2022年4月13日水曜日

【読書感想文】中島 岳志『自分ごとの政治学』/死者の声に耳を傾ける政治家求む

自分ごとの政治学

中島 岳志

内容(Amazonより)
もっとも分かりやすい、著者初「政治」の入門書!
学校で教わって以来、学ぶ機会がない「政治」。大人でさえ、意外とその成り立ちや仕組みをほとんんど知らない。しかし、分かり合えない他者と対話し、互いの意見を認め合いながら合意形成をしていく政治という行為は、実は私たちも日常でおこなっている。本書では、難解だと決めつけがちで縁遠く感じる「政治」の歴史・概念・仕組みが2時間で理解できる。政治の基本概念は、どのように私たちの生活に直結しているのか。自分なりに政治の「よしあし」を見極めるポイントはどこにあるのか。「右派と左派」「民主主義」から「税金と政策」まで。思わず子供にも教えたくなる、政治と自分の「つながり」を再発見するための教養講義。


 入門書ということでたいへん短く、The ベスト of 中島岳志、という内容だった。今まで何冊か氏の著書を読んだことのあるぼくにとっては、第3章のガンディーの話以外はほとんど読んだことがあった。

 だったらつまんないかというとそんなこともなく、政治思想の話というのは理解した気になっても日常の瑣末事に紛れてついつい忘れてしまう。だからこうやってときどき呼び起こすことが必要なのだ。




 イギリスの政治家だったエドマンド・バークの話。

 さらにバークは、大切なものは人間の理性を超えたものの中にあるのだ、といいます。それは何かといえば、無名の死者たちです。
 過去に生きた無数の人々によって積み重ねられ、長年の歴史の風雪にも耐えて残ってきた経験知や良識、伝統や慣習。そうしたものの中に、実は非常に重要な叡智が存在するのではないか。それを無視し、「抜本的な改革」などといって物事を一気に変えようとする発想は、理性に対する過信、自分たちの能力に対するうぬぼれではないかと考えたのです。
 ただし、これは「だから前進しなくていい」ということではありません。なぜなら、世の中は変化していくからです。その変化に合わせ、時代にキャッチアッブしながら徐々に改革していくことが重要だとバークは考えていました。
 たとえば、どんなに素晴らしい福祉制度を作ったとしても、五〇年も経てば必ず有用性を失ってしまう。なぜなら、今の日本がそうであるように、五〇年の間に人口構成は大きく変わってしまうからです。であれば、素晴らしかった制度の本質を引き継ぎながらも、状況に合わせて中身を変えていかなくてはならない。大切なものを守るためには、むしろ変わっていかなくてはならないというわけです。バークはこれを、「保守するための改革(Reform to conserve)」という言葉で表現しています。

 若い頃はぼくも、「今の制度は誤りだらけだ! どんどん変革していったほうがいい!」とおもっていたんだよね。

 じっさい、社会って矛盾だらけだもん。変えたくなる。

 でも、三十数年も生きていると「悪かったものを変えて、もっと悪くなった例」をいくつも目にすることになる。やれ規制緩和だ、民営化だ、政治改革だ、自由化だ、グローバル化だ、構造改革だ、維新だ、改革だ、と旗を振って変えたはいいけど、利権を握っていた旧勢力が追い払われてまた別のやつが利権を手中に収めただけだったりする。おまけにもっと巧妙になっていたりする。

 長く使われているものにはそれなりの良さがあるんあよね。もちろん悪いところもいっぱいあるけど、関係各所の綱引きの結果として成立した制度なので、「誰にとってもそこそこ良くて誰にとってもそこそこ悪いシステム」だったりする。それを一気に変えると、「誰かにとってはそこそこ良くて誰かにとってはものすごく悪いシステム」になることが多い。

 年金制度も年功序列制度も医局も政治制度も官僚も地方公務員も教育委員会もPTAも部活も生活保護制度も悪いところはいっぱいある。でも「じゃあ明日からなくします」と言われたらものすごく困る。だからちょっとずつ直していかなくちゃならない。

 この「ちょっとずつ直す」をめんどくさがる人が多いんだよね。めんどくせえから一回全部更地にして建てなおしましょう!って人が少なからずいる。こういうやつが、壊した後によりいいものを作った試しがない。ノアの方舟のときの神かよ。




 中島岳志氏の 『100分 de 名著 オルテガ 大衆の反逆』にもあったが、〝死者との対話〟という思考はすごく腑に落ちる。

 そして、その立憲という問題を考えるときに、私が重要だと思っているのが、民主と立憲における「主語」の違いです。
 立憲主義とは、生きている人間の過半数がイエスといっても駄目なことがあるという考え方だといいました。では、その「駄目」といっている主語は誰なのか。それは、過去を生きた人たち、つまり「死者たち」なのです。
 第1章の「保守思想の父」エドマンド・バークのところでも触れましたが、死者たちは、長い歴史の中でさまざまな経験をして、ときには大きな失敗をして、苦悩を味わってきました。三権分立が確立していなくて王権が暴走したこともあれば、独裁政治を許してしまったこともある。あるいは、侵略戦争をするとどうなるのか、基本的人権を抑圧すると何が起こるのか……そうしたさまざまなことを、今は亡き人々は実際の経験から知っているわけです。
 憲法というのは、死者たちが積み重ねた失敗の末に、経験知によって構成した「こういうことはやってはいけない」というルールです。過去の人々が未来に対して「いくら過半数がいいといっても、やってはいけないことがあるよ」と信託している。これが立憲の考え方なのです。
 対して民主主義は、生きている人たちの過半数によって物事を決めるわけですから、主語は当然「生きている人」になります。この主語の違いが、立憲と民主を考える上での重要なポイントになります。

 こういう話って、ぼくが若いときに読んでもぴんとこなかったんじゃないかとおもう。何言ってるんだ、今生きてる人が大事なんだよ、とっくに死んだ人のことなんて考えなくていいんだよ、なんて言って。

 でも今ならすっと心に入ってくる。自分が〝死者〟の側に近づいたからかもしれない。

 ぼくは子どもを作り、生物としての役目はほとんど終えたとおもっている。あとぼくに残された仕事は「子どもを育てる」と「残った人にとって有用な死者になる」だ。ぼくが死んだ後に、残された人が「そういやあいつがあんなこと言ってたな」とちょっとでも思い出してもらえるように生きることだ。

 そして、有用な死者になるためには自分自身が死者の声を聴かなくてはいけない。
 死者の声に耳を傾けていたら、ちょっとでも戦争に近づくような法案とか、数十年その土地に人が住めなくなるような発電所なんて作る気になれないだろう。


 政治家の仕事なんて、ほとんど「いい死者になる」がすべてといってもいい。数十年後に「かつていた〇〇という政治家のおかげで今の××がある」と言ってもらえるような仕事をしてほしい。

 なかなかニュースでは報じられないけど、ぼくはもっと政治家にビジョンを語ってほしいんだよね。足元の政策だけじゃなくてさ。

「〇〇のおかげで今の××がある」と言ってもらえるような政治家が今どれぐらいいるだろうね。「〇〇のせいで××になっちまった」と言われるような政治家はいっぱいいるけど。


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2022年4月12日火曜日

【読書感想文】藤岡 換太郎『海はどうしてできたのか ~壮大なスケールの地球進化史~』

海はどうしてできたのか

壮大なスケールの地球進化史

藤岡 換太郎

内容(e-honより)
宇宙で唯一知られる「液体の水」をもつ海は、さながら「地獄絵図」の原始地球でいくつもの「幸運」の末に産声をあげた。しかし、それはわたしたちにとっては、猛毒物質に満ちたおそるべき海だった。原始海洋が想像を絶する数々の大事件を経て「母なる海」へと変容するまでの過程から46億年の地球進化史を読み解き、将来、海が消えるシナリオにまで迫る。


 いやあ、おもしろかった。さすが講談社ブルーバックス。これは良書だ。

 地球誕生から、マグマオーシャンというどろどろのマグマの海、陸地ができて水の海が誕生、大陸の合体・分裂、生命の誕生まで数十億年の海の歴史を解説してくれる。海を主役にしているけど、地球全体の歴史がよくわかる。

 ぼくももう長いこと地球人やってるけど、ぜんぜん地球のことを知らなかった。

 誕生したばかりの月は、地球から約2万kmという近いところにあったようです。その頃の月を地球から見れば途方もなく大きく、まるでエウロパから見た木星のようであったかもしれません。その後は次第に遠ざかり、現在では月と地球の距離は約38万kmです。  地球に近かった頃の月は、非常に大きな潮汐作用を地球に及ぼしていたことでしょう。たとえば地球に水の海ができてからは、潮汐力による潮の満ち干は現在からは想像もつかないものだったと考えられます。おそらくは大津波のような波が、毎日2回、海岸へ押し寄せていたはずです。この潮汐には、海水をよくかき混ぜて、海水の成分を均質にする役割があったものと思われます。それはのちの生命の誕生にも、大きな影響を与えていたかもしれません。

 地球と月の距離は、今の二十分の一ぐらいだったのか……。想像するしかないけど、とんでもなく巨大だったんだろうな。毎日、日食だったんでしょう。




 地球上の生物で、最も多く他の生物を殺した生物は?

 ほとんどの人は人間だとおもうだろう。ところがそうではないらしい。

 最も多くの生物を殺したのは、光合成によって酸素を生みだしたシアノバクテリア(藍藻)だ。

それくらい酸素の大量発生は、当時の生物たちにとって深刻な「海の環境破壊」でした。いまでこそエネルギー効率の高い酸素を使うことができる好気性生物が繁栄して、酸素を使えない嫌気性生物は地球の隅に追いやられていますが、当時の生物たちは当然ながら酸素など使えるはずもなく、それどころか猛毒物質だったのです。
 しかし、シアノバクテリアはそんなことなどおかまいなしに、無尽蔵ともいえる太陽エネルギーを利用してどんどん光合成をして、海中を酸素だらけにしていきます。それは原発などの核エネルギーを使うようになった現在の人類もかなわない環境破壊ぶりだったともいえます。そのため、従来型の生物たちはばたばたと滅んでいったのです。

 漠然と、光合成とはいいものだというイメージを持っていた。植物が光合成をしてくれるから、すべての動物は生きられるのだと。だがそれは、ぼくらが酸素をエネルギー源として利用している生物だからだ。シアノバクテリアが誕生するまでは、地球上の生物はみんな酸素のない環境でしか生きられなかったのだ。

 ということは、もし人類が環境破壊しまくって今いる地球上の生物がほとんど絶滅したとする。その後、その劣悪な環境でしか生きられない生物が繁栄する。すると、その生物は「かつて存在していたヒトという生物は、酸素を減らしてくれて毒だらけの森を壊してくれた恩人だ」と人類に感謝してくれるだろう。




 長いスパンで見ると、海面は上昇と下降をくりかえしているらしい。

 それらによると、いまからおよそ600万~500万年前のメッシーナ紀に地中海が干上がってしまい、その海底に大量の岩塩や石膏などの塩分が堆積したというのです。この頃、地球は寒冷化していて、海面はどんどん下がっていきました。地中海ではその出口であるジブラルタル海峡が閉ざされてしまい、地中海が湖のようになってしまったのです。大西洋からの水が流入しなくなった地中海ではひたすら蒸発が起こって、ついに干上がってしまったのです。湖が干上がりつつある現在のアフリカのチャド湖のようなものでしょうか。このとき、海水中にあった塩分は沈殿して、石になってしまったそうです。
 やがて海面がもとの水準に回復したとき、ジブラルタル海峡やボスポラス海峡を経て、大量の海水が一気に地中海に入り込んだといいます。ライアンらはこのときの様子を「ノアの洪水」と表現しています。たしかにそれは、すさまじい流れだったことでしょう。

 地中海は干上がっていた。海峡から海が入ってくる瞬間は、船に穴が開いて一気に水が流れこんでくるようなものだったろうな。

 ノアの洪水とは言い得て妙で、ほんとに世界の終わりみたいな光景だっただろうな。当然旧約聖書よりも数百万年前だけど、ノアの方舟もまったくのありえない出来事でもなかったんだろう。




 この著者の何がすばらしいって、とにかく知に対して謙虚であり誠実であること。

 以下の文章を読んでほしい。

 海洋無酸素事件はのちの白亜紀の中頃にも起こっています。ペルム紀末と同様に、マントルから大量のマグマが上がってきたことが原因の根本にあると考えられています。しかし、それによって地球は寒冷になったのか、温暖になったのかもわかっていないのです。
 海洋無酸素事件のときに併発する意外な現象として、地磁気の逆転が長期間にわたって起こらなかったことが知られています。地球の磁場がつくる南極(磁南極)と北極(磁北極)は、数十万年から数百万年のサイクルで逆転しているのですが、ペルム紀と白亜紀に海洋無酸素事件が発生した時期だけは、この地磁気の逆転が起きていないのです。それがなぜなのかも、いまのところわかっていませんが、スーパープルームが上昇することで核が冷えて、核の中での対流が止まってしまうためではないかという考え方もあります。
 海洋無酸素事件と大量絶滅の因果関係はまだ立証されていません。しかし、ペルム紀末の絶滅のあとに繁栄した生物は低酸素状態に強いものであったといわれていますから、海洋無酸素に打撃を受けた生物たちの進化を促した可能性はあります。白亜紀の海洋無酸素のときには大量絶滅が起きていないのも、生物が低酸素状態に適応していたからかもしれません。地球の内部で起きた現象が、海や大気ばかりか、生物にも大きな影響を与えたと考えると面白い気がします。

 これだけの文章に、誠実さがあふれている。

「と考えられています」「わかっていないのです」「いまのところわかっていませんが」「という考え方もあります」「まだ立証されていません」「促した可能性はあります」「適応していたからかもしれません」「と考えると面白い気がします」

 正直、読んでいてまだるっこしい。わかりやすくない。「~になった」「~なのは……だからだ」と言い切ったほうが明快だ。
 でも、断言は科学的に正しい態度ではない。なにしろ何億年も昔の話なのだ。おそらくこうだろう、とは言えてもこの目で見たわけでない以上、断定を避けるのが科学的な態度だ(この目で見たとしても疑うのが科学的な態度かもしれない)。

 有力な仮説は紹介するが、断定は避ける。こういう人のほうがぼくは信用できるし、「他の説もありうるのだろうか?」とこちらの好奇心も刺激される。このわかりにくさこそが誠実さの証だ。


 ところがテレビや新聞に呼ばれる学者ってのは、わからないことでも断言してくれる人なんだよね。テレビはわかりやすさだけが求められて、正しさなんてどうでもいいから。ほら、五歳児だからってのを盾にしていいかげんな説をさも唯一解みたいに垂れ流してるNHKの番組、おまえのことだよ。ボーっと生きてるのはおまえのほうだよ!


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2022年4月11日月曜日

【読書感想文】三島 由紀夫『命売ります』

命売ります

三島 由紀夫

内容(e-honより)
目覚めたのは病院だった、まだ生きていた。必要とも思えない命、これを売ろうと新聞広告に出したところ…。危険な目にあううちに、ふいに恐怖の念におそわれた。死にたくない―。三島の考える命とは。

 三島由紀夫とニュートラルな立場で向き合うのはむずかしい。三島由紀夫について考えるとき、どうしても文学作品よりも先にあのマッチョな肉体とか自衛隊での割腹自殺とか美輪明宏とかが思い浮んでしまう。そしておもう。「ああ……ぜったいに好きになれない人だ……」

 そんな意識があったので、三島作品は一作か二作ぐらいしか読んだことがない。それも『金閣寺』とか『仮面の告白』とかじゃなくて、もっとマイナーなやつ。タイトルすら忘れた。

 この『命売ります』は三島由紀夫らしからぬユーモラスな作品ということで約二十年ぶりに三島作品を手にとった。


 ……ううむ。なんと形容していいのかわからない作品だな。

 自殺に失敗して一命をとりとめた男。どうせ一度は捨てた命なのだからと新聞に「命売ります」という広告を出したところ、ひとりの老人がやってくる。ある女に死んでもらいたいので、その女とベッドを共にして情夫に殺されてくれという依頼。途中までは計画通りにいったが、男は死なずに済む。その後も次々に命の買い手が現れるが……。

 と、軽いタッチとブラックユーモアまじりにストーリーが進む。ドライで都会的な文章で、星新一の中篇作品に似た雰囲気だった。この乾いた感じ、嫌いじゃない。主人公の内面をぐじぐじと書く文学よりも、どうでもいいや、なるようになるや、という感じの文章の方がぼくは好きだ。

 ストーリー展開もご都合主義なんだけど、それがかえってテンポがよくていい。

 ……とおもっていたら中盤からどんどん変な方向に進んでいく。外国マフィアや秘密組織が出てくるところまではまだいいとして、三人目の客はなんと吸血鬼。え? 吸血鬼……!?

 なにそれ。あたりまえのように吸血鬼出てきたけど。急にファンタジーになった。その後意味もなく女を抱く島耕作的展開になったかとおもうと、終盤は敵に追われる逃走劇に。主人公の性格も序盤と後半でぜんぜん変わってるし、つぎはぎ感がいなめない。元は連載作品だったそうなので、いきあたりばったりに書いていたのかもしれない。




 話もむちゃくちゃだけど、主人公も相当おかしい。

「そんなら命を売ったお金はどうするんです」
「あなたがそのお金で、何か始末に困る大きな動物、たとえば鰐とか、ゴリラ、とかいうものを買って下さい。そして、結婚なんかあきらめて、一生その鰐かゴリラと一緒に暮して下さい。あなたに似合うお婿さんは、それしかないような気がするんでね。ハンドバッグの材料に売ろうなんて色気を起しちゃいけませんよ。毎日餌をやって、運動させて、誠心誠意、飼育してくれなければね。
 そしてその鰐を見るたびに、僕のことを思い出してくれなければね」

 こんなことばかり言っている。この狂ってるところがよかったのに、終盤の追われる展開になってからは防衛本能のために必死に逃げるだけの男になっていて、つまらない。

 最後の伏線回収みたいなのも、そのせいでかえってこぢんまりとしてしまった印象。最期までめちゃくちゃな話であってほしかったな。


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2022年4月10日日曜日

寝坊する人

 ぼくは朝が強いので、しょっちゅう寝坊する人の気持ちがわからない。

「でもけっきょく甘えでしょ。寝坊してもいいやとおもってるから寝坊するんでしょ。『起きられなかった』じゃなくて『起きない道を選んだ』なんでしょ。要するに、相手を待たせてもいいとおもってるから寝坊なんかするんだよ」とおもっていた。


 ぼくが大学一年生のとき。親元を離れて下宿していた。

 高校時代の友人・Nくん(浪人生)がぼくのマンションの近くの大学の入試を受けると聞いたので、「だったら受験前日、うちに泊まったらいいやん。当日早起きするのたいへんやろ」と声をかけた。実家から大学までは二時間以上かかるが、ぼくのマンションからだったら三十分でいける。「受験当日の朝に一時間半の余裕がある」というのは大きなアドバンテージだ。

 そして受験前日、Nくんはぼくの家に泊まった。もちろん前日は受験に備えて早めに寝た。

 当日の朝。朝七時に、Nくんの携帯のアラームが鳴りだし、その音でぼくは目を覚ました。

 次の瞬間、ぼくは信じられない光景を目にした。


 Nくんは布団に寝ころんだまま手を伸ばして携帯のアラームを止め、そしてまた何事もなかったように眠りについたのである。
 これは……〝二度寝〟だ。

 しばらくNくんの様子を見ていた。だが、いっこうに起きる気配がない。十秒、二十秒。ぴくりとも動かない。

 三十秒たち、さすがにこれは見ていられないとぼくはNくんを揺りおこした。

「おい、起きろって。今日受験やろ」

「ん? ああ、ありがとう……」

「今、目覚まし止めてまた寝てたで」

「え? 目覚ましなってた?」


 なんと、Nくんは自分が二度寝をしたことにまったく気づいていないのだ。無意識のうちにアラームを止め、無意識のうちに二度寝したのだ。

 もしもぼくが起こしていなかったら、彼はきっと大学受験に遅刻していたことだろう。


 その日以来、ぼくは「二度寝は甘え」という考えを改めた。

 寝坊する人は、起きない道を選んだわけでもなく、相手をなめているから遅刻しているわけでもなく、ほんとに起きられないのだと。

 寝坊する人にとって「時間通りに起きる」というのは、「寝ているときにどんな夢を見るかをコントロールする」と同じくらいむずかしいことだと。


2022年4月8日金曜日

【読書感想文】花井 哲郎『カイミジンコに聞いたこと』


カイミジンコに聞いたこと

花井 哲郎

内容(e-honより)
古生物学の泰斗が「何にでも興味を持つ子供のような眼」で見つめた日常は、新鮮な“発見”に満ちていた!落語のこと。軽井沢の不思議な店のこと。逃げ出した見世物用のコブラのこと…。自然史科学者が平明な文章で綴る随筆集。


 地質学、古生物学の研究者によるエッセイ。

 なんてことのない身辺雑記を書いていたとおもったら、気づくと古生物や微生物や進化の話になっている。この流れがじつに洒脱でおもしろい。

 大学広報などに書いた文章を寄せ集めたものなのでテーマはまとまりはないが、それでも生物への愛が全篇を貫いている。

 年寄りに共通の「昔は〇〇だったが今の若い学生は~」というぼやきが多いのが玉にキズだが(根拠を示さない「昔は良かった」に読む価値はないとおもっている)、それ以外はいい文章。




 私達はよく学生と一緒に野外に化石の採集に出かける。そして露頭の前に立って化石を採集していると、必ずと言ってよい位学生達から、「この化石は何と言う種類ですか」と彼らの採集した化石を示される。そこでその化石の所属する「種」や「属」を学名で、例えば、「これはメレトリックスで、この化石群の主要なメンバーですね」とでも言えば、学生達は「はあ、そうですか」と言って、何となく分かった気持ちになってくれる。そして、「そのメレトリックスというのはどういう意味ですか」とか、「どういう特徴を持っている種類ですか」などとしつこく食い下がる学生はまずいない。
 ラテン語が分からないとなれば、その学生にとってメレトリックスと言う名前は、彼の採集した貝殻について、そのとき一瞬興味を持ったものという内容しかもっていない。学名を教えてから、標本を返すと、彼らは見ている前でその標本を捨てても悪いと思ってか、少しの間持ってはいるが、結局は、捨ててしまう。かくて学生の理解するメレトリックスは、いつの間にかウミゴボウと同じくらい内容のないものになっている。一方、先生の方はメレトリックスだと言ったとき、その名前から自分の知るすべての内容を皆学生に伝えたような錯覚を持ってしまう。

 ぼくはこの学生の気持ちがよくわかるなあ。

「命名」という作業って、人間にとってすごく大事なことなんだよね。良くも悪くも。

 名前がわからないってすごく不安になるんだよね。新型コロナウイルスだってちゃんと名前がついたからまだ冷静に対応できているけど、これが「正体不明の奇病」だったらその恐ろしさは今の比じゃないだろう。ほとんどの人は「コロナ」が何を指しているか知らないわけだから(ぼくも知らない)、「新型コロナウイルス」だろうと「正体不明の奇病」だろうと理解度は大差ないわけだけど、それでも名前がついているというだけで安心するものだ。


 以前にも書いたけど、知人のおかあさんが落ち着きのない息子に手を焼いていたけど、息子が発達障害だと診断されたことで安堵しているように見えた。

 名前がついたからといって息子が落ち着くようになったわけじゃない。それでも「なんだかわからないけど他の子とちがう息子」よりも「発達障害の息子」のほうがまだ理解できた気になれるようだ。


 みんな、わからないものが嫌いなんだよね。だから、まったく新しいことをはじめる人がいると非難される。ところがラベルを貼って「これは〇〇の仲間です」とカテゴライズすると「ああ、〇〇みたいなやつか」と安心して受け入れられる。〇〇のことを理解できているかどうかなんて関係がない。わかった気になる。

 だから、何かについてじっくり考えてもらいたいとおもったら、あえて名前を伝えないってのもひとつの手かもしれないね。不安定なままにしときたくないから、あれこれ考えるもんね。


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