2022年10月4日火曜日

【読書感想文】ロバート・ホワイティング『和をもって日本となす』 / 野球はベースボールではない

和をもって日本となす

You Gotta Have Wa

ロバート・ホワイティング(著)  玉木 正之(訳)

内容(e-honより)
これば、“文化摩擦”に関する本である。すなわち、日本とアメリカのあいだに存在している亀裂を、ベースボールというスポーツを通して描いたものだ。われわれアメリカ人にとって、異なる文化を理解することがいかに難しいものか、とりわけ日本というまったく異質の文化がいかに理解し難いものであるか―ということを、知ってもらうために書いた本なのである。

 おもしろかった!

 1989年に『You Gotta Have Wa』のタイトルで刊行され、1990年に日本語訳された本。日本に精通した著者が、アメリカ人に対して、日本野球を通して日本文化を紹介するという形の本。

 日本野球界で活躍した外国人選手や通訳への取材を通して「日本野球界がいかに外国人選手にとってやりづらい場所か」を明らかにすると同時に、日本社会全体が抱える欠点も見事に暴いてみせている。

 また、選手の話にとどまらず、監督、コーチ、オーナー、経営陣、通訳、応援団、高校野球などの問題にも触れていて、単なる「ガイジンが見た日本野球」の枠を超え、日本野球界全体に対するすばらしい問題提起になっている。


 三十年以上に書かれた本なので登場するエピソードは古いが、本質は今もさほど変わっていない。この三十年間で日本がほとんど経済成長しなかった理由も垣間見れる。




 第1章『赤鬼伝説』では、1987年のボブ・ホーナー騒動について書かれている。

 ボブ・ホーナーという野球選手を知っているだろうか。1987年にヤクルトスワローズに在籍した野球選手だ(当時ぼくは幼児だったのでリアルタイムでは知らない)。

 彼はなんと日本プロ野球の最初の4試合で11打数7安打、6本塁打というとんでもない活躍を見せ、その容姿もあわせて「赤鬼」と呼ばれた選手だ(今だったら問題になりそうなニックネームだ)。

 日本に来る外国人選手といえば、メジャーリーグで活躍できなかった選手、もしくはもう選手としてのピークを過ぎた選手というのが常識だった時代。ホーナーは30歳という脂の乗った時期に来日。日本がバブルで潤沢な金を出せたから、という時代背景もあった。まあホーナーがメジャー球団と契約できなかったから、という事情もあったのだが。

 鳴り物入りでやってきて、前評判以上の成績を残したホーナーはたちまち日本中の注目の的となった。プロ野球が国民的スポーツだった時代だ。スワローズの観客動員数は大幅に増加し、ホーナーはCMにも出演。国民的なスターとなった。

 が、スターになったのはホーナーにとっていいことばかりではなかった。一挙手一投足が注目され、グラウンドの中だけでなく、プライベートもマスコミに追いかけまわされ、また試合に欠場することなどが批判の種になった。

 なによりも、ホーナーがチームの練習に参加しないことが非難された。

 これを聞いて、多くの日本人はあきれ返った。日本人にとって、試合前の練習というのは、試合そのものと同じくらい大きな意味のあるものだった。あるいは、試合以上に重要であると考えるひともいるくらいなのだ。毎日試合前に、いい練習を厳しく行なうことは、ファンやマスコミや相手チームに対してやる気を表わし、野球に取り組む姿勢の整っていることを示すという意味合いもあった。そのうえ、日々の練習は、向上心を持つものにとって必要不可欠なものである、とも考えられている。より多く練習するものが、より多くのいい結果を得る――と、ほとんどすべての日本人が信じているのである。
 彼らは完全主義者であり、日常の鍛練と不屈の意志があれば何事も可能になる、という信念を持っている。ケガや苦痛を克服することも、自分よりも強い敵と戦って勝つことも、バッティングのタイトルをとることも、その他あらゆることについて、成せば成る、と考えているのだ。さらに、努力"を重視する傾向がきわめて強く、どれだけがんばったかということを、人間に対する最終的な評価と考えているひとも少なくない。結果は二の次、というわけである。
 そんななかで、試合前に汗を流さず結果だけを求めたホーナーのやり方は、すべての日本人の人生観とスポーツ観に対する冒濱的行為であるともいうことができた。

 プロなんだから、結果を出せば他の時間はどう過ごしたっていい。そういう考えは日本野球界では通用しない。「サボってるけど成果を上げる選手」が叩かれ、「一生懸命練習するけどヘタな選手」のほうは何も言われない。

 結局、ホーナーはたった一年でアメリカに帰ってしまった。ヤクルトは高年俸での複数年契約を提示したが、ホーナーはそれを蹴り、ヤクルトに提示されたよりもずっと安い年俸でセントルイス・カージナルスと契約した。『和をもって日本となす』によると、ホーナーはすっかり日本という国に対して嫌気がさして、一日も早くアメリカに帰りたかったらしい。

 単なるホームシックではない。同じルールのスポーツでありながら、アメリカのベースボールと日本の野球はまったく別の文化を持っており、ホーナーは〝野球〟になじむことができなかったのだ。これはホーナーにかぎらず、多くの外国人選手に共通する現象だった。日本で好成績を残し、球団から残留を打診されたにもかかわらず本国に帰ってしまった外国人選手は山ほどいる(シーズン途中で勝手に帰国した選手も何人かいる)。


 よく「プロなんだから結果がすべて」と言うが、じっさいはそんなことはない。結果を出していても、練習をまじめにすることや、監督やコーチやOB(部外者なのに!)の言うことを聞くことが求められる。

 ホーナーをめぐる一連の騒動は、日本野球がどういうものかをよく表している。



 著者は、アメリカのベースボールと日本の野球はまったく別物だと主張する。

 アメリカで行なわれているゲームと同様、日本版の試合も、ボールとバットを使って行なわれ、同じルール・ブックが用いられている。しかし、似ているのはそこまでで、たとえば、日本の練習方法などは、アメリカ人の眼で見ればほとんど宗教的な行為のようにも思われる。
 アメリカのプレイヤーは本格的なスプリング・トレーニングを3月からはじめる。つまり約半年間のシーズンに向けて、せいぜい5~6週間の準備期間をとるだけだ。さらに、毎日のトレーニングも3~4時間といったところで、それが終わると近くのゴルフ場へ行くか、プールへ行くか、家へ帰ってごろ寝をするような日々を過ごす。この程度でも、ヒート・ローズのように、トレーニングをやりすぎると指摘する連中が少なくない。
 ところが日本のチームは、1月中旬の厳しい寒さのなかで、長距離走や、ダッシュや、ウェイト・トレーニングや、さらにスタジアムの階段を上り下りするような、自主、トレーニングを開始する。そして本格的なキャンプがはじまると、早朝訓練、夜間訓練を含めて1日7時間近くも練習が行なわれる。そのうえ宿舎では、チームプレイの戦術についてのミーティングが開かれ、そのあとさらに屋内練習を行なうといった具合なのだ。
 この日本式の練習に2~3年参加したウォーレン・クロマティは、「まるで教会の集会に集まるような熱心さで、新兵の訓練をやるような厳しさだよ」といった。
 そしてシーズンに入っても、このようなハード・トレーニングが続けられるのだ。真夏になると、アメリカでは多くのプレイヤーが試合のための体力を温存するために、試合前の練習を減らすことが多い。が、日本では逆に練習量を増やす傾向が見受けられる。特訓こそ夏バテ対策として効果を発揮する、と思われている面があるのだ。

 さすがに今はこの頃よりはマシになったとおもうが(だよね?)、それでもやっぱり野球界では根性論が幅を利かせている。そもそも高校野球の全国大会を真夏の日中にやる国なのだ。

 ぼくは野球が好きだ。野球というスポーツはやるのも見るのも楽しい。でも野球部は嫌いだ。でかい声を出したり、坊主頭を強制されたり、先輩やコーチにへいこらしたり、気が乗らないときも練習させられたり、監督の機嫌で走らされたり、野球部にまつわる何もかもが嫌いだ。だから高校入学当時、ソフトボール部に入ろうかとおもった。裏庭で練習をしているソフトボール部員は〝スポーツ〟をやっていて楽しそうだったから。だがソフトボール部には女子しかいなかった。顧問(おばちゃん先生)に「男子は入れないんですか?」と訊きにいくと、「男なら甲子園を目指せ!」と言われた。これが差別でなくてなんなのだ。

「野球道」という言葉もあるように、多くの野球関係者は野球を単なるスポーツとはおもっていない。この点、大相撲にも似ている。大相撲は強さだけでなく〝品格〟を求められるが、野球も技術以上に〝元気溌剌〟〝礼儀正しさ〟〝ひたむきさ〟が求められる。ま、その反動でグラウンドの外ではしょっちゅう暴行やらいじめやら陰険なことをやっているわけだが。




 同じルールブックを使いながらまったくべつのスポーツであるベースボールと野球。そのため、ベースボールをプレイするものだとおもって日本にやってきた外国人と日本野球の間には軋轢が生まれることとなる。

 意味のない(あるいは逆効果の)練習やミーティングを強制される。チームの成績が悪いとスケープゴートにされる。打率が高くてもホームラン数が多くないと評価されない。ホームランが多くても三振が多いと評価されない。プライベートの用事で休むと非難されれる(仮に契約時にプライベートの休暇をとることを盛り込んでいても)。

「外野手出身のコーチが、メジャーリーグで実績のある内野手に対して守備をコーチしようとしてきた。不要だと断ると怒鳴られた」

「体調不良だったので休ませてほしいと言うと、疲れているのは練習が足りないからと言われた」

「コーチや監督のほうが本人よりも体調やベストな練習方法を理解しているとおもっている」

といった例が、『和をもって日本となす』にはこれでもかと書かれている。

 読んでいて、日本人として恥ずかしくなった。そうなんです、ごめんなさい。日本ってこういう国なんです。効率や実益よりも努力や対面のほうが重要視されるんです。「和を乱さない」ことが何よりも求められるし、「和を乱さない」ってのは要するに「えらい人の機嫌を損ねない」だったりするんです。ばかでしょ? ぼくもそうおもいます。でもそういうばかが偉そうにしている国なんです。野球界だけじゃなくて。


 メジャーリーグを観ていると、どんな選手も受け入れる懐の広さを感じる。もちろん胸中はいろいろあるのだろうが、少なくとも表向きは誰にでも門戸が開かれている。いろんな人種の選手がプレイしている。日本で実績のある選手でも、メジャー1年目で活躍すれば新人王が与えられる。さすが優勝チームを決める大会を勝手に「ワールドシリーズ」と呼んでしまうだけのことはある。アメリカでいちばん=世界一なのだ。傲慢であると同時に、余裕もある。

 日本プロ野球は、日本人と外国人選手の間に明確に線を引いている。

 ついこないだ、スワローズの村上宗隆選手がシーズン56号ホームランを打って大騒ぎになった。「王選手の記録を58年ぶりに破った!」と大きなニュースになっていた。よく知らない人が見たら、まるでこれまでの日本記録保持者は王選手だとおもうだろう。

 でもほんとはそうじゃない。日本記録保持者はバレンティン選手の60本。村上選手はシーズン本塁打数の日本記録を作っていないし、それどころかリーグ記録も、球団記録すら作っていない(バレンティンもスワローズだったので)。

 でも新聞やテレビでは、まるでバレンティンの記録はなかったような扱いになっている。小さく(日本人としては)最多本塁打記録! と書いている。

 ちなみに、王貞治は中国民国籍なので正式には日本人ではない(帰化もしていない)のだが、なぜか王貞治や、通算最多安打記録保持者の張本勲(韓国籍)は日本人扱いになっている。べつにそこを外国人扱いしろとは言わないが、だったらアメリカ人だって日本人と同等に扱えよとおもう。


 1978年から1987年まで日本でプレーしたレオン・リー選手も、外国人として「別枠」扱いを受けていた。

 彼は外国人選手としては異例の10年間も日本で活躍し、通算4000打数以上の選手の中では今でも歴代一位の通算打率.320という記録を持っている。もし彼が日本人だったら大スターになっていただろう。

 だが、まるで「外国人参考記録」であるかのように、彼の記録は実績は低く見積もられた。

 日本人も、リーに対しては十分に好感を抱いていた。が、彼らは、リー(とその弟であるレオン)の堂々とした態度と謙虚な心には好意を寄せていたものの、スターとして扱うことはなく、リーにとっては、その点が不満でもあり、悩みの種でもあった。彼は、日本のプロ野球史上最高の生涯打率を持つ者に付与されて当然と思われる権利と栄誉を、喉から手の出るほど求めていた。日本人のスター選手に新聞記者が殺到するのと同様、自分のところへも意見を求めにきてほしいと思っていたし、引退したときには、監督やコーチの依頼がくることを期待した。少なくとも、川上哲治や山本浩二と同じように、野球評論家として新聞のコラム欄を持ちたいと思った。しかし、日本人は、彼に何も与えようとはしなかったのである。
「まったく信じられないよ」といったときのリーの声には、痛々しいほどの悲しさがにじんでいた。「誰も10年間で3割2分の成績なんて残せないよ。なのに、あっさりポイと捨てられておしまいだ。ひとりの男をこんなふうに扱うなんて、誰にもできないはずだよ」

 日本語も堪能だったのに、〝ガイジン〟であるリーにはずっとお呼びがかからなかった(引退して16年もたった2003年にバファローズのコーチ→監督になっているが)。




 日本プロ野球は、〝ガイジン〟を求めていないのだ。できることなら、日本人だけでやりたいとおもっている。そして、その差別意識を隠そうともしない。

 1986年には、朝日新聞が「ガイジン選手は必要か?」というアンケート調査の結果を公表した。それによると、プロ野球ファンの56パーセントがイエスと回答した。が、選手でイエスと回答したのはわずか10パーセントであり、球団のオーナーは12人中たった4人しかなく、監督にいたってはゼロという数字が出た。しかも、ノーという回答の最大の理由としてあげられていたのは、金がかかりすぎるということでもなければ、若手選手が活躍の場を失うということでもなく、さらにトラブルを引き起こすからということでもなく、ただ単に「日本人だけのチームが理想的」という、まるでデルフォイの神殿の神託のように曖昧模糊としたものだったのである。

 三十年以上たった今ではさすがにここまでではないとおもうが、それでもバレンティン選手の本塁打記録が一斉に無視されているのを見ると、今でもこういう意識は根強いようだ。

 なにしろ、中心選手でも〝助っ人〟呼ばわりするのだから。まるで派遣社員のごとく。


 このあたりも相撲界と似ている。

 2017年に稀勢の里関が横綱昇進を決めたとき「貴乃花以来の日本出身横綱!」と騒がれた。なんて失礼な話だろう。その間、横綱として相撲界を支えた武蔵丸や朝青龍や白鵬や日馬富士や鶴竜が、まるで正統な横綱でないかのような扱いをされたのだ。

 ちなみに武蔵丸は横綱昇進したときは既に日本に帰化していた。れっきとした日本人横綱だったのに、それでも傍流扱いをされた。なんてひどい差別なのだろう。




 結局、日本人(国籍が日本なだけでなく、日本生まれ日本育ちで日本語を話す人)にとっては外国人はよく言えば「お客様」、悪く言えば「よそ者」なんだよね。グローバル化だのなんだの言っても。だからこの期に及んでまだ「移民受け入れは段階的に」なんて悠長なことを言っている。ぼくからすると、外国人だらけになるより老人だらけの国になるほうが百倍困るんだけどなあ。

 日本人のほとんど(もちろんぼくも含めて)がうっすらと持っている差別意識に気づかせてくれるいいノンフィクションだった。なにより、書かれているエピソードのひとつひとつがめっぽうおもしろいしね。


 なにがおもしろいって、かなりあけすけな筆致で描かれていること。外国人だからだろう、遠慮がない。もっといえば口が悪い。

 1967年、広島県の高校を卒業した村田は、パシフィック・リーグのロッテ・オリオンズという、日本でいちばん人気のないチームにドラフトで指名され、入団した。
 オリオンズの本拠地は大気汚染がひどい川崎という工業都市で、そこにある川崎球場はいつも観客が少なく、終戦直後に建てられたままのスタジアムは長い年月の風雨にさらされ、かなり老朽化していた。おまけにグラウンドもひどく、外野の芝は剥がれ、地面はでこぼこに波打ち、ロッテ・ナインは、まるで草野球をやってるみたいだ、と不満をこぼしていた。

 はっはっは。こんな文章は日本野球界の人間には書けないよなあ。


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2022年9月30日金曜日

【読書感想文】吉田 修一『パーク・ライフ』 / クズにあこがれる心理

パーク・ライフ

吉田 修一

内容(e-honより)
公園にひとりで座っていると、あなたには何が見えますか?スターバックスのコーヒーを片手に、春風に乱れる髪を押さえていたのは、地下鉄でぼくが話しかけてしまった女だった。なんとなく見えていた景色がせつないほどリアルに動きはじめる。日比谷公園を舞台に、男と女の微妙な距離感を描き、芥川賞を受賞した傑作小説。

『パーク・ライフ』と『flowers』の二篇を収録。

 芥川賞受賞作である『パーク・ライフ』は、正直肌に合わなかった。なんだか村上春樹みたいだな、でも村上春樹よりももっと退屈だな、という感想。断片的には悪くないんだけど、シーンとシーンがばらばらで、有機的につながってこない。日記を読んでいるみたいだった。

 もちろん和博さん側にも言い分はある。無口な人で、日ごろはほとんどその手の話をしないのだが、あるとき一緒にラガーフェルドを駒沢公園に連れていった帰り、こんなことを言い出した。「たとえば瑞穂がリビングでテレビを観てるだろ、そうするとなんていうか気を遣うっていうのかな、いつも一緒だと息も詰まるだろうなんて思ってさ、俺は寝室で本を読むわけ。で、瑞穂が寝室に来ると、明るいと眠れないだろうと思って、今度はリビングへ。一緒にいたくないわけじゃないんだよ。一緒にいたいもんだから、部屋から部屋へ移動してるんだよな」と。

 このくだりとか好きなんだけどね。はっきり言語化するのはむずかしいけど、ああわかるなあという感じで。うちの夫婦も、子どもが寝た後はこんなんだ。仲が悪いわけじゃないよ。嫌なわけじゃないけど、ただしゃべりたくないだけ。




『flowers』は好きだった。これこれ、やっぱり吉田修一作品はこうでなくっちゃ。

 ぼくは吉田修一作品の「嫌な感じ」がたまらなく好きだ。怠惰、倦怠感、恨み、諦め、妬み、堕落、逃避、焦燥、自暴自棄……。そんな、誰もが味わいたくない、けれど味わってしまう感情をうまく書いてくれる。

『flowers』には、嫌なやつばかり出てくる。特にクズなのが元旦(こういう名前)で、会社の先輩の奥さんと浮気し、その奥さんを別の男に紹介したりもする。イチモツが大きいのが自慢で、面倒な仕事は要領よく他人に押しつける。……とまあクズ中のクズなのだが、ふしぎと主人公は元旦に悪印象を持っていない(途中までは)。しょうがないやつだとおもいながら、ほんのわずかな憧れを抱いているようにも見える。

 そうだよね。どうしようもないけど、でもなぜか憎めないやつっているよね。バカだなあとか、痛い目に遭っても知らんぞ、とかおもいながらも常識やモラルを軽やかに飛び越えて生きている姿にちょっと憧れたりする。

 己の中の「他人を傷つけて生きるダメなやつでありたい」という反道徳的な欲求に気づかせてくれる短篇だった。べつに気づきたくなかったけど。


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2022年9月29日木曜日

【読書感想文】マシュー・O・ジャクソン『ヒューマン・ネットワーク ~人づきあいの経済学~』 / ネットワークが戦争をなくす

ヒューマン・ネットワーク

人づきあいの経済学

マシュー・O・ジャクソン(著)  依田 光江(訳)

内容(e-honより)
会社のゆくえ、個人の収入、恋愛、健康、学力…私たちの将来を見通す「スタンフォード流」ネットワークの経済学!


「ネットワーク」が我々の社会にいかに大きな影響を与えているか、を経済学の立場から読み解いた本。

 ネットワークといっても人付き合いだけの話ではない。15世紀のフィレンツェでメディチ家が力を持ったのも、金融危機が起こるのも、伝染病が広まるのも、地域によって失業率が異なるのも、ネットワークによって読み解くことができる。

 20世紀半ば以降に国家間の戦争が急減しているのも、貿易手段が発達して国家間のネットワークが強固になったからだという説もあるらしい。どの国の経済も海外貿易に大きく依存しているため、戦争を仕掛けて貿易ができなくなると困るから、ということらしい。まさに今、戦争を仕掛けているロシアは経済的に窮地に追い込まれているし。案外、北朝鮮に対しても経済制裁をするよりも積極的に貿易をしたほうが安全な国になってくれるかもしれない。


 ちなみに原著の刊行は新型コロナウイルス流行直前の2019年だが、伝染病の感染拡大やワクチン接種効果について書かれた箇所もあり、まるで予見したかのようにタイムリーな内容になっている。




「フレンドシップ・パラドクス」という概念がある。

 あなたは「自分には、周囲の人間よりも多くの友だちがいる」とおもうだろうか?

 おそらく、ほとんどの人の答えはノーだ。なぜなら、友だちのネットワークは不均衡だから。数人しか友だちがいない人もいれば、数十人、数百人の友だちがいる人もいる。後者を仮に〝人気者〟と呼ぶとする。

 あなたが〝人気者〟である可能性は低いが、あなたが〝人気者〟と友だちである可能性は高い。なにしろ〝人気者〟には友だちがたくさんいるのだから、その中のひとりがあなたであってもふしぎではない。

 フレンドシップ・パラドクスはわかりやすい。人気のある(友だちが多い)人は多くの人の友だちリストに現れ、友だちの少ない人は友だちリストにあまり出てこない。多くの友だちがいる人は、集団の人数に占める割合よりも何倍も多く友だちリストに登場し、強い存在感を放つ。友だちが一〇人いる人は、友だちが五人の人より、二倍多くの人から友だちとして数えられるわけだ。
 フレンドシップ・パラドクスは数学的にはたいして深い概念ではない(そもそもパラドクスに深いものはほとんどない)が、ほとんどの人の人間関係にかかわりがある。親にしろ、子どもにしろ、「学校ではみんなもってるのに……」とか、「友だちはみんな親が認めてくれているのに……」の言いまわしを聞いたり言ったりしたことがあるだろう。この種の言い方はだいたい真実ではなく、当人の周りの少数の人しか反映していない。人気のある生徒は子どもの友だちとしてよく出現するため、とくに人気のある生徒たちが何か共通の流行を追っていたなら、他の子どもたちの目にはみんながそうしていると映る。人気のある人のふるまいによって、感じ方や挙動の基準が一般の人よりも強く決定づけられてしまうのだ。

 これはSNSによってより視覚化されやすくなった。

 かつては「あの人はどうやら友だちが多そうだ」「彼は顔が広い」ぐらいの漠然としたものだったが、FacebookやTwitterでは友だちの数やフォロワーの数がはっきり見てわかる。

 SNS上であなたがフォローしているのが100人いるとすると、その中には数万人ものフォロワーを持つ人もいるだろう。あなたがよく目にするのはきっとそういうアカウントだ。逆に、数人しかフォロワーのいない人を目にする機会は少ない。なぜならそういう人はあまり他人と交流しないし、あなたもきっとフォローしていないだろうから。


 こうして、じっさいには「フォロワー数の少ないアカウント」のほうが圧倒的に多いのに、「フォロワー数の多いアカウント」ばかりを見て「私が見ている人たちはみんなフォロワーがいっぱいいていいなあ」という現象が発生する。

 そして、「フォロワー数の多いアカウント」というのは当然ながら「著名である」「おもしろい投稿をする」「一芸に秀でている」人であるため、まるで自分以外のみんなが自分より優れているように感じてしまう。

「SNS疲れ」が話題になったが、「フレンドシップ・パラドクス」によって疲れてしまった人も多いのだろう。自分が集団の中で劣っていると突きつけられる(じっさいは必ずしもそうではないのだが)のは、そりゃあしんどい。




「フレンドシップ・パラドクス」は、人気があるかどうかだけでなく、悪影響を与えることもある。

 一般学生の認識は、パーティーや催しでの経験だけではなく、身近にいる友だちの言動からも影響を受ける。ここでもフレンドシップ・パラドクスが作用する。もし、人気者がより多くタバコを喫い、より多く酒を飲むのなら、これは一般学生の判断をゆがませる。実際、ある調査では、中学校では、友だち関係が増えるたびに、生徒が喫煙しはじめる可能性が五パーセント上昇すると推計している。同様の推計はアルコールについても見られ、自分を友だちだと言ってくれる生徒が五人増えると、中学生が試しに酒を飲んでみる確率が三〇パーセントあがるという。
 社交的な学生の飲酒や喫煙量を増やす要因はいくつかある。そうした嗜好品を楽しむこと自体が社会活動の一環であることもそのひとつだ。他者との交流に費やす時間が増えるほど、アルコールを消費する理由が増えていく。逆向きの作用もある。アルコール好きの学生は、むしろ飲める機会を増やすために、同じ傾向にある知人を探そうとする。とくに、親の監視が少ない学生ほど仲間の学生とつきあう時間が長くなり、タバコや酒、ドラッグに触れる機会も増える。そうした性質に基づく社会活動にはフィードバックがあり、仲間が飲んでいる姿を見れば、自分も飲もうという気になる。当人の飲酒レベルがあがれば、仲間の飲酒レベルもあがる。こうしてフィードバックの環が回りつづけるのだ。

 たしかになあ。中高生ってタバコを吸いがちだけど(今はどうだか知らないけど)、あれは周囲がやってるから始めるんだもんな。「友だちは誰ひとり吸ってないけど俺は吸うぜ」って人間はまずいない。

 そういえばぼくの周りでも大学生のときは喫煙者と非喫煙者が半々ぐらいだったけど、喫煙者のうち何人かが禁煙すると、それにつられるように他の連中もタバコをやめ、今ではぼくの身近な友人に喫煙者はひとりもいなくなった。

 ひとりで吸いつづけるのはむずかしいようだ。


 喫煙者や日常的に酒を飲む人の数がどんどん減ってきているという。

 もちろん社会の変化もあるけど、いちばんの原因は「周りが吸わないから吸わない」「周りが飲まないから飲まない」じゃなかろうか。

 影響力のある人がやめる → その周囲の人たちもやめる → そのまた周囲もやめる

という感じで、どんどん減っているのだろう。

 お酒を好きな人はけっこういるけど、「家でひとりでも飲む」人は(依存症以外では)そんなに多くないもんな。




 以前読んだ中室牧子 『「学力」の経済学』に、「学力の高い友だちの中にいると、自分の学力にもプラスの影響がある」と書かれていた(ただし優秀な子からプラスの影響を受けるのはもともと優秀な子だけで、そうでない子は自信をなくしてマイナスの影響を受けるそうだ)。

 また、飲酒、喫煙、暴力、カンニングなど反社会的な行為は特に友人からの影響を受けやすいという。

 多くの親は子どもを進学校に行かせたがるけど、進学校のいいところは教師やカリキュラムよりも「悪影響を与える友人に出会う可能性が低い」ことなんだろう。

 ぼくが通っていた高校は、難関大に進む生徒から、はなから進学する気のない生徒までいろんな学力の生徒がいたけど、自然と友人関係は学力別になっていた。勉強のできる生徒と、まったく勉強をしない生徒が友人関係にあるというケースは、ぼくが見たかぎりほとんどなかった。

 あれは「学力が近いものがつるむ」ことでもあり、逆に「ふだんからつるんでいるから学力が近くなる」効果もあったんだろうな。




 アメリカのシリコンバレーには世界的に成功しているハイテク企業が多数存在している。シリコンバレーにハイテク企業が林立しているのはもちろん偶然ではない。

 高い教育を受けた人が集まったから多くの成功企業が誕生し、多くの企業が成功したから高い教育を受けた人や意欲の高い人が集まった。

 ハイテク企業と高いスキルをもった技術者が同じ場所に集まる理由は情報の豊かな流れだけでなく、もっと強い共生関係があるからだ。サーチクワント社というスタートアップを創業したクリス・ザハリアスは、創業前にネットスケープ社やエフィシェントフロンティア社、オムニチュア、ヤフー、トリジットで働いた経験をもつ。彼のような履歴書はさほどめずらしくはない。現代の企業は、とくにハイテク企業は、あっというまに生まれ、消えていく。こうした企業が世界に事業を展開していくのなら、数年ごとに引っ越ししなければならない従業員が出てくる。これは当人にとっても、ひいては企業にとっても、大きなコストがかかる。だが、シリコンバレーに住めば、会社が消えそうになっても、自宅から数キロしか離れていない別の会社への転職を決めてさっさと移ることができる。技術者も企業もシリコンバレーに群がり、似たバックグラウンドをもつ人が集まることでさらに多くの人と企業が呼ばれるので、ハイテクのキャリアを積みたい人にとってはほかの場所に住むことが考えられなくなる。

 金融業界がニューヨークや東京に集まるのや、映画産業がハリウッドに集まるのも、同じことだ。

 どれだけ通信手段が発達しても「距離的に近い」ことは大きなアドバンテージとなる。遠くの親戚よりも近くの他人。

 きっと今後も都市部への一極集中の流れは止まることがないだろう。




 ネットワークには長短両面があるが、うまく使えば努力の何倍もの結果を生む。

 そのためには、ネットワーク間でのヒトや情報の移動が自由であることが必要だ。

 だが現実には、移動が制限されているネットワークも多く存在する。むしろそっちのほうが多いかもしれない。

 非移動性は、人が自分の生まれた社会環境にとらわれてしまうことから生じる。閉じこめられたネットワークのなかでは、成功するために必要となる情報や機会を得られない。
 非移動性が問題になるのは、機会を得られない人が気の毒という感情論からだけでなく、社会の効率がよくないからだ。本来なら大きな生産性を発揮できたであろう人が非生産的な役割に閉じこめられ、社会全体の生産性を落としてしまう。何人のピカソが鉱山で働いて生涯を過ごしたことだろう。生まれた場所がスラムでさえなければ、ガンの治療法を発見した人だっていたかもしれない。非移動性は国の成長率にも大きな影響を及ぼしかねないのだ。

 医者の子どもしか医者になれないとか、親が政治家じゃないと政治家になれないとか。

 インドのカースト制度はそういう制度だし、そこまでいかなくても日本にもそういう傾向はある。

 これは社会にとって大きな損失である。凡庸な三世議員より、何のコネもないけど優秀で意欲のある人間が総理大臣になったほうがいいに決まっている。

『国家はなぜ衰退するのか』によると、自由な競争が推奨されて能力にふさわしい対価が得られる国は発展し、収奪的な政治的・経済的制度を持つ国は成長が進まないそうだ。わかりやすいのが、韓国と北朝鮮の例で、地理的にも民族もほぼ同じ国なのに、経済成長率には天地ほどの差がついている。それは北朝鮮が「一部の権力者にとっては、国全体を豊かにすることよりも、他人の成長を妨害するほうが自分の富が増える国」だからだ。

 日本もそうなりつつあるのかもしれない(日本だけでなく多くの国が)。




 我々の行動はネットワークによって強く支配されているので、それを断ち切って動くのはむずかしい。

 自分の行動を友だちの行動と連携させたいと思うと、それによっていくつかのことが派生して起こる可能性があり、ときにそれはかなり安定した状態になる。これは、ゲーム理論の専門家が言う「複数均衡」というものだ。相互に強化する作用が働くと、一人ひとりが本来もつ性質を強くすることがある。連携したために、本来なら最適ではない行動から抜けだせなくなる例はいくらでもある。私たちは最適とは言いがたい文字配列のキーボードを使っている。なぜなら、自宅や職場や出張先など多くの場所でキーボードを使う必要があり、また、自分用にカスタマイズするよりみなと同じキーボードを買って使うほうが安価だからだ。私たちは不必要なまでに複雑で例外規則に満ちた言語を話す。なぜなら、周りにいる人たちと話したいならそうするしかないからだ。車が道のどちら側を走るべきかは国によって異なり、注意力が散漫だったり時差ぼけだったりする観光客は、道を横断するときにヒヤリとさせられる。フィードバック効果や連携の強い動機があるせいでよりょい代替手段がとられないということは、そうした不合理なふるまいを変えることがほぼ不可能ということである。代替手段のほうが本当は優れているとわかったあとでも。

 たしかにね。

 ぼくもいっとき、「親指シフト」というキーボード入力を練習していたことがある。日本語入力に向いているという触れこみの入力方法だ。が、やめてしまった。理由のひとつは、職場のパソコンではこれまで通りローマ字入力を使う必要があったこと。結局、多数派にあわせるしかないのだ(まあ親指シフトがそこまで便利ではないことも理由にあるが)。

 エスペラント語が普及しなかった理由もそれだよね。エスペラント語というのは人工的につくられた言語で、世界中の人が使うことを目的として考案された。不規則動詞がまったくなく、シンプルでおぼえやすい。これを世界中の人がおぼえれば、誰もが世界中の人と話せるようになるはず……という理念はすばらしかったが、考案されてから百年以上たった今でもほとんど使われていない。日本語や英語のように例外だらけの(新たに学ぶには)不便な言語を使い続けている。

 理由はひとつ、「みんなが今使っているのが不規則だらけの言語だから」。既存のネットワークを離れて、新たなネットワークを構築するのはすごくたいへんだから。


 ということで、人間の行動がネットワークにいかにコントロールされているかがわかる本。マーケティングとかにも役立ちそう。ネットワークビジネス(マルチ商法)には役立たないとおもいますよ。


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2022年9月27日火曜日

まるで参考にならないであろうダイエット成功記

 1年間で7kg痩せたので、その記録。

 痩せたい痩せたいとおもっている人にはたぶんあんまり参考にならないとおもう。



■ 1年間で7kg太った

 2021年夏に受けた健康診断で、前年から比較して7kg増えていた。生涯で最高の体重である。

 もともとぼくは痩せ型で、食べてもさほど太らず、二十歳の頃から現在までの十数年間で3kgぐらいしか体重が増えていない。そんなぼくが1年間で7kgも太った。これは驚異的なことである。ついでにいうと、血液検査の結果も軒並み悪化していた。

 原因はいくつか考えられる。


1.コロナ禍で外出が減った

 デスクワークだが、それでもコロナ前は週に一、二度は他の会社に出向いていた。ところがコロナ禍で打ち合わせがほとんどリモートになった。客先訪問が週に一、二度から月に一、二度になった。


2.プール通いをやめた

 週に一度、長女のプール教室を待つ間、ぼくもプールで泳いでいた。だがコロナ対策として通うのをやめた。やはりマスクをしないのはちょっと怖いし、そもそもコロナ禍でプールに来る人というのはちょっとアレな人が多くて、プールサイドでゴホゴホと咳き込んだりしている人もいる。すっかり嫌になってしまった。


3.次女が離乳食を卒業した

 なんの関係があるのかとおもうかもしれないが、これが関係大アリなのである。

 次女が離乳食を卒業して大人とほぼ同じごはんを食べるようになった。子どもというやつは日によって食べる量がずいぶんちがう。もりもり食べることもあればほとんど箸をつけないこともある。大人であれば「今日は食欲ないから少なめでいいや」と事前にごはんの量を減らしたりもできるが、子どもはそういうことをしてくれない。あれもこれもちょっとずつ箸をつけるだけつけて、大半を残したりする。

 当然、ごはんが残ることが多い。まったく箸をつけていなければ翌日に置いといたりもできるが、ちょっとずつ箸をつけていたり、ひどいときはごはんに納豆を乗せたところで「もうおなかいっぱい」と言ったりする

 もったいない。しかたなくぼくが食べる。当然、太る。


■ 痩せることにした

 もともと痩せ型だったので7kg太ってもまだ標準体型よりはやや痩せている。とはいえさすがに1年間で7kgは太りすぎだ。このままだとデブになってしまう。血液検査の数値も悪化しているので、ぼくは痩せることにした

 ここで強調しておきたいのは、「痩せようとおもった」ではなく「痩せることにした」であることだ。

 まずぼくに言わせれば、ダイエットに失敗する人は「痩せるための努力」をしている。そんなもので痩せるわけがない。やるべきは「痩せる」である。「痩せるためにがんばる」と「痩せる」はまったく別物だ。

 親から「歯みがきしなさい」と言われた子どもが「歯みがきしようとおもってる!」「歯みがきするための努力をするよ」などと言った場合、たぶん彼は歯みがきをしない。その場しのぎの言い訳でしかない。やる子はうだうだ言ってないですぐにやる。

 だから「痩せようとおもう」なんて考えてる時点でもうダメだ。おもったその瞬間からもう痩せはじめなければならない。


■ 痩せるのはかんたん

 理論的には、痩せることはすごくかんたんだ。摂取カロリーより消費カロリーを大きくすればいい。それだけ。

 そしてカロリー計算をしたことのある人ならわかるとおもうが、運動によって消費カロリーを増やすのはすごくむずかしい。痩せるぐらいのカロリーを使おうとおもったら相当きつい運動をしないといけない。疲れるし、めんどくさいし、時間もとられる。おまけに運動をしたら腹が減る。だいいち、いっぱい食べて、消費するためだけにいっぱい運動するなんて非効率じゃないか。

 そんなわけで、痩せるためには「食べる量を減らす」これにかぎる。ほとんど唯一の方法だ。


■ 食べる量を減らした

 だから食べる量を減らした。といっても無理はしない。三食きちんと食べるし、家族がおやつを食べるときはいっしょに食べる。好きなものも我慢しない。次女がごはんを残したときはもったいないからぼくが食べる(ただしその分、あらかじめぼくの分のごはんは少なめにしておく)。

 ただ、ごはんの盛りをちょっと減らし、仕事中の間食をちょっと減らしただけだ。

 減らしたら減らしたでなんてことはない。太ったということはもともと食べすぎだったのだから。つらくもないし、(ほとんどないけど)つらいときは食べればいい。


■ 痩せた

 うちには体重計がない。だからぼくが体重を量るのは、年に一回健康診断のときだけだ。

 今年の健康診断。前年と比べて7kg痩せていた。2020年から2021年にかけて7kg増え、翌年には7kg減った。つまりすっかり元通りになったわけだ。ついでに血液検査の数値も改善していた。


■ 結論

 ということで、食べる量を減らしたら痩せた。それだけ。あたりまえすぎる話だ。ダイエット情報を求めてうっかりこのページに来てしまった人はがっかりしただろう。

 身もふたもない話だけど、これがすべてなのだ。食べる量を減らせば痩せるし、減らさなければ痩せない。食べて痩せる食品は毒だけだし、きつい運動を持続できてかつ食べる量を抑えられるような強靭な意志の持ち主はそもそもはじめから太らない。


 ぼくは本屋で働いていたときにさまざまなダイエット本を目にした。『〇〇するだけダイエット』をどれだけ見たことか。体操だ、お酢だ、記録だ、ストレッチだ、マニキュアだ、オリーブオイルだ、海藻だ、と。

 ぼくは「アホだなあ。食事の量を減らせば絶対に痩せられるのに」とおもいながらそれらの本を棚に並べていた。食べる量を減らすだけだから、運動も労力も時間も器具も特別な食品もいらないのに。おまけに食費も抑えられる。


 ずっと自身がダイエットをする機会がなかったのでその理論の正しさを証明することができなかったが、今回1年間で7kg減らしたことで身をもって理論にまちがいがなかったことを示すことができた。

 というわけでどこかの出版社さん、この理論を世に広めるため『食べる量を減らすだけダイエット』を刊行しませんか?


2022年9月26日月曜日

【読書感想文】今井 むつみ『ことばと思考』 / 語彙が多ければいいってもんじゃない

ことばと思考

今井 むつみ

内容(e-honより)
私たちは、ことばを通して世界を見たり、ものごとを考えたりする。では、異なる言語を話す日本人と外国人では、認識や思考のあり方は異なるのだろうか。「前・後・左・右」のない言語の位置表現、ことばの獲得が子どもの思考に与える影響など、興味深い調査・実験の成果をふんだんに紹介しながら、認知心理学の立場から明らかにする。


 言語学の世界には、ウォーフ仮説というものがある。言語的相対論ともいうそうだ。

 かんたんにいうと「人間の思考は言語によって決定される。言語から離れた思考は不可能だ」という考えらしい。


 思考にとって言語が重要なことは間違いない。「民主主義とは人民が主権を持ち人民が政治を行う考えである」みたいな抽象的な概念を言語なしに考察することは不可能だろう。

 ただ、「言語から離れた思考は不可能だ」とまでいうのは難しい。民主主義について考えることはできなくても、「はらへったからあそこにあるあれをくおう」ぐらいのことなら言語とは無関係に考えられるはずだ。なぜなら言語をもたない動物も、人間の赤ちゃんも、考えているのだから。

 ということで、どこまでが「言語によって決定されていること」なのかを探るのが本書だ。




  ついつい「日本語の〇〇って英語でなんていうんだろう」と考えてしまう。まるで日本語のある単語と英語のある単語が一対一で対応しているかのように。

 たしかにそういう言語もある。日本語の「いぬ」と英語の「dog」は同じものを差すだろう。だが日本語の「歩く」と英語の「walk」は同じ意味ではない。英語ではゆっくり歩くことは「stroll」で、ぶらぶら歩くことは「amble」で、目的なくゆっくり歩くのは「saunter」、とぼとぼ歩くのは「traipse」、重たい足どりで歩くのは「trudge」、千鳥足で歩くのは「totter」、よちよち歩きは「waddle」……など、歩くだけでも20種類以上の動詞がある。日本語では副詞や擬態語を使って表現するが、動詞は「歩く」1種類だ。つまり日本語の「歩く」と英語の「walk」はぜんぜんちがう意味の動詞なのだ。「歩く」のほうがずっと広い。


 以前、『翻訳できない世界のことば』という本を読んだ。「肌についた、締めつけるもののあと」「夫が妻に許しを請うために贈るプレゼント」といった、日本語では一語で訳せない単語を集めた本だ。

 だが、ほとんどの外国語が「翻訳できないことば」なのだ。「walk」といった中一英語ですら翻訳できないのだから。

 色を表す言葉もそうだ。青はブルーだと小学生でも知っているが「青」と「blue」は完全に同じ範囲を指す言葉ではない。

 そもそも、色を指す言葉の数自体が言語によって大きく違う。色の名前で「赤」や「青」のようにそれ以上分けられないものを〝基礎名〟と呼ぶ。「黄緑」のように基礎名を組み合わせたものや「栗色」「きつね色」のように物質の名前を使ったものは基礎名でない(オレンジ(橙)色はオレンジ(橙)由来だが色の名前として使うことのほうが多いこともあって基礎名とみなすらしい)。灰色や桃色も同様だ。

 日本語や英語に色を指す基礎名は11ある。白、黒、赤、黄、緑、青、紫、灰、茶、オレンジ、ピンク(厳密には日本語と英語ではそれぞれの差す範囲は微妙に異なるのだが)。

 だがこれは多いほうで、ほとんどの言語はもっと少ないらしい。

 アメリカのカリフォルニア大学の研究グループが、世界中の言語のなかから一一九のサンプルを取り出し、それぞれの言語における色の基礎名の数を調査した。色の名前の数がもっとも少ないのは、パプアニューギニアのダニ族という部族の言語で、この言語には色の名前が二つしかない。色の名前が三つ~四つの言語が二〇、四つ~六つの言語が二六、六つ~七つの言語が三四、七つ~八つが一四、八つ~九つが六、九つ~一○個の言語は八つであった。一○以上の色の名前を持つ言語は、一一しかなかった。つまり、日本語や英語のように一一も色の名前(基礎名)がある言語は、少数派だったのである。例えば、色の基礎名が三つの言語では、大まかに言って、白っぽい色、私たちが赤と呼ぶ色から黄色にかけての色、私たちが呼ぶ緑・青・黒にまたがる色に、それぞれ名前がつけられる。
 この調査から、私たちが「緑」と「青」とそれぞれ呼ぶ色を別の名前で区別しない言語は、区別する言語より多いことがわかった。一一九の言語のうち、「緑」と「青」を区別する言語は、三〇しかない。一方で、「緑」と「青」を区別するだけでなく、私たちが「緑」、「青」と呼ぶ色を、さらに細かく基礎名で分ける言語もある。例えば韓国語では、黄緑を「ヨンドゥ」、緑を「チョロク」という二つの基礎語によって、「別の色」として扱っている。

 こう書くと、「日本語は色の基礎名が11もあってすごい!」と身びいきしてしまいそうになるが、必ずしもそうとは言い切れないのがおもしろいことだ。

 意外なことに、色が少ない言語のほうが正確に色を認識できることもあるようだ。「青と緑の中間だけど少し青っぽい色」を見せられると、日本語話者は「青」と認識してしまう。だが、青と緑の区別のない言語の話者は、その色を(典型的な)青とは違う色と認識できる。なまじっか「それらしい色を指す言葉」を知っているせいで、認識がその言葉に引きずられてしまうのだ。

隣接する二つのカテゴリーの境界にある刺激を、二つのカテゴリーの中間の曖昧な刺激として知覚するのではなく、はっきりとどちらかのカテゴリーのメンバーとみなすことを、心理学では「カテゴリー知覚」(あるいは「範疇知覚」)という。(中略)つまり、ことばを持たないと、実在するモノの実態を知覚できなくなるのではなく、ことばがあると、モノの認識をことばのカテゴリーのほうに引っ張る、あるいは歪ませてしまうということがこの実験からわかったのである。

 色だけでなく、たとえば〇が棒でつながったイラストを見せられ、時間を置いた後にそれと同じ絵を描いてくれと言われる。そのとき、「メガネ」という文字といっしょにイラストを見せられた人はよりメガネっぽい絵を描き、「ダンベル」という文字を見せられた人はよりダンベルっぽい絵を描く。「見た絵をそのまま描く」という課題に挑戦するときに、言葉の情報がじゃまをするのだ。




「色を指す言葉が少ない」ぐらいは想像できるけど、驚くことに世の中には「前」「後」「左」「右」といった言葉を持たない言語もあるそうだ。

 しかし、世界には「前」「後」「左」「右」に相当することばをまったく持たない言語が多く存在する。例えばオーストラリアのアボリジニの言語のひとつであるグーグ・イミディル語は、モノの位置をすべて「東」「西」「南」「北」で表す。私たちが「ボールは木の前にある」とか「リモコンはテレビの左にある」と言うとき、この言語の話者は「ボールは木の南にある」とか「リモコンはテレビの西にある」とか言うわけである。そもそもこの言語では、話者を中心とした相対的な視点でモノの位置関係を表すということをまったくしないそうである。

 東西南北を使って絶対的な位置関係で指し示すそうだ。これは幼児にはむずかしそうだけど、慣れるとこっちのほうが便利かもしれない(前後左右を指す言葉もあったほうがいいけど)。

 じっさい、この言語の話者は遠くに連れていかれてもまっすぐ戻ってこられるそうだ。常に東西南北を意識しているから迷うことが少ないのだろう。

 だが「左右反転した図形は同じものと見なしてしまう」という弱点もあるらしい。それぞれ一長一短あるようだ。




 副詞や擬態語が脳に与える影響について。

筆者自身が行ったある実験では、実験協力者に、人がいろいろな動き方で歩いたり走ったりしているシーンのビデオを多数見てもらった。それぞれのビデオ(例えば人が肩で風を切り、大またで胸を張ってすばやく歩いているシーン)に対し、「ずんずん」「はやく」「歩く」などということばが個別にテロップで示された。この実験では機能的画像磁気共鳴法、通常f(unctional)MRIと呼ばれる方法により、このときに協力者の脳がどのように活動しているかを測定した。
 すると画像を見ているときにいっしょに見たことばの種類によって、脳の活動のしかたが違うことがわかった。副詞(「はやく」)、動詞(「歩く」)を見たときは、一般的に言語を処理する部分(主に左半球の側頭葉の、意味の処理をする部分)が多く活動したが、擬態語(「ずんずん」)を見たときには、左半球だけでなく、右半球でジェスチャーなどの、言語以外の認知活動をする部分の活動が目立った。特に人やモノの運動を知覚するときの脳内ネットワークで非常に重要な中継点となるMT野という部分が、擬態語を見たときは動詞、副詞のときよりも強く活動した。つまり、動きといっしょに擬態語を見た場合、「歩く」「はやく」などの普通の動詞や副詞といっしょに同じ動きを見た場合よりも、運動を知覚する部分や、運動を実際に行ったり、これから行う運動のプランニングをしたりする部分の活動が多く見られた。また、実際にはことばは文字で提示され、音の刺激はまったく聞かされなかったのに、言語ではなく、環境中の音を聞いたときに活動する部分にも動きが見られた。

 擬態語といっしょに見たときのほうが、より見た対象に共感できると。

 ふうむ。

 日本語はオノマトペ(擬音語・擬態語)が他の言語に比べて豊富だという。そして日本人は、良くも悪くも他人の顔色をうかがうことに長けているともいう。

 もしかすると、オノマトペがいわゆる〝日本人気質〟を築く一端になっているのかもしれない。なんの根拠もない、ぼくの勝手な憶測だけど。




 思考のうちどこまでが「言語によって決定されていること」なのか? という冒頭の話に戻る。

 ここまで紹介された例を見れば、かなりの思考が言語によって左右されていることがわかる。が、本書では「言語によらない思考」も紹介されている。言葉を扱うようになる前の乳児を対象にした実験により、言語とは関係のない思考パターンがあることもわかっている。

 ということで「思考の多くは言語によって左右されるが、全部が全部そうというわけではない」ということらしい。真実はいつだって平凡なものだ。


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