2017年10月8日日曜日

文庫の巻末のお楽しみ


 文庫の巻末のお楽しみ


世に文庫好きは多いと思うが、あまり語られないのが巻末の宣伝ページだ。

本編があって、あとがきや解説があって、その後にあるやつ。

同じ出版社から刊行されているさまざまな文庫本を、3行ぐらいの解説とともに紹介しているページ。

ぼくはあれが大好きだ。正確にはなんていうのか知らないけど、とりあえず「巻末のお楽しみ」と呼ぶことにする。

昭和58年の今月の新刊




 巻末のお楽しみの効用


電車の中で思っていたより早く本を読み終えてしまうことがある。
今日読みおわるとおもっていなかったから、次に読む本を持ってきていない。

読む本がない。どうしよう。うわあああ(常に本が手放せない人間にとってはこれぐらいの緊急事態だ)。

こんなとき、巻末のお楽しみがあると助かる。
あの3行解説をじっくり読んで、紹介されている1冊ずつに対して「この本はどういう内容なのだろうか?」と沈思黙考すれば、けっこう時間がもつ。


広告としてもよくできている。

同じ著者の作品、同ジャンルの別の作家の作品、中には出版された時期が近いだけのまったくカテゴリ違いの本も紹介されたりしていて、それぞれおもしろい。
何十年も前の "今月の新刊" を見ると妙に感慨深いものがある。
鳴かず飛ばずだった本なのに「文壇を揺るがす問題作!」みたいな鳴り物入りで発表されていたのか、とか。
Amazonが「この商品を買った人はこんな商品も買っています」とやるよりずっと前から、文庫業界では巻末のお楽しみという形でレコメンド広告(関連する商品をお薦めする広告)を出していたんだよね。


映画好きの中には、予告編を楽しみにしている人も多いだろう。
だが映画の予告編が残念なのは、本編の前にやっていることだ。あれによって観客は広告を観ることを強制されてしまう。もちろん広告主としては全員に観てもらったほうがいいんだろうが、それによって嫌われてしまっては元も子もない。
広告には「ご迷惑でなければ見てやってください」というたしなみがなくてはいけない。巻末のお楽しみには、ちゃんとつましさがある。




 文庫の終わりのシンフォニー


本編を読んで本の中身に引きこまれて、あとがきや解説を読んで「なるほど、そういう解釈もあるのか」と感じ入って、最後に巻末のお楽しみを読んでクールダウンする。

おもしろい本だと本の中に引きこまれすぎる。著者の意向か知らないけどたまにあとがきも解説もない文庫があって、そういう本だと読み終わった後に気持ちの整理がつかない。うまく現実世界に帰還できない。巻末のお楽しみがあればそういう事態を防げる。

海外から帰国したときって変な感じしない? 頭の中では日本に帰ってきたってわかってるんだけど、でも身体はまだ海外にいるようなふわふわした感じ。
でも、空港という日本でも海外でもないような場所をうろうろして土産物屋とか見ているうちにだんだん慣れてくる。少しずつ「ああ、日本に帰ってきたんだな」って日常を取り戻していく。身体の切り替えって時間がかかるんだよね。

巻末のお楽しみは、空港の土産物屋みたいなどこか異次元の時間を提供してくれる。



2017年10月7日土曜日

ノートとるなよ


学生時代、教師に言われて嫌だった言葉のひとつが「ノートとれよ」だった。

表立って反論したことはないけど、内心ではずっと反発していた。



ぼくは学生時代、ほとんどノートをとらなかった。

教師が「ノートとれ」と言う。そのとき黒板に書かれていることは、ほとんどが教科書や資料集に書いてあることだ。

だったら教科書を読めばいい。
教科書に載っていないことであれば教科書の余白にメモをとれば済むことだ。
わざわざノートにとる必要がない。


じっさい、授業中ずっと真剣にノートをとっているやつよりも、一切ノートをとっていなかったぼくのほうがずっと成績が良かったのだから、ノートの不要性が証明されたようなものではないか。

学生のとったノートのほうが、専門家がたくさん集まって作って検定を経ている教科書より理解しやすいなんてことがあるわけない。

ノートをとることは、「ちゃんと聞いてますよ」というアピールをして内申点を上げる以外には役に立たない。

だからぼくは「ノートはできないやつがとるものだ」と学生時代思っていた。そしてノートをとるできないやつはできないままだ、と。
大人になった今では、もっとそう思っている。



学校で「ノートをとれ」とでたらめな教育を受けたせいだろう、大人になっても手帳にメモをしている人がいる。

「10月31日の19時に〇〇で会食」ってな内容ならわかる。
それはメモにとっておいたほうがいい。

でも、たとえばぼくがExcel関数の使い方を教えたときに、その内容をメモにとるやつがいる。

あほちゃうか、と心の中で思う。相手によっては口に出して言う。

検索したら出てくるものをなんでメモるんだよ、と。

そんなものメモしてるひまあったら覚えろよ。覚えられないんだったら検索のしかたを覚えろよ。

メモをとれば記憶しなくてすむわけじゃない。
書いたことを役立たせるためには、「どのメモに書いてどこに保存したか」を覚えとかないといけない。
テストをするんだったらテスト前に全部のメモを見かえせばいいが、仕事ではそんなわけにはいかない。
「どのメモに書いたか」の記憶に少ない脳のメモリを使うぐらいだったら、メモの内容をおぼえたほうがずっと効率がいい。



すでに書いてあること、ちょっと調べればわかることをメモするのはまったくの無駄だ。

見返さないノートをとってる人は、すぐそのノートを破棄しなさい。

これすごく大事。

すごく大事なこと書いたから、ちゃんとノートとっとけよ。


2017年10月6日金曜日

新党ひかり


政治における「右」と「左」の表現って絶妙じゃないっすか?

右派と左派。右翼と左翼。

もともとはフランス議会で保守派が議長から見て右側にいたから言うようになったらしいんだけど、左右の表現には優劣がないのがいい。

もしも「上」と「下」だったら定着しなかっただろう。「下」にされたほうが「なんでおれたちが下なんだよ」って怒って。

「前」と「後」だったら前のほうがイメージいいし(「前進」「前向き」)、「表」と「裏」だったら裏のほうがイメージが悪い(「裏の顔」「裏切り」)。
昔は裏日本なんて言い方もあったけど廃れたしね。つくづくひどい表現だ。

「北」と「南」は、それ自体に優劣はないけど、「北上」「南下」みたいに上下と結びついてしまうのでふさわしくない。話はそれるけど南半球の国には「南上」「北下」みたいな言語があるのかな。

「西」と「東」も優劣はないけど、世界が東西陣営に分かれていた時代は特定のイメージが強すぎたから、国内政治に用いるとややこしかったにちがいない。



そう考えると、やはり「右」「左」は対立を表しつつも上下関係がなくてベストな表現って感じがする。

右と左ってどっちが上なのかよくわかんないもんね。

左大臣のほうが右大臣より官位は上らしいけど、「右に出るものはいない」という言葉を使うときは右のほうがいいとされている。どっちやねんと。それがいいんだろうね。



あとは「内」と「外」もアリかもしれない。

保守派が「内派」で革新派が「外派」。うん、けっこうしっくりくるね。



政治の世界が「光党」と「闇党」に分かれたらおもしろいだろうなあ。

それを機に、中二病的な政党が続々誕生。「火党」「水党」「土党」「風党」「電党」なんかが出現して。

光党内の火派寄り勢力が分裂して「炎党」をつくったり。

残った光党が電党と合併して「灯党」をつくったり。

政治部記者も見出しをつけるのが楽しくてしょうがないだろうね。「水党と土党の泥沼抗争」とか「風向き変わって火党鎮火」とかさ。



2017年10月5日木曜日

【作家について語るんだぜ】土屋賢二


土屋 賢二

Wikipediaによると、土屋賢二は
日本の哲学者、エッセイスト。お茶の水女子大学名誉教授。専攻はギリシア哲学、分析哲学。
とある。

なかなか日本人で「哲学者」って呼ばれる人はいないよね。ぼくがぱっと思いつくのは三木清と西田幾多郎ぐらい。

話はそれるけど西田幾多郎の『善の研究』は昭和初期にベストセラーになったんだとか。哲学書がいちばん売れてたってすごい時代だなあ。とはいえべつに今の人がバカになったわけじゃなくて、昔は一部の教養人しか本を読まなかったし、お堅い本しか出版されてなかったってことなんでしょう。


ぼくが「おもしろい」と思うエッセイを書く人って、
  • 東海林さだお(漫画家)
  • 穂村弘(歌人)
  • 鹿島茂(フランス文学者)
  • 内田樹(フランス文学者)
あたりで、小説家でおもしろいエッセイを書く人ってほとんどいない。
小説を書く能力とエッセイの才能ってちがうんだろうなあ。
学生時代は、遠藤周作とか北杜夫とか原田宗典とかのエッセイをよく読んでたけど。


土屋賢二も「本業は物書きじゃないのに、物書きよりおもしろい文章を書く人」のひとり。
はじめて土屋賢二のエッセイを読んだときは衝撃的だった。
なんて知的なユーモアに満ちた文章を書く人だろう、と。
わたしの職業はダンス教師で、タレントの女の子たちにダンスを教えている、と言うと、たいていの男性に羨ましがられる。しかし実態は、そんなに羨ましがられるようなものではない。第一に、銀行員と同じで、価値のあるものを扱っているからといってそれを手に入れたり、自由にすることができるわけではない。第二に、価値あるものを扱っているのかどうかかなり疑問がある。第三に、わたしの職業はダンス教師ではない。

基本的におもしろいエッセイって「めずらしい体験」「ひどい失敗談」「独自性のある考察」なんかがあって、それをユーモアで肉付けすることによって生みだされる。
ところが土屋賢二の文章は、上に引用したものを読めばわかるように、そういったものが何もない。というか中身がまったくない。上の文章は、長々と書いているわりに情報量はほぼゼロだ(「わたしの職業はダンス教師ではない」という情報しかない)。

天ぷらを食べてみたら衣しかなかった、でもその衣がめちゃくちゃおいしかった、みたいな文章。
拍子抜けするんだけど、でもなんだかやめられない魅力がある。



さっき「やめられない魅力がある」と書いたそばから矛盾するけど、ぼくは最近読んでない。

だって飽きちゃうんだもん。
どの文章もはずれがなくて楽しめるんだけど、基本的に内容の少ない話なので、どうしても似てきてしまう。単行本を一冊読むと、途中から胸やけがしてくる。どんなにおいしくても、やっぱり衣は衣。形のあるものが食べたくなる。


中島義道という人(これまた哲学者)が、とある本で「土屋賢二の文章は誰も傷つけないように配慮しているので大嫌いだ」ってなことを書いていた。
「誰も傷つけないから嫌い」って言われたらもうみんな嫌われるしかないじゃんって思うんだけど(中島義道はそういう世界を望んでいるみたいだけど)、まあ毒にも薬にもならぬという指摘はそのとおりだと思う。

土屋賢二は週刊文春に連載している。週刊文春を買ったことはないけど、銀行や病院の待合室なんかに週刊文春が置いてあったりするので、たまに手に取って土屋賢二のエッセイを読む。
期待にたがわずおもしろい。
ああおもしろかった、と思う。
自分の名前が呼ばれて、医者に診察してもらい、処方箋をもらい、薬局に行って薬を受け取る。そのころには、さっき読んだ土屋賢二のことは頭の片隅にもない。ふとしたときに思い出すようなこともない。

このありようこそ、週刊誌のエッセイとして100点だと思う。


2017年10月4日水曜日

10ユーロをだましとられて怒る人、笑う人


新婚旅行でイタリアに行った。

コロッセオに行くと、入口の前に中世の鎧騎士みたいな恰好をしたおっさんが2人立っていて、陽気な笑顔で「チャオ!」と手を振ってきた。
コロッセオ運営会社に雇われているおっさんだろうか。
それとも個人的な趣味でやっているのだろうか。

おもしろいおっさんだと思い身振り手振りで「写真を撮ってもいいか」と訊くと、「撮れ撮れ」と言ってくる。
もう一方のおっさんが「カメラ貸しな」というジェスチャーをしてくる。
「カメラを盗まれるんじゃ………」と一瞬不安になるが、おっさんが満面の笑みを浮かべているので断れない。
カメラを渡すと、おっさんは早速カメラを構えて「そこに並べ」と指示を出してくる。
ぼくと妻はそれに従い、鎧騎士のおっさんを挟むようにして記念写真を撮った。

コロッセオを背景にして、鎧騎士のイタリア人おっさんと撮影。とてもいい写真が撮れた。
なんて気持ちのいいおっさんたちだろう。



「グラッツェ」と言ってカメラを返してもらおうとすると、おっさんが手のひらを差し出してきた。

ああ、そういうことね。そういう仕組みね。すぐに事情が呑みこめた。
このおっさんたちは鎧騎士の恰好をして、観光客相手から小金を巻きあげている商売の人なのだ。

日本の観光地にはまずこの手の人がいないので「イタリア人はサービス精神旺盛だなあ」とのんきに考えていたが、うっかりしていた。
ここは外国なのだということを改めて感じた。



そういうことならしかたがない。
楽しい写真を撮らせてもらったわけだからチップを支払うことはやぶさかではない。
ぼくは財布から1ユーロ硬貨を取りだして、おっさんに手渡した。日本円にして100円ちょっと。

するとおっさんは、ぼくと妻を指さしてイタリア語で何かしゃべる。
どうやら「2人いるんだから2人とも払ってよ」というようなことを言っているらしい。
「2人分払えってさ」と妻に伝えると、妻も財布を取りだして1ユーロをおっさんに渡した。

ところがおっさんたちはまだ納得しない。妻の財布を除きこみ、紙幣を指さす。
10ユーロ紙幣を渡せと言っているらしい。
いくらなんでも写真を1枚撮っただけで1,000円以上よこせというのは高すぎる。
ぼくは苦笑して「ノ、ノ、ノ」と伝えた。ついでに日本語で「10ユーロってあほか」とつけくわえた。

しかし内心では喜んでいる。
隙あらば観光客からぼったくろうとしてくる商売人とのやりとりが、ぼくはけっこう好きだ。

ところが妻は10ユーロ紙幣を財布から取りだすと、おっさんに手渡してしまった。



その場から離れて、ぼくは笑いながら妻に言った。
「はっはっは。10ユーロぼられてやんの」
妻は何も言わない。目を伏せたまま黙って歩いている。

「10ユーロはちょっと気前良すぎじゃない?」
からかうような口調で言うと、妻はきっとぼくをにらみつけた。
「ちょっと。外国人のおっさんにからまれて怖かったからお金渡したのに、なんで笑うのよ!」

その剣幕にびっくりしてしまった。
彼女が何に起こっているのか、ちっともわからなかった。

まず「怖かった」というのが理解できない。
ぼくだって暗がりの細い路地で外国人2人にからまれたらおしっこちびるぐらい怖いが、ここは昼日中の観光名所。
観光客でごった返していて近くには警備員もいる。
もめ事を起こして商売ができなくなって困るのはおっさんたちだ。
おっさんの要求を無視したって、危ない目に遭うことは万にひとつもないだろう。

しかもぼくらが金を払わなかったのならともかく、2ユーロも払っている。
こういうものに決まった値段はないが、おっさんの写真を1枚撮る料金の相場として考えれば安すぎることはないだろう。



なによりぼくが妻との間にギャップを感じたのは、この一件に関するとらえかただった。
しつこいおっさんに1,000円ちょっとのお金をぼられた出来事は、ぼくにとっては「旅先で起こった、ちょっとしたおもしろハプニング」だった。
むしろ高くない金で土産話のネタを買えてラッキー、ぐらいのものだ(お金を出したのは妻だが)。

だが妻は、怖い目に遭わされたことや余計なお金を払わされたことやぼくに笑われたことがショックだったらしく、その後もしばらくふさぎこんでいた。

新婚早々、そんな妻に対してぼくは少し不安を感じた。
「1,000円ぼられたぐらいで落ちこんでいて、この人は生きていくのがしんどくないのだろうか」と。

たぶん妻も、ぼくに対して不安を感じていたのではないだろうか。
「少しまちがえれば大事故につながっていたかもしれないのに、この人はへらへらしている。大丈夫だろうか」と。

それから5年。
ぼくと妻は、今のところそれなりにうまくやっている(当方が認識しているかぎりでは)。
ぼくは相変わらず人生をまじめに生きていないし、妻はぼくからしたら些細なことを真剣に悩んでいる。

いいかげんな父と生真面目な母を持った娘は苦労することもあるだろうが、それぞれの気質に腹を立てながらもおもしろさを感じてくれたらいいなと思う。

【少し関連記事】

 無神経な父


ツイートまとめ 2017年9月



効果音

緊急避難


表現意欲


高音中心主義


不祥事


 度胸


憎悪



苗字


罵倒


道徳心


雪舟


陳腐


定礎


風物詩


土産


歌詞


清潔感


双生児


飛散


梯子


意思伝達


白飯


清原和博


銭湯



2017年10月3日火曜日

政治はこうして腐敗する/ジョージ・オーウェル『動物農場』【読書感想】

『動物農場』

ジョージ・オーウェル(著) 開高 健(訳)

内容(e-honより)
飲んだくれの農場主を追い出して理想の共和国を築いた動物たちだが、豚の独裁者に篭絡され、やがては恐怖政治に取り込まれていく。自らもスペイン内戦に参加し、ファシズムと共産主義にヨーロッパが席巻されるさまを身近に見聞した経験をもとに、全体主義を生み出す人間の病理を鋭く描き出した寓話小説の傑作。巻末に開高健の論考「談話・一九八四年・オーウェル」「オセアニア周遊紀行」「権力と作家」を併録する。

ジョージ・オーウェル(SF『一九八四年』の作者)による寓話小説。オリジナルの刊行は1945年。

ハヤカワ、角川、岩波からも出ているが、開高健の訳というのが気になってちくま文庫版を購入。値段はいちばん高かったけどね(ずっと安いKindle版もあったのか……。筑摩書房って電子書籍を出してるイメージがなかったから書店で見かけて買っちゃったよ)。


農場の動物たちが、自分たちが人間に搾取されていることに気づき、革命を起こして動物だけの共和国を打ちたてる。平等で争いがなく誰もが豊かになる社会になったかのように見えたが、徐々に権力の偏りが生じ、支配階級と労働階級に分かれ、共和国は暴力と恐怖に支配されてゆく――。

というストーリー。
要約してしまうとおもしろみがないけど、細部に至るまでのリアリティがすごい。戒律を定めた「七誠」がじわじわ改変されてゆくところとか。
こうして共和国は腐敗していくのか、とドキュメンタリーを読んでいるような気になる。

豚や馬が共和国を打ちたてるという非現実的な設定なのに、人民(獣だけど)が搾取されて苦しむ描写が真に迫っていて哀しくなる。

終始ユーモラスに書かれているのにぬぐいきれない悲哀。

動物の話でよかったよ、これが人間社会の小説だったら重たすぎるぐらいだ。


この小説、社会主義を痛烈に風刺しているように見える。

まずは旗の掲揚。これは、ジョーンズの女房が使っていた緑色のテーブル掛けをスノーボウルが馬具小屋で見つけ、白で蹄と角を描いた旗だった。スノーボウルの解説によると、この緑はイギリスの野を表し、蹄と角は、人類を最終的にやっつけたあとにきたるべき動物共和国を表すものであった。

この旗は、明らかにソビエト連邦の国旗(労働者のシンボルである槌と農民のシンボルである鎌をあしらったデザイン)を意識してるよね。

しかし動物農場のモデルはソビエトではない。Wikipedia にはソビエトをモデルにしていると書いているが、それは違う。
というより、ソビエトはモデルのひとつでしかない。
読者がソビエトのこととして読み取ってもいいんだけど、ソビエトの話に限定して思って読んだら寓話の意味がない。

この作品には、もっと恒久的・普遍的な力がある。

発表から70年たった今、遠く離れた日本人であるぼくが読んでも「リアリティがある」と思える。
それほど『動物農場』で描かれている権力者のありかたはずっと変わらない。まちがいなくこの先も。


『動物農場』の労働者たち(馬や羊たち)は日々の生活に苦しみ、ときどき体制に疑問を抱きながらも、「以前より豊かになっているはず」「他の農場よりもマシなはず」「暮らしは良くなくても今は自由があるから人間に支配されていたころよりはマシ」と信じこみ、搾取される生活から脱しようとはしない。

かつてのソビエト連邦によくあてはまる話ではあるが、毛沢東時代の中国やポル・ポト政権でのカンボジアにもあてはまるだろう。今の北朝鮮の話として読み解くこともできるだろうし、もしかしたら今の日本だって似たようなものかもしれない。

さまざまな読み方をできる小説なのに、ソ連を諷刺した話と限定して読んでしまうのはすごくもったいない。





人間は権力を手にすると腐敗する。
幸運によって得ることができた力をすべて自分の努力だけで勝ち取ったものであるかのように錯覚する。

だから政治家が腐敗するのは仕方ない。
例外的にクリーンな政治家もいるけど、そういった清廉すぎる人物はきっと利害各所を調整する政治家という仕事に向いていない。「白河の清きに魚の住みかねて もとの濁りの田沼恋しき」というやつだ。
清濁併せ呑むぐらいの器を持っている人物のほうが政治には向いている。


だからこそ政治家が私利私欲に走らない(または走りすぎない)ためのシステムが必要になる。

つい最近も某国の総理大臣がおともだちに便宜を図ったとかで騒がれていたが、あの一件でいちばん悪いのは政治家でもそのおともだちでも官僚でもなく、司法だとぼくは思う。

白であろうと黒であろうと、司法が仕事をしていれば早々に解決していた話だ。

裁判所はずっと「高度に政治的な判断」を避けてきたが、高度に政治的な判断こそ裁判所がやるべきじゃないだろうか。





話がずいぶんそれてしまった。『動物農場』の話に戻る。

つくづくよくできている物語だ(開高健も解説で「『動物農場』は完璧」と書いている)。

突拍子もないのに生々しい。おかしいのに腹立たしい。楽しいのに残酷。

そう長くない物語なのに、社会の矛盾のすべてが含まれているみたいな小説だった。




 その他の読書感想文はこちら


2017年10月2日月曜日

キングオブコント2017とコントにおけるリアリティの処理


『キングオブコント 2017』を観おわって「コントはリアリティはどう処理すべきなのか?」と考えたのでつらつら書いてみる。


ジャングルポケットの1本目のコント。
サラリーマンが痴話喧嘩に巻きこまれてしまい、やっと乗れたエレベーターがなかなか動きださない……。というストーリー。

エレベーターがなかなか出発しないという誰もが経験のある現実感のある設定。
徐々に明らかになる意外な真相。
妙な状況を次第に受け入れてしまう心境の変化。
共感性のあるオチ。
よくできた脚本だった。

だが3人の「やりすぎの演技」がすべてを台無しにしていた。
大会に賭ける意気込みが裏目に出たのだろうか、3人ともが終始大声を張りあげている。抑揚がまったくない。常にテンションの高い芝居は、裏を返せば盛り上がり所のない芝居だ。

考えてみてほしい。
知らない人が「開」ボタンを何度も押すのでなかなかエレベーターが動きださない。
場所は自分の会社が入っているオフィス。相手は同じ会社の人かもしれない。取引先の人かもしれない。そんな相手に向かっていきなり怒鳴り声をぶつけるか?
ふつうのサラリーマンなら、しばらくは静観し、徐々にいらいらした様子を見せ、その後で「すみません、急いでるので先に行かせていただいていいですか?」と声をかける。それでも聞き入れられなければ、そこではじめて声を荒らげることになる。

痴話喧嘩をしている二人も同様だ。
ふつうはわざわざ職場で別れ話をしないし、するのであれば押し殺した声でおこなう。己の恥になる話を、わざわざ知り合いに聞かれるような大声で話すわけがない。

このコントでは徐々にヒートアップしていく過程が完全に省略されて、冒頭から3人ともが声を張りあげる。リアリティは破綻して、せっかくの緻密な脚本がわかりやすいドタバタ喜劇になりさがってしまったのは残念だ。
あの脚本そのままで、たとえば東京03が演じていたならめちゃくちゃおもしろいコントになっていただろうなあ。


コントでは、じっさいにはありえない設定を描くことができる。
「火星を探検する宇宙船の中」でも「ブサイクのほうがもてる世界」でもいい。

ただ、どんな無茶な設定を持ってきてもいいが、芝居である以上、その中の登場人物の行動には整合性がなくてはならない。
西暦3000年だろうが、ブサイクがもてる世界だろうが、人は理由もなく他人をぶん殴ったりはしない。何の得もないのに己の財産を投げ捨てたりもしない。
どんなに頭のおかしい人でも、自らの行動原理に基づいて動いている。狂人には狂人のルールがある。

パーパーの卒業式コントで描かれる男は、好きでもない女にキスをせまったり、女を5人集めてくることを要求したりと「めちゃくちゃヤバいやつ」だが、彼の言動には彼なりの論理がある(女を5人集めさせる理由の説得力よ!)。
だから観客は共感はできなくても理解ができる。そしてその論理のおかしさを笑うことができる(まあコントはウケてなかったけどね)。

アンガールズが2本目に披露したストーカーのコントも同様で、好きな女性の夫をつけ狙う男は異常者ではあるが彼の行動は首尾一貫している。
だから設定としては破綻していないのだが、残念なのはその行動を自ら説明していること。
ふつうの人は、自分がとった行動とその目的をわざわざ他人に説明したりはしない。そもそも自分の中でも明快な解釈を持っていないことがほとんどだ。

GAG少年楽団も「幼なじみの男女の50年間の微妙な関係性」という壮大なテーマを示しながらも、すべての歴史を台詞で説明してしまったことでずいぶんと安い芝居になってしまった。
あれを台詞ではなく演技だけで表現することができたならまた違った結果になったのだろうが、あまりに時間が足りないよなあ。


コントにリアリティをもたすための処理がうまかったのは かまいたちだった。
彼らが2本目に披露したウェットスーツを脱がすコントでは、序盤に「4時間もウェットスーツが脱げないんです」という状況を説明している(しかも不自然にならないように、店員が本店に電話で説明する形をとっている)。
あのくだりは笑いをとる上では冗長な部分だが、コント全体にリアリティを与えるという意味で重要な役割を果たしている。
「4時間後」から始めることによって、さらに「鬱血してきている」という説明をくわえることで、客が鋭く店員をなじる様子に説得力が与えられる。店員の手違いで着せられたウェットスーツが脱げないまま4時間も待たされたのなら声を荒らげて怒るのも無理はないな、観客は怒っている客に共感できる。
「あれ? 脱げないな」という状況からはじめてもコントとしては成立するが(そしてそのほうが導入はスムーズだが)客が店員に強いツッコミを入れることの説得力は失われてしまう。

さらば青春の光も、大会の常連だけあって説得力を持たせたコント運びをしていた。
2本とも、序盤は違和感を遠慮がちに指摘するだけにとどめ、徐々に不条理さのギアを上げていってから、強めのフレーズで糾弾している。いつのまにかありえないシチュエーションになっているけど、じわじわとエスカレートしていくので無茶めな行動もすんなり受けいれられてしまう。
じつにうまく観客をあざむいている。
さらに彼らはルックスや演技力も設定とぴったりあっていて、そこでも説得力を持たせていた。「居酒屋でひとりでささやかな晩酌をしているサラリーマン」「ちょっと客をなめた感じの居酒屋店員」「40代でバイトの警備員してる人」の風貌してるもんなあ。


先ほど、人はそれぞれ正当な行動原理を持っているはずと書いたが、その行動原理を意識的に破壊しにいったのがアキナだった。
誰もが「これはボールを拾いにいくだろう」と思う状況で行かない、ふつうの人なら言葉にしなくてもわかる暗黙のルールを理解しないなど、静かな狂気を描いていた。

試みは理解できるのだが、共感性を欠く男の狂気性をじっくり描くには時間がたりなかった。わかりやすい記号(サスペンスでおなじみの音楽)を用いたり、わかりやすい残酷性(「ピーターパンも焼いたら食べられる」発言)を入れたりしたことで、常人と紙一重のところに存在する狂気が、ずいぶん陳腐なものになってしまった。

なによりアキナの最大の不幸は、コントを披露する順番が、リアリティや論理性のある言動の一切を放棄したにゃんこスターのコントの直後だったことだ。常識を捨てたコントの後に常識のずれた人物を描いてもパワーダウンの印象は免れない。今大会でいちばんくじ運で損をした組だろう。

にゃんこスターは、リアリティのある設定や人物描写や文脈のつながりを捨て、さらには暗転前に自己紹介を放りこむことで芝居であるという大枠すらぶっこわしてしまった。
(たしかに革新的ではあったがコントの概念が変わると喧伝されていたのはいささかオーバーだ。キングオブコント初代王者のバッファロー吾郎もリアリティを完全に放棄したコントを披露していたではないか)


リアリティを欠いたコントは評価を落とすが、リアリティを捨てたコントは受け入れられる。
それは、ストーリー漫画では設定に矛盾があってはならないが、ギャグ漫画では矛盾が許されるようなものだ。
ギャグ漫画では、爆発の衝撃でふっとんだ人物が次のコマで包帯ぐるぐる巻きになっていて、さらにその次のコマでは完治していてもかまわない。誰も「すぐに包帯を巻けるはずがない。設定が破綻している」とはつっこまない。突拍子もない展開もある種の記号として処理する暗黙の了解が共有されているからだ。

コンテストの結果は、誠実にリアリティを追求したかまいたちが1位、でたらめな虚構世界をつくりあげてショーに徹したにゃんこスターが2位、巧みな嘘で観客を見事に騙したさらば青春の光が3位。

もちろん3組とも大きな笑いをとっていたが、コントに説得力をもたせることに成功した3組が上位を占めたという点で、芝居の構造的に見てもおもしろい大会だったなあ。


【思考実験】もしも選挙で1人複数票制度が導入されたら

少し前に『基礎からわかる選挙制度改革』という本を読んだ(→ 感想はこちら)。

いろんな国の選挙制度が紹介されていたのだが、共通していたのは「1人1票」という点。
先進国はどこも1人1票なのだ(フランスのように複数投票制を採用している国はあるが、1回の投票で投じられるのは1票だけだ)。

1人が複数票を入れることのできる制度があってもいいのではないだろうか?
ということで【1人複数票制度】について考えてみた。





1人複数票制度の概要

もちろん「好きな候補者に何票でも入れていい」制度はありえない。そんなことをしたらむちゃくちゃな結果になるのは目に見えている。

ぼくが提示するのは

「1人が何票でも入れていい。ただし同一候補者に対して入れていいのは1票まで」

という方式だ。
ある小選挙区にA、B、Cという3人が立候補者がいるとする。

有権者は、これまで通り誰か1人に入れてもいいし、AとB、BとCなど2人に1票ずつ入れてもいい。
3人とも支持したいと思えば、AとBとCの全員に1票ずつ入れてもいい。




具体的に実行する方法

投票所に行って選挙通知書を提示すると、候補者の氏名が書かれた紙が渡される。
先ほどの例で言うと、Aと書かれた用紙、Bと書かれた用紙、Cと書かれた投票用紙の3枚を渡される。
有権者は、そのうち何票かを投票箱に入れ、残りは選挙立会人の前でシュレッダーへかける。

このようなやり方をとれば1人の候補者に複数票を入れることはできない。
電子投票にすればもっとかんたんだ。
技術的には十分可能そうだ。





考えられるメリット

意思表示の選択肢が増える

現行制度だと、3人が立候補した選挙区では、有権者の意思表示の方法は「A」「B」「C」「無効票、白票」「棄権」の5種類しかない。

【1人複数票制度】を導入すれば、先ほどの4種類に加えて「AとB」「BとC」「AとC」「AとBとC」という選択肢が増えるので、有権者の意思表示の幅が広がる。

「AとBとC」は当選結果に影響を与えないので無効票と同じじゃないかと思われるかもしれないが、これは微妙に違う。

供託金の返還には大いに影響を与える。
供託金とは選挙に立候補するときに預けるお金のことで、一定数の得票をとらないと没収される。
衆院選の小選挙区では有効投票総数の10分の1の得票がないと没収されるので、「全員に票を入れない」と「全員に票を入れる」では供託金返還ボーダーぎりぎりの候補者にとっては大きく意味が変わる。

また詳しい説明は省くが、小選挙区でどれだけ票をとったかは比例区で復活当選するかどうかにも関わってくるから、やはり「全員に票を投じる」行為は無効票とは別の行動なのだ。


複数の候補者に票を入れたいと思ったことはないだろうか?

「教育に関してはAの候補者に賛成するけど、経済政策に関してはBの言ってることを支持する」
なんてときだ。
こんなとき、【1人複数票制度】であればAとBの両方に票を投じることができるのだ。やったね。


「落としたい」という意思表示ができる

先の理由の一部ではあるが「落選させたい」という意思表示ができるのは大きい。

選挙において「誰でもいいけどこいつはいや」ということはないだろうか。

今の制度だと、「誰かを積極的に支持する」「誰にも入れない」しか選択肢がないため、こういう声をすくいとる方法がない。

【1人複数票制度】だと、「Aだけはいや」と思えば「BとCに入れる」ことでその意思を投票に反映させることができる。

投票率も上がるのではないだろうか(個人的には投票率が高いことはいいこととは思わないけど)。



考えられるデメリット

集計の手間がかかる?

得票の総数が増えるため、集計の手間や時間は増えてしまうかもしれない。

とはいえ「手書きの文字を読み取る」から「あらかじめ候補者名が印刷された用紙を集計する」に変わるので、集計作業を機械化すれば今までより楽になるのではないだろうか。

電子投票にすればもちろんこの点は解決する。


投票ミスが増える

あらかじめ印刷された投票用紙の中から選択する形にすると、どうしても投票のミスが増えてしまう。
「自民党」と書きたかったのに「共産党」と書いてしまうなんてミスはまず起こらないだろうが、「自民党」と書かれた票を入れたかったのに「共産党」の票をうっかり箱に入れてしまう、というミスは一定数起こるだろう。

これは電子投票にしても解決できない(むしろ増えるかも)問題だとは思う。

とはいえ特定の候補者だけが大きく得をするということはないだろうから、しょうがないのかなという気もする。

強いて言うなら、高齢者からの支持率の高い候補者は損をするかもしれない。


不正がしやすい

たとえば「投票用紙に票を入れずにこっそり持ち帰り他の誰かに渡す」という不正をするのが、1人1票のときよりずっと容易になりそうだ。

「1票しかない票をこっそり持ち帰る」よりも「複数票あるうちの1票を持ち帰る」ほうがずっと楽だろうし、「1票入れるふりをしながら2票入れる」よりも「2票入れるふりをしながら3票入れる」ほうがずっと楽だろう。

また、1票しかない票を誰かに譲るより、複数票あるうちの1票を譲るほうが心理的なハードルも低そうだ。

まあこのへんも電子投票であればクリアできる問題だけど。



もし導入されたらどう変わるだろうか?


さて、【1人複数票制度】を導入すれば、どのような変化が起こるだろうか?

候補者たちはどのように変わるだろうか? 有権者はどう変わるだろうか?


変わるのは無党派層


特定の政党の党員や候補者の熱心な支持者の行動は基本的に変わらないだろう。
支持する政党の候補者に1票を投じるだけ。

大きく変化するのは無党派層だ。

たとえば先の都議会議員選では、自民党に対する反対の意思表示として都民ファーストの会が票を集めた。
このように「特定の政党に対する反対票の受け皿として1つの政党に票が集まる」ということが今ほどはなくなる。自民党がイヤなら自民以外のすべてに入れることになるので。

ただし1党集中が軽減されるのはあくまで票の行方の話であって、当選議員数の話ではない。
小選挙区制度である以上、少し流れが変わっただけでドミノ倒しのように一気に戦局がひっくりかえることは今後も起こるだろう。


選挙カーがなくなる?


現行の選挙では、とにかく目立つ、名前を覚えてもらうことが重要とされている。

【1人複数票制度】になればそのやりかたが変わるのではないだろうか。

現行制度では「支持する」意思表示しかできないので、候補者にとってある有権者から「関心を持たれない」と「嫌われる」は同じようなものだった。
どちらも票を入れてくれないのだから、無視してもいい。

そこでとにかく目立つ、支持者に対してアピールする、ということが大きな意味を持つようになり、選挙カーや街頭で大声を張り上げる選挙活動が一般的になった。

選挙カーがあれだけ嫌われていてもなくならないのは、自分への関心の度合いを考えたときに「0.5を1にする」ほうが「0を-1にしてしまう」よりも重要だからだ。

だが【1人複数票制度】では「こいつだけはイヤ」というマイナスの意思表示ができるので、嫌われないようにすることも重要な戦略となる。

不祥事なんてもってのほか。
嫌われたら自分以外の全員に票が集まるかもしれない。

そう思うと、選挙カーで大きな音を出して住宅地を走ることはできなくなるのではないだろうか?

また、知名度は高いがアンチも多いタレント候補は、今より不利になるかもしれない。


政策が似たり寄ったりになる?


現行制度では、過半数の票をとれば確実に勝つことができる。

ところが【1人複数票制度】になれば、合計得票数が投票者数を上回るので、50%を獲っても勝てるとはかぎらない。
選挙区によっては70%ぐらい獲らないと勝てないかもしれない。

となると、大半の人に支持してもらえる政策を打ち出す必要がある。

「原発反対」「憲法改正」なんて賛否両論分かれるテーマは怖くて打ち出せない。

結果的に「子どもたちが暮らしやすい日本を」「活力のある世の中を創る!」みたいな誰にも反対されないけど何も言ってないのと同じ具体性のない公約か、
「大幅減税」みたいな現実味のない政策かのどっちかになってしまう。

どの候補者も似たり寄ったりの耳あたりのいい似たり寄ったりになりそうだなあ。


現職・与党が不利になる?


"悪目立ち"をする候補者は不利になる。
現職・与党はどうしても動向が報道される機会が多くなるので、敵を増やしやすい。
「自民党だけはぜったいイヤ」という人はけっこういるだろうが、「社民党だけはぜったいイヤ」と思う人はほとんどいないだろう。

結果、【1人複数票制度】は現職・与党に不利にはたらきそうだ。


選挙協力が進む?


【1人複数票制度】が導入されれば、今よりもっと候補者間・政党間での選挙協力が進むだろう。
「うちの支持者に対してあんたにも票を入れてくれと頼むから、あんたも支持者に対してわたしをよろしく言っといてね」
という取り引きだ。

市議会議員選のような中選挙区では言わずもがな、小選挙区でも中間予想で2位と3位の候補者が結託する可能性もある。

勝ちは諦めたが比例での復活当選を狙う候補者が、惜敗率アップ目当てに選挙協力をするケースもあるかもしれない。

そうなると今以上に政治が権謀術数の世界になり、裏でお金が動く可能性も高まるわけで、このへんが【1人複数票制度】の最大のデメリットかもしれない。



導入される可能性は……


ことわっておくが、【1人複数票制度】はぼくが思いついただけの制度だ。

実際に導入しようという声を聞いたことはないし、たぶんこの先も導入されないだろう。


上でも書いたように、有権者にとっては「意志表示しやすくなる」という大きなメリットがあるものの、不正の温床になりそうな気がする。

なにより、与党が不利になる制度だ。

さらに無党派層の票が増えるので、強い支持基盤を持っている公明党なんかは相対的に票が減ることになるだろう。

自民党に不利&公明党に不利、ということなので、まずまちがいなく導入されることはないだろうね……。


2017年10月1日日曜日

いっちょまえな署名

全国私立保育園連盟というところから署名協力の依頼がきた。


なんじゃこりゃ。

何万もの署名集めて、首相に伝えるのが「子どもの保育・成育環境向上のための改善を求めます」ってなんじゃそりゃ。

ぼくが首相だったらこんな抽象的な努力目標書かれた署名届けられても「オッケー、改善しまーす☆」って言って、その1秒後に秘書に「おいこれシュレッダーしとけ」って言ってるわ。
「ったく。おれは忙しいんだから金にならない来客は通すなって言ってあんだろ」つって。

(一応書いておくと、少しだけ具体的な要望も後半にはあった。少しだけね)



この署名用紙、めんどくさいことにこんなことが書いてある。

「〃」等の略字は避けてご署名は自署にてお願いします。

いっちょまえに。「自署にて」ですってよ。

いや一応知ってるよ。請願法ってのがあるんでしょ。署名について定めた法律。

自筆じゃなかったり住所が適当だったら無効とされることがあるんでしょ。

知ってるよっていうかさっき調べたんだけどね。知らなかったけどね。


でも無効ってなんだよ。そもそもこの署名が有効になることあんのかい。

この署名が集まったら、それ見た首相が「え!? 子どもの保育環境改善したほうがいいとみんな思ってんの? 知らなかったー。よっしゃ、軍事費全部保育園に回せーい!」ってなることあんのかい。

首相と「〇月〇日までに署名を〇万通集めたら予算を〇円増やす」って具体的な取り決めしたのかよ。してねーんだろ。だったら全部無効だよ。

住所を書こうが書くまいが無効だから、書かないほうがまだマシだよ。




デモとか署名とかの「やったった」気になる行動が嫌いだ。

身内でやるならいいけど、考え方が同じかどうかわからない人にまで協力を求めてくるのがいやだ。

趣旨に賛同できなくて署名をしないこともあるが、それでも断ったときにはいくばくかの罪悪感を感じる。

なぜ他人の思い出作りのためにこっちが罪悪感を覚えにゃあならんのだ。


デモにしても署名にしても、達成感味わうために文化祭やんのはいいけど他人を巻きこまないでほしい。

やるんなら寄付金集めるとか選挙の候補者擁立するとか地元議員と取引するとか、もうちょっとマシなことあるだろうよ。
それが効果あるかどうか知らないけど、署名集めて総理大臣に持っていくよりは可能性あるだろうよ。
(ちなみに私立保育園連盟は寄付金も募っていたからそれには協力した。主張自体に反対するものではないからね。)

署名なんて、何十時間もかけてちまちまベルマーク集めて1,000円ぐらいの文房具もらう行為よりももっと不毛だわ。

こんなことのために他人の時間を奪おうとするなよ。

やりたいんなら1人で千羽鶴折って届けろよ。





世の中の署名嫌いのみなさん!

「署名をなくそう」という署名を集めて世の中を変えましょう!



2017年9月29日金曜日

こどもだましじゃないえほん/馬場 のぼる『11ぴきのねこ マラソン大会』【読書感想】

『11ぴきのねこ マラソン大会』

馬場 のぼる

内容(e-honより)
アコーディオン式に折りたたまれた2.8メートルのパノラマ画面で、ねこの国のマラソンのスタートからゴールまでが一望できます。おなじみの“11ぴきのねこ”を含む21匹のランナーたちが、難コース、珍コースをくぐりぬけ、ゴールめざして力走します。沿道には応援のねこたちばかりでなく、町や村でのありとあらゆるねこたちの生活があふれ、数えきれないドラマが描かれています。馬場のぼるの絵本の主人公、名脇役もたくさん登場しています。



つまらないえほんの共通点


4歳の娘と一緒に、毎晩えほんを読んでいる。

週末に図書館で10冊ぐらい借りてきて、1日に1冊か2冊を読む。

月間で数十冊のえほんを読んでいるからぼくも娘も相当なえほん通だといってもいいだろう。

大人が読んで「おっ、このえほんはおもしろいな」と思うえほんは、たいてい子どもも気に入る。

逆に「大人はつまらないけど子どもは大好き」というえほんはまずない。
子どもだましの絵本は、子どもにもそっぽを向かれるのだ。


どういうえほんがつまらないのかというと、
  • 見え透いた教訓がある
  • いい子しか出てこない
  • ストーリーが予定調和
こういうえほんはつまらない。

「ともだちにいじわるをしたらけんかになっちゃった。でもあやまったらゆるしてもらえた。ごめんっていうことはだいじだね。ともだちっていいよね」みたいなクソメッセージを伝えようとするえほんは、子どもも大人も二度と読もうとしない。

村上龍がこないだの芥川賞の選評で
小説は「言いたいことを言う」ための表現手段ではない。言いたいことがある人は、駅前の広場で拡声器で叫べばいいと思う。
と書いていたが、えほんも同じだと思う。
友だちが大事と言いたいなら「ともだちはだいじ」と書けば8文字で終わる。それでいい。どっちみち伝わんないし。




ひとまねこざるは密猟者のおはなし


『ひとまねこざる』というえほんのシリーズがある。おさるのジョージシリーズ、といったほうがわかりやすいかもしれない。

ややこしいが、『ひとまねこざるときいろいぼうし』が1作目で
『ひとまねこざる』は2作目。

このシリーズ、特に昔の作品はすごくおもしろい。
ぼくも子どもの頃、『ひとまねこざる びょういんへいく』や『ろけっとこざる』を何度も読んだ。

黄色い帽子のおじさんがただの密猟者だし、ジョージはいらんことしかしないし、物語は一貫性がなくて支離滅裂だし、先の展開が読めなくてすごくわくわくする。

ジョージはおさるだから後先考えずに行動するし、悪さをしてもあっさり許されるし、きいろいぼうしのおじさんには責任感がまったくないし、楽しくてしょうがない。
(最近の作品はやたら教訓めいているのが残念)





みんな大好き11ぴきのねこ


『11ぴきのねこ』シリーズは、おもしろいえほんの条件をすべて備えている。

ぼくも娘もお気に入りのシリーズだ。


1作目の刊行は1967年

すっとんきょうなことが起こる。

登場人物の行動が理路整然としていない。目先の快楽だけで行動する。

メッセージ性がない。


だいたい11匹である必然性がまったくない。
『11ぴきのねこ』『11ぴきのねことあほうどり』『11ぴきのねことぶた』『11ぴきのねこふくろのなか』『11ぴきのねことへんなねこ』『11ぴきのねこどろんこ』
どの作品も、11匹でなくても成立する。10匹でも12匹でもいい。
なぜ11というキリの悪い数字になっているのかまったくわからない。

とらねこたいしょう以外は個性がない(見た目も一緒、名前もない)。

謎の生き物(怪獣とかウヒアハとか)がいきなり出てきて何の説明もなく終わる。

よくわかんないことだらけだ。


だから、おもしろい。

大人でも先の展開が読めない。

すべて理屈で説明がつくような話は文学じゃない。
そう、『11ぴきのねこ』はエンタテインメントであり文学なのだ!




『11ぴきのねこ マラソン大会』


毎週図書館に行くので毎日のように新しいえほんを読んでいる娘が、『11ぴきのねこ マラソン大会』を見たときはいつにもまして大興奮していた。

文字通り飛び上がってよろこんでいた。


なにしろ全部広げると2.8メートルもある。
己の身の丈の倍以上もあるのだ。

それだけでも娘にしたら衝撃的だったのに、その長い紙に所狭しとねこたちの絵が描かれている。

何百匹のねこたちがそれぞれ違うことをしているので、いつまで見ても飽きない。

見るたびに新しい発見がある。

たぶん子どもには理解できないだろうな、というネタもある。でも子どもはそういうのが好きなのだ。


読み終わるなり娘は「明日も読もう!」と言った。

翌日も翌々日も読んで、ぼくが「明日は別のえほん読もっか」と言うとうなずいたが、翌日になると「やっぱり今日も11ぴきのねこ読んでいい?」と訊いてきた。

こんなにも夢中になるなんて。

2,000円以上もするからちょっと躊躇したけど、買ってよかった。



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2017年9月28日木曜日

寓話を解説しちゃだめですよ/『茶色の朝』【読書感想】

『茶色の朝』

フランク パヴロフ (物語) ヴィンセント ギャロ (絵)
藤本 一勇 (訳) 高橋 哲哉 (メッセージ)

内容(e-honより)
心理学者フランク・パヴロフによる反ファシズムの寓話に、ヴィンセント・ギャロが日本語版のために描いた新作「Brown Morning」、哲学者高橋哲哉のメッセージが加わった日本だけのオリジナル編集。

ある日、茶色以外の犬や猫を飼ってはいけないという法律が施行される。
"俺"とその友人は法律に疑問を持つが、わざわざ声を上げるほとでもないと思い"茶色党"の決定に従う。茶色の犬や猫は飼ってみればかわいいし、慣れてみればたいしたことじゃない。
だが"茶色党"の政策は徐々にエスカレートしてゆき――。

という短い寓話。3分で読めるぐらいのお話。

いやだと言うべきだったんだ。
抵抗すべきだったんだ。
でも、どうやって?
政府の動きはすばやかったし、
俺には仕事があるし、
毎日やらなきゃならないこまごましたことも多い。
他の人たちだって、
ごたごたはごめんだから、おとなしくしているんじゃないか?

だれかがドアをたたいている。
こんな朝早くなんて初めてだ。


それほどひねった話ではないが、シンプルなストーリーだからこそ読者の想像力に訴えかけてくる。


それだけに、寓話の後についている解説は完全に蛇足。
この文章はこういう意味なんですよ、このくだりはこういうことを伝えたいんですよ、ってひとつひとつ説明していて野暮ったらしいことこの上ない。
寓話を解説したら文学にならないでしょ。
そこから何を読み取るかは読者に任せましょうよ。



この本を読んで、岩瀬彰 『「月給100円サラリーマン」の時代』を思いだした(→ 感想はこちら)。
『「月給100円サラリーマン」の時代』の中にこんな一節があった。
 満州事変以降、生活の苦しいブルーカラー(つまり当時の日本の圧倒的多数)や就職に苦しむ学生は、「大陸雄飛」や「満州国」に突破口を見つけたような気分になり、軍部のやり放題も国家主義も積極的に受け入れていった。しかし、すでに会社に入っていた「恵まれた」ホワイトカラーはますますおとなしくなっていったように見える。彼らは最後まで何も言わず、戦争に暗黙の支持を与えたのだ。
  彼らもやがて召集され、シベリアの収容所やフィリピンの山中で「こんなはずじゃなかった」と思っただろう。学生時代に銀座で酔っ払って暴れたり、給料日に新橋の「エロバー」まではしごで豪遊したり、三越でネクタイを選んでいられた頃に心底戻りたかっただろう。でも、気がついたときはもう遅かったのだ。

太平洋戦争で出兵していった(そして命を落とした)兵士たちの多くはずっと軍人だったわけじゃない。数年前までサラリーマンをしていた人たちだった。
日本が戦争を進めることには賛成せず、かといって積極的に反対もせず、少しずつ変わってゆく状況を黙って受け入れているうちに、いつのまにか逃げ場がなくなって戦地へと駆りだされてしまった。

これはまさに『茶色の朝』で描かれている世界だ。
何も言わないことは、今起こっていることを承認しているのと同じなのだ。


だからみんなデモをして声を上げよう!
……とは思わない。ぼくはデモをするやつらを軽蔑しているから。
デモをすることによって身内の結束が固まることはあっても、新たな仲間が増えることはない(むしろ潜在的な仲間が離れてゆくだけ)のだから。

デモって言うなれば大勢が決した後にする最後の足掻きであって、デモをしなくちゃいけないような局面に追いこまれてる時点でほんとはもう負けが確定しているのだ。
10点を追いかける9回裏2アウトの場面で一度も公式戦に出たことのない3年生を出す"思い出代打"みたいなもので、思い出をつくる以上の効果はない。


ということで、我々ができる最低限かつ最大の行動は、数年後を見すえて選挙に行くことですわ。
あとできることといえば選挙に出馬することとか、教育現場に入っていって若い人を洗脳することとか。


とはいえ教育で洗脳するってのもなかなか難しいよね。
一説によると、現在日本で極右思想の持ち主って中高年男性が多いらしい。
戦後平和教育をもっとも濃厚に受けていた世代が右翼化してるってのは興味深いね。平和教育の反動なのかな。
彼らがほんとに否定したいのは日本の戦後史じゃなくて、自分自身の歴史なのかもしれないね。

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2017年9月27日水曜日

万国のかわいそうなスポーツ選手よ、団結せよ!


60代半ばのおっちゃんとしゃべっていて、こんな話を聞いた。

高校生のとき修学旅行で東北の三陸海岸に行った。50年ほど前のことだ。
『あまちゃん』でも有名になったが、当時から海女による漁の盛んな地域だった。
海女の仕事を見学した後、ボールを手渡された。高校生たちが海に向かってボールを投げ込むと、海女たちが潜ってボールをとってくる。その様子を見てひとしきり楽しんだ。

いくら50年も昔のこととはいえ、戦後日本でそんな非道なことがおこなわれていたのだろうか。
よくほらを吹くおっちゃんなので「うそでしょ?」と訊いてみたが「ほんま、ほんま」と妙に真剣な顔で言う。
半信半疑だったのだが、数ヶ月後、別のおっちゃんからも同様の話を聞いた(ただしそのおっちゃんが体験したのは三陸海岸ではなく三重県の伊勢だと言っていた)。

別々のおっちゃんが同じ話をしているので、おそらく本当にあったアトラクション(っていうのか?)だったのだろう。
しかも東北と伊勢志摩という遠く離れた場所でおこなわれていたということは、たまたま誰かがちょっと思いついてやってみたというような類のものではなく、継続的におこなわれていたポピュラーなイリュージョン(っていうのか?)だったにちがいない。

また、どちらのおっちゃんの話にも共通しているのは、「海女さんに対して申し訳ないとはまったく思わなかった」ということだった(昔はこんなんやってたで、と笑いながら話していたから今も罪悪感などは感じていなさそう)。
奈良公園の鹿にせんべいをやるぐらいの感覚で海女さんに向かってボールを投げていたようだ。


高校生が冷たい海に投げ込んだボールを半裸のおばちゃんたちが苦しい思いをして取ってくる。
まるで鵜飼いの鵜じゃないか。
想像するとかなり異様な光景だ。しかし日本が豊かになっていることを象徴しているような光景でもある。成長する国では若者が力を持っている。

[海女 ボール] [海女 取ってこい] といったキーワードで検索してみたがこれといった情報は見当たらないので、今はやってないのだろう。
今高校生にそんなことやらせてたら非難殺到だろうな。





と思ったのだが、はたして海女さんにボールを拾いに行かせるのは人道にもとる行為なのだろうか。

ぼくは大学生のとき、日本に旅行に来たカナダ人に京都を案内したことがある。
清水寺の近くで人力車に乗った。カナダ人が乗ってみたいと言ったので、ぼくも一緒に乗ったのだ。
車を引いてくれたのはたくましいお兄さん。年齢を聞くと26歳だと言っていた。当時のぼくよりずっと年上だ。


ぼくは罪悪感を覚えた。
酷暑の下、親の金で大学に行かせてもらっているごくつぶしが金に物を言わせて年長者に車を引かせてのんびり京都観光。
いいのかこれで。
今のおまえは資本主義の醜い豚そのものじゃないか。万国の労働者よ、団結せよ!
という思いが胸に去来した(いやべつにマルクス主義者じゃないけど)。

とはいえ「ぼく、降りて走りますよ。なんならぼくが車を引くんでお兄さんは車に座っててください」と言うわけにもいかず、居心地の悪さを感じながらじっと座っていた。
車引きのお兄さんだって客に乗ってもらわないことには金にならないからこれでいいんだ、と自分に言い聞かせながらぼくは三年坂を揺られた。

はじめて乗った人力車はぜんぜん楽しくなかった。
いっそ足を骨折してたらよかったのに、と思った。そしたら何の遠慮も感じず人力車に乗れたのに。




人力車に乗ることに申し訳なさを感じるのはぼくだけじゃないと思う。
人を乗せた車を引くなんて、本来なら機械や馬や牛がやるはずの仕事だ。タクシーやバイクでも行ける距離をわざわざ人が汗水たらして車を引きながら走るのは、娯楽性以外の何物でもない(料金だってタクシーよりずっと高い)。
だが、とりあえず現代日本においては人力車は非人道的な乗り物だとはされていない。今でも観光地ではよく人力車が走っている。

一方で海女さんに潜ってボールを取りに行かせる話を聞くと「ひどい」と思う。
人力車を引かせる行為と、やっていることは違うのだろうか。
「誰かの娯楽のためにやらなくていい肉体労働をさせている」という点ではどちらも同じなのに。

もっといえばプロスポーツ選手だって「見世物になるために苦しい思いをしている」わけだが、彼らをかわいそうと言う人はほとんどいない。
競走馬を見て「ムチを入れられてむりやり走らされてかわいそう」という人はいても、陸上選手を見て「かわいそうに」と涙を流す人はいない。
海女さんはボールを取りに行くことでお金をもらえるが、多くのランナーはお金ももらえないのに懸命に走っているのだ。なんとかわいそうなことか。

ボールを取りに行かされる海女さんはいなくなっても、今日もバレーボール選手は飛んできたボールを落とさないよう必死で走る。

なんと非人道的行為だろう。



2017年9月26日火曜日

国家元首になる日のために読んでおこう/武田 知弘 『ワケありな国境』【読書感想】


武田 知弘 『ワケありな国境』

内容(e-honより)
西アフリカにある国境空白地帯とは…?中国がチベットを手放さない本当の理由とは…?世界の奇妙な国境線、その秘密を解き明かす。

コンビニに置いてあるうさんくさいムックみたいなタイトルだったので期待せずに読んだのだが、意外と内容は教科書的でまともだった。
「タックスヘイブン(租税回避地)はなぜ旧イギリス領が多いのか」みたいな国境関係ない話も多かったけど。


日本人として生きていると、国境を意識することはほとんどない。
川端 康成 『雪国』の書き出しは
国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。
だけど、この「国境」は「こっきょう」ではない。日本に鉄道で越えられる国境(こっきょう)はないからね。
これは「こっきょう」ではなく「くにざかい」。越後国(今の新潟県)と上野国(今の群馬県)の境だと言われている。



国境を意識することはないが、いろんな「境」は気になる。
小学校のとき、隣の席のやつの筆箱が1センチ自分の机にはみだしてくるだけでものすごく気になった。
新幹線に乗ると、席と席の間にある肘かけはどちらの領土なのかが気になる。
電車で7人がけの座席の「端から2番目あたり」と「端から3番目あたり」にまたがるように座っているやつに対しては「どっちかに寄れよ」と思う。

かように、ちょっとした境でも侵害されると過敏に反応してしまう。
いわんや国境をや。
世界の国境ではいたるところで争いがくりひろげられている。争いのない国境のほうがめずらしい。
ふだんニュースを見ていると「〇〇国はここは自分のとこの領土と主張していて強欲だなあ」と思うけど、どの国も等しく強欲だよねえ。主張できるだけの力を持っているかどうかだけで、みんな隙あらば言いたいはず。ぼくだってできることなら満員電車で7人掛けの座席を独占したい。



不法移民向けガイドブック

国境で起こるトラブルは国境線をめぐる争いだけではない。
メキシコでは、アメリカへ不法入国する途中で死ぬ人が多いためメキシコ政府が異例の対策をとったそうだ。

 警備が厳重になれば、それをかいくぐらなければならないので、不法移民たちは必然的に危険な道を選ばざるを得なくなる。砂漠で道に迷う者、トラックや船のコンテナの中で窒息死する者、さらには極寒の海中で溺死する者など大勢の犠牲者が出ている。
 メキシコ政府は、そうした国境越えの死亡者を減らすために、「安全にアメリカに入国するため」のガイドブックを発行し、国境付近などで150万部も配った。
 32ページの小冊子で、そのなかでは国境越えのコツやアメリカで勾留されたときの法的権利などが詳しく説明されている。

政府制作のガイドブックってメキシコ総領事館の連絡先とかホテルの住所みたいな『地球の歩き方 アメリカ不法入国編』的なことが書いてあるのかと思ったら、そうじゃないんやね。
「砂漠地帯では水を飲むと脱水症状を防げる」なんて『マスターキートン』みたい。政府が配布する冊子の内容とは思えない。

なんて優しい国なんだ。優しいというか甘っちょろいというか。
亡命するために逃げようとする国民を殺す国とは大違いだけど、どっちのほうが政府として正しいのかよくわからんなあ。



南極の領有権

中学校の社会の授業で「南極はどこの国の領土でもありません」と教わった。
そうか、この争いの絶えない世の中で南極だけは平和であふれている場所なんだね、と思ってた。

ところが、どうもそうではないらしい。
イギリス、アルゼンチン、チリ、ニュージーランド、オーストラリア、ノルウェー、フランスの7国が南極の領有権を主張しているのだそうだ。アルゼンチンとかオーストラリアとかは南極に接しているからまだわかるけど、イギリスやノルウェーなんて北の端じゃねえか(イギリスやフランスは植民地が近くにあるのかな?)。
分割して自分たちのものにしようとしている7か国。そうはさせじとアメリカやソ連などは南極の軍事利用の禁止などをうたった南極条約を結んだ。
ところが、チリが実効支配を主張するために南極での出産を奨励したり、アルゼンチンが南極に小学校をつくったり、イギリスが南極周辺の海底を自国の大陸棚として国連に届け出たり、領有権争いは収まる様子がない。
南極もまた、利権をめぐって各国がしのぎを削っている場所なのだ。

今は宇宙条約があって宇宙空間の領有が禁止されているけど、この調子だと、月から貴重な資源が見つかった途端に各国が「月はうちの領地だ!」と主張しだすんだろうね。




シーランド公国

いちばんおもしろかったのはシーランド公国の話。
シーランド公国という国家をご存じだろうか。
イギリスが第二次大戦中に築いた海上要塞を、ロイ・ベーツという元軍人が勝手に領土として主張してできた要塞国家だそうだ。

人口は4人(ロイ・ベーツの家族)。
面積は200平方メートルというから、14メートル四方ぐらいの広さ。坪数にすると60坪ぐらい。ちょっと大きい一軒家ぐらいの領土だ。

シーランド公国を独立国として認めている国はひとつもない。
だが、イギリス政府がロイ・ベーツを訴えたものの裁判所が訴えを退けたという経緯があるため、イギリス政府は手出しをできない(というよりどうでもいいから放置している、のほうが近いかもしれない)。
というわけで他国から認められていないが、領土を奪われたりする心配もないというなんとも宙ぶらりんな状態になっている。それがシーランド公国。

 シーランド公国では、財務大臣としてドイツ人投資家を雇っていたが、1978年、商談のもつれからその財相がクーデーターを起こしロイ・ベーツの息子である、シーランド公国の王子を誘拐。政権譲渡を要求するクーデーターが起こった。ロイ・ベーツは、イギリスで傭兵を雇い、ヘリで急襲。たちまち鎮圧し財相を国外追放した。
 その後、そのドイツ人投資家はシーランド公国亡命政府を樹立。いまでも公国の正当権を争っている。

なんだこれ。めちゃくちゃおもしろいじゃないか。
これが200平方メートルの中で起こっている出来事だからね。

このシーランド公国、爵位を売ったり外国人にパスポートを発行したりして財政を立てているが、2012年に大公が死去して現在は息子が継いでいるらしい。


わくわくするような話だね。
星新一のショート・ショートに『マイ国家』という作品がある。ある男が突然自分の家を日本から独立させると主張しだす話だ。
また井上ひさしの小説『吉里吉里人』でも、東北地方の寒村が日本からの独立を宣言する。
しかし事実は小説よりも奇なりで、まさか実行に移す人物がいて、しかもその国内で誘拐事件やらクーデターやら亡命政府誕生やらが起こるとは、星新一も井上ひさしも想像しなかっただろう。

ちなみにこのシーランド公国、約150億円で売りに出されているらしいので、国家元首になってみたい大金持ちの方は購入を検討されてみては?



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2017年9月25日月曜日

「品がいい」スパイ小説/柳 広司『ダブル・ジョーカー』【読書感想】

『ダブル・ジョーカー』

柳 広司

内容(e-honより)
結城中佐率いる異能のスパイ組織“D機関”の暗躍の陰で、もう一つの諜報組織“風機関”が設立された。その戒律は「躊躇なく殺せ。潔く死ね」。D機関の追い落としを謀る風機関に対し、結城中佐が放った驚愕の一手とは?表題作「ダブル・ジョーカー」ほか、“魔術師”のコードネームで伝説となったスパイ時代の結城を描く「柩」など5篇に加え、単行本未収録作「眠る男」を特別収録。超話題「ジョーカー・ゲーム」シリーズ第2弾。

『ジョーカー・ゲーム』に続く"D機関"シリーズ2作目。

シリーズものの小説ってたいてい「だんだん質が落ちてくる」か「同じようなパターンで飽きてくる」のどっちかなんだよね。
夢枕獏『陰陽師』シリーズなんか、はじめはおもしろかったけど毎度毎度同じパターンだったのでげんなりした。

ところがこの"D機関"シリーズは、どの短篇も高いレベルで安定しているし、さらにすべてが個性的で飽きさせない。
10篇ほど読んだが、「またこのパターンか」と思う作品はひとつとしてなかった。

安定感はともすれば退屈につながりがちなのに、安定と変化の両方を維持できているのはすごいよね。


飽きさせない工夫のひとつは、作品ごとに登場人物が変わること。
"魔王"こと結城中佐以外は、全員が非凡な能力を持ちながらまったくの無個性(であろうとしている)。スパイは目立っちゃいけないからね。
個性がないから飽きない。スパイとして生きるために名前も経歴もころころ変わるから、シリーズものでありながらまったくべつの小説になる。

視点や舞台が作品ごとに異なるのも楽しい。
『ダブル・ジョーカー』に収録された作品の主人公はそれぞれ、

  • 日本陸軍内に設置された諜報組織のボス
  • 中国でソ連のスパイをつとめる陸軍軍医
  • フランス領インドシナに勤務する無線通信士
  • かつて日本人に逃げられた逃げられた経験を持つナチスドイツのスパイ組織幹部
  • 開戦前夜のアメリカに潜入している一流スパイ

D機関に対する立場も違うし、目的も違う。
はじめは誰が"D機関"のスパイかわからないから、誰がスパイなのか? と推理するミステリの味わいも楽しめる。

ほんと、スパイ養成機関という装置がうまく機能している。
柳広司はいい発明をしたよなあ。


ほどよい含蓄があり、スリルと驚きがあり、最後は鮮やかな着地が決まる。
エンタテインメント小説として完璧といっていいぐらいの作品集だよね。
一言でいうなら……「品がいい小説」。

全方位的に完成度が高くて逆になんか物足りないと少しだけ感じてしまう……のは欲張りすぎかな。



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2017年9月23日土曜日

汚くておもしろいスポーツ


少し前にTwitterに書いた投稿。

Twitterでは文字数制限があって不正確になってしまった点もあるので、補足。

まず「スポーツ」とひとくくりにしてしまったけど、スポーツにもいろいろある。
たとえば剣道なんかは、いくら相手に鮮やかに打ち込んだとしても「打ち込んだ後に気を抜かずに相手を意識していないと一本にならない」「相手への敬意を欠いていると一本にならない」といった決まりがある。
これはスポーツのルールとしてはすごくあいまいだ。「気を抜いていたかどうか」なんて他人が判断できることではない。
しかしこういうあいまいなルールは、あいまいであるがゆえにどんなシチュエーションにも対応できる。

法律に詳しくない人は「法律って杓子定規で人間味がないんでしょ」なんてイメージを持っていることが多いが、じっさいは逆だ。
法律というのは最低限のことだけ決めておいて、あとはあいまいなまま残しておく。懲罰ひとつとっても「無期または3年以上の懲役」「1000万円以下の罰金」などかなりざっくりとしか決められていない。「1000万円以下の罰金」の刑で罰金1万円、ということだってありうる。
1人殺したら15年、2人殺したら無期、3人で死刑みたいな刑罰表があるわけではない。判例はあるけれど、最終的には裁判官のさじ加減で刑は決まる。

不公平なようにも思えるが、おかげで「長年の介護生活の末にこれ以上息子を苦しめまいよう自分を殺してくれと頼んだ老母を泣きながら手にかけたケース」と快楽殺人の刑罰に差をつけることができる。
社会や倫理観は変化するが、ルールがあいまいであれば「とりあえず今の時点ではベスト」な判断ができる。



しかし野球のルールはそうではない。
野球のルールブックを見たことがあるだろうか?
数百ページあり、シチュエーションごとの詳細な規則が記されている。
ルールの数は数千ともいわれている。もしかするとプロ野球において一度も適用されたことのないルールもあるかもしれない。
だが野球のルールは細かすぎるがゆえにすべての局面に対応することができない。

たとえば1992年の高校野球選手権大会で、明徳義塾高校が強打者だった星稜高校の松井秀喜を5打席連続敬遠したことが話題になった。
社会現象にもなるぐらい賛否両論を巻き起こし、そのほとんどが否定的な意見だったが、野球のルールでは5打席連続敬遠を罰することはできなかった(今もできない)。数百ページにわたるルールブックのどこにも「敬遠四球は4打席連続まで」なんて書かれていないからだ。仮に書いたとしても、ピッチャーが「この四球はわざとじゃない」と主張すれば規定には引っかからないからザル法となる。
だから今後同じ作戦を弄するチームが現れたとしても、少なくともルール上はそれを罰することはできない。

剣道方式なら話はかんたんだ。
「相手への敬意を欠いたプレーをおこなったチームは負けとする」の1行で済む。
審判の判断で、明らかにコントロールの悪いピッチャーなら5打席連続四球を与えても見逃すし、状況的に敬遠と判断されても仕方のないケースであれば3打席連続であっても負けになる。

前代未聞のプレーが起こったとしても、審判の内なる「相手への敬意を欠いたプレーかどうか」の基準に照らし合わせればすべて判断可能だ。



あいまいなルールは、プレイヤーからするとすごくやりにくい。
どこまでがセーフでどこからがアウトかわからないのだから。
だからこそ厳密にルールを守る。「ここまではぜったいに大丈夫」と自信を持って言える範囲を超えることはない。
「これは規定がないけどフェアじゃないかもしれないな」という作戦は実行しにくいし、仮に試してみて見逃されとしても次の試合の審判が見逃してくれるとはかぎらない。実力者であるほどアンフェアなプレーを試せない。

野球のような事例を列挙していくパターンだと、安心してギリギリを攻められる。「ルールに書かれていない」=「やってもいい」のだから。
わざとデッドボールを当ててもランナーを1人許すだけ。危険なタックルして相手の野手を怪我させても守備妨害でアウトが1つとられるだけ。チームが即負けになることはない。
卑怯と罵られるかもしれないが、少なくともグラウンド上ではたいした罰は受けない。
基本的に「反則スレスレの行為をしたほうが得をする」構造になっているのだ。



……と、まるでぼくが野球を憎んでいるかのようなネガティブなことを書いてしまったが、そんなことはない。毎年甲子園に高校野球を観にいくぐらい野球は好きだ。
相手をだますプレー(隠し球、スクイズ、1塁走者が気を惹いている隙に3塁走者が本塁を陥れる重盗、ランナーを誘いだす牽制……)があるからこそ野球はおもしろいと思っている(逆に剣道を観戦したことはない)。

野球以外でも、人気のあるスポーツは反則すれすれの汚い手が横行しているのがふつうだ。
相手を怪我させかねない危険なスライディング、審判の見えないところでおこなわれる暴力を伴う激しいポジション取り、敵が反則をしたことを印象付けるための大げさなアピール。状況によってはわざと反則をしたほうが有利になることもある。
そうした駆け引きがあるからこそ観客は熱狂する。
だから反則すれすれのプレーをやめろという気はないし、これからもどんどんやってほしい。
犯罪や騙しあいを描いた小説や映画がおもしろいのと同じだ。

ただ、さんざん汚い手を使う競技をやらせておきながら「スポーツは若者の心身の健全な育成に役立つ」とかしゃあしゃあとのたまうのは気に食わない。

「世の中は汚いことだらけだから、その予行演習として汚い振る舞いかたを覚えさせるためにスポーツは役立つよ」と言うのならわかるけどさ。

2017年9月22日金曜日

読み返したくないぐらいイヤな小説(褒め言葉)/沼田 まほかる『彼女がその名を知らない鳥たち』【読書感想】

『彼女がその名を知らない鳥たち』

沼田 まほかる

内容(e-honより)
八年前に別れた黒崎を忘れられない十和子は、淋しさから十五歳上の男・陣治と暮らし始める。下品で、貧相で、地位もお金もない陣治。彼を激しく嫌悪しながらも離れられない十和子。そんな二人の暮らしを刑事の訪問が脅かす。「黒崎が行方不明だ」と知らされた十和子は、陣治が黒崎を殺したのではないかと疑い始めるが…。衝撃の長編ミステリ。

イヤな気持ちになる小説だった。
精神的に安定しているときに読まないと死にたくなるような小説だ。
個人的にはイヤな気持ちになる小説は好きだから楽しめたけど。

 玄関のドアを開くと、十和子の脱いだスリッパの横に、幅広の偏平足に踏みひろげられた薄茶色のスリッパが並んでいるのが目に飛び込んでくる。それはスリッパというより陣治の足そのもののようにそこにある。水虫でめくれた足の皮を、胡坐をかいてちびちび向いている姿が頭をよぎる。靴を脱ぎ、自分のスリッパをつっかけた足先で、薄汚れたスリッパを壁際に蹴り飛ばす。

 ドアが開く前から真っ先に聞こえるのは陣治の咳だ。誰のものでもない陣治の咳。しないでもすませられるのに、咳き込んでみては悦に入っているような、高らかな、それでいてからんだ痰のせいで濁った咳。続いてカッとその痰を吐く音。お定まりのワンセット。

こういう不愉快な描写がひたすら続く。読者をイヤな気持ちにさせる描写がうまいねえ。

何がイヤって、事件が起こらないんだよね。
ただイヤな女がイヤな男とイヤな感情をぶつけあいながら暮らしていて、イヤな男に利用されて捨てられたことを回想し、イヤな姉からイヤな説教をされて、新たにイヤな男と出会って騙されながら不倫をする様が延々と描写されている。
事件らしきものといえば、「昔の恋人が行方不明になったらしい」という話を耳にするだけ。
いつまでも打破される兆しのない不快感。長雨のような陰鬱な気分になってくる。


『彼女がその名を知らない鳥たち』の登場人物はすべてがクズだ。

とはいえ「後でややこしくなるとわかっててもその場しのぎの適当なことを言う」とか「自分ができていないことでも年下の人には偉そうに言いたい」なんてのはぼくの中にもある気質だから、「こいつらほんとサイテーだな」という言葉がふっと気づくと自分にも返ってきてしまい、自分の吐いた唾で顔を濡らすことになる。
自分にもあるイヤな部分を目にして、さらにイヤな気持ちになる。

話の9割が進んだあたりから急速に過去の謎が明らかになり、多少救いのあるエンディングが用意されているのだが、「よかったね」1割、「それはそれできつい真実だな」9割で、最後までイヤな気持ちにさせてくれる。



”イヤミス” と呼ばれるジャンルがある。イヤな気持ちになるミステリ、読後感の悪いミステリだ。

まあミステリ小説には犯罪がつきものだから(中には犯罪が起こらない「日常の謎」系ミステリもあるけど)、罪のない人が殺されたり、性悪でない人がなんらかの事情で殺人を起こさざるを得なかったりと、ある程度は後味がよくないのがふつうだ。スカッとさわやか! な読後感のミステリ小説のほうがむしろめずらしい。
その中でも特に嫌な気持ちになるミステリ。たいてい、謎解き以外の部分でイヤな気持ちにさせる。登場人物の造形とか。

湊かなえ・真梨幸子・沼田まほかるの3人が「イヤミスの女王」と呼ばれているらしい。

ぼくは湊かなえに関しては『告白』含めて3冊ほど読んだけどそこまで不愉快には思わなかった。これぐらいは不快な描写も書いたほうがミステリとして説得力があるよね、という許容範囲内だった。

真梨幸子は『殺人鬼フジコの衝動』『インタビュー・イン・セル 殺人鬼フジコの真実』を読んだけど、これはすごくイヤな気持ちになった。
とはいえ人間描写が嫌だっただけで、シンプルにミステリ小説として見るならむしろ出来は良くなかった。
ミステリ小説にこだわらずにただイヤな女のイヤな一生を描けばいいのに。桐野夏生『グロテスク』のように。
『グロテスク』も殺人事件を扱っているけど、事件はあくまで悪意を描くための手段でしかなかった。ひたすら悪意を描くことに軸足が置かれていて、あれはとことん不愉快な小説だったなあ(褒め言葉ね)。

沼田まほかる『彼女がその名を知らない鳥たち』に関しては、息苦しくなるような不快感があるし、かつその不快さもミステリ小説として必然性がある(××が徹底的に不愉快な人間として描かれているからこそ、真相が明らかになったときにそのギャップで「すげー愛情!」と思える)。

イヤさとミステリの両方が必然性を持っていて、これぞイヤミス! と思える小説だった。

某所のレビューで「真相が明らかになった後もう一度読み返しました!」ってなことが書かれていたけど、ぼくはもう読み返したくない! それぐらいイヤなミステリだった。



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2017年9月21日木曜日

ニュートンやダーウィンと並べてもいい人/『奇跡のリンゴ 「絶対不可能」を覆した農家 木村秋則の記録』【読書感想】



『奇跡のリンゴ
「絶対不可能」を覆した農家
木村秋則の記録』

石川拓治 NHK「プロフェッショナル 仕事の流儀」制作班

内容(e-honより)
リンゴ栽培には農薬が不可欠。誰もが信じて疑わないその「真実」に挑んだ男がいた。農家、木村秋則。「死ぬくらいなら、バカになればいい」そう言って、醤油、牛乳、酢など、農薬に代わる「何か」を探して手を尽くす。やがて収入はなくなり、どん底生活に突入。壮絶な孤独と絶望を乗り越え、ようやく木村が辿り着いたもうひとつの「真実」とは。

2013年に刊行され、農業について書かれた本としては異例の数十万部のヒットを飛ばした『奇跡のリンゴ』。
今さら読んでみたのだが、これはすごい本だ。いや、この木村秋則さんというのはすごい人だ。
科学の歴史を変えたニュートン、ダーウィン、アインシュタインといった人たちと並べても遜色ないぐらいじゃないだろうか?

農薬を使わずにリンゴを育てる。
農業の知識がまったくないぼくにしたら「ふーん、たいへんなんだろうね。でもまあ無農薬野菜なんてのもあるから、効率はよくないけど手間ひまかければできるもんなんでしょ?」ぐらいの認識だった。

ところがそうかんたんな話ではないらしい。
今われわれが食べているリンゴというのは、ひたすら甘く大きい実ができることだけを追求して品種改良を重ねた果実だ。肥料や農薬に頼ることを前提に品種改良しているから、虫や病気にはめっぽう弱い。
エデンの園になっていたリンゴとはまったく別の植物といってもいい。そのリンゴを肥料も農薬も使わずに育てるというのは「チワワの赤ちゃんをジャングルの中で放し飼いで育てる」ぐらい無謀なことなのだろう。


木村秋則さんも、当初は「むずかしいけどやってやれないことはないだろう」と考えていたらしい。コメや野菜を無農薬で作って経験があったから、リンゴも同じようにできると考えた。
そして酢や焼酎やワサビなど殺菌作用のあるさまざまな食品をリンゴの樹に塗布して病気を防ごうとした。
ところが病気は広がるばかり。リンゴは実をつけないどころか、花も咲かず、葉も樹も枯れていく一方だった。

 木村が経験したことは、すでに一〇〇年前の先人達が経験していたことでもあった。
 はっきり言ってしまえば、焼酎やワサビを散布したくらいで対処出来るなら、誰も苦労はしない。明治二〇年代から約三〇年間にわたって、全国の何千人というリンゴ農家や農業技術者が木村と同じ問題に直面し、同じような工夫を重ね続けていた。何十年という苦労の末に、ようやく辿り着いた解決方法が農薬だったのだ。
 木村はその結論を、たった一人で覆そうとした。
 自分の能力を過信していたのかもしれない。
「地獄への道を駆け足した」という木村の言葉は、誇張でも何でもない。まさしく木村はその時、最悪のシナリオを突き進んでいた。
 日本のリンゴ栽培の歴史を逆回しにして、破滅への道を突き進んでいたのだ。

何年もリンゴの収穫ゼロの年が続き、家族を食わせていくこともできなくなる。打つ手がなくなり、リンゴの樹に向かって「実をならせてくれ」と懇願するぐらい追いつめられる木村さん。
ついには死ぬことも考えた彼が、死に場所を探しているときに目にした光景が、リンゴを無農薬無肥料で栽培するヒントを与えてくれる――。

ちょっとこのへんは話ができすぎなので、木村さんか筆者が話を盛っているんじゃないかなあ。野暮なこと言うけど。

できすぎと思うぐらい、ノンフィクションなのにストーリーも起伏に富んでいておもしろい。ときおり挟まれる挿話(宇宙人に会った話!)や木村さんの人間的魅力の描写などで飽きさせず、エンタテインメントとしても一級品だ。木村さんの並々ならぬ苦労がようやく実を結ぶ(リンゴだけに)シーンは、報われてほんとに良かったなあと胸が熱くなった。

それにしても木村さんの家族はよく耐えたよね。妻や子どももそうだけど、なによりリンゴ農家だった義父(妻の父)がすごい。無収入になっても無農薬栽培を追い求める婿につきあってくれるなんて。いいお義父さんだったんだなあ。
しかしこれ、結果的に成功したから「みんなで支えてくれていい家族だなあ」と思えるけど、なんの根拠もなく「無農薬でリンゴを育てる!」と突き進む木村さんを止めようとしなかったのは、はたして優しさだったんだろうかと思う。
常識的に考えれば止めるほうが優しさだろう。まあその常識を無視したからこそ「奇跡のリンゴ」が生まれたわけだけど。



農家だったぼくのおじいちゃんは、機械や科学に対して全幅の信頼を置いていた。「これは新しい機械だからいい」「あの病院は薬をいっぱい出してくれるから信用できる」とよく口にしていた。
以前『現代農業』という雑誌を単純な興味から読んでみたことがあったが、やはり機械や化学肥料の話が多かった。
現代農業と科学は切っても切り離せないのだ。

科学に対するカウンターとして「自然に還ろう」なんてのんきなことを言えるのはスーパーに並んでいる食べ物を買って食べている人だけだ。常に自然と対峙して生きている人はその恐ろしさを知っているから、「いきすぎた科学文明はいつか人間の身を滅ぼす」なんて悠長なことは言わない。
クマ射殺のニュースを見て「クマがかわいそう」と言えるのは、ぜったいに自分がクマに襲われることがないと思っている人だけなのだ。

だからこそ、農家として常に自然に向き合いながら、それでも自然を屈服させようとせずにリンゴを収穫させた木村さんの業績は偉大だ。
木村さんが発見した「リンゴを無農薬で育てるための理念」は、すごくシンプルなものだ。ぼくの言葉にするとうすっぺらくなりそうだからあえてここには書かないけど。
木村さんの理念は、ぼくのような素人が読んでも「なるほど。言われてみればそのとおりだ」とうなずけるぐらい、理にかなっている。

とはいえ理念がかんたんだからって現実もかんたんかというとそんなことはない。理念を現実のリンゴの木に適用させることは想像もできないぐらいの苦難があるはずで、そのへんの苦労はこの本ではごくわずかしか触れられていないけど、おそらく本何冊分にもなるぐらいの試行錯誤があったのだろう。
世界中のあらゆる品種の農家が教えを乞いにくる、というのもなるほどと思う。


またこの人がすごいのは、無農薬でリンゴをつくって満足するのではなく、それを普及させようとしているところだ。

 木村が本気だなと思うのは、米にしても野菜にしても、無農薬無肥料の栽培で収穫が安定してくると、次は出来るだけ価格を下げるようにとアドバイスしていることだ。
 木村のつくったリンゴも、その美味しさと稀少価値を考えれば今の値段の五倍にしても売れるに決まっているのに、木村はぜったいにそうしようとはしない。出来ることなら日本中の人に、自分のリンゴを食べて貰いたいくらいなのだ。
 少なくとも、誰にでも買える値段でなければいけないと木村は思っている。
 値段が高くても、買ってくれるというお客さんはもちろんいるだろう。
 無農薬無肥料で農作物を栽培するのは手間もかかるし、農薬や肥料を使う農業に比べればどうしても収穫量が少なくなる。出来るだけ高い値段で売りたいというのが、生産者としての当然の気持ちなのもよくわかる。
 けれど、それでは無農薬栽培の作物はいつまで経っても、ある種の贅沢品のままだと木村は言う。無農薬作物が裕福な人のための贅沢品である限り、無農薬無肥料の栽培は特殊な栽培という段階を超えられないのだ。
 現状では難しいとしても、いつかは自分たちのやり方で作った作物を、農薬や肥料を与えて作った農作物と競争出来るくらいの安い価格で出荷出来るようにする。
 それが、木村の夢だ。

そうなんだよね。無農薬野菜とかオーガニック料理のお店とかってたいてい値段が高い。
そうするとよほど余裕のある人以外は日常的に食べることができない。


木村秋則というたった一人の農家の偉業が、世界中の農業の姿を変える日がくるかもしれないな。
わりと本気でそう思う。

農業に関わる人にもそうでない人にも読んでほしい良書。
大げさでなく、世界観が変わるんじゃないかな。ぼくはちょっと視界が開けた気がしたよ。


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2017年9月20日水曜日

パスワードをどうやって決めるか



みんな、パスワードってどうやって決めてる?

パスワードを決めろって言われるじゃないですか。
WEBサイトで会員登録するときに。


ぼくはだいたいこんなふうにしてる。

 【どうでもいいサイト】
 → 誕生日 または 誕生日+名前の英字表記

 【個人情報を登録するなどまあまあ重要なサイト】
 → 過去に住んでいた住所の番地+名前の英字表記

 【クレジットカード番号を登録するなどすごく重要なサイト】
 → 過去に住んでいた住所の番地+サイトごとに変わるランダムな英数字


どうでもいいサイトってのは、
「ログインしないと見られない情報があるからアカウント作るけど明日以降見ることないだろうな」ってサイトとか、
「個人情報を一切入れないから万が一漏れてもべつにいいや」ってサイトね。

でもさ。
どうでもいいサイトにかぎってやたらと堅牢だったりするんだよね。
誕生日4桁で設定したら「パスワードは8文字以上にしてください」って言われて、
めんどくせえなって思いながら誕生年+誕生日の8桁にしたら「パスワードには数字とアルファベットの大文字と小文字を1文字以上ずつ含んでください」とか言われるの。

うるせえって。
そんな強固な鍵、おまえんちにいらねえって。
中に何もないボロボロの廃墟だけど2重の錠+指紋認証つけてます、みたいな感じ。
誰もおまえんちに泥棒に入らねえって。

ほんと嫌になる。地球を滅ぼしたくなる。滅ぼせる力が備わってなくて良かった。


20年前の人は、未来人がこんなことで頭を悩ませているとは思わなかっただろう。
面倒な計算はすべてコンピュータがやってくれて人間は創造的なことだけに頭を使う世の中がくるはずだったのに、そのコンピュータを使うためにわけのわからない文字列を記憶しないといけないのだ。

コンピュータの活用が進んだ結果、「無意味な英数文字列の記憶」というもっとも非創造的なことに頭をつかわなくちゃいけないなんて、なんとも皮肉な話だ。



2017年9月19日火曜日

正規雇用を禁止する




派遣の規制緩和をすすめようとする国や経団連と、
労働者を守るために派遣規制を緩めるなといっている労働者団体。


もういっそ、正規雇用を禁止にしてみたらどうだろう。どうせ終身雇用制度なんて崩壊してるし。
全員パート・短期契約社員。正社員禁止。2年以上連続して同じ会社で働くことを禁止する。


一気に雇用の流動化が進む。みんなすぐ辞める。バイト感覚で辞める。「おまえ同じ会社で1年も働いてんの? 長いなー」ってなことになり、愛社精神なんて言葉は死語になる。

そうすっと会社としては片時も気が抜けない。社員がごっそり辞めたらすぐにつぶれちゃうから。
優秀な社員に対しては高給を支払うか労働条件を緩和してつなぎとめるしかない。
「がんばってたらいつか出世させるよ」みたいないいかげんな言葉では誰も来てくれない。短期労働者なんだから。「今いくら払うか」だけが重要になる。
今までやりがいや将来の出世という中身のないエサで釣っていた企業はつぶれる。


安定を求める労働者は2社か3社と労働契約を結ぶ。非正規だからね。
複数社で働けば、完全失業のリスクが小さくなる。
月・火はA社、水・木はB社、金曜日はC社。
労働者からすると1社に依存する度合いが減るので、会社に対しても強気で交渉できる。
他の会社の情報も入ってくるので、今いる会社の良し悪しがすぐわかる。
相場より低い給与しか出さない会社はどんどん人が離れていく。


非正規化をとことん推し進めてみたら、かえって労働者の立場が強くならないだろうか?


2017年9月18日月曜日

ガソリン自動車と国産ミュージックプレイヤー


ミチオ・カク『2100年の科学ライフ』にこんな一節があった。
 商品資本主義に取って代わりつつあるのが、知能資本主義である。知能資本には、まさにロボットやAIがまだ実現できていない、パターン認識と常識的判断が含まれる。
(中略)
 この歴史的移行がどうして資本主義の土台を揺るがすのだろう。至極単純なことだが、人間の脳は大量生産できない。ハードウェアは大量生産してトン単位で売ることができるのに、人間の脳ではそれができない。となると、常識が未来の通貨になるだろう。商品の場合と違い、知能資本を生み出すには、人間を育成し教育しなければならず、これには個人の数十年にわたる努力が要る。
かつて国の力は資源に大きく依存していた。
金属や石炭や石油をどれだけ保有しているかが国の強さを決め、資源を求めて人々は移動し、資源を保有する国を植民地にしていた。
日本もまた資源を求めて海外に進出し、最終的に資源の差でアメリカに敗れた。


しかしその時代は終わろうとしている。
戦後日本の復興があらわすように、資源そのものよりもどれだけの付加価値をつけられるかが求められる時代になった。
マサチューセッツ工科大学の経済学者レスター・サローはこう語っている。
「シリコンバレーとルート128沿いに最先端企業が集まるのは、そこに頭脳があるからだ。それ以外のものは、何もない」(『資本主義の未来』)
今後はもっと頭脳集約型の労働が求められる。
頭脳によって生みだされるのはモノではない。プログラム、デザイン、システム、コンテンツ。ソフトの重要性が増す時代が来ることはまちがいない。



さて。
イギリスとフランス政府が2040年までにディーゼルやガソリン車の新車販売を禁止する方針を発表した。中国も電気自動車への完全切り替えを検討しているらしい。

日本政府はそうした期限を定めない方針だ、というニュースを見てぼくは愕然とした。
国内産業を守るためなのだろうが、それが産業を守ることになっているとは到底思えない。
どの燃料が次世代自動車の主流を占めるかはわからないが、いずれガソリン車が廃れることはまちがいない。イギリス・フランスは2040年という期限を設定しているが、2040年よりずっと早くに世代交代の日が来るとぼくは信じている。

政府が決めなくても市場が決める。
明確な期限を切って強制的に次世代自動車にシフトさせたほうがよくないか? ガソリン車を改良している時間的余裕などあるのか?
未来のない産業に優秀な人材を回さないほうがいい。消費者からすると国産車がなくなってもかまわないのだから。

iPodが出てきたときの国産ミュージックプレイヤーの開発部の話を思いだす。
CDやMDで音楽を聴いていた時代に、1,000曲をダウンロードできるiPodが登場した。
そのとき、某国産メーカーでは開発部が「iPodに対抗するためもっと音質をクリアにした商品をつくるべきでは」という話をしていたらしい。消費者がiPodを購入する理由をまったくわかっていなかったのだ。
「市場が求めているもの」「自分たちが劣っているところ」ではなく「提供できそうなもの」「自分たちが勝てるところ」を必死に探していたのだ。

国産ガソリン車の保護も同じことをやっているように思えてならない。

2017年9月17日日曜日

香辛料でごまかす時代


ミチオ・カク『2100年の科学ライフ』という本に、昔の香辛料に関するこんな一文があった。

それが重宝されたのは、冷蔵庫のなかった当時、腐りかけの食べ物の味をごまかすことができたからだ。ときには王や皇帝さえ、ディナーで腐ったものを食べなければならなかった。冷蔵庫も保冷コンテナもなく、海を渡って香辛料を運ぶ船もまだなかったのだ。

だからコロンブスたちは香辛料や香草を求めて海を渡り、大航海時代が到来した。
つまり香辛料こそが船乗りたちが追い求めた ”ONE PIECE” だったわけだ(そういや漫画『ONE PIECE』でウソップがタバスコを武器として使うシーンがあるが、ほんとの大航海時代なら貴重な香辛料を武器として使うなんて考えられない話だ)。


昔の人々が「食べ物が腐りかけているから味をごまかそう」という発想にいたったことは、すごくおもしろい。
現代人なら「食べ物が腐りかけているから新鮮な食べ物が手に入るようにしよう」と考えるだろう。
はるばる海を渡って未知の大陸を探検するよりも、「新鮮な肉や野菜が手に入るように王宮の近くに牧場や農場をつくる」とか「鮮度が落ちないような輸送・管理の方法を考案する」とかのほうがずっと安くつきそうなものだけど。

問題の本質的な解決ではなく、ごまかすことに心血を注いでいたというのが滑稽だ。





とはいえ現代の常識を昔にあてはめて「ばかだなあ」と言ってもしかたがない。

今の時代だって、2100年の人から見たら

「がんばって穴掘って石油を探すより、もっと身近なものをエネルギーに換えればいいじゃん」

「ゴミを処分するために遠くまで運ぶぐらいだったら、分解して有用な物質に転換するほうがずっと楽なのに」

「病気を治すよりも身体を捨てて脳だけ新しい身体に移植するほうがずっと安上がりなのに、なぜそういう方向に努力しないんだろう」

と言いたくなるような、問題の本質的解決から逃げまくっている時代なのだろう。




2017年9月15日金曜日

未来が到来するのが楽しみになる一冊/ミチオ・カク『2100年の科学ライフ』

『2100年の科学ライフ』

ミチオ・カク(著) 斉藤 隆央(訳)

内容(e-honより)
コンピュータ、人工知能、医療、ナノテクノロジー、エネルギー、宇宙旅行…近未来(現在~2030年)、世紀の半ば(2030年~2070年)、遠い未来(2070年~2100年)の各段階で、現在のテクノロジーはどのように発展し、人々の日常生活はいかなる形になるのか。世界屈指の科学者300人以上の取材をもとに物理学者ミチオ・カクが私たちの「未来」を描きだす―。

科学者たちの 未来予想が好きだ。読んでいるとわくわくする。
エド・レジス 『不死テクノロジー ―― 科学がSFを超える日』もおもしろかった(→ 感想文はこちら)。宇宙空間に人工的な地球をつくるという奇想天外な話なのに、まじめに研究をしている頭のいい人に理論を説明されると「もうすぐできるんじゃないの?」という気がする。

ほんの20年前は、1人1台携帯端末を持っていてその中に電話もカメラも電卓も図書館もゲーム機も財布もテレビもウォークマンもビデオデッキも新聞も収まっているなんてまったくの夢物語だった。それが実現した今となっては、人工地球がなんぼのもんじゃいと思える。
なにしろ『2100年の科学ライフ』によると、1台のスマートフォンは月に宇宙飛行士を送ったときのNASA全体を上回る計算能力を持っているらしい。それぐらいすごいスピードで科学は進歩しているのだ。つまりこのスマホがあれば月に行けるってこと? ちがうか。



『2100年の科学ライフ』は、物理学者であり、科学解説者としても知られるミチオ・カク氏が、最先端のテクノロジーや各分野の専門家の話をもとに「現在の最先端」「近未来(20年後ぐらい)」「世紀の半ば(2030~2070年ぐらい)」「遠い未来(21世紀後半)」の科学技術を大胆に予想したものだ。
「現在の最先端」を読むだけでも、そんなことできんの、すげえ! と思うことしきり。まして50年以上も先の話なんて。
まるでSFなんだけど、それでもこの中のいくつかは実現するんだろうなあ。中には予想より早く叶うものもあるんだろう。

専門的になりすぎず、かといって素人くさくもない、ちょうどいいレベルの解説。
理論だけの話ではなく、過去のエピソード、SF映画や小説、さらには神話からの引用までちりばめられていて、読み物としてもおもしろい。ちゃんと取材にも足を運んでいるし。
いやあ良書だ。訳もいいし。

もう目次を見るだけで興奮する。
  • 四方の壁がスクリーンに
  • 心がものを支配する
  • トリコーダーとポータブル脳スキャン装置
  • サロゲート(身代わり)とアバター(化身)
  • 老化を逆戻りさせる
  • われわれは死なざるをえないのか?
  • 恒久的な月基地
ぞくぞくするよね?
しない? あっ、そう。20世紀へのお帰りはあちらですどうぞ。

目次だけじゃない。内容も刺激に満ちあふれてる。

ボタンひとつですべてがモニターになる壁面スクリーン。壁紙を1秒でかけかえられる。モニターを丸めて持ち運べる。

強力な磁場を作る技術がタダ同然になり、輸送に革命が起きる。
あらゆる物体に小型の超電導チップを埋め込むことで、思念するだけで物体を動かすことができる。

自由自在に変形できるロボット。形を変えたりばらばらになったりしてどんな隙間にも入れる。

分子サイズのマシンを使った治療。癌細胞をピンポイントで殺すことができる。

遺伝子工学を使って二酸化炭素を大量に吸収できる生物を作りだすことで地球温暖化を解消。

核分裂ではなく核融合によるエネルギーを生み出す。安全かつ強力。カップ1杯の水から80,000キロリットルの石油に相当するエネルギーを取りだせ、廃棄物はほとんど出ない。
言ってみれば実験室で太陽を作るようなもの。

核融合を使って化成の氷を溶かし、南極で繁茂している藻類を持ちこんで火星をテラフォーミング(地球化)する。

超小型サイズのナノロケットを大量に宇宙に送り(コストは非常に小さい)、さまざまな惑星に到達したナノ探査機が自己複製をして、また別の星へと飛び立っていく。

どや、現代人たち。これが未来やっ!!



いいニュースと悪いニュースがある。

まずはいいニュースから。医療問題、環境問題、エネルギー問題。あと何十年かしたらすべて解決している。地球の未来は明るい。イエーイ!
悪いニュースは? その時代にぼくらの大半が生きてないってこと。
この本を読むとそんな気分になる。あーあ、もっと後の時代に生まれたかったなあ!
ずっと健康でいられてあんまり働かなくてもいい時代に生きたかった(『2100年の科学ライフ』ではそんな時代の到来を予言している)。

昔から科学はずっと発展しているわけだけど、科学の進歩をもっとも妨げているものは何かっていったら、人間の身体という制約だろう。

椎名誠のエッセイにこんな話があった。
とても頑丈なダイバーズウォッチを買った。水深数百メートルの水圧でも壊れないという。これはいい買い物をしたと思っていたが、よく考えたら水深数百メートルまで潜ったら人間の身体がぺしゃんこになってしまうのだからその性能は意味がないということに気がついた……。

このように、科学の進歩に人間の身体は追いつけない。
人間の身体は壊れやすいから乗り物は重厚にせざるをえないし、出せるスピードにも限界がある。身体的制約があるから宇宙や深海に行くのもたいへんだ。知識を蓄えた天才科学者だってたった数十年したら死んでしまう。

この先、科学が進めば進むほど身体がじゃまになるのではないだろうか。
医療技術が発達して病気は早期に治療ができて長生きできるようになったとしても、遺伝子改変で強固な肉体を手に入れたとしても、生物である以上限界はある。

だから、この本で予想されている技術の中でいちばん実現しそうなのは、機械の身体をつくってそこに自分の全人格をインポートするというテクノロジーではないだろうか。
『不死テクノロジー』にも同じ未来予想図があった。
人間の脳というのはすごく高度なものでコンピュータで同等のものをつくることは当分不可能らしい(今の最先端でも虫の脳程度だそうだ)けど、身体のほうはそこまで優れているものではないのだろう。
もしかしたら我々が生身の身体を捨てる時代が、今世紀中にも到来するかもしれない。



人は科学のみにて生くるにあらず。

『2100年の科学ライフ』では、科学の進化がもたらす経済や政治の変化までも予想している。
「今後も残る仕事、ロボットにとってかわられる仕事」「2100年のある1日をバーチャル体験」など、21世紀後半まで生きる人にとってはたいへんありがたいコンテンツも盛りだくさん。

未来が到来するのが楽しみになる一冊だ。冷凍冬眠しよっかな。
明日の朝起きたら未来になってないかなー(ちょっとだけなっとるわ)。

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2017年9月14日木曜日

バケツ一杯のおしっこ


詳しい経緯は省くが、4人がかりでバケツ一杯におしっこを溜めたことがある。


酒を飲みながら 代わる代わるバケツに用を足し一晩かかってバケツ一杯にした。もう10年以上も前のことだ。
千里の道も一歩から。ローマは一日にして成らず。困難なチャレンジではあったが、強固なチームワークと必ずやり遂げるんだという強い意志が、プロジェクトを成功に導いた。
企業の人事担当のみなさんは、ぜひ新人研修で取り入れていただきたい。


健康診断で 採尿したとき、予想以上の重みを感じたことがないだろうか。
毎回「あれ。紙コップに半分しか入れてないのにこんなに重いの?」とその重量感に戸惑う。明らかに同量のお茶より重い。

お茶と尿では存在感が違う。
「これがさっきまで自分の体内に……」という思い入れ。
「検査の結果によってもしかしたら入院なんてことも……」という不安。
「これをこぼしたらとんでもないことになるぞ」という緊張感。
諸々の感情が乗っかっているから重たい。人の命は地球より重く、おしっこはお茶より重い。


バケツ一杯に 溜めたおしっこは、重たかった。
どのくらい重たかったかというと、詳しい経緯は省くが、中身をテニスコートにぶちまけようとした友人がバランスを崩して自分の靴を盛大に濡らしてしまったぐらい重たかった。


2017年9月13日水曜日

ゴルフと血糖値と傘


ぼくはゴルフやらないんだけど、ゴルファーの会話ってどうしてあんなにスコア聞くんだろうね。
絶対言うよね。
「ゴルフやるんですか」
「そうなんですよ」
「いくつで回るんですか?」
「こないだ90でした」
「ほーすごいですねー」
みたいな。

すぐ聞く。中には聞かれてもないのに言うやつもいる。
病院の老人か。すぐに血圧と血糖値の話しだす老人か。

ゴルフとボーリングはやたらとスコアを聞く。あとTOEICも。

まあTOEICはわかる。スコアをとるためにやってるわけだし。

ボーリングもまあわかる。全員共通の指標だからね。
スコア200のやつは180のやつよりうまい。

でもさ。ゴルフっていろんなコースがあるわけでしょ。
当然、いいスコアを出しやすいコースとそうじゃないところがあるわけでしょ。
一応パー4とか決めてるけど、かんたんなパー4とむずかしいパー4があるわけでしょ。

だったら違うコースで出したスコア比べても意味なくね?

それ野球でさ。
「こないだソフトバンクホークス相手に投げたんですよ。7回5失点でした」
「じゃあおれのほうが上だ。先週の草野球で5回2失点だったから」
みたいなことでしょ。
その比較、何の意味もないよね。

ボーリングだってレーンによって多少は差はあるんだろうけど、ほんとに微々たるもんでしょ。
でもゴルフってコースによって距離も地形もぜんぜん違うし、天候や風の影響も大きい。
そのへんの諸々を無視して比べても、まるで比較にならない。

だからゴルファー同士の会話では、スコアじゃなくてもっと比較しやすいものを言いあうようにしたらいい。
「スイングの速さ」とか「サンバイザーをいくつ持ってるか」とか「てもちぶさたなときに傘とかでゴルフの素振りをしてしまうことが1日に何回ぐらいあるか」とか。


2017年9月12日火曜日

報われない愛の呪縛


芸能に 興味のない人間なので、アイドルに入れあげる人の気持ちが理解できなかった。
いくら熱狂しておかしくなっているファンであったとしても、アイドルがファンの一人になびく可能性がないことぐらいはわかるだろう。
それなのに、なぜアイドルに莫大なお金を投下するのだろう?
同じCDを何枚も買ったり、すべてのコンサートに足を運んだりするのは度を越しているとしか言いようがない。もはやそこまでいったら楽しみよりも苦痛のほうが大きいのではないだろうか?
それだけやっても、得られるものといえばせいぜい握手ができるぐらい。
同じお金と労力を他にかけていたらもっと多くのものを手にしていたのでは?
リターンがないとわかっている投資をするのはなぜなのだろう?


と、かねがねアイドルファンに対して疑問に思っていたのだけれど、子どもを育てるようになって「いや、リターンがないからこそハマるのかもしれない」と思うようになった。

何かにハマる度合いというのは、得られたもの、得られそうなものではなく、投下したものに比例するのではないだろうか。


小学校1年生から 毎日野球をやってきた子が、高校3年生の春に「受験に集中したいから野球部やめるわ」という決断を下すことは、かなり困難だろう。仮にそこが弱小校で甲子園に出場できる可能性がほぼゼロだったとしても。
でも1週間前に野球部に入った生徒なら「練習きついし、どうせ甲子園出られないし、もうすぐ受験だから」という理由で、ずっとかんたんに辞められる。
”甲子園出場” というリターンがほぼゼロなのはどちらのケースも同じ。それでも多くの資本を投下してきた前者の子は、「せっかくここまでやってきたのだから」というもったいなさに引きずられて合理的な判断を下すことができない。
「いやいや甲子園出場だけが野球をする目的ではない。続けることでこそ得られるものもあるんだ」という人もあろうが、それは1週間前に野球部に入った子も同じだ。むしろ初心者のほうが上達のスピードが速いから得られるものは大きいだろう。


子育てを していると、子育てはコストが大きくてリターンがゼロの行動だと思う。
夜中に泣き声で起こされたり、夜中にゲロ掃除をしたり、夜中におねしょで濡れた布団を洗ったり、朝早くにおなかの上に飛び乗ってきて起こされたり、「やってらんねえよ」と言いたくなることばかりだ(ぼくは眠れないのがいちばんつらい)。
それでもなんとかやっているのは、無償だからだ。
「夜中に起こされてゲロ掃除をしたら350円もらえます」なんてシステムだったら「いや350円いらないから寝かせて」となっている。

子どもが将来自分の老後を見てくれる、なんてリターンがないわけでもないが、そんな不確実なことのために多大なる金と労力を使うぐらいなら貯金して上等な介護施設に入居するほうがずっと効率がいい。お金を払って他人に世話されるほうがずっと気楽だし。


母親はどうかしらないけど、父親であるぼくは正直、子どもが生まれた直後は愛情なんてほとんど持っていなかった。ちっさくてかわいい足だなとは思ってはいたけど、仔犬のほうがずっとかわいいと思っていた。
それでも夜泣きにつきあわされたりウンコまみれのお尻を洗ったりしているうちに、我が子が愛おしくなってきた。何かしらのリターンがあったからではない。投下した労力が大きくなってきたからだ。

「バカな子ほどかわいい」という言葉があるが、これはまさに「投下した資本が大きいほどハマる」を言い表している。



報われない愛 の呪縛は随所で観測される。

スポーツで弱いチームのファンほど熱狂的だったり(今でこそ強くなったけど、昔の阪神タイガースや浦和レッズは弱くてファンが熱狂的だった)、
ギャンブルで負けてばかりの人がなかなかやめられなかったり、
ブラック企業の社員が自殺するまで辞めなかったり、
いたるところで人々は「せっかくここまでがんばってきたんだから」に拘束されている。子育てはどうかわからないけど、往々にして不幸な結果を生んでいるように見える。

もしかすると、太平洋戦争末期における日本軍も「報われない愛」の呪縛に陥っていたのかもしれない。
多くの兵士を失い、戦艦を沈められ、戦闘機を墜とされ、失ったものは数知れず。ひきかえに得られたものは何もない。
後の時代の人間からすると「長引かせても悪くなる一方だったんだから早めにやめときゃよかったのに」と思えるが、長引かせても悪くなる一方だったからこそ抜けだせなかったのかもしれない。

個人レベルならまだしも、国家単位で「報われない愛」の呪縛に囚われると大惨事になる。
国民年金・厚生年金なんか、この呪縛に陥っているように見えてならない。


2017年9月11日月曜日

スパイの追求するとことん合理的な思考/柳 広司『ジョーカー・ゲーム』【読書感想】

『ジョーカー・ゲーム』

柳 広司

内容(e-honより)
結城中佐の発案で陸軍内に極秘裏に設立されたスパイ養成学校“D機関”。「死ぬな、殺すな、とらわれるな」。この戒律を若き精鋭達に叩き込み、軍隊組織の信条を真っ向から否定する“D機関”の存在は、当然、猛反発を招いた。だが、頭脳明晰、実行力でも群を抜く結城は、魔術師の如き手さばきで諜報戦の成果を上げてゆく…。吉川英治文学新人賞、日本推理作家協会賞に輝く究極のスパイ・ミステリー。

陸軍に創設されたスパイ養成機関”D機関”で養成された天才スパイたちの活躍を描いたミステリー。
スパイものの小説ってよく考えたら読んだことがないな。漫画では 佐々木 倫子『ペパミント・スパイ』 ぐらい。完全にコメディだけど。
海外には007シリーズとか『寒い国から帰ってきたスパイ』とか有名なものがあるけど、日本を舞台にしたスパイの物語ってほとんど聞かないなー。
んー……。考えてみたけど、手塚治虫『奇子』ぐらいしか思い浮かばなかった。
日本にもスパイはいたんだろうけど、物語の主人公にならなかった理由は、諜報活動が卑怯なもの、武士道に反するものとして扱われていたことがあるんだろうけどな。
スパイってその特質上、活動が公になることはないしね。


しかし日本にもスパイがいなかったわけではない。
陸軍中野学校という、諜報や防諜に関する訓練を目的にした機関があった。こないだ読んだ NHKスペシャル取材班 『僕は少年ゲリラ兵だった』 にもその名が出てきた。戦況の悪化により諜報どころではなくなり戦争末期はゲリラ戦を指揮するのがメインの活動となっていたらしいけど。

東京帝國大学(今の東大)出身者らが多く、他の陸軍とは一線を機関だったという陸軍中野学校。
『ジョーカー・ゲーム』の ”D機関” は陸軍中野学校をモデルにしているらしいが、もっとマンガ的。
D機関の生徒は、天才的な頭脳と冷静沈着な思考を持つ。数ヵ国語を操り、スリ顔負けの手先の器用さ、変装術、強靭な体力を有している。どんな文書でも一瞬見ただけで一字一句正確に記憶できる。鳥かよ(鳥は頭悪いけど記憶は正確)。
当然「ありえねーだろ」と思うんだけど、精緻な構成と第二次世界大戦時の諜報活動という非現実的な舞台のおかげで意外とすんなり入りこめる。


スパイの追求するとことん合理的な思考と、日本陸軍の根性主義の対比がおもしろい。

「殺人、及び自決は、スパイにとっては最悪の選択肢だ」
 結城中佐が首を振った。
 ――殺人や、自決が……最悪の選択肢?
 軍人とは、畢竟敵を殺すこと、何より自ら死ぬことを受け入れた者たちの集団のはずではないか。
「おっしゃっている意味が……わかりません」
「スパイの目的は、敵国の秘密情報を本国にもたらし、国際政治を有利に進めることだ」
 結城中佐は表情一つ変えずに言った。
「一方で死というやつは、個人にとっても、また社会にとっても、最大の不可逆的な変化だ。平時に人が死ねば、必ずその国の警察が動き出す。警察は、その組織の性格上、秘密をとことん暴かなければ気が済まない。場合によっては、それまでのスパイ活動の成果がすべて無駄になってしまうだろう……。考えるまでもなく、スパイが敵を殺し、あるいは自決するなどは、およそ周囲の詮索を招くだけの、無意味で、バカげた行為でしかあるまい」


スパイ小説って誰が味方かわからない緊張感もあるし複雑な心理模様も描かれるし、読んでいてたのしいね。
柳広司はいい金脈を見つけたね。

良質な短篇集なんだけど、後半になるにつれてパワーダウンしていくのが残念。スパイじゃなくてええやんって短篇も混ざってる。
最後の『XX(ダブル・クロス)』なんか密室殺人を題材にした推理小説だからね。しかもトリックは平凡だし。
1作目の『ジョーカー・ゲーム』のインパクトが強烈すぎたってのもあるのかもしれないけど、尻すぼみの印象はぬぐえない。

とはいえ ”超人的能力を持ったスパイ集団” という設定は「こんなおもしろいジャンルがまだ手つかずで残っていたのか」と思うほどに魅力的だ。
今作以降も『ダブル・ジョーカー』『パラダイス・ロスト』『ラスト・ワルツ』とシリーズ化されている人気シリーズなので、また続きを読んでみる予定。



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2017年9月10日日曜日

ツイートまとめ 2017年7月

美男子

新婚旅行

萎縮

豹変

自然淘汰

希少部位


不憫

妙案

納戸御殿

責任回避

落下傘
賭博黙示録

平行線

寝姿

2017年9月8日金曜日

天性のストーリーテラーの小説を今さら/劇団ひとり 『陰日向に咲く』【読書感想】

『陰日向に咲く』

劇団ひとり 

内容(e-honより)
ホームレスを夢見る会社員。売れないアイドルを一途に応援する青年。合コンで知り合った男に遊ばれる女子大生。老婆に詐欺を働く借金まみれのギャンブラー。場末の舞台に立つお笑いコンビ。彼らの陽のあたらない人生に、時にひとすじの光が差す―。不器用に生きる人々をユーモア溢れる筆致で描き、高い評価を獲得した感動の小説デヴュー作。

どうでもいいこだわり があって、「話題になっている本は読まない」というルールが自分の中にある。
本は自分の感性で選びたいという信念があって、話題になっている本を読むことは自分の感性を曲げて選んだようで、許せない行為なのだ。「読みたい」と思っても「話題の本だから」ということで手に取らないわけだから、そっちのほうが自分の感性に正直じゃないんだけど。

『陰日向に咲く』が2006年に刊行されたとき、ぼくは書店で働いていたのでこの本が飛ぶように売れていることを目にしていた。さらに数々の書評でも取り上げられ、ちゃんとした書評家たちが「タレントが書いたということとは関係なくおもしろい!」と絶賛しているのも読んでいた。
いったいどんな小説なんだろうと気になっていたものの、前述したように「話題の本は読まない」というルールを自分の中に課している手前、誰に対してかわからない意地を張って『影日向に咲く』を手に取ることはなかった。

その後、『週刊文春』で劇団ひとりが『そのノブは心の扉』というエッセイの連載を始めたので読んでみたらクソつまらなかったので小説に対しても興味を失った。


そして10年以上が経過。「もう話題の本じゃないから大丈夫だよね」と、誰に対してかわからない確認をとってから、読んでみた。今さら。



ちゃんとおもしろかった よね。ちゃんとおもしろかったってのも変な表現だけど、作者がテレビに出てる人じゃなかったとしてもおもしろいってことです。
ちょっと漫画的というか、ホームレスはホームレスらしく、ギャンブル狂はギャンブル狂らしくて、みんな思慮が浅くて、良くも悪くもわかりやすい小説。まあエンタテインメントで内面をじっくり掘り下げても重たくなるだけだし、これでいいんでしょう。
愚かな人間の描写はほんとに巧みで、デジカメの使い方がわからない女性の思考回路とか、ギャンブル狂の内面の浮き沈みとかの描かれ方は説得力があるねえ。

なによりストーリー展開がうまい。起承転結に沿って物語が進んで、丁寧な伏線があって、ほどよく意外なオチがあって、という創作のお手本のような作品。
劇団ひとりってバラエティ番組でも瞬発的におもしろいことを言うんじゃなくて、芝居に入ってきちんとストーリーを展開させてそこに起伏をつけてオトす、っていうやり方をとっている。演技のほうが注目されがちなんだけど、天性のストーリーテラーなんだろうね。


やっぱり10年前に 読んどきゃよかったな、って思う。
連作短編集で、メリーゴーラウンド方式っていうんですかね、ある短篇の端役が次の短篇では主人公になってるってやつ。伊坂幸太郎がよく使うやつね。
昔からある手法ではあるんだけど、伊坂幸太郎以後、雨後の筍のごとく増えて、今ではよほど効果的な使われ方をしないかぎり「メリーゴーラウンド回しときゃ読者が感心すると思うなよ!」と逆にうんざりする手法になってしまった。
『陰日向に咲く』もその手法が用いられているので、たぶん2006年に読んでたら「おもしろい手法!」と感心してたんだけど、今読むとそれだけで評価を下げてしまう。2017年に読むのが悪いんだけどさ。
あとちょっと大オチがあざとかったな。


いちばん残念なのは、ちょっときれいすぎるってことだね。文章も読みやすいし、ストーリーも無駄がないし、全体的にうまくまとまっている。
でも、『ゴッドタン』の劇団ひとりを観ている者としては、もっとクレイジーな部分を出してほしかったなと思う。
テレビでは「いきなり自分の服を破きだす」「自分のケツの穴につっこんだ指をなめる」みたいな狂気そのものを出している劇団ひとりなんだから(いちばん狂ってるのはそれを放送しちゃう制作者だけど)、表現規制の弱い本ではもっともっとイカれた部分を出してほしかったな。



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2017年9月7日木曜日

困ったときはステゴサウルスにしとけ


ステゴサウルス っているじゃないですか。いないけど。こないだいなくなっちゃったね。こないだっていうか1億年くらい前。
背中にへんな五角形がいっぱいついてるやつ。20個ぐらい。五角形が20個あったら将棋1式できるじゃない。2頭いたら対局できるね。
将棋やってたのかもね。そんでいらない駒を背中につけてたのかも。あ、もしかしてステゴサウルスって名前、捨て駒からきてるとか? ステゴマサウルスがなまってステゴサウルスになったとか。違うか。


まあ変な形状してるよね。
化石から形を再現した人も困っただろうね。頭部とか脚とか背骨とか組み立てて、
ん? なんか五角形のパーツが20枚余ったんだけど? これどこのパーツだ?
将棋の駒? ちがうよね。だって「と」とか書いてないもんね。
この五角形なんだろう。ホームベース? 絵馬? ペンタゴン?
んー。とりあえず背中に並べとくか。余らすわけにもいかんしな。

そんな感じであの形状になったんだろう。


地球に隕石が つっこんできて粉塵がまきあがって大氷河期がきたとする。
人間はもちろん、大型の動物はほとんど死に絶えるよね。その中には、もちろんキリンも。

そんで1億年して、またべつの知的生命体が地球上に繁栄して、そいつらがキリンの化石を見つける。
頭はここ、脚はここ、これが首で、
ん? 首の骨みたいなやつがいっぱい余ったぞ?
これ全部首の骨? まさかね。そんなことしたら首だけが長いアンバランスな生物になっちゃうもんな。

どこにつけたらいいんだろう。
んー。とりあえず背中に並べとくか。余らすわけにもいかんしな。