2022年3月11日金曜日

父親に、あのとき言わなくてよかった言葉

 父親に対して、あのとき言わなくてよかった言葉がある。


 大学を卒業して、親の反対を押し切って小さい会社に就職し、しかしとんでもなくブラックな会社だったために(日をまたぐ残業があたりまえ、給与も求人票の内容とまったく違う)一ヶ月で辞めた。

 事前の相談もなく「もう辞めたから」と告げると温厚な父親もさすがに怒り、電話で「何考えてるんだ!」と怒鳴られた。
 怒られることは想定していたものの「今からでも頭を下げて元の会社に戻れないか」なんてことを言ってくるものだからこちらも「おまえに何がわかるんだ」と頭にきて口論になり、

「会社に長く勤めることに価値があるとおもってんのか? もうそんな時代じゃないんだよ。自分だって長年勤めてきた会社から捨てられて子会社に出向になったくせに!」

という言葉が口をついて出そうになった。が、すんでのところで思いとどまった。




 父は会社大好き人間だった。朝早くに起きて仕事に向かい、夜遅くに帰ってくる。ぼくが子どもの頃は、平日に父と顔をあわせるのは朝だけだった。土日も接待ゴルフに出かけることが多かった。

 家は自社の製品であふれ、阪神大震災があったときは対応業務で何週間も家に帰ってこない日が続いた。

 会社に命じられるまま関西から転勤もした。エジプト、東京、横浜。すべて単身赴任だった。

 父はそこそこの役職を得ていたようだが、五十歳を過ぎて、子会社へ出向することになった。ぼくは大会社に勤めたことがないが「五十歳を過ぎて子会社へ出向」が栄転でないことはわかる。

 当時大学生だったぼくは「あんなに仕事に人生を捧げてたくせに、子会社に飛ばされてやんの」とうっすら小ばかにしていた。親の金で大学に通っておきながら。なんて生意気なガキだ。




 あれから十数年。

 ぼくもそれなりに働いて給料を稼いでいる。何度か転職をしたが、今の業種で十年以上やっているし、結婚して子どもも生まれて、一応父親を安心させることができたとおもう。

 仕事を続けるたいへんさもわかった。

 そしてつくづくおもう。

 あのとき「自分だって長年勤めてきた会社から捨てられて子会社に出向になったくせに!」と言わなくてよかった、と。

 ぎりぎりのところで胸にしまっておいてよかった、と。


 あの言葉を口にしていたら、父子の間に一生消えないヒビができていただろう。

 父が家族との時間も削って仕事に打ちこんでいた理由のひとつは、月並みな言い方になるが「家族のため」だろう。妻子の生活を守るため懸命に働いたし、転勤を命じられたときは子どもたちに負担をかけぬよう単身赴任を選んだのだろう。

 ぼくは「父は仕事大好き人間だ」とおもっていたけれど、仕事を辞めたくなる日もあったはずだ。
 それでも辞めなかった理由のひとつは、子どもがいたからだろう。


 仕事に打ちこむことで家庭を守ろうとした人が、その家族から「会社から捨てられたくせに」なんて言われたらどうなっていただろう。

 あやうくぼくは、彼のぜったいに傷つけてはいけない場所を傷つけてしまうところだった。つくづく、言わなくてよかった。




 ただ、あのときぼくが口にしかけた「会社に長く勤めることに価値がある時代じゃない」については、今でも正しかったとおもう。

 でも、やっぱり言わなくてよかった。正しかったからこそ、余計に。


2022年3月10日木曜日

【読書感想文】ヴィトルト・リプチンスキ『ねじとねじ回し この千年で最高の発明をめぐる物語』

ねじとねじ回し

この千年で最高の発明をめぐる物語

ヴィトルト・リプチンスキ(著)  春日井 晶子(訳)

内容(e-honより)
水道の蛇口から携帯電話まで、日常生活のそこここに顔を出すねじ。この小さな道具こそ、千年間で最大の発明だと著者は言う。なぜなら、これを欠いて科学の精密化も新興国の経済発展もありえなかったからだ。中世の甲冑や火縄銃に始まり、旋盤に改良を凝らした近代の職人たちの才気、果ては古代ギリシアのねじの原形にまでさかのぼり、ありふれた日用品に宿る人類の叡智を鮮やかに解き明かす軽快な歴史物語。

「この千年で最高の発明は何か」について考えていた著者は、身近な道具の歴史についての調査を進め、最高の発明は「ねじとねじ回し」ではないかとおもいいたる。

 そして様々な文献を読みあさり、ねじとねじ回しの誕生、そして進化、それらがもたらした影響について考察を進めてゆく……。

 と、なんともマニアックな題材の本。


 以前、アンドリュー・パーカー『眼の誕生 ―カンブリア紀大進化の謎を解く―』という生物に眼が誕生した経緯を追い求めるノンフィクションを読んだことがあるが、なんとなくその本を思いだした。

 我々はあたりまえのように眼から情報のほとんどを獲得しているが、眼のような複雑な器官がどうやって誕生したのかを考えるとじつに不思議だ。さらに角膜や水晶体や脳の視覚をつかさどる部分などどれが欠けてもまともに機能しない。なぜ生物は「できかけの眼」を持つにいたったのか、それともそれらが同時発生的に誕生することなどあるのだろうか?

 ……眼の話になると長くなるので気になる人には『眼の誕生』を読んでもらうとして『ねじとねじ回し』の話に戻る。

 たしかに、生まれたときからあたりまえのように身近にあったので今までねじやねじ回しについてじっくり考えたことがなかったが、言われてみればよくできた道具だ。

 ねじ穴にねじをつっこみ、ねじ回しでくるくる回す。それだけなのにものとものががっちり固定される。多少はゆるむこともあるが、おもいっきり締めればたいてい十年はもつ。それでいて、反対側にまわせばゆるんではずせるのがすごい。

 精密機械にも使われているし、大きな橋を見るとあちこちにボルトがつけられていたりもする。あんな巨大なものでもねじで支えられているのだ。見たことはないけど、きっとロケットや宇宙ステーションにだってねじは使われてるんじゃないだろうか。

 おまけにねじのすごいのは、もうほとんど完成しているところだ。数十年前からねじの形状はまるで変わっていない。そりゃ細かい修正はあるのだろうが、形状は百年前となんら変わらない。

 そういや『ドラえもん』に、ドラえもんのねじが一本はずれて調子が悪くなるというエピソードがあった。22世紀のロボットにもねじが使われているのだ。

 電動ドライバーなるものもあるが、あれも人の手がやる部分を電気の力でやっているだけで、ねじとねじ回し部分はなんら変わっていない。

 よく考えたら、すごいぞねじ。「この千年で最高の発明」という称号も決しておおげさではないかもしれない。




 本筋とはずれるが、すごいのはねじだけではない。

 この本には、他のすごい発明品も挙げられている。そのひとつが、洋服のボタンだ。

 ところが一三世紀に入ると、突如として北ヨーロッパでボタンより正確には――ボタンとボタン穴――が出現した。この、あまりにも単純かつ精巧な組み合わせがどのように発明されたのかは、謎である。科学上の、あるいは技術上の大発展があったから、というわけではない。ボタンは木や動物の角や骨で簡単に作ることができるし、布に穴を開ければボタン穴のできあがりだ。それでも、このきわめて単純な仕掛けを作り出すのに必要とされた発想の一大飛躍たるや、たいへんなものである。ボタンを留めたりはずしたりするときの、指を動かしたりひねったりする動きを言葉で説明してみてほしい。きっと、その複雑さに驚くはずだ。

 単純な仕組みでありながら、そして技術的にはさほど難しくないにもかかわらず、人類が何千年もおもいつかなかったボタン。

 穴に、糸のついたものを通してひっかける。たったこれだけのことで、服が脱げたりずれたりするのを防いでくれるし、それでいて脱ぎたいときにはすんなり脱げる。言われてみればすごい発明品だ。

 誰かがボタンを発明したとき、きっと周囲の人たちは「どうしてこんなかんたんなことを思いつかなかったんだ!」と悔しい思いをしただろうなあ。




 正直言って、「ねじとねじ回しの発明」という本題はあまりおもしろくなかった。

 最大の理由は、図解が少ないこと。ねじがどんなふうに進化してきたかを一生懸命説明してくれているのだが、こんなのはどれだけ筆を尽くしても伝わらない。がんばって説明しようとしているのはわかるが、ぜんぜんわからない。一枚の図解があれば伝わるのに……。

 結局、どんなふうに誕生したのかはよくわからなかった。最後の最後でアルキメデスの名前が出てきたときは「おお、こんなところにまで登場するとはさすがはアルキメデス! 」と興奮したけど。

 まあぼくがねじに興味がないからおもしろくなかっただけで、ねじ大好き! 四六時中ねじのことばかり考えています! というねじファンが読めば楽しいんじゃないでしょうかね。


 今すでにある発明品について、なんとなく「遅かれ早かれ誰かが発見した」とおもってしまう。

 ところが筆者によると、必ずしもそうではないらしい。

 天才技師は、天才芸術家ほど世の中から理解されないし、よく知られてもいないが、両者が相似形をなす存在であることに間違いはない。フランスにおける蒸気機関のパイオニアだったE・M・バタイユはこう述べている。「発明とは、科学者の詩作ではないだろうか。あらゆる偉大な発見には詩的な思考の痕跡が認められる。詩人でなければ、なにかを作り出すことなどできないからだ」たとえば、セザンヌが存在しなくても誰か別の画家が同じようなスタイルの絵を描いただろうと言われても、多くの人は納得しないだろう。その一方で、新しいテクノロジーは登場すべくして登場したのだ、それは必然の結果だったのだと言われれば、たしかにそうだと納得してしまう。だが、この一○○○年で最高の工具を探し求めるうちにわかってきたのは、それは違う、ということだ。

 発明品には、世界各地で別々に発明されているものがある。たとえば文字は、あらゆる場所でそれぞれ無関係に発明された。だからルーツの異なる文字が何種類もある。

 だが、たったひとりの発明家によって発明されて、それが世界中に伝わったものもある。たとえば、さっき書いたボタン。もし十三世紀にボタンが発明されていなかったら……ひょっとすると二十一世紀の今でもボタンが存在していないかもしれない。いまだに紐でぐるぐる縛っていた可能性もある。

 一部の発明品は「遅かれ早かれ誰かが発明していたさ」とは言えないのだ。

 ということは。

 いまだに我々は、ボタンのようで「ごくごく単純な仕組みでありながら超便利な発明」をおもいついていない可能性がある。

 二十六世紀の人々から「二十一世紀の人たちってヌローズでエネルギーを作る方法すらおもいつかずに石油や原子力で一生懸命発電してたらしいよ。ばかだねー」なんて言われているかもしれない。


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2022年3月8日火曜日

【映画感想】『のび太の宇宙小戦争 2021』

『のび太の宇宙小戦争 2021』

内容(映画.comより)
国民的アニメ「ドラえもん」の長編映画41作目。1985年に公開されたシリーズ6作目「映画ドラえもん のび太の宇宙大戦争(リトルスターウォーズ)」のリメイク。夏休みのある日、のび太が拾った小さなロケットの中から、手のひらサイズの宇宙人パピが現れる。パピは、宇宙の彼方の小さな星、ピリカ星の大統領で、反乱軍から逃れて地球にやってきたという。スモールライトで自分たちも小さくなり、パピと一緒に時間を過ごすのび太やドラえもんたち。しかし、パピを追って地球にやってきた宇宙戦艦が、パピを捕らえるためのび太たちにも攻撃を仕掛けてくる。責任を感じたパピは、ひとり反乱軍に立ち向かおうとするが……。

 劇場にて、八歳の娘といっしょに鑑賞。もともと2021年公開のはずが、コロナ禍で1年延びて今年公開となった。配信にしてくれたらいいのに、とおもうが、劇場の都合など考えるとそんな単純な話でもないのだろう。


 1985年版『のび太の宇宙小戦争』の映画は観ていないが、大長編コミックを持っていたのでストーリーはよくおぼえている。

『のび太の宇宙小戦争』はドラえもん映画の中でも好きな作品のひとつだ。特に、「ドラえもん映画にしては出木杉の出演シーンが多め」「ドラえもん映画では脇役にまわりがちなスネ夫としずかちゃんが活躍する」のがいい。

 だが、好きな映画だからこそリメイクをすると聞いたときは若干の心配もあった。


 ドラえもんの映画は、エンタテインメントに徹しているものもあれば、やたらと説教くさいものもある。環境保護だとか他の生物との共生とか。当然ながらおもしろいのは前者のほうだ。メッセージなんて観た人が好き勝手に受け取るものであって、製作者が押しつけるものではない。

 なので『宇宙小戦争』も、一時のドラ映画のように「センソウ、イケナイ。ヘイワ、ダイジ」的なメッセージ性の強いものに改悪されていたら嫌だなーとおもいながら劇場に足を運んだのだが、心配は杞憂だった。

 原作の魅力はそのまま残し、劇場版ならではの迫力は倍増。さらに登場人物の内面もより深く掘りさげられ、それでいながらスピード感があるので説教くささは感じさせない。とにかくわくわくさせてくれた。

 ウクライナで戦争が起こっている今だからおもうことはいろいろあるが、それについては書かないでおく。あくまでこれはドラえもんの映画。子どもを楽しませるための映画なのだ。現実の政治や戦争を語るために利用すべきではない。




『宇宙小戦争』がいいのは、ドラえもんが道具をちゃんと使えることだ。

 以前にも書いたが、ドラえもんの映画ではドラえもんの道具使用が制限されることが多い。ポケットがなくなったり、ドラえもんが精神異常になったり。
 そりゃあドラえもんの道具はほぼ万能だから封じたくなる気持ちはわかるが、この〝ハンデ戦〟をやられたら観ているほうとしたら興醒めだ。「はいはい、登場人物を窮地に陥れるために道具を使えなくしたのね」と、製作者の意図が透けてしまう。ピンチをつくるために無理やり道具を使えなくする。ご都合主義の反対、不都合主義とでも呼ぶべきか。ドラえもんの道具を封じたら、

 だが『宇宙小戦争』ではスモールライト以外の道具は問題なく使える。スモールライトを使えなくなる理由もストーリー的にまったく不自然でない。

 ちなみに昔『宇宙小戦争』を読んだときは「ビッグライトで戻ればいいじゃん」とおもったものだが、今作ではその解決法を封じるために「スモールライトで小さくなったものはスモールライトでないと戻れない」という設定をつけくわえている。

 ドラえもんがスモールライト以外のすべての道具を使えるのに、それでも敵わない。だからこそ敵の強さが伝わってきて、観ている側はどきどきする。『魔界大冒険』もそうだった。安易に道具の使用を制限しないでほしい。




 出木杉の活躍

 旧作『宇宙小戦争』の序盤は、出木杉が大いに活躍した。スネ夫たちが特撮映画を撮影するにあたって、のび太の代わりに出木杉を仲間に入れる。すると出木杉は次々にすばらしいアイディアを出し、映画のクオリティはどんどん上がる……。

 ところがリメイク版でははじめから出木杉が仲間に入っている。そこにドラえもんが道具を貸すことで、さらにクオリティが上がる……というストーリーだ。これは残念だった。出木杉がドラえもんの引き立て役になってしまっている。

 旧作のスネ夫の技術に出木杉の知恵が加わることですばらしい映画ができあがっていくシーンはほんとにわくわくしたのに。ドラえもんが道具を貸したらいいものができあがるのはあたりまえじゃん。足りない分を知恵で解決するところが特撮映画の魅力なのに。なんでもかんでもドラえもんの道具を使えばいいってもんじゃないぞ。

 また、「出木杉が塾の合宿に行った」という設定がつけくわえられ、途中で完全に出木杉は姿を消す(ラストシーンでだけ再び顔を出す)。これも、出木杉ファンのぼくとしては残念でならない。
 でもこれはよく考えたら出木杉に対する優しさだな。なんせ旧作では「途中まで仲間だった出木杉が何の説明もなくのけものにされる」んだもの。それに比べれば「塾の合宿があるから誘えない」という今作はずっと優しい。


 スネ夫の活躍

 やはり『宇宙小戦争』はスネ夫の活躍抜きには語れない。というより、本作の主役はスネ夫だといっていいだろう。リメイク版ではスネ夫の出番が減るどころか、より多くスネ夫にスポットライトが当たっていた。

「ジャイアンは映画では性格が変わる」とはよく言われるが、いちばん変わるのはのび太だ。特に最近の映画でののび太は、勇敢で意志が強くて行動的なスーパーヒーロー。原作ののび太は「何をやらせてもダメ」だからこそ多くの子どもに愛されるのに、映画版のび太は大谷翔平のような超人だ。まったく共感できない。

 のび太も、ジャイアンも、しずかちゃんも、とにかくまっすぐだ。一度自分のやるべきことを決めたら一切の迷いもなく突っ走る。
 そこへいくと人間・スネ夫は迷い、悩み、反省し、考える。自分の正しさをも疑うことができるのがスネ夫だ。『のび太の月面探査記』でも、唯一臆病さを見せていたのがスネ夫だった。

 ぼくが信用できるのはスネ夫のような人間だ。なぜなら多くの人間と同じだからだ。もちろんぼくもそうだ。

 行動に一切のためらいのない人間は信用できない。全力疾走する人間はたまたまいい方向に走ればすばらしい結果を生むこともあるが、まちがった方に向かえばとんでもない悲劇を生む。正しさなんて誰にもわからない。みんな自分が正しいとおもっているのだから。ヒトラーだってポル・ポトだって毛沢東だってプーチンだって、みんな自分は正しいとおもって一生懸命がんばってたんだぜ。

 戦争を始めるのが映画版のび太のような人間で、戦争を防ぐのがスネ夫のような人間なのかもしれない。

 だって、パピが言っていることが真実だとどうしてわかるの? もしかしたらあっちが多くの人を殺した大悪党なのかもしれないよ? 遠い星で起きた内戦で、どちらが正しいかなんて地球にいるのび太に判断できるわけがないよね。
 それなのに、一方の言い分だけを鵜呑みにして加勢するなんて怖すぎる……。


 いや、これ以上はやめておこう。ぼくはなにものび太たちの行動にケチをつけたいわけではない。子ども向けエンタテインメント映画なのだから、わかりやすい正義VSわかりやすい悪でいい。悪役はとことん悪くていい。生まれながらの悪で、四六時中悪いことを考え、いいことはひとつもせず、悪いことをするためだけに悪事をはたらく。そんなやつでいい。悪党にとっての信念だの道を踏み誤った背景だのはいらない。
 じっさい、『宇宙小戦争』の敵であるギルモア将軍はそんなやつだった。だからおもしろかった。

 ただ、自分がスーパーヒーローになれないとわかったおっさんとしては、どうしてもスネ夫に肩入れしてしまうんだよね。ほんとはよその星の戦争なんかに参加したくないのに周囲に流されてついていってしまうスネ夫、ついていったはいいもののやはり怖くなってしまうスネ夫、戦う決心をしたもののいざ敵を目の前にすると足がすくんでしまうスネ夫、身の危険がないとわかると調子づいて戦うスネ夫……。なんて人間くさいんだ。

 今作は、スネ夫の人間的魅力が存分に発揮された作品だった。


 ドラコルル

 大ボスであるギルモア将軍は卑怯で、心が狭く、猜疑心の塊で、思考が単純で、そのくせ自信家で、どうしようもない敵だった。

 その点、ギルモア将軍の部下であるドラコルル長官はじつに魅力的な悪役だった。大長編ドラえもん史上「最弱にして最強」とも呼ばれているらしい。地球人ならかんたんに踏みつぶせるほどの小さな身体でありながら、その知恵と計略でスモールライト以外の道具を使えるドラえもんたちを追い詰める。決して敵を侮ることはなく、常にあらゆる可能性を想定し、どんなときでも落ち着いて思考し、行動する。

 彼は敵だけでなく、上司であるギルモア将軍を疑うことも忘れない。おそらく自分自身をも完全には信じていない。またドラえもんたちに追い詰められた後は「我々は敗れたのだ」と潔く負けを認め、ギルモア将軍のように保身のために逃走したりもしない。かっこいい男だ。もし彼がパピよりも先に地球にやってきてのび太と出会っていたら……。ピリカ星はまた違った運命を迎えていたかもしれない。


 前作とリメイク版との違い

 前作を最後に読んだのは二十年以上前だから記憶を頼りに書くが……。


・出木杉の活躍シーンの減少

 これは前に書いたとおり。残念。


・ウサギがぬいぐるみが横切るシーンの削除

 パピの初登場、スネ夫と出木杉が推理をくりひろげるシーンがまるっと削除。これにより、出木杉の活躍シーンがさらに減ってしまった。


・パピの姉・ピイナの存在

 原作には存在しなかったキャラクター・ピイナ。これはゲスト声優を出演させるための大人の事情ってやつなんだろうな。原作ではしずかちゃん以外に女の子が登場しないから。

 はっきりってピイナはいてもいなくてもほとんどストーリーには関係ないポジション。パピ大統領の子どもっぽい一面がかいまみれる、ぐらいのはたらきしかない。「ピイナとしずかちゃんの顔が似ている」設定も、だからなんだって感じだし。

 大人の事情はわかるとしても、無理やり新キャラをねじこむぐらいなら出木杉の活躍シーンを残しておいてほしかったぜ。


・その他細かいシーン

 果敢に戦うしずかちゃんを、それまで隠れていたスネ夫が助けるシーン。たしか原作でのスネ夫の台詞は「女の子を危険な目に遭わせるわけにはいかないよ」だったと記憶しているが、今作では「君ひとりを危険な目に遭わせるわけにはいかないよ」になっていた。これは当然、時代に即した修正。

 ラスト近く、逃げるクジラ型戦闘機にジャイアンが馬乗りになるシーン。原作ではジャイアンが服を脱いで戦闘機にかぶせて目隠しをしていたのだが、なぜか今作では服を脱がなかった。特に問題があるシーンとはおもえないが……。
 やっぱあれかね。男の子であっても小学生児童の乳首が見えるのはまずい、という配慮なのかね。そのわりにしずかちゃんの入浴シーンはしっかり残っていたが……。



 
 前作の良さを存分に残しているので、前作ファンにも楽しめる。もちろん前作を知らない人はもっとおもしろいにちがいない。娘も大満足だった。

 ただ一箇所だけ、ぼくは気になったところがある。

 すごく細かい揚げ足取りで申し訳ないけど、ドラえもんたちが戦車に乗っているシーン。ずっと画面隅に戦車のバッテリー残量らしきものが写っているのだがそれがどのシーンでもずっと残量90%だった。

 どうでもいいのだが、どうでもいいところだからこそずっと気になってしまった。


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2022年3月7日月曜日

【読書感想文】『ズッコケ宇宙大旅行』『ズッコケ結婚相談所』『謎のズッコケ海賊島』

  中年にとってはなつかしいズッコケ三人組シリーズを今さら読み返した感想を書くシリーズ第五弾。

 今回は12・15・16作目の感想。

(1~3作目の感想はこちら、4・5・7作目の感想はこちら、8~10作目の感想はこちら、6・11・14作目の感想はこちら


『ズッコケ宇宙大旅行』(1985年)

 子ども向け、特に男子向けのフィクション作品には定番ジャンルがいくつかある。昆虫、戦国、恐竜、乗り物、幽霊、推理など。そのひとつに「宇宙」がある。

 ということで定番の「宇宙」を題材にしているのだが、さすがは那須正幹先生、安易に宇宙人を登場させたりはしない。アメリカのUFO研究機関の蘊蓄を並べたり、バードウォッチングをしたところ奇妙な音がカセットテープに録音されることから磁力線が発生していることに気づいたり、これでもかと説得材料を並べ立てている。このあたり、非常に理屈っぽい。はっきりいってUFOの歴史や定義など子どもには難解でいまいち伝わらないとおもうんだけど、きっと著者自身が書かずには納得できないのだろうな。児童文学だからといって細部まで手を抜かない矜持を感じる。

 ただ、設定がしっかりしていることが裏目に出たのか、宇宙をテーマにしているわりにはこぢんまりした印象だ。「大旅行」といいながら宇宙に行っているのは数時間だけだし、小宇宙船と母船の中をうろうろしているだけで、他の星に行くわけでもない。

「敵」が出てきて頼みの綱の宇宙人がやられて……とスリリングな展開になりかけたところで、あっさり「敵」の正体がゴキブリだと判明。

 地球人をはるかに上回る科学力を持っているのに、防疫システムだけはザル。他の星に行って動植物をサンプルとして採集し、それを自分たちの食糧といっしょに保管しておくなんて、バカすぎるだろ宇宙人。

 バルサンでやられる「敵」、UFOの形状や内部構造、宇宙人の姿などどれも「漫画で見た通り」な感じで、全体的にチープさが否めない。


 ……とおもいきや。

 エピローグで明らかになる、意外な事実。

 あーなるほどー。宇宙人やUFOがあまりにもステレオタイプだとおもったらこういうわけかー。このどんでん返しは見事。
 うまいことやったね。宇宙人やUFOの描写っていろんな人が試みてるから、既視感があるものになっちゃうもんね。かといってあまりに新奇なものにすれば少年読者がついていけないし。「地球人にも理解できるように」かつ「地球人の想像も及ばないようなもの」という正反対の要求を見事にこたえる、すばらしい逃げ道、じゃなくて解決法だ。

 ぼくが小学生のときにもこの本を何度か読んだはずだけど、ゴキブリ退治のくだりは印象に残っているが、エピローグはまったく記憶に残っていなかった。小学生にはちょっと難しいオチだったかもしれない。当時はあんまり好きな作品じゃなかったしな。
 小学生のときと大人になってからで大きく評価が変わった作品だ。

 似たようなメタなオチは、後の作品『ズッコケ文化祭事件』でも使われてて、そっちはよくおぼえてるんだけどなあ。



『ズッコケ結婚相談所』(1987年)

 ズッコケシリーズの話の導入には大きく二種類あって、「三人組がおもわぬ事件に巻きこまれる」型と、「三人組(特にハチベエ)が行動を起こして周囲を巻きこんでいく」型がある。

 前者は『探偵団』『探偵事務所』『山賊修行中』『時間漂流記』『恐怖体験』『宇宙大旅行』などで、後者は『探検隊』『心霊学入門』『事件記者』『児童会長』『株式会社』『文化祭事件』などだ。
 好みはあるだろうが、ぼくはだんぜん後者のほうがおもしろい作品がおおいとおもう。

 殺人事件に遭遇したり、幽霊に憑りつかれたり、宇宙人と出くわしたりする導入だと終始「お話」感がついてまわるが、「学校の壁新聞を作るための取材をはじめたら……」「子どもだけで会社を作ったら……」といった導入には「あるいは自分も同じような体験をできるかも」とわくわくさせてくれたものだ。

 で、この『ズッコケ結婚相談所』である。これは典型的な「三人組の行動が周囲を巻きこむ」パターンの話だ。

 女子小学生の自殺を伝える新聞記事、という異様に暗いシーンから物語が幕を開ける。ズッコケシリーズの中でも、いや全児童文学をさがしても、ここまで陰鬱なシーンからスタートする物語は他にそうないだろう。

 新聞記事を読んだハチベエは顔も知らぬ女子小学生の死に心を痛め、同じ境遇にある小学生を救うために何かできることはないかと知恵を絞る。で、おもいついたのが「子ども電話相談室」の開設。

 このあたりはコミカルに描かれているけど、すばらしい行動力だ。いきなり全員を救うことはできなくても、まずは近くの子どもに手を差し伸べる。自分にできる範囲の小さなことをやる。こうした小さな行動の積み重ねがやがて世界を変える。かもしれない。

 しかしそんなハチベエ先生の奮闘むなしく、ハチベエはクラスの女子から嘘の相談を持ちかけられてまんまと騙され(このいたずらはほんとにひどい)、ハカセはヒステリックな母親から説教され、「子ども電話相談室」はあえなく終了することに。

 そして後半はうってかわって、モーちゃんのお母さんの再婚話が主題となる。

 この作品は、前半と後半でまったく別の作品だ。そしておもしろいのは断然前半だ。「周囲を巻きこんでいく」型の前半と、「巻きこまれる」型の後半なので当然かもしれない。


 児童文学で親の離婚、再婚をテーマに据えた意欲は買いたい。今の時代でも挑戦的だと感じるのだから、三十年以上前の出版当時は相当新しいチャレンジだったのだろう。

 意欲的な作品なのは事実だが、物語としておもしろいかというとそれはまた別の話。

 親の離婚や再婚って子どもからすると人生を大きく左右する一大事件でありながら、自分が介入できる余地は少ないんだよね。納得いかなくても、親の決定に従う以外の道はないんだから。

 だから母親の再婚話に直面したモーちゃんは大いに悩むし、それを知ったハカセやハチベエも親友のために東奔西走するけれど、子どもたちが悩んだり話し合ったところで事態は変わらない。なのでずっと空回り感はぬぐえない。

 モーちゃんの行動が母親の最終的な決断に影響を与えたのはまちがいないけど、あくまで要因のひとつ。「あの行動がこの結果につながったかもしれないし、無関係かもしれません」では、読み終わった後の爽快感は得られないなあ。

 モーちゃんの気持ちがいまいち伝わってこないのもマイナス。ずっとうじうじ悩んではいるけど、それは父親に対するものだけで、母親に対する思いはまったくといっていいほど書かれていない。子どもにとっては母親って絶対的な存在なわけじゃん。母子家庭だったら余計に。その母親が再婚するかもしれない、って自分のアイデンティティが揺さぶられるぐらいの出来事だとおもうんだけど、モーちゃんがそこについて戸惑っている描写がぜんぜんない。
 モーちゃんは過去との決別のために実父に会いに行くわけだけど、どっちかっていったら「物心ついてから一度も会ったことのない父さん」よりも「生まれたときからたった一人だった母さんがよその人と結婚する」のほうが重要事項だとおもうのだが。そこを書かないのは片手落ちじゃないだろうか。

 試みはおもしろかったけど、このテーマをエンタテインメントにするのはむずかしいよなあ。


『謎のズッコケ海賊島』(1987年)

 モーちゃんが食べるものがなくて困っているおじさんを助けてあげたところ、後日そのおじさんから海賊の宝のありかを示したメモを渡される。そしてはじまる宝探し、暗号解読、小島の洞窟探検、そして悪者の登場……。

 と、定番要素をぜんぶ詰めこんだ王道すぎる冒険譚。大人の目から見ると、王道すぎて逆に退屈なぐらい。手塚治虫の初期作品(貸本時代)にこんな話がよくあったなあ。つまり1987年当時でもすでに新しくない。

 しかし「はやての陣内」という海賊を登場させ、歴史背景をもっともらしく語ることで洞窟の実在に説得力をもたせているところはさすが。那須先生はこういう「もっともらしいほら話」が非常にうまい。

 暗号もいっぺんに解読されるのではなく、「二枚で一セット」「浄土にまいるべし」「『女島の南』というフレーズの意味が陸の人間と海賊とでは異なる」など、徐々に謎がとけてゆくところはうまい。

 目新しさはないが、ズッコケシリーズとしてはまあまあの良作といっていいんじゃないだろうか。モーちゃんの人の好さ、ハカセの博識、ハチベエの行動力と三人の長所がそれぞれ発揮されているのもいい。子どもの頃は「つまらなくもないが、シリーズ上位に入るほどではない」という評価だったが、大人になって読んでもその評価は変わらなかった。

 ただ、最後にほんとに宝を手にして三人組が全国区のヒーローになってしまうのが個人的にはちょっと物足りない。最後の最後でズッコけるのがこの三人組の魅力だし、物語にリアリティを与えてくれているのに。


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2022年3月4日金曜日

洞口さんはうがいができない

 あたしはうがいができない。

 ガラガラペッ、ってやつ。あたしがやるといつもゲボバボバゴボッ、とか、ゴボベバババッ、とかになる。
 そんで、周囲がびちょびちょになる。なぜか。

 だってやりかたがわかんないもん。

 理屈はわかる。水をのどに入れて、そんでのどを震わせるんでしょ。でも理屈でわかるのとじっさいにできるのとは違う。ボールにタイミングよくバットをあわせて鋭くスイングすればボールをスタンドまで運べるとわかっているだけではホームランが打てないのとおんなじで。

 考えてもみてほしい。のどは何のためにあるのか。ひとつ、水や食べ物を食道へと運ぶ器官。もうひとつは、空気を震わせて声を発するため。決して水を震わせるための器官ではない。その証拠に、人間以外のどの動物もうがいをしない。

 わかる? のどの役割はふたつ。
「空気が出てきたときは震わせる、または吐き出す」
「水や食べ物が入ってきたときは飲みこむ」
 AならばA'、BならばB'。ごくごくかんたんなプログラミング。

 なのにうがいがやろうとしていることは、BならばA'。
 なんじゃそりゃ。規則違反。Excelだと#NUM!とか出るやつ。

 だからあたしがのどに水を入れたら自動的に飲みこんでしまうのも、飲みこまないようにぐっとこらえてのどを震わせようとしたらおぼれてしまうのも、しかたないとおもわない?


 まあそれはいい。子どものときは「ちゃんとうがいしなさい」なんて言われたものだけど、大人になると人前でうがいをする機会なんかなくなる。もうあたしは一生うがいとは無縁の人生を送っていくのさ、さらばうがい、このうがいからの卒業。と、晴れ晴れした気分で日々の生活を送っていた。

 ところがどうよ。このコロナ禍とかいうやつのせいで、またうがいが脚光を浴びるようになってきた。ちくしょううがいのやつ、あのとき確かに殺したはずなのに。まさか虎視眈々と再び脚光を浴びるチャンスを狙ってたとはね。

 医者も、テレビのアナウンサーも、政治家も、教師も、サラリーマンも、何かと言えば「手洗いうがいを徹底しましょう」だ。ばかの一つ覚えみたいに、手洗いうがいを徹底させようとする。

 そりゃああたしだって、うがいが防疫に有効だということは百も承知だ。だけどできないんだもん。しかたないじゃない。
「コロナウイルス予防には後方二回宙返り一回ひねりが効果的であることがわかりました」って言われても、体操選手以外にはどうしようもないじゃん。それといっしょよ。

 まあテレビで言ってるだけなら聞き流せばいいんだけど、あろうことか、うちの会社の社長が「昼休み明けに全社員で手洗いうがいをすることにします」なんてことを言いだした。

 ほらー。医者やアナウンサーや政治家が言うからー。真に受ける人が現れるじゃんかよー。

 だいたいなんでみんな一斉にやるのよ。どう考えたって別々にやったほうが衛生的でしょうに。こうやってすぐ横並びでやりたがるのが地球人のよくないとこよね。あっちじゃ、もっと個々の意思を尊重してるってのに。

 ってことで毎日昼休みの直後に同僚たちの目の前でおぼれてるのがこのあたし。あげくにはあたしがうがいができないせいでオフィスビルが全館停電になっちゃったわけだけど、その話をする時間はもうないや。ガバラベボボベッ。


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