2023年6月28日水曜日

【読書感想文】曽根 圭介『腸詰小僧 曽根圭介短編集』 / 予想通りのどんでん返し

腸詰小僧

曽根圭介短編集

曽根 圭介

内容(e-honより)
社会復帰したシリアルキラー“腸詰小僧”の独占インタビューに成功した西嶋の元を被害者の父が訪れ、本人に会わせろと迫る。一方、警察官をしている弟が浮気相手を妊娠させてしまったと泣きついてきた。追い詰められていく西嶋は…。(表題作)ジコチューな小悪人たちが、あっけらかんと起こす事件。まさかのどんでん返しに舌を巻くミステリー傑作集!


 ミステリ短編集。

 曽根圭介氏らしい、猟奇的、暴力的な題材を扱ったものが多い。


 七篇どれもそこそこのクオリティなのだが、まとめて読むと少々飽きてしまう。似たパターンが多いのだ。

 もう少し具体的にいうと、Aという人物のストーリーとBという人物のストーリーが交互に展開して、AとBをつなぐ一本のストーリーが見えてきた……とおもったら最後にひとひねりあってAとBがまっすぐにつながらない、というパターン。


『解決屋』では、解決屋という名目で殺人を代行する男と、売春宿で働く少年が描かれる。

『天誅』では、父親からの性的虐待に遭っている同級生を救おうとする少年と、性犯罪者を追う刑事が交互に書かれる。

『成敗』では、悪事をはたらく人物に私刑を与える快楽にとりつかれてしまう男と、前妻への復讐のために闇サイトで知り合った人物に前妻の拉致を依頼する男が交代で書かれる。

『母の務め』では、殺人犯として死刑を求刑された息子の減刑を望む母親と、職場の女性を殺してしまい死体処理に悩む男のストーリーが交互に展開。


 もちろん〝ひとひねり〟の手法はそれぞれちがうのだけど、さすがにこれだけ似たパターンが続くと「これはすんなりつながらないな」と展開がある程度読めてしまって辟易してしまう。




 その他『腸詰小僧』『父の手法』『留守番』を含め、どの短篇も読者を裏切るどんでん返しが効いているのだけど、どんでん返しが七回続くとさすがにうんざりする。どうせどんでん返すんでしょ、ほらどんでん返したー! とおもうだけで裏切りでもなんでもない。予想通りのどんでん返し、と言ったところか。

 七篇中一篇か二篇にそういう話があれば「まさかこう来るとは!」と感心したんだろうけどな。


 ところで曽根圭介さんの作品は、初期のころのブラックSFサスペンスみたいなやつが好きだったんだけど、もう書くのやめちゃったのかなあ。

 ミステリに寄っちゃったなあ。この人に限らず、そういう作家は多い。SFやブラックコメディなんかは書くのに体力を使うのかな。そしてミステリのほうが売れるからミステリばかりになってしまうのかもしれない。



【関連記事】

【読書感想文】曽根 圭介『鼻』

【読書感想文】曽根 圭介『藁にもすがる獣たち』

陰惨なのに軽妙/曽根 圭介『熱帯夜』【読書感想】

冤罪は必ず起こる/曽根 圭介『図地反転』【読者感想】



 その他の読書感想文はこちら


2023年6月27日火曜日

眼が大きいんで人よりごみが眼に入りやすくて困るんですよ

 「わたし、眼が大きいんで人よりごみが眼に入りやすくて困るんですよ~」
って言ってる人がいたんだけど、嘘つけ! それはただの「眼が大きい」自慢だろ!


 なぜなら、そいつはたしかに眼が大きいんだけど、そいつは「眼が大きい人間のごみが眼に入りやすさ」しか知らないはずだ。

 眼が小さい人間の人生を送ったことがないんだから、人よりごみが入りやすいかどうかはわからないはずだ!!


 それを言っていいのは、眼を大きくする美容整形手術をしたやつだけだ!



2023年6月26日月曜日

【読書感想文】志村 幸雄『笑う科学 イグ・ノーベル賞 』 / 役に立たない研究の価値

笑う科学 イグ・ノーベル賞

志村 幸雄

内容(e-honより)
「裏ノーベル賞」の異名を持つ「イグ・ノーベル賞」が隠れたブームとなっている。その人気を語る上で欠かせないのが「パロディ性」。「カラオケの発明」がなぜ“平和賞”なのかといえば、「人々が互いに寛容になることを教えた」から。さらに、芳香成分のバニラが牛糞由来と聞けば誰しも目を丸くするだろう。本書はイグ・ノーベル賞で世界をリードする日本人受賞者の取材をもとに、「まず人を笑わせ、そして考えさせる」研究を徹底分析。

 昨年、『イグ・ノーベル賞の世界展』という展覧会に行ってきた。




 イグ・ノーベル賞はノーベル賞へのパロディとして誕生した。「人々を笑わせ、そして考えさせてくれる研究」に贈られる賞だ。

 日本はイグ・ノーベル賞大国で、過去に30回近く日本の研究がイグ・ノーベル賞を受賞している。『ハトを訓練してピカソの絵とモネの絵を区別させることに成功したことに対して』心理学賞が贈られ、『床に置かれたバナナの皮を人間が踏んだときの摩擦の大きさを計測した研究に対して』物理学賞が贈られ、『火災など緊急時に眠っている人を起こすのに適切な空気中のわさびの濃度発見と、これを利用したわさび警報装置の開発』により化学賞が贈られるなどしている。

 その他、さまざまな独創的な研究に対してイグ・ノーベル賞が贈られているが、共通しているのはいずれも「研究した人は大まじめ」ということだ。まじめに変なことを研究している。その姿勢を評価するのがイグ・ノーベル賞である。


「そんなこと何の役に立つの?」「そんなこと勉強したって社会に出たら何の役にも立たないからやめろよ」と言う人がいる。そういう人間が人の役に立つ研究をできたためしがない。役に立たない研究の価値を理解しない人が、役に立つ研究などできるはずがないのだ。

 実際、ほとんどの偉大な発明は偶然から生まれている。エジソンは最初から蓄音機を発明しようと思って学んでいたわけではない。何の役に立つかはわからないけど学ぶことがおもしろいから学んでいたら、たまたま役に立つ発明につながっただけだ。

『ハトを訓練してピカソの絵とモネの絵を区別させる』ことはそれ自体何の役にも立たないだろうが、この研究が別の研究の役に立つ可能性はある。その研究がほかの研究の役に立ち、それを生かした別の研究が世界を変える大発明になるかもしれない。


 イグ・ノーベル賞はノーベル賞のパロディではあるが、科学に対する向き合い方はノーベル賞に負けず劣らず真摯なものだ。アンドレ・ガイムという物理学者は、イグ・ノーベル賞を受賞し、その10年後に本物のノーベル賞を受賞している。

「たまたま役に立ったかか立たなかったか」の結果が異なるだけで、アプローチ自体はノーベル賞もイグ・ノーベル賞も大して変わらないのだ。

 日本の研究力低下はずっと叫ばれているが、日本人がイグ・ノーベル賞を受賞できなくなったときはいよいよ日本もおしまいかもしれない。




 そんなイグ・ノーベル賞について説明した本。

 といっても『イグ・ノーベル賞の世界展』ですでに同賞についての基礎知識は身につけていたので、あんまり新しい情報はなかったな(ま、この本が2009年刊行だしね)。


 知らなかったのは、誰でもイグ・ノーベル賞を申請できること。

 もっとも、ノミネートといっても、ノーベル賞の場合と違って、申請できる人物の資格は「不要」で、誰でも意の向くままに申請が可能である。また、ノーベル賞の場合は他薦だけで決められるが、イグ・ノーベル賞の場合は自薦が認められ、そのため全体に占める自薦の比率は一〇~二〇%に達している。ただし、自薦での受賞事例は二〇〇四年まででたった一件というから、あくまで他薦主導で、それだけ客観的な判断・評価が加味されていると受け止められる。ノミネートの「数」だけでなく、「質」にも配慮がなされているあたりに人気上昇の秘密が潜んでいそうだ。

 へえ。じゃあぼくでも「これはイグ・ノーベル賞に値する!」とおもえば推薦できるんだ。

 自薦でもいいが自薦での受賞はほとんど例がない、というのがおもしろいね。そうだよね。大まじめに研究している人に授賞するからおもしろいんだもんね。

「おれの研究はユーモアがあって独創的だからイグ・ノーベル賞にぴったりだ!」って人の研究はまずまちがいなくつまらないもんね。自薦で受賞にいたった一件が気になるな。


 この本ではイグ・ノーベル賞を受賞した日本人の研究についていくつか紹介しているけど、どっちかっていったら海外の例を紹介してほしかったな。日本の受賞例はすでに有名なものが多いし(たまごっちとかバウリンガルとかカラオケとか)、海外のほうが突飛なものが多いので。


【関連記事】

【読書感想文】偉大なるバカに感謝 / トレヴァー・ノートン『世にも奇妙な人体実験の歴史』

【読書感想文】川の水をすべて凍らせるには / ランドール・マンロー『ハウ・トゥー バカバカしくて役に立たない暮らしの科学』



 その他の読書感想文はこちら


2023年6月14日水曜日

【芸能観賞】ダウ90000第5回公演 『また点滅に戻るだけ』

ダウ90000第5回公演
『また点滅に戻るだけ』

キャスト
劇作・脚本:蓮見 翔
演出:蓮見 翔
出演:園田 祥太
   飯原 僚也
   上原 佑太
   道上 珠妃
   中島 百依子
   忽那 文香
   吉原 怜那
   蓮見 翔

 配信にて視聴。


 すばらしかった。おもしろいというより、すごさに圧倒されたといったほうがいいかもしれない。はじめてラーメンズの公演を観たときにも同じような衝撃を受けた。


 とんでもなくいい舞台だったんだけど、同時にちょっと悔しさというか悲しさも感じて、というのはこれまでクリエイティブの分野で尊敬する人って年上ばっかりだったんだよね。

 ところがぼくよりずっと年下で、それなのにぼくよりずっとずっとずっとおもしろいことを考えて、いいところに目をつけて、それを上手に表現する人が現れた。くそう、くやしいけど、こんなの尊敬するしかない。


 以下、ネタバレ含みます。


2023年6月12日月曜日

【読書感想文】新庄 耕『狭小邸宅』 / 自分は特別な存在

狭小邸宅

新庄 耕

内容(e-honより)
学歴も経験も関係ない。すべての評価はどれだけ家を売ったかだけ。大学を卒業して松尾が入社したのは不動産会社。そこは、きついノルマとプレッシャー、過酷な歩合給、挨拶がわりの暴力が日常の世界だった…。物件案内のアポも取れず、当然家なんかちっとも売れない。ついに上司に「辞めてしまえ」と通告される。松尾の葛藤する姿が共感を呼んだ話題の青春小説。第36回すばる文学賞受賞作。


 わりといい大学を出て、不動産屋の営業として就職した主人公の仕事っぷりを描いた小説。

 入社して間もなく、上司に呼び出された。
「松尾、未公開物件あるから、サンチャの駅前でサンドイッチマンやれ」
 すぐには意味が理解できなかった。まごついている僕を見て、上司は苛立ちを露わにした。
「あそこにある看板背負って、三軒茶屋行って客探してこいって言ってんだよ、大学出てそんなこともわかんねぇのかよ」
 営業フロアの隅に腰の高さほどの看板が二枚、紐で繋がれて立てかけられている。それを見て、サンドイッチマンがどのようなものかわかった。
 新宿や渋谷などの繁華街で大きな看板を前後にぶら下げて宣伝する人を見かけたことはあったが、それがサンドイッチマンと呼ばれることなど知らなかった。ましてや、自分が担うことになるとは思ってもみなかった。
 人混みの中、サンドイッチマン姿で声を張りあげるには勇気を必要とする。道行く全ての人が、自分に無遠慮な視線を向けてくるように感じられた。それでも、しばらくつづけていると、苦にならなくなってくるのは不思議だった。


 主人公が入社したのは、いわゆるブラック企業。パワハラが横行している。暴言どころか暴力もあたりまえのように飛び交う職場。なので従業員はどんどんやめていく。

 令和の今では「こんな会社あるのか」とおもうかもしれないが、ほんの十数年前まではこんなのはめずらしい話じゃなかった。というか今でもこれに近いことをやっている会社あるし(ぼくが知っているのは不動産業界じゃないけど)。

 なんせパワハラなんて言葉もなかった。言葉がなかったということは、それがいけないという認識もなかった。業務に関することであれば上司が部下をどれだけ口汚く罵ってもいい、というのが日本の社会のルールだったんだよ。ほんとに。

 ひどい時代だったなあ。21世紀初頭になっても日本はまだ野蛮な未開国だったんだよ。




 前半は会社のブラックっぷりの描写や不動産業のうんちくが語られるのでわりとよくあるお仕事小説かとおもったら、途中から毛色が変わる。

 まったく契約がとれなくてやめさせられる寸前だった主人公が、契約をとれたことや上司からのアドバイスを機に自信をつけ、売上を伸ばしていく……と書くと順調そうに見えるのだがそうでもない。

 睡眠時間を犠牲にし、酒量が増え、金儲けに邁進し、身につけるものに金をかけ、彼女を疎んじるようになり、周囲の人間をぶつかるようになる。

「仕事はできないけどいい奴」だった主人公が「仕事はできるがいやな奴」に変わってゆくのだ。

 こういう人、ぼくも見てきたなあ。ブラック企業の中で成功しようとおもったら悪いやつになって適応するのが最短距離なんだよね。




 中盤の「嫌な奴になる少し前」の主人公は過去の自分に重なる部分が大きかった。

「いや、お前は思ってる、自分は特別な存在だと思ってる。自分には大きな可能性が残されていて、いつか自分は何者かになるとどこかで思ってる。俺はお前のことが嫌いでも憎いわけでもない、事実を事実として言う。お前は特別でも何でもない、何かを成し遂げることはないし、何者にもならない」
 自分のことを特別だなど思ったことはないし、そのように思いたいとも思わない。そう無理にでも自分自身に言い聞かせることで、激しく動揺する胸奥を鎮めようとした。
「否定するのか、本当に否定できるのか。俺はそれでかまわない。だがな、お前は本当に自分が嘘をついていないと自分自身に言い切れるのか」

 ぼくもこうだった。書店で働いていながら、心のどこかで「ここが自分の本当の居場所じゃない」とおもっていた。そして周囲をうっすらばかにしていた。自分を特別だとおもっていた。まさにぼくだ。

 ま、その後別業界に転職したからじっさい居場所じゃなかったんだけど。


 多かれ少なかれそんなもんだよね。これが自分の天職だ! とおもいながら仕事をしている人なんてほとんどいないだろう。

 でも、ふしぎと歳をとると「本当の居場所がどこかにあるはず」という意識が薄れていくんだよな。なんでだろう。あきらめもあるし、ぼくの場合は家庭を持ったこともあるし。

 大きかったのは、じっさいに何度か転職をしたことかな。転職をしてみたら「どんな仕事をしてもいいこともあれば不満もあるし、嫌ならやめればいい」という心境になれる。

 そしたら「何の仕事をするか」が「今日はどの店で飯を食うか」ぐらいの問題におもえてくる。それはさすがに言いすぎか。


【関連記事】

【読書感想文】地獄の就活小説 / 朝井 リョウ『何者』

【読書感想文】「自分」のことで悩めるのは若者の特権 / 朝井リョウ『何様』



 その他の読書感想文はこちら