば、ポピュリズムが独裁を招くことがある、って書いてあるけど、独裁につながるのはポピュリズムだけじゃないよね。毛沢東とかスターリンとかプーチンはべつにポピュリストじゃないよね。

 だったら、独裁になるかどうかはポピュリズムとは別の問題だとおもうんだよ。

 それに、独裁による政治の暴走が起こるのなら、それはポピュリズムによるものではなく、そもそも憲法や司法によってそれを防止するシステムが機能してないからなんじゃないの?


「維新や希望の党はれいわ新撰組はポピュリズム政党」って決めつけて議論してるんだけど、そもそもポピュリズムの定義がはっきりしない。権力者への攻撃、一部の敵をつくって立ち向かう自分たちを演出なんてどの党もやってることだし。自民党だって下野してたときは庶民の味方のふりをして政権非難してたけどあれもポピュリズム?

 逆に「こういうのはポピュリズムじゃない」という定義をしてほしいんだけど、そのへんの説明は一切ない。

 結局、著者が気に入らない新しい政党はポピュリズム政党、昔からある党はポピュリズムじゃない、って分け方に感じられちゃうんだよね。


 それに、たしかに橋下徹なんて政界進出当初はポピュリストといってもよかったけど(自分でも認めてたし)、それから十年以上たった維新の会をポピュリズム政党と片付けてしまうのはちょっと乱暴な気がする。

 ぼくは大阪市民なので、維新が大阪にどれだけ根付いているかは肌身に感じて知っている(ぼくは支持しないけど)。市長も府知事も市議会も府議会も維新の議員だらけで、いいわるいは別にして、誰がどう見たって大阪では大衆側ではなく権力者側だ。十年以上市政や府政のトップの座にいて、二回も住民投票で反対された都構想をいまだ掲げている党が大衆迎合主義? その認識は現実とずれすぎてない?




 日本においてポピュリズムという言葉がさかんに使われるようになったのは、小泉純一郎の「小泉劇場」の頃からだと著者は指摘する。

 小泉劇場のポピュリズムを分析したものとしては、すでに紹介した大嶽秀夫が有名である。小泉は、金融機関の不良債権処理や公共事業の削減、「構造改革」に伴う倒産や失業などの「痛み」を、国民に甘受してもらわなければと訴えたが、それを「大衆迎合」のポピュリズムでなく、既得権益・抵抗勢力と闘うという「劇的」なものにして実現したといえる。すなわち、小泉のポピュリズム政治の特徴は、「善玉悪玉二元論」を基礎に、政治家や官僚を政治・行政から「甘い汁」を吸う「悪玉」として、自らを一般国民を代表する「善玉」として描き、勧善懲悪的ドラマとして演出するもので、政治を利害の対立調整の過程としてイメージしていないことである。

 この考えは今も生きているよね。

 ぼくが政治に興味を持ちはじめたのはちょうど小泉純一郎氏が自民党総裁選に出馬した頃だったので(そのときの総裁選では小渕恵三氏が勝った。「凡人・軍人・変人」のときね)、それ以前の政治がどんな雰囲気だったかは知らない。

 でも、とにかく今は政治を「敵を負かすもの」ととらえている人が多いように感じる。本来は「利害の調整を図る」ものであって、その根底には「意見の異なる者も認めて尊重する」ことが必要だとおもうが、そんなふうに考えている人は今では少数派なんじゃなかろうか。

 わが党の中にはいろんな考え方があり、他の党にも我々と異なる立場や思想がある。それらすべてを尊重して調整を図るのが私たちの仕事です。……なんて考え方をしている国会議員が今どれだけいるだろうか? 「敵をつくって分断をあおるのがポピュリズムだ」なんて定義をしたら、すべての政党がポピュリズム政党になっちゃうんじゃない?




 日本でもポピュリズム政党が政権奪取に近づいたことがあった。

 2017年に希望の党が結党されたときだ。自公政権の支持率が低下し、都議会で躍進していた都民ファーストの会が国政進出するのために希望の党が結成された。野党第一党であった民進党が希望の党への合流を決め、一躍最大野党となり、直後の衆院選の結果次第では結党わずか数ヶ月で政権奪取もあるのではないか……というムードが漂っていた。

 当時の希望の党には国政の実績はまるでなく、ビジョンだってほとんどなかった(あったのかもしれないが国民のほとんどは理解していなかった)。それでも希望の党はまちがいなく衆院選での大勝利に近づいていた。あれはまちがいなくポピュリズムといっていいだろう。


 が、民進党との合流を発表した直後の記者会見で小池代表が「(安全保障への考えや憲法観が異なる議員は)排除いたします」と述べたことで雰囲気は一転。民進党議員からも国民からも反発を招き、合流を拒否した議員たちによる立憲民主党結成があり、衆院選でも希望の党は政権奪取どころか立憲民主党の議席をも下回ることとなった。

 実は、中道左派の政党は、世界的に見ても混迷の状況である。その理由は、グローバル化が先進国に思ったほどの果実を与えず分配のためのパイが十分増えなかったからともいえる。つまり、グローバル化の進展によって再分配政策を十分展開できず、中間層の所得が伸び悩んでいる。また先進諸国では中道左派と中道右派の政党の政策が近づき、その差がなくなっている。日本でも安倍政権が、同一労働同一賃金など左派のお株を奪うような政策を実施しようとしている。しかし、日本の中道左派と中道右派の支持者の中には、既成政治への不信感をベースに長期政権を望ましく思わず非自民に期待する人々もいる。もともと保守で非自民に立つ小池率いる「希望の党」は、その受け皿になる可能性が十分あった。しかし、ポピュリズム的要素が強いだけに、「排除」という言葉によって一気に失速してしまった。そして、その結果、野党では分裂が一気に進んでしまったといえる。
 以上のことをみると、今回の「希望の党」の動きは、ポピュリズム戦略としては、あり得る動きといえ、もし成功していれば日本政治の歴史に残ったであろう。ただ、「排除」という言葉ひとつで情勢が大きく変わるのは、無党派層の風向き次第で勢いに差がつくポピュリズム故の結果だったといえよう。

 ほんとに「排除」の一言で政局がころっと変わってしまった。あの一言がなければその後の日本政治はまったく別のものになっていたんじゃないだろうか。

 あの発言は「たった一言で歴史を動かした」ランキングの中でも相当上位にくるんじゃないだろうか。


 今は自公政権が過半数の議席をとっているが、その支持基盤は盤石なものではない。国民の多くは不満を抱えている。その不満の受け皿となる党がないだけで。

 だから、今後も大衆のハートをうまくつかむ政党が現れたら、あっという間に政権交代を成し遂げてしまうかもしれない。少なくとも、既存政党が少しずつ議席を増やしていって……という展開よりは、新党が一気にまくるシナリオのほうがずっとありそうではある。




 読めば読むほど、ポピュリズムが悪いというよりは、ポピュリズムによって引き起こされるかもしれない出来事(三権分立の破壊とか少数派の弾圧とか民主主義の形骸化とか)が悪いだけで、ポピュリズム自体はべつに悪くないんじゃないかとおもう。

 そして立憲主義さえ担保できていれば、ポピュリズム政党がどれだけ議席を獲得しようと独裁につながることはない。

 逆にいえば、憲法、司法、報道に手を入れようとする為政者は徹底的に排除しなくてはならないということだ。そこを自分たちの都合のよいように変えようとしてるのって、今のところはポピュリズム政党じゃなくて歴史あるあの党だとおもうけど。


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2023年4月11日火曜日

「夢がない」

「夢がない」について。

 じっさいに耳にしたことはあまりない。多く使われるのはマンガだろうか。ぼくが知ったのは『ドラえもん』だったとおもう。

「宇宙人なんているわけないだろ!」
「夢がないなあ」

みたいな使われ方をする(この後、のび太がドラえもんに頼んで宇宙人をさがす道具を出してもらうことになる)。


 あれはなんで「夢がない」なんだろう。

 正確に言うと、なぜ〝宇宙人やツチノコや雪男や超能力の存在を信じている側〟は「夢がある」で、〝存在を信じていない側〟が「夢がない」になるのか。

 たとえば、誰も成し遂げたことがないこと(宇宙人を発見するとか)を実現させたいと願うのは「夢がある」と言っていいだろう。

 のび太が、宇宙人発見者第一号になりたいと願い、そのために宇宙飛行士を目指すならば「夢がある」と言っていい。

 でも「いるんじゃないかな。何の根拠もないけど、いたほうがおもしろいし。といって見つけるための努力なんかしないけど」というのは「夢がある」とは言わない。それは「夢見がち」だ。

 逆に出木杉くんが「宇宙人はぜったいにいない。一生懸命勉強して宇宙物理学や生物学について研究し、宇宙人がいないことを証明する理論をぼくが見つけるんだ!」と心に誓ったなら、それは立派な夢だ。「夢がある」だ。

 だいたい、宇宙人がいることを証明するより、いないことを証明するほうがずっとむずかしい。フェルマーの最終定理や四色問題など、数学の超難問とされるのはたいてい「ないことを証明せよ」だ。


 だから「夢がない」というのは、何も未発見のものの存在を無条件に信じるとかじゃなくて、仮説に向かって自分がどう取り組むか、で決まるんじゃないでしょうか。藤子・F・不二雄先生。



2023年4月10日月曜日

【映画感想】『映画ドラえもん のび太と空の理想郷(ユートピア)』

『映画ドラえもん
のび太と空の理想郷(ユートピア)』

内容(映画.comより)
国民的アニメ「ドラえもん」の長編映画42作目。「リーガルハイ」「コンフィデンスマンJP」シリーズなど数々のヒット作や、2023年放送の大河ドラマ「どうする家康」などで知られる人気脚本家の古沢良太が、映画「ドラえもん」の脚本を初めて手がけた。空に浮かぶ理想郷を舞台に、ドラえもんとのび太たちが繰り広げる冒険を描く。
空に浮かぶ謎の三日月型の島を見つけたのび太は、ドラえもんたちと一緒にひみつ道具の飛行船「タイムツェッペリン」で、その島を目指して旅立つ。やがてたどり着いたその場所は、誰もがパーフェクトになれる夢のような楽園「パラダピア」だった。ドラえもんとのび太たちは、そこで何もかも完璧なパーフェクトネコ型ロボットのソーニャと出会い、仲良くなる。しかし、その夢のような楽園には、大きな秘密が隠されていた。

 九歳の娘といっしょに映画館で鑑賞。

 古沢良太氏脚本ということで期待して観にいった。『リーガルハイ』『コンフィデンスマンJP』もすばらしかったからね(しかし今年の大河『どうする家康』もやってて、仕事しすぎじゃないすかね)。

 期待通り、どころか期待を上回るすばらしい出来だった。ドラえもんの映画はだいたい観てるけど(主にテレビやAmazonプライムでだけど)、その中でも個人的ナンバーワンかもしれない。


(一部ネタバレあり)


グレート・マンネリズム

 ちょっと前に「ドラえもんの映画はだいたい同じ展開でワンパターンだ」っていう批判的な記事を読んだんだけどさ。

 わかってないなー! だいたい同じでいいんだよ。ドラえもんの映画のメインターゲットは何十年も映画を観つづけている大人じゃなくて(ぼくもそうだけど)、数年たったら劇場から足が遠のく子どもなんだから。わくわくする新しい世界を見せてくれて、異世界の住人との間に友情が芽生えて、敵が現れて窮地に立たされて、知恵と勇気と友情で強大な敵に立ち向かって、敵を倒して平和を取り戻してのび太たちは日常に戻る……でいいんだよ。むしろある程度はお約束通りに進むからこそいい。グレート・マンネリズムというやつだ。

 大枠が決まっているからこそ、「どんなきっかけで冒険をスタートさせるのか」「どんな新しい世界を見せてくれるのか」「理想的とおもえたその世界にどんな不都合が起こるのか」「どうやって敵の強大さを見せつけるのか」「その敵に各人がどう個性を活かしながら立ち向かい、どんな戦いをするのか」「どうやって収束させるのか」といった細部の設定で出来不出来が大きく変わる。

 そして、今作『のび太と空の理想郷』は細かい設定がどれも効果的だった。


ほら話

 おもしろいドラえもんの映画にはおもしろいほら話がある。

「いつも霧がかかっていて航空写真を撮れない〝ヘビー・スモーカーズ・フォレスト〟という森がある」「バミューダトライアングルは古代帝国が仕掛けた自動防衛システムだった」「アラビアンナイトは創作だが元になった話は事実だった」なんて、もっともらしいほら話を聞かせてくれる。

『空の理想郷』では、理想郷・パラトピアが時代や空間を超えて移動をくりかえしていることから、世界各地に伝わる空中都市伝説や竜宮城の伝説はパラトピアの目撃談だったのだというほら話が語られる。

 こういうの大好き!


道具をいかに封じるか

 ドラえもんの映画において最も重要なタスクが「ドラえもんの道具の力をいかに封じるか」である。

 ドラえもんの道具はうまく使えばほとんど無敵だ。時間も空間も飛び越えられるので、どんな困難な問題でもあっさり解決させてしまえる。それでは緊張感ある冒険にならない。

 だからほぼすべての映画で、「道具が故障して使えない」「ドラえもんが故障する」「四次元ポケットが失われる」「あえて道具を置いてくる」「道具の使えない世界を用意する」「ドラえもんの道具より優れた道具を敵が持っている」といったギミックをかますことで、道具の力を封じてきた。

 だがドラえもんをドラえもんたらしめているのは未来の道具であるので、封じすぎてもつまらない。

 この「どうやって道具を封じるか」「どこまで封じるか」が映画の成否を決めるといってもいい。

 『のび太と空の理想郷』はちょうどいい塩梅だった。序盤に「どこでもドアが壊れて四次元ごみ袋に入れてリサイクルする」という設定が提示されるが、それ以外の道具はほぼ使用可能。

 ほぼすべての道具が使用可能であるにもかかわらず、敵の策略によって知らぬ間に追い詰められていくドラえもんたち。このシナリオが絶妙だった。

 しかも、この「四次元ごみ袋」が終盤でキーアイテムとなるという周到さ。うーむ、隙が無い。


ほどよい伏線

 ドラえもんに限った話ではないのだが、最近のドラマや映画はどうも「伏線回収」が重視されすぎているきらいがある。

 もちろん伏線は物語をおもしろくしてくれるスパイスではあるが、それはあくまで調味料であってメイン食材にはなりえない。だから「あなたはラストであっと驚く!」「もう一度はじめから見直したくなる!」「映像化不可能と言われたトリックを初映像化!」などの伏線回収をメインに据えた物語はほぼ確実に失敗する。ほら、アレとかアレとかつまらなかったでしょ?

 古沢良太氏の脚本は、いつもうまく視聴者をだましてくれる。あっと驚く仕掛けを用意しているが、それは決してストーリーの中核にはならない。ストーリー自体は水戸黄門のように王道で、その中にほどよい伏線をピリリと効かせているからおもしろいのだ。

『のび太と空の理想郷』では、冒頭の「カナブン」「天気雨」などうまい伏線が用いられているが、観客である小さい子どもには理解できないかもしれない。だが、理解できなくてもちっとも問題ない。気づかなくても物語は十分に楽しめる。気づけばよりおもしろくなる(ところで種明かしの仕方は『コンフィデンスマンJP』っぽいよね)。

「小さい頃はわからなかったけど、数年後に観返してみたらこういうことかと気づく」と、二度楽しむこともできるかもしれない。


強すぎる敵、怖すぎる展開

 いっしょに観ていた娘は二度泣いていた。後で聞くと、「一回は怖くて泣いちゃった。二回目は感動して泣いた」とのこと。それぐらいおそろしい敵だった。

 なにがおそろしいって、すごく賢いのだ。『月面探査機』のようにとにかく物理的に強い敵ではなく、『空の理想郷』の敵は賢すぎておそろしい。のび太たちはほとんど戦う間もなく、知らぬ間に敵の罠にはまってしまう。

「住民みんなが勤勉で優しくてにこにこしているユートピア」が出てきた時点で、ある程度フィクションに触れた大人であれば「ああこれは裏で悪いやつが統制してるやつね」とわかるけど、たぶんほとんどの子どもはわからないだろう。で、ユートピアに見えたものが一枚めくると人間性を奪う管理社会だとわかったところで、途方もない恐怖におそわれるはずだ。

 さらに追い打ちをかけるようにジャイアンとスネ夫としずかの感情が奪われ、ドラえもんが自由を奪われた上に退場させられ、残ったのび太までも感情を支配される。絶体絶命のピンチ。これまでのドラえもん映画の中でも一、二を争うほどのピンチだったかもしれない。これまで「ドラえもんが機能不全」や「五人中四人が捕まる」なんてことはあったが、全員戦意喪失させられるとは。

 そしてピンチの度合いが大きいほど、切り抜けたときのカタルシスも大きい。のび太たちが感情を取り戻して立ち上がる瞬間は大人のぼくでもわくわくしたし、敵との戦闘の後にもさらなるピンチが訪れて最後まで息をつかせない。

 手に汗握る、一級品の活劇映画だった。


出木杉問題

 映画ドラえもんでは恒例となっている「序盤は登場する出木杉が冒険には連れていってもらえない」問題。

 出木杉ファンのぼくは、毎度悔しいおもいをしている。

 今回なんかは連れていってもよかったとおもうけどなあ。出木杉までが感情を支配されてしまったほうが怖さが増したとおもうし。元々いい子だから洗脳されていることに気づきにくいのも、うまく使えばプラスに働いたんじゃないかな。

 ま、前作『のび太の宇宙小戦争 2021』に比べればぜんぜんマシだけど。前回なんか、序盤は出木杉もみんなといっしょに映画をつくってたのに途中で「塾の合宿」という名目で退場させられて、いない間に他のみんなが冒険したどころか映画まで完成しちゃってたからね。ひどすぎる。だいたい出木杉って塾(しかも四年生から合宿するってことは相当な進学塾)に行くキャラじゃないとおもうんだけど。

 今回は「ただ誘われなかっただけ」だからまあいいや。前回は「途中からのけ者にされた」だからかわいそうすぎた。


お約束のあれやこれや

 映画ドラえもんではぜったいにやらなきゃいけない「ぼくはタヌキじゃない!」と「しずかちゃんの入浴シーン」。

 前者はどうでもいいとして、後者に関しては時世を考慮して、入浴シーンがあるものの「鎖骨から上あたりがちらっと映るだけ」である。

 ……やる意味ある?

 元々やる意味ないんだけど。まあ当初はファンサービス的なシーンだったんだろうけど(原作漫画だとけっこう大胆に裸が描かれていたりする)、エロくもなんともなくて、もはや何のためにやっているのかさっぱりわからない。そこまでして入れないといけないシーンなのか? とおもう。

 最初に「グレート・マンネリズム」って書いたけど、これは単に何も考えてないただのマンネリだよね。


メッセージ

 ぼくは「ドラえもん映画にしゃらくさいメッセージはいらない」と考えている。一時、ドラえもんの映画の中で環境保全だとか他の生物との共存だとかを訴えていたが、ああいうのはいらない。大事なのは一におもしろさ、二におもしさ、三、四がなくて五におもしろさ。

 おもしくするために必要であればメッセージがあってもいい。メッセージ性なんてしょせんその程度だ。

『空の理想郷』にもメッセージはある。「完璧な人間なんていない。欠点こそがその人らしさを作っている」といったことだろうか。「桃源郷であるパラトピアの住人と欠点だらけののび太」「パーフェクトネコ型ロボットであるソーニャとポンコツロボットのドラえもん」という対比を示し、後者は欠点があるからこそ愛おしいというメッセージを伝えている。

 これがとってつけたような説教ではなく、ストーリーに深く結びついている。このメッセージが背骨となることで、シナリオが頑強なものになっている。おもしろさのために必要不可欠なメッセージだ。


 そしてこのメッセージってさ、今作だけの話じゃなくて『ドラえもん』すべてに通底するメッセージじゃないかな。

 のび太ってまったくもって成長しないじゃない。話の中で気づきを得たり決心したり反省したりすることはあるけど、次の話ではまた元の怠惰な小学生に戻っている。いつまでたっても成長しない。

 そんなダメなのび太を、ドラえもんは決して見捨てない。バカな子なのに、いやバカな子だからこそ愛する。のび太に対するドラえもんの視点は友情ではなくほとんど母性だ(逆にママはあまりのび太を愛しているように見えない)。

 バカでもダメでもなまけものでも成長しなくても、それでも愛してくれる人がいる。『ドラえもん』で描かれているのはそういう物語だ。

『空の理想郷』は、それを二時間足らずで表現した映画だった。藤子・F・不二雄先生の遺志が今の脚本家や監督にもきちんと受け継がれていることを感じて、ぼくはうれしくなった。


【関連記事】

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【映画感想】『のび太の月面探査記』

出木杉の苦悩

2023年4月7日金曜日

ツイートまとめ 2023年1月



なぞなぞ

美麗

優良

高級布団

喫煙

神経衰弱

共食い

自然食品

唯一解

人間性

横顔だけ有名人

ひのえうま

2023年4月6日木曜日

ズッコケ三人組シリーズを全部読んでの感想

 那須正幹さんの『ズッコケ三人組』シリーズを全巻読んだ(『中年三人組』除く)。

 26作目までは小学生のときに読み、27作目からは大人になってはじめて読んだ。

 その上で、自分なりに全作をランク付けしてみた。


■S(児童文学史に残る大傑作)

  4. あやうしズッコケ探検隊
 11. 花のズッコケ児童会長
 13. うわさのズッコケ株式会社


 やはりこの三作は別格。『探検隊』は『ロビンソン・クルーソー』や『十五少年漂流記』と肩を並べる(どころか上回る)サバイバルものの白眉だし、『児童会長』は正義のあぶなっかしさについて教えてくれる、那須正幹氏らしい名作。そして『株式会社』は経営学の教科書としてもすばらしい。もちろんどれも物語自体がパワフルでおもしろい。

 子ども時代に読んでおもしろかったという思い出補正もあるが、大人になっても十分読める。

 おもしろい作品に共通しているのは、三人組が主体的に行動を起こすこと、努力や知恵で状況を打開するが最後はズッコケること。やっぱり最後にズッコケてこそのズッコケ三人組。


■A(おもしろい!)

  1. それいけズッコケ三人組
  3. ズッコケ㊙大作戦
  7. とびだせズッコケ事件記者
 10. ズッコケ山賊修業中
 17. ズッコケ文化祭事件
 19. ズッコケ三人組の推理教室
 20. 大当たりズッコケ占い百科
 22. ズッコケTV本番中
 36. ズッコケ三人組のダイエット講座
 42. ズッコケ家出大旅行
 44. ズッコケ怪盗X最後の戦い


『㊙大作戦』『山賊修行中』『事件記者』『TV本番中』あたりは子どもの頃は「そこそこ」の印象だったのだが、大人になってから読むと当時よりもおもしろく感じる。

『事件記者』は、派手さこそないものの三人のキャラクターの活かし方や起承転結のうまさは随一といっていいかもしれない。『TV本番中』も、少年の喧嘩を繊細に描いた秀作。

 人間の心の暗部を描いた『㊙大作戦』『ダイエット講座』『占い百科』、カルト団体を描いた『山賊修業中』、ホームレスの生活に飛びこむ『家出大旅行』など意欲的な作品は、賛否わかれるだろうが個人的にはけっこう好きだ(娘は『占い百科』や『山賊修行中』は怖いから好きじゃないと言っていた)。

 ただ少年が元気に活躍するだけじゃない、嫌なところや醜いものをしっかり描いているのも初期ズッコケシリーズの魅力よね。お化けや幽霊が出てくる怪談じゃなくて、人間の怖さを書いた児童文学ってあんまりないもんね。わかりやすく悪い人じゃなくて、思想や価値観が大きく違う人の怖さ。


■B(まずまず楽しめる)

  2. ぼくらはズッコケ探偵団
  6. ズッコケ時間漂流記
  8. こちらズッコケ探偵事務所
 12. ズッコケ宇宙大旅行
 15. ズッコケ結婚相談所
 16. 謎のズッコケ海賊島
 21. ズッコケ山岳救助隊
 23. ズッコケ妖怪大図鑑
 25. ズッコケ三人組の未来報告
 26. ズッコケ三人組対怪盗X
 27. ズッコケ三人組の大運動会
 28. 参上!ズッコケ忍者軍団
 31. ズッコケ発明狂時代
 33. ズッコケ三人組の神様体験
 37. ズッコケ脅威の大震災
 40. ズッコケ三人組のバック・トゥ・ザ・フューチャー
 41. 緊急入院!ズッコケ病院大事件
 45. ズッコケ情報公開㊙ファイル
 46. ズッコケ三人組の地底王国

 このあたりは、児童文学としては悪くないんだけど、ズッコケならでは、という感じがしない作品が多い。よくある冒険もの、という感じで。とはいえ登場人物たちが生き生きと動いているので十分おもしろい。


■C(ズッコケシリーズとしてはハズレ)

  5. ズッコケ心霊学入門
 14. ズッコケ恐怖体験
 24. 夢のズッコケ修学旅行
 30. ズッコケ三人組と学校の怪談
 32. ズッコケ愛の動物記
 35. ズッコケ三人組ハワイに行く
 38. ズッコケ怪盗Xの再挑戦
 39. ズッコケ海底大陸の秘密

 読みどころはあるものの、全体として見ると単調だったり話運びに無理のある作品。

 あと個人的に心霊ものが好きじゃないんだよね。怖いとおもえないから。「心霊学入門」や「恐怖体験」は単なる怪談じゃなくて蘊蓄や歴史の要素を盛り込んだりしている点は良かったけど。


■D(つまらない)

  9. ズッコケ財宝調査隊
 18. 驚異のズッコケ大時震
 29. ズッコケ三人組のミステリーツアー
 34. ズッコケ三人組と死神人形
 43. ズッコケ芸能界情報
 47. ズッコケ魔の異郷伝説
 48. ズッコケ怪奇館 幽霊の正体
 49. ズッコケ愛のプレゼント計画
 50. ズッコケ三人組の卒業式

 特に見どころのない作品。流行りに乗っかって書かれたであろうものが多い。ラスト四作がここに並んでいるのが切ない。



 こうして見ると、ズッコケシリーズが輝いていたのは20作目ぐらいまで、徐々にパワーダウンしてそれでも30作目ぐらいまでは十分におもしろい作品も多かった。

 30~40作目ぐらいはそのとき話題になったものを取り入れている(怪談、推理もの、震災など)のがかえって痛々しい。時代についていこうと必死になって、けれどついていけなかったんだろうな。パソコンが出てきたりするが「がんばって調べて書きました」という感じがする。当然ながらおもしろさにつながっていない。

 40巻ぐらいからは、世間の流行りに迎合せずに独自路線を進む兆しがみえはじめる。伝染病、ホームレス、情報公開、新興宗教など、ユニークなテーマを取り入れだす。が、大人にとってはわりとおもしろいテーマでも、やはり子どもにはウケない。最後のほうは「これは作者自身も楽しんで書いてないだろうな」とおもえる作品が多かった。


 ぼくにとっては、前半(26作まで)は小学生時代に読んだものの再読で、残りの24作は大人になってはじめて読んだ。ちょうどそのへんで小学校を卒業して児童文学を読む年齢じゃなくなったんだよね。

 今にしておもうと、半分ぐらいまででやめといてよかったのかもしれない。そのへんでやめたからこそ「おもしろかった児童文学シリーズ」として美しい思い出になっていたのだ。あのまま読み続けていたらその印象もずいぶん違ったものになっていただろう。

 人に勧めるとしたら20作目ぐらいまでかなあ。


【関連記事】

【読書感想文】『それいけズッコケ三人組』『ぼくらはズッコケ探偵団』『ズッコケ㊙大作戦』


2023年4月5日水曜日

【読書感想文】笹沢 左保『人喰い』 / タイトルだけが期待はずれ。

人喰い

笹沢 左保

内容(e-honより)
熾烈な労働争議が続く「本多銃砲火薬店」の工場に勤務する、花城佐紀子の姉・由記子が、遺書を残して失踪した。社長の一人息子の本多昭一と心中するという。失踪から二日後、昭一の遺体は発見されたが、由記子の行方はわからない。殺人犯として指名手配を受けた姉を追い、由記子の同僚でもある恋人の豊島とともに佐紀子は必死の捜索を続けるが、工場でさらなる事件が起こる。第14回日本推理作家協会賞を受賞した傑作長編ミステリー。


 さほど古い本ではないのに、内容や文体が妙に古い。奥付を見ると、2008年刊。あれ? それにしちゃあ登場人物の考えや行動が古すぎるぞ? 銃砲店とか労働組合とか、あらゆる小道具が現代的じゃない。

 調べてみると、1960年刊行の本の復刊だった。あー、どうりで。




 1960年というと、今から60年以上昔かー。うわー、古典だなー。

 60年って長いよね。明治維新から昭和のはじまりまでがおよそ60年。ちょんまげ結ったお侍さんが歩いてた時代から、洋服着て映画館行って洋食食べる時代になるぐらいのスパンだ。とんでもなく長い。

 でありながら『人喰い』は今読んでもちゃんとおもしろい。使われているトリックも、推理の道筋も、ほとんど現代でも有効なものばかりだ。今だと無理があるのは「ライターがあるのにマッチを使うはずがない!」という推理ぐらいかな。

 まあ交際を反対された男女が心中するとか、会社と第一組合と第二組合が三つ巴でいがみあっているとかは今の感覚では理解しがたいけど。でもそれはそれで当時の人々の人生観をうかがい知れるものとしておもしろい。




 意外性のあるトリック、ほどよく意外な真犯人、論理的な謎解き、丁寧な心中描写など上質な本格ミステリ。まあトリックはかなり無理があるというか「いくら疑われないためとはいえそこまでやらんだろ……」という感じではあるのだが。また、かなり難しい連続した犯行をほぼノーミスでやり遂げているところも都合がよい気はするが、まあそれは小説なのでしかたがない。

 いちばん引っかかったのは、タイトル『人喰い』。一応最後でタイトルの意味が明かされるけど、あまりピンとこない。もっと猟奇的なストーリーを想像しただけに、肩透かしを食らった気分。『人喰い』だけに人を食ったようながっかりタイトルだった。


 ところどころ穴は目立つが、総じていえばちゃんとおもしろいミステリでした。60年以上前の小説ってことで期待せずに読んだのだけど、いい意味で裏切られた。


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2023年4月3日月曜日

【読書感想文】『ズッコケ愛のプレゼント計画』『ズッコケ三人組の卒業式』

   中年にとってはなつかしいズッコケ三人組シリーズを今さら読んだ感想を書くシリーズ第十七弾。

 今回は49・50作目の感想。ついにこれでおしまい!


『ズッコケ愛のプレゼント計画』(2004年)

 バレンタインデーが近づき、今年こそは女子からたくさんチョコレートをもらいたいともくろむハチベエ。そんな折、ケーキ屋がチョコレート作りの講習会とコンテストをやるので審査員をハチベエにお願いしたいと依頼する。意気揚々と審査員を引き受けたハチベエだったが、おもわぬハプニングが……。


 五十作のズッコケシリーズの中で恋愛をテーマにした作品は意外にも少なく、『ズッコケ㊙大作戦』ぐらいしかない(『結婚相談所』は恋愛というより家族の話だし、『修学旅行』などでもエッセンス的に使われているけどメインテーマではない)。『㊙大作戦』がすばらしい作品だったので、あれを超えるものはもう書けないとおもったのかもしれない。

『愛のプレゼント計画』はひさしぶりに恋愛がテーマかとおもいきや、タイトルに反して恋愛要素は皆無。ハチベエの頭にあるのは「モテたい」「女の子たちからチョコレートをもらいたい」という欲望だけで、特定の異性と交際したいなんて発想はまるでない。六年生にしては幼稚すぎないか? 子どもは子どもらしくあるべし、性愛に興味を持つなんてとんでもない、みたいなお行儀のよい思想に立ち向かっていたのが初期のズッコケシリーズの魅力だったのに、『愛のプレゼント計画』でのハチベエたちはすっかり「大人が理想とする子ども」になってしまっている。なっさけない。今にはじまったことではなく、三十作目ぐらいからはずっとそうだけど。

 この作品に関しては、三人組が「大人が理想とする子ども」になっているだけでなく、女子たちが「男子が理想とする少女」になっていて、二重にしょうもない。かわいくて、頭からっぽで自我なんてなくて、男の子に優しいというエロ漫画に出てくる少女そのものだ。ただただ都合がいいだけの存在。

 その子たちが、わけもなくハチベエをちやほやする。ハチベエがいいところを見せることもなく、裏に少女たちのたくらみがあるということもない。ただただわけもなくハチベエに好意を寄せる。人間らしさというものがまるでない。

『結婚相談所』でハチベエにひどいいたずらをしかけたり、『占い百科』で嫉妬からクラスメイトに嫌がらせをしかけたりしていた少女たちのほうがずっと魅力的だったぜ。

 中盤以降は少女たちの出番は減り、講習会で出会ったお金持ちのおばあさんが実は認知症で……と話がシフトしてゆく(この頃は認知症という呼び名は一般的でなかったので痴呆と呼んでいる)。なんだそりゃ。いや、べつに認知症をテーマにしたっていいんだけど、なぜバレンタインデーと認知症なんだ。ものすごく相性の悪い取り合わせ。

 ほとんど見どころのない作品だった。


『ズッコケ三人組の卒業式』(2004年)

 卒業を前に、クラスみんなで埋めるタイムカプセルとは別に、三人だけのタイムカプセルを校内に埋めることにしたハチベエ・ハカセ・モーちゃん。穴を掘っていると先人の埋めたタイムカプセルが見つかり、中には古い演歌のCDが。だがそのCDをハチベエが持ち出したことで思わぬ事態が発生し……。


 二十六年続いたズッコケシリーズもこれにて完結。

 序盤には「二十六年ぐらい小学生をやっていたような気がする」「六年生の夏休みが何度もあったように感じる」なんてメタなギャグを入れたり、過去作品に言及したりとちょっとしたファンサービスが準備されてはいるが、基本的にはいつものズッコケシリーズ。最終巻だからといって特にいつもと変わらない。

 ここまで五十作読んできた人間からすると、もうちょっと最終巻らしい内容でもよかったなーとおもう。過去の冒険をふりかえるとか、なつかしい人(マコとか若林先生とか浩介とか)が再登場するとか。

 一応「六年生たちの卒業にあわせて宅和先生が教師をやめる」というストーリーが今作中で語られるけど、それどうでもよくない? だって六年生からしたら、卒業したらどうせ会わなくなるわけでしょ。だったら教師を続けようがやめようが教育委員会に行こうが、どうでもいいじゃない。作者自身の姿を宅和先生に重ねたかったんだろうけど、どうでもいいことにページを割いてるなあという印象(それにしても、この頃は六十手前で仕事をやめてのんびり余生を過ごせた時代だったんだねえ)。

 どうでもいいといえば、「卒業式は国歌斉唱は君が代だけでなく、いろんなルーツを持つ生徒たちを尊重して諸外国の国歌も歌う」という作者の政治的なメッセージがしつこく語られること。主張自体には反対しないけど、それをむりやり作品の中にねじこむなよ……。


 あと気になったのは、三人組の性格がいつもとちがう。それも悪いほうに。これは最終巻だからなのか?

 くだらないことで喧嘩をするし(ハチベエはともかくモーちゃんがこんな些細なことでいらつくのは過去にない)、トラブルが起こったときに自分たちだけで解決しようとするんじゃなくて校長先生に相談するし、これまで読者を楽しませてくれた三人組がどこかにいってしまったよう。卒業って「もうおれたち仲良く冒険するような歳じゃないぜ」ってこと? そんな卒業のしかたはひどすぎる。

 最後でハチベエが誘拐されるという事件が起きるが、犯人の「何の準備もなくおもいつきで誘拐して身代金を要求する」という場当たり犯行が愚かすぎる。犯人との知恵比べにもならない。当然ながらすぐ警察に捕まって三人組が活躍する間もない。


 宅和先生が教師をやめる際に「今の時代の教師にふさわしくなくなった」という台詞を吐く。これはたぶん作者の心情そのものだろう。じっさいその通り。時代がどうこうというより、作者が子どもから遠ざかりすぎたんだとおもう。


 ということで、ズッコケシリーズ(小学生篇)をすべて読了!

 シリーズすべてのふりかえりはまた今度別記事で書きます。


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