2020年11月11日水曜日

【読書感想文】本を双眼鏡で探す家 / 磯田 和一『書斎曼荼羅 1 本と闘う人々』

書斎曼荼羅 1

本と闘う人々

磯田 和一

内容(e-honより)
有名作家や翻訳家、脚本家、大学教授といった、日頃本と闘っている職業人を取材し、その状況をイラストで紹介。

 京極夏彦、佐野洋、大沢在昌、山田風太郎など、本に関わる人々の〝書斎〟をイラストと文章で紹介した本。

 妹尾河童氏が『河童が覗いた〇〇』というシリーズの連載をやっていたが、あんな感じ。


 ぼくも学生時代は数千冊の本を所有していて、本棚に入りきらないので段ボールに入れて押し入れに積みあげていたら押し入れの中板がひしゃげてしまったことがあった。

 自分もなかなかの蔵書家だとおもっていたが、『書斎曼荼羅』を読むとぼくの蔵書なんて富士山のふもとにある公園の砂山ぐらいのレベルだったと思い知らされる。

 しょっぱな(関口苑生氏・書評家)から、「本が多すぎてストーブが置けないのでガスコンロをつけっぱなし」「本が多すぎることが原因で妻が出ていったので広いマンションに引っ越す(が、引っ越し先でもやはりすぐ本だらけになる)」という強烈なエピソードに仰天される。

 すげえ……。
 しかしガスコンロつけっぱなしとかあぶなすぎるだろ……。これだけ本があったら一度火が付いたらあっという間に燃え広がるだろうし。


 阿刀田高(作家)のエピソードもすごい。

「すごく高い本棚をつくったが、上のほうのタイトルが見えないので本を探すときは双眼鏡で探す」というもの。

 絵があるけど、高い本棚がずらりと並んでいて、図書館みたいな書斎。いや図書館よりもはるかに本の密度は高い。




 いちばん度肝を抜かれたのは、翻訳家・評論家の藤野邦夫氏。


 なんと床に本が敷きつめられているのだそうだ。
 これはどうなんだろう……。たいていの本好きなら、どんなに本が家にあふれかえっててもぜったいに「本に乗る」ということはしないとおもうが。
 こういうことできる人もいるんだなあ。ぼくはこの家に入りたくない。




 井上ひさし氏の『本の運命』というエッセイに、こんな文章が出てきた。

 一番買い込んだのは、朝日新聞で文芸時評をやってた頃でした。たまたまその頃、僕の『吉里吉里人』がびっくりするほど売れて、印税がどんどん入ってきたせいもあった。
 気が大きくなって、「よしっ、世の中に出てる本で、文芸時評の対象になりうるものは全部買ってみよう」と決意して、一年間続けました。出入りの本屋さんに、小説と評論と漫画をとにかく全部取ってくれと頼んで。これは月に四、五百万円かかりました。
 お陰で、印税は本代で消え、税金を払うために借金をして、払い終わるのに五年ぐらいかかったでしょうか。これがきっかけで、本がたくさん売れるのが怖くなった(笑)。
 さすがにこんな買い方は続きませんでしたが、いまでも本代が月に五十万円ぐらいになるでしょうか。ですからうちの、エンゲル係数じゃなくて、本にかかる係数はかなり高い(笑)。

 上には上がいるものだ。

 本の重みで床が抜けた、なんて話を聞くとあこがれると同時にちょっとあこがれる。
『書斎曼荼羅』に出てくる人たちは、地震で本に埋もれて死んだらむしろ本望なんだろうな。

 しかし最近は電子書籍が普及したからねえ。本をたくさん読む人ほど電子書籍のほうがメリットあるからね。もうこんな書斎もなくなっていくんだろうね。


【関連記事】

【読書感想エッセイ】 井上ひさし 『本の運命』

ショールームとエロ動画の本棚



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2020年11月10日火曜日

【読書感想文】多数決のメリットは集計が楽なことだけ / 坂井 豊貴『多数決を疑う』

多数決を疑う

社会的選択理論とは何か

坂井 豊貴

内容(e-honより)
選挙の仕組みに難点が見えてくるとき、統治の根幹が揺らぎはじめる。選挙制度の欠陥と綻びが露呈する現在の日本。多数決は本当に国民の意思を適切に反映しているのか?本書では社会的選択理論の視点から、人びとの意思をよりよく集約できる選び方について考える。多数決に代わるルールは、果たしてあるのだろうか。

集団内で何かを決めるときにいちばんよく使われるやり方、それが多数決。
ぼくらはあたりまえのように多数決を使っている。
クラスの委員を決めるのも多数決だし、数人で昼飯に何を食うか決めるときにも使うし、選挙だって多数決だ(比例代表は違うけど)。

そして多数決は強い。
多数決の結果に異を唱えるのはむずかしい。
「多数決で決まったんだから文句言うなよ」という空気が醸成されてしまう。
「自民党が与党なのはおかしい!」と言おうもんなら「公正な選挙で民主的に決まったことにいちゃもんつけるな!」と言われるだろう。


だが、ちょっと待ってほしい。
多数決ってほんとに公正なのか。ほんとに民主的な手段なのか。
そんな疑問がずっとあった。

『多数決を疑う』を読んではっきりわかった。
多数決は公正でも民主的でもない。何かを決めるにあたって、ぜんぜんいいやりかたじゃない。




たとえば X、Y、Zという候補者がいたとする。

10人中4人は X > Y > Z ……①
10人中3人は Y > Z > X ……②
10人中3人は Z > Y > X ……③

という順で候補者を支持している。
「XとYのどちらを支持しますか?」という質問をされたら、10人中6人がYを選ぶ(②と③のグループ)。
「XとZのどちらを支持しますか?」という質問をされたら、10人中6人がZを選ぶ(②と③のグループ)。

XはYよりもZよりも支持されていないわけだ。
「三人の中で誰がいちばんイヤですか?」と尋ねたら、10人中6票を獲得してXが1位になる。
ところが、3人の候補者の中から1人選ぶ多数決だと、選ばれるのは4票を獲得したXになる。

いちばん嫌われているXが当選する。それが今の日本の選挙でも用いられる「多数決」なのだ。


こういう逆転現象を防ぐ基準を「ペア敗者基準」と呼ぶ。複数候補者からペアをとりだして比較したときに他のあらゆる選択肢に負けてしまう選択肢のことを「ペア敗者」と呼び、ペア敗者が勝利しないルールが「ペア敗者基準」だ。
多数決はペア敗者基準を満たさない。

ペア敗者基準を満たす投票ルールはいくつかあるが、その中のひとつは「ボルダルール」だ。
3人が立候補した場合、1位に2点、2位に1点、3位に0点をつける方式だ。
これだとペア敗者が勝利することはありえない。

この本では他にも「コンドルセ・ヤングの最尤法」「決選投票付き多数決」「繰り返し最下位消去ルール」などが紹介されているが、個人的には「ボルダルール」がもっともすぐれているようにおもう(理由はいちいち書かないのでこの本を読んでほしい)。
わかりやすいし、多数決に比べればずいぶん公平だし。姑息な企てにも強いし。




『多数決を疑う』ではいろんな方式が紹介されているが、いろいろ読んだ上でおもうのは「ベストな方法なんてない」ということだ。

万人が納得する方法など「満場一致になるまで全員で徹底的に話しあう」しかないが、もちろんこんなことは現実的に不可能だ。
またシンプルかつ公正なやりかたを追求していけば、独裁制につきあたる。独裁制は1/1の満場一致で決めるのだからきわめて公正だ。だがもちろんこれがいいやりかただとおもう人は少ないだろう。

ベストな方法などない。
でも、「まだマシな方法」はある。
多数決は欠点だらけで、「まだマシな方法」ですらない。

多数決のメリットは「とにかくシンプル」であることぐらいだ。
集計が楽、バカでも仕組みがわかる。ほとんどそれだけだ(「危険防止性」とか「中立性」もあるけど)。

だから幼稚園児がお遊戯会の主役を決めるときには向いているし、集計手段や通信や交通の制約の多かった時代に多数決制を採用することにも、いたしかたのない面はあった。

しかし、これだけ計算機も情報伝達手段も発達した今、公正に代表を選ぶべき選挙で多数決を使いつづける理由はまったくないと言ってもいい。

以前「汚い手で選挙に勝つ方法」という記事を書いたが、こういう手が通用するのも多数決だからだ。ボルダルールならこの手は使えない(むしろ逆効果になる)。

結局、今でも多数決が使われているのは「集計が楽」「小学校のときから使っているから」という集計側の都合でしかない。
民意のことを少しでも考えれば多数決にはならない。




そもそもさ。

ごく一部の層だけから熱狂的に支持されている候補者と、大半の有権者が「こいつなら悪くないとおもわれている候補者、どっちがいい政治をできるだろうか。
正解はないが、ぼくは後者だとおもう。

三割から熱狂的に支持されていて七割から蛇蝎のごとく嫌われている候補者/政党が、全国民のためにいい政治をするとおもう? ぜったいしないでしょ。どう考えたって支持母体に利益誘導するだけでしょ。
でも多数決制度だとそういう候補者が当選しちゃうんだよね。

 どの集約ルールを使うかで結果がすべて変わるわけだ。「民意」という言葉はよく使われるが、この反例を見るとそんなものが本当にあるのか疑わしく思えてくる。結局のところ存在するのは民意というより集約ルールが与えた結果にほかならない。選挙で勝った政治家のなかには、自分を「民意」の反映と位置付け自分の政策がすべて信任されたように振る舞う者もいる。だが選挙結果はあくまで選挙結果であり、必ずしも民意と呼ぶに相応しい何かであるというわけではない。そして選挙結果はどの集約ルールを使うかで大きく変わりうる。

今の日本の選挙はほとんどが多数決であり、多数決は民意を正確に反映しない。
すなわち、今の首長や議員は民意によって選ばれたものではない。「自分が有利になるいびつなルールで勝ち上がった者」だ。

もちろんそれは政治家のせいではない。制度が悪いだけだ。
だから恥じる必要はない。
だが「民意によって選ばれた」などと思いあがってはいけない。
「集計が楽なだけの、民意を正確に反映しない多数決という制度」によって暫定的に立法権を受託されているだけなのだから。

わかってます?


しかしさあ。
そろそろ国民投票でもして、多数決に代わる選挙方法を決めようぜ。
もちろん、多数決以外のやりかたで!

 

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小選挙区制がダメな99の理由(99もない)/【読書感想エッセイ】バク チョルヒー 『代議士のつくられ方 小選挙区の選挙戦略』

選挙制度とメルカトル図法/読売新聞 政治部 『基礎からわかる選挙制度改革』【読書感想】



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2020年11月9日月曜日

制帽自由化とへそまがり

 ぼくの通っていた中学校には「男子は制帽をかぶること」という校則があった。

 ダサいし、夏は暑いし、汗を吸ってくさいし、セットした髪型はくずれるし、いいことなどひとつもない制帽。
 当然ながら生徒からの評判は最悪。
 だが校則は校則なので、(少なくとも教師の前では)みんなかぶっていた。

 ひとつ上の学年に、Kというまじめな生徒がいた。
 Kは生徒会選挙で風紀委員長に立候補した。公約は「制帽の自由化」。
 彼はめでたく風紀委員長に当選し、公約を実現するため学校側と交渉を重ねた。制帽があるのは市内でもうちの学校だけです、規律と制帽に関係がないじゃないですか、無意味なルールは変えていくべきでしょう、と。

 学校側もKの熱意に心を動かされたらしい。
 だからといって「じゃあ校則を改正します」とあっさり認めてしまうのも教師としては示しがつかない。
「じゃあ制服もやめてください」「じゃあ髪の色も自由に」とどんどん規則が緩んでいけば風紀が乱れる、という懸念もあった。
 そこで学校側が出した条件は「校則違反が大きく減れば制帽は廃止しよう」。

 学校からの条件を引きだした風紀委員長・Kは生徒全員に働きかけた。
「規則を緩めても風紀は乱れないと教師から信用してもらうために今は耐えようじゃないか」

 ヤンキーたちの反発もありながらも、Kの活動の甲斐あって、校則違反は減少した。
 そして数か月後。朝礼で、偏屈な校長は言った。
「風紀委員長のKくんを筆頭に、みんなよくがんばってくれた。校則違反は大きく減少した。約束通り制帽は自由化しよう」

 わっとみんな喜んだ。
 だが三年生だけは複雑な顔をしていた。なぜなら校長が制帽自由化を宣言したのは二月。
 三年生がその恩恵にあずかれるのはたった一ヶ月だけ。
 おれたちはここまで我慢したのになんで後輩ばっかり……そうおもった三年生も少なくなかっただろう。
 ちなみに制帽自由化に向けて尽力していた風紀委員長Kも三年生。彼もまた、自由化の恩恵にはほとんどあずかれないまま卒業していった。




 さて、Kの一学年下にたいへんへそまがりな男子生徒がいた。ぼくだ。

 ぼくは制帽自由化が施行された日以降も、制帽をかぶって登下校した。
「自由化ってことは、かぶらない自由もあるしかぶる自由もあるってことだろ」と言って。

 もちろん制帽をかぶっているのはぼくひとり。
 友人からは「おまえなんで制帽かぶってるんだよ」と冷やかされ、教師からも「もうかぶらなくてもええんやで」と言われながらも、「人とちがうことをしたい」という一心でいかぶりつづけた。

 その春入学した一年生にいたっては制帽の存在すら知らないわけだから「なんであの人だけ変な帽子かぶってるのに許されてるんだろ?」とおもっていたにちがいない。
 後で聞いた話では「あの人は投薬の副作用で髪の毛が抜けているのだ」という噂まで流れていたらしい。

 ある日、社会科教師のテシマ先生がみんなの前でぼくのことを褒めた。
「彼はひとりだけ制帽をかぶりつづけている。この姿勢はすばらしい。制帽をかぶらないことも新しく手にした権利なら、かぶることも権利。彼は権利を正しく行使し、権利を主張している。かぶりたいとおもったら、たとえ学校にひとりであっても実行する。周囲に流されない姿勢はすばらしい」
と。

 いや先生、ぼくも制帽をかぶりたいわけじゃないんです、暑いしダサいからほんとは嫌いなんです、ただひねくれものなだけなんです、学校にひとりであっても実行してるんじゃなくて学校にひとりだから実行してるだけなんです、権利とかどうでもいいんです……とは言えなかった。



2020年11月6日金曜日

【読書感想文】取り越し苦労をおそれるな / 石川 拓治『37日間漂流船長』

37日間漂流船長

あきらめたから、生きられた

石川 拓治

内容(e-honより)
武智三繁、50歳、漁師。7月のある日、いつものように小さな漁船で一人、長崎を出港。エンジントラブルに遭遇するが、明日になればなんとかなるとやり過ごす。そのうち携帯電話は圏外となり、食料も水も尽き、聴きつないだ演歌テープも止まった。太平洋のど真ん中で死にかけた男の身に起きた奇跡とは? 現代を生き抜くヒントが詰まった一冊。

長崎県を出港した後、船のエンジントラブルにより漂流。
食べ物も水も尽きたが、海水を蒸留させて水滴をなめて命をつなぎ、出港から37日目に千葉県沖の太平洋のどまんなかで救助された……。

と、なんともドラマチックな実話を文章化したもの。

壮絶な体験のはずが、あまり緊張感がない。
文章のせいもあるだろうが、漂流した武智さんの語り口のせいもあるだろう。
なんだかずっとユーモラスだ。




武智さんが漂流しはじめたとき、まだ携帯電話の通じる場所にいた。
だが彼はエンジンメーカーに電話をしただけで、知り合いや海上保安庁などに助けを求める電話はしていない。

 独り身とはいえ、武智の身を案じる人間、兄弟や親戚のことも少しは考えろという友人の言葉は重い。
 武智もいまになって、そのことは後悔しているのだが、それでもやはりあのときの自分は、どうしても携帯電話をかけるつもりにはなれなかったと言う。
 まず、彼自身には、まだ遭難したという意識はなかったから。
 そして何よりも、彼の人柄がそれをさせなかった。友人も言っているように、武智は極端と言っていいくらい遠慮深い。
 武智が連絡をしなかった最大の理由は、そこにあった。

どう考えたって判断ミスなのだが、でもこの気持ちはよくわかる。
ぼくが同じ立場でも、やっぱり通報をためらってしまうかもしれない。
「大事にしたくない」という気持ちがはたらいちゃうんだよね。

だが、仕事でもそうだけど、たいていの問題は自分ひとりで抱えてなんとかしようとするとかえって大事になる。
ぜったいに早めに相談したほうがいい。
「なんでもっと早く言わなかったんだ!」と言われることはあっても「こんなつまらないことで相談するな!」と怒られることはあまりない(そういう上司も存在するんだろうが、その手の人はどっちみち怒るのでやっぱり早めに相談しといたほうがいい)。

ぼくは今までに三度緊急通報をしたことがある。
一度は成人式で友人が酔っぱらったヤンキーにからまれて殴られていたとき、二度めはひとり暮らしで夜中に高熱を出したとき、三度めは猛烈にキンタマがいたくなったとき(→ 睾丸が痛すぎて救急車に乗った話)。

結果的に三度とも大したことはなかった。
友人は一発殴られただけでヤンキーは立ち去ったし、熱はすぐに引いたし、キンタマもたいした病気ではなかった。

ただ、警察官にも救急隊員にも医師にも「こんなことで緊急通報をしないように」とは言われなかった。
まあ通報があれば駆けつけるのが彼らの仕事だし、「暴行」「高熱」「急所の痛み」は一歩間違えれば命にかかわってもおかしくないことだからだ。

やばいことになる予兆があれば、早めに助けを求めたほうがいい。
取り越し苦労でも怒られたりしないから。




ふつうに考えれば、小さな漁船で37日間も太平洋を漂流していたらまず生きられない。

武智さんが生き延びられたのは、運が良かったのもあるし(食べ物や飲み物を多く積んでいた。台風でも転覆しなかった)、幼いころから漁師をやっていた経験や技術のおかげでもある(魚を釣ったり釣った魚を干して保存したりしている)。

だが、彼が生き延びたいちばんの決め手は強い精神力にあったんじゃないだろうか。

 漂流がしばしば悲惨な結果に終わるのは、物理的な要因だけではない。いやむしろ、心理的な側面がかなりのウエイトを占めている。水や食料などの物質的な欠乏よりも前に、恐怖感やストレスに蝕まれた心がカラダを死に追いやるのだ。
 武智は度重なる危機の局面で、驚くべき自然さで、心の平衡を保つための行動をとっている。それは高度なマインドコントロールとでも言うべきものだ。
 もっとも武智は、そういう言葉を使うことを好まないのだが。
「そういう難しい話じゃなくてさ、俺はただ自分が楽でいられるように、肩ひじはらずにいられるように、やりたいことやってただけだよ」
 おそらく武智の言うとおりなのだろう。けれど、私はその話を聞いて想像をめぐらせたものだ。江戸時代の船乗りたちは、何を想いながら漂流したのだろう、と。彼らも、生き延びたからには、武智と同じような経験をしたに違いないのだ。
 武智は、石けんやシャンプーの匂いをかいで、楽しんだりもしたと言う。

ふつうなら、仮に飲み物や食べ物があったとしても太平洋の真ん中をひとりで漂っていたら発狂してしまうんじゃないか。

見渡す限りの海。周囲には何も見えない。たまに飛行機や大型船舶の姿が見えても、向こうはこちらに気がつかない。船にあるのは有限の食糧と水。確実にある死に向かって近づくだけの日々。
この状態で一ヶ月。平静を保てる自信がない。
ぼくだったら早めに食糧を食べつくして海に身を投げてしまうかもしれない。

この状況を少し楽しむ余裕がある武智さんはすごい。
ただ石けんやシャンプーの匂いを楽しむって、もうちょっとおかしくなっているような気もするが……。


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2020年11月5日木曜日

【読書感想文】名盤アルバムのような短篇集 / 津村 記久子『浮遊霊ブラジル』

浮遊霊ブラジル

津村 記久子

内容(e-honより)
定年退職し帰郷した男の静謐な日々を描く川端康成文学賞受賞作(「給水塔と亀」)。「物語消費しすぎ地獄」に落ちた女性小説家を待ち受ける試練(「地獄」)。初の海外旅行を前に急逝した私は幽霊となり旅人たちに憑いて念願の地を目指す(「浮遊霊ブラジル」)。自由で豊かな小説世界を堪能できる七篇を収録。

名盤のアルバムのような短篇集だった。

冒頭に収められている『給水塔と亀』は、久しぶりに故郷に戻った男がただ静かに新生活の準備をするだけの話で、決して悪くはないんだけどおもしろいわけでもなく、この手の志賀直哉っぽい短篇ってあんまり好みじゃないんだよなー、一篇ぐらいだったらいいけどこの感じがずっと続くのは正直退屈だなーとおもっていたのだが……。


ところが『うどん屋のジェンダー、またはコルネさん』から様相が変わってくる。
明るい店主のいるうまいうどん屋。その情景を淡々と描写していたかとおもうと、どうやら店主が明るく話しかけるのは女性に対してだけらしく、おまけに常連と新規客とでずいぶん対応が異なることに主人公が気づき……。

この不穏な感じ、すごく共感できる。
いるよね。女性にだけ優しく接する気のいいおっちゃんとか、常連客と新規客への扱いの差が大きい店主とか。
いやいいんだけど。私営企業だから好きにしたらいいんだけど。
べつにこっちだっておっさんになれなれしく話しかけてほしいわけじゃないんだけど、でもやっぱり「自分だけぞんざいに扱われる」というのは気分が悪い。
だからといって声を上げるのも、嫉妬しているようでイヤだ。
声を上げるほどイヤじゃないけど、何度も味わうのももやもやする。

「女性にだけ優しいおっちゃん」って、男からみても不快だし、たぶん当の女性から見ても気持ち悪いとおもう。
よく行く店の店主ぐらいの関係性だったら、格別に低く扱われるのイヤだけど、不当に好待遇を受けるのもイヤだ。
昔はよくあった「いつもありがとうね、安くしとくよ」「奥さん美人だからおまけしちゃお」系の個人商店が廃れたのは、贔屓されない側と贔屓される側の両方から嫌われたからじゃないかとぼくは睨んでいる。


アイトール・ベラスコの新しい妻』は、学校でいじめられていた子、いじめられていた子と仲良くしていた子、いじめていた子、三者それぞれの人生が描かれる。
いじめられていた子が有名サッカー選手と略奪結婚したり、いじめていた子が夫の不倫に悩まされたり、わかりやすい一発逆転ではなくなんともいえない立場に置かれているのがいい。
世間には「かつていじめられていました」という告白があふれているが、「かつていじめていました」はほとんど聞かれない。いじめられていたのと同じ数だけあるはずなのに。
だからこそ小説で書く意義がある。しかしこの短篇で描かれるいじめっ子は、ちょっとわかりやすすぎるな。「わたしは弱い者を見つけて攻撃している」という自覚がある。ほんとのいじめっ子の心理ってそうじゃないとおもうんだよな。自分は悪くないとおもってるはず。だからこそ、「いじめられていた」告白と「いじめていた」告白の数がぜんぜんちがうわけで。


そして『地獄』はすごかった。
ここで描かれる地獄は比喩ではない。死んだ後に落ちる、文字通りの地獄だ。

 私とかよちゃんがいったいいくつで死んだのかについては、地獄に来た今となってはよくわからない。地獄では、その人物が最も業の深かった時の姿で過ごさなくてはならないからだ。私は、三十四歳の時がいちばん業が深かったらしく、ずっとその時の姿で過ごしている。かよちゃんとは、各地獄への配属の列に並んでいた時以来一度も顔を合わせていない。かよちゃんはたぶん、別の地獄にいるのだ。列に並びながら、私とかよちゃんは、列を仕切っている鬼の鼻毛がものすごく出ているという話で激しく盛り上がっていたのだが、それが相当うるさくて周りから苦情でも出たのか、鬼はかよちゃんを別の列に並ぶように促し、かよちゃんは五十日近く渋ったのち、「でも鬼の人も仕事だし、悪いよな」という結論のもと、最初に並んでいた列を離れていった。その時は、まあなんだかんだでそのうち会えるだろう、と私はイージーに考えたのだが、見込み違いだったのか、かよちゃんにはまだ会えていない。会いたいな、とときどき思うのだけれども、地獄でこなさなければいけない試練プログラムのサイクルが厳しい時などは、自分にあてがわれたタスクを処理するので手一杯なので、まあ、身が引きちぎれるほどではない。他の地獄のことはよくわからないが、私のいる地獄は、かなり忙しい方だと思う。忙しいというか、目まぐるしい。それは私が現世で背負った業のせいなのだが。

こんな感じで地獄での生活がひたすら描写される。
やけに生々しくて、けれどところどころぶっとんだ発想が混じっていて、上質のコントのようでおもしろい。
地獄なのにやけに現世っぽい。いや、現世こそが地獄なのか。

落語の『地獄八景亡者戯』のようなスケールの大きな地獄話だった。



運命』『個性』はちょっと概念的過ぎて個人的に性に合わなかった。

浮遊霊ブラジル』もまた死後の世界。
アイルランド旅行を楽しみにしていた男性が、旅行の直前に死んでしまう。
アイルランドに行かないと成仏できないので出かけようとするが、乗り物はすり抜けてしまうので飛行機にも船にも乗れない。
だが他人の中に入れることを発見し、アイルランドに行きそうな人を探しているうちになぜかブラジルへ行ってしまい……。

これもドタバタコントのような味わい。


津村記久子さんの小説ははじめて読んだが、〝自由な小説〟という感じがしてなかなかよかった。

おとなしい幕開けから徐々に盛りあがってきて、実験的な短篇が並び、最後は集大成のような壮大なストーリー。
うん、ほんといいアルバムのような短篇集だった。


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