つくり笑いがへただ。
ここはうそでも笑っといたほうがいいと頭ではわかっているのに、どうもうまく笑えない。
冗談というのは必ずしもおもしろくなくてもいい。場を和ますためにたいしておもしろくない冗談を言うことが必要なときもある。それは理解している。そして、おもしろくない冗談を言った人に対してはつくり笑いで返してやるのが人間関係をスムーズにする潤滑油であることも。
でもとっさに笑顔が出ない。ひと呼吸おいて「あっこれ笑ったほうがいい状況だ」と考えて、それからようやくひきつったように口の端を持ちあげる。せっかく和みかけた場が、ぼくのへたなつくり笑いのせいでまたぎくしゃくしてしまう(ように感じる)。
我ながら愛想がないなあと思う。でも世の中の人だってほとんどがはじめからできていたわけじゃないだろう。ひたすら慣れるしかないのだろうな。
体育会系の先輩のギャグを見せられたり、上司と酒を飲みにいって冗談を傾聴したり、そうしたことの積み重ねでつくり笑いはうまくなっていくのだろう。ずっとそういう場から逃げてきたぼくがうまくつくり笑いをできないのは当然のことなのだ。
中島みゆきの『ルージュ』という曲にこんな歌詞がある。
つくり笑いが うまくなりました世渡りがうまくなった自分を悲観的にうたっている歌だ。ぼくも二十歳くらいのときはこの歌を聴いて「ああ世間ずれしてしまうって悲しいなあ」と思っていた。そしてそんな自分が好きだった。
でも三十を過ぎた今、「つくり笑いがうまくなるのって悲しいことじゃなくてむしろ喜ばしいことだ」と思う。
つくり笑いがうまいほうがぜったい得だし、周りを幸せにするし、自分自身もハッピーになる。
だからわが子に対して「つくり笑いが上手な人になってほしい」と望んでいる。
でもつくり笑いを上手にするのってどうやって教育したらいいんだろうね。
だじゃれを連発する父親になるとか? でも父親相手にはつくり笑いなんてしてくれないだろうしね。家庭でつくり笑いを教えるのは無理なのかな。
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