2022年4月15日金曜日

【読書感想文】アーサー・C・クラーク『幼年期の終り』 / 天動説的SF小説

幼年期の終り

アーサー・C・クラーク(著)  福島 正実(訳)

内容(「BOOK」データベースより)
ある日突然に宇宙から巨大な船団がやってきた。すべての国の大都市の上空を覆うかのように、その光り輝く宇宙船の群はじっと浮かんでいた。六日目のこと、船団を率いる宇宙人のカレルレン総督は強力な電波を通じて、非のうちどころのない英語で、人類に対し、第一声を発した。その演説にみなぎる、深い叡知と驚くべき知性…。地球人は知った。「人類はもはや孤独ではない」ことを。イギリスが生んだ、SFの巨匠アーサー・C・クラークによる本書は、20世紀を代表するSFの傑作です。上帝(オーバーロード)という超生物種族は、どうして地球に来訪したのか?そしてなぜ、ついに人類の前に意外な姿を現したのか?思いもよらぬエンディングで、地球と人類の未来を描きだし、私たちを驚愕させる、スリリングなSF巨編。

 SF古典作品。発表は1952年。

 宇宙から船団がやってきて、人類を監督するようになる。といっても圧倒的に科学力の高い彼らは地球人に対して強制力をともなうような行動はほとんどとらず、どちらかといえば庇護・教育といったほうが近い接し方をする。
 その結果、地球上からは争いや貧困が消え、同時に科学研究や芸術も進歩を止めてしまう。
 だが人類はそうした生活を受け入れ、数十年にわたり平和で穏やかな生活を享受する。だがあるときその日々は終わりを告げようとする……。


<以下ネタバレあり>


 異星人とのコンタクト、はるかに文明の進んだ生物による人類の精神的支配、宇宙旅行、相対性理論によるウラシマ現象、人類の終焉、新人類の誕生と、SF的要素がこれでもかと詰めこまれている。

 地球全体の変貌について語ったり、かとおもうと個人の葛藤を描いたり、視点はマクロとミクロをいったりきたり。おかげで壮大でありながらスピード感もあり、スリリングな展開を見せる。

 なるほど。名作と呼ばれるだけのことはある。

 が。

 発表当時は衝撃的な作品だったんだろうけど、今読んでも十分おもしろいかというと、首をかしげざるをえない。




 大まかなストーリー展開はいいとして、細部が甘いんだよね。科学力の進んだ宇宙人が来たからってそうはならんだろ、とおもうようなことが随所に見られる。

 たとえば……。

 それ以前のあらゆる時代を標準にしても、現在はまさしくユートピアだった。無知、疾病、貧困、恐怖などは、事実上もう存在しなかった。戦争の思い出は、悪魔が暁とともに消え去るように、過去へと消え失せていった。やがてそれはあらゆる人間の経験の埒外に置かれるようになるだろう。
(中略)人類の精力が建設的な方面へ向けられるとともに、地球は急速に変貌していった。いまでは、地球はほとんど文字どおり一つの新世界であった。幾世代ものあいだ人類に貢献してきた多くの都市が、つぎつぎに再建されるか、さもなければ、価値を失うと同時に放棄され、博物館の標本となっていった。こうした方法で、すでにかなりの都市が廃棄された結果、商工業の機構全体が一変してしまった。生産は大規模に機械化され、無人工場が絶えまなく消費物資を市場に送り出したので、一般の生活必需品は事実上無料になった。人間はただ自分の望む贅沢のために働くか、それともまったく働かないかのいずれかだった。
 世界は単一国家になった。かつての諸国家の古い名称はそのまま使われていたが、それはただ郵政事務上の便宜からにすぎなかった。世界のどこを探しても、英語を話せない者、読み書きのできない者はいなかった。テレビを受像できない地域はなかったし、二十四時間以内に地球の反対側を訪れることのできない者もなかった……。
 犯罪は事実上姿を消した。犯罪そのものが不必要になったからでもあり、不可能になったからでもあった。誰もが満ち足りた生活をしているときに、なぜ盗むことがあろう。しかも、あらゆる潜在的犯罪者は、オーバーロードの監視を逃れる術のないことを知っていた。その統治の初期に、彼らは法と秩序に代わって犯罪に対しすこぶる効果的な干渉を二、三おこなった。そのため、いまでもその教訓が生きているのだった。

 うーん。科学が進めば貧困がなくなるだろうか。人類の歴史を見れば確実に科学は進んで生産性は向上しているけど、貧富の差はぜんぜん縮まっていない。どっちかっていったら広がっているんじゃないだろうか。もちろん絶対的貧困(食うに困るほどの貧困)は減っているわけだけど。

「誰もが満ち足りた生活をしているときに、なぜ盗むことがあろう」も単純すぎる発想だとおもう。監視が強化されれば犯罪は減少するだろうが、どれだけ人々が豊かになったって犯罪がなくなることはないとおもう。

 人間を単純に考えすぎている。古典経済学の考え方なんだよね。「コインの裏が出れば10万円もらえて表が出たら9万円とられるギャンブルがあれば、ぜったいにやる」という発想。人間はもっと不合理な存在なんだよ。

 そしてひどいのが「英語を話せない者、読み書きのできない者はいなかった」。
 はい出たよ、英語ネイティブの傲慢。争いのない世の中になっても「英語が世界を支配する」という考えは捨てられない。骨の髄まで覇権主義が染みついているのかね。

 じっさいの世の中は科学が進み時代が進むにつれてどんどん多様性が認められる社会になっているわけだけど、アーサー・C・クラークはどんどん画一的になるとおもっていたらしい。

『幼年期の終り』には「文明が進んだ時代の設定なのにまだフィルムカメラを使っている」といった描写もあって、このへんはほほえましい未来予測失敗といえるけど、「文明が進めば画一化する」については致命的にずれている。天動説から出発して宇宙を語っているようなものだ。これでは説得力のあるほら話にならない。


 それに気づいたものはほとんどなかった──が、じつは、この宗教の没落は、科学の衰退と時を同じくして起こっていたのだった。世界には無数の技術家がひしめいていたが、人類の知識の最前線を延長すべく創造的な仕事に打ちこもうというものはほとんどなかった。好奇心はまだまだ旺盛だったし、そのための余暇も充分にあったはずなのだが、人々の心は地味な基礎的学術研究からまったく離れていた。オーバーロードがもう幾世代も前に発見してしまっているにちがいない秘密を一生を賭けて求めるなど、どう考えても無益に思えたからだろう。
 この衰退現象は、動物学、植物学、観測天文学といった記述科学の分野のはなはだしい開花によって、ある程度おおい隠されていた。これほど多くのアマチュア科学者たちが、ただたんに自分の楽しみのために競って事実を集めた時代はなかったろう──だが、これらの事実を関連づけようとする理論家は、ほとんどいないといっていいほどだった。
 あらゆる種類の不知や相剋が姿を消したことは、同時に、創造的芸術の事実上の壊滅を意味していた。素人たると玄人たるとを問わず、俳優と名乗るものは世に充満していたが、いっぽう、真に傑出した新しい文学、音楽、絵画、彫刻作品は、ここ二、三十年というものまったく出現していなかった。世界はいまだに、二度と還ることのない過去の栄光の中に生きつづけていたのだ。

 基礎科学が衰退する、というのはわからなくもない。めちゃくちゃ文明の進んだ宇宙人がやってきたら、地道な研究なんかやる気になれないよね。今の時代に「ゼロから電卓を開発してください」って言われるようなもんで、それやって何になるんですかという気持ちにしかなれない。

 しかし、芸術が衰退するというのはどうだろう。労働から解放されて、戦争や貧困や疾病もなくなって、科学研究にも関心がなくなったとしたら、もう芸術ぐらいしかやることないんじゃないの? という気になる。逆にめちゃくちゃ芸術が発展しそうな気がするけどなあ。ルネッサンスが起こった要因のひとつは、東方貿易によってイタリアが豊かになったことだと言われているし。

 この小説に出てくる地球人はほとんどが浅薄なんだよね。個々人にもっと葛藤や当惑があったはずなのに、そのへんがほとんど書かれていない。




 細部は甘いが、大枠のストーリーはおもしろかった。
 人類を管理・監督しているオーバーロード(上帝)よりも上位の存在であるオーバーマインドの概念とか。

 ただ、同時多発的に人類が進化するってのはむちゃくちゃすぎない? それはもう進化じゃなくて遺伝子操作ぐらいしないと起こらないでしょ。

 宇宙人の介入でそれが起こったってのならわかるけど、自然に、たった一代で、世界各地で、同時に、人類がまったく別の種になるってのはありえなさすぎる。いやSFだからありえないことが起こったっていいんだけど、もうちょっとマシな説明はつけられなかったのか。

 中盤まではおもしろかったけど、このあたりで急に醒めちゃったな。SFだからってなんでもありじゃないぜ。




 名作といわれるだけあって着想はすごくいいんだけど、今読むと細部がずいぶん粗いなあという気になる。

 いちばんおもしろかったのは、登場人物たちがコックリさんをやるところ。外国にもコックリさんってあるんだ。


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2022年4月14日木曜日

【読書感想文】朝井 リョウ『少女は卒業しない』/高校の空気が五感を刺激する

少女は卒業しない

朝井 リョウ

内容(e-honより)
今日、わたしは「さよなら」をする。図書館の優しい先生と、退学してしまった幼馴染と、生徒会の先輩と、部内公認の彼氏と、自分だけが知っていた歌声と、たった一人の友達と、そして、胸に詰まったままの、この想いと―。別の高校との合併で、翌日には校舎が取り壊される地方の高校、最後の卒業式の一日を、七人の少女の視点から描く。青春のすべてを詰め込んだ、珠玉の連作短編集。

 廃校が決まった高校を舞台に、七人の少女たちのそれぞれの恋心を描く連作短編集。

 教師に恋をした女子生徒が主人公の『エンドロールが始まる』、中退した幼なじみとの関係性を描く『屋上は青』、在校生代表として先輩への思いを語る『在校生代表』、卒業式の日に彼氏に別れを告げる『寺田の足の甲はキャベツ』、軽音部の卒業ライブでのちょっとした事件を描く『四拍子をもう一度』、帰国子女と知的障害者の交流をつづる『ふたりの背景』、卒業式の日に事故死した同級生に思いを馳せる『夜明けの中心』の七編が収録されている。


 ぼくは高校が大好きだった。部活はほぼやっていなかったのに、朝練の連中よりも早く登校し、校門が閉まるぎりぎりまで学校にいた。休みの日にまで学校に行って友人と遊んだりもしていた。ぼくの人生のゴールデンタイムはまちがいなく高校三年間だ(娘と遊んでいる今も楽しいがそこでのぼくは主役ではなく脇役だ)。

 当時は毎日が楽しかった。と同時に「こんなに楽しいのは今だけだろうな」とも感じていた。すでにピークにいることを感じとっていたのだ。はたしてその後の人生において、あんなにも「毎日毎日朝から晩まで楽しい日々」を送ることはなかった。べつにそれが不幸なことだとはおもう。人によってゴールデンタイムはちがうだろうが、みんなそんなもんだろう。

 ぼくにとって高校時代は最高すぎた日々で、だから思いだすのがかえってつらい。思いだすたびに決してあの頃には戻れないことをつきつけられるから。


『少女は卒業しない』を読んで、高校時代を思い出して胸がちょっと苦しくなる気持ちをひさしぶりに味わった。ぜんぜんちがうんだけどね。ぼくは女子高校生じゃなかったし、好きな人はいたけど告白したりされたり付きあったりってのとは無縁な日々を送ってたから。

 でも、この短篇集を読んでいると当時の空気がよみがえってきた。雨上がりの渡り廊下の濡れた感じとか、夏の教室のむわっとした汗のにおいとか、遠くから聞こえてくる金管楽器の音とか、冬の朝の学校のきりっとした寒さとか、五感が刺激される気がした。一瞬、ほんの一瞬だけ意識が当時の高校に戻ったかのような。




 ストーリーは、はっきりいって物足りない。ぼくは朝井リョウさんの底意地の悪さが好きなんだけど、この短篇集からはぜんぜん感じられない。意地悪な視線もないし、ストーリー展開も素直。こんな感じで進むのかな、とおもったとおりに話が進む。

『何者』を貫いていた性格の悪い視点(褒め言葉ね)や、『どうしても生きてる』のどこに着地するのかわからないアンバランスな感じは、この短篇集にはない。

 なので「おもしろい物語」を読みたい人にとってはつまらない小説かもしれない。

 ただ、ぼくが小説に求めるものはおもしろさだけではない。「つらい」とか「やりきれない」とか「息苦しい」といった気持ちを抱かせてくれる小説もいい小説だ。

 ということで『少女は卒業しない』はおもしろくはなかったけど、悪い小説ではなかったな。


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2022年4月13日水曜日

【読書感想文】中島 岳志『自分ごとの政治学』/死者の声に耳を傾ける政治家求む

自分ごとの政治学

中島 岳志

内容(Amazonより)
もっとも分かりやすい、著者初「政治」の入門書!
学校で教わって以来、学ぶ機会がない「政治」。大人でさえ、意外とその成り立ちや仕組みをほとんんど知らない。しかし、分かり合えない他者と対話し、互いの意見を認め合いながら合意形成をしていく政治という行為は、実は私たちも日常でおこなっている。本書では、難解だと決めつけがちで縁遠く感じる「政治」の歴史・概念・仕組みが2時間で理解できる。政治の基本概念は、どのように私たちの生活に直結しているのか。自分なりに政治の「よしあし」を見極めるポイントはどこにあるのか。「右派と左派」「民主主義」から「税金と政策」まで。思わず子供にも教えたくなる、政治と自分の「つながり」を再発見するための教養講義。


 入門書ということでたいへん短く、The ベスト of 中島岳志、という内容だった。今まで何冊か氏の著書を読んだことのあるぼくにとっては、第3章のガンディーの話以外はほとんど読んだことがあった。

 だったらつまんないかというとそんなこともなく、政治思想の話というのは理解した気になっても日常の瑣末事に紛れてついつい忘れてしまう。だからこうやってときどき呼び起こすことが必要なのだ。




 イギリスの政治家だったエドマンド・バークの話。

 さらにバークは、大切なものは人間の理性を超えたものの中にあるのだ、といいます。それは何かといえば、無名の死者たちです。
 過去に生きた無数の人々によって積み重ねられ、長年の歴史の風雪にも耐えて残ってきた経験知や良識、伝統や慣習。そうしたものの中に、実は非常に重要な叡智が存在するのではないか。それを無視し、「抜本的な改革」などといって物事を一気に変えようとする発想は、理性に対する過信、自分たちの能力に対するうぬぼれではないかと考えたのです。
 ただし、これは「だから前進しなくていい」ということではありません。なぜなら、世の中は変化していくからです。その変化に合わせ、時代にキャッチアッブしながら徐々に改革していくことが重要だとバークは考えていました。
 たとえば、どんなに素晴らしい福祉制度を作ったとしても、五〇年も経てば必ず有用性を失ってしまう。なぜなら、今の日本がそうであるように、五〇年の間に人口構成は大きく変わってしまうからです。であれば、素晴らしかった制度の本質を引き継ぎながらも、状況に合わせて中身を変えていかなくてはならない。大切なものを守るためには、むしろ変わっていかなくてはならないというわけです。バークはこれを、「保守するための改革(Reform to conserve)」という言葉で表現しています。

 若い頃はぼくも、「今の制度は誤りだらけだ! どんどん変革していったほうがいい!」とおもっていたんだよね。

 じっさい、社会って矛盾だらけだもん。変えたくなる。

 でも、三十数年も生きていると「悪かったものを変えて、もっと悪くなった例」をいくつも目にすることになる。やれ規制緩和だ、民営化だ、政治改革だ、自由化だ、グローバル化だ、構造改革だ、維新だ、改革だ、と旗を振って変えたはいいけど、利権を握っていた旧勢力が追い払われてまた別のやつが利権を手中に収めただけだったりする。おまけにもっと巧妙になっていたりする。

 長く使われているものにはそれなりの良さがあるんあよね。もちろん悪いところもいっぱいあるけど、関係各所の綱引きの結果として成立した制度なので、「誰にとってもそこそこ良くて誰にとってもそこそこ悪いシステム」だったりする。それを一気に変えると、「誰かにとってはそこそこ良くて誰かにとってはものすごく悪いシステム」になることが多い。

 年金制度も年功序列制度も医局も政治制度も官僚も地方公務員も教育委員会もPTAも部活も生活保護制度も悪いところはいっぱいある。でも「じゃあ明日からなくします」と言われたらものすごく困る。だからちょっとずつ直していかなくちゃならない。

 この「ちょっとずつ直す」をめんどくさがる人が多いんだよね。めんどくせえから一回全部更地にして建てなおしましょう!って人が少なからずいる。こういうやつが、壊した後によりいいものを作った試しがない。ノアの方舟のときの神かよ。




 中島岳志氏の 『100分 de 名著 オルテガ 大衆の反逆』にもあったが、〝死者との対話〟という思考はすごく腑に落ちる。

 そして、その立憲という問題を考えるときに、私が重要だと思っているのが、民主と立憲における「主語」の違いです。
 立憲主義とは、生きている人間の過半数がイエスといっても駄目なことがあるという考え方だといいました。では、その「駄目」といっている主語は誰なのか。それは、過去を生きた人たち、つまり「死者たち」なのです。
 第1章の「保守思想の父」エドマンド・バークのところでも触れましたが、死者たちは、長い歴史の中でさまざまな経験をして、ときには大きな失敗をして、苦悩を味わってきました。三権分立が確立していなくて王権が暴走したこともあれば、独裁政治を許してしまったこともある。あるいは、侵略戦争をするとどうなるのか、基本的人権を抑圧すると何が起こるのか……そうしたさまざまなことを、今は亡き人々は実際の経験から知っているわけです。
 憲法というのは、死者たちが積み重ねた失敗の末に、経験知によって構成した「こういうことはやってはいけない」というルールです。過去の人々が未来に対して「いくら過半数がいいといっても、やってはいけないことがあるよ」と信託している。これが立憲の考え方なのです。
 対して民主主義は、生きている人たちの過半数によって物事を決めるわけですから、主語は当然「生きている人」になります。この主語の違いが、立憲と民主を考える上での重要なポイントになります。

 こういう話って、ぼくが若いときに読んでもぴんとこなかったんじゃないかとおもう。何言ってるんだ、今生きてる人が大事なんだよ、とっくに死んだ人のことなんて考えなくていいんだよ、なんて言って。

 でも今ならすっと心に入ってくる。自分が〝死者〟の側に近づいたからかもしれない。

 ぼくは子どもを作り、生物としての役目はほとんど終えたとおもっている。あとぼくに残された仕事は「子どもを育てる」と「残った人にとって有用な死者になる」だ。ぼくが死んだ後に、残された人が「そういやあいつがあんなこと言ってたな」とちょっとでも思い出してもらえるように生きることだ。

 そして、有用な死者になるためには自分自身が死者の声を聴かなくてはいけない。
 死者の声に耳を傾けていたら、ちょっとでも戦争に近づくような法案とか、数十年その土地に人が住めなくなるような発電所なんて作る気になれないだろう。


 政治家の仕事なんて、ほとんど「いい死者になる」がすべてといってもいい。数十年後に「かつていた〇〇という政治家のおかげで今の××がある」と言ってもらえるような仕事をしてほしい。

 なかなかニュースでは報じられないけど、ぼくはもっと政治家にビジョンを語ってほしいんだよね。足元の政策だけじゃなくてさ。

「〇〇のおかげで今の××がある」と言ってもらえるような政治家が今どれぐらいいるだろうね。「〇〇のせいで××になっちまった」と言われるような政治家はいっぱいいるけど。


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2022年4月12日火曜日

【読書感想文】藤岡 換太郎『海はどうしてできたのか ~壮大なスケールの地球進化史~』

海はどうしてできたのか

壮大なスケールの地球進化史

藤岡 換太郎

内容(e-honより)
宇宙で唯一知られる「液体の水」をもつ海は、さながら「地獄絵図」の原始地球でいくつもの「幸運」の末に産声をあげた。しかし、それはわたしたちにとっては、猛毒物質に満ちたおそるべき海だった。原始海洋が想像を絶する数々の大事件を経て「母なる海」へと変容するまでの過程から46億年の地球進化史を読み解き、将来、海が消えるシナリオにまで迫る。


 いやあ、おもしろかった。さすが講談社ブルーバックス。これは良書だ。

 地球誕生から、マグマオーシャンというどろどろのマグマの海、陸地ができて水の海が誕生、大陸の合体・分裂、生命の誕生まで数十億年の海の歴史を解説してくれる。海を主役にしているけど、地球全体の歴史がよくわかる。

 ぼくももう長いこと地球人やってるけど、ぜんぜん地球のことを知らなかった。

 誕生したばかりの月は、地球から約2万kmという近いところにあったようです。その頃の月を地球から見れば途方もなく大きく、まるでエウロパから見た木星のようであったかもしれません。その後は次第に遠ざかり、現在では月と地球の距離は約38万kmです。  地球に近かった頃の月は、非常に大きな潮汐作用を地球に及ぼしていたことでしょう。たとえば地球に水の海ができてからは、潮汐力による潮の満ち干は現在からは想像もつかないものだったと考えられます。おそらくは大津波のような波が、毎日2回、海岸へ押し寄せていたはずです。この潮汐には、海水をよくかき混ぜて、海水の成分を均質にする役割があったものと思われます。それはのちの生命の誕生にも、大きな影響を与えていたかもしれません。

 地球と月の距離は、今の二十分の一ぐらいだったのか……。想像するしかないけど、とんでもなく巨大だったんだろうな。毎日、日食だったんでしょう。




 地球上の生物で、最も多く他の生物を殺した生物は?

 ほとんどの人は人間だとおもうだろう。ところがそうではないらしい。

 最も多くの生物を殺したのは、光合成によって酸素を生みだしたシアノバクテリア(藍藻)だ。

それくらい酸素の大量発生は、当時の生物たちにとって深刻な「海の環境破壊」でした。いまでこそエネルギー効率の高い酸素を使うことができる好気性生物が繁栄して、酸素を使えない嫌気性生物は地球の隅に追いやられていますが、当時の生物たちは当然ながら酸素など使えるはずもなく、それどころか猛毒物質だったのです。
 しかし、シアノバクテリアはそんなことなどおかまいなしに、無尽蔵ともいえる太陽エネルギーを利用してどんどん光合成をして、海中を酸素だらけにしていきます。それは原発などの核エネルギーを使うようになった現在の人類もかなわない環境破壊ぶりだったともいえます。そのため、従来型の生物たちはばたばたと滅んでいったのです。

 漠然と、光合成とはいいものだというイメージを持っていた。植物が光合成をしてくれるから、すべての動物は生きられるのだと。だがそれは、ぼくらが酸素をエネルギー源として利用している生物だからだ。シアノバクテリアが誕生するまでは、地球上の生物はみんな酸素のない環境でしか生きられなかったのだ。

 ということは、もし人類が環境破壊しまくって今いる地球上の生物がほとんど絶滅したとする。その後、その劣悪な環境でしか生きられない生物が繁栄する。すると、その生物は「かつて存在していたヒトという生物は、酸素を減らしてくれて毒だらけの森を壊してくれた恩人だ」と人類に感謝してくれるだろう。




 長いスパンで見ると、海面は上昇と下降をくりかえしているらしい。

 それらによると、いまからおよそ600万~500万年前のメッシーナ紀に地中海が干上がってしまい、その海底に大量の岩塩や石膏などの塩分が堆積したというのです。この頃、地球は寒冷化していて、海面はどんどん下がっていきました。地中海ではその出口であるジブラルタル海峡が閉ざされてしまい、地中海が湖のようになってしまったのです。大西洋からの水が流入しなくなった地中海ではひたすら蒸発が起こって、ついに干上がってしまったのです。湖が干上がりつつある現在のアフリカのチャド湖のようなものでしょうか。このとき、海水中にあった塩分は沈殿して、石になってしまったそうです。
 やがて海面がもとの水準に回復したとき、ジブラルタル海峡やボスポラス海峡を経て、大量の海水が一気に地中海に入り込んだといいます。ライアンらはこのときの様子を「ノアの洪水」と表現しています。たしかにそれは、すさまじい流れだったことでしょう。

 地中海は干上がっていた。海峡から海が入ってくる瞬間は、船に穴が開いて一気に水が流れこんでくるようなものだったろうな。

 ノアの洪水とは言い得て妙で、ほんとに世界の終わりみたいな光景だっただろうな。当然旧約聖書よりも数百万年前だけど、ノアの方舟もまったくのありえない出来事でもなかったんだろう。




 この著者の何がすばらしいって、とにかく知に対して謙虚であり誠実であること。

 以下の文章を読んでほしい。

 海洋無酸素事件はのちの白亜紀の中頃にも起こっています。ペルム紀末と同様に、マントルから大量のマグマが上がってきたことが原因の根本にあると考えられています。しかし、それによって地球は寒冷になったのか、温暖になったのかもわかっていないのです。
 海洋無酸素事件のときに併発する意外な現象として、地磁気の逆転が長期間にわたって起こらなかったことが知られています。地球の磁場がつくる南極(磁南極)と北極(磁北極)は、数十万年から数百万年のサイクルで逆転しているのですが、ペルム紀と白亜紀に海洋無酸素事件が発生した時期だけは、この地磁気の逆転が起きていないのです。それがなぜなのかも、いまのところわかっていませんが、スーパープルームが上昇することで核が冷えて、核の中での対流が止まってしまうためではないかという考え方もあります。
 海洋無酸素事件と大量絶滅の因果関係はまだ立証されていません。しかし、ペルム紀末の絶滅のあとに繁栄した生物は低酸素状態に強いものであったといわれていますから、海洋無酸素に打撃を受けた生物たちの進化を促した可能性はあります。白亜紀の海洋無酸素のときには大量絶滅が起きていないのも、生物が低酸素状態に適応していたからかもしれません。地球の内部で起きた現象が、海や大気ばかりか、生物にも大きな影響を与えたと考えると面白い気がします。

 これだけの文章に、誠実さがあふれている。

「と考えられています」「わかっていないのです」「いまのところわかっていませんが」「という考え方もあります」「まだ立証されていません」「促した可能性はあります」「適応していたからかもしれません」「と考えると面白い気がします」

 正直、読んでいてまだるっこしい。わかりやすくない。「~になった」「~なのは……だからだ」と言い切ったほうが明快だ。
 でも、断言は科学的に正しい態度ではない。なにしろ何億年も昔の話なのだ。おそらくこうだろう、とは言えてもこの目で見たわけでない以上、断定を避けるのが科学的な態度だ(この目で見たとしても疑うのが科学的な態度かもしれない)。

 有力な仮説は紹介するが、断定は避ける。こういう人のほうがぼくは信用できるし、「他の説もありうるのだろうか?」とこちらの好奇心も刺激される。このわかりにくさこそが誠実さの証だ。


 ところがテレビや新聞に呼ばれる学者ってのは、わからないことでも断言してくれる人なんだよね。テレビはわかりやすさだけが求められて、正しさなんてどうでもいいから。ほら、五歳児だからってのを盾にしていいかげんな説をさも唯一解みたいに垂れ流してるNHKの番組、おまえのことだよ。ボーっと生きてるのはおまえのほうだよ!


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2022年4月11日月曜日

【読書感想文】三島 由紀夫『命売ります』

命売ります

三島 由紀夫

内容(e-honより)
目覚めたのは病院だった、まだ生きていた。必要とも思えない命、これを売ろうと新聞広告に出したところ…。危険な目にあううちに、ふいに恐怖の念におそわれた。死にたくない―。三島の考える命とは。

 三島由紀夫とニュートラルな立場で向き合うのはむずかしい。三島由紀夫について考えるとき、どうしても文学作品よりも先にあのマッチョな肉体とか自衛隊での割腹自殺とか美輪明宏とかが思い浮んでしまう。そしておもう。「ああ……ぜったいに好きになれない人だ……」

 そんな意識があったので、三島作品は一作か二作ぐらいしか読んだことがない。それも『金閣寺』とか『仮面の告白』とかじゃなくて、もっとマイナーなやつ。タイトルすら忘れた。

 この『命売ります』は三島由紀夫らしからぬユーモラスな作品ということで約二十年ぶりに三島作品を手にとった。


 ……ううむ。なんと形容していいのかわからない作品だな。

 自殺に失敗して一命をとりとめた男。どうせ一度は捨てた命なのだからと新聞に「命売ります」という広告を出したところ、ひとりの老人がやってくる。ある女に死んでもらいたいので、その女とベッドを共にして情夫に殺されてくれという依頼。途中までは計画通りにいったが、男は死なずに済む。その後も次々に命の買い手が現れるが……。

 と、軽いタッチとブラックユーモアまじりにストーリーが進む。ドライで都会的な文章で、星新一の中篇作品に似た雰囲気だった。この乾いた感じ、嫌いじゃない。主人公の内面をぐじぐじと書く文学よりも、どうでもいいや、なるようになるや、という感じの文章の方がぼくは好きだ。

 ストーリー展開もご都合主義なんだけど、それがかえってテンポがよくていい。

 ……とおもっていたら中盤からどんどん変な方向に進んでいく。外国マフィアや秘密組織が出てくるところまではまだいいとして、三人目の客はなんと吸血鬼。え? 吸血鬼……!?

 なにそれ。あたりまえのように吸血鬼出てきたけど。急にファンタジーになった。その後意味もなく女を抱く島耕作的展開になったかとおもうと、終盤は敵に追われる逃走劇に。主人公の性格も序盤と後半でぜんぜん変わってるし、つぎはぎ感がいなめない。元は連載作品だったそうなので、いきあたりばったりに書いていたのかもしれない。




 話もむちゃくちゃだけど、主人公も相当おかしい。

「そんなら命を売ったお金はどうするんです」
「あなたがそのお金で、何か始末に困る大きな動物、たとえば鰐とか、ゴリラ、とかいうものを買って下さい。そして、結婚なんかあきらめて、一生その鰐かゴリラと一緒に暮して下さい。あなたに似合うお婿さんは、それしかないような気がするんでね。ハンドバッグの材料に売ろうなんて色気を起しちゃいけませんよ。毎日餌をやって、運動させて、誠心誠意、飼育してくれなければね。
 そしてその鰐を見るたびに、僕のことを思い出してくれなければね」

 こんなことばかり言っている。この狂ってるところがよかったのに、終盤の追われる展開になってからは防衛本能のために必死に逃げるだけの男になっていて、つまらない。

 最後の伏線回収みたいなのも、そのせいでかえってこぢんまりとしてしまった印象。最期までめちゃくちゃな話であってほしかったな。


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