2025年2月5日水曜日

【読書感想文】マツコ・デラックス 池田 清彦『マツ☆キヨ ~「ヘンな人」で生きる技術~』 / ダブスタ上等!

マツ☆キヨ

「ヘンな人」で生きる技術

マツコ・デラックス  池田 清彦

内容(e-honより)
茶の間で引っ張りだこの人気タレント・マツコと、学会の主流になぜかなれない無欲な生物学者キヨヒコ。互いをマイノリティ(少数派)と認め合うふたりが急接近!東日本大震災後に現れた差別や、誰をも思考停止にさせる過剰な情報化社会の居心地悪さなどを徹底的に話し合った。世の中の「常識」「ふつう」になじめないあなたに、「ヘンな」ふたりがヒントを授ける生き方指南。

 十年ほど前、マツコ・デラックスという人がすっかりテレビになじんできた頃にふと「なんとなく受け入れてるけどこの変な人は何者なんだろう」とおもって買った本。ずっと本棚に置いてて、やっと手に取った。積読はいつものことだけど、十年は長い。




 2011年頃の対談ということで、当然ながら東日本大震災の話が多い。

 それはそれで時代を映す話ではあるけど、正直、読んでいておもしろみはない。

 あれだけの人が一度に亡くなった映像を見たら、奇をてらったことを言おうという気にならないんだよね。マツコさんも池田さんもあたりまえの話をしている。人間いつ死ぬかわからないとか、人間がどうやっても自然の力にはかなわないとか。

 ぼくはあの頃、ブログでコントのようなものを書いていたんだけど、やっぱり地震後しばらくは何も書けなかった。別に不謹慎だとか気にする必要はなかったんだけど、それでも何を考えても震災と結びつけて考えてしまう。ふざけようとか、わざと変なことを言おうとか、そういう気にならないんだよね。


マツコ:アタシも地震の直後の何日かは下痢がすごかったのよ。なんだか体調がとても悪くなっちゃって。よく、被災地の人がPTSD(心的外傷後ストレス障害)になるという話を聞くわよね。それに比べたらアタシのなんてずっと軽い症状なんだろうけど......。たぶん、程度の差はあっても、地震後にその影響で心身を病んじゃった人は東京にだっていっぱいいたと思う。
池田 :被災地じゃなくてもね。日本中にね。
マツコ:それでね、アタシの場合、体調が悪いのが少し改善されたのは、石原慎太郎がきっかけだったのよ。石原慎太郎が、地震の直後に「天罰」発言(「津波を利用して我欲を洗い落とす必要がある。やっぱり天罰だと思う」と発言)をしたでしょう。それ以前にも、ゲイを侮辱(たとえば二〇一〇年十二月に「同性愛者はどこかやっぱり足りない感じがする」「テレビなんかでも同性愛者の連中が出てきて平気でやる。日本は野放図になり過ぎている」と発言)した石原慎太郎のことを、アタシは、大っ嫌いだからさ。「このクソ親父め。『天罰だ』とかまたバカなことを言いやがって」とか言いながらずっと怒っていたら、それでいつの間にか元気になったのよ。

 怒りで元気になるというのはわかる気がする。

 怒るのってストレスなんだけど、同時にエネルギー源でもあるんだよね。誰かに向かって怒ったり攻撃したりするのって楽しいしさ。みんな悪口言うの大好きじゃない。いつだって「自分が悪者にならずに悪口を言える相手」を探してる。

 芸能人の不倫のニュースとかくそどうでもいいとおもっていたけど、ああいうのに怒ることで元気が湧いている人もいるのかもしれない。

 何の価値もないニュースだとおもっていたけど、もしかしたら気づかないところで役に立っているのかもね。




池田 :養老さんが今年(二〇一一年)、『希望とは自分が変わること』(「養老孟司の大言論I」新潮社)というタイトルの本を出していたけれど、つまり、あえてそう言わなければならないくらい、いまの人は「自分」を変えようとしないんだよ。いまの人って、自分がいて、相手がいて、その間で情報のやり取りをすることだけがコミュニケーションだと思っているんだよな。
 コミュニケーションというのはそういうものではないんだ。やり取りをすることによって自分や相手が変わることが本来のコミュニケーションなんだよ。そうではなかったら、自分が変わることもないし、変わらなければ、人間的に成長することもない。他人とのやりとりのなかで自分の考え方を変えてみたり、「ああ、そういうふうな考えもあるのか」と認識を新たにしたりとか、お互いにいろいろと調整をしながらうまく回っていくのが人間社会でしょう。そういうのをすっ飛ばして、自分と意見の違うやつは全部「敵」という感じになってしまう人が、いま、ほんとうに多い。
マツコ:いますよね。ある人が、「あいつはもともとこういう論調の人間だったのに、急にひよってこっちについた」と言って、知らない人のことを怒っていたんですよ。ひよったも何も、あんたはその人とずっといっしょにいたわけでもなんでもないんだろう?と思って、そんなことで怒っているのが不思議だった。さまざまな人から話を聞いたり、いろいろなものを見聞きしていくなかで、脳みその中が変わっていくんでしょ、とアタシは思うから、なぜその人が怒っているのかよくわからなかったんだけど、たぶんそれは、「あいつ」と言っている人についてのステレオタイプな情報を、その怒っていた人はずっと信じていて、その情報に自分が裏切られたと思っているということよね。

 ぼくの嫌いな言葉に「ダブルスタンダード」がある。正確に言うと、他人を糾弾する目的で「ダブルスタンダード」という言葉を使う人が嫌いだ。

「そんなこと言ってるけどおまえ過去にはこう言ってるじゃないか! ダブスタだ!」とドヤる人を見ると、ガキだなあとおもう。

 子どもってそうじゃない。ひとつの基準があらゆる場で通用するとおもってる。

「しゃべったらいけません」「えー、じゃあ火事になってもしゃべったらいけないのー?」

「暴力はいけません」「えーじゃあ警察官が犯人を逮捕するときも暴力を用いちゃだめなのー?」

みたいな感じ。五年生ぐらいのへりくつ。


 そんなわけないじゃない。ある状況における見解が他のどんな状況にもあてはまるはずないじゃない。

「外国人差別はいけない」と「日本人を優遇しないといけない状況はある」って十分両立する話だとおもうんだけど、ガキにはそれがわからない。一貫性を保つのがいいことだと信じている。

 また、同じ状況に対しても考え方が変わることもある。同じ汚職事件のニュースを見ても、小学生と、就活中の大学生と、中堅会社員と、定年退職後では、見方は変わるだろう。あたりまえだ。立場が変われば考えも変わる。良くも悪くも。まったく変わらないのは何も考えていない人だけだ。

 それに「職場で話す内容」と「気の置けない友人と酒場で話す内容」と「SNSで話す内容」が違うのもあたりまえだ。SNSで熱心に政治について語っている人も、たいていは人前で政治の話を声高らかには話さない(中には話す人もいるけど)。


 だからダブスタなんてあたりまえ。ダブルスタンダードどころかトリプルもクアドラプルもスタンダードを持っているのがまともな人間だ。

「ダブスタだ!」と吠えている人を見たら、「ああ小学生がなんかわめいてるわ」とおもうようにしている。




 マツコ・デラックスさんという人をテレビで観ていておもうのは、自分のことをよくわかっている人だなということ。

 とても客観的に、自分のポジション、自分が求められていることを把握しているように見える。

 たとえば、物事をずばずばと言うように見えるけど、基本的に語っているのは好き嫌いであって善悪ではない。また決して自分を良く見せようとはしない。どれだけ売れても偉くなろうとはしない。

池田 :そうやってマスコミはマツコさんをスターにしちゃったわけだけど、それに対する自己認識はどうなの?
マツコ:たぶん、ヒジュラ(男性でも女性でもない「第三の性」を指すヒンディー語 インドではアウトカーストの存在として、聖者として扱われたり、逆に極端に蔑まれたりしている)とかさ、そういうのが稀にあるじゃない? 結局、何か正体がよくわからないもの、どこか気持ちが悪いもの、既存の価値観では収まりのつかないものを、神格化これは自分でそう思っているわけじゃないから誤解しないでほしいんだけど―――して、すべてをその「神格化」したものになすりつけてしまってさ。で、最後は神輿から突き落とすんだろうと思っているんだけど。いまのテレビというのは、さっき池田先生も言ったように、ちょっと変わったことをなかなか言えない感じになってきているでしょ。その状況のなかで積もり重なったいろんな思いをいまアタシはぶつけられている感じはするのよね。そうして、みんながすっきりしたら、きっと「もうあんたは要りません」と言われるんだろうし。そういうのが刹那的だということも自分で肌で感じてわかっていて、その上でそれを引き受けてやろうと思ったの。「どうぞ、どうぞ、石でも何でも投げてください」というかまえで。
池田 :やけくそだね(笑)。
マツコそうなのよ。
池田 :大勢に乗って動いているということに関して、心のどこかでは「何かヘンだな」と思っている人もいっぱいいるんだよね。だけど、そのときに表立って「それはヘンだ」とは言えない。そこで、なんだかふつうじゃなさそうなヘンな人を祭り上げるようなことをやって、一種の欲求不満のはけ口にしているというか、それで自分のもやもやしたものを洗い流してせいせいしたい感じがあるのかな。きっとマツコさんはその象徴的な存在としていろいろなところに引っ張り出されているんだろうね。

 そうなんだよね。世間の人ってだいたいマツコ・デラックスという人を「なんだかよくわからない人」として受け止めているんだよね。ぼくもそうだった。気づいたらテレビに出ていたけど、どんな経歴の人で、どういう考えでああいう恰好をしているのかとかこの本を読むまでほとんど知らなかった。

 多くの視聴者はマツコさんの発言を「なんだかよくわからない人が変なことを言ってる」と受け止めている。だから少々乱暴な意見でも「まあ変な人が言ってることだから」と受け流している。

 そういうポジションを当人もよくわかってるんだよね。だから、どんな飯がうまいとか、あのお菓子が好きとかどうでもいいことは語っても、あの政治はおかしいとか、この法律は変えるべきとか、そういう“正しい”ことは言わない。「変な人が変なことを言ってる」範囲を決して踏み越えようとはしない。

 好き勝手言ってるようで、誰よりも自分を殺して求められる姿を演じている。つくづく賢い人だよね。


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2025年2月1日土曜日

消防署の向かいの生活

 昨年、消防署の向かいのマンションに引っ越した。

 ご想像の通り、うるさい。

 うちは九階なのだがそれでもけっこうサイレンの音が聞こえる。出動時は窓を閉めていてもテレビの音が聞こえないぐらいだ。

 ま、それはいい。消防署が先にあって、それを承知で後からこちらが引っ越してきたのだから。消防署員の方々に対してはなんら不満はない。ごくろうさまです。


 発見したのは、音にはけっこう慣れるということだ。

 たぶん閑静な住宅街に住んでいた人が我が家に来たら「よくこんな騒々しいところで生活できるね」とおもうだろうが、慣れてしまえばどうということもない。寝室は消防署と反対側なので、深夜のサイレンも気にならない。さすがに窓を開けて寝ていたらサイレンで起きてしまうが。


 向かいなので、消防署の様子がよく見える。消防隊員たちはいつも訓練をしている。腕立て伏せをしたり、走ったり。また署の敷地内にSASUKEのセットみたいなやつがあって、そこで登ったり走ったりしている。

 すごいなあ。軟弱者としてはただただ頭が下がる。

 おもったのは、消防活動に関する道具の進歩はいろいろあるけど、現場で消火活動をする人たちに求められる能力ってのは江戸の火消しの頃から(あるいはもっと前から)そんなに変わってないんだろうな、ということ。

 どれだけ道具が進歩しても、最後は身軽さとかが求められるんだな。



【読書感想文】柞刈 湯葉『SF作家の地球旅行記』 / SF作家の空想力と好奇心

SF作家の地球旅行記

柞刈 湯葉

内容(e-honより)
人気SF作家・柞刈湯葉、初旅行エッセイ。 首里城、筑波山、ウラジオストク、モンゴルの草原…何のために旅に出て、何を思い、何を目指すのか。SF作家の目を通して楽しむ新感覚旅行記。 2019~2021年note投稿作品を大幅に加筆・修正した海外編4作&国内編8作、さらに[架空旅行記]として書き下ろし短編小説2作(月面編/日本領南樺太編)を加えた。

 SF作家による旅行エッセイ。

 出版社が企画した旅行記ではなく(昔はよくあったけど、今もそういうのあるのかな。出版社にそこまでの経済的余裕がないかもしれない)、著者がプライベートで行った旅行をnoteに投稿したものなので、そんなに肩肘張った旅でないのがいい。

 琵琶湖とか千葉とか筑波山とか、旅先としてはあまりメジャーでないところが逆に新鮮。国外でもカナダとかウラジオストクとか。途上国や田舎のような雑多な感じもなく、ヨーロッパの有名都市ほどの歴史があるわけでもない。

 ぼくはあまり旅をしないが、旅に対する姿勢は著者と近いものがある。あまり人が行かない場所に行きたいとか、何でもなさそうなものにおもしろさを見出したいとか、そういう気持ちがある。はっきりと「ここに行ってこれを見るんだ!」という感じではなく、「なんかおもしろいものないかなー」という気持ちで移動を楽しみたいのだ。

 知っているものを確認しにいく旅ではなく、知らないものを探しにいく旅。もちろんハズレを引いてしまうこともあるが、ハズレたこともまた楽しい。でも世の中には絶対にハズレを引きたくない! という人が少なくないんだよね。ハズレこそが旅の醍醐味なのに。

 そんな風に旅に対する姿勢が近い(とぼくは感じている)ので、『SF作家の地球旅行記』はおもしろかった。ぼくが憧れる旅だ。




 そしてなんといっても魅力は軽妙洒脱な文章。レポートと知識と空想とほら話が軽やかに錯綜する。

  心情はあまり書かれず思考や発想が多いので、ドライな文章で旅の雰囲気とぴったり合う。奥田民生『イージ㋴ー★ライダー』を聴きたくなった。


 カナダ旅行記『チップがないならポテトを食べればいいじゃない』より。

 これは日本にはない文化なのだが、北米のスタバでは店員に名前を聞かれる。本人確認をしているわけではなく、ドリンクの取り違えを防ぐためらしい。
 ただ、僕の本名は外国人にはまず聞き取れないので、初めて渡米したときはこの問題に大いに悩まされた。「え?」「もう一回言って」と何度も聞き返され、レジに無用な行列を作ってしまうのだ。「別に本名を言う必要はないので、自分に適当な英語名をつけるといいですよ」
 というアドバイスをもらったことがあるが、これは英語慣れした人の意見である。ジョンだのポールだのといった英語名もきちんと発音しないと伝わらないのだ。
 これについてはいまでは「ホンダ」と名乗ることでほぼ解決している。ホンダのバイクなら世界中で走っているので、日本人の顔をした客が「ホンダ」と名乗ればおおむねどの国でも通用する。こうした小手先のテクニックを蓄積していけば、英語ができずとも海外暮らしはわりと何とかなってしまう。

 旅行記というか滞在記というか。旅というとついつい、あれも見なくちゃこれも見なくちゃあれも食べなくちゃという気になるが、この人の旅は日常の延長。


 また、SF作家(であり生物学の研究者)でもあるだけあって、科学に対する知識も豊富だ。

 千葉旅行編『電車に乗ってチバニアンを見に行った』より。

 地球はおおきな磁石である、というのは小学校で習うのでご存知かと思うが、実はこのN極とS極はときどき入れ替わる。一番最近の入れ替わりが77万年前に起き、千葉の地層がそれをいい感じに記録しているため、77万年前以後の地質年代がチバニアン(千葉時代)となった、とのことである。
 なんで77万年も前の磁場がわかるのかと言えば、北京原人の学者が記録していたからとかそういうわけではない。溶岩が冷えて固まる際に、内部の磁鉄鉱などが地磁気の向きに揃うからである。いったん固まってしまえば地磁気が変動しても動かないので、岩石の年代さえ特定できればその時代の地磁気がわかるという寸法である。テープレコーダーやハードディスクと同じ仕組みだ。
 なお地球の地磁気はここ200年一貫して減衰しており、このペースで減り続けると1000~2000年後には地球の地磁気はゼロになってしまうらしい。そうなると太陽から吹き付ける荷電粒子が遮断できなくなり、電波通信に相当な悪影響があると言われている。
 地磁気の変動は複雑かつ未解明で「このペースで減り続ける」必然性はあんまりないのだが、1000年後まで人類文明が存続していれば、なにかしら対策が取られるかもしれない。

 こういう知識がそこかしこに散りばめられているのもおもしろい。

 このエッセイを読むと、ほんとに教養って人生を豊かにしてくれるスパイスだなとおもう。

 NHKの『ブラタモリ』なんかもそうだけど、なんの変哲もない道や坂や山でも、知識のある人が見ればそこからいろんな情報を引きだせる。そしておもしろがれる。

 柞刈湯葉氏も教養が深いので、有名観光地でない場所からもいろんな発見や空想をして楽しんでいる。こういう人は何をしていても楽しいだろう。



 旅行エッセイもおもしろいが、なんといっても真骨頂は巻末の、月面を訪れた『静かの海では静かにしてくれ』と日本領土となっている南樺太を訪れた『南側と呼ぶには北すぎる』である。

 もちろんこれはフィクションである。まだ月面旅行は気軽にはできないし、南樺太(サハリン)はかつては日本領であったが今はロシアが実効支配している(日本は南樺太を放棄したがロシアのものとは正式に決定していない)。どちらも気軽に旅をできる場所ではない。

 しかし人間の想像力は距離も時間も国境も次元も軽く飛び越えてしまうので、月面にだって「もしも終戦がもう少し早くて日本領のままだった南樺太」にだって行けちゃうのだ。


 月旅行記より。

 あと意外と困ったのは服である。地球のたいていの服は重力を受ける前提でデザインされるので、無重力下で動き回ると勝手にめくれ上がってしまうのだ。これが思った以上に厄介で、面倒になったのでシャツをズボンにインした。宇宙時代とは思えない昭和スタイル。

 なるほど。重力がある生活があたりまえになっているから考えたことなかったけど、服って重力があること前提なのか。

 無重力だったらスカートは履けないし、帽子だって脱げちゃうし、ネクタイは邪魔で仕方ないし(重力あっても邪魔だけど)、眼鏡もとれちゃうよね。宇宙時代の眼鏡はゴーグルみたいな形状になるのかな。

 言われてみればその通りなんだけど、月旅行を想像してもなかなか「無重力下での着こなし」までは想像が及ばない。さすがはSF作家だ。


 宇宙では換気という概念が存在しないため、初期の宇宙ステーションは常に人間の臭いが充満している場所だったらしい。宇宙研究施設だった時代、精悍な職業宇宙飛行士たちはこの過酷な環境を人類代表としての使命感で耐え抜いたが、観光地になるといよいよ問題が表面化しはじめた。
 その結果、強力な空気清浄機が船内のあちこちで常時回転するようになり、臭い問題は解決したが、代わりにファン音が鳴り響く環境になってしまったそうだ。

 臭いって生きる上ではかなり重要な問題だけど、目に見えないものだから、想像しにくい。「宇宙船の中はどんなにおいか」なんて考えたことないもんなあ。

 言われてみれば、宇宙ステーション内は臭くなりそうだ。いくら宇宙時代になったって人間は汗をかくしおならやゲップもする。

 たぶん剣道部の部室みたいな臭いになるんだろうな。柔道とか剣道やってた人は宇宙ステーションに入って「なつかしい!」という感情になるのかもしれない。


 とまあタイトルに冠した「SF作家の」は伊達じゃない、SF作家の空想力や好奇心が存分に楽しめる旅行記(+小説)でした。


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2025年1月29日水曜日

【読書感想文】高橋 ユキ『つけびの村 噂が5人を殺したのか?』 / 煙喜ぶ田舎者が書いた本

つけびの村

噂が5人を殺したのか?

高橋 ユキ

内容(e-honより)
2013年の夏、わずか12人が暮らす山口県の集落で、一夜にして5人の村人が殺害された。犯人の家に貼られた川柳は“戦慄の犯行予告”として世間を騒がせたが…それらはすべて“うわさ話”に過ぎなかった。気鋭のノンフィクションライターが、ネットとマスコミによって拡散された“うわさ話”を一歩ずつ、ひとつずつ地道に足でつぶし、閉ざされた村をゆく。“山口連続殺人放火事件”の真相解明に挑んだ新世代“調査ノンフィクション”に、震えが止まらない!


 2013年に起きた、山口連続殺人放火事件という殺人事件がある。

 住民わずか14人という限界集落で、村人5人が殺害され、さらに被害者宅に連続して火を放たれたという事件だ。

 連続殺人であることも注目を集めたが、この事件がさらに大きく扱われるようになったのは、一句の川柳だ。

 被害者宅の隣家の男が姿を消し、男の家には外から見えるように「つけびして 煙り喜ぶ 田舎者」という川柳が貼ってあったのだ。

 男は逮捕されたが「周囲の人間から嫌がらせをされていた」「悪いうわさを立てられた」などと供述したことから、「つけびして 煙り喜ぶ 田舎者」とは、気に入らない住民の悪い噂を広めて村八分をする陰湿な村人たちを皮肉りつつ犯行予告をした川柳なのではないかという憶測が飛び交うようになった……という事件だ。


 ぼくもこの事件のことはおぼえている。というより、事件の詳細はほとんどおぼえていなくて、「つけびして 煙り喜ぶ 田舎者」の川柳だけが強く印象に残っている。詩の力ってすごい。

 多くの人が「村八分に遭っていた男が、復讐のために村人たちを殺した事件」だと認識していたことだろう。ぼくもそのひとりだ。はっきりと「田舎者の陰湿さが引き起こした事件だ。これだから田舎者は」なんてことをネット上に書く人もいた。



 だが。

『つけびの村』を読むかぎり、どうもそんな単純に「村八分に遭っていた男が、復讐のために村人たちを殺した事件」と言える話ではないようだ。


 以前にも村で放火騒ぎがあった、過去に容疑者が怪我を負わされる刃傷沙汰があった、被害者たちは容疑者宅の前で集まって噂話をしていた……。

 話を聞くといろんな話が出てくる。

 しかし、読めば読むほど話がこんがらがってくる。なにしろ、14人しか住民のいなかった村で、5人が殺され、1人が逮捕されているのだ。生き残ったのは8人だけ。元々高齢者ばかりの村だったので、事件後に亡くなった人もいる。全員が関係者。当然、事件について語りたがらない人も多い。語ったところで、関係者なので、客観的・中立ない件とは言いがたい。

 芥川龍之介の『藪の中』のようだ。登場人物たちの語る内容がみんな微妙に食い違い、真相はまったくわからない。おそらく当人たちにだってわからないのだろう。

 いちばん真相を知っていたはずの容疑者は妄想性障害を患っていて、語ることは支離滅裂(そのため裁判では責任能力が争われたが、最高裁で死刑が確定)。

 もはや何が何だかわからない。


 読んでいるうちに、ふと気づいた。

「真相」なんて関係あるのか?

 容疑者は「他の住人から噂話の対象にされたり、村八分にされたりしていた」と主張しているが、それがどうしたというのだ?

 それが本当かどうかはわからない。だが仮に本当だったとしても、それが何なのだ? 村八分にされていたら、五人を殺害して家に火をつけていい理由になるのか?

 村の人たちが噂話をしていたかとか、田舎の人間付き合いが陰湿かとか、そんなことはどうでもいい。どっちにしろ人を殺して火をつけたらだめなのだ。

 だから「事件の背景をさぐる」なんて行為は、まったく意味がないのだ。




 そうおもって読むと、著者の“取材”と“執筆”こそがひどく陰湿なものにおもえてくる。

 容疑者だけならまだしも、被害者の遺族や隣村に行き、事件前の村の様子を探る。証言は集まるが、裏付けなどはまるでない。どれだけ証言を集めたって噂話の域を出ない。

 そして裏付けの取れていない“証言”をブログに書き、SNSに書き、本にして出版する。

 これって、定かでないうわさを広めているだけだよな……。著者こそが「煙り喜ぶ 田舎者」だ

 取材をするのはともかく、真偽の定かでない噂をそのまま書いちゃいかんだろ。しかも実名付きで。

 読めば読むほど、「誰がえらそうに語ってるんだ」と著者に対して憤りを感じる。


 極めつきはこれ。容疑者の親戚をわざわざ探して訪ねた話(××は原文では容疑者の名前が入っているがぼくが伏字にした。容疑者は死刑確定後も冤罪を主張しているらしいので)。

「お話を聞きた……」
 入り口からすぐの壁沿いに置かれた冷蔵庫の前に立っている。白地に小花柄のジャージー生地のネグリジェを着た長女は、痩せた身体に白髪頭で、××より世代が相当上の老婆だった。
 ここまで言うと、それを遮るようにきっぱりと長女は言った。
「いえ、私話すことないです、いま寝とるんじゃから。いま寝とるから、何にもできんから。もう、何にも話すことないです。いま自分の身体が一生懸命じゃから。心臓が悪いんですよ、寝とるんじゃから。だからお話しすることは、できんのですよね。はい」
 何を聞いても「いま寝とるんじゃから」しか返ってこなかった。平穏な日常生活を脅かされることになった元凶である××には、怒りしか持っていないようだった。
 田舎で起こった大きな事件。近所のものも皆、彼女たちが××の姉であることを知っている。姉たちは何も悪いことをしていないのに、多くの記者から事件について繰り返し聞かれ、いつまでも平穏な生活を送ることができない。私も取材に出向いている身なのでこんなことは言えた立場ではないが、弟が起こした事件に死ぬまで苦しめられるという意味では、彼女たちも被害者なのである。

 なにが「彼女たちも被害者なのである」だよ。おまえが加害者なんだよ。「こんなことは言えた立場ではないが」って、何を末端みたいな顔してんだよ。おまえは事件と無関係の親戚に多大な迷惑をかけてる主犯じゃねえか。「元凶である××には、怒りしか持っていないようだった」じゃねえよ。おまえのあつかましさに怒ってるんだよ。

 よく他人事の顔をできるな。




 読めば読むほど、著者の目的が野次馬根性としかおもえない。

「容疑者の無実を証明するため」とかならまだわかるよ。でもそんなことはない。たしかに容疑者は無実を主張しているが、著者はその言い分をまったく信じていない。

 事件にいたった背景をさぐるためというそれっぽい理由を用意しているが、そんなものいくら調べたったわかるわけがない(実際、わかったことといえば容疑者が妄想性障害を持っていたことぐらい)。犯人が心の中で何を考えていたかなんて本人以外にわかるわけない。いや本人にすらわからないだろう。


 野次馬根性のために嫌がる人に取材してまわり、不確かな噂を聞きだし、それを不確かなまま広める。やってることはSNSでデマを拡散する人と一緒。

 ルポルタージュとしてまったく意義を感じない本だった。

 まあそんなゲスい本があってもいいけど、私はゲスじゃありませんよという顔をして書くやつはいちばん嫌いだ。


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いちぶんがく その23

ルール


■ 本の中から一文だけを抜き出す

■ 一文だけでも味わい深い文を選出。



さっそく「アザラシ回収装置」を見せてもらった。

 (渡辺佑基『ペンギンが教えてくれた物理のはなし』より)




「やまうど今うめがら送るがらたべてくなんしょ」

 (小泉 武夫『猟師の肉は腐らない』より)




経済学者が数学を使うから科学者だと言い張るのは、星占い師がコンピュータや複雑な表を使うから天文学者と同じくらい科学的だと言うのと変わらない。

 (ヤニス・バルファキス(著) 関美和(訳)『父が娘に語る美しく、深く、壮大で、とんでもなくわかりやすい経済の話。』より)




村に着くと、そこに地獄があった。

 (逢坂 冬馬『同志少女よ、敵を撃て』より)




懐かしさは、味のなくならないガムだ。

 (浅倉秋成『九度目の十八歳を迎えた君と』より)




さぁ、イタリアの田舎町の茶色い水に一緒に飛び込んでいただこう。

 (山舩 晃太郎『沈没船博士、海の底で歴史の謎を追う』より)




一人ひとりが生地のままの男、女、子どもとなって、持てるものならなんでも持ち去った。

 (アントニー・ビーヴァー (著) 川上洸(訳)『ベルリン陥落1945』より)




「きみだってまんまと、ぼくの〝不幸な生い立ち〟に同情したじゃないか」

 (櫛木 理宇『死刑にいたる病』より)




こちらに向いているカメラのレンズは、選ばれた人しか通り抜けられない狭くて暗いトンネルに見えた。

 (朝井 リョウ『武道館』より)




自分は正しくてエライというナベツネオーラが行間から伝わってくる。

 (プチ鹿島『芸人式 新聞の読み方』より)



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