2026年3月5日木曜日

【読書感想文】香川 知晶『命は誰のものか』 / 臓器税を作ったらいいのに

命は誰のものか

増補改訂版

香川 知晶

内容(e-honより)
現在、人間の生命をめぐって、どのような問題が生まれ、どのような議論があり、なにが問われているのか。問題は、さまざまな価値の大本にあるわたしたちの命にかかわっている。そこには、現在の社会が直面している課題が典型的に示されている。

 医療リソースが逼迫しているときのトリアージ(救う順番を決めること)、出生前診断、体外受精、尊厳死、臓器移植などの医療倫理についての歴史や議論を紹介する本。

 教科書のように浅く広く中立的に紹介しているので、あれこれ書いて結局何が言いたいねん、みたいな着地をしていることが多い。

 またあれこれ議論をめぐらさた挙句、現実離れした結論に至っていることもある。たとえばトリアージの項で、締めくくりが「そもそも医療リソースが逼迫しないようにすることが重要だ」的なことが書いてある。それって「お金がないから食費を削るか外出を控えるか娯楽費を削るか」って話をしてるときに「年収を倍にすれば解決するよ」って言ってるようなものじゃないか!



 関心を持ったのは、第三章『あなたは、生まれてきた子に重い障がいがあったとしたら、治療に同意しますか? そのまま死なせますか?───障がい新生児の治療停止』。

 ぼくも子どもが生まれるときはこのへんのことを心配したから、親の苦悩もわかる。

 ダウン症という異常は時代や地域にかかわらず一定の割合で起こる。当然、ジョンズ・ホプキンス・ケースと同じ問題は、日本でも起こることになる。そうした日本での事例を、ジャーナリストの斎藤茂男さんが一九八五年に『生命かがやく日のために』(共同通信社)にまとめて、報告している。
 話は、ある総合病院の看護師が、匿名で通信社にあてて書いた投書から始められている。投書は、その人が勤務している新生児室で誕生した赤ちゃんが、親の手術拒否で点滴だけで命を保っていることを告げていた。早産で生まれた新生児は、ダウン症で腸閉塞の合併症をもっていた。何とかして手術を受けさせ、命を救う手だてはないのだろうかと投書は訴えていた。

(中略)

 まず届いた反響の多くは、新生児の救命を願う立場からのものだった。そうした投書には、ダウン症児をもつ親たちが障がいをもつ子も人間として生きていることを心から実感しながら子育てをしている喜びが素直につづられていた。いずれも赤ちゃんの命が一刻も早く助けられるようにと祈っていた。手術を求める署名簿が添えられた投書もあった。
 そうしたところに、通信社には、第三者がよけいな口をはさむな、他人に何がわかるのか、重度のダウン症の者を家族にもって何度死のうと思ったことかという手紙が舞い込む。この投書が届いたあたりから、反響の内容は大きく変化していく。
 決定的だったのは、「私はその赤ちゃんはひっそり抹殺したほうがいいとおもう」という「病気のためにチエ遅れ」になったという障がい者自身からの投書だった。こうして、投書には、最初のころとはまったく逆に、障がい者とその家族をとりまく残酷な現実を語り、親の手術拒否に賛成するものが増えることになる。いずれも、読むものの胸を突く、重い内容をもつものだ。

 ダウン症の赤ちゃんが生まれた。腸閉塞の症状を持っていた。治療すれば助かる可能性が高い。だが親は治療拒否(そのまま死なせる)道を選んだ。

 むずかしい問題だ。積極的に手を下す(殺す)のはもちろん犯罪だが、「手術をさせない」は犯罪ではない。法ではなく倫理の問題だ。

 正直、どっちの気持ちもわかる。自分が親の立場だったら悩むとおもう。そりゃあ道徳的には「赤ちゃんの命が一刻も早く助けられるように」がタダシイ意見だろう。でもそれは無関係な人の無責任な意見だ。「新生児の救命を願う」手紙を書いた人たちは、その子のために何もしてくれない。子育てを代わってくれるわけじゃない。「すべての命は等しく尊い」と言うのはタダだ。

「手術を拒否する」という決断をした親を、無責任な親だということはできない。深く悩んだ末に決断を下し、「子どもを見殺しにした」という十字架を背負って生きていく覚悟をしたのだ。そんな人を高い所から非難することはできない。

 障害を持った子を育てるのはそうでない子を育てるのより負担が大きいことはまぎれもない事実で、その現実に目をつぶって「すべての命は等しく尊い」ときれいごとを言うのはあまりにも無責任だ。


「障害を持って生まれたけど生まれてきて良かった」と思う人もいるし、「こんな苦しい人生なら生まれてこなきゃ良かった」と思う人もいるだろう。

「この子を育てる代わりにもう新たに子どもを産むのをあきらめる」も「この子は見殺しにするがまた子どもをつくる」も、一人の命を救って一人の命をなかったことにするという点では同じじゃないかとおもうんだけどね。


 ところで、うちの子が生まれる前に病院から「出生前診断をすることができます。それによりダウン症などの疾患を抱えているかどうかが(100%の精度ではないが)わかります。どうしますか?」と訊かれた。

 でもさ、それを訊かれたときってもう中絶できる期間を過ぎていたんだよね。つまり「ダウン症の可能性が高い」とわかったところでどうすることもできないわけ。

 夫婦で話し合って「どっちみち中絶できるわけじゃないし精度も100%じゃないし、診断を受けたって心配の種を増やすだけだよね」ということで診断は受けなかった。

 あの制度、何のためにあるんだろう。




 ちょいちょい著者の主張らしきものも顔を出すんだけど、どうもそれがぼくの思想と相いれないんだよね……。

 たとえば死後に臓器移植のために身体を提供することについて。

 医療技術の進歩は人体をきわめて有用な資源として開発してきた。臓器移植はその典型である。人間がそうした資源として生まれてくることを認めなければ、本性的な自己決定は成り立たない。
 人間は死んでも資源として役立つとすれば、望ましいという考え方は十分ありうるだろう。しかし、自分がひとつの資源であると正面切って認めよと迫られると、奇妙な感じがするはずだ。

 いや、まったく奇妙な感じがしないんだけど……。死んだ後の肉体なんて資源かごみのどっちかでしかないだろ。どう考えたってごみになるよりは資源のほうがよくない?

 ぼくは死後に身体がどうなろうとぜんぜんかまわない。臓器移植に使ってもらえるならありがたいし実験のために切り刻まれたってかまわない(さすがに娯楽目的でもてあそばれるのはイヤだけど、声を大にして反対するほどでもない。だって死んでて関知できないんだもん)。

 死んだら強制的に死体は国家が没収して有効利用する、でぜんぜんかまわないけどな。 ぼくが信仰心ゼロだからかな。

 だってさ、既に「死んだら財産の一部または全部は国家のものになる」っていうルールがまかりとおってるわけじゃない。相続税という名のルールが。相続税は認めて臓器提供は許さないのは理解できない(ぼくからすると死体よりも死者が残した財産のほうがずっと価値がある)。

「死後にオレの身体を勝手に使うな! どうするかはすべて俺が決める!」って「オレの金はすべてオレのもの! 税金なんて一銭も払わんぞ!」ってのと一緒じゃない? 税を認めないラディカルなアナーキストなの? 徴税や徴兵は認めて、国家による死後の身体理由を認めないのがよくわからん。

 『臓器税』を作って現物徴収したらいいのに。死後にどうしても臓器を納めたくない人は代わりに金銭で納める、ぐらいの自由は認めてもいいとおもうけど。




 臓器移植に限らず、なんかウェットすぎるようにおもうんだよな。生まれる前の胎児とか死んだ後の身体に重きを置きすぎというか。

「障害を理由に中絶することに反対」ってのはいいとして、だったら現在母体保護法第十四条で「妊娠の継続又は分娩が身体的又は経済的理由により母体の健康を著しく害するおそれのあるもの」を理由に中絶が認められていることにも反対しないと筋が通らなくない?

 なんで障害を理由とする中絶はダメで経済的理由ならいいの? まったく理解できない(一部の宗教信者のように中絶はすべて認めない、のほうがまだ理解できる)。

 なんか合理的な理由なんかなくて、「今の慣行にあってないから賛成しない」みたいな論調が多いんだよな。それはそれで偽らざる心情だろうから個人的見解ならぜんぜんかまわないんだけど、倫理学としてそのスタンスはどうなのよ。


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2026年3月3日火曜日

【映画感想】『映画ドラえもん のび太の海底鬼岩城』

『映画ドラえもん のび太の海底鬼岩城』

内容(映画.comより)
国民的アニメ「ドラえもん」の長編映画45作目。1983年に公開されたシリーズ4作目「のび太の海底鬼岩城」をリメイク。
夏休みにキャンプの行き先で意見が分かれたのび太たちは、ドラえもんの提案で海の真ん中でキャンプをすることになる。ひみつ道具の「水中バギー」と「テキオー灯」を使って海底キャンプを楽しむのび太たち。沈没船を発見したことをきっかけに謎の青年エルと出会うが、なんと彼は海底に広がる「ムー連邦」に暮らす海底人だった。陸上人を嫌う海底人は、のび太たちを信用することができない。そんな中、海底人が恐れる「鬼岩城」が動き始めたという知らせが届く。


 1983年公開『ドラえもん のび太の海底鬼岩城』のリメイク版。前作映画は観たことがないが、漫画版は持っている。

 小学一年生の娘といっしょに観に行った。骨太の原作をうまく調理できるのか、という不安もあったが概ね満足。


 かなり原作に忠実なリメイクで、大幅に削られたシーンは特にない。ドラえもん映画史上屈指の恐怖シーンである「ジャイアンとスネ夫がこっそりバギーに乗って抜けだす」くだりもしっかり再現されている。映画では毎回危険な目には遭うが、あんなに明示的に死を意識させる状況は他にないよね。


 原作を読んだときは「なんだか終盤がやけにあわただしい作品だな」と思ったが、2026年映画版でもその印象は変わらず。敵らしい敵が出てくるのが8割ほど経過してからだからね。だから終盤は説明台詞が多い(漫画版だと後半は文字だらけになる)。

 ここは改善してほしかったところだな。

 特に1983年時は冷戦下なので「二国間の対立」「軍拡競争が招いた地球滅亡の危機」というテーマが受け入れられやすかったのかもしれないが、今の時代に「核実験の失敗で国が滅んだ後も自動報復システムが起動している」という設定を台詞だけで理解させるのは相当苦しい。大人でも原作を読んでないとしんどいぜ。


 ただ前半の「宿題を終わらせるまでキャンプに行ってはいけないとママから言われたのでみんなで協力してのび太の宿題を終わらせる」パートや、中盤の海底豆知識、藤子・F・不二雄氏の想像力が存分に発揮された海中生活の描写(特にトイレのリアリティにこだわるあたりがすばらしい)もそれはそれでおもしろい。物語として見ると冒頭の「のび太がドラえもんの力を借りずに宿題を終わらせる」シーンは蛇足かもしれないけど、日常から自然に冒険の世界へと連れてってくれる役割をはたしている。映画を見慣れている大人にとってはいらないかもしれないけど、子どもにとっては重要な描写だ。

 反面、幽霊船のくだりはばっさり削ってもよかったんじゃないかと思う。幽霊船が移動してる意味がまったくわかんないし(しかも海上を移動してたよね)。



『海底鬼岩城』といえば、ドラえもん以上の存在感を見せるバギー。本作の主役といってもいい。

 2026年版では、バギーの心境の変化(心があるのかわからないが)をより丁寧に描いている。原作で持っていた性格の悪さ、ポンコツ感も薄めで、ラストの悲劇性が際立つように作っている。

 しずかちゃんだけでなく、のび太とバギーの「友だち」に関する会話など、くどいぐらいにバギーの胸中が強調される。そのへんは個人的には説教くさくて好きではないのだが、子ども向け映画としてはこれぐらいわかりやすいほうがいいのかもな。「前の持ち主に粗末に扱われていた」という背景を付与したのも心境の変化に説得力を与えている。結果的に『空の理想郷』のソーニャみたいになってしまったけど……(バギーとソーニャがたどる結末も似ている)。


 逆にポンコツ感が増したのがボス・ポセイドン。AIがすっかり身近になった現代の感覚だと、ポセイドンのダメさが目に付いてしまう。感情的になりすぎ。自動報復システムAIがあんなに威張って何かいいことある? まったくしゃべらないほうがかえって不気味さが増したんじゃないかな。

 あとしずかちゃんが攻撃されなかった理由の「我には女のデータが少ない」ってなんだよ。エロか?

 原作でしずかちゃんが口にする「女の子だったら手荒なことはされないとおもうの」が今の時代にふさわしくないから回避したんだろうけど、結果的にもっとふさわしくない台詞になってないか? なんで今から地球を滅ぼそうとするやつが女のデータ集めるんだよ。

 単純に「逃げ遅れたしずかちゃんがさらわれる」ぐらいでよかったのに。

 ついでにいえば、アトランティスが滅んだシーンを爆発で表現してたけど、あれはおかしい。国が滅ぶほどの爆発なら、バギー1台突っ込んだだけで壊れるほど脆弱なポセイドンが無事なわけない。「放射性物質漏れでアトランティス人は死に絶えたが機械は動作を続けた」とかにしないと。


 おっと。ちょっと愚痴が多すぎた。

 良かったとおもえたのは、オープニング映像の美しさ。昨年の『絵世界物語』のオープニングもすばらしかったけど、あの「さあ今からドラえもんの映画が始まるぞ!」というわくわく感だけでも足を運んだ価値があると思える。

 改変箇所で感心したのは、ラストのしずかちゃんの涙。漫画版だと涙がぽたりとドラえもんの上に落ちるのだが、今作では涙がふわっと周囲に広がる。そういえば忘れてたけどここは海中だった! 涙が落ちるわけないよな!(トイレにはこだわったF先生も涙のことは忘れていたのだろうか)


 良くも悪くもオリジナルの印象が強くのこり、原作の強靭さを改めて実感するリメイクだった。


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2026年3月2日月曜日

【読書感想文】瀧本 哲史『武器としての交渉思考』 / デモに効果がない理由

武器としての交渉思考

瀧本 哲史

内容(e-honより)
交渉は、若者が世の中を動かすための必須スキル。交渉によって仲間と手を組み革命を起こせ。京大最強授業第二弾。

 経営コンサルタント、エンジェル投資家、大学准教授などの経歴を持つ著者による、“若者に向けて”の交渉の指南書。

 とっくに若者でなくなったぼくでも学ぶところは多かった。

 交渉術といっても「交渉相手の斜め向かいに座れ」みたいな小手先の(そしてどこまで本当かわからない)テクニックではなく、もっと根本的なスキルについて語っている。スキルというより思考法、思想。



 くりかえし語られるのは、交渉に必要なのは自分の要求を伝えることではなく、相手の話を聞くことだというメッセージ。

 たとえば、学生が企業に対して「採用活動のあり方を変えてくれ」とおこなったデモ活動について。

 つまり、デモでいくら自分たちの要望を主張したところで、企業側にそれを受け入れるだけの合理的な理由がない。
 だから、彼らの望みが叶えられる可能性はほとんどありません。
 就活デモをすることで、メディアに取り上げられることを狙っているのかもしれませんが、それであればもっと上手なやり方があるのではないかと思います。現状のままでは、デモすること自体が目的化してしまっているようにしか見えないのです。
 厳しいことを言うようですが、彼らの主張は、基本的に子どもの「駄々」と変わりません。「俺が困るから合意しろ!」「わたしが可哀想だから言うことを聞いて!」という主張は、子どもであれば許されますが、大人の振る舞いとは見なされないのです。

(中略)

 相手に交渉のテーブルについてもらうためには、「自分の立場を理解してもらう」ことより、「相手の立場を理解すること」のほうが大切です。
 つまり、「僕が可哀想だからどうにかして!」ではなく、「あなたがこうすると得しますよね」という提案をするべきなのです。
 相手側の立場、利害関係を考えて、相手にメリットのあることを提示すること。

 そうなんだよね。この件にかぎらず、ほとんどのデモってただの主張であって交渉になってないんだよね。だから効果がない。

 よく政治的な主張を大声で叫びながらデモをしている人たちがいるけど、あれなんて無意味どころか逆効果だとおもうんだよね。あれを聞いて「私の考えはまちがっていた! デモ隊の言うとおりだ!」と考えを改める人がどれぐらいいるとおもう? 「うっせえなあ。あいつら嫌いだわ」となる人のほうがずっと多いにちがいない。

 政権に異議を唱えるデモにしても、政権からしたら「デモに参加するような連中はどう転んだって与党に投票することはないだろうから、これ以上嫌われたってどうってことない」って感じだろう。支持者からそっぽを向かれるのは怖いだろうけど、敵対する政党の支持者から嫌われるのは何のデメリットにもならない。

 デモをすれば「おれたちはがんばった!」という自己満足は得られるのだろうが、デモが何かを動かすことはほとんど期待できない。「この法案を引っ込めてくれたら次の総選挙は与党に投票してやるぞー!」ならまだ検討する価値があるだろうけど(その約束を信じてもらえるかどうかは別にして)。


 労働法では「労働三権」として、労働者に団結権、団体交渉権、団体行動権が認められている。

 労働者が団結(労働組合の組織)する権利、労働組合が使用者と賃金や労働条件等について交渉する権利、そしてストライキをする権利だ。

 この権利が力を持つのは、労働者がストライキをちらつかせられるからだ。
「賃金アップを認めないなら従業員が団結してストライキをするぞ。そうなったら困るだろ」
という交渉(もっとあけすけに言えば脅し)をするからこそ、使用者は
「しょうがない。ストで大きな損失を出すよりはマシだから給与を上げるか」
と折れるのだ。

 労働者がたった一人で「給与上げてくれー!」と言っても交渉にはならない。「要望を聞き入れることのメリット、聞き入れないことによるデメリット」を語るからこそ交渉になるのだ。




 交渉する上で重要なのは「バトナ」だと著者は語る。バトナとはBest Alternative To a Negotiated Agreementの頭文字をとった言葉で、直訳すると「交渉による合意のための最良の代替手段」みたいな感じかな。

 要するに「交渉決裂時の他の選択肢」だ。

 つまりバトナとは、目の前の交渉相手と合意する以外にいくつかの選択肢(Alternative)があったときに、「交渉相手に、私はあなたと合意しなくても別の良い選択肢があるので、それよりも良い条件でなければ合意しない」と宣言できる他の選択肢ということになります。
 バトナとして良いものがあれば、目の前の人と必ずしも合意する必要はないので、交渉上、強い立場になれるわけです。
 逆に、バトナが悪い、あるいは、バトナがない場合は、たとえ条件が悪くても、その相手と合意するほうが決裂するよりはまだマシ、ということになりますので、交渉上、立場は弱くならざるをえません。
 交渉においていちばん初めにやらなければならないのは、できるかぎりたくさんの選択肢を持つこと。具体的には、目の前の交渉相手と合意する以外の選択肢を多く持つこと。
 そして、そのなかのいちばん自分にとってメリットの大きな選択肢(=バトナ)を持ったうえで交渉にのぞむこと。
 まずこれが、合理的な交渉の基本になります。

 ぼくは転職時にこれを実感した。

 数年前に転職したが、そのとき在籍中の会社をどうしてもやめたかったわけではない。「今の会社でもまあいいけどもっといい条件の会社があれば」ぐらいの気持ちだった。この余裕はすごく大事だ。転職先の会社と強気の給与交渉ができる。「別にこっちはこの会社でなくてもいいんですよ」という気持ちで臨めるのだから。

 大学生で就活をしていたときはそのへんをわかっていなくて「たくさん内定をもらっても最終的には1社にしか行けないのだから、たくさん受けてもしょうがないだろ」という気持ちでいた。行きたい会社だけを受けるから、不採用だったときはすごく落ち込む。余裕を失ってどんどん追い詰められ、最終的には「内定が出たらもうどこでもいい」ぐらいの気持ちになっていた。

 今ならわかる。大して行きたくなくても、とりあえず何社か内定はもらっておいたほうがいい。それがバトナとなって自信に満ちた面接ができる。


 何事をするにも、時間的・経済的に余裕があったほうがいいということだ。不動産を探すにしても「どうしても今週中に引っ越し先を見つけないといけないんです」という人より「今よりいい条件の物件があれば引っ越してもいいかな」という人のほうが良い物件に出会えるはずだ(前者は不動産屋からしたらいいカモだろう)。




 最終章で著者から若者に向けてのメッセージ。

 たしかに人は、ひとりではほとんど何もできませんし、いまの日本で行われているデモや各種の政治運動の多くは、現実の社会を動かす力とはなっていません。
 しかしだからといって、諦める必要はありません。正しい社会の捉え方と、正しい変革の方法さえ学べば、世の中を動かすことはできるからです。
 なぜ日本のデモや市民の政治運動が社会を動かせていないのか?
 それは、彼らの行動の多くが、ある意味「雲のようなもの」に向かって行われているからです。
 官公庁や大企業をいくら取り囲んでシュプレヒコールをあげたところで、そこで働くひとりひとりの人は、「まあ自分個人に向かって言われているわけではないしな」と思うのが自然な感情でしょう。
 総体としての組織、いわば不特定多数の顔の見えない人の集団にいくら文句を言ったところで、誰も「自分の責任でなんとかしましょう」とは考えてくれません。
 だから、各種のデモにはほとんど意味がないのです。

(中略)

 大きな権力や広いネットワークを持つ、「これぞ!」というキーパーソンや組織・団体だけを狙って、同時にいくつもの交渉をこなして、相手にとっても自分にとってもメリットがある合意を勝ち取っていく。
 そうすることで初めて、世の中を少しずつ動かしていくことができるのです。

 いやほんと。

 救命救急と同じだよね。「誰か救急車を呼んでください!」だと誰も動かないことが往々にしてあるけど、誰かひとりを指さして「あなた、救急車を呼んでください!」と言えば動いてくれるというやつ。


 いきなり社会全体を動かすなんて無理に決まっている。まずは誰かひとり。できるだけ影響力のある誰か。

 本気で世の中を変えようと思うのなら、デモをしたりSNSで愚痴ったりするより、地元選出の市議会議員にでも陳情に行くほうがよっぽど効果があるだろう。

 ってこんな僻地のブログでぐちぐち書いてるぼくが言うなよって話なんだけど……。


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いっちょまえな署名



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2026年2月27日金曜日

【読書感想文】畑村 洋太郎『失敗学のすすめ』 / 「絶対に失敗しない人」にならないために

失敗学のすすめ

畑村 洋太郎

内容(e-honより)
恥や減点の対象ではなく、肯定的に利用することが、失敗を生かすコツ。個人の成長も組織の発展も、失敗とのつきあい方で大きく違う。さらに新たな創造のヒントになり、大きな事故を未然に防ぐ方法も示される―。「失敗は成功の母」を科学的に実証した本書は、日本人の失敗に対する考えを大きく変えた。

 工学博士である著者が、自身が見聞きした数々の“失敗”を学問に昇華させた本。

 失敗を単なるマイナスととらえるのではなく、多くの学びを与えてくれる成功の種と考える。現実的で、非常に有意義な考え方だ。


 常々書いているが、ぼくは「失敗しない人」を信じない。よくいるよね。己の失敗を認めない人。自分の功績だけを喧伝して失敗については口が裂けても語らない人。「あれはそのような意図ではなかった。誤解を与えたのであれば申し訳ない」と言い訳に終始する人。特に政治家に多い。最近も、自分の過去のブログと最近の発言の矛盾を指摘されて、あわててブログを削除したみっともない総理大臣がいた(おまけにブログを削除したことにも「HPをシンプルにした」という言い訳をして恥の上塗りをしていた)。

 とあるドラマで、主人公が「私、失敗しないので」を決め台詞にしていた。最も信用してはいけない人だ。「絶対に失敗しない人」=「絶対に失敗を認めない人」である。当然ながら学びも成長もない。一生他人のせいにして生きていくだけだ(なのに人々はこういうダメな人を“強いリーダー”と勘違いしちゃうんだよな。バカなだけなのに)。

 そんなどうしようもない「絶対に失敗しない人」にならないためには、失敗から学ぶ姿勢を身につけなくてはならない。



 『失敗学のすすめ』では、失敗が起こる原因をいくつかの分類に分けている。

 そのうちのひとつ。

⑧価値観不良……自分ないし自分の組織の価値観が、まわりと食いちがっているときに起きる失敗です。過去の成功体験だけを頼りにしたり、組織内のルールばかりに目を向けていると、経済、法律、文化などの面からいわゆる常識的な評価がきちんとできなくなり、この種の失敗に陥りやすいのです。
 価値観不良による失敗は、とくに最近の行政機関に見られがちで、薬害エイズ問題などはその典型例です。本来、国の機関は、国民の利益を優先させるのが鉄則のはずですが、患者側の立場に立たず、製薬会社など商売を行う側の営業や利益を考えて対処した結果、HIV(エイズウィルス)に汚染された血液製剤の流通を許して傷口を広げてしまいました。企業の指導という役割以前に、国民の利益を優先する前提があるという価値観が国の機関に欠落していたのです。

 よく「組織単位の不祥事」がニュースになっている。

 会社ぐるみで犯罪行為に手を染めるような行為だ。最近も「不動産を買うために上司の命令で放火した」という事件がニュースになっていた。

 ふつう、いくら上司に命令されたからってそんなことはしない。上司の命令よりも法律のほうが優先されるに決まっている。誰だってわかる。

 でも。法律や社会のルールよりも、狭いコミュニティのルールを優先してしまうことがよくある。特別な人間だけではない。実に多くの人が過ちを犯す。

 街中で子どもを殴る大人はほとんどいない。でも、学校の中、部活の中ではそんな大人は山ほどいる。街中で他人を大声で罵倒しない人が、会社の中では部下を大声で人格否定をして恫喝する。

 特に「いいことをしている」と信じている人は危険だ。ボランティアスタッフが、通行の妨げとなる場所で活動をする。ボランティアをするという大義名分が、社会のルールを守るというあたりまえのことを上回ってしまうのだ。

 組織のローカルルールが強くなりすぎると、とりかえしのつかない大失敗を招いてしまう。



 先ほどの話にも通じるが、強い上下関係があると失敗は起きやすい。

 教授と助教授、あるいは教授と学生というように、上下関係がはっきりしている大学内の人間関係には、ともすれば上の者がいったことはそのまま通ってしまい、真のブラッシュアップができなくなり、組織の硬直化が起こりやすいという欠点があります。これを避けるためにはグループ内での徹底的な批判が大切です。そのために私は、助教授に向かって、
「私も思ったとおりのことをいうからあなたも自分の思ったとおりにいいなさい。お互いの意見が違ったときには、最後にはあなたの意見を採用するので、どんなときにでも遠慮せずに自分の意見をいいなさい」
 と念を押しています。その甲斐あってか、私が出したアイデアもいまでは助教授からずけずけと批判されています。
 正直にいえば、自分が創造したものがまわりの批判にさらされるのは、あまり気持ちがいいものではありません。「何だと!」と思うこともしばしばですが、この試練を経験したものは、研ぎ澄まされた形で世に出せるという大きなメリットがあるので、外に出たときに真の強さを発揮するのです。それに比べれば、まわりの批判に感じる一時の不快感など本当にとるに足らないものだと感じています。
 まわりの人間を巻き込む形で行う仮想演習で改良が加えられ、想定される問題点をほぼ克服したものは、それが企画であれ設計であれ、世に出てから本当の意味での強さを発揮します。批判を嫌ったところで、結局は問題点があれば世に出てから徹底的にたたかれ、大いに恥をかくことになりかねないのですから、仮想演習は早い段階で徹底的にやるのが一番です。

 成功者の周囲がイエスマンばかりになって、どんどん間違った道へ突き進んでしまう……。よく見る光景だ。

 人間誰しも批判されることは嫌いだ。でも批判を遠ざけてしまうと、間違った道に進んでも引き戻してくれる人がいなくなる。えらい人がそのえらさゆえにえらくなくなってしまう。

 部下から誤りを指摘されることを恥だと考える人は、誤りを修正する機会を失ってしまう。聞くは一時の恥聞かぬは一生の恥とはよく言ったものだ。



 失敗を起こしやすい体質について。

 会社を見分けるときに、概していえるのは、会議の多い会社ほど、失敗を起こしやすい体質を備えているということです。日本組織は、「決断力に欠ける」などという批判を海外から受けます。会社の中で頻繁に開かれる会議は、まさにその象徴といえます。
 会議の目的は、本来は議論により結論を得ることと、決められたことを連絡する場合の二種類に大別できます。ところが、参加する側にはその意識が希薄で、自分とは関係ないと思って聞いていない、居眠りをしている、定時に来ない、呼び出しがあると逃げるなどということがよくあります。日常的に見られる参加者たちのこうした行動は、意味のない、ムダな会議が多いという現実を如実に表しています。
 実際、会議の場での議論で重要な決定がなされることは、現実にはほとんどありません。むしろ審議をして決めたという既成事実づくりが目的で、これを盾に反対者の口封じを行ったり、失敗時の責任回避のための予防線にされているのが実態です。責任回避のための会議を頻繁に開く組織では、ひとりひとりの責任意識までが希薄になり、小失敗を見つけても、これに素早く対処する発想も出てきません。これがまさにダメ組織にありがちな姿で、放置された失敗がやがて致命的な失敗に成長し、組織に多大な被害をあたえることは想像に難くありません。

 そうなのよね。会議って最初は「様々な意見を聞きたい」「みんなで議論して思考を深めたい」みたいな意図で始まって、はじめはそこそこ効果を上げる。でも回を重ねるごとに意義は失われてゆき、「やめて文句を言われたらいやだから」「失敗の責任を押しつけられないようにみんなで決めたということにしたい」みたいな理由でだらだらと継続してゆく。さらには「あいつは俺に反対意見ばかり言うからメンバーから外そう」なんて動きをする人間まで現れて、広く意見を聞くどころか、多様な意見を封じるために会議が使われたりする。



 失敗から学ぶ、失敗の芽を早めに摘むための方法がいろいろ書いてあって参考になるんだけど、これを実践するのはむずかしそうだ。特に組織が大きくなればなるほど。

「失敗を防ぐよりも自分の評価を下げないことのほうが優先」という人がぜったいにいるからなあ。


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2026年2月20日金曜日

小ネタ46(DBネーミング / 下半身 / ヘルプマーク)

DBネーミング

 ドラゴンボールのすごさのひとつに「悪役のネーミング」がある。

 ふつう悪役って悪そう、強そうな名前をつけたくなるじゃない。濁点多めの。

 なのにドラゴンボールの悪役はほとんどが悪役っぽくない名前を持っている。作中ではじめて殺人を犯した桃白白(タオパイパイ)なんて、漢字も音もすごくカワイイ。ピッコロもかわいい。音の響きだけでいえばピッコロの手下であるシンバルとかドラムのほうがよっぽど強そうだ。ベジータとかナッパなんて野菜だぜ。食べ物縛りで悪役の名前をつけるとなったら、ふつう肉の名前をつけない? ビフテキとかボルシチとかケバブとか。野菜をつけようとおもう? 

 でもセル編はふつうだ。ドクターゲロとかセルとか、いかにも悪役っぽいネーミングだ。まあセル編ってドラゴンボールの中ではちょっと異色だしな。主人公の交代を図っていた時期だし。ふつうすぎて逆に異色。


下半身

「議員が秘書を蹴った」とか「議員が大切なものを踏んづけた」といった醜聞の場合も『下半身スキャンダル』と言っていい。


ヘルプマーク

 通勤電車で、座席に座っていると目の前にヘルプマークつけている人が立った。席を譲ったら感謝された。

 ……と、ここまではお互い気分よくなれてよかった話なのだが、どうも譲った相手に顔を覚えられたらしく次の日もその次の日もぼくの前に立ってくるようになった。嫌になったので乗る車両を変えた。