2025年12月11日木曜日

【読書感想文】堀井 憲一郎『若者殺しの時代』 / 成熟しすぎて腐ってしまった社会

若者殺しの時代

堀井 憲一郎

内容(e-honより)
クリスマスが恋人たちのものになったのは1983年からだ。そしてそれは同時に、若者から金をまきあげようと、日本の社会が動きだす時期でもある。「若者」というカテゴリーを社会が認め、そこに資本を投じ、その資本を回収するために「若者はこうすべきだ」という情報を流し、若い人の行動を誘導しはじめる時期なのである。若い人たちにとって、大きな曲がり角が1983年にあった―80年代に謎あり!ずんずん調べてつきとめた。

 様々な史料、そして著者自身の体験・記憶を元に、1980年代に「若者」の扱いがどう変わったのかを記録した本。

 史料がかなり偏っているし記憶に頼っている部分もあるので信頼性はないが、それでも「時代の空気」みたいなものは十分に伝わってくる。なにより堀井さんの語り口がおもしろい。いろんな人の文章を読んできたが、その中でも好きな文章ランキング上位に入る。

 ぼくは1980年代生まれなので、1980年代の空気というものをまったくといっていいほど知らない。新聞やテレビで自分の手の届かない“世間”を知るようになった頃にはもう1990年代だった。だから著者の語る「1980年代の前と後」の話はおもしろかった。なにしろぼくは“後”のほうしか体験していないのだから。



「若者」向けのマーケティングがなされるようになったのが1980年頃だと著者は語る。

 おとなにとって、若い連中とは、社会で落ち着く前に少々あがいてるだけの、若いおとなでしかなかったのだ。その後、「若いおとな」とはまったく別個の「若者」という新しカテゴリーが発見され、「若者」に向けての商品が売られ、「若者」は特権的なエリアであるかのように扱われる。若い、ということに意味を持たせてしまった。一種のペテンなのだけど、若さの価値が高いような情報を流してしまって、とにかくそこからいろんなものを収奪しようとした。そして収奪は成功する。
 あまりまともな商売ではない。田舎から都会に出てきたばかりの人間に、都市生活に必要なものをべらぼうな値段で売りつけているのと変わらない。それも商売だと言えば商売だが、まともな商売とは言えない。自分たちでまだ稼いでいない連中に、次々とものを売りつけるシステムを作り上げ、すべての若い人をそのシステムに取り込み、おとなたちがその余剰で食べてるという社会は、どう考えてもまともな社会ではないのだ。まともではない社会は、どこかにしわ寄せがくる。それが21世紀の日本と日本の若者だ。

 それ以前は、社会人になれば「大人」のカテゴリだったと著者は主張する。

 1980年代といえばだいたい団塊ジュニア世代が十代だった頃と一致する。つまり「若者」の数が多かった時代だ(それ以降ずっと減り続けている)。しかも日本は好景気。数多くいる「若者」にはそこそこ自由に使える金もあった。

「若者」は金になると気づいた大人たちが様々なメディアで「これが若者の理想の生活」「若者のカップルはこう行動する」「このアイテムを持っているのがナウい若者」とはやし立て、まんまと若者から収奪することに成功した……というのが著者の主張だ。

 そんなものかもしれない。ちがうかもしれない。なにしろぼくは80年代以前を知らないので。

 でも少なくとも90年代~00年代には「理想の若者像」がなんとなくあった気がする。こういう服を着て、こういう化粧をして、こういう所に行くのがイケてる若者ですよ、という像が。それは若者自身が抱いていたものというより、もっと上の世代が作って押しつけようとしていたものだったんだろうけど。

 最近はどうなんだろう。なんとなくだけど、なくなりつつあるような気がする。新聞やテレビが力を失い、ネット上では趣味が細分化され、SNSでの流行はあれどすごいスピードで消化され、1週間前のトレンドをもう誰も話題にしなくなっている。

 それに、若者の数がすごく少ない(今の10代は100万人ぐらいで全人口の9%ぐらい。1980年代にはこの倍ぐらいいた)ので「若者」市場が魅力的でなくなったのもあるだろうしね。しかも今の若者は金を持ってないし。



 社会の動きが止まった、という話。

 80年代の後半、バブルの時期は、まだ社会が動いていた。90年代に入ってすぐのころまで、まだ社会はダイナミックだった。つまり、がんばれば逆転可能だったのだ。
 でも90年代に入り、動きがにぶくなり、ついにほとんど止まってしまう。
 がんばれば逆転、の可能性がなくなって、もっともわりを食うのは若者である。「こいつは見どころがある」程度のレベルでは、相手にしてもらえなくなった。可能性があるだけでは、誰も見守ってくれなくなったのだ。入試に遅れそうな大学受験生に対して、1980年代が持っていた寛容さは、どんどん姿を消している。若者を許しておいてやろう、というおとながいなくなってしまった。それは、戦後生まれの世代とそのあとの世代が、まったくおとなになろうとはせず、いつまでたっても自分たちが若者のつもりだからである。上の世代がおとなになって、おとなを演じてくれなければ、10代や20代の若者は、若者にさえなれないのだ。若者にとってつまらない時代がやってきた。若者がおとな社会にとびこむには、札束で頬を叩き、ルールを無視して実績を作っていくライブドア的手法しか見出されなくなった。
 若者がゆっくりと殺され始めたのだ。

 個人的に強く印象に残ったのがこの文章。

「こいつは見どころがある」程度のレベルでは、相手にしてもらえなくなった。

 昔がどうだったかは知らないけど、たしかに90年代以降、ぼくが知るかぎりでは「若者の可能性に賭ける」だけの余力は日本の社会にはほとんどない。

 上に引用したのはずいぶん抽象的な文章で、裏付けとなるようなデータもないけど、ぼくの実感としてはしっくりくる。わけのわからんやつだけど若さに賭けていっちょ任せてみよう、という余裕を持っている企業や組織がどれだけあるんだろうか。それだけ日本社会が成熟したということでもあるし、成熟しすぎて腐ってしまったのかもしれない。



 今の日本を見てみると、多くのものが戦後に作られたシステムで動いている。

 マイナーチェンジはくりかえしているが、大きなシステムは1960年頃とあんまり変わっていない。

 問題はここにある。
 五十年かけて作ったシステムを、誰も手放すことができなかったのだ。
 ゴールしたことも知らされなかった。
 そのまま走り続けた。1995年のゴールから十年。無意味に走り続けたのだ。息も詰 まってくるはずである。
 でも次なる目標が設定されない。目標がおもいつかないのだ。おもいつかないのなら、 しかたがない。
 僕たちの社会は、古く、意味がなくなった目標のもとで進むことになった。「これから もまだ裕福で幸せな社会をめざして右肩上がりで発展してゆく」ことになったのだ。
 無理だ。おもいっきり無理である。わかってる。でもしかたがない。これから、いろん なものが過剰になる。 富が偏在する。どこかで綻びが目立ち始め、いつか破裂する。 それ でも進むしかない。僕たちは「いまのシステムを手放さず、このまま沈んでいくほう」を 選んでしまった。
 「大いなる黄昏の時代」に入ってしまったのだ。

 たとえば軍事に関していえば、「アメリカの核の傘に入って、アメリカと仲良くしておけば大丈夫」という感じでずっとやってきた。戦後80年それでやってきた。だがこれが続くという保証はない。

 経済に関しても「経済成長を続けていけば大丈夫。好不況の波はあれど長期的にはGDPが増えて国が豊かになる」という方針でやってきた。そのやりかたはもうとっくに破綻している。人口がどんどん減っていく社会で経済発展が続くはずがない。嘘だということにみんな気づいている。でも気づかないふりをして、80年間やってきたやり方を続けようとしている。その“嘘”のひずみが若者に押しつけられていても、年寄りを守るために見て見ぬふりをしている。



 ある時期を境に、若者の未来が年寄りに収奪されるようになった。『若者殺しの時代』ではその転機となった時代の流れを書いている。

 が、“若者殺しの時代”に抗う方法は書いていない。そんなものはないのだろう。年寄りだけが感染する致死性の高いウイルスでも流行しないかぎりは。

 いよいよ国がぶっ壊れてしまうまでは年寄り優先のシステムを続けていくんだろうな、この国は。


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2025年12月10日水曜日

【読書感想文】高野 秀行『未来国家ブータン』 / 不自由が幸福の秘訣

未来国家ブータン

高野 秀行

内容(e-honより)
「雪男がいるんですよ」。現地研究者の言葉で迷わず著者はブータンへ飛んだ。政府公認のもと、生物資源探査と称して未確認生命体の取材をするうちに見えてきたのは、伝統的な知恵や信仰と最先端の環境・人権優先主義がミックスされた未来国家だった。世界でいちばん幸福と言われる国の秘密とは何か。そして目撃情報が多数寄せられる雪男の正体とはいったい―!?驚きと発見に満ちた辺境記。

 ブータン探訪記。

 正直、高野秀行さんの他の著作と比べると、わりとふつうの旅行記に収まっているかな。高野さんのノンフィクションは「ほんとにそんな民族いるのかよ!?」「21世紀によくこんな国が成り立ってるな!」と我々とはまったく異なる文化を紹介してくれるのでおもしろいのだが、『未来国家ブータン』を読んでいておもうのは「ブータンってけっこう日本に似ているところがあるな」とか「昔の日本もブータンみたいだったのかもなあ」といったことで、あまり驚きはない。

 ブータンは「半鎖国国家」である。一般の旅行者は一日二百ドルも払う義務があり、基本的に観光ガイドを連れて、予定したルートしか回れないという。私は旅行者でなく政府と一緒に調査に来ている。「どこへ行ってもいい」と聞いていたから、おもしろい情報があればそこに行ってみるくらい当然できるだろうと思っていたのだが、それは間違いだった。
 行く場所は自由だが、それは前もって許可を申請しないといけない。それだけではない。その場所に到着する日にち、そこを出る日にちも申請し、その日程通りに動かなければいけない。
 要所要所に関所のような検問所があり、提出した書類の日にちとズレがあると通してもらえなくなるという。

 もしも明治維新が起きずに日本が鎖国を続けていたら、ひょっとしたらブータンみたいになっていたのではないか……。そんな想像もしてしまう。

 企業の依頼で生物資源探査に向かう、という(高野さんにしては)まっとうな目的があるのも、ルポルタージュとしてものたりない理由のひとつだ。



 ブータンは中国・インドという二大大国に挟まれる位置に存在している。人口は約87万人。世田谷区民より少ない。

 ブータンは小さな国だ。それは今までもさんざん見てきたが、ここタシガンに着いて改めて驚かされた。なにしろ、ブータンでも最も人口の多い土地の中心地なのに、呆れるほど小さい。端から端まで歩いて十分かからない。山の斜面に石造りとコンクリートの建物が数十軒へばりついていて、イメージとしては、箱根登山鉄道の一つの駅(例えば強羅)の周辺みたいだ。
 町の総人口が少ないうえ都市化も進んでいない。
 ホテルの部屋からタシガンの町を眺めていると、「どうしてブータンは国として認められているのか」という恐ろしい疑問をおぼえてしまう。
 別に国である必要はないんじゃないか。中国雲南省やタイ北部やインド東部の山奥の州や県であってもおかしくない。いや、そっちのほうがよほど自然だろう。
 私が思うくらいだから、ブータン王国を運営する人たちは、間違いなくそれを不安に思うはずだ。だからことある毎に「ブータンは一つ」「ブータン人は独自の民族」と訴えるわけである。
 なにしろインドと中国という人口十数億の二大超大国の間に挟まっているのだ。いつ、どちらかに飲み込まれるかわからない。現実にブータンと近しい二つのヒマラヤの国、シッキムとチベットはインドと中国にそれぞれ吸収されてしまった。
 シッキム王国はネパール系移民の数が元の住民を上回り、住民投票でインドに帰属することになってしまったし、チベットはご存じのとおり中国に侵略され、そのまま同化の道をたどっている。
 ブータンの独自路線というのは、環境立国にしても伝統主義にしても理想を追い求めた結果ではなく、「独自の国なんですよ!」と常にアピールしつづけないと生き残れないブータンの必死さの現れなんだとしみじみ思う。

 なるほど。このあたりはちょっとイスラエルにも似ている。イスラエルは(宗教的に対立する)アラブ諸国に囲まれているので、アメリカとの結びつきを強くしたり、諜報活動に力を入れたりしているそうだ。

 だがブータンは経済や軍事ではなく、「環境保護」「国民の幸福度」といった独自の路線で生き残る道を選んだ。これはいい戦略だとおもう。へたに軍備に力を入れたらかえって攻め込まれる口実を与えるだけだし、山ばかりの内陸国で経済発展はかなりむずかしいだろう。

 そして先進国が「経済成長ばかりじゃだめだ。物質の豊かさだけでは幸福にはなれない」と気づいたとき、気づけばブータンという理想的(に見える)国があったのだ。周回遅れで走っていたらいつのまにか先頭になっていたようなものである。

 ブータンがこの状況を完全に読んでいたわけではないだろうが、とにかく独自路線を貫いていたブータンは世界から注目される国になったのである。とりあえず今のところは作戦成功していると言ってよさそうだ。




 ブータンでは、1970年代に国王が提唱した「国民総幸福量」を提唱した。国内総生産のような物質的豊かさではなく、精神面での豊かさを強調したのだ。

 現にブータン国民は自身が幸福と感じている人が多く、結果、「世界一幸せな国」とも呼ばれるようになった(※ ただし2010年頃からはスマホの普及などで海外の情報が入ってきたこともあってブータン国民が感じる幸福度は低下してきている)。

 ブータン国民の「幸福」の原因を高野さんがこう考察している。

 そうなのである。ブータンを一ヶ月旅して感じたのは、この国には「どっちでもいい」とか「なんでもいい」という状況が実に少ないことだ。
 何をするにも、方向性と優先順位は決められている。実は「自由」はいくらもないが、あまりに無理がないので、自由がないことに気づかないほどである。国民はそれに身を委ねていればよい。だか個人に責任がなく、葛藤もない。
 シンゲイさんをはじめとするブータンのインテリがあんなに純真な瞳と素敵な笑みを浮かべていられるのはそのせいではなかろうか。
 アジアの他の国でも庶民はこういう瞳と笑顔の人が多いが、インテリになると、とたんに少なくな
 教育水準が上がり経済的に余裕が出てくると、人生の選択肢が増え、葛藤がはじまるらしい。
 自分の決断に迷い、悩み、悔いる。不幸はそこに生まれる。
 でもブータンのインテリにはそんな葛藤はない。庶民と同じようにインテリも迷いなく生きるシステムがこの国にはできあがっている。
 ブータン人は上から下まで自由に悩まないようにできている。
 それこそがブータンが「世界でいちばん幸せな国」である真の理由ではないだろうか。

 なるほどねえ。自由が少ないから、悩まない。情報が少ないから、迷わない。

 うーん。たしかに幸福なのかもしれないけど、なんかそれってディストピアみたいだよなー。知らないから幸せでいられる。大いなる存在が無知な人民を支配して、人々はぼんやりとした顔で幸福に暮らす、SFでよくある話だ。

 でも「幸福」ってそんなもんなんだよね。たとえば今の女性って(昔に比べて)いろんな生き方を選べるけど、じゃあ「女の幸せは結婚して子どもを産んで育てることよ」と言われていた時代と比べてハッピーになったのかというと、うーん……。幸福って相対的なものだから、「自分は70点だけど隣の人は90点」よりも「みんなが50点で自分が60点」のほうが幸福なんだよな。昔はせいぜい「隣の花は赤い」ぐらいだったのが、今では「SNSで流れてくるどっかの誰かの花は赤い」だもんな。


 人類は「便利になれば幸福になる」と信じて突き進んできたけど、実際は逆で、便利で自由になるほど不幸の種が増えていく。それでも便利への道を進むのを止められない。幸福立国ブータンですらも。


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2025年12月2日火曜日

【読書感想文】浅倉 秋成『教室が、ひとりになるまで』 / SFミステリとしても小説としても傑作

教室が、ひとりになるまで

浅倉 秋成

内容(e-honより)
北楓高校で起きた生徒の連続自殺。ひとりは学校のトイレで首を吊り、ふたりは校舎から飛び降りた。「全員が仲のいい最高のクラス」で、なぜ―。垣内友弘は、幼馴染みの同級生・白瀬美月から信じがたい話を打ち明けられる。「自殺なんかじゃない。みんなあいつに殺されたの」“他人を自殺させる力”を使った証明不可能な罪。犯人を裁く1度きりのチャンスを得た友弘は、異質で孤独な謎解きに身を投じる。新時代の傑作青春ミステリ。

 SFミステリ。

 クラス全員で集まって積極的にイベントをやる「仲のいいクラス」で、相次いで自殺が起きた。主人公の幼なじみは、これは自殺ではなく他殺だ、次に狙われるのは自分かもしれないと語る。そして主人公はある“能力”を授かる。それは「他人の嘘を見破ることができる」という力。校内にはあと三人、能力の「受取人」がいるという。はたしてクラスメイトを自殺に追いやった「受取人」を見つけ、犯行を食い止めることはできるのか――。


 おもしろかった。

 正直、SFミステリに対してあんまりいい印象を持ってなかったんだよね。超能力や超常現象を扱ったSFミステリって一歩まちがえれば「何でもあり」になってしまいおもしろくない。かといってきちんと作りこみすぎても、他人がパズルを解いているところをただ見せられているような窮屈な小説になってしまう。

『教室が、ひとりになるまで』は、そのどちらでもない、謎解きのおもしろさを存分に与えてくれながら、登場人物たちの思考の広がりも感じさせてくれる優れた小説だった。

 超能力を扱ってはいるが、その能力にいくつかの制約をつけている(発動には条件がある、能力と発動条件を他人に知られたら能力を失う、発動できるのは学校の敷地内だけ)。またミステリの肝である「誰が能力者なのか?」「どのような能力なのか?」についても十分なヒントが与えられていて、決してたどりつけない謎ではない。ミステリとしてきわめてフェアだ。

 この「ミステリとしてフェア」という部分がSFミステリにとっては命だ。超能力という「どうとでもできる」題材を扱っているからこそ、ルールをきっちり定めてほしいし、そのルールを読者に明かしてほしい。「言ってなかったけど実はこんな能力もありましたー」と後出しをされると台無しだ。

『教室が、ひとりになるまで』は、とても誠実なSFミステリだった。4つの能力にもちゃんと意味があるのがすばらしい。



 なによりすばらしいのが、傑作SFミステリでありながら、青春小説としてもしっかり読みごたえがある点だ。

 クラスメイトたちを死に追いやった犯人を突き止めて、能力を暴き、めでたく事件解決……とならない。むしろそこからが本番だ。

「事件の謎を解いてさらなる悲劇を食い止める高校生探偵もの」で終わらせない。殺人事件が解決したことで、その裏にあったもうひとつの謎が明るみに出るという見事な仕掛けが用意されている(もちろんその仕掛けに対するヒントも十分に提示されている)。

 SFミステリはともすれば登場人物たちがストーリーを展開させるためのコマになってしまい、パズル作品になってしまう。だが『教室が、ひとりになるまで』では各人が葛藤を抱えた人物として描かれている。また価値観の違う人物同士が最後までわかりあえない。ミステリを成立させるためのコマではなく、生身の人間が描かれている。


 他にも、『そして誰もいなくなった』を想起させるタイトルの仕掛け、終盤で明らかになる主人公が「受取人」に選ばれた理由、決してハッピーではないが救いを残したエンディング、細部までよく練られた小説だった。傑作!


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2025年11月27日木曜日

【読書感想文】品田 遊『名称未設定ファイル』 / 一般人の行動を実況するスレ

名称未設定ファイル

品田 遊

内容(e-honより)
他愛もない投稿を火種に無限に炎上が広がるSNSの滑稽さを映しだす「猫を持ち上げるな」、一億総発信者時代の闇が垣間見える「紫色の洗面台」ほか、ダ・ヴィンチ・恐山名義でも活躍する作家・品田遊がネット世界の虚無をシニカルに描く短編17本を収録。

 ショートショート集。

 ほとんどの作品が現代的なアイテムを題材にしている。SNSでの拡散・炎上、ネット通販のレコメンド機能、アフィリエイトブログ、匿名掲示板、gif画像など。

 時代性が強いので、刊行から8年たった今読むとすでにちょっと古くなっているネタも多い。アフィリエイトブログとか匿名掲示板とかかなり衰退しているもんなあ。


 おもしろかったのは、

オンライン通販会社が趣味や異性との出会いまでレコメンド(推薦)してくるようになった時代を描いた『この商品を買っている人が買っている商品を買っている人は』

他人の健康状態を視覚化できるようになったガジェットを開発した男が気づいた思わぬ副産物を書く『過程の医学』

なぜかただのサラリーマンが多くの人によって監視・実況されている『亀ヶ谷典久の動向を見守るスレ part2836』


 中でも好きだったのは『亀ヶ谷典久の動向を見守るスレ part2836』。ごくごくふつうの会社員のありとあらゆる行動がなぜか多くの人に筒抜けになっており、匿名掲示板で実況中継されているという短篇だ。

「なんで一般人がこんなに監視されてるの?」という疑問(当然の疑問だ)を書き込む人もいるのだが、それに対して「嫌なら見なきゃいいだろ」「叩きたいならアンチスレ行け」みたいな書き込みが返されるのが妙にリアルだ(そしてそのせいで疑問に対する答えは返ってこない)。

  ばかばかしいしナンセンスなんだけど、そもそも匿名掲示板ってそういうものだよね。テレビ番組とか漫画とかの実況をしていたりもしたけど、それだって別に意義があるわけじゃないし。ただの雑談なんだから、題材はサッカーの試合でも今週号のONE PIECEでも亀ヶ谷典久でもなんでもいいわけで。


 時代性が強い作品集だからこそ、ひょっとしたら今から20年後とかに読んだ方がおもしろいかもしれない。「あの頃はこんなことをめずらしがってたんだなー」「これがSFだと思ってたんだ。今じゃすっかり現実だけど」って感じで。


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2025年11月26日水曜日

【読書感想文】松原 始『カラスはずる賢い、ハトは頭が悪い、サメは狂暴、イルカは温厚って本当か?』 / 「最強の動物」はナンセンス

カラスはずる賢い、ハトは頭が悪い、サメは狂暴、イルカは温厚って本当か?

松原 始

内容(e-honより)
かわいい、怖い、賢い、頭が悪い、汚い、ずるい―人間が動物たちに抱いているイメージは果たして本当か?カラスの研究者である著者が動物行動学の視点から、さまざまな動物たちにつきまとう「誤解」をときあかしていく。一匹狼は、孤独を好んでいるわけじゃない。ハゲタカは、ハゲだから清潔に生きられるのだ!真剣で切実で、ちょっと適当だったりもする彼らの真の生きざまが見えてくる一冊。文庫化にあたり書き下ろしのエッセイと新規イラストを収録。


 動物に対して我々が感じる美醜、好悪、賢愚などのイメージに対して「いやいやほんとの動物の生態って一般的なイメージとちがうんですよ。っていうか動物に対して人間の尺度であれこれ言うことはナンセンスなんですよ」と説いた本。

 たとえば「最強の動物は何か?」という議論でライオンやカバやゾウやシャチなどが挙げられることが多いけど、異なる種の動物同士が一対一で戦うことは多くない。一対一で戦ったとして、陸上ならライオンがワニに勝つだろうが水中なら文句なくワニが勝つ。また集団で行動する動物の場合は集団での強さを考慮する必要がない。また絶滅しかかっているサイと世界中で繫栄しているアリを比べたら、後者のほうがはるかに種として強いと言えるだろう。だがそれも現代の話であって、地球環境が大きく変化したらアリが絶滅してサイが繫栄する時代がくるかもしれない……。

 ……と考えると、「どの動物が最強か?」を論じるのはまったく無意味だろう。「どの人間がいちばんえらいか?」というのと同じぐらいナンセンスだ。



 ヒトは、自分と近い動物に肩入れをする。環境保護を訴える人ですら。

 スナメリという動物がいる。小型のクジラで、せいぜい2メートルくらいにしかならない。ハクジラ類(つまりイルカの親戚)だが、鼻先は丸く、シロイルカのような姿だ。日本でも瀬戸内海や伊勢湾など、内湾や近海に分布している。それが減少している、と聞いたら、ちょっと胸が痛まないだろうか。
 では、オーストラリアのクイーンズランド州にいた、全長5センチほどの、鮫肌でざらっとした感じのカエルが絶滅したと聞いたら? スナメリほど気になるだろうか?
 これについて、2012年にこのような論文が発表された。
 「保全の対象となっている動物は多くが大型でかわいい、あるいは目立つ動物である。目立たない動物は少なく、植物に至っては滅多に取り上げられない」(Earnest Small, 2012, The new Noah's Ark : beautiful and useful species only. Part2. The chosen species. Biodiversity:12-1)

 最近読んだ別の本に、「毎日100種以上の生物が絶滅している」と書いてあった。大半は菌類や微生物だろう。

 だがそいつらは話題にならない。数が減っているイルカやパンダやトキは大きなニュースになるのに。我々はイメージで保護するかどうかを決めているのだ。



 クジャクのオスが長く美しい尾を持つのはメスにアピールするため……というのが定説であるが、これはすべてのクジャクにあてはまるわけではないそうだ。

 例えば、クジャクのオスだけが持つ長い尾(正しくは尾と上尾筒からなる)はどう考えてもメスにモテようと発達したものなのだが、現在の伊豆シャボテン動物公園においては、もはやメスに対するアピールにいないという研究がある。
 長谷川寿一(東京大学)らは長年、伊豆シャボテン動物公園で繁殖しているクジャクのモテ方を計測していた(というとなにやら軽く聞こえるが、性選択の実証研究として非常に重要で厳密なものである)。長谷川らは尾の長さ、目玉模様の数、対称性など、様々な要因と、繁殖成功の関連を調べ続けた。だが、結果はことごとく予想を裏切るものであった。尾の長さも目玉模様も、オスのモテ具合と今ひとつリンクしないのである。
 ところがある時、思いもよらない結果が出た。クジャクのオスの繁殖成功と強い相関を持っているのは、鳴き声だったのだ。よく鳴くオスはモテるなんとシンプルな、そして意外な結果であったことか。
 もちろん、「だからクジャクの尾はオスのモテ方とは関係なかったんだ」とか「進化論なんてうそっぱちだ」という意味ではない。海外の研究では対称性や目玉模様の数などが影響するという結果も出ているからだ。かつては立派な尾を持つことが、クジャクにとって重要だったのだろう。
 ただ、伊豆シャボテン動物公園においては、どうやらメスがオスの選択基準を切り替えてしまい、「歌えるオスがいい」という好みにシフトしてしまっていたようなのである。あるいは、「尾が立派なのは当たり前、さらに歌がうまくなきゃイヤ」と言う方が正しいかもしれない。

 まあ人間だって、文化や時代によって「どんな男/女がモテるか」は変わるもんね。クジャクだって世界中どこへ行っても同じ嗜好をしているわけではないんだね。

 考えてみればあたりまえの話なんだけど、ついつい「動物には固有で不変の生態がある」と考えてしまう。



 多くの日本人に愛されているツバメ。そんなツバメの「イメージ」が変わるかもしれない話。

 さて、ライオンはいかにも「猛獣」だから、こういうことをやると聞いてもそんなに不思議に思わないかもしれない。だが、身近なところで子殺しをやるのはツバメだ。
 ツバメは渡り鳥で、春になると日本にやって来る。そして、営巣場所を見つけると巣を作り始める。
 ところが、巣の前にツバメが3羽、ないしそれ以上いることがある。仲良くお手伝いしてあげている、なんてことはもちろんない。2羽はペアで、もう1羽は割り込んできたよそ者だ。営巣場所、ないし巣そのものを乗っ取ろうとしているか、メスを奪おうとしているか、である。このストーカー野郎の攻撃はさらに続くことがあり、ひどい時はペアが産んだ卵や雛を捨てしまう(営巣場所を狙っている場合、ペアでやる場合もある)。この時に攻撃しているツバメが何かを計算している、というわけではないと思うのだが、結果として、ペアがその巣を使うことを諦めたり、ペアを解消したり、ということはあり得る。そうなれば巣、あるいはメスを分捕れる可能性が出て来るわけだ。

 軒下にツバメが巣を作って春が来たなあ、なんて人間がのんきなことを考えている間に、ツバメたちは子孫を残すために子どもを殺すか守るかの攻防をくりひろげているのだ。

 これをもって「ツバメは残酷」と考えるのもそれはそれで単純な見方で、「他人の子を殺すのは重罪」というのはあくまで人間の価値観だからね。



 有名なすりこみ(鳥のヒナなどがはじめて見たものを親とおもう習性)について。

 それはともかく、カモの雛たちは親鳥の後ろをついて歩く。ところが、子連れの親同士が、ばったり出合ってしまうこともある。彼らは別に縄張りを持っているわけではない(というのも、餌である草は十分にあり、喧嘩してまでその場を独占する意味がないからだ)ので、お互い特に干渉しないで餌を食べ、また別れる。
 ところが、この時に雛がちゃんと自分の親について行くかというと、どうもそうとは限らない。ガンカモ類の多くの種で、雛がごちゃ混ぜになってしまうのである(雛がうんと小さい間は、親鳥が鳴き声で我が子を区別し、他の雛を入れない例もある)。
 (中略)
 さらに言うと、種内托卵の盛んな種の方が、雛混ぜが多いという意見もある。種内托卵というのは、さっきのダチョウのように、同種の巣に自分の卵を産んでくる、という行動だ。他人に世話を押し付けて自分だけ楽しようという考えにも見えるが、どいつもこいつもこの行動をやる場合、自分の巣にも誰かが卵を産み込んでいるはずなので、かかる手間は結局一緒である。
 種内托卵が常態化しているなら、「自分の巣にいるから自分の血を分けた子ども」ということにはならない。赤の他人の子どもが混じっているのだ。そういう雛を引き連れて歩き、雛混ぜが起こったところで、他人の子どもが別の他人の子どもに入れ替わるだけで、特に違いはない。
 それどころか、お隣さんが連れていた雛の1羽か2羽こそが、自分が托卵してきた我が子かもしれないのである!こうなるともう「自分の子ども」という概念が崩壊し、何がなんだかわからない集団子育て化してしまうのも仕方ないだろう。
 ということで、カモが他人の子どもまで機嫌よく面倒を見るのは、やさしいからというよりズボラだからと言った方が正しいような気さえしてくる。まあ、こういう大らかさは、それはそれで人間も見習うべきところがあるような気はするが。

 なんと最初に見たものを親とおもうどころか、ある程度成長してからも、近くにいる大きな鳥を親とおもってしまうのだ。親のほうも気にせず、数十羽の雛を連れて歩いている親ガモもいるという(カモが一度に卵の数は十個ぐらい)。おおらかというかいいかげんというか……。

 こういうことができるのは、雛のために親が餌を運んできてやらないといけないツバメのような種と違い、カモの雛は自分で餌場まで歩いて餌をとれるからなんだけど。

 なんとなく「おや、やけに子どもの数が多いね。よく見たらうちの子じゃないのもいるね。まあいいや、腹へってるなら食っておいき!」という肝っ玉かあちゃんを想像してしまう。人間の勝手なイメージだけど。



 ドングリでおなじみのブナの生存戦略について。

 この、「大量に産めば誰か残るよ」作戦は生物には普遍的なものである。例えば、毎年毎年、大量の実を落とすブナ。だからって雑木林がブナの若木で埋め尽くされているのは見たことがないはずだ。というのも、ブナが発芽するには、いくつものハードルがあるからである。
 まず、地面に落ちたブナの実は片っ端から動物に食われる。だいたいはネズミ、あとはイノシシなどだ。いや、落ちる前からゾウムシが産卵していて、殻の中で食べられていることも少なくない。あるいは腐ってしまう。その結果、多くの場合はその全てが食われるか腐るかしてしまい、発芽することさえできない。
 だが、数年に一度、大豊作がある。こういう時はネズミも食べ尽くすことができず、実が生き残って発芽するチャンスがある。というより、数年に一度ドカンと豊作にすることで、チャンスを作り出している、と言ったほうがいい。
 平常の結実数を低く抑えておくと、ネズミはそのレベルで食っていける数までしか増えられない。そうやってネズミの個体数を抑えておき、たまにネズミの食べる量を大きく上回る数の実を落とせば、間欠的にだが、ブナは発芽のチャンスを得られるのだ。こういう周期的な大豊作を「マスティング」といい、様々な植物に見られる。
 もっともブナの場合、発芽したとしても林床はササで覆われて光が届かない。光を浴びて大きく成長するチャンスは、ササが一斉開花して一斉枯死し、林床が明るくなる時だけだ。だが、光が不足したままヒョロヒョロの苗木として生き延びられるのはせいぜい数年。一方、ササが一斉枯死するチャンスは、数十年に一度しかない。
 つまり、マスティングの年に実り、かつそれから数年以内にササが枯れてくれた場合だけ、その実はブナの大樹に育つ可能性がある。そんな気長な、と思うが、ブナの寿命は400年くらいあるので、その間に何度か「子孫が残る年」があればいいのだろう。
 これは、少数の子どもを産んで大事に育てる霊長類には理解しがたい戦略である。だが、我々の子育てとは対極にある、「子育ての手間を最小限にし、代わりにとにかく大量に産む」戦略も有効であることは間違いない。

 なるほどー。400年も寿命があれば、「数十年に一回子孫を残せればいっか」ぐらいの戦略をとることもできるのか。人間の思考スケールではとても考えつけないやりかただ。




 どこをとってもおもしろい本だった。語り口もおもしろいし、エピソードや動物知識も興味深い。

 そして何より、カラス研究者である著者のカラス愛が存分に伝わってくる本だった。いろんな動物のことを書いているのに、すぐにカラスの擁護になるんだもん。ホントカラスが好きなんだなあ。


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