2020年10月15日木曜日

【コント】合唱コンクール

「指揮者は山口で決まりだな。
 じゃあ次、伴奏。伴奏やってくれる人ー!」

  「……」

「誰もいないのか。合唱コンクールの伴奏なんてそんなに上手じゃなくてもいいんだぞ、誰かピアノやってくれる人ー」

  「……」

「なんだ、誰もやりたくないのか。
 しかし誰かがやらなきゃいけないんだから頼むよ。
 まずピアノ弾ける人に出てきてもらって、その中から決めようか。
 ピアノ弾ける人―」

  「……」

「いやいや、三十人もいるんだから誰かひとりぐらいピアノ弾けるやついるだろ。
 正直に言ってみろ、ピアノ習ってたやつは?」

  「……」

「べつに十年やってたとかじゃなくていいんだぞ。
 そんなに難しい曲じゃないんだし。一年以上ピアノ習ってたやつは?」

  「……」

「え……? マジで……。マジでこのクラス、ピアノ弾けるやついないの!?
 ひとりも? ひとりぐらいいるでしょ」

  「……」

「あれだよ。ピアノじゃなくてもいいんだよ。
 エレクトーンでもいいしオルガンでもいいし、なんならアコーディオンでもいいんだよ」

  「……」

「さすがにアコーディオンはいないか。あれは道化師が弾くやつだもんな」

  「あのー」

「おっ、大竹。おまえ弾けるのか。
 いいんだぞ、男子でもぜんぜん」

  「小学校の授業で鍵盤ハーモニカやったんで、『きらきら星』ぐらいなら弾けますが」

「ぜんぜん弾けねえじゃん!
 上手じゃなくてもいいって言ったけど、『きらきら星』はないわー。
 『きらきら星』って披露宴で新婦の友人がハンドベルでやるやつじゃん。あんなの演奏するって言わねえんだよ。お茶にごすって言うんだよ」

  「あのー」

「おっ、川島。なんだよおまえ弾けるのかよ、早く言えよ」

  「ピアノは弾けないんですけど、ハープなら十年やってます」

「ハハハハープ!?
 ハープっておまえあれだろ、人魚が岩の上に座って奏でるやつだろ。
 おまえあれ十年やってんの? すげー」

  「あとテルミンもできます」

「テルミンってなによ」

  「世界初の電子楽器です」

「あーあれか。楽器本体にさわらずに空間に手を置くだけで音が出るやつか。あれできるってすげー。一芸入試狙えんじゃん」

  「それからビューグルも弾けます

「ビューグルってなによ」

  「ビューグルは軍隊が使うラッパです」

「なにおまえ軍隊のラッパ吹けんの。ほんとに民間人?」

  「あとチューブラーベル教室も十年通ってます」

「チューブラーベルってなによ」

  「『のど自慢』の鐘でおなじみのやつです」

「あーあれか。うそ、あれ専門の教室あんの。あれきわめてNHK以外の就職先あんのかよ」

  「あとカホンとタムタムとリソフォンとツィンクとブブゼラと法螺も一応お金とって演奏できるぐらいの腕前はありますけど……」

「なんかわかんないけど超すげーじゃん。じゃあ伴奏やれよ!」

  「ピアノはやったことないのでドの音がどこかも知りません」

「なんでだよ。そんなマイナー楽器きわめてるくせになんでピアノ弾いたことないんだよ。そういうマイナー楽器はピアノとかギターとかで大成するのをあきらめたやつが逃げるとこだろ!」

  「ひどい偏見ですね」

「もういいや、さっきのなんとかベルでいいや。のど自慢の鐘のやつ。あれで音階演奏できるだろ。あれを伴奏にしよう」

  「あーでも私がチューブラーベルで弾けるの、のど自慢の“不合格のときの音”だけなんですよね……」

「チューブラーベル教室に通ってる十年間、何やってたの!?」

2020年10月14日水曜日

【読書感想文】移民受け入れの議論は遅すぎる / 毛受 敏浩『限界国家』

限界国家

人口減少で日本が迫られる最終選択

毛受 敏浩

内容(e-honより)
すでに介護・農漁業・工業分野は人手不足に陥っている。やがて4000万人が減って地方は消滅をむかえ、若者はいい仕事を探して海外移民を目指す時代となるだろう。すでに遅いと言われるが、ドイツ、カナダなどをヒントに丁寧な移民受け入れ政策をとれば、まだなんとか間に合う。

みんな知っているように、日本の人口は減少している。
これから先もどんどん減る。少なくともあと百年は自然人口増加に傾くことはないだろう。

「いやなんとかして増やせ!」といってもそれはムリ。そもそも二十代三十代が減っているんだから、増えるわけがない。

「じゃあ人口減を受け入れていくしかないか」と諦められるかというとそれも厳しい。
なぜなら全体的に縮小していくのではなく、高齢者は増え、働き手が減っているからだ。
このような人口構成の変化を受け入れるということは、医療や介護や治安やインフラや教育や国民の便利な生活などを捨てるということである。
「昔は良かった」と口にする人だって、日本だけが百年前の暮らしをすることを望んでいるわけではまさかあるまい。

生産性を上げれば経済成長するとか、イノベーションを起こせば生産性は向上するとかいう人がいるが、圧倒的多数の老人に支配されている国で生産性が上がったりイノベーションが起こる可能性が高いとおもっているのなら、その人の脳内は相当お花畑だ。


人口は減る、その中で少なくとも今の生活水準を保つにはどうしたらいいのさ?

……という問いに対する著者の回答が「移民の受け入れ」だ。



まったく同感。
移民の増加以外に、日本人が「今の暮らしをそこそこ保つ」方法はない。

だが、移民に対する反発はまだまだ強い。
「治安が悪くなる」「日本人の仕事が奪われる」といった、ぼんやりとした不安を抱えている人は多い。ぼくもそうだった。

 とはいえ、外国人労働者が増えれば、日本人の給与が上がらなくなるのではと心配する人たちもいるだろう。日本では現在、給与水準は何十年も上昇しない状態が続いている。しかし、その理由は産業構造の転換による高付加価値化が達成されていないためであり、外国人の雇用とは無関係である。適性な規模の外国人労働者を受け入れれれば、日本人に影響を与えることはない。
 人手不足が地域経済の足を引っ張る状況がいたるところで生まれている。日本人の職が奪われることを恐れるよりむしろ、人手不足による経済縮小、産業の衰退を心配すべきだろう。

今の日本は人手不足だし、この程度はこの先どんどんひどくなる。仕事を奪われる心配よりも働き口そのものが消失する心配をしたほうがいい。

高度経済成長期は働き手がどんどん増えていったわけだけど、仕事を奪われるどころか仕事はどんどん増えていった。
なぜなら労働者は消費者でもあるからだ。どんどん来てどんどん稼いでどんどん使ってくれれば、日本人にも恩恵があるはず。

無制限に受け入れるならともかく、ちゃんと移民の属性や量をコントロールすれば、好影響のほうが多いはず。



移民増加による治安の悪化を心配する人も多いが、むしろ今の移民受け入れに消極的な姿勢こそが治安の悪化を招いていると著者は指摘する。

 人材獲得競争の狂想曲が日本中で鳴り響き、国を越えた人材斡旋が加速するこうした異常とも思える事態が起こっている。それだけ人手不足は逼迫しているということだろう。「移民政策をとらない」という前提が、人手不足を背景に、さまざまな矛盾や悲喜劇をもたらしている。
 さらにもっと憂慮すべき事態も起こっている。
 2017年1月1日現在の不法残留者数は、6万5270人と1年前に比べて2452人(3.9%)増加した。2014年1月まで減少傾向にあったが、3年連続で増加を続けている。一方、技能実習生の失踪も急増している。2015年の失踪者は5803人と3年で3倍近く増えて過去最多となった。
 失踪する技能実習生が急増しているのは、母国で聞いていたよりも、日本で受け取る収入が少なく、このままでは3年いても借金が返せないといった理由で、闇の労働斡旋業者に駆け込むからといわれている。失踪者が日本社会のアンダーグラウンドに入りこむとすば、それは日本の将来の治安にも大きく影響するだろう。

居場所も行政が管理しやすい。犯罪をしたら強制送還される。
ふつうに考えれば、移民のほうが犯罪をやりにくいんじゃないだろうか。

ところが「治安が悪くなるから」という漠然とした理由で移民受け入れに反対していたら、本当に治安を悪くするような外国人しか来てくれなくなる。

また技能実習生制度に代表されるように来日外国人の待遇が悪いから、まともな仕事を続けることができなくなって犯罪に走るようになる。

移民に対する偏見・差別こそが外国人犯罪を生んでいるのだ。



移民は受け入れたほうがいい。
これはもうぜったい。

だが問題は、日本で働きたい外国人がいるのか、という問題だ。

たとえばぼくが外国人で「海外に出稼ぎに行きたい」とおもってたとして……。まず日本は選ばない。
だってぜんぜん魅力的じゃないもん。排他的だし、日本語はつぶしがきかないし、衰退途上国だし。
三十年前の日本ならいざしらず。


「どうやって来てもらうか、どうやって受け入れていくか」を議論しなければならないのに、まだ「受け入れて大丈夫か」とのんきなことを議論している。

 インドネシア人の大学院生が、経済連携協定(EPA)で来日したインドネシア人の介護士候補生にインタビューしている。その結果、仮に試験に通ったとしても帰国することを検討しているインドネシア人がたくさんいたという。
 理由は、日本では何年たっても給与が上がらないからという。初任給は当然、日本のほうが高いが、インドネシアで就職すれば、国が経済成長しているので、年齢とともに給与が上がっていく。日本で生活していても頭打ちだということに、日本に来て初めて気がついたのだ。
 先進国ではどの国も高齢化が進んでいる。韓国は移民の受け入れに向けて、人口減少が始まる前に方向転換を始めた。中国も一人っ子政策を廃止し、最近では海外人材獲得めに、公安省の国境管理と出入国管理局を統合・拡大し、新たに移民局を創設する計進められていると報じられている。中国がもし移民受け入れを始めれば、そのインパクトはきわめて大きいだろう。
 今後、東南アジアでも高齢化が進み、所得も上がっていく。急速な人口増加が顕著なべトナムは、同国は高齢化のスピードがきわめて早いことで知られている。質の高い移民は世界中で奪い合いになっていく中で、日本としていち早く有能な人材を確保する道筋を作ることが必要となる。後手に回れば、移民反対論者が恐れるような低レベルの人材しか日本に来なくなってしまうだろう。

すでに「移民受け入れの絶好のタイミング」は失われつつある。

かつては日本に働きに来ることの多かった中国人は、自国が経済成長しているのでどんどん来なくなっているらしい。
他の国も後に続く。
そりゃそうだろう。
ただでさえ独自の言語である日本語というハンデがあるのに、政府が受け入れに積極的じゃないんだから。


前にも書いたけど、問題は人口が減ることそのものより、日本の多くのシステムがいまだに「人口が増え続けること」を前提としたものであることなんだよね。
自動車とか住宅とかまちがいなく衰退産業でしょ。人口が減るんだから。だからってただちになくせとはいわないけど、縮小させてゆく心づもりをしなくちゃならない。
いまだにものづくり大国とか言ってんだから笑っちゃう。

竹田 いさみ『物語オーストラリアの歴史』によると、オーストラリアはかつては白豪主義という差別的な方針をとっていたが、今ではどんどん移民を受け入れてうまくやっているそうだ。

日本の最大の弱点は「状況が悪くなっていること」ではなく「状況が悪くなっているという事実を受け入れられない」ところかもしれない。



全体的に「移民受け入れが必要、受け入れるためにやることはたくさんある」著者の主張には賛成なのだが、以下の考え方にはまったく賛同できない。

 人口減少の現場を直視する自治体の職員は、心の中では白旗を上げて、人口減少は止められないと考えているかもしれない。人口減少で集落が一つや二つ消えるのはやむを得ないと、もし彼らが考えているのであれば負け戦は必至である。「なにがなんでも消滅集落をこれ以上増やさない、外国人住民の受け入れも含めて、ありとあらゆる手段をとって地域を守る」という強い決意がない限り、人口減少はずるずると続き、地域社会は取り返しのつかないほど衰退した状況になるだろう。

こういう考え方、すごく嫌い。

手段と目的が入れ替わっている
「不便になる」のが嫌だから「人口減少を止める」話をしてたはずなのに、「人口減少を止める」ことが目的になって、そのためなら「なにがなんでも」やるべきだと言っている。
本末転倒だ。

すべての地域を守るのは不可能だ。
だいたい、今日本人が住んでいる土地の多くはここ百年以内ぐらいに切り開かれた土地だ。
本来なら人が住めるような場所ではなかった場所に、人口が増えたからという理由でむりやり住んでいる。
だから人口が減ったら見捨てるのはいたしかたない。
(ぼくも戦後に切り開かれた住宅地で育ったのでふるさとが消滅する可能性があるが、悲しいけどそれもやむをえない。思い出を守るために不便な生活はしたくない)

間引きをしないとすべての果実が大きくならないのと同じように、消滅集落をどんどんつくるのが共倒れを防ぐ方法だとぼくはおもう。


移民受け入れはいいとおもうんだけど、この本の論調は移民受け入れそのものが目的になっているフシがあるなあ。


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【読書感想】内田 樹 ほか『人口減少社会の未来学』

【読書感想文】めざすはミドルパワー / 竹田 いさみ『物語オーストラリアの歴史』



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2020年10月13日火曜日

斎場級に住みやすい 墓地墓地住みやすい

我が家から徒歩五分ぐらいのところに墓地と斎場がある。

で、おもったのだけど、墓地や斎場の近くって実は住みやすい場所なんじゃないかな。

そうおもった理由について。


 地価や家賃が安い

嫌がる人が多いからね。
たぶん安くなる。


 公共施設や商業施設に近い

墓地や斎場の真横に家やマンションが建てづらいからだろう、公共施設が多い(あくまで我が家の近くの場合だが)。

図書館や警察署や大きめの公園があり、大型スーパーがある。
便利だし治安もいい。
公共施設はだいたい夕方には人の出入りがなくなるので夜も静か。


 静か・陽当たり良好

墓地や斎場の近くは静かで陽当たり良好だ。

お通夜でも21時ぐらいには終わるし、基本的に夜中は静か。
(もしかしたら墓場で運動会してる連中がいるかもしれないが、ふつう目に見えないので大丈夫)

だいたい大声で騒ぐような場所じゃないし。
ヤンキーの溜まり場にもならないし。

墓地に高い建物が建つこともないから陽当たりもいい。
墓地の真横でも住みやすいかもしれない。


霊的なものを気にしない人にとっては、斎場や墓地の近くっていいことづくめなんじゃないかな。

昔は斎場から煙が出ていたんだろうが、今はまったくないし。

強いてデメリットを挙げるなら、墓地には草や水があるから虫が棲みつきやすいことぐらいかな。


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【エッセイ】墓地散歩のすすめ その1

【エッセイ】墓地散歩のすすめ その2

【エッセイ】墓地散歩のすすめ その3

2020年10月12日月曜日

【読書感想文】事実は小説よりもえげつない / 櫛木 理宇『寄居虫女』

寄居虫女(ヤドカリオンナ)

櫛木 理宇

内容(e-honより)
平凡な家庭の主婦・留美子は、ある日玄関先で、事故で亡くした息子と同じ名前の少年と出会い、家に入れてしまう。後日、少年を追って現れたのは、白いワンピースに白塗りの厚化粧を施した異様な女。少年の母だという女は、山口葉月と名乗り、やがて家に「寄生」を始める。浸食され壊れ始める家族の姿に、高校生の次女・美海はおののきつつも、葉月への抵抗を始め…。


いるよなあ。こういう、人の弱みに付け入るのがものすごくうまい人間。

ぼくは直接的な被害に遭ったことはないのだけど(なぜなら優しい人間じゃないから)、ニュースやルポルタージュを見ると「この加害者もひどいやつだけど、被害者のほうもお人よしすぎやしないか。もっと早めに反撃するなり警察に行くなりすればいいのに」と言いたくなる事件がある。


十年ほど前、豊田 正義『消された一家 北九州・連続監禁殺人事件』という本を読んだ。ある一家に入りこんだ男が家族全員を監禁・虐待によって奴隷状態にし、家族同士の殺し合いまでさせた事件のルポルタージュだ。

犯人よりも、家族の心理に疑問を抱いた。
なぜ言いなりになったのか。
大勢の人間に監禁されていたとかならわかるが、相手はたったひとり。何人かでかかれば力で押さえつけられるはずだ。
ずっと監禁されていたわけではないので、反撃するなり、逃げて警察に駆けこむなりできたはず。孤島の一軒家とかではなく、マンションの一室だったのだから。

でも被害者家族はそれをしなかった。
穏便に収めようとして、ずるずると深みにはまり、気づいたときには抜けだせなくなり、結果的にすべてを失った。

人間の理性って案外かんたんに壊れるものかもしれない。
眠いとか暗いとか怖いとか、そんな些細なことで、かんたんにまともな判断ができなくなってしまうのかも。


あと「家族がそろいもそろって騙された」というより「家族だからこそ騙された」ってのもあるかもしれない。
海外旅行でも、ひとり旅よりもふたり連れの旅行のほうが危ない目に遭いやすいと聞いたことがある。ひとりなら警戒するのに、ふたりだとお互いが相手に判断を任せてしまって、危険な場所にも足を踏み入れてしまうからだとか。

同じように、ひとり暮らしの家に誰かがやってきたら警戒する。ちょっとでもおかしなところがあれば追いだそうとするなり警察に相談するなりする。
ところが家族だと「なんか怪しいけど、ほんとにやばかったら自分以外の誰かがなんとかするだろ」とおもってしまって早めの防衛対策をとれなくなる。

頼れる人がいるときこそ気を付けなくてはならない。



『寄居虫女』では、巧みに家族の中に入りこみ、中からじわじわと家族関係を腐食させてゆく不気味な女の姿を丁寧に描いている。

「なぜなの」
 ビスケットと牛乳の盆を持って部屋を訪れた葉月に、震える声で美海は訊いた。
「なぜ、わたしのうちが狙われたの。――教えて。わたしたち、いったいあなたになにをしたの」
 葉月は首をすくめた。
「べつに、なにも」
 平坦な声だった。冬になったというのに、やはり彼女は長く薄い手袋をはめている。顔だけでなく首やデコルテに至るまで、こってりと白く塗りたくっている。目のかたちをアイラインで描き、唇を真っ赤な口紅で描いた仮面から、地の顔はうかがいようもない。
「ただ、とてもいいおうちだと思ったの。それだけよ。いいおうちには、誰だって住みたくなるものでしょう」
「そんな、――……」
「またね」
 ぱたりとドアが閉まった。

この女の存在は不気味ではあるんだけど、ぼくとしてはぜんぜんこわくなかった。

ひとつは、この女が計算づくで動いてること。
本物のサイコパスって本能的に人を操る方法を心得てるんじゃないかとおもう。計画的に動いているので、得体の知れなさが薄れてしまっている。

もうひとつ、こっちが最大の理由なんだけど、現実に負けていること。
事実に忠実に書いたルポルタージュである『消された一家 北九州・連続監禁殺人事件』のほうがよっぽどこわかった。

『寄居虫女』は北九州連続監禁殺人事件を下敷きにしているらしいのだが(ストーリーはだいぶちがうが)、実際の事件を小説に仕立てるんなら現実を越えなくちゃだめだとおもうんだよね。
実際の殺人犯のやりかたのほうがもっと巧妙で、もっと得体が知れなくて、もっとえげつないことやってたからね。どうしても見劣りしてしまう。

あと、このラストは嫌いだなあ。
とってつけたように「いろいろあったけどちょっとだけ救われました」「犯人のほうにもこんな事情があったんです」ってつけてむりやり希望のあるまとめかたをしているようで。

ほんのわずかな救いを用意したところで「ああ、よかった」とはならないわけで、だったらとことんまでえげつない展開にしたほうがよかった。

『少女葬』のほうは最後まで容赦のない展開だったのでそれぐらいの強烈さを期待したのだが、ちょっと期待外れだったな。


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見て見ぬふりをする人の心理 / 吉田 修一『パレード』【読書感想】



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2020年10月9日金曜日

【読書感想文】老人の衰え、日本の衰え / 村上 龍『55歳からのハローライフ』

55歳からのハローライフ

村上 龍

内容(e-honより)
晴れて夫と離婚したものの、経済的困難から結婚相談所で男たちに出会う中米志津子。早期退職に応じてキャンピングカーで妻と旅する計画を拒絶される富裕太郎…。みんな溜め息をつきながら生きている。ささやかだけれども、もう一度人生をやり直したい人々の背中に寄り添う「再出発」の物語。感動を巻き起こしたベストセラーの文庫化!

小説のうまい現代作家は誰かと訊かれたら(誰がそんなこと訊くんだ)、ぼくは村上龍氏だと答える。
特に短篇のうまさには舌を巻く。『空港にて』は目をひくような派手な仕掛けはないが、ぼくの好きな短篇集のひとつだ。

『55歳からのハローライフ』もやはりすばらしい出来だった。
アールグレイ、ミネラルウォーター、コーヒー、プーアル茶、日本茶といった飲み物がそれぞれの中篇でいい小道具として機能している。うまいなあ。

登場人物は、夫と離婚して結婚相談所に登録した女性、ホームレスになった旧友と再会する男性、早期退職後に再就職をめざすがうまくいかない男性、夫の代わりであるかのように愛情を注いでいたペットの犬が死んでしまう女性、トラック運転手として働いていたが今は孤独を抱えて暮らす男性。主人公はいずれも五十五歳ぐらい。村上龍氏と同世代であり、団塊の世代でもある。

老後、経済状況、健康、仕事、夫婦関係、家族、介護、生き甲斐。事情は異なるがみんなそれぞれ不安や悩みを抱えている。
そのどれとも無縁で生きられる人はいないだろう。ぼくはまだ三十代で今のところは大した悩みもなく生きているが、あと何十年かしたら確実に同じ問題に直面することになる。いやひょっとしたら一年以内に悩むことになるかもしれない。

『55歳のハローライフ』は、こうした悩みに対してハッピーな解決も明確な答えも出してくれない。
それでいい。答えなんかないし、解決することもまずない問題なのだから。



高齢者の悩みが深刻である最大の理由は、この先よくなる見通しが立たないことだろう。

若ければ貧乏でも仕事がなくても病気になっても恋愛がうまくいかなくても家族とうまくいかなくても、いつかは好転する可能性がある。
だが歳をとると、たいていの物事は悪くなる一方で良くなることはまずない。
高齢者の自殺が多いというのもわかる気がする。クサいことを言いたくないけど、やっぱり〝希望〟がないと人は生きていけないものだ。

『55歳のハローライフ』で描かれる閉塞感は、高齢者の閉塞感であると同時に、今の日本の閉塞感であるように感じる。

55歳の悩みが好転する可能性がほぼないのと同じように、高齢化した今の日本の問題が好転することもまずありえない。
経済、人口構成、財務状況、仕事、国際競争力、都市の老朽化……。今後よりいっそう悪くなることはあっても、長期的に改善することはまずないだろう。
この先、生きづらい国になることはほとんど宿命づけられている。

『55歳のハローライフ』で描かれる問題は、日本全部の問題だ。
すっかり年老いて、これから衰退していく一方であることがわかりきっている国。

『55歳のハローライフ』に出てくる人たちは、まだ幸せなのかもしれない。自分の老いの問題だけを抱えていかなくてはならないのだから。
それより下の世代は、国の老いもいっしょに背負いながら老いていかなくてはならないのだ。



『キャンピングカー』より。

 富裕の計画とは、中型のキャンピングカーで、妻と日本全国を旅することだった。夢といってもよかった。アメリカの映画などを観ると、退職したあと、キャンピングカーを大自然の中を旅する夫婦がよく登場する。単なる観光旅行ではない。思うままに好きなところを訪ね、美しい山や海や湖を眺めながら時を過ごすのだ。計画は、妻には内緒にしていた。びっくりさせようと思ったのだ。(中略)妻はもともと温泉好きだったし、喜ぶに違いなかった。絵が趣味で、何度も美術団体展で入賞し、友人が経営する喫茶店などを借りて個展を開くほどの腕前だった。子どもたちが働きはじめてからは、近所の文化センターで水彩画と油絵を教えている。北海道ニセコや九州阿蘇の雄大な風景を前にして、スケッチしている妻と、その素子を救笑みながら見守りコーヒーを沸かす自分の姿を、富裕は何度となく思い描いた。

この文章を読んで「あーこれはだめなやつだ……」とおもわなかった人は離婚に気を付けたほうがいい。

結婚生活でいちばん大事なことは「ひとりの時間をもつこと」だとぼくはおもう。自分が結婚してよくわかった。
結婚前は四六時中ずっといっしょにいられたが、それは一日二日のことだからだ。毎日いっしょにいるのはきつい。
「ひとりの時間」というのは自分ひとりの時間でもあるし、妻ひとりの時間でもある。

うちの家の土曜日の夜の過ごし方。
子どもが寝た後、ぼくは本を読んだりパソコンでブログを書いたり。妻は別の部屋でアニメを観たり手芸をしたり。まったく干渉しない。「何してるの?」とか「それなんて本?」とかの会話もない。
同じ家にはいるが、極力関わろうとしない。電車のボックス席にたまたま乗り合わせた他人と同じだ。
この「お互い口を聞かない時間」がすごく大事なのだ。

結婚相手に求める条件として「趣味が合う」はよく言われることだが、趣味は合わないほうがいいとおもう。
「嫌いなタイプが一緒」「好きな味付けが一緒」という意味での趣味が合うことは大事だけど、「登山が好き」とか「映画鑑賞が好き」とかの趣味はむしろ合わないほうがいい。

夫婦で旅行なんてぞっとする。
妻は妻で友だちと旅行、夫は夫で友だちと旅行。そんな夫婦のほうがうまくいく気がする。

この小説の「妻とのキャンピングカー旅行を計画。しかも妻には内緒で」なんて最悪だ。
これで喜んでもらえるとおもっているのがどうしようもない(実際この後妻から断られる)。
こんなことするぐらいなら、まだ「女ともだちと旅行」のほうがマシなんじゃないかとおもうぐらい。


ぼくがこの世でもっとも理解不能な職業のひとつが夫婦漫才師だ。
家でもいっしょにいて、ふたりで仕事をする。
よく発狂しないものだとおもう。
ぼくだったらぜったい無理だ。
桑田佳祐と原由子がソロ活動したくなるのもわかる。


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