2024年5月8日水曜日

【読書感想文】宮島 未奈『成瀬は天下を取りにいく』 / 変なやつになりたいやつ

成瀬は天下を取りにいく

宮島 未奈

内容(e-honより)
「島崎、わたしはこの夏を西武に捧げようと思う」。各界から絶賛の声続々、いまだかつてない青春小説! 中2の夏休みの始まりに、幼馴染の成瀬がまた変なことを言い出した。コロナ禍、閉店を控える西武大津店に毎日通い、中継に映るというのだが……。さらにはM-1に挑み、実験のため坊主頭にし、二百歳まで生きると堂々宣言。今日も全力で我が道を突き進む成瀬から、誰もが目を離せない! 話題沸騰、圧巻のデビュー作。

 十歳の娘が買った本(お金を出したのはぼくだけど)。「おもしろかったよ」と貸してくれたので読んでみた。

 娘と本の貸し借りができるなんて父親冥利につきるぜ。あの小さかった娘が大きくなったものだ……。

 と感慨深かったものはあったが、読み終わった後に娘から「どうだった?」と訊かれて困ってしまった。

 うーん、おもしろくねえな……。「おもしろくなりそうな予感」はあったんだけどなあ。

 ということで娘に対しては「う、うん。お父さんが子どものときに読んでたらおもしろかったとおもうな」とお茶を濁してしまった。



 ぼくが『成瀬は天下を取りにいく』をおもしろいと感じなかった理由はわかっている。

 成瀬にあこがれないからだ。


 この本の主人公・成瀬は、あまり人目を気にしない学生生活を送っている。自分がやりたいことをやる。周囲からどうおもわれても気にしない。まじめと言われようと一生懸命勉強もする。おもしろいとおもったらとりあえずやってみる。法に触れるようなことでなければとりあえず実行する。そして多くはないけど理解してくれる人も周囲にいる。

 なぜあこがれないかって、ぼくがこういう学生生活を送っていたからだ。

 おもいついたことはとりあえずやってみて、周囲から変なやつとおもわれることをむしろ楽しんでいて、勉強もよくできて、友だちにも恵まれて、自由気ままに生きていた。生徒会長もやり、成績は学校で一番で、放課後は友だちと川で泳いだり、学校のプールにカヌーを浮かべたり、学校で鍋をして先生に怒られたり、無人島でキャンプをしたり、好き勝手にやっていた。「あいつがやることならしょうがねえな」という栄光のポジションを築いていた。


 きっと成瀬のように生きられなかった人にとっては楽しい小説なんだろうけど、成瀬のように生きていたぼくにとってはさほど目新しさは感じなかった。

 ぼくにはわかってしまうのだ。成瀬はべつに変なやつではなく「変なやつになりたいやつ」なんだよな。だってぼくがそうだったから。



 どうやらこの本、本屋大賞に選ばれたらしい。

 あー。なんとなくわかるなあ。ちょうどいいライトさだもんな。9人は10点をつけるけど1人にとっては200点、みたいな本じゃなくて、みんなが60~90点をつける本。

 本屋大賞の底の浅さをよく表しているぜ(この本が悪いわけじゃなくてあの賞の制度がひといだけ)。


 そして、すごくマーケティング臭を感じてしまうんだよなあ。

 作者の宮島未奈さんは京大出身の人らしいんだけど、同じく京大出身作家の森見登美彦氏が京都を強く出した小説を書いていて、万城目学氏が奈良だから、次は滋賀密着で三匹目のどじょうを狙いにいくぜ! ……って感じがぷんぷんしてしまうんだけど、邪推かなあ。


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2024年5月7日火曜日

小ネタ15

スパ

 あまり知られていないことだが、スパは「スーパー銭湯」の略だ。天地天明に誓ってこれは嘘だ。


レンズ

 実家に帰ったとき、母が「こないだ土産物屋で買ったのよ。なんかアフリカの楽器だって」と言って笛のようなものをくれた。

 吹いてみたたがまったく音が鳴らない。シューシューと音が漏れるだけだ。

 説明書きのようなものはないので困ってしまった。なにしろ名前もわからないのだ。

 ふと思いだして、はじめてGoogleレンズとやらを使ってみた。写真を撮ると、それが何かGoogleレンズが教えてくれるのだ。すぐにわかった。カズーという楽器らしい。

カズー

 音の鳴らし方もわかった。太いほうを口にくわえ、吹くのではなくしゃべるのだ。すると変声機を通したように別の音になる。この黒い部分で音の震えを増幅させるらしい。

 名前がわかっているものを調べることはインターネット以前からもできたが、名前のわからないものを調べるのはむずかしかった。「物知りな人に訊く」ぐらいしか手段がなかった。それができるようになったのだから技術の進歩とはたいしたものだ。

 Googleレンズがなかったら『探偵!ナイトスクープ』に依頼するしかなかった(そういやナイトスクープも昔はその手の依頼がけっこうあったが最近は観なくなったな)。


となりのトトロはん

夢やおもたけど夢ちゃうかった! 夢やおもたけど夢ちゃうかった!

このけったいな生きモンは、今でもまだ日本におるらしいわ、知らんけど。


国名

 2015年に日本政府は「グルジア」を「ジョージア」と呼ぶことに決めた。彼の国の人たちが、ロシア語読みの「グルジア」ではなく英語読み「ジョージア」を好むからだそうだ。

 ま、それはいいとして。

 もっと変えなきゃいけないところがあるだろ! オーストラリアかオーストリアのどっちかだよ! 全国民が何十年間も「まぎらわしいな」とおもってるのに!



2024年5月1日水曜日

【読書感想文】三井 誠『人類進化の700万年 書き換えられる「ヒトの起源」』 / 我々は古代人より劣っている

人類進化の700万年

書き換えられる「ヒトの起源」

三井 誠

内容(e-honより)
四万~三万年前のヨーロッパ。ネアンデルタール人と現生人類のクロマニョン人が共存していたらしい。両者の交流を示唆する痕跡が、フランスなどに残されていた。知能に勝るクロマニョン人が作った石器と同じくらい工夫を凝らした石器(石刃)が、ネアンデルタール人の三万数千年前の化石とともに見つかっている。最新の研究で明らかになってきた私たちのルーツの新常識。

 2005年刊行なので今となっては最新の知見ではないが、それでも人類史の基礎を知るにはちょうどいい本。

 ぼくは人類史の本が好きであれこれ読んでいるので知っている話も多かったが、人類誕生から現生人類への進化までの700万年を一気にふりかえるスピード感は読んでいてなかなか楽しかった。



 直立二足歩行をする生物は人類だけだ(直立でない二足歩行は他にもいる)。これにより両手で食べ物が運べるようになったわけだが、直立二足歩行は他にもいろんな恩恵をもたらした。

 初期の人類が食べ物を運ぶために手を使った可能性を前に紹介したが、石器を作り出すようになって、手の本領は再び開花したといえそうだ。当時の人類がどの程度まで器用だったかはわからないが、二足歩行によって解放された手で石器を作り始めたことが重要だろう。石器を作ったおかげで肉食の効率は上がり、脳が大きく発達できるようになった。脳が発達すれば、さらに手先を器用に使えるという相乗効果もあったかもしれない。第1章で、「獲得した性質が時間差をもって開花する」という「前適応」を紹介した。人類の直立二足歩行の利点も、随分と時間がたって、二百五十万年前以降に再び人類進化に大きな役割を果たすことになったといえる。
 また、直立した姿勢のおかげで人類の脳は大きくなれた、との指摘もある。頭が垂れ下がるのを筋肉で支えなければならない四足動物に比べ、人類の脳は重心の上で安定しやすいからというのだ。これも直立二足歩行の思わぬ恩恵かもしれない。

 直立二足歩行 → 道具を使えるように食事の効率が上がる → エネルギーを大量に使う脳を大きくすることができる

 直立二足歩行 → 頭を支えやすい → 脳を大きくすることができる

 と、複数のルートで直立二足歩行が脳の発達に貢献したわけだ。もちろんこれは結果論であって、人類の祖先は脳を大きくするために二足歩行をはじめたわけではない。

 進化は決して一本道ではなく、何が何の役に立つかわからないということがこの話からもよくわかる。



 こないだ娘と『わんダフル プリキュア!』を観ていたら、犬がプリキュアになったことでしゃべれるようになっていた。それを観たとき、「仮に脳が人間並みに発達したとしても犬の姿形のまま人間と同じように発声するのは無理なんじゃないかな」とおもった。

 もし人間と同じようにしゃべれるようになるとしたら、あごの形とか舌の長さとかが大きく変わってしまい、犬の顔を保てないとおもうんだ。まあそれはさておき……。


 さて、喉頭が下がって言葉を話せるようになったのはありがたいが、困ったことが生じた。チンパンジーのように喉頭が高い位置にあれば、息は鼻へと通じ、食べ物は口の奥に突き出している喉頭の両わきを通り抜けて食道へと入っていく。空気と食べ物は口の奥で立体交差しており、両者が混じり合う恐れはない。だから、物を食べながら息ができる。大きな肉塊を飲み込むときなど喉頭が邪魔になる場合には、喉頭の位置を下げて食べ物の通路を確保する動物もいるそうだ。
 一方、現生人類は食べ物が喉頭にぶつかる心配はないが、食べ物が気管に入っていってしまう恐れがある。「誤嚥」というやつだ。通常は物を飲み込むときに喉頭の先を閉じるのだが、高齢になりこの働きが不十分になると、誤ってモチが気管に入ってしまう。ちなみに、現生人類でも二歳くらいまでは喉頭が高い位置にあるため、ミルクを飲みながら息ができる。

 老人や乳幼児で誤嚥事故が起こるのは、ヒトが言葉を話せるようになった代償なのだ。子どもが小さいときに「ミルクを飲ませたあとは背中をたたいてげっぷを出させてやらないと、飲んだミルクが逆流してしまう」と聞いて「人間ってなんて不完全な生き物なんだ」とおもったものだ。

 しかし「二歳くらいまではミルクを飲みながら息ができる」というのははじめて知った。そういや赤ちゃんにミルクをやりながら「よく息継ぎ無しでこんなに一心不乱に飲みつづけられるな」とおもったものだ。あれは哺乳瓶から口を話さなくても息継ぎができていたからなんだなあ。




 我々はつい、ヒトは特別な動物だとおもってしまうけど、そんなことはない。

 進化の歴史をたどっていくと、ヒトの共通祖先はゴリラと分化した後、分化して一方はチンパンジーになり、もう一方がヒトになったらしい。つまりチンパンジーから見ると、ゴリラよりもヒトのほうが遺伝的に近いんだそうだ。

 進化の系統樹でヒトだけが独立して存在しているわけではなく、チンパンジーのすぐそばにいる。また「現代人が人類史上もっとも賢い」ともおもってしまうけど、これもとんだ勘違いだ。

 一方、ひとたび心が現代的になったときには、その時点で人類の能力は現代人とほぼ変わりなかったと最近の研究者は考えている。少なくとも、オーカーの刻み目を作り出した七万五千年前の時点で、現代人並みの能力を持っていたことになる。コンピューターや携帯電話など最新機器に囲まれる現代生活だが、こうした発展は人類がここ数十年で賢くなったから生まれたというわけではない。もともとの潜在力は、七万五千年前の時点といまで変わりない。
 とすると、当時といまを分けるものは何なのか。この理由は、偉大なる物理学者アイザック・ニュートン(一六四二~一七二七年)の言葉にヒントが隠されている。
「もし私が、より遠くを眺めることができたとしたら、それは巨人の肩に乗ったからです」巨人の肩というのは過去から引き継がれてきた知識の蓄積だ。言語を生み出してから脈々と続いてきた歴史が、私たちのいまを支えているということだろう。

 脳のサイズなどは七万五千年前の人類とほとんど変わっていないそうだ。人間の能力は古代人と比べて優れているわけではない。むしろ、劣っている面のほうが多そうだ。筋力、体力はもちろん、便利なものに囲まれている現代人は手先の器用さも劣っているだろうし、外部記憶装置が多い分、記憶力だって低そうだ。

 我々は、先人の知恵とか、便利な道具とか、社会システムとか、教育制度とか、能力を底上げしてくれるあれやこれやに囲まれて暮らしているから自分がすごいと錯覚しているだけで、あらゆる文明を捨ててしまえば万物の霊長どころか最弱の生き物になってしまうんだよな。大きい会社に勤めているから自分がえらくなったと錯覚してしまうサラリーマン、みたいなことを人類全体でやってるんだよな。


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2024年4月30日火曜日

小ネタ14

本の価値

 本の価値はいろいろあるけど、最大のものは「ずっと未来に物語や思想を残せる」ってことじゃないかな。テレビや映画や音楽はその点で弱い。千年前のものがいまだに鑑賞されているのって本ぐらいだろう。絵画も賞味期限は長いが、複製や保存がかんたんではない。本はその点でも優れている。

 ってことを考えると、本にまつわる賞は数あるのに、そのほとんどが新刊本を対象にしているのは残念なことだ。「二十年以上前に出版された本の中から選ぶ賞」とかあってもいいのに。


目増え

 目減りはあるのに目増えという言葉はない。なんでだろう。現象としてはぜんぜんありうることなのに。


きょうだい1

 同じ単語なのに、狭義の意味とそれを内包する広義の意味を持っていてややこしいものがある。と書いてもよくわからないとおもうが、たとえば、ごはん(米飯と食事の意味)、名前(姓名の姓じゃないほうと姓名の意味)などだ。「きょうだい」もそのひとつだ。

 「姉妹」に対する「男兄弟」の意味もあるが、姉妹も含んだ「同じ親を持つ子同士」の意味もある。また「兄妹」や「姉弟」も「きょうだい」と読む。とてもややこしい。

 もっといえば「自分にとっての兄や姉や弟や妹」の意味でも「きょうだい」と言う。「あの家のきょうだい」と「わたしのきょうだい」はぜんぜんべつの概念だ。


きょうだい2

 そういえば英語の「brother」「sister」もかなり雑な言葉だ。「兄ないしは弟」ってなんて雑な言葉なんだ。特に兄と強調したいときは「elder brother」と言わないといけないらしい。兄なんて相当身近な存在なのに、それをたった一語で表す言葉がないなんて。

 その点、中国語の親戚を表す言葉は細かい。兄、弟、姉、妹が別の言葉なのはもちろん、父方の祖父と母方の祖父、父方の祖母と母方の祖母はそれぞれ別の言葉だ。また、おじに関しても「父の兄」「父の弟」「母の姉弟」「母の姉妹の夫」「父の姉妹の夫」をそれぞれ別の単語で表す(英語は「unkle」の一種類、日本語は「伯父」「叔父」の二種類)。

 文化の違いが表れていておもしろい。



2024年4月26日金曜日

小ネタ13

馬鹿の故事

 秦の政治家が鹿を馬だと言い張り、部下たちに「これは馬だな」と訊いた。彼を恐れた部下は「鹿です」と答えた。正直に「馬です」と答えた部下もいたが、その部下たちは殺された。

 ……という逸話から「馬鹿」という言葉が生まれたという説がある。

 なかなかよくできたエピソードだ。というのは、「知らないこと」「まちがえること」をバカと呼んでいるのではなく「まちがいに気づいていながら気づかないふりをすること」「まちがいを認めないこと」をバカと呼んでいるからだ。知見に満ちている。

 つまり、思考することが苦手な首相がとんちんかんなことを言ってしまうのが馬鹿なのではなく、それに対して記者会見で見解を求められた官房長官が「その指摘はあたらない」と回答することが馬鹿だということだ。


高度なダジャレ

 青酸カリの生産管理


小さなお葬式

 うちの5歳児がよく「ちいさなお葬式♪」ってCMソングを歌うんだけど、今日会った友人の子(6歳)も「ちいさなお葬式♪」と歌ってた。こないだは近所の8歳の子も歌ってた。

 あのメロディには子どもに刺さる何かがあるんだろうか。

 子どもが葬儀屋のCMソングを歌っていることにぎょっとするから余計に印象に残るのかもしれないが。


好景気

「今の日本は賃金も上がってるし失業率も低いから好況だ!」と主張している人がいて、それに対し「こんなに庶民の生活が苦しいのにどこが好景気だ!」と反論してる人がたくさんいた。

 今が好景気かどうかは知らないが、少なくとも「庶民の生活が苦しいのにどこが好景気だ!」という反論は誤っている。

 勘違いされがちだが、好況下においてべつに庶民の暮らしは良くならない。漫画サザエさんを読むと、高度経済成長期にニュースで物価値上がりを伝えていて、サザエさんが「家計が苦しいわ」とぼやいているようなシーンが出てくる(はっきりした記憶ではないが)。

 好況であれば物価が上がり、物価が上がれば貯金は目減りする。ふつう賃金の上昇は物価上昇よりも遅れてやってくるから、安定した職についている人、年金受給者、貯金で食っている人などの生活は苦しくなる。そういう人たちにとってはデフレ不況のほうがむしろありがたい。

 逆に、投資家や求職者、借金を抱えている人などにとっては好況のほうが得をすることが多いだろうが、どちらかといえば好況で生活が苦しくなる人のほうが多いのではないだろうか。

 本来「好況」と「暮らしが楽になるか」はまったくべつのものなのだが、そこを一緒に考える人は多い。

 なぜかというと、漢字のせいだろう。

 好況、好景気という漢字を見ると、さも良いことずくめのようにおもえてしまう。好転、好評、好機、好人物、好青年、好印象と好がつく熟語はプラスの意味を持っている。だから「好況」「好景気」という単語を見ると良いものとおもってしまうのだ。そして「不評」「不人気」などに引っ張られて、不況、不景気は悪いものとおもってしまう。

「好況」は英語だと「boom」である。「boom」には他に「急激な増加」とか「ドーンという大きな音」とかの意味があるので、「好」というよりは「大」とか「拡」とかの意味が近いのではないだろうか。

 好景気とは単純にいえば経済の拡大であり、拡大にはいい影響もあれば悪い影響も伴う。「好景気=いいもの」「不景気=悪いもの」という思い込みから脱するために、「好景気」「好況」ではなく読みはそのままに「広景気」「広況」の字を充てるのはいかがだろう。「高」の字でもいい。対義語は、経済の動きが鈍るという意味で「歩景気」「歩況」で。