2018年2月26日月曜日

記録を残していたことの記録

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十五歳から二十歳くらいまでの時期、「記録を残す」ことに憑りつかれていた。


毎日日記をつけていた。

買い物をしたら必ずレシートを持ち帰り、ノートに記録していた(集計はしない。ただ記録するだけ)。

常にインスタントカメラを持ち歩いて、何かあるたびに写真を撮った。

読んだ本のタイトルと感想をすべてノートに記録した。

高校で席替えをするたびに、座席表を記録して自宅の机に置いていた。

ノート、手紙、メモなどの類はすべて捨てずに保管していた。

大学生になって初めてアルバイトをして(高校はアルバイト禁止だった)、最初に給料を貯めて買ったものはビデオカメラだった。
型落ちのモデルで十七万円した。もちろんデジタルじゃない。清水の舞台から飛び降りるような買い物だった。今調べてみたら、一万円以下で買えるデジタルビデオカメラがたくさんあって驚いた。



高校生のときの日記を読むと
「9時に起床。10時半に家を出て、××駅で××と待ち合わせ。JR××線に乗って11時40分に××に到着。××で昼食をとり……」
と、気持ち悪いぐらい克明に記録している。刑事が尾行記録を警察手帳に書くときぐらいの細かさだ。

こういう日記を毎日つけていると、常に日記を書くことを想定して行動するようになる。行動の節目節目に時計を見て時刻を確認し、集団で行動するときは人数を数えて日記を書くときに漏れがないように気を付ける。
一日家にいたときなどは「このままだと日記に書くことがないな。ちょっと散歩でもするか」と行動を起こすこともあった。
日記のために行動するのだ。
インスタグラムに写真を載せるために出かける人たちのことを笑えない。というか誰にも見せない日記のために行動するほうがヤバい気がする。

日記は今もつけているが、次第に短くなっていき、今では「仕事の後、子どもとカルタをして遊ぶ」ぐらいの短いものだ。



なぜあんなに記録を残すことに執着していたのだろう。

きっと「何者でもない自分が、何者でもないまま死んでいく」ことに耐えられなかったのだと思う。

功成り名遂げることができなかったらどうしよう。そういう不安を紛らわすために、必死になって生きた痕跡を残そうとしていた。それが日記であり、写真であり、読書の記録だった。

最近はそこまでじゃない。
日記は短いものだし、買い物記録はやめてしまったし、写真を撮ることは減った。
読書感想はブログに書いているが、これは他人に読まれることを想定してのものだ。自分のためだけには書いていない。

何かを成し遂げたわけではない。今でもあっと驚かせるようなことをして世間に名前を轟かせたいという気持ちがないわけではないが、そうでない生きかたもまた良し、と思えるようになった。
娘が生まれたからでもあるし、人間は遺伝子の乗り物にすぎないと知ったためでもある。歳をとるとみんなそうなっていくのかもしれない。


今はあまり記録を残していないけど、昔の記録を見るのはすごく楽しい。

高校生のときの日記とか写真とか最高におもしろい。つくづく残しておいてよかったと思う。

特に座席表はおすすめ。同窓会とかで見せたらめちゃくちゃ盛り上がる。


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