2022年1月24日月曜日

【読書感想文】『こちらズッコケ探偵事務所』『ズッコケ財宝調査隊』『ズッコケ山賊修業中』

  中年にとってはなつかしいズッコケ三人組シリーズを今さら読み返した感想を書くシリーズ第三弾。

 今回は8・9・10作目の感想。

(1~3作目の感想はこちら、4・5・7作目の感想はこちら


『こちらズッコケ探偵事務所』(1983年)

 盲腸炎で入院したハカセのお見舞いにモーちゃんが持っていったケーキが、謎の女性によってぶたのぬいぐるみとすりかえられる。一見何の変哲もないぬいぐるみだが、その直後からモーちゃんの周囲で不審なことが起こりはじめる。モーちゃんの家に泥棒が入るも何も盗まれず、さらにはモーちゃんが誘拐されてぶたのぬいぐるみを要求され……。

 ハチベエ主導で物語が進むことが多いが、この話の主役はモーちゃんとハカセ。ハカセの入院からはじまり、モーちゃんの誘拐、そしてモーちゃんの記憶を頼りに犯人のアジトを捜索。さらにハカセとモーちゃんの女装しての捜査、そしてハカセがぬいぐるみに隠したものが決め手となっての犯人逮捕……。二人の活躍が光る。

 ハチベエも犯人のアジトに潜入するが、何も発見できぬまま捕まっただけだし、そもそも家宅侵入だし。これが刑事だったら懲戒免職もの。違法な捜査によって得られた証拠は裁判では無効になるんだよ。

 子どもの頃はあまり好きな話ではなかったが、今読むとなかなかよくできている。「妹のいる男の子」「ヤマモト先生」といったわずかなヒントから犯人のアジトをつきとめるところや、逮捕の決め手となるハカセの機転など。

 ただ、犯人の行動が短絡的。ぬいぐるみのありかを知るために誘拐なんてしたら余計に事を荒立てるだけだし、決定的な証拠をつきつけられたわけでもないのに逃走を図って自滅するし。

 ただ、子ども向け推理小説としては十分すぎるほどよく練られたストーリー。




『ズッコケ財宝調査隊』(1984年)

 小学生の頃、ズッコケ三人組シリーズを20冊ほど持っていたが、その中のワースト1がこの作品だった。
 とにかく難解。苦労して最後まで読み通してもよくわからない。数年して「もうわかるかもしれない」と読み返しても、やっぱり理解できない。ダントツでつまらなかったのがこの作品だ。

 大人になって読み返したら印象変わるかなーとおもったけど、うーん、やっぱりイマイチ。さすがに理解はできるようになったけど、物語としてのおもしろみは他作品に比べて圧倒的に落ちる。

 なんせ『財宝調査隊』なのに、なかなか財宝調査をしない。八割ほど読み進めてようやく「どうやら財宝があるらしい」ことがわかる。それまではひたすら三十年以上前のお話が続く。回想ばかりなのだ。これはつまらない。

 歴史大好きなハカセのような子ならいいかもしれないが、ごくふつうの少年は回想話ばかり読まされたら放り投げてしまうだろう。やはり「つまらない」とおもった小学生当時のぼくの判断は正しかったのだ。

 また、肝心の財宝の中身も、読者にはかんたんに想像がついてしまう。
 なにしろプロローグで「戦時中、北京原人の骨が輸送中になくなったこと」と「終戦間際に日本軍が何か重大な荷物を運ぼうとしていたが、その飛行機が不時着したこと」が語られるのだ。プロローグを読めば誰でも「ははあ、なくなった荷物とは北京原人の骨だな」とわかってしまう。
(ただ、ぼくが小学生のときにはわからなかった。というよりプロローグに書いてあることが難しすぎて読み飛ばしていた)

 難解なプロローグ、だらだら続く年寄りの回想話、そしてかんたんに予想のつく財宝の正体。これでおもしろいはずがない。

 はたして、大人になってから読み返してみても、やっぱりズッコケシリーズワースト作品という印象は変わらなかった(もっとも大人向け作品としては読みごたえがある。でもやはりズッコケシリーズは児童文学なので、児童文学としての評価)。


 ところでこの作品ではモーちゃんの親戚の過去が多く語られるのだが、驚くのはモーちゃんのお母さんの境遇。幼い頃にお兄さんを亡くし、故郷の村はダムの底に沈み、十代で父親を亡くし、その数年後に母親も亡くす。
 苦労したんだなあ。そりゃあ酒に逃げたくもなるわ(その話は後の作品『ズッコケ結婚相談所』で語られる)。



『ズッコケ山賊修業中』(1984年)

 ズッコケシリーズ最大の問題作といっていいかもしれない『山賊修行中』。

 設定がすごい。三人組と、近所の大学生・堀口さんが山道をドライブしていると、山賊のような男たちに拉致される。彼らは土ぐも族と名乗り、地中に穴を掘って暮らしている集団だった。教祖・土ぐも様は周囲の村々からも慕われ、多くの貢ぎ物が届く。三人組は脱走を企てるが、脱走に失敗したものは首を切られると知らされ……。

 土ぐも族、なんとも異様なカルト集団である。メンバーひとりひとりはふつうの人間だが、掟のためには平気で人を殺すし、彼らの最終目的は日本転覆による政権奪取。オウム真理教にも匹敵するほどのテロリスト集団だ。
(ちなみに土蜘蛛とは、古来ヤマト王権(≒天皇)に従わなかった豪族たちをさす名称だという。『日本書紀』などにも記述があるそうだ)

 三人組が脱走して駐在所にかけこむが、味方だとおもっていた警察官が土ぐも一族の内通者だとわかったときの絶望感といったら……。小学生のときは深く理解できていなかったのでそこまで怖くなかったけど、今読むとめちゃくちゃ怖い。

 また、土ぐも様の「一身に怨みを集める」なる設定も妙なリアリティがある。人々の恨みをぶつける対象となることで慕われる。人々が土ぐも様にぶつける「おうらみもうす」がなんとも不気味だ。

 土ぐも一族の設定が微に入り細に入り書き込まれているので、これは那須正幹の完全創作ではなく、なにかしら元ネタがあるんじゃないだろうか? 過去にこれに近い事件があったとか?


 最後は三人組が無事に谷を脱出して自宅に帰りつくのだが、それでめでたしめでたしではなく、堀口さんだけは谷に残るのも後味が悪くていい。堀口さんは自ら谷に残る選択をしたわけだけど、全員無事に帰還していないことで「まだ終わっていない」感が残る。おお、おそろしい。

 八歳の娘に寝る前この本を読んだら「こわい」と震え上がっていたので「怖い夢を見るかもしれないな」と脅かしていたんだけど、その晩まんまとぼくが何者かに追いかけられる悪夢を見て夜中に目が覚めた。大人でも怖いぜ。


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2022年1月21日金曜日

【読書感想文】今野 敏『ST 警視庁科学特捜班』

ST 警視庁科学特捜班

今野 敏

内容(e-honより)
多様化する現代犯罪に対応するため新設された警視庁科学特捜班、略称ST。繰り返される猟奇事件、捜査陣は典型的な淫楽殺人と断定したが、STの青山は一人これに異を唱える。プロファイリングで浮かび上がった犯人像の矛盾、追い詰められた犯罪者の取った行動とは。痛快無比エンタテインメントの真骨頂。


(一部ネタバレあり)

 警視庁の科学特捜班(ST)の活躍を描いたハードボイルド小説。

 班長の警部を除けば、「一匹狼を気取る法医学者」「秩序恐怖症のプロファイリングの天才」「武道の達人でもある、人並外れた嗅覚の持ち主」「達観した僧侶」「紅一点でグラマー美女の超人的な聴覚の持ち主」と、漫画じみたキャラクターが並ぶ。小説というよりは、テレビドラマのキャラクターっぽい(実際ドラマ化されたようだ)。

 ただ、ギャグ漫画のようにコミカルなキャラクターばかり出てくる割には、起こる事件は妙に猟奇的で生々しい。殺された女性の身体の一部が持ち去られていたり。そのへんはちょっとちぐはぐな印象を受けた。


「そうじゃありません。殺人の動機の話をしているのです」
「動機などは刑事が考えることだ」
「え……?」
「キャップ。しっかりしてくれ。俺たちは何なんだ? 科捜研の職員だぞ。俺は、殺人そのものにしか興味はない。そして、この捜査本部の連中だって、俺たちに動機だの、殺人の背景だのの推理など期待していないはずだ。どういう犯人がどういう手段で殺人を行ったか。その正確な情報だけを期待しているはずだ。違うか?」
「そりゃそうですけど......。でも、STは、ただの科捜研の職員じゃなくて……。どう言うか、これまでの科捜研の範囲を超えた活動を期待されているわけで……」
「基本を忘れちゃ何にもならないよ」
「基本?」
「そう。俺たちがやるべきことは科学捜査だ。探偵の真似事じゃない」
 赤城の言うことはもっともだった。百合根は、急に気恥ずかしくなった。
「そうでしたね。どうやら僕は、功をあせるあまり本来の役割を忘れかけていたようです」


 はじめは「コミカルなドラマとシリアル・キラーとの対決とのどっちを書きたいんだろう」と戸惑ったが、「どっちも書きたいんだな」と気づいてからはおもしろく読めた。

 リアリティやヒューマニズムを捨て、ひたすらエンタテインメントに徹する姿勢は嫌いじゃない。

 警察小説ってテーマが重厚になって、やたらと登場人物(の口を借りた作者)が説教を垂れたがるけど、この作品にはぜんぜんそんなところがない。STのメンバーはほんとに犯人を見つけることにしか興味がなくて、犯行動機にも、世直しにも、市民の安全にも、まったく興味がない。これはすがすがしい。


 ……とはいえ、三人もの女性を殺した犯人の内面がまったく描かれていなくて、もやもやしたものが残った。金銭目的でもなく、恨みもない人を三人も殺すなんて……。

 マフィア同士に抗争を起こさせるのが目的だったらしいけど、それだったらもうちょっとうまいやりかたがあったとおもうけどな……。


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2022年1月20日木曜日

【読書感想文】キム・チョヨプ『わたしたちが光の速さで進めないなら』 ~見事なほら話~

わたしたちが光の速さで進めないなら

キム・チョヨプ (著)
カン・バンファ (翻訳)  ユン・ジヨン (訳)

内容(e-honより)
打ち棄てられたはずの宇宙ステーションで、その老人はなぜ家族の星への船を待ち続けているのか…(「わたしたちが光の速さで進めないなら」)。初出産を控え戸惑うジミンは、記憶を保管する図書館で、疎遠のまま亡くなった母の想いを確かめようとするが…(「館内紛失」)。行方不明になって数十年後、宇宙から帰ってきた祖母が語る、絵を描き続ける異星人とのかけがえのない日々…(「スペクトラム」)。今もっとも韓国の女性たちの共感を集める、新世代作家のデビュー作にしてベストセラー。生きるとは?愛するとは?優しく、どこか懐かしい、心の片隅に残り続けるSF短篇7作。


 韓国の作家によるSF短篇集。

 出生前の遺伝子コントロールによって欠陥のない存在として生まれた〝新人類〟と、欠陥を持つ人類との間の差別意識を描いた『なぜ巡礼者たちは帰らない』

 ワープ、コールドスリープ技術、ワームホールといった宇宙探求技術の進化のはざまに取り残された人の悲劇を描く『わたしたちが光の速さで進めないなら』

 様々な感情を得ることができる商品が登場する『感情の物性』

 生前の人間の意識だけを保管することができる〝図書館〟で、亡き母親の意識がなくなり、それを探す娘が再び母親の記憶と向かい合う『館内紛失』

 宇宙探求のために人体改造を施した人間の意識の変化を描く『わたしのスペースヒーローについて』


 どれも、ザ・SFという感じでおもしろかった。遺伝子コントロール、ワープ技術、意識のデータベース化、人体改造など、SFの素材としてはわりとおなじみの発想だ。だが、それを主軸に据えるのではなく、「遺伝子コントロールによって、コントロールされなかった人はどう扱われるようになるのか」「ワープ技術が古くなったとき、何が起こるのか」「意識のデータベース化がおこなわれた後、データが紛失したら」と〝その一歩先〟を想像しているのがおもしろい。




 中でも気に入ったのが『スペクトラム』と『共生仮説』。

『スペクトラム』は、はじめて人類以外の知的生命体と遭遇した人物の話。いわゆるファースト・コンタクトものだが、この宇宙人の生態がおもしろい。

 ヒジンには皆目理解できないやり方で、彼らは以前の個体が残した記録を読んで習得し、彼らの感情や考えを受け入れる。それまでのルイたちがヒジンの世話をし、大切に扱ったため、新しいルイもヒジンの世話をすることに決める。その過程で何か重大な決断があるわけではない。彼らは当然のように「ルイ」になる。
 彼らは別々の個体だ。ヒジンは一体のルイが死に、次のルイがその後釜に納まるとき、連続しない二つの自我のずれを目撃していた。魂は引き継がれない。それだけは確かだ。彼らは別のルイとしてスタートする。
 だが彼らはやはり、同じルイになると決めた。そこにはいかなる超自然的な力も働いていない。ルイたちは単に、そうすることに決める。記録されたルイとしての自意識と、ルイとしてのあらゆるものを受け入れる。経験、感情、価値、ヒジンとの関係までも。

「ルイ」が死ぬと、別の個体が「ルイ」を引き継ぐ。まったく別人が死んだ個体になりすますわけだ。なりすますというか、完全になりきるというか。人格の乗っ取りだ。

 これは地球人の考えとはまったく異なるようで、案外わからなくもない考え方だ。

 たとえば落語や歌舞伎の「襲名」。たとえば人間国宝になった桂米朝さんは便宜上「三代目」と呼ばれることもあるが、基本的に桂米朝は桂米朝である。「初代や二代目と同じ名前を名乗っている別人」ではなく、「桂米朝」という人格はひとりなのである。「桂米朝」が死んだりまた生まれたりして、百年以上生きているのだ(今は死んでいるが)。

 死ねばすべてが消えるが、襲名とは死なずに永遠の命を手に入れるための方法なのだ。

 そこまではいかなくても、「○○家を継ぐために養子をとる」なんてのもめずらしくない話だ。あれも人格の乗っ取りに近い。

 またアメリカ人なんか、息子に父親と同じ名前をつけることがある。有名な例だとジョージ・ブッシュ。日本人の感覚だとなんでだよとおもうけど、あれも「いつまでもジョージ・ブッシュとして生きていたい」という意識の表れなんだろう。人格というのは個体としての生命とは少し離れたものなのだ。


 なので『スペクトラム』に出てくる異星人の行動は、そこまでけったいなものではないかもしれない。ただ、その〝人格の乗っ取り〟をおこなう手段がユニーク。

 「ルイ」は絵を描き、後に残す。後からきた別の個体はその絵を観ることで新しい「ルイ」になるのだ。絵を媒介として自我をひきつぐ。

 うーん、まったく共感はできないけど理解はできる。「異星人ならこれぐらいのことはやるかも」とおもわせてくれる絶妙なラインだ。SFとは結局「ありえないけどあってもおかしくないかも」をいかに書くかだ。この作品は見事にそれをやっている。




『共生仮説』もおもしろかった。

 様々な動物の言語を翻訳できる装置を使って人間の赤ちゃんの言葉を翻訳したところ、赤ちゃんたちが複雑な会話をしていることがわかった。どうやら赤ちゃんの脳内に別の個体がいて、そいつらこそが赤ちゃんを「人間らしく」させているらしい。では、人間以外のものによって備わった「人間らしさ」ってほんとに「人間らしさ」なのか……?

 脳内に別の存在がいるというのは一見荒唐無稽におもえるが、我々の体内にはミトコンドリアや大腸菌のように別の個体が存在している。だったら知覚できないような知的生命体がいてもふしぎではない。
 また、幼児期健忘(人間は3歳ぐらいまでのことを覚えていないこと)の納得のいく説明として「脳内の生命体」を持ち出しているので、妙な説得力がある。

 もちろんほら話だが、これまた「ありえないけどあってもおかしくないかも」とおもわせてくれる。


 見事なほら話、上質なSF短篇集だった。


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2022年1月19日水曜日

プールとトイレと風呂椅子と

 先月、三歳の次女を連れて区民プールに行ったときのこと。

 今までも連れて行きたかったのだけど、ところかまわず小便を垂れる幼児を連れてプールに行くのはしのびない。まあ明らかにおむつとれていない子ども連れてきてる親もいるけど。

 だが最近ようやっとちゃんとトイレに行けるようになったので、プールに連れてきた。


 で、幼児用の水深五十センチぐらいのプールで遊んでいると、娘が「おしっこ」と言う。

 よしよしよく言えた、と急いでトイレに連れていくが、「いやだ」と駄々をこねる。慣れないトイレだし、補助便座もないし、暴れて座ってくれない。

 どうしよう。ここで我慢させたらプールサイドとか更衣室で漏らされるだろうしな。
 あっ、子育て経験のない人のために説明しておくと、幼児が「おしっこ出そう」と言ってから我慢しきれなくなって決壊するまでは三分ぐらいしかありません。限界の三分前に「おしっこ」と言う生き物なんです。

 しゃあねえ、漏らすよりは、ってことで更衣室にあるシャワー室に連れていく。で、シャワーをかけながら「ここでおしっこして」と小声で娘に告げる。はたして、すぐに娘はおしっこをする。

 シャワー室でおしっこするのもダメだけど他でやるよりはマシだよね。ごめんなさい、区民のみなさん。

 とおもいながらシャワー室を出たんだけど、ふと隣のシャワー室を見たら、おっさんがマイ風呂用椅子を持ちこんで、全裸で座りながらシャンプーしてやがんの。プールを銭湯代わりに使うんじゃねえ。

というわけで、シャワー室で幼児におしっこさせてことで後ろめたさを感じていたけど、「全裸でシャンプーしてるおっさん」に比べたらぜんぜんどうってことないやとおもって罪悪感はふっとびました。ありがとう。いやありがたくねえ。


2022年1月18日火曜日

【読書感想文】鹿島 茂『子供より古書が大事と思いたい』

子供より古書が大事と思いたい

鹿島 茂

内容(e-honより)
仏文学者の著者が、ある時『パリの悪魔』という本に魅せられ、以来19世紀フランスの古書蒐集にいかにのめりこんだか―。古書や挿絵芸術の解説からランクづけ、店の攻略法、オークション、購入のための借金の仕方まで、貴重な古書にまつわる様々な情報と、すべての蒐集家のための教訓が洒脱につづられる。

 フランス文学研究者であり、フランス古書蒐集家でもある著者のエッセイ。

『子供より古書が大事と思いたい』とはなんとも不穏なタイトルだが、あながちおおげさでもない。ほんとにすべてを犠牲にして古書を蒐集しているのだ。

 ちょっと注釈が必要なのだが、フランス古書というのは我々の想像する古本とはちょっと違う。
 19世紀のフランスの本というのは、今のように表紙がついておらず、仮綴本の状態で売られていたのだそうだ。買った人が装丁屋に依頼してオリジナルの表紙をつけてもらう。また印刷技術が今ほど高くないので本によって印刷の質がちがう。さらに著者直筆の訂正や献本メッセージが入っている本もある。
 したがって、大げさでもなんでもなくすべての本が世界に一冊の本となる。

 なので、フランス古書というのは古本というより美術品に近い。実際、貴重なものであれば数千万円の値がつくそうなので、ほとんど骨董品である。


 ぼくは本が好きだが、本に対して読むもの以上の価値を見いださない。コレクション品として本を買ったのはただ一度、星新一の全集を買ったときだけだ(すでに文庫で全作品を持っていた)。

 一度、古書店で文庫をレジに持っていったら「800円です」と言われ驚いた。「えっ、定価より高いじゃないですか」と言うと、店主が「初版本だからね」と答えた。ぼくは買うのをやめた。絶版本でもないのに定価より高い値段で本を買おうとはおもわないが。

 しかし、共感はできないが古書蒐集をする人の気持ちもちょっとわかる。めずらしい本、世界にひとつしかない本を手元に置いておきたい心理はわからなくもない。本とは著者の思考の表出である。世界に一冊しかない本であれば、それを所有することは著者の思考を独占することである。これはさぞや大きな快楽をもたらしてくれるに違いない。

 西村賢太氏や井上ひさし氏の「古書蒐集について書いた文章」はいずれもおもしろい。古書を集めることは、きっと多くの人に共通する願望なのだろう。




 愛書家のことをビブリオフィルと呼ぶそうだが、それが高じて〝愛書狂〟にまでなった人のことを〝ビブリオマーヌ〟と呼ぶそうだ。この言葉は十六世紀からあるそうなので、本の蒐集に狂った人はいつの時代にも存在するのだ。

 鹿島茂氏はまぎれもなくビブリオマーヌである。

そして、その日から私はビブリオマーヌとしての人生を生きることを決意した。私が本を集めるのではない。絶滅の危機に瀕している本が私に集められるのを待っているのだ。とするならば、私は古書のエコロジストであり、できるかぎり多くのロマンチック本を救い出して保護してやらなければならない。これほど重大な使命を天から授けられた以上は、家族の生活が多少犠牲になるのもやむをえまい。

 この心境。もはや信教に近い。

「家族の生活が多少犠牲になるのもやむをえまい」と書いているがこれは決して大げさな表現ではなく、ほんとに家族の生活を犠牲にして本を買っているのだ。

 はっきり言って、私の資金源は、これみな借金である。しかも親や親類からの出世払いの借金などという甘っちょろいものではなく、銀行やローン会社から、自宅を抵当に入れて借りた本格的な借金ばかりである。したがって、当然、ローンの返済は毎月容赦なく襲いかかってくる。そして、その額は、多重債務者の常として絶えず増加傾向にある。この調子でいけば、破産宣告はまずまちがいのないところである。にもかかわらず、私はあいかわらず古本を買い続け、借金は雪だるま式に増加している。

 借金をしてまで本を買うのだから相当なものである。ちなみに著者が古書を買い集めていたのはバブルの頃だそうで、バブル期は銀行もほいほい金を貸してくれたんだなあ(とはいえさすがに「本を買うため」という理由では銀行も金を貸してくれなかったそうだ)。

 趣味というのは人によれば生きる目的そのものだから、趣味にどれだけ金を遣おうが他人がとやかく言うことではない。……とはいえ、借金をしてまで趣味に金をかけるのはどう考えても度が過ぎる。

 しかし、今回だけは、なんとしても金をつくらなければ、『さかしま』を手に入れる千載一遇のチャンスをみすみす取り逃がすことになる。買うも地獄、買わぬも地獄なら、いっそ買う地獄のほうを選んだほうがいい。ええ、ままよ、銀行が貸してくれないなら、サラ金でも暴力金融でもなんでもいい、なんとしても金を作るんだ! と叫んで、ついに買い注文のファックスを入れた。待つこと数分、折り返しのファックスが届いた。『さかしま』は売却済みと書いてある。
 ああ、よかった。ほっとした。とりあえずは、破産→一家離散→ホームレスの運命は回避された。買えなくて本当によかった。先に買ってくれたお方、どこのどなたかは存じませんがありがとうございます。感謝してます。あなたはわが家の恩人だ。
 しかし、考えてみれば、買えなくてうれしがるというのも変な話である。だれだって、それなら、初めから、買い注文など出さなければいいのにと思うだろう。ところが、買い注文を「入れない」のと、注文を「出したにもかかわらず買えなかった」のとは、本が手に入らなかったという現象面では同じなのだが、心理面では、これがまったく違うのだ。たとえてみれば、オリンピックに参加できたのにしながったのと、参加したが敗れたのとの違いである。後者の場合、とにかく、やれるだけはやったのだという爽やかさが残る。

 ほら、もう頭おかしくなってるじゃん!

 買い注文を入れておいて、「買えなくてよかった」ってもうまともじゃないじゃん。オリンピック選手もこんな頭おかしい人といっしょにされたくないだろう。


 しかし、たいていの頭おかしい人のエッセイがそうであるように、このエッセイもめっぽうおもしろい。

 でもぼくは美術品とか骨董品にまったく興味ないからいいけど、そういうのが好きな人がこのエッセイを読むと集めたくなってしまうかもしれないので要注意。そこは地獄の入口ですよ……。


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