2024年7月24日水曜日

【読書感想文】大前 粟生『おもろい以外いらんねん』 / 漫才は漫才でしか表現できない

おもろい以外いらんねん

大前 粟生

内容(e-honより)
お笑いコンビを組んだタッキーとユウキ、芸人にならなかった俺。おれらであることが楽しくて苦しい、3人組の10年間。時代の最先端を走る芸人青春小説の金字塔。


 常にクラスの中心でみんなを笑わせている滝場から、高校の文化祭でいっしょに漫才をしようと誘われた〝俺〟。ところが転校生のユウキも滝場と漫才をするという。〝俺〟と滝場、ユウキと滝場、二組のコンビが文化祭に向けて公園で漫才の練習をする。だが〝俺〟は漫才をやめると言ってしまい、この決断がその後の人生にも大きく影響を与える……。


 他人との関わりよりも笑いを優先させてしまうユウキ、周囲からの期待には応えるが自分自身の中にあるものは発信しようとしないからっぽの滝場、漫才をやめた後も複雑な想いで遠くからふたりの漫才を追いかけつづける俺、それぞれのやりかたで漫才に身を捧げる男たちの青春生活。



 題材はわりと好きだったんだけどな。漫才を好きだからこそ漫才ができないという悩みもわりと普遍的なものだし。

 ただ、いろんな点で読みづらい小説だった。


 まず、人称が定まらない。たぶんこれはあえてやっているのだろうが、一人称で書かれた小説なのに、書き手がシームレスに入れ替わる。ずっと〝俺〟(咲太)の視点で書かれていたのに、途中で急に〝ボク〟(ユウキ)視点になる。実験的にやっているのかもしれないが、小説の決まりを破っているのでとにかく気持ち悪い。筒井康隆みたいに約束事の破壊を狙ってやっているのならいいんだけど、それにしてはストーリーに重きが置かれている。人称の崩れがただただストーリーの進行を邪魔している。


 そして、あたりまえなのだが、漫才を小説で読んでもまったくおもしろくない。この作品に限った話ではなく、ある芸能をべつの芸能でダイレクトに表現しようとすると失敗する。

 あたりまえだ。漫才を漫才よりもおもしろく表現できてしまったら、漫才は小説よりもはるかに下の二流の芸能ということになってしまう。それができないから漫才師は漫才で表現するのだ。

 だから小説で漫才を書くのはいいけど、ネタの中身は書かない方がいい。書いても読んでいる方は笑えないし、笑えなければ「ぜんぜんおもしろくない漫才に命を懸けている人たち」の話になってしまう。

 正直ぼくは、主人公たちが最初にやる漫才を読んだとき、あまりにつまらなかったので「あーこれははじめて書いたネタだからぜんぜんおもしろくないっていう話の流れね」とおもっていたら、登場人物たちが手応えを感じていたので「えっ、物語の中ではこれがおもしろいっていう扱いになるんかい」と肩透かしを食らった。

 又吉 直樹『火花』は漫才をテーマにした小説として成功したが、ネタの中身はほとんど書かれていない。やはり漫才は漫才でしか表現できないことを、プロの芸人は知っているのだ。

 漫才のおもしろさなんて小説で読んでも五パーセントも伝わらない。純情な感情はからまわり。伝わらないから漫才師は漫才をするんだよ。



 漫才そのものではなく、それに向き合う上での心情について書かれた箇所はおもしろかったけどね。

 勢いよくからだを起こし、髪を掻き上げながら滝場がいって、汗が俺の頬に飛び散った。ネタ合わせを続けていると、言葉が台本のものじゃなくて俺自身から出てきているように感じることがあった。そういうときは滝場も調子がよかった。呼吸が合うってこういうことなんかと思った。でもそれはやっぱり、ふだんの俺らと、ネタをしている俺らの関係の区別がついていない状態だった。その人間味がときにきつい。俺は練習をするほどに不安と楽しさを同時に感じていた。


 漫才の用語で人(ニン)という言葉がある。たぶん元は落語とかの言葉なんだろうけど。

 人柄、個性、というような意味だ。ただネタがおもしろいだけでなく、その人がやるからおもしろい、他の人がやってもだめだ、そういう漫才を「ニンが乗っている」と言ったりするらしい。

 じっさい、人柄が表れている漫才はおもしろい。テレビで観る漫才はたいてい有名な芸人がやっていて、ほとんどの人はその芸人の漫才以外の姿も知っている。天然ボケ、怒りっぽい、金に汚い、突拍子もないことをいう、育ちが悪い……。もちろんそれはあくまで人前に見せるキャラクターでしかないけど、とにかくそのキャラクターが投影されている漫才はおもしろい。すんなり漫才の世界に入れるし、意外性も表現しやすい。知らない人がやっている漫才よりもおなじみの人の漫才のほうが笑いやすい。

 ただ、ニンを乗せた漫才をやっていると並の人間なら精神に異常をきたしそうな気もする。自分自身を切り売りしているようなものだもんな。演じている自分と本当の自分がちがうのに、漫才での姿を常に求められ、そのうち自分自身がわからなくなってしまうんじゃないかという気もする。

 いや、べつに漫才にかぎった話ではないな。

 就職活動でも営業の仕事でもそうだが、仮面をかぶって別の自分を見せないといけない局面はある。それを難なくできる人もいれば、ものすごく疲れてしまう人もいる。ぼくは後者で、就活をしていた時期は人生においてつらかった時期のワースト3には入る。

 そんなわけだからもしぼくが中年デビューするとしたら漫才じゃなくてコントだな!


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2024年7月22日月曜日

【読書感想文】坪倉 優介『記憶喪失になったぼくが見た世界』 / 記憶は過去であり未来でもある

記憶喪失になったぼくが見た世界

坪倉 優介

内容(e-honより)
18歳の美大生が交通事故で記憶喪失になる。それは自身のことだけでなく、食べる、眠るなどの感覚さえ分からなくなるという状態だった―。そんな彼が徐々に周囲を理解し「新しい自分」を生き始め、草木染職人として独立するまでを綴った手記。感動のノンフィクション。


 バイク事故で記憶喪失になった美大生の手記。

 記憶喪失は漫画やドラマではわりと使われるものだが、漫画で描かれる「ここはどこ? 私は誰?」という固有名詞や出来事だけを失った記憶喪失とは違い、この人の場合はほとんどすべてを忘れている。

 すべてというのはほんとにすべてで、おなかがすいたらご飯を食べるとか、おなかがいっぱいになったら食べるのをやめるとか、お風呂に入るとか、お風呂が熱すぎたらぬるくするなり早めに出るなりするとか、そういう「生きていく上での最低限の知識」すら失われているのだ。赤ちゃんに戻ったようなものだ。

 周囲の人からすると、たいへんなんてもんじゃない。すべてがリセットされているのだから。韓国ドラマでよくある(韓国ドラマ観たことないけど聞くかぎりでは)、記憶をなくした素敵な異性とめぐりあって恋に落ちて……なんて美しい展開になるわけがない。だって中身は赤ちゃんなんだもん。



 ぼくが高校生のとき、クラスメイトのKが記憶喪失になった。Kはラグビー部で、試合中に頭をぶつけて記憶をなくしてしまったらしい。しばらく学校に来ず、ひさしぶりに登校する日には担任が「Kは記憶がないが無理に思いださせようとすると負担になるので、記憶を刺激するようなことは言わないように」と言った。

 Kが登校してきても、ほとんど誰も話しかけられなかった。そりゃそうだ。だって記憶を刺激せずに会話をすることなんてどうやってできるのだ? (デリカシーのないやつだけは話しかけていたが)

 Kはあまり学校に来なくなってしまった(一応卒業はした)。ぼくはKとほとんど話さなかったのでわからなかったが、彼は記憶を取り戻せたのだろうか? それとも一部を損失したまま生きていたのだろうか?



『記憶喪失になったぼくが見た世界』で書かれる手記は、読んでいて言葉を失いそうになる。

 いままで見たこともない人が、家にきて、事故まえのぼくのことを話して、かえっていく。どうしてあの人たちは、ぼくのことを知っているのだろう。
 いつも家の中にいる人にきくと「それは友だちだから」と言った。それに、友だちでも、とくべつなかがいい人のことを、親友と言うこともおしえてくれた。だとしたら、この人たちも、いつもやさしくしてくれるから親友なのだろうか。そうきくと笑って、「アルバムをもってきてやれ」と言った。
 目のまえにおかれた物の中には、うすっぺらな人がいる。動かないし、なにも話さない。
 ひとりの人がアルバムを見ながら「これが赤ちゃんだったころのゆうすけよ」と言う。でも、赤ちゃんと言われても、わからない。
 かあさんが、ぼくのまえになにかをおいた。けむりが、もやもやと出てくるの見て、すぐに中をのぞく。すると光るつぶつぶがいっぱい入っている。きれい。でもこんなきれいな物を、どうすればいいのだろう。
 じっと見ていると、かあさんが、こうしてたべるのよとおしえてくれる。なにか、すごいことがおこるような気がしてきた。だから、かあさんと同じように、ぴかぴか光るつぶつぶを、口の中へ入れた。それが舌にあたるといたい。なんだ、いったい。こんな物をどうするんだ。
 かあさんを見ると笑いながら、こうしてかみなさいと言って、口を動かす。だからぼくもまた、同じように口を動かした。動かせば動かすほど、口の中の小さなつぶつぶも動き出す。そしたら急に、口の中で「じわり」と感じるものがあった。それはすぐに、ひろがる。これはなに。

 最初は文字も書けなかったそうなので、この手記はだいぶ後になってから書いたものだろう(そのため写真というものを知らないのに「アルバム」という言葉を使いこなすような妙な記述がある)。

 なのでリアルな感覚とはちょっと違うかもしれない。数年の間に記憶が書き換わっている可能性は高い。

 でも、赤ちゃんがぼんやりとおもっているのってこういうことなんだろうな、という気もする。少なくとも大人の思考よりは赤ちゃんの感覚に近そうだ。もしも赤ちゃんの思考を言語化することができたらこういう形になるんだろう。

 白飯を食べる前に「すごいことがおこるような気がし」て、食べた後は「舌にあたるといたい」と表現し、「こんな物をどうするんだ」と感じる。きっと誰しもが経験した感覚なんだろう。

 そういえばうちの子がはじめてイチゴを食べたとき「なんだこれ」って顔をしながら口に入れ「すっぱ!」という驚きを見せ、少し遅れて「あれでもこれ甘くておいしいな」という表情に変わり、「これをもっと渡せ!」と手振りで要求してきたなあ。あのときの子どももこんな気持ちだったんだろう。



 ちょっと気になったのが、この人の文章からは異性に対する関心がまったく読み取れないこと。若い男だったらたいてい持っているであろう性欲がまったく感じられない。記憶をなくす前に友人だった女性と再会するシーンでも、まったく関心がなさそうだ(もちろんほんとは強い関心を持っていたけどとりつくろって書いてないだけ、という可能性もあるけど)。

 幼児の感覚に戻っているので性欲も消えていたのだろうか。それよりもっと世界について知りたいから女どころじゃない、という感じなのかもしれない。

 そういや以前、断食をしていた人の話を聞いたことがあるが「腹が減っていたときはずっと食べ物のことを考えていて目の前をいい女が通ってもなんともおもわなかった。飯を食ったとたんにエロい気持ちが湧いてきた」と語っていた。もっと強い欲求の前では恋だの性だのは後回しにされるんだろうな。



 この人の手記は、現実離れしすぎていていまいち共感できない。

 すごくたいへんなんだろうな、とはおもうけれど、どんなに想像してもこの人の気持ちを理解することなんてできやしないだろうなともおもう。記憶なんてあるのがあたりまえだもん。「もし小学生に戻ったら」と想像することはあっても「もし0歳児に戻ったら」とはおもわない。だってそれってもう別人になるようなものじゃないか。

 本人にはあまり共感できないが、間に差し込まれるお母さんの手記を読むと胸が痛くなる。

 息子が事故で助かったと安心したのもつかぬま、赤ちゃんに戻っているんだもの。

 記憶を失くすということは、単に過去を忘れて今を生きるということではないのです。過去を失った人間は、こんなにもろいものかと、優介を見てつくづく思いました。

とお母さんは書いている。その胸の内、想像すらできないほどつらかっただろうなあ。


 このお母さん(とお父さん)、息子が記憶がなくして、文字も書けないのに、大学に通わせたり、またバイクに乗ることを許可したりしている。

 傍から見ると「それはどう考えても早すぎるだろ」とおもってしまう。文字が書けないのに大学に行ってもつらいだけだろ、と。

 でも「なんとかして元の姿に戻ってほしい」という強い焦りがそうさせたんだろう。言ってみれば、愛する人が一度死んで、「よみがえるかもしれない」とおもえばなんだってやるような気持ちだろう。藁にでもすがりたいだろう。

 それに大学に行ったことで、記憶はそんなに戻らなかったけど新たな生きる道を見つけられたわけだから、復学させたのは結果的には正解だったんだろうな。まあ記憶喪失の人に対して何をさせるのが正解かなんて、専門の医者ですらわからないんだろうけど。

 また心は赤ちゃんに戻っても、社会的には十八歳の青年で、ずっと世話をしてやるわけにはいかないわけだもんな。心配であっても本人の自立をうながすのもまた親心かもしれない。

 自分が親になったので、自分の子が記憶喪失になったら……とあれこれ考えてしまう。


 

 記憶がないことでいろいろな不自由を強いられ、一日も早く記憶を取り戻そうともがく著者。断片的に記憶は戻るものの、事故以前の自分には戻れない。

 だが記憶を失ったものとして大学に通い、日々を過ごすうちに新たな人間関係ができ、新たな生活ができるようになってくる。そして訪れる心境の変化。

 何年か前までは、昔の自分に戻りたくて仕方がなかった。どうしたら記憶が戻るのだろうと考え、高校時代と同じ髪型にしたり、事故の前に読んだ本やマンガを読み返したりした。
 今のぼくには失くしたくないものがいっぱい増えて、過去の十八年の記憶よりも、はるかに大切なものになった。楽しかったことや、辛かったこと、笑ったことや、泣いたこと。それらすべてを含めて、あたらしい過去が愛おしい。
 今いちばん怖いのは、事故の前の記憶が戻ること。そうなった瞬間に、今いる自分が失くなってしまうのが、ぼくにはいちばん怖い。ぼくは今、この十二年間に手に入れた、あたらしい過去に励まされながら生きている。

 

 記憶をなくして困るが、記憶がよみがえってもまた困る。

 この人の場合は、性格もぜんぜん別のものになったそうだ(と周囲の人たちから言われている)。性格も記憶によってつくられているんだな。認知症になったら性格が変わるというのも聞くし。

 ということは記憶というのはほとんど自分そのものなんだよな。過去であり、それと同時に未来をつくるものでもある。


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記憶喪失に浮かれていた



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2024年7月17日水曜日

ABCお笑いグランプリ(2024年)の感想

第45回ABCお笑いグランプリ(2024.7.7)の感想。


■Aブロック

ぐろう

 相方から自転車を借りたところ、職務質問をされた。なんと自転車を貸してくれた相方が被害届を出していた……。

 というすばらしい導入の漫才。が、そこがピークで、中盤の示談金をせしめようとしてくるあたりでスケールダウンしてしまう。「何のために!?」という得体の知れなさが、金銭目的といういちばんつまらない形で処理されてしまったのが残念。

 とはいえこれまでにいくつか見たぐろうの漫才は、家村さんが一方的に持論を展開する形だったので、相方が反撃を見せるという点で進歩の兆しを感じた。


天才ピアニスト

 タクシーの車内で上司に対して遅刻の言い訳をしていたら、運転手が嘘につきあってくれる……というコント。

 審査員に指摘されていたように窮地を救ってくれた運転手への感謝が足りないし、そもそもあの状況で噓に付き合ってくれる運転手って感謝だけでなく同時に気持ち悪さも感じるだろうに、そのへんの心理描写はカットしてただ「ありがとうございます」で済ませてしまうのはちょっと平板すぎる気もする。

 しかし声帯模写の達者さに、まだこんな引き出しがあったのかと奥の深さを感じた。次々と新しい設定のコントを考えてくる竹内さんと、それを最高の形で表現するますみさん。つくづくいいコンビだとおもう。


ダウ90000

 とにかくシチュエーションが自然で鮮やか。「家飲みの最中にそのテンションに疲れてしまってベランダに出てしんみりしゃべっているシーン」をコントにできる人はそう多くないだろう。それを缶ひとつと短いやりとりだけで伝えてしまえる芝居のうまさよ。

 さらにあの短い時間で、八人の登場人物を自然に登場させてそれぞれに持ち味を発揮させ、楽しさ、滑稽さ、驚き、失恋の悲しみ、同情、それに対する感謝の気持ちと切なさなどを表現して、それでいて詰め込みすぎに感じさせない自然さ。見事なドラマを見せ、それと同時にギャグやペーソスを散りばめてしっかりコントの形に落とし込む。

 つくづく見事。完成されすぎて逆に新人賞にふさわしくないとさえ感じてしまう。それにしても、まるで祭りに参加するように楽しそうな感じで毎年参加している姿は見ていて心温まる。


金魚番長

 オーケストラをテーマにした漫才。すごく達者なのだしネタもおもしろいし腕もある。だが、どうもスタイルそのものに目新しさを感じないというか。

「ひとりが次々に不可解な行動をとり、それに対して(コント世界の)外側にいる相方がツッコミを入れることで行動の謎が解ける」というスタイルの漫才は霜降り明星以降めずらしいものではなくなり、よほどの新奇性がないと「おもしろいんだけどどこかで見たことがあるような感じ」に映ってしまう。

 とはいえまだまだ若いコンビなのでこれから自分たちの強固なスタイルを築いてくれるのだろう。


 最終決戦に進出したのはダウ90000。


Bブロック

エバース

 車を持ってないのにドライブデートをすると約束をしてしまったので、相方に車になってほしいと頼むという漫才。

 突拍子もない設定でありながら、妙にディティールが詰められていて論理と非論理のはざまを揺れ動くようなエバースらしいネタ。ルンバで進むあたりはわりとベタな発想だったが、「やっと追いついた」「陰性、ヤバっ」「陰性のルンバ車」など次々に他の追随を許さない発想が飛び出し、怒涛の盛り上がりを見せた。

 その分、前半で佐々木さんがガッチガチに緊張していて、その緊張が映ったのかコンビ両方何度か言い間違いをしてしまうミスがあったのが残念。ああいうわかりやすいミスがあると、審査に迷ったときの判断材料になっちゃうだろうねえ。


やました

 一方的にしゃべりすぎる女性が恋人から別れを切り出されるひとりコント。

 おもしろい人、達者な人とはおもいますが、いかんせんこのタイプのコントは既視感がぬぐえないな……。なぜか女性芸人ばかりなんだよな。「人の話を聞かずにずっとしゃべってる男」「しょうもないだじゃれを連発する男」はめずらしくないから、男が演じてもおかしくないのかな。


フランスピアノ

 パントマイムを題材にしたコント。軽いものを重く見せるのではなく、重いものを軽く見せるおかしさ一辺倒で進んでしまったのが残念。そもそも軽いものを重く見せるパントマイム自体がそれほどなじみがないものなんじゃないか。


青色1号

 アナウンサー採用面接を舞台にしたコント。失敗をくりかえしている応募者が自分の置かれた実況をはじめ、それに呼応するようにアナウンス部長も熱の入った実況をはじめてしまう……。

 後半にいくにつれて盛り上がる展開、ミスの許されない脚本と熱の入った演技、たまにさしこまれる解説者のようなアクセントも効いてソツのないコント。

 ただ個人的には三人とも熱量の高いコントが好きじゃないんだよね。三人ともが熱いと喧嘩みたいになっちゃう。おかしさって盛り上がった後の冷静になった瞬間に訪れるとおもっているので。


 勝ち上がりは青色1号。まあいちばん失点が少なかったもんなあ。個人的にはエバースが勝てなかったのが残念。


Cブロック


令和ロマン

 猫ノ島という怪しい島を題材にした漫才。

 M-1優勝により知名度が高くなったおかげでお客さんもすんなり世界に入ってくれる。世界に引き込む形の漫才をするこのコンビにとっては大きなアドバンテージだろう。

 話があっちこっちに行くし漫画的なぶっとんだボケが随所に入るのだが、どんなに乱暴に揺さぶっても堂々たるたたずまいを見せる松井ケムリさんのおかげで軸が揺るがないのがすごい。どんな目に遭ってもケムリはケムリでいられるもんな。


かが屋

 始業前の教室を舞台にしたコント。定期券を落とした生徒と、それを拾ってあげた友人が織りなすドタバタ。

 いやあ、良かった。これまで観たかが屋史上もっともおもしろかった。ちょっとした冗談のつもりだったのに本気で友人を怒らせてしまって傷つく生徒の気持ちも、自分の勘違いで友人にひどい言葉をぶつけてしまって悔やむも引っ込みがつかなくなって素直に謝れない生徒の気持ちも、よくわかる。切ないドラマなんだけど、優しい方言で包みこんでいるのと、「地獄の空気」というちょうど学生らしいワード、「同窓会で大スター」や「五分経ってないんや」など急に俯瞰で見るような視点の切り替えによってアクセントをつけている。

 特に「五分経ってないんや」は屈指の名セリフで、何がすごいって、絶妙のあるあるでありながら、観ている側の気持ちとぴったり一致しているところ。あの濃密なドラマが五分もかかっていないなんて。


フースーヤ

 えー、ぜんぜんおぼえてないです。フースーヤってそんなもんだからね。

 いちばんおもしろかったのは、大会オープニングのVTRでピン芸人やコント師が「ピン芸でかきまわしてやる!」「コントがいちばん強い!」みたいなコメントを言った後にフースーヤが「漫才をなめるなよ」ってコメントを出してたところ。

 誰が言うてんねん。


ぎょねこ

 円周率の暗記をテーマにしたコント。

 審査員が「知的なネタ」とコメントしていたが、そういうコメントが出るってことはそんなにおもしろくなかったってことなんだよね。個人的にはこういうロジカルなネタは好きなんだけど、台本のおもしろさだけでは勝てないよなあ。

 昔のABCグランプリでジグザグジギーが毎回勝てなかったのをおもいだした。


 勝ち上がったのは令和ロマン。うーん、かが屋が良かっただけに残念。



ファイナルステージ


令和ロマン

 実家に帰ったら、HUNTER×HUNTERのゾルディック家みたいになっていた、という漫才コント。

 一本目のネタが漫画的だったのでちがうのを観たいとおもっていたのだが、輪をかけて漫画チックだったのでなんだか萎えてしまった。

 さんざんあれこれやってきて、最後が「妹ちっちゃい」というシンプルすぎるボケだったのが妙におもしろかった。


青色1号

 三人で英語禁止ゲームをしたら、二人が異常に弱すぎてどんどん金を出してゆく……というコント。

「英語禁止ゲームすぐに英語を言っちゃう」という弱めの笑いがずっとくりかえされていたので大きな仕掛けがあるのかとおもったら、誕生日祝いというこれまた弱めの仕掛け……。

 ぐろうの「真相がわかったことで得体の知れなさがなくなってしまう」のと同じように、これも誕生日祝いであることがわかったことで一気に狂気性が薄れてしまった。


ダウ90000

 浮気相手と喫茶店にいたら、偶然彼女がやってきて、会社の同僚のふりをするコント。

 別人のふりをするドタバタコント、ってのはちょっとダウにしてはベタすぎる気もする。とはいえ「芸能人の誕生日めっちゃおぼえてる人」「仕事のできる坂下さん」など絶妙なリアリティを織り交ぜてくるあたりはさすが。

 八人がでてきて、それぞれが別人のふりをする……となるとさすがに話が混みいりすぎて、この短時間で表現するのは難しかったかな。


 ということで優勝は令和ロマン。大会当初からあった「誰が令和ロマンを倒すんだ?」の雰囲気通りの展開になったけど、最後に青色1号もダウ90000も失速しちゃったもんなあ。



 ABCお笑いグランプリの魅力は、ネタもさることながら、それ以外のトーク部分。毎年、ネタ以外の部分で大きな笑いが起きるのが特徴。審査員が笑わせてくれるし、去年の「彼は声優の専門学校に行ってました」はコント以上のコントだった。

 今年は一本目ネタ終わりのダウ「二本目はミュージカルやります」→金魚番長「ワンピース歌舞伎やります」で、エンディングでのまさかのワンピース歌舞伎。あの度胸、実行力、そして急遽用意したにしては高すぎるクオリティ。「こりゃあ金魚番長は売れるな」とおもわせてくれた。

 令和ロマン高比良さんのヒール立ち回りも大会の盛り上がりに大きく貢献していたし、やっぱり番組全体のおもしろさでいうといちばん好きな大会だなあ。


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2024年7月10日水曜日

【読書感想文】村上 春樹『スプートニクの恋人』 / 炎が弱くなった後の人生

スプートニクの恋人

村上 春樹

内容(e-honより)
22歳の春にすみれは生まれて初めて恋に落ちた。広大な平原をまっすぐ突き進む竜巻のような激しい恋だった。それは行く手のかたちあるものを残らずなぎ倒し、片端から空に巻き上げ、理不尽に引きちぎり、完膚なきまでに叩きつぶした。―そんなとても奇妙な、この世のものとは思えないラブ・ストーリー。


 村上春樹の小説を読むたびにおもう。よくわかんねえな、と。

 でも文章は魅力的だし、断片的にではあるが印象的なエピソードも挿入されていて強く記憶に残るし、なんだかわかんないけど「良さそうなものを読んだ、ような気がする」という気持ちにはなれる。でもどんな話だったのか、うまく説明できない。当分、村上春樹はいいや。

 でも数年たつと「今なら理解できるかも」という気になって、また読んでしまう。そしてやっぱり「よくわかんねえな」とおもいながらページを閉じる。

 中学生のときからずっとそれをくりかえしている。


 これは好みの問題なんだろうけど、ぼくは「解釈の余地が大きすぎるもの」が好きじゃないんだよね。絵画とかもよくわかんねえし。言いたいことがあるなら言葉ではっきり説明してくれなきゃわかんねえよ。こっちはおかあさんじゃないんだからあんたの深層意識まですくいあげようとしてあげませんよ。



 そんなわけでぼくにとって四年ぶり十作目ぐらいの村上春樹作品である『スプートニクの恋人』を読んだわけだが、これがまあザ・村上春樹。

 とにかく気取ったしゃらくさい文章の導入からはじまり、主人公はモテるための努力もしないのになぜか女に不自由せず、不思議な出来事をきっかけに旅に出て、いくつかの残酷で印象的な挿話が披露され、奇妙な体験をして、明確な解釈や結末もないままぼんやりと終わる。

 いつもの村上春樹だ。そう、ちょうど村上春樹が村上春樹であることから逃げられないように。やれやれ。


 こんなことを書くとぼくが村上春樹を小ばかにしているようだが、そんなことはない。ただ肌に合わないとおもっているだけだ。ノーベル賞の季節になると湧いて出るハルキストのことは心の底から侮蔑してるがね。



 それでもぼくが村上春樹作品を数年に一度手に取りたくなってしまうのは、断片的にではあるが気に入る描写や言い回しが見つかるからだ。


 「あまりにもすんなりとすべてを説明する理由なり論理なりには必ず落とし穴がある。それがぼくの経験則だ。誰かが言ったように、一冊の本で説明されることなら、説明されないほうがましだ。つまり僕が言いたいのは、あまり急いで結論に飛びつかないほうがいいということだよ」

 これこそ村上春樹の作品をよく言い表している言葉かもしれない。

 わからないものをわからないままにすtることがどんどん許されなくなっているからこそ、余計に。ほんと「わかりませんでした」が作品に対する批判だとおもっている人が多いからね。それは自分の知性の欠如か懐の狭さの吐露でしかないのにさ(もちろんぼくが村上春樹作品をわからないと書くことも同じだ)。



 今作でもっとも気に入った言い回しはこちら。

 人にはそれぞれ、あるとくべつな年代にしか手にすることのできないとくべつなものごとがある。それはささやかな炎のようなものだ。注意深く幸運な人はそれを大事に保ち、大きく育て、松明としてかざして生きていくことができる。でもひとたび失われてしまえば、その炎はもう永遠に取り戻せない。ぼくが失ったのはすみれだけではなかった。彼女といっしょに、ぼくはその貴重な炎までをも見失ってしまったのだ。

 そうねえ。ぼくの場合は16歳~17歳頃に「人生で今がいちばん楽しい!」と唐突に気付き、「今後これを超えるような日々はきっともう来ないだろう」という諦観も同時に得てしまった。

 はたして、その後の人生において、瞬間的に楽しさや喜びを感じることはもちろんあるが、あの頃のように「何をしていても、していなくても、24時間ずっと愉しい」日々は訪れていない。

 それはそれで悪いことではなく、その〝ささやかな炎〟があるからこそ今を生きていける面もある。それに、我が子を見ると「この子たちにとって人生のピークはきっとこれから訪れるんだろう」とおもえて、これもまたわくわくさせてくれるんだよな。


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2024年7月5日金曜日

【読書感想文】田中 陽希『それでも僕は歩き続ける』 / おもしろい人のつまらない本

それでも僕は歩き続ける

田中 陽希

内容(e-honより)
本気で挑むことの大切さを伝えたい。人気テレビ番組『グレートトラバース3―日本三百名山全山人力踏破』でおなじみの著者が、旅の途中で語ったこれまでの人生とこれからのこと。驚異的な挑戦を続ける理由や、次世代をになう子どもたちへのメッセージが綴られる。幼少期から学生時代までの貴重な写真。グレートトラバース3の記録写真を収録。対象:小学生高学年以上。


『クレイジージャーニー』というテレビ番組がある。

 他の人がしないようなめずらしいことをやりつづけている人に密着するドキュメンタリーだ。世界中の危険な場所に行く人、アリが大好きでとうとうアリと関わることを職業にしてしまった人、虫を食べることに情熱を燃やす人、高い所に登りたい人、洞窟探検を続けている人……。

 いろんな“クレイジー”な人が出てくるが、中でもクレイジー度高めでぼくが好きなシリーズが「アドベンチャーレース」に挑戦する人たちの会だ。

 アドベンチャーレースとは、何日もかけて、いくつかのチェックポイントを回りながら、走ったり自転車に乗ったり泳いだりカヤックを漕いだりしてゴールを目指すという競技だ。ざっくり言うとトライアスロンのすごい版というか。

『クレイジージャーニー』ではTeam EAST WINDというアドベンチャーレースのチームを追いかけているのだが、このチームのレースのしかたがえげつない。

 まず、ほとんど寝ない。レースは一週間ほどかけておこなうのだが、まずスタートしてから五十時間ぐらいはまったく寝ない。その後は仮眠をとるが、それも一時間とか二時間とかの短時間で、一週間で合計十時間も寝ていないんじゃないだろうか。ただ寝ないだけじゃなく、その間ずっと走ったり自転車を漕いだりしているのだ。寝ていないからみんな思考力が落ちているのに、それでも走りつづける。それどころか流れの速い川を移動したり、崖を降りたり、一歩間違えれば死んでしまうような場所を移動したりもする。

 またアドベンチャーレースは女性を含む四人一組のメンバーでやっているのだが、Team EAST WINDには田中正人さんという鬼軍曹がいて、この人が(一般人の感覚でいえば)パワハラをしまくる。メンバーを寝かさないし、ちょっとでもへたばったメンバーがいたら暴言を吐く。数十時間寝ていなくてふらふらになっている人に「ビンタしたげようか?」なんてことを言う(この「したげようか?」は嫌味でもなんでもなくて、本気で優しさのつもりで言っているのだ)。とはいえアドベンチャーレースに参加する人はもともとどっかおかしい上に何日もまともに睡眠をとらないせいでますますおかしくなっているので、他のメンバーもそれを当然のこととして受け入れている。

 ハードな競技というレベルを超えて、ぼくから見たらほとんど拷問(強制されているか自主的にやっているかの違いしかない)でしかないのだが、そのクレイジーさがおもしろくて『クレイジージャーニー』のアドベンチャーレース回は毎回「ひええ」「頭おかしい」「ぜったいまちがってるって」と言いながら食い入るように見てしまう。 

 そんなTeam EAST WINDの主要メンバーである田中陽希さん(リーダーと同じ田中姓だがこれは偶然)のエッセイ集。

 


 ……ということでどんなクレイジーなことが書いてあるんだろうと期待して読んだのだが、まったくの期待外れ。

 コロナ禍の刊行、編集者がインタビューをまとめただけ、子ども向けに書かれたもの、ということでとにかく薄味でつまらない。

「何かをはじめたら最後までやりとげることが大事だとおもいます」「挑戦をすることで周りの人への感謝の気持ちが自然に湧いてきました」みたいなことが延々と書かれている。つ、つまんねえ……。


 ただのファンブックだった。

 田中陽希さんという人はクレイジージャーニー以外のドキュメンタリー番組にも出ているそうで(ぼくは知らなかったが)、その番組のファン向けに書かれた本のようだ。それも浅いファン向けというか。

 田中陽希さんの生い立ちだとか学生時代の話だとかにやたらとページを使っている。おもしろいエピソードでもあればいいんだけど、これがまた平凡な学生生活なんだ。田中さんの写真も多いし、「田中陽希さんという人間のファン」につくられた本という感じ。競技のファン向けではない。

 レースの間の様々な感情の移り変わりだとか湧いてくる妄念だとかそういうところはまったく掘り下げられていない。小学三年生の道徳の教科書に載せるのにちょうどいいレベルのうわっつらの話しか書かれていない。

 これはインタビューした人が悪いんだろうなあ。せっかくのめちゃくちゃおもしろい素材なのに、それをまったく活かしてない。最高級牛肉をハンバーグにしてカレーにしちゃうようなものだ。クレイジーな素材を大衆料理にすんじゃねえよ。


 ぼくがノンフィクションの感想文を書くときは何か所かは引用してあれこれ書くようにしてるんだけど、この本に関しては内容が薄すぎて引用したいところが一か所もなかった。

 わけのわからない活動をしている人なんだからイカれたところがあるはずなのに、そこをまったく見せず凡庸な人生訓に終始させているんだもの。

 ということで田中陽希さんのファンだけど競技には関心ない、という人以外にはおすすめしません。『クレイジージャーニー』を観ましょう。


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