2021年3月3日水曜日

【読書感想文】このジャンルにしてはめずらしく失敗していない / 根本 聡一郎『プロパガンダゲーム』

プロパガンダゲーム

根本 聡一郎

内容(e-honより)
「君たちには、この戦争を正しいと思わせてほしい。そのための手段は問わない」大手広告代理店・電央堂の就職試験を勝ちあがった大学生8名。彼らに課された最終選考の課題は、宣伝によって仮想国家の国民を戦争に導けるかどうかを争うゲームだった。勝敗の行方やいかに、そしてこの最終選考の真の目的とは?電子書籍で話題の問題作を全面改稿して文庫化!

 最大手広告代理店の新卒採用試験・最終選考。
 学生八人が「政府チーム」「レジスタンスチーム」に別れ、プロパガンダゲームをすることに。政府チームの目的は、世論を動かして隣国との戦争を開始させること。対するレジスタンスチームの狙いは、反対多数になるよう世論を誘導すること。
 はたして勝つのはどちらのチームか。そして妙に政治的なこのゲームの目的とは……。


 おもしろかった。
 この本を手に取ったとき、
「ああ、また設定はおもしろそうだけど期待外れにおわるタイプの物語だろうな」
とおもった。
 設定がとびきり奇抜でおもしろそうな本って、たいてい読んで肩透かしを食らう。
『バトル・ロワイヤル』『CUBE』『SAW』以降多発した、異常なシチュエーションサスペンスだろうな。こういうのたいてい、序盤がいちばんおもしろくて右肩下がりになるんだよな。異常なシチュエーションを納得させられるだけの説明をつけられなくて。どの作品とはいわないけど。『インシテミル』とかさ。『LIAR GAME』も個々のゲームはおもしろかったけど黒幕の説明とかめちゃくちゃしょぼかったもんな。どの作品とはいわないけど。
 こういうのを書こうとおもったら、乾くるみ 『セブン』みたいにリアリティを捨ててしまうしかないよね。半端にリアリティを出そうとしたら確実に失敗する。


……とあまり期待せずにだまされたとおもって『プロパガンダゲーム』はゲームそのものだけじゃなく、そのゲームが考案された真相のほうもちゃんと練られていて説得力があった。

 ゲームそのものも読みごたえがあったし、ゲームの真相を暴いてそれに立ち向かう段階でもう一度楽しめた。


 また、登場人物がゲームを進めるための駒になっていないのもいい。
 この手の物語って、ひとりかふたりの主要登場人物をのぞけばバカばっかりになりがちなんだけど、『プロパガンダゲーム』に参加する八人は考え方やバックボーンはちがえどみんなそれぞれ賢い。とびきりのバカとか、他人の話をまったく聞かない自称天才とか、サイコパスとか、ストーリーを作者の都合よく進めるためだけに作られた単純なキャラクターがいない。
 まあ「社会に対して強い関心・持論を持っている」という系統ばかりなので似通っているにはいるが、大手広告代理店の入社試験を受ける学生なんてだいたいそんなもんだから不自然ではない。

 まず「就活の選考の一環としてのゲーム」という設定がよくできている。
 なぜなら、実際にこういう変な選考をする会社はけっこうあるから。ユニークな選考方法をとりいれている会社、というのはニュースでよく耳にする。
 だから学生にこういうゲームをさせることは不自然でないし、学生側にも真剣にゲームに参加する理由がある。じつによくできた設定だ。
「極限状態に追い詰められた人間の姿を見るためにどっかの金持ちが酔狂ではじめたゲーム」という安い設定だと興醒めだからね。

 たかだか就活にしては金と手間をかけすぎじゃねえか、という疑問も湧くが、ちゃんとその疑問に対する答えも作中で提示されている。
 うーん、つくづくよくできているなあ。むずかしいことをやっているのに、ほとんどボロが出ない。

 ぼくが気になったのは
「チームメンバーの中にスパイがいることがはじめに告知されているのに、みんなスパイに対して無警戒すぎ」
ってことぐらい。

 この手の「オリジナルゲームで知恵を使って戦う物語」としては相当よくできている小説だ。


【関連記事】

【読書感想文】乾くるみ 『セブン』



 その他の読書感想文はこちら


2021年3月2日火曜日

一輪車屋

甲「やってみたい商売があってさ」

乙「なに?」

甲「一輪車屋」

乙「一輪車屋? えっと……。自転車屋じゃなくて?」

甲「自転車屋じゃなくて」

乙「えー……。聞きたいことはいろいろあるけど……やっぱ最初はこれだろうな……。
  なんで?」

甲「なんでって言われても。なりたいからなりたいとしか言いようがないよ」

乙「うそ。そんなはずないでしょ。理由があるでしょ」

甲「じゃあさ。将来の夢はお笑い芸人ですっていう子がいるとするじゃん。その子になんでお笑い芸人になりたいのって訊いたら、一応それらしい答えは返ってくるとおもうんだよ。人を楽しませたいからとか、楽しそうだからとか。でもさ、お笑い芸人にならなくても人を楽しませられるし楽しく生きられるわけでしょ。だからほんとうのところは『お笑い芸人になりたいからお笑い芸人になりたい』だとおもうんだよね。理由なんて後付けでさ」

乙「うーん……まあそうかもしれない」

甲「でしょ。プロ野球選手になりたいとか保育園の先生になりたいとかいろいろあるけど、結局は『なりたいからなりたい』でしょ。突き詰めて考えれば」

乙「まあわかるような気もする……」

甲「だから、おれは一輪車屋になりたいからなりたいの」

乙「いや、それはわからない」

甲「なんでよ」

乙「だって……。ないもん、一輪車屋なんて」

甲「ないからチャンスなんじゃないか。まだ誰もやってないからこそ。
  おまえさ、自転車を買いたいとおもったらどこへ行く?」

乙「そりゃ自転車屋でしょ」

甲「じゃあ一輪車を買いたいとおもったら?」

乙「えっ……。自転車屋には……売って……ないよな……。スポーツ用品店かな……。いやちがうか……。ホームセンターかな……。ホームセンターで一輪車見たことあったっけ……」

甲「ほらね。みんな一輪車の存在は知ってるのに、それがどこで売られているかは知らないんだよ」

乙「まあたしかに」

甲「だから、一輪車屋があれば便利なわけじゃん。一輪車屋があれば、誰も『一輪車ってどこで買えばいいんだ?』と悩むことはなくなるわけよ。一輪車屋に一輪車が売ってないわけないんだから」

乙「いや、でもさ。おれ、今までの人生で『一輪車ってどこで買えばいいんだ?』っておもったことないよ」

甲「えっ、そうなの」

乙「そうだよ。たいていの人はそうじゃない? それで商売やっていけるの」

甲「まあね。そのへんのことは考えてるよ」

乙「そうなんだ」

甲「自転車屋だって、新品の自転車を売ってるだけじゃないでしょ。自転車の修理とか、グッズの販売とかもしてるわけじゃん。それと同じようにしたらいいとおもってるんだよね」

乙「グッズの販売はわかるよ。ヘルメットとかサポーターとかかな。こけやすいからね。でも一輪車って修理してもらうことある?」

甲「そりゃあるよ。どんなものだっていつかは壊れるんだから」

乙「そりゃそうだろうけどさ。でもさ、自転車は壊れたら修理してもらうじゃない。ないと不便だから。でも一輪車って壊れたらそれまでなんじゃないの? お金払って修理してもらってまで使いつづけようとするかね。だって壊れても不便じゃないもん」

甲「なんでよ。一輪車って生活必需品じゃないの」

乙「ちがうよ。むしろ一輪車って不便を楽しむためのものじゃん。便利とは対極にあるものだよ。どっちかっていったらスポーツ用品に近いでしょ」

甲「じゃあスポーツ用品として打ち出せばいいんだ。一輪車をメジャースポーツにして、ゆくゆくは五輪も目指して」

乙「一輪なのに五輪か……」

甲「とはいえさすがに一輪車屋だけでやっていくのは厳しそうだから、サイドビジネスもはじめたらいいね。おれ、寿司屋でバイトしてたことあるから、寿司屋でもやろうかな」

乙「やだなあ。一輪車の修理してたらぜったい手が真っ黒になるもん。そんな手で握った寿司食いたくないわ」

甲「やっぱり一本でやっていくのは厳しいからね。このふたつのビジネスが軌道に乗れば、車の両輪として安定するはず」

乙「一輪車には軌道もないし両輪がなくても安定するもののはずなんだけどね」



2021年3月1日月曜日

変人あこがれ

  変人にあこがれていた。

「変なやつ」というのがぼくにとって最大の褒め言葉だった。

 冬でも浴衣で出歩いたり、ホイッスルを首からぶらさげたり、ひとりだけ古い帽子をかぶって登校したり、調理実習のときにエプロンの代わりにカンドゥーラ(アラブ人が着てる白くてずどんとした服)を着たり、携帯扇風機を首からぶらさげたり(今でこそときどき見るが当時は誰もそんなことしてなかった)、学ランの胸ポケットににポケットチーフをしたり、ドラえもんお出かけバッグで高校に行ったり、教室で鍋をしたり、野球部でもないのにグローブを持って校内をうろうろしたり、授業中に無駄に元気よく手を挙げて「先生、質問があります!」と優等生みたいにハキハキとしゃべったり、とにかく人とちがうことをした。

カンドゥーラ

 特に、〝どう考えても異常な行為だけどやってることは悪いことじゃないから教師が注意するにできない〟行為が大好きだった。

「先生、質問があります!」とハキハキ言うのもそうだし、国語の音読で感情たっぷりに読むとか、避難訓練のときにひとりだけ本気の演技で「みんな落ち着け!」なんて言いながら避難するとか。
 教師が困って苦笑いを浮かべるのが楽しかったのだ。趣味が悪い。


 その甲斐あって、「変なやつ」「個性的なやつ」という評価を周囲からいただいた。

 でも、ぼくの奇行はぜんぶ計算ずくだった。「こうやったら変なやつとおもわれるだろうな」という考えに基づくものだった。内からあふれてくるものではなかった。
 ぼくは〝変人〟ではなく〝変人あこがれ〟だった。

 まあ「変人にあこがれて変なことをする」ということ自体が変といえば変なのだが、ぼくの場合はうわべだけの奇行だから、ふつうにふるまうこともできる。親戚と会うときとかひとりで買い物に出かけるときとかはごくごく常識的な身なりをしていた。

「損をしない範囲で変人をやっている人」だった。


 なぜ変人にあこがれていたのだろう。
 たぶん、ぼくがつくづくふつうだったからだ。

 平凡な家庭に育ち、平凡な街で暮らし、平凡な容姿と平凡な能力を持った人間。それがぼくだった。
 学生時代、いろんな作家のエッセイをよく読んだ。波乱万丈な人生がうらやましかった。両親が離婚して苦労していたり、放蕩生活を送っていたり、人とはまったく違う趣味嗜好を持っていたり。そういう人生がまぶしかった。

 だから変人になりたかった。変人としてふるまうことで、変人になれると信じていた。


 もうひとつの要因として、自慢になるが、成績優秀だったこともある。中学時代は120人中5番ぐらいだった。高校に入ってからはさらに成績が良くなり、300人以上いる中でトップだった。
 これは喜ばしいことであると同時に、恥ずかしいことだった。

 公立校に通っていた人ならわかるとおもうが、勉強ができるやつというのはちょっとダサい。嫉妬もあるのだろうが、がり勉野郎、いい子ちゃん、そんな感じでバカにされる。スポーツができるやつが無条件で称えられるのとは大きな違いだ。(この感覚については前川ヤスタカ氏の『勉強できる子 卑屈化社会』を読んでいただければよくわかるとおもう)

 そういう「勉強できるダサいやつ」という視線を回避する方法が、ぼくの場合は変人としてふるまうことだった。
 常に変ないでたちをしていると「変なやつ」という評価になる。「変なやつ」は「勉強できるやつ」より強い。よりわかりやすいからだ。それどころか、「勉強ができる」というステータスは「変なやつ」を強化する要因になる。
「変なことばっかりしてるのに勉強できるなんて、やっぱり変なやつ」になるのだ。

「あいつは頭おかしいんだな。だから勉強もできるんだ」となってやっかみの対象にならない。変なやつはうらやましくないのだ。


 ぼくの奇行は大学に入ったぐらいですっかり落ち着いた。
 大学はみんな入試をくぐり抜けて入っているので自分の成績が良いことに負い目を感じることなんてないし(そもそも他人の成績なんて誰も気にしない)、人とのつながりが薄くなった分「自分のキャラクター」が気にならなかったこともある。
 それに、中学高校は服装やら髪型が細かく決められているからそこからはみだすことで個性を主張できるが、大学ではどんな服でどんな髪型でもいいのでかえって個性を打ちだしにくいのだ。着物で大学構内を歩いている人もそうめずらしくもないし(いやめずらしいけど)。

 今でも変人に対するあこがれは残っているが、もう自分が変人になろうとはおもえない。つくづく自分が凡人だと思い知ったから。


【関連記事】

【読書感想文】 前川 ヤスタカ 『勉強できる子 卑屈化社会』

2021年2月26日金曜日

【読書感想文】なぜかぞわぞわする小説 / 今村 夏子『あひる』

あひる

今村 夏子

内容(e-honより)
あひるを飼い始めてから子供がうちによく遊びにくるようになった。あひるの名前はのりたまといって、前に飼っていた人が付けたので、名前の由来をわたしは知らない―。わたしの生活に入り込んできたあひると子供たち。だがあひるが病気になり病院へ運ばれると、子供は姿を見せなくなる。2週間後、帰ってきたあひるは以前よりも小さくなっていて…。日常に潜む不安と恐怖をユーモアで切り取った、河合隼雄物語賞受賞作。


『あひる』『おばあちゃんの家』『森の兄妹』の三篇を収録。

『あひる』は以前『文学ムック たべるのがおそい vol.1』に収録されているものを読んだことがあるが、二度目なのにやはり怖かった。いや、二度目のほうがじわじわくる。

(以下ネタバレ)

 あひるが家にやってきた。たちまち近所の小学生たちがあひるを見に集まってくるようになった。子どもが好きな両親もうれしそう。
 ある日具合の悪くなったあひるは病院に連れていかれるのだが、数日後に戻ってきたあひるは前とどこか違う。ひとまわり小さくなっているし、くちばしの模様も違う。おそらく両親が別のあひるを連れてきたのだが、そのことについて何も言わない。子どもたちは気づかない。わたしはあひるが入れ替わったことに気づいているが、両親の雰囲気から何も言えない。やがてまたあひるの具合が悪くなり……。


 なんだろう。そこはかとなく怖い。
 たぶん、あひるが死んでしまったので別のあひるを買ってきただけなのだが。それなのに、「言わない」だけでこんなにおそろしくなるなんて。

 お気に入りの椅子が壊れたからよく似たデザインの椅子を買ってきた、ならちっとも怖くない。わざわざ「別のを買ったよ」と言わないのもわかる。
 だが、あひるだ。それもかわいがっているペットだ。〝壊れた〟からといって新しいものを買ってきて、何事もなかったかのように置き換えていいのだろうか。
 悪いことをしているわけじゃない。あひるを殺したわけではない。いないと近所の子どもたちがさびしがるから別のあひるを連れてくるという発想も理解できる。でも、生き物はそうかんたんに置き換えてはいけない。明文化されていないけど、ぼくらの心にはそういうルールがある。


 母から聞いた話。
 母の実家では犬を飼っていた。ある日、犬が病気で死んでしまった。父親が仕事の取引先と「犬が死んじゃって子どもが悲しんでいるんだよね」的なことを言ったらしい。するとその数日後、取引先から新しい子犬が贈られてきたそうだ。
 これも同じように怖い。取引先からしたらいいことをしたつもりなんだろう。だがその人は人間の心が理解できていない。かわいがっていた犬が死んだ一週間後に新しい犬が送りつけられてきて「やったー! 新しい犬だー!」となるとおもっている人はちょっと怖い。
(ちなみに母の父、つまりぼくの祖母はそこそこいいポジションにいる国家公務員だったので今だったら完全アウトの話だ)

 生き物は「代わり」があってはいけないのだ。

 ここで「代わり」を用意されるのがあひる、というのが憎い。
 犬や猫が別の個体になっていたらさすがに誰でもわかるだろう。文鳥やハムスターだったらずっと気づかないままかもしれない。しかしあひるは絶妙に「気づかないかもしれないし気づくかもしれない」ラインだ。あひるはペットとしてはめずらしいから「よく似ているけど別のあひるかもしれない」とおもわないような気がする。ちょうどいいポジションの動物だ。


 この小説、すり替わったあひるだけでなく、
「誕生日会の準備をしていたのに誰も来ない」
「深夜にやってきた男の子があひるに似た性格をしている」
「誰もあひるのすり替えに気づいていないのに、ひとりの女の子だけは当然のように気づいている」
「まるであひるの代わりのようなタイミングで赤ちゃんがやってくる」
など、じんわりと怖いことが随所にちりばめられている。いや、これって怖いのだろうか。よくわからない。
「幽霊が出る」「殺人鬼が近くにいる」みたいなはっきりした恐怖とは違う。だって何の実害もないんだもん。実害もないし悪意もない。なのになぜかぞわぞわする。

 座敷わらしに出会ったような感覚。
 いや、自分が座敷わらしになったような感覚といえばいいだろうか。座敷わらしになったことないからわかんないけど。




『おばあちゃんの家』『森の兄妹』も奇妙なファンタジーでよかった。児童文学のような平易な文章なのが余計に不気味だ。

 今村夏子作品はどれを読んでも心が動かされる。だけど、それがどういう感情なのかうまく説明することができない。今村夏子作品を読んでいるときにしか刺激されない脳のツボがあるんだよな。


【関連記事】

ふわふわした作品集/『文学ムック たべるのがおそい vol.1』【読書感想】

怖い怖い児童文学 / 三田村 信行『おとうさんがいっぱい』



 その他の読書感想文はこちら


2021年2月25日木曜日

【読書感想文】中学校監獄実験 / アレックス・バーザ『狂気の科学者たち』

狂気の科学者たち

アレックス・バーザ (著)  プレシ 南日子 (訳)

内容(e-honより)
科学発展の裏には奇想天外としか言いようのない実験の数々があった。死亡前後の人間の体重を量って「魂」の重さを計測する。妊娠率を高めるためピエロに扮して胚移植前の女性を笑わせる。黄熱病が伝染病でないと証明するために患者の吐瀉物を飲む。赤ん坊をチンパンジーと一緒に保育する…。信念に基づいて真実を追究する科学者たちを描いた戦慄(と笑い)のノンフィクション!


「ユニークな実験」を集めた本。以前読んだトレヴァー・ノートン『世にも奇妙な人体実験の歴史』に比べると、似ているようでこちらはずいぶん散漫な印象。

 なぜなら、『世にも奇妙な人体実験の歴史』は、「結果的に誤ってはいたが科学の発展のために(あるいは自分の知的好奇心のために)人体実験をおこなった科学者たち」のエピソードばかりを集めていたのに対し、
『狂気の科学者たち』は
「(現代の常識からすると)狂ってるとしかおもえない実験」
「実験結果が捏造された実験」
「何の役に立つのかわからないが科学的には正しい実験」
「手法がユニークなだけでまっとうで有用な実験」
などが十把ひとからげに取り扱われているからだ。

 たとえば、よく知られる「吊り橋効果」の実験とか(吊り橋のようなスリルを感じる場所で声をかけられると異性に好意を抱きやすい)。
 ぜんぜん「狂気の科学者」じゃない。

 こういうまっとうな実験と、「死者をよみがえらせることに成功したと発表したがその後まったく結果を再現できなかった実験」を同列に扱っちゃだめだよ。
 独創的なアイデアを持った研究者、科学のためなら人の命も犠牲にするマッド・サイエンティスト、功名心で実験結果を捏造するインチキ科学者。それらをぜんぶひっくるめて「狂気の科学者たち」と呼ぶのはさすがに乱暴すぎる。


 まあこれは著者のせいじゃなくて邦題がひどいんだよね。原題は『Elephants on Acid』(この本の中に出てくるLSDを投与されたゾウのこと)で、ぜんぜん『狂気の科学者たち』というくくりじゃないからね。
 誰だこのひどい邦題をつけたやつは。




 題はともかく、中身はおもしろかった。

 オスの七面鳥が、メスのどんなところに性的欲望を駆り立てられているのかという実験。

 興味を引かれたシャインとヘイルは、オスの七面鳥の性的反応を引き出す最低の刺激要素は何か知りたくなった。メスの模型から体の部位をひとつひとつ取り除いていったら、オスはどの時点で興味を失うのだろうか? この実験の結果、かなりたくさん取り除けることがわかった。
 まず、尾、脚、翼のいずれも不要であることが証明された。最後に研究者たちは七面鳥に、頭のないメスの体と棒に刺さった頭だけの二者に対する反応を観察したところ、驚いたことにオスの七面鳥はすべて棒に刺さった頭を選んだ。頭さえあれば、オスの七面鳥はその気になるのだ。研究者たちはこう記している。

 なんと。頭だけで昂奮するのだ。

 しかし我々人間も七面鳥のことを笑えない。
 人間だって顔だけで異性のことを判断することはよくある。「顔は好みだけど身体は魅力的じゃない異性」と「顔はまったく好みじゃないけど身体は魅力的な異性」だったらたいていの人は前者を選ぶんじゃないだろうか。健康な子孫を残すということを考えれば後者のほうが良さそうだけど。




 子猿が母親の愛情をどのような形で欲するかを調べた実験。

 子猿は、「ミルクを出すが固く冷たい母猿の模型」よりも「ミルクを出さないがやわらかくあたたかい母猿の模型」を好み、ミルクを飲むとき以外は後者のそばにいたそうだ。

 その後、ハーロウの研究は陰うつなものになっていった。母と子の愛を強める要素を特定したハーロウは、このきずなが簡単に失われるほど弱いものでないか調べることにした。怠慢な親に育てられた子どもが経験する問題を解決するうえで役に立つよう、こうした子どもたちと同じような境遇のサルを求め、ハーロウはさまざまな形の乳幼児虐待を行う母親を作った。シェーキング・ママはときどき激しく体を揺らし、子ザルは部屋の反対側まで放りだされた。エアブラスト・ママは圧縮空気を激しく噴出して子ザルを吹き飛ばした。そしてブラススパイク・ママからは先の丸まった真鍮のとげが定期的に出てきた。
 しかし母親がどんなにむごいことをしようと、子ザルたちは気を取り直し、戻ってきてはまた同じ目にあった。子ザルはすべてを許していた。彼らの愛情は、揺らぐこともへこむこともなければ、吹き飛ばされることもなかった。これらの実験に使われた子ザルの数はわずかだったが、結果は明らかだった。

 これは読んでいてつらくなる。

 以前読んだ、黒川 祥子 『誕生日を知らない女の子』という本に、こんなエピソードがあった。

 ずっと実母から虐待を受けて育った子どもが、ファミリーホーム(里親のようなもの)に引き取られ、少しずつ周囲と溶け込めるようになった。だが実母が軽い気持ちで言った「うちにおいで」という言葉を聞いてから、その子は周囲を攻撃するようになり、自ら居場所をなくして実母のもとに帰っていった。
 母親のもとに戻れば不幸になることは火を見るより明らか。だが今の法制度では実親が引き取ることを希望したら誰も止めることはできない。
 実母のもとに戻った子どもは再び虐待され、学校にも行けず、やがてまた別の里親のもとに引き取られて病院に通うことになったという。

 どんなに暴力的で子どもに危害を加える母親であっても、子どもは母親を選んでしまうのだ。ヒトでもサルでも。

 だからこそ、害をなす親からは強制的に子どもを引き離すようにできる法律が必要だよなあ。愛が強いからこそ。




 あと第9章『ハイド氏の作り方』はすごくおもしろかった。
 この章だけで一冊の本にしてもいいぐらい読みごたえがあった。

 有名なミルグラム実験(白衣を着た人に命令されたら、ごくふつうの人でも他人に危害を加えるようになるという実験)や、スタンフォード監獄実験(被験者をランダムに看守役と囚人役に分けたら看守役が囚人役に対して威圧的・攻撃的な行動をとるようになったという実験)など、どうやったら人間が残虐な行動に手を染めるようになるかという実験が多数紹介されている。

 読んでいて感じるのは、環境さえ整えば人間はいともかんたんに悪人になれるということ。ナチス党員や紅衛兵や山岳ベース事件メンバーがことさらに凶悪だったわけではなく、環境によってはほとんど誰でも他人に暴力を振るうようになるのだということ。

 中学校の教師や部活の顧問に暴力を振るう人間が多いのも、教員採用試験が暴力志向性のある人間を積極的に採用しているわけではなく、立場が彼らを暴力に走らせるからだ。

 スタンフォード監獄実験のような実験は危険だとして今はやれないらしいが、今も全世界の学校で同じようなことをやってるよね。


【関連記事】

【読書感想文】偉大なるバカに感謝 / トレヴァー・ノートン『世にも奇妙な人体実験の歴史』



 その他の読書感想文はこちら