2019年1月27日日曜日

トイレに間に合わなかったときの辞世の句

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誰しも辞世の句を詠みたいと考えているけど、なかなかむずかしい。

人はいつ死ぬかわからないし、どんな死に方をするかわからない。
「暴漢に刺されて徐々に遠のいてゆく意識の中で一句」みたいなのが辞世の句を詠むシチュエーションとしては理想だけど、こんな死に方はむずかしい。

死ぬ間際だったらうまくしゃべれないだろうし、頭もはたらかない。
そもそも転落死や溺死や轢死だったら句を詠む時間すらないだろう(転落死ならぎりぎり時間はあるかもしれないけどたぶん誰も聞いてくれない)。

だからぼくらが辞世の句を詠むとしたら、それは「トイレに間に合わなかったとき」をおいて他にない。



便意を催したのにトイレに間に合わないというのは、社会的な死といってもいいぐらいの出来事だ。

おまけに死はいつどんな形で訪れるかわからないが、「トイレに間に合わない」は数十分前には予感として持っているし、間に合わなかったときに起こる悲劇もだいたい同じだ。

辞世の句を詠むのにふさわしいシチュエーションといっていいだろう。

だが、トイレをさがして焦っているときは、辞世の句を考えている余裕などない。
だから平常時から考えておかねばならない。



正直にいってしまうと、辞世の句の内容はなんでもいい。
どんな言葉であろうと絶望的な表情を浮かべながら悲しく口にすれば様になる。

むずかしく考える必要はない。
シンプルに「すまない……」とか「ありがとう……」というだけでも十分辞世の句だ。
マンガの台詞を使って「燃え尽きたぜ……真っ白にな……」とか「きれいな顔してんだろ」なんてのもなかなかいい。
さわやかに微笑んで「悪くない人生だったぜ……」というのも美しい。トイレに間に合わなかったということを一瞬忘れさせてくれる。

やはりシンプルなのがいちばんいい。
あまり凝った俳句調のものだと、「こいつ前々から考えてたな」と思われてかえって白々しくなる。おまけに「そんなの考える暇があるなら早めにトイレに行っておけよ」と思われて同情してもらえない。
「板垣死すとも自由は死せず」なんてちょっとかっこつけすぎだもんね。板垣は刺されたとき死んでないし。

ちなみにトイレに間に合わなかったときにもっともふさわしいとぼくが思うのは、ベートーヴェンの最期の言葉である「諸君。喝采を。喜劇は終った」だ。

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