2021年7月13日火曜日

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2021年7月12日月曜日

【読書感想文】サイコパスは医師に向いているのか / 遠藤 周作『真昼の悪魔』

真昼の悪魔

遠藤 周作

内容(e-honより)
患者の謎の失踪、寝たきり老人への劇薬入り点滴…大学生・難波が入院した関東女子医大附属病院では、奇怪な事件が続発した。背後には、無邪気な微笑の裏で陰湿な悪を求める女医の黒い影があった。めだたぬ埃のように忍び込んだ“悪魔”に憑かれ、どんな罪を犯しても痛みを覚えぬ虚ろな心を持ち、背徳的な恋愛に身を委ねる美貌の女―現代人の内面の深い闇を描く医療ミステリー。

「サイコパス」という言葉が人口に膾炙するようになったのはせいぜいここ十年ぐらいの話だが、「良心を持たない人」を題材にした小説は古くからある。
 有名なところではトマス・ハリス『羊たちの沈黙』。貴志 祐介『悪の教典』や手塚 治虫『MW』もそうだ。宮部 みゆき『模倣犯』の真犯人もそんな人物だった。
 人は、悪を悪ともおもわない人物を題材にしたピカレスク小説に惹きつけられるらしい。




『真昼の悪魔』もそんな小説のひとつだ。
 主人公である女医は、他人に対する共感を決定的に欠いている。「何が悪いことなのか」は知識としては持っているが、心では善悪の区別を持っていない。だから「悪いこと」「かわいそう」「気の毒」といったことは彼女の行動を抑制する材料にはならない。

 高い知能と生まれもった美貌でカモフラージュしながら、知恵遅れの少年に少女を殺させようとしたり、入院患者で人体実験をおこなったりする女医。
 彼女の目的はもちろん金や復讐ではなく、といって快楽でもない。人を傷つけても快楽を感じないことを知っていて、それでも傷つける。たいした理由もなく。
 彼女がおこなうのは悪のための悪。殺人に快楽をおぼえるシリアルキラーのほうがまだ理解可能かもしれない(どっちもイヤだけど)。

 主人公はかなりいかれた人物だが、読んでいてあまりうすら寒さは感じない。というのも、彼女の攻撃の矛先は中盤以降、難波という入院患者に向かうから。
 女医は、難波が彼女の正体を暴こうとしていることに気づき、それを阻止するためあの手この手で難波を精神病患者扱いする。この対決が『真昼の悪魔』のハイライトなのだが、正直いってこのあたりの女医の行動はおそろしくない。なぜなら〝保身〟という明確な目的があるから。
 少女を殺そうとしていたときは目的もなくほとんど興味本位で(その興味すら薄い)行動していたのに、難波に対する攻撃は「自分の立場を守るため」という明確な目的がある。目的があるから理解できる。「自分も同じ立場に置かれたら似た行動をとるかもしれない」とおもわされる。理解できるものはこわくない。

 サスペンス感を出すのであれば、徹頭徹尾理解不能な人間として描いてほしかった。




 ところでこの小説には、
「女医が入院中の老婆に無断で人体実験を施し、その結果実験が成功して多くの人命を救える治療法を発見する」
というエピソードが出てくる。

 これは医学の抱える矛盾を端的に表している。
 有名なトロッコ問題(暴走したトロッコを放置すれば三人が死ぬ。切り替えスイッチを入れれば別の一人が死ぬ。切り替えるのは正しい行いか? という問題)にも似ている。
 百人を救うために一人の命を危険にさらすことは悪なのか。これは決して万人が納得のいく答えを出せない問題だ。

 自身もクリスチャンである遠藤周作氏は、作中に出てくる神父に「神さまも百人のために一人を見捨てになさらないのです」と言わせている。
 宗教家としてはそう答えるしかないだろうな、という回答だ。なぜなら明確な基準で善悪を決められるようになったら宗教がいらなくなるから。

 とはいえ現実には「数で命の価値を量る」方向に世の中は動いている。一人の犠牲で一万人を救う方法があるのなら、現代医学はそれを放ってはおかないだろう。
 善悪の判断はいったん棚上げして、結果的に多くの人命を救うために多少の犠牲はやむをえないという方針で医学は進歩してきた。

 医学に犠牲がつきものである以上、『真昼の悪魔』に出てくるタイプの共感性を欠いた人物というのは医師としては有能なんじゃないかとおもう。医師がありとあらゆる患者に心からの同情をおぼえていたら仕事にならないだろうし。
 ちょっとぐらいは「人の気持ちがわからない」人物のほうが医師には向いているのかもしれない。政治家も。




 ところでこの小説、ミステリ要素もある。四人の女医が出てくるけどそのうちの誰が「良心を持たない女性」なのかが終盤まではわからない。
 ただ、ミステリとしてはぜんぜんおもしろくない。四人の女医がみんな没個性なので「四人のうち誰でもいいわ」って感じなんだよね。謎解きがどうとかいう以前に、そもそも謎に興味が持てない。

「四人の女医」という設定がまったく生きていない。テーマはおもしろかったのだからむりにミステリ風味にせずに女医は一人でよかったんじゃないかなあ。


【関連記事】

【読書感想文】貴志 祐介 『悪の教典』

【読書感想文】悪の努力家 / 高木 彬光『白昼の死角』



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2021年7月9日金曜日

頭の大きなロボット

 星新一氏の『頭の大きなロボット』というショートショート作品がある。
 文庫『未来いそっぷ』に収録されている。

 あらすじはこうだ(以下ネタバレ)。


2021年7月8日木曜日

【読書感想文】赤ちゃんだったときの喜び / 古泉 智浩『うちの子になりなよ ある漫画家の里親入門』

うちの子になりなよ

ある漫画家の里親入門

古泉 智浩

内容(e-honより)
子どもがほしい…。6年間で600万円、不妊治療のどん底で見つけた希望の光。里親研修を受け、待望の赤ちゃんを預かった著者(40代・男)が瑞々しくも正直に綴る、新しいタイプの子育てエッセイ。

 里親になった漫画家によるエッセイ。

 里親といっても引き取ったのは0歳児なので、当然ながら引き取られた当人は何もわかっていない(たぶん)。
 だから書いてあることもふつうの子育てエッセイとあまり変わらない。
 同じ親として、「なつかしいなあ」とおもうだけだ。

 仕方がないので、赤ちゃんを抱っこひもで抱いて外を歩いた。(中略)歩いている途中、線路を渡ったあたりで足首を蚊に刺された。リズムを崩すと赤ちゃんを寝かせられないのでそのまま歩いた。赤ちゃんの手がだらんとした。線路の横を歩いていると、遮断機が降りて警報がカンカンなり出した。その造断機に近づくと警報の音が大きくなってしまうので、その場で赤ちゃんのお尻を手で歩くリズムで叩いた。電車が迫り来てゴーッと通り過ぎる音と窓から漏れる光で赤ちゃんが目を覚ました。頭を激しく左右に振って電車の行方を追った。せっかく眠ったのに残念に思っていたのだが、またすぐだらんと寝た。赤ちゃんが寝やすいようにゆっくりしたペースで歩いているのにも疲れて昔通の速さで歩いた。そのまま帰宅して妻のベッドに寝かせた。珍しい仰向けでの寝姿はすっかり大きくなっているように見えた。
 このようにミルクで寝ない場合は体を起こした状態で抱っこして寝かせなければならず、やはり寝そべった状態ではまったく寝ない。赤ちゃんの眠りについて考えていると不思議な気持ちになる。

 ぼくの子は小学生と二歳なので、もう赤ちゃんではなくなった。ついこの前のことのはずなのにこうして育児エッセイを読むと子どもが赤ちゃんだった時代のことをすっかり忘れていることに気づく。

 ぼくもやったなあ。赤ちゃんを寝かせるための夜の散歩。布団に置くと泣くので、抱っこする。止まっているとやはり泣くので、うろうろ歩く。家の中を歩きまわるのもつまらないので、外に出て家のまわりを歩く。
 夜中に赤ちゃんが寝るまで歩きつづけるのは当時はしんどかったけど、今おもうといい思い出になるのだからふしぎだ。こんなに苦労しているのに、当の子どもはまったくおぼえていないのだから嫌になるぜ。

 読んでいるとその頃のことをいろいろとおもいだした。
 抱っこしても動いていないと赤ちゃんに怒られるので、立ってだっこをしながら左右にゆらゆら揺れていた。本を読みながら。
 それが日常化していたので、本屋で立ち読みをするときとか、駅のホームで本を読みながら電車を待っているときとかに、気づくと左右にゆらゆら揺れていた。知らず知らずのうちに、存在しない赤ちゃんをあやしていたのだ。

 なつかしいなあ。
 ぼくも育児日記を書いてたらよかったなあ。でも当時はたいへんだったからそれどころじゃなかったんだよなあ。




 前半部分はただの子育てエッセイだったが、後半の「著者が里親になった経緯」はおもしろかった。

 正直に言ってこの人、まったく褒められた経歴じゃないんだよね。
 交際していた人が妊娠したけど婚約を破棄して結婚しなかった。元婚約者とは婚約不履行裁判になり、著者は相手に対して中絶を望んだ。だが元婚約者はひとりで出産し、著者は実子とは数回しか会っていない。
 他人がとやかく言うことではないけれど、まあそれにしても「自分勝手な男だな」とおもう。ここには書かれていないいろんな事情があったのだろうけれど。
 まあ自分にとって不利なことをあけすけに書いているところはえらいとおもうが……。

 一度は子どもを捨てた男が、別の人と結婚して子どもに恵まれなかったから里子を引き取る……。
 なんちゅうか「身勝手で無責任な話だな」とおもってしまう。かつて子どもを捨てたからって一生子どもを持ってはいけないということはないけど。人間なんてみんな身勝手なんだけど……。

 でもまあ、里親になることを考えてる人からすると「こんな身勝手な人でも里親になれるんだから自分もなっていいんだ」と自信がつくよね。知らんけど。




 子育てって、合理的に考えたらまったく「割に合わない」仕事だ。
 肉体的にも精神的にも経済的にもコストはかかるし、当然ながら報酬なんてないし、行政からの支援なんてあってないようなものだし、子どもからはちっとも感謝されないし、おまけに労力をかけたからって望む通りに育つ保証はまったくない。

 どう考えたって「やらないほうが得」だ。損得でいえば。
 それでもたくさんの人が子育てをしている。ぼくも。
 まあこれは本能に動かされてのものだし、人間が遺伝子の乗り物である証左なんだけど、やっぱり子どもを育てているとえも言われぬ全能感を感じられるんだよね。他ではぜったいに味わえない感覚。

「これまでずっと何年も真っ暗な夜道を裸足で歩いているような感覚だったのが、赤ちゃんが来てくれてから光を浴びているような感じがする。まわりが真っ暗でも自分にだけスポットライトが当たっているような感じで、そんな感覚ははじめだけだと思っていたのだが、1か月 以上経過してもなお弱まらず続いている。光の源は赤ちゃんで、今も僕をまばゆく照らしてくれている。3回しか会ったことのない娘は遠くに見える星のような存在だったのだが、うちにいる赤ちゃんは常にビカビカに、全身くまなく照らしてくれる。本当にアホみたいなんだけど、『つつみ込むように』というミーシャの歌が高らかにずっと鳴り響いているような気分です。
いい年の大人の男が自分のやりたいことだけを精いっぱいしているというのもみっともないことだ、自分以外の他者に尽くしてこそ人生ではないかとすら思うようになりました。また、厄年を過ぎるとぐっと体力や気力が激減し、自分本位の生き方すらしんどくなっています。それまでは自分さえよければいいと思っていた、その自分が満足いかなくなっています。自分の満足では自分が満足しきれない。自分のキャパシティがビールジョッキだったとすると、湯呑くらいになっているような、そのこぼれた分を他者に注ぎたいというような気持ちです。それを子どもに期待していました。自分の代わりに自分の分も頑張ってほしいし、幸福になって欲しい、いろいろなことに感動して欲しい。そんな気持ちです。人生の前半は自分のためにやり尽しました。しょぼくなった後半を他者に期待するというのも都合がいい話ですが、後半は自分以外の誰かのために生きたいと思っています。どっちにしても自分本位の利己的な「誰かのため」なので、決してほめられた話ではありません。

 子どもの頃は、存在しているだけでかわいいかわいいと言ってもらえる。ところが成長するにつれて「成果を出す」ことが求められるようになる。お利口にしていることや、がんばって勉強することや、仕事をすることや、社会貢献をすること。求められることはどんどん難しくなる。
 特におっさんなんて、何もしなければ社会の敵みたいな扱いだ。
「自分は社会から求められている、かけがえのない存在だ」と自信を持って言える中年は少ないだろう。

 ところが子どもを持つと、誰でも「誰かに必要とされる存在」になれる。小さい子どもはほとんど無条件に親を必要としてくれる。親が親であるという理由で。
 血がつながっていなくても、仕事をしていなくても、育児放棄していたとしても、ただそこにいるという理由で子どもは親を求める。

 親にしたら、こんな快楽はない。どんなだめな自分も存在を肯定してくれる人がいるんだもの。こんなことは赤ちゃんだったとき以来だ。

 人は、赤ちゃんを育てているとき、赤ちゃんだったときの喜びをもう一度味わうものなのかもしれない。


【関連記事】

ミツユビナマケモノの赤ちゃんを預けられて/黒川 祥子 『誕生日を知らない女の子』【読書感想エッセイ】

自分の人生の主役じゃなくなるということ



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2021年7月7日水曜日

【読書感想文】「安全安心」がいちばん危険 / 東野 圭吾『天空の蜂』

天空の蜂

東野 圭吾

内容(e-honより)
奪取された超大型特殊ヘリコプターには爆薬が満載されていた。無人操縦でホバリングしているのは、稼働中の原子力発電所の真上。日本国民すべてを人質にしたテロリストの脅迫に対し、政府が下した非情の決断とは。そしてヘリの燃料が尽きるとき…。驚愕のクライシス、圧倒的な緊迫感で魅了する傑作サスペンス。


 大型ヘリコプターが遠隔操作で乗っ取られ、原発の真上でホバリング。国内すべての原発を使用不能にしないと原発の上に落下させて爆発させると犯人から政府に声明が届いた。
 はたして犯人は誰なのか、そして目的は何か……。


 文庫で600ページ以上の重厚なサスペンス。
 乗り物をジャックするというのはわりとよくある手法だが、「犯人の目的が謎」「人質にとられているのが原発」という要素のおかげでぐっと奥行きが増している。

 これが「バスジャックをした。人質を解放してほしければ十億円よこせ」みたいな話ならわかりやすい。
 警察は人質保護を最優先させながら、犯人逮捕に全力を尽くす。他に被害を出さないよう、周囲の住民には避難を命じる。

 ところが人質が原発だと話はそう単純ではない。

「いいかね、中塚君。地元から問い合わせがあるだろうが、避難の必要があるなんてことは、軽率にいわんでくれよ。今ここであわてて避難させたりしたら、原発の安全性を自ら否定することになるんだからな」
 航空機が落ちても放射能漏れなどが起こる事故には発展しない――『新陽』のみならず、日本全国の原発についてこのようにPRされている。それだけに今回の事態であわてふためくのは、そうした宣伝と矛盾することになるわけだった。

 政府や電力会社は「原発は絶対安全だ」と嘘をついている。
 福島第一原発の事故があった今ではそれが嘘だったとみんな知っているが、『天空の蜂』が刊行された当時(1995年)はまだその嘘が生きていた。まあみんな薄々気づいていたのかもしれないが、少なくとも建前としては「原発は絶対安全だ」ということになっていた。大地震があろうがテロがあろうが職員が発狂しようが事故は起こらない、という設定になっていた。嘘だったわけだけど。

『天空の蜂』の事件はその嘘を巧みについている。
「原発は絶対安全だ」ということになっている以上、テロがあろうが地震があろうが近隣の住民を避難させるわけにはいかない。「原発は絶対安全だ」を錦の御旗にして誘致を進めてきた手前、「原発事故が起こるかもしれない」と口が裂けても言うわけにはいかないのだ。


 えてして、大事故になるのは「危ないかもしれない」ものではなく「ぜったいに大丈夫」なものだ。

「それでいいのか、とは?」
「緊急時避難計画というのは、原発で事故が起きて、放射能漏れのおそれがある時のものです。でも、まだ事故なんか起きてません」
「起きてからより、その前に避難させるほうがいいだろう」
「しかしそれじゃ、事故になると予想したことになります」
「それじゃいかんのか。ヘリコプターが落ちるかもしれんのだろう。事故になると予想するのが当然じゃないのか」
「いや、でも、たとえ航空機事故が起きても、放射能漏れに繋がるような事故にはならないというのが、地元への説明だったんですけど」
「なに?」金山は、不意に水をかけられたような顔になった。目の焦点が一瞬曖昧になった。
「もしここで避難させるとなると、原発に航空機が墜落した場合、放射能漏れを伴う事故に発展することを、県が認めるということになります」
「あっ……」と声を漏らしたのは山根副知事だ。諸田防災課長も、口を開けた。

 多くの国民の反対意見を押し切ってまもなくはじまろうとしている東京オリンピックもそうだ。
「新型コロナウイルスの流行がまったく収まっていない今、オリンピックを開催するのは危険だ。多くの犠牲者も出るだろう。だがそれでも開催する」
というスタンスであれば、まだ被害を最小限に抑えるための手も打てるだろう。観客を入れないとか、外国人の入国を厳しく制限するとか、厳しすぎるぐらいに検査を徹底するとか。ほんとに危険になったら中止にすればいい。

 だが「安全安心のオリンピック」という嘘を建前にしてしまった以上、被害はどんどん大きくなるだろう。だって安全安心なんだもん。検査を徹底するとか完全無観客にするとかしたら「安全安心」という言葉と矛盾してしまうもん。
 オリンピック期間中に感染者数がどれだけ増えても中止にはできない。だってオリンピックは「安全安心」なのだから。感染者増はオリンピックとは無関係ということにしないといけないのだから。


 絶対に安全なものはいちばん危険だ。危険性を認められなくなるから。トラブルが起こったときの解決策が〝隠蔽〟だけになってしまうから。

 原発の嘘、「絶対安全」の嘘を見事に書いた小説だった。
 正直いってサスペンスとしてはさほどおもしろくない(予想通りの展開になるので)が、東野圭吾作品にはめずらしい社会派作品としては成功しているとおもう。




 小説なのでもちろん嘘ばっかりなのだが、「ありえそう」とおもわせるリアリティがあった。作者の腕だね。

 ただ、2021年の今読むと「これはないな」とおもうところが一箇所。
 それは政府の決断が速いこと。
 前代未聞の出来事に、次々と決断をおこなってゆく。その決断には正しいものもあれば保身的なものもあるんだけど、とにかく決断のスピードが速い。


 だけどコロナ騒動での政府の右往左往を見ていたぼくには「そんなわけねえだろ」としかおもえない。
 こんなに素早く意思決定をおこなえるはずがない。責任重大な決断を引き受ける人間が政府中枢にいるわけがない。

 たぶん現実にこんな事件が起きたら、政府は何ひとつ決断できないまま時間切れで最悪の結末に……ってことになるんじゃないかな。オリンピックみたいに。


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【読書感想文】原発事故が起こるのは必然 / 堀江 邦夫『原発労働記』

【読書感想文】原発の善悪を議論しても意味がない / 『原発 決めるのは誰か』



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