おもろい以外いらんねん
大前 粟生
常にクラスの中心でみんなを笑わせている滝場から、高校の文化祭でいっしょに漫才をしようと誘われた〝俺〟。ところが転校生のユウキも滝場と漫才をするという。〝俺〟と滝場、ユウキと滝場、二組のコンビが文化祭に向けて公園で漫才の練習をする。だが〝俺〟は漫才をやめると言ってしまい、この決断がその後の人生にも大きく影響を与える……。
他人との関わりよりも笑いを優先させてしまうユウキ、周囲からの期待には応えるが自分自身の中にあるものは発信しようとしないからっぽの滝場、漫才をやめた後も複雑な想いで遠くからふたりの漫才を追いかけつづける俺、それぞれのやりかたで漫才に身を捧げる男たちの青春生活。
題材はわりと好きだったんだけどな。漫才を好きだからこそ漫才ができないという悩みもわりと普遍的なものだし。
ただ、いろんな点で読みづらい小説だった。
まず、人称が定まらない。たぶんこれはあえてやっているのだろうが、一人称で書かれた小説なのに、書き手がシームレスに入れ替わる。ずっと〝俺〟(咲太)の視点で書かれていたのに、途中で急に〝ボク〟(ユウキ)視点になる。実験的にやっているのかもしれないが、小説の決まりを破っているのでとにかく気持ち悪い。筒井康隆みたいに約束事の破壊を狙ってやっているのならいいんだけど、それにしてはストーリーに重きが置かれている。人称の崩れがただただストーリーの進行を邪魔している。
そして、あたりまえなのだが、漫才を小説で読んでもまったくおもしろくない。この作品に限った話ではなく、ある芸能をべつの芸能でダイレクトに表現しようとすると失敗する。
あたりまえだ。漫才を漫才よりもおもしろく表現できてしまったら、漫才は小説よりもはるかに下の二流の芸能ということになってしまう。それができないから漫才師は漫才で表現するのだ。
だから小説で漫才を書くのはいいけど、ネタの中身は書かない方がいい。書いても読んでいる方は笑えないし、笑えなければ「ぜんぜんおもしろくない漫才に命を懸けている人たち」の話になってしまう。
正直ぼくは、主人公たちが最初にやる漫才を読んだとき、あまりにつまらなかったので「あーこれははじめて書いたネタだからぜんぜんおもしろくないっていう話の流れね」とおもっていたら、登場人物たちが手応えを感じていたので「えっ、物語の中ではこれがおもしろいっていう扱いになるんかい」と肩透かしを食らった。
又吉 直樹『火花』は漫才をテーマにした小説として成功したが、ネタの中身はほとんど書かれていない。やはり漫才は漫才でしか表現できないことを、プロの芸人は知っているのだ。
漫才のおもしろさなんて小説で読んでも五パーセントも伝わらない。純情な感情はからまわり。伝わらないから漫才師は漫才をするんだよ。
漫才そのものではなく、それに向き合う上での心情について書かれた箇所はおもしろかったけどね。
漫才の用語で人(ニン)という言葉がある。たぶん元は落語とかの言葉なんだろうけど。
人柄、個性、というような意味だ。ただネタがおもしろいだけでなく、その人がやるからおもしろい、他の人がやってもだめだ、そういう漫才を「ニンが乗っている」と言ったりするらしい。
じっさい、人柄が表れている漫才はおもしろい。テレビで観る漫才はたいてい有名な芸人がやっていて、ほとんどの人はその芸人の漫才以外の姿も知っている。天然ボケ、怒りっぽい、金に汚い、突拍子もないことをいう、育ちが悪い……。もちろんそれはあくまで人前に見せるキャラクターでしかないけど、とにかくそのキャラクターが投影されている漫才はおもしろい。すんなり漫才の世界に入れるし、意外性も表現しやすい。知らない人がやっている漫才よりもおなじみの人の漫才のほうが笑いやすい。
ただ、ニンを乗せた漫才をやっていると並の人間なら精神に異常をきたしそうな気もする。自分自身を切り売りしているようなものだもんな。演じている自分と本当の自分がちがうのに、漫才での姿を常に求められ、そのうち自分自身がわからなくなってしまうんじゃないかという気もする。
いや、べつに漫才にかぎった話ではないな。
就職活動でも営業の仕事でもそうだが、仮面をかぶって別の自分を見せないといけない局面はある。それを難なくできる人もいれば、ものすごく疲れてしまう人もいる。ぼくは後者で、就活をしていた時期は人生においてつらかった時期のワースト3には入る。
そんなわけだからもしぼくが中年デビューするとしたら漫才じゃなくてコントだな!
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