2022年4月10日日曜日

寝坊する人

 ぼくは朝が強いので、しょっちゅう寝坊する人の気持ちがわからない。

「でもけっきょく甘えでしょ。寝坊してもいいやとおもってるから寝坊するんでしょ。『起きられなかった』じゃなくて『起きない道を選んだ』なんでしょ。要するに、相手を待たせてもいいとおもってるから寝坊なんかするんだよ」とおもっていた。


 ぼくが大学一年生のとき。親元を離れて下宿していた。

 高校時代の友人・Nくん(浪人生)がぼくのマンションの近くの大学の入試を受けると聞いたので、「だったら受験前日、うちに泊まったらいいやん。当日早起きするのたいへんやろ」と声をかけた。実家から大学までは二時間以上かかるが、ぼくのマンションからだったら三十分でいける。「受験当日の朝に一時間半の余裕がある」というのは大きなアドバンテージだ。

 そして受験前日、Nくんはぼくの家に泊まった。もちろん前日は受験に備えて早めに寝た。

 当日の朝。朝七時に、Nくんの携帯のアラームが鳴りだし、その音でぼくは目を覚ました。

 次の瞬間、ぼくは信じられない光景を目にした。


 Nくんは布団に寝ころんだまま手を伸ばして携帯のアラームを止め、そしてまた何事もなかったように眠りについたのである。
 これは……〝二度寝〟だ。

 しばらくNくんの様子を見ていた。だが、いっこうに起きる気配がない。十秒、二十秒。ぴくりとも動かない。

 三十秒たち、さすがにこれは見ていられないとぼくはNくんを揺りおこした。

「おい、起きろって。今日受験やろ」

「ん? ああ、ありがとう……」

「今、目覚まし止めてまた寝てたで」

「え? 目覚ましなってた?」


 なんと、Nくんは自分が二度寝をしたことにまったく気づいていないのだ。無意識のうちにアラームを止め、無意識のうちに二度寝したのだ。

 もしもぼくが起こしていなかったら、彼はきっと大学受験に遅刻していたことだろう。


 その日以来、ぼくは「二度寝は甘え」という考えを改めた。

 寝坊する人は、起きない道を選んだわけでもなく、相手をなめているから遅刻しているわけでもなく、ほんとに起きられないのだと。

 寝坊する人にとって「時間通りに起きる」というのは、「寝ているときにどんな夢を見るかをコントロールする」と同じくらいむずかしいことだと。


2022年4月8日金曜日

【読書感想文】花井 哲郎『カイミジンコに聞いたこと』


カイミジンコに聞いたこと

花井 哲郎

内容(e-honより)
古生物学の泰斗が「何にでも興味を持つ子供のような眼」で見つめた日常は、新鮮な“発見”に満ちていた!落語のこと。軽井沢の不思議な店のこと。逃げ出した見世物用のコブラのこと…。自然史科学者が平明な文章で綴る随筆集。


 地質学、古生物学の研究者によるエッセイ。

 なんてことのない身辺雑記を書いていたとおもったら、気づくと古生物や微生物や進化の話になっている。この流れがじつに洒脱でおもしろい。

 大学広報などに書いた文章を寄せ集めたものなのでテーマはまとまりはないが、それでも生物への愛が全篇を貫いている。

 年寄りに共通の「昔は〇〇だったが今の若い学生は~」というぼやきが多いのが玉にキズだが(根拠を示さない「昔は良かった」に読む価値はないとおもっている)、それ以外はいい文章。




 私達はよく学生と一緒に野外に化石の採集に出かける。そして露頭の前に立って化石を採集していると、必ずと言ってよい位学生達から、「この化石は何と言う種類ですか」と彼らの採集した化石を示される。そこでその化石の所属する「種」や「属」を学名で、例えば、「これはメレトリックスで、この化石群の主要なメンバーですね」とでも言えば、学生達は「はあ、そうですか」と言って、何となく分かった気持ちになってくれる。そして、「そのメレトリックスというのはどういう意味ですか」とか、「どういう特徴を持っている種類ですか」などとしつこく食い下がる学生はまずいない。
 ラテン語が分からないとなれば、その学生にとってメレトリックスと言う名前は、彼の採集した貝殻について、そのとき一瞬興味を持ったものという内容しかもっていない。学名を教えてから、標本を返すと、彼らは見ている前でその標本を捨てても悪いと思ってか、少しの間持ってはいるが、結局は、捨ててしまう。かくて学生の理解するメレトリックスは、いつの間にかウミゴボウと同じくらい内容のないものになっている。一方、先生の方はメレトリックスだと言ったとき、その名前から自分の知るすべての内容を皆学生に伝えたような錯覚を持ってしまう。

 ぼくはこの学生の気持ちがよくわかるなあ。

「命名」という作業って、人間にとってすごく大事なことなんだよね。良くも悪くも。

 名前がわからないってすごく不安になるんだよね。新型コロナウイルスだってちゃんと名前がついたからまだ冷静に対応できているけど、これが「正体不明の奇病」だったらその恐ろしさは今の比じゃないだろう。ほとんどの人は「コロナ」が何を指しているか知らないわけだから(ぼくも知らない)、「新型コロナウイルス」だろうと「正体不明の奇病」だろうと理解度は大差ないわけだけど、それでも名前がついているというだけで安心するものだ。


 以前にも書いたけど、知人のおかあさんが落ち着きのない息子に手を焼いていたけど、息子が発達障害だと診断されたことで安堵しているように見えた。

 名前がついたからといって息子が落ち着くようになったわけじゃない。それでも「なんだかわからないけど他の子とちがう息子」よりも「発達障害の息子」のほうがまだ理解できた気になれるようだ。


 みんな、わからないものが嫌いなんだよね。だから、まったく新しいことをはじめる人がいると非難される。ところがラベルを貼って「これは〇〇の仲間です」とカテゴライズすると「ああ、〇〇みたいなやつか」と安心して受け入れられる。〇〇のことを理解できているかどうかなんて関係がない。わかった気になる。

 だから、何かについてじっくり考えてもらいたいとおもったら、あえて名前を伝えないってのもひとつの手かもしれないね。不安定なままにしときたくないから、あれこれ考えるもんね。


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診断されたし

【読書感想文】ニンニクを微分する人 / 橋本 幸士『物理学者のすごい思考法』



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2022年4月5日火曜日

分別ある人間のごみの分別

 ごみの分別ってむずかしくないですか。

 正直に言おう。ぼくは、なんとなくで分別している。


 いや、一応は知っている。

 ぼくの住んでいる地域のごみは「生ごみ・一般ごみ」「プラスチック」「紙ごみ」「衣類」「ビン・缶・ペットボトル」に分かれている。その他、1メートルを超えるような大型家電はリサイクル料を払って回収に来てもらう。乾電池や蛍光灯は区役所などで回収。牛乳パックや卵のパックや食品トレイはスーパーで回収している。
 どうだ、すごいだろう。これだけ知ってたら立派なもんだ。

 それでも、「これはどうしたらいいんだろう?」とおもうものがある。


 靴を捨てようとおもった。
 これは……衣類? まあ分類的には衣類だろう。ただしごみとして見たらどうなのだろう。衣類でいいのか。おまけにファスナー付きの靴だった。衣類に金属が含まれていてもいいのか?

 食品が入っていたプラスチックの袋。油がぎとぎとについている。
 これは……プラスチックでいいのか? 洗ってから捨てたほうがいいのか? しかし油を排水溝に流すのはよくないと聞いたことがある。ティッシュなどで拭えばいいのか? しかしごみを捨てるためにごみを増やすってなんだか本末転倒な気がする。

 困ったときは妻に訊く。なにしろ彼女は大学院で環境工学を学んだという経歴の持ち主なのだ。いってみればごみのスペシャリスト。迷ったときは彼女に任せている。

 その結果、靴は一般ごみ、油でぎとぎとのプラスチックも一般ごみになった。汚れがひどいものはプラごみにしてはいけないらしい。


 最近いちばん迷ったのは、ウォーターフロスを捨てようとおもったときだ。知ってる? ウォーターフロス。
 水のタンクにノズルがついてて、それを口内に入れてボタンを押すとすごい勢いで水が出て、歯間にたまった食べカスを掃除してくれるやつ。
 こいつが壊れて動かなくなったので捨てようとおもったのだが、何ゴミかわからない。二十センチぐらいなので大型家電ではない。一部にはプラスチックが使われているが、金属も使われている。分解できればいいのだが、ネジすらなくて素人にはばらすことができない。
 プラスチックもあるし、金属もあるし、充電式なので中にはバッテリーもある。これは……何ごみだ?

 とうていぼくの手におえないので妻のご託宣を仰ぐ。
「一般ごみ」
 なるほど、そうか。……一般ごみ!?

 えっ、この電化製品で、金属もプラスチックもバッテリーもあるやつを、ティッシュとか鮭の皮とかといっしょに捨てていいの!?
 うちのマンションは一般ごみ用ダストシュートがあるんだけど、ダストシュートからこの電化製品を投げ捨ててしまっていいの?

 いっこうに腑に落ちなかったが、妻が言うならしかたない。首をかしげながらダストシュートに放りこんだ。




 ごみの分別に納得がいかないのは、ぜったいにどこかで妥協せざるをえないことだ。紙とビニールがくっついてる製品とか、プラスチックと金属がくっついてるやつとか。ひきはがそうとするけど完全にははがれないやつ。
 どっちに捨てても、ちょっとは不純物が混ざっちゃう。これが気持ち悪い。

 ということで市が発行しているごみ分別表を見たところ「なるべく分別してほしいけど多少混ざってしまうのはしかたない」ということらしい。たとえばプラスチックの中に紙が混ざってても、処理するときに分けられるから、とのことらしい。

 えええ……。
 だったらそもそも分別しなくていいんじゃないの、とおもってしまう。もうそっちで分けてよ。だいたい分別しなくていい地域もあるし。京都市に住んでたことあるけど、すげー雑だったよ。カン・ビン・ペットボトル以外はぜんぶ一緒だったよ。今はどうだか知らないけど。

 人々がごみの分別に使っている時間と労力って、全国規模にすればとんでもなく大きいはず。でも、九割の人がちゃんと分別しても、一割の人が適当に捨ててたら台無しになってしまう。プラごみの中に生ごみが混ざってしまう。

 当然、処理する側もそうなることは想定していて、プラごみから生ごみを選りわけるシステムをつくっている。

 だったら、九割の人がちゃんと分別してる労力ってなんなの?

 釈然としない。




 そもそも、ごみの分類を一般市民にさせること自体が無理があるとおもう。

 八歳の娘は、いまだにティッシュとかプラスチックの容器とかを持ってきて「これは何ごみ?」と訊いてくる。

 いいかげんにおぼえてよ、とはおもうが、かくいうぼくだって「プラスチック製品の定義を答えよ」と言われたら困ってしまう。たくさんのプラスチック製品を見てきて経験的に「プラスチックかそうでないか」と見分けられるようになっただけで、明確な線引きはたいへんむずかしい。

 子どもも外国人も目が見えない人もおばかさんもみんなごみを出すのに、「全員が正しく分類できる」という前提で制度をつくるほうがどうかしている。




「白黒つけなきゃいけないのに白黒つけられない」ってのが気持ち悪いんだよね。

 だからさ。せめて。

「一般ごみ」「プラスチックごみ」「資源ごみ」みたいなのにもうひとつ追加して、「分類不能ごみ」って項目をつくってほしいんだよね。わかんないやつはぜんぶそこに放りこむの。

 そんなことしたらみんな「分類不能ごみ」にしちゃうって?

 いいじゃない、それはそれで。そうなったら、そもそも一般市民に分類させるのは無理だったってことだよ。

 ほとんどの人が守れない制度なら、制度のほうが欠陥なんだよ。


2022年4月4日月曜日

【読書感想文】リチャード・セイラー&キャス・サンスティーン『実践行動経済学 ~健康、富、幸福への聡明な選択~』

実践行動経済学

健康、富、幸福への聡明な選択

リチャード・セイラー(著) キャス・サンスティーン(著) 遠藤 真美(訳)

内容(e-honより)
市場には何が足りないのだろう?ごく凡庸な我々は、様々な人生の決断において自らの不合理性とひ弱さに振り回され続ける。制度に“ナッジ”を組み込めば、社会はもう少し暮らしやすくなる。“使える”行動経済学の全米ベストセラー。世界的な金融危機を読み解いた「国際版あとがき」も収録。


 古典経済学では合理的な人間(エコノ)を想定して理論を組み立てる。エコノは、1円でも得をする方を選び、情や惰性には一切流されない。常に冷静かつ正確に損得勘定できる。

 だが、我々はエコノではない。目先の得や楽なほうに流される。「損をしたくない」よりも「めんどくさい」のほうが先に立つ。全員がエコノであれば銀行に預金する人も、宝くじを買う人も、ギャンブルをする人も存在しないはずだが、そんなことはない。我々は朝三暮四の猿とそんなに変わらないのだ。

 そこで、不合理な行動をとる存在(ヒューマン)を想定して経済を考えるのが行動経済学だ。


 我々は頻繁に間違う。朝に三個、夕方の四個のエサをもらうよりも、朝に四個、夕方に三個もらうほうがお得だとおもってしまう。

「まちがうやつが悪いのさ。情報弱者は損をしてもしょうがない」という自由主義的な考え方もある。

 でも、人々が選択を誤って不幸になるのは、当人だけでなく社会全体にとっても損失である。選択を誤って失業者が増えたり、生活保護受給者が増えたり、病人が増えたりするのはいいことじゃない。

 そこで、政府などの公共機関が個人の選択に介入してやる必要がある。

 ただしこの塩梅がむずかしい。職業選択、資産運用、購買行動、衣食住、すべてを強制すれば間違う人はいなくなるだろうが(もしくは全員間違うか)、それが幸福につながるとはおもえない。パターナリズム(父権主義。国家などが個人の幸福のために行動に介入すること)を嫌う人も多い。


 そこで著者が提唱するのが、「ナッジ(nudge)」だ。ナッジとは、法律や罰則のように強制的なものではないが、多くの人にとって良い選択をできるよう道筋をつけてやる行為だ。

 たとえばドナー(臓器提供者)登録について。臓器提供は増やしたいが、個人が己の身体を自由に扱う権利は侵害するわけにはいかない。信仰上の理由で臓器提供をしたくない人にまで臓器提供を強制するわけにはいかない。

 今の日本の制度だと、ドナー登録をするには健康保険証や運転免許証の裏にチェックを入れる必要がある。チェックを入れなければ登録されない。
 だが一部の国ではこれが逆で、何もしなければ死後に臓器を提供することに賛同したものとみなされる。提供したくない人がチェックを入れる必要がある。

 やっていることはほとんど変わらない。「提供する人はチェック」か「提供しない人はチェック」だけで、個々人に与えられた自由は同じだ。

 だが、「提供しない人はチェック」の国は圧倒的に登録率が高くなる(信仰されている宗教が同じ国で比べても)。

 この「提供しない人はチェック」の仕組みが「ナッジ」だ。




 人間は自分の意思で行動しているようで、実際は環境によって行動が大きく左右される。

 同じことはスープにも当てはまる。ワンシンクが行ったもう一つの画期的な実験では、被験者はトマトスープが入った大きな皿の前に座り、好きなだけ飲んでいいと告げられた(Wansink[2006])。被験者には知らされていなかったが、スープ皿は自動的に注ぎたされるようになっていた(皿の底はテーブルの下にある機械とつながっていたのだ)。被験者がどれだけスープを飲もうと皿は空にはならない。たくさんの人が実際には大量のスープを飲んでいることに気づかないまま、実験が終了させられるまで(まったく慈悲深いことだ)、ひたすらスープを飲み続けた。皿が大きかったり容器が大きかったりすると、食べる量は増える。これは選択アーキテクチャーの一形態であり、重要なナッジとして作用する(読者諸氏への助言――体重を減らしたいなら、皿を小さくし、好物はすべて小さなパッケージのものを買い、思わず手が伸びてしまうような魅惑的な食品を冷蔵庫に入れておかないことだ)。

 これはぼくも経験がある。特に飲み会のようにアルコールが入っているといけない。眼の前に食べ物があると、空腹でなくてもついつい食べすぎてしまう。

 またぼくは結婚式に招待されるとたいてい飲みすぎる。これも環境によるものだ。結婚式での会食というのは、グラスが空きそうになるとすかさずウェイターが寄ってきて「お飲み物お注ぎしましょうか」と訊いてくる。飲みたいわけではないが断るのも面倒だ(断る、という行為はけっこう脳のエネルギーを使うものだ)。そこでついついお代わりを頼んでしまう。グラスにシャンパンやワインが入っていると「残すのも悪いな」とおもいついつい飲んでしまう。飲むとまたウェイターが音もなく忍びよってきて「お飲み物お注ぎしましょうか」と訊いてくる……。これもナッジだ。


「割れ窓理論」というのを聞いたことがあるだろうか。割られた窓ガラスをそのままにしていると、他の窓ガラスまで割られることが増えるという理論だ。同様に、何もないところにポイ捨てをするのは気が引けるが、すでにごみが多いところにポイ捨てをするのは抵抗なくできるのも同じ。これも(負の)ナッジだ。




 日本人は周囲に流されやすい、とよく言われるが、それは日本人だけではないようだ。

 納税協力の文脈では、ミネソタ当局によって行われた現実世界での実験で、行動の大きな変化が生みだされている。実験では、納税者を四つのグループに分け、四種類の情報が与えられた。あるグループには、自分たちが納めた税金は、教育、防犯、防火など、様々な良い仕事に使われると告げられた。別のグループは、税金を納めない場合には罰せられる危険があると脅かされた。さらに別のグループは、納税申告書の書き方にとまどったり、よくわからなかったりする場合にはどこに問い合わせればよいかという情報を与えられた。最後のグループには、ミネソタ市民の九割以上が既に税法に基づく義務を完全に果たしているとだけ告げられた。
 こうした介入のうち、納税協力に著しい効果を上げたものが一つだけある。最後の介入だ。一部の納税者が税法を遵守しないのは、納税協力の水準はかなり低いと誤認されているのが原因である可能性のほうが高いようだ。これはメディアなどで税金逃れが報じられているためだろう。協力水準は実は高いのだという情報を与えられると、税金逃れをする可能性は低くなる。だとすると、ほかの人がどうしているかに一般市民の関心を集めることによって、望ましい行動も、望ましくない行動も、少なくともある程度は促せることになる(政党への注――投票者を増やしたいと考えているなら、投票しない有権者がたくさんいると嘆かないでいただきたい)。

「みんな法に従って正しく納税しています」と伝えるだけで、正しく納税する割合が高まるのだ。

 たしかにね。誰しも税金を払うのはイヤだけど、イヤなのは払うことそのものよりも「脱税してるやつがいるのに自分だけが払うのが許せない」だ。

 考えてもみよう。たとえば観たい映画があるとする。あなたは映画代二千円を払う価値があるとおもい、映画館に足を運ぶ。すると映画館で「先着三十名無料キャンペーン」をやっている。あなたは運悪く三十一番目の客だった。とたんに二千円払うことがイヤにならないだろうか。二千円払おうとおもって出かけて二千円払うのだから損をしたわけでもないのに、すごく損をした気持ちにならないだろうか。もしかすると「タダにならないんだったらもう映画観るのやめよう」となるかもしれない。


 少し前に、政府の不正がたくさん明るみに出た。情報の隠蔽やデータの改竄や国会での虚偽答弁が相次いだ。彼らの罪はただ誤った情報を流した(あるいは正しい情報を隠した)だけにとどまらない。多くの国民に「あいつらも不正をはたらいているのに自分たちは正しく行動するのはばからしい」という意識を植えつけた。その中には、実際に「じゃあ自分もちょろまかしちゃおう」と行動した人もいるだろう。それとは気づかぬうちに、政府の不正に悪影響を及ぼされているのだ。この影響は数十年にわたって及ぶ。彼らはただ不正をしただけでなく、日本国民全体のモラルを下げたのだ。




 この本では「ナッジ」を活用する例がいくつか紹介されているが、アメリカでの例なのでわかりづらいことも多い。住宅ローンや保険、年金制度などは日本とは異なる点もいい。

 おもしろかったのは、こんな例。

興味深い例に、かって非常に人気があった独特な金融サービス制度「クリスマス・セービングクラブ」がある。仕組みを説明しよう。顧客は一一月の感謝祭のころに地元の銀行に口座を開き、これから一年間にわたって毎週一定の金額(例えば一0ドル)を預金することを約束する。預金は引き出せず、一年後、ちょうどクリスマスのショッピング・シーズンが始まるころに満期を迎える。金利にたいていゼロに近い。
 クリスマス・クラブを経済学の観点から考えてみよう。この口座は流動性がなく(一年間引き出せない)、取引費用は高く(毎週預金しなければならない)、リターンはゼロに等しい。そんな制度は実在しえないことを証明するのは経済学のクラスの宿題にはうってつけの題材だ。だが、クリスマス・クラブは長年にわたって広く利用され、何十億ドルも投資された。私たちはエコノではなくヒューマンを相手にしているということに気づけば、クラブが繁栄した理由を説明するのは難しくない。クリスマス・プレゼントを買うお金が不足している家庭は、クリスマス・クラブに加入して来年のクリスマスの問題を解決しようと決意するだろう。毎週預金しなければならないという不便さと、預金しても利息がつかないという損失は、プレゼントを買う十分な資金を確保できる利得に対して支払う代償としては小さいのではないか。(中略)お金を引き出せないことはマイナス要因ではなく、プラス要因だった。流動性がない点こそがこの制度の肝だったのだ。クリスマス・クラブは多くの点で子どものプタの貯金箱の大人バージョンである。ブタの貯金箱はお金を入れやすく、出しにくいようにできている。お金を引き出しにくいことが貯金箱の最大のポイントである。

「クリスマス・セービングクラブ」はクレジットカードの普及により廃れたが、それまではこんな何のメリットもないように見える制度が人気を博していたのだから、人間の行動がいかに意思ではなく環境や制度によって動かされるかがわかる。


 これもおもしろかった。スティック・ドットコムという、誓いを立てるためのWebサイト。

 スティック・ドットコムで誓いを立てる方法には、「金銭型」と「非金銭型」の二つがある。金銭型の誓いを立てる場合には、個人はスティック・ドットコムにお金を預けて、一定の期日までに目標を達成することに同意する。このときに目標を達成したことをどう立証するかも決める。立証する方法には、病院や友人の家で体重を量る、診療所でニコチンの尿検査をする、自主申告制にする、などがある。目標を達成すると、預けたお金は戻ってくる。目標を達成できなかった場合には、お金は寄付される。また、「グループ方式の金銭型誓約」という選択肢もある。グループ全員のお金をプールして、目標を達成した人のあいだで分け合うのである(目標を達成できなかった場合には、誓いを立てる人の嫌いな相手、例えば自分の支持政党と対立する政党、ヤンキースとレッドソックスのような宿敵関係にあるチームのファンクラブに寄付するという、もっと厳しくて、意地が悪くて、おそらくより効果的な選択肢もある)。非金銭型の誓約には、ピア・プレッシャーに身をさらす方法(家族や友人に成功か失敗かを電子メールで知らせる)、グループのブログで目標達成を監視する方法などがある。

 目標達成を誓い、達成できなかったら嫌いなスポーツチームに寄付をする……。

 いいなあこれ。死にものぐるいで達成するだろうな。


 経済学者の書いた本なので行動経済学の本としてはやや難解ではあるが、中級者向けとしてはおもしろいとおもう。

 ナッジを知れば、ふだんの行動を律することもできるし、マーケティングなどで他人を動かすためにも利用できそう。


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2022年4月1日金曜日

【読書感想文】『ズッコケ文化祭事件』『うわさのズッコケ株式会社』『驚異のズッコケ大時震』

  中年にとってはなつかしいズッコケ三人組シリーズを今さら読み返した感想を書くシリーズ第六弾。

 今回は17・13・18作目の感想。

(1~3作目の感想はこちら、4・5・7作目の感想はこちら、8~10作目の感想はこちら、6・11・14作目の感想はこちら、12・15・16作目の感想はこちら


『ズッコケ文化祭事件』(1988年)

 ズッコケシリーズの舞台は学校の外になることが多いのだが、この作品はめずらしくほぼ学校の中に収まっている。
 文化祭で劇をやることになった六年一組。ハチベエは、自分が主役になるべく、近所に住む童話作家・新谷氏に脚本執筆を依頼する。ところが新谷氏の書いた脚本は「幼稚」「古い」と六年一組の生徒からは評判が悪く、大幅に改作をおこなって上演。劇は成功に終わったが無断で手を入れられたことを知った新谷氏が怒りだし……。


 と、児童文学らしからぬ「大人の世界」が描かれる。特に宅和先生と新谷氏が酒を飲みながら口論を交わす場面は、子どもが一切登場しない。だが、こういう場面を明かしてくれるところこそズッコケシリーズの魅力なのだ。子どもは「ふだん子どもが目にしない大人の世界」を見たいのだ。ぼくは小学生のときにもこの作品を読んだが、強く印象に残っているのはやはり「おじさんとおじいさんの口喧嘩シーン」だ。

 この物語におけるハチベエ、ハカセ、モーちゃんは、〝文化祭を成功させようとがんばる子どもたち〟の中のひとりでしかない。とても物語の主役たりえない。主役は子どもたちの自主性を尊重するために陰ながら奮闘する宅和先生であり、執筆の苦悩を抱えた新谷氏である。

 このふたりが教育や児童文学について意見を戦わせるシーンは、著者である那須正幹先生の児童文学感が濃厚に反映されていておもしろい。ああ、きっと那須正幹先生もこういう批判を浴びたんだろうなあ、とか、こう言い返したかったんだろうなあ、とかいろいろ邪推してしまう。そしてそうした批判に対して、Twitterで口喧嘩をするのではなく(当時Twitterがなかったからあたりまえだけど)作品の中で見事に反論してみせるのがかっこいい。この『文化祭事件』こそが、古くさい批判に対する那須正幹先生の回答になっている。それは、〝新谷氏の最新作のタイトルが『ズッコケ文化祭事件』〟というメタなオチにも表れている。

「純粋無垢な子ども」という価値観は、現実を見ようとしない大人の勝手な思いこみにすぎない。「昔の日本人は思いやりがあった」の類といっしょだ。子どもは、大人以上に身勝手で、残酷で、小ずるくて、傲岸である。だからこそおもしろい。

 子どものときは特になんともおもわなかったが、今読むとおもしろいのは
「中学受験をする連中が、受験前は学校行事なんかどうでもいいという態度をとってたくせに、受験が終わったとたん最後の思い出づくりとばかりに出しゃばってくる」
シーン。

 ああ、いたなあ。こういうやつ。それまで誘いに乗らなかったくせに自分の推薦入試が決まったとたんやたら誘ってくるやつとか、学校行事なんてだりーみたいな態度とってたくせに中三の文化祭だけやたらと張りきって仕切ろうとしてくる不良とか。

 ああ、やだやだ。ふだん横暴にふるまって周囲に迷惑かけてるくせに映画のときだけ仲間の大切さを語るジャイアンかよ。



『うわさのズッコケ株式会社』(1986年)

 ポプラ社が2021年に企画した「ズッコケ三人組50巻総選挙」で見事一位を獲得した人気作。ぼく個人の中でも、三本の指に入る好きな作品だ(あとの二作は『探検隊』と『児童会長』かな)。

 イワシ釣りに出かけた三人。釣り客が多かったのに食べ物を売る店がないことをハチベエが父親に話すと「商売してみろよ。もうかるぞ」とそそのかされる。すっかりその気になったハチベエはハカセやモーちゃんを誘い、クラスメイトからも借金をしてジュースや弁当を仕入れ、釣り客たちに販売する。成功に気を良くした三人はさらなる出資金を集めるために株式会社を設立する……。

 何度も読み返した作品なのでだいたいおぼえていたが、それでもやっぱりおもしろい。
 上にも書いたが、これぞ「大人の世界を見せてくれる児童文学」だ。

 多くの大人は、子どもは純粋無垢な存在であってほしいと願っている。性や暴力や金儲けとは無縁な存在であってほしい、と。しかし残念ながら多くの子どもはそういったものが大好きだ。大人が隠そうとすればするほど覗き見たくなる。

『うわさのズッコケ株式会社』はその期待に見事に応えてくれる。この作品で株式会社の仕組みを知った人も多いだろう。ぼくもその一人だ。事業をやるために株式を売って出資を募る、事業が利益を出せば株主は配当金を受け取ることができる。この本で学んだ。そして、ぼくの株に対する知識はそのときからほとんど増えていない。

 今読むと、株券の価値が下がるリスクを説明していないのはずるいとか、勝手に商売してたら怖い人にからまれるんじゃないかとか、ジュースはまだしも暑いときに弁当を持ち歩いて売ったりラーメン作ったりするのは食中毒の危険があるとか、子どもが缶ビール売っちゃまずいだろとか(子どもでなくても資格なしに売ってはいけない)、いろいろツッコミどころはあるんだけど、そんなのは全部ふっとばしてくれるぐらいおもしろい。

 起承転結がしっかりしているし(釣り客がいなくなったときの絶望感よ)、終わり方も潔くて爽やか。無銭飲食をした人が高名な画家で……というのはややご都合主義なきらいもあるが、そのあたりをのぞけばすべて子どもたちだけの力で解決していて、児童文学としても完璧。

 そういえばこれ読んで会社を作りたくなって、宝くじ販売会社を作ったなあ。一枚十円で宝くじを売って……。たいへんだったのと、飽きたので一回だけしかやらなかったけど。



『驚異のズッコケ大時震』(1988年)

 子どもの頃に読んだときは「そこそこの出来」という印象だったが、今読むとひどいなこれは。

 ここまででいちばんの失敗作じゃないだろうか。クラスにひとりふたりいる歴史好きな子以外には、さっぱりわけがわからない。

 歴史に興味を持ったモーちゃんが『マンガ日本歴史』を買って読み、大いに感銘を受ける。翌日、学校帰りの三人組が歩いていると大きな揺れに遭遇する。気づくとそこは関ヶ原の合戦の舞台だった……という導入までは悪くないのだが、そこからがひどい。
 関ヶ原を抜けだした三人は、琵琶湖の近くまで歩く(これがもうむちゃくちゃ)。そこで出会った老人はなんと水戸黄門・助さん・格さんだった。さらに京都に行った三人は坂本龍馬に出会って新撰組に襲われたところを鞍馬天狗に助けられ、邪馬台国で卑弥呼のお告げを聞いた後はジュラ紀に行って恐竜に遭遇する……。

 もちろん、水戸黄門が諸国漫遊していたり、鞍馬天狗が実在していたりするわけはないので、最終的にはこれらは「三人の誤った認識のせいで時空がゆがんでしまったから」という理由が語られる。

 ……は?

 理由を聞いても意味がわからない。過去にタイムスリップしてしまうのはそういうお話だからいいとして、なぜハチベエが鞍馬天狗の実在を信じていたら鞍馬天狗が眼の前に現れるのか。まったくもって意味不明だ。

 ズッコケシリーズの魅力のひとつは「大胆なウソをもっともらしく並べたててくれる」ことにあるのだが、この作品にしてははなから整合性を放棄している。もっともらしいウソをつくことすらせず「とにかくこうだからこうなの!」という調子であっちこっちの時代に三人を連れていく。

 ストーリー展開にまったく必然性がないのだ。なぜ有名人にばかり会うのか、なぜ場所もあちこち移動するのか、どのタイミングでタイムスリップが起こるのか、時代が未来に行ったり過去に行ったりするのはなぜなのか、そういった疑問への説明がまったくなされない。

「歴史上のなんとなくおもしろそうな場面をなんとなく並べてみました」以上の理由がない。


 時間旅行ものは『ズッコケ時代漂流記』ですでに書いているから、差をつけるために何度もタイムスリップをさせたのかもしれないが、印象が散漫になっただけだ。それぞれの時代のうわっつらをなでているだけなので、歴史のおもしろさはまるで伝わってこない。その時代の風俗を語る余裕がない。

 八歳の娘にとってもちんぷんかんぷんだったらしい。まあ日本史をほとんど知らないから当然なんだけど、歴史をある程度知っている大人が読んでもまるでおもしろくない。

『ズッコケ財宝調査隊』がワーストだとおもっていたけど、あれは難しいし地味だけどストーリー展開はしっかりしていた。ワーストワン更新だな。


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