2022年2月4日金曜日

【読書感想文】朝井 リョウ『どうしても生きてる』

どうしても生きてる

朝井 リョウ

内容(e-honより)
死んでしまいたい、と思うとき、そこに明確な理由はない。心は答え合わせなどできない。(『健やかな論理』)。家庭、仕事、夢、過去、現在、未来。どこに向かって立てば、生きることに対して後ろめたくなくいられるのだろう。(『流転』)。あなたが見下してバカにしているものが、私の命を引き延ばしている。(『七分二十四秒めへ』)。社会は変わるべきだけど、今の生活は変えられない。だから考えることをやめました。(『風が吹いたとて』)。尊敬する上司のSM動画が流出した。本当の痛みの在り処が映されているような気がした。(『そんなの痛いに決まってる』)。性別、容姿、家庭環境。生まれたときに引かされる籤は、どんな枝にも結べない。(『籤』)。現代の声なき声を掬いとり、ほのかな光を灯す至高の傑作。


 深刻なトラブルや悩みに直面した人たちを描いた短篇集。

『健やかな論理』の主人公は自殺や事故死をした人のSNSアカウントを調べて最後の「まったく予兆を感じさせないツイート」を集めている。

『風が吹いたとて』では、大した罪の意識を感じることなく不正に手を染める人と、上からの命令で不正に手を染めることの罪悪感に押しつぶされそうになる人の姿が描かれる。

『そんなの痛いに決まってる』ではマニアックな性癖を満たすために不倫に走る男や、SM動画が流出してしまった仕事では頼られる上司の苦悩がつづられる。

『籤』の主人公の女性は、出生前診断で生まれてくる子どもの先天性疾患がわかったとたん夫から堕胎を勧められる。

 どれもみなヘビーだ。
 たやすく「考えすぎだよ」「忘れちゃいなよ」とは言えないような重たい悩み。誰にでもふりかかりうる、そして解決方法のないトラブル。


 若いうちは、己の才覚と努力で何でも解決できるとおもっていた。正しく、そして一生懸命生きていれば道は切り開けるのだと。

 しかし長く生きてきておもう。しょせんは運だと。自分が健康に生まれたのも、それなりの教育を受けられたのも、刑務所に入っていないのも、今のところ食うに困っていないのも、子どもが健やかに育っているのも、天災で命を落としていないのも、すべては運だと。才能や努力のおかげじゃない。たまたまだ。

 犯罪学では、ある地域にある期間にどれぐらいの犯罪が起きるかをほぼ正確に予想できるのだという。個人が犯罪に手を染めるかどうかは最終的には当人の意思に左右されるものだが、その〝意思〟を形成するものは時代や場所や環境で決まってしまうのだ。ミクロで見れば犯罪に手を染めるかどうかは当人の意思でも、マクロで見れば一定数が犯罪をすることは決まっている。
 いってみれば「犯罪者」「貧困」「事故死」が何本か入ったクジを引くようなものだ。努力によって多少はずれクジを引く確率は下げられないけど、はずれクジの総数は変わらない。誰かがそのクジを引かなくてはならない。


 特にそれを感じたのは、子どもが生まれるときだ。どんな子が生まれるか、生まれるまでわからない。天使のようにかわいい子もいれば、ものすごく手のかかる子もいる。重い障害や難病を抱えて生まれてきたら、これまでの生活も仕事も趣味も手放さないといけないかもしれない。
 はっきり言ってクジだ。しかも引いたのがどんなクジでも、取り換えはきかない。親が大金持ちだろうが、天才だろうが、一流アスリートだろうが、望んだとおりの子どもが生まれてくることはない。

 少し前に「親ガチャ」という言葉が流行語になったが、どんな親のもとに生まれてくるか、どんな子が生まれてくるかは、まさに運次第。
「親ガチャ」を好んで使う人もいるし「親ガチャ」なんて言葉に眉をひそめる人もいるが、何をいまさら。人間は何千年も前からガチャを引いてきたじゃないか。




 いちばん身に染みた短篇が『流転』だった。

 ストーリー担当と作画担当のコンビで漫画家デビューを目指していたふたり。見事連載を勝ち取ったものの、まもなく連載は終わり低迷期に入る。作画担当者はイラストの仕事に精を出すが、ストーリー担当だった主人公は恋人の妊娠を期に漫画を捨てサラリーマンになる。「自分に正直に生きる」をやめたはずの主人公の前に再び転機が訪れるが……。

 ぼくもいろいろ諦めて生きてきた人間だ。才気あふれる文章で食っていきたいとか、サラリーマンでない生き方をしたいとかおもったこともある。でも、今はしがないサラリーマン。自分の天井も見えてきた。ぼくがこの先、有名アーティストや皆があこがれるクリエイターや年収1000万円プレイヤーになることはほぼないだろう。

 でもまあ、住むところや食うものに困らず、愛する家族がいて、つつましくも平凡な暮らしも悪くないとおもって生きている。その気持ちは嘘じゃない。でも別の生き方が選べるとしたら? それでも今の生活を選ぶか? と訊かれると、即答はできない。

 どの生き方がいいかなんかわからない。「悪い生き方」はあるけど、「最良の生き方」はない。「睡眠時間や余暇を犠牲にして、そこそこのポジションの漫画家になる」と「サラリーマンになってそこそこ安泰の生活を送る」のどっちがいいかなんてわからない。たぶんどっちを選んでも後悔は残るのだろう。正解なんてないことはわかっている。でも、「やっぱりあっちが正解だったのかも」とも考えてしまう。


 すごいのは「夢破れて、いろんなものに妥協して生きている男」の悩みをこれでもかと克明に書いているのが、朝井リョウという作家だということだ。

 朝井リョウ氏は大学在学中に小説家デビューを果たし、以来作家として一線でやってきている。直木賞も受賞した。

 はたからみれば間違いなく「自分の信じる道を貫いて成功した人」だ。もちろん内面には様々な苦労があっただろうし、挫折や妥協もあっただろう。それでも、誰が見たって〝成し遂げた〟側の人間だろう。

 にもかかわらず〝成し遂げられなかった〟人の苦悩を残酷なほど克明に書いている。こういうことができるのが本物の作家というやつなのだろう。物語の中で別の人生を送れる人。

 そういや朝井リョウ『何者』も、就活で心へし折られたぼくとしてはすごく身につまされる話だったけど、朝井さんは在学中にデビューしているからたぶん就活もあんまりしてないんじゃないかな。それであれが書けるのか。すげえなあ。




 ばかばかしいネット動画に救われる『七分二十四秒めへ』も好きだった。

 若いときにこの短篇を読んでいたら、さっぱりわからなかっただろう。でも三十代後半になったらわかる。

 この物語には、バカなことばかりするYouTuber(作中にはYouTubeとは書かれてないけど)に救いを求める女性が出てくる。

 彼らは毎日、地元の豊橋で遊んでいた。ファミレスで全品頼んで結局食べきれなかったり、ジャンケンで負けたメンバーが吐くまで嫌いなものを食べてみたり、手作りのイカダで極寒の季節に川下りを試みて失敗したり、くじ引きで決めた怪しい服装で出歩いて誰が最後まで職質されないか競ってみたり、生きていくうえで必要のないことばかりに全力を注いでいた。その動画を観ている間、依里子は、何の感情も動かなかった。何の学びも得なかったし、ただただ時間を浪費し目を疲れさせているという感覚しかなかった。脳が溶け、音を立てて偏差値が落ちていく気がした。
 だけど、それでよかった。
 いつしか依里子は、毎日正午にアップされる動画を心待ちにするようになっていた。集中力が持続しない若い視聴者に向けて整えられた、たった七、八分の動画。何のためにもならない動画。だけど、それを観られる昼休憩の時間が、自分の命を二十四時間ずつ必死に延ばしてくれる、最後のてのひらのような気がした。

 ぼくはネット動画はあまり観ないけど、テレビでたまに『かわいい動物大集合。びっくり映像100連発!!』みたいな番組を観る。

 昔は、そんな番組ぜったいに観なかった。何も得られない、何の学びもない。作り手の知性などみじんも感じられない。時間の無駄だとおもっていた。

 でも最近は考え方が変わった。たしかに時間の無駄だ。けど、それでいいじゃないか。むしろ有用な情報などテレビに求めていない。学びたければ本を読む。ニュースが見たければネット上にもっとスピーディーで余計な演出が施されていない情報が見つかる。テレビは毒にも薬にもならない暇つぶしでいい。

 何も得られないもの、何も成長させてくれないもの、一円の得にもならないもの。そうしたものが必要な時間も、人生にはある。おっさんおばさんになると余計に。




 ぼくが朝井リョウの小説を好きなのは、文章から底意地の悪さが見え隠れするところだ。視点が意地悪なのだ。

 世志乃がちらりと腕時計を気にする。もう少しで、第一幕が終わる時間だ。そろそろ、と声を掛けかけたとき、
「年齢重ねた男の演出家って、どうしてこう、太宰治っぽい感じのもの創りたがるんですかね」
 世志乃はそう言った。
 太宰治。
 その言葉が、みのりの鼓膜を突き破った。
「人間は、男はこんなにも醜くてどうしようもないんだって曝け出してる風でいて、どこかで、だから仕方ないよね許してね、ここまで曝け出したっていう勇気のほうを評価してねって開き直ってる感じが嫌なんですよ、私」

 ぼくも性格が悪い人間なので、こういう嫌らしい表現は大好きだ。言わなくてもいいことを指摘してしまうところ。たまんないね。


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2022年2月2日水曜日

絶好の死のタイミング

  少し前に、母親から電話があり、祖母が倒れたと聞かされた。

「もうおばあちゃんも歳も歳だしね。お医者さんが言うにはかなり危ないらしいから、覚悟しといてね」

と言われた。

 それから一週間ほどしてまた母から電話があり「意識が戻って今はリハビリをしている。お医者さんも驚くほどの快復ぶりを見せている」とのことだった。

 ぼくは、おばあちゃんには申し訳ないが「医療よ、そんなにがんばらなくていいのに」とおもった。




 たいへん薄情な孫で申し訳ない。だが「もう死なせてやれよ」がぼくの偽らざる実感だ。

 ことわっておくが、ぼくは祖母を嫌いなわけではない。むしろ好きだ。いや、好きだったといったほうがいい。

 というのは、祖母は十数年ほど前から認知症を患っており、もはやぼくのことなどまったくおぼえていないのだ。
 認知症になりたての頃はまだかろうじてぼくのことをおぼえていて、ときどき電話をかけてきては「犬犬くん? 犬犬くんなの?」などと自分からかけてきたくせに驚いていた。だが祖母から出てくる話といえば、「長男が冷たい。嫁も冷たい。娘たちも冷たい」といった愚痴ばかりで、親身になって認知症介護をしている伯父や伯母の苦労を知っているぼくとしては(もうそんな話やめてくれよ……)とうんざりしたものだ。

 しかしそんな電話もめったにかかってこなくなり、たまにかかってきても無言だったりして(たぶん携帯電話の操作を誤ってかけてしまっただけだろう)、もうすっかり祖母にとってぼくは忘却の彼方の人となってしまったようだ。娘のことすら忘れてしまったらしいから孫のことなどおぼえているはずがない。
 祖母にとってぼくの存在が消えたのと同じように、ぼくにとっても祖母は「おもしろくて優しかったおばあちゃん」という過去フォルダの中の人になってしまった。

 そんなわけで、たぶん今祖母が死んでもぼくはちっとも悲しくない。むしろ、献身的に世話をしている伯父や伯母の苦労を知っているから、「やっと死んでくれたか」と安堵するだけだ。


 祖母は九十八歳。認知症で子どもの名前すらおぼえていない。ここで死んでも、誰も「もっと長生きしてほしかった」とはおもわない。満場一致で「もう十分生きた」だ。いや、「十分」をはるか昔に通り越してしまった。

 それでも、目の前で老人が倒れたら通報しないわけにはいかないし、通報されたら救急隊員は駆けつけないわけにはいかないし、搬送されてきたら病院は治療しないわけにはいかない。
 労力と金をかけて医療を施し、残るのは家族の「ああ……助かったの……よかったね……」というなんとも微妙な言葉だけ。誰も口には出さないけど「あのまま逝ってもよかったのに……」と心の中でおもっている。

 これって誰のための医療なんだろう。医療費を負担させられる赤の他人や、介護にあたっている家族はもちろん、当人のためにすらなってないんじゃなかろうか。

 もし祖母が十数年前に亡くなっていたら、親戚一同心の底から悲しんで見送っていた。それと、長生きした結果「はあ、やっと逝ってくれたか」と安堵のため息をつかれること、どっちがいいのだろう。
 他人の幸せなんて推し量れないけど、少なくとも今のぼくなら、惜しまれながら死んでいきたいとおもう。




 自らの死について考える機会が増えた。この二年は新型コロナウイルスの流行もあったので、余計に。

 若い頃も死を想像したが、それはあくまで〝自分にとっての死〟だった。
 だが今ぼくが想像する死は〝娘にとっての父の死〟だ。

 娘は今八歳と三歳。彼女たちのことを考えると「まだまだ死ねないな」という気になる。

 生命保険には入ってるし、妻も仕事をしているし、それなりに貯金もあるので、まあぼくが死んでも経済的にはなんとかなるだろう。
 だけど娘のこれからを考えたら「まだお父さんがいたほうがいいだろうな」とおもう。うぬぼれだと言われるかもしれないが、娘たちはまだまだお父さん大好きな年頃なのだ。なにしろ八歳の娘はいまだに寝るときは「おとうさん手つないで」と言ってくるのだ。

 娘のためにはまだまだ死ねない。
 だったら、いつになったら死んでもいいのだろうか。

 世間一般に言われるのは
「子どもが成人するまでは死ねない」
「孫の顔を見るまでは」
「孫の結婚式を見るまでは」
といったところだろう。

 人間の欲望は際限がないので、その後も「ひ孫の顔を見るまでは」「玄孫(孫の孫)の顔を見るまでは」……と永遠に続いていくのかもしれないが、ぼくとしては「孫が十歳ぐらいになるまでは」だとおもっている。

 孫が子どもの頃は、じいちゃんとしてやれることもいろいろある。
 ぼくの父母も、孫と遊んでくれたり、ぼくと妻が忙しいときは預かってくれたり、お年玉や誕生日プレゼントをくれたりする。

 しかし孫が大きくなれば、当人の世界も広がってくる。祖父母の存在は相対的に小さなものになってくる。

 そのあたりで「孫に死に様を見せる」ことこそが、じじいとばばあに残された最後の役割じゃないだろうか。
「孫が十歳ぐらいになったあたり」が理想的な死のタイミングじゃないかと、今のぼくはおもう。もっと歳をとったら「やっぱもっと長生きしたいわ」と延長しそうな気もするが。




 ところで、我が両親も「孫が十歳ぐらいになったあたり」に近づきつつある。初孫(ぼくの姪)は十一歳だ。今こそ理想的な死のタイミングといってもいい(あくまでぼくにとっての理想だけど)。

 そっちもそろそろ覚悟しとかないとな。
 もしも父母が倒れて意識不明になったら……。殺せとは言わないけど、無理な延命はしなくてもいいとおもう。

 父はどうだか知らないけど、母は常々「あたしが倒れても無理な延命はしないでね。子や孫に迷惑かけながら生きながらえるなんて絶対にイヤだから」と口にしている。認知症になった実母の姿を見ているからこそ、余計にそうおもうのだろう。
 だから母が倒れて意識不明になったとして、その場にいるのがぼくだけだったとしたら、あえて救急車は呼ばない……とはできないな、やっぱり。呼んじゃう。おかあさんだもん。


 臓器提供カードみたいに、「延命拒否カード」があればいいのにとおもう。そのカードを持っている人が意識不明になったら、一切の医療行為を断つの。
 尊厳死とまではいかなくても、それぐらいの死に対する決定権はあってもいいのになあ。


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人生の早期リタイア制度


2022年2月1日火曜日

臨時休校ばかのきわみ

 娘の小学校から「新型コロナウイルス陽性者が出たので一斉休校にします」とメールが来た。

 これで三回目だ。

 それはいい。しかたない。

 ただ問題は、三回目だというのに学校の対応が何も改善されていない点だ。

 はじめての臨時休校のことは以前に書いた。

 臨時休校てんやわんや


  • 平日の昼間に、保護者にメールを送って必ず見てもらえるとおもっている。
  • 平日の昼間に突然「三時間以内に迎えに来い」という要求をして、全員応えられるとおもってる
  • 極力接触を避けなきゃならないのに保護者を学校に呼び寄せて接触機会がを増やす

と、問題があれこれあった。
「でもまあはじめてのことだし仕方ないよな」とおもっていた。

 だが、三回目になってもまったく同じやりかたをしている。

 ばかなのか? ばかなのね? ああそうですか。やっぱり。


 そりゃあ帰れる子は帰したらいいけど。

 でも「臨時休校にして保護者を学校に集める」って愚の骨頂でしょ、どう考えても。
 登校前に「今日は来ないでください」ならまだわかるけど、もう来てるのに「早めに帰らせます」って、それどれほどの意味があるの? 感染リスクよりもふだんとちがう行動とらせて事故にまきこまれるリスクのほうが高いんじゃないの?


 で、臨時休校したくせにその日の夕方メールが来て「明日は通常通り授業やります」とか言ってきてんの。
 翌日も授業やるんだったら、数時間早く下校させたことに何の意味があるんだよ?

 そんで、翌日になってまた昼頃メール来て「また新型コロナウイルス陽性者が出たので一斉休校にします。お迎えにきてください」とか言ってんの。
 何がしたいんだ。「感染拡大を防ぐ」という目的を完全に見失ってる。


 もう、ほんと、極み。ばかの極み。


2022年1月31日月曜日

カレーにふさわしいナン

 近所にネパール人がやってるカレー屋があって、そこのテイクアウトをよく利用する。

 カレーもうまいんだけど、ナンもうまい。800円のカレーセットでライスかナンを選べるんだけど、ご飯が好きなぼくですら毎回ナンを選んでしまう。

 A4用紙ぐらいのばかでかいナンが入っていて、それを見るたびに「こんなに食えねえよ」とおもうのだが、結局毎回残さず食っている。それぐらいうまい。

 この大きさのパンだったらぜったいに食えないのに、ナンだと食えてしまう。なんなんだ、これは。ナンだけに。


 こないだその店に行ったとき、メニューの隅に小さく「+200円でチーズナンにできます」と書いてあるのに気付いた。

 ほう。チーズナンか。うまそうだ。

 ということでチーズナン+バターチキンカレーのセットを買って帰って食べてみた。


 これはうまい。

 チーズナンがうまい。ものすごく。もちもちしていて、しっかりとチーズの味がする。それでいて素朴で、飽きのこない味。

 ナンというよりピッツァに近い。クアトロ・フォルマッジという四種のチーズを乗せたピッツァがあるけど、それに似ている。でももっとシンプルで、もっとうまい。

 うまいうまいとばくばく食っていたのだが、ふと気づいた。

 だめだこのナンは。うますぎて、カレーには合わない。

 チーズナンだけでも十分にうまい。カレーといっしょに食べると、もちろんそれはそれでうまいのだが、チーズナンの風味や素朴さが損なわれてしまう。

 カレーもうまくて、チーズナンもうまいのだが、いっしょに食べるとそれぞれの持ち味を殺してしまう。100のうまさと100のうまさを同時に食うことで150のうまさになっている。

 はっきり言って、チーズナンのうまさが邪魔だ。そんなにうまくなくていい。


 たとえるならば、好きなミュージシャンのライブを観にいったら、隣の席に座ったのがおしのびで観にきていたプーチン大統領だった、みたいな。

 いやこんな間近でプーチン見れたらうれしいけど。でもプーチンが気になってライブに集中できない。プーチンは後日プーチンだけでじっくり拝みたい。


 ということで、ナンはそんなにうまくなくていいです。モスクワからは以上でーす。