2026年2月16日月曜日

【読書感想文】長岡 弘樹『教場』 / そうまでして警察官になりたいの

教場

長岡 弘樹

内容(e-honより)
希望に燃え、警察学校初任科第九十八期短期過程に入校した生徒たち。彼らを待ち受けていたのは、冷厳な白髪教官・風間公親だった。半年にわたり続く過酷な訓練と授業、厳格な規律、外出不可という環境のなかで、わずかなミスもすべて見抜いてしまう風間に睨まれれば最後、即日退校という結果が待っている。必要な人材を育てる前に、不要な人材をはじきだすための篩。それが、警察学校だ。週刊文春「二〇一三年ミステリーベスト10」国内部門第一位に輝き、本屋大賞にもノミネートされた“既視感ゼロ”の警察小説、待望の文庫化!

 こないだ『教場』テレビドラマを放送していた。途中から観た。

「断片的にはけっこうおもしろいけど全体的によくわかんないドラマだな」とおもった。途中から観たせいだろうとおもって原作小説を読んでみた。

 ……うん、原作も同じだった。断片的なエピソードはおもしろいんだけど「全体的にどうだった?」と訊かれると答えに窮してしまう。神話とか聖書みたい。エピソードの詰め合わせで、全体を貫く芯のようなものがあまり見えてこない。

 いや、全体を貫く芯はあるにはある。教場(警察学校)の教官である風間だ。どんな些細な変化も嘘も見逃さない厳格な教官。この教官の観察眼がストーリーを動かしている。

 だが。この風間教官、ほとんど全智全能の神なんだよね。すべてを見透かしてしまう。あらゆる知識が頭に入っているし、どんな隠し事も風間教官の前では通用しない。弱点がまるでない。神といっしょだ。だから神話や聖書みたいな読後感になってしまう。『教場』を読んでいると、小説の登場人物を魅力的なものにするのは欠点なのだとつくづく感じる。

(ところでドラマ版ではこの風間教官をキムタクが演じていたのだが、実にぴったりの配役だとおもう。完璧すぎてつけいる隙のない人物として適役だった。人間的おもしろみのなさがぴったりハマっていた)

 どの短篇もミステリとしてよくできているのだけど、よくできすぎている気もする。


 風間教官がおもしろみのない人物であるのと対称的に、警察学校の生徒たちは実に人間くさい。悩み、迷い、疑い、失敗をし、嘘をつき、ごまかし、他人を陥れようとする。神の前で右往左往する哀れな人間、という感じだ。ぼくらが共感するのはこっち側だ。

 絶対的な神である風間教官は、決して生徒の嘘を見逃さない。だから『教場』には常に息苦しさが漂っている。生徒たちと同じように、「おまえらの行動はすべて見張られているんだぞ」と言われている気分だ。まるで囚人になったような気分だ。いや、囚人ですらもうちょっと自由があるのではないか。看守は神ではないのだから。

 このまとわりつくような息苦しさ、個人的には嫌いではない(フィクションとして楽しむ分には)。臭いとわかっていて汗の染みた靴下のにおいを嗅いでしまうように、ついつい引き寄せられてしまう不愉快さがある。



『教場』で書かれる警察学校の生活はとても厳しい。刑務所のほうがここよりずっと楽だろう、とおもえる。

 もちろん小説なので実際の警察学校とはちがうのだろうが、一部は現実に近い(あるいは現実のほうがもっと酷い)のだろうなと思わされる。

 徹頭徹尾管理され、理不尽な規則や暴力にも従わなければならない世界。生徒たちに人権はない。そんな場所にいる人間がまともな感覚を保てるはずがない。

 そう話すと尾崎は、分かってねえな、というように顔の前で手を振った。「集団の狂気ってのは怖いぜ。微妙なアリバイなんざ役に立たねえ」「どういうことですか」「学校側の締め付けが続くと、いずれはどんなことが起きると思う?
 学生のなかで犯人の燻り出しが始まるのよ。少しでも怪しいやつがいりゃあ、殴る蹴るのリンチまがいの手を使ってでもそいつに罪を認めさせ、出頭させる。いわゆるスケープゴートってやつだな。そうやって、できるだけ早いとこ一件落着を図るってわけだ。本当だぜ、おれが学生んときにも似たようなことがあったからな」
 すべては学校側の狙いどおりだよ。そうやって横並びの仲間より、縦の組織を大事にする人間を作るのさ──そう尾崎は付け足してから、ズボンのポケットに手を突っ込んだ。

 校則の厳しい学校や強豪部活で往々にしてフラストレーションが集団内いじめに向かうように、理不尽な目に遭った者たちはさらに弱い者を攻撃するようになるのが世の常だ。(警察学校に限らず)警察内でハラスメントや暴力が問題になっているのをよく耳にする。


 ぼくが疑問におもうのは、なんでそこまでして警察官になりたいんだろうということだ。この屈辱的な仕打ちを耐え忍んだ先に強大な権力が手に入るというのであればまだわかる。

 だが理不尽な指導や暴力に耐えて耐えて警察学校を卒業したところで、その先に待つのはやはり上からの理不尽な指導に耐える日々だろう。公務員なのでものすごく給与が高いわけでもない。めちゃくちゃ出世して警視総監になったところで、己のために権力を使えるわけではない(まあそれなりの役得もあるだろうけど)。しょうもない政治家にぺこぺこしなきゃいけない。

 一部の国では警察組織が腐敗していて、警官が賄賂を受け取ったり身内の犯罪をもみ消したりするという。そういう国だったら警察官を目指すのはまだ理解できるんだけどね。

 ぼくのような怠惰な人間は、もっと楽で待遇のいい仕事はいくらでもあるのに、とおもってしまう。警察官を目指す人の気持ちはどうもよくわからない。



『教場』で書かれている警察学校の描写ってどこまで事実に基づいているのだろう。

 ずいぶん取材をして書いたらしいのでどれも本当のような気もするし、さすがにそれは厳しすぎるだろうとおもう面もある。


 たとえば生徒が毎日書いて提出しなければならない日記について。

 字面もそうだが、もちろん内容だって疎かにはできない。日記には事実しか書いてはいけないことになっている。もしも誤認した記述があったら、腕立てどころではない。一晩中、寮の廊下で正座していなければならなくなる。
 事実関係を勘違いしていないだろうか。水難救助は月曜の二時限目でよし。犯罪捜査も今日の四時限目で間違いない……。
 もっと恐ろしいのは、文章の中に実際にはなかったこと、つまり創作した内容を混ぜた場合だ。それが発覚したら退校処分となってしまう。
 たしかに書類は正確無比が第一だ。事実どおりの文章を書けない人間は、警察には必要ない。その理屈は分かる。
 とはいえ、いくらなんでもクビというのは厳しすぎないか。

 正確な報告を挙げなければならないという理念はわかるのだが、一発退校処分はあまりに厳しすぎる。ついついストーリーを捜索してしまうことなんてよくあることだし(ぼくなんかほら吹きなので初日で退校になるとおもう)。

 じゃあ警察官が正確な報告を挙げているかというと……。いやあ、警察組織ぐるみでの改竄や虚偽報告なんてしょっちゅう起こっているし、それがばれたときの処分もめちゃくちゃ甘いけどなあ。

 誤りや虚偽を許さない組織だからこそ、逆にミスを認めることができずに大事にしちゃうのかなあ。


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2026年2月13日金曜日

【読書感想文】筑摩書房編集部『藤子・F・不二雄 「ドラえもん」はこうして生まれた』 / 評伝はきれいなだけじゃつまらない

藤子・F・不二雄

「ドラえもん」はこうして生まれた

筑摩書房編集部

内容(Amazonより)
富山の朴とつな少年が、一生の親友と出会い、プロの漫画家を目指す。SF(すこし・ふしぎ)漫画「ドラえもん」の誕生と日本漫画界の青春時代。

『ドラえもん』『パーマン』『キテレツ大百科』『エスパー魔美』『21エモン』などのヒット作で知られる漫画家・藤子・F・不二雄の評伝。青少年向け。


 独自に調べた内容はほとんどなく、藤子不二雄Ⓐの自伝や他の評伝の内容をまとめて再構成した本、という感じなので書いている内容に新鮮味はない。おまけに青少年向けなので内容もマイルドで、「こんなに漫画を愛した人だったんです」「こんな風に努力しました」といった記述ばかりで、はっきり言ってつまらない。

 伝記って、いい面と悪い面の両方があるからこそ書かれている人が人間として立ち上がってくるんだよね。かつて読んだ伝記でも「エジソンは学校では落第生だった、おまけに家の横に作った研究室を爆発でふっとばした」「野口英世は渡米費用を借りたが、その金を遊郭で使い果たしてしまった」とかのエピソードのほうが記憶に残っている。そういう人間くさいエピソードこそ伝記の醍醐味だとおもうぜ。

「エジソンは一生懸命研究して様々な発明品を残しました」だけだったらこんなに我々の印象に残ってなかったはず。



 まあつまらない評伝になってしまうのも無理はないというか、藤子・F・不二雄さんという人は偉大な漫画家ではあるが、人間としてはあまり面白味のある人物ではなかったようだ。

 アシスタントを抱えるまでになっていた藤本は、仕事においても一定のペースで仕事をしました。
 仕事場のある新宿に着くと喫茶店に立ち寄り、キャラクターやセリフを大まかに描くネームを作ります。さらに藤本は、一ページをいつも決まった時間で描いていたと言います。藤本が描くのは一ページ二時間。それ以上でもそれ以下でもなく、きっちり二時間でしたので、自ずと一日に描けるページ数は決まってきます。
 仕事を終えた後は、藤本はたいていまっすぐ家に帰り、仕事と家庭の時間をきっちり分けて淡々と規則正しい日常を送っていました。
 行動は時計のように正確で、品行方正そのもの。破天荒と称されるマンガ家が多いなか、周囲は藤本を「マンガ家にしては珍しい人格者」と呼びました。
 しかし藤本には、プロのマンガ家として一つの考えがありました。人気マンガを描くためには、「普通の人」でなければならないというものです。
 プロのマンガ家であるということは、マンガ作品を出版物にして、何万人もの読者に届けることです。それはつまり、大勢の人が共感を持つマンガを描くということで、そのためには普通の人であるべきだと藤本は考えていました。
 職業はマンガ家であっても、電車に乗って通勤し、仕事が終わって家に帰ると家族団らんの時間を過ごす。休日には部屋の掃除をして、映画を観に出かけたり、家族と食事をする。こうした日常の繰り返しが、プロのマンガ家には必要だと思っていたのです。

 特に仕事が安定してきてからの藤子・F・不二雄氏は、とにかくサラリーマンのような生活を送っていたようだ。

 だからこそ『ドラえもん』『パーマン』『エスパー魔美』『チンプイ』のような日常の中に非日常が混ざる作品を安定して供給できたのだろう。

 ぼくの家には藤子・F・不二雄作品がたくさんあるけど、読んでいておもうのは、とにかく絵が安定しているということ。ムラがないんだよね。「ああこの時期は忙しかったんだろうな」とか「このページを描いているときは筆が乗ってたんだろうな」とか感じることがまるでない。常に安定した品質の漫画を供給している(アシスタントたちの管理が上手だったおかげでもあるのだろう)。

 なるほど、あの安定した品質の作品はこうした安定した生活によって生み出されていたんだろうな。

 こうした姿勢にはプロとしての矜持を感じるが、評伝を書く立場からするとつらいだろうな。おもしろみがなさすぎて。赤塚不二夫氏みたいな人だったらエピソードにも事欠かないんだろうけど。




 ぼくがもっと知りたかったのは、数少ない合作漫画家としての「藤子不二雄」としての面だ。成功した合作漫画家は数いれど、そのほとんどが原案と作画に分かれている。

 藤子不二雄のように「二人とも案を出し、二人で描く」というスタイルで成功した漫画家はほとんどいないんじゃないだろうか(もっとも中期以降は同じペンネームを使ってはいたが別々に描いていたそうだが)。

「天使の玉ちゃん」でもらった稿料二千四百円のほかにも、二人は時おり、マンガの投稿で賞金をもらっていました。
 気づけばそのお金もだんだん増えてきたため、二人は郵便貯金に共通の口座を作り、稿料はすべてそこに貯金することに決めます。二人は貯まったお金を「公金」と称し、ともに相談しながら画材を買ったり、映画を見るための資金として使いました。
 とてもユニークなこのシステムは、後年、二人がマンガ家としてのコンビを解消するまで続けられることになり、共同名義で描いたマンガの稿料はすべて二分割していました。
 通帳は藤本が管理し、毎月月末には「公金」から二人の給料を支払います。どちらが何ページ描いたかなどは関係なく、お金があるときも無いときも、すべて二人で分かち合うのです。
 二人でアイデアを考え、二人でマンガを描き、お金も半分ずつ分ける。二人で一人のマンガ家「藤子不二雄」の誕生です。

 こんなシステムをとりながら、ふたりは喧嘩らしい喧嘩もしたことがなかったという。すげえなあ。絶対に揉めそうなものなのに。

 以前、コンビ作家だった井上 夢人『おかしな二人 ~岡嶋二人盛衰記~』という自伝エッセイを読んだことがある。そこには、はじめはうまくいっていたが、徐々に考え方や仕事の仕方に関して溝が深まり、やがてコンビ解消を決めるふたりの姿が書かれていた。それを読んで「まあそうだよなあ。友だち同士でクリエイティブな仕事をしていたらいつかはこうなるよなあ」とおもったものだ。

「ひとりでは漫才ができない漫才師」や「ひとりではバンド演奏ができないミュージシャン」ならまだしも、「ひとりで作話も作画もできる漫画家」となるとどうしてもコンビを続けなきゃいけない理由もないわけで。そんな状況で、40年近くも(少なくとも名義上は)コンビを続けた藤子不二雄はほんとに奇跡のコンビだとおもう。

 この本では、中期以降のコンビ間の関係がほとんど書かれていなかった。コンビ活動していなかったのだから当然かもしれないけど、もっとコンビの関係を掘り下げてほしかったな。


【関連記事】

【読書感想文】コンビ作家の破局 / 井上 夢人『おかしな二人 ~岡嶋二人盛衰記~』

【読書感想文】構想が大きすぎてはみ出ている / 藤子・F・不二雄『のび太の海底鬼岩城』



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2026年2月6日金曜日

小ネタ45(お茶の間 / 近畿 / ふつうのおすもうさん)


お茶の間

 今や「お茶の間」という言葉は「テレビを見ている人のいる場所、またはテレビを見ている人」という意味でしか使われない。


近畿

 テレビCMで「近畿にいる私たちにお得な情報です!」というフレーズが流れていた。近畿にいない人が考えたのだろう。

 近畿の人はまず「近畿の人」と言わない。「関西の人」「関西人」と言う。「近畿」は地理の授業とか天気予報とかで使う“公的な言葉”だ。まず口語では使わない。

(兵庫・京都・大阪に住んだことのある私の実感。ひょっとしたら「近畿」を日常的に使う地域があるかもしれない)


ふつうのおすもうさん

 すれちがい際にちらっと耳に入ってきたのでどういう会話だったのかはわからないが
「ふつうのおすもうさんやで」
という声が聞こえてきた。

 後からじわじわおもしろくなってきた。ふつうのおすもうさん。ふつうのおすもうさん。

 おすもうさん自体が異形の者なのに。



2026年2月5日木曜日

【読書感想文】浅倉 秋成『失恋覚悟のラウンドアバウト』 / いい意味であほらしい

失恋覚悟のラウンドアバウト

浅倉 秋成

内容(e-honより)
「あなたとはお付き合いできません―わたし実は、魔法使いだから」告白を断るため、魔法使いだと嘘をついてしまった女子高生。しかし彼は、人間界と魔法界を超える愛を誓ってくれてしまい…?フリたい私とめげない彼。恋と嘘とが絡みあい、やがて大きな渦となる!ぐるぐる回る、伏線だらけの恋物語!

 SF恋愛コメディ連作短篇集。

 天才科学者、完全に透明な物質、精巧なウソ発見器、すぐにものを盗んでしまう少女、出会う異性すべてを惹きつける特異体質、鉄腕アトムのようなロボット……。ある街を舞台に、奇想天外な人間や発明にふりまわされる人々の姿を描く。まるで『ドラえもん』のような味わい。


「すべて、ラウンドアバウトだったんだよ」
「ラウンドアバウト? ラウンドアバウトって、あの、交差点のラウンドアバウト?」
「そう。あのラウンドアバウト」俺は言う。「あの交差点と同じだったのさ。曲がりたい方向は決まっているのに、敢えて反対の方向に走り出さなきゃならなかったり、あるいは飛び出すタイミングがわからずに、いつまでもぐるぐると周回してしまったり。そんなふうに複雑に、だけれども極めて秩序的にすべてが進行していく。信号もなく、ノンストップで、同時並行的に車が動かされていく。それが「ラウンドアバウト」。俺たちもそんなラウンドアバウトをぐるぐると回らされたメンバーの一員だったんだよ」
「……どういう意味なの?」
 俺は笑った。「この「日の下町」で、おそらくはいくつもの恋模様が展開されたんだ。いくつもの「恋」が、まるでラウンドアバウトみたいに、一緒くたになってぐるぐると展開されていった―――そして俺たちも巻き込まれた。結果、ある者は円滑に結ばれたかもしれない。ある者は、苦難の末に別れる道を選んだかもしれない。いずれにしても、そんな中で俺たちはこうやって回り回って再び結ばれることができた。いわば勝ち組だってことだよ」

 この文章の通り、ラストの短篇ではすべての話の登場人物が集結し、それぞれの話がからみあい、すべてしかるべき結末に着地する。ほどよく伏線も散りばめられ、よくできている……のだが、そもそも設定が荒唐無稽なのでどこまでいってもばかばかしい。

 いい意味であほらしい小説だった。


 浅倉秋成氏の本を読むのは『六人の嘘つきな大学生』『九度目の十八歳を迎えた君と』 『教室が、ひとりになるまで』に次いで4作目だが、これまで読んだ3作がわりとシリアスな話だったので、こんなのも書くのかとちょっと面食らってしまった。

 個人的には、巻末に載っているおまけ4コマ漫画(著者が原作)がいちばんおもしろかった。


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【読書感想文】浅倉秋成『六人の嘘つきな大学生』 / 白黒つけない誠実さ

【読書感想文】浅倉 秋成『教室が、ひとりになるまで』 / SFミステリとしても小説としても傑作



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2026年1月28日水曜日

【読書感想文】田中 俊之『男子が10代のうちに考えておきたいこと』 / 「すごい」=「すごいバカだね」

男子が10代のうちに考えておきたいこと

田中 俊之

内容(e-honより)
性別によって求められる役割や進路選択、期待のされ方が違う日本。そのことに気が付かぬまま、また「男らしくあれ」という見えない圧力に窮屈な思いをしたまま大人になる若者も多い。男性学の視点から進路・生き方をとらえなおすとともに、若者へのエールをこめて新しい男子のありようを提言する。

 岩波ジュニア新書。

 この手の、「10代に向けて書かれた本」を読むのけっこう好きなんだよね。もういいおっさんなんだけど。でもおっさんだからこそ素直に読める。

 中高生のときはこういう「年寄りが若い人に向けて説教をする本」なんて読んでも素直に受け取らなかっただろうし、というよりそもそも手に取ろうともおもわなかった。

 でも自分事じゃないから「うん、まあわりとええこと言ってるやん。まあぼくが言われてるわけじゃないからよくわからんけど」ってぐらいのスタンスで読める。本なんて「9割は嘘でも1割ぐらいはいいこと書いてるかもしれん」ぐらいの気持ちで読むのがいいですよ。



 男の子向けの本は、女の子向けの本と比べてあまり多くない。

 それはですね、今の世の中では男のために社会がつくられているので、女性のほうが生きづらさを抱えているんですね、だから女性の問題を考える必要があるのです……なんてことを言う人もいるだろう。まあだいたいあっている。なんだかんだいっても女であることで不自由することのほうが、男だから不自由することよりも多そうだ。

 とはいえ、だからといって男が生きづらくないということにはならない。男は男で大変だ。なのに「男の生きづらさ」はあまり語られない。

 そう、それこそが男の生きづらさの最大の原因だとおもう。つまり「男の生きづらさ」を語ってはいけないとされていることこそが、男の生きづらさだ

「女は家庭を支えなくちゃいけないなんて考えはおかしい!」と言う女はたくさんいるが、「男が仕事に打ちこまなきゃいけないなんて価値観はおかしい!」と言う男は多くない。なぜならそんなことを言う男は“劣った男”という烙印を押されてしまうからだ。

 そりゃあ、男が弱音を吐いたっていい。「仕事は向いてないから兼業主夫がいい」とか「デートのときに男が多く支払うのは嫌だ!」とか言ったっていい。……けどそれはタテマエだ。「言ったっていいですよ、でもそういうことを言う男は雇いませんよ、そんな男は交際相手として魅力ありませんよ」というのが世の中のホンネだ。みんな知っている。だから「男だって生きづらいんだよ!」と主張しない。でも主張しないだけでけっこうつらいんだぜ。


 確かに職業生活は四〇年もの長期にわたりますが、生涯という視点から見た場合、あくまで定年退職は通過点です。それがどれだけ本人にとって価値のあるものだとしても、あくまでワークはライフの一部です。それにもかかわらず、中高年の男性たちはどうしてその後の生活を考えないのでしょうか。聞き取り調査で、定年したばかりの河野さんがこの点について次のような興味深い話をしてくれました。
「ある時点までは我慢でしたね。要するにそれで麻痺して慣れてくるんですね。そういう適応能力ってあるじゃないですか、人間って。だからそういうことで乗り切ってきたのかもしれませんね。」

 特にぼくがつらさを感じていたのは仕事面だ。若い頃、ほんとに仕事がつらかった。ぼくが勤務していたのがブラック企業だったこともあって、1日あたりの通勤時間と勤務時間はあわせて14~16時間。休みは週1日、それでいて給与は低い。いやおうなしに仕事が人生のすべてになってしまう。つらい日々を送っていた。

 そんなにつらかったのに仕事をやめなかったのは、「働かないといけない」というプレッシャーが常にのしかかっていたからだ。たぶん女だったら親や社会からの「働かないといけない」圧もそこまで強くなかったんだろうな、とおもったものだ。

 でも転職をしながらもまあなんとか仕事を続けて今ではもっと楽で給与もいい仕事に就けているので、多少無理をしてでも働き続けてよかったな、とおもわなくもない。ぼくが精神を病んで立ち直れなくなったりしなかったからこそ言えることなんだけど。



 男子のコミュニケーションについて。
 男子のみなさんは、女子から「すごい」と言われたときには、自動的に「バカだね」をつけるクセをつけてください。そのような訓練を積んでおけば、学校はもちろんのこと、将来的には職場でも私生活でも余計な負担を女性にかけず、コミュニケーションがとれるようになります。ついでに言えば、SNSで炎上することもないでしょう。
 せっかくなのでつけ加えておくと、さらにたちが悪いと個人的に思っているのが、達成も逸脱もできるというアピールです。頭がいいけど、悪いこともできる俺は「すごい」というわけです。こうしたケースでは、受験、就活、そして、出世レースで勝ち抜いてきたという「自信」があるので、もはや女性からの視線や評価を気にする必要がありません。そのため、宴会芸としての裸踊りのように逸脱の度合いが高くなり、はたから見れば少しも面白くない内輪ウケになりがちです。
 「一流企業」が「男社会」だった時代は終わりつつあります。職場に女性や外国人などが増え、多様な人が一緒に働くようになる流れのなかで、こうしたノリは確実に廃れていきます。

 これはほんと大事。男子はみんな肝に銘じておいたほうがいい。

 男同士のコミュニケーションって「いかにバカをやるか」「いかに無茶するか」を競うようなところがある。若いうちは特にそうだし、歳をとっても続けている男は少なくない。飲み会で大騒ぎして一気飲み、みたいなのをかっこいいとおもっている男は令和の時代にもまだ絶滅していない。

 そういうのを見たときに女子が「ばかね」と眉をひそめているのを見て、バカな男子は「おっ、おれに注目してるぞ。アピールするチャンス!」なんておもっているけど、その状況でアピールするチャンスなんてゼロだと早くに気づいたほうがいい。部屋にゴキブリが出たときに自分のほうに飛びかかってこないか警戒しながら観察しているのと一緒なので、その注目が好意に転じる可能性は万に一つもない。

 バカが一気飲みをしているときに、モテる男はちゃっかりおまえの意中の女性に優しい言葉をかけて一気飲み男と大きな差をつけているのだ。



 男は友だちをつくるのが下手だとよく言われている。ぼく自身も、学生時代から続いている友人はいるものの、大人になってから休みの日に遊びに行くような友だちができたことはない。

 競争に勝って社会的な地位を達成する上では、形式に基づいてなされる表面的なコミュニケーション能力が高ければ十分です。それだけではなく、流れるように話すことを立て板に水と言いますが、この文脈では、一方的に相手を説き伏せるような能力さえコミュニケーション能力が高いと評価されることもあります。
 ただし、お笑い芸人さんやクラスの人気者に必ずしも友達が多いわけではないことからも分かるように、形式的なコミュニケーションだけでは、人間関係を深めることはできません。逆に人間関係を悪くすることさえもあります。例えば、自分がイジっているつもりなのに、相手はいじめられたと感じるのは、形式ばかりに気を取られて人の心を蔑ろにしたためです。友達になったり、恋人になったりするためには、形式よりもお互いの心に配慮してコミュニケーションをする必要があります。すると、事前に想定していないような方向に会話が展開するので、新しい自分に出会うことになります。相手にも同じことが起こります。こうした深いコミュニケーションを通じて、お互いに信頼感を持つことができるのです。「こんなことを言ったらどう思われるだろう」という不安が自分の気持ちよりも先立てば、いつまでもワンパターンなコミュニケーションから抜け出すことはできず、人間関係が発展することはありません。
 他人の心とつながりを持とうとすると、それに伴って自分の心を覗くことにもなります。みなさんが友達や恋人が欲しいと思っても一歩踏み出せないのは、幼い頃から目を背けてき自分の心に向き合うのが怖いからかもしれません。

 男同士のコミュニケーションって競争が根底にあるんだよね。「こいつより強いとおもわれたい」とか「こいつよりおもしろいとおもわれたい」とか。大人になってもあんまり変わらない。競争の種類は変わるけど(「仕事できるとおもわれたい」「金持ってるとおもわれたい」とか)。

 相手より上に立ちたいとおもっている人間同士がうまくやっていけるはずがない。

 ぼくもずっと「優れた人間になれば人が集まってくる」とおもってたけど、歳を重ねてようやくそれが間違いだったと気づいた。「周りの人間を優れていると認められる人間になれば人が集まってくる」なんだよね。


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