2020年10月6日火曜日

【読書感想文】サンプル数1もバカにできぬ / 雨宮 処凛『ロスジェネはこう生きてきた』

ロスジェネはこう生きてきた

雨宮 処凛

内容(e-honより)
派遣切り、ワーキングプア、いじめ、自傷、自殺…。こんなに若者たちが「生きづらい」時代があっただろうか。ロスジェネ=就職氷河期世代に属する著者が、生い立ちから現在までの軌跡と社会の動きを重ね合わせ、この息苦しさの根源に迫った書き下ろし力作。ロスジェネは何を思い、何を望んでいるのか?若者だけではなく全世代、必読の書。

こういってはなんだけど、意外とおもしろかった。

時代ごとの事件や流行語とともに、著者の半生が語られる。
ただ、語られるのが「親からの、勉強しろ、いい学校にいけ、いい会社に入れというプレッシャー」「クラスメイトからのいじめ」「部活での先輩からのしごき」「バンドにはまって追っかけをした」とかなので、
「あー本人にとっては深刻なことだろうねー。でも世の中には掃いて捨てるほどある話だよねー」
みたいな感じで読んでいた。
だいたいサンプル数1かよ、たった一人の人生をもとに世代を語るなよ、とおもいながら。

ところが、読み進むにつれて、いやいやこれはけっこう時代を濃厚に映しているぞ、サンプル数1でも世代を語れるな、という気になった。


まちがいなく時代の一面はこの人に投影されている。
きっと10年早く生まれても、10年遅く生まれても、まったく違った人生を歩んでいたはず。
少なくともライター・雨宮処凛は存在していなかった。
個人の人生を語っていたはずなのに、いつの間にか時代が語られている。

香山 リカ『貧乏クジ世代』が大ハズレの本だったので( → 感想 )、「この世代について語った本は貧乏クジだらけだな」とおもっていたのだが、ごめんなさい、そんなことなかった。
『ロスジェネはこう生きてきた』のほうは骨のある本だった。




ちなみにぼくは1983年生まれ。
ロスジェネ世代(ロスト・ジェネレーション世代)ではない。
人によってロスジェネの定義はばらばらだが、だいたい団塊ジュニアの1975年生まれぐらいだそうだ。
雨宮処凛さんは1975年生まれなのでドンピシャだ。

たしかにロスジェネは気の毒な世代だ。
団塊ジュニアなので競争は激しく、親世代からのプレッシャーは大きい。
学生時代はバブルを横目で見ていたのに、自分たちが社会に出るときはバブルがはじけて超氷河期。
なかなか就職できず、やっとできてもブラック企業。またはフリーターや派遣社員。
過酷な時代を生きてきた世代だ。

「失われた世代」、それは自分の世代の気分を象徴する言葉だった。私たちの世代の多くはまず「就職」から弾かれ、フリーターなど不安定雇用を続けることで「人並みの生活」も失っていた。そしてそんな生活から脱出できる機会さえも奪われ、このまま行けば団塊世代の親が持つものの何一つも手に入れられないことを漠然と知っていた。たとえば「結始すること」や「家庭を持つこと」「子どもを育てること」、そして「三〇年ローンを組んだ一戸建て」など。一体誰がフリーターに住宅ローンを組ませてくれるだろう。そして一体誰が月収十数万円の生活がこれからも一生涯続くと薄々わかっていながら、「結婚」や「子育て」に前向きになれるだろう。運良く正社員になっても過酷な労働市場の中で身体や心を病めば、再び就業するチャンスはなかなか訪れない。

だが、ロスジェネ以降はだいたい似たようなものだ。
楽だった時代なんてない。
ぼくらが就職するときは何十社も落ちるのがあたりまえだったし、ブラック企業が横行していた。
上の世代を見ていると「ブラック企業で正社員か、非正規で不安定な暮らしか」という二択しかないようにおもえた。下の世代も似たようなもんだろう。

ただぼくら世代がロスジェネ世代とちがうのは、「はなから世の中に期待していない」点じゃないかとおもう。
あくまで傾向の話だが、ロスジェネ世代は期待していたんじゃないだろうか。
努力すれば報われる、がんばっていい学校に行けばいい会社に入れる、いい会社に入ってまじめに働けばいい暮らしができる、いい暮らしとまではいかなくても正社員になって結婚して子どもを産んで……という「平凡な暮らし」は手に入る、と。

ぼくははなから期待していない。ニュースに関心を持つようになった頃(1995年ぐらい)から、阪神大震災だ、地下鉄サリン事件だ、金融機関の破綻だ、倒産だ、リストラだ、911テロだ、というニュースを嫌になるほど見てきた。
「どれだけがんばっても運が悪けりゃ終わり」という諦めに近い虚無感を植えつけられた。阪神大震災で死んだ人も地下鉄サリン事件で殺された人も悪いことをしたわけではなかった。まじめに働いていても会社が倒産したりリストラされたりする。
大きい会社だってつぶれるし、有名な会社だからって楽なわけではない。難しい資格をとったからって一生安泰なわけではない。
「平凡な暮らし」を手に入れられるのは努力だけでなく幸運も必要だと知っている。はなから日本という国に期待していない。


だからロスジェネ世代を気の毒だとおもうのは、彼らが過酷な時代を生きてきたからではなく、彼らが「夢」や「安定した暮らし」をまだ信じていたように見えることだ。




『ロスジェネはこう生きてきた』を読むと、まさにそういう時代の空気が感じられる。
学校では過酷な競争にさらされ、「今がんばればいい生活を手に入れられる」と信じこまされ、だが社会に出ると同時に「採用数減らします、仕事は非正規しかありません、正社員で働くならどんな条件でも文句は言うな、病気になっても自己責任です、代わりはいくらでもいます」と放りだされた空気を。

働きたくても仕事がない、仕方なくフリーターになれば「自由を選んだお気楽なやつ」と言われる、景気が回復すれば「もっと若いやつ採るから君たちはいらない」と言われる、三十代になれば「なんで結婚しないんだ、子ども生まないんだ」と言われる、四十代になった今は八方ふさがり。

そんな時代を生きてきたことがこの本からは伝わってくる。

雨宮処凛さんの人生は決して典型的なものではない。
バンギャとしておっかけに生き、東京に出てフリーターになったあたりまではわりとよくある話だが、リストカットをくりかえしたり、新右翼団体に入ったり、その一方で左翼や在日外国人とも交流を持ったり、戦争前夜のイラクを訪問したり、政治活動に身を投じている。
かなりアウトローな経歴だ。
だが彼女の生き方は「ロスジェネ世代の生き方」という気がする。

自分の過去を美化するでもなく、かといって過剰に貶めるでもなく、冷静に分析している。
その行間からは、この時代を生きるにはこう生きるしかなかった、という気概が伝わってくる。




 私はそんな「オウム騒動」に熱狂していた一人だった。そもそも、地下鉄サリン事件の第一報に触れた瞬間から、「この事件を起こした人は、私の代わりにやってくれた思えない」というほど事件にのめり込んだ。どこからも誰からも必要とされない私は、その頃いつも「みんな死んでしまえ」と思っていた。そして事件後、自分と同じかちょっと上くらいの若者たちが「終末思想」で武装し、ブッ飛んだ目で修行に励むその姿に激しい衝撃を受けた。オウム信者たちは、私にないものをすべて手にしているように見えた。

ぼくはオウム騒動のときにポアだのサティアンだのといっておもしろがっていただけだが、こんなふうにシンパシーを感じていた人もいたのだ。もちろん大きな声では言えなかっただろうけど。

あれだけの信者がいたのだから当然だけど、オウム真理教のハルマゲドン思想や非世俗的な暮らしは、現状に大きな不満を抱える人たちを引きつけるものだったはずだ。

赤木智弘さんの『「丸山眞男」をひっぱたきたい--31歳、フリーター。希望は、戦争。』もそうだけど、仕事も家族もチャンスもなくなったら、望むのは宝くじか戦争か革命か生まれ変わりぐらいしかなくなるのだろう。それぐらいしか一発逆転の目はないのだから。
(残念ながら、戦争や革命が起こってもトランプの大富豪のように弱い者が強くなることはありえず、持たざるものがまっさきに犠牲になるのだけど)

雨宮処凛さんも、めぐりあわせが悪ければオウム真理教に入信していただろう。
「オウム信者予備軍」は日本中に何万人といたはずだ。たぶん今も。

オウム真理教はカルトとしてこばかにされがちだけど、暴力や破壊活動にさえ向かわなければ、今頃もっともっと大きな団体になっていたのかもしれない。




右翼団体に入っていたときの心境。

 そして団体でよく使われる「日本人の誇り」という言葉は、私を優しく肯定してくれるものでもあった。日本人の誇り。どこにも誇りなんて持てない私は、「日本人である」という一点のみで、誇りを持つことができた。そうして学校も出てしまい、「会社」にも入れず、なんとなくフリーターとして「社会」からも疎外されていると感じ、どこの共同体にも属さず、どこにも帰属していなかった私は、「国」という懐(ふところ)に優しく抱かれた。それまで教え込まれてきた「努力すれば報われる」という価値観がたかが経済によってひっくり返ったことに対する不信感は、「絶対にひっくり返らない価値観の象徴」=天皇を「発見」させた。そして「学校に裏切られた」という思いは、「学校が教えてくれない靖国史観」をすんなりと受け入れさせる下地となった。
 私と同じ頃に団体に入ってきた若者たちとの共通点と言えば、この「学校、あるいは教師に対する不信感」というものがあるだろう。

この「日本人の誇り」、ブレイディみかこさんの『労働者階級の反乱』にも似たような心境が書かれていた。
イギリスの労働者階級が仕事を奪われ、貧しい暮らしを余儀なくされている。彼らが誇れるのは「白人男性であること」だけ。
だから、移民排斥や女性バッシングなど「自分たちの権利を侵害している(と彼らがおもっている)もの」への攻撃に向かう。
「うまいことやっている白人男性」という支配層ではなく、攻撃しやすいところへ。

きっと、いわゆる〝ネトウヨ〟の多くもそうなんだろう。実際に会ったことないから想像だけど……。
世界的にナショナリズムが台頭しているのは、それだけ生きづらい人たちが多いということなんだろうな。せちがらい話だ。

でも、「おれの暮らしぶりが悪いのはおれの能力が低いせいだ」と真剣におもっていたらつらすぎて生きていけないもんね。
「おれの暮らしぶりが悪いのはあいつらがおれの権利を侵害しているからだ」と逆恨みしているほうがまだ健全かもしれない。
他責的になる人がネトウヨ化して、自責的な思考をする人が自殺に向かってしまうんだろうか。どっちにしても救われない話だ。

だとすると、リストカットやオーバードーズ(薬物過剰摂取)をくりかえしていた雨宮処凛さんが新右翼団体に入ったのもうなずける。
メンヘラと右翼は、ぜんぜん異なるようでじつはすごく近いところにいるのかもしれない。


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2020年10月5日月曜日

【読書感想文】世間は敵じゃない / 鴻上 尚史・佐藤 直樹『同調圧力』

同調圧力

日本社会はなぜ息苦しいのか

鴻上 尚史  佐藤 直樹

内容(e-honより)
生きづらいのはあなたのせいじゃない。日本社会のカラクリ=世間のルールを解き明かし、息苦しさから解放されるためのヒント。

鴻上さんの文章を読むと、よく「同調圧力」という言葉が出てくる。
鴻上さんは一貫して世間と戦っている人だ。

この本が2020年に出されたことには意味がある。
なぜなら、今ほど「同調圧力」が高まっている時代はめったにないからだ。

同調圧力が高まっている原因は、言うまでもなく新型コロナウイルス。
未曽有のパンデミックに直面し、
「おれはおれの好きなようにやるよ。だから人のことは放っておいてくれよ」
と言いづらい時代になっている。

この対談では、今の状況は戦時下だと指摘している。

鴻上 戦時下だと考えれば相似形がたくさんあります。第二次大戦中って、ミッドウェー海戦以降負け始めてからは、本当はどれぐらい損害があったかとか、どれぐらい敵を倒したかとか、ちゃんとした計測ができなくなったし、しなくなった。希望的観測だけを語り始めるようになったんです。今回のコロナ禍にしても、実際は何人が感染していて何人亡くなっているのか、PCR検査が少なくて正確には分からない。肺炎の死者とされている人のなかで何人がじつはコロナで死んでいたか、発表もされていない。実数は不明だけれど、すでに希望的観測だけが独り歩きしている状況が相似形です。
佐藤 これをメディアが何の検証もなく垂れ流している。
鴻上 まさに戦争中と同じですね。「新しい生活様式」なんて、戦時スローガンと言ってもおかしくないです。
佐藤 コロナが広がってもいいのか、他人に迷惑をかけてもいいのか、そんな危機感で人びとを脅迫しているわけです。そりゃあ「迷惑かけていいのか」と問われて、「構わない」と返答できる人は少ない。戦争中と同じで異論を言うだけで非国民扱いされるでしょう。こうした空気にメディアの多くも無批判に乗っかる。テレビなんて、どの局も同じことしか言ってないじゃないですか。生活を変えろとか、いまは我慢すべきだとか、説教ばかりをくりかえす。

ぼくは数年前にテレビのニュースやワイドショーを観ることをやめたのでわからないが、漏れ聞こえてくる話ではなかなかのパニック状態だったらしい。

やれトイレットペーパーが買い占められただの、やれどこどこの誰それが感染しただの、感染者はどこで遊んでただの、どこの店はこの状況にかかわらず営業しているだの、かなり暴走していたそうだ。

人権よりも法律よりもコロナ対策のほうが大事。
そりゃあ命より大事なものなんてないけど、「感染したらぜったい死ぬ」ってわけじゃない。
そうかんたんに人権を預けてしまっていいの? その天秤、ちょっと「コロナ対策」側に偏りすぎじゃない?
とおもうことも多々あった。

こんなに同調圧力が強くなったのは戦後初めてのことだろう。

〝世間〟がパンデミックを機に暴走したというか。
いや、元々潜んでいた〝世間〟の凶暴さがパンデミックで明るみに出たといったほうがいいかもしれない。




この対談中で、鴻上さんと佐藤さんは〝世間〟が強いことを問題視している。
うなずけることも多いが、ぼくとしては「世間を敵視しすぎじゃないか」という気もする。

理由のひとつには、ぼくが現在〝世間〟でそこそこうまくやっていけていること。
サラリーマンで、結婚して家族がいて、日本人で、男で、異性愛者で、特に変わった性嗜好もなく(ちょっとはあるけど)、だいたいの面でマジョリティの側にいるので〝世間〟と衝突する機会が少ないこと。

もうひとつは、器質的にそもそも〝世間〟の眼があまり気にならないこと。
ぼくは学生時代、冬でも浴衣でうろうろしたり、ドラえもんのバカでかいバッグをぶらさげて通学したり、制服は学ランなのにひとりだけネクタイをしていたり、枕持参で授業中に居眠りしてわざと怒られたり、要するに「変わったことをして目立ちたい」人間だった。
どっちかっていったら〝世間〟にあえて逆らうことを楽しむタイプなのだ。だからむしろ〝世間〟があったほうが叛逆の楽しさがある。
だってハロウィンパーティーみたいに「コスプレしてもいい場」で変な恰好をしてもぜんぜんおもしろくないじゃん。みんながスーツのときにひとりだけ奇抜な恰好をするのが楽しいんじゃん。

そんなふうに〝世間〟に苦しめられた記憶の少ないぼくとしては、〝世間〟が力を持っていることも悪いことばかりじゃない、むしろいいことのほうが多いんじゃないかとおもうんだよね。


たとえば「他人に迷惑をかけてはいけない」というのが〝世間〟の教えだが、それが治安の良さにつながっている面もある。
「法に触れさえしなければ何をしてもいい」と考える人たちが跋扈する世の中よりも、「たとえ法に触れていなくても世間に顔向けできないようなことをしてはいけない」と考える人たちの世の中のほうが、特に弱者は生きていきやすい。

欧米は神の眼を意識して行動するが日本人は世間の眼を意識して行動する、とよく言われる。
だからなんだ。
神におびえて生きることがそんなにえらいもんなのかよ。神なんてひとりひとりの心の中にいるもんだろ。
自分勝手な神を心に住まわせてるやつは自分勝手に生きてていいのかよ。
それよりは、ときには実際に牙をむくことのある〝世間〟のほうがまだ信用できるんじゃないか?
それとも神は唯一の存在だから自分勝手な神の存在は認められないのか? それこそ同調圧力じゃないの?


〝世間〟が強い国は、多数派でいるかぎりは生きやすい国だ。
〝個人〟が強い国のほうが、マイノリティでも生きやすいかもしれない。その代わり、他の人がちょっとずつ不便を強いられる。

それぞれ一長一短あるし、それぞれにあった処世術がある。〝世間〟が弱くなればいい、と単純に言えるものではないとおもう。




問題は〝世間〟が強いことではない。

佐藤 日本で犯罪はどのように捉えられるかというと、「法のルール」に反した行為であると同時に、もっと大きいのは共同体を毀損する行為だということです。つまり「世間」という共同体を壊す、そうした行為なんです。罪を犯すことによって「世間」あるいは共同体の共同感情を毀損すると。だから犯罪はみんなを不安にさせる、共同感情が犯されるといったことになる。
鴻上 なるほど。みんなを不安にしたじゃないか、といったかたちで非難されるわけですか。
佐藤 もっと分かりやすく言えば、みんなに迷惑をかけたじゃないか、という考え方。迷惑をかけたのだから、加害者の家族は「世間」に対して謝罪をしなければいけない。それが同調圧力になります。
鴻上 「世間」の論理ですね。「社会」を壊したのではなく、「世間」を壊したと。

〝世間〟に関して、問題だとおもうのは大きく二つ。

  • 世間からはみだした人に対して過剰に攻撃的になる人がいる
  • 世間が法律よりも強くなってしまう

教師なんか特にその傾向がある。
学校という〝世間〟を守るために暴走してしまう。
髪を染めてはいけないという校則があるからといって生まれつき髪が茶色い生徒まで染めさせる、とか。
授業の邪魔をした生徒に体罰をふるう、とか。

学校という〝世間〟のルールが法律より強いと勘違いしちゃうんだよね。
だから憲法や法律の枠をはみだしてでも学校秩序を守らせようとしてしまう。


この表現はすごく嫌いなんだけど、コロナ禍における「自粛警察」もそうだよね。自粛に応じない人に嫌がらせをする犯罪者たち。
自粛要請はできることなら守ったほうがいいけど、様々な事情で自粛できない人もいる。思想信条的にあえて守らない人もいる。
(そのふたつの間に他人が境界線を引くことはできないとおもうので以下ひとまとめにする)

まあ言ってみれば〝世間〟からのはみ出し者だよね。
そういう人が減ってくれたほうが〝世間〟としては助かる。
だから「あの人こんな情勢なのにマスクもせずにうろうろしてるわ。やあね」と眉をひそめて距離をとる。それぐらいが平均的な対応だろう。

ところが、はみ出してしまった者に対して石を投げる者がいる。車に傷をつけたり誹謗中傷をしたりする。
明らかに犯罪だ。どれだけ〝世間〟の感情に合致していようが、犯罪は厳正に処罰しなくてはならない。〝世間〟が法より上位にくることがあってはならない。
シンプルな話だ。

だが警察や司法機関が〝世間〟に忖度してしまうことがある。
メディアも法律よりも〝世間〟の肩を持つことがある。
これはいけない。
〝世間〟が、ではない。
警察や司法機関やメディアが、だ。

〝世間〟は大事。でも法はいついかなるときでも〝世間〟よりも上。
それさえ忘れなければいい、ってだけの話だとおもうけどね。

地域や会社や友人やサークルやSNSなどいろんな〝世間〟に属して、どの〝世間〟ともほどほどに距離をとってつきあっていけば生きやすいよ。
通信環境の発達で昔よりもそれがやりやすい世の中になったし。




「できるかぎり世間の眼を気にしながら生きていたほうがよい世の中になる」

「とはいえ世間の風潮に逆らう人がいても(自分に実害がないかぎりは)目をつぶってやる寛容さを持つ」

ってのはぜんぜん両立する話だとおもうけど。

悪いのは世間をかさに着て犯罪行為をはたらくやつであって、〝世間〟そのものではない。
宗教を理由にテロをやるやつが悪くても宗教が悪いわけではないのと同じだよ。


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2020年10月4日日曜日

ビフォーアフター殺人事件


もう今は流行りじゃないかもしれないけど、ふた昔前の新本格ミステリって妙な形をした館が出てくるじゃない。

「〇〇館」って名前がついてて、住みにくそうな間取りの屋敷。

あれ何かに似てるなーとおもったら、『大改造!!劇的ビフォーアフター』でリフォームした後の住宅だ。
謎の仕掛けがあったり、独特の間取りをしていたり。
まあ元々問題がある家をリフォームしてるんだからしょうがないんだけど。

あの住宅を舞台に本格ミステリが書けるんじゃないかな。
匠による劇的リフォーム後の住宅で次々に起こる殺人事件。

まずは館の主人である依頼者が殺され、次に家の仕掛けを知っているせいでトリックに気づいてしまったリフォームの匠が殺される。劇的すぎるリフォームのせいで陸の孤島と化した館で次々に起こる凶行……。

はたして犯人は誰なのか? 被害者を結ぶ家族の思い出とは? 大胆な犯行に使われた収納トリックとは?

謎が謎を呼ぶ劇的ビフォーアフター殺人事件。近日公開。


2020年10月2日金曜日

【読書感想文】最悪かつ見事な小説 / 櫛木 理宇『少女葬』

少女葬

櫛木 理宇

内容(e-honより)
一人の少女が壮絶なリンチの果てに殺害された。その死体画像を見つめるのは、彼女と共に生活したことのあるかつての家出少女だった。劣悪なシェアハウスでの生活、芽生えたはずの友情、そして別離。なぜ、心優しいあの少女はここまで酷く死ななければならなかったのか?些細なきっかけで醜悪な貧困ビジネスへ巻き込まれ、運命を歪められた少女たちの友情と抗いを描く衝撃作。

おおお……。

「ちょっとイヤな気持ちになる小説」は好きなんだけど、これはキツかった……。
めちゃくちゃイヤだった。
小説は寝る前に読むことが多いんだけど、『少女葬』を途中まで読んでそのまま寝るのはイヤだったので、他の本でいったん口直ししてから寝ていた。
この小説のことを考えたくない! という気持ちになった。

おもしろくないわけじゃないんだよ。
めちゃくちゃ引きこまれるんだよ。引きこまれるというより引きずりこまれるといったほうがいいかもしれない。
だからこそ「この小説の世界から抜けだしたい!」という気持ちになる。

「途中の展開も後味も最悪」ということを覚悟してから読むことをおすすめする。




まず冒頭で、少女が壮絶なリンチの末に殺されることが明かされる。
ある少女が死に、別の少女がその死を弔っているシーン。

時間がさかのぼって、シェアハウスで暮らすふたりの少女が描かれる。
読者には「このふたりのどちらかがやがて殺されるんだな」とわかる。
バッドエンドがわかっているので、ページを読み進めるのがつらい。
ページをめくっていけば確実に凄惨なラストが待っているんだから。


ふたりの少女、綾希と眞実の境遇は似ている。
問題のある親に育てられ、家出をし、安いだけがとりえのシェアハウスに転がりこむ。
シェアハウスの住人はモラルのない人間ばかり。
風俗嬢、もうすぐ死にそうな病人、犯罪に手を染めているらしい人間。持ち物が盗まれたり他の住人に嫌がらせをしたりするのが当たり前の環境だ。

劣悪な環境で身を寄せるようにして心を通わせる綾希と眞実。
だが、彼女たちの運命は徐々に開きはじめる。

綾希は優しい人たちに出会い、将来について考えるようになり、仕事で金を稼ぐ喜びを知り、ささやかな幸せを手にするようになる。

眞実は金をばらまくように使い派手な暮らしをしている連中と交流を持ち、快楽と虚栄を追いかけるようになる。


さあ問題は「どちらが殺されるのか?」である。

ふつうに考えれば、眞実のほうだ。
明らかに良からぬ仕事をしている連中と付き合っている。仲間には一見優しいが自分にとって必要なくなったとおもえばかんたんに牙を剥く連中ばかりだ。

だが、そうかんたんに話は進むのだろうか。
あえて序盤で「どちらかが殺される」ことを示し、眞実のほうはどんどんヤバい世界に入っていく。
あからさまな「死亡フラグ」だらけ。

これはミスリードでは……?
ってことは綾希のほうが?
えっ、暴君の父親とその言いなりになっているだけの母親のもとから抜けだして、読書を愛し、劣悪な環境でも決して水商売の道には進もうとせず、悪い誘いははねのけ、優しい人たちに囲まれ、まじめにこつこつ働いて新たな道を切り開こうとしている綾希が?

それはいやだ。それだけは。
いくらフィクションとはいえ、こっちの子がむごたらしく殺されるなんて、そんなことがあっていいはずがない。
頼む、眞実のほうであってくれ……。

と、祈るようにしてページをめくる。

そして気づく。
眞実だって殺されるようなことはなにひとつしていない。
やはり置かれた境遇が悪かっただけで、ちょっと世間知らずだっただけで、人を傷つけたり他人から奪おうとしたわけじゃない。
居場所が欲しいと願い、いい暮らしがしたいとおもい、助け合える仲間が欲しいと望んだだけ。
誰にでもある欲望を叶えようとしただけ。
ただ近寄ってきた人間が悪かっただけ。めぐりあわせが悪かっただけ。
ちょっとタイミングがちがえば、眞実も綾希のように平凡な幸せをつかめたはず。


ぼくらは痛ましい事件のニュースを見ると、被害者に同情するとともに、被害者の落ち度を探してしまう。
「あんな人についていったのが悪かったんだ」
「夜道をひとりで歩いてたせいで」
「悪いやつらと付き合ってたんだからそういう危険はあるよね」
と。

「だから殺されて当然だ」とまではおもわないが(言う人もいるが)、心のどこかで「被害者にも落ち度はあったのだ。自分はそんなへまはしない」と考えてしまう。
そう考えるほうが「めぐりあわせが悪ければ、殺されたのは自分や家族だったかもしれない」と考えるよりずっと楽だからだ。

でも、残念ながら世の中はそんなに単純じゃない。
善人であっても用心深くても強欲でなくても理不尽に殺されることはある。つまらない理由でひどい目に遭わされることがある。
悪人が最後に笑うこともある。
地震に遭うかどうかは日頃のおこないとまったく関係がないのと同じで。


「頼む、殺されるのは眞実のほうであってくれ! 綾希は幸せになってくれ!」と願いながら読む己の姿に、「被害者の落ち度を探す自分」を発見した。




ちなみに、綾希と眞実のどっちが殺されるかは読んでたしかめてください。

確実にイヤな気持ちになるのでおすすめはしないけどね。


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2020年10月1日木曜日

【読書感想文】あいたたた / 花村 萬月『父の文章教室』

父の文章教室

花村 萬月

内容(e-honより)
五歳のころ、放浪癖のあった父親と同居することになり、程なく、花村少年の地獄の日々がはじまった。『モルグ街の殺人事件』を皮切りに、古今東西の古典を読まされる毎日。飽きる素振りをみせれば、すぐさま拳が飛んできた―。四年にわたる狂気の英才教育の結果、岩波文庫の意味を解する異能児へと変貌した小学生は、父の死後は糸の切れた凧となり、非行のすえに児童福祉施設へと収容された。以来、まともに学校に通った記憶がない。本書は、芥川賞作家・花村萬月が、これまでの人生で唯一受けた教育の記憶をたどり、己の身体に刻み込まれた「文章作法」の源泉に向きあった、初の本格的自伝である。

花村萬月氏の小説は読んだことがないのだが、こないだ読んだ『作家ってどうよ?』というアンソロジー的エッセイ集で氏の異常ともいえる(というか異常と断言してもいいぐらいの)生い立ちを知り、氏の素性に興味を持った。


小説家や漫画家のエッセイを読むと、なかなか骨のある生い立ちの人が多い。

親がアル中だったとか、親に捨てられたとか、親が異常な引越し魔だったとか、親が捕まったとか、おかあさんがダイナマイト心中で爆死したとか(末井昭さん)……。

ぼくの父はそこそこ名の知れた会社に勤めるサラリーマンで、仕事大好きで、でも休日には子どもとも遊んでくれて、趣味はゴルフと献血と同窓会。
母は専業主婦をしながらときどきパートに出たりボランティアサークルで活動したりしていて、趣味は読書と犬猫と遊ぶこと。
そんないたって善良な小市民である両親から生まれ、一歳上の社交的な姉とともに郊外の住宅地で育ち、地元の公立小中高に通って大学まで行かせてもらったわけだからもちろん両親に対して大きな不満があるはずもないのだが、型破りな親に対するあこがれもちょっとある。

もしぼくも奇抜な生い立ちを背負っていたらそれをもとに一篇の小説でも書けたんじゃないだろうか……なんて空想したこともある。

もちろん生い立ちだけでなれるほど小説家も甘くないのだが、それでもちょっと「どうしてうちの家庭はこんなに平凡なんだろう」と若いころは恨めしくおもったものだ。

中年になると「ふつうがいちばん」と思えるんだけどね。



話がそれたが花村萬月氏の生い立ちは個性的な親が多い小説家の中でも、トップクラスの型破りさだ。

なにしろ小説家志望でろくに仕事もしていなかった父親の〝英才教育〟を受け、ろくに小学校も通っていなかったというのだから。

父親の死後も学校へは行かず、児童福祉施設に入って虐待を受け、成人後はミュージシャンになったりバイクで旅をしたり違法な薬に手をそめたりアル中になったりして小説家に……。

というなんともすごい経歴。
ちなみに昭和三十年生まれ。ぼくの両親と同い年だ。

小学一年生にして、読めるはずのない岩波文庫を読むことを強要されていたという。

 その文庫本はエドガー・アラン・ポーの短篇集でした。世界初の本格的な推理小説である〈モルグ街の殺人事件〉が題名となっていたような気がしますが、なにぶん幼いときのことですから断言するのは控えましょう。新潮か岩波か記憶が曖昧ですが、おそらくは岩波文庫でした。
 父に対すると蛇に睨まれた蛙状態の私は思考放棄、漠然と文庫をひらきました。あらわれたのは見たこともない漢字の群れでした。私は途方に暮れました。私が知らない漢字であるということだけでなく、やたらと画数の多い複雑な形態をした漢字の集合が目にはいってきたからです。
 それは旧字でした。明治生まれの面目躍如といったところでしょうか、父は小学一年生の私に旧字体で印刷された文庫本を与えたのです。ひらがなを習っているときに大人の読む文庫本、しかも学校では習う可能性がゼロの旧字体の書物を平然とした顔でわたして、読めと命じたのです。そして、読み終えたら感想を述べよと迫った。
 はっきりいって、読めるわけがない。周囲の同じ年頃の子供の程度からは多少は抽んでていたという自負はあります。嫌らしい言い方ですが教師や近しい大人たちから天才扱いをされていたようなところもありました。
 しかし大人が読む文庫本を小学一年生、六歳に読ませるのは無謀です。並の親ならばこういった無茶はしないでしょう。しかし、こういった常識はずれの無理を平然と押しつけるのが私の父です。
 そして恐怖に支配されている私がとったのは、読める読めない、意味がわかるわからないといった読者の本質から大きくはずれて、ただひたすらに目で一字一字丹念に字面を追うという悲しい徒労でした。

カナも読めるかどうかというレベルの六歳に岩波文庫。しかもなぜ『モルグ街の殺人』……。

まだ『論語』を与えた、とかならわからないこともない。幼少期から道徳を教えようとしたんだな、と意図は理解できる(共感はしないが)。

でも『モルグ街の殺人』って難解ではあるけど娯楽小説だしな。
翻訳本だから美しい日本語に触れさせようとした、とかでもないだろうし……。

ほんとに意味不明。


花村萬月氏自身は「英才教育」と呼んでいるが、おとうさんは確固たる信念に基づいて教育を施していたわけではなく、ただただ思い付きで動いていただけなんだろうなあ。

暗算の丸暗記を強要するとか、音楽は好きなくせに「人前で歌ってはいけない。学校の音楽の授業でも歌うな」と命じるとか、やってることが首尾一貫してないもの。

英才教育と呼べるようなものではなく、単に子どもを支配したかっただけとしかおもえないんだよな……。



このおとうさんのやっていることは現代の感覚でいえば(もしかしたら当時の常識でも)完全に「虐待」なんだけど、花村萬月氏自身はとりたてて父親を恨んだり傷ついたりしているわけではなく、どっちかというと感謝しているように見える。

いろいろ問題がある父親だったけど、なんのかんのいって今の自分があるのは父親のおかげ、だと。
父親のやりかたはまちがっていたかもしれないけどその根底にはまちがいなく愛があった、と。

そんなふうに書いている。

それはちがうと他人が言えるような事柄ではないし、その自己肯定感はたいへんすばらしいものだ。
でも虐待だよ、やっぱり。


虐待を受けて育った子は暴力をふるわれることを「愛されているから」とおもいこむ、と聞いたことがある。
そうでもおもわないとやっていけないからだ。


黒川 祥子『誕生日を知らない女の子』に、こんなエピソードがあった。

 ずっと実母から虐待を受けていた女の子。ファミリーホーム(里親のような家)に引き取られ、ようやく家庭や学校でうまくやっていけるようになった。
 ところが「うちにおいで」と言われたのを境に、女の子は豹変。ファミリーホームや学校で暴れて居場所をなくし、自らすべてを捨てて母親のもとに戻った。
 だが待っていたのは、母親と再婚相手による奴隷のような生活。彼女はまた親の元から別の里親のもとに引き取られ、病院に通うようになった……。

どんなにひどい親でも、親から愛されていないとおもうことは、暴力を受けることよりつらいのだ。

花村萬月氏が「父の私への根底の態度には愛があった」と書くのは、虐待される子が暴力を愛ゆえのものだと思いこむ姿を見ているようでいたたまれない気持ちになる。




特殊な生い立ちだからか、それとも生い立ちとは関係なくそういう気質なのかはわからないが、花村萬月氏自身もなかなか個性的というか、風変わりというか、いやもっと率直にいえばかなり痛々しい人だ。

 私は自分が熟知している事柄であっても相手が語りはじめれば、口を噤みます。冷たい言い方をすれば薄蓄を傾けだしたならば、黙って、それを初めて耳にするような調子で傾聴します。自分で言うのもなんですが、そのあたりの演技は相当のものです(手の内をあかしてしまうと、これから先、困るかもしれません――というのは杞憂です。なぜなら所詮は中学生レベル、ちょいと煽てれば即座に喋りはじめるからです)。
 なぜ私はこのような嫌みなことをするのでしょうか。べつに相手を莫迦にするためにしているのではありません(もちろん尊敬しているわけでもありませんけれど)。黙って耳を傾けると、自明の理といっていいような事柄さえも私の定義とは大きく隔たっている場合が多々ある。そこで私は、こういう考え方もあるのか――と認識し、新たな思考の筋道をものにする。なかにはとんでもない解釈を提示してくれる強者もあって唖然呆然慄然ですが、それでも私は「へえ!」などと受け答えをする。
 それどころか、じつは唖然とさせられるような考え方や物の見方、解釈を提示されると、心底から嬉しくなってくるのです。なぜかは小説家という職業を考えれば説明の余地もないでしょう。私が恋しいのは真理や正論よりも他者そのもの、なのです。あなたがなにやら得意げに開陳するとき、あなたは私のような観察者にとって恰好の餌食となっているのです。私はあなたのつまらない話を黙って聞いてあげるかわりに、自身の小説に登場する人物に感かさや哀れさを含めた深みを附与することができるというわけです。
 文章など、誰にだって書けるのです。
 それはシャッターを押せば写真が撮れる、といったことと同程度ではありますが。これが私の文章教室の結論です。
 けれど小説家になるためには虚構を紡ぎだす、という高次の能力が必須です。これは圧倒的な知的選良の特性です。そしてこれだけの知的能力と感受性があれば、伝達としての文章以上のものを書くことなど造作もないと言い切ってしまいます。小説を書くということは、秀才などといった程よいレベルの知的選良には不可能な表現行為なのです。
 誰でもちいさい嘘をつきます。誰でも文章を書くことができます。だからこそ途轍もない数の小説家になりたがる者が存在し、新人賞には毎回千以上の応募作品が集まるわけですが、残酷なのはスタートラインとしての新人賞であっても、努力が報われるという受験勉強的幻想がまったく役に立たぬことです。

いやー。すごいよね……。悪い意味で。

中高生ぐらいのときにこういう心境になるのはめずらしくないとおもうんだよね。

自分は他とは違う選ばれた人間だ。
周りの凡人は思慮が足りないが自分はその何十倍も深く考えている。
自分の才は天賦のもので他者がどう転んだって追いつけるものではない。

そんなふうに考えている中学生は何万人もいるだろう。ぼくもそのひとりだった。

中学生でトゲトゲをたくさん持っていても、たいていの場合は周囲との軋轢ですりへったりへし折られたりして丸くなってゆく。

しかし花村萬月氏は
「父親のせいでまともな学校教育を受けていない」
「家が貧しく児童養護施設に入るなど恵まれない環境で育った」
「にもかかわらず小説の世界で成功した」
という体験があるせいで、「それはひとえに自分に比類なき才能があったからだ」という強烈な自信を今でも持ちつづけている。

個人的にはぜったいにお近づきになりたくないタイプ。
でも小説家としてやっていく上ではこの強烈な自信と過剰ともおもえるほどの自意識は武器になっているのだろう。

昔の文豪にも自意識が高すぎて痛々しい人いっぱいいるもんね。啄木とか太宰とか。


いやー。なんていうか……。やっぱり学校教育って大切だね……。


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