猟師の肉は腐らない
小泉 武夫
農学者である著者が、友人である猟師を訪ねて行動をともにした記録。
夏と冬に二回訪問し、それぞれ数日ずつ過ごしただけだが、とにかく濃密。数日間の記録を本一冊にしてもぜんぜん足りないとおもえるぐらい充実した日々を送っている。
山奥の小屋にたったひとり(猟犬と一緒ではあるが)で暮らしている“義っしゃん”は、ほぼ自給自足の生活を送っている。
冬のドジョウは土の中で獲るんだ……。田んぼの水を少しずつ抜いてドジョウを一箇所に集めておくと、そのへんの土を掘るといっぺんに獲れるんだそうだ。すごい漁だ。
魚や野菜はもちろん、猪、蜂の子、蝗、甲虫の幼虫、蛇、蛙など、山にある様々なものを義っしゃんは獲って食料にしている。獲ってきたものを捌いて、調理して、保存食にも変える。納豆や酒も自分でつくる(酒の密造は違法です)。
金銭を使うのは獲った猪やドジョウを町に売りに行って現金に換えて調味料などを買うぐらい。ほぼ自給自足+周囲の人との助け合いで生きている。
いいなあ、こんな生き方。と、ちょっぴりあこがれもするのだが、でもぼくがここで暮らしたら一週間もしないうちに音を上げるだろうな。
義っしゃんは毎日働いている。食べ物を獲りにいき、畑の手入れをし、調理し、保存食をつくる。たぶん毎日毎日何かしないといけないのだろう。それはきっとすごく充実した日々なんだけど、ぼくのようにめんどくさがりの人間は「今日は一日ごろごろしていたい」とか「作るの面倒だから外食で済まそう」とかおもってしまう。町の暮らしだとたまにはそういう日があってもいいけど、山だとそうはいかない。自然はいくら金を積んだって自分の都合で動いてくれないから、
「お金に縛られない暮らし」ってあこがれるけど、でもお金ってすごく楽なんだよね。物質だけでなく、労力とか時間とか快適さとか、いろんなものがお金で代替できてしまう。
お金って便利だよなあ。
他人に「ちょっとこれやってくれませんか」とお願いできるような関係は素敵だけど、でもそれは他人から頼まれたらよほどのことがないかぎりは引き受けないといけないわけだもんな。都市での生活に慣れると「だったらお金を払って解決したほうがいいや」とおもってしまう。
たぶんぼくには山での暮らしはできない。だから大災害が起きて文明が滅んだときにはおとなしく死んでいくことにする。そのときにはきっと義っしゃんのような人が人類の遺伝子を未来へ残していってくれることだろう。
猟師の生活も読んでいて楽しいが、グルメ本としても楽しめる。とにかく、ここに出てくる料理がみんなうまそうなのだ。
たぶん臭みとかもけっこうあるんだろうけど、野趣あふれた味を楽しめる人にとっては最高だろうな。いちばんいい食材を、いちばんいい調理法で、いちばんいいタイミングで食えるわけだもんな。
以前観たあるテレビ番組で、超一流の料理人が南米に行き、市場で売っている獲れたての食材を、生で食ったり、塩で味付けだけして焼いて食ったりして、最高にうまいと言っていた。料理の神髄を極めたような人でも(だからこそ)、最終的には獲れたて+シンプルな調理法がいちばんうまいと言うのだ。凝った料理もそれはそれでうまいが、「獲ったばかりの魚をその場で焼いて食う」みたいな本能にガツンとくるうまさには適わないのだろう。
たいへんおもしろかったのだが、気になった点がふたつ。
ひとつは、義っしゃんが密造酒をつくっていることや銃刀法違反をしていることをあっさり書いてしまっていること。
これがばれると警察に捕まるから秘密にしてくれと頼まれたので「秘密にする」と約束した、と書いているのだ。書いとるやないかーい!
ま、いろいろとぼかしてはいるんだろうけど、それでも他人事ながら「これを書いちゃうのはどうなのよ」とおもった。
もうひとつは、会話を借りて主張を展開していること。
捕鯨は守るべき文化だ、農薬や化学調味料の使用は悪影響が大きい、昔の人の知恵はすごい……。
そういう著者の「主張」を本にするのはいっこうにかまわない。ただそれを「著者と義っしゃんの会話」に混ぜて書くのが気持ち悪い。むりやり混ぜずに、会話は会話、主張は主張でちゃんと書けばいいのに。会話に混ぜることでその部分の不自然さが目立って、余計に説教くさく感じるんだよね。
ま、おもしろい番組の間に挟まるスポンサーの広告のようなものとおもって読み流すしかないね。
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