2017年3月23日木曜日

【読書感想エッセイ】 牧野知弘 『空き家問題』

牧野知弘 『空き家問題』

内容紹介(Amazonより)
地方も都会も、日本じゅう空(から)っぽの家ばかり!あと15年で1000万人減る人口。20140年には、10軒に4軒が空き家になる!住宅は、これからますます、コストばかりがかかる、無用で厄介なものになっていく。では、われわれはいったいどうすればよいのか……。第5回(平成26年度)『不動産協会賞』受賞、話題騒然のベストセラー、待望の電子化!
いやあ、すばらしい本だった。
空き家の問題を起点に、日本の社会構造や都市のありかたにまで切り込んでいて、しかもわかりやすい。
空き家の話から「日本の社会全体を大転換しないといけない」という話になるとは思わなかったなあ。



 空き家は今後も増えつづける


「空き家が増えている」というニュースは聞いたことがあったけど、正直、べつにいいじゃないかと思ってた。
「田舎から人が減ってるんでしょ。でもしょうがないんじゃない? 空き家のまま放っておけば?」
ってぐらいにしか思っていなかった。しょせん他人事だしね、って。

でも、どうもこれは日本全体の問題らしい。

今、日本全体で毎年20万戸の空き家が新たに生じているらしい。

 世帯数は今まで述べたとおり順調に増加を続け、その数は5000万世帯に迫っています。昭和58年(1983年)当時と比べると約43%の増加です。しかし、注目すべきは高齢者世帯の伸びです。
 昭和58年(1983年)を100として、高齢者が住まう世帯の数は平成20年(2008年)には209。世帯数全体の伸び143を大きく上回る増加です。さらに「高齢者単身世帯」に目を向けると、なんと420です。つまりこの25年間で98万6000世帯から413万9000世帯、約4.2倍の増加ということになります。
 世帯全体に占める割合も高齢者単身世帯で昭和58年(1983年)にはわずか2.8%にすぎなかったものが平成20年(2008年)では8.3%に膨れ上がっています。この調子で増加が続けば、日本の住宅の10軒に1軒はお年寄りの「おひとり」住まいということになってきます。

高齢者の単身世帯が多いということは、そのうちの大部分は、近いうちに住人が施設に移るか亡くなるかして、空き家になっちゃうってことだよね。
空き家は今後もどんどん増える。

田舎の話だけかと思ったら、東京でも空き家は増えている。
売りに出しているわけでもなく、別荘として使っているわけでもない、純粋な「空き家」の数は都内だけで2008年には18.9万戸もあるんだとか。しかも5年で34%も増えている。



 もはや土地や家は財産ではない


高級住宅地も、売れなくて困っているらしい。

こないだちょっと用があって、兵庫県芦屋市の六麓荘ってところを歩いたのね。
そこって関西では有名な超超高級住宅地で、有名な会社の会長さんとかがいっぱい住んでいて、120坪以上じゃないと分譲しちゃいけないってルールがある(一戸建ての平均坪数は40~45坪くらい)。
ぼくには無縁の場所だから、うわーすげえなー豪邸ばっかじゃーんってのんきに歩いてたんだけどさ。
ちょっとコンビニでも寄ろうかなって思ったんだけど、コンビニなんてまったくないの。スーパーもないし、もちろん個人商店もない。
駅からも遠いし、坂の上だから、いちばん近くの店に行くだけでもたいへん。
まあそういうところに住んでるぐらいの人だから当然高級車に乗ってるわけだし(ちなみにそのへんは国産車のほうがめずらしいぐらい)、ひょっとしたらお手伝いさんとかがいて自分では買い物なんかしないのかもしれない。
そんなわけで、大富豪の親戚から「おまえに六麓荘の200坪の土地と家をやる」って言われたとしても、車も持ってないしお手伝いさんも雇えないし掃除も嫌いなぼくには住めないから売るしかないな、って考えてたのね。まあそんな親戚いないけど。

でもそんな土地ってぜんぜん売れないんだって。
たしかに環境はいいけど不便だもん。特に歳をとって坂道をのぼるのも車を運転するのもできなくなったら、もう住めない。
おまけに高いから誰も買いたがらない。
だったら分割して売ればいいじゃんって思うかもしれないけど、高級住宅街って分割販売が禁止されてたりするから、そういうわけにもいかない。
固定資産税だけがガッツリとられて、持つ人によっては財産どころかへたしたら負債になりかねない。

「土地や家は財産」って考えが、もう通用しなくなってる。
ぼくの両親はまたぴんぴんしてるけど、60歳を過ぎているからいつまで元気でいるかわからない。
郊外の一戸建てに住んでるけど、ぼくがその家に住むことはたぶんない。通勤に不便だから。姉夫婦も家を買ったから、もし両親が死んだら、その家はきっと空き家になる。
無事に売れればいいけど、売れなかったら相続税と固定資産税がかかるだけの"負債"になる。
それどころか、家って誰も住んでいないと傷むから、メンテナンスをしなきゃいけない。
でも住まない家のためにお金を出したくない。家はどんどん老朽化する。ボロボロになって近所から苦情が出る。
誰も住まないんならいっそ取り壊して更地にしちゃえばいいじゃんって思うけど、解体費用もばかにならない。
おまけに、「住宅用地の課税標準の特例」ってのがあって住宅は更地にくらべて固定資産税が1/6で済むらしい。つまり、空き家を取り壊して更地にしたら固定資産税が6倍になるってこと。
こうして、どんどん空き家が増えていく……って構図らしい。

日本中で家が余ってる。田舎も都心も。
でもその一方で、家を欲している人はいて、新築住宅やマンションはどんどん建設されているし、あいかわらず家は何千万円もする。
片方では余っているのに、もう片方では足りない足りないと言っている。

なんでこんなことになってるんだ?



 建設業はとにかく人が足りない


こないだ建築の仕事をやっている友人と飲んだら、とにかく忙しいとこぼしていた。
「28連勤だったから、明日は1ヵ月ぶりの休みだ」と。
そいつの会社がブラックなだけかと思ったら、この本を読むと、どうも建設業全体が人手不足らしい。
家が余っているのに、なぜ建築で人手不足なんだ?


『空き家問題』によると、建設業に従事している人の数は、1995年から2010年にかけて、わずか15年で3分の2に減ってしまったんだとか。

 減少を主導したのは、平成13年(2001年)から18年(2006年)まで政権の座にあった小泉純一郎内閣における徹底した公共事業の削減と言われています。平成7年から13年にかけては公共事業関係費の予算は毎年度9兆円を超える水準でしたが、平成18年度には7.2兆円、その後の民主党政権時代の平成23年度には5兆円にまで大幅に削減されています。

公共事業が激減し、さらにはリーマンショックの追い打ちもあり、建設会社がどんどんつぶれた。職を失った人は他の仕事につき(自殺した人も多かっただろうね)、新たな社員を採用する余裕もない。
その結果、建設業従事者は3分の2に減ってしまった。

ところがその数年後。
東日本大震災が起こり、復興工事の仕事が大量に発生した。さらに東京オリンピックの開催も決まり、スタジアムや関連施設の建設で人手が必要になった。
だが、辞めてしまった人はかんたんには戻ってこない。今から採用しようにも、建築技術は一朝一夕には身につかないから、熟練の技術が必要になる仕事には就けない。
仕事はあるのにそれをできる人がいない。
建設業の人件費は高騰し、資材も高騰。工事車両も減っているわ、長距離トラックの運転手も不足しているわで、今、家やビルの建設費はめちゃくちゃ上がっているそうです。

建設費が上がっても高い値段で売れるならいいけど、平均所得は上がっていないから多くの人には手が出ない。
というわけで建設会社も新たな土地は積極的に買おうとしない。高い建設費で建てても売れないからね。
土地が売れないから空き家も売れない。
で、空き家が増えていく。と、こういう図式らしい。



 空き家問題は日本の問題そのものだ


あまりにややこしいから、ぼくなりにまとめてみたよ。

空き家増加の要因

こうやって見たらわかるけど、「空き家の増加」という現象の背景には、少子高齢化が進んでることとか、若年層の低所得化とか、ライフスタイルの変化とか、必要かどうかもわからない東京オリンピックをやることになっちゃったこととか、いろんな「後回しにしてきたツケ」があるわけなんだよね。
「いずれ何とかなるだろ」が「空き家の増加」という形で一気に噴出したわけで、しかも悪化することはあっても快方に向かう兆しはまったく見えないというのが現状。東京五輪が終われば人材不足や資材の高騰は多少収まるだろうけど、それはそれで不況を招きそうだし。

「どっかで誰かの家が空き家になってる」だけの問題じゃないんだね。



 どうやって解決したらいいんだろう



もう空き家問題は、過疎化の進む田舎だけの問題じゃない。
東京ですら例外じゃない。

 今後首都圏や東京で起こるのが、「高速高齢化現象」です。第1章で触れたように、現在東京で人口の中核を占めている段階の世代を中心とした高齢者が、一気に後期高齢者の仲間入りを果たしていきます。そして彼らが自分の家を空き家にした上で、病院のベッドを独占し、介護施設は入所を待つ老人たちで溢れかえることになります。 今ですら高齢者施設はまったく足りず、たとえば東京の世田谷区では待機高齢者の数は2200人、施設の供給が需要に追い付かない状況にあります。この状態でさらに大量の高齢者が供給されることが確定しているのが、東京という都市なのです。
(中略)
 東京に老人が溢れる。病気などしたら、満足な医療も受けられない。介護施設は満員。行き場のないお年寄りがうろうろと徘徊する東京。あまり良いシナリオをこの街で描くことができません。こんな東京でまだマンションが売れてオフィスはどんどん供給され、ここに大量の人たちが働き、住まう。どうも、こういう映像がぼやけてしまいます。

空き家問題を解消するための対策として、著者は「コンパクトな都市づくり」を挙げている。
市街地の拡大を抑え、道路やインフラなどの整備費用を抑える試みだ。
富山市や青森市で実践されているらしいが、今のところ成功を収めているとは言いがたい状況らしい。
とはいえ。
これから先、ほとんどの地域で人口はどんどん減る。おまけに高齢化が進む。
車移動に頼った生活は必ず限界が来る。

コンパクトな都市を作るのが正解かどうかはわからないが、少なくとも今までの都市を持続させようとしたら近いうちに必ず破綻する。
しかし20年後に生きている都市をつくろうと思ったら、ほとんど一から都市設計をやりなおさなくてはいけないし、そのせいで損をする人はいっぱいいるだろう。
ものすごく利害対立が発生するから、まちがいなく難航する。
かつて経験したことのないほどの人口減少社会になるのだから、過去の成功事例はまったくあてにならない。


都市の設計方法についていろんな意見はあるべきだと思うけど、「20年後に生きているかどうかわからない」人の言うことは聞いてはいけないと思う。
「自分が死ぬまで保てばいいや」の積み重ねが今の状況を招いたのだから。



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2017年3月22日水曜日

WEBマーケターが考える、効率よく「印象操作」する方法

デモ行進をしたり街中で政治的なビラを撒いたりしている人を見ると、投石器で近代兵器と戦っているのを見ているような気になる。

もっと効率よくやろうよ。
時代はとっくに変わってるのに、なんで100年前と同じ戦い方してるんだよ。
TwitterとFacebookだけがWEB媒体だと思ってるの?


報道機関が信じられないならロボットを使おう


オウンドメディア作って寄稿を呼びかけたら、有名無名問わず記事を書いてくれる人いっぱいいるでしょ?
その活動してる人の中にはプログラマもサーバーエンジニアもデザイナーも制作ディレクターもいっぱいいるんじゃないの?
1日デモをしてもらう代わりに本職の技術を活かしてもらったら、ちゃんとしたものできますよ。
ちゃんとしたメディア作って、いい記事がいっぱいあれば人は来るよ。

「政府の圧力が~」「マスコミが報道しない~」なんて言ってる場合じゃない。
仮に日本政府の圧力があったとしても、Googleはアルゴリズムを変えたりしない。
Googleのロボットが権力者の意向を"忖度"すると思いますか?


金を稼げばもっと人は来る


人が集まれば、Adsenseでも貼って収益上げればいいじゃない。
その収益で検索広告とDSPを回せば、もっともっと人が来るよ。
YouTube広告流して、若い人にも知ってもらえばいい。

オウンドメディアの記事は政治的なことである必要はない。
むしろ、関係のないコンテンツも多いほうがいい。
おもしろいコンテンツがあればテーマは何でもいいし、有名人が書くならただの日記でも人は呼べる。
「あの政策に反対だけど、難しいことは書けないから……」と思ってる人だって、自分の得意分野の話なら書けるでしょ。釣りの話でもアニメの話でも業界のウラ話でも半生記でも、なんでもいい。とにかくコンテンツを増やすことが大事。
ページビュー数を稼ぐ記事を書いた人には報酬を渡したらいい。そしたらもっと書いてくれるでしょ。


専門知識を活かして印象操作しよう


ちょうど国会で「印象操作」という言葉が話題になってたけど、どんどん印象操作すればいいじゃない。
首相がやたらと「それは野党の印象操作だ!」を口にするのは、印象操作が何より自分の立場を脅かすことを知っているからだよ。

アラブの春だって英国のEU離脱だってトランプ旋風だって、印象操作の結果ですよ。
世の中を変えられるかどうかは、どれだけ印象操作できるかで決まるんだよ。

せっかくたくさんの人が集まっていろんな知識や技術があるのに、なんで足並みそろえてデモ行進してるの?
なんでそれぞれの得意分野を活かそうとしないの?

デモとビラでどれだけ印象操作できるの? 敵を増やしてるだけじゃないの?




【後日記事】


WEBマーケターが考える、効率よく「印象操作」する方法


やっぱりデモより広告のほうが効率いい


2017年3月20日月曜日

ぼくらがコーヒーを飲む理由


仕事中にコーヒーをよく飲む。

どれぐらい飲んでるんだろうと思って数えてみたら1日に6杯飲んでいた。
明らかに飲みすぎだ。

よほど眠たいのだろうと思われるかもしれないが、そんなことはない。
毎日7時間半くらいは眠っている。土日はお昼寝もする。
決して睡眠不足ではない。

よほどコーヒー通なのだろうと思われるかもしれないが、そんなこともない。
香りの違いなんてぜんぜんわかんない。
というかミルクをじゃばじゃばと入れるのでコーヒーの香りなんて雲散霧消している。
あんな苦いものをそのまま飲む人の気が知れない。
ぼくはミルクと砂糖を大量に入れるのでコーヒー通とはほど遠い。

じゃあなぜそんなにコーヒーを飲むのか。
それは「堂々と甘いものとミルクを口にできるから」ということに尽きる。


ぼくは甘いものとミルクが好きだ。
でも甘いものとミルクが好きなおじさんに対する世間の目は、キャラメルフラペチーノのように冷たい(しかしキャラメルフラペチーノほど甘くない)。
会社のデスクでミルフィーユ食べながらハチミツ入りミルクを飲んでいると、「きもーい」という目を向けられる(仕事中にお菓子食べているからかもしれない)。
でもコーヒーを飲むおじさんはなんとも思われない。
いや、じっさいはおじさんが何を食べようが誰も気にしていない。しかし自意識過剰なおじさんは不安なのだ。

ごくふつうの飲み物を飲む、ごくふつうのおじさんでありたい。
和を以て貴しと為す日本人でありたいとおじさんは思っている。
だからぼくはコーヒーを飲む。
堂々と甘いものとミルクを口にするために。



でもほんとは。

ほんとは、のむヨーグルトを飲みたい。
カルピスを飲みたい。
ヤクルトでもマミーでもいい。なんならミルキーをお湯で溶いたやつでもいい。
甘さとミルクの味の両方を楽しめる乳飲料が飲みたい。

スタバでもドトールでもUCCでもいいから、
「パッケージはブラックコーヒーとまったく変わらないけどミルクと砂糖たっぷりでコーヒー成分ゼロ」の【無珈カフェラテ】を発売してくれることを切望している。

感動をありがとう

街中で募金を集めている女の人が、
「善意の寄付をお願いします」
と声をはりあげていた。

あれっ。

いつから善意は他人にたかるものになったのだろう。
たかられて施すのは善意なんだろうか。
善意を人質にとって募金を集めるのはもう脅迫なんじゃないだろうか。

ただ単に「寄付をお願いします」でいいじゃないか。
その寄付が善意によるものなのか、使命感なのか見栄なのか税金負担軽減なのか宗教の教義なのかは寄付をする側の内なる問題なんだから。



同じような気持ち悪さを感じる言葉が「感動を与える」だ。

オリンピックの選手が
「日本中に感動を与えたいですね(キリッ)」
なんてことを恥ずかしげもなく語る。
映像がスタジオに戻ると、アナウンサーが負けじと
「日本中に感動を届けてくれることを期待しています!」
と紋切り型の文句をならべる。

感動を押しつけたい人がいて、感動をめぐんでもらいたい感動乞食がいるから、需給のバランスはとれている。好きにすればいい。

だが迷惑なことに、やつらはすぐに「日本中」を巻き込もうとする。
ぼくは夕方のスーパーで半額になってるおかずみたいなできあいの感動なんて欲しくないんだから、勝手に「日本中」でやらないでほしい。せめて「都内」でやってほしい(ぼくは都民じゃないから関係ない)。


感動は与えてもらわなくたって、人は何にだって感動できる。

前のロンドンオリンピックでぼくがいちばん感動したのは、
柔道の試合でアフリカの国の代表選手が時間稼ぎのためにわざと柔道着の帯をゆるく結んでは帯がほどけたといって何度もタイムをとり、審判に注意されてもくりかえしくりかえし帯をゆるめつづけたがために、とうとう怒った審判から反則負けを宣告されたという試合に対してだった。
「帯をちゃんと締めなかったために反則負けなんて超ダサい! 感動した!」


かの柔道選手は、アジアの片隅のひとりの男性に「感動を与えたい!」と思って帯をゆるめつづけたわけではない。
にもかかわらず、ぼくは涙が出るほど感動した(じっさい笑いすぎてちょっと涙が出た)。



感動なんてその程度のものだ。

今朝ぼくが電車に乗っているときに隣の女の人の胸元がちらりと見えたことで心がうち震えるほど感動して明日への活力がみなぎってきたわけだけど、彼女はぼくに対して「感動を届けたい」と思ったわけでも「元気をあげたい」と思ったわけでもない。たぶん。
ぼくが勝手に感動した、ただそれだけのことだ。

だからぼくはその女の人に向かって「感動をありがとう」とは言わなかったのだ。あえて。


2017年3月17日金曜日

【自民党の話】 ばらばらな組織になってほしい

政治の話します。


最近の自民党を見ていると、脆弱な組織になったなあと感じる。
ずいぶん平板な組織だと。
トップが右と言ったらみんなが一斉に右を向くような。それって政権与党としてもろすぎるんじゃないのと心配になる。

かつての自由民主党はそうじゃなかった。
党内にいくつも派閥があって、常に何人かは虎視眈々とトップの座を狙っていた(ように思う)。
55年体制が40年近くも続いたのは、党内に有力者を幾人も抱えていて、それぞれがバランスをとっていたからだとぼくは見る。

それが、民主党から政権を奪い返して以降(つまり第2次安倍政権になって)、党内の団結力が高まったように思う。安倍晋三首相の力なのか菅義偉官房長官の尽力によるものなのか知らないけど。

「党内の団結力が高まったのならいいことじゃないか」という向きもあると思う。
たしかにメリットも大きい。
決定はスピーディーだし、党内の調整に余計な労力を使う必要はないし。
会社でもそうだ。
トップのワンマンで動く組織は決定が速い。ビジネスにおいてスピードは大事だから、スピード感のある組織はどんどん業績が伸びる。

でも成長の速い組織は、つぶれるのもあっという間だ。
ワンマン社長のやり方が時代に合わなくなると誰も止められない。そして、状況が悪くなったときにおこなわれる決断は、たいていの場合、悪手である。ひとたび悪い方向に転ぶと、止める力がないから坂を転げるように悪化していく。
業績は悪化し、社内の風通しは悪くなり、有能な人は辞め、労働環境は悪くなり、ますます業績は悪くなる。



ローマ帝国が400年近くも続いたのは、権力がほどよく分散していたからだという話がある。
しょっちゅう暗殺が起こり、政権交代が起こっていた。
物事には必ず善悪の両面があり、暗殺にもそれはいえる。圧倒的に悪いことだけど、いいこともないわけじゃない。
皇帝が暗殺されることが頻発すると「あまり無茶をすると殺される」というブレーキになる。

船頭多くして船山に登るという言葉もあるとおり、頭でっかちな組織は良くない。
けれど、船頭は1人しかいないとしても「いざとなったら船頭の代わりが務まるヤツ」や「船頭に進言できるヤツ」や「船頭のやり方に不満を抱えているヤツ」もある程度いたほうが、組織としては強固になる。
こういう組織は船頭が進路を誤ったときに早めに修正ができるから、「自浄作用がある」とも言える。

かつての自由民主党は、「一枚岩じゃない」のが強みだった。
「政権にしがみつきたい」という点以外は政策もバラバラで、なんでおまえら同じパーティー組んでるんだと言いたくなる状態だったが、今にして思うとそれこそが多様な意見を吸い上げることにつながり、長期政権を支えていたのだろう。

一枚岩ではなく、小岩の集まりが強固な石垣になるように。

強固な石垣



ほんの10年ほど前まで、「日本の首相は毎年変わる」と言われていた。
2006年から2011年の6年間に首相を務めたのは7人いた。
1991年~1996年の6年間でも総理大臣は6人いた。
「毎年変わる」は大げさでもなんでもなかった。

トップが頻繁に変わっても、市民の生活は特に変わらなかった。これはすごいことだ。
「どうせ誰がやっても同じでしょ」と思えるのは、強固なシステムが備わっているからだ。
これぞ近代国家と胸を張っていい。

『HUNTER×HUNTER』という漫画に幻影旅団という窃盗集団が出てくる。
「クモ(幻影旅団の愛称)は頭が死んでも手足が生き延びればいい」というセリフが出てくる(実際のクモは頭をとられたら死ぬけど)。
ぼくはあの言葉が好きで、組織というものはある程度の大きさになったらそうあるべきだと思う。
「おれがいないと仕事にならないから」と風邪をおして仕事に出てくる課長は、課を組織する資格がない。
自分が突然死しても、少し混乱しただけで他のメンバーは業務を続けられる。こういう組織を作ることが、リーダーの使命だ。

2000年に小渕恵三首相が脳梗塞で緊急入院したとき、発症からわずか3日後には後任の森内閣が誕生している。ごたごたはあったが、まあそれなりに落ち着いて大きな混乱も生じなかったのは、万が一に備えて森喜朗氏が後釜を狙っていたからではないだろうか。
トップが倒れても、たったの3日で建てなおす。なんとしなやかで強い組織だろう。



ぼくは今の内閣が好きじゃないけど、だからといって民進党や他の野党が政権を握ったほうがいいとは思わない。
共産党にはがんばってほしいけど、政権はとってほしくない(だってあそこは自民党以上に一枚岩だから)。

だから自民党に期待している。
以前のような、自浄作用のある組織に戻ってくれることを。

党内の意見がばらばらで、党内の権力闘争に明け暮れていて、決定の遅い組織に戻ってくれることを切に願う。

ぼくとしては、与党はそんなわけのわからん政党であるほうがずっと信用できる。


やさしさが服を着て歩いている教頭

「鷹揚に構えている校長と、権力の座を狙って立ち回る小ずるい教頭」
という学園モノで定番の図式があるけど、あれにまったく共感できない。

なぜなら、ぼくが通っていた中学校の教頭がとんでもない人格者だったから。
いや、人格者というより"お人好し"といったほうがいいかもしれない。
足立教頭という50歳くらいの丸顔のおじさん。
彼はやさしさが服を着て歩いているような人だった。



やさしいことは、ときに罪になる。

授業中、足立教頭がAくんを指名して質問をする。Aくんは答えられない。
しかし足立教頭はあきらめない。ヒントを与えてヒントを与えて、なんとかAくんに答えさせようとする。ふつうの先生なら、ある程度の時間がたったらあきらめて答えを自分で言ったり、次の人を指名したりする。しかし足立教頭はAくんが答えるまで待つ。

当然ながら、授業は遅れた。


授業中に寝ている生徒がいると、足立教頭はにこにこしながら「〇〇くんは野球部やから朝練で疲れてんのかなあ」と言っていた。
そのやさしさに努力で応える気概のある中学生なんてほとんどいない。
足立教頭の授業では、起きている生徒のほうが少なかった。
委員長や風紀委員のような優等生ですら、彼の授業では寝ていた(授業がつまらなかったこともある)。


ぼくもまた、足立教頭をなめきっていた。
「この人なら、何をやっても怒られない」と思っていた。

だが、そんなぼくが冷や水をぶっかけられる事件が起こった。

その日、ぼくらは校長室の掃除当番だった。
校長は不在。
誰もいない校長室に、男子中学生。
遊ばないわけがない。
中に入るやいなや、「第1回全国中学校ふとももしばき選手権大会」が始まった。
ぼくらがキャッキャ言いながら遊んでいると、足立教頭が校長室に入ってきた。
ぼくは思った「あ、やべえ」。でも同時に「足立教頭でよかった」とも思った。

ふつうの教師なら怒鳴りつけるところだろう。
だが足立教頭は言った。
「おいおい、掃除しようぜ!」
そして。
ぼくにほうきを手渡し、自分は雑巾を手に取ると、しゃがんで床の雑巾がけを始めた。

「中学生に掃き掃除をさせ、自分が拭き掃除をする」
こんな教師がどれだけいるだろう。
生徒の足下ではいつくばって雑巾がけをできる教頭が何人いるだろう。

この人は何をやっているんだ。ぼくはこわくなった。
生意気な中学生だったぼくでも、さすがに教頭が雑巾がけをしている横で悠然としているわけにはいかない。
「いやいや教頭先生、ぼくが雑巾かけますよ」
と、雑巾をとりあげてまじめに掃除をはじめた。



ぼくは足立教頭から「人を動かす方法」を教わった。
それは恫喝や報酬ではない。恐怖だ。



2017年3月16日木曜日

【読書感想文】 伊坂 幸太郎 『ジャイロスコープ』


伊坂 幸太郎 『ジャイロスコープ』

内容(「BOOK」データベースより)
助言あります。スーパーの駐車場にて“相談屋”を営む稲垣さんの下で働くことになった浜田青年。人々のささいな相談事が、驚愕の結末に繋がる「浜田青年ホントスカ」。バスジャック事件の“もし、あの時…”を描く「if」。謎の生物が暴れる野心作「ギア」。洒脱な会話、軽快な文体、そして独特のユーモアが詰まった七つの伊坂ワールド。書下ろし短編「後ろの声がうるさい」収録。

発表した時期も、発表された媒体もばらばらの短篇を集めた寄せ集め作品集。

久しぶりに手に取った伊坂幸太郎作品だったけど、まあ寄せ集めだけあって、正直、そんなにおもしろくなかったね。

初期の『陽気なギャングが地球を回す』『ラッシュライフ』『アヒルと鴨のコインロッカー』『重力ピエロ』あたりの作品は、現実感はない話なのにやたらと構成は緻密、っていうギャップがおもしろくてすごく好きだった。
でも『死神の精度』『ゴールデンスランバー』ぐらいから、思い切った仕掛けがなくなり、読まなくなってしまった。浮世離れした設定そのものはそんなに好きじゃないんだよなあ。
『ゴールデンスランバー』なんか、ストーリーの"緊迫感"と、文章の浮遊感とがまったくのミスマッチで、「大どんでん返しがあると思って我慢して読んでたら何もないってそれがいちばんのどんでん返しだわ!」と本を路上に投げ捨てたのを覚えています(本はリサイクルへ)。


で、それから10年。
当時は、ふだん本なんか読まないやつが面接で「どんな本を読みますか?」と訊かれたときに名前を挙げる筆頭だった伊坂幸太郎。
彼は今はどんな本を書いてるんだろう。

で、『ジャイロスコープ』なんだけど、最初の短篇である『浜田青年ホントスカ』を読んで、「おおっ、伊坂幸太郎っぽい!」。
ユーモアあり、非日常感あり、どんでん返しありで、(かつての)伊坂幸太郎らしさが存分に出ている。
ちょっと後味は悪いけど、でもこれはこれで嫌いじゃないよ。
いいねいいね。
すごくおもしろいわけじゃないけど短編集の一作目としては十分に及第点。この後が楽しみ。

と期待しながら次の『ギア』を読んだんだけど、あれおもしろくねえな……。
出会い系のスパムメールをそのまま掲載しているところはおもしろかったけど、あとはあんまり。
というかこの手のSFブラック・コメディって、筒井康隆が何十年も前に書いていたもので、しかも筒井康隆のほうが疾走感もイカれ具合もずっとまさってる。


他の作品もそんな感じで、どこかで読んだことのあるような設定が多いし、読者をだましてくれるトリックもないし、テクニックで魅せてくれるかというとそんなこともなくて「これだったら別の作家が書いたほうがおもしろくなっただろうな」って短篇が多い。

特に書き下ろしの『後ろの声がうるさい』は、むりやり他の短篇の登場人物を出したりして、小手先で書かれたように思える。
一言でいうと「昔の作品に比べて丁寧さがなくなっちゃった」って印象。
書き下ろしや連載じゃないから、手を抜いてるのかなあ。だったら本にしないほうがよかったのでは。


伊坂幸太郎作品は全部読んどきたい! っていうファン以外にはあんまりおすすめできない作品集かな。



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2017年3月15日水曜日

シャキーン!

『シャキーン!』を知っているでしょうか。
Eテレで朝の7:00からやっている子ども向け番組です。

この番組、ほんとイカれてる。
子ども向け番組だということを隠れみのにして、やりたい放題やっている。


こないだは、3人の西洋人に中世の貴族みたいな格好をさせて、

「さあ、どの貴族が一番早く段ボールの箱を組み立てられるでしょうか?」

というクイズをやっていた。
内容を聞いても意味わかんないでしょ?

実際に観ていたぼくでも、意味わかりませんでした。



また別の日は、

「空から、ナスとミイラが降ってくる映像が流れます。右手でナス、左手でミイラを数えよう!」

というゲームコーナーをやっていた。


完全にイカれてる。


朝の7時といえば、まっとうな大人はニュースを観ている時間。
ひまつぶしにテレビをつけるような時間帯でもない。
Eテレだから、視聴率もスポンサーも気にしなくていい。

と、「好き勝手やってもいい」条件がそろったスポット。
それが朝7時のEテレ。

きっと、『シャキーン!』を作っている人たちは、再生回数を気にしなくちゃいけないユーチューバーよりも自由に企画を出しているんだと思う。
だって「みなさまから徴収した受信料を使ってミイラとナスの数を同時に数えるゲームをやろう!」なんて、ふつうの人には思いつかないでしょう。マリファナでもやらないかぎりは。


満月や新月の晩は凶悪犯罪が増えるように、朝7時のEテレではクレイジーな企画が増えるので、要注目です。


【読書感想エッセイ】 山際 鈴子『かぎりなく子どもの心に近づきたくて』

山際 鈴子『かぎりなく子どもの心に近づきたくて』

内容(「BOOK」データベースより)
子どもが本来持っている感性をたよりに、書きたい「もの」をみつけて書き始める。書くためには、書きたい「もの」を見つめ続けなければならない。詩を書くことによって、ものの見方が変わり子ども自身まで変わっていく。作品とともに子どもが変わり、子どもとともに作品が変わっていく。この本はそんな願いをこめて展開した授業の記録である。開かれた子どもの心に出会い、近づきたいと思いながら、詩の指導方法をどのようにみつけ出していったか、その様子を書いたものである。

著者は大阪の小学校教諭で、長年児童詩の教育に携わってきた人。

みんな知っていると思うけど、子どもの詩はおもしろい。


 ぼくは ようちゅうを なめました。

 あんまり かわいいから なめました。

 えびの てんぷらの あじが しました。

 ようちゅうは にこにこ わらいました。

 そして、

 こしょばい こしょばいと いいました。


たとえば上の詩は、小学1年生の詩。
これを書いた子は虫が大好きで、本当になめてみたらしい。
みずみずしい体験と豊かな感性に基づいて、感じたことをそのまま言葉にした子どもらしい素直な詩だ……ってそんなわけあるかい!

すごくうまいよね。
おもいきった導入、視点の切り替わり、そして作者と幼虫の両方の感情がつたわってくるような大胆な比喩表現。
テクニカル!

数々の指導と手直しがないと、たぶんこの作品は完成しなかったんじゃないかなあ。
「指導って大事!」って思うね。子どもに感じたことをそのまま書かせても詩にならない。


この本では、子どもの書いた詩を載せ、その詩を書かせるためにはどんな指導をしたのか、どこに注目して書かせたのか、どうやって発想を得させたのかが書いてある。

 「ある動作の途中で動きを止めて、その状態を書いてみよう」

 「『まだ』と『もう』の対比を使って書いてみよう」

 「自分をPRする詩を書いてみよう」

 「『もしも……だったら』というテーマで考えたことを書こう」

といった調子。
指導する学年にあわせて、興味のあるテーマを与えてやり、出てきた発想の中から独自性のあるものをすくいとり、技法を教えてやりながら一篇の詩になるように導いてやる。

大人が目にするのは詩の完成品だけだけど、そこにいたるまでに試行錯誤があったんだろうねえ。



ぼくは、「子どもの豊かな感性を素直に表現した作品」といった言葉には賛同できない。

たしかにそういうものはある。
うちの3歳の娘も、ときどき大人がはっとするようなことを言う。
でもそんなのって1万回しゃべったうちの数回あるぐらい。
1キロの鉄の中に1グラムの金が埋まっていても全体としてみればただの鉄塊なのと同じで、表現も精錬してやらねば作品にはなりえない。

技巧をこらしすぎてもおもしろくないが、かといって書いたものをそのまま見せても作品として読めたものじゃない。
そのちょうどいいところに持っていくのは、教師の仕事。
適度に味付けをさせて、でも決して自分では手を出さず、「うますぎずへたすぎず」の詩を作りあげる。

だから「子どもの詩」って書いてあるけど、もうほとんど「教師の詩」といってもいい。題材を提供したのは子どもだけど、詩にしたのは教師の力だと思う。



でも。

この本を読んでたら、ちょっと気持ち悪さも感じるんだよなあ。
「子どもたちがこんなにすごい詩を書いたんですよ」って言いながら、でもじつは「これを書かせたわたしすごいでしょ」って言ってるように思える。
こういう詩を書かせることって教師の自己満足なんじゃないのかなとも思う。


小学生の詩として発表されるものって、しょせんは「子どもの詩」なんだよねえ。
1年生ぐらいならそれでもいいけど、6年生になったら大人っぽい詩も書けると思うのに、「子どもらしさ」ばかりが評価される。
いつまでも「子どもらしい詩」を書かせていたら、その先がなくなると思うんだよねえ。じっさい、ほとんどの人は中学生以降で発表するための詩を書くことってないし(人に見られたら恥ずかしいポエムは書くけど)。

いつまでも「子どもらしいみずみずしい感性」なんて褒めたたえてたら詩の文化を殺すことになるんじゃないかな。
絵の世界だったら、「子どもらしいのびのびした感性」が評価されるのってせいぜい幼稚園くらいまでで、そこから後は技法を凝らしたうまさが求められるようになる。
絵の好きな子どもは、絵のうまい大人にあこがれて一生懸命絵を練習する。
かけっこだって歌だって「子どもらしさ」は早急に捨てたほうがいい。
詩だってやっぱり「大人の上手な詩」を書かせるように導いてやるべきなのでは?

この本のタイトルは『かぎりなく子どもの心に近づきたくて』だけど、そうじゃなくて、子どもを大人の世界に近づけることが教育なんじゃねえのかって思うよ。



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2017年3月14日火曜日

【読書感想エッセイ】 ユウキロック 『芸人迷子』

ユウキロック 『芸人迷子』

内容(「BOOK」データベースより)
島田紳助、松本人志、千原ジュニア、中川家、ケンドーコバヤシ、ブラックマヨネーズ…笑いの傑物たちとの邂逅、そして、己の漫才を追求し続けたゆえの煩悶の日々。「ハリガネロック」解散までを赤裸々に綴った迷走録。
第1回M-1グランプリで2位、ABCお笑い新人グランプリ最優秀新人賞、上方漫才大賞新人賞など華々しい道を歩みながら、2014年に解散した漫才コンビ「ハリガネロック」のユウキロックさんによる回想録。

決してうまい文章ではない。でも、だからこそものすごい熱が伝わってくる。

もがき苦しみ、周囲をまきこみながらのたうちまわり、そして今でも答えは出ていない苦悩がびんびんと伝わって。



ぼくは中学生のとき、『すんげー!Best10』という深夜番組が大好きで、毎週欠かさず観ていた。
今はなくなった大阪の2丁目劇場に所属していた芸人たちが出てきて、漫才やコントを披露し、お客さんの投票でランキングするという番組。コンビの垣根を越えたユニットでのネタも披露されるのが特徴だった。
『オンエアバトル』の放送がまだ始まっていない時代の、ほとんど唯一といっていいネタ番組だった(関西ローカルだったけど)。


そこに、あるときから急に出てきたのがハリガネロックというコンビ。
ハリガネロックの印象は鮮烈だった。
急に出てきたと思ったら、並みいる人気芸人をおさえて1位を連発。
鋭い舌鋒とテンポのよいネタ運びであっというまに客をつかみ、しばらくは「ハリガネロックが出たら1位」という状態が続いていた。
その番組だけでなく、関西の有名な漫才の大会でも次々に優勝。賞レースでハリガネロックが負けるのを見たことがなかった。
2001年にはじまったMー1グランプリでも当然のように決勝進出して、同期の中川家に敗れて2位。
敗れはしたものの十分なインパクトを残し、当然ながら「来年こそはハリガネロックが……」と期待されていた。


ところがそのあたりから風向きが変わる。
M-1グランプリがそれまでの漫才の大会と一線を引いていたのは「積極的に新しいものを評価しにいった」ことだった。

それまでの大会や番組は「いちばんウケているものがいちばん」だった。審査員は、一線を退いた大御所漫才師だったり、新聞社やテレビ局のおじいちゃんだったり(今も変わってないけど)。審査員も結局、客席の女子高生やおばちゃんがいちばん笑ったコンビに投票する、という感じだった。

ところがM-1グランプリは、現役最前線で活躍中の芸人や、一時代を築いた漫才師が審査員。第1回にはあった客席審査員制度が第2回からなくなったことからもわかるように、「客のウケ」よりも「プロから観ておもしろいか」に審査の重きが置かれていた。
初期の大会は、当時まだ無名だった麒麟、笑い飯、千鳥、POISON GIRL BAND、南海キャンディーズを決勝に上げるなど、「ベタな笑いをテクニックで見せる」漫才よりも「技術はつたなくても未知の発想をとりいれた」漫才が高く評価されていた。

そして、そのあおりをもろに喰らったのがハリガネロックだったように思う(あとルート33も)。


ハリガネロックは、笑いはとれるけれどこれといって新しいものは持っていなかった。
テンポのよいしゃべりも、周囲に毒づいてゆくスタイルも、一見アウトローなビジュアルも、コンビで息を合わせたツッコミも、とっくに確立されていた手法だった。
今にして思えば「新しいものがなくても笑いがとれる」というのはすごいことなんだけど、当時はそれが認められる風潮じゃなかった。
(その流れを引き戻したのが、新しい武器を持たずにM-1グランプリを制したブラックマヨネーズだった。それ以降は「ウケの量」=「点数」の傾向が強くなる。ブラックマヨネーズの漫才を見てからハリガネロックが迷走した、というのは皮肉な話だ)


未知の発想が評価される時代においてハリガネロックの漫才は認められず(といってもM-1グランプリ以外では認められていたんだけど)、彼らは迷走してゆく。
 何かを変えなければならない。いや、そんな生易しいことではない。すべてを捨てて、また新たに作り上げる。そこまでやらなければならないと思ったが、俺には簡単にできることではなかった。新しい漫才のスタイルを作るためには、必ず客前で試さなければならない。スベれない。スベることはすべてを失うこと。どんな人気者がいようと舞台では一番ウケる。これこそ「ハリガネロック」唯一の存在価値だと信じて生きてきた。これまでの10年間で培ってきたこと。あの「狂気の10年」で刷り込まれたことだった。

「誰よりも客にウケること」を誇りにして走ってきたコンビにとって、「ぜったいにウケる」という看板をはずすことは許されなかった。

べつに看板をはずす必要はなかったのに、と部外者としては思う。
漫才師が「プロの審査員に評価されること」よりも「客を笑わせること」に重きをおくことは、むしろマトモなことなんだから。
でも当時はそのマトモなことが許されない雰囲気があったんだよねえ。


ハリガネロックは、M-1グランプリで評価されるスタイルを求めて迷走する。
以前、なにかの記事で「ハリガネロックがボケとツッコミの役割を入れ替えた」と読んで驚いた。芸歴10年を超えるようなコンビが、それも今までのスタイルで数多くの実績を残してきたコンビが役割を変えるなんてことは他に聞いたことがない(コントではめずらしくないんだけど、本来のキャラと地続きでやる必要のある漫才ではまずありえない)。
びっくりしたのと同時に「絵にかいたような迷走をしてるな」と思ったこともおぼえている。

結局その試みはうまくいかずにまたボケとツッコミを元に戻し、数年後、ハリガネロックは解散した。



それにしても、相方だった大上さんはかわいそうだ。
ユウキロックさんはずっと「相方はぜんぜん自分から動こうとしなかった」と愚痴っぽく書いている。それが事実だったとして、自分から動かない人が相手だったからこそハリガネロックは20年やってこれたんだと思うよ。
「おれはこれがおもしろいと思う! おまえの考え方には納得できない!」って人だったら、ずっと早くに解散してたよ。

よく社員に「経営者意識を持て!」と怒っている社長がいるけど(ぼくの前職の社長もそうだった)、そういう社長は部下から「それは経営的にまちがってますよ」と言われたら、ぜったいに怒る人だ。
ユウキロックさんの「自分から方向性を示せよ!」って怒りには、それと同じものを感じる。



なんかね、相方に対する思いもそうだし、読んでいて「なんて不器用な人なんだ!」ともどかしく感じたね。

「万人受け」と「通好み」が両立しないことは誰だって知っている。
だからみんなその間のどこかに着地点を見いだすのに、ユウキロックさんはその両方を手に入れようとした。
そしてとうとう「通好み」を手に入れることはできず、もともと持っていた「万人受け」を自ら捨て去って、舞台を降りてしまった。

「目の前のお客さんを笑わせられる」というすごい武器を持っていたのに。

たぶん、現状維持を目標にすれば、ベテラン漫才師としてずっと食っていくことができたはず。
しかし、過去の成功体験にとらわれずにチャレンジしつづけてきたからこそ結果を出してきた人が、「貪欲に攻める姿勢を捨てて今のポジションをキープできるようにしよう」なんて考え方をできるようにはならないんだろうね。


客観的に見ていると「もっとうまくやる方法がいろいろあっただろうに……」と思うんだけど、でも人の関係が壊れるときってだいたいこんなもんだよなあ。

暑苦しくて切なくてもどかしくて、もう40歳すぎたおっさんがこんなに青春してるってすごいなあって感じる本でした。



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2017年3月8日水曜日

手段のためなら目的を選ばない


「手段のためなら目的を選ばない」人って多いよね。

「目的のためなら手段は選ばない」じゃなくて、「手段のためなら目的を選ばない」人。



 手段はひとつじゃない



たとえば電話をかけて営業をするとする。
週に100件電話をかけて、1件成約につながる。
上司が言う。「成約数を倍にしろ! 200件電話をかけるのがノルマだ!」

それはそれでひとつのやりかただと思う。
数をこなすことでしか得られないものも、たしかにある。けれど失うものも多い。たとえば時間とか。精神の安寧とか。

目的は契約をとることであって、電話をかけることじゃない。
1件あたりの電話時間の半分を事前準備に費やすことで1%の成約率を2%に上げることができたなら、そっちのほうがはるかに早い(おまけに電話代もかからない)。


「電話をかける数を倍にしろ!」という発想しか出ない上司は、まさに「手段のためなら目的を選ばない人」だ。


FAXなら同じ時間で300件送れて、成約率は変わらないかもしれない。

メールだったら成約率が0.1%に下がるけど、同じ時間で10,000件送れるかもしれない。

Web広告を出稿すればお金はかかるけど、人件費を考えれば結果的に安く顧客を集めることができるかもしれない。

「かぎられたコストの中で獲得契約数を最大にする」という目的を持っていれば、いくつもの発想も出てくるはずだ。



 会議はいい手段じゃない(ことが多い)



世の中には会議が大好きな人がいる。
なにかあると「会議しよう」と言いだす。
そして「これを定例にして、毎週やることにしよう」と言いだす。

定例にすることで、もう「会議をすること」が目的になっている。

会議は手段だ(そしてたいていの場合効率の悪い手段だ)。
目的は「情報の共有」であり「アイデアを出すこと」。
誰か(会議をしたいと言いだしたやつ)が議題について書面でまとめて、それを関係者各位にメールで送って、確認や意見出しをしてもらうほうがずっと効率がいい。
10人で60分の会議をすれば600分の時間が消化されるけど、書面ベースのやりとりで総計600分もかかることはない。

会議を開きたいやつは、自分が文書で論理立てて説明することのできないから「直接会って話したい」という。
でも論理立てた文書を書けないやつが、短時間で無駄なく伝わる話をできるはずがない。

会議が「文書の共有」よりまさっているのは緊急性だけだ。
「今から30分後までに共有しないといけない」という場合には、書面を作ってメールで送るよりも関係者を緊急招集して会議をしたほうが有効だろう。でも「毎週月曜日に集まろう」という場合には、たいていもっといい手段がある。


ってなことを言うと、こんなことを唱えるやつがいる。

「いや、会議ってのはコミュニケーションの場でもあるわけだよ。
 顔をつきあわせて話すことでメンバーの団結力が高まるんだよ」


仮に会議をすることで「コミュニケーションが良好になる」としよう(会議を通して険悪になることはあっても仲良くなった人を見たことがないから、個人的にはまったく賛成できないけど)。
だとしてもコミュニケーションもまた手段であって、目的ではない。オフィスは大学サークルではない。

仲が良くても情報伝達がうまくできない組織より、ビジネス上の付き合いしかなくても効率よく情報を連携できる組織のほうがずっと強い。



 交通手段は多いほうがいい



人が移動するとき、考えなくてはいけないのは
「目的地」「移動手段」だ。

趣味のドライブやジョギングの場合は、「移動手段」=「目的」となる。
趣味の場合はこれでもいい。

しかしそれ以外においては、移動手段は代替可能なことが多い。

たとえば東京から大阪に行くとする。
飛行機か新幹線で行くことが多いだろう。車で行く人もいるかもしれないし、在来線を乗り継いで行く方法もある。船、ヒッチハイク、バイク、自転車、徒歩など、他にも手段はたくさんある。2つ以上を組み合わせたっていい。
どの方法がいちばん良いということはない。それぞれの手段にはメリットがあるしデメリットがある。
「速いけど高い」とか「つらいけど体が鍛えられる」とか「大人数の移動には向いてないけど楽しい」とか。
自分の嗜好やそのときの状況を考えて、どの方法をとるか考えればいい。


頭がいい人というのは、「目的地にたどりつくための交通手段をたくさん持っている」人だ。

「目的地にたどりつくための交通手段をたくさん持っている」を展開すると、

・ 自分が今いる場所と目的を正しく理解している

・ 幅広い知識を持っていて、それを整理している

・ さまざまな視点から物事をとらえることができる

ということになるね。
うん、これは頭のいい人の特徴だ。




 結論


会議はなくそう!



2017年3月7日火曜日

【エッセイ】結婚はポイント還元もないし

そうだ、ノートPCを買おう。



で、電器屋に行ったりいろんなサイトを見たりしたけど、結局よくわからない。

店頭だとサイズ感やキーボードの押し心地はわかるけど、実際の動作速度はわかんないし、性能比較もしにくい。

ネットだとその逆。

口コミはある程度参考になるけど、ゲームもしないし動画編集もノートPCではやらないから、グラフィックの美しさとかを熱弁されても......ってなっちゃう。
そこはどうでもいいや、って。


結局、詳しい知人に相談することにした。
「こういう用途に使おうと思っていて、画面は大きめがよくて、このへんの機能はなくてもいい」
って条件を並べて、「だったらこの中から選べばいいよ」って言ってもらって、最後にキーボードの押し心地だとか本体のデザインとかで選んだ。



パソコンを買うっのてたいへんだなあ。
でも、結婚相談所に登録して結婚相手を選ぶことにくらべたらぜんぜんたいしたことないよね。

パソコンはスペックが一覧表になっているし。
そもそもメーカーが公表しているスペックが真実かどうかを疑う必要はないわけだし。
「料理が得意って言ってたのにお菓子しか作ったことないじゃないか」みたいな嘘はないですから。

パソコンも徐々に動作性能が落ちていくけど、結婚みたいに成約前と成約後で豹変する、なんてことはないですしね。。

それにパソコンだったら実際に使ってる人の話を聞けるけど、
「あなたの奥さんどんな人ですか。へえ、よさそうですね。じゃあぼくもそれにします」
ってわけにはいかないし。

パソコンを買うのに失敗したってせいぜい数万円の損失だけど、結婚はそうはいかんし。


なによりパソコンは、「じゃあこれにしよう」って決めたら、在庫切れでないかぎりは「あなたにはお売りできません」って断られることはない。


相談所で無事に結婚相手を見つけた人って、その決断力があれば、パソコンを買うときなんて、電器屋に行って1秒で「これください」って言える人でしょ。


2017年3月4日土曜日

【読書感想文】 吉田 修一『元職員』

吉田 修一『元職員』

内容(「BOOK」データベースより)
栃木県の公社職員・片桐は、タイのバンコクを訪れる。そこで武志という若い男に出会い、ミントと名乗る美しい娼婦を紹介される。ある秘密を抱えた男がバンコクの夜に見たものとは。

実在の事件である 青森県住宅供給公社巨額横領事件 を元にした小説。
事件のことを覚えている人は少なくても、当時ワイドショーをにぎわせた「アニータ」さんの名を覚えている人はけっこういるかもしれないね。



小説に"意味" や "楽しさ" だけを求める人にとってはキツい小説だろうね。
出てくるやつは主人公筆頭にクズばっかりだし、救いはないし、教訓もないし、楽しいストーリーも含蓄に富んだセリフも意外な展開もないし。
うわあ。なんでそんな小説読むのって言われそうだなあ。でも楽しいだけが小説じゃないからね。
嫌な話を追体験することこそ小説じゃないとなかなかできない。新聞やテレビには「救いのない嫌なだけの話」はないからね。
嫌な話は視野を広げるのに役立つって話もあるしね。今ぼくが作ったんだけど。


この本を読んだ後にAmazonのレビューを見たんだけど、小説の読み方を知らない人って多いよね。
いや小説に決まった読み方なんてないんだけど。
でもさ。「こういう行動をとるべきなのになぜ無駄なことばっかりしてるんだ」「あそこのエピソードがどう回収されるんだろうと思ってたら伏線ほったらかしかい」みたいなレビューが並んでるのを見て、がっかりしたというか。
本屋大賞とか芥川賞受賞作とか村上春樹のレビューだったらわかるんだけどね。ふだん本読まない人もいっぱい集まる場だから。

でも吉田修一のハードカバーを買うぐらいだからけっこうな本好きだろうに、そんな人でも「すべての本の登場人物は合理的で無駄のない行動をとらなくてはならないし、すべてのエピソードには意味がないといけない」と思ってるってことに、ため息しか出ない。
本格ミステリに関してはほぼその通りなんだけど、小説なんて無駄の積み重ねでしょ。そもそも小説自体が人生においてなくても生きていけるものなんだから。



ところで『元職員』だけど、まあ嫌な小説だねえ。悪口じゃなくて。

ぼくはときどき嫌な夢を見るんだけどね。だいたい、自分が悪いことをして追われているという夢。
万引きして、全国指名手配されるみたいな夢。「万引きでどうして指名手配なんだ。そのエピソードはどう伏線として回収されるんだ」とか言わないでよ、夢なんだから。

そういう夢を見て起きたときは、背中にじわっと汗をかいている。暑いのに、まとわりつくような悪寒がする。
『元職員』を読んでいるときの気分も、まさにそんな感じ。
じわりじわりと追いつめられてゆく気分。
どんどん逃げ場がなくなっていって、常におびえながら暮らさないといけない。ときどきふっともうどうにでもなれという気になるし、でもやっぱり逃げなくちゃとも思う。
ガス漏れしている部屋にいるように、気がつけば恐怖と不安と焦燥が充満している。

曽根圭介『藁にもすがる獣たち』(感想文はこちら)も嫌な小説だったけど、あれはまだ少しだけ救いがあったし、謎解きの快感があった。
でも『元職員』は、ただただ嫌な小説。
嫌な気分になるだけ。
タイのむわっとするような暑さの雰囲気も、嫌な気持ちになるための、ちょうどいい舞台装置の役割を果たしている。
なんでこんなもの読むんだ、という気になるけど、たまにこういう気分を味わいたくなるんだよね。
なんでかね。それだけ今幸せだってことを確認できるからかね。



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2017年3月3日金曜日

バーコードバトラーの時代


バーコードバトラーの話なんだけどね。



なに?
知らない?
バーコードバトラーを?

はあ、最近の若いもんはバーコードバトラーも知らんのか。
わかんなかったら図書館行って調べてみろって。まちがいなく文献見つからねえから。

バーコードバトラーってのは。
バーコードで戦うゲームだよ。


は?
バーコードとバーコードをぶつけてどうするんだよ。
いやいや、バーコードで戦うっていったけど。

ちがうちがう。
モンスターで戦うの。


は?
ポケモンじゃないってば。
ポケモンよりバーコードバトラーのほうが前なの!

あれ?
前だったっけ? バーコードバトラーとポケモン、どっちが先だ?
まあいいや、どっちが先でも。

バーコードでモンスターを召喚する、それがバーコードバトラー。
バーコードをね、スキャンするの。
そしたらモンスターが出てくるわけ。もちろん本当にじゃないよ。


え?
コンビニのレジにバーコードを持っていって召喚してもらう?
ちがうちがう、そんなローソンのLoppiみたいなシステムじゃないの。
レジに行かなくてもいいの。
だいたいその頃まだコンビニとかなかったから!

あれ?
その頃もうコンビニあったっけ。
まあいいやどっちでも。
少なくとも鳥取にはなかったし。


だろ?
おもしろそうだろ?
そうなんだよ、画期的なアイデアなんだよ。
小学生男子はみんなほしかったんだから。


「おもしろそうなアプリですね」じゃねえって!
アプリじゃないんだよ。
その頃まだアプリどころか携帯電話すらなかったから!

あれ?
携帯電話はあったっけ。PHS時代だったっけ。
まあいいやどっちでも!




2017年3月2日木曜日

【読書感想エッセイ】 ケリー・マクゴニガル 『スタンフォードの自分を変える教室』

内容(「BOOK」データベースより)
60万部のベストセラーがついに文庫化!これまで抽象的な概念として見られていた「意志」の力についての考え方を根本的に変え、実際の「行動」に大きな影響を与えてくれる。目標を持つすべての人に読んでもらいたい一冊。

いかにも自己啓発書って感じのタイトルだけど(このタイトル嫌い!)、
自分の狭い経験談とどこかで聞きかじっただけの表面的な話を寄せ集めたビジネス系自己啓発本とはちがい(自己啓発本が嫌いなのよ)、
心理学者が実験から得た知見を、生活に活かすためにおこなった講義をまとめた本。


ぼくは毎日誘惑に屈している。
部屋を掃除しないといけないと思いながら寝そべって本を読み、
明日こそは早起きしようと思いながら夜ふかしして、
ゲームはもうやめようと思いながらアプリを起動する。
計画通りに行動できることはほとんどない。
先月「運動不足だから毎週プールに通おう」と決意したけど、結局プールに行ったのは1回だけ。

たぶんほとんどの人は、誘惑に屈しながら生きているんだろうね(そうであってほしい)。
これを読んでいる人たちも、禁煙に失敗し、ダイエットに失敗し、ジョギングは長続きせず、どうしても痴漢をやめられないよね。


「明日からは心を入れ替えよう」と思うのに、明日もまた失敗する。それは本能がじゃまをするから。
だったら脳のメカニズムを知って、本能に屈服するのではなく本能を利用して望ましい結果を手に入れようよ、というのが本書の論旨。

 また、科学は重要なことに気づかせてくれます。それは、ストレスは意志力の敵だということです。しかし私たちは何かをやりとげるには、多少のストレスがあっても仕方がないと思いがちで、ストレスをさらに増やすようなまねをします。やるべきことにぎりぎりまで着手しなかったり、自分の怠け癖や自制心の弱さを責めることで自分を奮い立たせようとしたり。
 あるいは、自分ではなく他人のやる気を引き出すためにストレスを利用することもあります。職場で猛烈な仕事ぶりを見せつけたり、家でカミナリを落としたり。
 そういうことは短期的には効果があるように思えるかもしれませんが、長い目で見た場合には、ストレスほどあっというまに意志力を弱らせるものはありません。ストレスに対する生理機能と自己コントロールの生理機能は、一緒には成立しないのです。
(中略)
 ストレス状態になると、人は目先の短期的な目標と結果しか目に入らなくなってしまいますが、自制心が発揮されれば、大局的に物事を考えることができます。ですから、ストレスとうまく付き合う方法を学ぶことは、意志力を向上させるために最も重要なことのひとつなのです。

ストレスがかかると脳の領域からエネルギーを奪い取り、体に向けられるそうだ。
で、意志が弱くなるんだとか。
納得。
酒好きの人ならお酒に走るだろうし、ぼくは甘党なので甘いものを食べたくなる。

「強いストレス下では目先の結果しか考えられなくなる」という習性は、人類が原始生活を送っていたころにはたいへん役に立った。
猛獣に出くわしたら(過度のストレスがかかったら)、何も考えずに全力で逃げたほうがいい。

でも現代社会において、軍人やスポーツ選手でもいないかぎりは、「頭を使わずに全エネルギーを身体に向けて短期的な結果を求める」ことが良い結果を生む状況はほとんどない(スポーツだって長期的に考えれば頭を使ったほうがいいし)。

頭脳労働をする上で「怒る」「怒鳴る」は逆効果にしかならない。
怒られる → ストレスがかかってパフォーマンスが低下する → 成績が悪化するからさらに怒られる → さらにストレスがかかる……という悪循環を生むだけ。
ビジネスの場でも、怒鳴り散らしている上司の部下がすばらしいパフォーマンスを発揮した、なんて話は聞かないよね。
「おれが怒鳴ったおかげであいつは成長した」って思ってる上司はいっぱいいるだろうけどね。



失敗したときに自分を責める人のほうが、同じ失敗をくりかえす傾向が高いんだとか。

一見、「全部私のせいだ。なんであんな失敗をしてしまったんだろう」と考える人のほうが、責任感が強そうだよね。
でもじっさいは逆で、自分を許す人のほうがプロジェクトをやりとげる「責任を果たす人」なんだって。

たしかに。
「まじめな人」って、学校では褒められる存在だけど、社会に出るとえてして「まじめなのにダメな人」になっちゃうよね。
だいたいどの部署にもひとりはいるよね、「まじめなのにダメな人」。
まじめにやっているのになぜか成果が出ない。周りも「あいつはまじめにがんばってるから」ってことで、きつく注意したり軌道修正したりせずにほったらかしにするから、いつまでたっても成長しない。おまけに自分を責める傾向が強いから何度も同じ失敗をくりかえす……。
カメなのにウサギと同じ土俵で戦おうとするタイプ
適当にやること、あまり自分を責めず、適度に外部要因のせいにしてストレスフリーに生きることが、いい結果を生むんだね。



誘惑に屈する原因のひとつとして、”モラル・ライセンシング” という現象が紹介されている。
”モラル・ライセンシング” とは、何かよいことをすると、いい気分になり、悪いことをしたってかまわないと思ってしまうという現象。
「ランチをサラダだけで済ますことができたから、その後に甘いお菓子を食べてしまう」みたいなこと。
いってみれば、免罪符を手に入れた状態だね。

 人はこのモラル・ライセンシングのせいで、悪いことをしてしまうだけではありません。よいことをするように求められたとき、責任逃れをするようになります。たとえば、寄付金の依頼を受けたとき、自分が以前に気前よく寄付したことを思い出した人たちは、そのような過去のよい行ないを思い出さなかった人たちに比べ、寄付した金額が6割も低いという結果が出ています。
 このモラル・ライセンシング効果は、世間一般にモラルが高いと信じられている人たち(牧師、家庭の大切さを説く政治家、腐敗を厳しく追及する司法長官など)がひどい不品行を行ないながらも自分に対してそれを正当化する理由を説明できるかもしれません。

たしかに、道いっぱいに広がって、通行のじゃまになりながら寄付や政治的支援を呼びかけている人っているよね。
いいことをしていると自分で思っている人ほど、周囲に迷惑をかけることに無頓着なんだよね。

テレビ演出家の藤井健太郎さんが、著書『悪意とこだわりの演出術』でこんなことを書いていた。
 逆に、何かを悪く言ったりしているとき、意図的に事実をねじ曲げていることはまずあり得ません。悪く言われた対象者からは、事実だったとしてもクレームを受けることがあるくらいなのに、そこに明らかな嘘があったら告発されるのは当然です。
 そんな、落ちるのがわかっている危ない橋をわざわざ渡るわけがありません。そんな番組があったらどうかしてると思います。どうかしてる説です。
たしかに「やらせ」が問題になるのは、たいていの場合バラエティ番組ではなく報道番組だよね。
「正しいことを伝えている」という意識が、「だからこれぐらいのルール違反は許される」になってしまうんだろうね。
警察が組織ぐるみで身内の犯罪を隠したり、逆にヤクザの偉いさんが公共の場では紳士的だったりするのも、”モラル・ライセンシング” なのかも。
人間、ずっと善人でいることはできないし、逆にずっと悪人でいつづけることも不可能なんだろうね。みんな、ほどほどにバランスを取りながら生きている。


さらに ”モラル・ライセンシング” は、「1食抜いたからお菓子食べちゃおう」みたいな直接関係のあることだけじゃなく、ぜんぜん関係ないことにもはたらいてしまうらしい。

 環境にやさしいクッキーだと思えば、栄養面の問題なんておかまいなし。それで、環境保護の意識の高い人ほどオーガニック・クッキーのカロリーを軽く見て、毎日のように食べてしまったわけです。ちょうどダイエットをしている人たちが健康ハロー効果にだまされて、ハンバーガーにサラダをつければ安心と思っていたように。
 このように、何かをいいと思ってそれにこだわってばかりいると、正しい判断ができなくなり、「いい」ことだと信じて自分を甘やかすせいで、長期的な目標を見失いかねません。

「環境にやさしい」という"いいこと" をしたから、「食事制限を破る」という "悪いこと" をしてもいいと考えてしまう。
論理的にはまったく筋の通らない話なんだけど、でもぼくたちの脳みそはぜんぜん論理的じゃない。


”モラル・ライセンシング” のはたらきを知っていると、欲望を抑えるのにも役立つだろうし、逆に誰かの欲望を刺激することでマーケティングにも使えるよね。
「この商品の売り上げの1%が森を守るために寄付されます」みたいなメッセージも、”モラル・ライセンシング” をはたらかせるのに効果的だ。「森を守るといういいことをしたから、いっぱい食べてもいい/お金を使いすぎてもいい」と思わせる。

ハイブリッド車のプリウスが売れたのも、「環境にいいから車を買ってもいい」と思わせることに成功したからかもしれない。
そういや、おもいっきりエンジンをふかせながらスピード上げて他の車の間を縫って走る迷惑なプリウスを見たことあるけど、あのドライバーも ”モラル・ライセンシング” の考えに支配されれたんじゃないかな。「環境にいい車に乗ってるからエンジンふかせてもいいや」って。



この本で紹介されている、誘惑に負けないようにするテクニック。

 行動経済学者のハワード・ラクリンは、行動を変えることを明日に延ばすのを防ぐためのおもしろい仕掛けを提唱しています。ある行動を変えたい場合、その行動じたいを変えるのではなく、日によってばらつきが出ないように注意するのです。
 ラクリンによれば、タバコを吸うなら「毎日同じ本数」を吸うよう喫煙者に指示すると、タバコの量を減らせとは言われていないにもかかわらず、なぜか喫煙量が減っていくといいます。

「明日からやろう」という言い訳をできなくするわけだね。

ぼくは人生でタバコを吸ったことは一度もないし、競馬もパチンコもやったことがない。
それは「一度手を出して抜けられなくなるんじゃないか」と思っているから。ハマってしまうのが怖いから。
自分の意志の弱さを知っているから、自分のことをまったく信用していないから、誘惑には近づかない。


さっきの ”モラル・ライセンシング” の話と同じで、これは誘惑を退ける方法でもあるし、逆手にとれば誰かを誘惑するのにも使えるね(ぼくはマーケティングの仕事をしているので、ついついそっちで考えてしまう)。

つまり「1回だけ」「今日だけ」といえば誘惑に転びやすくなるってことだもんね。
「本日限り半額! 節約は明日からしましょう」
というメッセージを届けることができれば、財布の紐をゆるませられるはず。



あと、人を興奮させるドーパミンは「快楽」ではなく「期待」「欲望」をもたらすって話もおもしろかった。
ドーパミンが出るのは「快楽を感じたとき」じゃなくて「快楽を感じる予感がしたとき」なんだとか。
パチンコでドーパミンが出るのは「大当たりしそうなとき」であって、じっさいに換金して「報酬を手に入れたとき」ではないってこと。

たしかに、何をするにしても「期待しているとき」がいちばん楽しいよなあ。

ぼくは本が好きなんですけど、本を読んでいるときよりも「本の巻末にある新刊情報」を読んでいるときや、Amazonのレビューを見て「おっ、これはおもしろそうだ」って思うときがいちばん楽しい。

昔のホームページにはたいがい『リンク集』があったけど、あれをクリックする瞬間はわくわくしたもんなあ。
今はリンク集はほとんど見なくなったけど、『関連動画』『こんな記事も読まれています』ってすごくおもしろそうに見えるもんね。

このときもドーパミンが出ているんだろうねえ。



『自分を変える教室』というタイトルだけど、どっちかっていうと「なぜ自分は変われないのか」って感じの内容。


こういう本はすごくおもしろい。
10年くらい前に、池谷裕二さんの『進化しすぎた脳』という本を読んで、その日から世界の見え方が変わった。

そうか、ぼくはこんなふうに考えていたのか。ぼくはこうやって脳に動かされていたのか。

思考は自由自在にコントロールできると思いこんでいたけど、
物理法則があるからどんなにがんばっても空を飛べないのと同じで、
ぼくの考えもいろんな化学的制約を受けていて、ごくごく狭い範囲でしか動かせないのだと知った。

その頃ぼくは無職で、精神的にもちょっと落ち込んでいたんだけど脳のしくみを知ってからはずいぶん生きやすくなった。

こんな考えを持つのも脳の構造上しょうがないんだ。
こう考えてしまうのはあたりまえのことだったんだ。


おい「自分探し」をしてるやつ、聞いてるか!

「自分」はインドにはないぞ! 本の中にあるぞ!



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2017年3月1日水曜日

R-1ぐらんぷり2017の感想

R-1ぐらんぷり2017の感想書きます。


【1回戦Aブロック】

・レイザーラモンRG 『トランプ大統領』

この人のすごさって、「プロとは思えない潔さ」ですよね。
トランプ就任直後にトランプやったり、五郎丸が流行ってるときに五郎丸やったり。
しかも似てないし、たいしたひねりもない。
プロの芸人がぜったいにやらないことでしょ。素人が(それもおもんないやつが)忘年会でやっちゃうレベルのキャラ。
それをプロがやるってのがすごいよね。
この人しかできない。ここまでいくと逆にカッコイイ。
もうおもしろいとかおもしろくないとかどうでもいい。ていうかおもしろくなかった
でもそれもいいじゃない、って思わされる人間的魅力があるね。相方がイヴァンカ・トランプの恰好で応援に来てたシーンもしみじみとした良さがあったなあ。こちらもやっぱりおもしろくなかったけど。

・横澤夏子 『ママチャリ』

達者だね。達者さがちょっと鼻につく感じだね。
一人芸って、ネタの力と表現力のかけ算だと思うんだけど、ネタが弱いよねえ。
というかこの道って、古くは山田邦子から、青木さやかやら柳原可奈子やらがさんざんやりつくしてしまった道だからねえ。

・三浦マイルド 『両方から聞こえてきそうな言葉』

ネタそのものは良かったんだけど、キャラクターとあってなさすぎてうまく入ってこなかったな。せっかく強いキャラクターがあるのに誰がやっても成立しちゃうネタだったな。
後半の保育園のくだりは広島出身という点をうまく活かしてたけど、そこにいくまでは「悪くはないけど……」っていう感じでした。

・サンシャイン池崎 『となりのトトロ』

たぶんああいう勢いで押しきるネタって、現場にいたら笑っちゃうと思うんだよね。
逆にいうとテレビで観ている人との温度差がいちばんあるのもこういうネタ。
きっと「まったく笑えなかった」という感想があふれかえっていたことでしょう。ぼくもそのひとり。


ぼくは「あえて言うなら三浦マイルドだけど誰でもいいや」って思ってましたが、サンシャイン池崎が最終決戦進出。


【1回戦Bブロック】

・ゆりやんレトリィバァ 『透明感のある女』

わかりやすいフリの後に、強い一言を並べていくネタ。
設定がフリーダムすぎて、客も戸惑っていたように感じた。
たとえば「なんで〇〇は××なん?」っていう言い回しで統一するとか、ヤンキーというテーマでそろえるとか、なにかしらルールがあったほうが見やすかったように思う。
ところでネタとまったく関係ないけど、ゆりやんレトリィバァってすごい吉本新喜劇にいる雰囲気漂わせてるよね。はじめて見たとき「ぜったい新喜劇の役者や」って思った。新喜劇側はぜったいほしいやろ。

・石出奈々子 『ジブリっぽい女の子が大阪に行く』

いきなりネタと関係ないこと書くけど、この人、すごいタイプ。
整っているようでちょっとだけくずれてる顔とか、小柄なとことか肌がきれいなとことか。
「かわいいなあ」と思って観てたのであんまりネタ覚えてないや。
ええっと、大阪に行く話ね。
ほんとジブリの世界の表現すごいね。特にあの力こぶのとことか。でも肝心のネタはおもしろくなかったなあ。大阪ネタが手垢まみれすぎて。
あの世界観で、大阪人全員から憎まれるぐらいどぎつい攻撃したらおもしろいんだろうなあ。

・ルシファー吉岡 『大化の改新』

よくできてるんだけど、設定自体はそこまでぶっとんでるわけじゃないから、あとはどれだけ切れ味の鋭い言葉を並べるかなんだけど、期待を超えてくれなかったなあ。
自身が2016年にやった「キャンタマクラッカー」のネタのほうが、設定、言葉のインパクト、くだらなさ、どれをとっても上だった。
自分に負けちゃだめだね。

・紺野ぶるま 『占い師』

15年くらい前だったらすごくウケてたと思う。
今でもおもしろくないわけじゃないんだけどね。でもすべてが古い。
いろんなネタをパクってんのか? って思っちゃうぐらい、どのボケも既視感があったなあ。
それでもまだ表現力があれば笑えるんでしょうけど。
この人がネタ書いて横澤夏子が演じたらうまくいくんじゃないかな。


Bブロックも消去法で石出奈々子かなあと思っていた。で、石出奈々子が最終決戦進出。

アイデンティティ田島の敗者復活コメントおもしろかったなあ。「ブルマも行ったし」
でも結果発表前に急にアナウンサーがコメント振った時点で「落ちたんだな」ってわかっちゃったから、あれはよくないね。


【1回戦Cブロック】

・ブルゾンちえみ 『キャリアウーマン』

見ててわかるぐらい緊張してたね。本人も「ネタ飛ばした」と言ってたし。
あの顔で余裕たっぷりのいい女を演じるのがおもしろいネタだから、緊張しちゃったら成立しない。
べつの番組で観たことあるけど、いちばん笑ったのは両隣の男のセリフだった。

・マツモトクラブ 『雪の夜の駅のホーム』

笑いの量を求められる場では勝てないだろうねえ。この人のはコントじゃなくてコメディだからねえ。
戦いの場を変えたほうがいいんじゃないかと思う。
ところで「掛川は新幹線止まらない」は、RGのネタを受けてのアドリブだったのかな。アドリブを入れにくい構造のネタなのに、がんばったなあ。

・アキラ100% 『全裸芸』

いやあ、おもしろい。これは惹きつけられちゃうでしょ。
以前に観たことあって、でも去年のR-1ぐらんぷりで決勝に行けなかった時点で「今後はもう無理だろうな」と思っていた。
だって見た目のインパクトが命だし、『丸腰刑事』の完成度は高かったから、「もうこれ以上のネタを作って上がってくることはないな」と思っていた。
で、今年になって決勝進出。「なんでいまさら」と思っていたら、ちゃんとネタのレベルを上げているのでびっくりしてしまった。
生放送だった、というのも有利にはたらきましたね。
板尾審査員がコメントしていたとおり、スリリングなネタで見入ってしまいました。

・おいでやす小田 『言葉を額面通りに受け取る彼女』

これはいいネタだね。いちばん笑ったのはアキラ100%だったけど、ネタの完成度はこれがダントツで1番だった。
「比喩表現を言葉通りに受け取ってしまう」ってボケ自体は古典落語にもあるぐらいだから目新しいものじゃないんだけど、見せ方がうまかったね。
彼女だけでなくウェイターも使ったり、言葉だけじゃなく手の動きもつけたり、妄想の会話を延々くりひろげるくだりがあったり、飽きさせない趣向が十分に凝らされていた。


アキラ100%がおいでやす小田を僅差で抑え、最終決戦進出。
ぼくも「笑ったのはアキラ100%、でも好みはおいでやす小田」と思っていたから、まあ納得。
あとは、アキラ100%にはかわいげがあるけど、おいでやす小田にはかわいげがないってのも、意外と審査に響いたのかも。本人が悪いわけじゃないけどね。


【最終決戦】

・サンシャイン池崎 『でかい剣を持ってるやつあるある』

あれ?
1本目のネタよりはおもしろいと思ったのに、こっちのがほうがウケてない。
ていうか客が疲れてない?
後半急カーブを切って着地する構成とか、叫びすぎて声出なくなってるとことか、おもしろかったのにな。好きじゃないけど。
「らしくない」ネタだったからすんなり受け入れられなかったのかな。
1本目と違う笑いのとりかたをしにきていて、じつはけっこう計算高い人なのかもね、この人。

・石出奈々子 『ジブリの世界のテレビショッピング』

サンシャイン池崎とは逆に、1本目と同じタイプのネタを持ってきて撃沈。
いやあ、びっくりするぐらいスベってたね。
ほんとおもしろくなかったなあ。かわいいだけだったなあ。かわいかったなあ。


・アキラ100% 『全裸芸』

サンシャイン池崎が空回り、石出奈々子がだだスベりで、やる前からほぼ結果が決まってしまったアキラ100%。
ここでのアキラ100%は安心感がありますね(ネタの内容は不安感しかないけど)。だってこの芸がスベることないでしょ。眉をひそめられることはあっても。
で、最後の最後までいろんな角度から全裸芸を見せてくれて楽しませてくれました。
ネタを見るだけで、まじめな人なんだなあってわかりますね。


というわけで、アキラ100%が残る2人に圧倒的な差をつけて、文句なしの優勝!


しかし、「R-1ぐらんんぷり優勝者は売れない」というジンクスがありますけど、このジンクスは少なくともあと1年は続きますね、これ……。



2017年2月27日月曜日

【読書感想エッセイ】 サラ クーパー 『会議でスマートに見せる100の方法』

サラ クーパー 『会議でスマートに見せる100の方法』

内容(「BOOK」データベースより)
会議に悩むビジネスパーソン必携!会議でスマートに見えること。それがトッププレイヤーになる一番の近道だ。でも、会議中は眠くなったり、つぎの休暇やランチのことで頭がいっぱいになったりしてスマートに見せるのが難しくなるときもある。そんなときこそ本書の出番だ。著者がYahoo!とGoogleで働きながら、会議に集中するふりをして書きとめた裏ワザの数々を大公開。これを実践すれば、すぐにデキる人の仲間入り!(会議の暇つぶしにもなるはず。)全世界500万ビューのビジネスあるあるブログが、ついに書籍化。
「世界で最も重要なビジネスウェブサイトだ」と自分で言っちゃうブログを書いているサラ・クーパーさん(ウソかマコトかGoogleとYahoo!で働いていたとか)が提唱する「会議で(表面上だけ)スマートに見せる方法」。

ぼくは会議がだいっきらいで、無駄な会議の多さに辟易して転職したぐらいの人間なので「どうして日本人はこんなに意味のない会議が好きなんだ」と思っていたんだけど、この手のジョークがいろんな国でウケているということは「会議が無意味」なのは万国共通なんだね。
むしろ人と人とのコミュニケーションを重要視する欧米のほうがその傾向が強いのかもしれないね。

労働時間のじつに75%が会議に費やされるそうだ。しかし、それらの会議のうち3分の1以上は次の会議の計画に使われる。そして全体の6分の1がボンヤリしていたせいで、いま言われたことを聞き返すために使われ、さらに6分の3は、本来はメールで済ませるべきだったことに使われる。会議ではだれもがウワの空だ。だから、先を越すためには、だれよりもうまくウワの空になることが必要だ。会議はじつは、リーダーの素質、社交能力、そして分析的でクリエイティブな思考能力をアピールする絶好のチャンスなのだ。
スマートに見えれば見えるほど、たくさんの会議に呼ばれるようになり、スマートに見せる機会が増え、そして瞬く間に、革張りの重役椅子でくるくる回りながら天井を見上げ口笛を吹いているだろう。CEOがいつもやっているみたいに。

これはジョークなんだろうけど、一抹の真実も含まれている。

会議を無意味と思っている人は多いのに、そしてメールやチャットやクラウドなど会議に頼らずとも情報を共有できるテクノロジーがこれだけあるのに、それでも会議はなくならない。
なぜなら、信じられないことだけど、世の中には「会議が大好きなやつ」がいるから。

何かあるたびに「これについては会議を開いて話し合おう」「ちょっとみんなにも話を聞いてみよう」と言いだすやつ。
で、終わったら「これを毎週やろう」というろくでもない提案をするやつ。

そういうやつにかぎって会議の場でなんら生産的な提案をしないんだよね。
要するに自分が何もわからなくて、何もわかってないことすらわかってないから、会議をしたらなんとかなるんじゃねえのって甘っちょろい考えを持っているわけだ。

「なんかおもしろい話して」って言う女が総じてつまんないのと同じく、会議を開きたがるやつが他人にとって有意義な話をしてくれることは決してない。


ぼくが会議を嫌いな288の理由

  1.  3人以上で話すとぜったいに話を聞かない時間がある。その時間は他の仕事をしたほうがいい。この無駄な時間は参加メンバーが増えれば増えるほど等比級数的に増えてゆく。
  2.  頭が悪いやつほど要点をまとめるのもへただから、ぐだぐだと長くしゃべる上に何が言いたいのかわからなくて聞き返される。結果、非生産的な彼らの話が会議の大部分を占めることになる。
  3.  その場の大多数を納得させようとすると、どうしても反論のしようのない(=内容のない)提案が説得力を持つことになる。具体的な「明日から19時には強制的にオフィスの電源を落としましょう」は反対されるけど「効率よく仕事をするよう努力しましょう」に反対する人はいない。結果、内容のない提言ばかりがされることになる。
  4.  そもそも、発案者が資料を作って「〇〇と考えるのですがみなさんのご意見をお聞かせください」ってメールかチャットを送れば済む話が大半。その労力を惜しんで他人の時間を割こうとする(会議をするというのはそういう話)ような人間と、まともなビジネスの話ができるとは思えない。



あんまり書きすぎると誰も読んでくれないのでこのぐらいにしておく(主張と会議は短いほうがいい)けど、ぼくが会議を憎んでいるのには他にも350個の理由がある(さっきより増えてる!)。

まあぼくは会議をサボることのできる立場にいた(というか見放されていた)のでしょっちゅう適当な用事を作ってすっぽかしてたけど。


この本では、役に立つようで立たない、会議での立ち居振る舞いが指南されている。

 『上司でもないのに場の空気を支配する方法』
 『電話越しにスマートに見せる方法』
 『たいしたことを言っていないのに、聴衆を魅了する方法』
 『描くだけでスマートに見える21個の無意味な図形』

もちろんジョークなんだけど、これをナチュラルになっているやつがけっこういるからなあ……。

以下、いくつかを紹介。

No.17 反論しようのないあたりまえのことを言う

あなたのすべての発言に相手を同意させるのは、スマートに見せるのに効果的だ。そのために一番よい方法は、相手が反論できないことを言うことだ。たとえば、次のように言えばいい。
・現実に向き合わなくては
・この件については、うまく対処しなければ
・優先事項に集中しなければ
・正しい選択肢を選ぶべきだ
・事実と意見だけに向き合おう

ぼくが前いた会社でも、毎日朝礼をやっていて、こういう濃度0.01%の話をずっと聞かされていました。
「最大限努力するようにしましょう」「目の前の重要な業務に注力するように」みたいなことを。
おまえは今までそれをやってなかったんかい。


No.38 リソースが限られていることをみんなに思い出させる

リソースが限られていることは、すでにみんな知っている。それなのに、あなたがそれを持ち出すと、なぜか絶対にスマートに見える。

会議でよく話されるテーマが「効率化」だよね。
その会議がいちばん効率化じゃないのに。
ぼくが前いた会社で(わあ愚痴ばっかりだ)、終業時間の2時間後に「残業をなくすにはどうしたらいいか」っていう会議をやっていたときはコントかと思いました。


No.57 「いい質問だ」と言って質問に答えない

質問者をほめると、答えないで済む方法を思いつくまで時間を引き延ばせるだけでなく、寛大なプレゼンターに見せることができる。その質問がどんなに素晴らしいかをたっぷり伝えたら、その後の「そのまま聞いていたらわかります」や「終わりに言います」、「あとで直接答えます」などはだれも聞いてないだろう。

ああこれはいいテクニックだなあ。
プレゼンをしていると、まともに答えるのがアホらしい質問がけっこう飛んでくるんですよね。
でもアホな質問をしているやつほど「おれ今いい質問してます!」って顔してるから、うっせえアホとも言いづらい(どんな顔してても言っちゃダメ!)。
そんなときはこうやってかわすのがいいね。勉強になるなあ。


No.96 次の四半期で一番楽しみなのはなにかと聞かれたら「イノベーション」と答える

一番楽しみなことについての話題が持ち上がったら(絶対に持ち上がる)、イノベーションについて語る。イノベーションに向けた努力や、イノベーションの機会についてなにかコメントする。

目的と手段が入れ替わっている人って多いよね。
ほら、政治の世界にもいっぱいいるじゃないですか。やたら『改革』とか『刷新』とか言うやつ。
それはあくまで手段でしかないのに、改革が目的になってるやつ。
「決められない政治より、決められる政治を」というのはヒットラーの言葉だけど、何かを変えると「やった気」になるんだよね。
シリコンバレーでは「やった気になれる魔法の言葉」が "イノベーション" なんだね。
同様に、「コミュニケーションが大事」ってな言説も、目的と手段をまちがっている例だよね。大学サークルかっ!



会議にうんざりしている人は楽しめる本だとおもう。

でもほんとに読んでほしいのは会議を愛している人だけど!
そしてぼくの願いは、ほんのちょっとでいいから世の中から会議が少なくなること。今ある会議のたった97%をなくすだけでいいから!


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2017年2月26日日曜日

【読書感想エッセイ】 木村 元彦 『オシムの言葉』

内容(「BOOK」データベースより)
「リスクを冒して攻める。その方がいい人生だと思いませんか?」「君たちはプロだ。休むのは引退してからで十分だ」サッカー界のみならず、日本全土に影響を及ぼした言葉の数々。弱小チームを再生し、日本代表を率いた名将が、秀抜な語録と激動の半生から日本人に伝えるメッセージ。文庫化に際し、新たに書き下ろした追章を収録。ミズノスポーツライター賞最優秀賞受賞作。
ぼくはサッカーファンではない。
正月のひまなときに、高校サッカーをテレビでやっていたら観る程度。
Jリーグも日本代表戦もまったく観ない。ダイジェストで得点シーンだけを観るのは好き。サッカーファン偏差値は40ぐらいか。

2014年のワールドカップも、毎日のダイジェスト番組を観ていた程度。
が、今でも強く印象に残っているチームがある。
それは優勝したドイツ代表でもなく、いわんや日本代表でもなく、ボスニア・ヘルツェゴビナ代表。

ボスニア・ヘルツェゴビナと聞いて、正確な場所がわかる日本人がどれほどいるだろうか。
「いっときニュースでよく聞いたような。紛争があったんだっけ」ぐらいの認識だろう。ぼくもそうだった。
「ボスニア・ヘルツェゴビナが初出場? ふーん、小さそうな国だもんね」ぐらいにしか思っていなかった。
でも、たまたまNHKスペシャルで『民族共存へのキックオフ〜“オシムの国”のW杯』という番組を観て、一気に引き込まれた。
(番組の内容については こちら に詳しい説明があります)


ボスニア・ヘルツェゴビナは、かつてはユーゴスラビアという国の中にあった(ぼくはユーゴスラビアという国がなくなったこともこの番組ではじめて知った)。
ユーゴスラビアは『七つの国境、六つの共和国、五つの民族、四つの言語、三つの宗教、二つの文字、一つの国家』と呼ばれ、いくつもの民族がせめぎあって暮らす国だった。
多くの多民族国家がそうであるように、次第に民族間の争いが深まり、1980年代後半からは殺し合いも頻発した。

そんな国家分裂寸前の1990年、サッカーのユーゴスラビア代表を率いて監督としてワールドカップに出場したのがイビチャ・オシム。
オシムは、ユーゴスラビア史上最高と呼ばれたメンバーを率いて予選リーグ、決勝トーナメント1回戦と勝ち進み、準々決勝で前回大会で優勝している強豪・アルゼンチンと対戦する。
以下は『オシムの言葉』より引用。

 ユーゴはひとり少ないこのフォーメーションで残りの88分を見事に戦い抜く。古都フィレンツェでの死闘は延長でも決着がつかず、PK戦に持ち込まれた。
 ここで選手たちはオシムに直訴する。
 ディフェンディング・チャンピオンを相手に押しまくった猛者たちは、国際映像でその勇猛果敢な姿を世界に晒しながら、PK戦を眼前に控えると怯えだした。
――監督、どうか、自分に蹴らせないで欲しい。
 オシムの下で9人中7人がそう告げて来たのだ。彼らはもうひとつの敵と戦わなくてはいけなかった。
「疲労だけではない。問題は当時の状況だ。ほとんど戦争前のあのような状況においては、誰もが蹴りたがらないのは当然のことだ。プロパガンダをしたくて仕方のないメディアに、誰が蹴って、誰が外したかが問題にされるからだ。そしてそれが争いの要因とされる。そういう意味では選手たちの振る舞いは正しかったとも言える。PK戦になった瞬間にふたりを除いて皆、スパイクを脱いでいた。あのピクシーも蹴りたくなかったのだ」
 祖国崩壊が始まる直前のW杯でのPK戦。これほど、衆目を集める瞬間があろうか。選手は国内の民族代表としての責務を背負い、スポットにボールをセットしなくてはならない。オシムはその重圧が痛いほど分かった。

PK選で、代表選手がそろって「蹴りたくない」と言う。ふつうならありえない。
そんな異常事態が起こっていたのが当時のユーゴスラビア代表だった。

選手たちも、自分が責められるだけなら蹴れたかもしれない。でも、失敗すれば家族や友人、同胞の命に身の危険が及ぶかもしれない。そんな状況ではほとんどの選手が「蹴らせてください」とは言えなかった。
イビチャ・オシム監督が率いていたのは、こんな異常な状態のチームだった。


互いに殺し合いをしている民族を集めて代表チームをつくる。
その苦労は想像を絶するものだっただろう。

「代表に来る方法もいる場所すらもないだろう。彼らは真剣に心配していた。『(代表に)行けば、(味方から)自分の村に爆弾が落とされる』。そんな状態の時に『来い!』と言えるはずがない。選手たちを道も穏やかに歩けないような状態に追い込むことはできない」
 オシムは苦笑とも嘲笑とも取れる表情を浮かべて声を出す。
「そこまでして、代表のために人を呼べるほど私は教育のある人間ではない」

当然ながらオシム自身も、あちこちから圧力をかけられる。
自分の民族の代表を優遇すれば他の民族から脅され、かといって自分の民族を優遇しなければ裏切り者となじられる。
それでもオシムは、「チームにとって必要であればどんな民族の選手であろうと使う。それが必要であれば敵民族の選手で11人そろえる」と公言し、非常事態の代表チームをまとめあげた。
各方面から妨害が入り、思うようにチーム作りができない。それでもぜったいに勝たなくてはならない。負ければ「あの民族の選手を使うからだ」という声が上がり、紛争の火種になるから。
こんな状況でベストを尽くしていたのだから、つくづくすごい監督だ。それにひきかえ野球日本代表の小久保監督は……。やめとこ。


しかしほどなくしてユーゴスラビアは崩壊。
スロベニア、クロアチア、セルビア、モンテネグロ、マケドニア、そしてボスニア・ヘルツェゴビナという国家に分裂する(コソボも正式国家ではないけど独立を宣言している)。
その中のひとつ、オシムの故郷であるボスニア・ヘルツェゴビナのワールドカップ初出場をとりあげたのが前述の『民族共存へのキックオフ〜“オシムの国”のW杯』だった。
(ちなみにボスニア・ヘルツェゴビナの初戦の相手は、奇しくもユーゴスラビアの最後の対戦相手となったアルゼンチンだった)


ぼくはその番組を観るまで、オシムという人のことをほとんど知らなかった。
日本代表監督をしていたことだけは知っていたが、持っている情報としてはそれだけ。
しかし、番組の中で、決して流暢ではないけれど重みのある言葉でサッカーそして国家のことを語るオシム氏の姿を観て興味を惹かれた。


有名なスポーツ選手で、しゃべるのが上手なひとは多くない。
どうしてもスポーツにばかり打ち込む人生を送ってきたから、その競技のことを詳しくない人にも理論を伝えることは難しい。
ぼくが知っているかぎりでは、それができる人って江川卓さんとか桑田真澄さんとか、ほんとにごく一部だけだ。

でもオシム氏は、サッカーのことを、サッカーを取り巻く環境のことを、雄弁に、そしてわかりやすく語ってくれる。
崩壊していく国家で代表監督をしていた。若いころは数学教師になろうとしていた。そうした経験が、理論的でときに大胆でときにユーモラスな言葉を言わせているのだろう。

「私は別にテレビやファン向けに言葉を発しているわけではない。私から言葉が自然に出てくるだけだ。しかし、実は発言に気をつけていることがある。今の世の中、真実そのものを言うことは往々にして危険だ。サッカーも政治も日常生活も、世の真実には辛いことが多すぎる。だから真実に近いこと、大体真実であろうと思われることを言うようにしているのだ」
――あの会見の言葉も?
 じっとこちらを見つめて口を開いた。ミステリアスな監督が、ようやく漏らした本音だった。「言葉は極めて重要だ。そして銃器のように危険でもある。私は記者を観察している。このメディアは正しい質問をしているのか。ジェフを応援しているのか。そうでないのか。新聞記者は戦争を始めることができる。意図を持てば世の中を危険な方向に導けるのだから。ユーゴの戦争だってそこから始まった部分がある」

ちょっとした発言が、文字通り命運を分けかねない立場にいたからこその思慮深い言葉。
おっさんになってきて、年々「思いついたことを口にしてしまう」病が進行しているぼくとしては、大いに見習わなくてはいけない。


オシム氏の言葉は、サッカー以外でも使えるような含蓄に富んだ言葉が多い。
特に組織についての言葉は考えさせられる。

「システムは関係ない。そもそもシステムというのは弱いチームが強いチームに勝つために作られる。引いてガチガチに守って、ほとんどハーフウェイラインを越えない。で、たまに偶然1点入って勝ったら、これは素晴らしいシステムだと。そんなサッカーは面白くない。
 例えば国家のシステム、ルール、制度にしても同じだ。これしちゃダメだ、あれしちゃダメだと人をがんじがらめに縛るだけだろう。システムは、もっとできるはずの選手から自由を奪う。システムが選手を作るんじゃなくて、選手がシステムを作っていくべきだと考えている。チームでこのシステムをしたいと考えて当てはめる。でもできる選手がいない。じゃあ、外から買ってくるというのは本末転倒だ。チームが一番効率よく力が発揮できるシステムを、選手が探していくべきだ」

「日本のサッカーはこれまで、非常に大きなステップを踏んで進化してきました。この十年、高度経済成長期と同じような、まさに『高度サッカー成長』とでもいえるような勢いで進んできたように見えます。
 しかし、その三段跳びのような大股のステップは、本来刻むべきだった細かなステップを踏まなかった、ということを示してもいます。本来、人は走りはじめる時、スタートダッシュの時には小刻みなステップから加速していくものです。この十年ほど、日本のサッカーは、その小刻みなステップを行なわずに進んでしまった、と思うのです。

システムにこだわる人は多い。
ビジネスの場では「〇〇社は成果主義を導入して業績を伸ばした」と言い、教育の場では「フィンランドではこんな教育法を取り入れています」と言う。

でも、どの組織のシステムもある日突然導入されたわけではなく、できた背景がある。
試行錯誤の結果、その組織のいろんな事情を鑑みて、たどりついたものだ。
はじめからめざしてその地点にたどりついたものではなく、いわば妥協の産物として得られたもの。
その奇跡的なバランスの完成品を持ってきて首だけすげかえるようなことをしたって、うまくいかない場合がほとんどだ。

日本は平和憲法を持ち、(形式的には)軍隊を持たずに戦後70年をそれなりに平和にやってきた。
でもそれは日本が島国であり、冷戦下でアメリカが中国やソ連を牽制するうえで重要な地理的位置にあったからであり、たとえばイスラエルみたいな敵国に囲まれた国家がそんな戦略をとってたらとっくに消滅していただろう。
だから他国でもうまくいくとはかぎらない。
トヨタのやりかたはトヨタだからできることであって、社員10人の中小企業に取り入れてもたぶんうまくいかない。

だれよりも深くシステムについて考え、だれよりも多くのシステムをつくってきたオシム氏が語るシステム論だから、共感できることも多い。
かといって、それはやっぱりオシム氏の考えであって、その完成品の考えだけそのまんま自分の状況に持ってきてもうまくはいかないんだろうね……。


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2017年2月25日土曜日

【DVD感想】 バカリズムライブ『類』

バカリズムライブ『類』

内容紹介(Amazonより)
バカリズムの最新オリジナル・コント・ライブ!! 2016年6月23日~26日に草月ホール(東京)で開催されたバカリズムライブ「類」の模様を収録! 主演「升野英知」/作・演出「升野英知」/作詞「升野英知」と、すべて自身で手がけているライブ作品。


・オープニング


このライブについて、ひたすら自画自賛するバカリズム。
ポスターや音楽やライブタイトルを絶賛し、センスがいいだの、知性を感じるだの、あげくにはサブカル心をくすぐるだの、一歩まちがえたら自分のライブを観にきた観客をばかにしているとも取られかねない(じっさいばかにしているのかもしれない)言葉を並べ立てる。
事実、ポスターも音楽もオシャレだし、このオープニングを1本のコントとしてカウントしてもいいぐらい十分におもしろい。 メタ的な笑いをちりばめながらもライブ本編への期待がいやが上にも高まる、小憎らしいオープニング。


・友情の類


自称「リア充」の男が、「非リア充」の友人に対して、リア充を隠していたことを謝罪をするという独白コント。
論旨は何もまちがってなくて男は本心から謝罪をしているわけだから、本来なら笑うようなことはないのに、でもずっとおかしい。
「当人はいたってまじめなのに傍から見ているとおかしい」というコントらしいコント。
ボケらしいボケはオチのみなんだけど、だからこそその破壊力は強烈。
即時性のあるコントだから5年後に観てももうおもしろくないんじゃないかな。


・(幕間映像)教師の類


・手品の類


ハイパー中本というマジシャンによる「言葉だけで表現する手品」。
ぼくも昔、同じようなことをしていたのを思いだした。
学生時代、友人と一緒に「ラジオ番組を作ろう」っていって、音声コントをカセットテープやMDに吹き込んでいた(時代だなあ)。
その中で、「ラジオだから音声しか聞こえないのにマジックショーをやる」という設定のコントをやっていた。
だから発想自体はさほどめずらしいものじゃないんだよね。「ラジオなのに匂いを伝えようとする」「電話なのにおもしろい顔をする」とかって。

でも、「過去の栄光として語る」という切り口を加えることによって、たしかめようのない過去の自慢をするやつへの風刺にもなっているというのがいい。
おっさんの「昔はワルかった」自慢みたいなね。どうせ誇張してるんだろうけど確かめようもないしそもそもおまえに興味ないから確かめようとも思わねえよハイハイすごかったんですね、みたいなやつね。


・(幕間映像)類物語


・上司の類


会社員の男が、「自分がいかに会社を辞めたいか」を表やグラフを駆使してプレゼンする。
「なんとかして自分の気持ちを伝えよう」と思っているという意味ではたしかにパワーポイントは適切なツールだし、こないだ会社を辞めた身としては思いの丈をぜんぶぶちまけてやりたいという気持ちもわかる(ぼくは言わなかったけど)。
「しょうもないことでもパワポでバーンと見せればおもしろい」ってのは、バカリズムやスーパー・ササダンゴ・マシンがよく使う手法だけど、ちょっとずるい笑いの取り方だよなあ。でも笑っちゃうんだよなあ。


・正義の類


罵倒することによって相手に精神的ダメージを与えるヒーロー・ノノシリンダー。
「手下の前で無理していきがってんじゃねえよカス、卓球部の2年か」みたいな言葉を延々並びたてる一人コントなんだけど、ちゃんと半泣きになっている敵が見える。
あのオチも鮮やかだね。いっそはじめからそうしてやれよ、って。


・(幕間映像)ボールは誰の何の類


・背徳の類


いろんなものをずらして楽しむ「ずらし屋」を名乗る男の独白。
途中から恋愛話になってきて、いったいどう着地するのかと思っていたらなるほどこういうことねというオチ。
単独ライブならでは、という感じのゆるめのネタ。
既婚者としてはちょっとドキドキした。


・(幕間映像)類物語


・反逆の類


叛逆精神の表出であるロックにあこがれた男による独白と歌。
一人『マジ歌選手権』というようなネタで、でも狙いがベタベタになっちゃった近年の『マジ歌』よりもずっとおもしろい。
いい歌だし。
『ガラスの翼は壊れたマリオネットのように傷だらけさ』『I think』『JOY』の3曲を披露。『I think』『JOY』は曲の最後でタイトルの意味がわかるという構成で、歌の中でもきっちりオチをつける完成度の高い曲。
今回いちばん笑ったコント。


・(幕間映像)思い出の類


・40LOVE~幸福の類~


40歳独身男が、生身の女性との結婚をあきらめ、精神的な結婚生活を想像する ”マリッジベーション” にふける。
「妄想彼女」という題材は新奇なものではない(『東京大学物語』という妄想の頂を極めてしまった漫画作品があるし)。でも先の展開のばかばかしさはすばらしい。これはライブで観たら、引き込まれる分めちゃくちゃ笑うだろうなあ。
終盤はラーメンズの『映画好きの二人』(公式動画)のような展開。



知性3割、バカ7割ぐらいのちょうどいい配分の作品集、という印象だった。

コントは知的なだけでは笑えない。
知的なだけでは感心はしても笑えないし、バカなだけだと後に何も残らない。
知性とバカの両方があってこそ印象に残る名作コントとなる。

だからいいコント師と呼ばれる人は、漫才のボケ/ツッコミほどではないにせよ「知性」と「バカ」の役割が決まっていることが多い。
(コントによって役割が変わることがあるけど)ラーメンズなら知性の小林とバカの片桐、バナナマンなら設楽の綿密な構成からはみだすほどに暴れる日村、というように。

ところが一人コントをしようとすると、「知性」「バカ」の両方の役割を一人で担わないといけない。
これはたいへん難しい。さっきまで賢いことを言ってたやつが急にバカなことを口にしても説得力に欠けるから。

でもバカリズムはこれを一人でやっている。
これをやるには何より表現力が必要なわけで、バカリズムという人はその奇抜な発想ばかりがどうしても語られるけれど、ぼくはそれより「表現力のすごい人」という印象を持っている。
ちょっと怒ったり、照れたり、相手をこばかにしたり、悪意を持って毒づいたり、あわてたり、とにかく表情が目まぐるしく変わる。
「演者」としての能力も高い人だと、コントを観るたびに思う。

「知性」が強く出た『バカリズム案』シリーズもいいけど、「バカ」と「表現」が存分に発揮されるコントのほうが、やっぱりいいねえ。


2017年2月23日木曜日

格安スマホに切り替えたからD社の悪口を書く

15年契約していた携帯会社のD社を解約して、MVNO(いわゆる格安スマホ)に乗り換えた。

さほどD社に不満があったわけではない。
(だってテレビCMがいちばんマシだもん。S社とA社は不快になるぐらいスベってるから。あれをおもしろいと思って作ってるやつの情報源コロコロコミックしかないのかな)
ただ安いから乗り換えたってだけ。

高い値をつけるのもひとつの営業戦略だから、それに対してどうこう言う気はない。

でも解約するにあたってナンバーポータビリティの手続きをして、いっぺんにD社を嫌いになった。


携帯会社のD社を大嫌いになった7つの理由
1.ホームページには「手続きはお近くのdショップでおこなってください」としか書いてない(じっさいはオンラインでも手続き可能なのに隠している)。

2.オンラインの手続きはPCからしかできない。
 スマホの手続きがスマホからできない!

3.手続きの方法が死ぬほどわかりにくい。
 ぼくはWeb業界の仕事をしているので人よりはるかに多くのホームページを見ているが、それでも迷いまくった。手続き方法を見つけられない人がほとんどだと思う。
「目次がない」「解約ページへのリンクがなくURLが書いてあるだけ」など、意図的に解約ページにたどりつけないようにしているとしか思えない作り。

4.オンラインの手続きなのに、9時から17時まで、とか時間が決まってる。
 Web上で申し込むだけなのだからぜったい24時間対応できるはずなのに(深夜に2時間だけシステムメンテナンスをするとかならわかる)。

5.手続きがめちゃくちゃ煩雑。本人確認→確認→完了 の3ステップでいいはずなのに、10ステップぐらいある。

6.決まった月に解約しないと1万円近い「解約手数料」をとられる(この解約手数料は裁判にもなっているぐらいグレーに近い)。

7.ナンバーポータビリティの申し込みをすると、その瞬間からLTE通信が使えなくなる。ナンバーポータビリティを申し込んだということは、いってみれば解約の予約をしただけ。まだ契約期間中なのにもう使えなくなる。

一度出ていった人が戻ってくることはないという前提で、全面的に「退会を邪魔してやろう」作戦に出ているわけですね。
7 なんかもう違法なんじゃねえのかとも思うんですが。裁判する気ないので泣き寝入りしますけど。


なんつうかね。
どっちに向かって努力しとんねんって感じですよね。

格安スマホ業者がどんどん参入してきて、顧客の流出が止まらない。値段では勝負できない。品質はどこ使っても一緒。
圧倒的不利な状況ですよね。

だったら、高齢者にターゲットを絞ってもっとサポートを手厚くするとか、利用料で儲けるのはやめて付随サービスで稼ぐシステムをつくるとか、今まで培ったいろんなノウハウを利用してまったくの新規事業に挑戦するとか、そういう方法しかないわけでしょ。
そんなことしたって焼け石に水かもしれないけど、たぶん死期を早めるだけになるだけなんだけど、でもそれしかないんですよ。

でもD社はそういう努力じゃなくて、「なんとかして既存顧客から搾り取ろう」ってがんばってるわけですよ。
「やめられないように魅力的なサービスを提供しよう」じゃなくて、「やめられる前に1円でも多くかすめとってやろう」ってがんばってる。



ぼくは他人にあんまり興味がないから、他人がどれだけ無駄な金を使おうが知ったこっちゃないって思ってる。
でも「ああそうか。D社って15年利用してくれた客に後足で砂かける会社なんだ」って思ったから、今後は積極的に人に「D社やめて他に乗り換えたほうがいいよ」って勧めていこうと思ってる。
「ナンバーポータビリティの申し込み方法難しいから教えてあげるよ」って言ってあげようと思ってる。

大手3社をやめて格安スマホに切り替えた人が、みんな口をそろえて
「乗り換えたほうがいいよ。お金もったいないよ」
って言うのを聞いて、みんな親切でおせっかいだなあと思ってた。

だけどそうか。ぼくみたいに乗り換えるときに前の会社から嫌な思いをさせられたから、恨みを晴らすために言ってるのか!



2017年2月22日水曜日

【読書感想エッセイ】 井上ひさし 『本の運命』

内容(「BOOK」データベースより)
本を愛する人へ。本のお蔭で戦争を生き延び、闇屋となって神田に通い、図書館の本を全部読む誓いをたて、(寮の本を失敬したことも、本のために家が壊れたこともあったけれど)本と共に生きてきた井上ひさしさんの半生と、十三万冊の蔵書が繰り広げる壮大な物語。

2010年になくなった井上ひさしさん。
小説家、戯曲作家、『ひょっこりひょうたん島』を手がけた放送作家など幅広く活躍されたが、本の界隈ではとんでもない読書家としても有名だった(遅筆家としても有名だった)。

ぼくは中学生のとき年間300冊ぐらい本を読んでいて、世間知らずだったので「こんなに本を読むやつは他にまずいないんじゃないか」と悦に入っていたが、その頃井上ひさしさんのエッセイを読んで、自分なんて読書家として「中の下」ぐらいだということを思い知らされた(読書量だけが大事なわけじゃないけど)。
井上ひさしさんの「本を積みすぎて自宅の二階の床が抜けた」というエピソードにあきれながらもちょっとあこがれたものだ。

井上ひさしさんの本の読み方(というか買い方)はもう常軌を逸している。
『本の運命』にこんな話が出てくる。

 本というのは読まなくても別に死ぬわけじゃないですから、買わなきゃそれでも済んでしまう。出版社が寄贈してくださる本もかなりありますから、本代を節約しようと思えば可能なんですね。でも僕は、本代をケチるようになったら自分はお終いだと、それだけは言い聞かせています。
 一番買い込んだのは、朝日新聞で文芸時評をやってた頃でした。たまたまその頃、僕の『吉里吉里人』がびっくりするほど売れて、印税がどんどん入ってきたせいもあった。
 気が大きくなって、「よしっ、世の中に出てる本で、文芸時評の対象になりうるものは全部買ってみよう」と決意して、一年間続けました。出入りの本屋さんに、小説と評論と漫画をとにかく全部取ってくれと頼んで。これは月に四、五百万円かかりました。
 お陰で、印税は本代で消え、税金を払うために借金をして、払い終わるのに五年ぐらいかかったでしょうか。これがきっかけで、本がたくさん売れるのが怖くなった(笑)。
 さすがにこんな買い方は続きませんでしたが、いまでも本代が月に五十万円ぐらいになるでしょうか。ですからうちの、エンゲル係数じゃなくて、本にかかる係数はかなり高い(笑)。

とんでもない買い方だ……。
調べたら『吉里吉里人』が刊行されたのは1981年。当時の大卒初任給は12~13万円だそうだ(参考リンク:年次統計)。
2016年度の大卒初任給が20万円くらいだそうだから(参考リンク:厚生労働省 賃金構造基本統計調査結果)、物価は今の6割くらいかな。
ってことは今の金銭価値だと月に1,000万円近くを本代にしていたということになる。
作家だから経費として認められるんだろうけど、それにしても多すぎる。ぼくが税務署員だったら「いくらなんでもこれは本代としてありえない」って朝イチで監査に入るね。



ところで「最近、時間なくて本読んでないなー」って言う人いるじゃない。
あれぜったいウソだよね。そんなはずない。
「時間なくてゴルフ行ってない」ならわかるよ。何時間か要する遊びだから。
でも本を読むのにまとまった時間なんていらない。1分の空き時間があれば読める。なんなら空き時間がなくても読める。ぼくは風呂に入りながら読むし、歯磨きをしながらも本を読んでいる。こないだスカイダイビングしたときも読書しながら落下してきましたし、っていうのと同じくらい「時間なくて本読んでない」はウソだ。

本をよく読む人ならわかると思うけど、むしろ忙しいときほど読書ははかどる。まとまった時間があったら出かけたり人と会ったりしちゃうからね。
本を読むと心を落ち着かせることができるから、忙しいときのストレス解消にいいんだよね。本を読みながら激怒している人を見たことある?


ぼくがいちばん本を読んでいたのは中高生のとき。さっきも書いたように年間300冊くらい読んでいた。
部活で朝練に行って、学校で授業を受けて、また部活して、夜はテレビを観たり勉強したりして、休みの日には友人と遊びにいっていたのに、いったいいつ読んでいたのか今思うとふしぎ。でも本って知らない間に読んでいるもんなんだよね。

逆に人生でいちばん本を読む量が減ったのは、本屋で働いていたとき。
激務だったからね。おまけに郊外型書店だったので車通勤をせざるをえず、通勤途中にも読めない(信号待ちのときに少し読んでましたけどやっぱり集中できない)。
ある日急に「本屋がいちばん本を読めないってどういうことだよ!」ってめちゃくちゃ腹が立って、本屋を辞めた(それだけが理由じゃないけど)。
忙しいときほど読めるっていったけど、さすがに1日15時間働いて、月に休みが3日だったら読めるわけない。



 本と野球と映画――、それが僕にとっては決定的でした。結局僕は、小さい頃の記憶にある本や文房具、レコード、映画、それから物置にあった野球の道具とか、そういうものをもう一度身のまわりに集めようと思って、後の半生を生きてきたような気がする。つまり、あの山形のちっちゃな店を自分のまわりにもう一度、建てようとしてる。そういう運命にあったんですね。

中崎タツヤさんという漫画家がいる。彼のエッセイ『もたない男』には、ひたすら物を持たない人間の生活が描かれている(なにしろ彼は、読みおわったページを捨てながら本を読んでいく)。
おもしろいエッセイなんだけど、同時に異常性を感じてうすら寒さを感じる。あらゆる物を捨てずにはいられないというのはきっと何かの病なんだろう。
そして、井上ひさしさんのエッセイにも似たものを感じる。
何にも持たないということと集めすぎるということは正反対に見えて、じつは表裏一体で、モノに執着しすぎるという点で同じ病なのかもしれない。

井上ひさしさんは、幼いころは本や映画に囲まれて育ったのに、父親が死に、母親とも離れて児童養護施設で暮らしていた。そういった生い立ちが異常とも思えるほどの本の収集癖につながったのだと自分で分析している。
そして収集癖が高じて、ついには故郷の町に大きな図書館を建てるということまでしてしまう。話のスケールがすごい。

図書館をつくるにあたって、海外の図書館を視察したことが書かれている。
以下は、シアトル市立図書館についての記述。

 もっと感心するのは、本の並べ方です。書棚に背表紙を並べるのじゃなくて、横にして本の表側を見せて並べてある。特に子供の本は、表側に楽しい絵を描いたり、色がとても鮮やかだったり、凝って作ってあって子供が喜ぶようになっている。それがずらりと並ぶと、美術館に来たように華やかで、子供がすぐに近づいていきたいという気になる。しかも一冊取っても、下に十冊ぐらい同じ本が置いてある。それでも人気がある本は、そこだけグッと引っ込んでしまいますから、今度は後ろにバネの仕掛けが付いていて、取るたびに前に出てくる……。とにかく、子供のことを考えて、心にくいほどの配慮をしているんですね。

ぼくも娘が生まれてから本屋や図書館の児童書コーナーによく行くようになった。
娘も本が好きなので、絵本を1冊持ってきて「次これ読んで!」と差しだすんだけど、娘がとってくるのはきまって、棚に並べている本ではなく、平台に積んであったり展示台に置かれている絵本。
子どもは字が読めない(読めても早くは読めない)から、書棚にたくさん並んでいる本の背表紙だけを見て、おもしろそうな本を見つけることができない。
だから表紙が見える本しか目に入らない。

これって考えてみたらあたりまえのことだけど、大人は意外と気づけないよね。ぼくも本屋のときは、背表紙を向けて書架に絵本を詰めこんでいた。


子どもと本を読んでいると、本ってただの情報源じゃなくて、アートであり、インテリアであり、おもちゃであり、アルバムなんだということを改めて気づかされる。子どもって、さわって、ひっぱって、投げて、ときにはなめて、本を楽しむからね。
手ざわりやにおいや重さも、本を構成する大事な要素だよね。

置き場所の事情もあって最近は電子書籍を買うことが多いだけど、やっぱり読みやすいのは紙の本(引用は不便だけど)。

許されるならばぼくも床が抜けるぐらいの紙の本を集めたい!



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2017年2月20日月曜日

値打ちこく

中学生のとき、学校のマドンナと呼ばれるような女子生徒が二人いた。
YさんとMさんとしよう。

あどけなさを残したかわいさのYさんと、少し妖艶な色気を漂わせたMさん。
生徒数の少ない中学校だったので、ほとんどの男子はそのどちらかに恋心を抱いていて、「おまえ好きな子いる?」は「YさんとMさんのどっちが好き?」とほぼ同義だった。


卒業してからも同窓会やなんやかんやで、YさんとMさんに会うことがあったけど、二人とも学生時代と変わらずきれいで、いかにもモテるんだろうなという雰囲気を身にまとっていた。

そんなYさんとMさん、三十代なかばの今でも独身だ。
話を聞くかぎりではYさんもMさんも結婚願望がないわけではなく、「いい人がいなくて……」と言っていた。

んなあほな。相手がいなかったわけがない。
学生時代からモテモテだったわけだから、言い寄ってくる男はいくらでもいただろうし、自分からアプローチすればなびく男はその数倍いただろう。



よくある話だ(東村アキコの漫画『東京タラレバ娘』も、まさにそんな話)。

この話を、会社の後輩(男)にした。
「美人だったから、もっといい相手がいると思ってえり好みをしているうちに婚期を逃しつつあるんだろうねー」
と言うと、後輩が言った。

「そうなんですよ。そういう女って値打ちこいてるからだいたい結婚できないんですよ」



いい言葉だ、と思った。
彼がそういう女性からどんな嫌な思いをさせられたのかはわからないけど、いい言葉だ。

「値打ちこく」ってのは関西弁だと思うが、この言葉の持つニュアンスを他の言葉で言い換えるのは難しい。

強いて言うなら「気取ってもったいをつける」みたいな感じだろうか。

「しょうもないもんのくせに値打ちこくなや」のように罵言として使われることが多い。たまに「自分を安売りせんともっと値打ちこいたほうがええで」みたいに使われることもある。
いずれにせよ、「じっさいよりも高い価値があるかのように見せる」という意味である。


なまじっかモテるから「わたしにはもっとイケメンで金持ちで、わたしの好きにさせてくれる男がいるはず」と思っている女を形容するのに「値打ちこく」はぴったりの言葉だ。


もっとみんな、お高く留まって婚期を逃しかけている女の悪口を言うときに「値打ちこく」という言葉を使うようになればいいのに。

あんまり機会ないけど。




2017年2月19日日曜日

手のひら、内出血すればいいのに

生のパフォーマンスを観る機会ってあるじゃない。
音楽だったりお芝居だったりお笑いだったりバレエだったり(バレエは見たことねえけど)。

そういうのを鑑賞するときの態度として、あたしがいちばん嫌いなのは手拍子。


あれなんなの。
何のつもりなの。
歌がはじまったとき途端に、取り憑かれたように手拍子はじめるやつ。少なからずいるけど。

「さあ、あたしがリズムとってあげるから上手に歌いなさい」って言いたいわけ?
さんざん練習積んで舞台上で歌を披露している演者が、おまえの手拍子なしではちゃんと歌えないと思ってるわけ?


観客の手拍子、すっごい邪魔。
あってよかったと思ったことない。

ノイズでしかねえんだよ。
舞台上のミュージシャンなり役者なり芸人だったりオペラ歌手だったり(オペラも見たことねえけど)の歌を聞きたいの、こっちは。
おまえの手拍子を聴くために金払ってんじゃねえの。



あとね。
何年か前に、ラーメンズのコントライブを観にいったのよ。
で、コントだからおもしろいこと言うじゃない。
ウケるじゃない。

そこで、手を叩いて笑うやつがいるのよ。

バカなの?
それとも、ゼンマイ巻いたらシンバル叩くサルのおもちゃみたいに、笑ったら自動的に手叩いちゃうの?

笑うのは当然。
コントだからみんな笑いに来てるわけだし、笑いって反射的に出るもんだし。
でも手を叩くのは意識的にやってるわけでしょ?
邪魔してる自覚ないの?

ラストの大オチで手を叩くならいいよ。
「おもしろかった!」って演者に伝える手段として。
あたしもおもしろかったコントが終わったときはせいいっぱいの拍手をするよ。

でも途中で手を叩くのはやめて。
続きのセリフが聞こえないんだよ。
まだ落語とか漫才なら、観客の拍手が鳴りやむのを待つ"笑い待ち"ができるかもしれない。
でもコントは芝居なんだよ。舞台上と観客席は切り離された空間なんだから、演者が観客の反応に合わせて"笑い待ち"をするわけにはいかないんだよ。



パフォーマンスの途中で観客が手を叩くのは、相手がしゃべっている途中に「はいどうもありがとうございました」って言うのと同じでしょ。
それくらい失礼な行為だと、義務教育で教えてほしい。

手拍子や拍手をするやつは、観劇とスポーツをごっちゃにしてるんじゃない?

スポーツは存分に拍手したらいいよ。
いいプレーが出たら思う存分手を叩けばいい。
ゴルフのパットの直前とかじゃないかぎりは、プレーの妨げにも観戦の邪魔にもならないから。


でも、フィギュアスケートにかぎっては、演技途中の拍手は禁止にしてほしい。

フィギュアで、ジャンプ決めるたびに客が拍手するでしょ。
あいつら、演技をひとつの作品として楽しむ気ないの?
まだ音楽が流れて演技が続いてるんだから拍手したら邪魔になると思わないの?

フィギュアスケートはスポーツであると同時に、芸術表現でもあるからね。
バレエやオペラと同じなんだから(だからバレエもオペラも見ねえけど)。



2017年2月17日金曜日

【読書感想文】 東野 圭吾 『新参者』

東野 圭吾 『新参者』

内容(「BOOK」データベースより)
日本橋の片隅で一人の女性が絞殺された。着任したばかりの刑事・加賀恭一郎の前に立ちはだかるのは、人情という名の謎。手掛かりをくれるのは江戸情緒残る街に暮らす普通の人びと。「事件で傷ついた人がいるなら、救い出すのも私の仕事です」。大切な人を守るために生まれた謎が、犯人へと繋がっていく。

東野圭吾さんの『加賀恭一郎シリーズ』。
加賀恭一郎シリーズといえば『どちらかが彼女を殺した』『私が彼を殺した』のような実験的なミステリのイメージがあったけど、最近では『赤い指』のように社会派のミステリに傾いてきている。

切れ者の加賀刑事が登場するこの『新参者』、正直にいって、ミステリとしては退屈な部類に入る。
『悪意』『容疑者Ⅹの献身』『聖女の救済』のようなあっと驚く仕掛けはない。
『秘密』『変身』『分身』のような、奇抜な設定があるわけでもない。
殺人事件が起きて、刑事がいろんな人に話を聞いていくうちに、徐々に謎が解き明かされていくというストーリー。
殺し方も平凡な絞殺だし(いやじっさいは平凡じゃないけどミステリとしては平凡)、密室でもないし、犯人は偽装工作を仕掛けたわけでもないし、アリバイトリックがあるわけでもなければ叙述トリックがあるわけでもない。被害者も犯人もどこにでもいるような市井の人だし、最後に明らかになる殺人の動機も凡庸。
ないない尽くしで逆に新鮮なぐらい。

ミステリ小説を構成するおもしろ要素が何にもない。
じゃあつまらないのかというと、おもしろいんだな、これが。



東野圭吾さんはもう押しも押されぬ大作家。
その大作家のテクニックで調理したら、派手さのない素材でもこんなにおいしくなってしまう。
志賀直哉、O・ヘンリー、阿刀田高、ジェフリー・アーチャーらの"短篇の名手"と呼ばれる人は、大したことのない日常のふとした出来事を、見事な短篇に仕上げてしまう。
東野圭吾さんもそんな領域に達している。
ミステリ作家としてだけでなく、小説家としても超一流になった証だね、こういう地味だけどおもしろいミステリを書けるのは。


『新参者』は、殺人事件を軸にストーリーが進むけど、大部分は「日常の謎系ミステリ」。
「キッチンばさみがあるのに新しくキッチンばさみを買ったのはなぜだろう」といった小さな謎を加賀刑事が解き明かしていく。
こうした謎はほとんど殺人事件とは関係ないが、それらの積み重ねの末にたどりつく真相。
その真相には東京下町の人々の人情がにじみ出ている……、というちょっと風変わりな味わい。

読みながら「なんか落語みたいな雰囲気の小説だな」と感じていた。
落語には滑稽噺とか怪談噺とかいくつか分類があるが、その中に人情噺というジャンルもある。
笑わせながらも最後はほろりとさせてくれる噺。
『新参者』は落語ではないので笑いはないけど(でも東野圭吾は笑える小説を書くのもうまいけどね。『名探偵の掟』シリーズは傑作!)、笑いの代わりに謎があり、サゲの代わりに真相がある。
人情噺ならぬ人情ミステリだね。
そういやO・ヘンリーも人情ミステリが多いな。

ミステリとして読むと肩透かしを食らいそうな小説だけど、人間の情や業を描いた短篇小説集だと思って読むと、しみじみとさせられる。

「奇抜な設定もトリックも意外性ないミステリなのになんでおもしろいんだろう」
これこそがいちばんのミステリであり、東野圭吾という実力者の仕掛けたトリックなのかもしれないね。


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2017年2月16日木曜日

【読書感想文】 久坂部 羊『ブラック・ジャックは遠かった』

久坂部 羊『ブラック・ジャックは遠かった
 阪大医学生ふらふら青春記』

内容(「BOOK」データベースより)
手塚治虫の母校、『白い巨塔』の舞台としても知られる大阪大学医学部。アホな医学生にとって、そこは「青い巨塔」だった。個性的すぎる級友たち、さまざまな初体験、しょうもない悩み。やがて解剖実習を体験し、研修医として手術に立ち会うことに。若き日に命の尊厳と医療について悩み、考えたことが作家・久坂部羊の原点となった。笑いと深みが絶妙にブレンドされた青春エッセイ!

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2017年2月15日水曜日

けなげな美人

2月の寒空の下、中華料理屋の前で店員がビラを配っていた。

ティッシュとか有用性のあるものじゃなくてただのビラだから、歩を緩めて受け取る人も少ない。
都会の人はせちがらいね。
かといって田舎で夜にビラ配りしたって、下手したら1時間やっても誰も通りかからないわけだけど。

ぼくもビラ配りを無視して通りすぎようと思ったんだけど、ふとビラ配りをしているかっぽう着姿の店員の顔を見て目を見張った。


美人。


モデルみたいなギラギラした感じの美人じゃなくて、高校の吹奏楽部一の美人みたいな感じ。
大砲みたいにばかでかい金管楽器持ってたくましいのに漂う素朴な美しさと知性、みたいな感じ。
電車の中で凛として文庫本を読んでいるのが似合うような美人。


おおっ、と思って思わずビラを受け取ってしまいましたよ。
さっき飯食ったばかりだけど。

美人に弱いからね。
それも「働き者の美人」にはとびきり弱いからね。

美人はそこそこいるけど、「働き者の美人」ってすごいよね。
だって中華料理屋の彼女は、目を見張るぐらいの美人なんだよ。
もっと楽にお金を稼ぐ方法はいくらでもあるはず。

大学生かな?
同級生はキャバクラとかでバイトしてるんじゃないの?
なのに時給数百円の中華料理屋でバイト。しかも、冬の戸外でビラまき。

けなげ。

やっぱりあれね。美人とそうでない人の差って、つらい境遇におかれたときに出るね。
結婚式とかで着飾ってたら、だれだってそこそこきれいだもんね。
幸せに満ちて笑っているときは誰だって素敵に見える。

でも逆境でこそ美人は輝く。

シンデレラもマッチ売りの少女も人魚姫もきっと美人でしょう。
不幸なブスは見てられないもの。


中華料理屋の美人は、ばんそうこうが似合う。
冬の皿洗いでひび割れた指に貼ったばんそうこう。本人は恥ずかしいから隠そうとするんだけど、そのばんそうこうはどんな指輪やネイルよりも美しいよ!なんて気持ち悪い言葉をかけたくなるね。


しかしさあ、2月の夜ですよ。おまけに寒波ですよ。
こんなときに美人に外でビラ配りさせる店主ってすごくない?
ぼくが店主だったらぜったいに言えないわ。
他にバイトがいなかったとしても「いい、いい。おれが行ってくるから。カナコちゃん(仮名)はここでテレビ観といて。お客さん来たら呼んでね」って言って外に行っちゃう。

お父さんが店主で、お父さんの店でバイトってパターンかな。
それもいいね。
家の仕事を手伝ってる子って「けなげさポイント」が上がるよね。

娘が美人で良からぬ男が寄ってこないか心配だから、店の手伝いをさせている。
だけど甘やかしたらいかんと思うから、つらいビラ配りの仕事を命じる。
娘を送りだした後、ぐっとこぶしを握る親父。すまんカナコ(仮名)、おれだってつらいんだ。

こういうシチュエーションもいいね。
やっぱり美人はすべてが絵になるね。

2017年2月10日金曜日

【読書感想文】 山田 真哉『さおだけ屋はなぜ潰れないのか?』

山田 真哉『さおだけ屋はなぜ潰れないのか?』

内容紹介(Amazonより)
あの店はいつも客がいないのになぜ潰れないのだろうか?――この本では、日々の生活に転がっている「身近な疑問」から考えることで、会計の重要なエッセンスを学んでいきます。細かい財務諸表は出てきませんし、専門用語もそれほど多くありませんので、気を楽にして、ひとつの読み物として読んでみてください。「会計が嫌い」「会計が苦手」「会計を学んでも意味がない」と思っている方でも、きっと会計に対する見方が変わるはず。
10年以上前のベストセラーを今さら読んでみました。
サブタイトルに『身近な疑問からはじめる会計学』とありますが、これはウソ。この本を読んでも会計学は身につかないでしょうね。
スタートラインに立つ前の本、「会計学っておもしろいかもしれないな」と思うための本ですね。

新書ですが、内容は会計士のエッセイといった感じです。
エッセイとして読めば、なるほどこういう考え方をする人もいるのか、という発見があっておもしろいです。


 この本の感想のつづきはこちら




【読書感想文】 藤井 健太郎 『悪意とこだわりの演出術』

藤井 健太郎 『悪意とこだわりの演出術』

内容紹介(Amazonより)
『水曜日のダウンタウン』『クイズ☆タレント名鑑』など、数々のバラエティ番組を手がけるTBSプロデューサーによる初の著書。
人気番組が生まれる背景、芸人の凄さのヒミツから、「ナレーション原稿もすべて自分で書く」こだわりの演出に宿る信念、藤井ワールドの特徴でもある〝悪意〟の正体まで……。テレビ界、最注目プロデューサーがその「手のうち」を余すことなく語った、ファンならずとも必読の一冊!
「本当に好きなことでしかその人の最大のパワーは出ないし、本当にやりたいことで突破していかなければ、そこに未来はありません」。

この本の感想はこちら



2017年2月5日日曜日

【読書感想文】池上 彰 『この日本で生きる君が知っておくべき「戦後史の学び方」』

池上 彰
『この日本で生きる君が知っておくべき「戦後史の学び方」』

内容紹介 (Amazonより)
敗戦から高度成長に至ったわけ、学校では教えない「日教組」、アベノミクスとバブルの教訓まで。池上彰教授のわかりやすい戦後史講義を実況中継!
歴史の授業ではなおざりにされがちな「日本の戦後史」ですが、社会に出るとこれほど「使える」分野はありません。そこで、池上彰教授の東工大講義シリーズ第2弾は、『この日本で生きる君が知っておくべき「戦後史の学び方」』。平成生まれの学生たちに、日本が敗戦から不死鳥のように甦った道筋から、現在の問題を解くヒントを教えます。「アベノミクスはバブルから学べるか?」「政権交代の不思議な歴史」「学校では絶対に教えない『日教組』」など、ビジネスパーソンにも参考になることばかり。

池上彰さんが東工大の1年生に向けておこなった近代史の講義をまとめた本。

この本の感想はこちら

2017年2月2日木曜日

脱肛コーデ

転職して初出社の日だってのにケツが痛い。

この痛みは知っている。

脱肛だ。
肛門が脱げると書いて脱肛。

なったことない人は知らないだろうけど、肛門ってのは着脱可能なのである。

ウェアラブル肛門。

軽やかに肛門を脱いだ装いが今の流行り!
脱肛コーデで春を先取りしちゃお☆


そんなファッショナブルな感じで脱げるんならいいんだけど、じっさいはもっと陰鬱なものだ。

なんせ、痛い。
座っても痛いし、歩いても振動で痛いし、力んでも痛いし、ケツにタイキックを食らっても痛い(あたりまえだ)。

さらにぼくは今、病み上がりで咳喘息というやつになっており、おまけに花粉症だ。
つまり、咳とくしゃみがひっきりなしに襲ってきて、そのたびにケツに力が入って悶絶する。


数年前にも脱肛になったが(そのときのいきさつはこちら)、何度目だろうと耐えられるようなもんじゃない。


そういや前に脱肛したときも、転職してすぐだった。
関係あるんだろうか。

新天地でがんばろうと意気ごんだら、肛門も新しい世界に飛び出したくなるんだろうか。

肛門だけはチャレンジ精神を持たず、体内に定年まで勤めあげてもらいたいものだ。


2017年2月1日水曜日

【読書感想文】 前川 ヤスタカ 『勉強できる子 卑屈化社会』

前川 ヤスタカ 『勉強できる子 卑屈化社会』

内容紹介(Amazonより)
勉強できて、すみません――なぜか「勉強できる子」に冷たい国、ニッポン。
ツイッターで大反響を受けた投稿「勉強できた子あるある」を発端に、教育史やメディア史を縦横無尽に
ひもときながら、日本のゆがんだ“逆学歴差別"の実態を分析。
国の将来を担うはずの「勉強できる子」たちが生きづらさを抱え続ける現状に、真っ向から警鐘を鳴らす!
巻末に著者と能町みね子との対談を収録。

ああ、学生時代にこの本を読みたかったなあ……。
大人になると忘れてしまう、子どものころに感じていた理不尽を丁寧にすくいあげた本です。

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【読書感想文】 加藤 希尊 『The Customer Journey』

加藤 希尊 『The Customer Journey』

内容紹介(Amazonより)
The Customer Journey(ザ カスタマージャーニー)

企業と消費者の接点がデジタルチャネルの浸透により格段増え、情報収集・購買における意思決定のプロセスが激変している。
お客さまが理解できないという課題を抱える企業が増える中で、注目されるのが「カスタマージャーニー」という考え方。
2014年11月に日本のトップマーケター同士が集える場として設立した「JAPAN CMO CLUB」の活動を通じて、見えてきたデジタル時代に実現すべき、顧客起点のマーケティングの実践論、方法論を解説。
これまでCLUBに参加した約50の企業の中から、30ブランドのマーケターが考える、カスタマージャーニーも収録。

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2017年1月19日木曜日

【読書感想文】 こだま 『夫のちん●が入らない』(Googleから検閲が入ったので一部伏字)


こだま 『夫のちん●が入らない』

(Google様から検閲が入ったので一部伏字にしています)
内容紹介(Amazonより一部抜粋)
“夫のちん●が入らない"衝撃の実話――彼女の生きてきたその道が物語になる。
2014年5月に開催された「文学フリマ」では、同人誌『なし水』を求める人々が異例の大行列を成し、同書は即完売。その中に収録され、大反響を呼んだのが主婦こだまの自伝『夫のちん●が入らない』だ。
同じ大学に通う自由奔放な青年と交際を始めた18歳の「私」(こだま)。初めて体を重ねようとしたある夜、事件は起きた。彼の性器が全く入らなかったのだ。その後も二人は「入らない」一方で精神的な結びつきを強くしていき、結婚。しかし「いつか入る」という願いは叶わぬまま、「私」はさらなる悲劇の渦に飲み込まれていく……。
交際してから約20年、「入らない」女性がこれまでの自分と向き合い、ドライかつユーモア溢れる筆致で綴った“愛と堕落"の半生。“衝撃の実話"が大幅加筆修正のうえ、完全版としてついに書籍化! 


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2017年1月16日月曜日

【エッセイ】パンツの色と防災意識

旧友たちと話していて
「なぜイタズラ電話魔は、女性にパンツの色を尋ねるのか」
という話になった。

実際に遭遇したことはないけれど、漫画の世界では、イタズラ電話といえば
「ねぇねぇ、お姉さんどんなパンツ履いてんの? ハァハァ……」
ってのが定番になっている。

考えてみれば、とても効率の悪そうなイタズラだ。

まず、無作為に電話しても好みの女性にたどりつけるかわからない。
相手がどんな人かを判断する手がかりも、声しかない。
女性にとって答えるメリットのない質問だから回答率は低そうだ(せめて「下着に関するかんたんなアンケートに答えるだけでQUOカード500円分が当たる!?」みたいにすればちょっとぐらいは答えてくれるかもしれないのに)。

だいいちそこまでしても得られるのが「どこの誰だかわからない人の下着の色」というわずかな情報だけなのが、割にあわない気がする(じゃあ何ができたら割りにあうのかという疑問は今は置いておく)。



「そもそもパンツの色なんか訊かれたって、答えたくても答えられないよね。自分が今日はどんな色の下着を身につけてるかなんて、意識してないもん」

ぼくが云うと、その場にいたひとりの女友だちが首を振った。
 「あたしは言えるよ。自分が今日はどんな色の下着してるか」
「えっ。うそ」
 「ほんと」
「見なくてもわかるの」
 「わかるよ。女の人はだいたい把握してるんじゃないかなあ。自分が今履いてるパンツの色を」
「じゃあ今は?」
 「んー黒」
「見せて」
 「それはやだ」
「なんでパンツの色なんか覚えてるの」
 「だってほら。何が起こるかわからないじゃない。とんでもなくかっこよくて優しくて大金持ちの男の人と知り合って、その日のうちにゴニョゴニョならないともかぎらないでしょ。そのときになって今わたしどんな下着してるっけ、ってあわてるわけにはいかないじゃない。だから常に把握してる」
「えー。そんなアバンチュールに身を任せちゃうタイプなんだ」
 「いや、ないけど。30年生きてきてそんなこと一度もないけど。でも一応備えておくのが女のたしなみってやつよ」

すごい。
素直に感心してしまった。
はたして彼女のいうとおり女性はみんな自分の下着の色を把握しているのだとしたら、女性たちはなんという緊張感の中に身をおいて生きているのだろう。

はっきりいってぼくにはそんな緊張感なんぞ皆無である。
パンツを履いた1分後にはもうパンツのことなんて忘れている。
ぼくのもとにイタズラ電話がかかってきて「ねえねえ。今どんなパンツ履いてるの?」と訊かれたとしても、きっと答えられない。
「あーわかんないなー。ヒントちょうだい。それか3択にしてくんない? せめて履いてるか履いてないかだけでも教えて!」とか言っちゃいそうだ。

自分のパンツの色を把握している人は、いつ来るかわからない地震のためにちゃんと防災グッズを用意している人だと思う。
不測の事態に対する備えが完璧なタイプ。
万が一の状況への意識の差がこういうところに表れているのだ。

ぼくみたいにセンサー感度が低い人間は、地震のときに逃げ遅れたり、美女とのアバンチュールという千載一遇のチャンスをよれよれのパンツのせいで棒にふってしまったりするのだろう。


そうか。

イタズラ電話の主は、パンツの色そのものを知りたいのではなく、この質問に即答できるかどうかを探ることによって生物としての危機回避能力の高さを確かめようとしているのかもしれない。




2017年1月7日土曜日

借りパクの証

同僚が1か月くらい前から急に会社に来なくなって、そのまま辞めちゃった。

それはまあいいんだけど、問題はそいつにDVDを貸していたってこと。


それも、1枚じゃない。
貸していたのは、古畑任三郎のDVD-BOX。
しかもシーズン2。
ぼくのいちばん好きな風間杜夫の回や、丁々発止のやりとりが存分に味わえる明石家さんまの回や、 派手さはないがあっと驚く謎解きが味わえる澤村藤十郎の回が収録されている、シーズン2。
ミステリとしてもコメディとしても最も脂の乗っていたシーズン2。

そんな大切なDVD-BOXが、借りパクされようとしている。



ぼくがこの世でいちばん憎い犯罪は、借りパクと傘泥棒だ。

なぜなら、借りパクも傘泥棒も、「被害者が受けたダメージのわりに、加害者の罪の意識が小さすぎる」からだ。


ぼくはまだ人を殺したことがないけれど、人を殺したらものすごく罪の意識を感じるだろう。
毎晩うなされるかもしれない。
それがふつうの感覚だ。

サイコパスの快楽殺人犯だったら、後悔したり反省したりはしないかもしれない。
だけど、少なくとも「自分は犯罪をした」という自覚ぐらいは持つにちがいない。

それなのに、借りパクするやつと傘泥棒は、ほとんど罪の意識を感じていない(たぶん)。
寝る前に「なんであのとき傘を盗んでしまったんだろう……。取り返しのつかないことをしてしまった……」と激しい自責の念に駆られたりしない。
「ちょっと借りとくね。もしかしたら返すかもしれないし」ぐらいの気持ちだと思う。

それがぼくには許せない。
ぼくの傘を盗んだ犯人には、一生「おれはあのとき傘を盗んだ」という罪の意識を背負って生きていってほしい。
できることなら、傘を盗んだ自分への戒めとして、己のひたいに傘の形のタトゥーを入れてほしい。
そこまで反省するなら許してやってもいい。



ぼくのDVDが借りパクされようとしている。
これはつまり、かつての同僚が、世紀の大犯罪者になろうしているということだ。

黙って見過ごしていてよいのだろうか。
否。
ぼくには政治がわからぬ。
しかしこのぼくが、奴がダークサイドに堕ちるのを止めてやらねばならぬ。


さいわい、奴のLINE IDを知っていた。

とはいえ、いきなり「おいDVD返せ」とぶしつけなメッセージを送るほど無神経ではない。
まずは退職する同僚への惜別の挨拶を告げ、ふと思い出したかのように「DVD返して!」と告げた。


で、返ってきたのがこのメッセージ。



それから、待てど暮らせど次のメッセージが来ない。

え……?


「お借りしっぱなしでした!!!!!すみません。。」

ここまではわかる。

ふつうはこの後に
「返します! 会社に持っていけばいいですか?」
とか
「郵送するので自宅の住所教えてください!」
とかあるはずだよね……。

え? え?

もしかしてさっきの「すみません。。」って、「借りパクするけどすみません。。」ってこと!?



おいっ!!

DVD返せ!


それかひたいに「シーズン2」ってタトゥー入れろ!!






2017年1月4日水曜日

切ない積み木

3歳の娘を連れて近所のおばあさんの家に行ったら、積み木やぬいぐるみをいっぱいくれた。

その家には娘がふたりいる。ふたりとも40歳を過ぎている。

長女は結婚して家を出ている。12歳と9歳の子どもがいる。
次女のほうは独身だ。まだ実家にいる。


さて。
それをふまえて、ぼくの娘がもらった積み木とぬいぐるみについて考えてみた。


けっこう年季の入ったおもちゃだ。

今では40歳を過ぎた娘たちが、幼い頃に遊んでいたものだろう。

やがて彼女らは成長し、おもちゃで遊ばなくなる。
でも、数々の想い出が詰まったものだから捨てられない。

「いつか孫ができたときのためにとっておこう」
そう考えて物置にしまう。



やがて長女は結婚し、孫ができる。

孫たちが遊びに来たので、物置から積み木とぬいぐるみをひっぱりだしてくる。

かつて娘が遊んでいたおもちゃで、孫たちは喜んで遊ぶ。こんなにうれしいことはない。



しかし孫の成長はあっという間。
彼らもやがてぬいぐるみでは遊ばなくなる。

でもやっぱり処分はできない。

いつか次女に子どもができたときのために……。
そう思ってふたたび物置にしまいこむ。



ぼくの娘がもらいうけたのは、その積み木とぬいぐるみなんだと思う。

ということは、つい最近、「次女が結婚して子どもを産む」ことをあきらめたのではなかろうか。

だから、他人であるうちの娘にぬいぐるみをくれたのではないだろうか。



ううむ。

そう考えると切ないものがある。

ぜんぶ勝手な想像だけど。



とりあえずぼくは、同じ思いをしないよう、ひな人形を早めに片づけようと思う。
3月3日の午前中のうちには片付けようと思う。