2025年3月27日木曜日

【ボードゲームレビュー】DORADA(ドラダ)


 DORADA(ドラダ)

 1988年にドイツで発売されたボードゲーム。発売中止になっていたらしいが、2024年に再販されたらしい。総合パズル雑誌『ニコリ』で紹介されていておもしろそうだったので購入。



【ルール】

  • 2~4人用。4人でやっても1ゲーム15分もかからないぐらい。
  • 基本的にはすごろく。1人4つの駒を持ち、サイコロを振った後にどれか1つの駒を動かし、ゴールを目指す。
  • 他人の駒や自分の駒の上に乗ることができる。上に他の駒が乗っている駒は動かすことができない。
  • 盤面中盤にはワープゾーンがあり、そこに止まると一気にゴールできる。
  • 盤面にはいくつか落とし穴があり、そこに落ちた駒はもう動かせない。ただし1つの穴につき落ちる駒は1つまでで、すでに誰かが落ちている穴は通常のマスと同じになる。
  • 盤面には「+4」「-3」などの指示があるマスがあり、止まった場合はその指示に従う。ただしこれらの指示に従って進んでいる場合にかぎり、他の駒を飛ばして移動する(このルールはちょっとややこしい)。
  • はじめは4つの駒を動かせるが、「既にゴールした」「落とし穴に落ちた」「上に他の駒が乗っている」駒は動かせないため、動かせる駒は減っていく。動かせる駒がひとつもない場合はパス。
  • すべての駒がゴール、または落とし穴に落ちたら試合終了。得点の高いプレイヤーが勝ち。落とし穴に落ちた駒は0点。ゴールした駒は、ゴール順に応じて点数が割り振られる。遅くゴールしたほうが得点は高くなる




【感想】

 シンプルなルールのすごろくなのにけっこう駆け引きが要求される。

 最後の「遅くゴールしたほうが得点は高くなる」というルールが非常にユニークかつゲームをおもしろくしている。

 これにより「いつゴールするのがベストか?」という迷いが生まれる。「ゴールできるけど、今ゴールしてもたぶん得点は低いだろうな。かといってこのチャンスを逃したらゴールできずに落とし穴に落ちてしまうかもしれない……」という葛藤が生じる。

 また「他プレイヤーの駒の上に乗ってじゃまをする(相手は選択肢が減るので落とし穴にはまりやすくなる)」という戦術が使えるので「いかに敵の駒の動きを封じるか」という攻防がくりひろげられることになる。基本的に「上に乗られて動けなくなる」のはマイナスなのだが、「すべての駒が動けなくなる」のはプラスにはたらく。なぜなら、ゴールが遅くなって高得点につながるから。ある戦略が状況次第でプラスにもマイナスにもはたらくのがおもしろい。。


 そして、いちばんいいのが運の要素が大きいこと。なんだかんだいってすごろくなので、最後はサイコロの出目で決まる。戦略をめぐらせることで勝率をある程度引き上げることはできるが、運が悪ければ負けるときは負ける。

 ぼくは子どもと遊ぶのだが手加減はしたくないので、このぐらいの「戦略も重要だが結局は運で決まる」ゲームがちょうどいい。確率も戦略もわかっていない小さい子でも勝てる(ただしわざと負けてあげることもできないので、「負けたらすぐ泣く子」と遊ぶのには向いてない)。


 あとゲームのデザインもいい。シンプルな盤面とシンプルな形の駒。材質もしっかりしている。ゴール地点には駒を10個以上積み重ねることもあるのだが、安定感があってぜんぜん倒れない。ボードゲームによっては「うっかり倒しちゃって状況がむちゃくちゃになってしまう」ことがあってけっこうなストレスなのだが、その心配も少ない。


 シンプルなルール、誰にでも勝つチャンスがある、ほどよい駆け引き、短時間で完結、とボードゲーム初心者に安心しておすすめできるゲームです。


【関連記事】

【ボードゲームレビュー】街コロ通

【ボードゲームレビュー】ラビリンス


2025年3月25日火曜日

【読書感想文】貫井 徳郎『光と影の誘惑』 / ペンギン関係ないんかい


 光と影の誘惑

貫井 徳郎

内容(e-honより)
銀行の現金輸送車を襲い、一億円を手に入れろ―。鬱屈するしかない日常に辟易し、二人の男が巧妙に仕組んだ輸送車からの現金強奪計画。すべてはうまくいくかのようにみえたのだが…。男たちの野望が招いた悲劇を描く表題作ほか、平和な家庭を突如襲った児童誘拐事件、動物園での密室殺人など、名手・貫井徳郎が鮮やかなストーリーテリングで魅せる、珠玉の中編ミステリ4編。

 ミステリ中篇集。元は1998年刊行だそう。

 うーん、「おもしろくなりそう」な作品が多かったな……。

(以下、ネタバレ含みます)



『長く孤独な誘拐』

 息子が誘拐された。両親のもとにかかってきた誘拐犯からの電話。誘拐犯の要求は「息子を返してほしければ、今から言う子を誘拐しろ……」

 息子を誘拐された被害者が犯人になるという二重誘拐事件。これはおもしろい設定だとおもったのだが……。


 あたりまえだけど、「自分で誘拐&身代金受け渡しをやる」よりも「会ったこともない人に命じて誘拐&身代金受け渡しをさせる」ほうがはるかに難しいはず。それなのに順調に事が運ぶ。ということは……。

 かなり早い段階でオチが読めてしまう。そもそもミステリで誘拐事件が書かれる場合って、かなりの確率で狂言誘拐パターンだからね。



『二十四羽の目撃者』

 突然の海外コメディのような文体。そのわりにウィットに富んだ会話がくりひろげられるわけではなく、「怖い上司に怒られちゃったよ。とほほ……」「おっかない警察官に怒られちゃったよ。とほほ……」みたいな昭和臭の漂うやりとりが続く。

 そもそもこの人の文章は重めで、説明が多くてテンポが遅いので、こういう軽妙な文体は似合わないとおもうんだけど。

 動物園で起きた殺人事件、屋外の密室、という設定はおもしろかったんだけど、明らかになるのは「ミステリ作家が頭の中だけで考えたとうていうまくいくとはおもえないトリック」。なんだよ、「手袋に風船を結びつけておき、発砲後は風船が飛んでいくので現場に残らない」って。

 そして、意味ありげなタイトルも、動物園という舞台もぜんぜん本筋に関係なかった。ペンギン舎の横で殺人が起きてタイトルが『二十四羽の目撃者』なのに、謎解きにペンギン関係ないんかい。



『光と影の誘惑』

 現金輸送車から金を奪う計画を立てる二人の男。

 もう、「ふたりの胸中が交互に語られる」時点であのパターンだとわかる。さすがに今では手垢にまみれすぎた手法。1998年時点ではまだ古びてなかったのかなあ。

 しかも「かつて自分が騙して殺した相手と同じ苗字で顔もよく似た男が現れたのにまったく警戒しない」ってどうなのよ。雑ー!


『我が母の教えたまいし歌』

 父を亡くした大学生。葬儀を取り仕切っているうちに、一人っ子だとおもって育ってきた自分に姉がいたことを知らされる。さらに人付き合いの苦手な母がかつては社交的だったこと、両親の転居の時期にいろいろなことが起こっていたことなどが明らかに。はたして姉はどこにいるのか……。


 四篇の中ではこれがいちばんよかった。オチの切れ味もいいし、真相を明かしてすぱっと終わらせているのもいい。



【関連記事】

【コント】驚きのラスト! もう一度読み返したくなる! あなたも必ず騙される

【読書感想文】竹宮 ゆゆこ『砕け散るところを見せてあげる』 / なんか悔しいけどおもしろかったぜ



 その他の読書感想文はこちら


【読書感想文】安藤優一郎『百万都市を俯瞰する 江戸の間取り』 / のび太みたいなことをやる大名

百万都市を俯瞰する
江戸の間取り

安藤優一郎

内容(Amazonより)
江戸は五〇〇年以上も前から関東の港湾都市として賑わいを見せていたが、天正18年(1590)に徳川家康が居城に定めたことで、大きく変貌を遂げた。当初は軍事拠点として城の整備が進められ、関ヶ原で徳川家が勝利したのち武家人口・町人人口が急増すると、一大消費地点として発展。ついには世界最大級の百万都市にまで成長し、現代東京の礎が築かれることとなる。
本書では、そんな江戸という巨大城下町を、「間取り」を介して解説していく。具体的には江戸城のほか、武家地、町人地、寺社地、江戸郊外地という五つの土地毎に章を分け、各建物の内部構造や周辺の俯瞰図を見ながら、江戸に住む人々の暮らしに迫っている。(中略)この五つの切り口を通じて、城下町江戸で暮らす武士や町人の生活を、様々な間取り図とともに解き明かしていこう。(「はじめに」より)

「間取り」という切り口で、江戸の人々の暮らしをひも解く本。江戸城、武家、寺社などが中心。ぼくは落語は好きだけど時代小説も時代劇もほとんど見ないので、個人的には名もなき人々の暮らしぶりを知りたかった。でも紙も文字も一般的でない時代なので、一般人の暮らしぶりをわざわざ書き残したりはしない。間取り図を残すのは名のある家や金持ちだけだよね。当然だけど残念。

 

 改めて、市井の人々の暮らしって残りにくいものだと感じる。

 今の我々の暮らしも百年後の人々にとっては興味深い「歴史資料」になっているんだろうけど、わざわざ不動産広告のチラシを百年後に残したりしないもんな。子孫に残すなら貴重な金銀財宝よりも、「ごみとしかおもえないどうでもいい紙切れ」とかのほうがおもしろいかもしれない。いや、金銀財宝も欲しいけど。



 おもしろかったのが、江戸に多くあった大名屋敷について。

 各藩の大名たちが住む屋敷は、幕府から与えられた土地に建てられた。ただし与えられたのは土地だけで、建物はそれぞれで建てなければならなかったそうだ。

 だからだろうか、それぞれ趣向を凝らしてけっこう好き勝手に建てていたのだそうだ。

  別荘・倉庫・避難所として使われた下屋敷は上屋敷・中屋敷とは異なり、複数下賜される事例が珍しくなかった。尾張藩もその一つだが、江戸郊外で下賜されることが多かったため、江戸城近くで下賜された上屋敷や中屋敷よりも面積はかなり大きかった。なかでも、尾張藩の戸山屋敷(現新宿区戸山一~三丁目)の広さは群を抜いた。市谷屋敷以上の規模である八万五〇〇〇坪を下賜されたが、尾張藩では周囲の農地を購入して戸山屋敷に組み込んだため、その分を合わせると一三万坪にも達した。
 (中略)
 戸山荘二十五景の一つである龍門の滝でのアトラクションは、戸山荘の名物の一つになっていた。まず、巨大な池から滝へと流れていく水を堰き止めておく。訪問客たちが渓流に配された飛び石の上を渡り切ると、堰き止めの板を外して滝へ水を落とす。そうすると、今まで渡って来た飛び石が水中に没するという趣向であった。
 (中略)
 戸山荘(戸山屋敷)のように、とりわけ面積が大きかった下屋敷は庭園化する傾向がみられたが、楽しめたのは景観だけではない。本物そっくりの宿場町のレプリカも作られていたのだ。
 同じく二十五景の一つに数えられた「御町屋通り」は、東海道小田原宿をモデルにして造られたと伝えられる。図のように、三七軒もの町屋が七五間(約一三六メートル)にわたって立ち並んでいた。一軒の間口は平均約三間(五・五メートル)だった。
 米屋・家具屋・菓子屋・旅龍屋などの店舗や弓師・矢師・鍛冶屋などの職人の店つまり町屋が、時代劇のセットのように実寸大に造られたのである。本当に旅をしているかのような幻想を戸山荘の訪問客に湧き立たせる粋な趣向が施されていた。

 人口の滝をつくって客に見せたり、宿場町のレプリカを作ったり。

 これはあれだな。ドラえもんの道具を使ってのび太がやるやつだな。

 江戸に住む大名というと何かと不自由なイメージがあったんだけど、こんなふうにあんな夢こんな夢かなえているのを見ると、けっこう江戸生活を楽しんでいた大名も多かったのかもしれない。単身赴任で羽を伸ばすみたいな。




 さらに屋敷内の土地を貸したり農地にしたりして、生活の足しにしていたという。

 貸家もあるが、屋敷内の土地を貸して生活の足しにするのは、御徒に限らず御家人にとってはごく普通の経済行為だった。他の組屋敷の事例をみると、同じ御家人や藩士のほか、御坊主衆・学者・医師などが御徒の屋敷に地借している。
 御徒の組屋敷は深川でも与えられたが、深川の場合は個々の屋敷の規模は一三〇坪ほどであった。建坪二〇~三〇坪ほどの建物の構造も山本政恒の屋敷と似たようなものだが、裕福な者は土蔵や湯殿を持っていた。
 空いた土地は農地にする一方、地代を取って貸し付けた。農地には茄子や胡瓜を植え、自家用にしている。
 組屋敷は組単位で活用する方法もあった。東京の初夏の風物詩として入谷(現台東区)の朝顔市は有名だが、御徒などの御家人が内職として栽培した朝顔を市場に出したことがはじまりである。栽培するとなると相応の土地が必要だが、そこで活用されたのが組屋敷だった。組屋敷として与えられた土地を朝顔の栽培地として共同利用したわけだ。
 現在の東京都新宿区大久保周辺に住んでいた鉄砲百人組の同心が組屋敷で共同して栽培したツツジに至っては、江戸のガーデニングブームのなかで名産品となる。東京都新宿区の花はツツジだが、その由緒は大久保の百人組同心のツツジ栽培にまでさかのぼるのである。
 他の御家人の組屋敷では鈴虫や金魚の飼育も盛んであった。養殖には巨大な池が必要だが、組単位で土地活用すれば、それも可能だ。こうした御家人によるサイドビジネスが、江戸の庭園・ペット文化を支えていた。

 武士は武士としてふるまっていたようにおもってしまうけど、武士は武士でけっこう商売をやっていたのだ。

 江戸時代の人々はつつましい生活をしていたようなイメージを持っていたけど、我々と同じように経済活動をしたり、趣味にお金を使ったりしていたことがわかる。ガーデニングをしたりペットを飼ったり。歴史の教科書には書かれないし時代劇にもあんまり出てこないけどさ。

 ひょっとすると江戸の町人のほうがぼくらより贅沢な生活を送っていたのかもね。


【関連記事】

【読書感想文】速水 融『歴史人口学の世界』 / 昔も今も都市は蟻地獄

【読書感想文】江戸時代は百姓の時代 / 渡辺 尚志『百姓たちの江戸時代』



 その他の読書感想文はこちら


2025年3月21日金曜日

【映画感想】『映画ドラえもん のび太の絵世界物語』


『映画ドラえもん のび太の絵世界物語』

内容(映画.comより)
国民的アニメ「ドラえもん」の長編映画44作目で、「映画ドラえもん」シリーズ45周年記念作品。絵の中の世界に飛び込んだドラえもんとのび太たちが、幻の宝石を巡って時空を超えた冒険を繰り広げる。
数十億円の価値がある絵画が発見されたというニュースを横目に、夏休みの宿題である絵に取り組んでいるのび太。そんな彼の前に、突然絵の切れ端が落ちてくる。ひみつ道具「はいりこみライト」を使い、その絵の中に入って探検をしていると、不思議な少女クレアと出会う。彼女の頼みを受けて「アートリア公国」を目指すドラえもんとのび太たちだったが、そこはニュースで話題になっていた絵画に描かれた、中世ヨーロッパの世界だった。その世界には「アートリアブルー」という幻の宝石がどこかに眠っているという。幻の宝石を探すことになったドラえもんとのび太たちだったが、やがてアートリア公国に伝わる世界滅亡の伝説がよみがえってしまい、大ピンチに陥る。

 映画館にて視聴。

 事前にレビューサイトをちらっと見たらかなり評判が良かった。「ドラえもん映画史上最高傑作」とまで書いている人もいた。期待しながら鑑賞。

 うん、これは噂にたがわぬ名作。史上最高傑作を決めるのはむずかしいが(ドラえもん映画のNo.1はたいてい子どものときに観た作品になる)、上位に入ることはまちがいない。

(以下、わずかにネタバレを含みます)



そんなに新しいことはしていないのがいい

 何がいいって、そんなに新しいことはしてないんだよね。

 ドラえもんの道具を使って非日常の世界に行って、そこで友だちができて、その世界になじんできたところで悪いやつが現れて、みんなで力を合わせて、ドラえもんの道具を使い、強大な敵と立ち向かう。最後は知恵と勇気で敵をやっつけてめでたしめでたし。

 典型的なドラえもん映画のパターンだ。40年以上前から大枠は変わっていない。

 でもこれでいい。制作者は、観客が何を求めているかをわかっている。

 ドラえもん映画を観にいく人は“ドラえもんの映画”を観たいのだ。脚本家や監督のクリエイティビティを見せつけられたいんじゃない(わかってる? 『のび太の×××××』を作った人たち)。

 いつものキャラクターたちが、いつものように行動し、いつものようにドラえもんが道具を出して解決する。そういう映画を観たいわけよ。「のび太が努力を重ねて演奏を上達させて音楽の力で敵をやっつける話」なんてやったら『ドラえもん』じゃないのよ(あっ書いちゃった)。

 ちゃんと『ドラえもん』の枠組みを守った中でおもしろい話を作ってほしい。『空の理想郷』や『絵世界物語』はそれができることを証明してくれた。マンネリと言われようと、同じところは同じでいい。なぜならドラえもん映画のメインターゲットである子どもたちは数年で入れ替わってゆくのだから。

 制約の中でいいものを作るのが真のクリエイターだとおもうよ。


秀逸なオープニング

 オープニング映像がすばらしい。『夢をかなえてドラえもん』に合わせて、のび太たちが名画の中で躍動する。いやがおうでもこれから始まる大冒険への期待をかきたてられてわくわくする。この映像だけくりかえし見たいぐらい。

 そして謎の少女、空から現れた欠けた絵。このミステリアスな導入をコミカルに描いているところもすばらしい。これからのストーリー展開に必要な導入をただの説明で処理せず、楽しいシーンとして見せてくれる。丁寧な仕事だ。

 中盤の水加工用ふりかけで家を作るシーンも、音楽ベースで楽しく見せてくれる。セリフはないけど何を言っているかがちゃんとわかる。いい仕事だ。


おなじみの道具

 原点回帰というか、今作では映画ドラえもんでおなじみの道具が数多く登場した。

 グルメテーブルかけ、着せ替えカメラ、とうめいマント、空気砲、ヒラリマント、瞬間接着銃……。

 今作のキーアイテムであるはいりこみライトは『ドラビアンナイト』などでおなじみの絵本入りこみぐつとほぼ同じ。

 ストーリー上重要な役割を果たす水加工用ふりかけ、かるがるつりざお、ころばし屋、本物クレヨン、モーゼステッキなども原作にも登場したことのある道具で、すぐに機能が理解できる。

 なので言葉による道具の説明がほとんどない。これがいい。

 小さい子にもすぐにわかるし、ストーリー進行のじゃまをしない。時空間チェンジャーみたいに「過去24時間内に行ったことがある場所と時間と範囲を指定して、現在いる空間と入れ替えることができる」なんてややこしい道具は出てこない。なんだそのごちゃごちゃした設定。『ドラえもん』読んだことあるのかよ(また『地球交響曲』の悪口になってしまった)。

「いちいちキャラクターや設定の説明をせずに済むのでストーリー展開に時間を割くことができる」というシリーズものの利点をうまく生かしている。


伏線のうまさとわざとらしさ

「わらわは風呂は嫌いじゃ」のセリフや流しそうめんのシーンが、結末に関するヒントになっているのがニクい。

 “後の展開への伏線になっているけど、それに気づかなくてもおもしろい”のがいい伏線だ。

 一方で、ボスとの戦闘で起死回生の役割を果たす道具については、少々わざとらしい。かなり強めに印象付けようとしてくるので「あ、これは終盤で使うやつだな」とわかるし、「あの道具さえあれば」なんて不自然なセリフまで出てくる。いちばんカタルシスを得られる場面だっただけに、もっとさりげなく提示してほしかったな。


 あと、ちょっと省略が効きすぎていた。

 しずかちゃんが二回目に絵世界に来たシーンとか、ジャイアンたちが眠りから覚めるシーンとかが省略されていたので、うちの子(11歳)は観終わった後に「いつジャイアンたちは目覚めたの?」となっていた。

 絵世界についての説明も短く、子どもが一度観ただけですべてを理解するのはかなりむずかしいんじゃないかとおもう。

 次から次にいろんなことが起こり、ストーリーのボリュームがあるので観ていて楽しいが、その代償として「子どもがすんなり理解できる」点が損なわれているように感じる。

 ディズニー映画もそうだけど、ターゲットが広がると同時にどんどんストーリーが複雑化して、本来のターゲットであった子どもが置いてけぼりになっているようにおもえる。少子化だからしかたないのかな……。


ほどよいメッセージ性

 ほとんどのドラえもん映画は、ただのエンタテインメントだけでなく、若干のメッセージ性も持っている。

 ほどよいメッセージは物語に深みを持たせてくれるが、それが強すぎると説教くさくておもしろくない。またメッセージが作品にあっていなくてはならない。「努力は大切だよ」というのはメッセージとして間違っていないが、それを『新恐竜』や『地球交響曲』のようにのび太が努力している姿で表現したら『ドラえもん』でなくなる。

『絵世界物語』から発される(とぼくが感じた)メッセージは、『ドラえもん』の世界にあったものだった。

 マイロが友だちとしてのび太に語る言葉、ラストシーンでテレビに映った下手な絵を見たのび太のパパのつぶやき。決して押しつけがましいものではなく、とことん優しい。教訓ではなく、ダメなものに対する肯定。

 よく落語は“業の肯定”の芸だと言われる。愚かでも、怠惰でも、狡猾でも、強欲でも、それが人間の性だとして否定しない。ぼくは『ドラえもん』も同じだとおもう。

 のび太は愚かで怠惰で狡猾で強欲だ。何度も同じ過ちをくりかえし、努力も反省も成長もしない。けれどドラえもんはとことんのび太を甘やかす。何度裏切られても、のび太の「努力せずにいい目を見たい」という欲求を叶えてやろうとする。

 穂村弘は、母親の無償の愛情を「自分に無償の愛を垂れ流している壊れた蛇口みたいなもの」と表現したが、のび太にとって、そして読者にとってドラえもんは“壊れた蛇口”だ。

 ダメでもいい。ダメだからいい。ラストのパパのセリフは、『ドラえもん』に通底する精神をきちんと汲んだものだった。


最古参のファン

 ぼくが映画館で『絵世界物語』を観たのは日曜日のお昼。当然、周りはファミリー客ばかりだった。

 その中で目を引いたのが、近くの座席に座っていた客。70歳ぐらいのじいさん二人連れだった。

『ドラえもん』の連載開始が1969年。ひょっとするとあのじいさんたち、当時からの『ドラえもん』ファンかもしれない。

 いいなあ。ぼくもじいさん同士で『ドラえもん』を観にいくようなじじいになりたいぜ。


【関連記事】

【映画感想】『映画ドラえもん のび太の地球交響曲』

【映画感想】『映画ドラえもん のび太と空の理想郷』

【映画感想】『のび太の宇宙小戦争 2021』

【映画感想】『のび太の月面探査記』

出木杉の苦悩

【読書感想文】「壊れた蛇口」の必要性 / 穂村 弘・山田 航『世界中が夕焼け』

夏休みの宿題をさっさと終わらせてしまう人の心理

 「夏休みの宿題をやっていかなくて、最初のうちは先生から早く宿題出せよと言われるのに、そのうち何にも言われなくなる。その経験が今の自分を形作っている」

と書いている人がいた。


 なんかしみじみと納得した。

 そうなんだよなあ。「早く宿題出せよ」と言われるのはつらいけど、あれは意地悪ではなく、むしろ温情だったんだよなあと大人になってから気づくんだよね。更生するなら今のうちだぞ、とチャンスをくれてるんだよね。


 今でも忘れない、小学二年生の冬休み、始業式の前日の夜になっても宿題が終わってなくて、半泣きになって両親に手伝ってもらいながら(といっても答え合わせをやってもらうとか)なんとか終わらせた。

 親からは「今度からは早めにやるんだぞ」と言われ、つくづくその通りだとおもい、それからぼくは長期休みの宿題は毎回早めにやるようになった。

 今おもうと、小二の冬休みの「始業式前日なのに宿題が終わってない」はいい経験だとおもう。あの失敗があったからこそその後の大きな失敗を回避できたのだろう。


 夏休みの宿題をやらないと、嫌なことからすぐ逃げる大人になるのかどうかはわからない。相関があるようにおもうが、もしかするとぜんぜん関係ないのかもしれない。


 大人になってわかるのは、バイト、いやそれどころか正社員であっても、「何も言わずに来なくなる大人はめずらしくない」ということだ。

 いやまあいろんな事情があるんだろう。精神的に追い詰められているのかもしれない。

 それでも、いや、だからこそ、「やめます」の連絡はしたほうがいい。だって何も言わずに辞めるほうがずっとめんどくさいことになるんだから。電話して「今日でやめます」と言ったら雇い主から文句を言われて(まあ文句っていうか当然の抗議なんだけど)嫌な思いをするかもしれないが、せいぜい数分だけだ。

 連絡せずに仕事をサボり、その後何度も電話がかかってきてそのたびに嫌な思いをして、その店や会社の近くに行くたびにびくびくしたりするほうがずっとしんどい。へたしたら一生嫌なおもいを引きずることになる。


「聞くは一時の恥、知らぬは一生の恥」という言葉があるが、「面倒ごとをやるのは一時の苦痛、やらないのは一生の苦痛」だ。


「夏休みの宿題を早めに終わらす」というと「嫌なことに耐える性格」のようにおもわれがちだが、ぜんぜんそんなことはない。

「宿題をやること」と「宿題が終わっていないこと」のどっちが嫌かを考え、後者のほうがより嫌だとおもっているから宿題をさっさとやってしまうのだ。

 つらいことに耐えたくないから、つらいことをやってしまうのだよ。