2021年9月21日火曜日

【読書感想文】今村 夏子『むらさきのスカートの女』

むらさきのスカートの女

今村 夏子

内容(e-honより)
近所に住む「むらさきのスカートの女」と呼ばれる女性のことが、気になって仕方のない“わたし”は、彼女と「ともだち」になるために、自分と同じ職場で彼女が働きだすよう誘導する。『あひる』、『星の子』が芥川賞候補となった話題の著者による待望の新作中篇。


 今村夏子作品らしい、終始うっすらと気持ち悪い小説(褒め言葉です)。

「むらさきのスカートの女」は、どの町にもいる町の名物変な人。身なりにまったく気を遣わないらしく、いつでもむらさきのスカートを履いている。大人からは一定の距離を置かれ、小学生からはからかいの対象になっている。

 変な女である「むらさきのスカートの女」を観察する〝わたし〟。

 たしかになあ。変な人って気になるもんなあ。

……とおもっていたら、ちょっと待て。〝わたし〟の行動は常軌を逸しているぞ。毎日毎日「むらさきのスカートの女」を尾行したり、それとなく自分の勤務先に「むらさきのスカートの女」が来るように仕向けたり、身なりに気を遣わない「むらさきのスカートの女」のためにシャンプーを送りつけたり……。

 やばいのはこっちのほうだ。「むらさきのスカートの女」もたいがいだが、〝わたし〟はもっと変だ。


「異常者が異常者を観察している」という体裁の小説、それが『むらさきのスカートの女』。

 徹頭徹尾うっすらと狂っている。読んでいるとこっちまで常識を忘れてしまいそうになる。


 こういう小説は好きなんだけど、ラストはあまり好きじゃない。

 最後にわかりやすいオチが提示されるんだよね。〝わたし〟の世俗的なところが見えてしまい、なーんだ、という気になる。他人の弱みを握って脅すような打算的な人だったんだ、つまんないの。

 最後の最後で失速しちゃったな、という印象。
 おもしろいんだけどさ。でもこの作品で芥川賞とらせるんなら、『こちらあみ子』のほうがずっといいとおもうけどな。




 だいたいどの町にも変な人はいるとおもうが、ほんとにヤバい人とか危害を加えるタイプの人は収監されたり隔離されたりするので、たいていは人畜無害か、「ちょっと迷惑」ぐらいの人だ。

 ぼくが子どもの頃いた〝町の変な人〟は、「演歌おじさん」。
 夕方になると犬を連れて公園に現れる。で、ベンチに座って演歌を熱唱する。それも、サッカーができる広い公園中に響き渡るボリュームで。レパートリーは一曲だけ。毎日毎日同じ歌。

 公園で遊んでいるぼくらからすると「また出た」だけで済んでいたのだが、近隣の住人からするとたまったものじゃなかっただろうな。毎日毎日近所で熱唱されたら刃傷沙汰になってもおかしくないぜ。

 あとは中学校の近くに出没した「おはようおじさん」。
 カゴに水筒を入れた自転車で走っていて、その名の通りすれ違う人全員に「おはよう!」とさわやかに挨拶をする。基本的には人畜無害なのだが、女子中学生に対してはひときわ大きい声で挨拶をしていた。


 かくいうぼくも、土日はたいてい娘+その友だちと遊んでいて「大人ひとりと子ども十人ぐらいで遊んでいる」という状況もよくあるので、近所の人からは「犯罪者一歩手前の変な人」と見られている可能性も否定できない。


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2021年9月17日金曜日

【読書感想文】森 達也『たったひとつの「真実」なんてない』

たったひとつの「真実」なんてない

メディアは何を伝えているのか?

森 達也

内容(e-honより)
メディアはすべて、事実と嘘の境界線上にある。それをまず知ろう。ニュースや新聞は間違えないという思い込みは捨てよう。でも嘘ばかりというのは間違い。私たちに不可欠となっているメディアを正しく使う方法とは?


 著者の森達也さんはドキュメンタリー映画などをつくっている人。

『1984 フクシマに生まれて』という本に森達也さんが出ていて語っていることがおもしろかったのでこの本を読んでみたのだけど、内容が薄かった。書いてることはいいんだけど、五十ページぐらいの分量をむりやり希釈して一冊の本にしたかのような。

 ちくまプリマ―新書という中高生向けのレーベルから出ているので浅めなのはしかたないにしても、それにしてもなあ。

「メディアの言うことを鵜呑みにするな」なんてこれまでにもさんざん言われてるわけじゃん。
「メディアの言うことは100パーセント真実だからそのまま信じよう!」とおもってる人なんてひとりもいないでしょ。いまどき中高生でも「新聞やテレビで言ってたから本当だ!」とはおもってないでしょ(逆に「新聞やテレビは嘘ばっかり」とおもってる中学生はけっこういそう)。ちくまプリマ―新書を読むような子なら余計に。

 メディアが間違えたり嘘をついたりすることなんてみんな知ってる。

 なのに「メディアもまちがえるんですよ」をくりかえし語っている。
 いやいや。そこはみんなわかってるから。わかってて騙されるんだから。

 書いてあることはすごくまっとうだっただけに、薄かったのが残念。

 



 20世紀前半に世界各地でファシズムが台頭したのはラジオと映画の普及によるものだ、という話。

 でも識字能力(読み書き)を要求しない映画とラジオは、それまでとは比べものにならない規模のプロパガンダを可能にした。この新しいメディアと、新聞やポスターなどの旧いメディアを縦横無尽に組み合わせながら、ゲッベルスは国民に対して、政治的なプロパガンダを行った。

 この説は眉唾だけど(それ以前にも独裁国家はいくらでもあったし)、瞬時に大量の情報を届けられるメディアがファシズムの勢力拡大に貢献したことは間違いない。
 少なくとも20世紀以降の世の中では、メディアを牛耳ることなく独裁を貫くことはまず不可能だろう。
 ディストピア小説でもまずまちがいなくメディアは権力者によって押さえられている。

 全世界で6000万人という膨大な犠牲者をだした第二次世界大戦は、1945年に終了した。ヒトラーやゲッベルスは自殺したけれど、残されたナチスドイツの幹部たちは、連合国側が主催するニュルンベルク裁判で裁かれた。かつてヒトラーから後継者の指名を受けていたナチスの最高幹部ヘルマン・ゲーリングは、「なぜドイツはあれほどに無謀な戦争を始めたのか」との裁判官の問いに、以下のように答えている。
「もちろん、一般の国民は戦争を望みません。ソ連でもイギリスでもアメリカでも、そしてドイツでもそれは同じです。でも指導者にとって、戦争を起こすことはそれほど難しくありません。国民にむかって、我々は今、攻撃されかけているのだと危機を煽り、平和主義者に対しては、愛国心が欠けていると非難すればよいのです。このやりかたは、どんな国でも有効です」

 これは時代を超えて通用するやりかただよな。
 今でも「○○国が攻めてくるかもしれないから軍備を強化しなければ!」って声は弱くならないもん。相手国のほうも「このままだと日本が攻めてくるぞ!」という雰囲気になれば、すぐにでも戦争は始まってしまう。


 いじめや差別もそうだよね。
 ほとんどの差別って「あいつに嫌がらせしてやろう」という悪意から生まれていない。
「このままだとあいつらに安全を脅かされる」っていう防衛本能から生まれる。

 フィクションで描かれるいじめは「極悪非道ないじめっ子と、純粋無垢ないじめられっ子」という構図が多いが、現実のいじめはそんなに単純じゃない。いじめられっ子が嘘つきだったり攻撃的だったり嫌なやつであることが多い。
 だからいじめが止まらない。悪意を持ちつづけられる人はほとんどいないけど、正義感は持続できるしどこまでもエスカレートする。

 戦争も差別もいじめも、正義によって生みだされる。




 オウム真理教報道について。

 地下鉄サリン事件が起きた直後の日本のメディアは、まさしくオウム一色だった。新聞は毎日一面で事件の推移を伝え、号外はしょっちゅう出る。雑誌も毎週のようにオウム特集で、増刊号もたくさん出た。テレビはレギュラー番組の放送を休止して、朝から晩までオウム一色。それも1週間や2週間じゃない。何カ月もそんな状態が続いていた。
 この頃のメディアは、とても危険な宗教団体としてオウムを描いていた。確かに事件それ自体は凶悪そのものだ。でも、打ち合わせのためにオウム施設を訪れたとき、そこで出会った大勢のオウム信者は、一人残らず善良で、優しくて、気弱そうな人たちだった。僕は混乱した。世間ではマインドコントロールされた凶悪な殺人集団と思われている彼らは、殺生を固く禁じられ、世界の平和を本気で願う人たちだった。

 これねえ。
 当時を知らない人には伝わらないとおもうけど(ぼくも中学生だったからそこまでテレビ観てたわけじゃないけど)、すごかったんだよ。ずっとオウムの話やってた。

 新型コロナウイルスで騒ぐのはまだわかるんだけど。みんなの生活に直結する話だから。

 でもオウムはそうじゃない。たしかに地下鉄サリン事件は大事件だったけど、大半の日本人にとっては関係なかった。それなのにずっとオウムの話やってた。山梨県に上九一色村って村があったんだけど、当時の日本人はみんなその名前を知ってた。オウム真理教の施設があったから。教団内部で使ってた用語も幹部の名前もみんな知ってた。

 オウム真理教は異常な集団だったけど、今おもうと当時の報道も同じくらい異常だった。

 今からふりかえると「そこまで騒ぐことか?」ってことなんだけどね。
 まあ「おもしろかった」んだよね。得体の知れない宗教団体が謎のルールに従って暗躍している、って話が。

 しかも、ただ騒いでただけでなく、みんな同じトーンで語ってた。「異常な集団が起こした異常な事件」だと。
「いや彼らには彼らの事情があるんでしょ」とか「彼らにも人権はある」とか言う人は、少なくともテレビや新聞にはひとりもいなかった。

 あの熱狂ぶりを知っている者からすると、戦争に突き進むのもあっという間なんだろうなという気がする。
 オウム真理教がそこまで信者の数も多くない一宗教団体だったからあの程度で済んでいたけど、あれがもっと大きい団体とか国とかだったら、すぐに戦争になっちゃうだろうな。

 メディアの種類が変わっても、人間の性質はずっと変わらない。

 

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2021年9月16日木曜日

暴言ジジイ

 言っちゃいけないことの基準が甘い。

「これぐらいの悪口は言ってもいいだろ」の基準が人より甘い。
 面と向かっては言わないけど、冗談まじりに「あいつ○○じゃねえの」「これだから○○な人間は」みたいなことを言ってしまう。炎上こわいからここでは伏せるけど。


 あるとき職場の後輩の前で汚い言葉を使っていたら「すごいこと言いますね」と言われた。

 あっ、これ、危険なやつだ。


 後輩は気を遣ってくれたのだろうが、「言っていいこととダメなことの区別もつかねえのかよバーカ」をマイルドにしたのが「すごいこと言いますね」だ。

 ふと気づけばぼくも中年。
「そんなこと言うな!」と叱ってくれる人は、妻しかいなくなった。

 このままだと、あれだ。
「時代が変わったことに気づかず暴言を吐いてみんなから眉をひそめられるおっさん」ルートまっしぐらだ。

 政治家とか会社役員とかのえらいおっさんによくいるタイプ(えらくないおっさんにもいるが)。
 いらんことを言って周囲を不愉快にさせるタイプ。でも周りは誰も注意できないから当人は「みんなが言えない本音を言えちゃうオレ」みたいな感じでいい気になっちゃうタイプ。
 ほんとは「みんなが言えない」じゃなくて「みんなが言いたくないし聞きたくもない」なんだけど。

 若いころは「毒舌」「歯に衣着せぬ」「無鉄砲」「舌鋒鋭い」として気に入られることもあったけど、歳をとって権力を手にしたことで(この国では何も成し遂げてなくてもジジイであるというだけでえらくなってしまうのだ)単なる暴言ジジイになってしまう。

 いかんいかん。
 ぼくも気を付けねば。
 あいつやあいつのように口汚い言葉ばかり使う、×××ジジイにならないように(口汚い表現なので伏せ字)。



2021年9月15日水曜日

【読書感想文】H・F・セイント『透明人間の告白』

透明人間の告白

H・F・セイント(著)  高見 浩(訳)

内容(e-honより)
三十四歳の平凡な証券アナリスト、ニックは、科学研究所の事故に巻き込まれ、透明人間になってしまう。透明な体で食物を食べるとどうなる?会社勤めはどうする?生活費は?次々に直面する難問に加え、秘密情報機関に追跡される事態に…“本の雑誌が選ぶ30年間のベスト30”第1位に輝いた不朽の名作。

 誰もが一度と言わず十度や百度は考えたことがあるであろう「もしも透明人間になったら」を小説にした作品。

 つまりアイデア自体はいたって平凡。誰でもおもいつくアイデア。
 透明になった理由も「研究所の事故」で、なぜ透明になったのかはまったく説明されない。「透明になった経緯」にもまったく新しい試みはない。
 正直、主人公が透明になるまではなんとも退屈な小説だった(またそこまでが長いのだ)。


 だが透明人間になってからは精緻な描写と、透明人間を追う政府組織(おそらくFBI)VS逃げる透明人間というサスペンス展開になってようやくおもしろくなる。

精神を集中しようとして、両目をつぶった。ところが、なんの変化もない。目をあいているときと同じく、すべてが鮮明に見えるのだ――どんなにきつく目をつぶっても。どうなってるんだ、いったい。僕の中の恐怖心は、すでにそのとき飽和状態にあったから、胸の中にはかえって、グロテスクな好奇心が湧いてきた。派手な惨事で手足を吹っとばされる人間は跡を絶たないけれども、目蓋だけを吹っとばされた人間の例なんて、聞いたことがない。体のバランスを保つために左手を床についたまま、おずおずと右手を顔にのばした。指先で、そっと目の周辺をさぐってみる。ちゃんと眉毛がある。焼け焦げてはいない。こんどは人差し指で右目をさぐってみた。ある。たしかに目蓋がある。動いているのも感じられる。睫毛もまちがいなくある。

 そうかあ。透明人間になるとまぶたも透明だから、目を閉じても見えちゃうわけか。たしかになあ。
 言われてみれば当然の話なのだが、「透明人間が目をつぶったら」なんて考えたこともなかった。

 その他にも、「歯間の食べかすや爪の下の汚れがあると人目に付くので身だしなみをきれいにする」などほんとに細かい設定が随所に光る。
 ぼくが考えるおもしろい小説の必要条件として「いかにうまく嘘をつくか」というのがあるのだけど、『透明人間の告白』の語り口はほんとに見事。
「透明人間になったら爪の垢をきれいにしなきゃ」って考えたことある人いる?




 少し前に、別の透明人間の小説を読んだ。
 柞刈 湯葉『人間たちの話』に収録された『No reaction』だ。
 あれもおもしろい小説だったが、残念なことがある。「透明人間は食事をどうするか」について一切触れられていなかったのだ。

『透明人間の告白』ではきちんと答えを提示されている。

 なんたることだろう、まったく! 僕の肉体は透明でも、いや、透明であるが故に、そこに外部から摂取されるものは、当然のことながら、はっきりと見えるのだ。見方を変えれば、僕という人間は、吐瀉物と排泄物のつまった、一つの細長い袋になりつつある、ということじゃないか。考えてみれば、実は生まれたときから、僕はそうだったのだ。ただ、すべての人間に共通のその側面は――いまだから落ち着いて言えることだが――肉という不透明な衣によって隠されていたにすぎないのである。その衣が透明になってしまった僕は、この先ずっと吐瀉物と排泄物の細長い袋として生きていかなければならない。そういう思いがひらめいたとき、目の前が、文字どおり真っ暗になってしまった。

〝食べたものは外から見える。ただし消化吸収されれば己の肉体の一部になるので見えなくなる〟がこの本の解だ。

 とはいえ、その日、化学作用に関する知識がまだお粗末きわまりなかったにもかかわらず、僕は、将来の自分の食生活を支配すべきいくつかの基本的な指針をうちたてたのだった。まず第一に、なによりも重要なのは、繊維質を避ける、ということ。おそらく、繊維質の栄養的役割については、人によってなにかと異論があるだろうけれども、僕にとっては、繊維質を避けることが生存にとってなによりも肝心なのだ。それがどんな果物であれ、種子や核の類も、皮同様避けなければならない。未消化の種子は何日間も小腸や大腸に留まって、それはいやらしい光景を呈するものなのだ。野菜類の葉っぱを食べるときも、同様に細心の注意を必要とする。それとは対照的に、砂糖やデンプン類は、いまでは僕の栄養の基礎になっている。砂糖やデンプンの消化速度たるや、あきれ返るほど早いのだ。いまではお菓子の類もどんどん食べているけれども、ナッツやレーズンが中に隠れてないかどうか、注意を怠らない。主な蛋白源は肉よりも魚にたよっている。色がついているもの、着色剤を使ったものも避けている――もっとも、着色剤を使ったものより、自然な色のついている食品のほうが手に負えないのだけれども。

 朝は飲み物だけ、食べるのは夜寝る前。食べるものはなるべく透明なもの・消化の良いもの。そういったことに気を付けなくてはならないのだ。透明人間もたいへんだあ。




 こういった細かい設定の描写は一級品だったが、物語としては二流以下。

「追手から逃れる透明人間」というのが大筋なのだが、追手側はそんなに悪い人間じゃないんだよね。透明人間を味方につけようとしているだけなんだからそんなに敵視する必要あるか?

  むしろ透明人間である主人公のほうが、危害を加える気のない相手を銃撃したり放火したりするヤバいやつ。

「危険な追手から逃れる善良な主人公」ならサスペンスになるが、「常識的な追手から逃れる危険な主人公」では、どっちに感情移入していいのかわからない。ピカレスク小説といえるほど主人公は悪人でもないし。中途半端。

 また中盤は、透明人間になった主人公ががんばってリモートワークしたりしてて、「何やってんの?」という気になる。
 透明人間になったのになんで会社員続けてるんだよ! 透明人間になったらまじめに働いて金稼がなくていいだろ。


 また逃避行中にはいろいろ不便を強いられる。買い物もできない。夜寝るところもなかなか見つけられない。

 でもそれは単独逃避行をおこなうからだ。協力者を見つければあっさり解決できる問題だ。協力者だって透明人間を味方につければいろいろ便利なことはあるんだからお互いにメリットのある関係を築ける。

 なのに主人公はそれをしない。ずっとひとりで逃げつづける(そのわりにはニューヨークから出ようとしない)。
 かつての知人はすべて〝組織〟の捜査網に含まれているからしかたないにしても、新たな協力者をつくることもできるだろうに。

 そのせいで、逃げても逃げても〝組織〟に追われる主人公。中盤はこのくりかえしなので退屈だ。読んでいてもどかしい。さっさと協力者を見つけろよ。

 で、終盤やっと協力者をつくることに成功するのだがそれがまた唐突。初対面(透明人間なので向こうは対面すらしていない)と女性と一瞬で恋人関係になってしまう。えええ。透明人間と一瞬で恋人になれる女性ってなんなのよ。そっちのほうが摩訶不思議だわ。

 細かいところは細かいのに、このへんはものすごく雑。

 上下巻のボリュームある小説だけど、無目的な右往左往やくりかえしが多いので、この半分の分量でよかったのにな。

 昔の作品を今の基準で評価できないとはいえ、それにしても“本の雑誌が選ぶ30年間のベスト30”第1位は不当に評価が高すぎるとおもうな。
 おもしろくないわけじゃないけど、これが30年間のトップってことはないだろ……。


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2021年9月14日火曜日

【ボードゲームレビュー】ラビリンス

 

ラビリンス

 小学二年生の娘のために買い、娘といっしょに毎週やっているボードゲーム。
(二歳の娘も『カードを渡す係』をして楽しんでいる)

 迷路を通って宝物を全部手に入れスタート地点に早く帰ってきた人が勝ち、というゲーム。

 おもしろいのは、ターンごとに迷路の形が変わること。
 複数のピースによって迷路は構成されていて、ピースは一枚余る。その余ったピースを迷路に差し込むと迷路は形が変わる。そして入れたところの反対側からピースが一枚押し出される。
 次の人はそのピースを別の場所に入れる(元あった位置に入れることは禁止)。
 これをくりかえすことで、迷路はどんどん形を変える。四人でプレイすると自分のターンが再びまわってくる頃にはまったく別の形となっている。


「どうやったら自分が狙っている宝までの道を作れるか」
「他のプレイヤーは何を狙っているか」
「他のプレイヤーの邪魔をするにはどうすればいいか」
など、頭を使う要素もありつつ、運の要素もある。思わぬ経路で宝までの道がつながったり、たまたま他のプレイヤーが道をつなげてくれたりする。狙う宝がすぐ近くにあって、はじめから道がつながっていることもある。

 頭脳戦と運のバランスがいい。子ども相手に本気でやっても負けることもある。
 ぼくは子ども相手だからといって手を抜くことは嫌いなので(ハンデはいいが手加減はしたくない)、運の要素があるゲームはやっていて楽しい。

 

 このゲームに勝利するためには
「自分のコマが盤面の外に押し出された場合、反対側に移動する」
というルールをどう使うかがカギを握る。

 ついでのように書かれているルールだが、これをうまく活用できるかどうかで宝をとるスピードは大きく変わる。スーパーマリオブラザーズ3の2人プレイ時にできるミニバトルゲームとおんなじだね。うん、わかりやすい。


 このゲーム、数学者同士とか棋士同士で対戦したりしたらすごくおもしろいだろうな(相手が狙っている宝を開示すればなおおもしろい)。最適解を求める高度な頭脳戦が展開されて。

 シンプルなルールでありながら楽しめるゲーム。1986年発売だそうだから30年以上愛されていることになる。


 独自ルールをつくってもおもしろそう。

 たとえば「宝箱を手に入れたらもう追加でもう一回できる」とか「お化けを手に入れたら他のプレイヤーの宝を一枚リセットさせることができる」とかすれば運の要素が強くなる。
(続編ではこんな感じのルールが取り入れられているそうだ)

 逆に、本来は「一枚ずつカードをめくって次に手に入れる宝を確認する」というルールだが「いっぺんにカードをめくることができ、どのような順番で宝をとってもいい」というルールにすれば戦略性が増す。

 シンプルであるがゆえにいろんな遊び方ができるボードゲームだ。


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