2021年5月7日金曜日

【読書感想文】闘争なくして差別はなくせない / 荒井 裕樹『障害者差別を問いなおす』

障害者差別を問いなおす

荒井 裕樹

内容(e-honより)
「差別はいけない」。でも、なぜ「いけない」のかを言葉にする時、そこには独特の難しさがある。その理由を探るため差別されてきた人々の声を拾い上げる一冊。


 少し前に、ある車椅子ユーザーのブログ記事がちょっとした話題になった。話題というか、どっちかというと「炎上」だ。
 経緯はこうだ。

 車椅子ユーザーI氏がJR小田原駅からJR来宮駅まで行こうとするも、JR職員から「来宮駅は階段しかないので案内できない。途中の熱海までにしてほしい」と伝える。I氏がバリアフリー法や障害者差別解消法を根拠に「駅員3、4人で車椅子を持ちあげて階段を移動してほしい」と伝えるも、駅員は拒否。だが熱海まで行くと、駅員が4人待機していて階段移動を手伝った。
  I氏はこの経緯を「JRで車いすは乗車拒否されました」というタイトルでブログ記事として公開、さらに新聞社にも連絡をして取材をしてもらった。

 この件に対して「車椅子ユーザーが抱えている社会的障壁が明らかになった」など評価する声も上がる一方、「事前に連絡すべき」「JRという会社に言うならともかく、現場の駅職員に迷惑をかけるのはおかしい」「そもそもこの人はJR職員」といった批判の声も上がった。

 数年前ならぼくも「車椅子での移動を駅員に手伝ってもらいたいなら事前に言っておけよ! 特別な対応を望むなら極力駅員に迷惑がかからないようにしたほうがいいんじゃない?」っておもってただろう。

 でも、昨年読んだ伊藤亜紗『目の見えない人は世界をどう見ているのか』のこの文章を読んで、身体障害に対するぼくのとらえ方は少し変わった。。

 そして約三十年を経て二〇一一年に公布・施行された我が国の改正障害者基本法では、障害者はこう定義されています。「障害及び社会的障壁により継続的に日常生活又は社会生活に相当な制限を受ける状態にあるもの」。つまり、社会の側にある壁によって日常生活や社会生活上の不自由さを強いられることが、障害者の定義に盛り込まれるようになったのです。
 従来の考え方では、障害は個人に属していました。ところが、新しい考えでは、障害の原因は社会の側にあるとされた。見えないことが障害なのではなく、見えないから何かができなくなる、そのことが障害だと言うわけです。障害学の言葉でいえば、「個人モデル」から「社会モデル」の転換が起こったのです。
「足が不自由である」ことが障害なのではなく、「足が不自由だからひとりで旅行にいけない」ことや「足が不自由なために望んだ職を得られず、経済的に余裕がない」ことが障害なのです。

 車椅子に乗らないといけないことが障害ではなく、「車椅子だと他人に手伝ってもらわないと移動できない」ことが障害だとする考え方だ。
 眼鏡やコンタクトレンズがあれば近視の人が障害者でないのと同じように、エレベーターやスロープがどこにでもあって車椅子での移動にほとんど不自由を感じない社会になれば「車椅子に乗らないといけない人」は障害者ではなくなる、という考えだ。

 この考え方を知っていたから「これは脊髄反射的に是非を判断してはいけない問題だぞ」とおもった。
「駅員の手を煩わせた」という一点だけを見れば、たしかにI氏の行為は批判されるべきものだ。だがその行為を批判すべき前に「なぜI氏は駅員の手を煩わせる必要があったのか」を知るべきだ。

 ということで『障害者差別を問いなおす』を手に取った。




 とても勉強になった。
 そして、いかに我々健常者の認識が進歩していないかを。

 I氏の一件に対して「この人はクレームを言うのが目的だろ」という指摘がたくさんついていた。
「むやみに敵を作っても賛同者は集まらない。もっとスマートなやりかたがあるだろ」という立場だ。ぼくもかつてはこの立場だった。

 だが『障害者差別を問いなおす』を読んでわかった。I氏をはじめとする障害者が批判しているのは、まさにおためごかしに「むやみに敵を作っても賛同者は集まらない。もっとスマートなやりかたがあるだろ」という人たちなのだ。


 この本は『障害者差別を問いなおす』というタイトルではあるが、書かれているのは障害者差別全般の話ではなく、主に「〝青い芝の会〟の運動の歴史」である。

「青い芝の会」とは、脳性マヒの人たちによる障碍者団体。特に「神奈川青い芝の会」は激しい社会運動により1970年前後には多くの話題を集めた。

「青い芝の会」の行動綱領を読むと、その主張の激しさに驚かされる。

一、われらは愛と正義を否定する
 われらは愛と正義の持つエゴイズムを鋭く告発し、それを否定する事によって生じる人間凝視に伴う相互理解こそ真の福祉であると信じ、且、行動する。
一、われらは問題解決の路を選ばない
 われらは安易に問題の解決を図ろうとすることがいかに危険な妥協への出発であるか、身をもって知ってきた。「われらは、次々と問題提起を行なうことのみ我等の行いうる運動であると信じ、且、行動する。
一、われらは健全者文明を否定する
 われらは健全者の作り出してきた現代文明が、われら脳性マヒ者を弾き出すことによってのみ成り立ってきたことを認識し、運動及び日常生活の中からわれら独自の文化を創り出すことが現代文明への告発に通じることを信じ、且つ行動する。

 彼らが目指したのは「健常者に居場所を与えてもらう障害者」ではなかった。障害者だからといって不自由を感じることがあってはならない、たとえ車椅子に乗っていても歩ける人と同じ暮らしができる世の中をつくるために闘うことだった。

 そのための活動のひとつが、1977~1978年におこなわれた「川崎バス闘争」だ。車椅子利用者が乗車するときには「介護人の付き添い」「車椅子を畳んで座席に座ること」を求めたのに対し、青い芝の会は「ひとりでも乗れるようにすること」「座り慣れた車椅子のまま乗車できるようにすること」を要求し、強引にバスに乗車したり、バス会社と揉めた結果バスの窓ガラスを割るなどしてバスの運行をストップさせたりした事件だ。

 これを読むと、前述のI氏の一件や、2017年に起きたバニラ・エア騒動(車椅子利用者がバニラ・エアの航空機を利用する際に車椅子に乗ったままの搭乗を拒否されたことに対して抗議した)などはなんと穏便なことだろうと感じる。

「車椅子での乗車を拒否されたから力づくでバスの運行を妨害する」と聞いて、どう感じるだろう。
 ほとんどの人は「もっと紳士的なやりかたがあるだろうに」と感じるだろう。ぼくもやはりそうおもった。「いくらなんでもそれは無茶だよ」と。
 だが「青い芝の会」が痛烈に批判したのは、まさにそういう人なのだ。

「むやみに敵を作っても賛同者は集まらない。もっとスマートなやりかたがあるだろ」の人たちは一見障害者に対して理解があるようでじつは完全に障害者を下に見ている。その自覚すらない

 それは「健常者からかわいがられる障害者になりなさい。そしたら我々が持っている権利の一部を障害者にも分け与えてあげよう」という立場なのだ。
「女の子はにこにこしてたほうがいいんだよ。愛嬌のある子のほうがみんなから好かれるよ」
というのと同じで、対等なものとは見ていない。言葉は悪いが、ペットと同じ扱いだ。


 この「川崎バス闘争」を読んで、ぼくは高校生のときに英語の教科書で読んだモンゴメリー・バス・ボイコット事件を思いだした。
 白人と黒人で座席が分かれていたアメリカで、ローザ・パークスという黒人女性が黒人優先席に座っていた。運転手から白人のために席を空けるように指示されたパークスが拒否し、警察に逮捕された。これに抗議するためにキング牧師がバスのボイコットを呼びかけ、さらには人種隔離政策に対する違憲判決につながった。

「川崎バス闘争」はまさに「モンゴメリー・バス・ボイコット事件」と同じだとぼくはおもう。
 今、多くのバスでノンステップ型が採用され、車椅子やベビーカーのまま乗れるのがあたりまえになっている。ぼくも子どもが小さかったときはベビーカーを押して移動したからお世話になった。これは「青い芝の会」をはじめとする先人たちの闘いがあったからこそ享受できている利便性ではないだろうか。


 アメリカでは黒人が奴隷扱いを受けていた。だが多くの人の闘争により、奴隷から解放された。
 もしも黒人たちがずっと「白人のご主人様に立ち向かってたら、嫌われるだけだよ。嫌われないようにもっとうまくやらなくちゃ」というスタンスだったなら、きっと今でも「昔よりは若干待遇のよくなった奴隷」のままだっただろう。

 人権が制限されるかもしれない状況というのは、いってみれば「生きるか死ぬかの瀬戸際」だ。どんなことをしてでも人権を守らなければならない。たとえ暴力を使ってでも。
 暴漢に喉元にナイフをつきつけられている人に「暴力で抵抗するのは良くない。もっとスマートなやりかたをとるべきだ」と言えるだろうか。人権が制限されている人の闘争に「もっとスマートなやりかたを」というのは、それと同じことだ。




 先述のI氏も、バニラ・エア事件を引き起こした車椅子男性も、バスの運行を妨害した「青い芝の会」も、おそらくわざと事を荒立てたのだろう。
 あえてトラブルになるような方法を選んで。

 だが、これを「クレーマー」の一言で片づけてはいけない。事を荒立てないと、一部の人の人権を制限し、制限していることにすら気づかない社会にこそ問題があるのだ。

 横田弘は一九七〇年の時点で、〈今の我々は、相手に理解されようとする事よりも、むしろ相手に拒否される事が大切なのではないか〉と述べています(「メーデー会場にて」)。
 そもそも「他人を理解する」とは、その他人が自分とは異なる存在であることを認めるところからはじまります。「相手は自分とは異なる存在なのだから、相手のことを勝手に決めてはならない」という最低限の一線を守らなければ「相互理解」など成り立ちません。
「相手のことを勝手に決めてよい理解」は、強者による弱者の支配に他なりません。こうした「理解」は「自分の理解を超える者」「自分が心地よく理解できない者」を必ず攻撃します。
 横田が〈理解〉よりも〈拒絶〉が必要だと感じたのは、「あなたとは異なる存在がここにいるのだ」といったメッセージを発するためだったのだと思われます。真の「相互理解」を築き上げるためには、一度、根底から〈拒絶〉され、「健全者には理解できない障害者」といった像を立ち上げる必要があったのでしょう。
 青い芝の会の運動とは、「健全者」たちから過激だと忌避されるような言動を通じて自己主張しなければ、自分たちの存在などないものとされてしまう立場に置かれていた障害者たちによる闘いだったと言えるでしょう。

 そう、こういう人がいなければぼくらの多くは自分が差別者であることにすら気が付かない。
「すべての駅を車椅子に乗ったまま利用できるようにすると金がかかるから、車椅子ユーザーは前日までに何時に駅に着くので介助よろしくと伝えなければならないのはしょうがないよね」
という差別発言を、それが差別だということに気が付かずに口にしてしまうのだ。

……とはいえ日本にひとりしかいない病気の人でも快適に暮らせるようにするためのシステムをすべての施設に設置すべきかというとさすがにそれは無理なのでどこかで線引きをする必要はあるんだろうけど……。


 この本を読んでつくづくわかる。
 自分はずっと差別をしているのだと。そしてそのことにまったく無自覚であると。
「気が向いたときにふらっと電車に乗れる人と前日までに細かい日時を指定しないと電車に乗れない人がいる」ことを、なんともおもっていなかったことに気づかされる。

 右に引用した横塚晃一の文章を、もう少し細かく見てみましょう。横塚はボランティアたちに対し、〈その社会をつくっているのは他ならぬ「健全者」つまりあなた方一人一人なのです〉と呼びかけています。
「この社会には障害者差別が存在している」という言い方に対して、真正面から反対する人は、おそらく多くはないと思います。しかし、この「社会」という言葉は「大きな主語」の代表格のようなもので、「マジョリティ」はともすると、自分自身が障害者差別を残存させている社会の一員であることを忘れてしまいます。
 その人自身は個別に責任を問われることのない安全地帯から、「社会」という抽象的な存在に責任を押しつけるような発想に対して、横塚晃一は釘を刺そうとしているのです。彼は「健全者」という言葉を使うことによって、〈あなた方一人一人》へと呼びかけます。〈あなた方一人一人〉が、障害者と対立的な位置にいる「健全者」なのであり、そうした「健全者」がこの社会をつくっているのだと訴えているのです。

 恥ずかしながら、ぼくもこのブログで「○○は社会の問題だ」「国が救わなくてはならない」なんてものの言い方をしていた。
 そこにはまったく当事者意識がなかった。無意識に「ぼく以外の誰かがなんとかしてくれ」とおもっていた。
 そのことにも気づかず、自分は他人を思いやることのできる想像力豊かな人間だとおもっていた。とんでもない。いちばん無責任なのはぼくじゃないか。



 かつてぼくは「障害を持った児童は基本的に特別支援学校に入れたほうがいい」とおもっていた。もちろん自分の子どもに障害があれば、特別支援学校に入れるつもりだった。
 そちらのほうがよい教育を受けられるとおもったから。

特別支援学校とプロの仕事について

 だが、この文章を読んで自信がなくなった。

 これについては、各種障害者団体、障害児をもつ親の会、医療・福祉・教育関係者の団体などの間で激しい議論が交わされました。障害のある子どもは養護学校のような場所で、障害児教育の専門家から個性に合わせた特別な教育を受けた方がよいという立場と、障害のある子どもも、障害のない子どもたちと同じ場所で共に教育を受けた方がよいという立場がぶつかり合いました(前者のような考え方を「発達保障」、後者のような考え方を「共生・共育」と言いました)。
 養護学校義務化に対して、特に強硬に反対を唱えたのが青い芝の会でした。養護学校は障害児を地域の人間関係から隔離・排除することになるとして、全国の青い芝の会が一丸となって反対運動を展開したのです。その運動は、障害児の転入学を拒否した小学校への抗議行動や、文部省や各県教育委員会への座り込みなど、激しい実力行使を伴いました。

 ふうむ。
 少なくとも「ぜったいに特別支援学校のほうがいい」とは言えないかもしれない。だからといって青い芝の会のように「ぜったいに特別支援学校がダメ」とも言えないとはおもうけど。
 中学生ぐらいだったら自分で決めたらいいんだろうけど。でも六歳児には決められないよなあ。どっちがいいんだろう。ぼくの中でまだ答えは出ない。


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2021年5月6日木曜日

屁は貨幣経済から完全に自由

「女は結婚相手を経済面で選びすぎ!」
みたいなことを言われるじゃない。批判的に。

 ぼくもそうおもってた。金じゃないだろ。もっとあるだろ。ほら、顔とか、見た目とか、容姿とか、器量とか、ルックスとか(全部いっしょだった)。

 しかし自分が結婚して、どうにかこうにか十年ほど結婚生活を続けて、いややっぱり経済面ってすごく大事だなとおもう。


 といっても、貯金額とか年収いくら以上とかそんな話でもない。どっちかっていうと、金銭感覚かな。
 週末の外食にいくらまで出せるとか、年に一度の旅行だったらどのクラスのホテルに泊まるかとか、どこのスーパーで買い物するかとか、自販機でジュースを買うのはありかなしかとか。

 そういう感覚が夫婦間で大きくずれてたらしんどいだろうなとおもう。夫婦でずれていれば当然嫁姑間でもずれるだろうし。

「釣りあわぬは不縁のもと」という言葉がある。
 身分のちがう男女が結婚してもうまくいかない、という意味だ。
 現代人の感覚からするとすごく差別的で、ぼくは古典落語以外でこの言葉を聞いたことがない。でも、だいたいあっているとおもう。人々の経験則はだいたい正しい。
 金銭感覚のちがう人と長く付き合っていくのはしんどい。深い愛で一時的に乗りこえたとしても、高まった愛を持続するのは難しい。

 結婚生活においていちばん重要なのは「楽なこと」だ。
 お互いに無理をしなくてもつきあっていけること。
「家の中では盛大に屁をこきたい人」と「家の中であっても他人の屁の音を聞かされるのは我慢ならない人」が一緒に暮らすのであれば、どちらかが我慢しなくてはならない。
 まあ屁ぐらいなら我慢できるかもしれないが、金はあらゆることに関わるので(ただし屁以外。屁は貨幣経済から完全に自由だ)、金銭感覚がちがうとあらゆる面で我慢する必要がある。
 ぼくは一円でも安いものを買わないと気が済まない人とは暮らせないし、五百円のランチを「そんな安い味のもの食べられない」と拒絶する人とはたとえその人の年収が一億円であっても暮らせない。


 妻や友人など、長く付き合っている人はだいたい似たような経済感覚を持っている。二十年来の友人が何人もいるが、みんな同じぐらいの裕福さの家庭で育ち、今も同じぐらいの稼ぎで暮らしているとおもう。もちろん「いくら稼いでんの?」なんて聞かないけど、でもまあだいたいの想像はつく。
 逆に、やたらと羽振りがいい人とは自然と疎遠になる。これは単純な収入の話ではない。同じ会社の同年代の社員であっても(つまり給与はだいたい同じ)昼飯にいくらかけるかは人によってちがう。結果、近い感覚の人と親しくなる。
 楽なんだよね。お互いに。ストレスや気遣いを抱えなくて済むので。


 だから「女は経済的な条件で結婚相手を選びすぎる!」というよりむしろ「男が経済状況で選ばなさすぎる!」だとおもう。そこがいちばん気にすべきところでしょ。
「女は経済的な条件で結婚相手を選びすぎる!」というのは、「就職する会社を給与で選ぶな!」「ビールを味で選ぶな!」みたいなことやで。


2021年5月1日土曜日

【読書感想文】冷しゃぶサラダのような漫画 / 和山 やま『カラオケ行こ!』

カラオケ行こ!

和山 やま

内容(e-honより)
毎週火曜と金曜は、フリータイムでカラオケ地獄。合唱部部長の中学生と歌が上手くなりたいヤクザの変な友情物語!描き下ろしも収録!

 上質なコメディ漫画。おもしろかった。

 合唱部の部長である聡実くんは、コンクールの後でヤクザの狂児に拉致される。連れてこられたのはカラオケ店。組長が主催するカラオケコンクールで最下位だと、刺青が好き(だけど絵心がない)な組長に刺青を入れられるという。はじめはおびえていた聡実くんだったが、徐々に狂児への指導に熱が入っていき……。

 というむちゃくちゃな設定。むちゃくちゃなんだけど、最初のぶっとんだ設定以外は地に足がついている。「この立場に置かれたらこうするかもしれないな」という行動を登場人物たちはとる。みんな、ほんとはいないけど、だけどどこかにはいそうな人たちだ。

 笑わせたるでえ! みたいな感じではなく、まじめにおかしなことをやっているのがいい。登場人物みんなまじめだからね。カラオケ大会を主催する暴力団組長も、カラオケ大会に必死になる組員も、中学生に歌を教えてもらおうとする組員も、なんだかんだ言いながらちゃんと教えてる中学生も、みんなふざけてない。でもどこかずれている。

 この漫画を読んだ妻は「『動物のお医者さん』みたい」と言っていが、ぼくは同じ佐々木倫子の『Heaven?』や忘却シリーズ(『食卓の魔術師』『家族の肖像』『代名詞の迷宮』)に似ているとおもった。常識人で主張は強くないが自我のしっかりした主人公と、悪気なく周囲に迷惑をかけるパートナー。
 そうおもうと、聡実くんが将来の伊賀くんなんじゃないかとおもえてきたぞ。



 登場人物がみんななめらかな関西弁を話すので作者も関西出身者かとおもったら沖縄出身なんだそうだ。意外。

 こてこてのヤクザ+こてこての関西弁なのに、なぜか上品な仕上がり。ふしぎな味わい。冷しゃぶサラダみたいな漫画だ。豚肉がこんなにさわやかな料理になるなんて。


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2021年4月30日金曜日

【読書感想文】ただただすごい小説 / 伊藤 計劃『虐殺器官』

虐殺器官

伊藤 計劃

内容(e-honより)
9・11以降の、“テロとの戦い”は転機を迎えていた。先進諸国は徹底的な管理体制に移行してテロを一掃したが、後進諸国では内戦や大規模虐殺が急激に増加していた。米軍大尉クラヴィス・シェパードは、その混乱の陰に常に存在が囁かれる謎の男、ジョン・ポールを追ってチェコへと向かう…彼の目的とはいったいなにか?大量殺戮を引き起こす“虐殺の器官”とは?ゼロ年代最高のフィクション、ついに文庫化。

 いやすごい本だった。
 紹介文にある〝ゼロ年代最高のフィクション〟ってのはぜんぜん大げさじゃない。すごい本だった。今まで読んだSFの中でもトップクラス。はじめから最後までずっとおもしろかった。

 まず著者の経歴に圧倒される。
『虐殺器官』で作家デビュー。『SFが読みたい! 2008年版』1位になるなど高い評価を受けるも、2009年3月に34歳の若さで肺癌で死去。その年、遺作の『ハーモニー』で日本SF大賞を受賞。

 嘘みたいな経歴だ。著者の本はすべて死後に出されたもの。尾崎豊みたいな経歴。もっと太く短い。

 そして本を読んでもう一度圧倒される。すごい。天才か。
 伴名練氏の『美亜羽へ贈る拳銃』という短篇は伊藤計劃作品へのトリビュートとして書かれたものだそうだ。あの才能豊かなSF作家が敬意を捧げるなんてどんな人かとおもったら、なるほどこりゃすごい。

 つくづく著者の夭逝が惜しい。もっと長く生きていたら、小松左京氏を超えるSF界の重鎮になっていたんじゃなかろうか。



 舞台は近未来というかパラレルワールドというか。9・11テロをきっかけに紛争が絶えなくなった世界。
 主人公は米軍の暗殺部隊のメンバー。各国の要人を暗殺するプロの暗殺者だ。

 それはつまり、殺す相手の姿と人生とを生々しく想像することに他ならない。相手に愛情を抱けるほどリアルに想像してから、殺す。最悪のサド趣味だ。定番の変態ナチスポルノならばうってつけの題材だろう。そんな悪趣味がなんらトラウマにならないのは、ひとえに戦闘適応感情調整のおかげだ。戦闘前に行われるカウンセリングと脳医学的処置によって、ぼくらは自分の感情や倫理を戦闘用にコンフィグする。そうすることでぼくたちは、任務と自分の倫理を器用に切り離すことができる。オーウェルなら二重思考(ダブルシンク)と呼んだかもしれないそれを、テクノロジーが可能にしてくれたというわけだ。

 任務(つまり暗殺)を果たすためのテクノロジーにまずしびれる。
 衝撃を和らげる人工筋肉、子どもをも殺せるようにするための戦闘適応感情調整、痛みを認識できるが痛さを感じない脳への操作。

 デーヴ=グロスマン『戦争における「人殺し」の心理学』によると、大半の兵士はたとえ戦闘状況でも、たとえ自分や仲間を守るためであっても、敵に向かって発砲することはできないのだそうだ。

 だから、近代における軍隊の訓練というのはほとんど「人を殺したくない気持ちを抑える訓練」なんだそうだ。
 映画『フルメタル・ジャケット』で描かれていたのも、新兵訓練所がどれだけ人間性を奪っているかということだった。

『虐殺器官』は、「人間は他人を殺したくないという良心を持っている」ことがきっちり書かれていて、同時に「状況次第ではかんたんに他人を殺すこともできる」ことも書かれている。その境界はひどく揺るぎやすいもので、誰しもが殺人者になれるということも。



 序盤は単なるSFサスペンス小説かとおもったのだが(だとしても相当ハイレベルだが)、ある暗殺ターゲットに逃げられたあたりから様相が一変する。

 ジョン・ポール。
 いまや、この男は内戦地帯をうろつく奇特な観光客ではないことが判明した。暗殺指令が出た当初から、それを立案し承認した人間たちにはわかっていたことだが、実行するぼくらにそれが教えられることはなかった。
 ぼくらが幾度も殺そうと試みては失敗しているこの男が、世界各地で虐殺を引き起こしているということを。この男が入った国は、どういうわけか混沌状態に転がり落ちる。
 この男が入った国では、どういうわけか無辜の命がものすごい数で奪われる。

 この男がなんとも魅力的(ただ気に入らないのはジョン・ポールという名前が無個性すぎること)。ヒロインよりも、さらには主人公「ぼく」よりもずっと鮮烈な印象を与える。『羊たちの沈黙』のレクター博士のように。

 ジョン・ポールは〝ある方法〟で様々な国で内戦を引き起こさせる。その手段や目的が徐々に明らかになっていく展開はスリリング。しかも説得力がある。おもわずフィクションだということを忘れそうになるぐらい。
 ほんとにこうやったら大量虐殺が起こるんじゃない?
 ほんとにこういう目的で他国に大量虐殺を起こさせようと考える人もいるだろうな。
 そう思わされる説得力がある。

 ぼくは、小説のおもしろさを決めるのは「いかにうまくほらを吹くか」がほとんどだとおもっている。読者をうまく騙してくれる小説がおもしろい小説。
 虚実を織りまぜてもっともらしいことを並べたて、偶然に頼りすぎず、それでいて大胆に嘘をつく小説。ちなみにリアリティは必ずしもなくていいとぼくはおもっている。リアリティがなくてもおもしろい小説はいっぱいある。
『虐殺器官』はほらの吹きかたがすごくうまかった。ぜんぜん現実的じゃないのに、でも「ここじゃないどこかにはこういう世界もありそう」とおもわせてくれる。

 改めて言う。すごい小説だった。
 発想がほどよく壊れていてユニークだし、それでいて説得力があるし、そしてなによりおもしろい。最初から最後までずっとおもしろい。
 SF好きな人すべてにおすすめしたい小説だ。SFファンならとっくに知ってるだろうけど。


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2021年4月28日水曜日

【読書感想文】奇怪な機械 / 石持 浅海『三階に止まる』

三階に止まる

石持 浅海

内容(e-honより)
あなたの所は大丈夫?ボタンを押していないのに必ず3階で止まるエレベーター。住民が見たものとは?背筋の凍るミステリー短編集。


 一篇目の『宙の鳥籠』の出来がよろしくなかったので「これはハズレだったな……」とおもいながら読んだのだが、どんどん尻上がりになっていって、二篇目以降はほとんどおもしろく読めた。

宙の鳥籠』だけは書き下ろし作品らしいが、これだけ明らかに見劣りしている。

 しかも舞台は密室。登場人物はふたりだけ(その二人の会話の中には他の人物も出てくる)。すでに事件は起こっていて、書かれているのは謎解き部分だけ。
 結果、説明台詞のオンパレードだ。

 「君も知っている通り○○は××をした」「そう、君は△△をしたわけだ」「わかっているとおもうけど□□だよね」
 こんな台詞しゃべるやつおるかい。
 お互いにとってわかりきっていることを、時系列にとって丁寧に説明する。頭おかしいとしかおもえない。
 まあ世の中にはわかりきったことをぐだぐだぐだぐだとしゃべる人もいるが、切れ者という設定の人がこんなしゃべりかたをしたらだめだ。
 設定からして無理があるんだよね……。


転校』は超進学校を舞台にした作品。ミステリというよりSFショートショートのような味わい。これは謎解きよりも設定の異常性に重きが置かれているので悪くなかった。


壁の穴』は「女子更衣室を覗いている最中に殺された」という友人の汚名を返上するため、推理をする学生の話。
 都合のよい「高校生名探偵が殺人事件を解決!」になっていないのがいい。


院長室』は『EDS緊急推理解決院』というアンソロジーに収録されている一篇だそうだ。
 この一篇だけ読むと少々設定がわかりづらい。これだけでも一応わかるけど。
 緊急推理解決院の院長がまぬけすぎるのと、謎解きがすべて推測なのが残念。七瀬氏はもう結論がわかってたのに、なんでわざわざあんなことをしに行ったのか。


ご自由にお使い下さい』は6ページほどの作品。
 これも証拠のない推測がたまたま当たっただけで、推理の切れ味はあまりよろしくない。この長さだったら、ラスト数行で真実が明らかになるぐらいの鋭さがほしいな。


心中少女』は、心中するために廃墟を訪れた少女が死体を発見する……という設定は好きだった。これはどうなるんだろうと期待したんだけど、残念ながら期待を下回ってしまったな。
 でもこのへんでわかってきた。この人は奇をてらったどんでん返しよりも、地に足のついた「ありそう」な展開のほうが好きなんだろうな。そうおもって読むと悪くない。


黒い方程式』は設定がすごくよかった。
 トイレに出たゴキブリに殺虫剤をかけて殺した妻が、夫にドアを閉められてトイレに閉じこめられる。そして夫から告げられる意外な事実……。
 これもオチの意外性は少ないが、フランスの短篇映画みたいでよかった。フランスの短編映画観たことないから勝手なイメージだけど。


 ラスト『三階に止まる』。
 短篇集のタイトルにするだけあってよかった。この作品だけ毛色が違うのだが。

 新しく越してきたマンション。家賃は相場より安いし、住人もいい人ばかり。ただ一点気になるのは、なぜかエレベーターが必ず三階に止まること。一階から七階に行くときも、七階から一階に行くときも、途中で必ず三階に止まる。誰も乗り降りしないのに。どれだけ点検してもエレベーターに異状はない。はてしてエレベーターを三階に止めている原因は何なのか……。

「日常の謎」系ミステリかとおもったがそうではなく、オカルトだった。オカルトはあまり好きではないのだが(怖いとおもえないので)、「エレベーターがなぜか三階に止まる」というのが気に入った。なぜなら、いかにもありそうな現象だから。

 エレベーターって謎の動きをすることが多いよね。止まったのに誰も乗り降りしないこともあるし(押し間違いなんだろうが)、「七階で押したのに八階に止まってるやつより十階に止まってるやつのほうが先に来る」なんてこともある。
 以前読んだ数学の本に、エレベーターは複雑なアルゴリズムで動いていると書いてあったが、複雑すぎてまったく動きが読めない。もはやエレベーターって人知を超えてるんじゃないか

 だからエレベーターって電化製品でありながら怪奇現象と相性がいいよね。機械なのに奇怪。


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